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    第五十五回 調布編
    平成二十六年十一月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.09.21

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     旧暦閏九月十六日。九月が二度続いた訳で、暦の上では後の月(九月十三日)も二回あった。旧暦では約三年に一度の頻度で十三ヶ月になる年がある。それが九月に当るのは天保十四年以来百七十一年振りだというので、今週十一月五日の満月をミラクルムーンと呼ぶ(ということを先日初めて知った)。世間では余り話題にもならなかったし、隊長の天文情報でも触れられていなかった。単に暦上の問題で、自然科学の範疇ではない。
     立冬の初候「山茶始開」(サザンカ、ハジメテヒラク)。昨日は少し風があったものの日差しは暖かだった。赤ん坊は人見知りが始まり一週間前には大泣きされたが、昨日はやっと慣れてくれて、家から公園まで抱いて行った。九キロ程にもなった赤ん坊は重い。
     二三日前の予報では終日雨になりそうだったが、今朝になって予報は変わり、夕方までは何とかもつかも知れない。どんよりした雲が空を覆い肌寒い。なんとか歩き終わるまでもってほしいものだ。取り敢えず手近にあったやや薄手のジャンバーを着てみた。寒いだろうか。
     今日はロダンが企画した。集合場所の京王線飛田給駅は余り縁のない駅だから、どのコースを辿るのが最適か。普通は東上線で池袋に出て、新宿から京王線に乗るコースしか考えない。これが九百二十円である。しかし他の選択肢も調べなければならない。すると、朝霞台(北朝霞)で武蔵野線に乗り換え、府中本町から南武線で分倍河原に出て、そこから京王線に乗り換える方法があった。乗り換えが少し面倒だが、これだと八百九十円で最も時間が短い。もうひとつ、副都心線で新宿三丁目、そこから丸ノ内線で新宿に出るコースは八百四十円で行けるが、これは最短コースに比べて三十分も余計にかかる。結局、武蔵野線経由のコースを選んだ。
     鶴ヶ島駅発八時二十九分の東上線に乗る。乗り換えは順調に行って府中本町に着く。南武線のホームに降りて階段下で待機していると、私に向かって手を振る美女の視線を感じた。こう見えて私は美女にモテル。心を落ち着けてそちらを見ると、あんみつ姫ではないか。「新宿経由じゃないんですか?」「こっちのほうが三十円安いんだ。」「それはとっても大事ですね。」美男美女が交わす会話ではない。
     車内は案外混んでいるが一駅で分倍河原に着く。すぐ目の前の京王線への連絡口は下り方面ホームだから、上りはいったん外に出なければならないようだ。四十年近く前、府中営業所勤務時代に一年だけ分倍河原の近くに住んだことがあるが、駅の様子は全く記憶に残っていない。『太平記』の舞台でもあるのに、その当時はそんなことに全く気付いていない。
     「私はエレベーターで行きますから。」階段を下りると、すぐ目の前が上りホームに入る改札口だった。しかし姫はなかなか現れない。そろそろ電車が来るのにどうしたのだろう。階段を気にしていると、会社のIが子供の手を引きながら上って来た。「どちらへ?」「今日は調布辺りをフラフラと。」「頑張ってください。」特に頑張るような事業ではない。九時三十四分の特急が来たので慌てて階段を下りて電車に飛び乗った。姫を待って次の電車にしても間に合うのだから、この辺が私の性格の冷たいところだ。
     府中で各駅停車に乗り換え、予定通り九時四十分に飛田給駅に到着すると、改札口を出たところにロダン、講釈師、ダンディが立っていた。「逆から来たんじゃないの?」「府中本町経由なの。」普通の人は新宿から来るコースしか考えない。それにしてもこの時刻で三人しかいないのか。リーダーのロダンの顔が聊か曇っているか。「後で行く水車のガイドに、十五六人って頼んであるんですよ。」不穏な空気が立ち込めてくる。
     しかし心配する程もなく人は集まって来るものだ。「久我山三人娘を連れてきました」と碁聖が大きな声で登場した。「娘」とは言っても碁聖の妹分というところか。松戸以来で私は三度目になるが、初めて会うらしいリーダーに碁聖が紹介してくれる。あんみつ姫も無事に九時五十分には到着した。「迷子になったってメールしたんですけど。」申し訳ないが気付かなかった。
     ロダン、ダンディ、ヨッシー、講釈師、スナフキン、桃太郎、碁聖、あんみつ姫、クルリン、クラちゃん、タカちゃん、ヤスちゃん、蜻蛉の十三人になったから、これでロダンの憂いも晴れた。クルリンがチロリンと一緒でないのは珍しい。
     定刻になってロダンの挨拶が始まる。「飛田給は飛田某の給田だったことに由来するようです。」余計なことだが、そこは予習してきたので補足する。「もうひとつ、悲田院の給田だったという説もあります。悲田が飛田に転訛した。」給田とは中世の開発領主が中央貴族や寺社に荘園を寄進した際、公事年貢雑役を免ぜられた土地である。
     悲田院は孤児や貧窮者を救済する施設だが、武蔵国では多摩郡と入間郡の境に国府が設置した布施屋を悲田処と呼んだらしい。布施屋とは行路に倒れた旅人を救済保護する施設である。律令制時代には租税の運搬や労役兵役負担のためには全て徒歩で行かねばならず、しかも食料は自弁だった。馬を使えるのは役人だけで、だから病や飢餓で倒れる者が多かったのである。これを救済するための施設だが、その実態はよく分からない。それでも古代において、仏教思想に基づくこうした弱者救済の仕組みがあったことは記憶して良いことだと思う。
     この一帯は調布(調として布を納めた)や布田、国領(国衙領)など古代律令制に基づく地名が多く残る。武蔵国国衙のあった府中に近く、古くから開けた土地だった。

     駅構内の壁には「映画のまち調布 日活百周年」と題して、手形をずらりと並べたモニュメントが飾られている。三万坪の敷地を持ち、東洋一の規模と謳われた日活調布撮影所に因むのだが、最寄り駅としては飛田給より布田駅が近いから、どうしてこの駅に設置されたのか分からない。上段が二十人、中段と下段がそれぞれ二十二人、合わせて六十四人だ。「相撲じゃないんだね。」
     「ホラ、裕次郎がいるよ。ここには浅丘ルリ子だ。」映画については年代差がかなり影響して、若い頃の裕次郎をリアルタイムで見ていた講釈師たちの世代と私とは明らかに違う。碁聖はたぶん洋画ばかり見ていた筈だからそれほど関心はないか。ただ同世代と言ってもスナフキンと私とではかなり関心の範囲が違うし、あんみつ姫の場合は時代を超えて名画を見ているから、世代論というのも実はあまり当てにならない。
     私はほぼ東映ヤクザ映画ばっかり見ていて、日活を語る資格はない。そもそも黄金時代の日活を知らず、学生時代には日活は既に衰滅の道に突入していた。昭和四十六年(一九七一)十一月に始まるロマンポルノである。
     日活が路線を転換する直前には藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』があって、青春映画であると同時にロマンポルノへの橋渡しになった。新宿ゴールデン街の小さなバーでは、涙を流しながら石川セリの主題歌を合唱する惰弱な男たちがいた。

    あたしの海を まっ赤に染めて
    夕日が血潮を 流しているの
    あの夏の光と影はどこへ行ってしまったの
    悲しみさえも 焼きつくされた
    あたしの夏は 明日も続く(吉岡治作詞・むつひろし作曲『八月の濡れた砂』)

