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    第五十回 本所界隈編
    平成二十六年一月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.01.19

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     平成十七年(二〇〇五)九月に始まったこの会も五十回を迎えた。記念と言っても大層なことはできない。取り敢えず原点に戻って、比較的江戸らしい場所をと考えて本所にしてみた。時代劇でお馴染みの場所という意味である。明日からは初場所が始まるので、相撲に関連したところも加えてみたい。但し本所も広くて、総武線の南側の部分を含めると一日では回りきれない。そちらの方は他の機会に何度も歩いているから今回は割愛する。
     本所は深川の北、向島の南に位置する。深川には羽織芸者(勿論そんなところには足も踏み入れていないが)、向島には幕末から明治にかけて文人墨客が住んだ。しかしそれらとは違って本所は全くの場末であった。本所七不思議の怪異譚があるのは、都会とは別の「異域」として考えられていたからだろう。
     本所深川の開発が本格的に開始されたのは明暦の大火(一六五七)後のことである。万治二年(一六五九)には大橋(両国橋)が架けられた。万治三年(一六六〇)、徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が本所築地奉行となって、堅川、大横川(川幅二十間)、横十間川(川幅十間)、北十間川が開削された。掘った土で湿地帯を埋め、隅田川の東側に土手を築き、同時に割下水も整備された。
     それから二年後の寛文元年(一六六一)頃から武家屋敷の移転が始まったが、水が頻々と出て、天和二年(一六八二)には屋敷地はいったん撤収される。貞享三年(一六八六)に武蔵国に編入されるまで下総国であった。
     そして元禄元年(一六八八)、津軽家が屋敷を拝領した頃から再び武家屋敷や大名屋敷も増えていった。しかし本所一ツ目回向院裏の吉良上野介邸(元禄十四年に拝領)周辺はまだ寂しい場所で、だから赤穂浪士が集団で行動することができた。正徳三年(一七一三)に町奉行に移管されるまで、本所奉行が行政と治安維持を担当した。
     明治後半以降は紡績、精密工業、石鹸、製靴、玩具、ゴム工業などの群小の工場が立ち並んだが、関東大震災で壊滅した。空襲の被害も甚大だったことは、隣接する深川地域と同様だ。

     旧暦十二月十一日。元禄十五年のこの日、毛利小平太が「拠なき存じ寄り」のため脱盟した。堀部弥兵衛は大石無人宛に、次の茶会の日程を早急に調べてくれるよう依頼した。討ち入りが三日後になるのはまだ決まっていなかった。
     小寒の次候「水泉動」。水泉動は「水暖かさを含む」という意味らしいが、これからが最も寒くなるのに不思議なことだ。晴天。今季一番の寒波が襲っているようで、昨日は本当に風が強く寒い日だった。こんな時期では女性の参加は少ないのではないだろうか。
     集合は都営新宿線菊川駅改札口にした。改札口は一つしかないから、いつも出口で迷うクルリンでも大丈夫だ。電車を降りたところでチロリンと目が合って挨拶した。シノッチも来た。これなら女性の参加者も多いかも知れない。スナフキンは相変わらず眠そうな目をして現れる。「連日続いてるんだよ。明日もあるんだぜ。」マリオはコーヒーを片手に現れた。「出たところのローソンで。」「俺も買ってこよう。」やがて順調に仲間が集まってくる。
     十時になった。挨拶を終えて出発しようとした時、改札の向こうに画伯の姿が見えた。「出発するところでしたよ。」「電車がちょうど十時に着いた。」これで、あんみつ姫、イッチャン、チロリン、クルリン、シノッチ、ハイジ、マリー、画伯、宗匠、ロダン、碁聖、マリオ、スナフキン、ダンディ、講釈師、ヨッシー、蜻蛉の十七人になった。ただマリオは午後に別の会、宗匠は講座受講のため残念ながら半日券しか使えないと言う。
     今回は、あんみつ姫が「江戸切絵図」(嘉永版)を使って手頃な地図を作ってくれた。ほぼ碁盤の目状の町割りが今でもそんなに変わっていないから、これを参照しながら歩きたいと思う。

    里山と別のうるほひ姫椿  閑舟

     階段を上りきると、目の前の道と左手で交差するのは三ツ目通りだ。ロダンが地図を見ているので「これが三ツ目通り、こっちに行くんだ」と説明して、新大橋通りをそのまま東に向かった筈だった。「次の信号の角ですよね。変わっていましたか。」「以前と変わってはいないと思う。」姫も以前来ているから知っているのだが、信号を越しても目的の歯科医院が見つからない。
     「おかしいな。」「そんなに遠くない筈ですね。酔ってるんでしょう。」動揺しているのが自分で分かる。「ちょっと待ってね。」リュックから地図を取り出そうとしていると、「目的地は菊川三丁目だから違いますね」とヨッシーが冷静に判断する。
     「どこに行くんだい。鬼平だろう。あの光る丸いヤツ。目的地を最初に言ってくれよ。」私が道を間違えたので講釈師は喜ぶ。「こっちに決まっているじゃないか。」しかし講釈師に従って暫く歩いてもやはり違う。こんな道ではない。「原点に戻りましょう。」ロダンは正しい。もう一度駅に向かうと新大橋通りの標識が見えた。「大変失礼しました。改めて出発します。」

     初春や迷ひ重ねる本所の地   蜻蛉

     二十分を浪費してしまった。本来間違う道理のない場所だ。A3階段から出る積りだったのに、何を考えたかA4階段を上り、出た瞬間に風景が違うような気はしていた。そして三ツ目通りを横断しなければならないのに、平行に走る細い道を行ってしまったようなのだ。太陽の位置が違うような気もしていたが、今となっては遅い。これで私の評価は一挙に転落した。
     通りには「鬼平通り」の黄色い幟が並ぶ。信号手前の角が丸山歯科医院で、長谷川平蔵、遠山金四郎屋敷跡と書かれた光るプレートが立っているのだ。墨田区菊川三丁目十六番地二。地下鉄駅からこの一帯にかけて鬼平の屋敷があり、ここが屋敷の南東の角になる。私は池波正太郎の良い読者ではなく、鬼平についてはダンディや姫が詳しい。「俺は全巻読んだヨ。」スナフキンも愛読者であったか。
     「鬼平」長谷川平蔵宣以は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれ、父平蔵宣雄(四百石)の屋敷替えによって鉄砲洲に移り、明和元年(一七六四)、十九歳の年にここに移った。千二百三十八坪の屋敷である。
     幼名は銕三郎で、放蕩無頼に明け暮れ「本所の銕」と呼ばれた。三十歳で家督を継いで小普請組に入り、三十一歳で江戸城西の丸御書院番士に任ぜられるまで、二十歳代を丸々部屋住みで過ごしたことになる。エネルギーの有り余った青年にとっては耐え難いことだったかも知れない。
     三十九歳で西の丸御書院番御徒頭、四十一歳で御先手組弓頭、天明七年(一七八七)四十二歳で火付盗賊改方に任ぜられた。寛政二年(一七九〇)には建言して石川島の人足寄場を設置している。これは犯罪人の更生施設として画期的なものだったが、運営資金が不足したため、幕府から借り出した資金で銭相場に投資して、利益を運営資金に回すなどの破天荒なことを行った。庶民には人気があったが、幕府の評価は厳しかった。寛政七年(一七九五)に死んだ。
     「息子はどうしようもなかったんだよ。」『鬼平犯科帳』ではそうなっているのか。辰蔵(後に平蔵宣義)は武よりも文に秀でていたようで、書家として石斎と号した。五十七歳で鬼平が到達しなかった従五位下に叙され、六十二歳で御先手弓頭にもなった。どうしようもなく盆暗だった訳ではないだろう。
     「鬼平が亡くなって五十年程経った頃に、遠山の金さんがこの屋敷に入りました。」弘化三年(一八四六)のことだ。金四郎景元もまた若き日の放蕩無頼を経た。この場合は少し事情が複雑で、父の景晋が遠山家に養子に入った後、養父に実子景善が生まれたのが問題だった。そのために、景晋は景善を継嗣として養子にせざるを得ない。金四郎が生まれたのはその手続き中のことであり、その時点で金四郎が家督を相続する見込みはないのだ。部屋住みの旗本の子弟に明るい未来はない。これが放蕩の原因だろう。
     文政七年(一八二四)、金四郎が二十七八歳の時に義兄の景善が死亡したため、文政十二年(一八二九)に家督を継いだ。天保三年(一八三二)西の丸小納戸頭取格、天保六年に小普請奉行、八年に作事奉行、九年に勘定奉行と順調に出世した。
     天保十一年(一八四〇)に北町奉行に就任したことで、私たちの知っている刺青判官になるわけだ。「遠山の金さん」と持て囃されたのは天保の改革における奢侈禁止の影響である。水野忠邦、鳥居耀三の芝居小屋全廃方針に抵抗して、浅草猿若町への移転に留めたことで、芝居者が感謝の意を込めて、金さんものを上演したのである。大目付に転任した後、弘化二年(一八四五)に南町奉行に復帰した。町奉行は奉行所に住まなければいけないので、実質的にここに住んだ期間は短いと思われる。北町奉行から大目付への転出は鳥居耀三の画策であり、南町奉行への復帰は鳥居の死後のことだった。

     「次はどこだい。」「両国高校。」事前に案内は渡してあるのに、講釈師は全く読んでいない。「芥川が三年生の時に描いた絵があるんだ。俺は見せて貰ったことがある。」そのまま東に歩き、菊川橋(大横川)を渡って住吉一丁目の交差点を左に曲がる。小さな材木商が多い。「古い町工場みたいな感じですね。」「空襲で焼け残った古い家があるだろう。風向きなんだよ。」
     「今、どの辺を歩いてるの。」宗匠はこの辺りには全く縁がなかったらしい。「初めてだから全然分からない。」「一番と二番の間。」新辻橋で堅川を渡ると、江東橋一丁目の信号から道は都立両国高校(旧府立第三中学校)の敷地に沿ってやや左斜めに伸びる。正門を入るとすぐ左に芥川龍之介の碑が建っているのだ。関係者以外立入り禁止の警告はあるが、碑を見るだけなら許して貰えるだろう。「何て書いてあるか良く読めないわね。」クルリンはメモ帳を手にしているが、石碑の文章をその場で書き取るのは簡単ではない。

