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    第五十七回 行徳編
    平成二十七年三月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.03.23

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     「次は行徳をやる」と言った時、あんみつ姫は「塩の道、ソルト・ロードですか」と嬉しそうに反応した。以前、行徳を中心とした塩の道のウォーキングに誘われたことがあったが、二十キロにもなりそうで諦めたのだそうだ。行徳が関東における塩の一大産地であったことは、今更言うまでもない。ただ「塩の道」と言えば、私は知らなかったが越後の塩を運ぶ千国街道(糸魚川から松本まで)、三州街道(三河湾の塩を塩尻まで)、足助街道(三河湾から豊田まで)などが有名らしい。
     越後の塩なら、上杉謙信の敵に塩を送る故事がある位で戦国時代から有名なのだろう。三河湾なら吉良の塩も江戸時代には高級品であった。忠臣蔵事件は赤穂と吉良との塩の戦いでもあったという説がある。
     北条氏時代、小田原北条支配所として稲荷木、大和田、田尻、高谷、河原、妙典、本行徳の七ケ村が塩を生産して「行徳七浜」と呼ばれた。塩づくりは古くは鎌倉時代から行われていたようだ。塩は最も重要な軍需品であり、徳川家康の江戸入府以来、幕府は行徳の塩田を保護し、小名木川と結ぶ新川を開削し街道を整備した。
     しかし江戸時代中期以後、瀬戸内沿岸の高品質の十州塩(赤穂が最も有名か)が江戸に入ってくる。十州とは、播磨、阿波、讃岐、伊予、備前、備中、備後、安芸、長門、周防である。年間降水量が少なく、遠浅で干満の差が大きい海岸線が広がっている地域だ。菱垣廻船、樽廻船などの航路が確立するに伴って、寛永十年(一六三三)頃には江戸に廻船下り塩問屋ができ、享保年間(一七一六~一七三五)になると塩問屋、株仲間が公認される。十州塩の影響によって、元禄期には年貢として千二百石を納めていた行徳塩が、天保期にはわずか二百五十石まで減少した。
     他の塩の産地は十州塩によってほぼ壊滅したが、行徳塩だけは工夫をこらし、販路を北関東に求めて生き延びた。従来の塩は貯蔵中や輸送中に水分と苦汁(にがり)が抜け、折角仕入れたものが販売時には目減りしてしまう。行徳が発明した方式は、塩を地下で一年貯蔵し水分や苦汁を抜いたもので、「古積塩(ふるづみじお・こづみしお)」と呼ぶ。これを山間部や豪雪地帯に販売したのである。当初は行徳自前の塩を使ったが、江戸時代後期になると需要が拡大し、下り塩を加工してもなお採算が採れたらしい。
     しかし近代に入ると、日清戦争以後には安価な台湾塩が輸入され、また大正六年の大津波で塩田がほぼ全滅して、行徳の塩は衰退する。もともと高潮や江戸川の氾濫には弱かった。だから塩に関する遺跡はあまり期待できない。

     ついでだから塩の製法を勉強してみよう。海水を直接煮詰めて塩を得るのは非常に効率が悪い。前に調べたことがあるが、江戸時代の燃料費は非常に高価だったので、できるだけ効率を上げなければならない。従って第一次工程として、濃い塩水(鹹水)を作ることから始まる。古代の藻塩焼き、近世の揚げ浜式、入浜式の塩田で行っていたのはこの第一次工程である。近代に入ると流下式と呼ばれる方式が生まれたが、趣旨は同じことである。私はこの時点で塩ができるのだと思っていたのだから、全く知識がなかった。
     そして灰と混じり合ったものや、天日で水蒸気を蒸発させた塩砂を、今度は海水に混ぜ入れて濾過すると、海水の五、六倍の塩分濃度になる。これを鹹水と言う。普通の海水の塩分濃度は三から三・五パーセントだとされるから、その五、六倍として鹹水の塩分濃度はざっと十五から二十パーセントになる。これを愈々煮詰めていく訳だ。
     ところで、昭和四十六年(一九七一)の「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法」を知っている人はいるだろうか。海水から作る自然塩を禁止し、製塩の工業化推進を名目にイオン交換膜製塩法という電気的な方法で作った塩化ナトリウムだけ認めた。現在流通している食塩のほとんどがこれである。海水から作られる自然塩にはナトリウムだけでなく各種のミネラルが含まれるのに、このイオン交換膜製塩法によるとミネラルは全くなくなってしまうのだ。
     幸いなことに法律は昭和六十年に廃止され、平成九年(一九九七)の塩専売制度も廃止されたことによって、現在では自然塩が作られるようになっている。実に愚劣な法律であった。塩田を強制的に潰したのは、海浜を工場地帯に変身させるのが本来の目的だったかも知れない。

