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    第四十八回 目黒川編  平成二十五年九月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.09.21

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     旧暦八月十日。「白露」の次候「鶺鴒鳴」である。蝉の声はすっかり聞こえなくなり、虫の音が大きくなってきた。ノウゼンカズラや百日紅も大分衰えて、コスモスが咲き始めた。今日の予報では最高気温が三十度を超えると言っているのでまだすっかり秋という訳にはいかないが、空気は明らかに変わってきた。あと五日で仲秋の名月だ。
     この夏、まだ暑い盛りの八月二十二日、藤圭子が西新宿のマンションから飛び降りて死んだ。六十二歳は私と同い年である。ずっと思い出すこともなかったのに、いきなり知らされると動揺する。昭和四十五六年当時、私が一番アホだった頃のことが否応なく甦ってくる。藤圭子の名は、あの時代と切り離して考えることはできない。このことは第六回「大久保・余丁町編」で西向天神の『新宿の女』歌碑を見たときに触れたことがあるから繰り返さない。ワイドショーのアナウンサーや、池上彰、田原総一郎のコメントのいい加減さについて、言いたいことは一杯あるが、今は言わない。この八月の末、私は気が滅入っていた。

    新宿の女逝きたり秋暑く  蜻蛉

     今日は桃太郎リーダーに従って目黒川を歩く。川の総延長七・八二キロ。但し起点から暗渠の部分が六百メートルあるので、およそ七・二キロが私たちの歩く川の長さだ。まず概要を抑えておかなければならない。

     東京都世田谷区三宿の東仲橋付近で北沢川と烏山川が合流して目黒川となり南東へ流れ、品川区の天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぐ。
     起点(北沢川と烏山川の合流点)から国道二四六号の大橋までの六〇〇メートル強の区間は暗渠化され、それと併せて地表部分には人工のせせらぎを抱いた緑道(目黒川緑道)が整備されており、カルガモや鯉、ザリガニなど様々な生物が住み着いている。大橋より下流は開渠となっている。現在、「清流復活事業」として、目黒川を流れる水の大部分は新宿区の東京都下水道局落合水再生センターで下水を高度処理したものを導いている。
     目黒区の辺りでは桜並木があり、花見の時期には多くの見物客でにぎわう。(ウィキペディア「目黒川」より)

     集合は田園都市線の池尻大橋駅だ。副都心線で渋谷まで出て田園都市線に乗り換えると、滅多に来ない渋谷駅の地下は迷路のように感じる。それでも改札を一度も通らずに鶴ヶ島から池尻大橋まで来られるのは便利になったのだろう。しかし余りに便利になりすぎると、どこかで必ず歪が起こる。とんでもない場所での事故が、東京中の路線に影響を及ぼすのは勿論だが、アホが蔓延しているのも、便利さゆえだと私は偏見をもって確信している。
     大山街道や世田谷歩きでこの辺りはお馴染みの筈だが、この駅には初めて降りる。渋谷から一・九キロ、次の三軒茶屋まで一・四キロ。「昔は玉電でした。」玉川電車は昭和四十四年に廃止されたが、その後継として、昭和五十二年から渋谷・二子玉川園の間九・四キロを新玉川線が走った。平成十二年に田園都市線に編入され、世田谷区池尻の池尻駅と、目黒区大橋の大橋駅が廃止されてその中間にできたので、この駅名がついた。大橋は目黒川に架かる橋である。
     定刻まで間があるが、既にかなりの人が集まっている。今日の参加者は多くなりそうだ。「改札口は狭いからさ、地上に出ようぜ。」講釈師の言葉で上に出る。タバコが吸いたかったから丁度良い。「この辺は路上禁煙じゃないのかい。」たぶん大丈夫だろう。
     やがて定刻にはメンバーが揃った。「十六人。」「違う、十八人いるよ。」きちんと確認していた宗匠から指摘が入った。今日はチェック用の名簿を忘れてきて、一人づつ名前を書いた。「自分を入れてないんじゃないの。女性は六人。」女性の数はあっていたから、問題は男性である。何度もメモを見直して、私自身と肝心のリーダーを勘定していないのが分かった。
       桃太郎、若旦那夫妻、碁聖、椿姫、チロリン、講釈師、ダンディ、ドクトル、スナフキン、プリン、ヤマチャン、宗匠、ロダン、あんみつ姫、マリー、オサム、蜻蛉。確かに十八人いた。
     暫く足の故障で参加できなかった若女将が回復したのは目出度いことだ。「まだリハビリ中ですけどね。このコースなら何かあってもすぐに帰れるから」と若旦那が説明する。寒くても暑くても外に出ない椿姫も久々だし、プリンも三月に続いて二度目の参加となった。「先生の方は来ないのかな。」スナフキンの頭の中では、たった一度会っただけなのに、プリンはサンデー先生とセットなのである。彼女に訊いて見ると、高校三年間が同じクラで大学も一緒だったらしいから、お神酒徳利みたいなものだ。そう言えばチロリンといつも一緒のクルリンはどうしたのだろうか。小町は遠いから無理だろうが、カズチャンとハイジがいないのも淋しい。
     「私のことは書かないで頂戴ね。」相変わらず若々しい笑い声をあげる椿姫に会うのは何年振りになるだろう。随分長い間冬籠りしていたようで、ダンディが連絡してやっと来てくれた。今日は黄色のTシャツ姿でリュックを背負い、貝塚爽平『東京の自然史』を手にしている。地形を確認しながら目黒川を探査しようというのである。
     「これは名著です。私のバイブルですよ。」椿姫とは地学ハイキング仲間のロダンが、前に何度も聞いたセリフを口にする。確かに名著の評判高い本で、地形や地質に関心のある人は必ず手にするという。私も一度はきちんと東京の地形を把握して置きたいと買ったものの、文字が頭の右から左に素通りするだけで、遂に読了を諦めて椿姫に進呈した。紀伊國屋書店が増補第二版を出してから長く絶版状態になっていたもので、一昨年、講談社学術文庫で復刊されたから入手しやすくなった。
     ダンディはプリンに、「蜻蛉と同期生とはとても思えないな」なんて、前回と全く同じお愛想を言っている。相変わらずの世の介振りだ。「ヒゲを伸ばしたからでしょうね」とあんみつ姫は笑う。以前にもちゃんと説明していたことだが、そして誰の賛同も得られなかったが、私はもともと顔立ちが若くて優しすぎたので、少しアクセントをつける必要があったのである。まあ、私のことはともあれ、プリンセス・プリンが若く見られるのは喜ばしいことだ。
     「四街道ってどの辺でしたか」とロダンが尋ねてくる。プリンの居住地のことだ。「成田の方、田舎だよ」なんて私はいい加減なことを言ってしまった。「あっ、成田の方ね。」誤解を払拭しておかなければならないだろうか。総武本線で千葉と佐倉の間に位置する。東京から一時間程度で行くと思えば、そんなに遠いところではない。あくまでも東京駅を起点に考えれば、私の家より近いことになる。しかし佐倉で成田線に乗り換えれば成田に着くのだから方向としては「成田の方」で間違っていないだろう(無理な弁解だ)。
     やや曇り加減で、今のところ暑さは余り気にならない。これなら帽子は要らないだろうと、ここに来るまでの間にすっかり汗で濡れてしまった帽子をリュックに放り込んだ。帽子を被るとすぐに汗まみれになってしまうのだ。あんみつ姫が帽子嫌いなのも、私と同じ理由だろうか。髪の毛の量は全く違うけれど。「蜻蛉みたいにTシャツにすれば良かった」と言うヤマチャンは、半袖ワイシャツ姿だ。私はTシャツしか持っていないのだ。
     「こんなに若い人がいるの。」椿姫の突拍子もない声が聞こえてくる。確かにオサムはこの会では格別若いが、そんなに驚くことはない。椿姫が冬眠している間、世の中は変わっていて新しいメンバーは増えている。「でも、体力は一番ないんです。」オサムは急に腹が出てきたんじゃないか。飲み過ぎず、私のように正しい生活を心がけなければいけない。「飲み過ぎじゃないですよ。酒を控えたから食べすぎちゃった。」

