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    第五十四回 隅田川橋巡り
    平成二十六年九月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.09.21

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     この夏は全国各地で記録的な豪雨による甚大な被害が頻発した。特に西日本では八月の降雨量は平年の二・七倍に達し、気象庁は三十年に一度の異常気象と発表し、「平成二十六年八月豪雨」と命名した。

     この豪雨は、気象庁により、大きく三段階に区分されている。 一つ目は、二〇一四年八月一日から五日までの台風十二号による四国を中心にもたらした大雨である。また、台風から遠く離れた北海道、東北でも、北日本に停滞していた前線が活発化し、大雨がもたらされた。 二つ目は、八月七日から十一日までの台風十一号による東海、近畿、四国地方などへの大雨である。また、この台風の影響で、栃木県において竜巻が発生し被害を受けた。 三つ目は、台風一過の八月十一日以降も日本列島に停滞した前線がもたらした局地的な豪雨である。前線や暖湿流は、特に八月十六日から十七日かけて福知山市に豪雨を、八月十九日夜から二十日未明にかけて広島に豪雨をもたらした。福知山市では、市街地の約二千五百世帯が浸水し、広島市安佐北区と安佐南区では、多数の土砂災害が発生し、三十名以上(八月二十一日時点)の死者をだす(広島土砂災害)など甚大な被害が発生した。(ウィキペディア「平成二十六年八月豪雨」より)

     広島土砂災害の死者は七十人を超えた。幸い関東では大したことがなかったと安心していると、今週水曜日には江東区を中心に猛烈な雨が降って新小岩駅が冠水したし、木曜・金曜には北海道や東北に大雨が降った。一時間に百ミリ程度の猛烈な雨が予想されると、「記録的短時間大雨」情報が出される。
     しかし、こうした豪雨は今年の夏だけに特有なことではない。この数年毎年のように、「記録的」豪雨による被害が発生する。それに加えて西アフリカではエボラ出血熱が猛威を振るい、日本では代々木公園の蚊によってデング熱が発生した。六十九年振りの国内発症で、代々木公園は閉鎖に追い込まれ、さらに地域は拡大している。地球規模で異常が起きているのである。既に日本列島は亜熱帯に属すことに決まっただろう。

     今日は旧暦八月二十日。白露の次候「鶺鴒鳴」。今週の火曜日(九日)にはスーパームーンが見られた。我が家のクーラーが壊れたのは八月二十五日で、ちょうどその頃から三十度を超える猛暑は納まった。九月に入っても天気は不安定で急に秋の気配が漂ってきた。この秋は去年と違って寒くなりそうだ。ツクツクボウシやヒグラシの声が大きく聞こえるようになり、コスモスも咲いてきた。赤ん坊は生後百日を過ぎ、必死で寝返りをするようになって目が離せない。

     日暮や寝返り初む孫の首  蜻蛉

     今回は桃太郎が企画した。隅田川を下るのだから、平成二十年二月に講釈師がリーダーをした番外編「向島編」コースの西側を辿ることになる。あの時は堀切からスタートして隅田川七福神を中心に歩いた。だから、この近辺について講釈師はかなり詳しい筈で、今日も講釈が喧しくなるに違いない。
     集合場所は東武伊勢崎線の東向島駅である。東武鉄道はスカイツリーラインの呼称を広めたいようだが、誰もそんな呼び方はしない。我が家からはどういう経路を辿ればよいか。最短時間で選べば、鶴ヶ島~池袋(東上線)、池袋~上野(山手線経由)、上野~浅草(銀座線)、浅草~東向島(東武伊勢崎線)のコースで片道千十円になる。最も安いのは副都心線で渋谷に出て、半蔵門線で押上、そこで伊勢崎線に乗り換えるコースで八百二十円である。しかし最短コースと比べれば十九分も遅くなる。百九十円との差をどう考えるかだが、八月にプリンタを買い替えてヘソクリも淋しくなったので、迷わず渋谷経由を選んだ。
     途中で仲間がいないかと車両の中を見回したが見つけられない。考えればこんなコースは誰も辿らない。おそらくみんな新越谷から伊勢崎線を下っているだろう。改めて地図を確認すると確かに無駄に大回りしている。ただこのコースは、鶴ヶ島から一度も改札を出ずに済む。JRを使わないから安いのだ。
     駅に着くともうかなりの人数が集まっていた。リーダーの予想しない時刻に改札を出たものだから、「どこから来たんですか」と訊かれてしまう。「渋谷から半蔵門線経由。」「それは随分遠いじゃないですか。」久し振りの碁聖は「夏の間は一歩も外に出ちゃいけないって言われたもので」と笑う。 

     夏過ぐや閉門解けて隅田川  蜻蛉

     予想していた通り、講釈師が得意げに講釈しているように、東向島駅は人も知る旧玉ノ井駅である。関東大震災後の浅草の区画整理で追われ、あるいは震災被害にあった銘酒屋が、狭い田圃を潰した畦道をそのまま路地にしたような恰好で、てんでん勝手に店を作った。その玉の井(寺島町七丁目、六丁目辺り)は伊勢崎線の東側の東向島五丁目、六丁目で、言うまでもなく荷風が『濹東綺譚』で描いた町である。
     昭和六十二年(一九八七)、東武鉄道は駅名を現在の東向島に変えたが、地元からは旧名保存の要望が強かったため(と言われる)、駅名表示の右に括弧書きで(旧玉ノ井)と小さく書いてある。

    聞いたばかりの話だから、鳥渡通めかして此盛場の沿革を述べようか。大正七八年の頃、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、広い道路が開かれるに際して、むかしから其辺に櫛比していた楊弓場銘酒屋のたぐいが悉く取払いを命ぜられ、現在でも京成バスの往復している大正道路の両側に処定めず店を移した。つづいて伝法院の横手や江川玉乗りの裏あたりからも追われて来るものが引きも切らず、大正道路は殆軒並銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。浅草の旧地では凌雲閣の裏手から公園の北側千束町の路地に在ったものが、手を尽して居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時悉くこの方面へ逃げて来た。市街再建の後西見番と称する芸者家組合をつくり転業したものもあったが、この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った。初め市中との交通は白髯橋の方面一筋だけであったので、去年京成電車が運転を廃止する頃までは其停留場に近いところが一番賑であった。
     然るに昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では端れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席、活動写真館、玉の井稲荷の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。況や人の一生に於いてをや。(永井荷風『濹東綺譚』)

     荷風の小説の背景は昭和十年か十一年頃であり、滝田ゆう『寺島町奇譚』は、おそらく昭和十七八年から二十年三月十日に至る数年間の向島区寺島町だった。主人公は滝田ゆう本人(昭和六年生まれ)よりは二三歳年下に設定した少年キヨシである。

     少年キヨシは玉の井育ち。ものごころつき、キヨシがあたりを見回したときから、そこはすでに銘酒屋と呼ばれる特殊飲食店ひしめく場末の色町のど真ン中であった。町はその銘酒屋を囲んで、よりそうごとくに共存し、その明け暮れに屈託はなかった。(滝田ゆう『昭和ながれ唄』)

