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    第四十七回 六郷土手から川崎宿そして川崎大師へ
    平成二十五年七月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.07.22

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     旧暦六月六日。小暑の次候「蓮始開」である。今年の梅雨は五月二十五日に始まり、平年より十五日も早く先週七月六日に開けた。梅雨入りも平年より十日ほど早かったから、長さはそれほど変わらないが、期間中の雨量は都心で平年の八割程度だったと言う。明けた途端に連日三十五度を超える猛暑となり、それに加えて「ゲリラ豪雨」と称する猛烈な夕立がやって来る。念のために折り畳み傘をリュックに入れて家を出た。
     団地の近所では漸く木槿や百日紅が咲き始めた。ノウゼンカズラの暑苦しい色の隣に底紅の木槿の花を見ると、少しだけ涼やかな気分になってくる。

     今日も猛暑が予想される中、川崎駅には今日のリーダー・スナフキン、姫、チロリン、クルリン、碁聖、ダンディ、講釈師、ヨッシー、ドクトル、マリオ、ロダン、蜻蛉の十二人が集まった。参加を予定していた小町やハイジは、この暑さで体調を崩してしまったようだ。桃太郎は寝坊に加えてやや疲労が蓄積しているので反省会だけ参加すると言う。
     マリオによれば、西口には東芝ビルが完成したらしい。もともと東芝川崎工場の跡地で、ショッピングモールはもう数年前にできていたが、これで西口の再開発が一段落したということか。浜松町から大部分が移転してくるらしいから、東芝にとっても大事業である。
     「川崎は随分きれいになったね。」古い人たちは一様に驚きの声を上げる。十時というのに既に日射しは強く暑い。「団扇とか扇子とか、今時手を動かすなんて遅れてるよ。」講釈師は握りしめた携帯用の扇風機を回しながら、鼻をうごめかす。ちょうど顎の辺りに当てているから、髭剃りを使っているように見える。「それって何年か前にも見たことがある。」「いっぱいあるんだよ。」「まとめ買いですか。」「百円ショップだからさ。十個買ったって千円だよ。」
     東口に出て、アゼリア地下街に入る。数年前には、月に一度はこの地下街を通っていたが、京急の駅の方には行ったことがない。地下街の涼しさとは裏腹に、京急川崎駅は冷房が全く効いていない。ここから京浜急行で一駅東京方面に戻って六郷土手駅から歩き始める計画だ。それならば品川から直接京急に乗って来る方法もあった。「だけど分かりにくいからな。迷っちゃう人がいると面倒だろう。」確かに川崎駅でさえ、「迷ってしまったの」とクルリンが言っていた。
     ホームの接近メロディーは『上を向いて歩こう』だ。川崎とどういう関係があるのだろう。「蒲田は『蒲田行進曲』だった」と講釈師が自慢する。「九ちゃんって、笠間じゃなかったかな。」水戸人ロダンは、坂本九が笠間稲荷で結婚式を上げたことを覚えている。「疎開で行ってたんだよ。」こういうことに一番詳しいのは講釈師だ。私は映画の舞台が川崎の工場地帯だったのではないかなんて、トンチンカンなことを考えてしまった。
     百三十円で多摩川を超えて東京都に戻る。六郷土手駅は小さな駅だ。多摩川がΩ型に曲がっているところで、京浜急行はここから第一京浜に沿って北東に走る。その第一京浜の脇の小さな宮本台緑地には、旧六郷橋の橋門と親柱が見える。
     最初は北野天神(落馬止め天神)だ。大田区仲六郷四丁目二十九番地。鳥居を潜れば木立の中に真っ直ぐ参道が伸び、正面に拝殿が見える。社殿自体はそれ程大きくはないが、柿色に塗られたのが珍しい。境内は木が多く、今日のような日にはちょうど良い。

     ここからほど近い旧東海道の一角に、土地の古老達が『柳生様』と呼んでいた所があります。将軍指南役、柳生家の留守居役、馬別当、馬屋、忍びの者の寮や屋敷のあった跡です。
     そこに柳生家がいたのは、八代将軍吉宗公がお乗りになる馬が暴走して、あわやと云うときに吉宗公の『落馬』を止めた北野天神の御加護にあやかったものだといわれています。
     昔から馬の乗り方を『天神乗り』というように天神様は乗馬の師でありました。馬術の基である馬のために馬屋をここにおいて江戸末期まで、村人とともに北野天神を守った柳生家の心情がうかゞわれます。
     将軍の『落馬』を止めた天神様の評判は旅人達により遠くまで広がり、東海道を行き来する大名や武士は、落馬止め天神と呼び文武のより所とし、近郷の村人や町人はあえて『落馬』と云う呼び名をはぶいて『止め天神』と呼ぶようになりました。(由緒)

     天神が「乗馬の師」だなんて聞いたこともない。天神の乗物は牛に決まっているではないか。「天神乗り」という用語だって昔からのものではないだろう。調べてみると、二十世紀初頭の競馬界で、現在のような尻を浮かせて背を丸める騎乗法が発明されて世界に広まり、これがモンキー乗りと呼ばれた。それに対して昔からの乗り方を日本では天神乗りと呼ぶようになったのである。つまりモンキー乗りが発明されるまで、世界のどこでも馬に乗る場合には鞍に腰を下し背を真っ直ぐに立てたのであり、たったひとつしかない乗り方に、敢えて○○乗りと名付ける必要はなかった筈だ。
     木立の中には『通りゃんせ』に因む「天神様の細道」が作られている。「川越の三芳野神社にありませんでしたっけ。」「そうだよ、川越だよ。」確かに三芳野神社には「天神様の細道」発祥碑が建っている。「どっちが正しいんだい。」どちらも正しくないと言って良いだろう。
     「通りゃんせ」遊びは全国に分布していた筈だ。古い形では「御用のないもの」が「手形のないもの」とあって、関所遊びの一種ではないかとの説もあるが、意味不明な歌詞とともに、その発祥は謎である。
     そもそも「とおりゃんせ」というのはどこの言葉なのだろう。「上方じゃないかっていう説があるんですよ。」「上方に『りゃんせ』なんて言葉ありませんよ。」「りゃんせ」ではなく、「通る+やんす」の命令形と考える。大辞林によれば、助動詞「やんす」は尊敬の意を表す「なさる」の意味で、「上方語で、近世前期には主として遊女が用いたが、後期には一般化した」とある。
     また、ウィキペディア「近江弁」によれば、「未然形+やんす」で「もとは近世上方の尊敬語で、現在も高齢層では軽い尊敬語として用いることがある」と言う。それなら近江商人が全国に広げた可能性がある。

     通りゃんせ 通りゃんせ
     ここはどこの 細道じゃ
     天神さまの 細道じゃ
     ちょっと通して 下しゃんせ
     御用のないもの 通しゃせぬ
     この子の七つの お祝いに
     お札を納めに まいります
     行きはよいよい 帰りはこわい
     こわいながらも
     通りゃんせ 通りゃんせ

     私たちが知っている歌は本居長世によるもので(一説に野口雨情作詞と言う)、どれだけ原型をとどめているのか分からない。「はないちもんめ」「子をとろ子とろ」などと同じく、子取り遊びの一種であり、陰鬱なメロディと謎のような歌詞は日本の童歌に共通するものだ。
     子取り遊びの背後にはおそらく神隠しや間引きが潜んでいる。「七歳までは神のうち」で、いつ、どこでいなくなってもおかしくない。乳幼児死亡率の高さは勿論だが、この間に障害が明らかになって殺された子もいるだろう。人知れず闇に葬られた子は神隠しにあったことにされた。売られた子供も同様だ。「七つのお祝い」は、漸くその危険な期間を過ぎて人間世界に定着した祝いなのである。しかし、それならなぜ「帰りはこわい」のか。
     この歌を巡っては様々な謎解きが語られているが、民俗学や民間信仰の側から、きちんとした研究はなされていないのではないだろうか。