     前置きが長くなった。今日は旧暦一月二十四日、啓蟄の次項「桃始笑」である。啓蟄なら椿姫がそろそろ登場する季節だが、花粉症が酷くなって外出できないらしい。この所寒暖の差が大きく、日によってもそうなのだが、一日の中でも日中と朝晩の差が激しい。こういう時には着るものに悩んでしまうが、それでも確実に春は来ている。今日はにわか雨が心配だ。
     集合は東西線妙典駅だ。この企画を立てるまで、妙典なんていう地名すら知らなかった。鶴ヶ島からは有楽町線を使って飯田橋で東西線に乗り換える。そして快速で浦安まで、そこからは各駅停車になる。池袋から丸ノ内線を使い大手町で乗り換える方法もあって、どちらも料金、時間は変わらない。
     快速が止まらないのだから小さい駅かと思っていたが、高架の駅は結構大きい。構内につながるガード下には蕎麦「そじ坊」、スバゲテイ「ポポラマーマ」、中華「東秀」、カレーの「CoCo壱番屋」など飲食店が何軒もあり、南口には大きなイオンもある。これなら今日の昼食はいったんここに戻ってくれば良いと決めている。適当に分散すれば何とかなるから予約もしていない。
     私の発想にはハナからなかったが、浦和・大宮・越谷方面の人は武蔵野線で西船橋まで行き、そこから戻ってくるコースを選んだようだ。イッチャンは西船橋で乗り換えに迷ったとシノッチに連絡があったが、それほど遅れることもなく十時三分に到着した。あんみつ姫も西船橋駅の東西線乗り場が分かりにくかったと言う。ハイジは集合場所が行徳だと思い込んでいたらしい。「解散が行徳なのよね、何を勘違いしてしまったのかしら。」
     今回はあんみつ姫、ハイジ、チロリン、イッチャン、シノッチ、若旦那夫妻、講釈師、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、マリオ、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十六人が集まった。「十六人です。」「数えたら十五人だったけど。」いつもはロダンの方が正しいのだが、今日は私の方があっていた。
     最初に市川市のHPから印刷した地図を配る。この地図を見つけた時点で今日のコースは決まった(http://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000068563.pdf)。フリーハンドの地図に名所旧跡の説明を記して非常に便利なものなのだが、いつ作ったものなのか、既になくなっているものも記載されている。できれば地図の製作年代も記しておいてくれると有難い。
     江戸時代には、この辺りまでは砂浜が広がっていた筈だ。しかし行徳は昭和三十一年に市川と合併し、三十四年以後に海は埋め立てられた。私たちのコースとは東西線を挟んで反対側の地域は、マンションが立ち並ぶ街となった。
     「だけど三・一一の時、浦安で液状化現象が発生しましたよね。この辺は大丈夫なんですかね。」行徳で液状化が起こったとは記憶にないが、千葉県が作成する液状化予想図では、震度六弱以上の地震が発生した場合、当然のことながら最も危険度の高い地域に指定されている。

