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    第四十五回 深川編(二)
    平成二十五年三月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.03.16

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     旧暦一月二十八日。完全に「晴れ女」の自信を取り戻した姫に、三月も晴れますようにと期待を掛けられた。言われるまでもなく、今回は「晴れ男」の私が担当するから天候には全く問題ない。ここ数日、最高気温は二十度に上り、すっかり春の陽気になった。ここかしこで梅の香りが漂ってくる。ただ朝晩は気温が下がるので、すっかり薄着になってしまうこともできない。
     深川を歩くのは第一回「深川編」以来だからもう七年半にもなる。今日のコースとは逆に、富岡八幡宮から森下までを五人で歩いたのが始まりで、こんなに続き、そしてこんなに参加者が増えてくれるとは思いもしなかった。その時のメンバーで今日も参加しているのは、講釈師と桃太郎だけだ。
     私は江戸の歴史も東京の地理も殆ど知らず、リーダーに先導されるままにただ後ろをついて歩いていた。たぶん初めて参加する人は、当時の私と同じ状態に違いない。森下駅であんみつ姫と合流し、上野に出て落語を聞き、へぎそばを食べたのも懐かしい。あれから私も経験を積んで、多少は知識もついてきた積りだ。
     集合は地下鉄森下駅A4階段を上った所にした。新宿線と大江戸線が交差する駅で、改札口集合は難しい。私は有楽町線から市ヶ谷で新宿線に乗り換えて来た。電車を降りると、ちょうど碁聖が二つほど前の車両から降りたところだった。今日は珍しく帽子を被っている。「だって今日は日が照りつけそうだから。」逆に私は汗をかきそうだから帽子とジャンバーをバッグにしまいこんだ。
     階段を上ると目の前には新大橋通りが東西に延びていて、左手が菊川町方面、右が隅田川の新大橋方面になる。都電36系統が通っていた道である。
     あんみつ姫、ハイジ、マリー、カズチャン、和尚、宗匠、桃太郎、碁聖、マリオ(トミー改め)、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヨッシー、若旦那、蜻蛉。その他に、ひょっこりひょうたん島から美女が二人参加した。
     ニックネームの自己申告を勧めてみたが、「どういうのを付けてくれるかで優しさが分かるよね」なんて圧力をかけられる。「書き上げるまで時間があるんでしょう。ちゃんと考えてね。」苦し紛れにサンデー先生とプリンと名付けてみたがどうだろう。たぶんダンディには意味が分からないだろうから説明しておこうか。
     サンデー先生は薙刀五段、男勝りでややおっちょこちょいだが、子供たちには優しい。プリンは一見おしとやかなお嬢さん。ひょうたん島の住人の中で唯一結婚して幸せな専業主婦になる。ひょうたん島の歌はわれらの世代のテーマソングだから、同期生には相応しいのではないか。これで総勢十八人。昼食の予約を十七八人と頼んでおいたのがピタリ当たった。
     ハイジは到着早々、「同い年ですよ」と二人に声をかける。事前にメール網で二人の参加を連絡しておいたからだ。それにしても、私はハイジとは一つ違いだとずっと思いこんでいたが間違いだったか。
     「随分若いじゃないですか。」ダンディは女性に甘いネ。横の方で「世之介だね」と宗匠が呟いている。「そんなことないですよ。」「いや、蜻蛉の頭と比べるとね。」「顔はツヤツヤしてますよ。」「ツルツルしてるわね。」ツヤツヤとツルツルでは全く違う。こういう発言でサンデーの性格が分かろうというものだ。
     和尚は随分久しぶりだ。昨日煙草を買って家に戻るとき、スポーツクラブに出かける和尚とバッタリ遭遇した。同じ団地に住んでいるのに私が連絡しないものだから、講釈師から丁寧な案内状を貰ったと見せてくれる。「目黒以来ですよ」と言うが本当だろうか。それなら四年も前のことだ。全員メール網に登録していないと、ついつい連絡を漏らしてしまう。これからはそれに登録することを了解してもらった。
     「和尚チルドレンはどうしたんですか。」ダンディは女性の動向が気になって仕方がないようだ。私もハナちゃんに会いたい。「今度は連れてきますよ。」
     千意さんからは、三十一キロを飲まず食わずで歩き、そのために膝を痛めたと連絡が入っている。食べなくてもよいが水分補給は絶対にしなければならない。それなのに、館林の下見をして更に悪化させたらしい。このところ足を痛める人が続出している。お互い体力を過信せず、ゆっくりと生きて行きたい。深川は初めてだと期待してくれていたのに残念だ。
     ロダンは半日券も貰えないほど忙しいようだ。今日はロダンが好きな伊能忠敬の旧跡もコースに入れてあるのだが。ダンディは能楽鑑賞と重なってしまい、半日券を使って昼頃には別れる予定だ。「反省会には戻ってきますよ。」
     「反省会の場所が書いてないな。」ドクトルにそんなことを言われても、そこまでは決めていない。「当然モンナカでしょうね。」「それじゃ魚三に行こう」と宗匠が張り切る。「あそこは無理でしょう、いつも一杯だから。」ダンディもその店を知っているようだ。「四時に終わって並べば大丈夫だよ。」

     深川は運河と橋の町である。明暦三年(一六五七)の大火をきっかけに、江東の開発が進められた。万治三年(一六六〇)、徳山五兵衛重政(徳山家三代)と山崎四郎左衛門重政が本所築地奉行に就任し、その下で本所深川の都市計画がたてられた。低地が埋め立てられ、住宅地が広がった。竪川、大横川、横十間川、六件堀が整備され、南北割下水が作られた。町割りが碁盤の目状に綺麗に揃っているのも、この時の計画である。
     徳山五兵衛の名は池波正太郎『おとこの秘図』で知っている人がいるかも知れない。しかし五兵衛の名は代々襲名するので何人もいる。この小説の主人公で日本左衛門一味を捕らえたのは、先手御鉄砲頭から火付盗賊改方を加役された五代徳山秀英である。
     普通に本所深川と一括して呼ばれるが、その境界は江戸の頃にもはっきりしていた訳ではない。おおむね竪川を境に北を本所、南を深川と呼んだようだ。

     数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。電車はまだ布設されていなかったが既にその頃から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわずかに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落とのいい尽し得ぬ純粋一致調和の美を味わしてくれたのである。(永井荷風『深川の唄』明治四十一年)

     禾原永井久一郎の命で永井壮吉がアメリカに渡ったのは明治三十六年(一九〇三)のことで、アメリカ生活四年、フランス滞在十ケ月を経て四十一年に帰国し、『あめりか物語』を出した。新帰朝の新進作家として注目された頃である。
     あんみつ姫は荷風が好きだ。私も『断腸亭日乗』や『日和下駄』は時々読み返す。私自身も新しいものよりは古いものに惹かれがちではあるが、日本近代文明に対する荷風の憎悪は尋常ではない。日記や随筆を読んで面白く思うのは、実際に隣人として付き合っていないからだ。
     荷風の言い草によれば、日本近代は「九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑」(『深川の唄』)なものであった。しかし私たちは否応なく、その薩長が築き上げた近代文明に浴している訳で、ただ現在を罵り過去を哀惜するだけでは生きていけない。
     荷風が勝手に一致調和の美を味わった「場末の一画」での「哀残と零落」は、地元の人にとっては誇りでもなんでもない。それが理由ではないが、現在の深川に荷風の哀惜した空気は全く残っていない。関東大震災と下町大空襲によって、深川の町は壊滅的な打撃を受けて変貌したのである。
     明日の三月十日は、下町に住む普通の国民、非戦闘員に対して無差別大量殺戮が行われた日であった。B29三二五機が焼夷弾千七百八十三トンを投下し、一夜にして東京三十五区の三分の一以上の面積、四十一平方キロが焼失した。使われた焼夷弾は、M69ナパーム弾を三十八発束ねたクラスター爆弾である。上空七百メートルでこれが分離し、八方に広がって一斉に地上に降ってくる。
     「ヒラヒラ落ちてくるんですよ」と若旦那も証言してくれる。日本の木造家屋を効率良く焼き払うために米軍が開発したもので、確かに「効率良く」、二十六万八千戸が焼失した。国民学校一年生だった講釈師の家も焼けた。
     ナパーム弾とは油脂焼夷弾のことで、詰められたゼリー状の充填剤は木材や人体に付着すると落ちにくく水では消火困難だった。正に家を焼き尽くし、人を殺戮し尽くすために発明された爆弾であった。
     警察は死者八万三千七百九十三人と発表したが、不明者が数万人もいるのだから、実際には十万人以上が死んだと推定され、負傷者は四万人以上、被災者は百万人を超えた。管轄する警察や役所も焼失したから、空襲による死者数を正確に把握することができなかった。
     ヒロシマ、ナガサキや三・一一だけでなく、三・一〇もまた忘れてはならない日なのである。そして人それぞれに、忘れてはならない日はもっとあるだろう。

     十時、今日は暑くなりそうだから水分補給を充分するようにと注意して出発する。「全然勉強してこなかったわよ。歩くだけが目的で。」ひょうたん島の住人が言い訳をする。しかしコピーを配る手間を省くために事前にメールで送っているだけだから、特に予習をしてくる必要はない。後で思い出す時のメモになれば良いのだ。但し今回私はかなり力を入れて予習をした積りだ。コースに関係する年表と地図も作った。これだけで、もう作文は半分できてしまった。但し昨日になって急遽コースを変更したので、下見をしていないところがあるのがやや気掛かりだ。
     菊川町に向かって信号を渡ると、舗道にはもう真っ白なモクレンが咲いている。ちょっと早過ぎはしないか。「みの家」という店の前である。明治三十年(一八九七)創業の馬肉専門の有名店だ。砂町に住んだ石田波郷は『江東歳時記』(昭和四一年)に、「一日につかう馬肉は数十貫。特殊なところだけを仲買人に集めさせる。葱も千住葱のナベ専門の、八百屋にはない、身のしまいあった白いところのないのを仕入れる」と書いている。

    深川森下町で 暖簾割る夜寒の肩をつらねけり  波郷

     この近辺では蕎麦屋の京金(明治二十七年創業)、モツ煮込みの山利喜(大正十四年創業)なども有名らしい。蕎麦は別にして、馬肉やモツの煮込みが流行ったのだから、労働者の町だったと思って良いだろう。「そっちじゃないよ、曲がります。」みんなは、そのまま菊川の方に向かおうとするから慌ててしまう。

    木蓮の早や真白きに時雨塚   蜻蛉

     手前の角を左に曲がればすぐに長慶寺に着く。江東区森下二丁目二二番地九。曹洞宗蟠龍山天寿院。寛永六年(一六二九)頃に深川孫右衛門夫妻が、越後村上の霊樹山耕雲寺二三世一空全鎖大和尚を開闢開山として勧請し、二世大事不安大和尚が創建した。万治三年(一六六〇)、徳山五兵衛重政によって境内地が除地(年貢諸役免除)とされたため、この徳山五兵衛を中興開基とする。

