「東京・歩く・見る・食べる会」
第五回 芝・東京編 平成十八年五月十三日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2006.5

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   芝で生れて神田で育ち今じゃ火消しのアノ纏持ち

 端唄に唄われるように、芝は江戸っ子の本場と言ってよい。今日は江戸城までがコースに入っているから、深川、本所両国、谷中、本郷と歩いてきたこのシリーズも、漸く江戸の中心地へと辿りついたことになる。因みに平野さんは芝で、三澤さんは神田で生れた。二人とも江戸っ子だったのだ。

 地下鉄大江戸線大門駅で下車。A六番出口の階段には「港区タバコルール」の表示があり、路上ではタバコが吸えないと分った。どうやら少し早過ぎたようで集合場所の安藤広重のレリーフ前には誰もいない。信号を渡った所にあるドトールでコーヒーを飲んでいるところへ、あっちゃんから電話が入った。「皆さん場所が分るでしょうか」と心配そうな口振りだが、大丈夫だろう。今朝、起きて、彼女からの「A六番出口で」とのメールを確認したから、地理に弱い私も簡単に辿りつくことができた。
 タバコを吸い終わって店を出ると大門の前で江口さんがひとりポツンと待っている。あっちゃんは、地下鉄出口の方で待機中だ。リーダーの責務は重い。いつもは誰よりも先に来ていて、「みんな遅いよ」と文句を言う三澤さんが今日はまだ到着していない。「鬼の霍乱ですか。だから雰囲気が違うんですよね」と江口さんが笑うが、少し遅れてその三澤さんもやって来てやがて全員が揃った。
 平野さん、松下さん、三澤さん、江口さん、鈴木さん、関野さん、私の男性陣に加えて、あっちゃんが、佐藤さん、橋口さん、坪田さんの女性を誘ってくれたので、総勢十一人の会となった。女性が多いと平野さんの顔が綻ぶ。鈴木さんは珍しく会社に出勤するような格好で登場したものだから、「どうしたの、会社に行くんじゃないよ、何か勘違いしてるんじゃないか」と三澤さんが早速茶々を入れる。ダンディ松下もすっきりジャケットを着こなして、いつも埼玉県内の里山を歩くのとは、大分様子が違う。
 既にメールで何度も報告を受けていた通り、リーダーは入念な下見を繰り返し、資料もきちんと揃えてくれた。「禁複製の図ですから、こっそり見て下さいね」と念を押されたのは、某所(特に名を秘す)の地図だ。私たちは御禁制の地図を受け取り、シーボルト事件の関係者になってしまったような気分だ。
 「菜種梅雨って言うんだよ」と平野さんが教えてくれるが、このところ不安定な天気が続いている。夕べの天気予報で昼頃までは大丈夫かも知れないと期待していたが、電車に乗った途端、降りだした。どうやら雨中の散策を覚悟しなければならないようだ。ただ、それほど強い降りではなさそうだし、それほど寒くもないから、一月の谷中コースのような悲惨なことにはならないだろう。「いや、今日は寒くなりますよ」と気象予報士から脅しが入る。

 初めに尾崎紅葉の生誕地を目指す。建物は変わっているが、道幅は昔と変わってはいないのだろう。車が通れば避けるのがやっとの狭い道だ。その路地を行き過ぎてしまって道を失った。リーダーは頻りに謝るが、なに大したことはない。ちょっと戻るとすぐに見つかった。小さな祠が路地側に裏壁を曝していて、その壁に案内板がかかっている。横に回って見ると稲荷神社だ。
 紅葉が父尾崎惣蔵(谷斎と号す)、母庸の長男として芝中門前町に生まれたのは慶応三年のことだ。同年の生れに露伴、漱石、子規、緑雨がいる。満年齢が明治の年と一致するので、何かと比較しようとするとき非常に便利な人たちだ。明治十八年、東京大学予備門に入り、山田美妙等と『我楽多文庫』という筆写回覧雑誌を始めて文壇に登場した。明治文壇に権勢を振るった紅葉だが、今、新しい読者はいるのだろうか。私自身は『金色夜叉』も知らず、去年やっと『多情多恨』を読んだような始末で、紅葉の良い読者ではない。硯友社というと「古い」と私は片付けてしまうが、三十六年、胃癌で数ヶ月の命と宣告された後、日本に初めて輸入されるブリタニカ百科事典を買いに出かけた。間が悪く、目的のブリタニカは売り切れで仕方なくセンチュリー百科を買ったのだが、当時丸善に努めていた内田魯庵が、もうすぐ死ぬのに無駄ではないかと質問した(実に不躾で露骨な質問ですね)。それに対して紅葉は死ぬまで勉強していたいのだと答える。ただの古い文壇政治家だったのではない。ついでに言えば、ドストエフスキー『罪と罰』の英訳本が三冊入荷したとき、それを魯庵に薦めたのが紅葉だから、当時の知識人の中でも水準を越えていたのは間違いない。