    もし自分に、「東京」のにほひを問ふ人があるならば、自分は大川の水のにほひと答へるのに何の躊躇もしないであらう。獨にほひのみではない。大川の水の色、大川のひヾきは、我が愛する「東京」の色であり、聲でなければならない。自分は大川があるが故に、「東京」を愛し、「東京」あるが故に、生活を愛するのである。(芥川龍之介『大川の水』)

     これは大正三年(一九一四)一月に発表された『大川の水』末尾の文で、この時の署名は柳川隆之介だった。文壇デビュー前の二十二歳で、新宿に住みながら既に望郷を語っている。
     龍之介は京橋区入舟町の新原敏三・フクの長男として生まれた。生後七か月で母フクが精神に異常をきたし、本所小泉町十五番地(両国三丁目二十二)のフクの実兄芥川道章の家に預けられた。十一歳で母が死ぬと、そのまま養子になった。そして江東小学校(現・両国小学校)、府立三中と本所で過ごしたのである。

     木枯や東京の日のありどころ  龍之介
     凩や目刺に残る海の色     同
     水洟や鼻の先だけ暮れ残る   同

     龍之介の句にはどこか酷薄な気配が漂う。昭和二年六月二日の日付で『或る阿呆の一生』を書き終え、発表の可否と時期を久米正雄に託した。

     彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。(芥川龍之介『或る阿呆の一生』四十九「剥製の白鳥」)

     そして一か月後の七月四日に死んだ。昭和四年、数え二十二歳の宮本顕治は『敗北の文学』を書き、雑誌『改造』の懸賞論文第一席に当選した。後に日本共産党議長になるミヤケンとしては、龍之介の死は革命戦線に参加できないインテリの弱さであり、それはついに敗北すると断言したのは当たり前だが、この評論自体は、それほど教条的な匂いはしなかったように思う。

     ・・・・氏こそ、ブルジョア文芸史に類稀な内面的苦悶の紅血を滲ませた悲劇的な高峰であると言えるだろう。それこそ、市民的社会の開花期から凋落期に及ぶ文化的環境に育まれた記念碑的な存在の一つであろう。(中略)
     だが我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判しきる野蛮な情熱を持たねばならない。我々は我々を逞しくするために、氏の文学の敗北的行程を究明してきたではないか。「敗北」の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて行かねばならない。(宮本顕治『敗北の文学』)

     少し前に(大正十五年四月)中野重治が「あかままの花を歌うな」と歌ったのを思い出してしまう。愛おしいものを敢えて斬り捨てることが革命への道だと彼らは信じたのであったが、それがいつか精神の硬直、無慚なまでの痩せ衰えにつながるとは、当時思わなかったに違いない。この論理を推し進めると小林多喜二の悲劇が生まれるのである。

    おまえは歌うな
    おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
    風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
    すべてのひよわなもの
    すべてのうそうそとしたもの
    すべてのものうげなものを撥き去れ
    すべての風情を擯斥せよ(後略)(中野重治「歌」)

     こうして昭和文学史は「政治と文学」論争を繰り広げて戦後に及ぶことになるのだが、それはさておき、第二席は二十七歳の小林秀雄『様々なる意匠』であった。今考えれば順位が逆ではないかと思うけれど、これが昭和四年当時の雰囲気だった。プロレタリア文学は意気軒昂としていたのである。

    批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!(小林秀雄『様々なる意匠』)

     小林秀雄はこの論文で「批評家」として出発した。こういうレトリカルな文章を書かれるから、高校生は幻惑されてしまうのだ。この時代の文学状況を平野謙は、私小説、芸術派、プロレタリア派の三派鼎立時代と呼んだが、小林は、そんなものは単なる意匠に過ぎないと断定したのである。しかし分かり難い言い方をする。
     府立三中で芥川の一級上には久保田万太郎がいたが、四年生に進級できずに中退し慶応普通部に転校した。後輩には堀辰雄、立原道造、川端龍子もいる。政治家では浅沼稲次郎、弁護士に正木ひろし、学者に河合栄次郎、伊藤光晴、大河内一男等。
     「トニー谷もいたんだ。」「あなたのお名前なんてえの。」私はこの「アベック歌合戦」で復活してからしか知らないから、戦後の爆発的人気がどれ程だったか良く分からない。その特異な芸風を小林信彦は評価しているが、今では話題にする人もいない。小林信彦は、初期のタモリをトニー谷の遺風を継ぐものと見做していた。

     林家三平も、異端の道を歩かざるをえない半狂人の一人だが、何をやっても、愛されてしまうところが、トニー谷と正反対だ。
     トニー谷は、何をやっても、ひとに憎まれる。サディスティックだからである。(中略)
     ・・・・・トニー谷は、一貫して、尊敬されぬ道を歩き、その意味において尊敬に値しよう。芸人は河原乞食だと口では誰でもいえても、トニー谷のように居直って、持続することは、ほとんど不可能なことである。(小林信彦『日本の喜劇人』)

     「府立一中は日比谷でしょ。ここが三中なら二中はどこだったのかしら。」ハイジに訊かれて私も知らなかったので調べてみた。明治時代には四中まであって、一中が日比谷、二中が立川、三中が両国、四中が戸山である。大正になって五中(小石川)、六中(新宿)、七中(隅田川)、八中(小山台)ができる。昭和になると更に二十三中まで増加するが、あまりに煩雑すぎる。
     「マッチ誕生の碑もあるんだよ。」講釈師は人の知らないことを良く知っている。私はそこまで調べていなかった。明治九年(一八七六)、清水誠が本所柳原町のここに国内初のマッチ工場新燧社を建て、本格的に製造を開始した。昭和六十一年、東京都が両国高校の敷地に記念碑を建てたのだが、この校内のどこにあるのか分からない。
     マッチを見かけることがなくなって、今となっては懐かしい。日本燐寸工業会の「マッチの世界」(http://www.match.or.jp/history/index15.html)というサイトを見ると、昭和六十一年のマッチの総生産量一五四、二五三マッチトン(この単位は何か不明)に対して、平成十六年には三〇、三四八マッチトンと、二割弱に激減している。マッチを知らない子供もいるだろう。

     次は錦糸町駅の方に向かう。「こっちの道でいいでしょうか。」「蜻蛉の考え通りでいいんじゃないの。俺はリーダーじゃないからさ。」「さっきとは随分違うじゃないの。」校舎に沿って右に曲がる。京葉道路だ。
     「楽天地ビルだね、映画を見に来たことがあるな。」ダンディはこんなところまで映画を見に来るか。丸井の前はちょうど朝市の最中で、野菜がたくさん並べられている。「小さな白菜が人気なんですよ。」
     「隣のお店は何ですか。」「ここが都内で一番大きな魚屋だ。」「魚寅」と言う。墨田区江東橋三丁目九番地十四。錦糸町で魚寅を知らないものはモグリと言われるようで、ヨッシーによればマグロやタコのぶつ切りが名物らしい。タコブツか。浮かんでくるのは「タコのぶつ切は臍みたいだ」という句だ。

    今宵は仲秋明月
    初恋を偲ぶ夜
    われら万障くりあはせ
    よしの屋で独り酒をのむ

    春さん蛸のぶつ切りをくれえ
    それも塩でくれえ
    酒はあついのがよい
    それから枝豆を一皿

    ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
    われら先づ腰掛に坐りなほし
    静かに酒をつぐ
    枝豆から湯気が立つ(後略。第一連の繰り返し) (井伏鱒二『厄除け詩集』「逸題」より)

     「錦糸堀公園って、地図で探せませんでした。」「小さな公園だからね。」四ツ目通りを渡り、怪しげな店が並ぶ路地を抜けなけなければならない。「危ない連中がいるから注意しなくちゃいけない。」駅前はかなり整理されているが、ひとつ中に入ると猥雑な歓楽街の雰囲気が色濃く漂っている。「女の子は来ちゃいけないって言われてたわ。」「そうよね、怖い町だと思ってた。」姫とハイジも同じイメージを持っていた。「そこ、キャバレーみたいですね。」下見の時、女子高校生がこの店に入って行ったのを見た。「ほんとかよ。女子高生って。」「セーラー服だった。」
     錦糸堀公園には本所七不思議のひとつ「おいてけ堀」の碑が建っている。「オイテケ、オイテケーって言うんだよ。」しかし他にもいくつか候補地がある。日本大学第一中学校・高等学校(横網一丁目五番二)の辺りの掘割、両国駅と錦糸町駅のちょうど中間、第三亀戸中学校付近などの説がある。また錦糸堀自体がもう少し北側の南割下水の辺りだとも言われている。それなら、四ツ目通りと北斎通りとが交差する北側の錦糸公園がそうではないか。
     本所は全体が掘割と葦の生い茂る湿地の町だといって良く、釣りに適した場所はいくつもあっただろう。人家も少なく、夜になれば物の怪がどこで跳梁してもおかしくない。怪異の正体は河童説とタヌキ説に大別されるが、ここでは河童説を採用して、愛嬌のある河童の像が立っている。「カッパってホントにこんな顔してたかな。」口に出した途端、「アッ、実際にいた筈がないよね」と画伯が笑う。
     「本所七不思議って言うのはさ、こうなんだよ。」講釈師がメモを見ながら読み上げる。「分かったか。」「一回聞いただけじゃ分からないわヨ。」シノッチとクルリンがメモを取ろうしている。「そのコピーを頂戴。」それでは講釈師に代わってウィキペディアに教えてもらおう。「七不思議」と言っても九つあった。置行堀、送り提灯、送り拍子木、消えずの行灯、足洗邸、片葉の葦、落葉なき椎、狸囃子(馬鹿囃子)、津軽の太鼓。
     公園を出ると、少し広めになった煉瓦敷きの歩道に小さな女の子の像が立っている。何を意味しているのか不明だ。「花売り娘じゃないの。東京の花売り娘。」画伯も古いことを言う。「花は持っていないよ。」両手をやや開いて、右手には手袋、左の掌には誰かが載せた黄色い飴玉。裸足だから戦災孤児だろうか。
     車止め先端の飾りは鯛焼きの形をしている。すぐそばの店先に置いてあるカエルの置物が妙だ。「色っぽいじゃないか。」オッパイがあって流し目をしているのだ。「色っぽいカッパもいたよね。カッパ天国。」小島功だ。街路樹の赤い実の正体はクロガネモチだとハイジが教えてくれる。
     駅前に向かう途中、後ろの方では講釈師は蕎麦屋に挨拶していたらしい。「いつもと違って言葉が丁寧でした」とロダンが笑う。「一対一ならとても丁寧な人なのに。」

