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    第五十二回 生麦事件・東海道神奈川宿編
    平成二十六年五月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.05.29

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     旧暦四月十二日。初夏である。七時五十一分発の乗るために、にBSの『花子とアン』が始まる前に家を出た。このドラマを見るまで、村岡花子と柳原白蓮がこんなに親しかったなんて知らなかった。なかなか啓蒙されるドラマである。池袋からは田端で京浜東北線に乗り換えるコースを選んだが、新宿・渋谷・品川を経由しても時間的には変わらない。予定通り鶴見には九時半に着いた。
     鶴見線には初めて乗るのでなんとなく東口の方に向かっていると碁聖の顔が見え、「こっちですね」と促してくれる。西口の脇にある改札を通ると四十分発の電車は既に待っている。「誰か仲間がいるんじゃありませんか。」碁聖の声で車内を覗いてみると、目の前の車両からロダンが手を振っている。ロダン、宗匠、ヤマチャン、クルリン、マリーが乗っていたのだ。「大丈夫ですか、体調は戻ったの?」ヤマチャンが笑いながら訊いてくるが、二週間前の酔いを引き摺っている筈はない。
     「同じJRでしょ。改札がある意味がわかんない。」分からないことは調べなければならない。鶴見線はすべて無人駅のため、ここで乗り越し等の精算をする必要があるのだ。走り出して二分で国道駅に着くと、先頭の車両からハイジも降りてきた。「時間が早かったから海芝浦に行って来たの。知ってるでしょ?」知らない。何しろ初めて乗る路線だ。「有名なのよ。」ハイジが有名だと言う海芝浦駅はこういうことだったらしい。

     テレビ番組でも度々採り上げられ、フジテレビ系列で放送されていた「交通バラエティ 日本の歩きかた」で紹介されたり、NHKの番組「列島縦断 鉄道乗りつくしの旅〜JR20000km全線走破〜」で紹介された際、旅人の関口知宏は本来入れない東芝工場の敷地内に入って説明を受けていた。
     また、書物にも取り上げられている。笙野頼子の芥川賞受賞作『タイムスリップ・コンビナート』は「誰だかよくわからない人」からの電話で呼び出されて電車に乗って海芝浦駅へ向う様子を描写したものである。鉄道紀行文作家・宮脇俊三は、『時刻表2万キロ』の旅で初めてこの駅を訪れた後、「どこか旅へ行ってみたいが遠くへ行く時間のない人は、海芝浦駅へ行ってみると良い」とたびたび書いていた。西村京太郎は『運河の見える駅で』という題名で小説を書いている。内容は、日曜日に海芝浦駅を訪れたカップルが事件に巻き込まれる、というもの。
     二〇一二年公開の『僕達急行A列車で行こう』では、小玉健太とその父が鉄工所について話しているときのシーンに使われた。(ウィキペディア「海芝浦」より)

     宮脇俊三の『時刻表2万キロ』は随分前に読んでいるが、そんなことは全く覚えていない。東芝の構内だから一般客は外に出られない。但し東芝が敷地の一部を整備して作った公園が隣接していて、その中には入れるらしい。東京湾を一望できる場所で、だからハイジはわざわざ立ち寄ってきたのだ。
     ホームの階段を降りると、高架下の薄暗い改札口は確かに無人だった。改札の外はアーチ型天井をもつ古いガード下で、地下道みたいな不思議な雰囲気である。
     リーダーのスナフキンは「昨日はお通夜で、また飲みすぎちゃったよ」とぼやいているが、お通夜があろうがなかろうが、飲みすぎはいつものことである。あんみつ姫、小町、クルリン、ハイジ、マリー、ヨッシー、講釈師、ダンディ、ドクトル、ヤマチャン、マリオ、碁聖、宗匠、ロダン、蜻蛉。十六人とは私の予想より多かった。小町は遠い所にずいぶん久し振りにやって来てくれた。「朝、家を出るとき暗くなくなったからね。」
     「国道って不思議な駅名ね。」「そこに国道が走っているからですよ。」今日は出発前にダンディが講釈する。この路線は工場街の中を走っていて、ダンディも若い頃住んでいたそうだ。「浅野は浅野総一郎、安善は安田善次郎の名前を付けたんですよ。白石もそうだ。」そういう駅名があることさえ知らない。そう言えばマリオもこの辺は詳しいだろう。「海芝浦には一年ほど通いました。」ウィキペディアで確認しておくか。

     鶴見臨港鉄道の開業当時この路線は埋立地上にあり、沿線には地名が存在しなかった。このため、鶴見線の駅のほとんどは実業家や土地所有者、周辺の工場などから取られた名前が付けられている。鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥創設者で鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管(現在のJFEスチール)の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋が扇であったことに由来する。その他の駅でも、国道十五号が近くを走るから「国道」、昭和電工扇町工場の近くにあったことから「昭和」、東芝石油精製所の近くにあったことから「石油(後の浜安善)」、芝浦製作所(現在の東芝)の工場に隣接するから「新芝浦」「海芝浦」、曹洞宗の大本山である総持寺の近くにあったことから「本山(廃駅)」など、あまりにそのままな命名がされた例ばかりである。(ウィキペディア「鶴見線」より)

     それにしても国道駅の雰囲気は異様だ。黒澤明監督『野良犬』のロケ地として使われたことがあるというように、確かに終戦後の雰囲気が濃い場所だ。駅の構内というものはなく、改札の外は南北に繋がる高架下で、トイレも男女共用のものが一つあるだけだ。今日のコースにはトイレが少ないというスナフキンの言葉で、ほぼ全員がここで用を足す。待っている間にこの高架下を少し探索しなければならない。
     お酒とお食事「とみや」の看板は残っているが、営業している形跡はない。今でも営業しているのは「やきとり 国道下」という一軒だけで、ここは知る人ぞ知る昭和レトロの駅であった。レトロなんてあまり使いたくない言葉だが他に言いようがない。こんな時間から準備を始めるのだろうか、店の女将らしい女性がやって来て店内に入って行った。
     神奈川県公認「三宝住宅社」の看板は昭和四十年代でもなかなかお目にかかれなかったような代物で、入り口は自動販売機が塞いでいる。気づかなかったが、その脇のコンクリート壁には、空襲時の機銃掃射の残痕が残っていると言う。昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で、襲来したのはB29が五一七機、P51が百一機、死者は八千から一万人に及んだ。
     「何だ、通り抜けられますだよ。」こういう場所は誰でも何となく探検してみたくなるようで、碁聖、講釈師、マリオと一緒にちょっと空いている隙間を覗いてみる。焼け跡闇市、フィルムノワールなんて言う単語が浮かび、唐突に赤木圭一郎のメロディが流れてくる。

    霧の波止場に 帰って来たが
    待っていたのは 悲しい噂
    波がさらった 港の夢を
    むせび泣くよに 岬のはずれ
    霧笛が俺を呼んでいる(『霧笛が俺を呼んでいる』水木かおる作詞・藤原秀行作曲)

     連想は渡哲也に及ぶ。流れ者には女はいらない。女がいちゃあ歩けない。今日は赤木圭一郎か若き日の渡哲也の雰囲気で歩いてみようか。
     高架下を通り抜けて、国道とは反対側に出て南に歩き始める。ヤマチャンが、「ホントに市場があったのかな」と呟いているが、私はスナフキンの「連休中に資料を良く読め」という指示を守らず殆んど読んでいなかったので、そういうものがあったことすら気づいていない。確かに道の両側には魚屋が目立って多い。
     ここは旧東海道、生麦魚河岸通りと呼ばれている通りだ。店は四五十軒あって早朝は鮨屋、料理屋への卸しで賑わっているそうだが、今の時間では売れ残りを個人客向けに商っている程度だろうか。それでも何軒か開いている店頭にはサザエ、アワビなんかも並んでいる。
     かつて生麦村は、江戸城に鮮魚を献上する御菜八ケ浦の一つに指定されていた。生麦の他の七浦は、芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦・子安新宿浦・神奈川浦(現在の神奈川)で、鮮魚納入と引き換えに江戸湾内における漁業特権を与えられていた。
     明治以降、大規模な埋め立てと工場地帯の拡大によって地場の漁業は圧迫されてきたが、ここではかなりしぶとく生き延びてきたようだ。特に戦後の闇市がこの魚河岸通りを形成した。地元の業者のHPを見つけたので引用してみる。