     日活スターの手形からこんな歌を思い出すのは本来の映画ファンではないからだ。所詮私は時代の雰囲気を思い出すだけである。昭和四十五年(一九七〇)からの四、五年は、私にとっても思い出せば体のどこかが疼くような時代だった。
     手形の並びは五十音順でもないし年代順でもない。上段は左から北原三枝、宍戸錠、月丘夢路に始まり、右下は風祭ゆき、大杉漣、野村孝で終わる。知らない名前も数人ある。裕次郎は上段左から六番目、浅丘ルリ子は中段三番目、吉永小百合は中段九番目で小林旭の隣に位置している。
     よく見ると俳優だけでなく、日活を追われた鈴木清順のものがあった。私は『けんかえれじい』(昭和四十一年)と『東京流れ者』(同年)しか知らないが、それも十年遅れで昭和五十年(一九七五)頃に新宿で見たものだ。鈴木清順特集をやっていたのだ。
     浅野順子がなぜ修道院に入らなければいけないのか全く納得できなかったが彼女は可憐だった。彼女を恋する高橋英樹の不器用な硬派ぶりは、高橋が本来的にコミカルな資質を持っていることを証明した。「髪梳けば髪吹きゆけり木の芽風」の句を詠む、松尾嘉代演ずる「チート渋皮の剥けたエエおなご」も謎めいていて良かった。ただ北一輝を登場させ、主人公が風雲孕む東京を目指す最終場面には違和感を覚えた。これでは昭和維新になってしまうが、人を驚かす清順のハッタリであろう。(作られることのなかった第二部では、主人公は早稲田に入学して童話研究会に入ることになる。)
     そして『東京流れ者』については以前に何度も触れた。渡哲也はチンピラヤクザの哀愁を漂わせて、今よりもずっと良かった。笑顔に孤独が沁みるのである。歌は渡ヴァージョン(叶弦大採譜)と竹腰ひろ子ヴァージョン(桜田誠一採譜)と二つあり、その後カバーする歌手は竹腰のメロディを採用している。
     地井武男はロマンポルノの谷ナオミと秋吉久美子に挟まれていて、その手形を熱心に撮っている若者がいた。SMの女王谷ナオミなんか知らない世代だろうからチイさんを撮っていると思ったが、もしかしたら目的は秋吉久美子だったろうか。秋吉久美子だって初めて登場したときは新鮮で可愛かった。
     改めてリストを確認してみる。五十音順で男優では石原裕次郎、石橋蓮司、内田裕也、榎木兵衛、大杉漣、岡崎二朗、小沢昭一、小高雄二、風間杜夫、桂小金治、蟹江敬三、川口恒、川地民夫、小林旭、西郷輝彦、沢本忠雄、宍戸錠、杉良太郎、高橋英樹、地井武男、津川雅彦、中尾彬、浜田光夫、深江章喜、藤竜也、舟木一夫、三國連太郎、安井昌二、柳瀬志郎、渡哲也となる。
     女優では秋吉久美子、浅丘ルリ子、芦川いづみ、伊佐山ひろ子、和泉雅子、伊藤るり子、稲垣美穂子、丘みつ子、風祭ゆき、香月美奈子、片桐夕子、北原三枝、笹森礼子、清水まゆみ、白川和子、白木万理、田代みどり、谷ナオミ、月丘夢路、筑波久子、十朱幸代、中原早苗、夏純子、西尾三枝子、野川由美子、松原智恵子、美保純、宮下順子、山本陽子、吉永小百合。監督では鈴木清順、野村孝、古川卓巳、舛田利雄。
     黄金時代からロマンポルノ時代まで実にさまざまだ。しかし西郷輝彦や舟木一夫が日活スターと並ぶのには違和感がある。美保純がロマンポルノ出身だったのを覚えているのは、私たちの世代だけだろうか。関川夏央は、日活映画の盛衰をモチーフとして昭和三十年代の日本を描いた。裕次郎と吉永小百合を主人公として日本現代史を読み解くのは関川の個性である。

     高度成長という特異な時代は、この半世紀近く日本人の記憶に刻印され、現代日本人の性格形成に影響をおよぼしている。その時代を経験しなかった人々も、先行世代の身ぶりのなかにそれを読み取っている。ことに一九五〇年代末から東京オリンピックまでの高度成長前期という時代はなぜかあざやかな印象をそこなわずにいる。いまだ日本社会のサラリーマン化は完成せず、「公害」は経済成長とともに着実に進行していたが、顕在化する直前で、戦後日本のやむを得ざる「鎖国」がかえって「世界」への希望を抱かせたのだろう。そこには「発展と成長」をかげりなく味わい得る素地があった。
     そんな特異な忘れがたい一時代を、日活映画という現象、およびふたりの映画俳優の「物語」の解読によってえがいてみたい、私は永くそう考え続けてきた。
     この本はそのような試みである。小さな、しかしなかなか含蓄のある現代史の切片の提示である。(関川夏央『昭和が明るかった頃』)

     扱われる時代は『三丁目の夕日』と重なる。あの映画がなぜあんなにもヒットしたのか。何故それ程にも懐かしいのか。関川の言う「特異な忘れがたい一時代」は、風俗史的にも精神史的にも考察が必要な所以だ。
     「この駅はさ、浦和美園駅の雰囲気に似てるじゃないか。」「サッカースタジアムのせいかな。」そうかも知れない。別に「味の素スタジアム駅」の名がある。私はサッカーに詳しくないのでよく知らないが、FC東京と東京ヴェルディのホームスタジアムである。今日は試合がないせいか駅に出入りする人は少ない。「まだ始まる時間じゃないよ。」そうなのか。「それじゃ出発します。」漸く本当の出発だ。まだ駅から出てもいないのに、こんなに字数を費やしてしまって大丈夫だろうか。明らかにバランス感覚に欠けている。

     北口に出て北東に三百メートル程行けば甲州街道に出る。そこがスタジアムの入り口だ。スタジアムの北側には武蔵野の森公園が南北に広がり、その東には調布飛行場がある。この地域一帯は戦時中の飛行場の跡だ。昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックのために、代々木の米軍施設と住宅(ワシントンハイツ)が返還され、代替として米軍が移転してきて「関東村」と呼ばれた。四十九年(一九七四)に日本政府に返還された後、東京都の総合スポーツ施設の一環としてスタジアムが建設されたのである。
     甲州街道を渡って右に曲がると、オリンピック東京大会マラソン折り返し地点だ。「お腹がすいてきちゃった。」ちょうどロイヤルホストの前で、あんみつ姫のお腹はそれに刺激されたらしい。「食べてこなかったの?」「パン一枚だけ。」朝はきっちりご飯を食べなければならない。
     折り返し地点の角柱の石碑の上部には不定形の石が三つ並べてある。「これは鳩かしら。」クラちゃんの言葉で納得したのだから私はつくづく感度が鈍い。両側の少し幅広い石が羽根ならば確かに鳩の形だ。「そうか、これが首なんだね。」「平和の象徴です」とロダンが断定する。
     「ここからさ、アベベが独走状態になったんだよ。」講釈師の声が大きくなる。当時私は中学一年で、それ以前にたぶん学校行事の映画鑑賞でローマオリンピックの映画も見ていて「裸足の王者」「哲人アベベ」を知っていた。アベベのゴールから円谷がゴールして倒れ込むまで、鮮明に覚えているのだが、私は実際にその時テレビで直接見ていたのだろうか、それとも後に学校行事で見た市川崑監督の映画だったか。このシーンは何度も繰り返して目にしているので、あたかもリアルタイムで見たかのような偽りの記憶になっている可能性があるのだ。
     検証してみる。十月二十一日は水曜日で、スタートは午後一時だからゴールは三時十二分である。平日はまだ家には戻れない時間帯だ。まさかマラソンのために授業が早く終わる筈がない。当時のテレビは再放送なんてなかなかできないから、やはり同時刻に見ていたのではないのだろう。
     圧倒的な強さを見せて二連覇を果たしたアベベは、哲人の名に相応しくテープを切っても殆ど無表情で、何事もなかったように整理体操に入った。二時間十二分十一秒二は当時の世界記録である。しかしアベベが六週間前に盲腸の手術をしたばかりだったことは、ロダンが作ってくれた資料を読むまで知らなかった。「今の世界記録は二時間二分五十七秒ですから、五十年で十分縮まったことになります。」ロダンはちゃんと調べている。
     短距離にもヒーローがいて、ボブ・ヘイズが圧倒的な強さを見せつけた。百メートル準決勝では追い風参考ながら九秒九の世界記録を出した。これも現在ではウサイン・ボルトの九秒五八に及ばない。トレーニング方法の発達に加え、設備、用具の進化によるが、果たして人間の能力はどこまで伸びるのだろう。
     円谷が二位で競技場に入って来たのはアベベがゴールしてからかなり後で、トラックでイギリスのベイジル・ヒートリーに抜かれた。首を傾けて苦悶に喘ぎゴールに倒れこんだ円谷と比べて、アベベの余裕綽々たる姿には嫉妬を感じる程だった。私はまだ無邪気な愛国者だったかも知れない。このレースで、円谷は二時間十六分二十八秒の自己最高を記録した。所詮三位じゃないかとバカにしてはいけない。彼の銅メダルは、日本が陸上競技で獲得した唯一のメダルだった。
     円谷は本来トラック競技の人であり、マラソンもまだ三回しか経験がなく期待もされていなかった。しかし期待された寺沢徹(当時の日本記録保持者)は十五位、君原健二は八位と振るわなかった。(但し寺沢はその後アベベの記録を抜いて世界記録を樹立するし、君原はメキシコオリンピックの銀メダルを獲得する。)今では余り話題に上らないが、円谷は陸上競技初日の一万メートルで六位入賞を果たしている。これは日本男子のトラック部門では戦後初の入賞である。
     二種目で入賞した(これはスゴイことである)円谷は栄光に包まれ、同時に重圧を負ってしまった。ウィキペディア「円谷幸吉」には、当時の自衛隊がいかに彼に冷たく当たったかが書かれているが、典拠を読んでいないので私には何とも言えない。「美味しゅうございましたの遺書が切なくて」とロダンが少し言葉を詰まらせる。昭和四十三年(一九六八)に自殺した際の遺書については以前にも触れているが、何度読み返しても哀切の想いは変わらない。二十七歳。可哀そうな円谷。
     「アベベはさ、この後大佐に昇進するんだよ。」これはちょっと違う。軍曹だったアベベは東京の後に少尉に任官する。メキシコオリンピックでは途中棄権になって三連覇はできなかったが大尉に昇進した。私生活は順風満帆と思われた時、四十四年(一九六九)三月に自動車事故を起こして下半身不随となった。後にパラリンピックで活躍するのだが、昭和四十八年(一九七三)脳出血で死んだ。おそらく事故の後遺症であろう。四十一歳だった。

