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    第四十九回  四谷寺町・神宮外苑・青山墓地
    平成二十五年十一月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.11.18

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     旧暦十月七日。立冬の初候「山茶始開」。山茶はサザンカではなく椿と読む。季節は冬に入った。今回は久々のロダン企画である。集合は四ツ谷駅(四ツ谷・麹町改札口)と連絡があっただけで、コースの詳細は分からない。(これが私の勘違いだったことはすぐに指摘された。)
     それほど早く着いた訳ではないが、まだロダンとダンディしかいない。青山墓地の案内地図を貰って、ロダンが抱えているクリアファイルを見ると、今日のコース案内が入っているじゃないか。「それ貰ってないよね。」「送っていますよ。」ダンディにも「随分早く、九月頃にメールで貰ってますよ、知らなかったんですか」と笑われてしまった。そうだったか。「ゴメンゴメン、俺がうっかり忘れてたみたい。」「それじゃ、これを」と、用意したコピーを渡してくれる。有難い。
     「ヨシミちゃんも来ることになってるの」と言いながら椿姫が現れた。それは珍しい。何年振りになるだろう。マリーは「地下鉄からすぐだね」とやって来た。そうか、ここまで一本で来られるのだ。講釈師が「麹町口だって、ちゃんと伝えておいたからさ。とにかく駅員に訊けって言っておいた」と口を尖らすのは、池尻大橋で無念の帰宅をしてしまったクルリンへの配慮だ。「私もケータイの番号を教えておいた」とダンディも言う。
     「アッ、お握り食べてる。」「朝ご飯なの。それにしてもヨシミちゃんが遅いわね。」椿姫が何度か電話しているうち、ヨシミちゃんは地下鉄の改札口にいることが判明したらしい。「JRの麹町口よ。」やがて五分程してヨシミちゃんが現れた。「誰もいないからね、変だとは思ったのよ。」
     定刻間際にあんみつ姫が登場し、これで全員かと思っているとダンディの電話が鳴った。クルリンだった。「ちょっと待って、蜻蛉に代わるから。」「今どこですか。」「赤坂口なの。」改札を出ていなければ良かったのに、もう出てしまっていると言う。誰もいないので不安になってダンディに電話をかけて来たのだ。「私が迎えに行きますよ」とロダンが救出に向かった。
     そして十時五分、漸くクルリンが現れた。「だから、電車から降りたらすぐに駅員に訊けって言ったじゃないか。」クルリンは講釈師から直接聞いたのではなく、チロリンの伝言を受けてきたのだ。「まあまあ、この程度の時間のロスは想定済みですから。」
     ロダン、若旦那(今日はひとり)、碁聖、ダンディ、講釈師、ヨッシー、桃太郎、椿姫、ヨシミちゃん、クルリン、ハイジ、マリー、あんみつ姫、蜻蛉の十四人だ。ここでリーダーが昼食のアンケートを取る。前回はイタリアンの「赤いの白いの」で悩まされたので、予めメニューのコピーが渡され、番号を覚えておくことになっていた。
     「それじゃ私が記録します。手を挙げてくださいね。」あんみつ姫がボールペンを握る。メニューは何種類かあるが、講釈師は一番のチキンカツ定食、若者三人組(今日はオサムがいないから、私も若者だ)が二番の九百五十円のトンカツ定食に手を挙げた。この二つが一番安い。姫はいちいち名前を書き込んでいくので、当人が忘れても有無を言わさぬ証拠になる。「三番は、いませんね。四番は。五番。」結局残った全員が千五百円の数量限定「楽屋めし」に手を挙げた。楽屋めしとは歌舞伎の猿之助に関係しているようなのだが、この時点ではよく分からない。幕の内弁当のようなものだろうか。「俺もそれだな」と講釈師が手を挙げる。「さっきチキンカツに手を挙げたじゃないの。」「それじゃ、講釈師は二人前ですね。」「いいよ、食ってやろうじゃないか。」「そういう面倒臭いことは言わないでよ。」「チキンカツは取り消しですね。」
     店に連絡を入れ終わったロダンが今日のコースを丁寧に説明してくれる。こういう配慮が大切であるが、講釈師は「早く行こう、寒いよ。その石垣を見なくちゃいけない」と大声で急かす。
     確かに寒くなってきた。もう少し厚手のジャンバーを着てくれば良かったかな。実は水曜日から風邪の症状が始まり、木曜日は咽喉の痛みと洟水が止まらず、仕事を休んで一日寝ていた。昨日の午後辺りから咽喉の痛みはなくなり、洟も殆ど止まって今日は八十パーセント程に恢復しているのだが、寒さは危ない。ハイジや椿姫は手袋をしている。こういう自己管理が大事だ。

     「それじゃ出発します。」講釈師の悪態を聞き流して最後まで説明を終え、リーダーが宣言して道路を渡った。四谷見附門の石垣は目の前にあるのだから、講釈師に言われなくても見なければならない。「名前の書いている石があったんだよ」と講釈師は石を丹念に調べる。
     椿姫は石垣の表面に黄色の苔が付着しているのを見つけて、「これってネンキンでしょうか」と誰にともなく訊いている。「みんな年金生活者だろう。」それは南方熊楠の粘菌のことだろうか。「そうです、その南方熊楠です。」粘菌なんて山の方にあるものかと何となく思い込んでいたが、こんなところに生息するものなのだろうか。しかし、判定できる人はいない。「流石に石に詳しい椿姫だ。」ダンディは話をよく聞いていない。講釈師は石に彫られた名前を発見できなかった。
     赤坂口を左下に見て新宿通りに入り、四五分歩いて左の路地に入るとトモエ算盤の文字が目に付いた。新宿区若葉一丁目十番地。トモエ算盤の本社で、壁には「そろばん博物館」のプレートが嵌め込まれてある。「懐かしいですね。算盤塾はたいていトモエでしたよね。」あんみつ姫の時代はそうだったのだろうか。珠算塾は大抵個人経営だと思っていた。「公文のもありましたけどね。」公文の珠算塾なんて初めて聞くが、珠算塾に通ったことがないのだから記憶は当てにならない。「そうですか、知りませんか。」しかしハイジも初めて聞くような顔をしている。
     会社に入った時には算盤が支給されたが、私はなかなか正確な数値を出せなかった。理屈は分かっているのに指が上手く動かない。要するに不器用なのだ。まして掛け算、割り算が出来る筈がない。昭和四十九年秋の為替レートは一ドル三百円前後だったと思う。様々な外価を邦価換算するのに算盤を使うなんて、達人の業である。課の中に、そういう仕事だけをしている者が二人いて、複雑な計算は彼らがやってくれるのだが、見積書の縦の合計なんかは私もやらされて苦労した。小学校の頃にもう少し真面目にやっていれば良かったと思ったのはその時だ。
     翌年だったかに、出始めたばかりのカシオの電卓が課に一台づつ配られた。今記憶を辿ってみると、シャープの手帳型EL8010だったようだ。四則演算ができるだけのもので、定価は九千九百円である。課長代理は「コンピュータが入った」と喜んでいたが、課に一台では、なかなか私が使える番にならなかった。しかしやがて算盤の達人も配置転換される時代が近づいてくる。
     「最近、算盤が見直されてるんですよ。」そうなのか。トモエは算盤業界のトップメーカーである。外国に算盤を普及させることで復活を図っているようだが、業界全体の規模はピーク時の一割程度に縮小している。脳の活性化、ボケ防止と言われても、一度便利なものに接した後では、回復は難しいのではないか。

