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    第五十六回 皇居界隈編(番町から江戸城へ)
    平成二十七年一月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.01.18

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     平成二十七年、昭和で数えて九十年と思えば、草田男を真似て「遠くなりにけり」と慨嘆してしまいたくもなる。既に昭和はレトロになった。旧式で言えば私も数えで六十五歳になる。そろそろ人生をきちんと総括しておきたいが、年末年始の休みはあっという間に過ぎてしまって、来し方行く末をゆっくり考える暇もなかった。
     一ヶ月も会わないと、孫のこころは私の顔をすっかり忘れてしまうようで、元日に会った時には大泣きされた。「トーチャンのお父さんだよ」と嫁があやしても分からない。妻の胸に顔を埋めながら、頻繁に首をそっくり返して後ろ向きに私の顔を見詰めて泣く。それなら見なければ良いのにと思うのだが、また瞬きもせずに見詰めては泣く。この小さな生き物は何を考えているのだろう。ジジはただ酒を飲むしかない。

     初春や赤子泣けども飲むばかり  蜻蛉

     それでもさすがに二三時間も経てば慣れてくる。慣れは二三日の間は維持されるようで、三日には大丈夫だった。駅伝を見ている私の膝を手掛かりにテーブルに両手を載せて、つかまり立ちをする。そして喜んでいるかと思えば五分もすると泣き出してしまう。「疲れたんじゃないの。」「自分で戻れないのね。」言葉がないとはどんなに不便なことかと、つくづく思ってしまう。
     今年は四日の日曜から出勤で、一週間閉館していた図書館はコンクリートが冷え切って寒い。六日の火曜日には少し雨が降り、その雨に濡れたのが悪かった。水曜日の朝、少し咽喉の奥に違和感があり午後から急に洟水が止まらなくなった。この日だけでボックス型一箱とポケット・ティッシュ六個を消費したから、鼻の下が擦り切れてしまう。菌をまき散らすのは避けなければならず木曜は勤務を休み、昨日も終日ボーっとしていたお蔭で、今日はなんとか洟も収まった。
     寒くないようにTシャツにタートルネックを重ね、長袖シャツを着て更にセーターを重ねてきたから、動きがスムーズにいかない。着膨れである。念のためにコンビニでポケット・ティッシュを大量に仕入れ、マスクも装着する。頭脳に多少靄がかかっているのは仕方がないか。

     洟水の漸く止まる江戸歩き  蜻蛉

     旧暦十一月二十日。小寒「水泉動(しみずあたたかさをふくむ)」。日本海側や北日本では大雪が続いているが、関東は乾燥しきっている。唇はガサガサし、咽喉はまだ歌える状態にはなっていない。
     集合は飯田橋駅西口だ。今回はちゃんと表示を確認して、有楽町線から最短で西口に出た。もう何人かが集まっているので挨拶する。「全然気づかなかった。」「人相を隠してるのかい。」毛糸の帽子にマスクをつけた私は相当怪しく見えるらしい。姫、桃太郎もマスクをしている。
     少し遅れたハイジを待って十時十分にスタートする。女性陣はあんみつ姫、半年振りのハイジ、久我山娘のクラチャン、タカチャンの四人、男性陣は初リーダーのヤマチャンを筆頭に、宗匠、ロダン、桃太郎、碁聖、マリオ、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヨッシー、若旦那、蜻蛉の十三人で、合計十七人とは珍しく大人数になった。若旦那が一人で来るのは珍しい。ハイジもマスクをしている。
     ヤマチャンが最初に向かったのは日本赤十字社発祥地だ。千代田区富士見二丁目十四番。東京逓信病院の北の端に千代田区教育委員会が建てた案内板がある。ヤマチャンと宗匠にとって、日本赤十字社を創った佐野常民は郷土の偉人である。宗匠の実家と同じ町内に記念館があるそうだ。「ツネタミって読むんですね。当り前だけど私はジョウミンだとばっかり思っていましたよ。」ロダン同様、私も普通にはジョウミンと呼んでいたが、こういうのは音読みで読むほうがカッコイイので、ロダンは反省する必要はない。

    日本赤十字社は 明治十年(一八七七)西南戦争の際、佐野常民・大給恒らが傷病者救護活動等のため設立した博愛社を前身としたもので、その本拠はこの地桜井忠興邸においた。

     この説明では紛らわしいが、明治十年に博愛社が設立されたのは熊本の熊本洋学校内であり、ここは、その博愛社が明治十九年に建てた病院発祥地である。ここと言っても実は現在では飯田橋駅構内になってしまっているので、実際には少しずれている。屋敷の持ち主の桜井(松平)忠興は摂津尼崎藩主で、博愛社の創設者の一人だ。
     設立当初から赤十字社としての認知を願っていて、政府が明治十九年(一八八六)にジュネーブ条約に加盟したことで、翌二十年にやっと日本赤十字社を名乗ることができた。明治二十七年(一八九四)に甲武鉄道飯田町駅の新設によって移転対象となり、目白通り(飯田橋四丁目五番地)に移ることになる。
     佐野常民が赤十字社を知ったのは慶応三年(一八六七)のパリ万国博覧会である。この万博には徳川昭武を団長とした幕府の他に、薩摩藩が薩摩国政府として出品したことが有名だが、佐賀藩も独自で出品し、これをきっかけに有田焼が世界に知られるようになる。また幕府の出品の中に浮世絵があってジャポニズムの流行に繋がって行く。佐賀藩団長として参加した佐野が、会場で国際赤十字の組織と活動に接して感銘を受けたのである。
     佐野常民を知っていても大給恒(おぎゅう・ゆずる)を知らなかったのは恥かしい。元の名は松平乗謨、三河奥殿藩主のち信濃竜岡藩主である。幕末最終局面の老中、陸軍総裁としてフランス式軍制の採用を進めたが、戊辰戦争に当っていち早く新政府に恭順した。明治になってからは賞勲制度の確立に力を注ぎ、その功績で伯爵になっている。西南戦争勃発の時、佐野常民とともに元老院議官の職にあって、博愛社設立を建白したのである。陸軍卿代行の西郷従道は許可しなかったが、征討総督の有栖川宮の理解によって博愛社が設立された。