     もう一度交差点に戻り、味の素スタジアムの横を通って北に向かう。「何かやってるよ。」フェンスから眺めると、競技場の外の公園ではゼッケンを背負った男女がゆっくり折り返している。(六時間耐久レースだった)。
     「なんで味の素なんだ?この辺には工場なんかないだろう。」スナフキンが不審に思うのは尤もで、私もその理由が分からなかった。施設は東京都所有で、第三セクターの東京スタジアムが運営している。おそらく東京都の金儲けを目的として、平成十五年(二〇〇三)国内公共施設として初めて命名権が導入され、味の素が権利を獲得した。複数年契約だが、費用は年間二億三千万円程になる。そして味の素はもうひとつ、北区にあるナショナルトレーニングセンターの命名権(国立施設として初)も年間八千万円で獲得している。味の素は金があるのだ。
     スタジアムが尽きると右手はサッカー場になり、いつの間にか野球場になった。ノックを受けているのは女の子のようだが、ソフトボールではない。
     「あれは何でしょう。教会でしょうか。」道路の左側には煉瓦造りの建物が広がり、その北側に尖塔が聳えているのだ。「米軍の学校だったんじゃないかな。」あてづっぽうを言っても当らない。「けやきの森って書いてますね。」表札が辛うじて見える。肢体不自由児・知的障害児のための特別支援学校、都立府中けやきの森学園であった。平成二十四年に開設した新しい学校である。府中市朝日町三丁目十四番地一。
     「あの辺が水耕農場だったんだよ。」講釈師は何でも知っている。今日は講釈師の独壇場になるだろう。昭和二十一年、占領軍によって調布飛行場の西側に大規模な水耕農場が造られたのだ。「巣鴨プリズンの受刑者も駆り出されたんだぜ。」「講釈師も駆り出されたんだね。」「模範囚だったからさ。」「刑務所に置いておくと煩くてしかたがないからじゃないか。たまには外に出さないと。」
     米軍人及びその家族へ新鮮な野菜を供給するめ、人糞堆肥を使う日本の栽培法を嫌って水と化学肥料だけで野菜を栽培する農場を造ったのだ。正確には「米陸軍総合補給廠糧食補給部 第八〇〇二部隊」である。米軍にはこういう専門部隊もあったのだ。少し前には大津の滋賀海軍航空隊跡地にも同様の農場が建設されている。
     「二十二ヘクタールあったんだよ。」講釈師はこともなげに数字を口にする。水路を作り、幅一メートル長さ百メートルの栽培床を二千八百設置した温室の広さが二十二ヘクタールに及んだらしい。「ヘクタールで言われても分からないわ。」クラちゃんは一反とか一町歩とかで表現してほしいと笑う。小学校で習ったのに、私も忘れてしまったので改めて確認しなければならないのは恥ずかしいことだ。一ヘクタールは百メートル×百メートル、一万平方メートルである。そうすると二十二万平方メートルだから、およそ六万七千坪になる訳だ。当時世界最大規模のものである。
     水耕栽培だけでなく、後には拡大して露地栽培も行った。巣鴨プリズンの受刑者が働いたのはこちらの方だったらしい。『歌集巣鴨』というサイトを見つけたので、関連する歌を少しだけ引いてみる。午前午後の各五分の休憩と昼食休憩しか許されず、かなりきつい重労働だったらしい。

    芝生みな耕されたる飛行場跡に滑走路のみ白くのこれる      伏見 鎮
    俘虜帽子顔に載せ皆まどろみぬ銹しレールの續く草原       森 良雄
     釈放の日遠し
    この年も作立ちの野にまにあはず麦は下葉ゆいろづきにけり    清水 利行
    http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=860&forum=13&post_id=3823

     「東京外語だ。」「憧れの外語大でしたよ。」府中市朝日町三丁目十一番地十一。東京外国語大学は平成十二年に北区西ヶ原から移転してきた。勿論前身は明治六年(一八七三)に創立された東京外国語学校である。明治十八年(一八八五)単独での存続が許されず、英独仏語は東京大学予備門に吸収移行したが、中国語、ロシア語、朝鮮語の三科は東京商業学校(現一橋大学)に併合された。
     英独仏語は学術と見做されても、中ロ朝語は商用語としか見られていなかったのである。これに不満を抱いて退学したのが二葉亭四迷である。少しだけ我慢すればちゃんと卒業できたのに、二葉亭はいつも何事でも途中でやめてしまう。やがて明治三十二年(一八九九)、漸く高等商業学校附属語学校から分離独立を果たして、改めて東京外国語学校を名乗る。直接的にはこれが現在の源流だ。
     分離独立した時、二葉亭四迷は短期間ながらロシア語科の教授を務めた。そのまま勤めていれば生活は安泰だったのに、二葉亭を生涯蝕んだ鬱勃たる不満と大陸経営への熱い関心が、一ヶ所に長く留まることを許さない。三十五年(一九〇二)には突然教授職を擲ってハルビンに赴いた。ここでは菊池正三(石光真清の変名)の写真店に出入りしているのに、互いに全く関心を抱かず交流した形跡がない。更に北京で川島浪速の京師警務学堂の事務長になるも(事務長としてかなり有能だった)、川島との意見が合わず帰国し、内藤湖南の紹介で大阪朝日新聞社に入社した。
     日本近代文学に計り知れない影響を与えたにも関わらず、小説家と見做されることを異常に嫌悪した。本人の希望はロシア問題の緻密な調査研究と論説にあったが、世間が(そして朝日が)期待するのは小説だった。『其面影』『平凡』は朝日に督促されて嫌々ながら書いた作品である。明治四十一年(一九〇八)六月、志かなって特派員としてペテルスブルグに派遣された時には既に遅く、四十二年(一九〇九)年五月十日、ベンガル湾上で息を引き取った。満で四十五歳であった。

