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    第五十一回 日本橋界隈を巡る編
    平成二十六年三月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.03.17

    原稿は縦書きになっております。
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     二月は「記録的な」大雪に二回見舞われた。二月八日(土)未明から降り始めた雪は初め細かくて軽いものだったのに、午後から大粒になって夜中まで降り続いた。東京では四十五年振りと言う積雪を記録し、我が家の周辺でも三十センチ程になった。九日(日)は図書館も休館となり、団地では総出で駐車場の雪掻きを行った。
     次は十四日(金)から降り始めたが気温は前週よりもやや高めで、それ程になるとは思わなかったが、十五日(土)朝になってみると前回より積もった量は多い。水を大量に含んで重い雪だ。午後は団地の雪掻き、十六日(日)には正門から図書館前までの通路を確保するため、午前中一杯は雪掻きで終わった。二週連続だから肩と腰の筋肉痛が二三日取れなかった。
     この大雪が首都圏ばかりでなく、東日本各地に大きな被害をもたらし、一週間経っても孤立集落が四百も残るという異常事態となった。農業への影響も大きく、埼玉県で二百二十九億円、群馬県で二百四十七億円の被害額が算出された。関東甲信全体では六百五十億円にも上る。夏は猛暑と「記録的な豪雨」、冬は「記録的な」大雪と、いやはや、年を取ってくると体に堪えるね。
     今日は旧暦二月八日。啓蟄に入ったというのに一昨日は北風が冷たく、昨日は都内で一瞬雪が舞っていた。今日もまだ寒い。

     集合は日比谷線・小伝馬町駅の三、四番改札だ。私が着いた時にはもうかなりの人数がいて、定刻までには二十人が集まった。宗匠が昼食に予約した人数がピタリ的中したようだ。宗匠、画伯、碁聖、マリオ、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヤマチャン、若旦那、あんみつ姫、チロリン、クルリン、ヨシミチャン、シノッチ、ハイジ、マリー、マルチャン、若女将、蜻蛉。これだけの人数は久し振りだ。
     ヨシミちゃんは帽子を目深に被り、マスクをして、まるで変装しているような姿で現れた。その姿で、こちらの眼を見据えて「こんにちは」と言われても暫く分からない。「ヨシミです。」それで分かった。
     マルチャンも何年振りだろう。あんみつ姫は残念ながら半日券しか使えない。冬籠りしていた椿姫が今回は参加する積りだったのに、急に体調を崩して欠席になったとヨシミちゃんが教えてくれる。ダンディが頻りに残念だと口にする。ロダンはお休みだ。桃太郎は山に行っているのだろうか。
     私はこの界隈の地理的関係が今一つ呑み込めていないので、今日はきちんと学習する積りで地図を切り貼りして作ってきた。予習もかなりしたので、昨日の時点で作文の半分近くはできてしまった。まず今日のリーダー宗匠が小伝馬町の地名由来について説明をする。
     伝馬とは江戸の宿駅制度のなかで、宿場間の輸送を担当する職務であって、伝馬役のもとに定められた数の馬匹と人足が置かれていた。ここ日本橋は諸国への街道の起点だから、相当な数の馬を必要としただろう。馬の数が多い方が大伝馬町で馬込勘解由、少ない方が小伝馬町で宮辺又四郎が伝馬役を務めた。隣接する馬喰町には馬の仲介業者が集まっていた。

     地上に出ると、地下鉄出口前に「吉田松陰先生終焉の地・江戸伝馬町牢屋敷跡・石町宝永時鐘」と三行に彫った石碑が立っている。駅の反対側に二三分のところで、以前姫の案内で行っているから今日の計画には入っていない。ダンディ、トミー、ドクトル、ヤマチャンは、集合時間前に寄って来たらしい。
     北西から南東に伸びる道が人形町通りで、地下を日比谷線が走っている。それと交差するのが江戸通りで、この下を総武本線が走っているなんて知らなかった。
     「日本橋と言えば『旧聞日本橋』ですよね。」普通の人はこんなことは言わないが、姫は良く知っている。「青空文庫でダウンロードしたんですけど、やっぱり岩波文庫を買いました。」私は買う程の必要は感じなくて青空文庫で済ませているから、姫ほど真面目ではない。それでは明治十二年に生まれた長谷川時雨の回想を見てみる。

     あまりに日本橋といえばいなせに、有福に、立派な伝統を語られている。が、ものには裏がある。私の知る日本橋区内住居者は──いわゆる江戸ッ児は、美化されて伝わったそんな小意気なものでもなければ、洗練された模範的都会人でもない。かなりみじめなプロレタリヤが多い。というよりも、ほろびゆく江戸の粕でそれがあったのかも知れない。私はただ忠実に、私の幼少な眼にうつった町の人を記して見るにすぎない。もとより、その生活の内部を知っているものではないし、面白くもなんともないかもしれないが、信実に生ていた一面で、決して作ったものではないというだけはいえる──(長谷川時雨『旧聞日本橋』自序)

     一応はじめに町の構成を説いておく。
     日本橋通りの本町の角からと、石町から曲るのと、二本の大通りが浅草橋へむかって通っている。現今は電車線路のあるもとの石町通りが街の本線になっているが、以前は反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあって、浅草へむかって行きの線路は、本町、大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町とつらなった問屋筋の多い街の方にあって、街の位は最上位であった。それがいまいう幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰町、小伝馬町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずっと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原っぱで残っていた。其処には、弘法大師と円光大師と日蓮祖師と鬼子母神との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用いていた。小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門通がある。
     そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告っていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。小路には、よく、瓢箪新道とか、おすわ新道とか、三光横町とか、特種な名のついているものだが、私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。この道筋だけが五町通して、本町石町から緑河岸まで両側の大通りと平行していた。(同「町の構成」)

     長谷川時雨の名を挙げても誰も反応を示してくれないから、殆んど知られていないようだ。十二歳年下の三上於菟吉の妻だったなんて言っても無駄だろう。『雪之丞変化』で一世を風靡した大衆作家も今では全く読まれない。
     時雨は樋口一葉より七歳年下で、『女人藝術』(昭和三年から七年までに四十八冊刊行)を主宰して多くの女性作家を育てた。そこから林芙美子が『放浪記』を連載して世に出たことは記憶して良い。一葉の時代と違って女性作家が文筆で暮らしていけるようになったのは、時雨の功績が大きいだろう。今日では時雨の戯曲や小説に見るべきものはないが、『旧聞日本橋』という幼時の回想と、『明治美人伝』『近代美人伝』シリーズを残してくれたのが有難い。時雨自身が非常に美人であったのは、写真からでも想像できる。

     人形町通りから二本目の小路を左に入る。この角辺りに大丸呉服店があったようで、時雨の回想にも頻繁に登場する。江戸時代には大伝馬町三丁目で、いつの頃か通旅籠町になったが、広重は「大伝馬町ごふく店」の題で大丸を描いている。
     少し行くと蔦屋重三郎の「耕書堂」の案内版が立っていた。かつて通油町と呼ばれた所だが、今では中央区日本橋大伝馬町一三番地八だ。北斎『画本東都遊』の中の耕書堂の絵が出されている。着物の「たちばな」の店頭だ。「風情がありますね。」大伝馬町には木綿問屋、呉服問屋が集まっていたから、その名残だろうか。ただ時雨の回想を信用すれば、通油町は大門通りから東になる筈で、それならここはまだ通油町ではない。江戸と明治では町名が違っていたのだろうか。
     TSUTAYAがその縁故かと誤解されるが、全く関係ない。「エッ、そうなの。」リーダーも信じ込んでいたらしい。江戸の蔦屋は、寛政九年(一七九七)に重三郎が死んで絶えたのである。現在のTSUTAYAは、創業者が、蔦重にあやかりたいとその名を襲っただけだ。
     そう信じていて皆にも説明したのだが、実はこれも違っていたらしい。ウィキペディア「カルチュア・コンビエンス・クラブ」によれば、創業者増田宗昭の祖父が経営していた置屋の屋号が蔦屋であり、それを踏襲したのであった。蔦屋重三郎とは全く関係ないのは勿論だが、置屋ではイメージが悪いので、蔦重にあやかったという説を流したらしい。
     江戸の出版も元禄の頃までは京阪の書店がほぼ独占していた。西鶴、近松を挙げるまでもなく元禄文化は基本的に上方文化である。寛永の頃からようやく自前の文化が発展してきて、それにつれて地場の書店も力をつけてきた。錦絵を中心として江戸自前の出版をするので「地本屋」と呼ばれる。
     日本橋は出版センターでもあった。有名書店には鱗形屋三左衛門、山本九左衛門、鶴屋喜右衛門、山形屋市郎右衛門、前川六左衛門、須原屋茂兵衛、その一族の須原屋市兵衛などがある。
     「須原屋も江戸から続いていますね。」私も今回調べるまでダンディと同じように誤解していた。しかし江戸有数の本屋であった須原屋は、明治になって博文館との競争に負けて没落した。現在浦和にある須原屋は明治九年に、既に本屋を廃業していた須原屋伊八(茂兵衛の一族)の貸店舗で創業をしたのである。直接の縁はない。
     正確な場所は分からないが通油町北側中程というから、耕書堂の斜向かいの辺りに鶴屋喜右衛門の店があったらしい。それなら今のアパホテルの辺りになるだろうか。『江戸名所図会』には、「錦絵」と題して鶴屋喜右衛門の本問屋の賑わいが描かれている。

    錦絵 江戸の名産にして他邦に比類なし。なかにも極彩色ことさら高貴の御玩びにもなりて、諸国に賞美することもっとも夥し。(『江戸名所図会』)