     玉川通りで左手を眺めると、暗渠の上の遊歩道が見える。基点からずっと暗渠を流れていた目黒川は、ここで地上に出て海までそのまま流れて行くのだ。ここから左岸を歩く。川の両岸には桜並木が続き、雅叙園の辺りまで東京でも有数の花見名所になっている。常盤橋、万代橋、氷川橋、東山橋と青い欄干の橋が続く。山手通りの陸橋(目黒橋)のところは直進できないので、左から回り込む。
     「桃太郎はすっかり川専門になっちゃったね。」「川は俺が最初に始めたんだ。アイデアを盗られちゃったよ。」確かにスナフキンが玉川上水編(第二十六回)を最初に企画した。しかし実はその前に、あんみつ姫が小名木川沿いのコース(第十六回)を企画しているから、川歩きは完全にスナフキンの特許という訳でもない。「言ったもの勝ちですよ。」
     川のコースでは、スナフキン(武蔵小金井から三鷹)に続き、ダンディは更にそれを遡上して第二十九回では羽村堰から立川までのコースを選んだ。私も第三十二回で神田上水を部分的に選択し、桃太郎は第三十四回と第四十一回で神田上水を河口から水源の井の頭まで歩いた。アイデアはどんどん盗用して良いのである。
     川沿いの狭い道なのに、意外に車の通りが多い。「先頭はもっとゆっくり歩いてくれよ。」後ろから講釈師の声がかかる。若女将は足が治ったばかりでリハビリ中だと言っていたのを忘れていた。赤い中の橋。南部橋の袂には「櫻樹記念碑」が立っている。

     この記念碑は、昭和の初めに行われた目黒川の初期改修にあわせて、地元の有志の方々により植樹された桜を、記念して建てられたものです。建てられた当時は、はここより上流の目黒橋の近くにありましたが、昭和五十六年から昭和六十一年にかけて行われた護岸改修に伴い、この場所に移しました。
     また、柳橋から目黒橋の間に植えられた桜は、昔の護岸の時に植えてあったものを、再び植えなおしたものです。

     「なんだか、ずいぶんゆっくりだね。」柳橋、千歳橋。ここを左に行けば西郷山公園(西郷従道邸)に出る。以前、あんみつ姫の案内で世田谷を歩いた時に寄った所だ。あの時、姫はサザエさんを称していたから、さだめし講釈師はカツオ君、ロダンは中島君の役割だったか。
     天神橋を渡ってリーダーが最初に寄ったのは長崎カステラ本家「福砂屋」である。「福砂屋だろう。知っているよ。」ヤマチャンが知っているのは九州の佐賀出身だからだろうか。有名店らしい。私はそんなことには全く疎くて、カステラなら文明堂ではないかと思っていたが、文明堂は明治創業の店であった。これではウィキペディアのお世話になるしかない。

     福砂屋(ふくさや)は、長崎県長崎市船大工町三番一号に本社を持つ、カステラの製造業者である。長崎カステラの元祖といわれている。一六二四年(寛永元年)創業。『カステラ本家』を商標登録している。中国でめでたい動物と言われる蝙蝠を商標とし、看板には蝙蝠が使われている。長崎本店の他にも、福岡の赤坂店(明治通り)、東京の赤坂店(一ッ木通り)等の直売店を持つ。

     その東京工場であった。目黒区青葉台一丁目二六番七号。店の外まで甘い香りが漂ってくる。桃太郎は何の躊躇いもせずに店に入って行くから、自然にここでお土産タイムになってしまった。「蜻蛉には考えられない世界でしょう」と碁聖が笑う。「どこでも買えるだろう」とスナフキンは冷静に観察しているが、桃太郎は「勢いで買ってしまった」と苦笑いする。「いつ食べるんだい。」「酒のつまみにはならないですよね。」アリバイの必要なロダンは買わなくても良いのだろうか。プリンはいつの間にかバッグを用意してカステラの紙袋を収納している。「準備がいいじゃないの。」あんみつ姫もチロリンも買っている。
     福砂屋は「カステラ本家」であった。そして別に天和元年(一六八一)創業の松翁軒が「カステラ元祖」を名乗っているらしい。
     雲が切れて日差しが強くなってきた。やはり予報通り暑くなりそうだ。かなり湿度が高いのは、台風接近の影響かも知れない。もう一度橋を渡って左岸に戻る。三面護岸の壁は高く、水量はそれほどでもない。水面には桜黄葉が浮かんでいる。「これが氾濫するのかな。」もう少し下流になると、目黒川はしょっちゅう氾濫していた。
     調べてみると、目黒川は昭和五十四年から平成十八年までの二十八年間で四十五回の水害に見舞われている。「俺は警報が鳴るのを聞いたことがあるよ。」スナフキンは五反田営業所長だったことがあり、その時に目黒川の氾濫に出くわしたという。今年も四月七日と七月二十三日には氾濫警戒情報が発令された。このところ「経験したことのない」局地的な豪雨があちこちで発生する。平成二十一年十一月に発表された「目黒川流域豪雨対策」(東京都総合治水対策協議会)によれば、一時間当たり五十ミリの雨に対応するのを目指すというのだが、今年のように一時間百ミリを超える豪雨が頻繁に起こっては、対策はなかなか追いつかない。

     目黒川は、洪積世後期に分類される下末吉面の「淀橋台」と、それよりやや新しい武蔵野面の「目黒台」に挟まれた沖積低地の中を流れている。淀橋台は左岸側に位置し標高は二十五mから四十五mまでであり、およそ十二万年前に形成された海成段丘面である。目黒台は右岸側に位置し標高は二十mから五十五mまでであり、およそ八万年前から六万年前に形成された河成段丘面である。
     目黒川が流れる谷底平野は、淀橋台と目黒台を開析(侵食)した谷に、新しい河成堆積物である沖積層が堆積し、その上に人工的な盛土に覆われたものである。(「目黒川流域豪雨対策」http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/topics/h21/topi035-3.pdf)

     要するにこの川は台地に挟まれた谷底である。直接川に注ぐ雨だけでなく、コンクリートやアスファルトで覆われた両側の台地から流れ落ちる量が多いだろう。都市の構造自体に問題があるのだ。明日明後日は台風が予想されているが大丈夫だろうか。