     歩道に深さ二メートル、長さ二十メートル程も掘り返して工事をやっている場所を過ぎ、武蔵野の森公園に入った。調布市、府中市、三鷹市にまたがる広大な公園だ。戦時中の調布飛行場の跡である。
     ロダンが最初に立ち止ったのは、芝生の上に正方形のコンクリートが一定間隔で二列並んだ場所だ。その正方形の中には円形の蓋がしてある。「ここは防災公園になっています。そこにも説明がありますが、これが災害用の仮設トイレです。」要するにこれはマンホール型トイレである。非常の際にはこの蓋を外して上に便座を乗せ、テントで覆って使う。すぐそばには井戸のポンプもあって、地下水をくみ上げて水洗にする。これが三十八基、一日に一基百人として三千八百人の使用に耐えるというものだ。「何かあってもこんなとこまで来れないね。」「頑張って走るんですよ。」
     人気がなく広い公園は曇天の下では寒々しい。紅葉している樹木は少なく、公孫樹もまだ青々としている。数人の男が紙飛行機を飛ばしている。「滞空時間が長いね。」手投げではなくパチンコのゴムで飛ばしているから、厚紙を組み立てる形式のものだろう。
     園路を進んでいくと大きな石を積んだ人工の岩場が現れた。「ここに第一台場の石が使われています。」そのそばに薄紫のハギが咲いている。
     園路を抜けると広い芝生に出た。「あれ、十月桜じゃないですか?」姫の言葉で土手を上がって観察すれば確かにサクラだ。「まだ蕾もあるね。」「八重じゃないですね、一重です。」桃太郎の言うのは、それが品種の鑑定に関係するのだろうか。「十月桜って、今は十一月ですよ。」「旧暦じゃないのかな。」十月桜は年に二回、春と秋に開花する園芸種である。別に冬桜と呼ばれる種類もある。間違っているかも知れないが、同じように秋に咲くサクラでも十月桜は八重、冬桜は一重になるようだ。
     金網に沿って「玉石張りの水路」が残っている。飛行場への水の流入を防ぐ水路で、野川まで続いていた。案内板には、第二次大戦中は人手不足のため受刑者を使ったと書かれている。深さ一メートルほどだろうか。かなりの長さが残っている。「土方仕事は大変なんですよ」と姫が言う。「私も協会の仕事で何度もやりましたから。」この細い体で土木作業は大変だろう。
     「土方は差別用語ですけど」と姫は遠慮がちに言うがそんなことはない。もしそうなら、一節太郎は『浪曲子守唄』が歌えなくなってしまう。「土方渡世のおいらが賭けたたった一度の恋だった」の歌詞があるのだ。
     「四百六十万円かかったんだ。」「そこに三十六万円って書いてあるのに。」解説板には三十六万円(現在の価値で一億三千万円)と書いてあるのだ。講釈師の言う金額はどこから出てきたものか。調べて分かった。水路ではなく、調布飛行場全体の当初の工費が四百六十万円だったのだ。そのうち六十万円を陸軍、百万円を逓信省、三百万円を東京府が負担した。

     やがてフェンスを隔てて調布飛行場の滑走路が見えてみた。昭和十六年に竣工した飛行場で、開設当初はメイン滑走路(幅八十メートル、長さ千メートル)と、その南端近くで直交する横風用滑走路(幅八十メートル、長さ六百七十五メートル)の二本が造られた。ほぼ現在の姿に近いだろうか。そして昭和十七年のドーリットル空襲後は、帝都防衛の拠点として更に拡張された。さっきの味の素スタジアムから、西は警察学校の辺り(けやきの森学園の西)まで、未舗装の滑走地帯とされたのである。現在は新島・大島・神津島・三宅島への定期便が運行されている。
     小高い丘の上に登れば飛行場全体がよく見える。「あっ、こっちに来るよ。」「着陸するんだ。」大概の男は飛行機を見ると興奮するらしい。「裕次郎の映画の舞台になったんだ。パイロットになるやつ。知ってるだろう?紅燃ゆるだよ。」勿論私は知らない。クレナイモユルと言えば三高寮歌(『逍遥の歌』)ではなかろうか。クラちゃんも「紅萌ゆる丘の花早緑匂う岸の色、でしょう?」と私と同じことを考えていた。
     しかし講釈師の言い方は正しくなかった。裕次郎の映画なら昭和三十三年(一九五七)に公開された『紅の翼』(中平康監督)である。勿論私は見ていない。もしかしてその主題歌に「クレナイモユル」の歌詞があるのかと調べてみたが、それはなかった。裕次郎の歌なら大抵知っている筈の私がこの歌を知らない。念のために主題歌を探してみたが大した歌ではなかった。
     「『紅の翼』はいい映画でしたよ。」あんみつ姫が言うのはジョン・ウェイン主演の『紅の翼』(一九五四年)である。教養の方向がまるで違う。
     「あれで何人乗りでしょうか?」クラちゃんがスナフキンに訊いているが、スナフキンだって知っている筈がない。新中央航空株式会社のホームページを確認すると、乗員二名、乗客定員十九名だ。機種はドルニエ社のDO228—221。機体長は一六・五六メートル、翼幅一六・九七メートル、機体高四・八六メートル、翼面積三二平方メートル、最高速度四三四キロメートル、航続距離一〇三七キロメートル。
     因みに大島までは所要時間二十五分で片道運賃が一万一千八百円、三宅島なら五十分で一万七千二百円となる。比較するために東海汽船の料金を見ると、東京・大島間の二等運賃が四千九百二十円、特等だとどんな部屋か想像もできないが一万三千七百八十円になる。
     「ずいぶん前に、鹿児島から松山までプロペラ機に乗ったんです。」「なんでまたそんな所に?」「仕事で鹿児島に行ったついでに、実家が松山でしょ。だからちょっと寄ったんです。」クラちゃんは服飾関係の仕事で全国を飛び回っていたらしい。「プロペラ機ってすごく揺れるんですよ。」私はジェット機だって乗りたいとは思わない。ましてプロペラ機なんか絶対に嫌だ。
     「それじゃ行きますよ。」ロダンが声をかけて大半が丘を下りて歩き始めたのに、ヨッシー、講釈師、スナフキンはまだ飛行機を眺めている。余程好きなのだ。