     歩道橋を渡って南口のバスターミナル前に降りる。錦糸町駅は明治二十七年(一八九四)、総武鉄道の本所駅として開業。錦糸町駅と改称したのは大正四年(一九一五)のことだ。名前は錦糸堀から来ている。「錦糸堀の由来はなんだい。」分からない。「錦糸卵と関係あるのかな。」絶対に関係ないだろう。
     すぐそばにトイレがあるので、ここで少し休憩をする。伊藤左千夫の歌碑は、山形の茶色の大石に黒御影のプレートが嵌め込まれているものだ。

    よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも  左千夫

     明治二十二年四月一日、左千夫は牛乳搾取業を本所区茅場町三丁目十八番地(墨田区江東橋三丁目五番地三)に開業した。地下鉄入口の辺りが家畜小屋だったらしい。屋号は「乳牛改良社」と称した。
     三歳年下の子規に心酔して明治三十三年に門下に加わった。感激しやすい性質である。子規没後に『馬酔木』を創刊し、次いで明治三十六年十月『アララギ』を創刊して、短歌における子規の実質的な後継者となる。

    牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる     左千夫
    おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く  同

     若き日の昂然たる歌と、晩年の「ほろびの光」連作の冒頭歌とを並べてみた。この『アララギ』から斎藤茂吉、島木赤彦、土屋文明が輩出するのだから、左千夫の功績は大きい。と言いながら、実は私はアララギ系の歌は殆ど知らない。ちっとも面白くないのだ。私が多少なりとも好きで読んでいたのは啄木や白秋で、アララギと比べて何となく青臭いのかも知れないと、ちょっと恥ずかしいような気分でいたのは余計なコンプレックスだった。「矢切の渡しの方で見たのは何だったかな。」「あれは『野菊の墓』の文学碑。」

     総武線を越えると東西に延びる道がかつての南割下水で、暗渠化して北斎通りと名付けている。「両国の近くで北斎通りって見たから、どこまで続くのかと思ってた。」宗匠も両国には来ているらしい。清澄通りから横十間川までの道だ。
     割下水とは道路の真ん中を掘った排水路である。「南割下水って言うから、道路の南側に下水が流れているのかと思ってました。」「南」は、北割下水(今の春日通り)との地理的な関係である。「下水」と言っても生活排水は流さず雨水の排水路だったから、水は比較的きれいだったようだ。川魚、沢蟹、蛙が住み着いていたと言う。
     信号の右前方(錦糸四丁目)には広大な錦糸公園が広がっている。ここが錦糸堀だった可能性もあるのではないか。陸軍糧秣厰倉庫跡で、東京大空襲の際には一万余人の遺体が仮埋葬された。その北側(墨田区太平)には精工舎の工場があったが、平成十四年に解体された。
     北斎通りを西に向かう。スタートで躓いたのと、のんびり歩いているせいもあって、予定よりかなり時間がかかっている。時計を見ると十一時二十分か。この分だと、昼に予定していたジョナサンに着くのは一時頃になりそうだ。予約ができなかったから、少し時間が外れたほうが入りやすいかもしれない。
     BURGER KINGと焼肉弁当店の間を北に向かう通りの前で、カメラを構えているオジサンがいる。真正面にスカイツリーが見えた。タワービュー通りと名付けられているらしいが、こういう名前は好きでない。
     大横川に出る角に建つ小さな神社が津軽稲荷だ。墨田区錦糸一丁目六番地十二。津軽藩邸の屋敷神だったものを、明治四十三年にここに移し、錦糸町一丁目町会の守り神としたと書かれている。真っ赤な柱と真っ白な壁がきれいだ。「何かありますか。」拝殿のガラスを覗いてみたが暗くて何も見えない。
     「そこにお店があるじゃないか。早いけどそこに入っちゃおうぜ。」信号を渡って大横川親水公園に入る角にガスト(錦糸町北口店)があるのだ。時計は十一時半、それで良いか。「そうしましょう。」この店があることは知っていたが、下見の時には十一時前に通過していたから全く候補に入れていなかった。スタートで二十分浪費したことが却って幸いした。二カ所のテーブル四つに分かれて座席についた。
     「安いね。」メニューを見て画伯は勘違いする。「ご飯とみそ汁は別料金ですよ。」「そうか。」スカイラークより安い店だった筈だが、スカイラークがなくなってしまって、当初のコンセプトが変わってしまったのか。私と画伯が選んだハンバーグ(大葉と大根おろしが載っているもの)は、ご飯、漬物、みそ汁(Cセット)をつけると九百八十一円になる。碁聖とマリオは四百十八円のスパゲッティだ。
     「いらっしゃいませ、貴重なお昼休みの時間に有難うございます。大葉おろしハンバーグがお二つ、Cセットがお二つ、トマトソース・スパゲッテイがお二つ、大変有難うございます。お承り致しました。ごゆっくりダンをおとりになって下さい。」やたらに口が回るニイチャンだが、非常に丁寧なようで何かおかしい。ダンをとれとは何だろう。暖をとれか、談を楽しめか。
     暑くなってきたのでセーターを脱いでリュックにしまう。これだからリュックでなければいけない。あんみつ姫がくれた切絵図で吉良邸を探していたマリオが、「吉良」の語源を知ってますかと訊いてくる。ちょっと気づかない知識の抽斗をいっぱい持っている人である。「三州吉良でしょう。何だろう。」「キララですよ。雲母。」雲母の産地であったことから吉良の地名が生まれたということだ。これは知らなかった。
     「十二時十五分に出ましょうか。」しかし十分になると講釈師は支度を済ませて店を出ようとする。「リーダーが時間を指定してるのに。」外に出れば風は全くなく実に穏やかな日だ。これもひとえに私の人徳によるだろう。「エーッ、それは信じられません。」猛烈な寒波はどうしたのだろう。

     長崎橋跡の碑を見て親水公園に入る。大横川の大部分を埋め立てて造られた、およそ一・八キロに及ぶ細長い公園だ。人工の小川が流れている。「水が案外きれいじゃないか。」清平橋の遺蹟を見て姫が写真を撮る。それ程早く歩いている訳ではないが、チロリン、クルリンが随分遅れてきた。「飯食って眠くなったんじゃないか。」そう言うスナフキンも眠そうだ。

    初春やゆるりゆるりの午後の道  閑舟
    セーターを脱げば小川に日は眩し  蜻蛉

     法恩寺橋で公園を出て蔵前橋通りに入り、太平一丁目の交差点を過ぎてすぐ左の参道に入る。両側に陽運院、善行院、千栄院と小さな寺が並ぶ参道で、突き当りが法恩寺だ。日蓮宗。平河山。墨田区太平一丁目二十六番十六。住所の「太平」は太田道灌の「太」と平河山の「平」から取られた。参道に並ぶ小さな寺はかつて二十を数えたという法恩寺の塔頭である。
     太田道灌が江戸城内鎮護の祈願所として本住院を建立、このときは平河町である。太田資高(道灌の孫)の代に法恩寺と改称した。その頃の資高は北条氏に仕え、江戸城にいたようだ。家康の江戸城拡張によって神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄八年当地へ移転した。

     当寺往古は、いまの御城内平河にありて、本住院と号せしとなり。・・・・・・遥かに天正の後、柳原の辺へ移され、その後谷中清水谷の地へ転ぜられ、元禄の初め、今の地へひかれたりといへり(境内に平河清水と称する稲荷の小祠あり。これすなはち平河より清水坂へ.うつりたる証にして、ふたつの地名をあはせてかくは称するなり)。(『江戸名所図会』)