     ロダンが最初に入って行ったのは西念寺だ。浄土宗、専称山安養院西念寺と号す。新宿区若葉二丁目九番地。この一帯には伊賀衆の組屋敷があり、伊賀町と称された。
     墓地入口の脇にある赤い実の生った樹は何だろう。桃太郎に訊いてみたが分からない。あんみつ姫かハイジだったらすぐに判定しただろうが、なんとなく聞きそびれてしまった。仕方がないので後で調べてみるとサンゴジュに似ている。
     服部半蔵正成の墓はかなり立派な宝篋印塔で、竹の柵で囲まれている。新しい菊の花が供えられているのは、縁者がいるということだろうか。椿姫がロダンにこの墓の形式を質問していたらしい。「それは蜻蛉に訊いてください。」「これは宝篋印塔と言います。」「キョウは難しい字ですよね」とあんみつ姫も口を添える。
     ところで「半蔵」は服部氏歴代の通称である。初代保長が伊賀から都に出て足利義晴に仕え、その後松平清康に仕えたことから服部氏と徳川氏との縁が始まった。二代正成はその四男で、家康に仕えて戦功があり、徳川十六神将に数えられた。本人は忍者でも何でもない、ただの武将である。たまたま初代の出身が伊賀だったため、伊賀同心支配を命ぜられたようだ。
     「アッ、珍しいですね」とあんみつ姫が声を上げたのは千手観音像だった。私もこれは初めて見る。比較的新しいようで、何本もの手もはっきりと彫られている。
     松平信康供養塔は玉垣の中の古風な五輪塔だ。「石の扉がついてるのね。」玉垣の石扉には三つ葉葵の紋が浮き彫りされている。信康が自刃に追いやられたとき、正成はその介錯を命じられたものの、それができずに涙にくれたという伝説があって、信康の菩提を弔うために供養塔を建てたのである。こちらにも半蔵と同じ花が供えられているので、寺が供養しているのかも知れない。
     「五輪の塔ってどういう意味なんですか。」自然科学には滅法強い椿姫も人文系のことについては弱い。普通は「五輪の塔」とは言わずに五輪塔と言う。「昔からひとは、この宇宙を成り立たせている根源は何かと考えたんだよね。ギリシャ人は火と水と風だと言った。中国人はそれが木火土金水だと考え、五行と名付けた。インド人は五大と名付けた。」地水火風空である。「それが書いてあるんですか。」五輪のそれぞれに彫られた梵字は五大を表し、下からア(地)、ヴァ(水)、ラ(火)、カ(風)、キャ(空)となる。
     この「空」がインド人特有の発想で、勿論大乗仏教の根本を占めるものだ。色即是空、空即是色。しかしこれは難しい。理屈で説かれれば、フーン、そうかと思うけれど、実際に考えて納得できるひとはいるのだろうか。
     寺を出て観音坂に入る。坂が多いのは四谷の地名からも分かる、と言いたいのだが、地名の由来ははっきりしない。谷が四つと言うのは信用できない説のようだ。江戸時代以前には内藤新宿の辺りにかけて潮踏の里、潮干の里などと呼ばれたと言う。文献上、四谷の地名が初めて登場するのは、四谷大木戸が設けられてからのことらしいのだ。
     「これはデュランタですよ。」民家の玄関先に咲く紫色の花を見つけて、椿姫が断言した。「そうね、デュランタだわ」とハイジも頷いているから間違いないだろう。一昔前だったら「園芸種」と決めつけておけばよかったが、最近ではそういう訳にもいかなくなってきた。クマツヅラ科ハリマツリ属。タイワンレンギョウ、ハリマツリの別名があるという。
     聖パウロ修道会四谷教会を通り過ぎながら、「教会か」と何の気なしに思いながら前を見ると、先頭を歩くロダンが、その隣のビルの壁に埋め込められたプレートを見るともなく過ぎていくようだ。近づいて確認すると「文化放送発祥の地」であった。

    一九五一年十一月、 ここ新宿区若葉一―五の地に文化放送(一九五六年までは日本文化放送協会)の局舎が完成。翌一九五二年三月三十一日に東京で二番目の民間放送(JOQR)として電波を発し、 二〇〇六年七月まで五十四年にわたりこの地でラジオ放送を続けてきました。新ロマネスク様式の地上五階地下一階建て鉄筋コンクリート造りの局舎は、 設立母体がカトリック聖パウロ修道会であったため、 ステンドグラス風のファサード、 礼拝堂を利用したスタジオ等、 随所に教会の雰囲気を漂わせた個性的で味わい深い建物でした。

     こんなこと、みんな知っていたかしら。文化放送は、聖パウロ修道会がカトリック布教のために設立した日本文化放送協会を前身とするのであった。二〇一一年現在でも、聖パウロ修道会は文化放送の株式の三十パーセントを保有する筆頭株主である。
     「ソヨゴです。」赤い実の木を今度はあんみつ姫が教えてくれる。モチノキ科モチノキ属。東福院坂を下ると次は愛染院だ。獨鈷山光明寺。真言宗豊山派。新宿区若葉二丁目八番地三。古い赤煉瓦の塀に囲まれた落ち着いた雰囲気の寺である。
     ここでは塙保己一の墓を見る。「私たちは生家も和学講談所跡も、資料館も見ましたね、」「これで一生がつながることになります。」塙家の墓所の真ん中に立つ墓石は質素で、「前総検校塙先生之墓」とあるだけだ。最初は近くの安楽寺に建てられたものの、その寺が明治三十一年に廃寺になって当寺に移されて来た。
     「膨大な版木を収めた資料館と比べて、あんまり貧弱じゃないかな。」碁聖は聊か気に入らないようだ。渋谷の國學院大学のすぐ近くにある温故学会・塙保己一資料館のことだ。住所は渋谷区東二丁目九番地一。『群書類従』全巻の版木を保管し、それを利用して今でも刷り本を作って頒布している。「あれは暑い日だったね。」「館長が丁寧に説明してくれたのよね。」「それを聞かない人がひとりだけいた。」
     「和学講談所ってどこにあったの。」ハイジは行っていないか。三番町の大妻女子大学の通りだが、私たちが行った時にはそれを解説する案内板はなくなっていた。生家はもちろん本庄市児玉町保木野だ。「埼玉県の生んだ偉人です」とダンディが椿姫に教えている。日本が生んだ偉人だと言って良い。
     左端には息子の次郎忠宝の墓も建っている。「伊藤博文に暗殺されたんだ。」「謀反を企んでると思われたんですよね。」正確にいえば、老中阿部信正の命で外国人接待の先例を調査していたことが、廃帝の先例調査と噂を立てられたのである。幕府を混乱させるためだけに流された悪質な噂で、何の罪もないのに伊藤博文、山尾庸三によって殺された。当時の攘夷派はもう無茶苦茶で、手の付けられないヤクザ、愚連隊である。
     境内には、石の台に置かれスチール製の簡易な屋根で覆われた鐘がある。「鐘楼を造ればいいのにね。」私もそう思うが、何分お金のかかることでもあり、寺の事情もあるだろう。珍しい庚申塔も見つけた。一面六臂の青面金剛像の下に、大抵は横たわって踏みつぶされる邪鬼がいるのだが、金剛の足元の台を、頭で支えて趺坐する者がいるのだ。邪鬼かと思ったが、あるいは猿だろうか。三猿ではなく一人だけだけれど。
     須賀神社(牛頭天王社)には寄らないが、路地の正面から見る石段には記憶がある。「以前は、あそこの坂を下りてきましたよね」と桃太郎も思い出した。今日のコースとは違って、確か津の守坂の方から来たのだと思う。

     戒行寺坂を上る。リーダーを始め殆どは見向きもせずに先に行ってしまったが、宗福寺(曹洞宗)の門前に「源清麿の墓」の案内板を見つけてしまった。新宿区須賀町十番地二。これは山浦環正行、四谷正宗ではないか。時間があれば寄ってみたいが今日は無理か。
     遅れてきたあんみつ姫、椿姫、ヨシミちゃんに説明しようとしていると、中から住職が笑いながら出て来た。「どうぞ、どうぞ。入って下さい。」「でも、グループで来ていて、みんなはもう先に行ってしまったので。」あんみつ姫が断ろうとするが、まるで聞いてくれない。「いやいや、それは看板ですから是非実物を見てください。」こんなに熱心に勧められて断るだけの度胸はない。「こっちですよ」と住職自ら案内してくれる。変形の茶色がかった墓石の真ん中には大きく「大道院義心居士」、下の中央に「俗名山浦環 刀名源清麿」、右に「信州小諸人世俗号四谷正宗」、左に「安政元甲寅十一月五日没 行年四十二歳」と記されている。
     「近藤勇が虎徹を求めたとき、高くてとても買えない。そこで買ったのが四谷正宗。清麿は四谷北伊賀町に住んでたから。」切れ味が抜群だったので、その刀は一般に四谷正宗と呼ばれた。住職が説明してくれるのを椿姫は理解しただろうか。「お酒じゃないからね。」「アッ、武甲正宗は美味しいですもんね。」 
       「信州小諸の人です。」「確か兄貴も有名な刀工でしたね。」兄の名は山浦眞雄。小諸の郷士の子に生まれ、兄弟揃って初めは剣を志し相当の腕前になった後、刀工となって名を挙げた。