     「あれ、面白いね。」宗匠が指差したのは、細い電柱のような柱の上に載った四角い網だ。最初にドクトルが見つけたらしい。「何だろう。」「ユスリカを追い払うんだ。」柱の上に説明板が括りつけられていて、それを読むと電撃殺虫機である。高電圧で大変危険だとも書いてある。あれだけ高い位置に載せられているから、まさか触る人はいないと思う。
     ユスルカは蚊柱を作る。こういうものが設置されているということは、それが大量発生するということだ。しかし人間の血を吸うことはないし、幼虫は富栄養の川を綺麗にしてくれるというから、電撃的に殺戮しなければならないものなのかどうか、私は分からない。
     緑橋、朝日橋、宿山橋。この辺りで目黒区青葉台一丁目から上目黒一丁目に入った。「洒落たお店が多いね。」プリンに言われる前に私も気づいていた。私には余り縁のなさそうなカフェやダイニング、古着屋などが並んでいる。「桜の季節には屋台も出るんだぜ。」さっきの橋のたもとには「露店禁止」の立札が立っていた。桜橋、別所橋。
     北野神社の祭りがあるようで、上目黒一丁目会所の前に新しい神輿が置かれている。「写真撮っていいですか。」神輿の頂上の金色に輝く鳥には、「上壱」と黒く書かれた木札が取り付けられている。神輿全体が金ぴかだ。「新調したばっかりでね」と、首にタオルを垂らしたおじさんが笑う。北野神社はさっきの緑橋と朝日橋の間にあったから住所は青葉台で、小さな神社だったように思う。
     東横線を潜ると中目黒一丁目だ。私は知らないが、桃太郎にとっては、ちょっと飲みたい店が多く存在するようだ。日の出橋、宝来橋。駒沢通りに架かる皁樹橋からすぐに三沢初子像のある正覚寺、更に駒沢通りを十分も行けば祐天寺に着く。この辺りは私が目黒編を企画した時に歩いている。地図を見ると、すぐそばに麻薬取締官事務所がある。
     川幅が広くなり、やがて対岸に船入場親水広場の煉瓦の建物が見えた。あれは川の資料館じゃないか。「それって寄居でしょう。」埼玉県人だとこういう反応になるか。寄居にあるのは埼玉県立川の博物館で、ここは目黒区川の資料館だ。
     「あの護岸に白い帯と黒い帯とあるだろう。何だか知っているかい。」ドクトルが声をかけてきた。「蜻蛉は作文を書くんだから、正確に知らなければいけない。」確か前に調べた筈なのにまるで覚えていない。「水量が増して白い部分を超えると、水があの黒いところから向こうに行くんだよ。」地下に巨大な貯水池を作って、氾濫を防止しているのだ。深さ三十メートル、貯水量は八万立方メートルと言う。
     川はずいぶん綺麗になっているようだが、川面に浮かぶ落ち葉は全く動いていない。「ここは溜池ですか、川ですか」なんて碁聖が冗談に訊いてくる程だ。満ち潮になると海から逆流してくるから、丁度そのバランスがとれている時間帯なのではないだろうか。海の魚もいるんじゃなかったかな。
     「ボラがいるんだよ。だけど、綺麗なようだけど時々臭うぜ。」目黒川の悪臭は問題になっていて、その対策として目黒区が広報しているのは、次のようなことだ。

     目黒区内の下水道は、家庭からの生活排水と雨水(これらを合わせて「汚水」といいます)を同じ下水管で水再生センター(処理場)まで運ぶ「合流式下水道」で整備されています。この合流式下水道は、集中豪雨等の大雨の際は水再生センターで処理できないため、汚水を目黒川の護岸に開いている穴(雨水吐け)から目黒川へ流す構造となっています。
     この下水道の構造上、下水道管から目黒川へ流入する汚水はヘドロとして船入場から下流の感潮区間(東京湾の潮の満ち干きの影響をうける区間)に堆積します。これが春から秋にかけての悪臭の原因と考えられます。
     次にその対策ですが、
    (1)汚れたヘドロを除去する
    (2)河床を平らにし、水を流れやすくして汚水を溜めない
    (3)水をきれいにする
    などが考えられます。

    (1)の対策は、東京都において目黒川河口から太鼓橋までの区間、浚渫船を用いた浚渫を計画的に行っています。
    (2)の対策としては、本区でブルドーザーを用いて川底を均し、中央を低くして、水が流れるようにする作業を毎年梅雨前に行っています。
    (3)の対策として、目黒川へ汚水を入れない、水をきれいにすることが考えられます。
     このうち、目黒川に汚水を入れないことが最も効果的です。
     東京都下水道局では、上目黒一丁目、青葉台一丁目付近で大雨のときに汚水が目黒川に入らないよう、一時的に貯留する施設を平成二十三年度までに整備しました。
     さらに、水をきれいにする対策としては、平成七年より新宿の下水道局落合水再生センターから下水道の高度処理水を流す、清流復活事業を実施しております。
     目黒川の臭いの対策については、今後とも河床整正などに取り組んでいくほか、合流式下水道の改善や、計画的なヘドロの浚渫等を引き続き東京都へ要望していきます。
    (http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/kucho/kucho_mail/kaitorei/kawa/)

     「清流復活対策って、結局水を入れることしかないんですよ。」エコロジストの姫が断言するが、その顔は何か別のことを批判的に言いたそうにも見える。それが落合水再生センターの役割なのだ。「そうか、落合のがそうなんだ。」あそこには神田川を遡った時に立ち寄っただろうか。

    目黒川バッフル石へ花芙蓉  閑舟

     宗匠の言うバッフル石と言うのが分からない。と言うより気づかなかった。正確にはバッフル・ブロックというものらしいのだが、川底に規則正しく並べられた四角いブロックのことである。これが、水の流れを調整するらしい。
     桃太郎は田楽橋を渡って広場に向かう。ここで、今まで真面目に読んでいなかった桃太郎の案内文を開いてみると、川の資料館は去年の三月で閉鎖されてしまっていた。「えっ、閉鎖したの」と宗匠も残念そうな顔をする。
     たまたま川の資料館を懐かしんでいるサイトを見つけたので紹介しておこう。私も一度だけ行った小さな資料館だったが、こんな風に利用していた人もいたのだ。

    資料館というと、関連図書がずらっとある印象もありますが、ここは図書よりも展示物がメインです。
    それに、学芸員さんがせっせと集めてきた川関連の資料のファイルや手作りの展示資料がたくさん。
    それが小中学校の教室ひとクラスぶん強くらいのスペースにぎゅっとつまっています。
    学芸員さんとの距離もすごく近い(近いというより、学芸員さんの研究室に遊びに行く、という感覚ですね)ので、あれこれ質問もしやすいんですね。(中略)
    閉館後これらの資料はどうなってしまうのかとお尋ねすると、図書類は実は学芸員さんの私物だとのことなのでおうちに持って帰られるそうです。その他展示してある資料は、ほとんどが近くにある目黒区花とみどりの学習館に持っていかれるとのこと。
    これも資料館なきあとも、団体で予約すればこれらの資料を使って学芸員さんが説明をしてくださるそうです。(「さよなら川の資料館)
    http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-2ff0.html