 芝明神の裏参道の細い道を通り抜けると、「なんだよ、また裏口からかい」といつものように講釈師が悪態を吐く。しかしすぐに正面の鳥居の前に出た。中では結婚式を挙げている。往時は勧進相撲や芝居小屋が掛けられていたほど広大な境内だったのだが、今は小さくなっている。
 芝大神宮は、寛弘二(一〇〇五)年、伊勢神宮の豊受大神(外宮)、内宮(天照大神)を祭神として創建された。千年経ったということになる。徳川幕府の保護政策の下、「関東のお伊勢様」と呼ばれて庶民の信仰を集めた。
 鳥居をくぐって石段を登ると、「め組」寄進の狛犬がある。それを見て、「左が獅子で右が狛犬だよ。変わっているだろう」と三澤さんが言う。獅子かどうかの判別はできないが、本殿に向かって左は、頭がとんがっていて、右は平らになっている。ちょうど社務所から中年の女性が出てきて、「そうじゃないの」と訂正し、「これを食べれば風邪ひかないよ」と生姜飴の瓶を取り出し、分けてくれる。「おいしいですね」とお愛想を言う。
 彼女の話では確かに獅子と狛犬とそれぞれが別のものなのだが、三澤さんの説明とは逆で、右が獅子、左が狛犬なのだ。しかし、狛犬と獅子の区別は何だろう。いずれも、見たこともないライオンを想像してでっち上げたものではないか。狛犬(高麗犬)、あるいは唐獅子というのもライオンだと思うのだけれど。世の中にはこういう疑問にちゃんと答えてくれる人がいる。ネットで検索してみると、丁度良い記録があったので転載させて戴く。

 下呂の狛犬博物館の名誉館長である上杉千郷氏の説を拾い読みすると、「獅子を玉座を守る霊獣と考えたのは古代オリエントであり、『獅子座の思想』という。その思想がシルクロードをわたり中国に入って、宮廷を守護するように設置され、宮廷の儀式の調度ともなった。それが我が国の宮廷に入ってきた」という。
 また、日本の古代の宮廷で演じられた伎楽の中に「狛犬」という獅子舞があった。その伎楽から、角のない獅子と角のある狛犬を対とする観念が生まれ、やがて彫像となったともいわれる。
 平安時代に獅子・狛犬が貴人の御座所である御帖台の前に置かれるようになった。右の獅子は口を開け、たてがみは巻き毛である。左の狛犬は口を閉じ、たてがみは直毛で角がある。(「街道と狛犬・見て歩き」http://oguri.cside1.jp/sandohitokuti.htm)

 角のないのが獅子、角のあるのが狛犬なのだ。左右の指摘もこの通りになっている。口を開けているのは「阿」、閉じているのが「吽」という。このページによれば、狛犬の代わりに、十二支の動物やシカ、カエルなどを安置している神社もあるそうだ。松下さんと三澤さんが兎や狐もあると言っていたのは間違いではなかった。貴重な知識を無料で公開してくれる人がいるのは有り難いことだ。
 鳥居の下で、「さっきお渡しした資料に鳥居の説明がありますから、読んで置いてくださいね」とあっちゃんが言うと、関野さんが「とりいそぎ、ご報告」と洒落る。
 それでは資料を読んで概要を掴んでおこう。
 鳥居は二本の立て柱と横木(笠木=最上部の横木、島木、貫=下部の横木)によって構成される。笠置が反っているかいないか、柱に「ころび」(足を開いたような内側への傾斜)があるかないか、などの組み合わせで外観が異なっている。神明系はころびがなく、柱、横木ともに直線式で、古い形式と考えられる。一方、島木(明神)系は、仏教建築の影響を受け、曲線が多く用いられる。
 つまり、単純な直線式の構造が、やがて仏教という外来文明に接触してから曲線を多く用いるようになったということか。「神明系」と「島木(明神)系」とどう違うのかが私には分らないが、ここは伊勢神宮の系統で、絵を見ると伊勢神宮が神明系だから、その系統なのだろう。

 もう一度大門に戻り、増上寺のほうに向かう。今では車の通行が甚だしいが、もとは増上寺の寺域に入っている筈で、小さな寺が多く並んでいる。三解脱門で江口さんたちが説明を見ていると、「後で入りますから、早く来てください」とリーダーが命令する。増上寺の築地塀を横に見ながら「谷中の観音寺の塀が築地塀だったろう」と三澤さんが確認する。谷中のほうは崩れ落ちそう古い塀だったが、こちらは手入れが行き届き、新しい塀に変わっている。芝公園に入り、雨で滑りやすい坂道を慎重に登って丸山古墳の頂上に辿りついた。
 少し不恰好な日本地図を浮き彫りにした「伊能忠敬測地遺功表」という石碑が建っているのは何故だろう。深川富岡八幡宮に忠敬の銅像が建っていたのは、旅に出発する前と後には必ず八幡宮に参拝したからだから理解できるが、この地がどういう所縁があるのか、石碑を読んでもさっぱり分らない。勿論忠敬を尊敬する気持を失うわけではないのだけれど。
 しかし、都内にこれだけの規模の古墳があるとは知らなかった。調べてみると、坪井正五郎が発掘した。五世紀後半の築造と考えられる前方後円墳で、全長百六メートル、前方部幅四十メートル、高さ六メートル、後円部径六十四メートル、高さ八メートル、くびれ部幅二十二メートル。出土物は埴輪(円筒・人物)片で、東南斜面には貝塚が残存している。相当の労働力を集約できる権力が存在していたことは間違いないが、この頃の関東の実体と言うのは(もっと言えば中世まで)、実は良く分からない。最近の古代史研究はどこまで進んだのだろう。
 クスノキ、唐カエデなどの巨木が多く、これで晴れていたならばどれだけ良かったろう。「お稲荷さんにいきますよ」と先頭に立ったあっちゃんだが、下る坂を間違えた。「あっちの坂道で見えたよ」とわいわい騒ぎながら、少し戻ってもう一つの坂道を降りれば円山随身稲荷大明神だ。赤い幟がはためいている。
 東照宮に来て、「神君なんて勝手に称して、家康は怪しからん奴ですよ」と松下さんがちょっとキツイ言い方をする。「秀吉も豊国大明神になってますよ」と私が口を挟めば、「秀吉は朝廷を大事にしました。家康は違います」と言う。太閤贔屓、家康嫌いの上方の血は、インテリ松下さんにも繋がっているのだろうか。幹周り六メートルという巨大な公孫樹が立つ。家光が植えたということになっている。