    第二次大戦後、東京湾でイワシの豊漁が続き漁師たちは、それを生麦に押し寄せてくるヤミ業者に売りさばき、生活をしていました。この「ヤミ市」こそが、現在の魚河岸通りの起源となり、この頃、沖買いされたサバや三崎、小田原、伊東から買い集められた魚も販売されるようになりました。
    昭和三十年代頃になると、戦後の復興、経済発展、生活向上の社会状況の変化に応じて、取り扱う魚介類も高級、多様化し、すし屋、料理屋がたくさん集まるようになりました。しかし、埋め立ての拡大、水質の悪化により、漁師の数は年々減り、昭和四十年代半ばで姿を消してしまいました。しかし、魚河岸通りだけは残り、今も存在しています。
    現在、旧東海道の一部分約三百メートルにかけて四十ほど店舗が並び、そのほとんどが生鮮魚貝類店または関連の商品を扱う店舗であります。地元横浜、川崎を中心にすし屋、料理屋といった食のプロが仕入れに来ます。しかし、一般の方も利用でき少量でも買うことができます。(横芳商店http://yokoyoshi.com/namamugi.html)

     街道から左に、民家の間の狭い路地に入ると潮風が香ってきた。「海の匂いだ。」宗匠も声をかけてくる。路地の角には釣宿「黒川分家」がある。「ご主人がお世話になってるんでしょう」とロダンが姫に声をかけた。あんみつ姫のご主人は釣りが好きだと聞いている。「今日も房総の方にタイを釣りに行ってるんですよ。」
     外壁にトタンを貼った家が多い。モルタルと半々程度ではないか。「トタンは暑いのよね。暑いって聞いたわ」とハイジが言い、「潮風で木は腐るんだよ」と講釈師も相槌を打つ。トタンなら張り替えれば済むから安価で済む。ただ、もしかしたらトタンではなくサイディングと言う外壁材かも知れない。
     路地を抜けると目の前は海ではなく、鶴見川の河口で貝殻浜と名付けられた干潟だ。鶴見区生麦五丁目地先。設置された案内図には、源流から四十二・五キロとある。「鶴見川の源流ってどこだったかな。」これは『江戸名所図会』に書いてある。

     ・・・・水源は多摩郡小野路・都築郡長津田、および橘樹郡馬絹の辺より発して、恩田川・早瀬川・矢上川・鳥山川・佐江戸川の川々落ち合ひ、鶴見村に至る。ゆゑに、鶴見川の号あり。

     貝殻浜の名の通り、道路から降りると地面は砕けた貝殻でできている。水は意外に綺麗だ。「ボラが跳ねたよ。」キラキラ光る水面を眺めてみたが、私には見えなかった。

     夏めくや干潟を埋める貝白く  蜻蛉

     川を隔てて見える建物は、スナフキンによれば市立横浜サイエンスフロンティア高校だ。「自然科学に特化した高校です。」「若いうちから専門に特化しちゃダメなんだよ。」ヤマチャンは職業柄こう断定する。私はこんな高校があるなんて全く知らなかった。

     横浜港が開港百五十周年を迎える二〇〇九年(平成二十一年)に、理化学研究所横浜研究所や横浜市立大学連携大学院などが立地する、京浜臨海部研究開発拠点「横浜サイエンスフロンティア地区」の一角に設立された。市立高校としては三十年ぶりの新設高校。設立予算九十五億円。初年度の受験倍率は五倍を越え、県下公立高校で最高倍率となった。
     五人のスーパーアドバイザーを助言者に迎えるほか、「科学技術顧問」として五〇人を超える大学・大学院や企業の研究者等外部専門家のサポートを受け る。先端科学技術四分野(生命科学、ナノテク・材料、環境、情報)の「ほんもの体験」をきっかけとした「驚きと感動による知の探究」を教育の理念として、 先端科学技術の知識を活用して、世界で幅広く活躍する人間の育成を目指す。横浜市教育委員会より「進学指導重点校」に指定されている。
     二〇一二年(平成二十三年)には国際地学オリンピックで二期生の生徒が金メダルを受賞した。(ウィキペディアより)

     もう一度旧街道に戻る。「生麦の由来ってなんでしたかね」とロダンが記憶を辿ろうとしていると、「調べたわよ」とマリーがニヤニヤしている。「将軍がね、通った時に道がぬかるんでたんですよ。それで村人が街道脇に生えていた生の麦を刈り取って敷いたんだって。」「そうか、読んだ記憶がある。」私はそんなこと初めて知った。確かにウィキペディアにはそう書いてある。しかし貴重な食物になる麦を、農民がそんなに簡単に刈り取るなんて発想をするだろうか。念のために横浜市のサイトを開いてみると、その説もあるがもう一つの説も紹介されている。

     生麦は貝の名産地で、生の貝をむく「生むき」が転じて生むぎとなったともいわれている。また、徳川二代将軍秀忠がこの辺りを通った時、道がぬかるんでいたので、名主が機転をきかせ、畑の生麦を刈り取って敷き、行列を無事に通過させたので、生麦と呼ぶようになったともいわれている。
     生麦の路地には白い貝殻道が残っている。(「横浜市鶴見区 鶴見の歴史」)
     http://www.city.yokohama.lg.jp/tsurumi/information/introduction/sasshi/rekishi.html

     次は道念稲荷だ。横浜市鶴見区生麦四丁目二十七番十八。参道の入口には提灯を飾る枠組みが据えられていて、上からソケットがいくつも垂れ下がっている。その奥に笠木だけが黒い朱塗りの鳥居が立ち、そこから奥に小さな鳥居が重なるようにいくつも並ぶ。
     鳥居の両脇に立つ地蔵は、寛文八年(一六八八)と明和三年(一七六六)のものだ。「顔はすっかり磨り減ってるわね。」ハイジがやさしく地蔵の顔を撫でる。その隣では、講釈師がしきりに石燈籠の凝った透かし彫りを褒めたてる。竿は龍が巻き付いた形で、中台には十二支が浮き彫りにされているのだ。そして火袋には獅子がいる。
     案内に、ここは「蛇(ジャ)も蚊も」発祥の地だと書いてある。萱で二十メートルもの大蛇を作り、悪疫退散、豊漁祈念の願いを込めて村中を練り歩く祭りだ。「どこかでも蛇は見ましたよね。」ロダンの言葉通り、大蛇を作って悪霊退散を願う風習は各地にある。問題は「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」の文句である。蚊はどういう理由でここに出てくるのか説明はされていない。また「出たけ」は「出ていけ」の意味だと推測されているが、これも詳細は分からない。かつては旧暦端午の節句の行事で、明治以降、太陽暦の六月の祭りとなった。
     それなら私が下手な推理を試みてみよう。三百年前に悪疫が流行ったために始まったというのは、おそらく口承の伝説で、この季節の食中毒への対策である。勿論食中毒なんて概念はないから、ひたすら悪霊退散を祈るほかはない。それなら萱の大蛇は夏越しの茅の輪と似たような発想だ。茅は悪霊を追い払うと信じられていたのではないか。「蛇も蚊も」は単なる囃子言葉で、漢字は後から宛てたものだろう。

