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    第五十三回 神楽坂編
    平成二十六年七月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.07.20

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     旧暦六月十六日、小暑の次候「蓮始開」。去年はかなり早く七月六日頃には梅雨が明けていたが、今年はまだかかりそうだ。それに今週は七月にしては最大規模の台風八号が発生し、木曜日の夜から金曜未明にかけて関東もかなりの豪雨が予想された。しかしその日は雨も風もあっけなく終わり、台風一過の金曜朝には晴れ上って湿度の異常に高い不快な暑さになった。今日も暑くなるだろう。
     神楽坂はちょうど六年前の今日、宗匠が企画した第十八回「早稲田・神楽坂編」の後半で訪れているのだが、あんみつ姫は、それと重複しないコースを選ぶと張り切っている。それ程厳密に考えなくても、少しは重複しても良いではないか。六年前のことなんか大抵忘れている。
     集合場所はJR飯田橋駅西口だ。飯田橋にはJRのほかに東西線、有楽町線、南北線、大江戸線の駅があるが、地下鉄からだとかなり長い距離を歩く。我が家からは東上線・有楽町線を使って五百九十七円というのが最も安い。昔なら池袋から新宿・飯田橋とJRを使うルートしか思い及ばなかったが、これだと七百九円になって百円以上の差が出てくる。
     ところがJRの西口に出る通路が分からない。苦労してやっと辿り着いたのが東口で、しかたがないから南東側の道を線路に平行に歩いて西口に出た。既に帽子の中は汗でびっしょり濡れてきた。跨線橋を渡る手前の牛込見附跡の石垣の脇に講釈師とダンディがいる。今の飯田橋駅はここが西のはずれで北東に伸びているが、甲武鉄道が開通したときの牛込停車場は、ここから逆に南東に東京逓信病院の辺りまで伸びていた。
     「リーダーは?」「改札で待ってるよ。ここの方が涼しいんだよ。」それでは取り敢えずリーダーに挨拶して来よう。改札に向かうとちょうどチロリン、マルちゃんと目が合ったので、「講釈師たちが向こうにいるよ」と教える。
     あんみつ姫は改札の中を凝視している。「おはよう。」声をかけると「どこから来たんですか」と驚かれてしまった。「だって、みんなここから来ると思ってたんだもの。」これこれしかじかの理由である。ちょうどドクトルも姿を見せ、「私は東西線で、神楽坂を過ぎて早稲田まで行ってしまった」と不思議なことを言う。「飯田橋は神楽坂の向こうかと思ってたんだよ。」
     「あっちの方が日陰があって涼しそうですよ」と姫が言うので、北側の飯田橋ラムラのアーケードに移って定刻まで待つ。宗匠とヤマチャンは少し早めに来て、「日本赤十字社跡」を見てきたらしい。私は見ていないが、逓信病院の敷地に発祥の地碑が立っているらしい。明治十九年に佐野常民が建てた博愛社の病院で、翌二十年に日本赤十字社と名を改めた。佐野常民は二人の郷土の偉人である。
     クルリンも改札口に悩んでチロリンに電話をしてきたが、定刻にはなんとか揃った。リーダーのあんみつ姫、マルちゃん、チロリン、クルリン、シノッチ、ハイジ、講釈師、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、マリオ、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、桃太郎、蜻蛉。今日は十六人になった。「今日は暑くなりそうですから、水分補給は充分にしてください。もし少しでも気分が悪くなったら、桃太郎がおんぶしてくれます。ネッ。」姫の念押しに桃太郎が神妙に頷く。

     今更神楽坂の説明をするのも気が引けるが、周辺は武家屋敷地だったが、坂を中心にして江戸時代中期には毘沙門天や出世稲荷の縁日、赤城神社と行元寺前の岡場所で賑わった。明治二十八年には甲武鉄道牛込停車場が開設され、商店街も発達して山の手の中心的な繁華街となった。

     当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠とか、竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。(夏目漱石『硝子戸の中』)

     漱石が子供の頃だから、明治十年前後のことだろうと思う。山の手人が銀座へ出かけるようになるためには、電車が敷設されるまで待たなければならなかった。ついでだから、東京の電車の発祥を調べてみた。
     明治三十六年(一九〇三)八月二十二日、東京馬車鉄道が馬を廃止して東京電車鉄道(電鉄)として、品川・新橋間を開業し、同年九月十五日には、東京市街鉄道(街鉄)が数寄屋橋・神田橋間を開業した。三十七年十二月八日、東京電気鉄道(外濠線)が土橋(新橋駅北口)・御茶の水間を開業した。明治三十九年(一九〇六)九月十一日、三社が合併して東京鉄道(東鉄)が成立し、四十四年(一九一一)八月一日、東京市が東京鉄道を買収して東京市電となったのである。

     その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

     坊っちゃんは中学教師を辞めて東京に戻り、月給二十五円で街鉄の技手になった。これと比べて、四国の中学教師の月給四十円は随分高額だった。『坊っちゃん』は明治三十九年の『ホトトギス』四月別冊号に発表されたから、確かにまだ「街鉄」が存在していた時代だった。
     そして江戸時代の岡場所は三業地に変わって繁盛する。神楽坂の「神楽」はどこから聞こえたか、由来には次の説がある。

    神楽坂 同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼のときは神輿このところに渡らせらるる。そのとき神楽を奏するゆゑに、この号ありといふ(あるいは云ふ、津久戸明神、田安の地よりいまのところへ遷座のとき、この坂にて神楽を奏せしゆゑにしか号くとも、また若宮八幡の社近くして、つねに神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり)。(『江戸名所図会』)

     牛込橋を渡り、まっすぐ北西に伸びるのが神楽坂通りだ。姫はすぐ一本目の小路を左に入る。海鮮市場かぐらや、居酒屋樽八、全身アロマ、生花店、焼鳥屋の小さな店が並んでいて、そのまま行くと東京理科大学の構内に入ってしまう。目的地は理科大の構内ではない筈だ。「曲がり角を間違いました。」小路に入ってすぐ、理科大学の角の鉄扉とアパートの間の小路を右に曲がらなければならなかったのだ。「アーア、最初から間違うのか。」「講釈師に発言の機会を与えるために間違えたんですよ。」

     花街の路地を迷はす天蓋花  蜻蛉

     理科大学側の植え込みの中に、「泉鏡花旧居跡・北原白秋旧居跡」の石碑が立っている。神楽坂二丁目二十二。勿論当時の借家が残っている筈がない。狭い小路の向かいには小さなマンションが建っている。
     明治三十六年(一九〇三)三月、鏡花はここの借家に転居し、友人吉田賢龍が工面してくれた金で桃太郎(伊藤すず)を請け出し同棲するようになった。鏡花がすずと知り合ったのは三十二年一月のことだから、もう四年も経っていた。鏡花の母に対する異常なほどの愛着は有名だが、奇しくも「すず」は鏡花の母の名と同じだったのだ。しかしすぐに師の紅葉に知られてしまう。

    (三十六年四月十四日)夜風葉を招き、デチケエションの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。暱妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず。怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。疲労甚しく怒罵の元気薄し。

    (四月十六日)夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといえる桃太郎に会い、小使十円を遣す。(紅葉日記)