      通りやんせ天神様の夏木立  蜻蛉

     「ここから先は街中を歩くので、日陰は期待できません。」今日は充分な水分補給を心がけてくれというのが、リーダーのお願いだ。
     多摩川はこの辺では六郷川と呼ばれた。六郷の地名も古く、荏原郡に武蔵国の国衙領としての「六郷保」があり、永富・大森・蒲田・堤方・原・八幡塚の六つの郷によって構成されていた。つまり武蔵国荏原郡南部の一帯が六郷と呼ばれたのである。
     「徳川が橋を架けさせなかったんですよ。」ダンディの徳川嫌いは相変わらずだが、歴史は正しく語らなければならない。家康が慶長五年(一六〇〇)に橋を架けたのである。しかし氾濫の度に橋は壊れ、慶長十八年(一六一三)、寛永二十年(一六四三)、寛文二年(一六六二)、天和元年(一六八一)、貞享元年(一六八四)に架け直されたものの、貞享五年(一六八八)の洪水以後、橋の架け替えは行われなかった。徳川の問題ではなく、氾濫しやすい川の特性によって、橋は架けてもすぐに破壊されたのだ。
     家康以前にも、小田原北条氏によって橋が架けられていたという説(『新編武蔵風土記稿』)がある。その根拠は、永禄二年(一五六九)、武田信玄の江戸入りの際に焼き落としたと言う記載(『小田原記』)による。スナフキンもこの説を採用しているが、しかし『小田原記』は文献的に信頼性に欠けるという説もあり、真偽は未だ定まっていない。
     橋の長さは何度か変わったが、貞享元年のものは長さ百十一間(二百二メートル)、幅四間二尺(八メートル)あった。

    昔は、橋を架せしが、享保年間(一七一六~三六)、田中丘偶(一六六二~一七二九)といへる人の工夫により、洪水の災ひふを除かんために、橋を止めて船渡しにせしとなり(田中丘偶は、俗称休愚、右衛門嘉古と称す。冠帯老人と号す。よく水理に達す。相州酒匂川の水を治めしも、この人の工夫にして、いまもその河原にそのことを記せし碑あり。また、『民間省要』(一七二一)といへる書を著す。いま、上平間村の田中山妙光寺といへる日蓮宗の寺境に、その墳墓あり)。『東海道名所記』(浅井了意、一六五九)に、この橋の長さ百二十間とあり(東路の四大橋といふは、江州瀬田・参州矢矧・同じく吉田、およびこの六郷の橋なる由、『和漢名数』に見ゆ。また、江戸の三大橋といふは、両国橋・千住大橋・六号橋なりといへり)。(『江戸名所図会』)

     当初、渡し舟の権利は八幡塚村にあった。八幡塚村は私たちが今いる六郷の辺りで、六郷の総鎮守八幡社が村名の由来だ。やがて川崎宿本陣・名主・問屋の田中丘偶が奔走して、宝永六年(一七〇九)より川崎宿に永代渡船請負権が許可された。要するに渡船の営業権であり、売り上げは宿場の収入になる。乗船客の七割を占めた武士、公家、神官僧侶は無料だったが、それでも年間収入は六百両前後に上ったと言われる。
     『江戸名所図会』の挿図を見ると、馬が一頭、人が十人程乗っている。渡し舟の時代を詠んだ川柳をいくつか、スナフキンが紹介してくれた。

     馬のへ(屁)に四五人こまる渡し舟
     二十五と四十二で混む渡し舟(厄払いに川崎大師に詣でる人)
     前には大河うしろから亭主くる(鎌倉縁切り寺を目指す女房)

     明治七年(一八七四)になって、八幡塚村の名主鈴木左内が北品川宿の芳井佐右衛門、大森村の塩沢重蔵などの協力を得て橋を架け、「左内橋」と呼ばれた。全長六十間、幅三間というから、江戸時代のものの半分程度の長さしかない。しかし折角の橋も暴風雨や洪水で破損する度に改修費用がかかり、十一年の洪水で流された後、六郷川は再び渡し舟の時代に戻ってしまった。
     その後何度も架橋、破損、改修が重ねられ、漸く大正十四年(一九二五)、コンクリートの橋が架けられた。この橋は堅牢で戦災にも生き延びたが、戦後の交通量の激増によって役割を終えた。昭和五十九年に上り橋、六十二年に下り橋の二本を完成させて現在の新六郷橋ができたのである。さっき見えた親柱は、この大正十四年の橋のものだ。
     それでは私たちも橋を渡らなければならない。東側の歩道を歩くと、西側の親柱の方に渡し船を模した黒いモニュメントが載っているのが見える。「遠くて良く分からないな。」今日の碁聖はいつもの望遠付きではなく、もっと小さなカメラを手にしている。「だって重いからね。」
     左手の河川敷にはテニスコートが作られていて、この暑さの中で下手糞なテニスをやっている。「なかなか川が見えませんね。」河川敷が広いと言うことは、洪水が多いと言うことだろう。
     漸く川の上に来ると少しは風が吹いてくる。「水が少ないな。」空梅雨だったからね。自転車が多い。橋を渡りきったこちら側の親柱にも、長さ一・五メートル程の真っ黒な渡し船のモニュメントが飾ってある。「さっきのは、これなんだね。よく見えなかった。」階段を降りれば「長十郎梨のふるさと」碑、明治天皇六郷渡御碑、六郷渡し跡解説板が並んでいる。
     川崎と言えば、私には京浜工業地帯の中心部のイメージしかなかったから、長十郎が川崎原産とは驚いてしまう。しかし多摩川流域の河川敷では江戸時代から梨が栽培されていた。明治二十六年(一八九三)、大師河原村の当麻辰次郎の梨園で発見された品種が、その屋号をとって長十郎と名づけられたのである。
     明治三十年には全国的に黒星病が大流行して他の品種が壊滅状態になる中、長十郎だけが被害を免れた。そのため栽培が全国に広まり、一時は梨の国内生産の八割を長十郎が占めていたが、戦後、幸水、新水、豊水などの新勢力に押されて激減した。松戸に発生した二十世紀梨も同じ運命を辿っている。
     正岡子規は明治二十七年の春と秋の二回、そして三十年に川崎大師を訪れた。子規は果物好きと言うより食い意地が張っていたから、川崎の梨を大量に食ったことだろう。二十七年ならば日清戦争従軍前のことだ。子規の病状が悪化したのは三十二年頃だから、まだ自力で歩けた時代である。

     六郷の橋まで来たり春の風   子規
     川崎や小店小店の梨の山    〃
     徒歩で行く大師詣でや梨の花  〃
     川崎や畠は梨の帰り花     〃

     「明治天皇は苦労したんですよ。」ダンディは明治天皇六郷渡御図のレリーフを見ながら、上方人を代表して当時の苦労を思い遣る。この絵は月岡芳年の錦絵をもとにしたものだ。黒い軍服で銃を肩にした兵士の隊列の後ろに公家姿の列、小さな輿二つの後ろに鳳輦が続く。明治元年九月二十日に京都御所を出発した天皇の一行は、十月十三日に川崎宿に到着した。そして多摩川を渡るため、二十三艘(別の説では三十六艘)の船を並べ、その上に板を敷いて長さ六十間の仮橋を作ったのである。しかし大河に舟橋を架けるのは珍しいことではない。私たちは日光御成街道を歩いていて、将軍日光社参の際には荒川に仮橋を架けて渡ったことを知っている。
     明治天皇の前に象も仮橋を使って六郷川を渡った。享保十三年(一七二八)六月、広南(現ベトナム)の貿易商鄭大成が雌雄の象を長崎に持ち込み、メスはその九月に死んだが、翌年オスは幕府へ献上されることになった。一行は享保十四年三月十三日に長崎を出発し、四月には京都で天皇の上覧を得た。上覧を得るためには官位が必要で、わざわざ広南従四位白象の官位が与えられたというから大変なものだ。そして五月十五二日江戸に着き、この時も舟橋が架けられた。象は天皇よりよほど苦労した。
     碑を覗きこんでいると背後に団体が出現して、私たちが離れるのを待っている。「神奈川東海道ウォークガイドの会」というものらしく、いくつかの班に分かれているようだ。一緒になってしまうと面倒だから早く行こう。
     新六郷橋の下を潜り、第一京浜の西に出る。ここから川崎宿の新宿が始まる。「シンシュク、シンジュク、どっちでしょうか。」解説板では濁点が後から消されたようにも見えるのだ。「川越はアラジュクですね。」「ニイジュク何て読むところもあるね。」川崎市のホームページを見ると、濁らずにシンシュクと読むようだ。

    河崎 六郷渡し口より向かふの方にあり。東海道官駅の一つにして、行程品川より二里半、駅舎整々として両側に聯なる。(『江戸名所図会』)