     離着陸眺めて飽かぬ冬の丘  蜻蛉

     次にロダンが案内したのは掩体壕「大沢二号」である。私は初めて見るが、鉄筋コンクリートで山形の屋根を作った有蓋掩体壕だ。戦時中はこれが三十基造られた。「機体の後ろから人力で引っ張っていれるんだ。」これも講釈師の得意分野であった。「鉄筋を抜いて盗む人が出たんで、危険だから中に入れないようにしています。」これはロダンの解説だ。鉄泥棒はおそらく朝鮮戦争の頃のことだろう。「無蓋のやつもあったんだ。」それなら剥き出しで空から発見されるのではないか。「竹で枠を造って木や草で覆うんだよ。」成程、そうであったか。
     案内板には飛燕の写真が掲載されている。「これがカッコよくてさ。何機も作ったよ。」スナフキンがプラモデルマニアだとは知らなかった。「頭の部分がすっきりしてるんだよ。」「空冷じゃないからね。」碁聖も戦時中の飛行少年だったろうか。「飛行機に乗る前に戦争が終わっちゃった。」昭和三年生まれの長老が(この頃どうしているだろうか)最後の予科練で、一度も飛行機に搭乗できなかったと言っていた。碁聖は少しばかり年齢が足りなかった。液冷方式はシリンダーを直線的に配置するので、空冷式に比べて胴体を細くできるのだそうだ。その結果、空気抵抗も少なくなる。
     講釈師も負けてはいない。「うちにまだ二機あるよ。」「講釈師はプラモデルが上手ですものね。」プラモデル作りのプロである。「口先だけじゃないってことが分かったね。」「そうですね、口八丁手八丁。」クラちゃんが笑い、講釈師も自慢そうに鼻を動かす。「うちの旦那様も飛行機が大好きで。」「プラモデル?」「本や雑誌だけですけど。」団塊の世代には意外にこういう人が多いのかも知れない。
     私も当時の流行に乗って一式陸攻だったかを一機作ってみた。たぶんゼロ戦は人気があって売り切れていたのではなかろうか。この結果、プラモデル作りに全く才能がないことに自分ながら呆れてしまった。私は気が短いのだ。コツコツと細かい作業を続ける意思と根気がないのである。
     「『丸』って雑誌、読んでましたよ。」「今でもあるんじゃないの?」スナフキンと碁聖の話がぴりと合っている。昭和二十三年に聯合プレスから創刊された雑誌で、現在は潮書房光人社が引き継いでいる。これは軍事雑誌ではないか。父が反軍国主義を標榜していたから、我が家ではこういう雑誌は見ることがなかった。
     もうひとつの一号掩体壕には入口を覆うボードに飛燕が描かれ、傍らには屋根の一部を切り取った掩体壕と飛燕のミニチュアが置かれていて、様子がよく分かる。「飛燕を入れるためだけに作ったんだよ。」三枚羽根のプロペラを正確にYの形にしなければ天井につかえてしまう程、ぎりぎりの高さだ。少しも余裕をつくれない程、資材が不足していたのではないか。講釈師はミニチュアの翼を撫で回し、ヨッシーも熱心に見つめている。
     「メッサーシュミットのエンジンを使ったんだよ。」「だけど飛燕は弱っちい飛行機だと思ってた。」中学生だった碁聖の証言だから、これが当時の一般的な評価ではあるまいか。飛燕は川崎航空機によって開発製造され、昭和十八年に陸軍の制式戦闘機となった。ダイムラー・ベンツ社のエンジンDB601(講釈師の言う通りメッサーシュミットと同じ)を使ったもので、当時の日本軍戦闘機では唯一の液冷式が採用された。これがあまりにも最新式で構造が複雑なため、現地では整備技術や部品調達力が追い付かず、故障が相次いだらしい。また急降下速度が速くても上昇能力はやや劣るとも言われる。
     「紫電改ってのがあったね。」それなら私も知っている。と言っても私が知っているのは、ちばてつや初期の名作(ちば自身は失敗作だと言っているが)『紫電改のタカ』である。昭和三十八年(一九六五)七月から四十年一月まで、『少年マガジン』に連載された。戦記ブームは子供にも及び、この頃戦記漫画が流行っていたが、今でも再読に耐えるのはこれだけではないか。ブームの中では無数の戦記物が出版されたが殆ど消え去った。僅かに高木俊郎の『インパール』五部作や亀井宏『ガダルカナル』等が残るだけではなかろうか。勿論、大岡昇平『レイテ戦記』は別格である。

     冬立つや熱く語るは戦闘機  蜻蛉

     腹が減ってきた。「それじゃ行きますよ。」公園を出るとき、「きれいですね」と姫が声をあげた。ガマズミに真っ赤な実が生っているのだ。葉は白っぽく見える。
     道端に頭の欠けた馬頭観音が建っているのを姫が見つけた。「馬」の部分が欠けているのだ。野川に出る。川はコンクリート護岸をしていないので、自然が良く残っている。水も綺麗だ。「アオサギだ。」「どこ?」「すぐそこに。」川の真ん中で身じろぎもしない。こんなに間近にアオサギを見るのは初めてのことだ。少し色が薄いのではないか。「まだ若いんだよ。二年たってないんじゃないか。」遠くに白サギも見える。久我山三人娘はアオサギを初めて見るらしい。「向こうの白サギのほうが素敵ね。」「サギの仲間では一番大きい種ですよ」と姫が補足する。
     相曽浦橋を過ぎて人見街道に出る。この道は、杉並区の大宮八幡と府中とを結ぶ街道である。人見村を経由するからというのが名の由来だ。府中の浅間山に人見村があり、かつては人見氏の居住地であった。人見氏はもともと武蔵国幡羅郡人見村(深谷市)を本貫とする小野姓横山党(または猪俣党)だと言われ、いつの頃かにその一部が多摩郡に移住したものだろう。
     『平家物語』に人見四郎という人物が登場する。一の谷の戦いで、越中前司平盛俊が猪俣小平六に打ち取られる場面だ。猪俣は打ち掛かったものの、大剛の盛俊に押さえられて動けない。

     「武藏國の住人、猪俣小平六則綱と云うふ者なり。ただ今我が命助けさせおはしませ。さだにも候はば、御邊の一門、何十人もおはせよ、今度の勲功の賞に申し代へて、御命ばかりをば助け奉らん」と云ければ、越中前司大きに怒つて、「盛俊身不肖なれども、さすが平家の一門なり。盛俊、源氏を頼まうとも思ひもよらず、源氏、又盛俊に頼まれうとも、よも思ひ給はじ。にくい君が申しやうかな。」とて、已に首を掻んとしければ、「まさなう候。降人の首掻くやうやある」と云いひければ、「さらば助けん。」とて許しけり。

     ここに人見四郎が近づいてくる。「あれは則綱に親しう候人見四郎で候ふ」と言うから、やはり猪俣党の一族であろう。盛俊がそちらに気を取られた隙に猪俣が立ち上がる。

    猪俣、力足を蹈んで立ち上り、拳を強く握り、越中前司が鎧の胸板を、はたと突いて、後へのけに突き倒す。起上らんとする處を、猪俣上に乘りかゝり、越中前司が腰の刀を拔き、鎧の草摺引き上げて、柄も拳も通れ/\と、三刀刺いて頸を取る。さる程に人見四郎もい出来たり。「かやうの時は、論ずる事もあり」とて、やがて首をば太刀の先に貫き、高く指上げ、大音聲をあげて、「この日来平家の御方に鬼神と聞えつる越中前司盛俊をば、武蔵国の住人猪俣小平六則綱が討つたるぞや。」と名のつて、その日の高名の一の筆にぞ附きにける。(『平家物語』盛俊最期の事)

     これは卑怯だね。騙し討ちである。猪俣は負けたから許してくれと命乞いして許されたのに、そこに人見四郎が現れたのが上手いタイミングであった。これが「その日の高名の一」となるのである。
     そして、もう一人の人見四郎が『太平記』に登場する。

     「武藏國ノ住人ニ、人見四郎入道恩阿、年積テ七十三、相摸國ノ住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉ヲ出シヨリ軍ノ先陣ヲ懸テ、尸ヲ戰場ニ曝サン事ヲ存ジテ相向ヘリ。我ト思ハン人々ハ、出合テ手ナミノ程ヲ御覧ゼヨ。」ト聲々ニ呼テ城ヲ睨デ引ヘタリ。城中ノ者共是ヲ見テ、是ゾトヨ、坂東武者ノ風情トハ。只是熊谷・平山ガ一谷ノ先懸ヲ傳聞テ、羨敷思ヘル者共也。跡ヲ見ルニ續ク武者モナシ。又サマデ大名トモ見ヘズ。溢レ者ノ不敵武者ニ跳リ合テ、命失テ何カセン。只置テ事ノ樣ヲ見ヨ、トテ、東西鳴ヲ靜メテ返事モセズ。人見腹ヲ立テ、「早旦ヨリ向テ名乗レ共、城ヨリ矢ノ一ヲモ射出サヌハ、臆病ノ至リ歟、敵ヲ侮ル歟、イデ其義ナラバ手柄ノ程ヲ見セン。」トテ、馬ヨリ飛下テ、堀ノ上ナル細橋サラサラト走渡リ、二人ノ者共出シ屏ノ脇ニ引傍テ、木戸ヲ切落サントシケル間、城中是ニ騷デ、土小間・櫓ノ上ヨリ、雨ノ降ガ如クニ射ケル矢、二人ノ者共ガ鎧ニ、蓑毛ノ如クニゾ立タリケル。本間モ人見モ、元ヨリ討死セント思立タル事ナレバ、何カハ一足モ可引。命ヲ限ニ二人共ニ一所ニテ被討ケリ。(『太平記』赤坂合戦事付人見本間 抜懸事)