     「ちかみち」、「抜けられます」、「本日検診日」の看板、お歯黒どぶ、肛門科。四つ玉のビリヤード、メンコ、ビー玉、エジソンバンド。下駄の歯に挟まった石。場末の猥雑な色町なのに、震えるような描線の効果もあって、なぜか懐かしさを感じさせる漫画で、吉行淳之介は「哀しくやさしく淋しく愉しく薄倖のようで豊かな作品」と評している(講談社漫画文庫版解説)。探してみたが、上中下三巻本の下巻がどうしても見つからないのは、買い漏れてしまったからかも知れない。
     私娼街と呼べば何やらおどろおどろしいが、そこにも生活する住民はいたのであり、家族の日常生活は他所の町と同じように営まれていた。その玉の井も東京の下町と同じく、三月十日の大空襲で焼け野原に変わった。そして『寺島町奇譚』も空襲と疎開で終わる。滝田が少年時代を過ごした家(スタンドバー「ドン」)も勿論焼けた。滝田にとっては永久に失われた町であり、失われた少年時代であった。
     焼け出された連中は北側の寺島町七丁目(現在の墨田三丁目)に移転したので、そこが新玉の井と呼ばれた。また南に約一キロ離れた寺島町一丁目(現・向島五丁目)に、新たに「鳩の町」が作られ、吉行淳之介『原色の町』の舞台になった。戦後の赤線地帯である。「鳩の町は前に通ったじゃないか」と講釈師が得意気に声を上げる。

     さて、隅田川の橋のなかで、江戸時代に架けられたのは千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋の五つである。向島本所深川の人口激増と観光が橋を必要とした。新大橋が架けられたとき、深川に住む芭蕉は喜んだ。

     初雪や架けかかりたる橋の上  芭蕉
     有難やいただいて踏む橋の雪  同

     江戸時代には軍事的な理由から大きな川には橋を架けなかったというのは、どうやら俗説だった。そもそも奥州道の喉元である千住大橋が架けられたのは文禄三年(一五九四)で、家康の江戸入府からまだ四年、秀吉も生きているから関ヶ原の戦いも始まっていない時期である。奥州方面の軍事的な防衛が優先されるのであればこの時期に橋を架ける筈がない。
     また東海道から江戸に入る喉元の多摩川には慶長五年(一六〇〇)に六郷橋が架けられた。ただ度重なる落橋で、幕府はその後橋の架け替えを断念したから、明治まで六郷の渡しが残ることになる。
     橋を架けなかったのは、むしろ技術の未熟と維持コストの問題だったようだ。木製の橋の平均寿命は約二十年といわれている。それに加えて江戸に頻繁に起こった火災による焼け落ち、洪水による流出、事故によって、江戸の橋はしょっちゅう落ちた。この修復にかかるコストがバカにならない。

     定刻に集まったのは桃太郎リーダー以下、あんみつ姫、イッチャン、シノッチ、チロリン、クルリン、マルチャン、画伯、宗匠、ロダン、碁聖、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヤマチャン、ヨッシー、蜻蛉の十八人だ。「十七人じゃないの?」宗匠はまた数え間違っている。「十八人だよ。」「あっ、蜻蛉を入れてなかった。」やや薄曇りで暑くも寒くもなく、歩くにはもってこいの陽気だ。「晴れ男、晴れ女のみなさんのお蔭です」とリーダーが挨拶して今日の旅が始まる。
     最初に駅に隣接する東武博物館を覗く。入館料二百円は払わず外から覗くだけだが、最初にSLがあった。その隣にはデラックス・ロマンスカー「けごん」が鎮座している。「テッチャンには堪らないんだろうな。」私は鉄道ファンではないからそれ程感動はしない。「俺もあんまり興味ない。」そうか、スナフキンはこうしたものが好きなのかと思っていた。
     明治通りに出て北西に向かうと最初の信号が百花園入口だ。「あの時は天気が悪くて急いで弁当を食ったじゃないか。」講釈師の頭脳には一瞬のうちに当時の映像が浮かぶのだろう。さっき触れた隅田川七福神を歩いた時のことである。小雪が舞ってきたのだ。
     少し遠回りをしたが、漸く白鬚橋東詰に到着すると真正面に東京スカイツリーが立っている。「シラヒゲバシだよ。」「良く言えたじゃないの。」東京人の講釈師はヒとシが区別できない。「イッショケンメイ練習したんだ。」私にはちゃんと言えたように聞こえたが、すぐに異議が申し立てられる。「ヒとシが逆じゃなかったかしら。」「ゼッタイ、ヒラシゲって言ってたね。」稀に正しいことを言っても信用されないのは、講釈師の性格の故である。
     白鬚橋は、上流の千住大橋から数えれば水神大橋の次の三番目になる。大正三年(一九一三)架橋。当時は民間の経営で通行料を取ったものの経営は厳しく、東京市が買い取って関東大震災後の復興事業として昭和六年に再建したものだ。構造は下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋である。と言われても実は私には何のことか分かっていない。橋長一六八・八メートル、幅員二二・一メートル。
     橋の名は勿論白鬚神社(墨田区東向島三丁目五番二)に由来する。髭、鬚、髯等の字の区別は難しいが、ここは鬚と書かなければならない。髭は口ヒゲ、鬚は顎ヒゲ、髯は頬ヒゲである。猿田彦に顎ヒゲがあったと考えた。私のヒゲも鬚である。
     左岸は墨田区堤通一丁目、二丁目、橋を渡った右岸は荒川区南千住三丁目と台東区橋場二丁目の境界だ。荷風も書いているように、かつては東京市中から玉の井方面に来るにはこの橋を渡るしかなかった。
     この付近は橋場の渡し(白鬚の渡しとも言う)があった場所である。台東区の字名の橋場は勿論それに由来する。文禄三年(一五九四)に千住大橋ができるまでは、この渡しが奥州方面へ向かう中心的な道筋だった。但し昔から流路は頻繁に変わっているはずだから、場所も移動している可能性が高い。

    律令時代より制定があり、承和二年(八三五年)の太政官符に「武蔵、下総両国界住田河四艘。元二艘今加二艘右河等。崖岸廣遠。不得造橋。仍増件船(武蔵国と下総国の国境の住田河(隅田川)には現在四艘の渡し舟がある。岸は崖で広く、橋が造れないので二艘から増船した)」と書かれたものが残っており、この「住田の渡し」とはこの渡しと想定されている。
    奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。(ウィキペディア「隅田川の渡し」より)

     伊勢物語の主人公が渡ったと言えば、勿論「名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」であるが、宗匠に、「わが思ふ人」は藤原高子(たかいこ)だと指摘されるまで、私は全く思いつきもしなかった。言われてみればその通りだろう。「白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消えなましものを」で、鬼に食われた姫である。実際は鬼にも食われず清和天皇の女御となって二条后と呼ばれる。