     広大な調整池の上が広場になっているので、ベンチに腰を下ろして休憩をとる。今日は江戸歩きにしては格別立ち寄るところもなく、川沿いを一心不乱に歩くだけだから、なんとなくメリハリに欠ける。だからこういう休憩タイムはとても大事だ。塩飴、乾燥梅干し、煎餅の袋が回されてくる。「あっ、甘いのはダメなんだよね」とチロリンはすぐに私の前から遠ざかる。
     「昼飯はどこで食べるんだっけ。」「五反田です。」今日はイタリアン・レストランで昼食をとることになっている。「蜻蛉は食べるのがないかも知れないけど我慢してください。」桃太郎もそう思うか。以前イタリア旅行した妻も、「お父さんは食べるものがないから、イタリアは無理だね」と笑っていた。こんなことを言っていると、またダンディに叱られてしまうだろう。
     事前に注文しておけば早いというので、出発前に桃太郎が集計したものを再確認する。「ロッソを注文したひと、手を挙げて。」「それって何だい。」「トマト。大丈夫ですか。」「それじゃビアンコ。」みんな、イタリア語の料理名が分からないのだ。桃太郎のメモを覗き込むと、正の字ではなく棒を何本も引いてあるから分かりにくい。「おかしいな、人数が合わない。」「手を挙げてない人いるんじゃないの。」「私です。」「私もまだ手を挙げていないよ。」これではなかなか集計できない。すったもんだの挙句、漸く決まって桃太郎は店に連絡を入れる。
     私は、たぶんナポリタンのようなものだと思うので、トマトソースのスパゲッティ(九百円)にした。勿論料理の名前はもっと違うものだ。ヤマチャンだって「俺はトマトは苦手だから白いやつ」と言い、みんな、トマトとか白とか言うので、知識の程度は似たようなものだ。「俺はナポリタンだ。」桃太郎のメモにはナポリタンが一つ追加されたが、さっき見せて貰ったメニュにはないはずだ。

     また川に戻る。「こっちの方が日陰になっていいですよね」と桃太郎は右岸を行くのに、スナフキンとチロリンは意地になったように左岸を歩いている。橋があってもこちらに合流する気配がないのは何故だろう。中里橋の親柱には何かのレリーフが飾られている。葛飾北斎『下目黒大錦富嶽三十六景』だ。浮世絵についても無学だから良くわからないが、要するに『富岳三十六景』の一枚に下目黒の絵があるらしい。「大錦」というのは、錦絵の大きいものだろうか。
     残念ながらこのレリーフでは図柄がよく分からないが、左の丘の中腹で立ち止る農夫と段々畑、手前には稲架、正面に広がる起伏のある畑の間から、小さく富士が見える絵のようだ。
     田道橋。ここを右に行けば図書館脇に田道の庚申塔群がある。「目黒を歩いたのは二三年前でしたかね。」ロダンも漸くこの辺の記憶が甦ってきたようだ。「もっと前だよ。」調べてみるとちょうど五年前(第十九回)のことだ。「今日が四十八回、次回の私の番が四十九回ですね。よく続いたもんだ。」「五十回は盛大に祝おうぜ。」一月の第五十回は、宗匠と交代したから私が企画する番に当たった。「盛大」と言ってもどうすればよいだろうか。「年に六回として八年か、スゴイね。」プリンが感嘆する。メンバーに恵まれたということだろう。
     目黒通りに出た。「ここから駅の方に左に上るのが権之助坂。」おそらくこの辺の地理に疎いだろうプリンに教える。「目黒のさんま」という店もある。「そう言えば目黒のサンマを食べましたね。」五十回近くも歩いていれば、色々なところで様々な記憶が甦る。「この人はサンマの頭まで食ったんだ。」私はダンディを知るまで、サンマの頭を食う人にお目にかかったことはなかった。
     「戦中戦後の食糧難で、なんでも残さず食べるようになった。」そういう人はたくさんいるだろうが、サンマの頭まで食わないだろう。ダンディは、だから世界各国どこでも食べ物に困ったことはないと、プリンに自慢する。「私もそうですよ。人間が食べるんだから、どんなものでも食べます」とプリンも話を合わせている。
     「大鳥神社には行かないのか。」特別行きたい訳でもないのに、講釈師はそんなことを言う。大鳥神社は目黒新橋を渡ったところではあるが、織部灯籠位しか見るべきものはない。桃太郎の計画では、目黒通りを横断し交番脇のトイレを使う筈だったが、中は汚れていて女性は使う気になれなかったようだ。五反田まではすぐだから我慢してもらうしかない。その間に桃太郎は自動販売機でペットボトルを仕入れている。「この自動販売機は百円でお薦めです。」
     椿姫は若い警官に、「爺々が茶屋」の場所を尋ねているが、分からないようだ。交番脇の階段を降りて川沿いの遊歩道を行く。太鼓橋。「そうか、以前は行人坂を下りてこの太鼓橋を渡ったんですね。思い出してきた。」行人坂の険しさを見れば、ここが谷底だということが実感できる筈だ。
     橋の袂には広重「目黒太鼓橋夕日の岡」のレリーフがあるのに、今日は誰も関心を示さずに通り過ぎる。目黒不動への参詣道で、江戸時代には、この辺りは垢離取り川と呼ばれたというのは、以前宗匠に教えてもらったことだ。目黒不動の参詣者はこの川で身を清めたのだ。
     「そこが雅叙園だよ。」「雅叙園って、雰囲気変わりませんか。」ロダンは良く知っているのだろうか。私は中に入ったことはないが、改修工事を長くしていたのではなかったか。「最初はここで昼食をと思ったんですけどね。」「ここは高いよ。高いくせに格が低いんだよ。」雅叙園の関係者がいたら申し訳ないが、これは私が言うのではない。スナフキンの言葉である。
     結婚式場と言う業態を日本で初めて作ったのが雅叙園だが、江戸時代には松樹山明王院と言う天台宗の寺院があったところだ。

    松樹山明王院 同所坂(行人坂)の側にあり。天台宗にして東叡山に属す。本尊阿弥陀如来、脇士観音・勢至を安置せり。開山を栄運法師といふ。常念仏の道場にしてすこぶる殊勝也。毎月四日、報恩念仏百万遍修行あり(この常念仏は、西運といへる沙門の発願なりとぞ)。(『江戸名所図会』)

     末尾に書かれた西運と言う沙門が八百屋お七の恋人吉三であると、隣の大円寺の石碑に書かれている。そして、明王院の後ろの方が「夕日の岡」と呼ばれた。
     雅叙園の敷地は広い。この東側に杉の女子大学がある。市場橋を越えた頃、左前方に大日本印刷五反田工場が見えた。「あれがDNPだよ。」出版書店業界でDNPと言うのはちょっと特殊な位置を占めていて、スナフキンと私の反応にはやや反感の気配がある。住所表示は西五反田になった。品川区に入った訳だ。
     ここでスナフキンが、いきなりあるビルの中に入って行った。「おいおい、どうしたんだい。」かつてスナフキンが勤務していた五反田営業所のあるビルだったようだ。「何階だったの。」「七階。俺が探してきて契約したんだ。」リバーサイドだというのが彼の自慢だ。経費削減が喧しく言われて、営業所はできるだけ安いビルに移転しろと言う指示が出されていた頃だろう。私も浦和の住友生命ビルにいた頃、日進に安いビルを見つけて移ったことがある。オサムと会ったのはその頃だったか、それともその後に北浦和に移った頃だったろうか。