     「そこにも何かの碑があるよ。」「気が付かなかった。」ヤマチャンも気付かなかったのは与謝野鉄幹・晶子夫妻旧居跡である。逓信病院敷地の植え込みの中に標柱が建っていた。夫妻が大正四年(一九一五)から十二年(一九二三)の関東大震災まで住んでいた場所で、当時の住所表示では麹町区富士見町五丁目九番地となる。明治大正の文人の旧居が何ヶ所もあるのは、貸家が充分あって頻繁に転居できたからだ。与謝野夫妻の旧居なら、私たちは千駄ヶ谷と渋谷を知っている。
     この頃は鉄幹の詩想は既に枯渇し、『明星』も明治四十一年十一月の第百号で廃刊となっていた。それに比べて晶子の活動は旺盛で、明治四十四年の『青鞜』創刊に参加し、大正四年には婦人参政権を唱えて『婦選の歌』を作った。妻の名声の陰で鉄幹は創作を諦め、大正八年(一九一九)から慶應義塾の文学部教授となっている。
     そして大正十年(一九二一)には石井柏亭とともに西村伊作の文化学院創設に夫妻で参加した。西村が校長、石井と与謝野夫妻が学監である。西村伊作は紀州新宮の出身で、叔父に大石誠之助がいた。鉄幹は大石誠之助の親友であり、慶応で鉄幹に師事した佐藤春夫も、父が誠之助の友人で春夫自身も誠之助に親しんでいた。
     こんなふうに調べていると、どうしても大逆事件に触れざるを得ない。荷風はこう記した。

     明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフュ一事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の藝術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。(『花火』)

     大石誠之助が処刑された時、鉄幹は『誠之助の死』を書き、春夫は『愚者の死』を書いた。いずれも反語的な表現の中に、どうしようもない怒りを込めている。蘆花は一高での講演で『謀反論』を語った。文学者として発言した者はいたのである。また横道に逸れてしまった。
     大正十年には羽仁もと子・吉一夫妻が自由学園を創設しているし、少し前の大正六年には小原國芳が成城第二中学を創り、「全人教育」の実験を始めている。大正の自由教育、芸術教育の全盛時代で、大正七年に『赤い鳥』が創刊されたのがその象徴になるだろう。これらを考えるためにも西村伊作と文化学院は外せないが、私はまだ知識が足りない。文部省に束縛されないよう各種学校として設立され、中等教育として初の男女共学を採用した学校である。取り敢えず、取っ掛かりとして晶子の文章を探してみた。

     私は近く今年の四月から、女子教育に対して、友人と共にみずから一つの実行に当ろうと決心しました。これは申すまでもなく、私にとって余りに突発的なことであり、また余りに大胆なことでもありますが、しかし私には、従来の私の生活と同じく極めて真剣な事業であって、短時日の間ながら、十分慎重に、考えられるだけのことは考えて決心したつもりです。軽率な思立ちでないということだけは断言が出来ます。(中略)
     私たちの学校は「文化学院」と名づけることにしました。大学部と中学部の二部に分ちます。中学部が四年、大学部が四年です。
     男女共学制を実行するのですが、男子の学生は大学部の成立を待ってから募集します。男子には現状において、女子に比べると、中学以上の教育を受ける機会が多いのですから、私たちの学校では、第一著に中学部の女生徒ばかりを教育することに決めました。
     来る三月に、中学部一年級の女生徒四十名を募集します。出来るだけ個別的な教育を試みたいと思いますから、募集する生徒の数は、永久に一組三、四十人の間に限って置くつもりです。
     入学の資格は昨年及び本年の尋常小学卒業の女子に限ります。入学試験というものを全く致しませんが、採否の選択は、能力と体質とに対し、個別的の簡単な考査をして決します。入学を志望せられる女子は、学校の参考のために、何が最も本人の長所であるかにつき、本人、小学教師、両親らの意見を書いて、入学申込書に添えて置いて頂きたいと思います。(中略)
     中学部の課程は、修養部と創作部とに大別します。修養部においては、男子の現在の中学全部の学科を適度に取捨して、これを四年間に修めさせようと思います。これは従来の教育法に対して最も英断な斧鉞を加えようとするものです。量を減じながら、質においては一層深化させて行くつもりです。この試錬が担任の教授たちの霊活な手腕を要することは言うまでもありません。
     修養部の課程は、精神講座、数学、自然科学、人文科学、日本文学、外国語、外国文学等に大別します。中に外国語は英仏両語を課し、日本文学と外国文学とでは、現代文学の外に古典をも課します。数学科で理学博士寺田寅彦先生の御意見に由って第一年級より代数を教えるというような特殊の新教育法を他の諸科においても断行致します。
     創作部の課程は、文学、絵画、西洋音楽、西洋舞踊、図案、手芸等に大別し、いずれもそれらの基礎教育を施すと共に、個性的な自由製作を激励しようと思います。(与謝野晶子『文化学院の設立について』)

     学校創立の初めから戦中にかけての教授陣をみると(私が知っている名前だけを挙げるので、音楽と美術関係は除くが)、その壮観に驚く。与謝野寛・晶子、有島武郎、戸川秋骨、竹友藻風、奥野新太郎、菊池寛、堀口大学、佐藤春夫、山田耕作、豊島与志雄、芥川竜之介、川端康成、横光利一、小林秀雄、三木清、田中美知太郎、福武直、清水幾太郎、千葉亀雄。戦後の鎌倉アカデミアのような雰囲気だったかも知れない。

     マスクが鬱陶しくなって外した。「やっぱりこれで蜻蛉の顔だ。」警官が立哨しているのは朝鮮総連の建物があるからだ。「警戒したって仕方がないだろう。」「火をつけるやつがいるかも知れない。」売却問題も、落札したマルナカホールディングズが二十二億一千万円を支払い済みで片が付いたと思っていたが、まだ立ち退きは済んでいないのだろうか。
     ここからは靖国神社の塀に沿って行く。大灯籠の前に来ると講釈師の口が急に滑らかになってきた。「これが爆弾三勇士、こっちが日本海海戦の三笠の艦橋だよ。知ってるだろう。」大村益次郎の像は上野を見ているのだとは、前にも講釈師の説明を聞いているが、クラチャンは初めてである。「上野を見てるんですって。」
     ところで、たまたま気付いたのだが、『電車唱歌』(明治三十八年)の第五十連に「靖国神社の広前に 大村 川上両雄の いさおも高き銅像は 千代も朽ちせぬ世の鑑」の歌詞があった。川上操六の銅像があったらしいのだ。調べてみると、戦争中の金属供出で撤去されている。「千代も朽ちせぬ」も全く夢に終わった。
     靖国通りに出て一口坂交差点を左に入り、東京家政学院大学の前を右に曲がる。「埼玉にもあるでしょう?」ヤマチャンの質問に「狭山にあるのは一、二年生だけなんだ」と答えたのは私の間違いで、東京家政大学と勘違いしていた。東京家政学院大学の方は町田にキャンパス(本部)がある。
     そして東郷元帥記念公園に入る。千代田区三番町十八番地。入り口前には千代田区地名由来板「三番町」が掲げられている。

     江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
     江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
     寛政五年(一七九三)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従』という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治十年(一八七七)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。

