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    第四十六回  品川  平成二十五年五月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.05.19

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     旧暦四月二日。昨日はもう夏かと思うような暑い日で、夜になって少し雨が降った。今年は五月五日が立夏だったから、もう夏と言ってもおかしくない。ただ今年は春があっという間に過ぎてしまって、なんとなく慌ただしい。
     天気予報では確実に雨が降ることになっているので、折り畳み傘を持って行くことにした。「半袖で大丈夫なの」と妻が声をかけてくるが、大丈夫、念のために長袖シャツも放り込んである。こういう季節には何を着たらよいのか本当に迷う。
     その予報のせいもあってか参加者は少ない。プリンが参加する筈だったが、雨だからやめたと連絡が入っている。普通の人は雨の日には歩かないのだろう。普通でないのはあんみつ姫、ハイジ、碁聖、講釈師、ダンディ、ドクトル、桃太郎、スナフキン、蜻蛉の九人だった。今日の参加者は全員、「雨天結構」という姫の合言葉に従っているのだ。宗匠とロダンは所用で欠席だ。
     品川駅中央口である。西側は港区高輪三丁目、東側は港区港南二丁目で、それなのに品川駅を名乗っているのは誰でも納得がいかない。明治初期の行政区画は混乱していて、駅の建設が決められた時ここは品川県だったと言うのが理由だ。品川県の範囲はかなり広く、現在の品川、世田谷、目黒、渋谷、杉並、中野、大田に加え、新宿の一部と多摩の大部分を含んでいた。
     しかし品川駅が完成した明治五年(一八七二)一月には既に品川県は消滅していた。ここは芝区の最南端となって、現在の品川区の全域は荏原郡に戻された。ただ高輪の大木戸を過ぎれば江戸の外で、一般にはこの辺りまで品川の範囲に入ると考えられていたのではあるまいか。

     一八六九年(明治二年)二月九日、武蔵知県事・古賀定雄の管轄区域をもって品川県が設置された。県名は、県庁を荏原郡北品川宿の東海寺境内(現品川区北品川三丁目十一番九号)に置く予定だったことによるが、実際には暫定的に東京府浜町の旧旗本・小笠原弥八郎邸(現東京都中央区日本橋浜町二丁目九番付近)に置かれ、品川への移転準備が完了する前に県が廃止された。東京府(第一次)や韮山県、川越藩などとの管轄区域の交換を経て、主に東京の南郊から西郊を管轄した。
     一八七一年(明治四年)七月十四日の廃藩置県を経て、同年十一月十四日に第一次府県統合により東京府(第一次)および小菅県と合併して東京府(第二次)となり、新座郡・入間郡内の管轄区域は入間県に移管された。(ウィキペディアより)

     「品川はいつも人が多いな。」「平日はもっと多いよ。」数年前まで、川崎まで行くのに乗り換えるので何度も通ったことはあるが、改札の外には余り出たことがない。「もう降り出したのかな。」駅に続々とやって来る乗客の姿を見ると、開いていた傘をすぼめながら改札に向かっているようだ。半袖のTシャツだけでは寒そうなので、長袖を着こんだ。
     「反省会はどうしますか。」「品川にはあんまりないよ。」朝から酒に思いを馳せるひとたちは、既にアルコール中毒と言っても良いのではなかろうか。しかし残念ながら今日は反省会に出られない。
     高輪口に出ればやはり小雨が降っている。土曜日なのに人通りの多い第一京浜を渡る。傘を差して人混みの中を歩くのは少し疲れる。「だけど、たまには雨も良いじゃないですか」と碁聖は達観している。この会では一年以上雨に降られていないから本当に久しぶりだ。南に向かって何分も行かないうちに、右手のビルの間に挟まれた高山稲荷に着いた。港区高輪四丁目十番二三号。

    当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。(由緒より)

     現在では分かり難いが、二百数十段の石段なら少なくとも五十メートル程にはなるだろう。相当高い場所だった。江戸時代にはすぐ東に海岸線が広がり、晴れた日には房総半島も一望できた。
     創建年代は不詳だがおよそ五百年前に建立されたとされるから、まだ徳川氏がやって来る前である。さっきも述べたように、ここも広く品川の一部と考えて良いだろう。品川湊は浅草、江戸前島近辺と並んで、武蔵国の物流を担う重要な湊として、中世以来栄えたところであった。だから東京では珍しく古い神社や寺がある。
     徳川氏以前の江戸については、かつてはうら寂れた寒村だったというイメージが持たれていたが、湊を中心として伊勢や熊野と往来があり、また北関東の物資を中継する重要な拠点だった。だから太田道灌は江戸城に拠ったのである。府中(武蔵国府)との間に品川道が通っていたことも、交通の要衝だったことを示すだろう。これは千意さんの案内で府中を歩いた時に知った。

     中世の品川のまちは、大井・品河氏の開発後、南北品川を中心に発展し、鎌倉府の保護の下に、武士や商人を壇越とする寺社が軒を連ね、宗教者、商人、職人、漁業や海運に関わる人々など、多くの住人が集住する都市的な場が形成された。港の繁栄を背景に、禅宗・浄土宗・時宗・日蓮宗など鎌倉新仏教の寺院が競って進出した。(中略)
     幕末の台場築造に伴う土取りの際に、十四世紀後半~十五世紀前半を画期とする板碑が、五輪塔・宝筐印塔・人骨とともに見つかった。(品川歴史館解説シート「中世品川のにぎわい」)

     明治初期には毛利家から広大な土地の寄進を受け、眺望が良かったので明治天皇が立ち寄ったとも言われるから格は高かったと思われる。国道拡幅のために参道を削られて現在の姿になった。社殿は平成元年に改修したものである。狛犬の台座には「慶応元丑年九月吉日」と彫られている。
     狭い境内左の小さな祠には「おしゃもじ様」を祀っている。「おしゃもじ様ってなんだい。」何度か書いているが、これは石神信仰である。シャグジン、シャクジが杓子、しゃもじに訛った。ただ本来はここではなく石神社に安置されていて、それに因んでその町を石神横町と呼んだ。おそらく明治の神社合祀政策によってここに移されたのだと思われる。

    石神の社 同所高輪南町、鹿児島・久留米両侯の間の小路を入りて、西の方二丁ばかりにあり。祭神詳らかならず。同所天台宗安泰寺の持ちなり。昔は遮軍神に作るとなり。・・・・この地を石神横町と字するは、この社あるゆゑなり。土人誤りて、おしやもじ横町と唱ふ。(『江戸名所図会』)

     しかし元々は切支丹灯篭であった。竿の部分に聖人像が刻まれているのが特徴で、ここにあるのは笠と火袋の部分がなくなってしまったものだ。三田にある元和の切支丹殉難碑にはこの会でも二度ほど行ったことがあるから、覚えている人もいるだろう。その殉難者を弔って造られたのではないかという説がある。そう言えば、目黒にも大鳥神社に一基と大聖院に三基の切支丹灯篭がある。いずれも三田千代が崎の島原藩下屋敷にあったものだから、これも同じ意図で造られたものかも知れない。後に元和のことは忘れ去られ、切支丹のことなど何も知らない庶民が石神として崇めたものだろう。因みに『江戸名所図会』に石神のことは書かれているが、この高山稲荷の記事はない。
     南に下って新八つ山橋の右手に長く続く石垣に沿って歩く。明治四十一年に完成し、岩崎彌之助が最晩年を過ごした高輪邸、三菱開東閣である。港区高輪四丁目二十五番三三号。一万一千二百坪の広大な土地は元は伊藤博文の屋敷地で、明治二十二年に彌之助が価格十万円で譲り受けたものだ。門の前に立ち、「一般公開してないんですもの。ここから何か少しでも見えるかと思ったのに、木に遮られて何も見えないんです」と姫が嘆く。ロータリーの奥に建物らしい影が見えるが、高く生い茂った樹木に遮られて良く分からない。建物の設計はジョサイア・コンドルである。
     「三菱の迎賓館ですよ。私は招待されて入ったことがある。」最初は海が一望できる別荘のように使われたのではないだろうか。「貯金が百万円あるけど、招待されないかな。」桃太郎は招待されたいか。個人で招待されるためには億の単位の預金が必要だろうネ。しかし時には支店の優良顧客を招待することがあるようだから、全く可能性がない訳ではない。手っ取り早いのは三菱の重役とお友達になってしまうことだろう。頑張ってほしい。
     交差点の赤信号を無視して渡って顰蹙を買った。「そこに交番がありますよ。」それは気付かなかった。確認すれば御殿山交番前交差点である。次の角から左の住宅地に入り、一軒の洋館の前で姫が立ち止まった。「吉川英治が住んでいたお家です。今は別の人が住んでいますから、静かにしてくださいね。」確かに表札には見知らぬ名前が書いてある。