     蔦屋は安永二年(一七七三)に吉原大門の前に書店を開き、鱗形屋孫兵衛版「吉原細見」の販売を始めた、それが成功して『吉原細見』の版権を獲得し、やがて天明三年(一七八三)、三十三歳で日本橋に進出した。浅間山が噴火し、蕪村が六十七歳で死んだ年である。
     杉田玄白五十歳、中川淳庵四十四歳、伊能忠敬三十八歳、長谷川平蔵三十八歳、塙保己一三十七歳、太田南畝三十四歳、笠森お仙三十二歳(もうとっくに谷中から去っていた筈だ)、喜多川歌麿三十歳、鶴屋南北二十八歳、大槻玄沢二十六歳、葛飾北斎二十三歳、山東京伝二十二歳、十返舎一九十八歳、曲亭馬琴十六歳と名前を挙げれば、時代の雰囲気が見えてくるだろう。
     書店と言っても現代とは違って、企画・印刷・出版・卸売・小売の全てを行う。従って企画力、著者や画家との人脈がモノを言う。蔦屋のサロンには恋川春町、朋誠堂喜三二、山東京伝、唐来参和、十返舎一九、曲亭馬琴、喜多川歌麿、写楽などが集まった。

     歌麿や参和がごろごろしている蔦屋の店に、四方赤良と北尾政演(山東京伝)がやってくる。朱楽菅江(幕臣山崎景貫)も、宿屋飯盛も北尾重政・政美も顔を出す。蝦夷地に旅行していた平秩東作(新宿の煙草屋稲毛屋金右衛門)が戻ってきて体験談を面白くきかせる。
     蔦屋重三郎はこうした作家たちのコミュニケーションの要として、作品を世に送り出す役割を果たし、さらに積極的に作家を育て上げた。身分差別をこえ、しかも互いに世俗的地位や仕事に束縛されない自由な個として活動できる文化社会を成立させていたのである。(今田洋三『江戸の本屋さん』)

     寛政三年(一七九一)、松平定信の改革における出版取締りによって、山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され重三郎は身上半減の過料、京伝は手鎖五十日の刑を受ける。四年には林子平が『海国兵談』『三国通覧図説』によって蟄居、出版に関わった須原屋市兵衛が重科料に処せられた。
     蔦屋が写楽を売り出したのは寛政六年である。翌年まで僅か十ヶ月の間に百四十五点を刊行したが、当時の評判が悪かったせいか、写楽は忽然と姿を消した。太田南畝は「あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず」と評した。そのため写楽の正体を巡って様々な説が出されたが、今では阿波蜂須賀家お抱えの能役者で八丁堀に住んだ斎藤十郎兵衛とするのが定説になった。経緯は中野三敏『写楽』に詳しい。
     馬琴は寛政四年(一七九二)京伝の紹介で蔦屋の手代となり、その傍ら戯作の習作を続け、寛政五年(一七九三)の『御茶漬十二因縁』から馬琴の名を用いた。下駄屋の未亡人会田百の入り婿になったのも、蔦屋と京伝の世話である。十返舎一九も蔦屋に寄食して用紙の加工や挿絵描きをしていた時期がある。
     そして重三郎は寛政九年(一七九七)に死んだ。享年四十七。脚気だったといわれる。繰り返すが、ここで蔦屋の店は絶えたのである。
     中野三敏(『十八世紀の江戸文芸』ほか)によれば、十七世紀が江戸文化の青年期、享保の改革から寛政の改革までの十八世紀が最も健康で明るい壮年期であった。宝暦、明和、安永、天明と辿れば、その中心は田沼時代であろう。そして蔦屋重三郎の死はその終焉と重なっていて、以後は中野の言う江戸文化の老年期、爛熟頽廃の化政期へと移っていくことになる。

     大門通りは、明暦の大火後に移転するまで吉原があり、その大門に因む。江戸時代初期には人形町の辺りは葦の生い茂る場所だったのであり、それが吉原の名になった。この辺りに長谷川時雨の生家があったのではなかろうか。それを突っ切って次の角を右に曲がる。電柱の標識を見ると、みどり通り、住所表示は日本橋富沢町だ。
     「ほら、あれが空襲で焼け残った一角だよ。」講釈師が注意を促すのは、駐車場の東側に古めかしい木造の建物が長屋のように四五棟並ぶ場所だ。確かに風雪を感じる建物だが、しかし空襲で焼け残ったとすれば既に六十九年も経つ訳で、そんなに古い木造家屋が残るものだろうか。
     「風の向きで残ったんだよ。」しかし中央区の被災地図を見ると、被害にあわなかったのは人形町通りの西側などごく一部で、ここは明らかに被災地になっている。講釈師の勘違いではないか。(http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/kiroku/jyokyo/を参照。)地震があったら怖いわね。」くっつきあった家は三階建てで確かに怖い。「今なら建築基準法に引っかかるだろう」。
     十分程で中央区立久松小学校に着く。日本橋久松町七番二号。明治六年(一八七三)三月、越前勝山藩・小笠原左衛門佐長守屋敷跡に、第一大学区第一中学区二番小学久松学校として設立された。東京で最も古い小学校だ。「懐かしい。」マルチャンは何が懐かしいのだろう。「イトコが通ってたのよ。」
     小学校の名は、旧伊予松山藩当主・久松定謨伯爵が巨額の寄付をしたことから名付けられた。「違うでしょう。」ダンディと同じように、このことは学校関係者にも長く忘れられ、町の名に拠ると思われていた。

    そして平成五年に、このような経緯に疑問を抱いた同校校友会会長・渡邊氏(当時)により、『東京府志科』に「久松学校 明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」との表記が発見され、考証が重ねられた結果、久松定謨伯爵の献金が基で、校名も久松定謨に由来ということが史実としての認識が改められました。http://www.bansuisou.org/about/hisamatsu_syougakkou.html

     久松定謨は旗本松平勝実の三男として生まれ、明治五年、最後の松山藩主定昭が二十八歳で死に、その遺言で養嗣子に入った人物である。郷党の子弟の教育に熱心で、伊予松山の子弟の育英事業として常磐会を起こした。本郷真砂町炭団坂上の旧坪内逍遥邸跡を覚えている人もいるだろう。坪内逍遥が移転した後、明治二十年(一九八七)に常磐会の寄宿舎としたもので、舎監に内藤鳴雪、寄宿生として正岡子規、河東碧梧桐が暮らしたことが知られている。この常磐会が今でも続いているのだから驚いてしまう。
     しかし注目を浴びるのは、塀に掲げられたパネルに記された立原道造の詩と経歴だ。特に宗匠は帝国大学在学中に辰野金吾賞を三回受賞したという部分を指差す。「建築家としての方が優秀だったな」というのがダンディの感想だ。
     大正三年(一九一四)に生まれ、昭和十四年(一九三九)に死んだ立原道造がこの小学校を卒業した。家は現在の馬喰横山駅のすぐそばだったようで、開校以来の神童と称された。

    Ⅹ 夢みたものは・・・・

    夢みたものは ひとつの幸福
    ねがつたものは ひとつの愛
    山なみのあちらにも しづかな村がある
    明るい日曜日の 青い空がある

    日傘をさした 田舎の娘らが
    着かざつて 唄をうたつてゐる
    大きなまるい輪をかいて
    田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

    告げて うたつてゐるのは
    青い翼の一羽の 小鳥
    低い枝で うたつてゐる

    夢みたものは ひとつの愛
    ねがつたものは ひとつの幸福
    それらはすべてここに ある と(立原道造『優しき歌Ⅱ』より)

     東大弥生門の向かいにあった立原道造記念館には、何度も機会はあった筈なのに結局足を踏み入れなかった。「閉館しちゃったのよね。」ハイジは本当に残念そうだ。私も今回調べて分かったが、平成二十三年に閉館している。私には縁遠い詩人だった。

      春浅し詩人の夢のあるばかり  蜻蛉

     東京の下町から府立三中(現両国高校)、一高、東京帝大というコースは、芥川龍之介(京橋生まれ、本所育ち)、堀辰雄(麹町生まれ、向島育ち)と全く同じだ。下戸で甘党だったのも三人に共通する。芥川は堀を「辰ちゃんこ」と呼んで可愛がり、堀は立原を可愛がった。つまり芥川、堀、立原という文学的系譜がある。美男の系譜と考えても良い。立原に初めて会った萩原朔太郎は、芥川の息子ではないかと疑った。それ程雰囲気が似ていた。
     立原の詩はガラス細工のように美しく儚くて、立原が慕った十歳年上の堀辰雄と良く似ている。姫やハイジは、というより女性一般に人気があるのはそのせいだろう。「全集を買いたいんですけど五巻もあるんですよ」と姫が嘆く。全集は戦前に一度、戦後は角川書店から三度、そして筑摩書房から決定版全集(全五巻)が刊行されている。夭逝した詩人の全集が五回も出されるなんて実に異例なことで、立原の人気の高さと持続が分かる。
     私が堀や立原に余り親しまなかったのは、男子たるものが読むにはちょっと恥ずかしくなる、その甘さだった。堀にしても立原にしても、人が生きるために否応なくまとわざるを得ない生々しさや汚れが、言い換えれば中也の「汚れっちまった悲しみ」が欠けていると思われた。私は既に中原中也詩集(角川文庫)を読んでいたから、青春の「純潔」なんて信じていなかった。
     尤も立原自身が中也の『汚れっちまった悲しみ』について、「これは『詩』である。しかし決して『対話』ではない、また『魂の告白』ではない。このやうな完璧な芸術品が出来上るところで、僕ははつきりと中原中也に別離する」と批判している。それなら立原の詩が「対話」であり「魂の告白」であるか。背は高くても体重が四十キロしかなかった立原と、チビの中也が取っ組み合いの喧嘩をしたらどうだったろう。
     上京して三、四日目だったろうか。初めて神田の古書店街に行き、そこで買ったのが『中原中也全集』(当時はまだ別巻が出ていないので全五巻)だったから、私自身は中也に加担したい思いが強い。昭和四十五年当時で全五巻四千円は定価の二割引きだったが、私にとっては思い切った買い物であった。
     周囲と喧嘩ばかりしていた中原中也と、誰からも愛された立原道造と、全く違うふたりだが、昭和十二年に中也が死んで中原中也賞が制定されたとき、死を目前にした立原に第一回の賞が与えられたのは、堀辰雄の強い推薦の結果だった。雑誌『四季』の関係だろう。
     室生犀星は、堀、立原、津村信夫など、いずれも若くして死んだ詩人たちを可愛がった。堀が死んだのはそんなに若くはないが、長い間病床にあったから似たようなものだ。そして堀を小説家としてではなく、詩人として扱うのは犀星の感度である。彼らを愛惜した『我が愛する詩人の伝記』で、立原が堀にまとわりつく姿を描いた。