     首都高速目黒線を潜り、五反田駅前に着いたのは十二時を少し回ったところだ。目的の店はROMANOである。品川区西五反田一丁目五番一号。野村証券ビルの階段を降りると入口だ。こういう機会でもないと私は絶対入らない店だ。
     かなり広めの店内は、私たちが席に着いてすぐにほぼ満席状態になった。「どういう会社の人間が来るんだろうって見てたよ。」ドクトルは面白い観察をするが、今日は土曜日だから会社はほぼ休みではないか。「それじゃほとんどが遊びに来た連中か。」隣のテーブルではワインのボトルを開けている。
     既に注文はしてあるが、選べるランチ(プリフィックスランチ)を注文したダンディと碁聖は、ここでメニュを見ながら料理を決定することになる。「スープはこれかな、料理はこれ、なんとかはこれ。」ダンディは躊躇なく選ぶ。こんなものにしなくてホントに良かった。私はメニュなんか見てもまるで選べなかっただろう。
     ダンディが赤ワインを注文し、私たちは恵比寿ビールのジョッキを頼む。五百円である。「あんみつ姫は飲まないの。」「今日はやめておきます。」夜に備えているのだろうか。
     トマトのスパゲッティとばかり覚えていたのは「日替わりパスタ・ロッソ」、白いものはオリーブオイルを使った「日替わりパスタ・ビアンコ」だった。ロッソrossoは赤、ビアンコbiancoは白だから、ヤマチャンの「白いスパゲッティ」と言うのはむしろ正しい言い方なのだ。プリンが注文したのは「大好評」のガレット・ランチというものである。姫、チロリン、若旦那夫妻が選んだのは「野菜たっぷり」のメイン・ディッシュ・プレートだ。
     そして残念ながら講釈師の希望したナポリタンというのは、やはりなかった。「トマトのソースにして下さい。」「仕方ないな。」

    白黒とパスタまつりや秋の昼  閑舟

     「ナポリタンなんて本場のイタリアにはありませんよ。あれはアメリカ人と日本人の合作です。」ホテル・ニューグランドの料理長入江茂忠が、進駐軍の兵舎でスパゲッティをケチャップで和えたものを見て参考にしたという説である。しかし、ナポリタンの発祥については別にいくつかの説があって確定できない。トンカツと同じように、日本発祥の洋食だと観念してしまえばよいだけだ。
     今では積極的に食べようとは思わないが、私だって学生時代にはナポリタンを食った。大学近くの喫茶店のランチメニューで一番安いのがナポリタンだったからだが、結構旨いと思っていた。あんな炒めうどんのようなものは決してスパゲッティではないと、伊丹十三が『ヨーロッパ退屈日記』の中で力説していても、安くて旨かったのだからしようがない。
     しかしスキンヘッドのウェイターが最初に持ってきたのはパンだ。二種類あるようだが、パンなんて注文してないぞ。ピッチャーに満たされている黄色い液体はオリーブオイルだという。「これをお皿に入れて、パンをつけてお召し上がりください。」バターの代わりということか。特に食べたいとも思わないが、これが作法であるならば仕方がない。パンを口にするのは何年振りだろう。
     「俺は毎朝スプーン一杯のオリーブオイルを摂るよ。」スナフキンがそういうことを言うのは意外だ。私はオリーブオイルと意識して口にするのは初めてだ。要するに油ではないか。摂りすぎは体に良くないのではないかと思うのは、私の無学のせいであるが、チロリン、ドクトルも半信半疑の様子だ。「エクストラ・ヴァージンじゃなくちゃいけない。」
     これも初めて聞く言葉だ。江戸歩きとは全く関係ないが、取り敢えず知らないことは知る努力をしなければならない。

     果汁から遠心分離などによって直接得られた油をヴァージン・オイルと呼び、その中でも果汁としての香りが良好で油としての品質も高いものを特にエクストラ・ヴァージン・オイルと呼ぶ。
     また、品質の悪いヴァージンオイルを精製(脱酸・脱臭・脱色等)したもので、酸度が0.3%以下のものを精製オリーブオイルといい、この精製オイルと中程度の品質のヴァージンオイルをブレンドし、酸度1.0%以下にしたものをオリーブオイル(日本では「ピュアオリーブオイル」の名で知られる)と呼ぶ。
     果実に含まれる油を無駄なく回収するため、果汁を絞った絞りかすを有機溶剤を使って抽出したオイルをポマースオイルと呼ぶ。ポマースオイルは上記のオリーブオイルとは成分が異なるため、IOC(国際オリーブ協会)の規定により「オリーブオイル」と表示してはいけないと定められており、食用ではなく工業用として扱われている。ただし、ポマースオイルを精製し、酸度を0.3%以下にした場合、その国の基準(日本であればJAS)をクリアしていれば、食用としての販売は可能である。(ただし「ポマース」と明確に表記しなければならない)格安のオリーブオイルとして出回っているものの多くはこのポマースオイルである。(ウィキペディアより)

     桃太郎はパンの追加注文をする。「あんまり食べすぎると、本番が食べきれなくなるね」とチロリンとあんみつ姫は警戒している。
     ダンディの前菜に続き、次に出されたビアンコが問題だった。「もうお一人はどなたでしょうか。」どうしても一皿余ってしまう。「ドクトルは何を注文したんですか。」「忘れちゃった、トマトかな、白かな。」仕方がないので、トマトが出てくるのを待って調整することにした。ロッソはちょうど人数分あったから、それではビアンコはドクトルが注文したものだ。「そうか。」
     このロッソとかいうものが、ナポリタンとどれ程の違いがあるのか、実は私には分からない。ケチャップほど甘くないにしても、具材が違うだけではあるまいか。昔のナポリタンにウィンナ・ソーセージがつきものだったのは、まだ日本が貧しかったせいだろう。麺の状態はアルデンテだとは到底思えない。
     ところで、スパゲッティをパスタと呼ぶようになったのは何時頃からか。いろいろ探ってみると、どうやらバブルの時代に始まったことのようだ。パスタがスパゲッティをも含む大きな概念だとは、無学な私でも承知している。しかしそれなら、蕎麦やうどんやラーメンを注文するとき、「麺」と言うか。蕎麦屋は「麺屋」と自称するか。スパゲッティはスパゲッテイで良いではないか。
     ところで、と再び言ってしまうが、スパゲッティをフォークとスプーンを使って食うのはいつから始まった習慣だろう。どうやら捨ててしまったようで今手元になくて確認できないが、あの厳格な伊丹十三は、皿の隅に小さな空間を作り、その空間でフォークの端を皿から離さず巻くようにすれば綺麗に巻き取れる。これが本格のマナーであって、それができない子供に限ってスプーンを使っても良いと書いていたような気がする。
     最近は丼物をスプーンで食う連中がいる。飯は箸で食え。どうも話の具合がおかしな方向になってしまう。こんな悪態をつくのは、心理状態が不安定になっているのだ。私に似合わない店に来たせいだろうか。
     伊丹十三が教えてくれるような作法を身に着けなければ大人になれないと、高校生の私は信じていたから、風が強いときにマッチの火を消さない方法とか、シェーカーの正しい振り方を一所懸命覚えたものだ。伊丹は言っていないが、片手でマッチを擦る方法(百円ライターなんかなかったからね)なんかも練習した。二十歳前の男の子は実にアホなことを考える。
     あるいは、寿司屋でお茶をアガリと言ってはいけない。よろず得意気に隠語を使うのは品がないというのは山口瞳だったろうか。大人になるためには、こういうことをきちんと身に着ける必要がある。振り返ってみると、この方面で私は山口瞳と伊丹十三に随分多くのことを負っているが、はて、今の私はちゃんとした大人になっているだろうか。
     「野菜たっぷり」のメインディッシュには、野菜はほんの飾りのようにしかついていない。「もっと野菜がいっぱいあるのかと思ってたのに。」そして肉が大きい。姫は早その肉の半分を桃太郎に分け、チロリンの肉の半分はドクトルとロダンが分担した。プリンの注文したガレットとは何であろう。「もっとクレープみたいにやわらかいものかと思ったのよ。」私はクレープも食べたことはない。要するに焼いた生地で料理を包み込んだものらしい。
     スパゲッティの量も多くてパンは余分であった。私はこの頃食が細くなったのだろうか。しかしドクトルは、チロリンから分担した肉も残さず食べる。「食べ物を残しちゃいけないって言われて育ったからね。」ダンディと同じことを言う。そのダンディはエスプレッソを飲みながら、デザートにアイスクリームのようなものを食べている。良く入るものだ。七十五歳の人は、普通はもっと控えめに食べるものではあるまいか。
     一時になった。それでは出発しようか。レジ前で十八人が長く列を作り、一人づつ支払う。他の客が待っていなくて良かった。出口の外に灰皿が置いてあり、先に出ていたオサムが煙草を吸っている。それでは私も休憩しようか。会計をtう済ませた椿姫も煙草を取り出す。その彼女を見て、「まだアクシュウが治らないんですか」とダンディが口を尖らせる。「悪臭ですか。」「悪習ですよ。悪い習慣。」
     吸い終わって地上に出る。「さあ、行こうか。」「まだ椿姫が。」「なんだよ、除名だな、もう。」除名というのも久しぶりに聞いた。以前は何かというと「除名」が行き交って、気が付くと残るのは講釈師一人だけということになったものだったが、なんだか懐かしい。