     山門を入ってすぐ右手には、狩り姿の道灌を浮き彫りにした大きな石碑が立っている。ところで、資高の子の康資が、北条対里見の第二次国府台戦争で里見方について大敗し、太田氏はその後が分からなくなった。江戸時代に道灌の裔を名乗る太田氏は、ほぼ仮冒であると考えられている。
     左手には屋根だけが黒く、そのほかは真っ白な鐘楼三重塔が目立つ。平河清水稲荷大明神の小さな祠は今もある。本堂の大屋根からスカイツリーが飛び出ている。「あれでホントに六百三十四メートルあるんですかね。」
     墓地を入ると突き当りの正面が大田道灌供養塔だ。「どれですか。」「その五輪塔。」道灌と並んで道真の名も見えるから、曾祖父と祖父の二人を供養したものである。五輪のそれぞれの石に、上から妙法蓮華経の文字を刻むのは、法華系の習いだ。「古い墓石がみんな黒くなってるのは空襲で焼けたんでしょうか。」ロダンの言う通りかも知れない。
     本堂前の机にはB5サイズ程のものが置かれている。ノートパソコンかと一瞬思ったが、それにしては薄い。蓋を開けると朱のスタンプ台だった。隣に大きなスタンプも置かれている。こんなに大きくては講釈師のスタンプ帳には押せないだろう。「なんて読むのかしら。」今日の資料の裏にスタンプを押したクルリンが悩んでいるのは、力士の手形の左に描かれた四股名である。「栃」と「山」は分かるが、間の文字が分からない。宗匠は「トチオウザンじゃないかな」と判定した。これが「オウ」か。なんだか変だな。「そこに書いてある。」スタンプの方を見ると宗匠の判定通り、確かに栃煌山であった。「有名なんですか。」「それほどでもないだろう。」そう言ってしまったのは失礼だったか。画伯はすぐに「有名だよ」と訂正した。現在は西の小結で、豪栄道と共に次期大関候補のひとりではある。
     栃煌山と法恩寺に何か特別な関係があるのではなさそうだ。これは墨田区の観光誘客キャンペーン「すみだ まち歩き博覧会」による力士手形を集めるスタンプラリーであった。
     「あんまり大きくないな。」手形に自分の掌を重ねてスナフキンが首を捻っている。試しに私の手をスナフキンに重ねると指の長さが一センチも違う。野球をやっていたからではないだろうか。「小さくなったんだよ。」ホントカネ。
     「ここにも鬼平があるよ。」庫裏の玄関前にあるのが鬼平の一説を書き出したものだった。「本所は鬼平ばっかりだな。」位牌型に造った大きな木の板は、ところどころニスが剥がれているから、かなり古い。

    池波正太郎『鬼平犯科帳』「尻毛の長右衛門」の舞台
    引き込みのおすみは橋本屋の勝手口からぬけ出し、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。彼方に法恩寺の大屋根がのぞまれる。法恩寺は花洛本圀寺の触頭で、江戸三箇寺の一であり、表門を入った両側には塔頭が押しならび、境内の稲荷の小祠を中心にした庭園の桜花はいまや咲きひらこうとしている。(略)
    いつものように布目の半太郎は法恩寺橋の欄干にもたれて、おすみを待っていた。

     寺を出ると、すぐそばに「鬼平情景」と題して高杉銀平道場跡の立札が立っていた。若い日の長谷川平蔵が通っていた剣術道場らしいが、そもそも実在の人物なのか。
     大横川の東側を並行して延びる道を北上する。「この辺に専売公社があったんじゃないか。」講釈師は何でも知っている。「今もあるよ。」右手に日本たばこ産業の大きな敷地が広がっている。ここには東京工場と生産技研があるようだ。
     この道の正面、浅草通りを突っ切り北十間川を渡ったところに、かつての業平橋駅がある。「東京スカイツリー駅って、イヤですね。」平成二十四年三月十七日に改名したのである。「それにスカイツリーライナーなんて。東武伊勢崎線でいいじゃありませんか。」この分では、在原業平の東下りなんて誰も知らない時代が来るのも遠くない。
     浅草通りに突き当たる。後ろが大きく遅れているので、スナフキンと二人でちょっと左に曲がり込んで信号で待つ。少し遅れてきた姫とマリーが角から覗き込んで、安心したようにやって来た。「どんどん先に行っちゃうんだもの。みんなで、ここで帰っちゃおうかと言ってましたよ。」信号を渡り左に曲がる。右手の下では大横川親水公園が行き止まりになっている。大きな凸面ガラスの前でカメラを構える人がいる。「よく考えたね。」
     吾妻橋三丁目東の角を、工事車両を避けながら右に入る。道なりに業平ポンプ所を過ぎると、北十間川に架かる源森橋の交差点だ。「この辺が撮影スポットなんだ。」橋の上から、北十間川と東武伊勢崎線の電車とスカイツリーが一緒に収められるからだと言う。橋を渡れば向島で、水戸藩下屋敷だった隅田公園が広がる。
     橋は渡らず信号で三ツ目通りを渡り、突き当たったところが清雄寺(セイオウジ)だ。墨田区吾妻橋二丁目十四番地六。寺には本門佛立宗と掲げてある。「聞いたことないな。」法華の系統だろうが私も見たことがない。「単立じゃないかな。」しかし私の勘は間違っていた。「本山は京都にあるようですね」とダンディが調べた。安政四年(一八五七)、長松清風(日扇)が本門法華宗内部に在家信徒団体として作った本門仏立講が前身である。昭和二十一年(一九四六)本門法華宗から独立した。在家主義は明治以降の新興宗教に特徴的な性格である。
     寺には入らず、墓地はそのまま路地を真っ直ぐ行った右手にある。ここで見たいのは第三十二代横綱玉錦三右衛門の墓だ。二所ノ関中興の祖であり、玉の海梅吉(七代二所ノ関、解説者)、神風正一(解説者)、佐賀の花(八代二所ノ関)、大の海(花篭)、琴錦(佐渡ケ嶽)等を育てた。狭い敷地に墓石がびっしり並んでいるから、墓石の前に四人も立てば身動きが出来ない。
     「亜流だったから苦労したんです。」ダンディの言う「亜流」とは小部屋の意味だろう。明治以来、出羽海一門と高砂一門がほぼ交代で相撲界を牛耳っていて、どちらにも属さない小部屋では昇進もままならなかった。何度も大関昇進を見送られ、能代潟の大関陥落と引き換えに漸く大関になったものの、昭和四年(一九二九)三月から連続三場所優勝しながら横綱昇進を見送られた。昭和七年(一九三二)一月の春秋園事件で大量の力士が協会を脱退した後、協会を支えた功績が認められ、この年漸く横綱に昇進する。昭和十年(一九三五)からは二枚鑑札を許され、横綱在位のまま六代二所ノ関を襲名して弟子の育成を始めた。「いつ頃の人なの、双葉山の頃かな。」画伯は知らないのだろうか。双葉山時代到来直前の最強の横綱であった。
     「巡業で盲腸になって、船で大阪に戻って手術したんですよ。」ダンディは詳しい。「昔は相撲が好きだったから。」昭和十三年(一九三八)十二月、虫垂炎から腹膜炎を起こして死んだ。ダンディ、ヨッシー、講釈師が生まれた年だ。まだ三十四歳、横綱として余力を残した死であった。
     「盲腸とは思わないから、弟子に腹を揉ませたんですね。それがいけなかった。」「知ってるよ。虎の門病院でしょう。」「違いますよ、大阪ですからね。」チロリンが知っているのは玉の海正洋のことだろう。
     跡を二枚鑑札で継いだのが関脇だった玉の海梅吉(七代二所ノ関)で、部屋の経営に苦労したから大関になれなかった。分家を許さぬ出羽一門と違って分家独立を奨励して、花篭、佐渡ケ嶽、片男波など、後の二所ノ関一門の繁栄に繋がる。奇しくも、孫弟子に当たる(片男波の弟子)横綱玉の海も同じ虫垂炎で、二十七歳の若さで死んだ。あの時は北の富士が号泣した。
     後で分かったが、この墓地には玉錦の師匠である海山太郎(五代二所ノ関)、九州山十郎(六代稲川)の墓もある。ただ、この時代では古すぎて私の興味の範囲には入ってこない。
     シノッチ、イッチャン、ハイジはこんなことにはまるで関心がないから、墓地の入り口で待っている。「これ全部回るの。」クルリンが私の作った資料を見て不安そうな声を出す。私の計画ではここが八番目、最後は二十六番まであるのだ。「行きますよ。疲れたのかな。」「今日はちょっと疲れちゃった。」「平地だから大丈夫ですよ。」

     「それじゃ行きましょう。」スカイツリーを見るためだろうか。同じような恰好をした集団がスカイツリーの方向に歩いていく。それを見送りながら、何の気なしに右に行って左に曲がる。「どこに行くんですか。大通りに戻った方がいいんじゃないでしょうかね。」ロダンが地図を頻りに確認している。また間違えてしまった。「また言われちゃうぜ。」「たぶん気付かないよ。」「絶対気付くさ。」わざわざ四角形の三辺を歩いた訳だ。後ろを振り返ると姫はニヤニヤしているが、講釈師はシノッチ、イッチャンと話に夢中だ。三ツ目通りに戻り信号を渡る。
     その角、本所吾妻橋駅前が妙縁寺だ。日蓮正宗。墨田区吾妻橋二丁目二番地十。門を入った右脇に夜寉井(ヤカクイ)の碑が建っている。海を埋め立てた本所の地で名水が湧き出たとは実に不思議なことなのだ。宝暦二年(一七五二)井上蘭台が詩を作り、宝暦十二年(一七六二)に書家滕包貫が碑を建てた。

    銘井寉夜
    風雨如晦爰喪幼孫耿耿不寝念彼九原嗟茲胎禽馨聞干野薄言求之寒泉之下迨其今兮清冽且深自詒伊戚實労戒心  寶暦二季六月 蘭臺井上通凞撰
     詩の意味を簡単に説明すれば、
     「風雨が闇のような中で、鶴は我が子を失い、気になって眠れずにあの世を思い浮かべている。と、この泉で囁くような声を聞いた。今もこの水は清らかで、鶴同様に自らの憂いを残すように、心を和ませてくれる。」
     というものです。(他にもいくつかの解釈があります)
     井戸は安政大地震でふさがりましたが、安政六年(一八五九)に日蓮正宗第五十一世日英上人によって再興されました。しかし、関東大震災によって再びふさがりました。(墨田区教育委員会)