    戦時中、吉川英治は西多摩郡吉野村(現青梅市柚木町の吉川英治記念舘)に疎開していましたが、昭和二十八年(一九五三)に、子どもたちの進学・通学のため品川区の御殿山(現北品川五丁目)の洋風建築の家に移転しています。この家は昭和八年(一九三三)に、建築道楽といわれた人が粋をこらして造った豪邸で、内部には、ステンドグラスや一階と二階の問で声を伝える仕掛けなどもあったようです。英治は、昭和三二年(一九五七)までの三年余をこの御殿山に住み、その問、品川区文化人クラブの会長をつとめています。また、昭和二五年(一九五〇)に書きはじめた大作『新平家物語』を完成させるとともに、多くの随筆も発表するなど、作家としての円熱期をこの地で過ごしたといえます。この御殿山の旧宅は、今も当時の姿のまま残っています。
    (東京紅團http://www.tokyo-kurenaidan.com/eiji.htm)

     「吉野には行ったことがある」と講釈師が鼻を動めかす。吉野村、現在の青梅市柚木町にある吉川英治記念館のことだ。自ら草思堂と名付け相当に愛着を持っていたらしい。私は行ったことがない。
     「吉川英治が建てたのかな。」「そうかも知れないね。」しかしどうやら違って、昭和モダンの建物を借りたのであった。個人の家だから住所を明記するわけにはいかないが、一本東の小路には原六郎の美術館がある。この記事では、ここで『新平家物語』を完成させたことになっているが、昭和二十七年から三十七年までは熱海に別荘を持っていたから、主な執筆場所は熱海だったかも知れない。
     僅か三年しか住まなかったのは賃貸契約が切れたからだが、実はそんなに住み心地は良くなかったのではあるまいか。三十二年五月から翌三十三年六月までは渋谷区松濤に家を借り、赤坂新坂町の新居完成を待ち切れずに転居している。
     今考えてみると、私の中学時代の教養は案外吉川英治に負っていたのかも知れない。父の本棚には吉川英治がほとんど全て揃っていたから、三国志も水滸伝も平家も太平記も太閤記も、最初はみな彼のもので読んだのだ。勿論『宮本武蔵』もそうである。
     それなのにずっと長い間、私が吉川英治を軽く見ていたのは、大衆文学を認めなかった近代文学批評の悪影響を受けていたのである。その代表は平野謙だろうか。昭和文学史を、私小説とプロレタリア文学とモダニズム派の三派鼎立と捉えた平野の視点には、大衆文学は入ってこなかった。まともに大衆文学を論じたのは尾崎秀樹『大衆文学』が最初だったのではないか。それと佐藤忠男『長谷川伸論』は大衆文学の最良のものを教えてくれた。
     今では到底読むに堪えないものもあるが、しかし大衆文学において吉川英治の影響は圧倒的であった。菊田一夫の『君の名は』だって、武蔵とお通のすれ違いのメロドラマの変奏曲にすぎないと言えば言えるのだし、時代小説でいえば柴田錬三郎『運命峠』(シバレンの中では一番好きだ)もそうだろう。
     その後何人もの作家が吉川「武蔵」を超えるべく様々な作品を書いた。山本周五郎『よじょう』、小山勝清『それからの武蔵』、司馬遼太郎『真説宮本武蔵』、藤沢周平『決闘の辻』など、他にも探せばあるだろう。しかし一般にイメージされる武蔵は、吉川英治が描き、それをもとに映画になった武蔵である。

     適当な角を右に曲がれば、右手の大きな敷地の塀にはミャンマー大使館の金色のプレートが光る。品川区北品川四丁目八番二六号。「こんな一等地にあるんだな。ミャンマーは金があるのかな。」「ここは山手線の外側だからね。」大国の大使館はほぼ山手線の内側にある。一等地とは言っても土地の格は違うだろうと勝手に考えたのは私の間違いであった。ここは正に一等地だったのである。
     少し行くと左には御殿山ガーデンが広がっている。かつて、北側の岩崎の敷地に隣り合って原六郎の屋敷が占めていた場所で、一画に今でも原美術館が建っている。原については詳しくないが、第百国立銀行頭取、東京貯蓄銀行頭取を務め、破綻の危機に陥っていた横浜正金銀行を再興した。金融のプロである。西郷従道からこの地を譲り受けた。
     因みにその南側のミャンマー大使館も含む広大な土地は、三井の益田鈍翁(孝)の屋敷だった。大山巌と山川捨松が益田の仲介で見合いをしたのがこの屋敷である。捨松と一緒に留学した瓜生(旧姓永井)繁子が益田孝の実妹だった縁によるだろうか。
     これがかつての御殿山一帯である。今では想像するしかないが、御殿山は江戸随一の行楽地であった。

     このところは海に臨める丘山にして数千歩の芝生たり。ことさら寛文の頃、和州吉野山の桜の苗を植ゑさせたまひ、春時爛漫として、もつとも壮観たり。弥生の花盛りには雲とまがひ雪と乱れて、花の香は遠く浦風に吹き送りて、磯菜摘む海人の袂を襲ふ。樽の前に酔ひを進むる春風は枝を鳴らさず、鶯の囀りも太平を奏するに似たり。(『江戸名所図会』)

     その名所が、幕末には外国公使館用地に割り当てられた。しかし英国公使館は高杉晋作、志道聞太(井上馨)、久坂玄瑞、山尾庸三、品川弥次郎等によって焼き打ちされる。台場建設用の土を採るため南側の斜面が削り取られ、やがて明治五年の鉄道開通によって南北に連なる切通しとなって、御殿山は最終的に消滅した。そして明治ブルジョアの屋敷地に変貌したのである。
     東海道線の跨線橋を渡り第一京浜に突き当たると、正面の京浜急行の線路の向こう側に銭湯の高い煙突が立っている。「お風呂があるよ。」「銭湯、いいですね。」講釈師は風呂と言えば血が騒ぐのである。白い煙突には「吹上湯」とある。「鯨が上がったからかしら。」後で鯨塚に行くことになっているのだが、それがこの銭湯の名前と関係しているかどうかは分からない。
     「この左の角はなんだろう。学校みたいだな。」地図を開いて品川女子学院だと確認していると、ダンディはわざわざ看板を見に行って、「品川女子学院って書いてある」と戻って来た。女学校があると真剣になる。
     この学校は大正十四年(一九二五)、漆雅子によって荏原女子技芸伝習所として創立され、昭和四年に品川高等女学校、昭和二十三年の学制改革で品川高等学校となった。しかし人気がなく、八十年代には廃校寸前にまで落ち込んでいたという。
     そこに、二〇〇六年に六代目校長として就任したのが、創立者の曾孫になる漆紫穂子であった。校名を品川女子学院に変更し、さまざまな改革を行った結果、十年経たないうちに偏差値は二十以上も上がり、応募者も六十倍になったと言う。偏差値を二十も上げると言うのはただごとではなく、私学経営者にとってはカリスマとも言うべき存在である。漆紫穂子が更にスゴイのは、去年五十一歳で百五十四キロのトライアスロンを完走したということだ。水泳四キロ、自転車百二十キロ、ラン三十キロですよ。
     旧東海道に入ると雨は一時止んだようだ。街路灯の柱には「北品川本通商店街」とある。左に入る狭い路地を抜け、八つ山通りに出る。姫は少し先の信号まで歩いて行くが、車はそんなに多くない。「大丈夫じゃないか」と車が途切れたところで渡った。「また勝手な行動をとるやつが。」「そこに交番があるのに。」警官は欠伸をしていた。
     渡ったところが利田(かがた)神社だ。品川区東品川一丁目七番一七号。利田と書いて「かがた」とは知らなければ読めない。安永から天保にかけて、南品川の名主利田吉左衛門が開発した九千坪の新地、利田新田に因む。しかし元は東海寺の沢庵が弁財天を勧請した場所で、当時は洲崎弁天と呼ばれた。拝殿の提灯には「福寿弁財天社」とちゃんと書いてある。
     ここは目黒川の河口に突き出た場所で洲崎と呼ばれた地である。洲崎と言えば、普通には根津遊郭を移転した深川洲崎を思い浮かべるだろうが、歌川広重が「名所江戸百景」に描いた洲崎は二つある。「品川すさき」がここであり、「深川洲崎十万坪」が深川の方になる。門柱には「魚がし」と浮き彫りにされているから、この辺に漁師町があり魚河岸があったことが分かる。
     「おーっ、クジラじゃないか。」神社脇の小さな公園には、地面から首を突き出したクジラの遊具が設置されている。境内の鯨塚は高さ一メートルもない三角の石を置いたもので、脇にその由来を説明した碑が二つ建っている。