     鏡花の自筆年譜では、「明治三十六年三月、牛込神楽町に引越す。五月、すずと同棲。」とあるが、それでは紅葉日記の日付とずれてしまう。おそらく鏡花の記憶違いだろうと思う。それにしても三十六歳の紅葉が三十一歳の鏡花を折檻するのである。鏡花は紅葉を神の如く尊敬していたから、じっとその打擲に耐えた。
     「小使十円」はつまり手切れ金だが、当時町村の書記の月俸に相当する額だから、現代では三十万円ほどになるだろうか。紅葉も実は生活が苦しかったが、その中から捻出したのである。そして紅葉はこの年十月三十日に死に、鏡花は再びすずと同棲するようになる。ここには三十九年七月まで住んだ。
     そして鏡花が静養のために逗子に転居して二年後の明治四十一年(一九〇八)十月から翌年八月まで、北原白秋が住んだ。白秋は引越魔とも言うべき人物で生涯に四十回も転居している。ここに来る前は牛込区北山伏町三十三番地に十ヶ月、ここも十ヶ月で本郷に移ることになる。まだ『邪宗門』を出版していないが、『明星』誌上で将来を大いに嘱望されていた。
     啄木は赤心館の下宿代が払えず、九月に金田一京助と共に本郷区森川町の蓋平館に移っていたが、小説はどこも採用してくれず相変わらず金がなかった。その啄木のもとに白秋から転居の通知が来た。

     九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
     吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
     八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持つて来てくれたのだ。
     一日の談話につかれてゐてすぐ床についた。(『啄木日記』明治四十一年十月二十九日)

     白秋二十四歳、啄木と伯爵家の長男吉井勇は二十三歳であった。白秋に『物理学校裏』という詩があるが、長いので引用は控える。元素記号などを暗誦する声が呪文のように聞こえたのだろう。
     この年の六月十五日には川上眉山が四十歳で自殺し、二十三日には自然主義の旗手とみなされていた国木田独歩が三十八歳で死んだ。三十歳の荷風がフランスから帰国して『あめりか物語』を発表し、四十二歳の漱石が「朝日新聞」に『三四郎』を発表した。文学に新しい風が吹き始めており、白秋や啄木、勇は気分だけは意気軒昂であった。
     十二月十二日には太田正雄(木下杢太郎)を筆頭発起人としてパンの会が結成される。この会に啄木が参加したのかどうか、いくつかの資料を見てもはっきりしない。啄木の四十一年の日記は十二月十一日で終わっているが、年末までのメモが残っている。

    十二日 新渡戸ハガキ、平野、吉井、平野、千駄ヶ谷 夕方かへる、パンノ会(中略)
    廿四日 平野におこされる、太田、電話、来る話、三秀舎校正――パンノ会 酔、かへる 金田一、住所、三時

     これで見る限り、少なくとも第一回、第二回は出席しているようだ。「千駄ヶ谷」は与謝野夫婦の家である。『明星』は十一月に第百号で廃刊となっていたが、与謝野夫婦は啄木にとっては恩人である。しかし白秋や啄木は、既に鉄幹に詩情は失われたと判断しており、翌年一月に創刊される鷗外主催の『スバル』を、啄木、勇、平野万里の三人が交代で編集することになっていた。だからこの年末啄木はその準備で多忙だった。金が無い癖に殆ど毎日のように酒を呑んでは酔って帰宅している。吉井勇は『ゴンドラの唄」や祇園の歌が最も有名だろうが、啄木を詠んだ歌もある。

     かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる  勇
     啄木と何かを論じたる後のかの寂しさを旅にもとむる    同

     もう一度神楽坂通りに戻ると、道路の両側には紅白の提灯が吊るされ、神楽坂まつりの赤い垂れ幕が下がっている。また左の幅二メートル程の小路に入り込む。「ここでもほおずき市があるんだね。」第四十三回神楽坂まつりのポスターに、七月二十三、二十四日がほおずき市、二十五、二十六日が阿波踊りとある。
     火防稲荷の小さな祠の隣に「東京神楽坂組合稽古所」の表札を掲げる家があり、その前に「見番横丁」の標柱が立っていた。啄木や白秋が聞いた琴や三味線の音はこの稽古所で出していたものだろう。神楽坂の最盛期(大正の頃)には芸者七百人を数えたというが、組合のホームページを見ると、今年三月現在で芸妓は二十二人しかいない。そして随時新人芸妓の募集を行っている。
     姫は「前回行ったところには寄りません」と宣言していたのに、それでも善国寺には寄らざるを得ない。毘沙門天は神楽坂のシンボルである。新宿区神楽坂五丁目三十六番地。もともと馬喰町に創建されたものだが、江戸の大火で麹町を経て寛政五年(一七九三)に現在地に落ち着いた。
     この境内にも祭提灯が吊られている。本堂の左右に鎮座するのは狛犬ではなく虎である。これは信貴山朝護孫子寺の縁起によるもので、聖徳太子が物部守屋を討伐する際に、毘沙門天が現れた。それが寅年、寅の日、寅の刻だったという伝承である。
     神楽坂を少し戻って、今度は東側の本多横丁に入る。横丁の名は越前福井藩の家老、本多修理の屋敷があったことに因む。本多氏は家老とはいえ石高一万一千石で、大名格を与えられていた。ここは神楽坂最大の横丁と言われ、飲食店五十軒以上が並んでいる。「鳥の店が多いね。」「苦手な店ばっかり。」「今日は、宗匠に初めて鳥を食わせる会にしようか。」「イヤダ。」
     「オッ、粋な黒塀だよ。」講釈師の声で右手を見ると、石畳の路地の角に黒板塀が見えた。料亭だろうか。宗匠がきちんと見ていて旅館「和加菜」だと確認した。「粋な黒塀ってどういう意味なの?」「料亭とか妾の住む家とかさ。」「そういう意味か。やっと分かったよ。」ヤマチャンが今更ながら感心したような声を出す。「蜻蛉の得意な歌だね。粋な黒塀見越しの松に婀娜な姿の洗い髪。」(山崎正作詞の歌詞は「仇な姿」と表記しているが、誤りであるとは西澤爽が既に指摘している。)
     ところで、粋とは媚態と意気地と諦めであるとは、九鬼周造が『「いき」の構造』で言っていることだ。このうちの「諦め」が分かりにくいかもしれない。江戸封建の世の、どうしようもない運命への諦めである。

    要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。「野暮は揉まれて粋となる」というのはこの謂にほかならない。婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廃の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否み得ない事実性を示している。

     と書き写していて思い出したのだが、高校生の私にこれを薦めた担任は何を考えていたのだろうか。薦められたその日に駅前の本屋に走ると、それが普通に店頭に並んでいた。本屋にとっても幸せな時代であった。