     彼はいつも軽井沢の私の家に先き廻りして、追分から出て来ると、次ぎの列車で堀さんも今日は出て来るといい、それがその日の一等愉しい事であるらしかった。
     列車が着く時間になると、表の通りに出て行ってもうそろそろ来る時分だが、お客でもあったのかと独り言をいい、落ち着かずそわそわしていた。そうして堀の姿が丘の上に現れると、嬉しそうに、来た、来た、と言って私に知らせる時なぞ、まれに見る子供っぽい友情のこまかさがあった。そして堀と私とが話をしていても何も言わずに、邪魔をしないで一人遊びするように、娘なんぞと遊んでいた。
     そんな日の帰りには堀の買い物を持ってやり、一緒に追分村に夕方には連れ立って帰って行った。絶対に堀を好いていた彼は、堀辰雄のまわりを生涯をこめてうろうろと、うろ付くことに心の張りを感じていたらしかった。そこに津村信夫が東京から来あわせたりすると、彼はますます機嫌良くなって、津村を誘って町に出て行って永い間帰らなかった。(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)

     昭和十四年(一九三九)立原が二十四年八ケ月で死ぬ直前、見舞いに訪れた芳賀檀と若林つやに向って、「五月のそよ風をゼリーにして持ってきてください」と頼んだと言う。「非常に美しくておいしく、口の中に入れると、すっととけてしまふ青い星のやうなものも食べたいのです」と。普通の大人はこんな恥かしい科白を口にしない。
     しかし五月を待たず、三月二十九日に中野区江古田の東京市立療養所で死んだ。「夢みたものは ひとつの愛 ねがつたものは ひとつの幸福」と歌った相手は十九歳の水戸部アサイで、彼女が最後を看取った。 

     浅路さんは立原の寝台の下に、畳のうすべりを.敷いて、夜もそこで寝ていた。おとなしいこの娘さんは立原の勤めていた建築事務所の、事務員の一人であったらしいが、立原の死ぬまでその傍を離れなかった。どんなに親しくても男には出来ない看護と犠牲のようなものが、殆んど当り前のことのように行われ、私もそれを当り前のすがたに見て来たが、それは決して当り前のことではなかった。(犀星、同書)

     犀星はアサイを浅路と書いている。立原の死後アサイは、立原との間に性的関係はなかったと証言した。三好達治は『四季』第四十七号(立原道造追悼号)で追悼した。

    「暮春嘆息」──立原道造君を憶ふて──
    人が 詩人として生涯ををはるためには
    君のやうに聡明に 清純に
    純潔に生きなければならなかった
    さうして君のやうに また
    早く死ななければ!     三好達治

     早く死んだ特典は、戦争という政治に巻き込まれなかったことだけではないか。『四季』に拠った詩人たちもいずれ、『コギト』『日本浪漫派』に合流せざるを得ない時代がやってくる。
     「浦和の別所沼にヒアシンスハウス(風信子荘)がありますよ。」これは姫、ハイジ、ダンディが詳しい。立原が建てたいと願っていた小さな家は、立原のスケッチをもとに、平成十六年に建てられた。僅か五坪程の家だ。
     「立原道造が師事した詩人が別所沼に住んでいたんですよ。」ダンディがそう言うのだが、立原が師事したのは堀辰雄や室生犀星で、浦和には関係ないのではないか。「兄事したんです。単なる友人じゃありませんよ。名前が思い出せない。」神保光太郎のことではないか。日本浪漫派の創立者の一人だが、別所沼の神保の家を立原はしょっちゅう訪れていた。立原は人懐っこく、誰にでもまとわりついた。
     「是非、別所沼に来てください」と地元民のハイジが笑えば、「別所沼は私の庭同然」とダンディも胸を張る。「それならダンディの顔で、どこか美味しいお店の割引があるんじゃないですか。」「お庭を訪問するんだから、当然ダンディが御馳走してくれるんじゃないの。」「そうよね、そうだわ。」

     清州橋通りに入って右折すると、久松町交差点の手前のビル(ジョナサンがある)の壁に賀茂真淵県居の跡の案内プレートが掲げられていた。日本橋久松町九番地九。但し旧跡は、ここから北東に約百メートルと書かれてあるから、「どらっぐパパス日本橋浜町店」(日本橋浜町一丁目二番地一)の辺りになるのではないか。
     真淵は元禄十年(一六九七)遠州浜松の神職の三男に生まれた。先祖は賀茂神社の宮司で、賀茂神社が浜松に分祀されたときその宮司になった。本姓は賀茂県主である。享保十年(一七二五)浜松宿脇本陣の梅谷家の養子となったものの、出奔して京都に移って荷田春満に学んだ。元文元年(一七三六)春満の死によって浜松に戻り、翌元文二年に江戸に移った。延享三年(一七四六)、御三卿田安家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えた。
     宝暦一三年(一七六三)の本居宣長との「松坂の一夜」は、二人が出会ったただ一度の機会だった。後に宣長は書面を以て真淵に入門するのだが、二人の間には決定的なずれがあったと子安宣邦は言う。これまでの私の知識では春満・真淵・宣長と、国学は一本道で継承されたように思っていたが、実は違うのだ。

     真淵と宣長との間には、万葉をめぐるずれが存在し続けた。県居門に入門したのちに.宣長の万葉をめぐる性急な問いに答える真淵の多くの書簡を見れば、両者の間に存在するずれは弟子の心中にある己れへの「不信」を語るもののように師にはとられていたのである。「惣而信じ給はぬ気顕はなれば、是までの如く答は為まじき也」。これは明和三年真淵七〇歳のとき、万葉についての性急に問う弟子宣長に与えた、ほとんど子弟関係の解消をいうにも近い叱責の言葉である。(子安宣邦『江戸思想史講義』)

     万葉に取り組んで僅か数年しか経たない宣長が、生涯を万葉研究に捧げた老師に異見を立て、師の間違いを指摘したのである。宣長が真淵に書き送った和歌も真淵の逆鱗に触れたようだ。新古今の「わろき」を真似ようとして連歌より酷いと酷評している。しかし私は国学に関して偏見を抱いていて、まともに勉強していないので、論じる資格がない。
     信号を渡ると金座通りの標識が見えた。「金座があったのかな。」私も感度が鈍くて嫌になる。日本銀行が金座跡地ではないか。地図で確認すると、これを西に真っ直ぐ行けば人形町駅、三越前駅を通って貨幣博物館に着く筈だ。
     久松警察署を見て、「あれだよあれ」と講釈師が言い出した。「浮いた浮いたの浜町河岸だよ。」「明治一代女。」「そう、あれを捕まえたのが久松警察だ。」花井梅が箱屋の八杉峰三郎を刺殺したのは明治二十一年(一八八八)のことだ。既に久松警察署が明治八年(一八七五)に警視庁第一方面第五署として開設しているから、担当するのは当たり前である。ところで刺された男の名前は峯吉とも呼ばれ、川口松太郎の小説と、藤田まさと作詞の歌では巳之吉となっている。
     その斜向かいにあるのが笠間稲荷だ。日本橋浜町二丁目十一番地六。

    この地はもと徳川五代将軍綱吉の寵臣、牧野成貞の拝領地の一部で、邸内には稲荷社が奉斎されていた。綱吉がこの浜町邸にお成りの節は参拝している。たまたま牧野氏は延享四年(一七四七)笠間城主となり、笠間稲荷神社を崇敬し、安政六年(一八五九)、時の城主牧野貞直、その御分霊をこの社に合祀し、崇敬の誠をつくした。明治廃藩後は公認神社として独立した。大正十二年九月の関東大震災には社殿を焼失したが、ただちに再建された。昭和二十年三月の東京大空襲には、社殿全焼するの厄にあった。(東京都神社名鑑より)

     現在は東京別社を名乗っている。「笠間には行きましたよね。」姫はそう言うが、その時私はちょうど所要があって参加していない。言うまでもなく笠間稲荷は日本三大稲荷のひとつであり、ロダンがいれば自慢したことだろう。講釈師は珍しく丁寧にお参りする。
     ここには日本橋七福神の寿老人がある。「本所を歩いた時途中で失礼しちゃったけど、あの後この七福神コースを歩いたんですよ。」そう言えばあの時マリオがそんなことを言っていた。

    講釈師長寿祈念や梅の花  閑舟

     たぶん講釈師は誰よりも長生きをするだろう。憎まれっ子世にはばかる。いつまでも腕白小僧のままの人である。
     この辺から南西方向に遊歩道が続く。浜町緑道と名付けられ、昭和四十年代まであった浜町川を埋め立てた道だ。浜町川は神田川と隅田川を結ぶ掘割だった。
     甘酒横丁に入る辺りの道路に面した側に「漢方医学復興の地」碑が立っている。日本橋浜町二丁目九番先。『医界之鉄椎』を出版した和田啓十郎を顕彰したものだ。ただ宗匠の資料には「敬十郎」、案内板に「啓十郎」とある。きちんと調べた筈なのに、どちらが正しかったか混乱してしまった。案内板の啓十郎が正しい。