     露草や昔男の思ふ人  蜻蛉

     またこの辺りは石浜と呼ばれ、江戸氏一族の石浜氏が城を構え、後に享徳の乱で下総を追われた千葉氏宗家の実胤が拠点とした地である。弟の自胤が拠った赤塚城には第九回「赤塚編」で立ち寄っている。
     橋の上は歩道を往来する自転車が多い。車道には自転車用のレーンがないから仕方がないのだが、十八人の団体になると、左端を歩く者、右端を歩く者などさまざまで、結果的に広がってしまう。「後ろから自転車です。」耳が遠くなってくる、なかなか声が聞こえないらしい。何とか聞こえても右に寄るか左に寄るか、ひとそれぞれ判断が違う。基本的には車道寄りが自転車だと私は思うのだが、ルールが徹底されていない。
     橋を渡り切った左に「明治天皇行幸対鴎荘遺跡」の石柱が立っている。対鴎荘とは三条実美の別邸であった。この辺りが別荘地だったことが今では分かり難い。隅田川は景勝の地だったのである。明治六年、征韓論をめぐる政府内の対立で太政大臣の三条が病に倒れ、明治天皇が見舞ったというのである。いわゆる明治六年の政変で、西郷、板垣、後藤、江藤、副島が十月二十四日に辞表を提出して野に下った。これによって参議の半数と、軍人官僚およそ六百人が辞職している。

     ここから土手に入り、途中から隅田川テラスに降りる。あちこちにゴミが散乱しているのは、先日の大雨で冠水した痕跡だろう。「こんなに豪雨が降るのは亜熱帯化してるんだよ。」スナフキンの説明は私の判断と同じだ。川をモーターボートの集団が下っていく。
     堤防の壁面には隅田川近辺を題材にした錦絵が、拡大して何枚も描かれている。最初に見たのは「東京名所 浅草公園池畔観覧場殷賑之光景 大正七年四月十日」というものだ。前景にはひょうたん池の噴水、後方の右端には凌雲閣、中央から左はキネマ倶楽部などの映画館が並び、役者の名を入れた幟がはためいている。つまり六区の光景である。空には複葉機が飛んでいる。
     大正七年(一九一八)は第一次世界大戦の好景気から一挙に米価が暴騰し、八月には米騒動が起きた年である。絵からはそんな雰囲気は全く感じられない。
     「江戸東京博物館所蔵だってさ。行かなくても見られるんだからいいね。」「所蔵品も普段から展示してるわけじゃありませんからね。」「こんなに大きいのかい?」「実際にはA3くらいですよ。」こんな壁画の大きさでは錦絵が売れる筈がない。調べてみると、縦三八・六センチ、横五〇・七センチだから、B3版に近い。
     次は「凌雲閣機絵双六」(歌川国定)だ。「これが十二階だよ。」「デパートみたいなものですか。」「そうですね。勧工場が入ってました。」姫も浅草には詳しい。左には外観図、右には、縦に切って内部を見せた図がならべて描かれてあるのだ。十回までが角形の総煉瓦造りで、十一階、十二階が木造である。「行ってみたかったですよね。」あんみつ姫は凌雲閣に憧れる。当初の設計ではエレベーターはなかったが、途中で八階までのエレベーターを敷設したらしい。しかし故障続きで、一年後には稼働が中止されている。

    十二のフロアがある閣内はどのようになっていたのでしょう。レイアウトは時代によって変化があったようですが、当時の新聞記事によると、開場時の閣内は、世界各国・日本各地の産物を売る四十六の店舗が、勧工場式に二階から七階までを占め、エレベーターの停止階となる八階は休憩室を兼ねたスペース、九階は美術品などを展示するイベントフロアで、十階から十二階までが眺望室になっていたということです。またこの眺望室には各窓に椅子が備え付けられ、別途一銭を払うと三十倍の望遠鏡で遠景を楽しむことができました。フロア構成からみると、閣内はのちの百貨店のそれとよく似た雰囲気だったことが窺えます。(「明治大正」より)http://meijitaisho.net/ryounkaku/

     この建物の裏には銘酒屋、つまり実質的な私娼窟が広がっていた。通称十二階下と呼ばれたが、関東大震災後の区画整理で銘酒屋の再建が許されず、その多くが玉ノ井と亀戸に移転したのは先に触れた通りだ。
     壁画は「東京両国橋川開大花火之図」、「東京真画名所図解・今戸橋雪」(井上安治)と続く。姫はこの井上安治が好きらしい。「杉浦日向子さんが安治の絵をモチーフにしてるんです。小林清親の弟子です。早く亡くなってしまったんですよね。」そう言われてみると、この雪景色は水墨画のように淡く、杉浦日向子の風景画に似ているような気もする。
     ところで今戸橋とはどこにあった橋だろうか。隅田川の橋にはない。「山谷掘だよ。」やはり講釈師はなんでも知っていた。「猪牙舟でさ、吉原までいくんだよ。」絵はまだ続くが、いちいち書いていてはきりがない。「なんだい、ロダンは吉原に行きたいのか?」「そんなこと言ってませんよ。」愛妻家のロダンに吉原は似つかない。川縁には屋形船が舫っている。

     かすかなる汐の香流る隅田川  午角

     水上バス発着場の脇から土手に上がり橋を渡る。これが桜橋だ。昭和六十年(一九八五)、墨田区と台東区が費用を折半して架けられた。連続鋼X形曲線箱桁橋(連続曲線鋼箱桁)、一六九・四メートル。人道専用のX型の橋である。花見の名所だから桜橋と名付けられたようだ。
     スカイツリーが正面に見える。今日は一日中、このスカイツリーを見ながら歩くことになるだろう。四つの方向から来る橋が合流する中央広場には円錐を縦に切ったような石造物が置かれ、その切断面に鶴が彫られている。「双鶴飛天の図 瑞鶴の図(二)」平山郁夫の原画、細井良雄の彫刻である。その先には対になった「双鶴飛立の図 瑞鶴の図(一)」もある。「桜橋なのに、どうして鶴なんでしょう?」分からない。宗匠は「交流の場所の意味合いとして設置されたんじゃないか」と言う。釣竿を伸ばしている人がいる。

     ハゼ釣りや人道橋の隅田川  閑舟

     橋を渡り切ったとき祭り太鼓の音が聞こえてきた。「降りてみようぜ。」土手の階段を降りると、太鼓を載せた屋台と子供神輿が通っていくところだ。鼠色の半纏の背には「向島」、黒と赤の半纏の背には「番」の文字が染められている。「番」を背負う二人は坊主頭でパッチに草鞋履きだ。桜橋通りには提灯が吊り下げられている。「見番という提灯がありました。」