    鯨塚乃由来
    鯨碑
    武州荏原郡品川浦 天王洲漁人等建之
    鯨鯢ハ魚中ノ王 本邦西南ノ海ニ多ク東北ノ海ニ少ナリ
    今年仲夏甲子ノ日 始子品川天王洲 舟ヲ以テ囲ミ矛ヲ以テ刺 直ニ廳事ニ訴フ
    衆人コレヲ聞テ コレヲ見ント 数日群集ス
    諺ニ此魚ヲ獲時ハ七郷富潤フトフ
    漁長ニ代ッテ祭之詞 玉池一陽井 素外
     江戸に鳴
     冥加やたかし
     なつ鯨
    寛政十年戌午夏
    華渓稲貞隆書

     句の作者一陽井素外は、建部綾足門から江戸談林派の小菅蒼孤門に移って、江戸談林派七世を継いだ人である。芭蕉の存在が余りにも大きくて、談林派なんて今では関心を持つ人もいないのではないだろうか。
     寛政十年(一七九八)五月一日、ここに鯨が上がったのである。体長九間一尺(約一六・五メートル)、高さ六尺八寸(約二メートル)という。歌川芳藤「品川くじらの図」、勝川春亭「品川沖之鯨 高輪ヨリ見ル図」がある。

    五月三日、十一代将軍家斉の希望により多くの小舟にくくりつけたる鯨を浜御殿に曳航、家斉これを同庭園にて見る。鯨はやがて腐り始めし故、解体。品川宿内洲崎弁天(現利田神社)境内に埋め、鯨塚と大書せし碑を立つ。(『武江年表』今井金吾追記)

     その後、文政三年(一八二〇)には三間半(約六・三メートル)と二間半(約四・五メートル)のシャチ二頭が捕らえられた。また文政五年(一八二二)には長さ二十メートルの鯨を捕獲した記録も残っている。鯨が江戸湾に入り込むのは非常に稀なことだが、ないことではなかったのである。江戸の頃、鯨はどのようにして食われたか。

     流通の常で生産地の周辺地域に広く消費される傾向にあるが、大坂など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在する。京都では「鯨の吸い物」が食べられているのを井原西鶴が著書の中で紹介している。十返舎一九も東海道中膝栗毛のなかで大坂の淀川で「鯨の煮付け」を紹介している。高知県では土佐藩の高知城下を中心に数々の鯨料理が伝承されており、特に「はりはり鍋」は代表的な物の一つである。江戸城下では鯨肉を素材に調理した「鯨鍋」や「みそ汁」や「澄まし汁」などが食され、「ホリホリ」「鯨のし」などと称した頭部の軟骨を加工した珍味も売られていた。全体的な傾向としてはシロデモノと総称された皮下脂肪や尾羽が好まれ、尾の身も高級品とされていたが、赤肉については房総半島の一部などを除くとあまり歓迎はされなかったようである。
     行事などと結びついた料理も生まれた。江戸を含め日本各地で十二月十三日の煤払いの後は「鯨汁」を食べる習慣が広まり、その様子は沢山の川柳の記述や物売りが鯨肉を扱っていた記録が残されている。秋田でも鍋物としては珍しく夏の暑気払いとして「鯨貝焼」という鯨のしょっつる鍋が江戸時代から食されており、夏場になると五艘程度の小舟の船団で鯨漁に出ていた記録が残されている。そして明治開拓以降の北海道の日本海側各地で正月料理として鯨汁が食されるのは、秋田藩を中心とした東北の人々が移り住んだ名残といわれている。北海道のアイヌ民族の鯨食は江戸時代よりも古いとされる。同じく夏の土用の食べ物としていた地域は多く、九州の農村では土用に備えて各戸で一樽ずつもの皮の塩漬けを作る地域もあった。塩蔵すれば魚類よりも長期間の保存・輸送に耐えることを活かして、少量は各地に輸送され、一般の海魚の運ばれない山村等で正月などハレ(晴れの席)の料理に供されていた例もある。(ウィキペディア「鯨肉」より)

     骨は簪や根付などの装身具や印鑑等に加工された。江戸人は鯨を活用していたのである。それにしても冷凍技術も輸送手段も幼稚な時代に、秋田まで齎されたと言うのが不思議だ。鯨貝焼(カヤキ)なんて食べたこともないが、そんなものがあったから、それが自然に豚肉を使った肉カヤキに変わっていったのだろう。子供の頃には学校給食の竜田揚げや缶詰の大和煮を食べた。学生時代には新宿の安い飲み屋で鯨カツを食ったことがある。あの頃は安い食いものの代名詞だったが、今では高級料理になってしまったろうか。
     台場小学校の角には、台場の石を三段ほど積み、品川灯台のミニチュアを建てた碑がある。御殿山下台場(砲台)跡である。「大砲を置いたんだろう。」「だから砲台場ですよ。」「大砲は佐賀藩の技術で造られました。」「宗匠の国ですね。」
     幕末の佐賀藩は、十代藩主鍋島直正(閑叟)によって当時日本最先端の科学技術を擁していた。嘉永二年(一八四九)には製鉄所を造り、嘉永五年(一九五二)には反射炉を造った。当時の技術者に田中久重がいて、蒸気機関車や蒸気船の製造も試みていた。田中久重は本来久留米の人だが、閑叟に招聘されたのである。田中久重の名より、からくり儀右衛門の方が通りやすいか。儀右衛門は明治になって田中製造所を起こした。その死後、養子の田中大吉(二代久重)のとき会社を芝浦に移転し芝浦製作所を名乗る。これが東芝の前身である。
     嘉永六年のペリー来航後、幕府は再度の来航に備えて十一基の台場を等間隔に設置する筈だった。江川英龍(太郎左衛門)が指揮をとり、八つ山や御殿山を切り崩して埋め立ての土を確保した。第一から第三、第五、第六が完成したが、第四は途中で断念し、その代わりに御殿山下に造られたのがここである。第七以降は着手もできなかった。結局佐賀藩が製造した大砲は一度も活躍することなく開国を迎えることになる。