     「ここです」とスナフキンが立ち止った。民家の塀に「生麦事件発生現場」の案内板が取り付けられているのだ。英国人四人が最初に斬り付けられた現場である。鶴見区生麦四丁目二十五番。当時ここは豆腐屋兼質屋の村田屋勘左衛門宅であった。「こんな所だったんだ。」私はずっと、生麦は人家もまばらな寒村だったのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、御菜浦の漁師町として戸数二百八十二軒、人口千六百三十七人、商店の種類も多かった。川崎宿と神奈川宿の間でかなり賑わう集落だったのである。
     これまで生麦事件を余り真面目に考えずに済ましていたのは不明の至りだった。今回スナフキンが企画してくれたお蔭で随分勉強になった。「読めっていうから読んだけどさ。挫折しちゃったよ。」それでも小町が吉村昭『生麦事件』を読もうという気になったのは、スナフキンの企画の効果である。
     この事件によって薩英戦争が勃発し、結果として薩英同盟が結ばれ、やがて薩長同盟にまでいきつくのだから、幕末維新期の画期をなす事件だったのである。「水戸人はそこまで考えなかったからな。」水戸は天狗党事件を引き摺って内部抗争に明け暮れ、維新の時には有為な人材が殆ど失われてしまったのである。それにしても、ロダンを見ていて幕末期の水戸人のあの異常な過激さは想像できない。
     スナフキンは事前に膨大な案内資料を作成してくれていた。事件の概略はそれで分かるのだが、詳細を知りたければ吉村本やスナフキンが紹介するいくつかの文献に当たって貰えばよい。薩英戦争については、萩原延寿『遠い崖 ― アーネスト・サトウ日記抄』も詳しい。来日早々だったサトウは、生麦事件それ自体には案外冷ややかな態度をとっている。
     文久二年八月二十一日(一八六二年九月十二日)、島津久光の行列に四人の英国人男女が馬を乗入れ、一人が殺された。案内板には錦絵と、当時の村名主の関口日記からの引用が載せられている。

    島津三郎様御上リ異人四人内女壱人横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処追被欠壱人松原ニ而即死外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当役員一同桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候

     奈良原喜左衛門に右肩口から脇腹まで斬られたリチャードソンは、内臓をはみ出させて一丁ほど走ったところで久木村利休に再び同じ場所を斬られ、現在のキリンビール工場前で落馬した。「楽にしてやる」と止めを刺したのは海江田武次だ。
     尊王攘夷の時代ではあるが、薩摩だって外人を見れば何でもかんでも殺したのではない。事件が起きる少し前、行列に際会した米国人のユージン・ヴァン・リードは、馬を降りて道端に寄せ、脱帽して敬意を表したから何事もなく済んでいる。とすれば、これは斬られた側にも問題があっただろうと普通には考える。
     萩原延寿『遠い崖』から、清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルースの証言を引用しておこう。

    リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきに避けるしかなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である

     アメリカ公使ブリュインの報告には次のような部分もある。

    マーシャルとクラークは、先頭を行くリチャードソンに向かって、馬を停めて脇道に避けろと叫んだが、リチャードソンはこれを聞かず、「俺に任せておけ。中国で十四年も暮らしてきたから、こういう連中の扱い方はよく知っている」と答えたというのである。

     上海で中国人苦力を相手にしたと同じ感覚で日本にやってきたのである。イギリス帝国主義が生んだ典型的な無頼漢ではないか。東洋人を甘く見ていたのである。
     斬られたマーシャルとクラークは辛うじて神奈川宿にある本覚寺のアメリ領事館に逃げ込み、ボロデール夫人は横浜の居留地まで走って助けを求めた。この事件で最もバカを見たのは幕府であった。イギリスに賠償金十万ポンド(二十四万千二百両)を支払い、薩摩にも六万両を貸し付けた。勿論返済されることはない。そして薩摩は公武合体政策から急速に討幕へと舵を切って行く。
     住宅地の路地を抜け小さな神明社に着く。鶴見区生麦三丁目十三番三十七。ここにも「蛇も蚊も」の説明が立っている。元々は道念稲荷がオス、神明社がメスの蛇を作り、集落の境界で闘わせた後に海に流したという。今ではそれぞれが別個の祭りとして運営されているらしい。「喧嘩したのかな。」謎である。そして今では蛇は海に流せず、燃やすことになった。
     隣の公園では、空に張り巡らした針金に吊るした鯉幟が風で靡き、その下で家族連れが遊んでいる。「フグかと思ったわ。」一匹の鯉の尾が折れて頭と一緒になっているのでフグかマンボウみたいに見える。「お雛様はすぐにしまわなくちゃいけないのに、鯉幟はいつまででもいいんですか?」姫の質問に「いいんじゃないの」と講釈師が答えている。縁起担ぎにはこの程度の適当な対応が正しいかも知れない。

     生麦の蛇も蚊も出たけ鯉幟  閑舟

     街道に戻る。「お風呂があるよ。」銭湯が好きな講釈師だ。炭酸温泉「竹の湯」で、大人四百五十円だ。「高くないか。」「そんなものでしょう、炭酸温泉なら安いんじゃないですか。」
     マンションの敷地前の空き地には切妻屋根の真新しい祠が建ち、生麦事件碑が収めてある。本来は二百メートルほど西にあったのだが、高速道路工事のために一時的にここに移転しているのだ。「触っちゃダメだ。」石碑に触ろうとしたドクトルを講釈師が叱咤する。石碑が老朽化しているので線香は遠慮してくださいという札が下げてある。線香の煙でさえ石に悪影響を与えるのか。それなら触るなんてとんでもないことだ。

    旧蹟
    文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜殞命千此処及鶴見人
    黒川荘三所有之地也荘三乞余誌其事因為之歌々曰」
    君流血兮此海懦我邦変進亦其源強藩起兮
    王室振耳目新兮唱民権擾々生死疇知聞萬
    國有史君名傳我今作歌勒貞珉君其含笑于
    九原
      明治十六年十二月
      敬宇 中村正直撰

     「これ(力査遜殞)でリチャードソンって読むんだ」と、ロダンが感嘆の声を上げる。リチャードソンの流血が「我邦変進亦其源」だと中村正直は言う。黒川荘三がどういう縁で中村正直に依頼したのか、そもそも黒川荘三とは何者であろうか。「黒川荘三所有の地」というからには、名主クラスの豪農だろう。

    黒川荘三は、弘化三年(一八四六)生まれで、明治五年(一八七二)から明治二十一年まで鶴見村の副戸長・戸長を勤め、明治二十二年から二十五年まで、明治二十七年から昭和五年(一九三〇)まで四十二年間、鶴見神社の宮司を務め、大正二年から昭和五年まで寺谷の熊野神社の宮司も兼務した。
    黒川家は、旧東海道筋、現在のマルハチ文具店の辺りで薬屋「鶴居堂」を営み、咳の特効薬「苦楽丸」が街道名物となり、漆塗りの金看板を掲げて大繁昌。代々四郎左右衛門を名乗り、村役人も勤めていた。鶴園の祖父宗園は、鶴見村の水田を潤すために潅がい用のため池(成願寺の三ツ池)を造り寄附するなど、村人の生活向上に尽力した。(中略)
    黒川荘三は、生麦事件碑をはじめ、總持寺境内にある見返し坂碑や手枕坂碑、諏訪坂公園にある諏訪坂碑など、鶴見の坂ごとに手製の道標を建てた。また、鶴見の年中行事や史跡・名勝起源・生麦事件・田祭りなど、幕末から明治時代の鶴見の様子を書きとめた手記『千草』全八巻を残している。(http://www.townnews.co.jp/0116/2013/03/28/181690.html)

     「あれは何ですか。」「オリンピックに合わせて高速を作ってるんでしょう。」つまりこの碑が仮移転する原因になった工事だ。私はこういうことに全く疎いので、ウィキペディアを参照するしかない。

     横浜環状北線は、首都高速道路の建設中の路線である。第三京浜道路 港北ICから首都高速神奈川一号横羽線 生麦JCTまでの八・二キロを結ぶ路線である。横浜市を環状につなぐ構想(横浜環状道路)の一部である。二〇一六年度供用開始予定。事業計画は横浜市道高速横浜環状北線。
     横浜環状道路はこの北線と、戸塚から保土ヶ谷バイパスと交差して港北に至る西側区間、及び国土交通省と東日本高速道路株式会社によって建設が進められている横浜環状南線(釜利谷 - 戸塚)からなる。西側区間は構想のままで長らく進展がないが、港北から東名高速道路を結ぶ横浜環状北西線(総延長七・一キロ)は二〇一二年度に事業化された。
     なお、横浜環状北線の関連街路として、新生麦出入口と接続し、国道一号(第二京浜)と東京大師横浜線(産業道路)を結ぶ都市計画道路岸谷生麦線が整備される。