     東森下町にはいまでも長慶寺という禅寺がある。震災前、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊日本左衛門の墓があったので人に知られていた。その頃は電車通りからも横丁の突当たりに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間掘の裏河岸との間に、平屋建ての長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬の背新道と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に譬えたので、歩き馴れぬものはきまって足駄の横鼻緒を切ってしまった。維新前は五千石を領した旗本大久保豊後守の屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から堀向の林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋と称えていた。(永井荷風『深川の散歩』昭和九年)

     山門を入ると狭い境内のすぐ右手の塀際に芭蕉時雨塚旧蹟がある。「旧蹟」と呼ばれるのは、関東大震災で台石を除いて倒壊、滅失してしまったためだ。日本左衛門の墓もなくなっている。「日本左衛門って知りません。」「歌舞伎にあるよ、白波五人男。」歌舞伎の好きな姫にしては珍しい。

     問われて名乗るもおこがましいが生まれは遠州浜松在
     十四の頃から親に放れ、身の生業も白浪の
     沖を越えたる夜稼ぎの、盗みはすれど非道はせず
     人に情けを掛川の、金谷を掛けて宿々で
     義賊と噂高札に廻る配符のたらい越し
     危ねえその身の境界も、最早四十に人間の
     定めは僅か五十年、六十余州に隠れのねえ
     賊徒の張本日本駄右衛門

     正確に言えば、この日本駄右衛門のモデルになった人物である。本名は浜島庄兵衛、享保の頃に天下を騒がせた大盗賊だ。
     小さな其角墓、嵐雪墓に挟まれて、復元した碑石の正面に「芭蕉翁桃青居士」とある。松尾宗房は北村季吟から「俳諧埋木」の伝授を受け、延宝三年(一六七五)初頭に江戸に下って桃青と名乗った。芭蕉の名は、杉山杉風が持っていた生簀の番小屋に住んでからのことだ。
     芭蕉は元禄七年(一六九四)十月十二日に大阪御堂筋で没し、遺言によって大津の義仲寺に葬られた。葬儀は盛大だった。

    ふしみより義仲寺にうつして、葬礼義信を尽し、京・大坂・大津・膳所の連衆、披官・従者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳せ来るもの三百余人也。浄衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてて着せまゐらす。即ち義仲寺の直愚上人をみちびきにして、門前の少し引入れたる所に、かたのごとく木曽塚の右にならべて、土かいをさめたり。おのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならんと、そのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせうを植ゑて名のかたみとす。(宝井其角『芭蕉翁終焉記』)

     江戸蕉門の弟子、杉風、其角、嵐雪、史邦等は亡師を偲び、芭蕉の落歯と芭蕉自筆の短冊をこの境内に埋め塚を築いた。つまり江戸蕉門にとっては、ここが芭蕉の墓である。「歯を埋めるなんて珍しいですね。上の乳歯が抜けると土に埋めるっていうけど。」歯を分骨と見做したのだろう。どこかで「落歯塚」というものを見た記憶があるのだが思い出せない。

    世にふるも更に宗舐のやどり哉  芭蕉

     折角復元したのに、石碑の横面と下手な手書き木の札に「世にふるも更に宗舐の時雨かな」とあるのは間違いだ。これは無季句である。埋められた芭蕉自筆の句は、宗祇へのオマージュなのだ。

    世にふるも更に時雨のやどり哉  宗祇

     「宗祇のやどり」と言えば、時雨であることが当然のように当時の人には分かった。それが文化というものだった。時雨は芭蕉が特に好んだ季題で、『猿蓑』の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」、また「旅人と我が名呼ばれむ初時雨」などが有名だろう。そのため芭蕉の忌日は時雨忌とも呼ばれる。

    十二日は阿叟の忌日つとむるとて、桃隣をいざなひて、深川長渓(慶)寺にまうで侍る。是は阿叟の生前にたのみ申されし寺也。堂の南の方に新に一箕の塚をきづきて、此塚を発句塚といへる事は
       世にふるも更に宗祇のやどり哉  翁
    此短冊を此塚に埋めけるゆへ(ゑ)なり。此ほつ句はばせを庵の一生の無ゐなるべしと、杉風のぬし、語り申されし。(支考『笈日記』)

     当時は「発句塚」と呼ばれたことが分かる。しかし杉風が語ったという「一生の無ゐなるべし」が分かり難い。有為に対する無為と考えれば良いだろうか。有為は常に生滅転変することであり、その反対とすれば、絶対に移り変わることのない絶対の真理とでも考えれば良いかも知れない。

    みの虫のぶらと世にふる時雨哉  蕪村

     宗祇、芭蕉を受けて、更に蕪村が時雨を詠んだ。俳句で「本句取り」というのは余り聞かないが、これは正に本句取りと言って良いだろう。宗祇の句は、二条院讃岐「世にふるは苦しきものを槙の屋に やすくも過ぐる初時雨かな」を本歌としたとされている。それを知らなくても、小野小町「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」を連想しても良いだろう。また「時雨」と言えば、山頭火の自由律も忘れられない。

    うしろすがたのしぐれてゆくか  山頭火

     私がこんなことを考えているのに、ハイジは植物の方に目が行く。熨斗蘭というものを見つけたらしい。私は気付かなかったが、宗匠がその青い実を見ていた。リーダーをしていると、自分の計画だけが頭を占めて他のことに気が回らないことがある。自戒せねばならぬ。
     「ついでにこれも見て下さい。」境内を出て、路地の角に立つ「深川小学校誕生之地」碑に注意を促した。下見のときに気付いてついでに調べておいた。こういうことをしているから作文はいつも長くなる。
     明治三年(一八七〇)六月、東京府は東京市に六つの小学校を設立した。第一校は芝・増上寺源流院(後の鞆絵小学校)、第二校は市ヶ谷・洞雲寺(番町小学校)、第三校は牛込・万昌院(愛日小学校)、第四校は本郷・本妙寺(湯島小学校)、第五校は浅草・西福寺(育英小学校)、そして第六校がここ深川・長慶寺(深川小学校)である。「寺子屋があったところに作ったんでしょうね。」
     太政官布告によって最初の学制が定められたのは、明治五年八月三日のことである。全国を大中小の学区に区分して、それぞれに大学校、中学校、小学校を設置するというものなのだが、その学制以前に建てられた小学校ではどんな教育が行われたか。

    しかし、明治三(一八七〇)年二月の「大学規則」及び「中小学規則」では、「子弟凡八歳ニシテ小学ニ入リ普通学ヲ修メ兼テ大学専門五科ノ大意ヲ知ル」とあり、「普通学」は「句読・習字・算術・語学・地理」を指し、いわゆる読書算といった人民共通の教育と上級学校の基礎教育を意味している。(熊澤恵里子『学制以前における「普通学」に関する一考察』早稲田大学大学院文学研究科紀要)

     読み書き算盤の他に語学と地理が含まれているのが、維新以前の寺子屋教育とは違うところだ。熊澤によれば、これは沼津兵学校の学制規則を司った西周の理論に範を採った。沼津兵学校は大政奉還の後に静岡藩となった徳川家の兵学校である。入学者は十四歳以上十八歳までとされ、付属小学校の課程を修了していることが必要だった。その小学校で学ぶべき「普通学」の内容がこれである。
     森下駅前交差点に戻り、清澄通りをちょっと南下する。スナフキンの希望で和菓子の伊勢屋に立ち寄らなければいけないのだ。酒飲みの癖に意外に和菓子が好きで、常盤新平『時代小説の江戸・東京を歩く』という本で知ったそうだ。いろいろ読んでますね。江東区森下二丁目一七番地二。昭和二十一年創業。深川あさり餅、のらくろ焼きというものがあるらしい。「のらくろ焼き、買いたいですね」と姫も期待している。

     江戸の町を呼び声高く振り売りして歩いたあさり売りと深川の固い絆は、深川あさり飯として今に残り、深川と言えばあさり、あさりと言えば深川と言われる程、多くの方々に親しまれております。
     当店では下町の息吹を今に伝えるこのあさりを模して、「江戸深川あさり餅」を創案いたしました。味噌あんを求肥で包み、きな粉をまぶした口当たりよい滋味をご賞味いただけば幸せでございます。
     なお、のらくろ記念館誕生と共に作りました「のらくろ焼」他、昔ながらの製法で作る和菓子などもございますので、皆様のご来店を心よりお待ちしております。
     http://www.k-net.koto.tokyo.jp/sazanka/sazanka_search/member_info.html?id=k_net/kn00011386

     「あれっ、閉まってる。」残念ながら開店は十一時だったようだ。「そこまで調べなかったな。」まさか一時間待つ訳にも行かず、ここに戻る時間もない。ネットで調べてみると、「あさり餅」は、貝の形のパッケージを潮干狩り網に詰めているようだ。十個入り六百三十円也。すべて手作りで予約が多く、店頭に並ぶのは十セット程だと言う。

     春うらら買ひそこねたる和菓子かな  蜻蛉

     新大橋通りを西に真っ直ぐ歩き、新大橋の袂から隅田川に沿った遊歩道(隅田川テラス)に入る。「新大橋って、旧大橋もあるのかい。」「場所が移ったんじゃないですか。」元々は両国橋が大橋と呼ばれていた。それに次いで架けられたので新大橋と名づけられた。当初はもう少し下流にあり、芭蕉は橋が架けられるのを楽しみに眺めていた。

    初雪やかけかかりたる橋の上  芭蕉
    有難やいただいて踏む橋の上 
     

     最初の計画では芭蕉記念館に入る積りだったが、芭蕉がそこに住んでいた訳ではないので二百円の入館料をケチって省略することにした。「昔は墨田の水は臭かったけどな。」「大分きれいになったんじゃないの。」水上バスが水の上を走っていく。「あれ、スゴイ。」新型であろうか。未来の乗り物のような船体は鋼のような色で、窓が青い。「誰も乗ってないんじゃないの。」「乗ってるよ。」宗匠に教えて貰ったのだが、これは「ヒミコ」という東京都の観光汽船である。浅草・お台場間が片道千五百二十円だ。

    「ヒミコ」は、松本零士氏が「ティアドロップ(涙滴)」をイメージ・コンセプトに、「子供たちが乗ってみたいと思ってくれる船」として、デザインを手がけられました。また、船内では同氏の代表作「銀河鉄道999」のキャラクターたちを船内放送に起用して、星野鉄郎、メーテル、車掌さんと一緒に旅しているような体験をお楽しみいただけます。
    http://www.suijobus.co.jp/ship/himiko.html

     卑弥呼と涙と銀河鉄道と隅田川と、どこでどう繋がっているのか、さっぱり分からない。以前にも言ったが、私とロダンにとって松本零士の最高傑作は『男おいどん』である。
     所々に芭蕉の句碑が建ち、そのそばにベンチも設置されているから、年寄りにはちょうど手頃な散歩道だ。「これ、有名だよな」とスナフキンが「花の雲」の句を指差した。句碑を全部見たわけではないが、深川で芭蕉が詠んだ句には下記のようなものがある。