     「山手線の内側は大使館なんかがある高級住宅地なんだ。こっち側とは違う。こっちは安い飲み屋が一杯あった。」その山手線の下を潜る。「もう一度潜りますからね。」「えっ、どういうこと」とロダンが訊き返す。山手線の南端部に近いから二度潜ることになるのだ。山本橋、御成橋、森永橋、居木橋。
     品川区に入ってからは、ところどころに海抜表示がみられるようになってきた。「この辺は三・八メートルなのね。うちの方は十七メートルですよ。」椿姫は常に標高を気にして生きているのだろうか。「そんなの知らないよな。」「市で配っている地図で分かりますよ。」伊奈ではそうなのだろうか。川越市が配る地図にはそんなものは書かれていないと思う。

    海側や河川沿い等の海抜四・〇メートル未満の地域を中心に、公共施設や電柱、街頭の消火器格納箱など、区内約五〇〇カ所に標示板を順次設置していきます(※海抜標示板に標示されている海抜の数値は、標示板が設置してある箇所の地面の高さを示しています)。海抜標示板の設置場所は、区が平成二十三年度に実施した区内の標高の基礎調査によって得られたデータをもとに、標高の低い海側や、目黒川沿いのエリアなどから選定。百メートル四方に一カ所の割合で設置されます。(品川区)
    http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000016600/hpg000016554.htm

     もう一度山手線を潜ると、正面に第一三共製薬の研究所が見えた。更に東海道本線を潜ると、東海寺だ。品川区北品川三丁目十一番九号。臨済宗大徳寺派。家光が沢庵のために創建した寺である。
     「東海禅寺、東海寺、正確なのはどっちでしょうかね。」「どっちでもいいんじゃないの。」「裏口から入っちゃった。」、昔は裏口から入ると必ず講釈師の罵声を浴びたものだが、この頃は彼もおとなしくなってきた。梵鐘は元禄五年(一六九三)のものだ。「賀茂真淵と沢庵のお墓があるんじゃなかったかな。」私もすっかり忘れている。「あれはちょっと離れたところですよ」と姫がすぐに訂正する。広大な境内が東海道線で分断されたので、墓地はずいぶん離れて、さっきの第一三共製薬のそばにある。

    万松山東海禅寺 品川北馬場にあり。花洛大徳寺派の禅宗江戸触頭の一員たり。当時は輪番にして、年々八月に交代す。寛永十五年(一六三八)、台命を奉じて、沢庵和尚開創するところの禅園なり(塔頭十七宇あり)。(『江戸名所図会』)

     『江戸名所図会』(ちくま学芸文庫版)では十九ページに及んで記載される大寺院であったが、今は見る影もない。幕府に余りに密着しすぎていて明治維新で廃寺にされたのである。現在の東海寺は、かつての塔頭の玄性院が引き継いだものだ。
     堀田家と青山家の墓所が隣り合わせになっている。「こういうところには説明を置いてほしいですよね。」私もそう思う。「堀田ってあの堀田ですか。」「堀田っていくつか系統があるからね。」しかしロダンの直観が正しかった。堀田加賀守は佐倉藩主で老中を輩出した家だ。堀田加賀守紀正盛とあるのを、私は紀正が名前かと勘違いしてしまったから、偉そうなことを言っていても私は実に無学だということが分かってしまう。「こういうところには、ちゃんと.説明を書いておいてほしいですよね。」
     紀は堀田氏の本姓である。紀氏は武内宿祢の子の紀角宿祢を始祖と称する氏族である。だから紀の正盛と読む。正盛は家光の死に際して殉死した老中で、異常な出世の速度から、おそらく家光の男色の相手だったと推定されている。
     「青山家は青山通りに下屋敷があったんですよ。丹波篠山ですね。」丹波篠山六万石は青山本家で、分家の方は美濃郡上四万八千石であった。「子爵ってありますね。大したもんだ。」若旦那が感心しているが、大名は最低でも子爵を保障された筈だ。ここで公侯伯子男なんて序列を改めて言う必要はないだろう。青山家の場合、本家も分家もどちらも子爵になっているので、どちらの系統かよく分からない。五万石未満が子爵、それ以上は伯爵になるのが一般的だから、丹波篠山の青山家は損をしているのかもしれない。
     次は荏原神社だ。品川区北品川二丁目三十番二十八号。旧社名は天王社、貴布彌大明神である。「奉祝御鎮座千三百年」の垂れ幕を見て、「大和時代、奈良時代か」とダンディが考え、プリンは指を折って数えている。

     荏原神社は元明天皇の御代、和銅二年(七〇九年)九月九日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高 神(龍神)を勧請し、長元二年(一〇二九年)九月十六日に神明宮、宝治元年(一二四七年)六月十九日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っています。明治元年には、准勅祭社として定められました。神祗院からは府社の由来ありとされました。現在の社殿は弘化元年(一八四四年)のもので、平成二十年で百六十四年を迎えました。
     往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していましたが、明治八年、荏原神社と改称。旧荏原郡(品川、大田、目黒、世田谷)の中で最も由緒のある神社であったことから、荏原郡の名を冠した社号になりました。神殿に掲げる荏原神社の扁額は、内大臣三条実美公、貴布禰大明神の扁額は、徳川譜代大名源昌高のお染筆です。(由緒より)