    料峭や石碑に誤字を指摘され  閑舟

     「この字はおかしいですよ。」鉄椎の「椎」をダンディが問題にする。「鉄槌でしょう。辞書にはそれしかありませんよ。」辞書は目安であり、金科玉条のように信じる必要はない。宗匠も辞書を引き、「鉄椎もあります」と応じた。辞書によって収録語数が違うのは当然なので、あらゆる言葉、意味を収録した辞書はない。ドクトルも読み方に悩んでいるが、やはりテッツイと読んでよく、鉄槌と同じ意味である。
     『医界之鉄椎』は国会図書館の近代デジタルライブラリーでオリジナルを見ることが出来るし、現代語訳も出ている。尤も私だってそこまで読もうとは思っていない。
     明治五年(一八七二)の学制によって近代教育制度が発足し、更に明治七年(一八七四)の医制によって、西洋医学に基づく医学教育と医師免許が制度化された。つまり漢方医には医師免許が与えられなくなったのである。この規定は現代でも有効で、純粋な漢方だけの医者というのは存在しない。
     これに対して和田は、西洋医学漢方医学ともに長短あり、双方を比較して良いものを採るべきだと主張した。西洋医学を排斥したのではない。本人は長谷川泰の済生学舎で学び、西洋医学を身に着けている。

     一八七二年、明治政府は、学制を制定し、西洋医学中心の新しい教育制度を整えるとともに、一八七四年には医制を制定し、西洋七科に基づく試験制度、医業の開業許可を制度化した。浅田宗伯らは、西洋医学一辺倒の医制改革を懸念し、「漢方六賢人の会合」と呼ばれる会合を開催。漢方専門の博済病院の設立、漢方存続運動の活動母体となる温知社の設立と、矢継ぎ早に対策を打ち出す。
     しかし、明治政府は一八八三年、太政官布告により、国家試験に合格しなければ医業開業の許可を与えないとする医師免許規則を制定。これに抵抗して浅田宗伯らが政府に提出した漢医継続願も、一八九五年の国会第八議会で少数の差で否決された。
     漢方医学はこれにより、断絶の危機に瀕することになる。(中略)
     漢方医学は明治期に断絶の危機に瀕したが、その後も一部の医師や薬剤師、薬種商などの尽力により、民間レベルで生き続けた。そして、一九一〇年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』を、一九二七年には湯本求真が『皇漢医学』を出版。これら著述がきっかけとなり、昭和に入って、漢方医学は再び注目を集めるようになった。(ツムラ「漢方の歴史 衰退・存続」)http://www.tsumura.co.jp/kampo/museum/history/06.htm

     スマホで検索していたスナフキンが、「ツムラの創業者だ」と言い出した。私もうっかり同意して、「ツムラのホームページを見れば、和田啓一郎のことが詳しく載っている」と言ってしまった。ツムラが漢方衰退と復興の歴史を記載しているのはその通りだが、創業者というのは間違いだった。
     遊歩道の中にトイレがあるので、宗匠はここで二十分ほど休憩時間を取る。ベンチにはニッカボッカ姿の若い衆が三人休んでいる。『勧進帳』の弁慶像が立っているのは、この辺りに芝居小屋が集まり、歌舞伎、人形浄瑠璃を演じていたからだと説明に書いてある。また人形作りの職人も住んでいたので、人形町の名がつけられた。
     「雛人形じゃないんだね。浄瑠璃の人形ですか。格が高い。」 おそらく江戸糸操り人形芝居だったろうか。説教浄瑠璃を操り人形芝居にしたもので、今の文楽の形式ではなくマリオネットである。

    江戸ハ薩摩太夫ヲ祖トシ、寛永十二年(一六三五)堺町ニ操座ヲ創スル也。然レバ、於国カブキヨリ後ニテ、中村座カブキヨリモ十二年後レタリ。(『守貞原稿』「操芝居」)

     堺町は現在の人形町三丁目だ。歌舞伎の中村座、市村座、古浄瑠璃の薩摩座、操り人形の結城座が立ち並んでいた。
     「それじゃ出発しましょうか。」「今、ダンディがトイレに。」「遅いんだよ。先にさっさと行ってればいいのに。」ここから甘酒横丁に入る。明治の初期、人形町通り側の横丁入口に甘酒屋があったのが由来だと言われる。歩道脇には甘酒横丁の幟がはためいている。 

     当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路であった。明治の頃この界隈には水天宮様をはじめ久松町には明治座が櫓をあげており、近くには「末廣亭」「喜扇亭」「鈴本亭」の寄席が客を集めていた。
     また穀物取引所の米屋町、日本橋の川岸一帯の魚河岸、兜町の証券取引所が隣接していることからもこの界隈が賑わっていた
     関東大震災後の区画整理で現在のような道幅になり、呼び名も『甘酒横丁』と親しまれ人々に呼びつがれている。(「甘酒横丁の由来」より)

     伝統工芸品・手作り工房の店「ゆうま」の前で足が止まる。「子供の頃、あれで遊んだな。」ダンディが感に堪えたように呟く。「ベーゴマですか。」「それじゃないけど。」昔の玩具が並べてあるのだ。
     「あれ、おかしいですね。」姫が指差したのは「久松料理飲食業組合書道教室」の看板だ。誰が学ぶ書道教室なのだろう。小さな飲食店が軒を連ねて並んでいて、「下町の雰囲気ね」と若女将が喜ぶ。「前に日本橋に来た時には、ここには来てないね」と。若旦那が確認している、実に仲の良い夫婦で、しょっちゅうあちこち歩いている。私も日本橋と言っても大通りしか知らなかったから新鮮だ。
     「アッ、甘酒が百円ですよ。買っていいですか。」「それはリーダーの許可を貰わなくちゃ。」「いいんじゃないの。」その言葉で、姫を先頭に数人がその店に入った。
     「なんだい、甘酒なら向こうが有名だよ。行こうぜ。」講釈師が先頭に立って歩き出す。「なんでも明るい人ね」と若女将が感心する。今に始まったことではないが、講釈師はなんでも知らないことがない。
     講釈師が向かったのは、大門通りを超え、人形町通りに近い双葉商店であった。日本橋人形町二丁目四番地九。「うちのは特性麹を使ってますからね。」店先の歩道にはベンチを置き、既に仲間も含めて十人近い人が腰かけて甘酒を飲んでいる。本来は明治四十年創業の豆腐屋で、ガンモドキやオカラを売っている。この店の甘酒は二百円であった。
     「酒飲みのヤマチャンも甘酒なんか飲むのか。」「俺はそんな大酒飲みじゃないよ。酒は好きだけど。」私と宗匠、碁聖以外は、ここで甘酒休憩タイムに入ってしまった。「大の男がこんなオンナコドモの飲み物を。」「それは差別用語だわ。」「警察に捕まっちゃうよ。」こんなことで逮捕されるとは誰も思わない。百円のカップを手にした姫たちも追いついた。「いいのかしら、別のお店のカップをもって。」風も少し止んで、日差しが温くなってきた。

    甘酒を囲めば和む春日和  午角
    春昼やしばし語らふ甘酒屋  閑舟

     隣のお茶屋「森乃園」(大正三年創業)からは、ほうじ茶を炒る香りが漂ってきて、私はこっちの方が良いな。「そこの鯛焼きも有名ですよ。」マリオが教えてくれるのは斜向かいにある大正五年創業の柳屋だ。日本橋人形町二丁目十一番三。それにしても、どうしてこんな店を知っているのだろう。私は不思議で仕方がない。東京三大鯛焼きというからお恐れ入る。こちらは誰も買わなかった。

       人形町通りを越えて「玉ひで」の方に真っ直ぐに行くのかと思っていると、宗匠は左に曲がる。水天宮に行くのだろうか。「水天宮には行かない。」ここに来たら人形焼きを買わなければだめだと、講釈師に言われたらしい。
     実は私は水天宮にも行ったことがない。今は社殿改築中で、浜町三丁目に仮宮が設けられているらしい。それなら先月、妻と嫁は仮宮の方に行ったのだろうが、そんなことは何も言っていなかった。
     「そこにさ、カラクリ時計がある。」櫓の形の時計台は平成二十一年に建てられた。「あっちにもあります。」通りを挟んで二基設置されている。
     水天宮交差点角にあるのが目指す店だった。「重盛の人形焼きですね。旨いけど高い。」そうか、マリオは甘党だったのだ。重盛永信堂。日本橋人形町二丁目一番一。講釈師は買わない。「なんだ、言った本人が。」「浅草とおんなじね」という声はいくつも聞こえたが、買ったのはシノッチだけだろうか。
     そもそも人形焼きとは何物なのか、私はこんなことも知らない。調べてみると、カステラに餡を入れて焼いたものらしい。それでなくても甘いカステラに、わざわざ餡を入れて更に甘くする了見が分からない。田舎者の食い物ではあるまいか。重盛の人形焼きは一個百二十円で、他の店に比べても一層甘いらしい。人形焼では、ほかに甘酒横丁の亀井堂、人形町通りの板倉屋などが有名だということだが、いずれも私には縁なき店である。
     信号を渡ってもう一度人形町通りを戻る。「あれ、今向こう側を来たばかりじゃないの。」「人形焼きは予定外だった。」
     「こっち曲がるんじゃないの。」「まず、案内板を見てから。」交差点の脇に「蛎殻銀座跡」の案内板があるのだ。日本橋人形町一丁目五、六、七、十七、十八番までの地域にあった。

     江戸の銀座は慶長十七年(一六一二年)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、その百八十八年後の寛政十二年(一八〇〇年)六月に、寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治二年(一八六九年)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。(案内板より)