     江戸後期の刀鍛冶の名匠源清麿は、本名を山浦環といい文化九年(一八一二)信州小諸に生れた。 はじめ上田の刀匠河村寿隆について鍛冶を学び、天保六年(一八三五)江戸に出て幕臣窪田清音のもとで兵学を学ぶ傍ら刀工として精進した。 その後、四谷北伊賀町(現在の三栄町の一部)に居を構えて刀剣の製作に励み、名も源清麿と改めた。新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として、天保・弘化年間(一八三〇~四六)に活躍した。その刀の切れ味は正宗のようだといわれ、「四谷正宗」と呼ばれた。 安政元年(一八五四)十一月十四日、四十二歳で没した。(新宿区教育委員会掲示より)

     「表札も見て行ってよ。昔のまま変えてないのはうちだけだから。」白い陶製の表札には、四谷區南寺町二十番地とあった。その通り、ここは寺町である。「昔は麹町、今の清水谷公園の辺りにあったんですよ。」かつてはその一帯が寺町だったが、寛永十一年の江戸城拡張のとき、大部分の寺がここに移転してきて四谷の寺町を形成したのである。服部半蔵の西念寺もそうだ。
     「それじゃ有難うございました。」「そこが長谷川平蔵だから」と住職はわざわざ一緒についてくる。よほど閑な人だ。坂の上の方でロダンがイライラしながらこちらを眺めている。重々承知しているのだが、仕方がないではないか。

     石蕗や断りかねて墓参り  蜻蛉

     斜向かいにあるのが戒行寺だ。新宿区須賀町九番地三。門を入ってすぐ本堂前の参道にあるのだから、さっさと見てしまおう。「長谷川宣以供養之碑」と彫られた文字は以前来た時にはよく読み取れなかったが、溝に白を塗って読みやすくしてある。右には「火付盗賊改方」、左に「法名海雲院殿光遠日耀居士 寛政七年五月十日 享年五十歳」とある。
     鬼平の供養塔がどうしてこんなところにあるのか、実に不思議だった。どうやら長谷川家の子孫の菩提寺になっていてその縁によるのだろう。平蔵自身は本所(現・菊川駅の辺り)の屋敷に住み、そこで死んだ。
     「本当に有難うございました。」「向こうには首斬り浅右衛門の墓(勝興寺)もあるからね。」「どうもどうも。」大変親切な住職ではあった。「嬉しそうでしたね。知ってる人がいたからじゃないですか。」確かに日本刀に関心のある人以外で、山浦環を知って訪ねて来る人は少ないないだろう。長谷川平蔵や山田浅右衛門が並ぶこの一角では、殆どが素通りしてしまうに違いない。
     「でもよく知ってましたね。」私だって隆慶一郎『鬼麿斬人剣』で知っただけの名だ。行年四十二歳は突然の自殺であって、その理由は謎だ。またそれ以前の江戸出奔からの数年間についても事情が明らかにされていないことから、隆はその空白期間を題材にしたのである。
     ところで、この会の仲間が殆ど隆慶一郎のことを知らないのは残念なことだ。私は時代小説の最高峰は隆と藤沢周平の二人だと思っている。「藤沢周平は知ってますけど」とあんみつ姫は言う。二人が死んでからは時代小説を読む気が失せ、それ以後のものは全く知らない。だから私の意見は偏っているかも知れない。

     「時間が押してますんで、急いで下さい。」次は榊原健吉だ。西応寺。新宿区左門町十一番地四。狭い斜面の土地で、墓地に行くには長い石段を下りなければいけない。あんみつ姫は膝のせいで階段の下りが苦手である。「ここですよ。」質素なもので、文字は「榊原健吉之墓」とあるだけだ。家紋の源氏車が入っている。
     「高橋泥舟に勝ったんですよね。」健吉の名前を知っているのはたぶんロダンだけなので、明治二十年の天覧兜割りのことを話題にしておく。逸見宗助、上田馬之助、榊原健吉の三人が競って、健吉だけが明珍作の鉄兜を斬り割った。鍛えた鉄の兜が斬れるのである。切口三寸五分、深さ五分に達したと言う。「使ったのは同田貫ですね」とロダンが補足する。一昨日のロダンからのメールで、これがドウダヌキだと教えられるまで、私はドウタヌキと読むと思っていた。
     健吉は男谷精一郎信友の直心影流を継承し、講武所剣術師範役、遊撃隊頭取などを歴任した。上野戦争で輪王寺宮を背負って救出したことも重要なエピソードだ。
     維新後窮迫した剣術家の生計維持のために撃剣会を主催した。剣術の見世物化だと非難もされたが、今ではこれが剣術の命脈を伝えて現代剣道に繋がったと評価されている。剣道の試合で奇声を上げるのは(気合を入れるのだと教わったが、高校生私は納得できなかった)、この撃剣会で始まったという説を見たことがある。
     また階段を上って元に戻る。「年取ったらお墓参りも大変ね」とハイジがつくづくと呟き、クルリンも、鎌倉に墓を建てた親戚が実に大変な思いをしていると同感する。

     「それじゃ急ぎましょう。お昼は十二時に予約してますから。」戒行寺坂を戻り、鉄砲坂に入る。突き当たりを左に曲がりすぐに右に曲がる。「ここが学習院初等科です。」「入るんですか。」「入りません。」「俺は学習院に入学する筈だった。ホントだよ。」信じる人は誰もいない。坂道で間隔がやや伸びてきたので小さな公園で後続を待つ。「来るまで休みましょうか」とヨッシーがベンチに腰を下ろした。
     全員が揃って公園を出たところでロダンが立ち止った。「これを見てください。」足元の石畳に埋め込まれている直径十センチ程の丸い標識に「迎賓館 眺望十地点 東京都都市整備局」とあった。「ここからの眺めがいいんですよ。」前を見ると、長い石畳の真正面に迎賓館が建っている。「赤坂離宮ですね。」紀州家中屋敷の敷地に片山東熊の設計で、大正天皇の皇太子時代の東宮御所として建造された。但し大正天皇はほとんど住むことがなく、即位後は離宮として扱われた。
     「うっかりして申し込むのを忘れちゃったのよ」とハイジが残念そうに言う。五月か六月頃に宮内省のHP上で、内覧会の抽選があるのだと言う。「一度くらいは見ておきたいじゃない。」そういうものか。門の前では数人の男女が一所懸命写真を撮っているが、そこに近づくだけの時間的余裕が今はなさそうだ。
     南元町公園、南元町雨水調整池。「あそこに皇太子一家が住んでるんだよ。」「弟もいるよ。」「みんなイッショクタにいるのね。」椿姫の「イッショクタ」がおかしい。私はこんなことも知らなかったが、赤坂御用地の中には東宮御所の他に秋篠宮邸、三笠宮邸、高円宮邸があるのだ。木々もやや黄色に色づいてきた。
     明治記念館の前は素通りして、外苑東通りを信濃町駅に向かう。「エーッ、まだ歩くの。」「あそこの歩道橋の脇ですから。」リーダーの絶妙な時間配分で、十二時になる少し前に目的地に着いた。「外苑うまや信濃町」である。幟に三代目市川猿之助の名前が大きく書かれている。

    赤坂「うまや」と三代目市川猿之助丈との関係
    「うまや」の発祥地は、九州・博多。
    この度、市川猿翁の新稽古場建設にともない赤坂に出店しませんかというお誘いをいただきました。
    革新的歌舞伎役者として今では誰もが認める市川猿翁ですが、かつては不遇時代もあったとか。そのとき、一番温かく受け入れたのが博多の お客様だったとのことで、博多にはことのほか思い入れがあり、今回のご縁につながりました。
    また、農家にとって重要な財産でもあった牛馬を飼育するための厩(うまや)には年々定時に行 われる悪魔払いの行事があり、猿が牛馬をひいている絵札を厩の木戸に貼って守札にする信仰があるといいます。
    〝さる〟は〝うま〟の守り神。「うまや」は「市川猿翁」ディレクション。
    〝さる〟と〝うま〟の古来からの深い関係も今回のご縁につながっているのかもしれません。http://www.jrfs.co.jp/umayahome/e_itikawa/index.html