     高龗神はタカオカミノカミと読み、貴船神社の祭神である。「京都の鞍馬にあります。」千三百年が本当かどうかは分からない。但し品川は古くから府中の大国魂神社と関係が深い。平安時代初期にはすでに東海道の原型になる道も品川通っていたらしいので、和銅二年というのも強ち嘘ではないかも知れない。
     また、譜代大名源昌高と言うのは不親切な書き方で、いちいち調べてみなければならない。これは中津藩主奥平昌高のことであるようだ。境内はそれ程広くない。
     恵比寿の像がある。「恵比寿様って何のご利益があるんですか。」ヤマチャンがダンディに質問している。漁業神であり交易の神であり、要するに商売繁盛の神である。恵比寿信仰は古いが、不具神蛭子(ヒルコ)に結びつけたのは西宮が発祥であろうか。海に流された蛭子が漂着したのが西宮だと信じられたのだ。
     「リボンを結んでるのはどういう理由ですか。」椿姫が不思議なことを言うので恵比寿の背中を見ると、帯にしては高すぎる位置で、肩甲骨の辺りに確かに大きなリボン状のものがついている。恵比寿の背中なんてあまり見たことはないが、通常、恵比寿の装束は烏帽子に狩衣だろう。狩衣にこんな余計なものはついていないが、どうやらこれは襷の結び目である。
     「荏原って郡の名前ですか。郡って何ですか。」「行政単位ですね」とダンディが答える。国の下に郡がある。武蔵国には二十一の郡が置かれ、江戸時代に葛飾郡が下総から編入されて二十二郡となった。その範囲は時代によって異動があり、現代の行政区分とは当然異なるところも多い。
     多摩郡(東京の西部)、荏原郡(品川区・目黒区・大田区・世田谷区の一部・川崎市の一部)、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡(葛西郡)、新羅郡(新座郡)、児玉郡、秩父郡、大里郡、入間郡、賀美郡(児玉郡上里町、神川町)、横見郡(比企郡横見町)、埼玉郡(鴻巣・久喜・春日部・草加・岩槻・行田・羽生・加須・蓮田・越谷・八潮・南埼玉郡)、高麗郡、比企郡、男衾郡、幡羅郡(熊谷と深谷の一部)、榛沢郡(深谷と寄居町の一部)、那珂郡(児玉)、久良岐郡(横浜)、都筑郡(横浜・川崎の一部)、橘樹郡(横浜・川崎の一部)。

     埼玉県と埼玉郡の関係が紛らわしいだろうか。埼玉県が発足した当時、現在の埼玉県の東三分の一しかなかったが、それがほぼ埼玉郡の範囲に相当したので埼玉県と命名された。県庁は岩槻に設けられる筈だったが適当な建物がなく浦和宿に造られた。残りの西側三分の二は入間県となり、群馬県と合併して熊谷県を名乗った後、再び群馬県を脱して埼玉県と合併したのである。
     赤い鎮守橋から見る目黒川はかなり深くなってきた。荏原神社を出れば旧東海道品川宿だ。「思い出したわ。暑い日だったのよ。」椿姫はダンディの計画で品川宿から大森貝塚まで歩いた時(第十二回)のことを思いだした。「死ぬかと思ったわ。」
     「鈴ヶ森の刑場跡にも行っただろう。」「そうよ、覚えてるわ。」「この辺に白井権八がいたんだ。」講釈師が本領を発揮する。「お若えのお待ちなせえ。」以前にも書いたことだが、白井権八(平井権八)と幡随院長兵衛とでは年齢が離れ過ぎていて、出会うことはなかった筈だ。
     「比翼塚も見たよな。」これは目黒不動前にある権八小紫の比翼塚のことだ。ほかに、権八首洗いの井戸なんていうのも見たことがあるが、あれは三ノ輪の浄閑寺だったか。親の敵と権八を狙っていた兄弟が権八に返り討ちにあったという伝説だ。尤も浄閑寺は「生まれては苦界死んでは浄閑寺」の投げ込み寺としての方が名高い。

     暑い。「三本目だよ」とプリンはタオルを変える。私も着替えは持ってきたが、タオルの替えは持ってこなかったからすっかり汗臭くなってしまった。品川宿交流館でラムネを飲みながら休憩する。私はそんなものは飲まないから、外のベンチで煙草を吸っていると、女性陣とスナフキンが角の店でカキ氷を買っているのが見えた。戻ってきたスナフキンの氷には、毒々しいような赤いものが入っているではないか。「苺だよ。」甘くはないか。カキ氷と言ってもプラスチックの長いカップに入って、ストローのようなスプーンで掻き回して食べるものだから、昔のものとは違うようだ。「子供のころ、近所の氷屋さんで食べたのが美味しかった。」
     余りの暑さに私が無謀にも氷を食ってしまったのは、矢切の渡しでのことだった。その後暫く、どうしようもない甘ったるさがなかなか抜けず、お茶で洗い流すのに苦労した。そんな風になるんじゃないか。案の定、「口の中がおかしくなっちゃったよ」とスナフキンがこぼす。
     「大丈夫かい、もう歩けないんじゃないか。」講釈師が椿姫に悪態を吐く。「まだ十キロは歩けるわ。」もうゴールは目の前だ。品川橋、新品川橋、洲崎橋、昭和橋。江戸時代にはこの辺で海に注いでいた川も、埋立てによって延長した。
     旧海岸通を渡ったところで、若旦那一人が信号で取り残された。「若女将がこちら側にいるから安心していたのにね。」やがて若旦那は信号の変わるのを待たずに、車の途切れたところを渡ってきた。「危ない。」車が一台、スピードも落とさずに若旦那に向かってくる。こういう危ないことをしてはいけない。
     運河が入り組んでいるので回り込む。天王洲に近づくと、道端の雑草や花が目立つようになってきた。「今日はずっと街中を歩いてきたのに、面白いですね」と姫も笑う。「これってリョウブの実ですかね」と桃太郎が姫に確認しているのは、確かに茶色くなった実だ。「リョウブって存在すら初めて知ったわ。」そういうプリンに、令法と書くのだと教える。「その由来は何。」「昔聞いたけど忘れた。」「知識は永遠じゃないのね。」悔しいから調べてみた。若葉を食用とすることから、救荒作物として栽培が命じられた。法令によったのであるが、勿論これは当て字だ。竜尾が訛ったという説がある。
     「これってロダンの好きな花じゃないか。」「キバナコスモス。これしか知りません。」薄桃色のコスモスも木槿も芙蓉も咲いている。ザクロの実はまだ大きくなっていない。「可愛らしいわね。」「これが美味しいんですよ。」「そうかなあ。食糧難の時代の人だけの記憶じゃないですか。」子供を喰らう代わりに、釈迦が鬼子母神に与えた果実である。