     生麦駅前通りに入ってすぐに左に曲がる。ただ生麦事件参考館はこの連休で閉館してしまったので、外から見るだけだ。鶴見区生麦一丁目十一番二十。私はスナフキンのおかげで閉館直前に浅海武雄氏の話を聞くことができて、とても有難かった。私財を投じて事件を追い続けてきた浅海武雄氏に敬意を表して、下記の記事を引用しておこう。

     日本の近代国家幕開けのきっかけとなった一八六二(文久二)年の生麦事件。語り部として後世に伝える役割を担ってきた「生麦事件参考館」(横浜市鶴見区生麦)が五月三日に閉館する。自宅敷地の建屋で二十年間にわたって館長を務めてきた浅海(あさうみ)武夫さん(八十四)が、自身の体調不良を理由に決断した。千点以上ある資料はこのまま保管する予定で、「一度は閉館するが、何らかの形で再開したい」と話している。
     京急線生麦駅近くで家業の酒店を継いでいた浅海さんに、転機が訪れたのは四十六歳のときだった。
     鹿児島から訪ねてきた客を、自宅近くにある「生麦事件の碑」まで道案内した。数日後に礼状が届いた。「なぜ資料が見られる場所が地元の生麦にないのか」と書かれていた。
     薩摩藩士が英国人を殺傷した歴史的事件について「地元なのに全く関心を持ってこなかったことを反省した」。以来、浅海さんは事件の研究に没頭し始めた。
     休日は古書店を巡って関連文献を探し、国内外の大学や博物館からも資料収集した。六十四歳から早稲田大で近代史も学び直した。リフォームを機に自宅敷地に「参考館」を建て、一九九四年にオープン。地元の歴史愛好家らによるボランティアの協力も得て、月平均三百人を案内した。(「神奈川新聞」四月四日)

     スナフキンの情報では、参考館は今後もボランティアによって運営されることが決まったようだ。
     ここで生麦駅から京急線に乗って神奈川新町まで出るのだが、駅前には若者が大勢たむろしている。「キリンに行くんじゃないの?」キリン横浜ビアビレッジの工場見学会か。「そこで昼飯でもよかったね。」しかし見学ツァーには定時というものがある。
     各駅停車で終点の神奈川新町に降り、第一京浜(国道十五号)沿いに少し東に戻る。道路沿いにはラーメン店、中華料理屋が何軒も並んでいる。「激戦区だな。」その中でスナフキンが予約したのは大連食府だ。神奈川区浦島町五丁目四番四十四。十一時半を少し回ったところで、スナフキンの計画通りに進んでいる。
     店内はかなり広く、私たちが席についてもまだ充分に余裕がある。朝、貝殻浜で、一番から八番までのメニューから選んで既に予約をいれてある。ニラレバ炒め、四川風鶏肉の唐辛子炒め、豚肉とキャベツの味噌炒め、ラーメン+半チャーハン、タンタンメン+半チャーハン、マーボ豆腐丼+ワンタンスープがそれぞれ七百五十円、中華丼+ワンタンスープ、牛バラ肉あんかけご飯+ワンタンスープが八百円である。私はニラレバ定食にした。激戦区だから値段も手頃なのだろう。
     メニューの一番だから一番早く出て来るんじゃないかな。一番ではなかったが、少しして最初にできたのは碁聖が頼んだラーメンとチャーハンのセットで、次が私だったから勘はそれほど悪くなかった。かなり量が多く、味はやや濃い目だろうか。最近、月に一回は食う日高屋の薄味のニラレバ定食(六百五十円)に口が慣れてしまったせいか、かなりしょっぱく感じられる。それにしてもこの量だと碁聖には多すぎるだろう。
     「グラス・ビールがありますよ。」あんみつ姫がダンディを誘惑している。「それは有難い。桃太郎がいないから飲む人がいないと思ってた。」珍しいことに小町とマリーも手を挙げた。昼からアルコールを飲むなんて私には信じられない所業である。それに今日は暑いから、昼のビールは脱水症状を起こしやすい。
     やがて女性陣が一緒に注文したホイコーローもできてきた。「多すぎるわ、桃太郎がいれば助けてもらったのに。」その声が届いたか、いきなり桃太郎が現れた。「寝坊しちゃったんですよ。」「あっ、桃太郎だ。嬉しい、助けてね。」桃太郎がニラレバ定食を注文すると、すぐに姫からは、小皿に取り分けられたホイコーローとご飯が桃太郎に回されてきた。「これじゃ注文しなくても良かったな。」
     「まだですか?」講釈師がせっつくと、「今すぐです」と慌てた声が返ってくる。やがて講釈師のタンメンも桃太郎のニラレバも運ばれてきた。ドクトルはあんかけご飯を一所懸命食べている。「結構食べますね。」「我々の世代はご飯を残すことに非常に抵抗があるんだ。」それでも二口ほどのご飯が残ってしまった。無理はしなくてよいのである。さすがの桃太郎も、姫からのお裾分けと合わせれば多すぎたようで、少しは残さなければならなかった。確か彼は以前ダイエットをしていた筈だが、今は大丈夫なのだろうか。
     料理に文句はないが、この店の難点はトイレが一つしかないことだった。勘定を済ませた後も並んで、ようやく最後に私が店を出た。

     まずスナフキンが向かったのは、駅の南東側にある神奈川通東公園だ。神奈川区新町十六番地。「神奈川宿歴史の道」の案内図が掲示されている。洒落た積りで、平面ではなく柱に沿って途中で二回折れ曲がるようになっているから、地図を一枚の写真に収めることができないのが難点だ。もっと単純にしてもらいたい。
     ここが神奈川宿の江戸側の入口で、寛永八年(一六三一)から昭和四十年まで間、浄土真宗長延寺があった場所だ。昭和四十年に国道の拡幅工事が行われて、寺は移転を強いられたのである。幕末にはここにオランダ領事館が置かれたが、石碑が一つ立っているだけで偲ばせるものは何もない。尤も、当時はすぐそばまで海岸線が来ていたことを思えば、往時を回顧したくてもできないのは当たり前だ。ビールを飲んで気分が良くなったのか、姫は何かの歌を歌っている。

     初夏の風街道行かば酔心地  蜻蛉

     次は真宗大谷派の良泉寺だ。横浜市神奈川区新町二十二。マリーはこれが我が家の宗旨だと気付いただろうか。領事館に割り当てられるのを拒んで、当時の住職が屋根を剥がして修理中だと主張したと言う。境内に見るべきものはないが、かなり古い幹の曲がった樹木を、セメントや樹脂で補修しているだけが話題になる。
     寺の角を曲がると、京急本線の向こうの高台に見えるのが笠のぎ神社だ。「のぎ」は禾に皇と書く。横浜市神奈川区東神奈川二丁目九番一。天慶年間(九三六~九四七)の創建と伝える。由緒では、社前を通る旅人の笠が脱げ落ちてしまうので笠脱ぎと呼ばれたが、現在の文字に替えられたと言う。「笠」は「瘡」だったろう。「瘡」のひとつは天然痘であり、もう一つは梅毒である。こういうものは神仏を頼むしかなく、「瘡脱」を祈念したのである。
     境内に入って左には、大きな板碑が屋根つきの祠で丁寧に保存されている。「緑泥片岩ですかね。」明らかにそう見える。秩父の石を使った武蔵型板碑(青石塔婆)である。半分に割れてしまったものを繋ぎ合わせ、両脇からコンクリートの柱で支えてある。頭部が山形で二条の筋が入り、高さは一七五・二センチと大きい。独特な書体の大きなキリーク(阿弥陀如来)の下の蓮の花の部分で割れている。中央やや下の天蓋から梵字で南無阿弥陀仏と刻まれ、その両脇に細長い柱のように描かれているのが五輪塔を変形したものらしい。水輪が異常に細長いので、言われなければ五輪塔とは気づきにくい。阿弥陀一尊と五輪塔の組み合わせは珍しい図柄だと思う。
     割れた部分の中心が穴になっているようだ。「真実の口みたい。」「オードリ・ヘップバーンですね。私はちゃんと手を入れましたよ、講釈師はどうですか?」「俺は、アレがバレちゃいけないから手を入れなかった。」「私もダメでした。怖くって。」この小さな穴からローマの「真実の口」を連想するとは、なんという想像力であろう。ローマに行った人がこんなにいるのにも驚いてしまう。
     もう一度、京急本線を渡って線路沿いに歩く。「またお寺があるじゃないか。」「この辺は寺だらけだよ。だけど中には入らないよ。」能満寺。高野山真言宗。神奈川区東神奈川二丁目三十二番一。『江戸名所図会』には「海運山能満院」として立項してあるから、有名な寺だったのではないか。「読めますか?」「芭蕉だね。」「ホント?」門前の卵型の句碑は、右端の行に「はせお翁」と大きくあるではないか。高野山にある句碑の写しで、私は高野山でこの句碑を見た。