     古池や蛙とびこむ水の音   はせを
     花の雲鐘は上野か浅草か
     芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
     明月や池をめぐりて夜もすがら
     明月や角へさしくる汐がしら
     初雪やさひはひ庵にまかりあり

     小名木川と隅田川との合流したところで遊歩道から万年橋通りに上がると、万年橋北詰に船番所跡の案内板が立っている。中川の船番所記念館には姫の案内で入ったことがあるが、江戸の商品流通を把握する関所である。
     鈴木理生『江戸はこうして造られた』を見ると、家康江戸入部の頃には、小名木川のすぐ南までが遠浅の海岸線になっていた。これでは船の運航が難しく、行徳の塩を運ぶため、海岸線の内側に運河を掘削したのが小名木川である。やがて荒川水系、利根川水系と連絡することで関東一円の物資を江戸に輸送する大動脈になった。「川の向こうから海ってどういうこと。」「すぐそこだよ。家が立ち並んでるところ。」「へーっ、こんなに埋め立てたんだ。」
     その脇の路地を入れば芭蕉稲荷だ。江東区常盤一丁目三番地。杉山杉風の生簀の番小屋があった場所である。「これはサンプウって読むのかい、スギカゼじゃないよな。」ドクトル、正しい読み方です。杉風は幕府御用の魚屋で、ここに生簀を持っていた。

     深川芭蕉庵旧地の由来  俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
     ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
     たまたま大正六年(一九一七)津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
     昭和二十年(一九四五)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年(一九五五)復旧に尽くした。しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移し江東区において芭蕉記念館を建設した。
             昭和五十六年(一九八一)三月吉日
                    芭蕉遺蹟保存会

     芭蕉が深川に移り住んだのは延宝八年(一六八〇)のことである。なぜ日本橋から新開地の深川にやってきたのか、その理由ははっきりしていない。好意的に見る人は、江戸の喧騒を逃れてワビ、サビの境地を求めたのだと言う。また愛人が甥と駆け落ちしたので人生に嫌気がさしたからだと言う説もある。
     芭蕉没後、ここは松平遠江守(尼崎五万石)中屋敷となった。安政二年の尾張屋の切絵図には「芭蕉庵ノ古跡庭中ニ有」と記されているようだ。手元にある嘉永四年のものには載っていない。そこから石の蛙が出土したのである。
     「文京区にも芭蕉庵があったね。」ダンディも何度も行っている筈だ。「神田川の工事の時に泊ったところ。関口芭蕉庵ですよ。」この会では第三十二回「江戸の坂と神田上水編」、第三十四回「神田川遡上編(一)」で立ち寄った。「それじゃ、芭蕉がここに住む前だ。」
     隅田川テラスの階段を上ると小さな庭のような一角が作られ、芭蕉が隅田川を見詰めている。姫は階段がきついと言うので下で待つ。膝を痛めているようだ。彼女はここに何度も来ている筈だから無理しなくても良い。
     「カエルだよ、でかいぜ。」声の方を振り向くと、北側の隅にコンクリートで固めた小さな池があった。大きな蛙が両手両脚をいっぱいに真っ直ぐ伸ばして、取水口の縁にぶら下がるように水中でじっとしている。随分大きな蟇蛙だが、しかし身動きしない。「作り物じゃないの。」「違うよ、生きてる。」「触っていいかしら。」ハイジが大胆にボールペンの先で突くと動いた。「生きてる。」やや躊躇してから、ぎこちない平泳ぎで取水口の中に入っていく。蛙が天然自然にこんな所にやって来たとは考えられず、わざわざここで飼育しているのだろうか。

    のどけさや蟇の覗ける芭蕉像  閑舟
    ぎこちなく泳ぎ隠るる蛙かな  蜻蛉

     万年橋通りを北に戻り、記念館の向かいの道を東に行けば深川神明宮だ。江東区森下一丁目三番地一七。天正年間(一五七三~一五九一)、蘆の茂る海浜の低湿地だったこの地に入り開拓を始めたのは、摂津の人と伝えられる深川八郎右衛門とその一党である。開拓に当たり、伊勢神宮の分霊を勧請して屋敷内に祀ったのが、この深川神明宮の始まりだった。

    ・・・・しかるに慶長元年丙申(一五九六)大将軍家(家康)はじめてこの地に至らせたまひ、この八郎右衛門に地名を問はせたまひしかど、旧よりこの八郎右衛門の外に住む人もなき荒広の地なれば、地名もなきよし答へ奉りしに、しからば汝この地を開創し、苗字深川の文字を地名に唱へまうすべき旨厳命ありしより、深川の地名発るといふ。(『江戸名所図会』)

     深川発祥の地碑にも同じ事情が書かれている。現在の住所表示は江東区森下で、深川の文字はないが、この地こそが深川の発祥地であるというのが神明宮の言い分である。境内の西半分は幼稚園になっている。神輿庫の扉のシャッターには、それぞれ神明宮の祭りの絵が描かれている。「これって北の湖だと思うんだ。」千歳三丁目の絵の中で、神輿を担ぐ人々の最前列にいる相撲取が北の湖に似ている。「言われて見ると、そうかな。」その町内には三保ケ関部屋があるから、気のせいではないだろう。
     鳥居を潜って歩道に戻る。「何度も言ったことがあるけど、これが神明鳥居の形。柱が直立して、貫が貫通していない。」姫はそんなことに関係なく、伊東深水誕生の地の説明板を一所懸命読んでいる。

    伊東深水は、明治三一年(一八九八)二月四日、深川西森下町の深川神明宮門前で生まれました。本名は一。深川尋常高等小学校に入学後、二年生のときに父が失職し、深川の地を離れました。しかし、深川との縁は深く、明治四一年(一九〇八)には深川東大工町の東京印刷株式会社に勤務。ここで画才が認められ、明治四四年(一九一一)に日本画家の鏑木清方に入門しました。深水の雅号は、深川の水にちなむもので、清方がつけたものです。

     昼飯予約の時間が気になって、どうしても急ぎ足になってしまうから、みんなと会話を楽しむ余裕がない。これではいけない。清澄通りを南に少し行き都民銀行の角を左に曲がると、高橋夜店通りと呼ばれた道だ。高橋は、いつもダンディが関東の濁音の例として上げるように「タカバシ」と読む。
     この夜店通りが今では「のらくろード」と名付けられ、あちこちに「のらくろ」の絵を掲げている。「のらくろロードですか」とヨッシーが呟くが、「のらくろード」である。「ロをだぶらせたのか。」果たして「のらくろ」が商店街再興のきっかけになるのか。そもそも若い世代は「のらくろ」を知らないだろう。姫やマリーの年代が、のらくろを知っている下限ではないか。
     「のらくろ煎餅があるよ。」深川いろは煎餅(昭和二十八年創業)という店だ。江東区高橋八丁目四番地。「のらくろ焼きじゃなくちゃイヤなの。」「煎餅じゃホワイトデーに合わないしな。」姫もスナフキンも我儘だ。私だったらアンコよりは煎餅の方が好きだ。(しかし私も買わない。)
     森下三丁目の交差点を過ぎると森下文化センターだ。江東区森下三丁目一二番地一七。一階が企画展示場と「のらくろ館」になっている。
     田河水泡(高見澤仲太郎)は本所区林町(墨田区)の生れだが、幼年期から青年期を江東区で過ごした。その縁で、没後に作品や遺品が江東区に寄贈されたことをきっかけに、ここに常設展が開かれた。「なんて読むの。」田河水泡の読み方を訊かれたのは初めてだ。「のらくろは知ってたけど、子供の頃は作者の名前なんか見てないもの。」
     田河水泡は明治三二年(一八九九)二月に生まれ、平成元年(一九八九)十二月十二日に九十歳で死んだ。昭和六年から連載を開始した「のらくろ二等卒」に始まるシリーズだけが有名で、戦前だけの漫画かと思っていたが、実は昭和五十六年まで執筆していたのである。「大尉で除隊したんだよ。」その後、放浪生活や探偵をした後、喫茶店のマスターに落ち着いた。「ホントかよ。」私もその辺りは読んだことはないが、モノの本に書いてある。
     「これがのらくろの親友だよ。これがブル連隊長だ。」講釈師が一番熱心だ。のらくろの親友はハンブルと言う。(と、ウィキペディアで知った)。「子供の頃は、連隊長とか伍長って言ったって、どの程度の階級かも分からなかったな。」スナフキンにそう言われれば、私の知識もそうだった。  弟子に『サザエさん』の長谷川町子、『あんみつ姫』の倉金章介がいる。それで姫はのらくろが好きだったのか。他に永田竹丸、山根青鬼・赤鬼兄弟、守安なおや、『猿飛佐助』の杉浦茂、滝田ゆうなどがいる。総じて落語に通じる感覚が持ち味だろうか。私は滝田ゆうの『寺島町奇譚』が好きだ。杉浦茂のシュールな漫画も、根底には落語の無茶苦茶があると思われる。「のらくろ」の著作権は永田竹丸、山根青鬼・赤鬼に譲られたから、今でも新しい「のらくろ」が描かれている。

     ちょうど「東京空襲と学童集団疎開」の写真展が開催されていた。「これを見なくちゃいけない。」「講釈師が疎開したのは空襲の後だったの。」講釈師は芝の小学校に通っていた筈だ。「そうだよ、栃木のお寺でさ。蚤が多くて参っちゃったよ。」「私は池袋にいましたけどね、朝見ると、空に黒い煤がいっぱい浮かんでましたよ。」「若旦那の家は無事だったんですか。」「三月十日は大丈夫だったけど、四月の空襲でやられちゃった。」四月十三日のことだろう。「この写真、池袋駅前の様子ですね。」写真で見る光景は全て一面の焼け野原だ。
     昭和十九年八月に作成された「帝都学童集団疎開先県各区割当表」によれば、栃木県に割り当てられたのは芝、麻布、牛込、本郷の各区の小学生およそ一万九千人であった。その他、関東甲信越東北各県に、区(三十五区)単位で割り当てた。
     「ヨッシーはその頃は大阪ですか。」「京城でした。一回だけ空襲があったけど。」ダンディは勿論大阪で空襲を経験しただろう。二人とも講釈師と同じく国民学校の一年生だったか。碁聖は静岡の中学生だろうか。
     「ほら、この写真だよ。千住から戻る道で、こんな風に焼け焦げた死体が一杯あった。トタンに載せて運んだ。」幼い頃のこんな経験には、何も言うことができない。所詮われらは戦後の子、「戦争を知らない子供たち」である。一トン爆弾の実物大模型も展示されている。「ほら、ここが信管だよ。」時々不発弾が見つかっている。
     伊東深水と関根正二のコーナーもある。関根は福島県白河の生れで、家族が深川に移転したことから伊東深水と知り合った。小学校卒業後、深水の紹介で印刷会社に勤めながら絵を学んだ。十六歳で描いた「死を思ふ日」が第二回二科展に入選、第五回二科展では「信仰の悲しみ」が樗牛賞(新人賞)を受賞。結核のため二十歳で死んだ。
     「二十歳だぜ。それでもこんな傑作を描いたんだな」とスナフキンが感動したような声を出す。「みんな若くて死んだわね。佐伯祐三も三十歳だったでしょう。」そうか、ハイジは佐伯祐三が好きだとどこかで聞いた覚えがある。確かに明治大正の洋画家には若くして死んだ者が多い。青木繁二十八歳、村山魁多二十二歳、岸田劉生三十八歳などと並べてみようか。
     十一時三十五分、そろそろ出発しようかと人数を数えるとドクトルの姿が見えない。「さっき二階に行ったみたいだったわ。」私もその姿を見かけた気がするので二階に上がってみた。工匠壱番館、弐番館があるのだが、ドクトルはいない。トイレだろうか。下に戻ると、ドクトルがのらくろ館から出てきた。
     ちょっと隣接する公園を覗いてみる。隅の方に「近代の輸出陶磁器製造所跡」の説明板が立っているので、これを見て貰うためだ。