     実柘榴に戦後世代の違いあり  蜻蛉

     この花が王安石の「万緑叢中紅一点」の語源になったとは、以前あんみつ姫に聞いた。但しその説に疑問があることも、どこかで調べた筈だ。出典とされる『詠柘榴詩』は作者不明というのが今の定説だ。
     「今日は短パンで良かったよ。」ヤマチャンが短パンにランニングシャツ姿になったのを想像してみると、裸の大将ではあるまいか。
     天王洲アイル駅を左に見て、公園の中を通り野球場を通り過ぎる。やがて運河に出れば、木製の遊歩道が敷かれている。「海の香りがするわ。」木の柵の上でユリカモメとカルガモが並んで日向ぼっこをしている。「ボラはいないかな。」桃太郎が下を覗き込む。魚の姿は見えないようだ。「下見の時にはボラの子供がうようよいたんですけどね。」「いないだろう」と講釈師も確認する。
     前方の運河の上を首都高速羽田線とモノレールが通っている。「この先もありますが、あそこは埋立地ですから、ここ目黒川のが最終地点ということになります。」

     木道に潮の香りや秋運河  蜻蛉

     運河に面して高層マンションが立ち並ぶ。私はこういう海辺の埋め立て地に住む人の感覚がよく理解できない。ウォーターフロントとか、ベイエリアとか言えば恰好良いが、地震は怖くないのだろうか。
     それでは駅に向かおう。天王洲アイル駅だ。天王洲の名称は、宝暦元年(一七五一)、海中から牛頭天王の面が引き上げられたことによるといわれている。海中から観音像が引き上げられたりする伝説は浅草寺をはじめどこにでもある。おそらく荏原神社(天王社)の宣伝ではなかったろうか。この面は天王祭で神輿の屋根につけられる。
     アイルはアイランドを意味する。「劇場があるんじゃなかったか。」銀河劇場というものらしい。詳しい人はいるものだ。私は横の会でお世話になるクリスタル・ヨットクラブしか知らなかった。

     また、一九八〇年代後半のバブル景気の末期以降、二十二ヘクタールに及ぶ民間では全国最大規模の都市開発が為されており、レストランやファッション施設、ホテルなども集まっているため、一九九〇年初頭の完成当時より現在までテレビドラマのロケ地やCMによく使われている。かつてはデートスポットなどとしても有名であった。最近は六本木ヒルズなどの他のエリアにその地位を譲ったものの、それ以降もオフィスビルや高層マンションが着実に増えてきたことから、オフィスビルに勤務するビジネスマンやOLの他に、近隣の高層マンションに在住する家族連れの姿も見られるなどその客層は広がりを見せている。また休日にはボードウォークを散歩する人々も多々見られる。
     シーフォートスクエアの北半分にあたるシーフォートタワー付近は、江戸時代末期に江戸防衛のため築造された第四台場の跡である。また、ボードウォークの護岸は、旧第四台場の石垣を再利用したものである。(ウィキペディア「天王洲アイル」より)

     宗匠の万歩計で一万八千歩。いつもは一歩で六十センチと計算するが、前半はかなり歩幅が小さくゆっくりしたペースだったから、十キロは行かないだろう。ロダンが十一月(四十九回)の予告(四ツ谷駅集合)をし、あんみつ姫が十月の日光御成街道の案内(浦和美園駅集合)をする。
     「反省会はどこでしようか、この辺じゃないよな。」「どこでもついていくわよ」とプリンはやる気満々である。「モノレールで浜松町にでましょうか。」りんかい線も通っているのだから、わざわざモノレールに乗る気もしない。「面倒臭い連中だな、早く決めろよ。」そういう講釈師は参加しないのだ。
     「新宿はどうだい。」「それだと、越谷方面が不便だね。恵比寿はどうだろうか、さくら水産があるし。」「恵比寿だと地下鉄があるから帰りの便がいいですね。」
     やってきた電車は大崎どまりだ。乗り込もうとしたとき、ロダンが「大崎どまりですよ」と声を上げたので何となく乗るのをやめてしまったが、講釈師、若旦那夫妻、チロリンは乗り込んでいった。「大崎なら山手線もあるし、あれで良かったんですよ。」ダンディがロダンにクレームをつける。急ぐ旅ではないし、時間調整にちょうど良い。
     十分後の次の電車も大崎行きだ。「案外本数が少ないんですね。」りんかい線なんて、ビッグサイトで開かれる東京国際ブックフェアに行くときしか使ったことがない。「あれ、詰まらないんだよな。」「広くて疲れるばっかりで。」スナフキンもオサムもやっぱり私と同じだ。
     大崎で山手線に乗り換え、恵比寿で降りる。「どっちだったかな。」「ずいぶん前だから忘れちゃったよ」と言いながらスナフキンの勘は当たっていた。本来は五時開店だが大丈夫だという。現在時刻は四時である。
     このところ、さくら水産のない場所を歩いていたので、さくら水産は久し振りだ。プリンが遠慮したように一番隅っこに座っているので、その向かいに座る。オサムもそばに来た。「安いだけが取り柄の店」とプリンに説明していると、「ほかにも取り柄がありますよ」とオサムが反論する。どこにでもあるのが良いのだという。「上野にもあったでしょう。」そうか、プリンは上野のさくら水産で横の会をやった時に参加していたのか。あれは何年前だったかな。
     珍しく生ビールを二杯飲んでスナフキンに驚かれてしまった。実は私も驚いている。それだけ喉が渇いていたのだ。さんまの塩焼きが旨い。一尾二百八十円と安いのは、今月一杯「新さんま祭り」をやっているからだ。

     目黒川辿り恵比寿の秋刀魚かな  蜻蛉

     ビールの次はスナフキン推奨の「金宮」という焼酎が出てきた。宮崎産、サトウキビ糖蜜を原料にした甲類焼酎である。甲類なんて、要するにホワイトリカーではないかと私はバカにしてしまう。こんなところで飲むのは初めてだろう。「これは氷で飲む方がいいんだ。」いつも焼酎はお湯割りに限るというスナフキンなのに、甲類は違うらしい。一杯飲んで、やはり普通の芋焼酎のお湯割りにする。
     二時間飲んで一人二千七百円。「明朗会計、明朗会計」とロダンが盛んに口にするが、計算したのは桃太郎だ。彼は結構計算間違いが多いから、損はしなかったろうか。店を出ると、
     次はカラオケだ。「ロダンを拉致しちゃいましょう」と姫が笑う。「明日は仕事なんですよ。」「仕事はあんただけじゃないぜ。」「しようがないな、もう。」最初から強く誘ってほしいのは分かっているのだ。店を出て駅に向かった宗匠は、若い娘に何かのチラシをもらって喜んだ。

    きれいだね笑み返さるる秋の暮  閑舟

     ビッグエコーに行くのは、碁聖、姫、プリン、マリー、ロダン、オサム、蜻蛉の七人だ。「スナフキンは行かないんですか。」「俺は昨日も飲み過ぎだから。」何時だって彼は飲み過ぎである。
     今日はロダンから始まった。批評はしない。あんみつ姫が渡辺マリの『東京ドドンパ娘』を歌うのには驚いてしまう。初めてではないか。「この人は明治の歌も歌いますから」とロダンがプリンに解説している。変な歌だな。「蜻蛉が歌った『あの娘たずねて』だって変な歌ですよ。」そうかな。プリンもマリーも歌う。オサムは意外に声が良い。碁聖の低音は相変わらず冴えている。私は藤圭子を偲んで『女のブルース』を歌ったが、あまり良い出来ではなかった。

    蜻蛉