     『平家』の熊谷直実と平山季重の先陣争いを真似てはみたものの、あっけなく討死してしまう。戦闘には何の影響も与えず、ただ名前だけが残るのだ。『太平記』にはこの手の無駄死にの話が多い。これが『平家』の人見四郎の子孫であり、府中市浅間山に墓がある。どうも私の作文には余計なことが多すぎる。
     その人見街道が東八道路と斜めに交差する地点が国際基督教大学裏門だ。交差点の北側に建つ二階家がなにやら由緒がありそうに見える。「しょっちゅう通るけど謎なんだ。」信号を渡ってスナフキンが敷地の奥まで見に行ったが成果はなさそうだ。
     ここを左に行けば近藤勇の墓のある龍源寺があって、ロダンの資料ではそこに寄る筈だが、どうやら順番を変えたようだ。ここで近藤勇に関わっては、また講釈が長くなって昼飯が食えなくなってしまうからだろう。「正門から入ります。」大沢八幡には七五三の幟が立っているが人影はない。人見街道が結構長い。
     大沢の交差点を左に曲がり、スバル富士重工の前でロダンは立ち止る。「ここが中島飛行機三鷹研究所の跡地です。」この富士重工と、隣接する国際基督教大学が三鷹研究所だった。設計本館が現在のICU本館で、試作工場の部分が富士重工になっている。つい二週間前に太田で中島知久平の像を見たばかりだから、中島飛行機と聞くとなんとなく親近感を覚えてしまう。

     そして国際基督教大学の正門に着いた。三鷹市大沢三丁目十番地二。ロダンが守衛に声をかけて歩き始める。道路の中央に設置された立哨所はなんとなく自衛隊風だ。ここからが長い。学生たちには「滑走路」と呼ばれるようで、延々と続く真っ直ぐの桜並木を歩く。桜の幹はかなり太い。「戦後に植えたって信じられないね。」春になると、この道に毛虫がうじゃうじゃ出てくる。新入社員の頃に営業で来ていて、この道にはうんざりしていた。「遅刻しそうになったら泣いちゃうでしょうね。」道の両側は深い林になっている。
     「連翹じゃないですか?」この時期に咲く花ではないが、確かに連翹に見える。「不思議ですね」と姫が首を捻る。キャンパスツァーなのか、十人ほどの中年男女が女子学生(だと思う)の説明を受けながら歩いている。
     六百メートル歩いて漸く中央ロータリーに着いた。ここに三鷹行と武蔵境行バスの停留所がある。私は三鷹からバスに乗ることしか覚えていなかったが、スナフキンによれば武蔵境のほうが近い。バスでここまで来るのなら、泣きながら道を歩く必要はなかった。ただ広大な敷地に校舎が分散しているので、キャンパス内では自転車を利用する学生が多いらしい。
     学生食堂は全面ガラス張りの直角に曲がった洒落た建物で、右側のホールは卒業三十周年REUNIONの催しに使われている。同窓会のことをこう呼ぶらしい。「十三時にここに集合してください。」その「十三時」がおかしいと、久我山娘たちが笑っている。
     初めての学生食堂は勝手がわかりにくく、ロダンが「こっちです」と案内してくれるままに進む。「ランチはないのかな。」料理は単品でライス、味噌汁などは別料金になる。メニューの数は多くない。「油ものばかりですね。」麺類もあるようだが、私はご飯が食べたいから豚肉と茄子炒め(三百円)と中ライス(百二十円)、味噌汁(五十円)を選んだ。料理をトレイに乗せて後で支払う方式だ。
     スナフキンは何かの丼にサラダを付け、姫は鮭フライとサラダに味噌汁を運んできた。「二切れだと多いので」とその鮭を一切れ分けてくれた。土曜だというのに食堂内は混んでいる。外国人学生の姿が多いのは大学の特性だ。「狭いんじゃないか」とスナフキンは言うが、そんなことはないだろう。学生総数は院生も含めてざっと三千人。普段は右側のホールも食堂になるだろうから、大学の規模としては適当ではないか。少なくとも、学生数八千人の城西大学で二つの食堂を合せたよりは広いと思う。ただテーブルの間隔が広いかも知れない。
     豚肉と茄子炒めは旨かったが、味噌汁ははっきり言ってダメだ。「お味噌が薄いんです。」その上にキャベツのせいで更に水っぽくなっている。「キャベツばっかりかい?」「油揚げも入ってるけどね。」「俺は朝食ってるから味噌汁は付けなかった。」
     少し早目に食堂を出るが喫煙所はついに発見できなかった。外にはツワブキが盛りに咲いている。やがてみんなも食堂から出てきたが講釈師の姿が見えない。その間に碁聖が甘いお菓子を全員に配ってくれる。「講釈師は二つ食べないと味が分からないよ。」「大丈夫、まだ充分あるから。」もうすぐ時間だが講釈師はまだ現れない。「除名だね。」しかし十三時丁度、殆ど一秒の狂いもなく講釈師は林の中から現れた。折角「除名」を通告するタイミングだったのに惜しいことをした。「俺が遅れる訳ないじゃないか。」中島飛行機時代の旧跡を探して見てきたと言う。「それなら私も見たかったですよ。」地下の防空壕も見たらしい。中島知久平が住んだ泰山荘も残っている筈だ。
     「ここは教養学部だけです。」ロダンが説明する。アメリカ流のリベラル・アーツを目指して教養学部アーツ・サイエンス学科だけという珍しい大学なのだ。但し専攻は人文社会自然の殆ど全分野に及ぶ。「機械関係もありますか?」桃太郎は自分の専門につなげて考えるが、工学関係はない。「理学はある筈だよ。」
     因みに専攻は「メジャー」と呼ばれていて、次のようになっている。美術・文化財研究、音楽、文学、哲学・宗教学、経済学、経営学、歴史学、法学、公共政策、政治学、国際関係学、社会学、人類学、生物学、物理学、化学、数学、情報科学、言語教育、言語学、教育学、心理学、メディア・コミュニケーション・文化、日本研究、アメリカ研究、アジア研究、ジェンダー・セクシュアリティ研究、開発研究、グローバル研究、平和研究、環境研究。一学科とは思えないほど範囲は広く、ほとんどが大学院(博士後期課程)まである。各専攻の垣根を払って、広い分野を学ぶ方針である。
     「秋篠宮佳子サマが学習院を中退して入ってくるんだろう?」十月のOA入試で合格したようだ。全授業の約三分の一が英語で行われるので、英語ができないと授業についていくのは容易ではないが、おそらく大丈夫なのだろう。
     「ICUからは高村薫が出てるんだよ。」スナフキンはよく知っている。小説はあまり読まない私でも彼女の作品はいくつか読んだ。確認してみると七冊で、つまり好きな作家だ。破滅にまで向かう暗く激しい情熱を緻密に描く筆力に圧倒されるのである。
     「それ以外、目立つのはいないんじゃないか?」念のために調べてみると、作家では芥川賞の奥泉光がいた(私は読んでいない)。評論家では大宅映子、小野耕世(これは姫の趣味の範囲になるか)。静山社の松岡佑子(ハリー・ポッターの翻訳)。私の関心分野では元東大史料編纂所の保立道久がいる。政治家や財界人ではそれほど有名人は出ていないようだ。
     「図書館は近いんですか?」姫は図書館が好きだ。しかし離れているし普通は入れないと思う。ところでICUの図書館は朝日新聞社の大学ランキングで常にトップを争っている。このランキングには評価項目にちょっと問題もあるのだが、学生一人当たり年間平均貸出数が五十冊とは文句なくすごい。三千人なら年間貸出数合計は十五万冊になる。これでもここ数年低下気味だと言う。国立大学の一部や、文学部だけの女子大等でこれを超えるところもあるが、一人五十冊は全国私大平均の七倍程度であり、全国平均にはるかに及ばない図書館から見れば実に夢のような数字だ。どうしたら学生に本を読ませることができるか。
     実は私も学生時代に図書館から本を借りたことがないので偉そうなことは言えない。五十五歳頃まで、私は本は自分で買うものだと信じ込んでいた。今、図書館の本を借りない学生が、自分で買って読んでいるなら問題はないのだが、そうではないだろう。
     「誰も借りたことがない本の展示をやっただろう。」ICUでなければできない企画だが、いくらICUでも、七十八万冊の蔵書の中では一度も借りられない本は膨大になる。そこで新書に絞って、更にスタッフが選んでフェアを行ったようだ。この企画はかなり評判になって、自分の本がその中に入っていたらどうしようかと、作家や評論家は戦々恐々としたと言う。
     食堂の裏から回って道路に出るが、まだ大学構内だろう。それにしても広い。現在の野川公園もかつてはICUのゴルフ場だったのだから、恐れ入ってしまう。よほど資金が潤沢なのだ。
     「この辺りはキリスト教系の学校が固まってるだろう?」理由は分からないが、隣接して東京神学大学とルーテル学院大学が並んでいる。
     この二つの大学と富士重工、ICU、それに野川公園を含めた範囲が中島飛行機の敷地であり、その広さは六十万坪に上る。何故この広さが必要だったか。「古典航空機電脳博物館『中島飛行機物語』」(http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/chikuhei/shafu3.html)によれば、知久平の構想は、各地に分散している開発部門を集約することは勿論、更に社会・経済・政治等に関する国内外の学者を集めた一大研究拠点にすることだったらしい。その中には研究者や従業員向けの住宅も含まれる。つまりこの地に日本の将来を託す一大シンクタンクを作ることにあったのである。
     落ち着いた住環境のもと、静かに思索にふけるには赤松林や野川の自然環境が重要で、その自然環境を守るためにもこれだけの広さを必要とした。これは一民間企業の考えることではない。
     研究所は昭和十六年の末から建設が開始され、十八年末頃から稼働した。陸軍用機体開発部門と陸海軍用発動機開発部門が置かれ、従業員は四千人程いたらしい。但しこの研究所は稼働するのが遅すぎ、実際には殆ど何も成果を上げることなく終戦を迎える。武蔵野製作所(現武蔵野公園・NTT武蔵野研究開発センター)が徹底的に空爆されて死者二百名以上を出したのに対し、三鷹研究所は二十年二月十七日の空襲で四人の工員を失ったにとどまっている。爆弾が試作工場近くの防空壕を直撃したのである。