    瓢池園陶磁器工場跡 旭焼陶磁器窯跡  瓢池園陶磁器工場は、明治六年(一八七三)、浅草芝崎町の磁器製造所の御用係であった河原徳立が、同所の廃止を機に深川森下町三七番地に開いた陶磁器絵付工場です。瓢池園では納富介次郎の確立した、絵付に松などから採れるテレピン油を使用する納富式を採用し、輸出用コーヒーカップなどを絵付しました。明治二九年(一八九六)に深川東元町へ移転し、のちに愛知県の名古屋に製造拠点を移しました。
     旭焼陶磁器窯は、ドイツ人ワグネルが確立した絵付法などによる新しい陶磁器窯です。ワグネルは明治一六年(一八八三)に旧東京大学理学部において釉薬の下に様々な色彩の絵柄を施す研究を開始し、明治一九年(一八八六)に旭焼と称しました。明治二三年(一八九〇)には渋沢栄一や浅野総一郎らの出資をうけて深川東元町に旭焼の製造所をつくりましたが、明治三〇年(一八九七)には瓢池園と同じように愛知県に移転しました。
               平成一〇年(一九九八)三月 江東区教育委員会

     「この辺は工場が多いよな。」小名木川があったためではないだろうか。工場の立地は輸送経路に大きく影響を受けるのだ。本当に良い天気になった。汗ばむほどの陽気で、これは実に私の力によるのだ。「晴れ男なんて笑っちゃいましたよ。」「違うんですか」と和尚が姫に訊く。「全然。スゴイ雨男だったんだから。」
     もう一度少し戻って、森下三丁目の角が今日の昼飯に決めた中華料理の「精華園」である。深川だから深川丼あるいは深川飯をという安易な発想は採用しない。深川丼なんて値段が高い割にそんなに旨いものではない。元々、漁師町の手軽なぶっかけ飯である。姫が中華料理が苦手なのは知っているが、これだけの人数で入れる店を探すのは難しいのだ。
     「どぜうの伊勢喜があるじゃないですか。」確かに近くにあるが、どじょうは高い。伊勢喜のメニューをみれば、柳川定食が二千五百円もする。
     予約していた十一時四十五分ちょうどだ。絶妙な行程管理ではなかろうか。昼飯さえうまく取れれば、江戸歩きの責任はもう七割方済ませたようなものだ。ダンディはここで千駄木の能楽堂に向かうために別れて行った。「もう帰って来なくていいよ。」講釈師の相変わらずの声が飛ぶ。
     この時間でもう客が数組入っているが、大きな丸テーブルふたつに「予約席」の札が置かれていた。私は何を考えていたのだろう。女将さんに「十五人になりました」と申告してしまった。八人と七人に分かれれば良い。「とにかく早く座ってよ。」しかし全員がテーブルに着こうとすると椅子が足りない。おかしいな。今日は十六人で、ダンディがいなくなったから十五人の筈だと、私は理由もなく思いこんでいた。出欠票を確認してみると、講釈師とドクトルのチェックが漏れていた。そうすると、さっき文化センターで私が確認した人数はなんだったのだろうか。
     隅のボックス席では男が二人、昼間から酒を飲んでいる。私たちのテーブルは宗匠だけがB定食(ニラレバ炒め)、他はA定食(肉野菜炒め)にした。「なんだよ、一人だけ。面倒臭いな。」講釈師がつくる訳ではない。隣のテーブルでは大半が麺類を選び、その中でカズちゃんがA定食にしたようだ。
     料理は意外に早くできてきた。「こんなに多いんですか。」同じA定食を選んだ姫が驚き、「これ桃太郎にお願いしちゃいます」と、もやしのキムチと麻婆豆腐を渡した。私は下見で二度来ているから驚きはしない。講釈師はご飯を半分に減らしてくれと頼み、ドクトルと若旦那も同じようにする。七百四十円の定食にしては量が多いのだ。「B定食も早くお願いします」と宗匠が催促する。こういう時は、一番人数の多いものにした方が早いに決まっているのだ。「そうでもないみたい。カズちゃんのがまだ来てない。」テーブル単位か。
     講釈師とマリオは子供時代の遊びの話で盛り上がっている。「杉鉄砲っていうのがありましたね。」宗匠は知らないようだが私は知っている。「細い竹に、米粒ほどの杉の実を入れる。反対側にもう一粒入れて、細い心棒で押すんですよ。」同じ仕組みで千切った紙を噛んで丸めるやつもあった。「百連発なんてあった。」丸めた紙テープに火薬が仕込んであって、ピストルで撃つのだ。私は父親が反戦主義者だったのでピストルは買って貰えなかった。「ナットとボルトにさ、この火薬を詰めて。」講釈師はどれだけ悪ガキだっただろう。「風紀委員長だったんだ。」「こういう真似をしないでね、っていう見本なのよね。」
     「鼻が詰まって味が全然分からない。」スナフキンは朝から鼻をかんでいた。「まだ来ないよ、本日のお勧めだから一番早く来るかと思ったのに。」和尚が嘆いているので、私のキムチを渡す。「キムチ嫌いなのか。」初めて知ったようにスナフキンが驚いているが、今まで言ってなかったかしら。私は基本的に好き嫌いのない人間だが、キムチは苦手なのだ。
     やっと和尚と桃太郎に運ばれてきたのは、チンジャオロースご飯とラーメンのセットだ。これは食べ過ぎで、ちゃんと年齢を考えなければいけない。桃太郎は以前ダイエットをしていた筈なのに、もうやめたのだろうか。「野菜がなかなか減らないわ。住宅ローンと同じ。」姫が苦戦している。
     店は繁盛している。「すみませんね」と食べ終わったお盆がどんどん下げられていく。どうやら皿が足りなくなったようだ。今日はこの店に特需が訪れた日だった。「美味しかったわね」とアルプスの少女やカズちゃんが言ってくれると、この店を選んだ甲斐もある。店を出たところで、若旦那が「記念だから」と店頭に張り出した定食のメニューをカメラに収める。

     角の信号を南に行く。西深川橋の下を流れるのは小名木川だ。西に行けば高橋、万年橋、東には東深川橋がある。橋の袂には何故だか分からないがシーラカンスの大きなオブジェが鎮座している。「ここまでシーラカンスが泳いできたんだよ。」

     西深川橋にあるシーラカンスのモニュメントは、昭和六十年度からの橋梁景観整備事業の一環として、平成二年度に造形作家松本哲哉氏デザインのもと完成いたしました。近隣の小学校や幼稚園の子供たちなど行きかう人々の安らぎをテーマに重厚で落ち着いた雰囲気のモニュメントがデザインされました。題名は「ゴンベッサ」といい、周辺のランドマークとして存在しています。
     (江東区http://www.city.koto.lg.jp/pub/faq/faq_detail.php?fid=1324)

     シーラカンスを見て、人は安らぎを覚えるものだろうか。清洲橋通りを過ぎて、次の信号を右に曲がれば深川江戸資料館だ。江東区白河一丁目三番地二八。平成二十二年七月にリニューアルオープンされていて、その前に二度ほど来たことがある。入館料は四百円。「シルバー料金はないのかな。」講釈師がいくら騒いでも、そういうものはここにはない。団体扱いにも少し足りない。十二時三十五分。「一時半にここに集合してください。」
     「どこがリニューアルされたんですか。余り変わってないようですけど。」そう言われれば、深川の町を再現したセットの屋根に猫がいるのはお馴染みの光景だ。それでも長屋の様子が以前とは少し違っている。以前は長唄の師匠の家があったように覚えている。屋根の猫がときどき鳴き声を出す趣向も、なかったのであるまいか。
     八百屋の狭い店先には笊に牛蒡、大根、小松菜などが並べてある。「細い大根だこと。」カズちゃんが呆れたような声を出す。「これは何。」「蒟蒻だな。」舂米屋に入ると、講釈師は唐臼の踏み板に乗ってしまう。「大丈夫なんですか。」船宿。
     九尺二間の長屋。間口九尺で奥行き二間、約四畳半の部屋に一畳半の土間がつく。パンフレットによると長屋の住人は、棒手振の政助、舂米屋の職人秀次(妻と子あり)、船頭の松次郎、木挽職人の大吉(妻あり)、三味線の師匠於し津。このスペースに親子三人が暮らすのである。
     井戸の所にちょうどサンデーがやって来たので、この下には水道管が通っているのだと説明する。江戸は世界に冠たる水道王国であった。「年に二回、井戸浚いするんだ」と講釈師も付け加える。そこに、ボランティアのガイドらしい男性が、数人の客を引き連れてきた。「今そこのお客さんがおっしゃったように、年に一度か二度、住民が総出で井戸浚いをします。」私たちは神田上水も玉川上水も歩いていて、既に江戸の水道事情にはかなり詳しくなっている。
     「井戸とゴミ捨て場と便所と、これが長屋の三点セットです。」なるほど、それに違いない。但しこの辺りでももっと東になれば水道が引けない地区もあり、そういう所へは水売りがやってきた。大島稲荷神社に一茶が水売りを詠んだ句がある。姫の案内で小名木川沿いを歩いた時に句碑を見た。

     水売の今きた顔や愛宕山  一茶

     「そこのトイレ、どっちが前か後ろか分かりますか。」。便器の片側に斜めに板が立てかけられている。こっちが前だろうか。違った。「昔の人は着物でしょう。それが汚れないようにね。」ハイジはドアの上部が開いているのが気になってしまう。「開いてた方が、中に人がいるのが分かるからいいんですよ。」
     講釈師はさっさと別なところに向かい、知らない老夫婦に江戸のリサイクル事情の講釈を始めた。「生ゴミは農家に渡すんです。」「肥料ですか。」「そうですよ。衣服は古着屋に。江戸の町は今と違ってリサイクルが発達してました。」用便だって勝手にどこにしてもいい訳ではない。汲み取りを農家と契約して、金や野菜に替えるのは大家にとって重要な収入源である。ところで、大家というのは長屋の持ち主ではなく管理人である。間違えてはいけない。
       「ちょき舟だよ。イノシシの牙に似てるからさ。」火の見櫓の下に係留されているのが猪牙舟だ。江戸の高速タクシーである。名前の由来は別の説がある。