     詩の解説の日本語が分からない。「自らの憂いを残すように、心を和ませてくれるって、どういう意味だろう。」憂いを残していて心が和む筈がないではないか。「変ですね、意味が分からない。」理解できなかったのは私だけではなかった。
     井上蘭台は江戸中期の儒者であり、学派としては折衷学の祖とされる。林鳳岡門下の逸材でありながら朱子学を批判した。荻生徂徠の古文辞学、伊藤仁斎の古義学も批判したが、『先哲叢談』では、甚だ徂徠に似ていると評されている。生涯女性を近づけず、井上家の後嗣には養子を迎えた。
     もうひとつ、この寺には相馬大作の首塚がある筈なのだが、下見のときには見つけられなかった。本堂の玄関を入ると、ちょうど礼服を着たオジサンが出てきて「いらっしゃいませ」と挨拶してくれる。「相馬大作の首塚があると伺って来ました。」「ちょっとお待ちください。」脇の待合室に案内され、そこにいた男性に訊いてくれる。「古い墓ならそちらにありますから探してみてください。」住職ではなく法事に来ていた人らしい。
     「誰ですか、それ。」誰も相馬大作を知らないのか。「何て書いてるのかな。」それが分かればもっと探しやすい。案の定見つからないので仕方がない。「諦めましょう。」

     相馬大作事件とは、文政四年四月二十三日(一八二一年五月二十四日)に、南部藩士・下斗米秀之進(諱は将真)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。
     秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。(ウィキペディア)

     当時の住職が大作の伯父であり、小塚原で獄門にかけられた首を貰い受けて埋葬したとされている。それにしても、この事件は良く分からない。古くから弘前藩と盛岡藩との確執があり、本来家来筋である津軽家が南部家より上位になったことが気に入らないというのだが、それで津軽藩主の暗殺を考えると言うのは異常ではないか。言い掛かりのようなもので、こんなことで恨まれる方は堪ったものではない。
     事件の百年以上も前に、盛岡藩と弘前藩との間で檜山騒動と呼ばれる国境紛争が起きた。文書を揃えて幕府の調停に従った弘前藩の言い分が通って、盛岡側が不満を持った。しかし繰り返すが百年も前の紛争である。文政三年(一八二〇)に藩主・南部利敬(従四位下)が三十九歳で死んだ時、弘前藩への昔年の恨みで悶死したと噂された。跡を継いだ養子利用(十四歳)は無位無官で、弘前藩主津軽寧親が北方警護の功績で従五位下から従四位下に昇進した。また石高見直しにより、弘前藩は表高十万石となり、八万石の盛岡藩を超えた。こうしたことが積み重なっての事件だと説明されている。
     しかし藤田東湖が『下斗米将真伝』を書き、また吉田松陰にも影響したと知れば、ただのアホの仕出かしたバカな事件と片付けることができない。どうもこの辺りの精神状況が私には理解できないでいる。

     妙縁寺の角を右に曲がって、二つ目の角を左に曲がれば福厳寺だ。「あれっ、また間違えたかな。」「法華寺じゃありませんよね。」「一本左だったかもしれない。」みんなが戻りかけた時、念のために少し先まで行ってみると、見覚えのある門があった。「その門ですね。」ヨッシーだけが私の後ろについていてくれたのである。「こっちです。」又やったかと、曲がり角まで戻っていた皆が笑いながらやってくる。墨田区東駒形三丁目二十一番地三。曹洞宗。
     赤門の色が鮮やかだが、赤門は勝手に作ることが許されていない筈で、家光が秀忠追善供養のために寄進した門であった。しかし関東大震災で焼失し、紀尾井町の紀州家中屋敷の門を貰い受けたものの、これも戦災で失われた。よくよく運の悪い門だ。現在の門はコンクリートで再建したものである。
     納骨に来たらしい家族と葬儀社の係員がいるので静かにしなければならない。狭い墓所の手前の隅にある「玄忠義院孝山一路居士」が大石三平の墓だ。大石三平良穀は、大石家の分家。讃岐高松藩松平家の江戸詰めで横網に住んでいた。地理に明るいから浪士の集会所を用意し、吉良上野介の在宅日を確認し、更に討ち入り当日は父の無人と共に吉良邸の外を警護したと言われる。
     長居はできないから早々に門を出ると、「大福帳を持ってるだろう。この徳利がさ。」講釈師の大きな声が後ろから聞こえてきた。「何をしてるんでしょうか。」境内に戻ると狸の像の前で、女性陣を相手に講釈しているのである。「八畳敷だよ。」この狸の置物に昭和天皇が関係していたなんて、誰か知っていただろうか。

    信楽焼の狸の置物の歴史は比較的浅く、明治時代に陶芸家の藤原銕造氏が作ったものが最初と言われている。一九五一年(昭和二十六年)、昭和天皇が信楽町行幸の際、たくさんの信楽狸に日の丸の小旗を持たせ沿道に設置したところ、狸たちが延々と続く情景をお気に召され、歌を詠まれた逸話が新聞で報道され、全国に知られるようになった。信楽町長野・新宮神社に歌碑が建っている。(ウィキペディア「信楽焼」より)

     少し南の右側に芭蕉山桃青寺がある。臨済宗妙心寺派。墨田区東駒形三丁目十五番十。「ここでは、お寺の名前に注目してください。」桃青は芭蕉が江戸に来て初めて名のった号である。
     寛永三年(一六二六)の創建。元の名は白牛山定林院だったが、芭蕉が数年にわたり当寺に寄宿したという説があり、延享二年(一七四五)に芭蕉に因む名前に改めた。ただ芭蕉がいつ頃この寺に寄宿したのか、記録としては何も残っていない。可能性としては天和二年(一六八二)の駒込大円寺に発する大火で芭蕉庵が類焼してから、天和九年に第二次芭蕉庵に入る間のことかとも思うが確かめようがない。
     長谷川馬光がこの寺の壇越で、寛保三年(一七四三)芭蕉五十回忌に当たって芭蕉堂を建立したと言う。しかしその芭蕉堂も現存しない。馬光は其日庵・山口素堂の弟子であり、二世其日庵を名乗った。関口芭蕉庵に「さみだれ塚」を建てた中心人物でもある。
     「山口素堂って聞いたことがある。」ロダンも名前を知っている素堂は芭蕉の弟子ではあるが、生涯友人として接していた。「目には青葉山ほととぎす初鰹」は誰でも知っているだろう。
     マリオの半日券はここで切れた。「あっ、ここでお別れするんですか。」姫が慌ててバッグから何かを取り出したが、マリオには間に合わなかった。「五十回の記念ですから、おめでたい末広がりのシールを持ってきたんです。今日の資料に貼って下さい。」扇形のシールだった。

     そのまま南下し、春日通りを越える。これが北割下水である。「なんだか、お正月みたいな町ね。人通りがないわ。」ハイジの言う通りだ。商店はなく小さな町工場や会社が散在している。「高砂部屋ですよ。」これには下見の時も気づかなかった。三階建の灰色の愛想のない建物で、木の看板を除けば相撲部屋らしい雰囲気は全くない。墨田区本所三丁目五番地四。
     かつて大勢力を誇った高砂部屋も今では見る影がない。今の高砂は元大関の朝潮で、幕内力士は朝赤龍しかいない。「増位山は高砂部屋でしたか。」「あれは三保ケ関です。」「出羽一門ですね。」その三保ケ関部屋も十代三保ケ関(増位山)の定年退職と共に、後継者が見つけられずに去年閉鎖された。
     「相撲はいつからだっけ。」「明日が初日。」「場所が始まるとさ、若い衆がフンドシを干すんだよ。」「フンドシじゃないよ。マワシって言ってよ。」しかし場所が始まらなくても、マワシは干さなければいけない筈だ。玄関側は余り日当たりが良くないから裏に干すに違いない。しかし初場所を待つ相撲部屋が静まり返っているのもなんだか不思議だ。この時間は昼寝をしているのだろうか。

     初場所を待つ静けさや相撲部屋  蜻蛉

     そのまま更に真っ直ぐ暫く歩く。「たぶんこの辺を曲がる筈なんだ。」スナフキンが笑う。見覚えのある尾張屋の角を右に曲がればよい。「昔懐かしいようなお店ですね。」赤飯、あんみつ、かき氷の品書きが見える。ヒレカツむすびというのもある。
     これが蔵前橋通りで、次の信号を左に曲がり区役所通りに入ると、交番を過ぎた歩道脇に栗本鋤雲屋敷跡の細長い標柱が立っている。墨田区石原三丁目十番地一。細長い柱の側面に説明が書かれているのだが、この書き方がおかしい。「フランス式軍隊の伝習などフラン」でこの面が終わる。「フランって何。」反対側は「スの諸知識を導入」から始まっている。「余白がない訳じゃないんだから、もっと工夫しなくちゃ」と碁聖が罵り、「担当者は叱られたでしょうね」とダンディも笑う。
     「ロダンは鋤雲を知ってるよね。」「ちょっと読んだだけですけどね。」知っている人がいて良かった。栗本鋤雲、名は鯤、通称瀬兵衛。外国奉行、勘定奉行、函館奉行を歴任。維新後「報知新聞」主筆となった。これだけでは単なる幕末の官僚であり、どうと言うこともない。経歴をもう少し詳しく追ってみる。
     幕府医官喜多村槐園の第三子として生まれ、奥詰医師の栗本家の養子に入った。母は長谷川平蔵の姪である。もともと医者だから本来、外交官になるべき出自ではないが、危機意識が強かったのだろう。オランダから幕府に寄贈された軍艦「観光丸」への試乗を願い出て、奥詰医師の長官である岡礫仙院の忌避にあって蝦夷地へ追放された。その函館でフランスの宣教師カションと出会ったことで運命が変わった。
     カションが仏語を教え、鋤雲が日本語を教えて親交を結んだ。やがて鋤雲は医籍から士籍に転じて登用される。江戸に戻り、かつて退学を命じられた昌平黌の頭取に任ぜられ七百石取りの旗本となる。これ自体が異例のことだが、更に将軍家茂直々の沙汰によって目付、次いで横浜鎖港談判委員、外国奉行(兼勘定奉行・函館奉行)と昇進していく。この間に小栗上野介とも意気投合した。
     この頃カションはフランス公使ロッシュの通訳官となっていたので、幕府の親仏政策は小栗・栗本ラインのよって積極的に推進された。横浜横須賀製鉄所の建設、ナポレオン砲の譲渡、歩騎砲三兵教官の招聘、横浜仏語学校開設などがその成果だ。
     パリ万博に派遣された徳川昭武一行がカションと悶着を起こし、日仏間にヒビが入るのを恐れた幕府が調停役として鋤雲をフランスに派遣した。そしてフランス滞在中に大政奉還を知るのである。
     フランスから帰国して、一年に及んだその見聞を『暁窓追録』に記した。その項目を抄録すると、ナポレオン法典の善美、訴訟の公平、弁護士、巡査、ナポレオン法典と東洋、気灯(ガス灯)、下水道、オスマン知事のパリ大改造、軍隊の操練、フランス軍、欧州各国の形勢、各国の政治家、富国強兵の秘策、国勢と貨幣価値、セーヌ川と鉄道、電信網の発達、印刷術、障害者医療、民兵制度、人材育成と学問など多岐に渡る。それぞれの項は短いが見るべきものは見ている。
     維新後は明治政府に使えることを拒否して在野の言論人として生きた。「勝海舟と」「仲が良かったんですか。」「スゴク悪かった。」鋤雲は、海舟が国を売った大悪人と見ていたのである。森銑三も、「海舟と鋤雲と、この二人には性格的に相容れぬものがあったのである」と書き、二人を対照している。