     川崎が宿駅に定められたのは元和九年(一六二三)である。品川宿と神奈川宿との間が往復十里あって伝馬の負担が重かったため、新しい宿場が求められたのである。久根崎、新宿、砂子(いさご)、小土呂の四ケ村による寄り合い宿だったが、当時の戸数は僅かに百五十戸、めぼしい産業もない寒村であった。
     そこに人足三十六人、伝馬三十六疋が求められる宿駅は負担が大きすぎた。伝馬とは、次の宿場まで公用荷物を運搬する役である。管理は問屋場だが、実際にその仕事を負担するのは近郷の農民である。二里半の道程を神奈川宿迄行き、また戻って来なければならない。百五十戸が均等に負担したとしても四日に一遍は廻って来る。農業の合間に駆り出されるからその負担が大変なのは分かるだろう。
     御用に不足する場合には近隣の村から借金してでも馬と人足を借りなければならず、その結果問屋場が破産するなど、川崎宿の経営は困難を極めた。寛永九年(一六三二)には、宿役人が宿場廃止を願い出る始末となったという。そして東海道の交通量の増加に伴って、寛永十九年(一六四二)からは各宿人足百人、伝馬百疋と更に負担は増加した。
     田中丘偶が渡船請負の権利を川崎宿に移管してもらうために必死に請願したのも、こうした背景があったためだ。年間六百両の渡船収入によって漸く川崎宿の経営は安定し、十九世紀中頃には人口二千四百人を数えるほどに繁栄するのである。これを考えれば、橋を架けないのは宿場維持のためであったかも知れない。
     日本橋から四里半では東海道を旅するものはほとんど泊らない。宿場に金を落とさせるための即効薬は飯盛女を抱えることで、旅籠七十二軒のうち、飯売旅籠は三十三軒あった。江戸時代後期には川崎大師への参詣者が激増したが、こういう人たちが宿場にどの程度の金を落としたかは分からない。
     この辺は東海道から左に川崎大師へ分岐する地点で、奈良茶飯の万年屋、ハゼ料理の新田屋、会津屋などが並ぶ繁華街だった。万年屋の脇には「従是大師江之道」の道標が立っていたが、現在では川崎大師境内に移設されている。
     『江戸名所図会』中の、長谷川雪旦による「河崎万年屋 奈良茶飯」の図が掲げられているのを見れば、畳敷きの店内はかなり広い。明和年間(一七六四~一七七一)にはただの茶屋だったが、幕末には衰退した本陣の代わりを務める程の旅籠になった。川崎市川崎区本町二丁目十一番地。享和二年(一八〇二)、『東海道中膝栗毛』の栃面屋弥次郎兵衛(五十歳)、喜多八(二十九歳)の二人連れも万年屋で奈良茶飯を食った。

    それより六郷の渉をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける。万年やのおんな「おはようございやす。 弥二郎兵へ「二ぜんたのみます。 きた八「コウ弥二さん見なせへ、今の女の尻は去年までは、柳でいたつけが、もふ臼になつたァ。どふでも杵にこづかれると見へる。そしてめんよふ、道中の茶屋では、床のまに、ひからびたはなをいけておくの。あのかけものを見ねへ。何だ。 弥二「アリヤア鯉のたきのぼりよ 北「おらア又、鮒がそうめんをくふのかとおもつた。 弥二「コウむだをいはずとはやく喰はつし。汁がさめらア 北「ヲヤいつの間にもつてきた。ドレドレ トならちやをあり切さらさらとしやり・・・・(『東海道中膝栗毛』)

     この日に朝飯を食った記述がないので、弥次喜多にとってこれが最初の食事である。万年屋名物の奈良茶飯とはどういうものだろうか。

    奈良茶飯 少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものである。・・・・栄養バランスにも優れ、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった。(ウィキペディアより)

     喜多八は「さらさら」と食っているので、炊き込み飯というより茶漬けに近いものだったのではないだろうか。『守貞謾稿』には、「右ノ奈良茶 皇国食店ノ鼻祖トモ云ベシ」とあって、江戸の外食産業のハシリだったようだ。

    事跡合考曰、明暦ノ大火後、浅草金龍山ノ門前ノ茶屋ニ始テ、茶飯、豆腐汁、煮染、煮豆等ヲ調ヘ、奈良茶ト号ケて出セシヲ、江戸中端々ヨリモ、金龍山ノナラチヤクヒニ、往ントテ、特ノ外珍シキコトニ興ゼリ。夫ヨリ追々、サマザマの善膳店出来シヨリ、イツシカ、彼聖天ノ山下ノ奈良茶、衰微ニ及ベリ云々。

     文化六年(一八〇九)春に多摩川堤防巡見の際に太田南畝が二泊し、天保四年(一八三三)一月には鎌倉に向かう渡辺崋山が泊まったときも、奈良茶飯を食べただろう。安政四年(一八五七)アメリカ駐日総領事ハリスが泊まり、明治十年には箱根塔の沢温泉に療養に向かう静寛院宮(和宮)が泊った。
     東海道に入ると、歩道には適当な大きさの石を敷き詰めて、なかなか整備されている。「川崎市は結構金をかけてるんだよ。」所々に「旧東海道」の道標も立っている。川崎の重工業地帯は米軍空爆の最優先目標になったから、古いものはほとんど残されていない。しかし案内板はかなり充実しているので、なんとか想像力を働かせればそれなりに昔を忍ぶことができる。
     川崎市の空襲被害については、死者は七六八人(川崎戦災復興誌)から一五二〇人(米国戦略爆撃調査団報告書)と、報告によってかなりの差がある。前者では重傷者に計上したものの、その後に死んだ人が多いのだろう。罹災戸数は三五一〇七戸(米国戦略爆撃調査団報告書)から三八五一四戸(川崎戦災復興誌)。家屋の罹災率はほぼ五十パーセントだが、市街地はほぼ壊滅状態になったのである。
     すぐに田中本陣跡に着く。川崎市川崎区本町一丁目四番地六。川崎宿には本陣が三軒あり、「上」(京都に近い方)は砂子の佐藤家、「下」が新宿のこの田中家である。もう一軒は問屋場の向かいにあった「中」の本陣(惣兵衛本陣)だが、幕末には廃業していたようだ。田中本陣とは既に名前を挙げた田中丘偶の家である。門構え、玄関付、延二百三十一坪の屋敷であった。
     解説板には田中休愚とあるが、こうも表記した。彼がいなければ宿場はとっくの昔に寂れていただろう。「明治天皇も泊ったのかな。」昼食をとって休憩したと書いてある。

    武蔵国多摩郡平沢村(東京都秋川市)の名主窪島八郎左衛門の次男。幼年のころ八王子の大善寺で学び、のち絹織物を行商し見聞を広めた。東海道・川崎宿の本陣田中兵庫の養子となり、宝永元年(一七〇四)年家督を継ぎ、本陣、名主、問屋を兼帯する。同六年には川崎宿の復旧のため六郷川渡船権の許可を得て活躍。正徳元年(一七一一)五十歳のとき隠居し、江戸に遊学して荻生徂徠や成島道筑に師事。西国方面を旅行し、享保六(一七二一)年六十歳のとき、自らの経験に基づき、民政の意見書『民間省要』(三編十五巻)を完成。翌年に成島道筑を通じ将軍徳川吉宗に献上した。その内容が評価されてか、同八年荒川、多摩川、六郷・二ケ領用水の川除御普請御用を命ぜられ、十一年相模国酒匂川の治水工事を婿の蓑正高と共に行い、文命堤の築造など事績をあげる。同十四年には新田開発と用水管理の功により、町奉行大岡忠相配下の支配勘定格となり三万石を管轄したが、五カ月後に江戸の役宅で急逝した。(「朝日日本歴史人物事典」より)

     しかしやがて田中本陣は衰退する。安政四年十二月十二日(一八五七年一月二十八日)アメリカ駐日総領事ハリスは川崎に到着した。ハリスにとってはうんざりするほど煩瑣で長い交渉の後、漸く将軍との対面が許可され、七日に下田を発し天城、箱根を越えてやって来のである。

     夕刻川崎に着く。ハリス氏が安息日に旅行することを欲しないので明日はここで泊ることになっていた。ところが宿につくと、ハリス氏はそこに泊ることに反対しはじめた。街道筋の旅宿はホンジンと呼ばれ、建物には必ず車で通り抜けられる門をはじめ、大名風の拵えがあって、身分のある人だけに使用される。
     自分の資金で本陣を建てる者には、政府が指定を与え、その施設を維持する権利は世襲で父から子に譲られる。身分の高い人はそこに宿泊せざるを得ないから、持ち主は貴族の上客を保証されているのであるが、それにもかかわらず建物の手入れを怠っていることが多い。それで大衆向きの旅館のほうが良い場合がある。川崎の本陣(田中兵庫)はひどい状態だった。(中略)
     彼らは急いで他の宿を用意した。それは母屋から離れた、小さな白い別棟で、一階にある二室から町の周辺と、鸛がのどかに歩きまわっている水田が見渡せる。この宿屋は万年屋といって、名前は古めかしいがなかなか快適である。(『ヒュースケン日本日記』)