    猪牙船 チョキ舟ト訓ズ。明暦中、浅草見附ノ舩宿玉屋勘五兵衛ト笹ヤ利兵ヱト云ル人、始テ造立。山谷通ヒノ遊客ヲ乗ルト云。或ハ、長吉ト云者、鮮魚ヲ諸浦ヨリ江戸ニ漕ス押送リ船ヲ模テ、薬硎形ノ小舟ヲ作リ、長吉舟と号ク。音近キヲ以テ猪牙ノ字ヲ附ストモ云。尤、形猪ノ牙ニモ相似タリ。唯、早走ヲ要トス。(以下略)(喜多川守貞『守貞謾稿』)

     『守貞謾稿』は考証の厳密をもって知られているから、「長吉舟」に始まるという説を信用したい。実は退職教員の研究費図書が図書館蔵書と重複していたので、リサイクルとして『守貞謾稿』全五冊を貰ってきたばかりです。かなり役にたちそうだ。確か姫は岩波文庫版で持っている筈だ。
     「七不思議の謎にせまる」というコーナーもある。資料館ノートは六枚のシートになっているので取り敢えず貰ってクリアファイルにしまう。「置いてけ置いてけって言うんだ。オイテケ、オイテケ。」講釈師が繰り返しているのは江戸の都市伝説で、本所の「置行堀」である。堀で釣りをして帰ろうとすると、水の中から「置いてけー」という声が聞こえる。家に戻って魚籠をみると、大漁だった筈の魚が一尾も残っていないのだ。錦糸町辺りと言うが、堀切の辺りとも言う。
     ついでだから本所七不思議をあげてみる。「置行堀」「送り提灯」「送り拍子木」「燈無蕎麦」「足洗屋敷」「片葉の葦」「落葉なき椎」「狸囃子」「津軽の太鼓」七不思議と言いながら九つある。こういうものは本所だけでなく、全国に存在する。もっとも古いものが越後や諏訪地方に確認されるという。
     その部屋を出ると、壁際のテーブルに深川近辺を描いた浮世絵の木製ジグゾーパズルがおいてある。講釈師が一所懸命挑戦しているではないか。「もうできました」とヨッシーが見せてくれたのは、広重の『深川洲崎十万坪』だ。講釈師はなかなか終わらない。こっちは『大はしあたけの夕立』か。「面白そう」と姫も参加した。
     狭い館内だからもうほとんど見学が終わって、みんなはソファに座って木場の角乗りのビデオを見ている。一時半までとしたのは長過ぎたか。全員いるのを確認して、一時十五分に出発する。

     西隣が霊巌寺だ。江東区白河一丁目三番地三二。道本山東海院、浄土宗。もとは寛永元年(一六二四)に日本橋付近の蘆原を埋めた霊巌島に創建されたが、明暦三年(一六五七)の大火(振袖火事)で延焼して、万治元年(一六五八)にここに移転してきた。
     境内に入って左に「江戸六地蔵」第五番の丈六地蔵が鎮座している。その右には少し紅を含んだ白梅が咲いている。この地蔵によって私は初めて「江戸六地蔵」というものを知ったのだった。それにしても無学だった。

     梅の花丈六地蔵の肩に舞ひ  蜻蛉

     深川の地蔵坊正元が宝永三年(一七〇六)に発願し、宝永五年(一七〇八)から享保五年(一七二〇)にかけて、江戸の出入口六箇所に造立したものだ。鋳造は神田鍋町の鋳物師・大田駿河守藤原正儀である。因みに神田鍋町は現在の神田鍛冶町三丁目の辺り、幕府御用の鋳物師である椎名伊予守藤原吉寛をはじめとして、有力な鋳物師が住んでいた。
     「品川寺のものだけが笠を被ってない。その他はみんな笠地蔵です。」「新宿にもありましたよね」と桃太郎が訊いてくる。新宿太宗寺の地蔵は、漱石が子供の頃によじ登って遊んだりした。宗匠が企画した第六回「大久保・余丁町編」で、時間が余ったので最後に立ち寄っている。
     念のために一番から挙げてみよう。一番は東海道品川の品川寺、二番は奥州街道浅草の東禅寺、三番は甲州街道内藤新宿の太宗寺、四番は中山道巣鴨の真性寺、五番が水戸街道の霊巌寺だ。
     六番は千葉街道の永代寺にあったが今は残っていない。明治の廃仏毀釈で破壊されてしまったのだ。但し上野の浄名院(上野桜木二丁目)に、第六の代わりと称する地蔵が安置されている。「千葉街道って千葉にあったの。」面白いことを聞いてくる。江戸から千葉へつなぐ街道である。後で行く深川不動堂の場所だ。しかし永代寺が千葉街道というのは少しおかしくないだろうか。千葉に向かうのなら、もう少し北の両国を抜け竪川に沿って行くのが筋だと思う。
     丈六地蔵についても話しておこう。立って一丈六尺(四・八五メートル)の大きさを「丈六」と言う。但し座像の場合は半分の八尺(二・四二メートル)あれば良い。「何頭身だったんでしょうね」と姫が笑う。釈迦の身長が一丈六尺あったと言う伝説によるのだが、これは信じなくても良い。このサイズより大きいものを大仏と呼ぶ。
     松平定信の墓はブロック塀で囲まれた横長に広い墓所の端、門からは正面に見える場所に玉垣を巡らして造られている。塀の門は閉ざされているので近くに寄ることが出来ない。右手奥に離れている宝篋印塔は夫人の墓のようだ。「奥さんの方が立派じゃないの。」「うちと同じだ。」

    白梅や倹約及ぶ墓石にも  閑舟

     「『白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき』って言われましたね。」白河町の名はこの定信(白河藩主)に因むのだが、江戸切絵図を見ても白河町の名はない。この霊巌寺の東の辺りは元加賀町、通りの向かいが山本町、その東が吉永町、西永町、三好町とある。白河町は昭和四十年(一九六五)の新住居表示によって作られた町名である。実に好い加減な名前だ。
     定信が何度か手を付けた腰元の婚姻が決まり、城を下がることになった。その前夜、定信は女と同衾して嫁になる心得を一晩中説き明かした。アホではあるまいか。布団の中で、こんな下らない話を一晩中聞かされた方はたまったものではない。その間「いささかも凡情起こらず」と、定信は自叙伝『宇下人言』に書いた。つまり、自分は欲望をきちんと制御できる人間だと自慢している訳だ。

    ・・・・定信が依拠したのは、いうまでもなく朱子学であった。朱子学はその理気二元論にもとづいて、「天理の公」に対して「人欲の私」というカテゴリーを立てる。聖人はつねに「天理」を体し、一毫の「人欲」も持たぬ理想的人格であり、君子はそれに準じる存在であるから、よしんば「私」がゼロではなくても、極力それをミニマムにしようとする不断の努力を生きる。「私」とは、つねに抑圧されるべき否定的概念だったのである。(野口武彦『江戸人の精神絵図』)

     定信がちっとも面白くないのは、そこに「私」の領域がまるで出てこないからなのだ。そして、万民全てが自分と同じようになることを強制した。
     プリンとサンデーが塀際に並ぶ六地蔵を不思議そうに眺めている。「なぜ六人いると思う。」「知らない。」生きとし生けるものは六道を輪廻転生する。六道とは天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄を言い、それぞれの世界で衆生を救うために地蔵は六人いるのである。六観音も同じ趣旨に基づいている。
     「お地蔵さんって、赤ん坊を救ってくれるんじゃなかったかしら。」賽の河原の地蔵である。死んだ子供は賽の河原で一日中、父母の回向のために石を積み上げる。

    ここに集まるおさなごは 小石小石を持ち運び
    これにて回向の塔を積む 手足石にて擦れただれ 
    指より出づる血のしずく からだを朱に染めなして

    一重つんでは幼子が 紅葉のような手を合はせ 
    父上菩提と伏し拝む 二重つんでは手を合はし 
    母上菩提と回向する 三重つんではふるさとに 
    残る兄弟我がためと 礼拝回向ぞしおらしや(『地蔵和讃』より)

     しかし夕方になると鬼がやって来て、折角積み上げたケルンを崩してしまう。子供たちは永劫続くシジフォスの苦役に耐えなければならない。それを救うのが地蔵菩薩である。子を失った母は、賽の河原で苦しむわが子を救って貰うため、地蔵が我が子を識別できるように、子の涎のしみついた涎かけを地蔵に託す。地蔵が赤い涎掛けを掛けているのはそのためだ。「救うって、子供が生き返ってくるってことなの。」まさか生き返りはしないだろうね。「そうじゃなくて、浄土に行けるように。」

     霊巌寺正面の小路に入るとすぐ左にあるのは出世不動だ。長専院不動寺。「出世なんてもう誰も関係ないからね。」「これからの人のためにお祈りしちゃだめなの。息子とか。」それは問題ない。
     左に曲がると、成等院(もと霊巌寺の塔頭)脇の玉垣で区切られた区画の奥に紀伊国屋文左衛門の大きな碑が立っている。江東区三好一丁目六番地一三。鉄の扉が閉ざされ、中に入ることはできない。「前は入れたんだよな。」成等院は戦災で全焼した。小さな紀文の墓だけが残っており、その顕彰碑とともに昭和三十三年に再建された。つまりこの墓がなければ、消えてしまったかもしれない寺である。
     享保十九年(一七三四)四月二十四日、六十六歳で死んだとされているが、紀文の生涯は殆ど分かっていない。その晩年についても巨万の富を使い果たして落魄したとする説がある一方、財産は充分にあったとも言われる。
     再建に当たっては紀州出身者や政治家から寄付を募った。それが玉垣に刻まれている。「浅沼稲次郎の名前もあるわね。」講釈師によれば、浅沼は深川の小さなアパートに住んでいたのだという。深川不動の近くらしい。

    私は終戦の勅語を深川の焼け残ったアパートの一室で聞いたが、このときの気持を終生忘れることができない。二、三日前飛んできたB29のまいたビラを読んで、薄々は感づいていたものの、まるで全身が空洞になったような虚脱感に襲われた。私はこれまで何度か死線をさまよった。早大反軍研事件後の右翼のリンチ、東京大震災のときの社会主義者狩りと市ヶ谷監獄、秋田の阿仁銅山争議など――。しかしこれらのものは社会主義者としての当然の受難とも思えたのである。しかし戦争はもっと残酷なものだった。戦闘員たると否とにかかわらずすべてを滅亡させる。私の住んでいた深川の清砂アパートは二十年三月十日の空襲で全焼し、私はからくも生き残ったが、一時は死んだとのウワサがとんで、友人の川俣代議士が安否をたずねに来たことがある。無謀な戦争をやり、われわれ社会主義者の正当な声を弾圧した結果は、かかるみじめな敗戦となった。私は戦争の死線をこえて、つくづく生きてよかったと思い、これからはいわば余禄の命だと心に決めた。そしてこの余禄の命を今後の日本のために投げださねばならぬと感じた。(浅沼稲次郎『私の履歴書』)