     明治三十一年六月二十日の『読売新聞』に、やはり旧幕臣だった戸川残花が「海舟と鋤雲」と題する短文を寄せている。それを読んだら、急に気持ちが動いて、この一文を草したのであるが、残花はその文で、涙を呑んで事に当ったのは勝海舟だった。泣いて節を守るの士は栗本鋤雲だったといい、徳川氏三百年の覇業に、円満な結びを附けるために、勝伯は心肝を砕いたのだったが、なおそれに栗本翁のような老実な人物があって、初めてそのことが実現したといっている。(森銑三『明治人物夜話』「栗本鋤雲の詩」)

     北斎通りのちょっと手前の右側のマンションが河竹黙阿弥終焉の地だ。墨田区亀沢二丁目十一番地十一。

     河竹黙阿弥は文化十三(一八一六)年二月三日、江戸日本橋に生まれ、天保六(一八三五)年五代目鶴屋南北に入門し天保十四(一八四三)年には立作者となり二代目河竹新七を襲名し、歌舞伎俳優四代目市川小団次には「忍ぶの惣太」を五代目菊五郎には「弁天小僧」を書き有名になる。引退後、黙阿弥と改名した。生涯、約三百六十編の作品を残し明治二十六(一八九三)年一月二十二日、七十六歳でこの地にて死去。

     「登志夫は孫でしたか。」ダンディが声をかけてくる。黙阿弥の娘の糸の養子に入ったのが繁俊で、その次男が登志夫だから曾孫になる。

       黙阿弥が琴と長女の糸と次女の島とともに、浅草仲見世裏からここの新居へ越してきたのは明治二十二年三月、七十二歳のときだった。(中略)
     妙になま温かく、冬でも蚊がいたという。緑町からきてこの割下水を越えると、そこがもう南二葉町で、ふたつめのブロックの左側に河竹の家はあった。
     敷地は琴女の遺書によると五百余坪とあるが、父の記録では六百二十幾坪となっている。もとは錫職人の所有地だったという。何分低い土地なので家の周囲を地上げする必要と、水と泥棒の用心とを兼ねて。通りに面していない三方の側面にはかなり幅の広い堀をめぐらしてあった。
     通りに面した方の垣根には、カラタチの木がならんで植えてあった。(河竹登志夫『作家の家』)

     六百坪以上の土地に貸家を五軒建てたのは、独身で家督を継ぐ糸の生活を考えた黙阿弥の配慮である。庭には池があり、池は汐入で干満に合わせて真水と海水が混じりあう。明治四十四年、糸が六十二歳頃か、坪内逍遥の紹介で市村繁俊が糸の養子となった。
     しかしこの家は関東大震災で焼失し、登志夫の兄であった赤ん坊も死んだ。
     「どういう人なの。」「シナリオライターです。クドカン、工藤官九郎みたいな人です。スゴク人気があったの。」姫がイッチャンやチロリンに説明する言い方がおかしい。坪内逍遥は「日本のシェイクスピア」と称賛した。ご存じお嬢吉三の科白を書いてみようか。舞台は、今日のコースの最後に通る百本杭である。七五調の華麗な科白回しが黙阿弥の魅力だ。尤も私は実際の舞台を見たことがない。

    月も朧に白魚の 篝も霞む春の空
    冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと
    浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
    竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手にいる百両
    (呼び声)おん厄払いましょう、厄おとし
    ほんに今夜は節分か 
    西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 
    豆だくさんに一文の 銭と違って金包み 
    こいつは春から 縁起がいいわえ(『三人吉三廓初会』)

       「その斜向かいの角が三遊亭円朝旧居です。」墨田区亀沢三丁目。その角は現在は工事中で、標柱も見当たらない。そもそも円朝も頻繁に引越ししたから、あちこちに旧居跡がある。そして北斎通りに戻ってきた。街路灯には北斎の複製画が掲示されている。

    北斎の絵に足停める春日和  午角

     野見宿彌神社の正面はどうした訳か鉄柵で閉ざされていて、脇から入らなければならない。墨田区亀沢二丁目八番地十。隣に初代高砂浦五郎の部屋があり、明治十七年(一八八四)、相撲会所頭取の高砂によって創建された神社である。
     明石志賀之助に始まる歴代横綱碑を見るのが目的だ。「こっちですよ。」「そうか、これは新しい方だね。」横綱碑は二基並んでいて、新しい方は柏戸、大鵬に始まる。「日馬富士もあるね。」左の古い方は明石志賀之助から四十六代朝汐太郎までで余白がなくなったのである。
     「初代横綱は谷風と思ってましたよ。違うんですか。」歴史的にはロダンが言うのは正しい。行司の総元締めともいうべき吉田司家が、初めて横綱免許を与えたのが谷風と小野川である。この時代には「横綱」という地位ではなく、最強の力士を表す名誉的な称号であり、紙垂をつけた注連縄を腰に巻いて土俵入りしたのである。「雷電はあんまり強すぎて横綱になれなかったね。」当時の力士は藩のお抱えだから、藩同士の力関係にも大きく影響した。
     初代明石志賀之助、二代綾川五郎次、三代丸山権太左衛門は、後に陣幕久五郎が富岡八幡宮に横綱碑を建立した際に名前を挙げられたもので、伝説の相撲取りである。特に明石志賀之助は実在さえも疑われている。
     「北の方が多いだろう、南はあまりいない。若島津が奄美で、そんなくらいじゃないか。」「ヘーッ、そうなんですか。」相変わらずイッチャンは講釈師の話を素直に聴いている。若島津は種子島出身で、全盛時は南海の黒豹とも呼ばれたが、大関で終わったからこの碑に名前はない。
     しかし講釈師の説とは違って、南の出身者も実は多い。勿論東北が一番多くて十三人を数えるが、九州は十人いて北海道の八人より多い。
     さっきの玉錦が土佐である。「佐田の山は五島です。」ダンディは良く知っているネ。横綱碑には肥前と書かれている。「五島って肥前ですか。長崎県ですよね」肥前国は佐賀県と長崎県をほぼ含むのだ。出身地を眺めていたダンディが不思議なことに気付いた。旧国名で常陸、陸奥、羽後などと記してあるものと、県名で記してあるものが脈絡なく混在しているのだ。
     「黄色い文字は何だろう。」四十五代若乃花、四十八代大鵬、五十九代隆の里の三人の名前だけが黄色くなっている。「死んだ人かな。」「それじゃ、古い方は黄色だらけになっちゃう。」三人の共通点を探せば、玉錦以降の二所一門の横綱で故人になったことだろうか。しかしそれなら五十一代玉の海だって該当する筈で、これは正解ではない。
     それにしてもダンディがこんなに相撲に詳しいとは知らなかった。話題は多いが作文が終わらなくなってしまうので割愛する。
     出発しようと思った時、シノッチが甘いお菓子を取り出そうとしている。「少し先の公園で休憩しますよ。」「だって箱を開けちゃったんだもの。」それでは急ごう。「そこにも立札がありますよ。」姫が見つけたのは駐車場の案内だった。

     津軽家上屋敷跡は緑町公園になっている。墨田区亀沢二丁目から緑三丁目(京葉道路まで八千坪)。表門は京葉道路沿いのジョナサンの辺りだからかなり広大であった。「十五分ほど休憩しましょうか。」「納豆は食べますか、甘いですが。」折角のヨッシーの好意だけは戴く。クルリンが煎餅をくれた。
     「ホラ、ここにあるよ。」本所七不思議の「津軽の太鼓」を説明した立札が立っていた。火事を発見すれば板木を打つのが定法であるが、津軽家では太鼓を打つ。それだけなら特に不思議でもなんでもない。その音が板木と同じだったという説もある。
     あんみつ姫が切絵図を出して、この辺に津軽家の屋敷は三か所もあると教えてくれる。ここは上屋敷で本所二ツ目、中屋敷が本所三ツ目(現在の横網一丁目から両国一丁目にかけて二千八百七十坪)、下屋敷が本所大川端(亀沢二丁目十七番地の五八十坪)にあった。元禄期の直前まで下総国だったところで、上屋敷としてはちょっと辺鄙な場所だ。「田舎大名だと思われてたんじゃないの。」「そうかしら。外様じゃないでしょう。」津軽家は外様である。お家騒動が続いたことで懲罰的な意味だと言う説もある。
     斜向かいに見える「東あられ」両国本店の前に、北斎生誕の地の立札が置かれている。墨田区亀沢二丁目十五番十。南割下水で生まれたというだけで、実際にどこだったか正確な場所は分かっていない。北斎通りの西の端にも碑がある筈だ。
     角を曲がって西側の歩道に「江川太郎左衛門英龍終焉の地」の標柱があった。「知りません。どういう人ですか。」姫が韮山代官の江川担庵を知らないのか。「だって日本史は苦手だったんですもの。」「日本で初めてパンを焼いたって書いてある。オランダ人に習ったのかな。」私はそこまで読んでいなかったが、ダンディはそういうことが気になるらしい。パンと言っても軍用として作ったもので、硬く焼いた乾パンのようなものだと思う。尚歯会に参加して積極的に洋学の知識を吸収していたから、蛮社の獄に連座する恐れがあったが、水野忠邦が江川の才を惜しんで庇ったとされている。