     田中本陣は羽目板の隙間から冷気が流れ込むような状態だったらしい。既に参勤交代は廃止され、大名が宿泊することもなくなっていたのだろう。一般の客を泊めることは許されていないから、ほとんど存在意義がなくなっているのである。そこにさっきの団体がやってきた。どうも急かされるようで落ち着かない。「こんな暑い日に団体で歩くんじゃないよ。」勿論、講釈師は相手に聞こえないように言っているが、お互い様である。「向こうもそう言ってる。」
     予定では、一行寺、宗三寺を回ってから「砂子の里資料館」に行くことになっていたが、「最初に資料館に行きましょう」とスナフキンが決断した。どうせあの団体はお寺を回るだろうから、彼らが行ってしまった後に一行寺へ戻ろうという寸法だ。歩道は狭く、長時間立ち止って説明する訳にもいかないというので、スナフキンは事前に七ページにも上る案内文を作ってくれている。「おおよその説明はこれに書いてます。後でゆっくり確認してください。」
     ナマコ壁と白壁の町屋風の建物が「砂子の里資料館」だ。川崎市砂子一丁目四番地十。中は真っ暗だ、と思ったのはサングラスのせいだったが、サングラスを外してもやはり薄暗い。浮世絵を展示しているため光量を落としているのだ。中は二部屋あり、先客もいる。
     「個人でやってる資料館なんだよ。」それはエライ。川崎宿のジオラマがあったらしいが、年配の女性が「新しく出来る交流館に持っていったんです」と説明してくれる。新しく「東海道かわさき宿交流館」が夏ごろにオープンするらしい。

    現在は川崎市観光協会連合会会長を務める館長・斎藤文夫の浮世絵コレクションが展示の中心となっている。コレクションのきっかけは、横浜の貿易商で浮世絵コレクターだった丹波恒夫から、日本の宝である浮世絵を収集して子々孫々まで伝えないといけないと勧められたことによる。この時政治を志していた斎藤には浮世絵を集める余裕はなかったが、自身の県議会議員の選挙区が川崎市全域だったことから、まず川崎に関する浮世絵を求め始めた。その後、参議院議員になると選挙区は神奈川県全域に広がったため、神奈川にある名所絵や横浜絵なども収集に加わった。こうして蒐集の範囲が広がると今度は系統的に集める必要に気付き、次第に初期の浮世絵にも手を広げていった。蒐集が遅かったため点数的には多くは無いももの、菱川師宣から幕末・明治に至るまでの浮世絵の歴史的過程を大筋ながら説明できる程のコレクションが集まっている。(ウィキペディアより)

     個人の浮世絵コレクションを無料で公開するとはなかなかできることではない。今は、「横浜絵にみる近代日本の黎明」というテーマで七十二点を展示している。ただ暗いのと狭いので落ち着かない。
     展示リストを見ると、歌川芳員が「アメリカ人遊行之図」等十四点、歌川芳虎が「武州横浜外国人遊行之図」等十七点、二代歌川広重が「英吉利国」等五点、三代広重が「横浜亜三番商館繁栄之図」等七点、永琳信実が「横浜名所之内 大日本横浜根岸万国競馬興行ノ図」等八点。歌川国輝、歌川幾丸、早川松山、歌川国松、歌川国鶴、芳雪、清綱の名前もある。私は広重以外の名前を知らないのだが、明治初期、浮世絵の最期の時代に登場した絵師たちである。
     「歌川広重って有名だよね。」チロリンが知っている広重は『東海道五十三次』シリーズの作者だろうが、彼は安政五年(一八五八)にコレラで死んでいるから、横浜の風景を絵にすることはできなかった。「二代目ですよ。」
     一足先に外に出ると、さっきの団体が通り過ぎて行った。ここには寄らないらしい。「おいおい、碁聖がついて行っちゃうよ。」講釈師の指令で、ロダンがあわてて団体を追いかけて、無事碁聖の身柄は救出された。
     ところで砂子の地名も古く、『江戸名所図会』では太田道灌の歌を引いてある。

       いさごといふところにて
     かもめゐるいさごの里を来てみれば遥かに通ふ沖つ浦風  持資

     ここは京急川崎駅に近い繁華街だ。「この東の方が堀之内だよ。」堀之内はかつての青線地帯である。昭和三十三年の売春防止法施行によって売春宿は廃業したが、昭和四五十年代には千葉の栄町と並んでトルコ風呂のメッカとして全国に名を轟かせた。時代的にはダンディやマリオが知っている頃だろう。ウィキペディアによれば、現在、堀之内のソープランドは五十五店舗あり、関東では吉原に次ぐという。
     こういう話題になれば講釈師は生き生きとしてくる。「女人禁制。だけど若い子だったら良い。」「オバサンは歩いちゃダメなのね。」「ダメダメ。」
     少し戻って脇道に入れば一行寺(浄土宗)だ。川崎市川崎区本町一丁目一番地五。「下見のときは門が閉まってたんだ。」 関東ではこの時期がお盆にあたり、墓参のために門を開け、本堂でも法要をやっているようだ。
     スナフキンの案内によれば本堂の右手前に仮山碑が建っている筈だが、見つからない。ウロウロしている私たちを眺めて、庫裏の方で待っている女性が「どうぞ」なんて声をかけてくるのは、法事の客と勘違いしたのであろう。「入れるんですか。」ここで彼女は、私たちが法事客ではないことに気づいた。普通、リュックを背負って法事には来ないだろう。「お閻魔様ですか、今日はお盆ですので一般の方にはちょっと。」「すみません。」この寺は閻魔で有名なのである。
     山門脇に浅井忠良の墓がある。「どういう人ですか。」知らない。しかし、すぐそばの案内板の末尾に書いてあった。「川崎宿で寺子屋『玉淵堂』をひらき、太田南畝などとも交誼のあった能書家」である。玉淵堂は川崎小学校の前身になるようだ。
     「能書家って、三筆とか言いますよね」と首を捻っているロダンに、「弘法大師、嵯峨天皇、それに橘逸成でしたか」と姫が応えている。九世紀の嵯峨天皇のサロンには新帰朝の連中が集り、当時世界の最先端である唐風を広めた。「小野道風なんかは別のグループですね。」十世紀になると書の世界も唐風から和風に転換し、小野道風、藤原佐理、藤原行成が三蹟と讃えられた。
     「これじゃないか。」案内板の横に立っている石碑が仮山碑ではなかろうか。右上が斜めに三分の一ほど剥落してしまっているが、残った漢文の中に「泉」「朝霞夕靄」「勝景」「深山幽谷」の単語が辛うじて判読できる。

    「仮山碑」は、時の名主稲波氏が宿民中村翁の 庭園を讃えて詠じた詩文を刻んだものであるが、 明治十年廃園となり、のち昭和三五年、現在地へ 移築したのである。

     次は宗三寺(曹洞宗)だ。川崎市川崎区砂子一丁目四番地三。ここも墓参の人が多く、真新しい卒塔婆を抱えているひともいる。私がこの時期の「お盆」に違和感があるのは秋田で育ったからだ。しかしそれをダンディのように無下に否定してしまう訳にはいかない。旧暦で続いてきた年中行事をどう継続するかというのは、太陽暦を採用して以来なかなか厄介な問題だった。
     旧暦を厳密に適用すれば、例えば今年の盆の入りは八月十九日となり、毎年日がずれていくことになって不便で仕方がない。だから「月遅れ」と称して新暦の八月十三日から始まることにした訳だが、これだって新旧暦の妥協の産物である。厳密に考えればおかしいことに変わりはない。だから旧暦の日付そのまま七月十三日にお盆が始まるというのは、意外に賢いことかも知れない。七月だろうが八月だろうが、年に何度か死者や先祖に思いを馳せるという習慣は、なかなか悪くない。
     墓地の入口に四面六地蔵(と呼んでよいのだろうか)が立っているので姫に声をかける。「ホント、珍しいですよね。」姫は四面全部に地蔵がいるのかと思ったようだが、直方体の三面に各二体の地蔵を彫り出したもので、残る一面には何もない。同じ形のものが川角の城西大学への途中の延命寺の門前にもあって、以前から同じ様式のものを探していたのだ。
     ここには川崎の飯盛女の無縁供養塔がある筈なのだ。「下見の時は探してないよ。」「探そうよ。」しかしなかなか見つけられない。「そのお地蔵さんじゃないか。」違った。誰かが頼んでくれたのだろう、駐車場で交通整理をしているガードマンがやって来て、「そこを左に曲がって」と教えてくれた。
     墓地の一番隅の塀際に、小さな「紅灯巷女萬霊供養塚」が建っている。しかしこれは川崎今昔会によるものだから新しい。