     隅田川太鼓過ぎ行く秋祭り  蜻蛉

     どこの神社だろう。「三囲神社かな?」地図を見れば一番近いのが三囲なのだが、講釈師は「牛嶋じゃないか」と言う。調べてみるとこれも講釈師が正しくて、今日明日が牛嶋神社の例祭であった。牛島神社は向島一丁目四番五。「牛を撫でたよな。」牛の像を見ると、何故か知らないがみんな撫でてみたくなるようだ。
     地理的な関係を確かめるために地図を見てみると、ここからやや北に「言問団子」(向島五丁目五番二十二)、長命寺(向島五丁目四番四)、弘福寺(向島五丁目三番二)があり、南の言問橋との間には三囲神社(向島二丁目五番一七)がある。シノッチからは濡れ煎餅が、姫からは塩飴が提供される。折角シノッチが私のためにくれたのだが、実は私は濡れ煎餅は余り好きではない。煎餅は固くなければいけない。(シノッチ、ゴメンネ)
     桃太郎は言問団子で休憩することも考えていたのだが、「甘いものが嫌いなメンバーからクレームがはいりそう」だと諦めた。これは私のことだろうね。私の我儘で他のみんなの楽しみを奪ってしまったのなら、それは大変申し訳ないことである。(なんて殊勝なことを真剣に思っている訳ではない。)
     もう一度川沿いに降りて南に下っていく。「あの辺のコンモリしたところが待乳山でしょうかね。」地図で確認するとそれに違いない。「あのネットを張った辺りが山谷堀だよ」と講釈師が指差す。ネットは少年野球場のようだが、待乳山聖天の北に沿って堀が流れていたのである。
     いったん言問橋の下を潜り、信号を渡って隅田公園の北端のところから橋に上がる。姫、宗匠、ヤマチャンが信号に引っかかってしまったので少し待つ。
     隅田公園は水戸藩邸(小梅屋敷)のあったところだからロダンは詳しいだろう。公園の中には関東大震災で逃げ遅れて死んだ富田木歩終焉の地碑がある。「へーっ、ここには二三回来てますが、見たことがありません。どういう人ですか?」おそらく普通の人の関心の範囲には入らないだろう。「俳人なんだよ。」藤田東湖の「天地正大気」碑のすぐそばにあった筈だが、ひっそりと建っているので気づきにくい。
       号の木歩は自嘲と自恃である。満一歳で原因不明の高熱を発して両足が麻痺し、生涯歩くことができなかった。小学校にもいけないまま、いろはカルタや少年雑誌で文字を覚え俳句を作った。学歴としては全くのゼロである。その貧苦の境涯を句に詠んで俳句界の啄木とも呼ばれる。
     関東大震災に見舞われた時、向島須崎の家(弘福寺の辺り)から自力では逃げることもできず、姉や妹たちに助けられてかろうじて牛嶋神社の土手まで避難した。下谷の勤務先から危険を冒して駆け付けた新井声風が、吾妻橋を渡って木歩の家のあたりを探し回って漸く見つけ出した。
     十四貫ある木歩を背負って必死の思いでこの近くまできたが、頼みの綱の枕橋は落ちている。この当時、桜橋も言問橋もまだない。背後から迫る火を逃れるには川に飛び込むしかないが、しかし疲労困憊した声風に、木歩を抱えて泳ぐ力は残されていない。無言の握手を交わし、声風は川に飛び込み、木歩はその場に残った。同い年の二人は二十七歳だった。生き残った声風は句作をやめ、富田木歩顕彰を生涯の事業と定めてその全集を編纂した。声風の生涯も辛い。木歩の『小さな旅』と言う文章が青空文庫で読むことができる。

     五月六日(大正七年)
     今宵は向嶋の姉に招かれて泊りがてら遊びに行くのである。
     おさえ切れぬ嬉しさにそゝられて、日毎見馴れている玻璃窓外の躑躅でさえ、此の記念すべき日の喜びを句に纒めよと暗示するかのように見える。
     母は良さんを連れて来た、良さんと云うのは此の旅を果させて呉れる――私にとっては汽車汽船よりも大切な車夫である。
     俥は曳き出された。足でつッぱることの出来ぬ身体は揺られるがまゝに動く。
     私の俥は充分に外景を貪り得るように、能うだけの徐行を続けているのだが、矢張り車夫として洗練されている良さんの足は後へ後へと行人を置きざりにして行くのである。
     やがて見覚えのある交番の前を過ぎた。道は既に紅燈紘歌の巷に近づいたのである。煙草屋の角や駄菓子屋の軒などに、江戸家とか松葉とか云うような粋な軒燈が点いている。それは煙草屋や、駄菓子屋の屋号ではなくて、それらの家々の路地奥にある待合や芸妓家の門標であることに気のついた頃はそうした軒燈を幾つとなく見て過ぎた。
     旨そうな油の香を四辺に漂わしながらジウジウと音をさせている天ぷら屋の店頭に立っている半玉のすんなりした姿はこの上もなく明るいものに見られた。
     この町のこうした情調に酔いつゝある間に俥は姉の家へ這入るべき路地口へついた。蝶のように袂をひらめかしながら飛んで来た小娘が「随分待ってたのよ」と云う、それは妹であった。
     家に入ると、姉は私を待ちあぐんで、既に独酌の盃を重ねているのだった。私も早速盃を受けて何杯かを傾けた。
     俳句などには何の理解も持たぬ姉ながら妹に命じて椽の障子を開けさせたり、窓を開かせたりして私を喜ばしてくれるのは身にしみて嬉しかった。
     三坪ほどしかない庭の僅か許りの立木ではあるが、昨年来た時の親しみを再び味わしてくれるのに充分である。昨日植木屋を入れて植えさせたと云う薪のような松が五六本隅の方に押し並んで居るのも何となく心を惹く。手水桶を吊り下げてある軒端の八ツ手は去年来た時よりも伸び太って、そのつやつやしい葉表には美しい灯影が流れている。
     五勺ほどの酒でいゝ気持になった。
      墓地越しに町の灯見ゆる遠蛙
      行く春の蚊にほろ醉ひのさめにけり
     こうした句作境涯に心ゆくばかり浸り得さしてくれた姉に感謝せざるを得ない。恰も如石が来たので妹などゝ椽先に語り合った。(『小さな旅』「俳句世界」大正七年六月掲載)

     姉の住む向島は弘福寺境内の妾宅である。木歩の住んでいた小梅から弘福寺まで、僅かな距離(私たちなら三十分もかからない)の一拍旅行が、木歩にとっては心弾む大旅行であった。貧苦の生涯の中にもこうした日々があったのは僅かな慰めだ。

     寝る妹に衣うちかけぬ花あやめ  木歩
     かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花  同

     しかし「蝶のように袂をひらめかし」て飛んできた妹がまき子だとすれば、娼婦として売られたものの結核に罹って戻されていたのである。そしてこの年七月に死んだ。因みに「妹」は「いも」ではなく「いもと」と読まなければならない。「いも」と読めば恋人や妻のことであるのは万葉以来の約束で、この場合には肉親の妹をさすのだから。

     大正十二年(一九二三年)の関東大震災による被害状況を受けて、帝都復興院総裁となった後藤新平(内務大臣を兼務)を中心とする政府主導で計画された震災復興再開発事業は、東京市の防災都市化にその主眼を置いていた。特に地震によって発生した火災による被害は甚大であり、延焼を食い止める防火帯の設置が重要な課題となった。昭和通りなどの幅員の広い幹線道路の建設と並んで、公園の確保に重点が置かれ、復興局公園課の折下吉延らにより、東京に三大公園(隅田公園、浜町公園、錦糸公園)が設置された。中でも隅田公園は、近世以来の名所であった桜堤と旧水戸藩邸の日本庭園を取り込み、和洋折衷の大規模な公園となった。(ウィキペディア「震災復興公園」より)

     言問橋は三径間ゲルバー鈑桁橋。橋長二三八・七メートル。これも昭和三年(一九二八)関東大震災の復興事業として架橋。もっと早くこの橋があれば木歩も助かったのである。「言問」は当然「名にし負はばいざ言問はむ都鳥」に由来するのだが、それは白鬚橋付近の橋場であると決着がついている。

     ゆるやかな弧線に膨らんでいるが、隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ。(川端康成『浅草紅団』)