     「随分お寺が多いですね。」ヨッシーはこの辺は初めてだろうか。かつて日蓮宗浄心寺の広大な寺域で塔頭が多く建っていた。今では小さな寺院が隣り合うように並んで、寺町を形成している。その浄心寺の縁起によれば、四代将軍家綱の乳母であった三沢局(小堀遠州の側室)の遺言で建てられたとされているのだが、これが分からない。家綱の方から調べて行くと、乳母は矢島局としか出てこないのである。
     ここから更に東に進み、三好二丁目の角を南に曲がる筈なのに信号が見当たらない。下見の時のコースとは変わっているのだが、地図ではこの辺になる筈だ。変だな。それでも取りあえず曲がって歩いてみる。ちょっと気が焦ってきた。後方の集団がかなり遅れている。日差しがかなり強く暑くなってきたから、疲れが出てきただろうか。
     「間違えました。」どうやらひとつ早く曲がってしまったようだ。講釈師が、「あの時も迷っちゃったよな」と優しげに言う。「おかしい、いつもと違うわね。私が間違うと散々罵倒するのに。」

      寺町を梅の香りに迷はされ  蜻蛉

     愛用しているポケット版の地図を開いて番地を確認する。「あっちじゃないか。」方角はほぼ分かっている。ヨッシーと講釈師の言葉に従っていくと、目的地ではなかったが見覚えのある場所に出た。これなら分かる。これを曲がれば良いのだ。平野一丁目の右の角に立つ小さな堂が上行菩薩堂だ。江東区平野二丁目三番地。向かいの宣命院に属するものだ。ここは後で来る筈だったのに、順序が逆になってしまった。
     宝永五年(一七〇八)、下総関宿藩主久世広誉の寄進によるものだ。真黒な像は濡れていて、首から肩にかけて修復した跡が残っている。関東大震災と戦災による傷だ。「ここにも戦争の痕跡がある。」
     上行菩薩なんて初めて知ったが、法華経「従地涌出品」によって、釈迦説法時、大地が割れて地中から涌出した。釈迦入寂後に仏法を護持する四菩薩の一つである。四菩薩とは上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩だ。こんなことを知っても別に何の役に立つ訳ではない。少し遅れてきた姫が「ここは何ですか」と訊いてくる。「たまたまあるから寄っただけ。」
     「それにしても暑いですね。フリース着てきちゃったから。」「ボクは先日フリースをみんな仕舞ったばかり。」碁聖がフリースを着るとは知らなかった。

     もう大丈夫だ。ここから浄心寺の前を通って東に行き、次の平野三丁目の角を曲がれば間宮林蔵の墓がある。「リンちゃんだね。」間宮林蔵は幕府隠密だったというのは、もう定説になったとみて良いだろう。シーボルト事件の密告については決着が着いたのだろうか。「間宮林蔵や伊能忠敬関係の本は全部持ってるよ。」生物化石の研究者であるドクトルは、地理にも強い関心を持っているのだ。
     林蔵は安永九年(一七八〇)、常陸国筑波郡上平柳村の農民の子として生まれた。寛政十一年(一七九九)二十歳の時、村上島之丞の従者として蝦夷地に渡り、翌年函館で伊能忠敬に測量を学んで師弟の約を結んだ。文化六年(一八〇九)間宮海峡を発見し、その後文政五年(一八二二)四十三歳で江戸に戻るまで、人生の殆どを蝦夷地測量のために過ごしている。
     シーボルト事件が起きたのは文政十一年(一八二八)九月のことだから、林蔵四十八歳の時である。この事件で高橋景保はとらえられて獄死し、当時のひとは林蔵の密告によると信じた。その真偽はともあれ、蘭学者たちの林蔵を見る目は冷たかったに違いない。晩年はさびしい境遇の中で死んだという。天保十五年(一八四四)二月二十六日死去。
     もう一度戻って浄心寺に入る。さっき和尚が白い彫刻を見たと言っていたのだ。「平和の塔じゃないの」と私は適当に答えておいたが、関東大震災の慰霊塔であった。蔵魄堂と呼ぶ。白いドーム型の屋根に、うずくまった女性が造形されているのだ。
     浄心寺では大震災の被害者三千百七人が荼毘に付された。「ここにお骨が入ってるのよね。」私もそうだと思ったが実は違った。この寺に限らず、震災による死者は公園やあちこちで荼毘に付され散在していたので、それらの遺骨をすべて横網町の被服廠跡に集められて震災記念塔が建てられたのだった。だから今この中に遺骨も遺灰もない。
     「築地本願寺みたいですね」と姫が面白がるのは、本堂が日本風ではなくインドのパゴダ様式だからだ。「建物の形って宗派に関係ないんですね」と桃太郎も変なことに感心している。

     清澄通りを南に行くと、平野児童館前に「馬琴生誕の地」の説明板が立っている。江東区平野一丁目七番地。茗荷谷の深光寺で馬琴の墓を見ているから、これで一生が繋がった。「私、お墓には行ってません。」そうか、あの時姫は途中参加で、深光寺の後の凸版印刷のレストランで合流したのだったね。
     赤い八重の花が満開だ。「河津桜だよ」と講釈師は大きな声で頻りに言うが、姫は「江戸彼岸じゃないでしょうか」と首を捻る。植物の判定に関して講釈師と姫とどちらを信じるかという問題になれば、誰でも迷わずに姫に軍配を上げるだろう。しかし緋色が鮮やかだから、私は緋寒桜かも知れないとこっそり思う。
     馬琴は、明和四年(一七六七)、江戸深川の旗本・松平鍋五郎信成(千石)の屋敷内で、用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれた。但し兄二人が早世しているので実質的には三男である。幼名は春蔵、後倉蔵。通称左七郎。元服して興邦を名乗る。
     安永四年(一七七五)、馬琴九歳の時に父が死に、長兄興旨が家督を継いだが俸禄を半減されたため、翌年、左七郎に家督を譲って松平家を去り、戸田家に移った。次兄興春は既に他家へ養子に出ていたため、滝沢家は十歳の左七郎に委ねられたのである。
     左七郎は松平家の孫の小姓として仕えたが、安永九年(一七八〇)、嫌気がさして松平家を致仕、長兄や母の許に同居した。そして長兄の紹介で戸田家の家士となる。
     天明元年(一七八一)十五歳で元服して興邦を名乗る。しかし性格的に武家務めは長続きせず、点々と渡り奉公を繰り返し、放蕩無頼の生活をしていたようだ。天明五年(一七八五)に母が死に、次兄も死んだ。
     寛政二年(一七九〇)二十四歳で山東京伝に弟子入りを志願した。弟子入りは叶わなかったが出入りを許され、戯作を書くようになる。因みに京伝は深川木場の質屋の長男として生まれた。江戸紅葉山の東、京橋の近くの銀座に住んで、山東京伝を名乗った。
     四年(一七九二)、馬琴は蔦屋重三郎の手代として雇われ、名を解と改める。寛政五年(一七九三)、元飯田町中坂(九段北一丁目)の履物商伊勢屋の未亡人百の婿に入ったが、商売のできる性格ではない。それに婿入りしたのに百の姓会田を名乗らず、滝沢清右衛門を名乗った。
     本格的な創作活動が始まったのは寛政八年(一七九六)、三十歳になった頃であった。寛政十年(一七九八)、長兄の興旨が死に、家族の中で馬琴ただ一人が残った。『八犬伝』を克明に読み解いた高田衛は、これが伏姫の死と八つの玉の飛散に投影されていると考える。

     ・・・・伏姫割腹には、凶業を善果に転ずる犠牲死の、「死と再生」の祭儀があり、また飛散する八玉の血縁的共同性がある。そこには、子の離散によって象徴される、江戸化政期の血縁的家族共同体の破局状況が反映している。(馬琴の家、下級武家の滝沢氏がそうであった。父の死、母の死、長兄の死、離婚等によって滝沢家は崩壊していた。)伏姫犠牲死による「死と再生」に、そのような破局状況からの脱出への悲願がこめられていた。(高田衛『完本八犬伝の世界』)

     文化四年(一八〇七)の『椿説弓張月』等によって、馬琴は読本の第一人者となる。『南総里見八犬伝』の最初の巻が刊行されたのは文化十一年(一八一四)、最終巻が刊行されたのが天保一三年(一八四二)、実に二十八年の歳月費やした。晩年の失明と、嫁のお路のことは余りにも有名だから省略する。石の台の上には、『八犬伝』全九十八巻百六冊を積み上げた形の碑がたっている。
     「馬琴って意外に近代のひとなんですよね。」明治になるのは馬琴が死んで僅か二十年のことだった。『八犬伝』は無茶苦茶に面白いものだが、余りにも長すぎて通読している人は少ないと思われる。そういう人には、山田風太郎『八犬伝』を薦めたい。『八犬伝』の物語に馬琴の日常を交錯させたもので、実に面白い。馬琴は克明な日記を残したから後世の作家のタネになりやすいのだ。

     「和菓子屋さんが。」馬琴よりは和菓子の方が人気があるのは仕方がないか。深川伊勢屋である。江東区平野一丁目二番一。「さっきの伊勢屋とは違うのかしら。」こちらは明治四十年創業だから森下よりも古い。「深川を歩くって言ったら、門前仲町の伊勢屋を勧められたの。それと同じかしら。」サンデーはそれが気になる。「支店だよ。」「それならここで買うか。」
     本店は江東区富岡一丁目八番一二号。門前仲町店が江東区門前仲町二丁目九番二にある。スナフキンも、バレンタインデーのお返しのために店に入る。私には縁のない話だ。講釈師も買う。姫も買う。半数ほどが何かの土産を買った。
     信号を渡って向こう側に出ると公園にトイレがあった。「トイレに行きたい人はここで済ませてください。」このコースはトイレに苦労する。「年寄りが多いんだから、トイレはちゃんと事前に探しとかなくちゃいけない。」仰せの通りだ。
     仙台堀川に架かる海辺橋を渡れば、杉山杉風の採荼庵の跡になる。江東区深川一丁目九番地。今日配った地図には「採茶庵」と書かれているが、「茶」ではなく、クサカンムリに「余」の「荼」である。「あっ、ホントだ。」結構気づきにくいのだ。「なんて読むのかな。」サイトアンと読む。

    採茶庵の旧蹟  同所、平野町にあり。俳諧師杉風子(一六四七~一七三二)の庵室なり。杉風、本国は参州にして杉山氏なり。鯉屋と唱へ、大江戸の小田原町に住んで魚屋たり。のち隠栖して一元と号す(衰翁、衰杖等の号あり)。つねに俳諧を好み、檀林風を慕ひ、のち芭蕉翁を師として、この筵に遊ぶことおよそ六十年、翁つねに興せられて云く、「去来は西国三十三箇国、杉風は東国三十三箇国の俳諧奉行なり」と(かばかり、この道の達人なりしなり。杉風、一に芭蕉庵の号ありしが、後桃青翁にゆづれり。・・・・(『江戸名所図会』)