     父母のしきりにこひし雉子の聲  芭蕉

     「聞いたことあります」と姫も言う。貞享五年(一六八八)、伊賀上野で父の三十三回忌の法要を済ませた芭蕉が、高野山に上って詠んだ句である。「高野山真言宗は関東では珍しい。」ダンディのいう通り、古義の真言宗は珍しい。私が古義真言宗に出会ったのは一度だけで、御室派の寺をどこかで見たことがあった。
     隣には神明社が接している。「アマテラスオオミカミがこんな粗末な神社だなんて」とダンディがおかしなことに憤慨する。勿論神明宮の祭神はアマテラスだが、しかし案内板にあるように、「牛頭天皇の御神体が現れ洲崎神社及びこの神社に祀ったとの伝承」があるとすれば、本来は牛頭天王社だったかも知れない。

    神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。
    「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(一二九九)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係があったことを伺わせる。
    かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現われ、洲崎大神およびこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷神社には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)

     案の定、祭神は素盞嗚尊、大日孁尊(オオヒルメ=アマテラス)と並んでいる。スサノオは牛頭天王と習合しているから、まさにここは牛頭天王社である。
     神奈川小学校(横浜市神奈川区東神奈川二丁目三十五番一)の校庭の角に、神奈川宿の分間延絵図のパネルが掲げられている。
     神奈川宿は日本橋から七里、三番目の宿場で、家数は千三百軒、六千人の規模である。神奈川町と青木町からなり、町の境には滝野川が流れていた。「それに比べて横浜はどうしようもなかった」とダンディが言うが、宿場でもなければただの寒村であったのは当たり前だ。だから比較的影響がないよう、横浜を開くことにしたのである。
     上無川の説明には『江戸名所図会』の説を引いてあるので、原本に当ってみよう。

    上無川 本宿中の町と、西の町との間の道を横切りて、流るる小溝を号く。このところに架す橋を上無橋と称す(橋の長さ二間にたらず)。つねは水涸れて、わづかの小流なり。水源定かならざるゆゑに、上無川といふ。すなはち、神奈川の地名の興る所以にして、後世、美・志の二字を略して、かな川とはいひけるなり。(略)(『江戸名所図会』)

     つまり、「かみなしがわ」から「み」と「し」が抜けて「かながわ」になったのである。これと同じで、品川も下無川だったと言う。
     仲木戸駅前の広い通りを渡ると熊野神社だ。神奈川区東神奈川一丁目一番三。「可愛い。」狛犬の表情が可愛いと女性陣には評判が良い。立札には「石造大獅子 狛犬 嘉永年間 鶴見村石工 飯島吉六」とある。
     社殿の奥に回って樹齢四百年の公孫樹を見る。幹の真ん中には洞があり、これでよく生きているものだ。「これだよ、空襲で焼けたんだ。」説明を読めば、慶応四年の大火と昭和二十年五月の空襲に耐えてきた木である。「しぶといな。」ダンディの声に、「そうじゃなくて、健気と言ってください」と姫からクレームがつく。「だけど健気っていうのは、幼い者にむかっていうことばじゃないのかな。」天災人災に関わらず、樹木の意思を超えた大きな力に耐えているのだから、健気といっても良いではないか。

     健気とや古木の若葉青々と  蜻蛉

     すぐ近くに別当寺だった金蔵院(智山派)があるが、そこには寄らない。「無用の者立ち入りを禁ずって書かれてるんだよ。」人の立ち入りを拒否するような寺を信用する気になれない。
     神社を出て少し回り込めば、神奈川地区センター敷地の角に高札場が復元してある。横浜市神奈川区神奈川本町八番地一。レプリカなのだからもう少し文字を濃くしてくれればよいが、文字が薄いので読めない。本来は神奈川警察署西側付近(横浜市神奈川区神奈川二丁目十五番地三)にあったと言うから、第一京浜沿いである。
     「ホラ、上州無宿ロダンって書いてある。」「そんな、私は常陸国ですよ。」なんとなく上州と無宿は語呂の組み合わせが良い。博奕で食えるほど、上州は商品経済が発展していたと考えても良いだろう。
     二枚掲げられた大きな高札のうち、右側は高札というものの単なる説明で、左側が実例である。ざっと見て「馬」とか「貫目」「〆」と末尾の正徳の年号が読めた。「駄賃並人足賃銭之儀」だと思われるので、それならこんなものだったに違いない。これは全国共通の筈だ。


    一駄賃并人足荷物の次第、
    御伝馬并駄賃の荷物壱駄 重サ四拾貫目
    歩もちの荷物壱人 重サ五〆目
    長持壱丁 重サ三拾〆目
    但人足壱人持、重サ五〆目之積り、三拾貫目之荷物
    ハ六人して持へし、夫より軽き荷物ハ、貫目に随て
    人数減すへし、此外何レの荷物も是ニ准へし、
    乗物壱丁 次人足六人 山乗物壱丁 次人足四人

    一御朱印伝馬人足之数、御書付の外ニ多く出すへからさる事、
    一道中次人足・次馬の数、たとひ国持大名たりといふ共、
    其家中ともに東海道ハ一日に五拾人、五拾疋ニ過へからす、
    此外の伝馬道ハ弐拾五人、弐拾五疋ニ限へし、
    但江戸・京・大坂の外、道中におひて人馬共に追通すへからさる事、
    一御伝馬駄賃の荷物ハ、其町の馬残らす出すへし、若駄賃
    馬おほく入時は、在々所々よりやとひ、縦風雨の節と
    いふとも、荷物遅々なきよふニ相斗ふへき事、
    一人馬之賃、御定之外増銭を取におゐてハ牢舎せしめ、
    其所之問屋・年寄は過料として鳥目五貫文宛、人馬役は
    家壱軒より百文宛出すへき事、

    但往還之輩理不人之儀を申かけ、又ハ往還之者ニ対し非
    分の事あるへからさる事、
    右条々可相守之、若於相背は可為曲事もの也、
    正徳元年五月日
    奉行