     馬と猿と言えば孫悟空のことが思いだされる。花果山の仙石から生まれた孫悟空が、天界に乗り込んで初めて与えられた職が弼馬温であった。要するに馬飼いである。最初はその意味を知らずに得意になっていた悟空は、実態を知って怒り心頭に発して暴れまくり、いろいろあって最後には五行山に封印されてしまう。三蔵法師に助けられるのはその後のことだ。
     岡山大学埋蔵文化研究センターは今年五月、八世紀後半の猿駒引きの絵馬を発掘した。河童駒引きや猿駒引きは柳田國男や石田英一郎で知られていて、河童と猿とは近縁性が確認されている。河童をエンコウ(猿猴)と呼ぶ地方もある。河童はさておき、猿が馬の守護者だという伝承も古いのである。
     玄関前のベンチには順番を待つ客が数組座っている。今朝ロダンが言っていたように「行列のできる店」であったか。靴を脱いで上がると、部屋は和室で畳の上に椅子テーブルが誂えてある。
     「なんだかさ、こういう所だと落ち着かないよ。」講釈師が珍しく弱気な声を出す。私と同じでこういう店に慣れていない。「あれがさ、算盤に使われる。あれじゃなくちゃダメなんだよ。」講釈師が言うのは、天井に張られた、燻された竹である。囲炉裏で長年燻された竹だろうが、本当のものかどうか。乾燥が必要なのは分かる。しかし「塗ったんじゃないですか」とヨッシーも首を傾げる。そんなに古い建物とは思えないのに、土壁にも傷があるのは、古民家の面影を演出しているのではあるまいか。また、本当に長年囲炉裏で燻された竹でなければいけないのなら、算盤の材料はそのうち消滅してしまうだろう。トモエ算盤がいくら頑張っても材料がなくなればどうしようもない。
     テーブルの上の笊には生卵が用意されていて、「うちのたまご」というブランド名がつけられている。普通のひとは「我が家の」という意味だと思うだろう。案に相違して、「うちの」は内野宿養鶏場生産の意味だった。内野宿とは福岡県飯塚市、長崎街道の宿場らしい。小皿に盛った漬物は二三人で取り分けて食べるようになっている。やがて出された「楽屋めし」は幕の内弁当とは違った。
     曲げワッパの中に、色とりどりの料理が小皿に分けられて盛られている。内容は分からないが綺麗なものだ。若旦那は写真を撮る。「アリバイ作りだな。」

    市川猿之助丈の一門の楽屋に届けているお弁当をお客様の為にアレンジしたものです。量を少し、品数を多くお召し上がり頂ける様、仕上げました。

     それに比べて、若者三人が注文したトンカツ定食はなんだか寂しい。トンカツの他には刻みキャベツ、味噌汁しかない。「お代わりができますからね」とロダンが声をかける。確かに茶碗は小さい。「キャベツも少ないですね」とヨッシーも笑う。
     やはり一杯では少し足りず、私、桃太郎、ヨッシー、少し遅れてダンディもお代わりを頼む。椿姫も頼んでいるのがエライ。「ご飯が大好きなんですよ。」講釈師はなんだか静かに食べている。「小食ですね」とヨッシーに言われて、「俺はあんまり食わないよ」という返事も小さな声だ。今日は、椿姫は生卵が食えないことが明らかになった。「ヌルヌルした感じがイヤなの。」ウナギもダメ、ドジョウもアナゴもダメなんて、実に我儘な人である。私は嫌いなものなんかない。
     ところで玉子かけご飯のやり方には大別して二通りある。一つはご飯の上に卵を割り、そこに醤油を垂らして掻き混ぜる方式だ。桃太郎はこうしていたようだが、私はこの方式が苦手だ。もう一つは、小鉢の中で白身を切るようにしてよく混ぜてから醤油を垂らして掻き混ぜる。そしてこれをご飯にかける。私はこの方式である。
     「子供の頃に二人で分けると、最初の分にどろっと白身だけが出てくるんですよね。アレがイヤで。」あんみつ姫の経験は私にもある。ご飯の上に、やや醤油の色のついたドロリとしたものだけが乗ってしまい、あれを口に入れると何とも索漠たる気分を味わうのである。混ぜ方を会得するには経験が必要だった。カラザを取り除くかどうかでも分かれるかもしれない。子供の頃は真剣に取り除いたものだが、この頃では別に気にならなくなった。
     一人で一個の卵を食えるようになったのはいつ頃だろうかと考えてみたが、思い出せない。いずれ、高度経済成長期に相対的に安価となった卵のおかげであろう。
     「コーヒーが欲しい人は百円です。どうしますか。」ロダンの声に誰も返事をしない。そのうち店員がやってきて、「楽屋めしのお客様にはコーヒーか紅茶がでます」と案内を始めた。よくよくメニューを眺めてみると、楽屋めしには「デザート・コーヒー付」と書いてある。別に注記として「定食をご注文のお客様にはコーヒーを百円にてご提供いたします。」と書いてあって、ロダンはこっちを見ていたのだ。
     「どうする、集金するかい。」いつもは一番早く勘定を済ませて外に出ようとする講釈師が、今日は雰囲気が違う。「別々でいいんじゃないですかね」と言いながらロダンがレジに行って戻ってきた。「やっぱり纏めてくれって。」「そうだろう、だから言ったじゃないか。」
     「みんな出したかな。それじゃこれで全部だね。」しかしどうしても千五百円足りない。誰かひとり払っていないんじゃないか。「私はヨシミちゃんと二人分払いましたよ。」それは私が受け取ったから知っている。こういう場合、不足した分は幹事が引き受ける掟である(そんなことを言うとロダンに怒られてしまう)。「クルリンがいないわね。一人で会計してるんじゃないかしら。」「やっぱりそうよ、レジの前で待ってるわ。」明朗会計であった。

     次は明治記念館だ。ロダンの計画では昼飯前に行く筈だったのが、山浦環のせいでこの時間になった。入口脇には徳川家達の書になる「憲法記念館の礎」の石碑が建っている。「十六代当主です。」水戸人はこういうことをゆるがせにしない。天皇隣席の下、明治憲法の草案審議がここ(当時は赤坂仮御所別殿)で行われたのである。
     後に枢密院議長伊藤博文に下賜され、荏原郡大井村に移築され恩賜館と命名された。大正七年、現在地に移築され、憲法記念館と改称した。昭和二十二年、明治神宮の結婚式場として新たに明治記念館として発足して今日に至る。
     「中には入れません。」「私は入ったことありますよ。」「個人ならいいんですって、団体だとダメだって言われました。」特に入りたい訳ではないが、たかが結婚式場である。誰が入って行って悪いわけがあるのだろう。「親戚一同下見に来ましたっていうのはどうかしら。」
     「ここに喫煙所があります。」ロダンがわざわざ教えてくれるのだから、タバコを吸わない訳にはいかない。私はさっき、「うまや」の喫煙所で済ましてきたのだったが、椿姫のお付き合いもしなければならない。
     通常の玄関ホールの少し向うに、赤絨毯を敷いた石段を持つ入口がある。ここは本館玄関車寄せで、皇族だけが使用できる入口である。「私ここから入ったことがあるの。」椿姫はどんなことでも仕出かしてしまう。「気づかなかったのよ。」「だって、菊のご紋があるでしょう。」張り出した屋根の天井から釣り下がる照明が菊の形で、蛙股にも菊花紋が彫られている。
     屋内に入らない私たちはここで引き返す。花嫁衣装が飾られているウィンドウを眺めるのは女性陣にとっては格別楽しいことのようだ。「綺麗ね。」「私これがいいわ。」「講釈師がね、もう角も隠せない年齢だから無理だって言うのよ。」
     「このドレスは無理だろう、無理やり着たら背中が剥き出しになっちゃう。靴紐みたいに縛って隠さなくちゃいけない。」無茶苦茶なことを言う。「壁から背中を離しちゃだめだ。蟹歩き。」「イヤねえ。誰も着たいなんて言っていないじゃないですか。」「笑いすぎちゃうわ。」
     神宮外苑に入っていく。外苑は青山練兵場の跡地である。明治二十年に天皇が近衛兵除隊式を閲兵して以来、一月八日の陸軍始めと十一月三日の天長節には観兵式が行われた。日清日露銑三の観兵式もここで行われた。神宮外苑となったのは大正十五年(一九二六)である。
     聖徳記念絵画館前通りに来て、ロダンがアスファルトに注意を促す。「大正十五年のアスファルト舗装は日本最古のものです。」そう言われると、路面にはヒビが入っていて、いかにも古そうだ。ワービット工法で造られたという。初めて聞く言葉だ。