     「『浅草紅団』って、なんだか変な小説ですね。」ブックオフで買った初版の復刻版(百円!)を姫に進呈したことがあったのだ。ストーリーの骨格がはっきりせず、なんだか中途半端に終わった小説である。「川端康成があんな小説を書くなんて意外でした。」後年ノーベル文学賞を受賞し、『美しい日本の私』なんて寝言みたいな文章を書いた人物の小説とは思えないだろう。「あれが当時のモダニズムなんだろうね。」
     「防火帯」としての隅田公園だったが、昭和二十年三月十日の東京大空襲には歯が立たなかった。東西の公園は人で溢れ、橋の向こうに行けば助かると考えた被災者は、浅草方面と向島方面から言問橋に群がって身動きができなくなった。そこに焼夷弾が降り注いで夥しい死者を出した。「あれがその痕跡なんだよ。」親柱の下の部分が黒く焼け焦げたようになっているのは、当時のままである。
     川端は昭和初期の言問橋しか知らないから、あんな風に書いているのだが、しかし言問橋は悲しい。私の感じ方には、こまどり姉妹の『浅草姉妹』(石本美由起作詞、遠藤実作曲)も影響しているかも知れない。「なにも言うまい言問橋の 水に流したあの頃は」であり、「親にはぐれた浅草姉妹」である。こまどり姉妹の経歴とは何の関係もないが、東京大空襲で逃げまどい、言問橋付近で親にはぐれた子供を想像してもよいだろう。
     それに、この辺りは敗戦後から一九六〇年まではバタ屋部落「蟻の町」があったところでもある。正確には分からないのが、おそらく墨田区側だと思う。蟻の町のマリア(北原怜子)の名前を覚えている人はいるだろうか。私は何となく覚えていたが、それがここだったと言うのは知らなかった。
     バタ屋は浮浪者や乞食とは明らかに違う、廃品回収業を生業とする人たちである。山中恒『サムライの子』では、(ここではないけれど)バタ屋をサムライ、浮浪者・乞食を野武士と呼んでいる。しかし生活環境は劣悪であった。

     第二次世界大戦後、職もなく、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていました。コンベンツァル聖フランシスコ会のゼノ・ゼブロスキー修道士は、「蟻の町」と呼ばれたその地をたびたび訪問していました。
     大学教授の娘で、恵まれた家庭に育った北原怜子(さとこ)というカトリック女性はゼノ修道士から蟻の町の話を聞き、そこに出かけるようになり、献身的に蟻の町の子どもたちの世話をしました。怜子は次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになりました。怜子はいつしか結核を患い、静養のために蟻の町を去りました。
     蟻の町のあった場所は今の墨田公園の一角にあたります。東京都はいく度となく、蟻の会に立ち退きを求めてきました。蟻の町を存続させるために、当時の蟻の会の人々は、教会を建てると言って、建物の屋根に十字架を取り付け、新聞にも取り上げられました。怜子の名は「蟻の町のマリア」として知られるようになりました。有名になった蟻の町に対して、都は代替地として「八号埋立地」を提示しましたが、都が示した条件は蟻の会にとっては厳しいもので、交渉は難航しました。
     一時蟻の町を離れて、病気療養をしていた怜子は病状が悪化し、これ以上治療方法がないと分かったとき、蟻の町に戻ることを希望しました。十字架が立った建物に近い小部屋に住み、蟻の町のためにひたすら祈り続けました。
     一九五八年一月十九日、怜子の祈りが神に通じたかのように、都が蟻の会の要求を全面的に認め、蟻の町の「八号埋立地」への移転が決定しました。その直後、北原怜子は一月二十三日に二十八歳の若さで息を引き取りました。
     (カトリック潮見教会)http://tokyo.catholic.jp/text/shokyoku/shiomi.htm

     女性二人を乗せた人力車が、やや上り加減の橋を前のめりになって走っていく。「よく走れるよね。」碁聖も驚いている。人力車は辛い。人間の労働力が極端に安く見積もられていた時代の遺物である。観光のためであろうと、私は人力車に乗る気にはなれない。

     人力車たたらを踏むや秋の橋  蜻蛉

     欄干のデザインを見て宗匠は「朝顔だよ」と指摘する。西詰の親柱には「復興局」のプレートがはめ込まれていた。地図を見ると、近くに「戦災の碑」がある筈だが、桃太郎はそこには行かず、橋の袂の小さな公園に入って行く。ここでトイレ休憩を取るのだ。浅草駅の方に向かう人力車の上には若い男女が座っている。
     土手を行き、東武線の下を潜って隅田川パレスに降りると、対岸に例の黄色い物体を載せたアサヒビールの建物が見えてきた。「何の形でしょうね?」ウンコであろう。「蜻蛉がそんなこと言うとは思いませんでした」と姫が笑う。「筋斗雲じゃないか」と言うのはヤマチャンだ。後ろの方からイッチャンかシノッチの声で「ビールの泡」という声が聞こえてきた。しかしどれも違った。ウンコでも筋斗雲でも泡でもないのは何か。
     アサヒビールの本社ビルは左隣の高い建物で、問題の物体が載った建物はそれに隣接するスーパードライホールである。

     隣接する「スーパードライホール」は、フランスの著名なデザイナー、フィリップ・スタルク氏によるもので、屋上の「炎のオブジェ」は、躍進するアサヒビールの心の象徴です。(アサヒビールHP http://www.asahibeer.co.jp/aboutus/summary/)

     アサヒビール本社ではこのように弁解しているが、しかしあの形と色で炎を連想するのは無理というものだ。おそらく会社幹部も出来上がってから騙されたと思ったに違いない。建築家は時々とんでもないことを仕出かす。要するに人間が使うのだという大原則を忘れてしまうのである。
     土手に咲く花はテイカカズラに似ているような気がするが、季節的におかしいだろうか。「テイカカズラですよ、美男蔓ですね。ここには美男がいるでしょうか。」「少なくとも一人はいるよ。」「誰ですか?」「自分の口からは言えない。」調べてみると花期は五月中旬から九月。途中いったん花が途絶えるがまた咲くものらしい。
     前方に赤い吾妻橋が見えて来たところで階段を上がって外に出る。右は東武浅草駅の入る松屋だ。「改装して復元したんですよ。」昭和初期のアールデコの外壁を復元したらしい。白く新しくなったようだ。
     信号を渡った正面が神谷バーである。台東区浅草一丁目一番一号。浅草の中の浅草というところか。「折角浅草に行くんだから神谷バー」と桃太郎が決めて予約してある。「だって、人数も分からないのに予約するのは大変でしょう」とイッチャンが心配するが、大丈夫だ。およそ二十人で予約し、当日の朝人数を確定する。「大変だね。」マルチャンが呟く。「電気ブランでハンバーグを食べましょう」なんて桃太郎は言っていたが、まだ丁度十二時だ。
     「ほら、名前があるよ。」店頭の予約者名簿にはちゃんと桃太郎の名前が記されている。二階のレストランはほぼ満員だった。実は私は神谷バーでランチが食えるとは知らなかった。メニューをみると、料理のほとんどは別にライスを頼まなければならないから千円を超してしまうが、それでも高すぎる程ではない。「ライスがつくのはカレーですね」とヨッシーが気付いた。私は小遣いを節約しなければならないので七百三十円のカツカレーにした。今朝も昨日の残りのカレーを食ってきたばかりだが仕方がない。ヨッシー、スナフキンも同じものにした。宗匠は気張ってエビフライとヒレカツのセットにライスをつけて千百三十円。姫、ドクトル、碁聖は六百三十円のナポリタン。十八人が三つのテーブルについているのだから、向こうの方の人が何を注文したかは分からない。
     桃太郎、ヨッシー、ダンディはデンキブランを、姫はプレミアムビールを注文する。ビールの中ジョッキは七百七十円とかなり高いので、スナフキンはグラスの赤ワインに決めた。私は飲まない積りだったのに、「いいじゃないか、一杯だけだから」と言われては仕方がない。三百九十円である。結局千円を超してしまった。私の最大の欠点は気が弱くて断れないところである。
     デンキブランを飲むのが初めてらしいヨッシーは「口当たりがいいですね」と言っていたが、グラスの四分の一ほどで真っ赤になってしまった。「ここまで来ています」と鳩尾の辺りを指差す。そもそも電気ブランは発明された当時アルコール度四十五度だったというから相当なものである。現在では三十度(カタカナでデンキブランと書く)だからそれほどでもないが、ストレートで飲むにはやはりきつい。「オールドっていうのがその四十五度かい?」「オールドは四十度だよ。」これは電気ブランと書く。「良く知ってるじゃないの。」事前に神谷バーのHPを見てきたからね。桃太郎も真っ赤な顔をしている。