 「今度はちゃんと正面から入りましょう」と黒門の前を通り過ぎ、三解脱門をくぐる。江戸初期の建造だ。貪欲、瞋恚、愚痴の三つの煩悩を解脱する。怒りを解脱しなければいけない。最近の自分を振り返り、私は深く反省する。
 増上寺は浄土宗七大本山の一つに数えられる。大本山が七つもあるというのも変な話だが、総本山知恩院のもとに、階層をなしているようだ。家康が徳川氏の菩提寺と定めたことから、江戸期を通じて繁盛し、また関東十八壇林の筆頭として宗学の中心の位置を占めた。もともと明徳四(一三九三)年、武蔵国豊島郡貝塚(千代田区平河町から麹町に掛けての地域)に聖総上人によって創建され、浄土宗東国の要として栄えたもので、慶長三(一五九八)年、現在の芝に移った。周囲には子院が多く存在し、これらを含めて広大な寺域を有していた筈だ。私は初めてここに来たが、現在の姿でも充分に巨大だと実感する。大殿の右後方に東京タワーを見るのも不思議なコントラストになっている。
 仏足石、ブッシュ樹(貧弱)、グラント松などを見る。大梵鐘の重さは四千貫(約十五トン)と説明に書いている。昔は木更津まで聞えたと三澤さんが言う。本当かね。

 今鳴るは芝か上野か浅草か

 め組碑。いろは四十八文字から「へ」「ら」「ひ」「ん」を除き、「百」「千」「万」「本」を加えたのが江戸町火消し四十八組になる。「火消しって言えば必ずめ組だよね」と誰かが口にする。確かにめ組が一番馴染んでいるようだ。「恵み」に通じるからだと思う。め組の喧嘩を題材にした歌舞伎の外題が『神明恵和合取組』となっていることで、それは証明されないだろうか。歌舞伎に詳しくない私は、「め組の喧嘩」の詳細を知らないのだが、文化二年正月、相撲取りとの大喧嘩が事件になった。品川宿島崎楼で酔った挙句に狼藉に及んだ力士と鳶との諍いによるというもの、勧進相撲の木戸銭を払わずに入場しようとした辰五郎以下め組の鳶との諍いによるなどと説明される。あるいは、これが順を追って発生したのだろうか。但し、武江年表では次の通りに記されているから、実態は力士に一方的にやられてしまったと思われる

 二月、芝神明宮境内にて勧進角力ありし時、同十六日八日目興行日、水引といふ角力取、鳶の者と喧嘩に及び、四ツ車一人加勢して、大勢を相手にして闘諍に及ぶ。
 此時、鳶のもの共、町内の半鐘を鳴し人集めして向ひたれども、四ツ車、長き階子を奪ひてふり回しければ、誰ありてよりつくことならず、只人家の屋上より瓦を擲るのみ。(武江年表)

 火消しと喧嘩は付き物で、大名火消しとの争いも絶えず、享保三年の加賀鳶との喧嘩も有名だ。ここで私はまたうろ覚えの知識で良い加減なことを言う。め組の喧嘩当時の頭は辰五郎だ。これは松下さんがいつも離さない電子辞書で調べてくれた。一方、幕末には有名な新門辰五郎(娘を慶喜の妾にし、慶喜上洛の際に京都まで随行する)がいるのだが、これも同じめ組でしょう、襲名するんですよと私は言ったのだが、新門の方は浅草「を組」の頭であった。謹んで訂正する。

 大殿では法然上人八百年遠忌の法要で、折畳み椅子が並べられている。焼香をする人もいる。江口さんも早速手を合わせる。江口さん、浄土宗なのだろうかと聞けば浄土真宗だという。まあ、兄弟のような(親子か)宗派だから良いのかな。我が家の宗旨も浄土真宗だった。
 てっきり法然没後八百年かと思い込んだが、実は違っていた。法然が四国に配流され、パトロン九条兼実が亡くなったのが、建永二年(一〇〇七)のことで、正しくは「法然上人大遠忌おまちうけ 九条兼実公八百回忌法要」というのだった。

 安国殿に入ると、左奥に皇女和宮の像。鈴木さんが「やっぱり左手を隠していますね」と確認するように言う。有吉佐和子の和宮替え玉説について皆が納得したように議論している。偽者(身代わり)の左手には欠陥があり常に隠すようにしていたというのだが、私は読んでいないので良く分らない。中央に置かれた少し大きめな位牌には、真ん中に東照大権現、右に台徳院(これは秀忠でしたかね)、左は誰だっただろう、三人が連記されている。その他にも多くの位牌が並んでいるから「これは大きな仏壇と考えれば良いんですよ」と鈴木さん。なるほどそれに違いない。
 各種のお守りや土産物を売っているが、今日の三澤さんは何も買わない。お土産好きのあっちゃんも買わない。クッキーも売っているのを見て「お寺でクッキーなんてね」と松下さんが笑う。西向観音。西方浄土だからだろうね、と適当に憶測で口走ると、すかさず三澤さんと松下さんが、善光寺には南向観音がある、別所温泉の常楽寺には北向観音があると教えられる。この二つは対になっていて両方をお参りしないとご利益が半減するのだそうだ。千躰地蔵は全て可愛らしい子供の姿なのだが、ずいぶんモダンな顔立ちの地蔵で、これは江戸期の顔では絶対にない。調べてみるとやはり、昭和五十年以降に順次安置されているものだから、まだ三十年にしかならない。
 墓所の扉は鋳抜き門と言う。右の扉には昇り竜、左に下り龍が鋳造されている。扉は閉まっていて、何かの機会にしか開かないことになっているらしい。江口さんが以前入ったことがあり、「あの頃はいつでも入れたんじゃないでしょうか」と言う。
 増上寺を出て日比谷通りを歩きながら、「わたし、あの仁王様の顔が見られないんです」とあっちゃんが言うのは、二天門のことだろうか。甲冑を身につけているから、仁王というより、毘沙門天とかそういうものの像ではないか。