     もう一度旧街道へ戻る。また雨が落ちて来た。品海公園の入り口には品川宿の松が植えられ、新しい道標が立っている。川崎宿へ二里半、日本橋より二里。
     「女が千人もいたんだよ。」「それは茶屋女みたいなものかい。」「そうじゃないよ。宿場女郎だよ。」講釈師の説明はいつも言葉が少し足りない。飯盛女と呼ぶ。江戸で官許の遊郭は吉原しかなく、幕府法制ではそれ以外に遊女はおけない。そこで飯の給仕をするという名目で女を置いた。公認の遊郭に対して岡場所と呼ぶ。
     宿場の第一義の任務は人馬継立て、輸送である。公用の旅行者に対しては無償で人馬を提供しなければならない。公用以外の旅には重量に応じて運賃などが定められたが、重量を過少申告する大名行列が多く、大抵の場合は費用持ち出しになり、宿場の経営はかなり苦しかった。それを救済するのがこの飯盛女であった。飯盛女がいなければ、江戸まで二里のこの場所で宿泊する者などいなかっただろう。
     当然そんなことは幕府も分かっているから、宿場からの度重なる申請によって、明和九年(一七五二)には、品川宿に五百人、内藤新宿に二百五十人、千住、板橋にそれぞれ百五十人に限って飯盛女を認めた。いったん認められれば人数制限なんか守られる筈がない。
     品川宿は南北に十九町四十間(約二・一五キロ)。天保十四年(一八四三)の記録で、家数は一五六一軒、男六八九〇人、女が三六一八人いた。そこに食売旅籠屋が九十二軒(飯盛り女を置く店)、水茶屋六十四軒、平旅籠屋十九軒、煮売渡世四十四軒、餅菓子屋十六軒、蕎麦屋九軒など、総数六百一軒の店があった。つまり、旅籠の総数百十一軒の八十二パーセントが売春宿であった。
     しかし建前上はモグリの私娼であって、岡場所が繁昌し過ぎて吉原の客が少なくなれば、摘発しなければならない。天保十五年(一八四四)の道中奉行の摘発で、品川宿では一三八四人の飯盛女が捕えられた。決められた人数の三倍弱にも膨れ上がっていた訳だ。
     「熊五郎が大山詣りで坊主にされたのもここでしょう。」碁聖は落語も好きである。「そうでしょう。大山石尊権現に詣でたあとは江ノ島で遊んで、江戸にもどる最後の夜に品川で遊ぶのが習わしです。」「精進落としだよ。」しかしこれは私たちが勘違いしていた。落語の「大山詣り」は品川宿ではなく神奈川宿のことである。品川ならば『居残り左平次』や『品川心中』が有名だ。
     江戸人にとって遊郭や食売旅籠はひとつの文化だったが、手放しでそう言い切って済ますわけにはいかないのは、私たちが既に人権というものを知ったからである。花魁や女郎の背後には、相次ぐ飢饉や商品経済の発展によって疲弊した農村と身売りが存在した。娘たちがどれほど安い金で売り払われたか、第十二回「東海道品川宿・大森貝塚編」に宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』を引用したことがある。そして江戸時代だけでなく、昭和初期までその状況は変わらなかった。

     ざん壕で読む妹を売る手紙    鶴彬
     玉の井に模範女工のなれの果て  同

     こんなことを改まって言わなければならないのは、橋下徹のせいである。政治家のことは余り話題にしたくないが、余りにも酷い。従軍慰安婦や沖縄の問題に絡んで、米軍は「風俗業を活用」すれば良いなどと、阿呆も極まる発言をした。「風俗業」を公娼制度と勘違いしているのではないか。
     以前から薄々気付いてはいたが、ここに来て橋下の人権意識のレベルが露呈した。私だって偉そうなことは言えないが、売るのは勿論、買う方がもっと恥ずかしいことであり、橋下のように公の場で胸を張って主張することではない。勿論、過去と現代とではその事情は異なるし、貧困の故という比率は下がっただろうが売春は売春である。
     「この天麩羅屋さんでお昼にしようと思ったんですけど、まだ早いですよね。」十一時だ。ダンディとスナフキンは店がやっているかどうか覗きに行ったが、姫は別の場所に行くこと決めた。また雨が降ってきた。
     溜屋横町、慶応元年創業の履物の丸屋、虚空蔵横町。「あそこにコクゾウ様がいるんだよ。」講釈師は養願寺に寄り道したい素振りを見せるが姫は立ち止まらない。以前に寄っているからね。「あの時は暑い日でしたね」と碁聖が声を出す。品川宿を歩いたのは平成十九年八月のことだった。「江戸歩きも歴史があるのよね」とハイジが感に堪えたように呟く。
     姫が立ち寄ったのは豊盛山延命院一心寺(真言宗智山派)である。品川区北品川二丁目四番十八号。小さな山門を潜ると狭い境内の正面に本堂が建っている。安政二年(一八五四)井伊直弼の開山になり、翌三年に山村一心が成田山の不動明王を本尊として堂を建てたのが始まりという。火災に逢って明治八年に再興するとき、本堂は京都本願寺と同じ材料で造られたという。
     「焙烙灸を据えてみませんか。」頭に皿を載せ、その上で灸を燃やすものらしい。「これ以上頭が良くなっても困るよ。」
     「これってマンリョウかしら。」ハイジがしきりに首を捻っているのは確かにマンリョウに似た真っ赤な実だ。「だけど季節が違いすぎるのよね」と姫も不思議そうだ。そう言われれば、マンリョウの実は冬のものだろうね。謎である。
     次は本陣跡だ。品川区北品川二丁目七番二十一号。明治元年、明治天皇東幸の際に行在所となったので聖蹟公園になっている。「喫煙所がありますから少し休憩しましょう。」
     「石碑が一杯あるんですよ。」「あの銅像は誰だろう。」近づいてみると石井鐵太郎であるが私は知らない。「名前は聞いたことがあるんだけど、思い出せない」とダンディは言う。台座の側面に記された経歴を読めば、東京都社会福祉協議会会長を務め、品川名誉区民第一号になった人物である。少し離れて、半ズボン姿の新聞少年の像が建つ。「夜明けの像」というものだ。

     昭和二十四年に二宮尊徳像が建立されたが、昭和四十二年に石井鐵太郎[地元の社会活動家]によって、現在の子ども達が親しみやすい像ということで改めて新聞少年の像が贈られた。

     その時に二宮金次郎は撤去されたのだろう。金次郎に替えて新聞少年とは、石井さんはなかなかの人物かも知れない。年代を考えると山田太郎の『新聞少年』が流行したのが昭和四十年だったから、あるいは山田太郎のファンであったか。あの当時、貧しい中学生の新聞配達のアルバイトは時折見かけた。そんなに貧しくなくても、心身を鍛えるなんて称して親が勧めることもあった。
     しかしこれは児童労働を禁ずる労働基準法に抵触しないか。そんな疑問がネットに載っており、それに対する回答によれば、労働基準法第五十六条によって認められているという。知らなかったのでメモしておきたい。非工業的事業で、児童の健康および福祉に有害でなく、その労働が軽微なものは、所轄労働基準監督署長の許可を受けることにより、満十三歳以上の者を、その者の修学時間外に使用できる。(http://www.soumunomori.com/column/article/atc-799/より)

     初夏の雨新聞少年に出会ひたり   蜻蛉

     「これ配ってよ」と講釈師が煎餅の袋を取り出した。珍しいこともある。「今食べちゃ、お昼が食べられなくなっちゃいませんか。」姫は心配そうな声を出すが、煎餅の一枚くらい大丈夫だろう。「余っちゃった。」「持っててくれよ。」「じゃ、また後で配る。」
     山手通りを西に進めば区立品川図書館がある。「下見のときに寄っちゃいましたよ。洋書が充実してました。」姫は図書館が好きだ。私は図書館に関係した仕事をしている癖に、ほとんど図書館を利用することがない。叶わぬことではあるが、本はできるだけ手元に置きたい。
     第一京浜にぶつかるところが新馬場駅だ。なぜここに馬場の名があるのか。馬場があるような立地ではないだろう。しかし、しながわ観光協会の記事で理由が分かった。

    品川宿には幕府公用の旅人に対して一日当たり馬百匹、人足百人を無償で提供する義務があり、従事する馬小屋があったためつけられた地名です。(http://www.sinakan.jp/)