     橋尽くし電気ブランの秋の昼  蜻蛉

     「中身は何だい?」ブランデーをベースにしたカクテルで、ジン、ワイン、キュラソー、薬草などを加えてある。配合比率は企業秘密だ。『寺島町奇譚』のスタンドバーでも電気ブランを飲む客がいるが、これは偽物だろうね。私は以前一本プレゼントして貰ったことがある。
     デンキブランを一気に干したダンディは、すぐさまやたら大きなビールのジョッキを追加している。これは千五十円の大ジョッキだろうか、中ジョッキだろうか。それにしても昼から飲み過ぎである。ワインは悪くない味だ。宗匠は牛久にある神谷バーのワイナリーに行ったことがあるらしい。

            吾妻橋神谷酒造で
       秋深み合へり巨樽通ひ樽 
        ・・・・神谷酒造では茨城県の牛久、山形県の赤湯、山寺に工場があって、八、九月に葡萄の仕込みをやる。できた生葡萄酒はタンク車や通ひ樽で東京へ運んでくる。工場の片すみにこの通ひ樽がるいるいところがしてあったが、豊かな秋の野に遊ぶ娘さん達のように、たくましく素朴な色気があった。貯蔵庫には三十数石入りの巨大な樽が二列二層に押し並んで、威圧的でさえあった。(中略)(石田波郷『江東歳時記』)

     電気ブランばかりが有名だが、元々はワインの輸入から始まった会社であるらしい。輸入ワインを原料にして、甘口に再生した蜂印葡萄酒で評判を得たのである。これはどうやら果実酒になるようだ。
     料理は時間がかかる。気が付くと桃太郎がポタージュを啜っている。「ポタージュなんか注文してる。」隣の団体席の連中は既にかなり酔ったようで、次第に声が大きくなってきた。やがてテーブルの向こうの端から料理が出されてくる。ナポリタンは随分ボリュームがある。姫は桃太郎の更に三分の一ほどを分けた。講釈師は何を食っているのだろう。隣のテーブルなので良く見えないが、スプーンを使っているのでオムライスかグラタンか。あっという間に終わっている。
     カレーは少し甘めだったが仕方がない。私は日本の家庭のライスカレーが好きだ。「どんなのですか?」「ちゃんとジャガイモが入ってるやつ。だからインドカレーなんか嫌いなんだ。」「インドカレーってどんなの?」ナンと称する不思議なもので食うあれである。ライスといえばバターライスで、一度誘われて行って以来、二度とその類の店に入ることはない。私は白いご飯が食べたいのだ。
     「個別会計でいいかな?」「レジが並んじゃうだろう。」メニューに書かれた料金は税込だった。私たちは正しく生きているから店の面倒にならないよう、それぞれテーブルに金額を出し合ってまとめて会計を済ませる。十二時四十分。

     ウンコビルを正面に見て吾妻橋を渡る。竹町の渡しのあった場所で、安永三年(一七七四)に橋が架けられた。当時は長さ八十四間(一五〇メートル)、幅三間半(六・五メートル)で、武士以外の通行者からは二文の通行料を取った。現在の橋は昭和六年(一九三一)に架けられたもので、三径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋。一五〇メートル。東岸は墨田区吾妻橋一丁目。
     午前中は雲が多かったのに、空はすっかり晴れ渡り、白い秋の雲が浮かんでいる。暑くなってきそうだ。
     首都高速の高架下には、ポニーテールの若い女が腰を下ろし、駒形橋を眺めている像があった。スカートを穿いた足の踵を浮かしていて、講釈師はその踵を撫で回す。「くすぐったいじゃないか。」「足が太いわね。」クルリンの感想がおかしい。「女性は足の太さを気にするんだよ。」作者もタイトルも何も分からない。
     駒形橋は青い。これも昭和二年(一九二七)震災復興事業として架けた橋だ。中路式ソリッドリブタイドアーチ橋。一四九・六メートル。駒形の渡しがあった場所である。
     橋を渡って駒形堂による。浅草寺の本尊・浅草観音が示現した場所とされ、天慶五年(九四二)平公雅によって建立された。つまり浅草寺の玄関口である。建立以来再三の火災に逢っていて、かつては堂の正面は川に面して東向きになっていたが、寛保二年(一七四二)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになった。現在の堂は平成十五年のものである。
     浅草観音戒殺之碑は元禄六年(一六九三)に建てられたもので、魚を獲ってはならぬというものだ。当然、生類憐みの令を受けてのものだろうが、漁民に対して魚を獲るなとは、生業を禁止するようなものである。どれだけ守られたものか。欠けた面を修復した碑文を読めば、南は諏訪町から北は聖天河岸までと記されているので、範囲はそれほど広くない。
     『江戸名所図会』に読み下しが載っているので、それをみると、駒形堂が度々の回禄(火災)にあったのは「水族を夭傷」したからである。従って浅草寺領内の殺生を禁じるのだとある。
     「駒形どぜうってどこなの?」「左に少し行ったところだよ。」講釈師は何でも知っている。「今の季節じゃ泥鰌鍋は熱いだろう。」スナフキンはそう言うが、汗をかきながら食う鍋も好きだ。それに鍋物は冬の季語だが、泥鰌鍋に限っては夏の季語になっている。
     一度ダンディの案内で、駒形ではなく飯田屋の泥鰌を食ったことがある。(平成十八年九月の第七回「駒込・小石川・高田・三ノ輪編」のことである。)あの時は、一人前千八百円の鍋を取ったのだ。
     ところで泥鰌の歴史的仮名表記について「どぜう」だと思っている人が多いだろうが、大槻文彦『言海』は「どぢゃう」として、「土長ノ音ヲ当テタリ。(中略)常ニどぜうト記スハイカガカ」と書く。江戸の本には「どじゃう」の表記もあるのだが、「じ」ではなく「ぢ」であるとは、土佐人に発音してもらった結果だ。これが日本国語大辞典でも採用されているから、定説にしてよいだろう。駒形どぜう(台東区駒形一丁目七番十二)のHPには次のように記されている。

     仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。文化三年(一八〇六年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。(「駒形どぜう・のれんの由来」)http://www.dozeu.com/history/

     「駒形どぜう」の影響は絶大であった。広告が国語に与える影響は大きいのである。勝手に書き換えられては困ってしまう。

     君は今駒形あたりほととぎす

     桃太郎も紹介しているが、これは仙台高尾とも呼ばれた二代高尾の句と言われている。但し伝説の域であり真偽は不明だ。仙台高尾は落語にも取り上げられているし、伝説が混乱していて、仙台藩主の伊達綱宗に隅田川中州で吊るし斬りにされたとも、あるいは綱宗に仕えてお椙の方と呼ばれて生涯を全うしたとも伝えられる。こんな記事を見つけた。

     この句は万治年間に吉原京町一丁目にあった三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女で、当時名妓とうたわれた高尾太夫(二代目)が詠んだものです。高尾は仙台候伊達綱宗のお気に入りの女性で、この句は綱宗の舟路の帰りを案じて彼女が仙台候に送ったと言われます。
     「今朝のお別れになみの上の御帰路、御やかたの御首尾は如何にと案じ申しそろ、わすれねばこそ思ひ出さず候 かしこ」と書いた後にこの有名な句が続くわけです。ところが、高尾太夫には恋人がいたために仙台候にはなびかず、そのために怒りを買ったといわれ、芝居「伽羅先代萩」では、彼が怒って永代三つ股の中州近くで太夫を斬り殺す設定になっています。しかし、一説には侍上がりの僧、道哲に帰依して道哲の後を追ったとも伝えられています。
       寒風にもろくも朽ちる紅葉かな
     これが高尾太夫の辞世で、そのなきがらは西巣鴨にある道哲西方寺に葬られています。
     (どぜう往来 二十号[昭和六十三年二月発行]助七思い出話 五代目 越後屋助七(渡辺繁三)http://komakata.exblog.jp/13578016

     太田南畝はこの句をもじって「君は今駒形あたりどぜう汁」と詠んで駒形どぜう店主に贈った。因みに土用の丑の日に鰻を食うのは平賀源内の宣伝だとされているが、一説にはこれも南畝によるとも言われる。
     また隅田川テラスに降りて歩く。流線型の新型の水上バスが走っていく。和風の屋形船も走る。こんなに舟が多いとは思わなかった。
     舫ってある小さな船を見て、「あれでアサリを獲るんだよ」と講釈師が指差した。金網で作った道具であるが、甲板には登録済「蜆」とある。「シジミじゃないの。」講釈師にとってはアサリもシジミも同じようなものか。「スクリューが上向きになってるだろう。浅い川底でも良いようにさ。」これは正しそうな意見だ。
     橋の袂には 「うまやの渡し跡」の案内があり、広重の『江戸名所百景・御厩河岸』の錦絵を載せている。絵の左下隅の舟に乗っているのは二人の夜鷹である。ここは屋形船の乗船場にもなっているようで、「駒形乗合屋形船のご案内」によれば、料理お土産付きで一人八千八百円、本日空席有である。
     「八千八百円だってさ。」「安すぎるんじゃないか、普通は一万円を超すだろう。」私が以前調べたときにも、一万円程度だったような気がする。「料理の質が落ちるんだな。」
     厩橋は緑色だ。明治七年(一八七四)架橋。現在の橋は昭和四年(一九二九)に架けられたもので、三径間下路式タイドアーチ橋。橋長一五一・四メートル。右岸は台東区蔵前二丁目と駒形二丁目、左岸は墨田区本所一丁目。
     橋を渡って首都高速の高架下で少し休憩を取る。厩橋地蔵尊の小さな祠には新しい花が供えられている。

     何時の頃からのお地蔵様かその由来は不確かですが、高速道路工事の際に掘り出され、護岸工事の完成で厩橋のたもとのたんぽぽ公園に本所一丁目の町会の皆様の総意で祠を造る事になり、経費は婦人部の前身であった母の会が、廃品回収等で貯めていたお金を寄附、青年会の方達の手による手作りの祠です。(中略)
     お地蔵さんは二体あり、その後、このお地蔵様の一体は貞享四年、今から三百二十年前に亡くなられた女性の墓石である事が判明しましたが、折角、お祀りをして来たゆかりのお地蔵様なので新たに町会の方達の、長く辛い思い出、しこりとして心に残っていた第二次大戦の下町大空襲の際に多くの方が隅田川、厩橋の周辺で命を落とされ、その方達の慰霊を…と新たな地蔵尊を建立する事になり、二〇〇〇年一月二十四日の初地蔵の日から、祠には三体のお地蔵様が祀られています。(「わが町〝再発見〟シリーズ・厩橋地蔵尊」)
    http://sumida-avenue.com/NewFiles/html/honshi/saihakken/umayabashi/umayabashi.html

     街灯の柱には馬のレリーフが彫られている。「伊藤雄之助が馬面でさあ。」「『乗った人より馬は丸顔』ですね。黒澤さんの映画で。」黒澤明『椿三十郎』の中で、城代家老役の伊藤本人が言った科白らしい。「歌舞伎出身なんだ。」講釈師と姫の会話であるが、それにしても良く知っている。
     「歌舞伎って言えば、永六輔が市川雷蔵になるかも知れなかった。」それも何かで読んだことがある。「私は最近、誰かの話で聞きましたよ。」市川寿海の養子になる話があったと、本人も証言している。「そしたらさ、眠狂四郎は永六輔がやることになったんだ。」たとえ養子の話が実現していたとしても、あの顔と声では無理だろう。
     伊東雄之助は確かに馬面だが、それでも成島柳北には敵わないのではないか。「どこかで銅像を見ましたよね。」「長命寺だよ。」「そう言えば榎本武揚の像も近くで見ましたね。」あれは梅若の辺りだったと思う。「榎本って賊軍でしょう。なんで明治になって重用されたか分からないよ。」当時数少ないオランダ留学生である。殺すのは明治政府にとっても惜しかった。
     テラスの柱には、過去の潮位記録が示されている。昭和三十四年九月の伊勢湾台風で五・二メートル、大正六年九月の高潮で四・二一メートル。伊勢湾台風の示すメモリを見れば、堤防の上まで一メートルちょっとしかない。
     次は黄色の蔵前橋だ。昭和二年(一九二七)震災復興事業として架橋。三径間連続上路式ソリッドリブ二ヒンジアーチ、および上路式コンクリート固定アーチ。一七三・二メートル。以前は富士見の渡しと呼ばれる渡船場があった。左岸は墨田区横網一丁目。右岸は台東区蔵前一丁目になる。
     「浅草御蔵跡」の説明板を見ながら、「ミクラ」と読んでいるのが不思議だが、「そこに書いてあるよ」と言われれば仕方がない。普通はオクラと読む筈で、納得できないまま「ミクラだそうですよ」と言ってみたが、「OKURAってあるじゃないか」と指摘された。私はよく読んでいないのである。

      江戸幕府最大の米蔵。年貢米の収納や幕臣団への俸禄米支給など、米穀出納を取り扱った幕府財政の中心機関で、大坂、京都二条のそれとあわせて三御蔵と称された。一六二〇年(元和六)創設。町年寄樽屋藤左衛門元次が設計し、隅田川右岸の湾入部(現、東京都台東区蔵前一・二丁目)を埋め立て、川側三四四間(約六二五メートル)の間に八本の船入り堀を設けて、総面積三万六六四八坪(約一二ヘクタール)の敷地が造成された。(『世界大百科事典』より)