     これでは「番町」の由来であって、「三番町」の由来ではない。大番組設立当初は六番組まであり、それに伴って一番町から六番町までが造られた。切絵図を見ると、旗本屋敷がぎっしりと密集している。ただ現在の住所表示とかつての番組の範囲がきちんと一致している訳ではない。大番組についてウィキペディアから引用すると、組織はこうなっている。

     一つの組は番頭一名、組頭四名、番士五十名、与力十名、同心二十名で構成される。番頭は役高五千石の菊間席で、しばしば大名が就任した(開幕初期はその傾向が特に強い)。組頭は役高六百石の躑躅間席、番士は持ち高勤め(足高の制による補填がない)であるがだいたい二百石高の旗本が就任した。役高に規定される番士の軍役から計算した総兵力は四百人強となり、二万石程度の大名の軍役に匹敵した(『岩淵夜話』によると五万石に比例するとしている)。

     補足すると、与力は二百石未満で御目見得以下の御家人、同心は各藩で言う足軽に相当し三十俵二人扶持が基本である。公園は東郷平八郎が明治十四年(一八八一)から昭和九年(一九三四)の死まで住んだ邸宅跡である。ライオンの像は東郷邸の玄関前に置いてあったものらしい。
     「東郷と乃木ってどっちが年上だったのかな?」「乃木じゃないの。」穿鑿の声が頻りだが、私は正確な年齢差を知らない。調べてみると東郷平八郎は一八四八年一月二十七日、乃木希典は一八四九年十二月二十五日生まれだから、ほぼ二年の差で東郷が上である。「薩摩ですよね。」海軍は薩摩閥、陸軍は長州閥である。ロダンが五月二十七日の海軍記念日を知っているのが不思議だ。
     日本海海戦の大勝利がその後の日本海軍に与えた影響は余りに大きかった。東郷平八郎は神格化され、後にロンドン軍縮反対派(艦隊派)の末次信正や加藤寛治に担がれる。既に職を退いていても、東郷の発言は大きな影響力を持ったのである。
     ハイジが塩飴を配ってくれる。「トイレはそこを下りた所です。」ここはトイレ休憩をするためだけに寄ったようで、十分ほど休んで出発する。
     「この辺りは下町ですか?」ヤマチャンがイメージする「下町」とは何であろうか。この辺りはさっきの解説板にもあった通り、大番組の旗本屋敷が並んでいた地域だ。武家屋敷町を下町とは呼ばない。「下町をどう定義するかですよね」とヨッシーも呟いている。
     「なんとなく、下町風に感じられるんだよね。」江戸における下町は山の手(武蔵野台地東端)から降りた所で、江戸湾や川沿いに近い日本橋、京橋、神田、下谷、浅草を主に呼び、少し範囲を広げて本所、深川を指すのが原義だと思う。町人の住んだ町だ。
     しかし古い東京を知らない連中(私も正にそうなのだが)が増えるにつれ、下町の概念はずいぶん変わった。今では地理的な関係ではなく、高層ビルのない、昭和の面影を残す商店街を見て「下町」だと思う人が多いだろう。
     ウィキペディア「山の手」では、山の手の代表的な地域として主に幕臣の住んだ麹町・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・本郷・小石川を挙げている。番町はかつての麹町区だから、まさに山の手である。
     大妻通りに出て半蔵門方向に歩く。「塙保己一はこの辺でしたか?」あの時ロダンはいなかったろうか。和学講談所跡(千代田区三番町二十四)はもう少し北の方、三番町交差点の辺りにあるのだが、私たちが見たときは駐車場になっていて、案内板も何もなかった。「群書類従を見たのはどこでしたっけ?」それは渋谷の温故学会の資料館である(第三十一回)。膨大な版木を前に、館長が懇切な説明をしてくれたのだ。「講釈師が話を聴かなかったのよね。」ハイジもちゃんと覚えている。「暑い日でした。」
     「そこに案内板がありますね。」この辺りは姫の案内で一度は通っている所だから私にも見覚えがある。佐野善左衛門政言屋敷跡である。千代田区三番町十二番地。禄高五百石の屋敷があった場所は大妻女子大学の敷地になっている。「松平定信の刀を使ったんだよ、ネ。」講釈師は誰も知らないことを知っている。しかし、それでは余りに露骨ではないか。典拠はどこにあるのだろう。
     天明四年(一七八四)三月二十四日、江戸城中で佐野が若年寄・田沼意知に「覚えがあろう」と叫んで斬りつけた事件である。重傷を負った意知が数日後に絶命し、佐野は切腹を命じられる。このとき、二十人以上がそばにいたにもかかわらず、佐野を取り抑えたのは松平対馬守一人だけで、他の人間は逃げまどい、あるいはただ傍観していた。処罰されたのが二十一人である。こうした連中はもはや武士とは呼べないだろう。
     世間では、田沼が先祖粉飾のために佐野家の系図を借りて返さなかったとか、佐野大明神を意知の家来が横領したとか、田沼家に賄賂を送ったのに昇進出来なかったとか噂した。当然何者かのリークである。
     幕府は佐野の狂乱による犯行と断定したが、仮に唆されたとすれば裏に誰かがいたことになる。田沼を失脚させて最も利益を得たのは誰かと考えるのはミステリーの定石であり、最も疑わしいのが松平定信であることは間違いない。
     佐野は「世直し大明神」と持てはやされた。佐野の切腹後、たまたま高騰していた米価が少し下ったためだが、いつの時代でも輿論は無責任である。田沼意次を失脚させ松平定信が政権を握って、最も被害を蒙ったのは庶民ではないか。数年後には「もとの濁りの田沼恋しき」と言いようになる。
     普段は余り時代劇を見ないのだが、正月に酔いの回った頭でなんとなく『大江戸捜査網・隠密同心』を見ていた。時代劇にしては殺陣が貧弱だったのは、村上弘明を除いて若い俳優陣に訓練がないからだが、最後に松平定信を殺してしまうストーリーに唖然とした。田沼意次の娘を登場させたのは、池波正太郎『剣客商売』からのイタダキであろうか。とっくに死んだ筈の平賀源内と若き葛飾北斎も意次の娘を守る役目で登場し、最近は田沼政治の先進性を評価することがかなり一般的になってきた。