     長い道を辿って漸く裏門から人見街道に出る。ハナミズキが紅葉して真っ赤な実がなっている。「ハナミズキは好きじゃないけど、実はきれいですね。」「花はヤマボウシの方がいいけど、俺は紅葉したハナミズキは好きだよ。」「そうですね。」
     さっきの道を少し戻って川の手前から大沢緑地に入っていく。目的は出山横穴墓群八号墓である。少し崖線を登るので、膝に不安のある姫は川沿いで待つことになる。以前に行っているから様子は知っている筈だ。
     「前に来ただろう?」以前は逆の道から来た筈だ。「そうだよ、湿地帯を通って遠回りしたんだ。」「私は知りません。」「忘れたのか。ロダンだっていた。」調べてみると、ここには里山ワンダリングで平成二十一年四月と二十二年五月の二回来ているが、そのうち二十一年四月の会にロダンもちゃんと出ている。雨の日であった。スナフキンは二十二年に参加している。
     山道の階段を上っていくと、崖の中腹にコンクリートで覆われた四角い見学室を出っ張らせてある。ドアを開くと正面が二重のガラス張りで、墓域内部に照明が当てられている。入り口部分は幅約二メートル、長さ六・八メートル。続いて幅六十センチ、高さ九十センチの河原石を用いた石積みの羨門、幅六十~九十センチ、高さ七十~九十センチ、長さ約一・四メートルの羨道があって、その奥に埋葬場所(玄室)がある。玄室は長さ約三・三メートル、最大幅二・四メートル、高さは最大で一・八メートルになる。
     七世紀の須恵器が出土しているので、墓自体もその時代のものだと推定されている。八歳前後の男性、身長百五十センチの四十代とみられる男性、百六十センチの三十代の男性、百五十センチの二十代の女性の人骨が発掘された。
     横穴墓は五世紀後半に九州北部で始まり、六世紀に近畿・東海地方に及び、七世紀に北陸・関東・東北南部に伝わったと考えられている。日本で最初の研究は坪井正五郎による吉見百穴の調査で、坪井はこれをコロボックルの家だと考えた。日本人類学(当時は考古学と分離していなかった)黎明期の逸話だ。
     部屋を出て桃太郎が扉を閉める。「開かなくなっちゃった。どうしよう。」ロダンや講釈師、久我山娘がまだ中にいる。「やめてよ、心臓が止まりそうになった。」講釈師がやりそうなことを桃太郎がやってしまった。
     今度は階段を逆の方向に降りる。「あの時はカラーが咲いてたよね。」「白いやつだよな。」そこに川で待っている筈の姫も現れた。「大声が聞こえたからみんなかと思って。」川はすぐそこだった。今日もそのカラー(海芋・カイウ)が咲いていた。「サトイモですよ。」しかし今時に花が咲くのか。花期は五六月頃の筈で、どうも季節感が狂ってしまう。
     「あの赤い実は何かしら?」烏瓜だ。「綺麗ね、生け花に使えそうだけど。」手を伸ばして届く場所ではない。「カリンが。」見上げると割に大きなカリンの実が生っていた。「カリンって食べられるのかな?」「焼酎に漬けるんだよ。カリン酒。俺は毎日飲んでる。記憶力が衰えないんだ。」真偽は不明だが、講釈師が異常なほどの記憶力を持っているのは間違いない。「ダンディにも飲ませなくちゃいけない。」
     「カリンの歌って知ってるかい?」お馴染みの科白だ。姫もすかさず歌いだす。「カリンカカリンカカリンカマヤ 庭には苺 私のマリンカ。」カリンカとはガマズミの意味だと言うのは調べて知った。「お茶の花がきれいでした。」

     川を渡り野川に沿って少し南に行ったところが、大沢の里水車経営農家「新車」だ。シンシャではなく、シングルマと読む。近所に天保の頃に作られた水車があって、それより新しいのでこう呼ばれた。入場料は百円で、自動券売機で買う仕組みだ。ロダンはボランティアのガイドを頼んでくれていて、これが良かった。八王子城や太田城でもそうだったが、説明を受けて初めて納得することは多いのである。ガイドは無駄にいる訳ではない。水車の直径は四・六メートル、幅約一メートルと巨大だ。

     ・・・・・峯岸家は文化十四(一八一七)年以来、五代にわたり水車経営に携わってきました。
     「新車(しんぐるま)」と呼ばれる峯岸家の水車は、文化五(一八〇八)年頃創設され、その後度重なる改造を加え、現存する装置は、搗き臼十四個、杵十四本、挽き臼二台、やっこ篩二台、せり上げ二台を備えた多機能性を持つ両袖型の大型水車で、規模・形式ともに武蔵野地域を代表する営業用水車です。
     野川の河川改修工事により昭和四十三(一九六八)年頃に水車の稼働は停止しましたが、ここには、水車とともに、母屋・カッテ・土蔵・物置などの建物や水車用用水路跡、「さぶた」なども現存しており、武蔵野地域の水車経営農家の旧態を留める貴重な民俗資料です。ここは、現在、市教育委員会によって管理・公開されています。(三鷹市「大沢の里 水車経営農家の概要」)http://www.city.mitaka.tokyo.jp/suisya/shinguruma/gaiyou.html

     母屋は桁行七間、梁間三間、屋根は茅葺の寄棟造りになっている。屋根裏では養蚕を行っていたと言う。「屋根もそろそろ葺き替え時期なんですが、予算がおりなくて。」「消防法で大丈夫なんですか?」姫は心配するが民家ではなく都の指定有形民俗文化財だから大丈夫なのだろう。「但し火が使えないんですよ。囲炉裏もダメ。だからお茶も出せなくて。」「茅は煙でいぶして虫を殺さなくちゃいけないんですけどね。」「冬は大変でしょうね。」「実は私は初めて冬を迎えます。」
     水車は松材で作る。「松は脂があって強いんですが、それでも二十年しか持ちません。」当然腐食するのだ。その時、全体を交換するのでは費用と手間がかかりすぎるから、交換しやすいように八つの箱型のパートに分けてある。考えたものだ。
     そのほかにも工夫は随所にみられる。水車の回転運動を縦に変えると杵になる。これは予想通りで、私だって知っている。しかし水平の回転に変えれば臼になるし、横運動になれば篩になる。更に柱の中を空洞にして歯車にベルトを取り付ければ、一度篩にかけた粉がもう一度上に戻って篩に入る。こんなことは説明を受けて実際に見なければ分からない。パンフレットから引用しておこう。