     この地区センターでトイレが使える。私は入らなかったが、行けば良かった。神奈川宿のジオラマがあったようなのだ。姫が塩飴を配ってくれる。このパッケージが「クマモン」である。「可愛いでしょ。」私はこの手の「可愛さ」が分からない。姫には申し訳ないが、この頃の「ゆるキャラ」ブームは、日本人の知性の衰えを表わしてはいないだろうか。
     ここから少しの間、復元された松並木の道を通る。「これが元々の道幅だったのかな。」「狭いんじゃないか。」道の両側にはマンションが並んでいる。「歩道も含めればどうでしょう。」しかし後で地図を確認すると、京急本線と第一京浜との間を通る道で、旧東海道からは逸れている。松もまだ若い。
     成仏寺(浄土宗)に入る。神奈川区神奈川本町十番地十。「開港の際に外国人宣教師の宿舎に充てられ、ヘボンが本堂に、ブラウンが庫裏に住んだ。「ヘップバーンですよ。」ダンディが厳密に言うように、英語で書けばJames Curtis Hepburnだが、「ヘボン」とは自らが名乗ったのであり、平文とも書いた。米国長老派教会に派遣された医療伝道宣教師である。専門は眼科だ。
     私は、ヘボン式ローマ字、岸田吟香の協力を得て編纂した『和英語林集成』、沢村田之助の左足切断手術くらいしか知らなかったが、ヘボン塾が後の明治学院になる。
     岸田吟香はヘボンに目薬の作製方法を伝授され、「精錡水」として売り出した。元治元年(一八六四)六月、ジョセフ・ヒコ(アメリカ彦蔵・浜田彦蔵)とともに日本初の新聞『海外新聞』を発行したから、日本人初の新聞記者である。慶応四年(一八六八)にはヴァン・リードとともに「横浜新聞もしほ草」を発刊する。ヴァン・リードは先にも触れたが、生麦事件の少し前に島津の行列に際会した人物である。アメリカでジョセフ・ヒコと知り合っていて、日本事情に詳しかった。
     明治七年(一八七四)の台湾出兵の際は従軍記者として「台湾従軍記」を『東京日日新聞』に連載して評判をとった。楽善会訓盲院(現筑波大学付属盲学校)の創設メンバーでもある。活動範囲が広く実に面白い人物だ。日本で最初に卵かけご飯を食べたというエピソードを持っている。岸田劉生はその四男である。
     「これって何?」芝生の中に小さな花が並んで咲いている。ハイジに訊くと「ニワゼキショウよ。漢字は分からないわ」とすぐに教えてくれる。漢字は私が調べた。庭石菖である。小さな花だが綺麗だ。

     川に突き当たって京急を渡れば慶雲寺だ。浄土宗。神奈川区神奈川本町十八番二。門前にカメの背に載った「竜宮伝来 浦島観世音 浦島寺」の石碑が建っている。「亀趺ですね。」姫はちゃんと覚えている。
     『江戸名所図会』では、浦島寺は東子安村新宿の護国山観福寿寺としているから、この寺とは違う。しかし相当のページ数を費やしてあるから、江戸時代にはそちらの方が遥かに有名だったに違いない。その事情を説明する記事を見つけた。

     慶應四年(一八六八)の大火で縁起書は焼失、観福壽寺は廃寺になり、跡地には大正末期に日蓮宗蓮法寺が建ち、浦島太夫・太郎父子の供養塔や亀塚の碑がある。
     幸い、本尊や浦島関係の資料は焼け残り、一キロほど西南の、観福寿寺と所縁のあった慶運寺に、浦島親子の墓と共に移された。
     http://bittercup.blog.fc2.com/blog-entry-609.html

     「浦島なんて、あちこちにある。」確かに浦島伝説は丹後半島、香川県荘内半島、愛知県武豊町、鹿児島、岐阜県中津川、岐阜県各務原市、沖縄など全国に数十カ所ある筈だ。海のない岐阜県にこの伝説があるのは不思議なようだが、おそらく丹後半島辺りから伝播したと考えられる。
     ついでに、廃寺になった観福寿寺の縁起も見ておきたい。

    観福寺
    西側なり。大門前数町の間は年貢地なり。浄土宗宿内慶運寺末、帰国山浦島院と号す。昔は真言宗にて檜尾僧都の開闢なりと云。されどそれはいとふるきことなれば詳なる故を傳へず。後白幡上人中興せしよりこのかた今の宗門に改めしとなり。当寺を浦島寺といひて縁起あり。その文にかの丹波国与佐郡の水の江の浦島が子のことを引て、さまざまの奇怪をしるせり。ことに玉手箱など云もの今寺宝とせり。いよいようけがたきことなり。(『新編武蔵風土記稿』より)

     『風土記稿』の筆者は「さまざまの奇怪」「うけがたきことなり」と断定している。江戸の知識人には浦島伝説など認められるわけがなかった。
     ウィキペディアによる神奈川宿に伝わる伝説では、浦島太郎の父・浦島大夫が相模国三浦半島の人であった。丹後国に行って太郎を作って、また相模国に戻ったらしい。竜宮城から帰ってきた太郎は父の墓があると教えられた子安の浜にやってきて、見つけた墓のそばに庵を作った。そこに観福寺が創建された。信じる人はいるだろうか。
     浦島伝説の原初の形態は神仙思想の竜宮伝説によると言うのが一般的な解説だろうか。それが日本列島に伝来して、海幸彦、山幸彦神話になった。これは天孫族と海人族との婚姻譚でもあり、海人族の移動とともに全国に伝播したと考えられる。山幸彦(火遠理命=ホオリノミコト)は海神の娘のトヨタマヒメと結婚し、ウガヤフキアエズを産む。出産のときにトヨタマヒメは鰐の姿に変身し、その姿をホオリに見られたので海に帰った。ウガヤフキアエズはトヨタメヒメの妹のタマヨリヒメとの間に神武天皇を産む。
     この寺はフランス領事館に充てられていたが、そんなことよりも、みんなの視線はペットの墓に釘付けになる。それにしても「愛犬ジャムの霊位」「田原オニャンタンの霊位」「間瀬ベッキの霊位」とは私の理解の範囲を超える。

     川沿いに南に行き、京急本線、首都高速横羽線を過ぎると台場公園だ。横浜市神奈川区神奈川一丁目十七番三。「南に行き」なんて書いているが、地図を持たずに歩いているから実は全く方向が分かっていない。埋め立て、鉄道、国道、高速道路などによって、旧東海道はまっすぐ辿れないのである。
     この台場は万延元年に勝海舟の設計で開港場の対岸に築かれた。工事を担当したのは伊予松山藩である。羽を広げたコウモリのような形をしている事から「蝙蝠台場」とも呼ばれたというのだが、周りは住宅地だからイメージが沸かない。台場としては他に例のない船溜りという構造を持っていて、ここがその船溜りのあった場所らしい。
     「ここで二十分休憩しましょう。」スナフキンはそろそろ時間調整に入った。「こんなに軍艦がやってきたのかい?」絵図を見ていたヤマチャンが驚くがこれは開港後の横浜である。「そうか、そうだよね。」ヨッシーが京都名物の八橋を配ってくれる。「これがホントなんだ。」「そうですね。生のは後から出来たんですよ。」
     ドクトルは、一部残っていると言う石垣が気になって仕方がない。「これかな。」しかし私たちが見ていたのは違ったらしい。公園を出たところの、民家と接するように高く組んだ石垣がそうだったようだ。
     今度は川を逆に北に戻り、綿花橋を渡る。神奈川一丁目の辺りはかつて綿花倉庫があったので綿花町と呼ばれた。
     滝野川を挟んで、神奈川宿本陣と青木町本陣があった。さっきの橋からぐるっと回ってもう一度橋を渡る。今度は滝の橋である。「川の色がどろっとしますね。」青緑色の川で、余りきれいとは言い難い。

    滝の橋 本宿西の町と滝の町との間、海道を横ぎり流るる川に架す。この橋の下の流れを滝の川と号く。ゆゑにしかり。水源は七、八丁西の方、堰村といふより発するところの流れなり。(『江戸名所図会』)

     国道沿いに「和牛の芸術品」と言う看板が目に付いた。「あれって、何?」川窪牛肉店である。横浜市神奈川区青木町十番地八。「神奈川で和牛なんて信じられない。」私は神奈川でも松阪でもどこでも良いが、たかが食い物を「芸術品」と称する根性が嫌いだ。メニューに「至高」とか「究極」を求める『美味しんぼ』という程度の低いマンガの影響ではないか。このマンガが世に流した害毒は計り知れない。長年人気を続けているのが不思議で仕方がないが、それは別のこととして、取り敢えず店の言い分を聞いてみたい。

    お客様に喜んでもらいたい」という気持ちで、同じ品質の商品を常時ご提供できるよう努力しています。横浜食肉市場からA5クラスA4クラスのめす牛を仕入れています。商品はどれもおすすめですが、牛ヒレ・ロース、豚ロース切り身、豚の味噌漬け、牛切り落としが好評です。昔ながらのコロッケには牛肉がたっぷり入っていてとてもおいしいです。添加物を使用していませんので安心です。ポイントカードもありますのでご利用ください。
    http://www.city.yokohama.lg.jp/keizai/shogyo/orosi/shunsen/shop/kanagawa/kawakubo.html