    五十三次宿駅の昔から近年に至るまで、紅燈の巷に泣いて逝った薄幸な女性達の霊です。あなた達は川崎繁栄の犠牲者です。茲に供養の碑を建てて冥福を祈ります。

    昭和六十三年九月二十三日 川崎今昔会 

     右隣にある舟形光背の如意輪観音半跏思惟像が、大正初期に川崎貸座敷組合が建立した供養塔であった。光背の上部は観音の頭のところで割れ、それを修復している。花が供えられているのは「供養塚」の方で、如意輪観音の方はいささか淋しい。
     「三ノ輪の浄閑寺、品川の海蔵寺、千住の金蔵寺でも見ましたね。」おそらく各宿場に同じような投げ込み寺があったに違いない。新宿の大宗寺や靖国通りの成覚寺もうそうだったらしい。しかしその中で、こうして供養塔を建てた寺は少ないだろう。
     ところで「貸座敷」とは、江戸時代には出会茶屋や陰間茶屋の別称であったが、明治以降は遊女屋の公称となった。明治五年の芸娼妓解放令は実体として全く効力がなかったが、外国向けに「遊女」の称は具合が悪いの、遊女を娼妓に、遊女屋を貸座敷に名を改めたのである。

    明治三十三年の娼妓取締規則は、 庁府県令に貸座敷に関する取締規則を制定させた。その規則によって、貸座敷営業の許される地域が指定され、また娼妓の居住地と貸座敷の許される地域が一致させられたことにより、娼妓はこの指定地外に居住することができなくなった。(ウィキペディア「遊郭」より)

     「お線香の匂いがきついですね」と姫が言うように、あちこちで線香が煙を上げている。江戸時代の墓にもちゃんと線香や花が供えられているから、子孫がちゃんと残っているのである。さっきのガードマンにお礼を言って寺を出る。
     セブンイレブンがある辺りが問屋場跡になる。川崎市川崎区砂子一丁目七番地一付近。向かい合って中の本陣(惣兵衛本陣)があったが、比較的早く廃業してしまったようだ。
     「ここで東海道から少し離れます。」次の信号(砂子)で左に曲がり、市役所通りに入る。「あれが、今日の昼飯の蕎麦屋です。」市役所の真向かいにある美濃戸である。しかし、その前に稲毛神社に行かなければならない。次の角を左に入る。仏具店を過ぎ、公園にやってきた。
     稲毛公園には、大正十四年に架けられ、昭和五十九年に撤去された旧六郷橋の親柱と欄干が残されている。隅のベンチにホームレスのような男が二人座り込んでいるので、あまり注視してはいけない気分になってくる。
       弁天池の案内板には「河崎冠者基家居館堀跡」と書かれている。堀之内の地名も、実はここから生まれる。河崎基家は秩父重綱の弟で秩父二郎(あるいは六郎)と称していたが、武蔵国橘樹郡河崎に移り住んで河崎氏を名乗った。渋谷の金王八幡宮を創建したのがこの基家である。冠者は無官を意味する。
     金王八幡宮に伝わる文書によれば、子の重家の代に堀川天皇から相模国高座郡渋谷庄(現藤沢市の一部)と渋谷の姓を賜ったとされている。更にその子の渋谷庄司重国が武蔵国豊島郡谷盛庄を領有して移り住み、現在の東京都の渋谷の地名が誕生するのである。
     公園の隣が稲毛神社だ。河崎庄の鎮守でかつては河崎山王社、または堀之内山王権現社と呼ばれた。かなり広い境内だ。初宮参りの赤い幟が翻り、赤ん坊を抱いた家族が数組お参りしている。この暑い時期に宮参りしなくても良いと思うのだが、誕生一ヶ月と言うことであれば仕方がないか。
     子規の句碑は、さっきも引用した「六郷の橋まで来たり春の風」である。佐藤惣之助の詩碑もある。碑には一部しか記されていないが、全文を見つけたので引いておく。

     祭りの日は佳き哉
     一重の紅罌粟の如し
     殊に明日の祭を愉しみて
     青き頭髪刈る匂ひは更に懐かし・・・

     空は碧玉なり 紅き提灯をつらねよ
     青竹の笛吹けば 月はのぼり
     つねに恋しき幼き人の あえかに粧ひて
     海酸漿の匂ひほのかに
     茜する都の方より来る時なり・・・

     夕べとなれば幼同志
     あまき檸檬水ねぶりて
     怪談めきし宮の杜に
     異国風の見世物を観る
     クラリネットの音ぞ たへがたくかなし・・・

     祭の日は佳き哉 幼き唄ぞ
     されど過ぎては昨日の笛なり
     いみじくも水の嵐に流れさり
     老いてぞ今はなかなかに
     待つべき術もなからめや (佐藤惣之助『祭りの日』)

     佐藤惣之助は川崎宿本陣の次男として生まれた。この詩は山王祭の日に横浜から遊びに来た親戚の女の子への淡い思いを歌ったものだ。「つねに恋しき幼き人」が後に夫人になる花枝であったが、昭和八年(一九三三)一月に死んだ。この詩碑は、惣之助花枝の生誕百年を記念して建てられたものである。つまり、惣之助と花枝は同い年であった。
     小土呂橋遺構は新川堀(現在の新川通り)に架けられていた石橋である。正徳元年(一七一一)代官の伊奈半左衛門によって板橋が架けられ、享保十一年(一七二六)に田中兵庫(つまり丘偶のことだろう)が石橋に改修したが、寛保二年の洪水で大破した。そして寛保三年(一七四三)幕府御普請役水谷郷右衛門によって架けられたのがこの橋だ。長さ三間、幅三間あった。
     樹齢千年と言われる神木の大銀杏。空襲の火災で幹が空洞化したものの、倒壊を避けるために上部を切り離したところ、残った幹の樹皮から新芽が伸びて葉が茂ったのだと言う。幹を保護するために、周りに柱を立て、十二支の動物を飾ってある。

     秋十とせ却って江戸をさす故郷 芭蕉

     貞享元年(一八六四)八月、四十歳の芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出発する時の句である。私も今の団地に二十五年も住んでいると、秋田よりも鶴ヶ島の方が故郷のようになってきた。紀行の題は、同じ時に詠んで並んで掲載される「野ざらしを心に風のしむ身かな」による。
     ダンディは石造りの大鳥居の台座に腰掛けて休んでいるが、その台座には旅籠や有力商人の名が刻まれている。台座と柱の石の色が違うのは、享保三年(一七一八)に田中丘偶等が建てた鳥居が安政二年の大地震で倒壊し、台座だけが残ったのだと思われる。柱から上は、嘉永二年に再建したものだ。

     社殿前の石の鳥居の台座には、江戸時代の川崎宿の有力な旅籠や商人の名が刻まれており、歴史的価値の極めて高いものです。 江戸時代末期の古文書『当宿山王宮由来之事』(森家文書)によれば、
     享保三年(一七一八)石之大鳥居建立 右兵庫(田中丘隅)其筋え御願申上候処格別之御勘弁を以かぶき芝居興行 舞台等殊之外大造りニいたし桟敷ナド二重ニ掛け〈略〉其賑敷事人々ノ目を驚かし〈略〉存之外余金宜敷諸入用存分ニ相拂残金を以石之大鳥居相建 凡金六十余両相掛り其外余金有之候間 金百余両末々修理之ためかし金ニいたし置候処惜哉元文ニ至り故障あって失之〈略〉右大鳥居之儀者安政二卯年(一八五五)十月二日之夜四ツ半時古今稀成大地震ニ而倒れ大損し今者無之候
     嘉永二年(一八四九)宿役人並下役一同打ち揃い石之大鳥居を建立 諸雑用共凡百両余掛候 尤も外ニ者一銭も勧化いたさず頼母子講立候
     ・・・・また、「川崎宿問屋日記」の弘化二年(一八四七)五月十五日に 当宿六郷川御普請所足金無尽取立ニ会目連中ヨリ貰請候高金百八拾両也 此金ニ而山王鳥居建立とあります。
     (稲毛神社HP http://takemikatsuchi.net/kdai/kahi.htmlより)