     プレハブの薄っぺらで灰色の小屋のような建物に縁側が作られ、そこに芭蕉が腰かけている。講釈師がその横に座って、芭蕉の方に左の腕を回す。「折角写真撮ろうと思ったのに。」「この建物はなんとかならないか。」このプレハブは建物でもなく、ただ外面だけ取り繕ったセットである。それならもう少し、江戸を連想させる外装を施しても良いのではないか。

    予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ 
        白露もこぼれぬ萩のうねりかな    はせを
    このあはれにひかれて
      萩うゑてひとり見ならふやま路かな  杉風

     笠と杖を手にしているから、千住に向かう舟を待っているところだろう。元禄二年三月二十七日、太陽暦に換算すれば一六八九年五月十六日のことである。「ここで記念写真を撮りましょう。」
     もう一度さっきの信号を戻って、伊勢屋の角から仙台堀川に沿って東に行き、木更津橋を渡れば深川小学校だ。「あっ、小学校に入って行った。」後ろから声が聞こえる。敷地内に立つのが坪井信道「日習堂」跡の説明である。江東区冬木二二番地一〇。
     下見のときに偶然見かけたもので、坪井信道を私は知らなかった。説明を読むと門下に緒方洪庵がいるというので調べてみた。

    寛政七年一月二日(一七九五年二月二〇日)~ 嘉永元年一一月八日(一八四八年一二月三日))は、江戸時代後期の蘭医。父は坪井信行。美濃国池田郡脛永村(現・岐阜県揖斐郡揖斐川町)の出身。家伝に岐阜中納言織田秀信の五世の孫、信長の七世の孫という。
    幼くして両親をなくし、各地を巡ってはじめは東洋医学を学んだが、文政三年(一八二〇年)に江戸へ出て宇田川榛斎に蘭医学(西洋医学)を学んだ。文政一二年(一八二九年)、江戸深川に安懐堂、天保三年(一八三二年)に江戸冬木町に日習堂という家塾を開いた。天保八年(一八三七年)には長州藩の藩医に登用されている。
    著書に『診侯大概』、翻訳書に『製煉発蒙』、『万病治準』、『扶歇蘭杜神経熱論』がある。実子に二世信道となった信友、養子に幕府奥医師・信良がある。門下生には、緒方洪庵・青木周弼・川本幸民・杉田成卿・黒川良安らがいる.(ウィキペデイァより)

     蘭方医学の先覚者であり、伊東玄朴、戸塚静海と並んで江戸三大西洋医家として知られる。緒方洪庵が安懐堂に入門したのは天保二年(一八三一)二月、洪庵二十二歳、信道三十七歳である。これから四年間、洪庵は信道のもとで医学とともに翻訳の腕も磨いた。
     洪庵に至る江戸蘭学の系譜を辿れば、大槻玄沢(杉田玄白と前野良沢に学ぶ・芝蘭堂)・宇田川榛斎(玄信。芝蘭堂四天王の筆頭・風雲堂)・坪井信道・緒方洪庵と続く。因みに玄沢の孫になるのが『言海』を編纂した大槻文彦だ。
     真っ直ぐに進み、葛西橋通りを東に曲がれば冬木弁天だ。江東区冬木二二番三一号。材木商冬木五郎右衛門直次が承応三年(一六五四)に江州竹生島(滋賀県)の弁財天を勧請して日本橋茅場町の邸内に祀ったのが最初である。宝永二年(一七〇五)、五郎右衛門の孫弥平次がこの地に移したと伝えられる。当時、冬木の屋敷地は一万三千坪に上ったらしい。
     なにかの会合があるようで、狭い境内に人が集まっているので中に入れない。仕方がないので、外からちょっとだけ説明する。堂の脇に小さな池のような窪みがあり、その穴に弁天の正体である白い蛇がいる。

    冬木町の弁天社は新道路の傍らに辛くもその址を留めている。しかし知十翁が、「名月や銭金いわぬ世が恋し。」の句碑があることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因みにいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔に解消の禍を免れた。)」(永井荷風『深川の散歩』)

     尾形光琳が宝永元年頃(一七〇四)から五年ほど江戸に滞在した際、三井、住友などとともに、この冬木家の世話になった。その時、冬木の妻女のために小袖に手描きで秋草文様を描いた。これが冬木小袖として伝わっている。
     葛西橋通りから少し斜めに入る道を行く。また清澄通りに出て南にすぐ心行寺。元亨四年(一三二四年)の銘があるという五重層石塔が不思議だ。その時代にこの辺りは海の底である。どこかから持っていたものではないか。また、ここには鶴屋南北の墓がある。「南北のお墓は見ましたよ。押上の春慶寺で。ビルのお寺でした。」姫の言うのは、私たちが普通に知っている、『東海道四谷怪談』他で有名な四世南北のことである。この寺にあるのは五世(四世の孫)であった。
     法乗院の閻魔。私は行かなかったが、講釈師を始めかなりの人が二階に上って閻魔の話を聞いたようだ。「お金を入れるとさ、その重みでスイッチが入る仕掛けだよ。」「お札じゃダメなのね。」「有難い説教を聞いて反省したかい。」「反省することなんか何もないわよ。」

    浄財で閻魔抱き込む春の昼  閑舟

     曽我五郎足跡石。こんなところに曽我五郎が来る筈がないので、これは歌舞伎関係者によるものだろう。「ぎんざ素足会」と書かれていたが、五郎時致を当り役とした初代市川八百蔵の墓があるのに因んだと思われる。
     陽岳寺は説明を読むだけで、中には入れない。向井将監忠勝の墓がある筈だ。「私、知りません。」余り有名人ではないかも知れない。「広重に『大はしあたけの夕立』の絵がある。」「それは知ってます。」「安宅丸が停泊していたんで『あたけ』って呼ばれてた。」
     表札をみると「向井」とあるので、子孫かも知れない。向井忠勝は幕府の御舟手奉行で、幕府史上最大の軍艦「安宅丸」を建造したことで知られる。忠勝を主人公にして隆慶一郎は『見知らぬ海へ』を書いたが未完に終わった。
     安宅船は、室町時代から造られた日本式の軍艦である。当時の標準では巨艦で、数十人以上の漕ぎ手によって動かされるから小回りも利いたようだ。しかし、史上最大の「安宅丸」は全く活躍しなかった。

     安宅丸は長さ三十尋(約五十五メートル)で三重の櫓をあげ、二百挺の大櫓を水夫四百人で漕ぐという空前の巨船であった。しかし、安宅丸は巨体のために航行に困難が伴い、隅田川の河口にほとんど係留されたまま留め置かれた末に一六八二年に解体され、和船最後の巨船ともなった。(ウィキペディア「安宅丸」より)

     「次は下見してないんだ。」「なんと大胆な。」清澄通りを横断し、首都高速の下を潜って葛西橋通りを行けば、伊能忠敬旧居跡がある筈だ。当時の町名の深川黒江町は、現在では門前仲町一丁目一八番になる。「この辺にあると思う。」「あったよ、そこだ。」舗道の車道側に石の標注が立っていた。危うく行き過ぎるところだった。
     忠敬は、寛政六年(一七九四)十二月、五十歳で家督を長男に譲り、翌年江戸に出て、高橋至時に入門した。ここから浅草天文台まで通って歩測の訓練を重ねる。機械に頼るより、よほど自分の歩測に自信があった。寛政十二年(一八〇〇)第一次測量を開始し、文化十三年(一八一六)第十次測量を江戸府内で最後に行った。文化十五年(一八一八)四月十三日没。享年七十五。地図製作は喪を秘して続けられ、文政四年(一八二一)『大日本沿海輿地全図』が遂に完成した。漸く忠敬の死が公表されたのはその三ヶ月後のことだった。
     「偉人です。」「井上ひさしの小説があったよな。」『四千万歩の男』だ。ロダン、ドクトル、隊長はこれを読んで感激した。私も勿論感動した。浅草源空寺にある忠敬の墓には、第二十七回「浅草七福神巡り編」で桃太郎に連れて行ってもらった。
     首都高速の下から東に入り、漸く最終コースに入って来た。和倉橋跡がある。江東区深川二丁目一番地二。「首都高速は川の上を走ってるんだ。」「そう。首都高速があれば、江戸時代に川が流れていたと思えば良い。」

     この付近は、幕府賄方組屋敷があり椀をしまう倉があったことから「わんぐら」「わぐら」といった。明治二年(一八六九)からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。

     「裏から入ると、また講釈師に言われちゃうぜ。」「仕方ないよ、こっちの方が近いんだから。」富岡八幡宮の別当寺、永代寺の広大な境内だったところだ。切絵図を見ると永代寺門前仲町、永代寺門前山本町などの町名が見える。
     明治六年に永代寺の広大な境内は没収され、公園として衣替えしたのが深川公園である。深川と同じ年に、上野(寛永寺境内)、芝(増上寺境内)、浅草(浅草寺境内)、飛鳥山にも公園が開設された。大寺院の境内は広大で公園に作り替えやすかったこともあるが、廃仏毀釈の波に乗ったのである。
     そして永代寺が廃寺になったので、町の名からもそれが消えてしまった。門前仲町と言って永代寺を連想する人は少ないだろう。今も永代寺を名乗る小さな寺はあるが、旧永代寺の塔頭の吉祥院が名を継承したものだ。
     少し遅れてきたハイジがちょっと疲れた顔をしている。「暑かったからね。」距離はそんなに歩いていないのだが、気温が高かった。結構みんな疲れた様子だ。
     初代市川團十郎が成田不動を信仰したのは広く知られている。屋号を成田屋としたのもそのためだ。因みに江戸の身分制度が士農工商であるのは誰でも知っている。歌舞伎役者はこの四民の外の、人別に載らない河原乞食、非人であった。宝永五年(一七〇八)、町奉行の裁きで賤民ではなく良民と認められ、それ以後、商人に倣って屋号を名乗り始めたのである。
     團十郎の影響もあって、江戸市民の間に成田不動の信仰が広まり、出開帳が頻りに行われた。出開帳は寺院にとって重要な収入源であり、成田不動の場合は、本尊の不動明王を三百人が守って成田を出発し、一週間かけて江戸にやって来た。江戸ではおよそ二ヶ月にわたって開帳するから、江戸人は挙ってお参りに来た。
     『武江年表』によれば、元禄十六年(一七〇三)を最初に、安政三年(一八五六)まで十二回行われた出開帳のうち、十一回が永代寺で開かれた。だから江戸人にとっては成田不動と言えば永代寺であった。永代寺がなくなってしまっても、ここに不動明王がいなければいけない。そこで明治十一年(一八七八)、新たに堂を作り成田山東京別院としたのがここである。
     「ここは何なの。」成田山東京別院深川不動堂である。「成田山の支店なのかしら。」支店と言えば言えなくもない。「川越にもあるよ」と講釈師が言っても、ひょうたん島に川越はないだろう。喜多院のそばにある。「不動堂って支店のことを言うの。」なんという発想だろう。常連になってくれれば、彼女はこの作文中でヒロインになる可能性がある。
     本堂の前で震災被災者への義損金を募っている。小銭がないので、思い切って千円札を放り込んだ。私にしては珍しいことである。カズチャンが飴を配ってくれた。「飴もダメなんだっけ。」「飴は大丈夫。貰うよ。」「糖分がうれしい。」
     明治四十一年十二月、二十九歳の永井荷風は深川不動の境内で盲人の歌沢を聴いていた。