     番町に過ぎたるものが(は)二つあり 佐野の桜と塙検校

     佐野の屋敷には見事な桜があった。この「過ぎたるもの二つあり」と言うのは、古くからある言い回しで、「家康に過ぎたる物が二つあり、唐の兜に本多平八」「三成(治部少)に過ぎたる物が二つあり、島の左近に佐和山の城」などはロダンも知っている筈だ。
     「若年寄ってどんな役職ですか?」「老中の次。幕府の執行部だよ。」「老中が大臣なら、若年寄は政務次官ってことですか。」ロダンの勘は面白いが、言われてみればそうだとも言える。老中を補佐するとともに、旗本・御家人を統括した。一般的には大阪城代、京都所司代などを経験して老中になる。
     ところで江戸城内における刃傷事件は七件あるが、最も滑稽な事件がこの事件の四十年後に起こった。江戸城西の丸で、松平外記が三人を殺害し二人に傷を負わせたのである。傷を負った者のうち、呆れてしまうのが神尾五郎三郎と言う旗本である。下帯(褌)一つで寝ていたところ、尻を斬られて褌が落ち、素っ裸で逃げまどった。そもそも江戸城内で、褌一丁で寝ていたというのがおかしい。精神が弛緩しているのである。(これは野口武彦『江戸人の精神絵図』で知った。)

     「あそこですね。」五味坂と斜めに交差する角(ここから先が袖摺り坂)に瀧廉太郎住居跡の碑が建っているのだ。千代田区一番町六番地。実際に住んでいたのはここから西に百メートル程のライオンズマンション一番町第二が建っている場所(一番町六番地四)らしい。
     瀧廉太郎は明治十二年(一八七九)八月二十四日に生まれ、明治三十六年(一九〇三)六月二十九日に死んだ。数えで二十五歳、満で言えば僅かに二十三歳である。父の転勤に伴われて小学校高等科は大分県で過ごしたが、音楽学校に通うため従兄の大吉の家に寄宿する。かつての町名では麹町区上二番町二二番地。明治三十四年(一九〇一)ドイツ留学に出るまで最も多感な時期を過ごし、今に残る曲の殆どはここで作られた。しかし結核を発病して一年で帰国し、父の故郷の大分県で療養空しく死んだ。
     因みに音楽留学生の第一号は明治二十二年(一八八九)のピアニスト幸田延(露伴の妹)、二番目が三十二年(一八九九)のヴァイオリニスト幸田幸(延の妹)と、幸田家の姉妹が続いた。そして幸田延の指導を受けた廉太郎は三番目になる。
     余計なことだが、幕府奥御坊主衆だった幸田成延の子は、夭折した二人を除いて男女六人ともそれぞれの分野で一流の名を成した。長男の成常は実業家として現カネボウを創設したし、次男の成忠は千島・樺太を発見した郡司成忠、四男の成行が露伴、五男が歴史学者の成友である。
     御影石に五線譜が刻まれているのだが、こういうのは判読が難しい。「写真を撮っても絶対映らないんですよ。」「こっちの角度からだと見えますよ」とロダンが下から覗き込むようにする。(案の定私のカメラにも五線譜は映っていなかった。)
     「『お正月』も瀧廉太郎なのね。」クラチャンが驚いている。「もういくつねるとお正月」である。作詞の東くめは、東京音楽学校では幸田幸の同級生で、廉太郎の二年先輩にあたる。廉太郎と童謡の関係というのは私にも意外だったが、留学直前の明治三十四年に刊行された『幼稚園唱歌』に収録されたものだ。
     それまで、幼児用の唱歌は明治二十年(一八八七)に音楽取調掛によって作られた文語体の『幼稚園唱歌集』しかなかった。例えば『数え歌』は、「一つとや、人々一日も忘るなよ、わするなよ。はぐくみ、そだてし、おやのおん、おやのおん」であり、『進め進め』は「すすめ すすめ、あしとく すすめ」だ。「あしとく」とは「足疾く」だろうか。こんな歌は私だって歌いたくない。
     これでは幼児は歌えないと不満を持っていた東基吉が発案し、妻のくめ、瀧廉太郎、鈴木毅一の協力で『幼稚園唱歌』が出来上がった。全二十曲中、瀧の作曲は十六曲に上り、作詞も四曲担当している。
     「俺は子供の頃、工場の月だとばっかり思ってた。」佐賀の人は余程幼い頃から『荒城の月』を知っていたのではあるまいか。私なんか教科書で初めて知ったから、そんな間違いはしなかった。

     勘違い笑い過ごして耳順越え  閑舟

     六十而耳順。私はそんな境地にはまだなれない。明治三十四年に東京音楽学校が『中学唱歌』を刊行する際、土井晩翠ほかに依頼した詩を公開し、曲を公募した。これに廉太郎が応募して『荒城の月』は『箱根八里』(鳥居忱作詞)とともに採用された。曲の一部が山田耕筰によって改変されていたなんて、誰か知っていただろうか。私は知らなかった。

     一九〇三年(明治三十六年)に瀧が没し、その後の一九一七年(大正六年)山田耕筰はロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律にも改変を加えた。山田版は全八小節からテンポを半分にしたのに伴い十六小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げて(シャープをとって)いる。
     作曲家の森一也によれば、一九二七年(昭和十二年)の秋、東京音楽学校の橋本国彦助教授が概略次のように語ったという――欧州の音楽愛好家に「荒城の月」を紹介する際は、山田耕筰の編曲にすべきである。瀧廉太郎の原曲は「花のえん」の「え」の個所に#がある。即ち短音階の第四音が半音上がっているが、これはジプシー音階の特徴で外国人は日本の旋律ではなくハンガリー民謡を連想する。それを避けるために山田は、三浦環に編曲を頼まれた時、#を取った。外国で歌う機会の多い三浦にとっては その方が良いとの判断だったのだろう。(ウィキペディア『荒城の月』より)

     しかし私たちの世代が習ったのは、半音上げた曲ではなかったろうか。それなら廉太郎の原曲の節である。半音を上がることで単調さから脱していると私は思っていたのだが、コーラス団員の碁聖や久我山娘たちに訊いてみたいところだ。堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には#付き(半音上がり)の譜が載っている。
     「豊後竹田ですね。」廉太郎は尋常小学校高等科の四年間を大分県で過ごしており、竹田の岡城を連想しながら曲を作ったとされている。「でも作詞の土井晩翠は仙台の人ですから。」東北人の姫は豊後より東北にあってほしいのだ。晩翠自身は会津の鶴ヶ城と故郷である仙台青葉城とをイメージしたと語っている。更に幼児期に廉太郎が一時住んだ富山県の富山城にも碑が建てられているらしい。
     明治六年(一八七三)一月十四日に出された廃城令によって、各地の城は破却された。明治初期の政府には史跡とか文化遺産なんていう概念は全くなかったから、全国どこに行っても城跡は荒涼無残だっただろう。国破山河在、城春草木深。それに作詞家と作曲家でイメージが違うことはよくあることだから、一つに決める必要はない。
     ところで、あんみつ姫も言うように土井は本来ツチイと読むのが正しい。先に揚げた『日本唱歌集』でも「つちい」と振り仮名を振っている。但し晩翠の場合は誰もツチイとは呼んでくれないので本人も諦めたと言うのは、何かで読んだことがあった。裏付けを取りたくて調べてみると、こんな言い方をしているのが見つかった。随筆集の序文で、簡単な経歴を記した後に付け加えたものだ。