     「それじゃ昼にしましょう。」朝入れて来たお茶がなくなったので、信号前のコンビニでペットボトルを仕入れて店に入る。蕎麦処「美濃戸」。川崎市川崎区東田町六町目十三番地。大正三年創業の店である。市役所の真ん前だから平日は混みそうだが、今日は客も少なく広い二階が貸し切りになった。
     スナフキンはここで着替える。「二枚持ってきたからね。」確かに汗まみれで気持悪いが、私は一枚しか持ってきていないから夕方まで我慢しなくてはならない。「私も一枚持ってきましたよ」とロダンが言う。
     ダンディだけがビールを頼んだ。「水みたいなもんですよ」と言うが、今飲んでしまうと、この暑さでは午後のコースに差し支えがありそうだ。ロダンも「まだ午後がありますからね」と我慢する。伝統のある店なのにエラソウでなく、定食に半蕎麦を付けたセットメニューが八百五十円とお得な、私に向いた店である。定食の主菜は選べることになっている。
     スナフキンはそのセットを選んだが、量が多そうだから私は六百五十円の玉丼にした。他の連中はみんな蕎麦を選んだ。当り前か。温かいツユにナスやキュウリを浮かせて、冷たい蕎麦(夏野菜のつけせいろ)を食うのも旨そうだ。天ザルの人もいる。ロダンは大盛りである。
     案の定、スナフキンのコロッケ定食セットは量が多くて、「ご飯は要らなかったな」なんて呟いている。チロリンがこちらを眺めて、「向うじゃご飯食べてるよ」と不思議そうに呟いている。メニューを見ると酒のつまみも充実している。「ぬき」もちゃんと入っている。今日は反省会もこの店でやるのだ。
     「反省会に参加する人は。」スナフキンが人数を数えていると、「数える必要もないじゃないか、知ってるだろう」と講釈師が口を膨らませる。「だって都合の悪い人もいるかもしれないし。」結局、手を挙げたのは予想通りで、桃太郎と併せて十人で予約をした。おとなしそうな店主が挨拶に来る。スナフキンの元部下である。
     ゆっくり休んで十二時五十分に店を出る。午前中より日射しがやや弱まり、少し歩きやすくなっただろうか。市役所通りを戻って東海道に出る。
     佐藤本陣跡は、一階にはセブンイレブン、二階に「和民」が入っているビルだ。川崎市川崎区砂子二丁目四番地十七。「自転車どかして下さいよ。」解説板のまん前に自転車を停めてあるから写真が撮り難い。門構え玄関付きの屋敷は建坪百八十一坪あった。十四代将軍家茂が上洛したときに宿泊している。
     街道を挟んで向かいの川崎信用金庫の敷地には「佐藤惣之助生誕の地」碑が建っている。川崎市川崎区砂子二丁目十一番地一。本陣の向かいに、佐藤家個人の屋敷があったわけだ。「佐藤さんってエライんだ。」チロリンの言葉でみんなが笑う。「佐藤姓は多いですからね。」昔、秋田では「佐藤高橋馬の糞」と言われた。「私はそれを言おうと思ったけど遠慮した」と碁聖が笑う。
     詩人としての惣之助なんてほとんど知らなかった。しかし詩集を二十二冊出したというからには、ちゃんと詩人としても考える必要があるかなんて思っていると、本棚に『講談社版日本現代文学全集』の「千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大学集」があるではないか。ブックオフで百円で買っていたのをすっかり忘れていた。ざっと読んでみたが余り関心しない。さっきの『祭りの日』は収録されていなかった。
     解説を書いている山本健吉は、惣之助の天真爛漫な人柄、野性的な自然児のたくましい生活力を言いながら、「晩年の太平洋戦争下における詩魂の荒廃」「詩魂の転落のあまりもの激しさ」を指摘している。結局、佐藤惣之助が日本文化史に何らかの足跡を残したとすれば、それは古賀メロディーの作詞者としてではなかったか。
     碑には眼鏡をかけた惣之助の像と『青い背広で』の歌詞が載っている。「いつ頃の歌かね。」「昭和初期ですね。」正確には昭和十二年である。灰田勝彦が歌っていたと姫が言うのは、どういう場面だろうか。そもそもこの歌は、藤山一郎が着ていた青い背広を見て、惣之助が作詞したと伝えられる。
     「佐藤惣之助って他に何がありますか。」歌謡曲派のロダンにしてはおかしな質問ではなかろうか。「『人生劇場』、『緑の地平線』、『人生の並木道』、『湖畔の宿』。」服部良一の『湖畔の宿』を除けば、他は古賀政男の作曲である。
     「時世時節は変わろとままよ 吉良の仁吉は男じゃないか。」「そうか、『人生劇場』か。」「『六甲おろし』もそうなんですね。最近、若い人がカラオケで歌ってました。」私は阪神タイガースの歌なんか知らない。
     新川通りを渡ると、信号脇に「小土呂橋跡」の解説板と親柱が立っている。さっき稲毛神社で遺構を見たものだが、この通りがかつては二ケ領用水の末流の新川堀であった。低湿地の水はけのための排水路で、慶安三年(一六五〇)に掘られたものだ。昭和六年から九年にかけて埋め立てられ、現在では橋の名前で知るだけになった。

     次は浄土宗教安寺だ。川崎市川崎区小川町六丁目二番地。山門を潜るとすぐ左手に、徳本上人の六字名号碑があった。「何て読むんだい。」「南無阿弥陀仏」の六文字は蔦文字と言われる独特の字体で、どこだったか思い出せないが前に一度だけ見たことがある。徳本は全国各地を巡りながら、この名号を書いた(木版刷り)紙を配ったのである。貰った信者は、掛け軸にしたり、こうして石に刻んで碑を作った。
     「誰なの。」「木食です。」「徳本って書いてありますね。」名号の下に「徳本」とあり、更に丸に十字のような模様を彫ってある。民衆だけでなく、将軍家斉、紀伊藩主治宝や一橋治済に招請されるなど、広範囲に信仰を集めた。徳本行者は宝暦八年(一七五八)六月二十二日、紀州日高郡志賀の庄、久志村の農家に生まれた。

    二十七歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化十一年(一八一四)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。(ウィキペディアより)

     「富士講の石灯籠はどこにあるんだい。」スナフキン作成の案内を見ながらドクトルが探している。山門を出ればすぐ左側にあった。天保十一年(一八四〇)、川崎宿京口見附に建てられた。
     駐車場の角が、その川崎宿京口見附(棒鼻)跡で、川崎宿の京都側の出入り口だ。宿場の教会には棒杭を立てていたので、棒鼻とも呼ばれた。「加藤遠江守宿」の関札が復元されて掲げられている。これが棒鼻の石垣の上に立てられ、その日宿泊する大名家の名を知らせたのである。因みに加藤遠江守は伊予大洲藩主である。
     「時間があるからちょっと寄りましょう。」スナフキンが連れて行ってくれたのは川崎小学校である。川崎市川崎区宮前町八丁目十三番地。門は閉ざされているが、「川崎小學校」と寄席文字のような書体で書いた新しい木の門札が珍しい。木札もそうだが、本字を使っているのが特に珍しいとダンディが喜ぶ。「メーメーヨーヨーですよ。」ダンデイが言うのは書き方を覚える呪文である。「ニカイノオンナガキニカカル(櫻)じゃないですよ。そんな下品なことは言わない。」私はイトシイトシトイウココロ(戀)を覚えている。
     その脇に「川崎小學校 わたしたちの先輩」として佐藤惣之助、坂本九の二人を紹介する解説板が掲げられている。この二人が川崎の偉人と目されているのだろう。
     坂本九の「ウヘヲムフヒテアハルコオウオウオウ」という唱法が、作詞者永六輔の激怒を買ったことは知られている。日本語の乱れの典型例、歌謡曲の低俗さとして、当時のインテリの間で嘲笑されたこともあった。フランク永井の『有楽町で逢いましょう』が「濡れて小糠と木にかかる」と笑われたのも同じだが、今ではそれを批判するものは誰もいない。遥か後に桑田佳祐が出現して、もっと徹底して日本語の意味を崩壊させてしまう。
     昭和六十年八月十二日の日航機墜落事故死によって、九ちゃんは伝説的な大歌手になってしまった。勿論、生前も老若男女世代を問わずに愛される歌手であったことに変わりはないが、「大歌手」と言うより、私が好きな『涙くんさよなら』『明日があるさ』等が今でも歌われるように、誰にも好かれる歌手であった。しかし歌謡曲が滅びてしまった今、仮に生きていたとしてもあの頃と同じように世代を超えて愛されたかどうかは分からない。それにしても満四十三歳の死は余りに早かった。
     「全日空しか乗らないのに、たまたまその日は日航しか取れなかったんだ。」講釈師はこういうことに異常に詳しい。席も出来るだけ良い場所にと、マネージャーが交渉して移動したと言うのだが、それも却って仇になって遺体の損傷は酷かった。
     今生きていれば七十一歳である。因みに坂本九と同じ昭和十六年生まれの有名人を上げてみる。岩下志麻、徳光和夫、萩本欽一、石坂浩二、長山藍子、倍賞智恵子、三田佳子、橋爪功、渡哲也。
     「ポストが懐かしいな。」赤い丸型の郵便ポストが設置されている。説明によれば秦野市で使われていたものをここに移設し、現に使用しているのである。