     銀座の移転は京橋銀座における不正摘発が発端だった。寛政十二年六月(一八〇〇)、上納銀の滞納など不正行為が発覚し、銀改役の大黒長左衛門八代目常房は家職放免、京都銀座から大黒作右衛門十代目常明が江戸へ招致され、京都および江戸両座の銀改役を兼任することとなった。
     金座も銀座も実は民間企業の請負だった。請け負った業者は自己責任で金銀を仕入れ、貨幣に鋳造してその利益の中から運上金を納める方式である。純度を加減すればいくらでも不正が可能であった。
     この結果、それまで五十人を越えていた座人は十五人に縮小され、蛎殻銀座に移転したのである。表間口十五間、奥行三十五間五尺、面積五百三十七坪五合。京橋とほぼ同規模だったという。
     「玉ひで」は宝暦十年(一七六〇)創業の店だ。本来の屋号は「玉鐵」で、明治三十年(一八九七)に五代目を継いだ秀吉に因んで玉秀と呼ばれるようになった。
     十一時だと言うのに、店の前にはもう行列ができている。行列ができる店は嫌いだ。「何を食べるのかしら。」ランチタイム(十一時半から十三時まで)の数量限定の親子丼が目的であろう。「この店は親子丼を発明したって言ってるんだ。」「あら、そうなの。」しかし「元祖親子丼」は千五百円、「匠親子丼」は二千円するから、私が入る店ではない。たかが親子丼に、こんな金を払う了見が分からないのは貧乏人のひがみ根性であるが、私にも言い分がある。
     親子丼にしろカツ丼にしろ、丼物とは要するにぶっかけ飯であり下賤な食い物である。下賤だから不味いと言っているのではない。私は丼物が大好きだ。しかし手近にある材料を適当に按配して美味い物を作るのが、下賤の栄光ではないか。

     明治二十年頃、鳥寿喜の〆に肉と割下を卵でとじてご飯と共に食されたお客様がおりました。この鳥寿喜の卵とじを「親子煮」と称します。明治二十四年、玉ひで五代目秀吉の妻〝とく〟の発案により、この「親子煮」を食べやすくする為にご飯の上に乗せ一品料理としたものが「親子丼」の始まりです。
     (玉ひで「親子丼誕生物語」)http://www.tamahide.co.jp/tanjo.html

     鳥寿喜はトリスキと読むのだろう。ほかに、明治三十六年に大阪の料亭「とり菊」が考案したという説、映画監督の山本嘉次郎の父が考案したという説がある。「誰だって簡単に思いつくだろう」とスナフキンは一刀両断する。確かに、既に鳥スキがあり卵がある以上、それを飯にぶっかけるというのは誰でも考え付くことだ。
     「喫茶去快生軒」の前で宗匠の足が止まる。店先の看板には大正八年創業とある。向田邦子が常連として通った店らしい。東野圭吾『新参者』の舞台にもなっているらしい。三十年前にはこんな喫茶店はどこにでもあったのに、今では貴重な場所になってしまった。ドアに「本日禁煙」の札が貼られているのは不思議なことだ。
     谷崎潤一郎生誕の地。日本橋人形町一丁目七番十号(ツカコシビル)。当時の住所表示は蛎殻町二丁目十四番地で、ここも銀座の跡地である。ビルには牛しゃぶ・豚しゃぶの「にんぎょう町 谷崎」が入っている。「店のロゴと、生誕地の碑の文字は谷崎の最後の夫人松子の筆になります。」「ヘーッ、最後の夫人だって。」
     だからと言って、この店が谷崎と縁戚関係にあるのではないらしい。生誕地を利用して店名にしたのだ。丸谷才一は『文章読本』の中で、谷崎は松子の纏綿たる恋文に触れて、和文脈を完成したのだという説を書いた。
     「何回目の奥さんだい。」最初は佐藤春夫に「譲渡」した千代子。佐藤春夫の『秋刀魚の歌』は、千代子がまだ谷崎と別れることが出来ないでいる時だった。その頃谷崎は千代子の妹のせい子(『痴人の愛』のナオミのモデル)と同棲していた。
     二番目が文藝春秋の編集者で二十歳も年下の古川丁未子で、これは短かった。そして三番目が根津清太郎と離婚した森田松子だった。
     松子の四人姉妹の生活を描いたのが『細雪』だ。私は谷崎の小説が苦手で、『細雪』も途中で投げ出してしまったが、今回初めて手に取った『幼少年時代』は面白い。

    ここでちょっと、その活版所の位置と、附近の町の様子とを説明しておく必要があるが、戦争前に、都電が鎧橋の方から来て、水天宮の角を曲がって、人形町通りを小伝馬町の方へ伸びていく左側、――つい去年あたりまで残っていた甘酒屋の向こう側の、清水屋という絵草子屋と瀬戸物屋の角を曲がった右側の、二つ目の角から西へ二軒目のところにその家はあった。この清水屋は今は玩具屋になり、瀬戸物屋は代が変わって「ちとせ」という佃煮屋になり、二階に鳥屋の「玉秀」が越して来ているそうであるが、私の生まれた活版所の跡は、現在は空地のままになっているとやら。(谷崎潤一郎『幼少時代』)

     佃煮の「ちとせ屋」は今でも甘酒横丁交差点の角にあって、紫花豆というのが名物らしい。ここは潤一郎の祖父の久右衛門が活版印刷所を経営していた場所で、巌谷一六の隷書の看板が掲げられていた。近くに米穀取引所があって、その日の相場をいち早く刷って売り捌く商売だ。
     潤一郎は明治十九年(一八八六)七月二十四日にここで生まれた。同年齢に松井須磨子、石川啄木、吉井勇、萩原朔太郎、平塚らいてう、岡本一平、藤田嗣治、山田耕筰、藤村操などがいる。啄木が早熟早逝だったために、潤一郎と同年とは気付きにくい。
     久右衛門は大島の「釜六」の総番頭から独立して財を築いた。釜六と言えば、小名木川を歩いた時、釜屋堀には立ち寄っている。潤一郎の父は婿養子で、久右衛門が二十一年に亡くなった後、やはり久右衛門の事業だった日本点灯会社を任されたが経営の才がなく、明治二十二年に人手に渡すことになった。日本点灯会社というのは人夫を何人か雇って、当時石油ランプだった街灯に点灯して回る会社だ。
     その後は蛎殻町を離れて浜町、南茅場町等を転々としたが、潤一郎が尋常高等小学四年を卒業する頃にはいよいよ身上が傾いた。当時の小学校は尋常科四年、高等科四年で、高等科二年修了で中学受験資格があった。それを高等科四年まで行ったというのは、中学進学が考えられていなかったということである。父は潤一郎を丁稚奉公に出すつもりだったが、小学教師の強い後押しもあって府立一中へ進むことが出来た。

     木挽町に團十郎菊五郎ありし日の明治よ東京よわが父よ母よ  潤一郎

     谷崎は、関東大震災によってふるさとは消滅したと観念したのである。そして関西に移住し、かつての東京下町の風情を残す町に再会した。
     二つ目の角のユニコム人形町ビルのエントランス付近にクジラのオブジェが置いてある。こんなところになぜクジラがいるのか。

    鯨と海と人形町
    作 松橋 博
      中田浩嗣
    あやつり人形のバネは今でも鯨ヒゲが使われています。
    特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。
    ここ人形町一帯は寛永十年(一六三三)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集り、江戸町民の芝居見物が盛んでした。
    そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから、昭和八年、正式に人形町という地名になりました。

     さっき浜町緑道の弁慶像の所で調べたのと同じ内容が書かれている。「クジラが獲れなくなったらどうするんだろう。」ヤマチャンがそんな心配をする。調査捕鯨で一定量は捕獲できるから、文楽人形に使う程度は大丈夫なのではないか。
     道を隔てた向かいの角には魚久本店がある。私は知らなかったが京粕漬が有名らしい。粕漬なんか食わないから私が知らないのは当たり前か。隣のビルとの境の植え込みに沈丁花が咲いている。香りが高い。もう沈丁花の季節なのだ。
     魚久の隣は学校のような建物だ。「幼稚園だぜ。」「小学校だと思った。」ちょうど駐輪場から自転車を出そうとしているご婦人に訊くと、小学校と幼稚園が併設され、図書館も入る建物であった。平成二年(一九九〇)、十思小学校と東華小学校を統合してできた日本橋小学校である。日本橋人形町一丁目一番十七号。日本橋幼稚園、日本橋図書館、プールを併設している。「スゴイですね。」その校舎の前に「西郷隆盛屋敷跡」の案内板が立っている。

     西郷の犬引き連れて沈丁花  蜻蛉

     元は姫路酒井雅楽頭屋敷跡で、日本橋人形町一丁目一番、日本橋小網町十四番・日本橋蛎殻町一丁目十番~十三番にまたがる広大な屋敷だった。明治四年から、六年の征韓論敗北で下野して鹿児島に帰るまでの間、西郷はここに住んだ。

     明治六年(一八七三)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町一丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に十五人ほどの書生を住まわせ、下男を七人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。

     魚久に戻ると、角を曲がった辺りにも西郷屋敷跡の碑が立っている。ここを曲がって次は小網神社だ。日本橋小網町十六番二十三号。稲荷堀(とうかんぼり)稲荷とも呼ばれた。元は小網山稲荷院万福寺であったが、明治の神仏分離で小網稲荷神社となった。かつてはもっと広い境内だったのだろうが、ビルに挟まれ窮屈そうな形になってしまった。鳥居の右側には六角堂のような由緒ありげな建物が残っているが、左は新築の三階建てで、社務所兼住居になっているようだ。「風情がないな。」日本橋七福神の弁天だ。
     「そこに銭洗い弁天があります。」講釈師は一所懸命五百円玉を笊に入れて洗っている。「洗えば増えるのかな。」「倍になるんだよ。」ちょうどお参りに来たらしい若い女性二人が私たちを見て、「随分大勢ね」と驚いている。
     神社を出て左に歩き、蛎殻町交差点で右に曲がって新大橋通りに出る。「稲荷堀は、案内板もなくなっていたので寄りません。」既に埋め立てられた道で、かつてあった案内板にはこんなことが書かれていた筈だ。

     小網町と蛎殻町一丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は掘割になっていました。その河岸の端に稲荷神社があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えています。
     この地域は、この堀を利用して、各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集り、特に瀬戸物問屋の多かった所です。堀の出入口にあった行徳河岸は、寛永九年(一六三二)以来、この堀と下総(千葉県)行徳村とをむすんできました。この水路は行徳からの塩の受入地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを積んだ船が出入りする賑やかなところでした。