    附言(一)私の姓を在來つちゐと發音し來たが選擧人名簿には「ド」の部にある。いろいろの理由でこれからどゐに改音することにした。特に知己諸君に之を言上する。(「雨の降る日は天氣が惡い」序)

     戦前の晩翠の人気は相当なもので、作詞した全国の校歌は二百曲近いと言われている。校歌はパターンが決まっているから作りやすいのだろう。秋田高校(当時は秋田中学)の校歌も明治十一年(一九二二)に晩翠が作詞したものだ。そして晩翠なら、五年前に死んだ父が時折『星落秋風五丈原』の一節を口にしていたのも思い出す。キザンヒシュウノカゼタケテ ジンウンクラシゴジョウゲンである。

     祁山悲秋の風更けて 
     陣雲暗し五丈原
     零露の文は繁くして 
     草枯れ馬は肥ゆれども
     蜀軍の旗光無く 
     鼓角の音も今しづか
      ※
     丞相病篤かりき

     「丞相病篤かりき」が七連に亘って繰り返される。諸葛亮は五丈原の戦いで病に倒れ陣没するのだが、しかしただでは死なない。死せる諸葛、生ける仲達を走らす。漢詩体というもの自体が気分を高揚させるリズムを内在しているのに、この「丞相病篤かりき」の繰り返しによって更に蜀軍の不安と悲劇性が高まるのだ。相変わらず私は余計なことばかり書いている。
     「暑くなってきちゃって」と姫は上着を脱いだものの、すぐに「やっぱり.寒い」と言ってまた着込んだ。「なんだよ、脱いだり着たり面倒くさいな。脱いだらそのままにしておけよ。」講釈師の言い方も乱暴だ。「番町だから、一枚二枚って。」番町だから皿屋敷という洒落ではあるが、皿を数えるのと着物を脱ぐのとは訳が違う。
     ここで信号を渡ると、五味坂の標柱脇が丁度ゴミ集積所になっている。「だからゴミザカか。」ほぼ全員が同じ感想を口にしながら通り過ぎる。千代田区の説明ではこうなる。

     「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたといいます。『麹町区史』には、「由来は詳らかではないが、光感寺が元とすれば、甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。
     つまり坂の辺りは「五番町」で、坂を登ると「上二番町」なので、二つの町を結ぶ坂として「五二坂」と名前がつき、「五味坂」に変ったのではないかということです。ちなみに、昭和十三年(一九三八)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。

     安政三年再版の『東都番町大絵図』には「ゴミ坂」と書かれてある。
     坂を下り終えれば千鳥ヶ淵戦没者墓苑だ。私は初めてなので、企画してくれたヤマチャンには感謝する。私だけかと思ったら、実は殆どが初めてらしい。「ここは神道ですか?」クラチャンの質問に「無宗教です。国の施設だからね」と答えたものの、詳しいことは知らなかったのだから偉そうなことは言えない。

     先の大戦に際し、海外の戦場で戦没された方々は、軍人・軍属で約二百十万人それに戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人約三十万人で、合わせて約二百四十万人と言われております。昭和二十七年頃から、我が国政府により、このご遺骨の収集が開始されましたが、御遺骨の収集に伴い、収集した御遺骨で氏名不詳のためご遺族にお渡しできない御遺骨をどうするかが大変大きな問題でありました。昭和二十八年十二月、国でそれらの御遺骨を埋葬する墓を建設することが決定されましたが、戦没者の墓の建設が具体化するまでには、建設用地の問題等に関して紆余曲折が大分ありました。昭和三十一年十一月、千鳥ケ淵の側にあった宮内庁管理用地を使用して、建設されることになりました。昭和三十三年七月漸く着工の運びとなり、昭和三十四年三月二十八日、戦没者墓苑は竣工しました。(「墓苑HP」http://www.boen.or.jp/boen02.htmより)

     つまり海外で収集した引き取り手のない遺骨を埋葬した無名戦士の墓地である。兵士だけでなく民間人も含まれる。昨年五月に新しく千六百二十八柱が納骨され、合計で三十五万八千二百二六〇柱となった。「だって、あっち(靖国)は神道でしょ?」宗教法人だから国は手を出せない。戦犯合祀も靖国神社が独自で行ったことである。東京裁判と戦犯認定については問題もあるが、ここで言うことではない。
     国の公式行事としては、厚生労働省が主催する五月の拝礼式、千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会が主催する秋季慰霊祭がある。そのほかに各宗教宗派は環境大臣の許可を得て、追悼行事を行うことができる。
     「あれは献花用でしょうか。」わざわざそのために用意しているのだろうか。確かに六角堂の献花台の脇には献花用の花が一本百円で用意されていて、真面目な人たちはきちんと百円を出して花を供えて合掌する。美しい光景であるが、私は手を合せるだけだ。天皇御製の碑が二つ建っている。

     くにのためいのちささげしひとびとの ことをおもへばむねせまりくる 
     戦なき世を歩み来て思い出づ かの難き日を生きし人々 
     

     文字はどちらも常陸宮華子さんによるもので、最初の歌が昭和天皇、次の歌が今上のものだ。「平成天皇って呼ばないのはなぜだい?」当代の天皇は名を呼ばない。古代より、日本人にとっては名を呼ぶのはタブーであった。江戸時代の武士でも実名を呼ぶことを憚って、字(アザナ=通称)で呼び、実名は諱(忌み名)とするのである。身分の高い者は官職名や建物で呼ぶ。「殿」、「お館様」というのはそれである。天皇については今上の他に当今(トウギン)という呼び方もある。
     明治、大正、昭和天皇の場合は、年号がそれぞれ諡号になったのである。明治以前には一代一年号ではないから、年号をそのままに使う訳にはいかず、何か適当な理由で諡号を付けた。しかし諡号に使用する文字には価値判断、評価が含まれる。そのため秦始皇帝は諡号を廃止し、始皇帝、二世皇帝、三世皇帝とするように命じたが、秦はそんなに長く続かず、この合理的な(?)呼び方はその後採用されなかった。