   芝の愛宕町に突兀たる一丘あり、言うまでもなく愛宕山これなり。
 山上に愛宕権現の祠あり、これ慶長八年(一六〇三)九月、家康の内藤六右衛門高政の邸地を転じて、祠宇を構造せるもの、石川八左衛門重次その奉行たり。(田中優子監修『江戸の懐古』)

 ただし「此時は草の仮屋にてありし」(武江年表)と記されるように粗末なもので、慶長十五年、「芝愛宕大権現本社・拝殿・閣門・石階等建立」(武江年表)された。
 標高二十六メートル。おそらく江戸府内を一望にすることの出来た場所で、だから、海舟が西郷隆盛との会見場所に選んだに違いない。男坂、女坂とあるが、平野さんが片手を斜めに、もう一方の手を水平にして、男坂の勾配を計測しようとしている。「角度四十五度あるんじゃないか」というが、どう見てもそれよりは角度が小さい。四十度にしましょうよと決めてしまう。八十六段、踊り場のない石段を登るのは結構きつい。「大山はこんなもんじゃないですよ」と、最近大山詣でを経験してきた江口さんが、息を弾ませながら言う。膝が笑ってくるがなんとか先頭に立って頂上についた。「心拍数が上がります」と言いながら関野さんもちゃんと登ってくる。
 曲垣平九郎が枝を折った梅の木がある。「源平の梅」と言うのは紅白の花が咲くからだろうが、花が咲いていないせいか、それほど立派な梅の木だとは思えない。
 寛永三馬術と言うからには当然他に二人がいる筈だが、なかなか知られていない。向井蔵人、筑紫市兵衛だと名前だけは調べがついたが、何をしたのかは分らない。三澤さんに講釈してもらいたい。
 愛宕神社のホームページには、平九郎は四国丸亀藩の家臣だと記載されているが、讃岐一国を領した生駒家だから普通には生駒藩あるいは讃岐藩と言う。生駒藩ならば、実はまんざら関係ないものでもない。平九郎の活躍があったのは寛永十一年のことで、これによって生駒壱岐守高俊もまた大いに面目を施したということになっている。
 高俊は幼少で家督を継ぎ、この年元服したばかりだが、僅か六年後の寛永十七年には、讃岐十七万石を没収され、石高一万石に減知、出羽国由利郡矢島に移封される。「生駒踊り」と世間に噂されるほど踊りに狂い、お家騒動を惹き起こして幕閣の顰蹙を買うようになった挙句の処分だ(矢島町史編纂委員会・矢島町教育委員会編『矢島町史』による)。このとき、平九郎はどうしたのだろう。私の一族はこの矢島の城下で発生した。

 君諱ハ修、字ヲ修得ト為シ清也ト稱ス
 姓ハ佐藤氏、安斉ト号ス
 父ハ清兵衛ト稱シ母ハ伊藤氏
 由利郡矢島ニ住シ
 世々布帛錦繍ヲ鬻グヲ以テ業ト為ス
 (佐藤清也墓碑より。仮に読み下してみた。)

 『矢島町史』の中に佐藤屋清兵衛の名が見えるのは、文政十一年(一八二五)正月御礼銭目録の中だが、おそらく古着などを商っていたものだろう。維新後、その息子である清也が土崎湊(秋田港)に進出して廻船問屋を開いた。一族の中では清也を初代と数えることになっているので、私は六代の裔になる。三代目の時に廻船問屋は破産し、我が家は没落した。

   こんな高いところになぜ池があるのか。水が湧いている様子が見えるのだが、気象予報士はどうも納得できないような顔をしている。桜田門外で井伊直弼を襲った水戸浪士の碑がある。
 「あれがある筈なんだ」と珍しく三澤さんから固有名詞がでてこない。私は調べてきたからすぐに「十二烈子女」の碑だろうと気がついたのだが、場所が分らない。昭和二十年八月二二日、日本降伏に反対する十人が「尊攘義軍」を名乗り手榴弾で自殺し、後始末をした夫人二人も後を追って自刃した。男坂は下を見ると目の眩むような心地がするので、下りは女坂を降りた。石段が少し斜めに傾いていて、三澤さんが文句をつける。

  さて、十一人が食事を取れる場所があるだろうか。最初に目をつけた店は、店頭の値段表を見て、「高いからやめましょう」と松下さんが却下した。道路の向こう側にラーメン屋が見えるが横断できそうもない。通りに面して偶然見つけた「でり坊」という定食屋が安い。聞いてみるとちょうど二階が空いていて、全員が一つのテーブルに着くことが出来た。二階は私たちの貸しきり状態になった。平野さんの両側には女性が二人ずつ座り、すっかり気を良くしている。「嬉しいな。だって、昼食時に、みんなが一緒のテーブルにつくなんてことは初めてだからね」なに、女性に挟まれているのが嬉しいのに決まっている。
 定食は全て六百円、味噌汁を豚汁に変えると百円増しになる。お金持ちの女性たちは豚汁に変えたが、貧乏な男達は普通の味噌汁で我慢する。注文した品がそろう前に、改めて自己紹介をする。人一倍口数の多い三澤さんが横を向きながら、ぶっきら棒に「三澤です」というだけなのが可笑しい。照れているのだ。「とても食べきれない」と坪田さんが言うものだから、私はご飯を少し分けてもらった。ちょっと多すぎたかな。それを見て橋口さんも鈴木さんにご飯を分ける。ダイエット中の鈴木さんがそんなに食べて大丈夫なのか。トンカツに醤油をたらしている私にあっちゃんが目敏く注意するが、これが私の味覚なのだから仕方がない。ソースは駄目なのです。江口さんも「私も同じだ」と言う。肥前佐賀と出羽国とが同じ味覚を持つ。