     現在、川崎市内で実際に運用されている丸型ポストとしては、平成十七年三月に設置された砂子の里資料館前の丸型ポストに続き、復活第二号になります。(解説板)

     現在主流の箱型は内部に郵便物を溜める袋を釣るし、それを回収して交換するだけで済む。丸型の場合にはそんな袋はないから手で掻きださなければいけない。一九七〇年に箱型が登場し、手間のかかる丸型の生産は終わった。しかし何でも古いものを有難がる連中は多く(私たちもか)こうして移設されて復活する場合がある。公衆電話ボックスを懐かしむのと同じだ。
     もう一度東海道に戻る。昔の地図を見れば周囲には田圃や畑が広がるばかりで何もない。田圃の真中を狭い東海道が一本通るばかりで、それが八丁(約八百七十メートル)も続いていとして八丁畷と呼ばれた。
     芭蕉ポケットパークで休憩する。川崎市川崎区日進町二十四番地十五。ベンチの前の床には芭蕉の弟子七人の句碑のプレートが埋め込まれている。「こっちはちゃんと読めるのに、なんで、そっちは反対なの。」少しづつずれて向かい合う七つの椅子に座って読むからだ。

     一休み樗の花や辻の花   杏村
     行く水の跡や片寄菱の花  桃隣
     組笠にもる日を包め夏木立  子珊
     落着の故郷やてうど麦時分  杉風
     浦風やむらがる蝿のはなれきは  岱水
     刈こみし麦の匂ひや宿の内  利牛
     麦畑や出ぬけても猶麦の中  野坡

     自販機の裏側は半円形の柱になって、そこにも門弟二十二人の句が書かれている。曽良の句だけを挙げておこう。

       箱根迄送りて
     ふつと出て関より帰る五月雨

     元禄七年五月十一日、五十一歳の芭蕉は江戸を発って上方への最後の旅に赴いた。ここの茶屋で門人たちと団子を食べ、弟子に送られた。但し曽良は老齢の師を気遣って箱根迄送って行ったのである。
     芭蕉は寿貞尼の子次郎兵衛を伴っていたが、六月八日、芭蕉が泊っていた嵯峨野落柿舎に、深川芭蕉庵で寿貞尼が死んだことを知らせる手紙が届いた。
     芭蕉は「寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく難申盡候。好斎老へ別紙可申上候へ共、急便に而、此書状一所に御覧被下候様に頼存候。・・・・何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理くつは無之候」と手紙を書き、次郎兵衛に持たせて江戸に帰した。まさ・おふうは寿貞尼の娘である。七月十五日、伊賀上野で行われた松尾家の盂蘭盆会で、芭蕉は寿貞尼に句を捧げた。

       尼寿貞がみまかりけるとききて
     数ならぬ身とな思ひそ玉祭り  芭蕉

     寿貞尼が芭蕉の愛人であったかどうか、さまざまな憶説が乱れ飛んで真偽は不明のままだ。そして十月十二日には芭蕉も死んだ。
     少し行けば日進町内会館「麦の郷」の前にも解説板が立っている。更に八丁畷駅が見えて来た辺りの右手に芭蕉句碑がある。川崎市川崎区日進町十一番地九。ちゃんと屋根のある建物で保護されている。見送りの門弟の詠に返したのがこの句である。

     麦の穂をたよりにつかむ別れかな  芭蕉

     「どう読むんだい。」「真ん中から、右、左へ。」なんと惻々たる思いがする句だろうか。頼りとすべきは麦の穂しかないのである。既に寿貞尼の命も自分の命も長くはないと覚悟を決めていたのではないか。

     『陸奥鵆』には、この句に先立って桃隣の詞書 「老いたるこのかみ(兄松尾半左衛門のこと)を心もとなく思はれけむ、故郷ゆかしく、又、戌五月八日、此の度は西国に渡り、長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞慣ぬ人の詞も聞かんなど、遠き末を誓ひ、首途せられけるを、各々品川まで送り出、二タ時計(ふたときばかり)の余波(なごり)、別るる時互にうなづきて、声をあげぬばかりなり。駕籠の中より離別とて扇を見れば」とある。
    (「芭蕉db」http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/muginoho.htm)

     それならば品川で第一回の送別会が行われ、なお名残惜しい門人が川崎まで同行したのかも知れない。
     八丁畷駅で京浜急行に乗ることになっている。「向こうに出れば階段がないから。」スナフキンに続いて踏切を渡ると、その左側に無縁塚があった。三十センチほどの舟形光背の地蔵尊と、墓石型の慰霊塔が並んでいる。

     八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代頃の特徴を備えた人骨であることが判明しました。
     江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿の外れの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
     不幸にして落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。(「八丁畷の由来と人骨」川崎市教育委員会)

     「八丁畷駅って、昔の地名を大事にしていていいですね。ユーカリが丘なんて駅名にならなくて良かった。」本当に私もそう思う。
     「電車が来た。急ごう。」改札を走って抜けたがまだ後ろがいる。「急いで乗って」と急かし、碁聖が乗り込んだのを確認したとき、ドクトルが切符を買っている姿が見えた。しかし電車は出発する。
     川崎駅で大師線に乗り換えるのだから、取り敢えずホームで待つ。八丁畷は各駅停車しか止まらないので、十分以上待たなければならない。姫が携帯電話にかけてみる。「お留守番になってるの。確認の仕方が分かるかしら。」たぶん気づいていないだろう。やっとドクトルが到着した。
     「スナフキンに電話したんだけど通じないんだ。」「おかしい、ここに書いてあるでしょう。」「それを見てかけたんだよ。」実はスナフキンが案内に書いた番号が間違っていた。案の定、ドクトルは姫の留守番メッセージは見ていない。パスモカードが上手く反応しなかったようだ。
     大師線の中で留守番メッセージの見方を確認するため、携帯電話を借りた。他人の電話は使い方が難しい。「あっ、これだな。できたよ。」ドクトルは留守番メッセージを聴きながら返事をしようとしている。スナフキンの電話番号も正しく登録した。「これで大丈夫ですよ。」
     港町、鈴木町を過ぎて川崎大師駅に到着した。スナフキンは改札を出て右手の空き地に入って行く。「知っている人は少ないと思います。」「知らなかった。」マリオもダンディも知らない。京浜急行発祥の地碑が建っていたのだ。

     現在の京浜急行電鉄の元となったのは、旧東海道川崎宿に近い六郷橋から川崎大師まで標準軌で開通した大師電気鉄道である。同社は日本で三番目、関東では最初の電気鉄道会社であった。創立時には安田財閥が人的・資金で援助したこともあり、そのため現在でも安田財閥の流れを組む芙蓉グループの一員となっている。
     東京市電との相互乗り入れを目論み、軌間を開業時の標準軌から一旦は一三七二mmの馬車軌間へ改軌を行うが、後に子会社となる湘南電気鉄道による三浦半島方面の延伸線への乗り入れを行うために、再度標準軌に改軌された。(ウィキペディアより)

     明治三十二年(一八九九)一月二十一日、大師鉄道株式会社として六郷橋から川崎大師間二キロの運行を開始したのが最初だ。四月二十五日には、社名を京浜電気鉄道株式会社に改める。
     信号を渡り、表参道厄除け門を潜る。「意外に人が少ないな。」「暑いからじゃないか。」「みんな墓参りに行ってるのかも知れない。」「普段はこんなもんじゃないよ。」私は普段を知らないからね。初めてだと言うとスナフキンが驚いていたが、私はこういう観光名所というか、初詣に来るような神社仏閣には殆ど縁がなく過ごしてきたのである。他に川崎大師は初めてというのが三人程いた。
     店先で何かを燃やして水をかけているのは、何の呪いだろう。馬頭観音の小さな祠がある。スナフキンによれば、この馬頭観音は縁結びに御利益があり、この会ではごく一部の人しか関係ないと言う。それなら今日は寝坊をした人が来ていないから、特にお参りする必要もない。
     仲見世通りに入り込むと、似たようなクズ餅屋と咳止め飴屋が並ぶ。飴屋の前では包丁で俎板をトントン叩いて音を立てている。「いつもはもっと音がうるさいよ。」人通りが少ないから店も張り合いがないのだろうか。どう違のかはさっぱり分からないが、「うちしかないよ」と、どの店でもおばさんの声が喧しい。