     稲荷からとうかん堀の名が生まれ、今度は逆に稲荷がとうかん堀稲荷と呼ばれると言う不思議な循環が生まれたのだ。
     茅場橋の北詰は小さな公園になっていて、濃く鮮やかな紅梅が満開だ。梅の香りが嬉しい。「この川は何ですか。」ヤマチャンが訊いてくるので地図を示しながら、これは日本橋川だと説明する。「そうか、やっぱり地図を持ってくるべきだね。」
     橋を渡って右に曲がれば電燈供給発祥の地だ。日本橋茅場町一丁目三番地十。「相鉄フレッサイン」の敷地に碑がある。

    明治二〇年(一八八七)十一月二十一日、東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、同月二十九日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始しました。これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、三十馬力の横置汽機を据付け、二十五キロワットエジソン式直流発電機一台を運転したもので、配電方式は電圧二一〇ボルト直流三線式であります。

     谷崎潤一郎の父が点灯会社を人手に渡したのが明治二十二年のことだったから、電力供給が始まったとは言いながら、まだ街灯は石油ランプが主流だったである。

    街路樹に雀たわむれ春近し  午角

     ここで昼食だ。十一時半。さっきから少し腹が減ってきたところだった。宗匠が予約してくれたのは、七十七銀行と向かい合う角にある「本家いなせ屋 茅場町店」である。日本橋茅場町一丁目四番地九。店名の「いなせ」は鯔背である。魚河岸の若衆に流行した髷の形が鯔背に似ていたことから、勇み肌で格好いい男の形容になった。「こういう髪型ですか。マリオが指差したのは月代を伸ばした浪人頭の定九郎の絵だから、それは違う。江戸の身分制度は外見を規制したから、まともな職業をもった者は月代を剃らなければならない。
     一階奥の細長い座敷に案内された。テーブルが五つ並び、ちょうど二十人が上手く席についた。注文受付は奥から始まり、私、マリオ、ドクトル、スナフキンの席が四番目。あんみつ姫、ハイジ、マリー、ダンディが最後だ。
     料理はテーブルの順番に出されたから、講釈師が三番目だということが問題なのだ。「また急かされちゃうわね。」メニューを見ると、普通の蕎麦は百五十グラムで、大盛り三百グラム、特盛四百五十グラムが無料で選べる。
     マリオはカツ丼と蕎麦のセットを選び、私は鶏の照り焼き丼のセットにした。蕎麦の薬味に生姜がつくのが珍しい。ダンディ、ドクトルは大盛りを選ぶ。年齢の割に実に良く食べる人たちだ。ハイジ、姫、マリーの丼は大きいが、大盛りではない普通のたぬき蕎麦だったようだ。
     早く食べ終わった講釈師も無理に急かすことがなかったか、女性陣もゆっくりできたろう。十二時二十分に店を出る。

     永代通りに出ると、みずほ銀行茅場町出張所脇に「其角住居跡」の小さな碑があった。日本橋茅場町一丁目六番十号。この住居跡は『江戸名所図会』にも紹介されている。

    俳仙宝晋斎其角翁の宿 茅場町薬師堂の辺りなりといひ伝ふ。元禄の末、ここに住す。すなはち終焉の地なり。
    按ずるに、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」といふ句は、其角翁のすさびなる由、普く人口に膾炙す。よつてその可否はしらずといへども、ここに注して、その居宅の間近くをしるの一助たらしむるのみ。(『江戸名所図会』)

     宝井其角、旧姓は榎本を名乗っていた。その其角の家と徂徠の家とが隣り合わせだった形跡は確認できないらしい。其角は寛文元年(一六六一)江戸堀江町に、近江国膳所藩御殿医の竹下東順の長男として生まれた。芭蕉の門に入ったのは延宝二年(一六七四)、芭蕉三十一歳、其角十四歳の時である。早熟の才で蕉門十哲の筆頭と称された。「大高源吾とのやり取りは有名だね。」「それってなんだっけ。」

     年の瀬や水の流れと人の身は  其角
     あした待たるるその宝舟    子葉(大高源吾)

     歌舞伎や講談でお馴染みだが、実際にあった出来事だと言う保証はない。ただ、其角が大高源吾や富森助右衛門(春帆)、神崎与五郎(竹平)と親しかったのは間違いない。元禄十六年、四十七士の新盆に泉岳寺を訪れたが墓参は許されず、「亡魂聖霊、ゆゆしき修羅場のくるしみを忘れよと」三人を偲んだ。
     「其角の句って、なんだか不思議な派手なものが多いですよね。」姫も結構、江戸の俳句を読んでいるらしい。「大胆なんだ。」偉そうに言っているが、私だって柴田宵曲『蕉門の人々』を読んだ程度だ。

      鶯の身を逆に初音かな  其角

     「絵柄が浮かびますよね。」姫の感受性は鋭い。許六は「天晴、近来の秀逸」と称賛したが、去来は、この句は嘘だと断じた。幼鶯は身を逆さまにはしない。春も盛りにならないとこんな姿は見られないので、「初音」と言うのは嘘だというのである。

    凡物を作するに、本性をしるべし。しらざる時ハ珍物新詞に魂を奪ハれて、外の事になれり。魂を奪るゝは其物に着する故也。是を本意を失ふと云。角が功者すら時に取て過有。初學の人慎むべし。(『去来抄』)

     去来は写実主義の権化であり、其角は敢えてフィクションを厭わなかった。柴田宵曲『蕉門の人々』によれば、蕪村を筆頭に、天明期の俳句には其角の影響が大きいと言う。

    切られたる夢は誠か蚤の跡  其角
    去来曰く、其角は殊に作者にて侍る、わづかに蚤の喰付たることを誰か斯くは云ひ尽くさんと云ふ。師曰くしかり、かれは定家の卿也、さしてもなき事をことごとしく云ひつらね侍るときこへし評詳なるに似たり。(『去来抄』)

     性格は派手磊落で、侘び寂びにも縁遠い江戸っ子気質であったが、その才を定家に比す程、芭蕉ははっきり認めていた。

     この句は其角が母の喪に籠っていた元禄三年六月十六日の作で、「怖ろしき夢を見て」という前書がある。『五元集』の前書に「いきげさにずでんどうとうちはなされたるがさめて後」とあるのは、自らその夢の内容を詳にしたのであろう。実際のところは悪夢から覚めて後、身体に蚤の食った跡を見た、というまでで、生袈裟に斬放された夢と、蚤の跡とは直接何の関係もあるわけではあるまい、ただ平凡に甘んぜざる其角は、悪夢を見、また蚤の跡を見るという小さな事実を、頭から打下ろすような調子で、この一句に仕立てたのである。(柴田宵曲『蕉門の人々』)

     大酒のみで吉原に入り浸りだったと言う。おそらくそのせいで、妻子にも去られ早く死んだ。宝永四年(一七〇七)、享年四十七である。ついでだからいくつか句を引いておこう。

     夕立や田を見めぐりの神ならば   其角
     猫の子のくんづほぐれつ胡蝶かな  同
     越後屋にきぬたさく音や衣替    同
     鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春  同

     「私は次の鎧の渡しで失礼します。」そうか、姫は半日券だった。茅場町交差点から平成通りに曲がりこむ。「あそこに神社が見えますよ。」道路の向こう(東側)に、ビルに挟まれた参道が見えるのが日枝神社で、寛永年間、山王祭りの御旅所に決められた摂社だ。「山王ってどこの。」「赤坂の。」今は日枝神社と呼ばれているが本来は山王権現である。「上方じゃ日吉って書くのに、関東に来ると日枝になる。」どちらも当て字には違いないが「ヒエ」と読み、つまり比叡山の地主神のことである。

    永田馬場山王御旅所 茅場町にあり。遥拝の社二宇並ひ建てり、寛永年間この地を御旅所に定めらるる、といへり。(一宇は神主樹下氏持なり、一宇は別当観理院持なり。)隔年六月十五日御祭礼にて、永田馬場の御本社より、神輿三基。このところに神幸あり、仮に神殿を儲け、供御を献備し、別当は法楽を捧げ、神主は奉幣の式を行ひ、夜に入て帰輿なり。その行装、榊・大幣・菅蓋・錦蓋、雲の如く、社司社僧は騎馬に跨り、あるいは輿に乗し、前後に扈従す。諸侯よりは神馬・長柄鎗等を出されて、途中の供奉厳重なり、又氏子の町々よりは、思ひ思ひに練物、あるひは花屋台、車楽等に、錦爛緞子などのまん幕をうちはへ、おのおのその出立花やかに、羅綾の袂、錦織の裔をひるがへし、粧ひ巍々堂々として善美を尽くせり、この日、官府の御沙汰として、神輿通行の御道筋は、横の小路々々には矢来を結はしめて、往来を禁ぜらる。まことに大江戸第一の大祀にして、一時の壮観たり。(『江戸名所図会』)

     ここに寄っても良かったかも知れない。「山王祭の行列は見たことがあります。どこまで歩くのかなって。」姫は好奇心旺盛だ。
     鎧橋手前の東京証券取引所の前で、「以前はドーム型だったんだよ」と講釈師が声を出す。「ほそこにあるだろう。」歩道の煉瓦の敷石に青いドーム型の建物のパネルが嵌め込まれていた。日本橋川に架かる鎧橋が鎧の渡跡だ。

    茅場町牧野家の後ろをいふ。このところより小網町への舟渡しを、しか唱へたり。往古は大江なりしとなり。里諺にいふ、永承年間(一〇四六~五三)源義家朝臣、奥州征伐のとき、このところより下総国に渡らんとす。ときに暴風吹き発り、逆那天を浸し、すでのその船覆らんとす。義家朝臣、鎧一領をとつて海中に投じ、竜神に手向けて、風波の難なからしめんことを祈請す。つひに、つつがなく下総国に着岸ありしより、このところを鎧が淵と呼べりとなり。(『江戸名所図会』)