     水輪の回転により、水輪の軸に直結した「大万力」とよばれる大型の木製歯車が作動し、「繰り出し万力」とよばれる中型の木製歯車等の組み合わせによる〝からくり〟で、杵十四本、挽き臼二台、やっこ篩二台、せり上げ二台を動かしていました。

     水車の回転力をこんなに多面的に利用する構造は日本だけのものだろうか。日本機械工学会からは機械遺産に認定されている。深大寺蕎麦に使う蕎麦粉は、ここが一手に引き受けていたという。それだけでなく、蚕棚や所狭しと陳列してある農具工具・保存用容器を見ると、かなり多角的に経営していることが分かる。お茶も作っていたようだ。「この辺ではみんなお茶は自家栽培でした。」
     外に出て水を排出する暗渠と石橋を見る。「ナギの木ですよ。」姫が目敏く見つけて説明する。熊野の神木で、時々神社で見かけることがあるが、ガイド氏は知らなかったらしい。ガイド氏がスマホで「ナギ」を検索しようとしているが、なかなかヒットひない。「葉脈が枝分かれしてなくて平行になっています。それにこんな広い形ですけど針葉樹なんですよ。」ナギは、キヘンに「那」を書く。ナギを凪と読めば航海の無事祈念に通じる。ただ語源は不明だ。
     「これからどちらへ?」「龍源寺です。」「それならそこを曲がってすぐですよ。」ガイドにお礼を言って外に出る。

     龍源寺(曹洞宗単立)は人見街道に面している。三鷹市大沢六丁目三番地十一。門前左に近藤勇の胸像が立っている。「近藤は流山で捕まって。」ロダンの説明にいきなり講釈師が反論する。「捕まったんじゃないよ。自ら新政府軍に出頭したんだ。」講釈師は新撰組が大好きなのだ。しかし大久保大和だと言い張っていたのに、近藤と知られて捕縛されたことに違いはない。これを普通は「捕まった」と言うだろう。「言葉遣いがちょっと違っただけなのに。」ロダンは困ってしまう。「私が今日のリーダーなんですけどね。」
     「伊藤甲子太郎の弟子が見破ったんだ。」加納鷲雄と清原清(西村弥左衛門)である。油小路事件で難を逃れて薩摩に匿われ、そのまま新政府軍に参加していたのだ。
     「谷干城が処刑を主張したんだ。」近藤の処刑については薩摩と土佐とで対立があったが、谷の強引な主張が通ったという。「せめて切腹させてくれって頼んだけどさ。」現在では京都見廻組の佐々木只三郎による犯行説が有力だが、当時の土佐藩は坂本龍馬と中岡慎太郎殺害を新撰組の犯行だと信じていたのである。そして板橋で斬首された。「臨時の刑場だった。」実に詳しい。今そこ(板橋駅前)には永倉新八によって建てられた墓がある。
     「刀は虎徹だって信じてたけど違うんだ。」それなら私も知っている。実は源清麿(四谷正宗)であったと言うのが定説だ。「それって四谷でお墓を見た人ですか?」姫もよく覚えているネ。やたらに話好きな住職に捕まった時のことだ。清麿自身も近代刀剣の名匠であり、切味も強さも優れていたようだ。
     山門脇には合掌型の青面金剛が二基建っていた。左の宝永五年の年号が分かる方は風化しているが、右の少し小型のものは殆ど崩れていない。三猿と邪鬼の境界辺りで石の色が変わっていて、上の部分が綺麗ですっきりしている。「復元したものでしょうね。」復元するのは良いのだが、それを説明しておいてほしいと思う。
     しかしこんなものを見ているのは私と姫だけで、皆は講釈師を先頭にさっさと墓地に入っていく。確か竹が生えていた筈だと後ろをついていくと、確かに竹が生え、その脇に近藤家の墓所があった。「滝野川の無縁塚に埋められていた胴体を運んできて埋葬したんだよ。」「首はどうしたの?」「三条河原で晒首になったんだよ。板橋から運ぶ時に焼酎に漬けていった。京都についても、まだ生きている如くさ。」
     「やっぱりアルコールですね。塩漬けは縮んでしまいますから。ネルソン提督の遺骸はラム酒に漬けて運ばれました。」姫は変なことを知っている。しかしウィキペディアには不思議な逸話を載せている。

     しかしそのネルソンを漬けたラム酒は、水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。一説によると、偉大なネルソンにあやかろうとした行動だったという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることもある。もちろん、単なる蒸発と言う可能性もある。(ウィキペディア「ホレーショ・ネルソン」)

     遺骸を漬けた酒を呑むなんてことがあるだろうか。つくづくイギリス人は野蛮ではないか。
     近藤家墓所の向かいには「横穴墓群供養」と記された墓がある。明治十七年に横穴墓が発見された際に出土した人骨を埋葬して供養したものだ。「穴仏」の石碑も建っている。
     墓を出てすぐ、右に野川公園の入り口を見ると警備員が二人立っている。その向かいに小さな祠があって、「これは何だい」とスナフキンが不審に思う。何だろう。額は堅窂地神とある。「牢」かと思ったが、ウカンムリではなく穴カンムリになっているので、別の読みがあるかどうか、この区別は私には分からない。(結局同じ意味らしい。)ウィキペディア「堅牢地神」によれば、仏教の天部に属し、「堅牢地天、堅牢地祇、あるいは単に堅牢と呼ばれる場合もある。大地女神として、地の堅牢と神の不壊とに解釈される」とあるので、地母神と同じであろう。
     その隣が近藤勇生家跡だ。調布市野水一丁目六番地八。当時は多摩郡上石原村の宮川家である。戦時中、調布飛行場から離着陸の邪魔になるという理由で、家屋敷は取り壊され、井戸だけが残っている。そしてさっきの祠と同じ形の祠が祀られている。近藤神社だ。「近藤が神になるのか?」日本はなんでも神になる。
     その斜向かいが撥雲館道場跡になる。近藤勇の甥で、勇の娘瓊子と結婚し天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎の道場である。昭和五十年代までは稽古が続けられていたらしい。

     近藤は生前、弟子の加藤伊助に「俺が死んでも線香はいらない。ただ、竹刀の音だけは絶やさないようにしてくれ」といっており、加藤は太平洋戦争後、天然理心流第八代を継いだ。加藤は剣道七段でもあり、剣道の有段者に天然理心流を教授したという。(ウィキペディア「撥雲館」)

     この系統から門人会の平井泰輔と宮川家子孫の宮川清三が九代目を名乗っているらしい。そして勇五郎の系統以外にも天然理心流を名乗る派がいくつかある。
     「天然理心流公式サイト」(http://www.tennenrishinryu.com/history.html)によれば、三代近藤周助を経由せず、二代近藤方昌の弟子・松﨑正作を三代として四代松﨑和多五郎、五代井上才市、六代井上昌作、七代井上義雄、八代大塚篤と続く井上心武館の系統がある。また八代大塚篤の門弟の高鳥天真が独立して天然理心流試衛館の名乗りを上げている。この公式サイトは試衛館のものである。
     「木刀が太いんだよ。」木刀による組太刀が基本の稽古で、上級になって漸く竹刀稽古に入れるらしい。現代スポーツの剣道とは違って、命の遣り取りを決めるのは刀を自由に振るう腕力とスピードである。
     「後は駅に向かうだけですから。」十分ほど歩いて西武多摩川線多磨駅に着く。三時だ。「字が違うわね。」クラちゃんに言われて気が付いた。多摩川ではなく多磨霊園の「多磨」なのだ。駅開業当時は多磨墓地駅であった。私はこの「マ」がそれぞれ異なっていることを初めて知った。「この電車には初めて乗るよ。」「昔は是政線って言ったんだ。」それなら知っている。「競艇場があるんだよ。」路線距離八キロしかない。西武鉄道の中で唯一ほかの西武線と接続しない孤立した路線で、元々は多摩川で採取した砂利を運ぶために作られた鉄道である。
     ロダンとスナフキンの万歩計を勘案して、今日の歩数は一万六千歩と決めた。「キロ数は?」と碁聖が訊くので、「およそ十キロですね」とロダンが答える。心配していた雨も降らずに完歩できたのはロダンの人徳のせいであろう。二駅で武蔵境に着き、ここで解散する。

    蜻蛉