     「蔵前の国技館って、もうないんでしょうかね。」もう随分前のことだろう。この右手の下水道事務所の辺りがその場所だった。戦後の相撲は蔵前国技館で行われたから、栃若時代、柏鵬時代は全てここで展開されたのだ。また力道山・木村政彦対シャープ兄弟の対戦、日本初の女子プロレス大会、アントニオ猪木の東京プロレス旗揚げなど、プロレスの歴史もここから始まった。昭和五十九年九月場所が最後となり、平幕の多賀竜が優勝した。蔵前橋通りを信号で南にわたると「首尾の松」がある。

    この碑から約百メートル川下に当たる。浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
     その由来については次のような諸説がある。
     一、寛永年間(一六二四~四二)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
     二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
     三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
     初代「首尾の松」は安永年間(一七七二~八〇)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(一八五四~五九)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。

     「七代目だってさ。」「吉原の見返り柳みたいなもんだね。」テラスに降りて更に行くと、右手の堤防が長いナマコ壁になって続いている。「ナメコ壁ですね。」「ナメコじゃないよ。ナマコ。」「海鼠って書くみたいだけど、どういう謂れでしょうか?」私も知らない。「まさか、これじゃないでしょうね」とロダンが指差したのは、黒地を正方形に区切る白い目地である。「違うんじゃないの。」私は無学である。これはロダンの推測が正しかった。

    壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法。その目地がナマコに似ていることから呼ばれた。(ウィキペディアより)

     しかし、これが海鼠の形に似ているだろうか。壁の上の方には間隔をおいて大名家の家紋が描かれている。「下屋敷があったんだ。」しかしこの辺りは米蔵が立ち並んでいた筈だ。後で解説板が出てきて確認できたが、やはり下屋敷ではなく、工事を担当した大名の家紋であった。

     悠久の歴史を流す隅田川  午角

     歩道の所々に広重『名所江戸百景』の絵が並んでいる。「千住の大はし」、「隅田川水神の森真崎」、「墨田川橋場の渡しかわら竈」。これは竈から立ち上る煙が主役だ。「何を焼いてるんだろう。」ドクトルが悩むが、「かわら竈」と書いてあるからには瓦を焼いているのである。もともと今戸は瓦の産地で、余った粘土で余技として始められたのが今戸焼である。もともと土師の一団が開いた土地だから焼き物には縁が深いのだ。これも全部の絵に付き合っていてはきりがない。
     ベンチがあるので小休止。「日蔭がない」と文句を言う人は決まっているが、やはり日向は暑い。ユリカモメが飛んでいる。画伯によれば、オスが餌を探し回っているとき、メスはじっと待っているのだと言う。そしてオスは自分の好みのメスに餌を差し出す。ホントかね。ヨッシーがくれた飴は甘い。

     お立ち台へ餌で求愛みやこ鳥  閑舟

     総武線の手前で階段を上がって隅田川から離れる。今日の隅田川橋巡りはここまでだ。参考までに、ここから下流の橋を数えれば、両国橋、新大橋、清州橋、永代橋、中央大橋、佃大橋、勝鬨橋と続く。
     右に出てすぐに総武線を潜ればここは柳橋である。小さな祠は火伏神・石塚稲荷神社だ。台東区柳橋一丁目一番十五。玉垣の門柱の左は柳橋料亭組合、右が柳橋芸妓組合である。みんなは当然のように「ゲイコ」と読むが、正しくは「げいぎ」であろう。「ゲイコ」の読みは京都ではないか。本来江戸は芸者と呼び、東京で芸妓の文字を使うようになるのは明治以降である。
     ここは成島柳北『柳橋新誌』が描く花柳の巷であった。神田川が隅田川に合流する地点で、川を上り下りする船の往来が激しく、花街が発達した。柳橋のたもとには柳が植えられ、欄干には簪が彫られている。橋の袂の小松屋でスナフキンは佃煮を買っている。
     橋の南詰の袂に紫の実がなっているのはコムラサキだ。「えっ、ムラサキシキブじゃないの?」「実が小さいですね。園芸種ですよ。」姫が断定するのだから間違いない。

     ひっそりと大川端にこむらさき  午角
     川風に何を語るか岸柳      午角
     目を閉じて三味の音を聴く柳橋  午角

     神田川沿いには船宿が三軒、川には屋形船が浮かんでいる。ユリカモメだとばかり思った鳥は、画伯によればセグロカモメであった。飛び上がった姿を見て「ずいぶん大きいね」と宗匠が声を上げる。私はこの辺りのカモメならばすべてユリカモメかと思っていた。
     浅草橋を渡って浅草橋駅に向かう。まだ二時半だ。こんな時間に反省会のできる店があるだろうかと辺りを見回すと、磯丸水産の看板が見えた。二十四時間営業の店である。ほぼ同時に桃太郎も見つけた。
     駅前で桃太郎が挨拶し、ロダンが次回(十一月)の案内をする。姫はメール網に参加していない女性陣に十月の日光街道歩きの資料を渡す。ヤマチャンからは、今月の里山歩きの案内は明日メールで送ると申し出があった。
     本日は一万四千歩。八キロというところか。解散して目指す磯丸水産に入り、座席についた。気が付くと私の後ろのテーブルには女子高生が二人座っている。こんな店になぜ女子高生がいるのか。よく考えればまだランチタイムの時間帯で、彼女たちは海鮮か何かの丼を食べていたらしい。それにしても女子高生がこんな居酒屋に普通に入る時代になったのだ。私は時代についていけない。
     昼時のメニューで中ジョッキは二百七十円。後半はかなり暑くなったのでビールが旨い。焼酎ボトルはないが、お湯割りだろうがサワーだろうが何でも一杯二百五十円だから安い。つまみも安い。しかし二時間前にカツカレーを食ったばかりだから、聊か腹がもたれる。こんなことならカツカレーではなく、ただのカレーにしておくべきだったか。
     デング熱、ヨッシーのマラリヤ体験から何故か宗教の話題になったようで、「私は山の神を信じてます」とロダンが告白する。

     愛妻は気配進化し山の神  閑舟

     「蜻蛉はピッチが早いじゃないの。」「大丈夫、桃太郎より一杯少ない。」かなり飲んだが、二時間で二千三百円は安い。これで素直に帰れば良いものを、今はまだ四時半、世界は明るいのがいけない。「軽く行こうか。」百九十円の交通費をケチっても、これでは何もならない。残念ながらカラオケ希望者はいないので碁聖はそのまま帰る。
     どこに行こうか。ビルの前で、女の子二人と男の子がそれぞれ別の店を案内している。その中で、全て一割引きにするという声につられて、五人が男の子に従って「紅葉の響き」という店に入った。メニューを見ると、ビール一杯六百二十六円、つまみも少し高めだった。私は日本酒にする。
     姫は気を使ってつまみは少ししか注文しない。漬物盛合せ、たこわさ、子持ちししゃも、エイヒレ、塩焼きそば。それぞれ適当に二杯づつ飲んで、一人二千二百円也。

    蜻蛉