     英龍は渡辺崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島秋帆に弟子入りし(同門に下曽根信敦)、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。これが実現し、英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められる。以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育した。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎などが彼の門下で学んでいる。
     水野忠邦、鳥居耀蔵が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、正弘の命で台場を築造した。同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。現在も韮山に反射炉跡が残っている。造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア使節プチャーチン一行への対処の差配に加え、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図したが、あまりの激務に体調を崩し、安政二年(一八五五年)一月十六日に病死。享年五十五(満五十三歳没)。(ウィキペディア)

     「それじゃ行きましょう。」途中の店の前でスナフキンが、墨田区観光協会発行の「北斎ギャラリー九十四点」というパンフレットを見つけてくれた。
     清澄通りに出た所で宗匠が両国駅に向かい、私たちは逆に北に向かう。途中で帰って行った宗匠は、後で昼の月を眺めて悔し涙にむせぶのである。

    初歩き反省なくて昼の月  閑舟

     「そこが横網公園ですね。」「後で寄ります。」信号を渡ると次の角に、日本左衛門首洗い井戸の案内が出ている。徳之山稲荷神社。墨田区石原一丁目。本所築地奉行の徳山五兵衛重政屋敷跡である。「本所築地奉行って、他にどんな奉行があるんですか。江戸南町、北町のほかに。」ロダンはこれが町奉行や勘定奉行、寺社奉行並の役職だと思ったようだ。本所築地奉行の築地はツイジと読むのだろう。「これは臨時の役職なんだよ。本所開発プロジェクト責任者っていう意味だね。」「そうか、そう言われれば分かりやすい。」
     「これが首洗い井戸ですね。」「さてどん尻に控えしは・・・・ってさ、歌舞伎であるだろう。傘を持ってさ。」ダンディ、姫の前で歌舞伎の講釈は無用だろう。「浜の真砂だよ。」しかしこの科白は南郷力丸のもので、日本駄エ門は首領だから最初に登場しなければならない。

    問われて名乗るもおこがましいが生まれは遠州浜松在
    十四の頃から親に放れ、身の生業も白浪の
    沖を越えたる夜稼ぎの、盗みはすれど非道はせず
    人に情けを掛川の、金谷を掛けて宿々で
    義賊と噂高札に廻る配符のたらい越し
    危ねえその身の境界も、最早四十に人間の
    定めは僅か五十年、六十余州に隠れのねえ
    賊徒の張本日本駄右衛門

     本名は浜嶋庄兵衛、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)には日本駄エ門として登場する。実際は遠州浜松ではなく、尾張藩の下級武士の子であったようだ。これも河竹黙阿弥の作品である。

    名乗りあぐ稲荷の井戸や冬日和  蜻蛉

     徳ノ山講・町内有志によって建てられた碑では、本所築地奉行の徳山五兵衛が日本左衛門を捕縛するよう命じられたとしているが、正しくは重政の孫で火付盗賊改方の五兵衛秀英である。池波正太郎『男の秘図』の主人公だ。但し日本左衛門本人は、人相書きが出回っていて逃れられぬと観念して、京都で自首した。
     東京都公文書館のサイトで人相書きの本文を見つけた。これが江戸時代の人相書きである。

     人相書之事
                      十右衛門事
                        浜嶋庄兵衛
    一 せひ五尺八九寸程 小袖鯨さし三尺九寸程
    一 歳弐拾九歳    見掛三拾壱弐歳ニ相見候
    一 月額濃引疵壱寸五分程
    一 色白歯並常之通
    一 鼻筋通り
    一 目中細ク
    一 皃おも長なる方
    一 ゑり右之方江常かたき罷在候
    一 ひん中ひん 中少しそり元ゆひ十ヲ程まき
    一 逃去り候節着用之品
        こはくひんろうしわた入小袖
         但紋所丸之内橘
        下ニ単物萌黄紬 紋所同断
        同白郡内ちばん
      (中略)
    一 鼻紙袋萌黄羅紗うら金入り
    一 印籠  但鳥のまき絵
     右之通悪党仲間ニ而者異名日本左衛門与申候其身ハ曾て
     名乗不申候
     右之通之もの於有之者其所々ニ留置御料者御代官私領ハ
     領主地頭江申出夫より江戸京大坂向寄奉行所へ可申達候尤
     見及聞及候ハヽ其段可申出候若隠置後日脇より相知候ハヽ可為
     曲事候
      寅十月
     右之趣可被相触候
     (http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0703kaidoku11_1.htm)

     身長は一七五センチ程、月代に五センチ程の傷があった。色白で鼻筋通り、面長である。二十九歳だが三十一二歳に見える。この僅かな年齢差が判別できたのだろうか。

     清澄通りに戻って次の信号で左に曲がる。「吉葉じゃないか。」講釈師が声をかけたのは割烹「吉葉」だ。「吉葉山の店だよ。」墨田区横網二丁目十四番地五。しかし、吉葉山が死んだのが昭和五十二年、店が開業したのは五十八年である。元宮城野部屋の建物だが、吉葉山との直接の関係はなさそうだ。今でも屋内に土俵があるそうだ。

     私どもは昭和五十八年に割烹 吉葉を創業するに当たり、旧宮城野部屋の建屋と横綱吉葉山の名前を譲り受けました。大相撲の伝統や風情が料理をおいしくする隠し味になると信じたからです。
     力士たちが稽古に励んだ土俵に目を向け、館内に響き渡る相撲甚句に耳を傾け、由緒ある建屋の歴史を嗅いでみてください。
     http://www.kapou-yoshiba.jp/goaisatsu.html#menu01

     川沿いの介護老人保健施設「秋光園」の前に村松志保子顕彰碑がある。ここは彼女の創設した産婆学校跡である。墨田区横網二丁目七番。私はこれまで彼女の名前を知らなかった。

     明治時代に女医から産婆(助産師)になり、明治・大正時代に博愛精神に基づき、助産活動をした先駆的助産師村松志保子は、安政三年(一八五六)生~大正十一年(一九二二)没。
     明治十四年、この地に安生堂医院を開設、更に女性の地位向上のため、明治十五年、淑女館と安生堂産婆学校を設立し新しい教養豊かな産婆(助産師)がこの地で育成された。(顕彰碑より)。

     志保子は上野国沼田藩医村松玄庵の長女として江戸上屋敷に生まれ、父から医学や漢学の手ほどきを受けた。十九歳で藩医と結婚し医術の研鑽を続けるが、妹や甥をお産で亡くし産婆学を志したと言う。明治十四年に済生学舎を卒業している。
     安生堂医院は日本で初の助産施設である。ここは沼田藩最後の藩主・土岐頼知の別邸であり、その敷地の半分が志保子に与えられた。説明によれば、頼知の妹の教育と藩主一家の病気治療への礼だった。助産施設とは、保健上、入院助産の必要がありながら経済的事情で困難な妊婦を助ける施設である。
     産婆は昔から取上げ婆と呼ばれていたが、明治七年(一八七四)に東京・大阪・京都の三府に発布された医制で、「産婆」と改称されて免状制となって、産科医との区別が明確になった。しかし試験による免許制度が設けられるのは明治二十三年(一八九〇)、産婆規則、産婆試験規則、産婆名簿登録規則が発布されてからである。
     横網町公園でトイレ休憩をとる。墨田区横網二丁目三番二十五。「本所に来たからにはここを外すわけにはいきません。」鉄がこんなにも無残に溶け、ひん曲がるものかという見本が展示されている。「何度も来てますね。」
     日が陰ってくると少し寒い。セーターを取り出して着込む。ハトが多い。「何も知らない頃は、ヨコヅナって読むのかと思ってましたよ。ハハハ。」遠くから見れば綱も網も区別がつかない。震災遭難児童弔魂像脇には白いツツジが咲いている。「今時ツツジか。」「狂い咲きだよ。」

    横網に魂鎮めたる返り花  蜻蛉

     旧安田庭園を通り抜ける。墨田区横網一丁目十二番地一。元禄年間、常陸笠間藩主・本庄宗資によって造営された庭園で、維新後には備前岡山・池田侯屋敷となり後に安田善次郎が所有した。「明治の頃には岩崎とか安田とか、そんな名前ばかり出てきますね。」池にはユリカモメが群れている。珍しくもなんともないが、隅田川の近くでこの鳥を見れば何となく嬉しい。
     南側の出口を出ると、向かいの北越製紙ビルの角に舟橋聖一生誕地の碑が立っている。「誰かと猛烈に仲が悪かったって言いますよね。」「丹羽文雄だね。」「案内文に書いてませんね。」「書く価値がないと思った。」それでも姫は信号を無視して見に行く。確か、『花の生涯』と題された碑だったと思う。
     舟橋聖一なんて殆ど読んだことがないと思っていたが、作品リストを眺めていて、案外知っているのを思い出した。『雪夫人絵図』『花の生涯』『絵島生島』『悉皆屋康吉』。『雪夫人』なんか内容はすっかり忘れていても、中学時代にエロ本として読んでいたような気がする。
     その間に信号が変わったので西に渡ると、姫もすぐに読み終わって続いてきた。通りの向かいの国技館の前には色とりどりの幟がはためいている。

    初春ややぐら太鼓に幟旗  午角

     「日馬富士は休場だってさ。」それは知らなかった。現代相撲で横綱を張るには体が小さすぎるのが致命的だ。パールホテルの隣のビルの前に百本杭跡の立札が立つ。「土左衛門だよ。流れ着くんだ。」先に書いたお嬢吉三の科白はここが舞台である。