     北品川宿に北馬場、南品川宿に南馬場があり、京浜急行開通の明治三十七年には北馬場駅と南馬場駅が設けられた。昭和五十一年の高架化によって二つの駅が統合され、新馬場駅となったのである。
     「ここなんですけど。もうやってるわよね。」十一時二十分か、早めの昼食だ。「ここを過ぎると余りお店がないんです。」洋食屋はイタリア風なのかドイツ風なのか、私にはその辺の区別がまるでつかない。本日のランチはカツに難しい名前のチーズを載せたもので八百八十円。そのほかは千円を超す。七人がランチを選び、碁聖はオムカレーと称するもの、講釈師はカレーを注文した。
     「生ビールがあるね。」ダンディが張り紙を見つけて嬉しそうに言う。スナフキンの顔を窺うと飲んでも良さそうな雰囲気だ。私は特に飲みたい気分でもなかったが、お付き合いであれば飲むに吝かではない。桃太郎は勿論飲むに決まっているので、四人が中生ジョッキを注文した。ドクトルと姫はグラスビールを選ぶ。講釈師と碁聖が飲まないのは知っている。「ハイジは飲まないのかな。」「ダメ、歩けなくなっちゃう。」
     三の酉の時、入谷の「金太郎」(台東区千束三丁目)で一口飲んだだけで頬を真っ赤にしたハイジを見たことがある。「桃太郎がいるから大丈夫よ。」「肩車します。」つまみに柿の種とピーナツが小皿に出された。
     最初に碁聖のオムカレーの附録である野菜サラダが登場した。かなりのボリュームだ。「これだけでお腹が一杯になりそう。」次いで出て来たオムカレーは二人前ほどになりそうだ。「大丈夫ですよ、ダンディと桃太郎がいるから。」姫の言葉で、碁聖はさっきの小皿に四分の一ほどを分けて二人に渡した。
     講釈師のカレーには目玉焼きが載っている。「お子様向けじゃないの。」「カレーに目玉焼きは初めて見る」と外野の声が喧しいが、これも普通の一人前よりはかなり多い。ランチのカツは厚くて大きい。かなり大量にソースがかけてあり、チーズが載っている。私は普通のトンカツに和辛子を付けて、ちょっと醤油を垂らして食うのが一番美味いと思う。こういう洒落たものはあまり得意ではないが、一番安かったのだから仕方がない。
     「早い。もう食べ終わったんですか。」大抵一番先に食べ終わるのは私だ。好き嫌いを言えるような食べ方ではないね。「とても食べ切れないな。」ダンディが珍しくご飯を残した。「だってオムカレーも分担したからね。」姫は最初から全部食べきることを諦めている。「でもハイジは完食するのよね、エライワネ。」「出されたものは残しちゃいけないって、子供のころ散々言われたからね。」今の子供たちはこんなことは言われないだろう。腹が膨れて眠くなってきた。

     食事の途中で本降りになった雨も、店を出る頃には小降りになっている。目黒川を渡ると経王山本光寺だ。品川区南品川四丁目二番八号。『江戸名所図会』に、「経王山本光寺 南番場にあり」とある。その頃、馬場は番場とも表記されたのである。
     かつては六千五百坪の敷地があったというが、大正十一年には境内の真ん中を国道(第一京浜)が貫通し、大正十五年には目黒川の改修で墓地の中を川が貫通するなどの不運にあって、著しく縮小された。顕本法華宗単立というのが私には珍しい。十四世紀の南北朝時代の人、日什によって創始された。

     天台宗の学頭を長らく務めた玄妙(日什)が故郷の会津にて日蓮仏教に改宗、中山法華経寺で教学を学び、弘法活動の末、京都・妙満寺を総本山とする独立した勝劣派教団の開祖となった。明治維新後、教団の近代化が図られた際には日蓮宗妙満寺派と自称し、その後、後の管長となる本多日生・宗務総監によって現在の顕本法華宗の名に改められる。 一九四一年(昭和十六年)の三派合同によって本門宗とともに日蓮宗へ発展的に解消。戦後、妙満寺の伝統を守るために独立を主張する保守派と、日蓮宗に残留して内部改革をすべきと主張する改革派に分かれ、前者は当時の管長・中川日史らが独立し現在の顕本法華宗となり、後者は日蓮宗に残り日蓮宗什師会となった。(ウィキペディアより)

     境内にはヤマボウシが咲いている。ヤマボウシには雨が似合う。講釈師が頻りに「アメリカだよ、ハナミズキだよ」とドクトルに教えている。ドクトルはこれで分かっただろうか。ハナミズキは、尾崎行雄がアメリカに桜を贈った返礼に齎されたもので、ヤマボウシに似ているというのでアメリカヤマボウシと呼ばれたのである。どちらも同じミズキ科ヤマボウシ属である。
     私が判別する基準は簡単だ。白い花弁(実は苞)の先が丸くなっているのがハナミズキで、尖っているのがヤマボウシと覚えれば良い。しかしこれは花が咲いていないと区別がつかないので、専門家はもっと違う判定をするだろう。
     「白い花が咲くともう初夏ね。」ハイジが言う。暦の上ではちゃんと初夏だ。そうすると岡本敦郎のあの歌は初夏の別れということになる。

    白い花が咲いてた
    ふるさとの遠い夢の日
    さよならと云ったら
    黙ってうつむいてたお下げ髪
    悲しかったあの時の
    あの白い花だよ  (寺尾智沙作詞、田村しげる作曲『白い花の咲く頃』昭和二十五年)

     昭和二三十年代、男はこぞって故郷を捨て、初恋の少女と別れて東京に出て来たのだ。そして当時の少女は皆「お下げ髪」だったのか。少し時代が下がるが、佐々木新一『リンゴの花が咲いていた』(横井弘作詞、桜田誠一作曲・昭和四十一年)にも、「さようならさようなら/お下げの人は見えなくて/花だけ白い花だけ白い道だったよ」と歌われた。私の中学時代にもお下げの女の子は多かったが、残念なことにお下げの少女に恋をする機会がなかった。

     初夏の雨お下げの少女白い花  蜻蛉

     その隣には、小さな花が丸く密集して咲いている。ツツジの仲間だが、白に薄いピンクの筋が入った一つ一つの花はもっと平べったくて、モダンと言うか、日本の花のようではない。「アメリカなんとかって言うんだよ」とスナフキンに説明しようとしたが、その「なんとか」がなかなか思い出せない。記録をひっくり返して漸く思い出した。去年五月の里山ワンダリングで、東大和市駅前の東京薬用植物園に行った時に教えられた。アメリカシャクナゲ(カルミア)である。「この小さな金平糖みたいなやつは何だい。」「これが開くとこの花になるんだよ。」以前はあまり見掛けなかったと思うが、この頃割に目にする機会が多い。
     「海蔵寺にも行ってみますか。」「行こう。」「鈴が森で死罪になった人のお墓があるんですよ。それに遊女の無縁墓も。」品川区南品川四丁目四番二号。海蔵寺は時宗だ。深広山無涯院と号す。「時宗は珍しいよね」と桃太郎も言う。参道入り口に大きな石碑が建っている。「江戸時代無縁並首塚 関東大震災殃死者塚」。
     無縁首塚は、元は品川の溜牢で死んだ者の遺骨を埋葬した塚で、後には天保の飢饉の死者二百十五人、品川宿の女郎、鈴が森刑場の刑死者などを合わせて埋葬したものである。要するに無縁の死者を弔う投げ込み寺であった。「三ノ輪の浄閑寺のようなものですね。」塚の周囲を大小の地蔵で囲み、頂上に聖観音を安置している。どう言う訳か頭痛が治ると信仰された。江戸の庶民信仰は私には謎が多すぎる。
     墓地の真ん中に立つ釈迦如来坐像を載せた供養塔には、「大正癸亥震火大災殃死者霊供養」と記されている。「京浜鉄道轢死者の墓」もある。「そんなに轢かれたのかな。」この碑は大正四年に建てられたもので、京浜急行が営業を開始したのは明治三十二年(一八九九)一月である。最初は大師鉄道の名で、六郷橋から川崎大師まで約二キロだけを運行した。それから十六年の間に区間は伸びたものの、供養墓を建てるほどの轢死者がいたとはとても思えない。供養塔を建てるのが歴代住職の趣味なのではあるまいか。