 日比谷通りに出て北上すると新橋四丁目の標識のある交差点の角に石碑が建っている。歩道側には「皇紀二千六百年建之」の文字。昭和十五年のことで、夜郎自大に膨れ上がった神話的妄想に基づく紀元だ。「金鵄輝くニッポンの」と三澤さんが歌いだす。車道側に刻まれた文字を見てやっと浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫屋敷跡だということが分る。「歩道側に書いてくれたら良かったのに」と女性たちから声が挙がるのは尤もな話だ。
 刃傷事件そのものは、癇癖で思慮の浅い未熟な殿様が突発的に起こした偶発的なもので、歴史に残る程のものではない。それが、赤穂浪士による吉良邸討ち入りで、一躍時代精神の典型を表す伝説に発展する。「喧嘩両成敗」というのは、実は権力の基盤が弱く判決の正当性を保証できなかった鎌倉政権が、止むを得ざる措置として採用した慣習法なのだが、それが、徳川幕府権力の確立した元禄期においても、一般の意識として通用したということが面白い。勿論、悪名高い生類憐みの令による失政によって、世間の不満が充満していたことが最大の原因に違いない。
 田村右京太夫屋敷跡だからここは田村町なのだが、新橋四丁目の標識では何に所縁をもっているのかまるで分らない。何故、地名を変更するのか。本郷を歩いていたときもそうだったが、みなが口を揃えて憤慨するのはこのことだ。歴史的な想像を誘い出してくれる地名、もともとの地勢を表している地名。これらは私たちの貴重な財産だった筈で、行政の効率だけを優先したこの国の政策に、文化なんかまるでなかったことが今更ながら口惜しい。通りを歩いていて、「田村町ビル」という名の建物を発見すると何故かほっとしてしまう。

 帝国ホテルの南側、大和生命ビルの隅の壁に鹿鳴館跡の表示板がはめ込まれている。鹿鳴館が建てられたのは明治十六年のことだった。
 道を挟んで日比谷公園のところは近衛連隊の練兵場で、風が吹けば土埃が舞い上がり、雨が降れば泥濘と化し、夜になれば人通りも途絶える地域だった。開拓時代のアメリカ西部を想像すればよいのだろうか。そこに白亜の建物が建てられた。設計したのはお雇い外国人であるジョシア・コンドルで、帝国大学工部大学校の教授として辰野金吾を育てた。

 ロクメイカンそのものは美しいものではない。ヨーロッパ風の建築で、出来立てで、真っ白で、真新しくて、いやはや、われわれの国のどこかの温泉町のカジノに似ている。

 この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが、根本的には、この国民には趣味がないこと、国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。

 フランス陸軍士官ピエール・ロティは悪口を書いているが(原文を読んでいるわけではないが鹿鳴館を取り上げる本には必ず引用されているから許してもらおう)、条約改正に賭ける政府は本気だった。明治文化は確かに「卑しい物真似」として出発するしかなかったかもしれないが、それが私たちの現実だった。現在でも、その「物真似」はなくなったとは断言できない。一般的には皮相な欧化政策、軽薄な西洋模倣として一蹴されている鹿鳴館だが磯田光一は次のように書いている。

 鹿鳴館がどう批判されようと、それは生まれたばかりの近代国家がやむなく試みなければならなかった化粧であった。悲哀をこらえて、無理に背伸びをしようとする健気な志なしに、あのような建物が東京に建てられたはずがなかった。いまの私の目には、鹿鳴館の舞踏会の華やかさのうしろにあった悲哀は、きわめてアジア的な悲哀に見える。その悲哀を共有することなしに、近代日本を語ることができるであろうか。狭義の鹿鳴館の時代は終っても、外来文化との接触が生んだドラマは終わりはしなかった。(『鹿鳴館の系譜』

 二葉亭、鴎外、漱石に始まり、時代を下って昭和のモダニズムから現在に至るまでの近代精神を鹿鳴館の系譜として捉えた上で、竟に私たちの文化は鹿鳴館思想から脱却できない、それならばそこに積極的な意義を見出さなければならないと、磯田は言っているのだ。私たちのこの散策もそうなのだが、単純に江戸を懐古し賛美するだけでは、既に失われたものは帰ってきてはくれない。江戸的なものと鹿鳴館的なものとをどう調和させするのか。余りにも難しくて私の手には負えない。
 「鹿鳴館の花」と謳われた大山捨松は、会津藩の家老職山川大蔵の娘として生れた。後に東大総長になる山川健次郎は兄にあたる。満八歳で戊辰戦争に遭遇し、母姉とともに若松城に籠城した。久野明子『鹿鳴館の貴婦人』に、捨松の回顧談が紹介されている。