     ワービット工法とは、下層に粗粒度アスファルトコンクリート(15cm)、上層に富配合のアスファルトモルタル(5cm)を敷いて、上下層を同時に転圧して仕上げる工法です。絵画館前通りには、八十年前の舗装が今もなお使われています。これは現存する車道用アスファルト舗装としては最古級のものです。アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を、下層のアスファルトコンクリートの主要骨材は相模川で採取した砂利を使用し、当時最新の機械化施工でつくられました。(「関東の土木遺産 聖徳記念絵画館前通り」)
     http://www.jsce.or.jp/branch/kanto/04_isan/h16/h16_3.html

     絵画館構内の隅には、樺太国境画定標石がある。「知らなかったわ。」「よく来るのにね。」私は来たことさえなかった。菊花紋の上下に「大日本帝国」「境界」と彫られた角柱標石の上部は斜めに削られていて、「模造」の文字も見える。これはレプリカであることを表しているので、もちろん本物にはなかった。

      樺太国境画定標石
    時  明治三十九年~明治四十年
    所  樺太日露境界
     明治三十七、八年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。
     その境界を標示するため、日露両国委員は、明治四十年九月四基の点測表と十七基の小標石を建てて境界を確定しました。
     この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
     日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。
     又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
     昭和五十四年六月二日 明治神宮外苑

     「樺太連盟っていうのがあるのね。」私も知らなかった。引揚者とその遺族が中心となって作られたものらしい。
     道路に出ようとすると、「選手が走って来ますから注意してください」と係員に止められた。なるほどゼッケンをつけた選手が走っている。「何のマラソンなの。」「二十四時間マラソンだってさ。」国際ウルトラランナーズ協会公認の二十四時間走個人レースで、来年の世界選手権代表選考指定競技会を兼ねる大会であった。一周約一・三キロのコースをひたすら周回するのである。「飽きちゃうよな。」今日の十一時から明日の十一時まで、想像するだに恐ろしい。同時に五十キロ、六時間、十二時間の競技も行っていて、募集定員は全種目合わせて百二十人程度となっている。
     「三食出るんだぜ。」飯を食わせてもらうために二十四時間走れるか。芝生には小さなテントがいくつも設置されている。「あんなにヨロヨロしちゃって、大丈夫かな。」「案外ああいう人が頑張れるかも知れないわ。」
     後日、この日の結果が発表されている。二十四時間の最高記録は重見高好の二六九・二二五キロで、従来の国内大会の記録を十キロ以上更新した。これはスゴイね。平均時速は十一キロを超えるのだ。女子は坂根充紀栄の二三〇・八九〇キロである。
     国立競技場の一角には秩父宮記念スポーツ博物館がある。「今日は入れないようですね。」競技場の掲示板を見ていたロダンが残念そうに振り向く。「でもスタンドは見学できるかもしれない」とロダンは博物館に入っていった。しばらくして戻ってきて、「博物館も入れるそうです」と私たちを呼ぶ。ロダンの交渉力のお蔭だ。
     中に入って机の前に並んでチケットを買う。椿姫とヨシミちゃんは全く関心がないようで、入らないと言う。「それじゃ私もやめよう。」ダンディは椿姫と一緒にいたいのである。結局チケットを購入したのは十一人である。「老人割引はないのか。」ない。一律三百円であった。
     最初にスタンドに入る階段を上がる。二十六番ゲートから入って、二十九番辺りまでが歩ける範囲で、床の色が違えてある。入ってすぐに目につくのが高いポールだ。「織田がさ、跳んだ長さだよ。」講釈師が教えてくれるのだが、感度が悪い私はいまひとつ呑み込めない。「あの高さを棒高跳びで跳んだの。」「違うよ、三段跳びだよ。」漸く気が付いた。織田幹雄がアムステルダム大会の三段跳びで出した記録十五メートル二十一センチをポールにして立てているのだ。そこに砂場を模したような形も造られている。
     「聖火台は川口の鋳物工場で造ったんだ。」講釈師は何でも知っている。「ここももうすぐ見納めだな。」六十四年の東京オリンピックのために建てられた競技場は、次の東京オリンピックに向けて、八万人収容(現在は五万四千人)の競技場へと改修させられるのである。走行レーンが八レーンしかなく、四百メートルのサブトラックがないことなどの理由で、現在の国際陸上連盟の規格を満たしていないのだそうだ。
     当初計画では「競技場周辺の都立明治公園や日本青年館まで敷地を広げてサブトラックを敷設」するとしていたが、最終案では、明治神宮外苑軟式グラウンドをサブトラックに、明治神宮第二球場を投擲種目の練習場にする構想が決まった。この構想に基づき国内外四十六作品のコンペによって、昨年九月、英国の建築設計事務所ザハ・ハディド・アーキテクトが最優秀賞を獲得した。総工費は千三百億円という。現在の競技場は来年七月から再来年十月にかけて解体され、新競技場建設が開始される。
     もう来ることはないだろうと、みんなは何となく名残惜しそうに眺めている。「それじゃ博物館に入りましょう。」入口を入って二階が博物館になっている。ほとんどが東京オリンピックに関するものである。
     あの時のマラソンの様子がビデオで流されている。「ここで抜かれるんだ。」円谷は一度も後ろを振り返らなかった。「あの『美味しゅうございました』の遺書も堪らないですね。涙が出ちゃいました。」最後に抜かれたとはいえ、銅メダルを獲得したのはそれだけで偉業なのだ。それを無責任な観客は、やればできる、次はもっと上をと煽り立てる。選手は自分のために走るのか、国のために走るのか。「幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません。」可哀そうな円谷。

     映像に逝きし面影冬木立  蜻蛉

     「チャスラフスカの体操着が見たかったな。汗の臭いを嗅いでみたかったんだよね」と笑うのは碁聖だ。意外に色好みのひとである。ロダンの案内に書かれていたのだが、残念ながら今日は公開されていないようだ。
     ベラ・チャスラフスカ。「懐かしい名前ね。」当時の日本女子選手の体型と比べて、彼女は圧倒的に美しかった。その後、一九六八年の「プラハの春」で彼女の名前が大きく伝えられて驚いた。二千語宣言に署名していたのである。美しいだけでなく、知性と勇気を兼ね備えた女性なのだと高校生私は感動した。ワルシャワ条約機構軍のチェコ侵入で同年のメキシコ・オリンピックの出場は危ぶまれたが、なんとか出場を許され、個人総合を含む四種目で金メダルを獲得した。
     コマネチの登場以後、女子体操は少女のアクロバティックな曲芸に変質していくので、大人の女性の優美な演技はもう二度とみることができないだろう。
     体操着は見られなかったが、おそらく熊谷一弥が活躍していた時代のテニス・ラケットを見たのは有益だった。今よりももっと小さく細長くて、恐ろしく粗末なものだ。あらゆる競技は、スポーツ科学の名のもとに用具を改良し、記録を上げることに専念している。しかしこれは、オリンピックの所期の精神とは無縁なものだ。元々古代ギリシアでは全裸で競ったのである。アベベ・ビキラがローマでは裸足で走ったことも忘れないでおきたいことだ。

     「学徒出陣はどこですか。」「外だよ。」最前から講釈師が口にしていたので、あんみつ姫はそれが気になっている。三十分程見学して外に出る。「こっちだよ。」講釈師が連れて行ってくれた一角には、「出陣学徒壮行の碑」が建っていた。
     「俺はスタンドで見てた。雨がジャンジャン降ってたよ。」「ほんとですか。」講釈師の年齢は知っているだろうに、若旦那がこんな言葉を真に受けるとは思わなかった。昭和十八年十月二十一日のことである。若旦那が中学一年、碁聖が国民学校六年、講釈師、ダンディ、ヨッシーはまだ五歳であろう。
     この時の徴兵対象者は、大学、高等学校、専門学校に在籍する文化系学生である。そしてこの明治神宮外苑競技場には七十七校二万五千人の出陣学徒が集められた。東京、神奈川、埼玉の三県で高等教育機関が七十七もあったのだろうか。「東大が先頭だったよ。」ここでも講釈師は見てきたようなことを言う。当然序列が決まっている筈だ。帝国大学、高等専門学校が大学に昇格したもの、私立大学、専門学校の順だと思う。調べてみると東京帝国大学、東京商科大学(東京高等商業、現一橋大学)、東京文理科大学(東京高等師範、現筑波大)、慶応大学、早稲田大学、明治大学の順であったようだ。
     「この碑もどこかに移されちゃうんですよね。」できればこの敷地内に残してほしい。「やっぱり現場になくちゃダメなんですよ。」十一月十二日、政府は競技場の改築後も敷地内で適切に保存されることが望ましいと閣議決定した。