     山法師無縁の墓に雨頻り  蜻蛉

     「神社の隣は別当寺。お寺の中の神社はなんて言うんですか。」ダンディがおかしなことを訊いてくるのは、境内にちゃんと鳥居を持った宝蔵稲荷があるからだ。特にこういうのを何と呼ぶか、私にも分からない。強いて呼べば境内社か。神仏混淆の名残であるのは間違いない。この稲荷神はダキニテンだというから、豊川稲荷と同じく仏教側に組み込んで良いのではないか。
     「これ、なんて言うんでしょうかね。」碁聖が気になっているのは、向拝の両端から途中にいくつも受け皿のようなものを繋いで下に垂らしているものである。「雨が一度に強く落ちないようにさ。」講釈師は簡単に済まそうとする。その用途は誰でも分かるが名前が分からないのだ。よく見るものなのに誰もその名前を知らない。「インターネットでどう質問すればいいのか分からないんですよ。」
     碁聖に代わってグーグルで「本堂」「雨どい」と入れて検索してみた。こうすると、八番目か九番目の記事から「鎖雨樋」に辿り着く。念のために今度は「鎖雨樋」を検索すると、別に鎖樋、鎖立(タテ)樋、鎖竪(タテ)樋と呼ぶと言うことが分かる。垂直に立てた樋を立樋、竪樋と呼ぶという基本的なことも、こんな風に調べなければ分からないのだから自分でもがっかりしてしまう。普通の竪樋ではパイプの中を流れるから水が見えない。その雨の流れ落ちるのを目で見て楽しもうという工夫だ。
     こんな具合にグーグルは実に便利な仕組みで、これがなければ私もこんな作文は書けなかった。しかし好い加減な記事や、何かの記事を批判もせずに貼り付けたものも多いから、注意が必要なことは言っておかなければならない。その記載の元になる典拠を明示しているかどうかが一つの基準になる。(こういうことを、最近では大学が学生に教えないといけないのだ。グーグルで最初にヒットしたものを、何も考えずにレポートに貼り付けて済ます学生が多いのである。)

     寺を出てすぐに馬頭観音の祠に出会った。三面の中央の頭の上の馬頭もはっきり分かって、こんなに綺麗なものは珍しい。「街道だから馬頭観音を祀るんだよ。」
     品川銀座と表示された道だが、「銀座」と名乗るほど商店が並んでいるわけでもない。「銀座を名乗ったのは戸越銀座がはじめだよ。」それは聞いたことがある。これがゼームス坂であった。「本来はジェームズでしょうね。明治風に訛ったんですよ。」「ゼームスじゃなくてトミーだったら、トミー坂か。」講釈師がおかしな感心の仕方をしている。「場合によっては講釈師坂って呼ばれたかも知れない。」

     JR大井町駅から第一京浜(国道一五号線)に出る道にあるこの坂は、もと浅間坂と呼ばれていて、非常に急な坂でした。明治時代、この坂下付近に住んでいたJ・M・ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修しました。それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになりました。
     J・M・ゼームス(一八三九~一九〇八)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治五年(一八七二)に海軍省に入って、測量調査や航海術の指導を行いました。生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあります。(品川区http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000001200/hpg000001181.htm)

     大した坂ではないが、これもゼームスが道路改修してくれた御蔭であろう。品川銀座のバス停留所を過ぎた辺りで「七〇メートル先を右に上がる」の案内板があった。右に曲がれば切り通しのような坂の途中の左に何かの碑があり、ダンディはそこに行ってしまう。「後で見ますから、最初にこちらに来てくださいね。」「ダメだよ、勝手な行動しちゃ。」しかし、そんなことは耳に入らない。
     右に上る石段の上の玄関前に、縦一五〇センチ、横八〇センチ程の黒御影の長方形の石碑が建っている。「この石が智恵子の身長と同じなんですよ。」『レモン哀歌』の碑であった。品川区南品川六丁目七番三〇号。碑の前には少し萎びかけたレモンが三つ供えられている。
     「梶井基次郎のレモンは爆発物だけどな」とスナフキンが笑う。「どうしてレモンなのかな。」「死ぬ間際にレモンを齧ったんだ。」「レモンを齧って、一瞬意識が正気に戻ったんですよ。」それでは詩を引いてみようか。

    そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
    かなしく白いあかるい死の床で
    私の手からとつた一つのレモンを
    あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
    トパアズいろの香気が立つ
    その数滴の天のものなるレモンの汁は
    ぱつとあなたの意識を正常にした
    あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
    わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
    あなたの咽喉に嵐はあるが
    かういふ命の瀬戸ぎはに
    智恵子はもとの智恵子となり
    生涯の愛を一瞬にかたむけた
    それからひと時
    昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
    あなたの機関はそれなり止まつた
    写真の前に挿した桜の花かげに
    すずしく光るレモンを今日も置かう (「レモン哀歌」『智恵子抄』より)

     智恵子はもっと若くして死んだのかと思っていた。「違うんですか。」桃太郎も同じ印象を持っていたようだ。「福島で智恵子の碑を見ましたよ。あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」と桃太郎は暗誦する。「俺はコロンビアローズの歌しか知らなかった。」

    東京の空灰色の空
    ほんとの空が見たいという
    拗ねてあまえた智恵子
    智恵子の声が
    ああ安達太良の山に
    今日も聞こえる (丘灯至夫作詞、戸塚三博作曲『智恵子抄』・昭和三十九年)

     私の知識はこんなものである。知らなければ誰だって若い女性を想像しないだろうか。同じような時期に『愛と死を見つめて』も流行ったから、それと一緒になって記憶した可能性がある。
     高村光太郎には昔から縁が薄かった。光太郎は強すぎるというのが、若い私の第一印象だった。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(『道程』)なんて、教科書で読まされてうんざりしていた。このフレーズだけしか覚えていず、全体がどんなふうになっていたかは全く覚えていない。その頃の私は、文学は弱者のためにあると思い込んでいたから、光太郎には近づかなかった。
     だから智恵子についても良く知らなかった。智恵子は明治十九年(一八八六)五月二十日に生まれ、昭和十三年(一九三八)十月五日に死んだ。満五十二歳である。「その頃なら、そんなに短命というほどでもないですよね。結婚生活も二十年以上あったんだね。」
     二人が一緒になったのは大正三年(一九一四)、智恵子は二十八歳、光太郎は三歳年上だ。昭和六年(一九三一)八月頃、智恵子(四十五歳)に統合失調症の最初の兆候が現れた。今では「統合失調症」と呼ぶが、当時は精神分裂症、もっと露骨に言えば狂気である。智恵子は時折、実に凶暴になった。昭和七年(一九三二)七月、睡眠薬による自殺未遂を起こす。昭和八年(一九三三)八月二十三日、同棲して十九年にして漸く正式に入籍した。昭和十年(一九三五)ゼームズ坂病院に入院。そして三年の入院の後、最終的には結核で息を引き取るのである。

    妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持って居り、私の精神は一にかかって彼女の存在そのものの上にあったので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さえ其の目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。(中略)
    ・・・・彼女はセザンヌに傾倒していて自然とその影響をうける事も強かった。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いていたが、勉強の部屋は別にしていた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかったので自虐に等しいと思われるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰って来た。その中の小品に相当に佳いものがあったので、彼女も文展に出品する気になって、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかった。自己の作品を公衆に展示する事によって何か内に鬱積するものを世に訴え、外に発散せしめる機会を得るという事も美術家には精神の助けとなるものだと思うのであるが、そういう事から自己を内に閉じこめてしまったのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指していたので何時でも自己に不満足であり、いつでも作品は未完成に終った。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争われなかった。その素描にはすばらしい力と優雅とを持っていたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかった。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流していた。(中略)
    互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓してしまう。そういう日々もかなり重なり、結局やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くというような事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が喰われる事になるのであった。詩歌のような仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思うが、造型美術だけは或る定まった時間の区劃が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思いやられるものであった。彼女はどんな事があっても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばい、私を雑用から防ごうと懸命に努力をした。(高村光太郎『智恵子の半生』)