 毎日のように、大砲の弾が私たちの頭の上をかすめ、お城の中に落ちてきました。その弾を拾い集めて積み上げておくのも私の仕事の一つでした。母、姉、義姉そして私はいつでも死ぬ覚悟は出来ておりました、怪我をして体が不自由になるよりも、死を望んでいました。(中略)
 不思議なことに、将来私の夫となる人が敵軍の中にいて、この夜間の襲撃の際不詳したのです、私が注意深く積み上げていた大砲の弾を打った敵軍の一人と結婚することになろうとは夢にも思いませんでした。(大山捨松談、ジョン・ドワイト記)

 戊辰の辛酸を舐めた彼女が、津田梅子等と共にアメリカに留学したのは十一歳。バーサー・カレッジを優等で卒業して二十二歳で帰国した。日本女性唯一の大学卒業生として志は女子高等教育にあったが、帰国の翌年(明治十六年)には薩摩の大山巌と結婚する。結婚披露の会場は、開館直前の鹿鳴館だった。父は会津藩家老であり、斗南藩大参事を勤めた山川大蔵(後、浩)だ。大蔵は西南戦争には陸軍中佐として出陣することにもなるのだが、その娘捨松を薩摩の大山に嫁がせた。西郷従道に説得されたからだというが、大蔵は納得してのことだったろうか。
 このことから、私はついつい、もう一人の会津人を連想してしまう。会津出身で陸軍大将にまで上り詰めた柴五郎のことだ。太平洋戦争勃発のとき、既に八十歳を越えた老将軍は、この戦争は負けに決まったと断言し、少年期を回想した「遺書」を石光真人に託した。石光がそれをまとめて『ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書』として世に出したことで、戊辰戦争の裏面史が初めて世に現れた。
 若松城下に敵軍が押し寄せた日、柴家の祖母母姉妹は皆自害し、男だけが生き残った。本州北端、斗南の地に移封され、食うものもなく、やっと手に入れた犬の肉を喰らいながら、会津の国辱雪ぐまでは生きて生き延びよと父に叱咤される。

 この境遇がお家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変わらざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家再興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず、挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。

 また、西南戦争勃発のとき、会津戦争で生き残った兄弟がはるばると駆けつけ、全員揃った。

 はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京にあつまる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して浩もまた陸軍中佐(後に少将、貴族院議員)として熊本県八代に上陸し、薩軍の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相あつまりて雪辱の戦いに赴く、まことに快挙なり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず。

 更に連想が続き、石光の父、石光真清を思い出す。熊本の出身で柴五郎とも縁のある人だが、『城下の人』に始まる四部作には、実に驚嘆すべき人生が語られている。軍事探偵(スパイ)として大陸に生涯を賭けたが、晩年になり、子供たちには一切、大陸には関係するなと言い残した。これは、自分の一生は竟に失敗だったという悲痛な結論に他ならない。明治日本が西洋近代に追いつくまでには、様々な悲劇を繰り返さなければならなかった。

 通りを渡って日比谷公園に入っていく。練兵場を青山に移し、跡地を帝都に相応しい公園にすること、これもまたひとつの鹿鳴館思想に他ならない。計画が決まったのは二十二年だが、誰も西洋風の公園を作ったことはない。辰野金吾も専門違いだったが、ドイツで林学を学んで帰国した本田静六が辰野金吾の部屋で公園設計図を見て奮い立ったと言われている。完成したのは明治三十六年のことだ。

 当時(天正十九年)、日比谷のあたりは、汐入地にして、漁夫ここに住し、海中に枝付きの竹を並べ立て、魚の入るを待って捕らう、これをヒビと言う。あるいは麁朶とも書す。かくヒビ稼ぎを業とするもの、この地に住めるがゆえに、ひびや町と名づく。(『江戸の懐古』)

 家康の江戸入府後、神田の山を切り崩し海を埋め立てたその地が、現在では首都の中心地になっている。日比谷公会堂を見て、「懐かしい。主人と良くここで待ち合わせたものなの」と青春を懐古するのは橋口さんだ。

 「松本楼じゃ、まだ十円カレーやってるのかな」「やってるはずですよ」と誰かが答える。馬の水飲み、鶴の噴水、池、公孫樹など、松下さんの案内で園内を巡る。「国連創設三十年記念植樹」の標識があるが、肝腎のその木はどれなのか、標識を正三角形の頂点に、他の二つの頂点にひょろりと立った細いニセアカシア(私がニセアカシアとすぐに判別できる筈はない。教えてもらったのだ)と、もう少し立派な泰山木が立っている。「三十年で泰山木がこんなに育つかな」と平野さんは懐疑的だが、この貧弱なニセアカシアをわざわざ植樹したとも思えない。どっちなのかと穿鑿が喧しいがはっきりとは分らない。「首かけ公孫樹」というのは、首吊りのではない。本多静六が「首を賭けても移植を成功させる」と言ったことに因む。
 この日比谷公園は、明治三十八年(一九〇五)、東京で最初の民衆暴動が起った現場でもあった。小村寿太郎など関係者の苦労は大変なもので、対露講和条約は絶対に必要だったのだと、今でこそ言える。しかし実力を遥かに超える戦争で国民は消耗し、その代償として得られた利益はほとんどなく、国民の怒りが爆発し日比谷焼き打ち事件に発展した。講和条約反対の主張は愚かで理不尽だが、国力の内実を一切秘匿し、日露戦争に勝利すれば全ての国家的望みが叶うように国民を煽り立てた政府に、最大の責任がある。
 幸徳秋水、堺枯川の日露非戦論に感銘して社会主義の道に足を踏み入れた荒畑寒村は、同じ時、反戦の立場から講和条約賛成の集会を開いていた。寒村は書いている。