     朝顔や路地の黒塀這ひ登り  蜻蛉

     本多横丁はいつの間にか三年坂になっていて、大久保通りにぶつかる。右手が熊谷組、正面が筑土八幡の石段だ。「熊谷組の本社かな。」違うんじゃないのと言ってはみたが、やはり本社であった。新宿区筑土八幡町二番一号は筑土八幡と同じ住所である。
     「エーッ、階段なの。」「帰りは別の道を通りますから。」大した階段ではない。石段の踊り場に立つ案内板には『江戸名所図会』の挿絵が描かれている。『江戸名所図会』では筑土明神と並んでいるが、筑土明神(津久戸神社)の方は空襲で全焼して九段北に移転した。
     ここで見るべきは寛文四年(一六六四)造立の庚申塔だ。舟形(光背型)石碑で日月と、桃の枝を手にする二匹の猿が彫ってある。これで庚申塔と言えるのか私には自信がないが、庚申塔ならばかなり古い時期のものになる。
     小花波平六『庚申信仰礼拝対象の変遷』によれば、青面金剛の庚申塔が出現するのが漸く寛文の頃で、まだ多くは地蔵菩薩や阿弥陀如来、大日如来など様々な仏を祀っていた。また三猿の登場も浦安・大蓮寺の正保三年(一六四五)が初見とされているから、造型的には過渡期のものだ。右の立っているのがオスで、左のメスはうずくまる形で、顔面が欠けている。猿は山王信仰によるものだろう。「なぜ、桃なんだい?」「たぶん不老長寿じゃないかな。」
     猿に桃と言えば、西王母の幡桃を食い荒らし幡桃会で大暴れした孫悟空が思い起こされる。桃は不老不死の果実であり、これを食った孫悟空は不死身の体になったのである。
     「桃って、日本にはいつ頃来たんだい?」「かなり古いよ。」ウィキペディアによれば長崎県多良見町の縄文遺跡で桃の種が出土したと言う。イザナギが黄泉国でイザナミの追っ手から逃れるとき、ヨモツヒラサカに生っていた桃の実を投げつけると、追っ手の黄泉醜女は退散した。これによってイザナギは桃にオオカムヅミの名を与えた。大いなる神の霊威の意味である。つまり桃には神威があると考えられていた。
     そして鬼退治をするのは「桃」太郎なのだ。尤も金太郎だって大江山の酒呑童子を退治するのだが、それを言い始めると話がややこしくなる。柳田國男は『桃太郎の誕生』の中で、異常誕生と「小さ子」「海神小童」を取り上げて、昔話は神話の零落であると断じていた。こういうことは折口信夫も何か言ってるのではないか。探してみたら次の文章を見つけた。折口の文章は段落の一時下げがなくて読みにくいので補ってみた。

     一体、桃には、魔除け・悪気ばらひの力があるものと信ぜられて来てゐる。わが国古代にも、既に、此桃の神秘な力を利用した話がある。黄泉の国に愛妻を見棄てゝ、遁れ帰られたいざなぎの命は、後から追ひすがる黄泉醜女をはらふ為に、桃の実を三つとりちぎつて、待ち受けて、投げつけた。其で、悪霊から脱れる事ができたので「今、おれを助けてくれた様に、人間たちが苦瀬に墜ちて悩んだ場合にも、やはりかうして助けてやつてくれ」と、桃に言ひつけて、其名として、おほかむつみの命といふのを下されたと伝へてゐる。
     後世の学者は、桃の魔除けの力を、此神話並びに支那の雑書類に見えた桃のまぢっくの力から、説明しようとして居る。支那側の材料は別として、いざなぎの命の話が、桃に対する信仰の起原の説明にはなつて居ない。寧、当時すでに、桃のさうした偉力が認められてゐたので、其為に出来た説明神話と言ふべきものであらう。何故ならば、偶然取つて投げた木の実が、災ひを遠ざけたといふ話は、故意に、其偉力を利用してゐるからであり、魔物を却けようとする民俗と、幾足も隔つてはゐないからである。尠くとも、古事記・日本紀の原になつてゐる伝説の纏まつた時代、晩くとも奈良の都より百年二百年以前に、既に行はれてゐた民俗の起原を見せて居るに過ぎない。(中略)
     支那並びに朝鮮に行はれてゐた道教では、桃の実を尊ぶことが非常である。知らぬ人もない西王母は道教の上の神で、彼の東方朔が盗み食ひをしたといふ三千年の桃の実を持つてゐたのである。かうした桃の神秘の力を信ずる宗教をもつ人々が、支那或は朝鮮から群をなして渡来し、其行ふところを、進歩した珍らしい風習として、まねる事が流行したとすれば、我々が考へるよりも根深く、汎く行はれ亘つたものと思はれる。
     古事記・日本紀にある話が、全然、神代の実録だ、といふやうなことは考へられないのであるから、此話が、人皇の代になつてから這入つて来た、舶来の民俗を説明してゐるものだ、といふことの出来ない訣はない。だから、右の神話は国産、民俗は古渡りの物というてもよろしからう。今日のところでは、此以上の説明はできないと思ふ。(折口信夫『桃の伝説』)

     桃太郎については、桃から生まれたことを朝鮮神話の帝王卵生やかぐや姫の竹からの出生と関連付け、特に桃である必要はなかったと言う。水から流れてくることについては、柳田と同じようにヒルコ(蛭子・エビス)やスクナビコナとの類縁とみなしている。

     水のまにまに寄り来る物の中から、神が誕生すると言ふ形式が、我が国にも固有せられてゐて、或英雄神の出生譚となり、世降つて桃から生れた桃太郎とまでなり下りはしたが、人力を超越した鬼退治の力を持つて、生れたと言ふ処から見ても、桃太郎以前は神であつた事が知れよう。(同書)

     これは神の零落と言うことで、つまり柳田と同じことを言っているのだ。また折口ではないが、桃太郎が猿・雉・犬を伴ったことについては、五行説における十二支と関連付ける説がある。五行説では申酉戌は西を指す。桃は西王母の果実だから西に相当するというわけだが、牽強付会の説のような気がする。
     階段脇には田宮虎蔵の顕彰碑があった。この名前は知らなかったが、唱歌『金太郎』の一節が楽譜とともに刻まれている。「まさかりかついで きんたろう くまにまたがり おうまのけいこ」(石原和三郎作詞・田宮虎蔵作曲)である。

     それまでの文部省の音楽教科書は子供の普段使う言葉からかけ離れていた。これではなじめないので、子供の日常語で歌詞を作るべきだという主張のもとに、新に『教科対応 幼年唱歌』は尋常小学(現在の小学一年から四年に対応)が作られた。 言文一致唱歌の嚆矢のもの。これに引き続いて高等小学校生(現在の小学校五年から中学二年生に対応)対象の『教科統合 少年唱歌』全八冊も明治三十六年四月から明治三十八年十月にかけて発行された。こちらの方は、流石に従来通りの文語が使われている。
     作曲の内訳は納所が三十一曲。田村が三十二曲。外国曲が十四曲で残りはゲストの日本人作曲家による。編者の納所は東京音楽学校の二期生でバリトンで鳴らし、学習院の教師となった。田村は納所の東京音楽学校での後輩で、東京高等師範学校付属小学校の訓導となる。音楽教育界のリーダーであった。口語の歌詞は主として高等師範学校付属小学校訓導の石原和三郎と田辺友三郎によって創られている(「明治の唱歌・言文一致歌詞の『幼年唱歌』http://www。geocities。jp/saitohmoto/hobby/music/younen/younen.htmlより」