     葛餅の呼び声高し大師前  蜻蛉
     片蔭や俎板叩く飴の音  蜻蛉

     「俺、クズ餅って食ったことがないな。」「ホントカヨ。そんなに甘くないから旨いよ。」スナフキンは酒飲みの癖に甘いものも食う。縁起を稼いで久寿餅と書く。住吉、磯福、住吉屋総本店、福嶋屋があるらしい。姫は「独鈷のクズ餅が美味しいって聞きました」と言う。それは住吉の商品のようだ。
     クズモチというから葛粉を使ったものかと思えば、実は違うのである。一年余り貯蔵した小麦の澱粉を蒸し固めたもので、だから葛餅とは書けない訳だ。スナフキンに教えられたところでは、天保年間(一八三〇~一八四四)、大師河原村の久兵衛が、納屋の樽の中で一年間保存した小麦粉が、発酵して良質な澱粉になっていることを発見したのが最初である。
     飴は松屋総本店、松屋の飴総本舗に評判堂。だるま煎餅の津田屋、吉田屋などがある。どの店で買えば良いのか素人は悩んでしまうから、講釈師に訊かなければいけない。
     川崎大師は、正確には真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺と言う。川崎市川崎区大師町四丁目四十八番地。「関東の三大智山派っていうのがあるんですよ。川崎大師、成田山、もうひとつはどこだったかな。」ダンディに言われても分からない。「川越大師。」「そんな田舎じゃありませんよ」とあっさりバカにされてしまった。「蜻蛉も知らないんですか」と姫も首を捻る。冷静に考えれば川越大師は天台宗だから仲間に入る筈がない。調べてみると川崎大師平間寺、成田山新勝寺、高尾山薬王院が智山派の関東三大本山であった。
     これとは別に、関東厄除け三大師は智山派の川崎大師、西新井大師、観福寺大師堂を言う。これに対して関東三大師と言えば天台宗の元三大師良源を祀る寺院で、佐野厄除け大師、川越大師、青柳大師を言う。何度聞いてもややこしい。
     大きな山門に釣られる大提灯の底を触りながら、「浅草寺は松下が寄進したんだ」と講釈師が講釈する。私だって、その位は知っている。四天王像はさすがに立派で、京都・東寺の国宝尊像を模刻造立したものだ。
     「浅草と同じようなこと言ってる」と講釈師が笑うのは、この寺の由緒のことだ。大治三年(一一二八)、漁夫の平間兼乗が夢告によって海中から弘法大師像を拾い上げて堂を建立したのが始まりだと縁起が伝えている。浅草寺では桧前浜成、竹成が観音像を海中から拾い上げた。
     「平間寺って、ヘイケンジかヘイゲンジか。広辞苑とウィキペディアで違っている。」私は広辞苑を持っていないので、ウィキペディアと川崎大師のホームページを見ると、どちらも「へいけんじ」と振ってある。それなら広辞苑が間違っているのだろう。
     ここで三時まで自由散策となる。十七日から風鈴市が開かれるようで、境内では業者が準備している。なんでも全国から九百種類、三万個の風鈴を集めるのだそうだ。余り参拝客がいないので、「焼き蕎麦ありますよ」なんて言う露店の声もハリがない。
     大本堂、不動堂と回ると、信徒会館の前に姫がいた。「ダンディが、あの像は古賀政男によく似てるって。」確かに良く似た顔だと思いながら近づくと、なんだ、その通り、古賀政男じゃないか。古賀政男が『川崎大師讃歌』という曲を作って奉納したというのである。近江俊郎が歌ったというけれど、誰もそんな歌は知らないだろう。
     スナフキンは信徒会館に入って行く。「入れるんですか」と驚きながら姫もついてくる。中は冷房が利いて涼しい。すぐにダンディもやって来た。この三人は何度も来ているだろうから、特に境内の見学は必要ないだろう。しかし私はやはり少しは見ておきたい。汗も引いたので外に出る。
     こういう有名な寺院は情報も充実しているので、私が下手に案内するより、そちらを参照してくれれば良い。芭蕉の句碑「父母のしきりに恋し雉子の声」があった。これは高野山で詠んだ句だから、真言宗の寺院には時々ある。
     「いろは歌頌徳碑」は気付かなかった。いろは歌は弘法大師の作と伝えられているが、まず信用しなくて良い。作者は不明だ。文献として初めて見られるのは『金光明最勝王経音義』(一〇七九年)で、表記は万葉仮名でこんな風になる。

     以呂波耳本へ止
     千利奴流乎和加
     餘多連曽津祢那
     良牟有為能於久
     耶万計不己衣天
     阿佐伎喩女美之
     恵比毛勢須

     歴史を知らない哲学者(梅原猛のことだ)が、この行末の文字だけつなげて「とがなくて死す」と読み、柿本人麻呂の無念の死を暗号化したなんて無茶苦茶な説を唱えたことがある。いろは四十七文字には上代特殊仮名遣いの甲乙の区別がないという基本的なことさえ無視してしまえば、どんなことでも言えるので、荒唐無稽な謎解き本は多い。
     昔からこの歌は仏教の教えによると考えられ、興教大師覚鑁は『涅槃経』の偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意味であると解説した。
     そろそろ時間になった。大山門に行けばもう全員が揃って、猿回しの芸を見ている。もう皆は土産も買ってしまったようだ。「ドクトルはさ、俺のあとばっかりついてくるんだ。」どの店で買えばいいか、一番良く知っているのが講釈師だから当然だろう。それじゃ行こうかと歩きだした途端、スナフキンは久寿餅屋に入っていった。姫は煎餅屋に入る。私も松屋の飴総本舗で五百円のダルマ飴を買った。金太郎飴のようなものだ。
     駅に着き、ドクトルが駅員にパスモの確認をして貰っている。「八丁畷で入札しているのに出た記録がありません。」カードで入れなかったから、わざわざ切符を買ったのだ。「確かに買ったんですね。」「買った。」「それでは入って下さい。」カードの反応が悪かったのか、ゲートに問題があったのかは分からない。とにかく無事に終わった。
     ヨッシーの万歩計で一万六千歩。十キロ弱ということになるが、途中で電車を使ったからそんなに歩いたような気はしない。
     講釈師、チロリン、クルリンは京急川崎からそのまま京浜急行で行くと、別れて行った。残りは美濃戸に向かう。
     四時少し前だ。今度は一階で、席に着いてすぐにトイレで着替える。姫、ロダンも交代で着替える。「ロダン、頼んでいいですか。」スナフキンが声をかける。「どうぞ、何でも注文して下さい。」「そうじゃなくて、頼む係を頼んでもいいですかってこと。」日本語はややこしい。「桃太郎はまだかな。」「四時って言ってたんだけどね。」昼に我慢していたからビールが旨い。

     歩き来てビールも旨き蕎麦屋かな  蜻蛉

     十五分程経った頃、やっと桃太郎が到着した。昼間ビールを飲んで昼寝していたらしい。今日は蕎麦焼酎を蕎麦湯で割る。ロダンの注文は実に適切でつまみが旨い。晒し玉葱に載せた鴨肉、豆腐の味噌漬け、ワサビの葉の漬け物、ゴーヤチャンプル。男は料理の味を云々するものではないと私は思っているが、それでもやっぱり、さくら水産とは全然違うね。(さくら水産と比較すること自体、大変失礼だったか。)旨いつまみに、焼酎を三本空けて一人二千五百円は余りに安い。一万円以上値引いてくれたのではないかというのが、スナフキンの計算だ。まずそんなところだろう。店主にはくれぐれもお礼を言って貰うよう、スナフキンに頼む。
     碁聖、ヨッシー、姫、ロダン、蜻蛉は久し振りにカラオケに入る。スナフキンと桃太郎は登戸でワインを空け、更にスナフキン家まで行って吟醸酒「鬼無里」を飲んだと言う。元気なことだ。

    蜻蛉