    百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。(幸田露伴『水の東京』)

     両国駅西口交差点の、道が二股になる三角地を駅寄りに曲がった所に、齋藤緑雨旧居跡の標柱が立っている。気付いても緑雨を知る人がどれだけいるだろうか。本名斎藤賢、正直正太夫なんてふざけた筆名を使い、また江東みどりとも称した。緑雨については樋口一葉に絡めて何度も触れたことがあるので覚えてくれているだろうか。
     慶応三年、伊勢神戸藩本多侯典医の斎藤利光・のぶ夫妻の長男として生まれた。あんみつ姫も知っている「慶応三年生まれの旋毛曲り」のひとりである。大抵知っているだろうが改めて名を挙げると、夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨である。
     明治九年、斎藤利光は一家をあげて上京し、深川、本所に住まいした。緑雨は江東小学校卒業後、府立一中、二中、明治義塾、明治法律専門学校(中退)で学んだ。明治法律専門学校を中退したのは、その頃に父が死んで生活の重荷を一身に背負うことになったからだった。弟たちの学資を稼ぐために文筆生活に入ったというようなことを言っている。しかし文筆で生活できる時代ではないのは一葉の例を見ても明らかだ。

    按づるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし。(『青眼白頭』)

     明治二十九年(一八九六)、鴎外の主宰する「めさまし草」で、鴎外、露伴とともに「三人冗語」(座談批評)を連載した。この頃が絶頂期であろうか。紙上で樋口一葉を激賞し、本郷丸山町一葉の家を訪ねた。
     そして一葉最晩年の知己となって、夏子の妹邦子から姉の日記を託された。『一葉全集』を校訂して出版し、遺族の生活を支えた。一流の皮肉家とみられていたが、馬場孤蝶は「思慮の綿密な人で、・・・・また人に対しても察しの深い、情に厚い所があつた」(『斎藤緑雨君』)と回想している。一葉は「唯口もとにいひ難き愛嬌あり」と日記に書いた。
     一葉の病が篤くなった時、緑雨が鴎外に頼んで青山胤通に診察をしてもらった。その甲斐なく一葉が死んだ時には、緑雨と戸川秋骨が遺族のために骨を折った。当然いるべき孤蝶は彦根中学の英語教師として赴任中で、葬儀に間に合わなかった。
     本所の陋屋に窮死した緑雨が、本所のことを書いている。

    ○こきまぜて只一色の都の錦も、青木は柳赤きは桜の十五区が裏を見渡せば、それぞれ風俗のおのづから異なるものあり、純粋の江戸つ子は今深川に多く本所に多し、深川のは魚河岸とおなじく土着なるがあれども、本所のは然らず、眼先の一寸に明るく足元の三寸に暗き江戸つ子、これも生存競争の理にせめられて、余儀なく河を渡りて退転し来れるなり。われは幼き頃深川に住みぬ、後本所に移りぬ、両国橋より来る引越し車の、見るに運好きはあらで、熟れもそれの傾ぶきたるなり、昨日まで繁華の町に表店がまへたる身の、今日は俄に勝手元の切詰め難しとや、初めは本所も入口の辺に価にいはば五円許の家賃を払ひ、それも叶はずなればこの度は中程の地に、家賃は三円許庭の少々添ひたるを借受け、やがて又々かなはぬ果に、はじめて本所の本所たる奥深き処に引籠りて、月の屋根代は壱円あまり弐円足らず、めぼしきは纔に灯明皿の是も磨かぬに光薄く、有りし昔を夜毎の夢に見て、なお口に肴屋八百屋の小言を絶たぬも果敢なや。本所の文明はつねに東に向つて漸めり。(斎藤緑雨『おぼえ帳』)

     緑雨が本所横網のこの地に転居してきたのは、明治三十六年十月のことである。翌四月には死んだから半年しか住んでいない。明治三十三年十月、肺結核の転地療養のために鵠沼の旅館東屋に滞在し、仲居の金澤タケと知り合った。その後タケの実家のある小田原に転地して二年間過ごしたものの病状は回復せず、横網に舞い戻ってきたのだった。死に臨んで、自作のものはすべて焼き捨てたが、一葉の遺稿にない詠草や短文を控えたものは残してあった。いずれ一葉全集を完全なものにしたいという意思であったろう。
     死の前々日に馬場孤蝶を呼んで一葉の日記を託し、二六新報か万朝報に載せるよう幸徳秋水に頼んでくれと「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」と死亡広告を口述した。その日はまだ大丈夫だと孤蝶を帰したが、翌々明治三十七年(一九〇四)四月十三日に死んだ。享年三十七。露伴による戒名は春暁院緑雨醒客である。

     不遇と言い切ってさしつかえのないその短い生涯の故に、緑雨の才の大部分をシニカルな屈折した精神を土台として求める試みが、これまでの緑雨観の殆どすべてであったように思うが、私には、緑雨が好んだ江戸の風味というものを基礎として、もう一度その文章を見直したとき、そこには意外なほど明るくのびやかな、遊び心がのぞいているように思われてならない。(中野三敏編『緑雨警語』解題)

     中野三敏は化政期の爛熟と頽廃ではなく、中期(十八世紀後半の宝暦・明和・安永・天明)の健康な成熟を緑雨の中に見ているのだ。しかし緑雨の文は売れなかった。凝りに凝ってアフォリズムを生み出すのだから遅筆である。小説は古めかしい。貧窮の中で死んだと言ってよい。

    ギヨエテとはおれのことかとゲーテ云ひ。(出典は良く分からない)
    涙ばかり貴きは無しとかや。されど欠びしたる時にも出づるものなり。(『忘れ貝』)

     駅は目の前なのでここで解散する。「十一・六キロですね。」ヨッシーが確定した。ほぼ見込み通りだ。講釈師は酒を飲まない女性たちと喫茶店を探すと言う。「われら万障くりあはせて」飲まなければいけないが、さてどうしようか。
     「せっかく両国に来たんだからちょっと贅沢して、ちゃんこでもどうでしょう。」「そこに霧島があるね。」三時半を少し回ったところだがもう店はやっているようだ。「だけどちょっと高そうだよ。」詳しく見なかったが、刺身の三点盛りが二千円以上する。ロダンの名前と同じ名の店は割烹のような格調ある店で、メニューが出ていない。こういう店は高いだろうと思うと、運よく仕度中だった。
     「駅の方に行ってみましょうよ。ちゃんこ屋はいっぱいありますよ。」ロダンが先頭切って探しに行くが、大抵の店は五時開店である。「なんだ、まだいたのか。」講釈師たちも喫茶店を探してうろうろしている。「あそこに行けばいいじゃないか。蕎麦屋で教えてもらった。」第二回「両国編」で行った巴潟は五時開店だとスナフキンに調べて貰ってある。「それじゃサヨナラ。」
     「さくら水産もある。」「四時開店ですね。あと十五分ほど。」しかし、一度口にしてしまったから私はちゃんこが喰いたい。「所詮、寄せ鍋だろう」なんて言っていたスナフキンが、「霧島に行こうぜ」と決断した。墨田区両国二丁目十三番地七。もちろん大関霧島の店だ。「六階まである。」霧島は儲かっているようだ。
     店頭のメニューを見て、ちょっと高いが四千二百円のコースに決めた。「ビールは高いからさ、あんまり飲まずに焼酎にしよう。」「飲んで五六千円ですかね。」店頭で悩んでいる私たちを玄関の中から眺めて、店員が待っていた。「八人様ですか、少々お待ちください。」少し待たされて四階に案内された。五階六階が掘り炬燵式の座敷で、この階は椅子席になっている。
     「あらっ、九人様ですか。」「また人数の計算ができない人だね。」碁聖、画伯、ダンディ、ヨッシー、スナフキン、ロダン、あんみつ姫、マリー、蜻蛉。確かに九人だ。「それじゃ、このテーブルの間に椅子を入れます。ちょっと座り難いかも知れませんが。」問題ない。そこには私が座ろう。
     「ビールは瓶にして、すぐに焼酎に切り替えましょう。」できるだけ安く上げたい私が宣言するのを、仲居の女の子が聞いて笑っている。「それじゃビールは乾杯用ということで、何本にしましょうか。」「取り敢えず四本かな。それに霧島コースで。」「四千二百円のコースはこうなっております。五千二百五十円は。」説明はもう良い、私たちは既に決めてあるのだ。「四千二百円でいいです。」お通し(今日はタラコの煮付け)、刺盛り、お新香、揚物(手羽先)、鍋、最後にうどん又は雑炊が選べるコースだ。一ランク上げると煮物と蟹酢がつく。六千三百円のコースは内容を聞くまでもない。
     お通しが美味い。「蜻蛉はそっちの組ですか。」大皿も鍋も二つづつ出てきて、四人前と五人前に分かれている。私はちょうど真ん中に座ったので、左のチームに入るのだ。刺身が分厚くて、これだけで結構お腹が膨れる。マグロ、鮭、カツオ、エビ。焼酎は店オリジナルの芋焼酎「霧島」だ。漸くちゃんこが煮えてきた。「ちゃんこデビューです。」姫が喜ぶ。スープは鶏ガラで取り、醤油と白味噌を混ぜ合わせたというもので美味い。一所懸命食べてかなり腹が膨れた。

    チャンコ鍋湯気の向こうは麗人か  午角

     画伯が見た麗人は誰だっただろう。ひとり六千円は予定通りと言うべきか。さくら水産なら二回分以上になるが、こんなこともあろうかと、この一か月、爪に火を点すように小遣いを節約してきたのである。
     帰宅すると、丁度秋田のYから電話がかかってきた。相変わらず酔った声で、中学同期会の幹事連中が集まっているらしい。「ちょっと代わるど。」「誰。」「私です。」今宵、初恋を偲ぶ夜。

    蜻蛉