     『金太郎』は明治三十三年の『幼年唱歌』に収録された。二葉亭や山田美妙の言文一致の試みが漸く音楽教育にも影響を齎していた。田宮の作曲ではほかに『花咲か爺』(うらのはたけでポチがなく)、『一寸法師』(指にたりない一寸法師)、『大黒さま』(大きな袋を肩にかけ)などがある。
     「筑土は次戸って書いたっていう説があるんだよ。」昨日大急ぎで『江戸名所図会』を読んで得た知識だ。「次」は「江」を間違って写したもので、本来は「江戸」であったろうというのが斎藤月岑の考察だ。
     「誰もお詣りしないんですか?」スナフキンは財布を忘れて来たので小銭がない。

     信心は小銭の有無に支配され  閑舟

     階段とは逆から出ると、左手には御殿坂が下っているが姫は下りが苦手なので通らない。御殿坂の謂れは、家光が鷹狩の際に休憩する御殿があったことによるらしい。家光の時代には、この辺は茫々たる武蔵野の台地だったのだろう。
     八幡を回り込むように歩くと前方に双葉社の建物が見えた。私たちの世代では『週刊漫画アクション』を出していた出版社として知られている。私はバロン吉元の『柔侠伝』シリーズや真崎・守『共犯幻想』、長谷川法生『博多っ子純情』なんかを読んでいた。すぐ北がトーハン本社のある東五軒町で、この辺は出版に縁が深いのだ。
     もう一度熊谷組のところから三年坂、本多横丁を通って神楽坂通りに戻る。右に文房具の相馬屋があり、その向かいの和菓子の「五十鈴」の脇から左に入ると地蔵坂(わらだな横丁)だ。「坂はすぐ終わりますからね。」地蔵坂の由来は、光照寺に近江国三井寺から移された子安地蔵があったからであり、「わらだな」は藁を商う店が多かったから(一軒だけだったという説もある)である。
     坂の曲がり角に「ギャラリー良工房」があって、「ここで家具を買ったんです」とヨッシーが思い出す。良工房とは山梨県北杜市で彫刻家具を作る田原良作の工房であった。私には縁がなさそうだ。正確な場所は分からないが、この辺りには和良店(わらだな)という寄席があったらしい。

     落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。(夏目漱石『僕の昔』)

     馬場孤蝶『明治の東京』によれば、電車が普及する以前、そんなに遠くまで行かなくても庶民が楽しめるよう、あちこちに小さな寄席があったらしい。坂を上り切った左が光照寺だ。牛込城跡。新宿区袋町十五番地。なんだか以前に来た時とは印象が違う。「そうですね、下見の時とも違うような。」工事をしているせいかも知れない。

    光照寺一帯は、戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
    堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
    牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(一五三二~五五年)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。
    天文二十四年(一五五五年)重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、天正十八年(一五九〇年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊される。
    現在の光照寺は正保二年(一六四五年)に神田から移転してきたものである。なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。
       平成七年八月
       東京都新宿区教育委員会

     「ここでは森敦さんのお墓を見ます。」墓参の家族が数人いる。「東京は今の時期がお盆ですからね。静かにしてください。」そうだった。私は森敦の小説を読んだことがない。「月山に住んでたんじゃないの?」ヤマチャンの言葉で、その名の小説があったことを思い出しただけだ。森家の墓の右の銘板にはこんな風に記されている。

     われ浮き雲の如く 放浪すれど こころざし 常に望洋にあり   森敦

     「望洋」とは何だろう。素直に読めば海を望むということだろうが、作品を全く読んでいないのだから想像がつかない。『月山』で芥川賞を受賞したのが昭和四十九年、第七十回(昭和四十八年度下半期)である。私が会社に入った年だが、この頃から私は芥川賞も現代日本の小説も信じていなかったようだ。本屋に勤めながら芥川賞に関心を示さないのは劣等社員である。
     「ここが出羽松山藩主酒井家のお墓です。」出羽松山なんて知らなかったが、庄内藩の支藩である。庄内藩初代酒井忠勝の三男・忠恒が、飽海郡松山の新田二万石を分与されて立藩したのであった。全体はかなり広いが、ロープが張られて立入禁止にされている。同じ酒井忠勝の名で若狭小浜藩主の大老がいて紛らわしい。

     十一時半に近くなった。台風がどうなるか分からなかったので、姫は昼食の予約をしていない。「そこで食べようよ。」スナフキンが言うのは光照寺の向かいにある日本出版クラブ会館である。新宿区袋町六番地。「最近、『アド街ック天国』で、レストランがあるって知ったんだ。」スナフキン自身は二階の宴会場にしか来たことがなく、レストランがあることには気づいていなかったようだ。
     私自身は「出没!アド街ック天国」を見たことはないが、結構見ている人が多い。入谷の「金太郎」も何度か取り上げられた筈だ。「吉田類の『酒場放浪記』も人気がありますよね。」これも見たことがないが、意外なことに酒を呑まない女性にも人気があるようで、私もタイトルだけは知っていた。チェーンの大型居酒屋の安さにはかなわず、昔からの酒場は消滅しつつある。こういう番組が流行るのは昭和回顧趣味であろう。
     外壁に沿ってヒマワリが咲き、敷地の隅には百日紅が咲いている。レストランRose Roomは十一時半開店だから、ロビーで数分間待たなければならない。私たちの前にもすでに何組かの高齢者が待っている。
     ここはかつて新暦調御用所(天文屋敷)があった場所だ。以前来た時には説明板があった筈だが、今日は気が付かなかった。それまでの暦には宝暦十三年(一七六三)の日蝕が記載されていなかったので、改暦のために明和二年(一七六五)に光照寺前の火除地に御用屋敷が作られた。暦は明和八年(一七七一)に「修正宝暦暦」として完成した。ただこの場所は天文観測には適さないため、天明二年(一七八二)には浅草鳥越に移転した。
     やがて案内されたのは四人掛けテーブル四つである。「お薦めはランチです。」サラダバーとドリンクバーがついて千円の定食である。鮭のグリルに小さなジャガイモが三つ、ごはんかパンが選べる。「こんな場所に入れるなんて知らなかったから嬉しい。」姫は本に関わることが好きだ。元は出版社の社員だったマルちゃんは「何度も来たよ」と自慢する。
     「ゆったりとしてますね、いい雰囲気ですよ。」業界はいつ終わるとも知れぬ不況に喘いでいるのだが、そんなことには全く関係なさそうなレストランである。やがて客が多くなってきた。ちょうどうまい時刻に入って正解だった。
     マリオが名古屋の小倉トーストの話をしてくれる。「餡子の缶詰を買ったんですよ。それをトーストに載せたら、全然ダメ。柔らかすぎる。」名古屋にはトースト用のチューブ入り餡子が売っていると言う。それにしても、トーストに餡子を載せるとは、名古屋の人の味覚はどうなっているのだろうか。「だって、ジャムとかマーマレードは普通でしょう。餡子だっておかしくない。」そう言われれば反論できない。勿論私はジャムもマーマレードも食わないけれど。
     ビールを飲んだ四人は端数が面倒だが、他は千円ちょうどだから分かりやすい。十二時半に店を出る。
     ロータリーの中央の花壇には、ミニトマトより小さな赤い実をつけた植物がある。「これ何?」講釈師も知らないがハイジが知っていた。「フユサンゴじゃないかしら。サンゴみたいでしょ。」さっそくスナフキンに検索してもらう。最初にでてきたのは「タマサンゴ」だ。「そうか、タマサンゴかも知れない。」しかし、フユサンゴの画像を見ても区別がわからない。記事を読んでようやく分かった。フユサンゴはタマサンゴの別名である。
     それにしても、「フユ」と名付けられているからには冬のものではないのか。ウィキペディアによれば、花季が五月から九月頃、結実は八月から十二月頃となっている。ナス科ナス属の常緑性低木である。英名ではJerusalem cherryとかwinter cherryと呼ばれるようだ。
     外に出て宗匠がハイジに訊いたのはルリマツリであった。「去年から気になっていたんだよ。」私も時々、これは何の花かとは思っていたのだが、そんなに悩んではいなかった。