     光太郎はこれが智恵子発病の原因だったと判断した。「青鞜」にも参加した新しき女が、夫のために己の芸術的な活動意欲を矯められたということだろう。それなら結婚すべきではなかった。ただ智恵子にどれだけの才能があったのかは、残された切り絵しか判断材料がない。
     さっきダンディが見に行った碑を見る。三越ゼームス坂マンションの説明プレートで、「ゼームス」の由来が記されていた。ここがゼームス氏の屋敷跡である。内容についてはさっき書いたから繰り返す必要はないだろう。ところで参考までに調べてみると、このマンションの七階の四三・三三平米の2DKで、家賃が十四万円である。私はとても住めない。
     ゼームス坂に戻る。マンション前に立つ木を眺めて、「これってエゴの木だよね」と桃太郎がハイジに訊いている。「そうね、エゴだわね。」地味だが可憐な白い小さな花が下を向いて咲いている。これもハイジの言う「白い花」である。
     坂を上りきり、ゼームス坂上に出ると真正面は賑やかなパチンコ屋だ。ここを左に曲がる。池上通りが斜めに交差する道を更に行くと、「仙台坂」と名乗るマンションが目立ってきた。「仙台藩の屋敷があったのかな。」「ここは江戸の外ですよ。」ダンディは朱引きの外に下屋敷があるのが不思議でしかたがない。しかし調べてみると、文政元年(一八一八)の朱引きでは、この辺は辛うじて朱引きの中に含まれる。
     私もダンディと同じでもう少し範囲は狭いと思っていたから、これはちょっと意外だった。ダンディと私は墨引きの線、町奉行支配地を御府内と思い込んでいたのかも知れない。墨引きでは、品川宿の手前で江戸は終わるが、朱引きでは品川宿全体を含んで大井町駅の北辺りまでになる。墨引きは町奉行支配、朱引きは寺社奉行支配である。
     大井村に薩摩藩、土佐藩、上大崎村に一橋家、松代藩、下大崎村に仙台藩、北品川に肥後宇土藩など、品川には二十七の大名下屋敷があったのである。東海道に近く、海の見える場所だったので別荘の性格を持っていたのではないかと品川区では推測している。
     坂の頂上辺りに、建物から張り出したガラス張りの部屋に、大きな樽を展示した店があった。仙台味噌の樽である。これは八木合名会社 仙台味噌醸造所「五風十雨」である。品川区東大井四丁目一番十号。「miso eveyday」なんてポスターが貼ってある。「英語ですよ。」味噌は英語でもミソと言うか。

     当社所在地(品川区東大井、昔は荏原郡大井村)は江戸時代、仙台、伊達藩の江戸下屋敷であった。伊達藩では備蓄食料確保の観点から寛永二年以来味噌蔵をもち、醸造を始めた。
     江戸在勤の士卒は当時三千名を数えたといわれ、それらの人々に与えるためにも味噌は必需品であった。当時の江戸の味噌は江戸甘であり、東北武士の口に合わなかったからである。 江戸時代も下って、末期になると自給自足のためばかりではなく、余ったものを一般にも販売するようになり、半ば商売としての性格も持つようになった。江戸市民は仙台の殿様のお屋敷で出来る味噌というので、仙台味噌と呼ぶようになった。安政年間に出た江戸切絵図の『品川、白金、目黒辺之絵図』の中にも『仙台味噌屋敷』と記載されている。
     明治維新になり、伊達藩では味噌蔵と質屋(当時の金融機関で銀行と質屋の中間の性格を持つものだったらしい)を経営していたが、仙台から遠藤敬止(後の七十七銀行頭取)、佐藤三之助、八木久兵衛等五名を呼び、払い下げた。遠藤、佐藤等は質屋を引き継いで宮城銀行を興し、八木は味噌蔵を引き継ぎ、明治三十五年七月法人組織とし合名会社を設立して今日に至っている。(http://www.tokyomiso.or.jp/member/yagi-sendaimiso/)

     右に曲がると急な降り道になり、左右には新緑の樹木が生い茂る。「なんだか鬱蒼としてきたね。」大井公園だ。「ここにもヤマボウシが。」白い花が二つ三つ咲いている。坂を降り切った辺りで左の公園の隅に案内板を見つけた。旧越前鯖江藩真部家下屋敷(元・陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)であった。「交換したんだね。」

     その後、五代藩主の伊達吉村のとき、大井村の下屋敷の一部約一万六千坪余りと、上大崎村に越前(福井)鯖江藩間部家の所有していた下屋敷「大崎屋敷」との交換が行われました。
     幕府から拝領した屋敷を交換することを「相対替」といいますが、このように屋敷地の一部を分筆して交換することを「切坪相対替」といいます。
     大井村の仙台藩伊達家下屋敷は、一部を間部家と交換した結果、三千坪余りの広さとなり、ここは物資の集積所として使われました。
     http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000006700/hpg000006651.htm

     仙台騒動で有名な伊達藩三代藩主綱宗は不行跡によって隠居を強いられ、二十一歳から七十二歳で死ぬまで、品川の下屋敷から一歩も外に出なかったと言う。
     突き当たりを右に曲がると立会小学校だ。その門を過ぎて正面に鉄の扉が見えた。扉は開いていて、鍵は立会小学校が管理している。「容堂さんのお墓があります。皆さん、行ってください。私は下見で来ていますから行きません。」姫が下見に来た時には、教頭がわざわざ案内してくれたのだそうだ。
     門を入れば、すぐ右から、長さ三メートル、幅七八十センチの一枚石を敷いた階段が続く。所々で石が歪んで折れそうになっている個所もある。「これを上るってことは降りるっていうことよね。」登り切れば墓地だ。品川区東大井四丁目八番。この丘は下総山または土佐山と呼ばれた。隣の立会小学校までが鯖江藩邸(旧仙台藩邸)で、ここを境にして隣に土佐藩下屋敷が広がっていた。
     土佐藩下屋敷は東大井三丁目と二丁目に跨って、約一万七千坪あったらしい。この時は地図を確認していないが、ここは京浜急行鮫洲駅のすぐ傍になる。東大井と言うよりも鮫洲と言ってくれた方が分かりやすい。安政の大獄によって隠居して以来、山内容堂はこの別邸に住んだのである。鮫洲漁史の雅号を用いた漢詩があると言う。
     入口に一番近いのは嶋津常候墓だ。土饅頭の墓の土台に石碑を咬ませて建ててある。これは誰だろう。誰も知らない。「そうなんですよ、島津さんがあるのが不思議でした」と下見をしていた姫も言う。調べてみると第十三代土佐藩主山内豊熈の正室、嶋津斉興の娘の候姫なのだ。そうか、時々うっかりしてしまうが江戸時代は夫婦別姓であったネ。その奥が贈従一位山内豊信公(十五代・容堂)之墓、侯爵山内豊範(十六代藩主)妻栄子之墓、山内家合祀之墓と並ぶ。
     公武合体派の容堂にとって、大政奉還は一世一代の大事業だったが、西郷、大久保、木戸、岩倉の政治力を持たなかった。家臣に命令を下すだけで済む殿様と、必死に成り上がって来た連中との差であろう。岩倉、大久保らが徳川家の辞官納地を求めた会議には泥酔状態で臨み、「二、三の公卿が幼沖の天子を擁し」と失言し、それを楯に取られた。このシーンは、最近『八重の桜』でやっていた。
     容堂は自ら鯨海酔侯と名乗ったほどの大酒飲みで、また女好きでもあった。晩年には妾が十数人いたという。死んだのは明治五年(一八七二)、数えで四十六歳である。積年の飲酒が祟った脳溢血であった。後藤象二郎と板垣退助も明治六年の政変で下野して以来、土佐藩が明治政府の内部で力を持つことはなかった。
     「一豊じゃないんですね。」「初代と最後だからね」とダンデイが笑う。「仲間由紀恵さんがやったのよ。」ハイジが言うのは山内一豊の妻であろうか。「気を付けて降りてくださいね。」下から姫の声が聞こえる。「幅が広すぎてさ、歩き難いんだよ。」
     雨がかなり強くなってきた。もう一度仙台坂に戻り池上通りを横断する。大井町駅前のイトーヨーカドーでトイレ休憩だ。トイレの前では母の日のセールをしている。
     「大井町って都会ですよね。ビックリしちゃった。知ってましたか。」私も大井町は初めてだ。何の根拠もなく場末だと思い込んでいたのは大井町に対して失礼した。競馬場とオートレース(もうなくなったが)の影響だろうか。
     京浜急行に沿って大井陸橋を潜り、今度は池上通りを南下する。一キロほどで区立品川歴史館に到着した。品川区大井六丁目十一番一号。「品川に歴史なんてあるのかな。」どんな土地にも歴史があり、ひとの思いがある。入り口前には台場の石が置かれている。さっきの台場小学校の所で出土したものだ。
     七十歳以上は無料である。「証明するもの持ってないけど。」碁聖は心配することはないだろう。「だけど全く疑われないのも少し淋しいよ。」七十歳未満は百円だ。
     品川の歴史なんてとダンディは言っていたが、私は海苔の養殖が品川大森海岸で始まったと言うのを知らなかったから、良い機会だった。スナフキンはこの辺の事情にやたらに詳しい。解説シートから引用しておこう。