     ここから一キロほど川を下れば永代橋に着く。そして隅田川の東岸は下総国だったのだから、義家が「このところより下総国に渡らんと」したのも頷ける。案内板には『江戸名所図会』の絵が採用されていて、それを見ると対岸には蔵が立ち並んでいる様子が分かる。姫はここで別れていった。「さくら水産で復活しようかと思ったんですが、遅くなりそうなので。」

     相場師が消えて風吹く兜町  午角

     姫が相場師と言うわけではない。兜町に入り、画伯は相場師が活躍した昔を懐かしんでいるのか。
     東京証券所を左にみて川沿いに少し北上すると、日証館の隣、高速道路の下に小さな兜神社がある。日本橋兜町一番八号。明治十一年五月、東京株式取引所設立にあたり、その鎮守として創祀された神社だが、江戸時代から兜塚があった場所である。「これかな。」大きな岩の前に、「兜岩」と彫られた小さな石が立っている。この小さな方は表札のようなものだろうね。

    兜塚 同所(茅場町)海賊橋の東詰、牧野家の庭中にあり。源義家朝臣、奥州征伐凱陣のとき、先の報賽のため、かつは東夷鎮護のためとして、日本武尊の古き例に準ひ、みずからの兜を一堆の塚に築き籠めたまひしとなり。いまその傍らに、義家朝臣の霊を鎮る小祠あり(『紫の一本』といへる双紙に、「甲山とありて、藤原秀郷、平将門を討ち、その首を冑とともに持ち添へきたりが、冑をばこの地に埋めたる」とあり)。(『江戸名所図会』)

     「いつ頃なの。鎌倉時代かな。」将門か八幡太郎か分からないが、どちらにしても平安時代で、古い塚があったのだ。
     いきなり突風が吹き、宗匠の資料が飛ばされた。「ビル風かしら。」「そうだろうね。」風が吹くと寒さが戻ってくる。

    突風に煽られ地図が道案内  午角

     銀行発祥の地。日本橋兜町四番三号。現在はみずほ銀行兜町支店になっているが、元は牧野家屋敷跡だ。明治五年(一八七二)八月、三井や小野などの財閥によって第一国立銀行が設立されたのである。壁には渋沢栄一の像、初代建物、二代建物、三代建物の写真が掲げられている。
     「民間なのに『国立』っていうのが効いてますね」と若旦那が笑いかけてくる。国法によって設立されたという意味だったが、国が御墨付きを与えたと思い込んだ人も多かったかも知れない。当初は兌換紙幣の発行権を持っていたが、日本銀行が設立されるとその権利を剥奪された。
     兜町歴史地図が掲げられていて、それを見ると、この建物は楓川(昭和四十年に埋め立て)に面していた。日証館が渋沢栄一の屋敷だった。幼かった谷崎潤一郎は鎧橋の欄干にもたれながら、お城のような渋沢邸を眺めていた。
     この角を右に曲がると、高速道路の手前の三田証券の敷地に開運橋親柱が立っていた。植え込みで半分ほど隠れてしまっている。日本橋一丁目二〇番先。高速の下にももう一つ柱が立っているのは、この幅で川が流れていたということか。楓川が日本橋川に合流する地点の橋だったが、埋め立てられたのである。
     かつて橋の東詰に向井将監の屋敷があったことから、海賊橋とも呼ばれていた。と言っても深川で向井将監の菩提寺前を通った時、誰もその名を知らなかった。御船手奉行(海賊奉行とも言う)、つまり幕府海軍の総司令官である。「開運」と呼ぶようになったのは明治以後のことだ。
     ヒトツバタゴの木が立っている。「ナンジャモンジャか。」「この木肌が特徴だね。」

     昭和通りに入ると、日本橋郵便局の通用口に前島密の銅像が立っていた。郵便発祥の地である。中央日本橋一丁目十八番地一。「一円切手だったかな。」確かそうだったと思う。四月から切手料金も端数が生じるから一円切手の需要も増える筈だが、まさか前島密のものを復活させるのではないだろう。
     前島密は慶応二年(一八六六)に「漢字御廃止之議」なんていう恐ろしい建白をした人物であり、それは評価できない。漢字廃止論、ローマ字論のいずれも、日本人の国語能力をあまりにも低く見積もっていた。しかし前島の建議によって、明治四年(一八七一)に近代郵便制度が生まれた。郵便、切手、葉書は前島が定めた用語である。
     駅逓司(郵政省に当たるか)と四日市郵便役所(後の東京中央郵便局)がここに設置されたのだ。駅逓頭が前島だ。「中央郵便局っていうから、東京駅の方かと思ってたよ。」「そうね、有るわよ。記念切手を買いに行ったわ。」残念ながら、明治四年には東京駅周辺は大名屋敷が荒れ果てた野原が広がっていただろう。
     ここで「四日市」と言う地名が出てきたので確認しておく。『江戸名所図会』に「四日市 江戸橋と日本橋との間、川より南の方の大路をいふ。」とある。眼の前は江戸橋、西に二三分で日本橋だから、まさにこの地域だ。

    昔は、四日市場といひし村にて、いにしへは、いまの繁華のごときことなければ、万の賈衒(商店)も、市をなして交易せざれば得難し。(中略)このところも、昔は毎月四の日に市を立てしところなりとぞ。ゆゑに、いまもその遺風にて、草物または野菜の類、その余乾魚などの市ありて、繁盛の地なり。(『江戸名所図会』)

     少し南に下って路地に入る。「あれ、何なの。」たいめいけんの周囲を大勢の人が囲んでいる。日本橋一丁目十二番十号。何を食うためにそんなに並ぶのだろう。「こっちまで並んでるわ。」「スゴイね。」
     先日テレビを見ていると、昭和六年創業、オムライスで有名なこの洋食屋を紹介していた。驚いたのはラーメンをやっているということだ。たいめいけんに来て、わざわざラーメンを食おうと言うのはどういう了見だろうか。ボルシチが五十円だとも言っていた。私は来たこともないから関係ないけれど。
     その向かいの日本橋関谷ビルの脇に回ると、コレド日本橋の敷地に「漱石名作の舞台」(早稲田大学第十四代総長・奥島孝康識)という石が置かれている。日本橋一丁目四番一号。

    江戸っ子漱石はロンドンを舞台にした作品にも日本橋を言挙したほどだ。青春小説「三四郎」、倫理探求の名作「こころ」には、ここの路地の寄席や料理屋が描かれている。
      平成十七年六月吉日

    早稲田大学第十四代総長  
     奥島孝康 識  

     「奥島さんだぜ。」早稲田の総長になる前に図書館長だったこともあって、スナフキンは面識がある。しかし奥島氏と漱石の関係は何だろう。「宇和島出身だよな。」私はスナフキンほど詳しくない。宇和島出身の法学者で早稲田では、漱石との接点はないのではないか。取り敢えず『三四郎』と『こころ』を開いてみる。

     その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、
     「どうだ」と聞いた。
      次に大通りから細い横町へ曲って、平の家という看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を呑んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。はなはだ纏綿している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、また
     「どうだ」と聞いた。
      次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店という寄席へ上った。ここで小さんという落語家を聞いた。十時過通りへ出た与次郎はまた「どうだ」と聞いた。
      三四郎は物足りないとは答えなかった。しかしまんざら物足りない心持もしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。(『三四郎』)

     与次郎と言えばPity’s akin to loveの訳だろう。普通に訳せば「憐憫は恋に似ている」とでもいうだろうか。「可哀そうだたあ、惚れたってことよ」はなかなかではあるまいか。秋田の中学生は感動したのです。

     三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物をお嬢さんの肩から胸へ竪に宛てておいて、私に二、三歩遠退いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
     こんな事で時間が掛って帰りは夕飯の時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご馳走するといって、木原店という寄席のある狭い横丁へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家も狭いものでした。この辺の地理を一向心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。(『こころ』)

     木原店は当時有名な寄席だったようだ、他に天麩羅屋、蕎麦屋、汁粉屋などが並び、食傷新道と呼ばれたらしい。
     「名水白木屋の井戸」碑も立っている。日本橋一丁目四番一号。現在はコレド日本橋という高層ビルになっているが、平成十一年に閉店した東急百貨店(旧白木屋本店)跡ということになる。

    江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。
    正徳元年(一七一一)、白木屋二代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌二年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。
    白木名水は湧出してから数百年の時を経て消失しましたが、江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡です。この「名水白木屋の井戸」の石碑は江戸時代の呉服商を継いだ白木屋デパート、東急百貨店と続く長い歴史の後に、日本橋一丁目交差点角にあったものを、平成十六年(二〇〇四)ここに移設再現したものです。

     白木屋は京都の小間物屋・呉服屋で、寛文二年(一六六二)に江戸に進出し、越後屋、大丸と並ぶ江戸の三代呉服店となった。
     「白木屋って、例のズロースだろう。」必ず思い出すのは昭和七年の火事で、和服で下着を着けない裾の乱れを気にして、多くの女性が命綱から手を放して転落したという伝説だ。死亡者十四人のうち、死んだ女性は八人いた。

    具体的に一人一人の状況を見てみると、八人のうちの二人はロープを使って壁から下に降りている際、煙に巻かれてロープを離してしまい、転落死している。
    そして別の一人はロープが焼き切れて転落死、別の一人はロープで降りている最中、建物の一部にひっかかってロープを離してしまい、転落死、そしてもう一人は雨樋(雨どい)をつたって下へ降りていたが、途中で手の力が限界となり、転落死している。
    そして自分の意思で七階から飛び降りた女性たちが三人いた。このまま焼かれて苦しみながら死ぬよりも、いっそ飛び降りて死のうという、助かるか助からないかという選択ではなく、死ぬ方法を選択しなければならないという、極限まで追い込まれての飛び降りであった。http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/061shirokiya.htm

     つまり、着物の裾を押さえたことで死んだ女性の存在は確認できない。どうやらズロースを普及させようとするマスコミの誇大報道だったようだ。そして一般にズロースが普及するのは終戦後のことだと言われる。
     ここからは真っ直ぐ、昭和通りと中央通りの間、高島屋の裏の道を行く。小さなギャラリーや骨董店が目立つ通りだ。八重洲通を超えたところに歌川広重住居跡の案内板があった。中央区京橋一丁目九番地。