    ルリマツリの仲間(プルンバコ)は熱帯を中心に約二十種類の仲間が知られています。その中でも南アフリカに分布する、プ ルンバコ・アウリクラータのことを和名でルリマツリと呼びます。半つる性の低木で本来は常緑性ですが、日本では冬の寒さでばっさり葉が枯れることも多いで す。
    枝は直立もしくは斜上してよく伸びよく茂り、高さは一・五メートルになります。主な開花期は初夏~秋の気温が高い時期 で、直径二センチほどの花を房状に付けます。花色はそら色と白があり、園芸品種に濃いブルー花の’ブルームーン’があります。花は元が細い筒状で先端が5枚 に開きます。さほど強くないですが、他のものに絡みながらよじ登る性質もあるので、フェンスなどに這わせて楽しむこともできます。 真夏の暑さの中でも元気に咲き、大きく育った株の花盛りは見応えがあります。
    ルリマツリの「ルリ」は花色から、「マツリ」は花姿がマツリカ(ジャスミン)に似ているところに由来します。 属名のプルンバコはギリシア語のプルンバム(鉛)に由来し、ある種が鉛中毒に効果がある、根の色に由来するなど諸説あります。
    (「ヤサシイエンゲイ」http://www.yasashi.info/ru_00002.htmより)

     また神楽坂通りに戻る。商店街にはシャンソンのメロディが流れているが曲名は分からない。大久保通りを渡ってさらに進む。東西線神楽坂駅から右に曲がれば赤城神社があるが、姫は寄らない。「前回寄ってますからね。」全く覚えがない。念のために第十八回「早稲田・神楽坂編」を読み直したが、やはり赤城神社には行っていないのではないか。上州赤城山麓の大胡氏が北条氏に従って、この辺から赤坂辺りまでを領有した。その際に本貫の地の赤城明神を勧請したものだ。そして大胡氏は牛込氏を名乗る。
     この辺に来ると早稲田通りの標識がでてくる。神楽坂駅矢来口の辺りで左に曲がると牛込中央通りだ。少し行くと、新潮社別館の外壁には谷内六郎の絵が描かれている。「週刊新潮は本日発売です。」「懐かしいですね。」『週刊新潮の』の表紙はいつ頃まで谷内六郎だったか、調べてみると、昭和三十一年二月十九日付創刊号から昭和五十六年十二月二十四・三十一日号までである。
     隣には中外医学社があり、その横から路地に曲がれば新潮社別館の丁度裏側に矢来能楽堂があった。新宿区矢来町六十番地。「もっと大きいかと思ってた。」三階建ての建物だが、門はごく普通の(と言っても昔懐かしいような)家である。

     矢来観世家・観世九皐会の本拠地として活動の拠点となっている。
     昭和二十七年(一九五二年)に現在の舞台・建物が建てられ、現在東京都内にある能楽堂のなかでは、杉並区にある大蔵流狂言・山本家の舞台に次いで古い。
     国の登録有形文化財
     観世清之は当初神田西小川町に舞台を設けたが(一九〇八年)、関東大震災のために焼失。
     一九三〇年に牛込矢来町の現在地に移って舞台を復興するが、さらに一九四五年五月二十四日、空襲のために二度焼失した。
     このため戦後、家芸を相続した二世観世喜之は舞台復興を悲願とし、物資不足のなか御料林の檜をゆずり受けるなどして、一九五二年、現在の舞台を完成させた。
     以来二世及びその養子三世観世喜之の二代に渡って観世九皐会の活動の拠点となっており、現在でも九皐会の例会を初めとしてさまざまな演能活動に使用されている。(ウィキペディア「矢来能楽堂」より)

     ここから姫は住宅地の路地を進む。「眠った子を起こしちゃったよ。パンを食ったからな。」講釈師は、さっきのランチでパンを食ったために、却って腹が減ったとぼやいているのである。「恰好つけていつもと違うことしちゃダメじゃないの。」「そうなんだよ、だけど、テーブルのみんながパンだったからさ。」ヨッシー、ダンディ、ドクトル、講釈師のテーブルである。
     矢来公園は若狭小浜藩・酒井家下屋敷跡だ。新宿区矢来町七二番地付近。さっき触れた大老酒井忠勝の藩である。寛永十六年(一六三九)八月の江戸城の火災の際に家光が避難したとき、屋敷の周囲に竹矢来を廻らしたことから、矢来町の名がついた。「矢来って何?」「時代劇でさ、処刑場の周りを囲んでるじゃないの。あれが竹矢来。」「そうか、分かったよ。」
     親子のリスのようなオブジェのそばに「杉田玄白生誕地」の標柱が立っていた。小浜藩医の玄甫の嫡男として享保十八年(一七三三)に、この下屋敷内で生まれたのだ。屋敷内には小堀遠州の庭園もあったというが、その敷地もマンション群になってしまって面影は一切残されていない。
     ここからの道が分かりにくい。「二度と同じ道を歩けないね。」南榎木町の住所表示が出てきてからすぐ、林氏墓地のコンクリート塀が見えてきた。新宿区市谷山伏町一番地十五。後で確認すると、南榎木町と南側の市谷山伏町を隔てる小路である。南東側には市谷小学校がある。
     扉は閉ざされていて入ることはできないが、塀に開けられた鉄格子の間から様子が伺える。百十坪の敷地に林羅山以下林家十八世を含む八十基ほどの墓が並んでいる。「あんまり豪華じゃないのね、台石がないの。」ハイジは、これが儒式なのだろうかと考え込む。大塚の先儒墓所も質素というか、林の中に墓石が点在するものだった。
     「儒式のお葬式ってあるのかしら。」「儒教は宗教じゃないからじゃないか。」「そうね、仏像みたいなものもないわよね、あるかしら。」孔子像くらいだろうか。
     私の儒教に関する知識は、加地伸行『儒教とは何か』で読んだ程度で詳しくないのだが、「儒」はもともと葬送儀礼に携わるシャーマンの集団であった。つまり儒教は葬送儀礼と祖霊信仰をその中心にもつ宗教であった。

     ・・・・・儒はもと巫祝を意味する語であった。かれらは古い呪的な儀礼や喪葬などのことに従う下層の人たちであった。孔子はおそらくその階層に生まれた人であろう。しかし無類の好学の人であった孔子は、そのような儀礼の本来の意味を求めて、古典を学んだ。『書』や『詩』を学び、これを伝承する史や師についても、ひろく知見を求めた。そしておよそ先王の礼楽として伝えられるすべてのものを、ほとんど修め尽くすことができた。儒学のもつ知識的な面は、これですでに用意を終えているのである。これをどのように現実の社会に適用してゆくか、それが次の問題であった。(白川静『孔子伝』)