     冬晴れの千鳥ヶ淵の墓苑なり野鳥の声にしばし聴き入る  閑舟

     宗匠が珍しく短歌を詠んだのは、天皇御製に心を打たれたからだろう。若旦那と一緒に、平和の永続を願ってしみじみと話し合っていたらしい。それに引き替え、私はまるで関係ないことばかり考えている。
     ここからはランナーを避けて、土手の上の千鳥ヶ淵緑道を南に向かう。この道は初めて通る。「桜の時期は綺麗でしょうね。」千代田区観光協会によれば、この遊歩道には二百六十本の桜が植えられている。やはり暑くなってきたので、私はセーターを脱いだ。
     内堀通りには色とりどりのウェアのランナーが目につく。「みんな、きれいにしてますね。」つい最近、ニュースの特集で皇居のランナーと荒川のランナーを比較していたが、荒川のランナーたちは皇居ランナーを「あの人たちは他人に見せるために走ってる」と言っていた。
     代官町通りに入り、国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)に着く。以前にも来ているが、中には入らない。「どうしますか。入りますか?」「だって狭いし見るものも少ないんですよ。」ただ一人だけ見学したことのある姫の証言だ。なんと言っても入館料が惜しい。よく見ると期間限定で六十五歳以上は無料になることもある。「私たちももうすぐね。」ハイジもあと二年程だ。「たかが二百十円だぜ。」スナフキンのように冷静に考えれば大した金額ではない。
     横に回って騎乗姿の北白川宮能久親王像を見る。戊辰戦争で東北列藩に担がれた輪王寺宮で、東武天皇として即位したと言う説がある。真偽は不明だが、列藩同盟は独立国(交戦国)として認めるよう列強と交渉していたから、元首として必要だったことは充分に考えられる。
     戊辰戦争降伏後は蟄居を命じられたが、明治二年に処分を解かれ、明治三年にプロイセンに留学した。留学中、プロイセン貴族の未亡人と婚約したが政府に認められず、帰国後また謹慎を命ぜられる。どうも血の気の多い人だったようだ。明治二十八年(一八九五)近衛師団長(陸軍中将)として台湾出征中、マラリアに罹って死んだ。死によって陸軍大将に昇進する。

     国立公文書館には初めて入った。入館料無料は有難い。「明治の学び」という企画展が開催されていた。「地図がゆがんでるよ。」「北海道の形が変だね、いい加減なんだ。」これは明治七年当時の大学区を色分けした日本地図で、特に厳密な海岸線が必要とされているわけではないし、都道府県が判別できればよいものだ。北海道・東北・関東・中部・中国・九州は現在の地方割と同じだが、香川・徳島・高知が近畿に組み込まれている。
     「これだけは複製ですね、書いてある。」ロダンに言われるまで気付かなかった。教育勅語が複製なのは、平成二十四年、文科省の収蔵庫で変色した原本が見つかったからなのだ。それまで関東大震災で焼失したと思われていた。この複製が今回初めて展示してあるのだ。紙全体が焦げ茶色に変色しているので、原本は、おそらく手で触れれば粉々になってしまうだろう。
     私は活字でしか知らなかったので明治天皇の署名「睦仁」を初めて見た。講釈師は「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」なんて暗誦を始める。昭和二十年に国民学校一年生だったにしては良く覚えている。「良く覚えてるじゃないですか。」「優等生だったからさ。」「碁聖も覚えましたか?」「覚えた時もあったね。」
     子供たちはいつ勅語を覚えるのか。国民学校令施行規則に、「紀元節、天長節、明治節及び一月一日に於て」行うべきものとして、『君が代』斉唱、天皇皇后「御影」への敬礼、勅語の奉読が挙げられている。この行事だけで覚えるのはまず無理である。こういう基本的なことがなかなか分からないのだが、どうやら四年生の修身教科書から冒頭に掲げられ、五年生で暗記が求められ、六年生になって詳しい解説と意味が教えられたらしい(竹田清夫『少国民時代と生活の教育』より)。それなら国民学校一年生の講釈師が暗記したのは稀有のことではないか。
     他には明治十九年に始まる小学校令、文部省年報、明治時代の小学校入学率の表などが展示されている。各大臣がそれぞれ花押(書き判)を書いているのが珍しい。十九年の小学校令は初代文部大臣森有礼によるのだが、森の教育政策についての考え方を示しているのが下記である。文科省のHPからの引用だ。

     蓋国民をして忠君愛国の気に篤く、品性堅定志操純一にして、人々怯弱を恥ぢ屈辱を悪むことを知り、深く骨髄に入らしめば、精神の嚮ふ所万派一注以て久しきに耐ゆべく、以て難きを忍ぶべく、以て協力同心して事業を興すべし。督責を待たずして学を力め智を研き、一国の文明を進むる者此気力なり。生産に労働して富源を開発する者此気力なり。凡そ万般の障碍を芟除して国運の進歩を迅速ならしむる者総て此気力に倚らざるはなし。長者は此気力を以て之を幼者に授け、父祖は此気力を以て之を子孫に伝へ、人々相承け家々相化し、一国の気風一定して永久動かすべからざるに至らば国本強固ならざるを欲すとも得べからざるべし

     「やっぱり女子の就学率は低いね。」学制発布から十年経った明治十六年には男女合計で就学率五十三・一パーセント(内女子は三十五・五パーセント)、線グラフだから正確ではないが三十四年には男女合計九十三パーセント(内女子は六十パーセント)。女子の就学率が九割を超えるのは漸く明治四十一年のことである。
     しかし幼年労働を制限する工場法が施行されたのが大正五年(一九一六)で、その時ですら、原則として十二歳未満の者の就労は禁じられたが、官庁の許可を得れば十歳以上の者を就労させることができた。そしてこの規定は十五人以上を雇用する工場に適用されたもので、それ以下の小規模町工場には一切の制限がなかった。それに労働する場所は工場だけではない。入学したとしても実際には学校には行かずに労働を強いられた子供たちは多かっただろう。
     大日本帝国憲法の原本もある。前文だけ引いてみよう。

     朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
     国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
     朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
     帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
     将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
     朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ

     今更言うまでもないことだが、最大の眼目は「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」なのだ。改めて日本国憲法の前文と比べてみるのも、無駄ではないだろう。

     日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
     日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

     こちらは主権在民と平和主義を謳っている。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」というのが何よりも大事な前提だ。このフレーズだけで、世界のあらゆる貧困、差別、戦争、テロリズムへの反対を表明しているのである。しかし選挙を信じきれない私は、政治の根拠をどこに設定すればよいか。
     もう十二時を過ぎ、腹が減って来た。「それじゃ行きましょう。」