     浮世絵師歌川広重「安藤広重」(一七九七~一八五八)が、嘉永二年(一八四九)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。広重は、幕府の定火消組同心安藤源左衛門の長男として、八重洲河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消屋敷で生まれました。
     十三歳のとき父母を失い、父同様定火消同心になりましたが、文化八年(一八一一)十五歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
     天保三年(一八三二)霊岸島の保永堂から出した「東海道五十三次」以来、風景画家として著名になり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之内」等を遺しています。特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町(京橋)と呼ばれていたこの地での代表作です。
     住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家屋敷の隣にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。

     更に真っ直ぐ行き、鍛冶橋通りに入ると正面右に国立近代美術館フィルムセンターの建物が見える。「余り目立たなくなっちゃったね。」左には宝町駅が見える。鍛冶橋通りも越え、首都高速の手前で右に曲がる。中央通りの角が警察博物館だ。中央区京橋三丁目五番一。当初の計画には入っていないが、おそらく時間調整かねて三十分の見学時間が設けられた。「トイレもありますから。」
     四階までが見学できる。「私は二階までしか行ったことがないな。」ダンディも折角ここまで来て中途半端なことである。取り敢えず四階まで上がろう。四階は音楽隊と鑑識のコーナーだ。ディスプレイに向って、一心不乱にゲームをしている連中もいるが、何をしているのかは謎である。 三階は殉職警官の顕彰と、制服の移り変わり、二階は東京警視庁の歴史を展示する。
     私は警視庁の創立者、川路利良大警視の写真を見たのが収穫だった。意外に童顔である。私は山田風太郎『警視庁物語」でしか川路のことを知らないが、大久保利通のミニチュアで、もっと冷徹な雰囲気をイメージしていたのだ。

     休憩も終わり、京橋の親柱、煉瓦銀座之碑を見て信号を渡る。江戸歌舞伎発祥の地。京橋三丁目四番先。随分凝った形の大きな碑で、勘亭流で「江戸歌舞伎発祥之地」とあり、説明する文字は、大谷竹次郎のものだ。

    寛永元年二月十五日 元祖猿若中村勘三郎 中橋南地と言える此地に 猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し 斯石を鎮め 国劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
          昭和三十一年七月
              江戸歌舞伎旧史保存会

     「櫓を上ぐ」とは芝居興業が公式に認められたということで、これが江戸四座の始まりとなった。講釈師は頻りに江戸三座と言うが、最初は中村座(中村勘三郎)、市村座(市村羽左衛門)、森田座(守田勘彌)、山村座の四座があった。しかし山村座は絵島生島事件で取り潰され、三座になったのである。

    中村勘三郎(初代) 山城の武士中村勘兵衛の次男。出自の異説として中村一氏の末弟・中村右近の孫の勘三郎と同一人物だという説もあるが、定かでは無い。
    兄の狂言師:中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、その経験を生かして、生涯の傑作、舞踊『猿若』を創作したという。
    元和八年(一六二二年)江戸に下る。寛永元年(一六二四年)二月十五日、猿若勘三郎と名乗る。同年江戸市内の中橋南地に芝居小屋「猿若座」を建て座元となる。三月に興行開始。これが江戸における常設歌舞伎劇場の始まりとなる。
    『猿若舞』が江戸中の人気を集める。寛永九年(一六三三年)、勘三郎は幕府の御用船「安宅丸」回航の際に船先で木遣り音頭を唄い、将軍家より陣羽織を拝領する。その後しばしば将軍家に招かれ『猿若舞』を躍り名声を獲る一方、中村座の焼失や奉行所からの取り締まりにも悩まされる。
    明暦三年(一六五七年)の明暦の大火では中村座を失い、五月江戸を離れて一時故郷の京に上がる。京では後西天皇の御前で『猿若舞』『新発智太鼓』を子の中村勘治郎(のち二代目猿若勘三郎)とともに上演。褒美にビロード地に丸に三つ柏紋の羽織、勘治郎には「中村明石」の名をそれぞれ賜る。九月に江戸に帰り中村座の経営と役者業を勤めたといわれている。
    万治元年(一六五八年)に死去。(ウィキペディア)

     碑の文の上の左右には狂言役者の上半身がかたどられている。『江戸名所図会』にも「猿若狂言之古図」の絵があり、その二人の格好と同じだ。どうやら歌舞伎と言うより、正に狂言の舞である。
     「あれは何なの。」京橋大根河岸青物蹟市場跡碑である。「この辺りは市場が集中していたんだよ。」「ヤッチャバか。」

    京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場で、江戸八百八町の住民たちに新鮮な野菜を提供していました。別名「大根河岸」とも呼ばれ、明治、大正と続き、関東大震災(大正十二年九月一日)の前まで続いていました。関東大震災以後、区画整理や都市再編成で大根市場は野菜市場となって、神田、築地へと移り今日に至っています。昔を偲んで、京橋大根河岸青物市場跡の記念碑が建てられました。
    https://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/nihonbashi/nihonbashi_25.html

     中央通りを北に向かい鍛冶橋通りに入る。不思議なオブジェが建っている。旧片倉館(片倉工業京橋本社)エントランス上部にあったオブジェをそのまま歩道に置いてあるのだ。裏面には京橋の歴史と、かつての風景写真が掲載されている。中央京橋三丁目一番一。
     解体後に建てられた目の前の建物は東京スクエアガーデンで、一階のカフェが外にもテーブルを広げている。この寒いのに外で椅子に座ってくつろぐ人がいるのが不思議だ。脇にはベビーカーが置いてある。「赤ん坊も寒いだろう。」しかし中にいるのは犬だったようだ。
     鍛冶橋交差点に近いところに千葉定吉道場跡があった。八重洲二丁目八番先。TAISAY YAESU BUIDING前だ。以前は東京駅の方から来たと思う。この辺りが桶町だったろうか。「平手造酒もここで修業したのかな。」画伯は「腕は自慢の千葉仕込み」なんて口ずさむ。お玉が池の玄武館の方だったと思う。
     宗匠は、私の作文に「見つからなかった」と書いてあったというが、なんとなく記憶がある。調べてみると、あんみつ姫が企画した第三十九回「元祖『銀ブラ』と時代のターニングポイントを辿る編」で来ていたのだ。坂本竜馬のことも千葉さな子のこともその時に書いた。

     宗匠は八重洲南口の高速バスの乗り場辺りから地下に下りて行く。「階段を間違えると全く分からなくなってしまうんだ。」私は二度と来られないかも知れない。ラーメンの「遊亀亭」(八重洲地下街北一号)の隣に、ヤン・ヨーステンの首の載った台が置かれているのである。なんだか晒首のような恰好で、表情はルネサンスよりも前の肖像画の雰囲気だ。
     宗匠はもう一度地上に出る。後ろから声がかかった。「コースが終わったのなら解散したいって。」ダンディが女性陣の代弁をするが、ヤン・ヨーステンはもう一か所あるのだ。「そうですか、それなら行きます。」
     実は私は三浦按針の碑と勘違いしていた。確か路地に入って行く筈だと思っていたが、宗匠は全く違う方向に歩いて行く。八重洲通りと中央通りの交差点、日本橋三丁目交差点の東京駅寄りの中央分離帯に記念碑があった。羅針盤を二つ組み合わせた形で、左にはさっきみたヤン・ヨーステンの頭部、右にはオランダの帆船リーフデ号のレリーフが彫られている。「同じものよね。」これがオリジナルなのだろう。作者はオランダ人のプラートと言う人である。

     日蘭修好三八〇周年記念碑
     日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まった。慶長十四年(一六〇九年)平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、鎖国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな礎になった。
     とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修好三八〇年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。
            一九八九年四月二〇日  東京都中央区

     中央分離帯には不思議な塔も建っている。中央区の平和の鐘だ。

     中央区は一九八八年(昭和六十三年)三月十五日に世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し「平和都市宣言」をいたしました
     段上の三角形のアーチはこの宣言を記念するモニュメントとして設置したものです
     この平和の鐘はオランダ製で二十六個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます

     まだ三時だが、宗匠はここで解散を宣言する。宗匠は、希望者は喫茶店で休憩しようという思惑だったが、講釈師を始め女性陣はさっさと反対方向に去って行った。「エーッ、行っちゃうの。」
     予定が狂ってしまうと、宗匠が考えていたさくら水産はまだ開いていない。「前にさかなや道場に行ったよね。」「やってるかな。」一本北の通りに入れば居酒屋の看板はいくつも見える。「その白木屋はどうだい。」四時開店だった。「そこでいいじゃないか。」既に開いているのは「美少年」である。八重洲一丁目八番地九。大衆居酒屋だが全国チェーン店ではないらしいので、若干高くなるかも知れない。「美少年」と言えば熊本の日本酒であろう。
     「美少年」は田原坂の「右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年」なのだろうが、私はどうしても「天草四郎美少年、ああハマナスの花も泣く」なんて歌の方を思い出してしまう。タイトルは『南海の美少年』(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)、歌は橋幸夫だ。「銀のクロスを胸にかけ踏絵怖れぬ殉教のいくさ率いる南国の・・・・」である。
     「今日はどのくらい歩いたのか。」宗匠、スナフキン、ヤマチャン、マリーの万歩計を総合的に比較して一万一千歩と決まった。六キロ程度か。そんなに歩いたわけではないのに、何故か私を含めてみんな疲れた顔をしている。
     お姐さんの営業的スマイルに負けて、宗匠は刺身の盛り合わせを二皿も注文してしまう。「このキビナゴは酢味噌で食べてください。」「焼き鳥は」「私の分だけ抜いてください。」自家製薩摩揚げ、野菜サラダ、冷奴、漬物。他にも何か注文したようだが覚えていない。テーブルがすぐにいっぱいになってしまった。焼酎は島美人を二本。六時過ぎでお開きになった。一人五千円なり。

    蜻蛉