     宮前商店街を入ると洲崎神社だ。横浜市神奈川区青木町五番地二十九。真っ白い神明鳥居が建っている。『江戸名所図会』に、「安房国洲崎明神に同じか」とある。由緒によれば、建久二年(一一九一)源頼朝が安房国一の宮を勧請したものという。
     参道を行くと、二の鳥居の奥は少し小高くなっている。静かな落ち着いた境内だ。私たちの他に人はいない。神明造りの拝殿は扉が閉ざされているが、鰹木、千木がなかなか立派で、ヤマチャンが感心している。
     普門寺(横浜市神奈川区青木町三番地八)はイギリス士官の宿舎に充てられたそうだ。甚行寺(真宗高田派)。横浜市神奈川区青木町三番地十。真宗高田派はこの辺りでは珍しいような気がする。フランス公使館跡である。小町とクルリンは一所懸命資料を確認しているが、これは案内文には入っていない。境内に兵士の墓が二基並んでいて、特に注意もしていなかったが、講釈師はこういうものを見逃さない、「シンガポールだよ、マレー上陸。こっちは旅順だよ。」

    故陸軍砲兵少尉 水野諒太郎之碑 二十年九月シンガポール
    陸軍歩兵上等兵 勲八等功七級 桝井新吉之碑 

     「勲八等を貰えるんだね。」「当時の上等兵は大したものだったんだよ。」二〇三高地の激戦を目撃した人が講釈する。しかし明治以後の勲章制度では勲八等は最下位であり、金鵄勲章の功七級も兵に与えられたものである。一つ上の功六級は伍長以上の下士官に与えられるのだが、功労著しい兵には特別に六級が与えられた。
     日露戦争の従軍者はおよそ百九万人、その中で金鵄勲章は十一万人に与えられた。およそ一割とすれば、桝井新吉氏は特別著しい功労はなかったものの、概ね上等の部類の兵であったということになるだろう。
     「トドロークツツオート飛ビクール弾丸 ヨーベードサケベード。」講釈師がいきなり『広瀬中佐の歌』を歌い始める。しかし一番二番が混在しているんじゃないか。「スギノーはいずや、スギノーはいずや。」クルリンも「いずこだよ」とそっと指摘する。それでは私が正しく歌ってみるしかないだろう。

      轟く砲音 飛び来る弾丸
      荒波洗ふ デッキの上に
      闇を貫く 中佐の叫び
      杉野は何処、杉野は居ずや(「尋常小学校四年唱歌」)

     今日はこの歌ではなかった筈なのに、赤木圭一郎からは隋分遠くまで来てしまった。「良く知ってるね、そんな歌。」「私もさすがに知りません。」何故みんなは知らないのだろう。

     吹き行くは五月の風と唱歌かな  蜻蛉

     京急本線神奈川駅の横から、正面の青木橋交差点で国道はほぼ直角に曲がっている。「国道一号線ですよ。」その向こうの高台の上に、コンクリートを組み合わせた柱に天守のような建物が載っている。坂を上れば曹洞宗青木山本覚寺だ。神奈川区高島台一番地二。
     門前に「横浜開港の主唱者 岩瀬肥後守忠震」の碑が立っている。岩瀬忠震の墓は雑司ケ谷で見たことがあった筈だ。積極的な海国論者で、ハリスと交渉して日米通商修好条約に署名している。有能な外交官だったが、一ツ橋派に属して安政の大獄で左遷、蟄居を命じられ、文久元年(一八六一)失意のうちに死んだ。福地櫻痴も『幕末政治家』のなかで、「重職中にて尤も壮年の士なりき。識見卓絶して才機奇警、実に政治家たるの資格を備えたる人なり」と評価している。
     手水鉢を「がまん様」四人が支えているのは久しぶりに見る。ここはアメリカ領事館になった場所だ。高台で神奈川港が一望できた。
     生麦事件の負傷者ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルがここに逃げ込み、領事館付き医師だったヘボンが応急処置を施した。

     坂道を上る。「結構傾斜があるね。」三宝寺の脇を通って少し行くと、右側に公園があった。高島山公園である。近くに高島嘉右衛門の別邸があったことから名付けられた公園である。そもそもこの辺の住所「高島台」が嘉右衛門に因んだ地名だ。嘉右衛門については、第三十三回「横浜・桜木町~関内・馬車道へ(幕末・明治を巡る)編」で調べたことがある。横浜港の埋め立て、鉄道敷設、ガス事業を開始して近代横浜の基礎を築いた偉人である。
     その時にも書いておいた筈だが、暦を売る高島易断が嘉右衛門の流れを汲むと誤解している人が多い。「エーッ、違うんですか?」元々『高島易断』は易聖とも呼ばれた嘉右衛門の著書である。嘉右衛門没後、その名を利用する業者が現れ、高島本家や宗家を名乗っているだけだ。嘉右衛門の長子である高島長政の文章を見つけたので、これが証拠になるだろう。汎日本易学協会が昭和三十一年、嘉右衛門顕彰碑を建てた際、親族として八十一歳になる長政が書いた挨拶の中の言葉だ。

    尚、聊か余事の感はありましょうが、この機会に、日頃より申し見度き事一言ここに付け加えさせて頂きますならば、それは社会に流行し居る「高島易者」なる物と当家との関係に就いてで御座います。父没後、次第に社会には高島を名乗る占業者が現れ、今日では、「高島易断宗家」とか「高島本家」などと恰も当家そのものかの如き印象を世人に与える人々が居るのです。然しこれ等の人々は悉く当家と関係ありませぬ。当家縁類のものでもなく又、亡父が門下生でありし者でもありませぬ。(中略)
    高島の姓は私共一門のみの姓でなく、従って他の高島姓の人々が自己の姓をその占業に冠する事は聊かも不服ではありませぬし、又私と致しましても彼等の営業を妨害する意図は微塵も有しませぬなれ共、それが「高島易断」を謳って当家又は当家縁類の者であるかの如く、又、亡父門下生であるかの如く社会一般に於いて信じられ居る事は迷惑至極で御座います。本稿を擱筆するに当たりまして、特にこの点を社会に向かって明確に致し置く所以です。http://www5.ocn.ne.jp/~keisho/takashima.html

     大きな「望欣台の碑」は読めない。高さ二八五センチ、幅一五〇センチ、厚さ三十センチ。元々高島邸にあり、この公園に移設したものだ。碑文は嘉右衛門の友人の荒木誠樹、筆は同じく友人で三宝寺住職の大熊弁玉による。ネットで見つけたので記録しておこう。

    高島氏偉志アリ正真之才智剛毅之志向偶維新ノ盛時ニ際會感奮開化ニ勵精シ人才ヲ輩出スルハ學校ヲ興シ教育ヲ專ニス可シト自ラ巨萬ノ金ヲ散シ碩學ノ教師ヲ海外ヨリ聘シ始テ學舘ヲ横濱ニ開ク是吾邦ニ■テ洋學院ヲ設立スルノ先驅タリ故ニ官進歩首唱ノ賞状ヲ賜ヘリ而貿易ヲ盛大ナラシムルハ銕道ヲ建 シ運輸ヲ便ニスル最急務ナレハ官ニ請ヒ神奈川ヨリ横濱間ノ海中ヘ一直線ニ銕路ヲ築造スルノ便且益タル事ヲ揚言シ決然奮發シテ家産ヲ■盡シ現今高島町ノ銕路及市街ヲ埋開スルハ氏ノ獨力ヲ以テ峻工スル處其他山ヲ崩シテ港ノ内外ヲ埋メ瓦斯燈ヲ港中ヘ連絡シテ不夜ノ境タラシメ人民夜ヲ日ニ繼テ便 益ヲ得セシム此時 親臨アリテ■感ノ勅ヲ賜ヘリ氏曾テ一派ノ易学ヲ恃發ス進退擧動悉ク易占ニ據ラサルハナシ而テ功成身退ク聖賢ノ訓戒ヲ反省 シ近時神奈川薹上ニ一閑室ヲ設ケ之ニト居シ港内ノ繁榮ト其事業ノ功蹟ヲ脚下ニ矚望シ獨欣然トシテ其心ヲ慰ス由テ此薹ヲ號シテ望欣薹ト云爾
                     友   荒木政樹謹識
       明治十年丁丑十二月     應索  桑門辨王書之
    (http://hozonsharyou.web.fc2.com/Monument/K14Kanagawa/Boukindai.html)