     「ここですよ。」ヤマチャンは毎日新聞社のビル(パレスサイドビル)に入っていく。「毎日新聞社ですよね。入れるんですか。」ほとんどが初めてのようだが、スナフキンは何度か来たことがあると言う。「一時十五分に竹橋の袂に集まってください。店は適当に選んで。」私は詳しくないので、スナフキンに従って地下に下りる。「これでいいじゃないか。」ランチが千円以下で食えるのなら良いだろう。ドクトル、マリオ、桃太郎、スナフキン、私が入ったのは牛タンと麦とろの店「百人亭」である。姫とハイジは宗匠、ヤマチャンたちと一緒に寿司屋に入ったようだ。
     ドクトルは週替りランチ(九百五十円)、スナフキンとマリオは日替りランチ(九百五十円)、桃太郎と私は牛筋の煮込み(八百八十円)を頼んだ。これに麦とろ飯が付く。「安く上げたからビールを」と桃太郎が平然と中ジョッキを頼み、スナフキンも追加する。私はどうしようか。目の前に出てきたビールを見れば我慢できず、結局マリオと私もビールを頼んでしまった。二百十円の入館料をケチった癖にこれだからいけない。
     「麦飯は池田隼人ですね。」貧乏人は麦を食え。「子どもの頃に食べましたよ。」マリオがそうなら私だって子供の頃には何度か麦を食った。昭和三十年代前半には白米に麦を混ぜて炊くのが流行っていたらしい。麦は平べったくて真ん中に筋があり、ペチャっとした感触で冷めると不味かった記憶がある。こんな風にとろろ汁をかければ、するすると入る。
     そしてマリオの話題は鷗外の脚気論争に及んでいく。日露戦争中、脚気で死亡した陸軍将兵は二万八千、入院患者は十万四千、しかし海軍ではほとんど脚気の患者をださなかった。イギリス医学の影響でパンと麦飯を奨励していたからである。その実例を見ても、鷗外は感染説を覆そうとはしなかった。当時はまだビタミンが発見されておらず、ドイツ医学界(つまりこれが日本医学界の主流である)では脚気細菌説が有力だったのである。
     牛筋の煮込みは少し辛くて、知らないけれどなんとなく東南アジア風でもあった。
     十二時に店を出て、トイレを済ませて出ると書道展の部屋にハイジがいるのが見えた。ちょっと覗いてみたが、私には書は殆ど分からない。これは白扇書道会という組織の選抜展である。書道にも様々な会派があるのだろうが、母はどこに所属していたのだったろうか。葬式の際に「何か記念になるもの」と言われて押入から見つけ出した母の書は、身内の眼で見るせいか、なかなか良かった。玉梓という号を持っていたことなんか全く知らなかったのだから親不孝である。生きている間に話を聞いておくべきだった。
     「もう時間だ。」ハイジと一緒に橋の袂に着いたのは一時十五分を少し回ったところで、既にみんなは集まっていた。「惜しかったですよ。見てれば絶対作文に書いてもらえたのに。」ロダンが興奮して教えてくれるのは、ヤマチャンが女子高生十数人の集団に囲まれた事件があったというのだ。ハイジも見ていたようで、「ヤマピーって呼ばれてたわ。ハイタッチもしてたよね」と証言する。「あいつらとここで逢うとは思わなかったよ。」しかしよく考えればヤマチャンの勤務する女子高はすぐ近くではないか。ロダンは女子高生と念願の会話ができたのだろうか。これからヤマチャンのことはヤマピーと呼ぼうか。
     平川門前に着いて「太田道灌公追慕之碑」を見る。「江戸城って言ったら家康が造ったとばっかり思ってたけど、それより随分前なんだね。」理科系の人には常識ではなかったらしい。説明を読んでみる。

     江戸城築城五百五十年に当たって
     「太田道灌公 追慕の碑」は、太田道灌公没後四百五十年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(一四五七)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度五百五十年に当たります。
     この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標とします。
     太田道灌(一四三二~一四八六)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。一四五七年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、三十数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の築謀により主君に暗殺された、江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。

     道灌は山内上杉への対抗策として、河越と江戸に城を築いたのである。当時はもっと小規模なもので、すぐそこまで海だったのだ。

     わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る  太田道灌

     「風呂で殺されたんですよ。」「幡随院長兵衛と同じだって言ってるじゃないか。」私はここで、「山内上杉に殺された」と口走ってしまったが間違いである。大山街道を歩いた人は伊勢原の扇谷上杉の糟屋館を知っている筈だ。道灌を殺したのは、道灌の主人である扇谷定正である。山内顕定の画策に乗せられたとされている。この結果、扇谷の勢力は急激に落ちていくのだから、実にバカなことをしたものだ。
     そして平川門から江戸城内東御苑に入り、番号札を貰う。「券をなくさないでください。出るときに回収されます。」ハイジがバッグの中にしまおうとしている。「どこにしまったか、いつも分からなくなっちゃう。」「そうなのよね。」女性はポケットに収納すると言う習慣が余りないらしい。
     「ここがさ、不浄門って言われたんだ。」実はこれが案外ややこしいのである。普通には平川門イコール不浄門と思われていて、ヤマチャンの資料にも当然そう書かれている。江戸城の北東、鬼門に当たるというのが理由だ。しかし「不浄門は平川門とは違うって言うじゃないの」と宗匠が疑問を表明し、「脇に通用口があったんじゃないかな」と私は知りもしないことを平然と口にする。案の定、調べてみると平川門全体ではなく通用口としての帯曲輪門か高麗門が不浄門だったのではないかという説がある。糞尿は不浄門から船に積み込む。従って橋を渡る必要はないのであり、通用門から堀に直接石段が降りていたのである。
     「アッ、桜が咲いてる。」ジュウガツザクラだ。「こっちには紅梅が。」「一輪だけか。」「上の方にもう少し。」今年初めて見る梅だ。

     来し方も行方も知らず梅一輪  蜻蛉

     二の丸庭園の入口には「都道府県の木」が植えられた一画がある。「秋田もありますよ。」「はて、秋田県の木は何だろう、杉かな。」「そうです、秋田杉ですよ。」「どんな順番で植えてるのかな?」「北から順に。」そう言う訳でもなさそうだ。一覧表を見ているとロダンが疑問を持った。「茨城県の木が梅って言うのは、そうなんですかね。水戸は梅だと思うけど。」姫も「茨城県の木はバラだと思います」と主張する。こういう時スナフキンの端末が威力を発揮する。今日はスマホではなく、ミニパッドを持参している。「女房のなんだ。」調べてみると、バラは茨城県の花であり、梅が県の木であることは間違いなかった。
     ヤマチャンと宗匠の佐賀県は木も花もクスノキである。ややこしいのは鹿児島県で、クスノキとカイコウズ(マメ科)の二種類が指定されているのだ。「カイコウズって何かしら。」誰も知らない。そして実物にお目にかかると、余りにも大胆に剪定(?)されて、幹と大振りの枝しかないのである。「これじゃ分からないわ。」
     調べてみると、海紅豆と書く。アメリカディエゴの別称である。ネットで見ると深紅の舌を伸ばしたような形の花をつける。アルゼンチンとウルグアイの国花でもあるらしい。ついでに埼玉県はケヤキである。
     蠟梅が咲いて、香りが高い。ソシンロウバイだ。「蠟月に咲くから蠟梅。」「旧暦ではちょうど今が蠟月ですね。」残念ながら旧暦ではまだ十一月なのだ。「別の説もあるよね。」「蠟に似ているから。」
     植木職人を目指して修行中の宗匠は、垣の組み方を習ったばかりだと言う。竹を縦横に編んだもので、四ツ目垣と言うそうだ。支柱の竹は水が溜まらない様に節のすぐ上で切らなければならない。三段に並行に並べる竹は、太い、細い、太いと交互にしなければならない。「それはどうして?」「見た目のバランスじゃないの。」紐の結び方にも技術があるのだ。
     地上から四五十センチの枯枝ばかりの一画は花菖蒲だったようだ。「葵上」の札を見てダンディが笑っている。こういう名前の付け方には抵抗があって仕方がない。