 果然、民衆の怨嗟憤激は『直言』記者が論じたように、必ずしも屈辱的な講和条件のためではない。国民に犠牲を強いながら暴状いたらざるなかった為政者に対して、戦争中しいて抑え来たった国民の宿怨積憤がいまその吐け口を見出したに過ぎないのだ。(『寒村自伝』)

 園外に出るとユリノキの花が咲いている。薄黄色というか、青りんごをもう少し黄色にしたような色で薄い紅が入っている。花はチューリップのような形をしている。だからチューリップツリーという。ところが大正天皇がこれを見て「百合」だと言ったので、ユリノキと称したのだ、というのが松下さんの解説だ。馬を見て鹿という類か。「なにしろ大正天皇はああいう方だから」
 私はこの花を見るのは初めてだが、お堀に沿って街路樹になっていて、若葉の緑の中の淡い黄色が果敢無げだ。

 桜田門がすぐ見える位置に、法曹会館の赤レンガ館がある。これを指して、あっちゃんが「ここが井伊掃部頭の屋敷があったところです」と説明する。私はそうかと思っただけだが、桜田門はすぐ目の前で、そんな近くで殺されたのだろうかと鈴木さんが疑問を提出した。塀を回り込んで見ると案内板があり、実はここは旧米沢上杉藩邸跡で井伊屋敷跡ではない。あっちゃんは憲政記念館と間違えたのだ。「私は、ここだとばっかり思い込んでました」とあっちゃんが嘆くが、それはそれで、由緒のある建物を見られたことは一つの経験だ。
 それならば向こうですよと、松下さんが憲政記念館まで案内を買って出る。車が多い。歩道側の信号はすぐに変わるから急いで渡らなければならない。江戸初期には加藤清正の屋敷があり、後彦根藩井伊家の藩邸になった。ここから桜田門ならばちょっと距離がある。
 井伊直弼の評判が悪いのはその当時からだし、安政の大獄で弾圧された側が政権を握ったからには井伊の業績一切を認めないのは当然なのだが、旧幕臣の福地源一郎はもう少し冷静に評価している。

 その功罪如何に関しては、世自から定論のあるあれば、余はここに贅言せざるべし。要するに非幕府論者は井伊大老が行為を見て、ことごとく罪過のみと断定し、幕府の傾けるを以て、直に井伊の罪なりというものは、当時の事情を知らざる言のみ。しかれども井伊を以て開国の卓論者なりと称讃して置かざるものも、またその真情を通暁せざるの評なるのみ。もし井伊の果断を以て世議を容るるの雅量あらしめば、内政の整理もその功を奏せしなるべく、井伊をして岩瀬諸人の説を聴きて外情に通じ、よく当時の人才を用うるを得せしめば、外交上また観るべきの跡ありしならんに、事全く乖戻して、幕府の独裁政権はその大老とともに滅するに至れること、悲しからずや。しかれども井伊大老もまた幕末の一大政治家なるかな。(福地櫻痴『幕末政治家』)

 ここはちょっと高台になっていて、尾崎行雄の功績を讃えて憲政記念会館が建てられた。明治二三年(一八九〇)第一回総選挙で当選してから実に六十三年の間、二十三回当選という世界議会史上、最高記録を持つ。一時東京市長も勤め、咢堂と号した。護憲運動のときに尾崎の名前が出てくるのは近代史の知識として少しは知っているのだが、その業績自体について、「憲政の神様」と呼ばれるほどの業績は、私の知識にはない。
 日本水準原点標庫という小さな倉庫の案内を読む、ここは標高二十四・四一四メートルだ。「原点」がこんな端数で良いのか。こんなことも知っている人はちゃんといる。川崎さんから指摘を受け、平野さんがそれを裏付けた。もともとは二十四・五〇〇メートルと、きちんとした数字になっていたのが、関東大震災で地盤が沈下したため端数が生じた。なんじゃもんじゃ、正式名はヒトツバタゴという不思議な花が咲いている。

 桜田門から入って外苑を歩いているところで、先頭に立つあっちゃん、松下さんたちと、女性三人の間が随分離れてしまった。平野さんの腰は大分悪化している。身体が傾いてきた。堀端に菜の花が咲いている。
 二重橋の前では、少し小降りになったとはいえ雨の中で記念撮影している人がいる。物好きな散策者は私たちだけではなかった。「ここに来たら記念写真を撮らなくちゃいけないんだ」と三澤さんが言うが誰もカメラを取り出さない。かなり疲労感が増してきた。そう言えば島倉千代子が歌っていたのはここのことかと、初めて二重橋を見る私は思い出した。

 久しぶりに 手を引いて
 親子で歩ける うれしさに
 小さい頃が 浮んで来ますよ
 おっ母さん
 ここが ここが二重橋
 記念の写真を とりましょね (野村俊夫作詞、船村徹作曲『東京だよおっ母さん』)

 堀の石垣の所に白いものを見付けて「あれはサギじゃないかな」と三澤さんが注意する。遠くて良く分からない。ゴミじゃないかなどと言い合っているうち、羽根が動いた。「だから言ってるじゃないか」三澤さんが口を尖らせる。白鳥も泳いでいる。
 「雅子さんがここで自動車を練習したんだ」本当かね。
 大手門から入り受付で入場券をもらい、遅れた人が到着するまで三の丸尚蔵館で待つことにした。伊藤若冲の展示会が開催中だ。本当に私は無学だね。パンフレットには「現在最も人気が高い、江戸時代中期の画家・伊藤若冲」と書かれているが、私は若冲を知らない。「動植綵絵」。色彩が鮮やかなのは修復技術にもよるのだろうか。すぐ隣に大手門休憩所があるので、私は一足先にそこでタバコを吸うことにした。
 やがて全員が揃ったが、「無理しないで、ここで休んでいたら」という我々に、「いや、ここまで来たんだから、死んでも行く」と平野さんが頑張る。江口宗匠が珍しく疲れた様子で、もう歩きたくなさそうだ。「眞人さんはどうする」と聞くから、私も左の踝の下に鈍痛がでてきたが痩せ我慢して「俺は行くよ」と答える。「じゃ、私も行きます」と返ってくる答は元気がない。私たちは「若手」なのだから、腰の痛い平野さんに負けるわけには行かないのだ。それにしても関野さんは「もう全然問題ありません」と元気なものだ。