     以下は加地の本から私が理解したことだ。人の命は魂(精神を司る)と魄(肉体を司る)が一体化したもので、死はその魂魄が切り離されることである。従って可能性として魂を魄に戻してやれば再生する。そのため容器としての魄(特に骨)を火葬することは許されない。
     魂は消滅することがなく、祖先――父母――自分――子――子孫 という血脈の中に生き続ける。招魂のために祭祀を執り行うのは、その魂のためである。祭祀の主催者である自分が死ねば、その祭祀権は子に、孫に移る。ここから「孝」の概念が生まれてくる。父母に対するだけでなく、先祖、子や子孫に対しても「孝」は果たされなければならない。
     現在の仏式の葬送儀礼には儒教所縁のものが多い。元々仏教では、人は死ねば(中陰を過ぎれば)六道を輪廻転生する。たまたま釈迦のように悟りを開いて輪廻転生の輪から解脱する者もいるが、霊魂なんていうものはなかったから、墓は不要であった。墓石は儒教の葬送で死者を象った神主を模倣したものである。また儒教の喪が足掛け三年(丸二年)であることから、仏教は三回忌(丸二年)を発明した。
     要するに日本では、葬送については大胆に儒教の様式を取り入れた仏教側が担当したから、儒教は主に礼教の部分が採用されたのである。

     すぐに大久保通りに出て、姫は西に向かう。金属の地名表示が立っていて「焼餅坂」とある。市谷山伏町と甲良町との間の道で、焼餅を売る店があったから名づけられたという。市谷柳町の信号を渡り、今度は大久保通りを逆に戻る。「あの辺で渡ってしまえばよかったんだな。」「ここまで信号がなかったからね。」姫は交通法規を遵守する人である。
     柳田病院の角を入ると、病院の裏手あたりに小さな鳥居が見えた。ここが試衛館跡である。新宿区市谷柳町二十五番地。天然理心流三代目の近藤周助が建て、後に勇が四代目を継いだ。この辺りは作事奉行配下の大棟梁である甲良家が拝領した土地で、自身は住まずに町人に貸したことから甲良屋敷と呼ばれる。

    幕府のうち建設事業に関係する奉行のひとつに作事方(奉行)があった。
    江戸時代の建築の大半はこの作事方の作品であり、日本の古典的建築の伝統は作事方によって守られた。作事奉行の下に大工頭がいた。「大工さん」の長ではなく技術官僚の最高位の職名で、木原・鈴木・片山各家が世襲した。京都には京都大工頭がおかれて中井氏が世襲した。大工頭の下僚の大棟梁は、建築工事を直接指揮する最高技術官で、甲良、鶴、平内の三家に、のち辻内が、さらに町棟梁の石丸家が加わった。大棟梁は世襲でそれぞれ設計指針書ともいうべき木割術を代々伝えた。大棟梁はデザイン担当の建築家であり工事監督もおこなう存在であった。(日本土木工業協会「幕府大棟梁・甲良家の人々 (一)」
    http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/ce0309/sanpo.html

     「歳三は途中から入ったから免許皆伝をもらえなかったんだ、ネッ、そうだよね。」私に同意を求められても分かる筈がない。「俳号は豊玉っていうんだ。」新撰組のことなら講釈師が一番詳しい。「下手な句を作ってたらしいね。」

     知れば迷ひしなければ迷わぬ恋の道  豊玉

     これが俳句だろうか。私のヘボな俳句とどっちもどっちではないか。土方歳三は、あの髪をオールバックにした洋装の写真が圧倒的で、それに司馬遼太郎の造形が加わったので、誰でもファンにならざるを得ない。しかし、実像となるとどれ程知られているだろうか。
     「京都の八木家に行ったらいいよ。芹沢鴨が暗殺された時の刀の跡が残ってる。」確か講釈師は新選組の跡を訪ねるためだけの目的で京都に行ったことがある。
     ここからは大久保通りに並行する住宅地の道を東に行く。茶道具の店があり、裏千家の「和の学校」(今日庵東京出張所)がある。おかしな形の住宅がある。二階部分が雲(?)のような形の不定形で、ところどころに小さな窓がつけられているのだ。ヨッシーと一緒に奥を覗くと駐車場になっていて、車が何台も駐車しているからマンションなのだろうか。「潜水艦の訓練用の家じゃないの。」そんな風にも見えなくはない。
     「向こうは防衛庁でしょう?」マルちゃんが右手向こうに見える建物を指さした。地図を見ると確かにそうである。但し防衛「庁」は古い。防衛省と言わなければならない。この辺りは大日本印刷、NTTの社宅や市谷加賀町アパート(住総研)が並んでいて、普通の民家は少ない。住所表示は市谷加賀町で、ウィキペディアによれば加賀藩前田光高の夫人の屋敷があったことに因むという。前田光高婦人ならば、正室は水戸頼房の娘大姫である。
     牛込三中の角には「東京都立(府立)第四中学校の跡」碑があった。「一中が日比谷、二中が立川、三中はどこだったかしら?」「両国だよ。」そして四中は戸山高校になる。
     その角を曲がると、クーデンホーフ光子生誕地が納戸町公園になっている。新宿区納戸町二十六番地。私は名前をなんとなく聞き知っていた程度で、詳しいことが分かっていない。

     クーデンホーフ=カレルギー光子こと青山みつは、東京府牛込で骨董品屋を営む青山喜八と妻津禰の三女として生まれた。一八九二年当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーに見初められ、大使公邸に小間使いとして奉公する。ハインリヒが騎馬で移動中、落馬したのを、みつが手当てしたのがなれ初めだといわれるが定かではない。
     一八九三年に周囲が反対する中、光子はハインリヒと結婚する。長男ハンス光太郎、次男リヒャルト栄次郎の二人の子を東京でもうけた。書類が残されており、東京府(当時)に届出された初の正式な国際結婚と言われている。(ウィキペディアより)

     「次男がEUの父と言われています。」リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーが提唱した汎ヨーロッパ主義がEUの母体になったというのである。
     「今日はお煎餅持ってきたよ」とチロリンが煎餅をくれる。クルリンも煎餅を出す。あんみつ姫は塩飴を出してくれる。有難いことだ。水道の水を頭にかぶれば気持ち良い。
     さっきの道に戻り更に東に行って姫が立ち止った。「この辺なんです。」案内板も何もないが太田南畝生誕地だという。新宿区中町十四番地付近。南畝は、寛延二年(一七四九)に生まれ、文化元年(一八〇四)五十六歳で小日向金剛寺坂に転居するまでここに住んだ。神楽坂マンションと牛込台永谷マンションが並んだ辺りだ。住宅地の真ん中だが、江戸の頃には徒士の組屋敷があった町である。牛込御徒町は大久保通りから一本目の北御徒町、二本目の仲御徒町、三本目の南御徒町とあって、それぞれ両側に十五軒づつ三十軒の組屋敷が並んでいた。現在の北町、中町、南町である。