    花もつぼみの 若桜 
    五尺の生命 ひっさげて
    国の大事に 殉ずるは 
    我ら学徒の 面目ぞ  
      ああ紅の 血は燃ゆる(野村俊夫作詞、明本京静作曲『ああ紅の血は燃ゆる』)

     私は勘違いしていた。この歌(別名『学徒動員の歌』)は昭和十九年なので、この時に歌われたものではなかった。行進に歌われたのは『抜刀隊』である。

    我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
    敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
    之に從ふ兵は 共に慓悍決死の士
    鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
    起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ
    敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
    玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし(外山正一作詞、シャルル・ルルー作曲)

     山田風太郎『警視庁草紙』の最終章が連想される。警視庁に反発して、事あるごとに対抗していた旧南町奉行所同心の千羽平四郎が、西南戦争勃発の報に接して警視庁が組織した抜刀隊に入隊する。元仙台藩士の警視庁巡査油戸杖五郎も従軍する。
     会津藩山川浩も仙台藩細谷三太夫も将校として従軍する。陸軍幼年学校生徒の柴五郎は参戦できなかった。そして物語は、銀座街頭に響く『抜刀隊』の歌と行進の足音を記録して終わる。西南戦争と大東亜戦争とは決定的に違うが、いずれしても「もとより生還を期」せぬ行進は哀しい。
     ところで、「生等、もとより生還を期せず」と答辞を読んだ東京帝国大学文学部の江橋慎四郎は、戦地には行かず陸軍航空整備兵として内地で敗戦を迎えた。戦後は文部官僚から東大教授になり、鹿屋体育大学学長を努めた。鹿屋は特攻隊の基地があったところだ。
     山田風太郎の日記には何故かこの日の記事が欠けている。まだ受験生の身分だから動員されなかったのだろうが、ラジオで報道されていれば何らかの感想を抱いた筈だ。一ヶ月後の十一月二十一日の記事を読んでみる。

     〇夜、吉田の学徒出陣を見送るために東京駅にゆく。
     宮城前の広場には、篝火と歌と万歳の怒涛が渦巻き返っている。嵐にもまれるようにゆらめく提灯、吹きなびく幾十条の白い長旗、それに「A君万歳、L大学野球部」とか「祝出征B君、Y専門学校剣道部」などの文字が躍っている。(中略)
     仰げば満天にこぼれ落ちんばかりの星屑、蒼茫の大銀河、広場をどよもす「扶難の青春」の歌声。――みんな泣いている。みんな笑っている。情熱に酔っぱらって、旗と灯影にゆれ返る無数の若い群像の上を、海の夕凪のように渡ってゆく声なき悲哀。絶望の壮観。(『戦中派虫けら日記』)

     声なき悲哀、絶望の壮観。映画にも記録されて全国的に宣伝された壮行会とは全く違う光景だ。こちらの方が学生の実態に近いだろう。
     しかし学生だけにスポットライトを当ててはいけない。学生はそれまで徴兵猶予の特権があり、相対的には恵まれていたのである。それに軍隊でも学歴による待遇差は大きくて、中等学校以上の卒業生であれば(同世代の二割程度か)、幹部候補生を志願して下士官や下級将校になることができた。それが最も消耗する最前線の指揮官を速成するためだったとしても、小学校しか出ずに徴兵された庶民とは違う。
     そばには「同期の櫻」なんて名付けられた木がある。「こっちは万朶の桜だ。」「なんですか、それ。」「知らないの。」「全然知らない。」嘘か本当か、ヨシミちゃんは全く知らないと笑っているし、あんみつ姫も知らないと言う。「軍歌は知らないんですよ。」ヤケに古い歌を知っている癖に軍歌は知らないというのは育ち方にあるかも知れない。これは『歩兵の本領』(明治四十四年)である。

    万朶の桜か襟の色
    花は吉野に嵐吹く
    大和男子と生まれなば
    散兵戦の花と散れ(加藤明勝作詞『歩兵の本領』)

     原曲は永井建子『小楠公』(明治三十二年)だというのは初めて知った。これが最近の定説になったらしい。その曲が第一高等学校寮歌『アムール川の流血や』(明治三十四年)に使用され、更に四十四年の『歩兵の本領』の後、大正十一年には『メーデー歌』になった。実に息の長い、しかも左右を問わず歌われた曲なのだ。日本人の音楽的感性が未熟だったことの証でもある。歌詞を比べてみる。なんだかヤケクソ気味だね。いずれも七五調だが、『小楠公』だけが長い。

    時しも御代は正平の
    三年の春のはじめにて
    芳野の山は白妙の
    雪に木末をうずめられ
    萌え出る木々の下草も
    みな足利のあししたに
    踏みしだかれて哀にも
    伸ぶるしからもなよ竹や
    折れても節操やぶらじと
    誓ひし正行は去年の冬(莵道春千代作詞『小楠公』)

    アムール川の流血や
    凍りて恨み結びけん
    二十世紀の東洋は
    怪雲空にはびこりつ(塩田環作詞『アムール川の流血や』)

    聞け万国の労働者
    とどろきわたるメーデーの
    示威者に起る足どりと
    未来をつぐる鬨の声(大場勇作詞『メーデー歌』)

     イチョウ並木の紅葉が見頃になるにはまだ一週間ほどかかりそうだ。それでも車道側の列がやや色づいている。人が多い。「イチョウ祭りの期間だと、もっといっぱいですよね。露店も出るし。」通りに面したカフェも結構混み合っている。
     青山通りに出る辺りに、道路の両側に石垣が積まれているのは、今までは気づかなかった。「あれは何でしょうね。」「何かの門みたいだ。」江戸時代のものかと思ったがそうではなく、かつての明治神宮外苑競技場の門であった。

     「この辺は大山街道でも歩きましたね。」「そこを曲がって。」青山霊園に着いた。元々美濃国郡上藩青山家の屋敷跡で、明治七年に公共墓地となった。同時期に、染井、谷中、雑司ヶ谷の霊園が造られている。
     ロダンが最初に案内してくれたのは中江兆民の墓である。四本いずれも細長い粗末な石柱で、中央に「兆民中江先生痩骨之標」、左端に「中江丑吉先生之墓」(兆民の長男)、その右隣が「中江弥子之墓」(兆民夫人、丑吉の母)、「痩骨之標」の右に「中江柳子之墓」(兆民の母)と並んでいる。この時は正しく、「丑吉は息子です」と説明したのに、歩いている間に、もしかしたら兆民の本名が丑吉だったかなんて不安になってきた。しかしそれはおかしな混乱だった。
     兆民は号で、本名は篤介である。クルリンは、兆民中江先生の語順が気になっている。欧米人の名+姓の書き方と同じだと考えたのだろうか。号と姓名を併記する場合には、号+姓+名の順で書く。例えば鴎外漁史森林太郎、紅葉山人尾崎徳太郎、漱石山房主人夏目金之助、緑雨斎藤賢、荷風散人永井壮吉などのように。
     本棚を眺めると『三粋人経綸問答』、『中江兆民評論集』、『一年有半・続一年有半』、それに幸徳秋水『兆民先生』が並んでいた。一時期、兆民に始まって明治社会主義者の本を一所懸命読んでいたのを思い出した。