     弁玉の歌碑もある。横浜市教育委員会の説明板はあるのだが、歌自体については何も書かれていない。「弁玉って誰だい?」「三宝寺の門前に説明があったよ。」私は江戸から明治初期の歌人についてはほとんど知らない。

    文政元年生まれ。浄土宗。江戸増上寺でまなび嘉永四年相模三宝寺の住職となる。歌を橘守部、岡部東平にまなぶ。近藤芳樹、大沼枕山らと親交があった。明治十三年四月二十五日死去。六十三歳。江戸出身。号は善蓮社浄誉慶阿。歌集に「弁玉詠草」など。(『デジタル版日本人名大辞典』より)

     坂を下る途中に、日本易学協会による「高島先生顕彰の碑」が建っている。これが、高島長政の文章のもとになった碑である。高島の屋敷があった場所らしい。

    高島先生顕彰碑
    呑象高島嘉右衛門先生ハ壮年明治維新ノ風雲ニ際會シ志ヲ国運ノ興隆ニ致シ近代産業ノ先駆ヲ為シ於中横浜市発展ノ基礎ヲ築ケル功績大ナリ 殊ニソノ経綸ノ易理ニ鍳テ実践セラレシハ最モ偉ナリト称スベシ 仍の先生幼ヨリ周易ヲ喜ビ研鑽倦ズ其堂奥ニ祭シ是ガ利ト功トヲ公益ニ掲揚セラレ其ノ學ト術トハ大成シテ高島易断ノ著トナル 傅ヘテ五十年茲ニ其ノ稿ナルノ地ニ記念ノ碑ヲ建ツ 昭和三十一年五月吉日 汎日本易学協会

     更に下に降りれば神奈川台関門跡に出る。「神奈川台関門跡 袖ヶ浦見晴所」碑と袖ヶ浦を歌った権大納言鳥丸光広の歌碑「思いきや袖ヶ浦波立ちかえりここに旅寝を重ねべしとは」が建っている。
     この辺りの海岸は「袖ヶ浦」と呼ばれているが、『江戸名所図会』では「袖の浦」として、「この地の光景、長汀曲浦、さながら袖の形に似たるゆゑに名とす。」と書かれている。「そっちが海だったんだ。」「見えますよ。」

    夫よりふたりとも、馬を下りてたどり行くほどに金川の臺に来る。爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎはの景色いたつてよし。(『東海道中膝栗毛』)

     料亭の田中屋。横浜市神奈川区台町十一番地一。「こんなお店で、旦那様とお料理を食べて泊まってみたいわ。」姫は魚釣りに行っている旦那様を思っているが、残念ながら宿泊はできそうにない。食事だけだ。「食事だけでも良いです。」

     幕末の頃、文久三年(一八六三年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました。その少し前、安政六年(一八五九年)に横浜開港が決まり、各国の領事館がつぎつぎとこの近辺に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展していきます。(中略)
     幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。
     龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っております。
     (http://www.tanakaya1863.co.jp/?page_id=183)

     「英語が出来たのね。」これは本当かどうか分からない。物怖じしない気の強さが、無理やりにでも外人と意志を通じさせたのではあるまいか。龍馬没後のおりょうは落魄した。土佐の坂本の一族からは冷たくされ、京都でも長くは住めず東京に出てきた。それにどうしたわけか元海援隊士の間で評判が悪く、援助する者もいなかったようだ。明治七年に勝海舟の紹介で田中屋の仲居に雇われ、明治八年に客で来ていた西村松兵衛と再婚して横須賀に住んだ。晩年は松兵衛とも別れ、貧窮のうちに死んだらしい。
     広重の絵には、左側の海に面して茶店旅籠が並び、田中屋の前身の「さくらや」の看板も見える。客引き女に手を引かれる二人の男は弥次喜多の二人組のよう見も見えるのだが、講釈師に言わせれば全く違ってしまう。「これがロダンだよ。」「それじゃこっちが講釈師だな。」女に手をつかまれて及び腰なのは愛妻家のロダン、すぐにも入って行きそうなのが講釈師と決まった。

     紅薔薇旅籠屋引きの好む顔  閑舟

     大綱金刀比羅神社。横浜市神奈川区台町七番地三十四号。朱塗りの鳥居を潜り石段を登る。幟がはためき、階段の上では神輿を準備しているようだ。本来は後方の山にあった神社だ。
     拝殿の脇には天狗の顔の彫刻が立っている。これは何だろう。気が付くと、講釈師が神妙な顔をして宮司の説明を聴いている。ずいぶん丁寧な口調だ。「何だって?」「そこのマンションがあるだろう。そこもこの神社の敷地だったんだ。」マンションを建てるときに二十六メートルの高さの木が邪魔になり、切らざるを得なくなったのだが、二メートル程の高さを残して天狗の顔を彫ったのである。「そういうことだよ。」「ホントなの?」「俺は嘘言ったことないだろう。」私も途中から聴いていたから、これは本当のようだ。

     五月晴十に一つの真かな  閑舟
     若葉陰烏天狗も地に堕ちき  蜻蛉

     スナフキンの案内にも飯綱社とかかれているので、『江戸名所図会』に言う飯綱権現社がここだろう。

    飯綱権現社 神奈川台町、海道の右の山上にあり。本覚寺より一町ばかり南也。別当は、真言宗同所の万年山普門寺奉祀す。祭礼は五月十七日なり。飯綱権現、本地仏は不動明王、行基大士の作にして、座像一尺七、八寸、垂迹は大山祇命といふ。(後略)

     飯綱権現(あるいは飯縄権現)の天狗は高尾山薬王院でも見たことがある人がいるだろう。明治の神仏分離で大綱神社なんて意味不明な名に改名しているが、飯綱権現は山岳信仰に由来し、天狗であると信じられた。

    多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある。一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰された。特に、上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名。
    その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などとならび中世から近世にかけては「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法と されつつ俗信へと浸透していった。「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」(『茅窓漫録』)「しきみの抹香を仏家及び世俗に焼く。術者伊豆那の法を行ふに、此抹香をたけば彼の邪法行はれずと云ふ」(『大和本草』)の類である。しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも信州の飯縄神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県の鹿野山神野寺、千葉県いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されている。別称を飯綱権現、飯縄明神ともいう。(ウィキペディアより)

     また金刀比羅神社も、本当は金毘羅権現である。元々はもっと後方の山上にあって山岳信仰の霊地だったが、東海道を見下ろす場所に位置していたため海の航行安全を願って金毘羅さんを勧請したものと思われる。
     後は真っ直ぐ西に歩いて横浜駅西口で解散する。歩数は一万六千歩、十キロ弱であった。「ここなら湘南新宿ラインで帰れるから便利だよ。」そう言って小町は帰って行った。ロダンは愛妻から残業券が発行してもらえず、寂しそうに帰って行った。
     最初にマリオが連れて行ってくれたのは「一軒目の酒場」だが、満員で入れない。この店は池袋駅の南口にもあるが、朝からやっている安い居酒屋だ。しかしすぐに別の居酒屋を見つけた。地下のなかなか落ち着いた店だ。三千四百円。
     今日は飲みすぎることはなく適当に切り上げたから、久し振りにカラオケにも入った。マリーは桃太郎を無理やり拉致しようとしたが、「金太郎」を目指す桃太郎のガードは堅い。ヤマチャンも宗匠と一緒に帰って行った。

    蜻蛉