 新緑や 元気印に しごかるる     快歩

 私は江戸城内に入れるなんて、全く知らなかった。女性三人は疲れているようだから休憩所に残して出発する。百人番所には伊賀、甲賀、根来のものが二十五人ずつ交代で詰めた。「伊賀者」「甲賀者」「隠密」などの言葉が行き交う。発掘現場のようにシートで蓋った工事中の石垣もある。松の廊下跡は、建物は消滅し松が生えている。「松が生えているからじゃないんだ。ここに、こういう風に広い畳が敷いてあって、襖に松が描かれていたからだ。あの刃傷沙汰があってから、大急ぎで畳を変えたんだよ」と三澤さん得意の講釈が始まった。
 旧本丸天守閣跡地の石垣は、濃淡の組み合わせが鮮やかで、大小の取り合わせも面白い。「パッチワークみたい」とあっちゃんが声を上げる。
 「あそこから浅野内匠頭が駕篭で出たんだ」。本来、死人が出たときに使われるから「不浄門」と言うのだと、三澤さんは絶好調だ。江戸城内は三澤さんの独壇場と言って良い。「見てきたような」と皆で笑いあう。

 走り梅雨 浅野出させし 不浄門    快歩

 「ここだよ、池田さんがいたところは。意地悪なお局様だったんだ」と悪態を吐きながら三澤さんが指差したのは大奥跡だ。ここも何も残っていない。江戸城は何度も火災にあったから、建物の配置も時代によって変わっているはずだ。
 そろそろ閉門時間だから出口に向かえと、放送が流れる。急いで休憩所に戻ると、既に休憩所は閉められていて、女性三人は外で待っている。

 これから明治生命館に向かう。GHQの記念品が展示されているという。時間と体力があれば、伝奏屋敷跡や安藤広重の生れた定火消屋敷跡なども見てみたいところだが、これはまた後日の楽しみにとっておこう。リーダーの当初の計画では南北奉行所跡も候補に入っていたのだが、工事で隠されていて、今はその場に立ち寄れないそうだ。

 明治生命館は昭和九年竣工、「わが国近代洋風建築の発展に寄与した代表的な建造物」(明治生命ホームページより)として重要文化財に指定されている。戦後、米極東空軍司令部として接収され、二階の会議室が昭和二七年まで連合国軍最高司令官(つまりマッカーサーです)の諮問機関である対日理事会の会場として使用された。それが修復され展示されているのだ。
 GHQは第一相互ビルではなかったのかと、川崎さんに聞かれるまで何とも思わなかったのだが、当然、占領軍の膨大な組織が一つのビルに収まるはずはない。竹浦栄治『占領戦後史』によると、第一相互ビルにはGHQ本部があり、公衆衛生福祉局PHW、民間諜報局CIS、統計資料局SRS、民政局GS、民間通信局CCSなどが置かれている。いま私たちが立っているこの明治生命ビルには、国際検事局IPS、法務局LS。その他、東京放送会館に民間情報教育局CIE、農林中金ビルに経済科学局ESS、三菱商事ビルに天然資源局NRS、帝国相互ビルに民間財産管理局CPC、三井本社ビルに政治顧問部、陸軍省ビルに東京国際軍事裁判所 などが入っていた。
 GHQ統治下にある日本について、林達夫はこう書いた。(近代日本最高峰の知識人として、私が憧れ続けている人物です。林のような文章を書きたい、林のような教養を身につけたいというのが、私の身の程知らずの、叶うべくもない夢なのです)

 その時から早くも五年、私の杞憂は不幸にして悉く次から次へと的中した。その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題がOccuoied Japan問題であるという一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言論が圧倒的に風靡していたことである。このOccupied抜きのJapan論議ほど間の抜けた、ふざけたものはない。(中略)「マッカーサーの日本」――この簡単な政治地図に目をすえて政治を談ずるもの、少なくともその地図を胸中に秘めて政治を諷示するものがほとんど数えるほどしかなかったところに、この国の政治論議の度し難い低調さと不真面目さがあった。戦争の真実を見得なかった連中は、やはり戦後の真実をも見得られなかったわけである。戦争後の精神的雰囲気の、あのうそのような軽さこそ、人民の指導的立場にある知識階級の政治的失格を雄弁に物語るものである。(『新しき幕開き』)

 ところが折角辿りついたのに、何故か都合により展示室は閉鎖している。今日だけのことらしいから運が悪い。残念だがしかたがない。喫茶店で休憩して解散となる。それにしても今日はかなりの距離を歩いた。松下さんや江口さんの感覚では十三キロほども歩いたのではないかということだ。リーダーの当初の見積もりでは七、八キロの予定だから、私の大雑把さと匹敵する。

 別れる人を送り出し、私たちは有楽町駅に向かい、松下さんお薦めの「みちのく」という小奇麗な小料理屋に入った。生ビールが旨い。焼酎も旨い。今日のリーダーの努力と活躍を讃え、次回江口さんの企画案に耳を傾けているうちに、夜は更けていく。
 七月は江口さんが新大久保から新宿の周辺を案内してくれることになった。