     江戸幕府における徒歩組は、徳川家康が慶長八年(一六〇三)に九組をもって成立した。以後、人員・組数を増やし、幕府安定期には二十組が徒歩頭(徒頭とも。若年寄管轄)の下にあり、各組毎に二人の組頭(徒組頭とも)が、その下に各組二十八人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は七十俵五人扶持。礼服は熨斗目・白帷子、平服は黒縮緬の羽織・無紋の袴。(ウィキペディア「徒士」より)

     南畝は才人である。田沼意次失脚とともに狂歌から離れていったのは、処世にも長けていたことを示す。寛政四年(一七九二)、四十六歳で「学問吟味登科済」の創設にあたって甲科及第首席合格となって、官僚への道を歩き出す。江戸時代十八世紀後半の学芸(宝暦天明文化)は南畝を抜きにして語れないのだから、何か案内板があっても良いのではないか。
     ここは高級住宅地である。道端に電話ボックスのようなものを設置し、婦人警官が一人で立ち、足元にはジュラルミンの盾を置いてある。「これは交番ですか?」「違います。」それにしても珍しい。私はこういう一人用組み立て式移動交番とでもいうべきものにお目にかかったことがなかった。

     油照婦人警官立哨す  蜻蛉

     「写真撮っていいですか?」「ダメです。」要人警護のためのものであろうか。「蜻蛉は、可愛い女の子を見るとすぐに写真を撮りたがる。」そういう意図がなかった訳ではない。なかなか可愛いらしい警官であった。調べてみると、これは「立哨ポリスボックス」というものである。特許公報一覧に載っていた。

    【課題】簡易に一人ででも組み立てられ、使用者の居住性を配慮すると共に利便性をはかった立哨ポリスボックスを提供する。
    【解決手段】頂部を半透明な耐触性を有した合成樹脂製の屋根部と、透明と半透明のパネルを用いたコの字形状の側面体と鉄板台座と各々別体と成した3体の部材によって構成され、該部材の所定位置に穿設した同通穴へ同一寸法、同一形状のボルトを挿入し、蝶螺子で締め付け立設し、所望箇所に設置するものである。早急時に警察官の警備が必要な場合に、小型車輛で複数の立番、立哨交番が急送できると共に、一人で組立設置でき、居住性と使い勝手の良さを追求し、又任務の終了後、極めて短時間で撤去できる。
    http://www.publish.ne.jp/JPU/0003140000/0003144400/JPU_0003144488.htm

     宮城道雄記念館。新宿区中町三十五番地。塀の外に立つ大きな石碑「宮城道雄氏略傳」は佐藤春夫である。

     宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る 生後二百日にして悪質の眼病あり九歳遂に失明し二代目神戸中嶋検校の門に入る その藝術的天分は夙に音楽に發現し十六歳にして處女作「水の變態」を成し 爾来「春の海」「秋の調」「落葉の踊」「櫻變奏曲」等幾多の名曲あり獨自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音楽と稱せらる
     昭和五年東京音楽学校に迎へられて講師となり同十二年には同校教授たり 十九年高等官三等正五位に任せられ昭和二十四年には東京藝術大學講師たり 三十一年六月正四位勲四等に叙せられ 旭日小綬章の授與を受く その間芸術院會員の拝命放送文化賞の受賞 世界民族音楽舞踊祭に日本代表として渡歐なとの榮譽ありしを 昭和三十一年六月二十四日關西交響楽団との協演のため大阪市に向ふ途上列車銀河より東海道刈谷驛附近の鐵路に轉落せるを發見手當中翌二十五日光輝ある六十二年の生涯を終りぬ
     口述およひ点字寫字機に依る「雨の念佛」「騒音」「垣隣」等の詩趣多き随筆の類を収めたる全集三巻の遺著あり 亦その詞藻を見るに足る
         右  七周忌に當り屬により
                        遺友  佐藤春夫 撰

     そういえば列車転落のことを思い出した。ただ、三十一年といえば私はまだ五歳だから、後で知った記憶だろう。「俺は宮城道雄におもちゃをもらったことがある。」スナフキンは当時芸大の官舎に住んでいたはずだから、その縁だろう。
     入館料は四百円。「団体割引はないのか。」十六人では普通団体扱いはない。「老人割引はないのかい。」そういうものもない。「煩い人は二倍払ってもらいます。」受付の女性が苦笑いしている。展示室内には『春の海』が流れている。点字の楽譜や点字タイプライターというものを初めて見た。いくつもの筝や、笙、篳篥が展示されている。今更ながら宮城道夫は偉かったのだと知るのだから、私は勉強が足りない。
     庭を通って検校の間に行く。六畳だけの小さな離れだが、庭にヤブカンゾウが咲いていた。オレンジ色のユリのような花だ。忘れ草とも呼ばれ、立原道造『萱草(わすれぐさ)に寄す』がある。

     忘れ草しばし聴き入る春の海  閑舟

     三十分ほどで外に出る。その先を右に曲がって行くと左手には広大な邸宅が広がっている。「地図に載っていませんか?」ヨッシーの言葉で確認すると最高裁判所長官公邸であった。新宿区若宮町二十番地。最高裁判所の長官にこれほど広大な公邸が必要なのだろうか。
     昭和三年、富山県の廻船問屋馬場家が、進学のために上京した長男の住居として建てた家である。設計は東京中央郵便局や大阪中央郵便局を設計した吉田鉄郎だ。昭和二十二年に公邸となって現在に至っているが、老朽が激しいにも関わらず、建て替えや修理のめどが立っていないという。千二百坪の土地に三百坪の木造二階建ての家が建っている。
     道なりに左に回れば、その先は逢坂という急坂だ。何台かバイクの連中が登ってくるが、いったん停止した一台がエンストを起こして、なかなか動きだせないでいる。逢坂を説明する標柱には小野美佐吾とさねかずらの悲恋物語を記しているが、「名にしおはば逢坂山のさねかずら」からの「好事の人の付会せることを知るべし」と『江戸名所図会』は考察している。

     逢坂(あるいは大坂に作る)。牛込船河原町の西、いま軽子坂と呼べるはこれなり(この坂下御溝端の町家を揚場町と唱へるは、このところまで船の通行ありて、このところより荷を揚ぐるゆゑに揚場町の唱へあり。この地に多くの軽子の住居あるゆゑに、また坂の名とせりといふ)。

     ここで『江戸名所図会』の記述に疑問が出た。「牛込船河原町の西」というからにはこの坂で間違いないが、今の地図で軽子坂は、神楽坂通りの一本北東の坂(神楽河岸セントラルプラザに突き当たる坂)である。安政の地図を見ても今の地図と変わりはないので、これは斎藤月岑の勘違いだろうか。
     坂を下りると左に筑土神社の小さな祠があった。船河原町は筑土神社の氏子で、神社とともに元平河村付近にあったものが江戸城拡張の際に牛込に移転した。太平洋戦争の東京大空襲で被災した筑土神社が九段に移転したのちも、船河原町は現在地にあって飛社として祀っている。
     その前に「掘兼の井跡」の案内板が立っている。新宿区市谷船河原町九番地。掘兼の井というのは各地にあって、狭山の掘兼神社が有名だろう。藤原俊成「「武蔵野の堀かねの井もあるものを うれしや水の近づきにけり」から、武蔵国の名所とされているが、特に比定する土地を探す必要はないのではないか。要するに土地が固くてなかなか掘れない井戸のことだ。この井戸には継子虐待の伝承が残されているが、信じる必要はないだろう。
     少し坂を上って次は若宮八幡神社だ。新宿区若宮町十八番地。これも小さな神社だが、頼朝が奥州討伐の後、鶴岡の若宮八幡を勧請したと言われている。
     若宮公園を過ぎれば東京理科大学近代科学資料館だ。新宿区神楽坂一丁目三番地。木造二階建て校舎を復元したもので、正面の壁の上部には「東京物理學校」と記されている。