     源氏想ひ四つ目垣観て冬うらら  閑舟

     「忍者だよ。伊賀、甲賀、根来衆だ。」百人番所の前でまた講釈が始まる。大手門から二の丸と本丸へ続く要路で、その三組に二十五騎組(青山組)を加えた鉄砲隊四組が昼夜交代で警護した。
     「あれっ、パトカーが停まってる。」「皇宮警察だ。」皇宮警察の位置づけについては誰も正確なことは知らない。「警視庁とは別なんだ。」これまで考えたこともなかったが調べてみると、警察庁の附属機関であった。皇居や離宮の警備・警護を任務としている。「皇宮警察には捜査権がないって聞いたことがある。」ロダンの記憶は正しいが、正確には「司法警察権」を持たないのである。宮城内で犯罪が起きる筈がないという建前で決められたことらしいが、それでも犯罪が皆無ではない。現行犯逮捕したとしても、すぐさま司法警察(ここは東京だから警視庁)に引き渡すことになっている。
     警察庁は国家公安委員会の下にあり、その管理下に皇宮警察や各地方管区警察局がある。それとは別に都道府県公安委員会の下に都道府県警がある。警視庁は東京都公安委員会の管理下にあるのだ。但し警視庁は首都の警察として、他とは違った特別な権限も付与されている。
     外国人観光客も多い。「あれが富士見櫓。」「天守閣が焼けた跡は、その代わりになったんだ。」天守閣は明暦の大火(一六五七)で焼失してその後再建されなかった。石垣の高さ十四・五メートル、その上に建てられた三層の建物が十五・五メートルである。柵が閉じられていて入ることはできない。
     松の廊下は講釈師が「講釈師」と呼ばれるようになった所縁の場所である。竹林の前で暫し休憩すると、クラチャンがこっそり蜜柑をくれる。「これこれ、配るのを忘れたら、また家庭騒動の下になってしまう」とロダンが煎餅を配る。
     富士見多門、大奥跡。「あそこに、あの姉さんがいたんだ。」「講釈師は入れませんよ。」天守閣跡、北桔橋門。これでハネバシとは知らなければ読めない。「大名の家来なんか、ここまで入れないんだ。一人で来るんだぜ。」姫がもっている本にそれが載っている。供揃いの大半は大手門の外で待たされる。格式に依るのだが、中之門まで従えるのが十万石以上で三人(それに笠持・草履取り)、一万石以上で一人、三千石以上の旗本で二人、それ未満では一人と決められている。
     雨が降ろうが雪が降ろうが外で待っているのは辛い。「外で待ってる連中のために、物売りが出たんだよ。」これは姫に貰った長谷川渓石『江戸東京実見画録』で知った。長谷川渓石は時雨の父で、代言人から東京市会議員になった人物で絵心があった。日本橋通油町に住み、引退後は自らの生涯で見聞したところを絵に記録し続けていたものである。

     大手前は、年頭とか五節句とか其他礼日、諸大名の登城を為せし際、大手先に於て其従者が供待をなし居る図なり。此大手前には供待の建物あるも狭く、多くは此如く広場に集合せん。

     主君の下城を待つ間、敷物に座って弁当を食い、あるいは詩歌を読み、吉原細見などを開く。見物にくる者もいて混雑は甚だしい。そこに商人がやってきて、こんにゃく、甘酒、寿司、菓子などを売りつけるのだ。
     そして三の丸尚蔵館に入る。「十日は開いてないって言ってたんだよ。」「いい加減なんだよ。」それでも入ることができたのは良かった。「前に若冲を見たわ。」ハイジの言葉に「私たちも見ましたよ」と姫が応えている。今日の展示は「明治天皇 邦を知り国を治める」である。全て明治天皇が直接巡幸した訳ではないが、集められた写真が貴重だ。
     震災や津波被害の絵画も多い。「磐梯山破裂之図」(明治二十一年)は御嶽山噴火を思い起こすが、実はこの噴火の際の救護活動は、国際赤十字活動にとって初めての、戦時でない平時の救護活動として歴史に残っているのである。赤十字は戦時傷病者と捕虜の人道保護を目的としたもので、平時の活動は想定されていなかった。今日のスタートが赤十字社発祥地だったから、コースの最後にこれに出会ったのも運が良かった。
     「明治二十九年大海嘯被害岩手県東海岸之略図」、「青森県陸奥国三戸・上下両郡海嘯被害略図」、「宮城県陸前国本吉・桃生・牡鹿三郡海嘯被害略図」を見れば誰でも三・一一を思い浮かべるだろう。この三陸大地震で死者は二万人を超えた。
     他に上野彦馬の「西南役写真帖」、富岡製糸場、孤児院の写真などもある。こういうものもデジタル化してくれると有難いが、なかなか難しいか。貴重な資料である。

     外に出ると三時四十分。四十五分閉館だから丁度良かった。大手門を出た所でヤマチャンから解散宣言が出された。「じゃ、蜻蛉から次回の案内を。」次回(第五十七回)は私の企画で行徳周辺を歩く予定だ。姫からは来月の日光街道と、来週の講釈師企画「隅田川七福神」が案内される。ここまで本日の歩数は一万六千歩であった。およそ九キロと言うところか。今日は赤十字社に始まり、なかなか教育的なコースであった。
     なんとなくダラダラと東京駅まで歩き、適当に改札口に消えていく。四人は神田で降りて「居酒屋のむず」に入った。千代田区内神田三丁目十八番地八、ホワイト駅前ビル。プレミアムモルツ一杯百九十九円(土日祝日のみ)に誘われて偶然入った店だが、山形名物を出す店である。冷奴に「だし」を載せたものが旨い。私は知らなかったが姫は詳しい。これは各種の野菜を微塵切りにした浅漬けである。元々は残り物の野菜の再利用だろうが、ご飯にかけても旨いと思う。桃太郎は「金太郎」に行くまでの時間調整だったようで、途中で姿を消す。焼酎一本、最後にぬる燗を少し飲んで三千円なり。

    蜻蛉