     明治三十四年三月二十二日東京を出発、翌二十三日大坂に着したり。二、三人停車場までに来たり迎へ、余が顔を熟視して大に驚きて、余があるいは直に卒倒せざるやとまでに思ひたると、旅館に着したる後に言へり。(中略)
     一日堀内を訪ひ、あらかじめ諱むことなく明言してくれんことを請ひ、因てこれよりいよいよ臨終に至るまでなほ幾何日月あるべきを問ふ。即ちこの間に為すべき事とまた楽しむべき事とあるが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、かく問ひて今後の心得を為さんと思へり。堀内医は極めて無害の長者なり、沈思二、三分にして極めて言ひ難くそふに曰く、一年半、善く養生すれば二年を保すべしと。(中略)
     一年半、諸君は短促なりといはん、余は極めて悠久なりといふ。もし短といはんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり。それ生時限りありて死後限りなし、限りあるを以て限りなきに比す短にはあらざるなり、始めよりなきなり。もし為すありてかつ楽しむにおいては、一年半これ優に利用するに足らずや、ああいはゆる一年半も無なり、五十年百年も無なり、・・・・(中江兆民『一年有半』)

     こうして兆民は書き続ける。『一年有半』を終え『続一年有半』も書き継いだものの、一年ももたず明治三十四年(一九〇一)十二月十三日午後七時三十分に死んだ。享年五十五。
     この時「告別式」というものが初めて行われた。今では葬式と何の区別もなく使われているが(通夜に対して葬儀を告別式と呼ぶことが多いのではないか)、本来これは違うのだ。葬儀は無用、直ちに火葬せよという兆民の遺志で、宗教的儀式を一切排して友人門弟が故人と別れを惜しんだ。それを「告別式」と呼んだのである。会葬者は五百人を超えた。
     幸徳伝次郎は十八歳で上京して兆民の門弟となり、秋水の号を与えられた。研ぎ澄まされた刀の意味があり、思えばこの号が伝次郎の生涯を決定したかも知れない。兆民没後、『兆民先生』『兆民先生行状記』を著した。

    明治二十二年春、憲法発布せらるる、全国の民歓呼沸くが如し。先生嘆じて曰く、吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑する耳。(幸徳秋水『兆民先生』)

     秋水の文は本当にうまいと思う。いわゆる美文とは違って理屈がきちんと通っていて、なお酔わせる。後に田中正造が直訴の文章を秋水に依頼したのも理解できる。しかしルソーの翻訳者で唯物論者の兆民の思想が、秋水に伝えられたか。自由民権から明治社会主義へという流れを考えれば、秋水よりも枯川堺利彦にこそ兆民の命脈が伝えられたのではないかしら。こんな説は余り聞いたことがなく、私が勝手に憶測することだけれど。

     金子堅太郎の墓は兆民とは全く違う壮大なものだ。「従一位大勲位伯爵」の肩書が付き、「室 弥壽子」の名が並んでいる。明治憲法を鼻で笑った兆民と、その憲法の起草者と、こうして比べてみると聊かの感慨がある。「アッ、クチナシの実が。」この色が私は好きだ。それにしても明治憲法と「口無し」では話が出来すぎている。
     池田勇人の墓は実に巨大なものであった。「前内閣総理大臣正二位大勲位」である。「麦を食ったからデカクなった。」講釈師の言い分は違う。「貧乏人は麦を食え」と放言したのであって、本人が麦を食ったとは思えない。但し正確には、「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」というのが池田の発言だった。
     牛島満中将(沖縄戦で自決、死後即日大将に親任)、森有礼(急進的欧化主義者)、黒田清隆。黒田清輝は清隆の縁につながるのではないかと姫が言っているが、調べてみると、黒田清兼の子で伯父の黒田清綱の養子になっている。同じ薩摩でも清隆とは血縁関係はなかった。
     志賀直哉の墓は南京錠の掛かった一族の墓所の右端にある。「蜻蛉が大嫌いなひとですよね」とあんみつ姫が笑う。「無茶苦茶書いてましたからね。」特に嫌いな訳ではない。戦後、志賀が口走ったフランス語公用語論の下らなさを指摘しただけだ。それに直哉が生涯働かなくて済んだのは、祖父直道、父直温の財力のお蔭である。そして直道の財は、古河市兵衛の足尾銅山開発によって得られたものだ。言わば鉱毒被害者の膏血を以て直哉は不労不生産の道を選ぶことが出来たのである。
     大きな鳥居の奥にあるのは「贈右大臣正二位大久保公之墓」である。墓石は亀の甲羅の上に載っている。「キフとか言うんですよね」とあんみつ姫が教えてくれたのだが、その時は分からなかった。正確には亀ではなく、龍が生んだ九頭の神獣のひとつで贔屓というものらしい。ついに龍にはなれない不肖の子であるが、重荷を背負うのを好むとされて、古来、柱や石碑の土台に造られた。土台の贔屓を引っ張ると柱が倒れる。これが「贔屓の引き倒し」の語源であった。そうだったのか。
     また、石碑の台になっているものを特に亀趺(キフ)と呼ぶ。「趺」は台と言う意味のようだ。姫が言っていたのはこのことだったのだね。
     隣には大きな顕彰碑も立っている。私たちは清水坂公園で殉難碑を見ているが、あんみつ姫は嫌いらしい。まあ、大久保が好きだと言う人には余りお目にかかったことがない。私は赤報隊に対する西郷のやり方を知って以来、西郷が嫌いになっているので、明治国家の骨格を作った大久保の方に関心がある。
     「これって大鳥圭介じゃないの。」「そうですね。」コメディアンだと勘違いする人もいるが、そうじゃないのだ。幕府伝習隊を率いて東北戦争を転戦し、最後は榎本武揚の函館政府陸軍奉行として敗北した。大鳥の事績には詳しくはないのだが、どうも戦いが下手だったのではないかという気がする。妻矢嶋氏墓は、下三分の一程で折れて修復してあるのだが、きちんとせずに、ずれたままくっつけてあるのが可哀そうだ。
     しかしロダンはここに寄らずに別の墓を探している。「大鳥圭介があったよ。」「そこは次に見る予定です。」勝手に見てしまった私が悪い。
     「これが藤村操です。」「立派な墓所だね。裕福だったんだな。」叔父に歴史家の那珂通世がいて、弟は後に三菱地所の社長を務め、妹は安倍能成に嫁いでいるから、良家のボンボンであろう。「漱石が悩んだのよね。」みんなよく知っている。授業中に.叱ったことが自殺に繋がったのではないかというのだが、しかし死ぬべき人間は死ぬのであって、特に十八歳の青年は簡単に死ぬ。漱石が鬱病を発したとしても、それは藤村操の問題ではなく漱石の精神の問題である。
     「藤村操君絶命碑」には「巌頭之感」が彫られている。薄れかかって読みにくい文字を若旦那が読もうとしているので、記憶していた一説を口にしてみた。結構覚えているのに自分でもビックリしたが、高校生の私は何故こんなものを暗記したのだろう。

    巌頭之感
    悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
    ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
    萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
    我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
    既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
    始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

     今ではこの遺書を完璧に批判できる。たかが十八歳で「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す」なんて断定するのは、世の中を舐めているのである。そして未熟な若者ほど人生を舐める。要するに傲慢なのである。短兵急なのである。複雑に絡み合う世界の様相を、ひとつづつ根気よく解きほぐす努力を嫌って、一かゼロかに決定したいのである。かつては未熟な若者の特徴だったものが、今の日本では普通のことになってしまった。池上彰の「わかりやすさ」、図式化がもてはやされるのは、日本人の知力が全体的に貧弱になっているからなのだ。
     そもそも「ホレーショの哲学」とは何であろう。そんな哲学者なんて誰も知らないから、詮索の結果、ハムレットの親友ホレーショのことだということになった。しかしホレーショに深淵な哲学なんかない。これは昔からかなり問題になっていて、次の会話から来ているのではないかと推測されている。

    HORATIO O day and night, but this is wondrous strange!
    HAMLET
    And therefore as a stranger give it welcome.
    There are more things in heaven and earth, Horatio,
    Than are dreamt of in your philosophy.