     江戸時代御延宝年間(一六七三~一六八〇)の頃、品川の漁業者が、魚活簀の防波用に建てた木柵に、いつとはなしにノリが映えているのを発見した。これが海中にナラ・カシ等の粗朶ヒビを建てる海苔養殖法の発明につながった。また、暴風で活簀がこわれ、柵に使われていた木や竹が海岸近くに流れ着き、これにアサクサノリが育っているのを見て養殖法を思いついたとも言われる。(中略)
     ところが、品川の海苔は大東京港建設という目的のために昭和三七年(一九六二)を限りに、全面的に漁業権を放棄し、翌三八年にはその幕を閉じたのである。(『品川歴史館解説シート№.12 品川の海苔』)

     中世の品川の歴史にも少し触れることができたのは収穫である。江戸時代以前の江戸の港が、熊野や東海道とどう関わっていたかは気になっていることなのだ。
     元は昭和初期に安田善助の邸宅として建てられ、後に電通の吉田秀雄記念事業団が譲り受けた。「やっぱり安田財閥でしたか」とダンディが納得したような顔をする。安田善助は善次郎の甥に当たるようだ。庭に出れば茶室もある。書院風の建物も残っている。
     姫が指定した定刻の少し前に見学は終わり、入口を出て赤い毛氈を敷いたベンチで休憩する。ここでさっき講釈師に貰った煎餅を出す。「もう一袋ある。」そんなに食えませんぜ。遅れて来た姫が、「もう食べたんですか、私も持ってきたのに」と煎餅を出す。煎餅ばかりそんなに食えるものではない。喉が渇いてくる。
     「あっ、鍵がない。」「ポケットにはないの。」ハイジが探しているのは傘立ての鍵である。「変だわね、どこに仕舞っちゃったのかしら。」ハイジの傘は折り畳みで、握りの部分は薄い円筒型のものだ。これなら回して外せるのではなかろうか。「クルクルできるんじゃないかな。」出来た。握りが外れれば傘は取り出せる。「開けられるのは祠だけじゃないんだ。今度金庫が開かなくなったら蜻蛉に頼もう。」碁聖の大金を収納した金庫なら、何が何でもこじ開けてお礼をせしめてみたい。「あったわ。」鍵は小銭入れに入っていた。
     「それじゃ行きましょうか。」すぐそばに鹿島神社がある。品川区大井六丁目十八番三十六号。

     社伝によれば、安和二年(九六九)常行寺(江戸時代に大井から南品川に移転)の僧・尊栄法印が鹿島神宮より御分霊を勧請したことに始まるという。同時に隣接する旧別当・来迎院も創建された。明治の神仏分離によって独立し、大井村の総鎮守となった。
     現在の社殿は昭和六年(一九三一)の造営。旧本殿は鎌倉彫に覆われた見事なもので、本殿脇の覆舎の中に安置され、境内にあった六つの末社が合祀されている。

     覆殿の隙間から旧本殿を覗いてみたが、見事だという鎌倉彫はほとんど分からなかった。常陸国鹿島神宮の祭神はタケミカヅチである。天孫降臨に先立ってフツヌシと共に天下った軍神である。フツヌシは下総国の香取神宮の祭神で、いずれも武神、軍神として尊崇された。剣術の古流に鹿島神流、香取神道流がある。塚原朴伝はこの二つを統合して鹿島新当流を開くことになる。
     鹿島神宮はヤマト国家の東進とともに、蝦夷に対する前線基地として勢力範囲を拡大した。現在では東北・関東を中心に全国に六百社あると言われているが(その内の半数以上は茨城県内)、東京では余り見かけたことがないように思う。品川の地理的条件を考えれば、房総から常陸にかけての太平洋岸と江戸湾との海上交通が考えられなければならないだろう。
     「これがタブの木です。」タブとはクスノキ科の木のようだ。「そう言えばクスノキに似ている」とダンディが断定する。私は全く分からない。「巨樹でしょうかね、ちょっと細いでしょうか」と姫は悩む。
     説明によれば、本殿に向かって左側のダブノキは、幹囲三メートル十七センチ、樹高十三メートル、樹齢は約二百年。本殿脇の旧本殿の前にあるダブノキは、幹囲二メートル五十センチ、樹高十八メートル、樹齢は約百五十年。
     縄文風の文様を埋め込んだオブジェには記憶がある。なんだ、大森貝塚ではないか。それなら来たことがあるから記憶があるのは当たり前だ。大森と言いながら、住所は品川区大井である。「もう一カ所あったでしょう。」これも前に書いている筈だが、初めての人もいるからこんな記事を引いておこうか。今私たちがいるのが、モースが調査した場所である。

     現在、大森貝塚に関する石碑は、品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園(品川区大井六丁目二一)内と、大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道を線路側にはいったところとの二ヵ所にある。 前者は横書きで右から「大森貝塚」、 後者は縦書きで「大森貝墟」と書かれており、 貝塚碑は一九二九年(昭和四年)十一月に、 貝墟碑は一九三〇年(昭和五年)に相次いで建てられた。(中略)
     モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の二つが存在した。しかし、その後一九八四年(昭和五十九年)までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井六丁目)の土地所有者に調査の補償金五十円を支払った文書が発見されたこと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側であったことがわかっている。なお、両者は約三〇〇mの距離である。(ウィキペディアより)

     「あそこに日枝神社がある。」通りの向かい側だから寄らないが、住所は大田区山王である。神社は大森山王日枝神社だ。元は名主の屋敷内の神社だったらしいが、この小さな神社が地名の元になるのか。私は無学だから知らなかったが、大森山王と言えば高級住宅地なのだそうだ。
     これを過ぎればすぐに大森駅に着く。三時。姫の最初の計画では、東急多摩川線の下丸子駅で解散することになっていた。このまま真っ直ぐ行けば着くだろうが、六キロはあるだろう。「頑張れば行けると思ったんですけどね。」晴れていれば今日のメンバーなら一時間ちょっとで行けたかもしれないが、この雨ではもっとかかる。
     ここで反省をする人と別れて、講釈師、ハイジ、碁聖と電車に乗る。「どうしてあっちに行かないんだ。」講釈師が不思議そうに尋ねてくるが、私だって、たまには所用というものがある。
     しかし改札はどこだ。駅ビル「ララ」の中はスーパーの中に入り込んだようで、案内というものがまるでない。講釈師が中年女性に尋ねて、そこの階段を行けと教えられる。解散した場所ではなく、もう少し先に行けば普通に駅の入口があったのだろうが、大森駅は分かり難いというのが、田舎者四人の結論だった。
     反省会組は、近くのイタリアンBacco Tabacco e Venereでワインのフルボトルを四本飲み、その後は「金太郎」まで行って更に飲み続けたそうだ。元気なことである。

    蜻蛉