     高い三の糸が頻りに響く。おとするものは――アと歌って、盲人は首をひょいと前につき出し顔をしかめて、
     鐘――エエばアかり――(中略)
     夕日が左手の梅林から流れて盲人の横顔を照す。しゃがんだ哀れな影が如何にも薄く後の石垣にうつっている。石垣を築いた石の一片ごとに、奉納した人の名前が赤い字で彫りつけてある。芸者、芸人、鳶者、芝居の出方、博奕打、皆近世に関係のない名ばかりである。
     自分はふと後を振向いた。梅林の奥、公園外の低い人家の屋根を越して西の大空一帯に濃い紺色の夕雲が物すごい壁のように棚曳き、沈む夕日は生血の滴る如くその間に燃えている。真赤な色は驚くほど濃いが、光は弱く鈍り衰えている。自分は突然一種悲壮な感に打たれた。あの夕日の沈むところは早稲田の森であろうか。本郷の岡であろうか。自分の身は今如何に遠く、東洋のカルチェエ・ラタンから離れているであろう。盲人は一曲終ってすぐさま、
     「更けて逢ふ夜の気苦労は――」と歌いつづける。
     自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛く思われた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまいたいような気がした。
     ああ、しかし、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上って遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている・・・・。(永井荷風『深川の唄』)

     「どっちから行く。」「そこから行きましょう。「あーあ、今日はお不動さんも八幡も裏から入るんだな。」やっぱり言われた。しかし裏口入学は我らの会では珍しくない。
     富岡八幡の境内には見るべき物が多い。まず横綱力士碑からだ。相撲に関する碑があるのは、江戸勧進相撲がこの富岡八幡宮で始まったからである。

     当宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまりますが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。その後禁令が緩み、貞享元年(一六八四)幕府より春と秋の二場所の勧進相撲が許されます。その地こそが当宮の境内だったのです。以降約百年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。そののち本場所は、本所回向院に移っていきますが、その基礎は当宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになります。詳細は小島貞二著『江戸勧進相撲と富岡八幡宮』 (富岡八幡宮社務所)の一読をお薦めします。
    http://www.tomiokahachimangu.or.jp/htmls/sumou.html

     やがて興業の場所は両国回向院に移って行く。「最後は白鵬だ。日馬富士はまだないな。」それを確認してきたカズチャンが「父が好きで、鏡里の手形がありました」と言う。地方巡業に来た相撲取りが自宅に来て、手形を押してくれるなんていうのは、かなりのお大尽だったに違いない。「でも父が亡くなってから、どこかにいっちゃった。」
     大神輿はいつ見ても驚く。「何人で担いだんでしょうかね。」そこに写真がある。数えきれない人間が神輿の周りに群がっているではないか。
     そして旅姿の伊能忠敬の像がある。「測量の旅に出るときは、必ずこの八幡に参詣するのが習いでした。」若旦那はドイツの博物館に日本の地図が大量に保存されているのを見たという。「シーボルトが持っていったんでしょうね。」博物館の名前も教えてくれたのだが、私はドイツに行くこともないので、その場ですぐに忘れてしまった。
     足元には三等三角点がある。「これって何だっけ。」以前ロダンに解説して貰ったことだけは覚えているのだが、誰もその内容を記憶していない。宗匠が質問すれば、勿論ドクトルはちゃんと知っているから説明してくれる。
     大関力士碑、巨人力士身長碑。「秋田は清国くらいしかいないのよね。」「玉錦がいる。」「えーっ、知らないわ。」これは私の間違いで、玉錦は二所ノ関部屋所属だった。「違った、照国。」「それなら聞いたことがあるかも知れない」とプリンが記憶を辿る。サンデーは全く記憶にないという顔をする。「横綱になったの。」「横綱になった。清国の師匠、伊勢ケ濱だよ。」秋田の相撲取りで横綱になったのは照国だけだろう。御隣の青森とは随分違う。「秋田の男は頑張らないんだよ。」
     相撲とは違うが、内藤湖南(角館・南部藩)、狩野亨吉(佐竹の大館支藩)など秋田にも一流の人物がいない訳ではない。しかし全て秋田の中心を外れた場所から出た。秋田市出身の偉人と言えば東海林太郎くらいではないだろうか。
     「弾正橋に行きましょうか」と講釈師に声をかけた。実は下見をしていないので正確な場所を忘れてしまったのだ。「こっちだよ」。と講釈師が先導してくれると、赤い鉄橋が現れた。「明治十一年に作られた」と講釈師が断言する。「えーっ、本当なの。」「ホントだよ、俺はいつだってホントのことしか言わないよ。」私は講釈師が秘密の手帳を見ていたのを知っているから信用する。出まかせも多いが、時には本当のことを言う。
     「ダンジョウってどういう字を書くの。」「弾丸のダンに正しい。」今では八幡橋と名づけられているが、元は中央区の楓川の最下流に架けられていた弾正橋である。明治十一年、工部省赤羽製作所が製作した国産の鉄橋だ。関東大震災後に廃橋とされ、昭和四年にここに移設された。「この下は川だったんだ。」その八幡堀は埋め立てられ、遊歩道の上を橋が跨ぐ形になっている。

    ・・・・アーチ材を鋳鉄製、引張材は錬鉄製という鋳錬混合の独特な構造手法で施工してあり、鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁史上においても、技術史上においても非常に価値の高い橋である。

     「フーン。」「国の重要文化財なんですね。」こういう説明を見ても、理解できる人間は誰もいない。かつてあった場所を私は正確には知らなかった。調べてみると、鍛治橋通りを東京駅南口から八丁堀方面に向かい、宝町を過ぎた辺りにあったようだ。近くに島田弾正の屋敷があったことに因む。
     「弾正って苗字だったの。」「名前でしょうね。」サンデーとマリオが話しているのが聞こえた。正確に言うと官名である。二代目南町奉行を勤めた島田弾正少弼利正のことである(と思う)。島田利正が弾正台の少弼に任命されたということになる。律令の規定では、弾正台とは官僚の綱紀粛正、違法摘発を職とする役所である。長官(カミ)は尹(イン・従三位相当)、次官(スケ)に大弼(ダイヒツ・従四位下)と少弼(ショウヒツ・従五位下)、三等官(ジョウ)に大忠(正六位上)、小忠(正六位下)がいることになっている。
     しかし江戸の官名や受領名は実際とは関係なく、殆ど適当につけられたとしか思えない。例えば井伊直弼の職名「掃部頭」は掃部寮の長官である。掃部寮とは宮廷行事の設営や掃除を担当する役所だ。そのまま信じれば、井伊大老は清掃局の局長だったことになる。一度これに任命されると、原則として職名も世襲する。だから彦根藩主の伊井家は代々掃部頭を名乗る。

     そこに携帯電話が鳴った。スナフキンだ。「どこにいるの。」「桃太郎と一緒に反省会の場所を探してた。戻ってきたら誰もいないんだ。今、伊能忠敬のところだよ。」随分手回しが良い。「それじゃそこで待っててよ。今いく。」そしてまた電話が鳴った。今度はダンディだ。能楽が終わってこちらに向かうという。それでは門前仲町に着いたらまた連絡してくれるように頼む。
     初参加の二人も反省会に出席してくれることになった。「反省会って、今日のコースを復習して問題なんか出されたらイヤだよ。」そんなことはしない。プリンは、電話で炊飯器のスイッチの入れ方を教えている。私だって飯の炊き方ぐらいは知っているぞ。「私の分も用意しててね」と言っている。信じられないね。
     スナフキンが探したのは別の店だったが、宗匠が是非行こうと言うので、向かったのは魚三である。「開店前に並べば大丈夫だよ。」今は四時ちょっと前で、店の前にはもう長い行列ができている。「無理じゃないの、これじゃ。」「大丈夫、四階まであるからね。」ホントかね。「安くて旨いの。」宗匠は何度か来たことがあるらしい。

      居酒屋の行列長し春の夕  蜻蛉

     「エーッ、こんなに並ぶの。珍しい経験だわ。この地図のどこになるかしら。」「ここだね。」私たちの後ろにもすぐに人が並んでくる。四時になり行列が少しづつ動き出した。ようやく店内に入るとが一階は既に満席、狭い階段を上がると二階もダメだ。「えーっ、まだ上るんですか。」姫は膝が痛いのだ。三階のドアは閉ざされていて「満席」の札が掛けられていた。ここで行列が止まった。宗匠が一番上まで行っているようだが動きがない。「ダメだろう、外に出ようよ。」
     入れたとしてもザワザワして落ち着かない。そもそも私が行列する店が嫌いなのは知っているじゃないか。さっきスナフキンが探し当てた店に行く。「居酒屋栄」である。「やってますか。」やや躊躇した主人が、「いいですよ」と返答したので店に入った。「まだ飲み物しか出せないけど。」取り敢えずビールが飲めれば良い。反省会に十三人も参加したのも珍しい。
     「ホントは何時からなの。」「五時です。でも四時半になれば手伝いが来るから。」サンデーと碁聖はウーロン茶、他は生ビールである。「飲めそうな顔なのにウーロン茶か」とスナフキンが囁く。手伝いの人が来れば料理もでる。取り敢えず、初参加の二人のために、全員に自己紹介してもらう。一度で覚えられる筈はないが、取り敢えず話題にはなる。それが終わった所にちょうどダンディも到着した。
     「久し振りだから珍しいものを用意してきた。」和尚が芸を披露するという。「芸っていうか、手品ですよ。」最初はトランプだ。「普通のトランプですよね。何の変哲もない。」一枚を引き抜かせて、適当なところに入れさせる。ハンカチをかぶせて指を鳴らせば、なんとそれが一番上になっているではないか。こんなに近くで見ているのにタネが分からない。
     「このためにコップを買ってきたの。」紙コップ二つに水を入れ、ハンカチを被せ、指を鳴らす。「音が出ないけどね。」ハンカチを取る。「こっちは水がありますよね。」勿論ある。「こっちは」と言いながらスナフキンの頭の上でコップを逆さにした。「あれっ。」不思議な術である。老人ホームでのボランティア芸だという。「ギターと歌ばっかりじゃ間が持てないから覚えたんですよ。」スゴイ。
     サンデーは五時半頃に帰っていった。一時間だけと言っていたから、予定よりは長く滞在したことになる。焼酎を二本開けたところでお開きだ。二千九百円也。
     「カラオケ行かないんですか。」姫は当然のように訊ねてくるが、なんだか今日は疲れてしまって歌わずにまっすぐ帰ることにする。ゴメンネ。

     本日、宗匠の万歩計で一万六千歩。結局、十キロをちょっと超えたようだ。

    蜻蛉