     ホレーショよ、天地の間には君の考え(your philosophy)及ばないことがたくさんある。ハムレットはそう言ったのである。これを誤読して、ホレーショが哲学者だと勘違いしたのではないかというのが、今ではほぼ定説になっている。(柴田耕太郎『ハムレット・ホレーショの哲学』http://www.id-corp.co.jp/english_grammar/eg2011may.pdf等を参照)。傲慢と短兵急は青年の特徴ではあるが、気取りに気取って書いた遺書が、後世無学の恥を晒すとは思わなかっただろう。

     今日は考えるべきことが多すぎて、頭脳が疲れて来た。もう少し軽く流さなければいけない。
     松岡洋右がカトリックだとは知らなかった。横長の「松岡家之墓」の上部には十字架が彫られ、別に建てられた墓誌には「ヨゼフ松岡洋右」と記されていた。このことが三国同盟締結に影響したのかどうかは分からない。加藤高明(普選法と治安維持法成立時の首相)、石段付の玉垣に囲まれた井上準之助(血盟団の小沼正に暗殺された)。
     「アッ、忠犬ハチ公ですね。」上野英三郎の墓所の角に、石碑が立っているのである。「こんなところにあるんだね。」政治家の墓をみるより。余程感動する。上野がハチを飼ったのが大正十三年、大学で講義中に脳溢血で倒れたのが翌年五月のことだ。僅か一年ちょっとで、犬と人間との間にはこれだけの関係が生まれるのだろうか。
     そしてロダンはついに乃木希典の墓に向かって行く。「向こうの先なんですけどね。」私は特に見たいとは思わないがついて行く。「蜻蛉が大嫌いな人ですよね」と、あんみつ姫も笑う。希典、静子夫妻はそれぞれ自然石の墓石に納まっている。それと向かい合って、息子二人もいる。
     紅葉尾崎徳太郎之墓の手前には、父の尾崎谷斎供養塔も建ち、墓前には新しい菊の花が供えられている。紅葉が明治文学に占める位置は非常に大きい。それはそうなのだが、私はその大きさが良く理解できないでいる。ただ内田魯庵の回想によって知らされた紅葉晩年の逸話には聊か感動する。既に重態が報じられている紅葉が、ある日丸善を訪れたので魯庵は驚いた。

     やがて間を措いて、「何を買いに来た!」と訊くと、「『ブリタニカ』を予約に来たんだが、品物がないっていうから『センチュリー』にした」といった。(『ブリタニカ』と『センチュリー』とを同時に提供していた時で、丁度『ブリタニカ』が品切れになっていた時であった。)
     「『センチュリー』を買ってどうする?」と瀕死の病人が高価な辞書を買ってどうする気かと不思議でならんので、「それどころじゃあるまい、」というと、
     「そういえばそうだが、評判は予て聞いているから、どんなものだか冥途の土産に見ておきたいと思ってネ。まだ一と月や二タ月は大丈夫生きてるから、ユックリ見て行かれる。」(内田魯庵『思い出す人々』)

     早く届けてくれと現金で支払って紅葉は去り、それから三か月後に死んだ。魯庵が紅葉と面談したのもこの時が最後になった。

     紅葉は決して豊かではなかった。先年或る雑誌に、紅葉は生前三円五十銭の画だか骨董だかを買えなかったほど窮していたという逸話が見えた。紅葉は豈夫に三円五十銭やそこらのおのを買えないほど窮していなかったが、こういう馬鹿々々しい誤聞が伝わるのも万更でないほど切り詰めた生活であった。然るに不起の病に罹って、最早余命もいくばくもないのを知りつつも少しも紊れないで、余り余裕のない懐ろから百何十円を支払って大辞典を買うというは知識に渇する心持の尋常でなかった事が想像される。(同書)

     出来得べくんば、死に臨んでは兆民や紅葉の如くでありたい。

     様々の死の姿あり冬来る  蜻蛉

     有村次左衛門。水戸人ロダンとしては是非にも展墓しなければならない人物である。「井伊大老を暗殺した人物です。」「水戸藩士以外にもいたんだ。」薩摩藩士の中で一人だけ暗殺に参加した。
     初代中村吉右衛門。これは最初からダンディが口にしていた人物だ。「名優です」と言うのだが、私は見たことがないから分からない。調べてみると三代歌六の次男で、弟に三代中村時蔵、十七代中村勘三郎がいる。昭和二十九年に死んだ。それならその年にはダンディはまだ十六歳である。中学生で歌舞伎を熱心に見ていて、名優だと判断できたということか。それでは私たちが敵う筈がない。
     「私は今の吉右衛門も好きですよ」とあんみつ姫が言う。八代松本幸四郎の次男で、初代吉右衛門の養子になった。母が初代の娘だから、祖父の養子になった訳だ。兄が現在の九代幸四郎だなんて、歌舞伎に詳しい人には言うまでもないだろうが、私のような無学者には確認しないと知らないことだらけだ。歌舞伎界は辿って行けばほとんどに縁戚関係が見つかるのではないだろうか。
     「ピラカンサね。」橙色の実がたくさん生っている。ピラカンサと通常呼ばれているものでも、赤いのはトキワサンザシ、黄色はタチバナモドキと区別されるらしい。
     小村寿太郎の墓所には鳥居がある。「ポーツマス条約。」これしか知らない。頭山満。頭山満や宮崎滔天をどう評価すべきか、いまだに分からないでいる。兆民の所で、自由民権から明治社会主義への道を言った。もう一つ、大アジア主義への道もある。そして頭山満や宮崎滔天の大アジア主義には、単純な右翼、国権拡張主義者の枠に収まり切れない、何か余剰の部分が多過ぎるのだ。そうでなければ、あれだけ孫文が信頼した筈がない。
     犬養毅。もうそろそろいいだろう。椿姫とヨシミちゃんは、さっきから飽きてしまって座り込んでいる。それにしてもこの広い霊園で、これだけの墓を探し出したロダンはエライ。相当下見を重ねたのではないだろうか。それでは乃木坂駅に向かおう。
     ヨシミちゃんは、どこを経由すればよいか悩んでいる。それを中途半端に聞くものだから、いろんな人間がいろんなことを言う。「原宿で山手線に乗ればいいじゃないか。」「日暮里に出ればいいんだ。」よくよく訊けば、地下鉄成増駅に出たいのである。それなら明治神宮前で副都心線に乗り換えるのが一番手っ取り早い。「そうよね、いろいろ言われるからこんがらかってしまったわ。」それなら若旦那と一緒に行けばよい。椿姫は池袋に出る。講釈師やクルリンは日暮里経由だ。

     反省会の場所はロダンが決めてある。「原宿に行きます。さくら水産がありますから。」神宮前駅で降りればそこが原宿だ。久し振りに降りる原宿はどうしてこんなに人が多いのだろう。「こっちですね。」地図を見ながらロダンが先頭を歩く。しかしさくら水産は見当たらない。「おかしいな、この辺なんですよね。」ロダンは悩む。「電話してみたら。」
     その電話番号は現在使われていなかった。「昨日、ネットで調べたんですよ。」ネットの情報を鵜呑みにしてはいけないのだ。そもそも原宿と言う町は私たちには縁がないのである。足を踏み入れたのがそもそもの間違いだった。「新宿にしようか。」「そうですね。」
     山手線の中でヨッシーの万歩計を確認すると二万二千歩だった。ヨッシーは十四キロかと言うが、坂道を勘案すれば十二キロというところか。新宿駅西口に出て、さくら水産に入る。五時少し前で、もっと混み合っているかと思ったが、客は少ない。タッチパネル式の注文機械がおいていないのは良いのだが、店員が一人しかいないので、注文もなかなか取りに来てくれない。「一人だったら帰っちゃうよね。」温厚な桃太郎も少しきついことを言う。とにかくビールが飲みたいのだ。席についてビールを注文したのは十分もしてからだ。
     「カキ鍋頼もうか。」滅多にないことだが、寒くなって来たからね。「私は要りませんよ。」カキが苦手な人はいる。二人前だからすぐになくなってしまうだろう。鍋二つを期待したが、当然一つの鍋で、凍ったカキが七八個入っている。「偽装じゃありませんよね。」偽装が必要なほど高いものを私たちが注文する筈がない。あんみつ姫が食べなくても、予想通りあっという間になくなった。
     冷奴や漬物も忘れてはいけない。いつものように飲んで、私の割り算では二千六百五十円になった。「その筆算が珍しいね。」電卓がなければこうして計算するしかないだろう。しかしどうした訳か、折角丁度集めたのにかなり余って、結局二千五百円で済んでしまった。不思議なことだ。
     次は「カラオケの鉄人」だ。滅多に来ない店だからカードの有効期限が切れていたらしい。これが料金にどう反映するのか分からない。ロダンは不参加で、碁聖、あんみつ姫、マリー、私の四人だけなのに、意外に広い部屋に通された。今日は声が全くでないのは当たり前だが、しかしちょっと悔しい。風邪が完全に治りきっていないのに、それでも歌うというのはバカではあるまいか。私以外は快調であった。

    蜻蛉