     東京理科大学近代科学資料館は、東京理科大学創立百十周年を記念して平成三年十一月に建設されました。館内には、東京理科大学の前身となる東京物理学校から引き継がれた貴重な資料や寄贈資料を一堂に集め、体系的な展示を行っています。
     資料館の建物は、昭和十六年東京物理学校理化学部卒業の故二村冨久氏(二村化学工業の創業者)の御寄付により、明治三十九年に本学ゆかりの地である神楽坂に建設された東京物理学校の木造校舎を復元した物で、その建物自体も展示品とみることができましょう。東京理科大学では、この建物に二村記念館の副称を付け、永くその意志を称えることとしました。http://www.tus.ac.jp/info/setubi/museum/main/greeting.html

     東京物理学校は明治十四年(一八八一)、東京大学理学部物理学科の初期の卒業生によって私塾として設立され、大正六年(一九一七)に旧制専門学校に昇格した。私立では唯一の理科専門学校であった。

     どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。
     三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。(夏目漱石『坊ちゃん』)

     物理学校は無試験で入学できるが卒業は難しく、三年間で卒業できるのは入学者の一割程度しかいなかった。明治三十五年の入学者二百八人に対し、三年後に無事卒業した者はわずかに二十五人しかいない。坊ちゃんは優秀だったのである。「そうか、坊ちゃんは優秀だったのね。」

     当館は「日本一の計算機コレクション」「録音技術の歴史」「東京物理学校の貴重資料」の常設展示と特別企画展示からなる博物館です。 神楽坂の落ち着いた雰囲気の中、今日までの近代科学の発展の歴史を無料でご覧いただけます。

     算木、算盤、計算尺から始まって様々な計算機が展示されているのが面白い。書物だけの知識で知っていたタイガー式の計算機というものを初めて見たのも有益だった。二人の若い客が学生の指導で計算をしているのを脇で見る。
     掛け算はハンドルを掛ける回数だけ回すとは知っていたが、実はそんな単純なことではない。たとえば2×100の場合、ハンドルを百回も回すのはバカである。「先日、小学生は百回回そうとしました」と学生が笑っている。実は桁を決める部分があって、三桁に設定すると、一回で百回分回したと同じ結果が得られるのだ。なかなかためになる。
     初期のパソコンも懐かしい。PC9801は、私が初めて使ったパソコンだった。当時はドットプリンターを含めて百万円もしたものだが、ハードディスクなんかなくて八インチのフロッピーディスクしか使えなかった。メモリも二五六キロバイト程度だった。一メガを増設して、やっと人から貰った計算ソフトLotusが使えた。
     隣の部屋で実演してくれるのが、Bush式アナログ微分解析機という代物である。「理科大学で雨曝しになっていたものを、一年かけて使えるように復元しました。」但し一部まだ復元が済んでいないので正しい計算結果は出ないという。

     一九三一年に考案された微分方程式を解くための大型計算機。本学数学科の清水研究室で実際に使用されていたもの。積分器三台、入力卓一台、出力卓一台で構成。
     Bush式アナログ微分解析機は、一九三五年に米国マサチューセッツ工科大学のV.Bushが考案。昭和十年代、この原理を論文で理解し日本で数機が制作された。当機は大阪大学で製作されたものである。コンピュータにつながる技術として注目される。

     「あまり近づくと、衣服が引き込まれる危険がありますから、少し離れてください。」昔の計算機は危険なものでもあった。水平に置かれた金属の円盤が二つ、それと縦に接する小さな円盤。これらを動かすのは大掛かりなモーターである。「ベルトの太さによっても結果がまるで違いました。」
     実験は微分方程式をグラフに表わすというものだ。「実物は紙に書き込むようになっていますが、今日は投影します。」つまり方程式に数値を限りなく入力していってグラフにするのである。「正しく計算すればきれいな円ができます。」五六分で円が出来上がるかと思われたが、線は微妙にずれた。やはりまだ復元途上の機械であった。

     理系脳に灯す微分解析機  閑舟 
     

     宗匠とヤマチャンは理系だった。壁際には真空管方式の大型コンピュータが鎮座している。姫が決めた定刻まであと少ししかないが二階も少し見なければならない。すぐに出口に戻るともう全員が集合していた。
     外堀通りを駅に向かうと、対岸には法政大学の大きなビルと東京逓信病院が見える。姫がお茶を飲みたいと言っていた東京水上倶楽部「カナル・カフェ」は一杯だった。操業が大正七年(一九一八)、東京で初めてできたボート場だという。横から覗き込んでみると、デッキの上に椅子テーブルが並べられている。川の澱んだ臭いが漂ってくる。ここで講釈師とその一団の女性陣は帰っていた。一応店のホームページを引いておこう。

     東京水上倶楽部(創業一九一八年)とは、東京で最初に出来たボート場です。(後に出来た不忍池や井の頭恩賜公園のボート場オープン時にもお手伝いしていたそうです。)一九一八年当時、東京には都民の為のレクリエーション施設などが無い状況でした。
     初代東京市長である後藤新平氏と古川清(オーナーの祖父)が都民の為に何かできないかと考えた結果、外堀を利用したボート場建設を発案するに至りました。この計画の背景には当時の日本人の骨格が欧米人に比べて貧弱であると感じていた二人の思いが中心にあったようです。
     しかし、当時は東京市に施設を作る財政は無く、古川清が私財を持ち出し、郷里より船大工を連れて現在の場所(飯田橋)に百艘からの舟を作ったそうです。当時は一度に十人以上も乗れる舟がありました。(皇族の方々にもご利用頂いたそうです)結果、ボート場は市民の憩いの場になっていきました。も ちろん、現在でも東京水上倶楽部はボート営業をしております。(東京水上倶楽部)http://www.canalcafe.jp/history/

     まだ三時を過ぎたところだ。本日の歩数は宗匠の計算で一万五千歩となるが、彼は事前に逓信病院まで行っているのだから少し差し引いて一万四千歩としておく。八キロちょっとということだろう。
     「日高屋しかないかな。」「中華は無理です。」「さくら水産は四時から。」それならどこにしようか。「あそこにあるんじゃないか。」朝、定刻まで待っていた飯田橋ラムラの方に行ってみる。「蕎麦屋がある。」飯田橋セントラル・プラザの中の「越後そば酒房・笹陣」という蕎麦屋に決めた。
     「お食事ですか?」「ちょっとお酒を。」薩摩揚げやつまみも結構ある。焼酎を二本空けて三千六百円也。

    蜻蛉