     十一月に一度、それもざっと端折って下見をしただけなので、ちゃんと覚えているかどうか少し不安で、予め講釈師に断わっておかなければいけない。後でまたなんと罵倒されるか知れないからね。「迷うことがあるかも知れませんが、たぶん大丈夫だと思います。」
     北口から歩き出す。狭い道なのに結構車が通る。バイパスに出る一つ前の角で、ローソンの向かいには黒板壁に黒瓦の二階家が建っているので注目してもらう。「この辺りは、こんな昔ながらの家が多く残ってます。」江戸川を挟んで都内とは離れたこの地域は、おそらく空襲にも合わなかったのだろう。「瓦屋根が立派だよね。」「戸袋はケヤキの一枚板じゃないか。」「あそこの屋根は緑青が吹いている。本物の銅を使ってるんだな。」
     右に曲がると、ほとんど人通りのない道だ。通り道なので春日神社に寄ってみる。予定に入れなかったのは、見事だという本殿の彫刻が、下見の時は工事中で見ることができなかったからだ。今日は工事もしていないので大丈夫かと期待したが、やはりダメだ。
     その隣にあるのが清壽寺(日蓮宗)だ。顕本山と号す。市川市妙典三丁目六番地十二。喘息に苦しむ母親の治癒のため、三十二世丸山上人が中山法華経寺で大荒行を行った。そこで感得することがあり、毎年旧暦八月十五日の夜に喘息封じの加持祈祷を行うので、「ぜんそく寺」と呼ばれる。加持祈祷で喘息が治癒するならそれにこしたことはない。私はこの頃、前近代の迷信に対して寛容な心を持ち始めた。
     本堂左手前の小さな祠には耳病守護の「神猿おちか」が鎮座している。「カワイイ。」五匹(六匹か)の子猿を抱きかかえた母猿に、赤いショールのようなものが巻かれ、堂の梁からは縫ぐるみの猿が何匹もぶら下げられている。
     猟師の家に三代続けて聾の子が生まれたのは、先祖が子持ちの猿を撃ち殺した祟りであった。そこで親子七体の猿の姿を石に彫って供養して祀ると祟りが消えた。つまり聾者の耳が聞こえるようになったのである。「耳の病気にいいようですよ。是非お賽銭を上げてくださいね。」「もう耳が遠くなってきたから、ちゃんと拝まなくちゃいけないな。」「目も霞んでますから、今度は目の神様にお参りしましょう。」私たちは老耄の団体である。「俺は頭の方がいいな。」「前に毛の神様を見たじゃないですか。」「王子神社の蝉丸だね。」
     少し先にあるのが妙好寺(日蓮宗)だ。市川市妙典一丁目十一番地十。「立派な門ね。」参道の奥に建つ弁柄塗の木造切妻四脚門は宝暦十一年(一七六一)七月に建立されたもので、美しい茅葺が珍しい。「向島の七福神でも見ただろう。」講釈師が覚えているのは多門寺のことだが、あれは明和九年(一七七二)建立とされるので、ここの方が古い。数年に一度は葺き替えが必要だが、この屋根は手入れが行き届いているように見える。「職人がいなくなったね。」「技能を伝承するためにも、こういうのを残さなくちゃいけないんです。」
     市川市の案内によれば、この門の建坪は二十五平米。柱上の組物は三斗(みつど)、中備えに蟇股(かえるまた)を用い、頭貫(かしらぬき)の木鼻、虹梁、花肘木などの文様が、江戸中期の特色を示しているらしい。下調べしておけばちゃんと説明できるのに、不精しているから後付けの知識になってしまう。
     妙好寺は妙典の地名のもとになった寺である。「典」は法華経のことを言う。「典って法典とかいうことかい?」ここでは経典を言うだろう。妙なる経典、妙法蓮華経である。法華信者は、と言うより、天台の教義では法華経こそが、釈迦が最晩年に説いた最高にして最後唯一の経典だとされていた。これが批判されるには、延享二年(一七四五)に富永仲基が『出定後語』で説いた加上説を待たなければならない。そもそも釈迦は大乗仏教なんか知らなかったのである。
     しかし今でも法華系の新興宗教ではそう教えているところがあるのではないか。それはそうとして、信仰のない私には法華経は仏教説話集として結構面白かった。
     「典をデンって読みますかね。ミョウテンかと思ってた。」ロダンが言い出すと「私もそうです」と姫も同意する。「駅でミョウデンって放送していて分かった。」濁るか濁らないかなんて議論に深入りすると、またややこしいことになるからやめようね。
     元は河原村と呼ばれ、その名の通り江戸川の氾濫よって形成された土地だ。永禄七年(一五六四)の第二次国府台合戦で、北条氏に加担した千葉氏配下の篠田雅楽助清久が戦功を立て、この地を与えられた。そして翌年、篠田清久がこの寺を創建し、河原村から妙典が分割されたのである。篠田氏は千葉氏の裔を称している。これとは別に相馬大作が旅絵師に姿を変え当寺に潜居したとの伝説があるが、相馬大作の話は信じなくても良い。
     濃いピンクの花はなんだろう。「河津桜じゃないか。」花は萎んでしまったように下を向いている。白梅も盛りだ。地図には「市川で一番大きなクロマツ」と記されているのだが、下見の時に住職に尋ねると、もう何年も前に枯れてしまったと言っていた。

     「こっちから出ましょう。」「あっ、そっちですか。」山門の方に行きかけた姫が戻ってくる。左に曲がるのだから、横の出口から出た方が良いのである。さっき犬が鳴いていたところだ。「ここにありますよ。」境内を出て曲がった所に妙好寺の由緒を説明する案内があった。「こんなところじゃなくて、山門の前に置けばいいのに。」誰も手入れをしないから表面が薄汚れている。

     「地図を見るとずいぶんお寺が多いね。」ヨッシーはさっきから熱心に地図を見比べている。行徳千軒寺百軒と言われ、狭い地域に寺の数が多かった。十軒の檀家で寺一軒の経営が賄えるほど、住民の経済力が高かったと言えるだろう。行徳・浦安地区だけで三十三観音札所巡りができた。廃寺になったものもあるが、今でも寺が密集している。なかでも日蓮宗が多いのは、大本山・霊跡寺院の中山法華経寺(市川市中山二丁目)の末寺が多いためだ。
     行徳バイパスに突き当たって、その脇の道を東へ向かう。「アッ、アロエの花が咲いてます。」「ずいぶん立派ですね。」民家の塀から覗くアロエの花は、頭を擡げた蛇のように長く伸びた先端に咲いている。朱色のトサカをいくつもぶら下げたような形だ。「薄く削いでね。食べると旨いんですよ。」ヨッシーは不思議なことを知っている。そんなものは食べたことがない。「傷口に摺りつけると良いって聞いたことがある。」「そうですね、傷にも利きます。」
     「何かのイベントですか?」不動産屋の幟を立てようとしている男が驚いたように声をかけてくる。「単なる趣味のグループだよ。」十六人もの集団が歩いているのは珍しいか。この辺の住民は地元の価値を知らないのではないか。
     バイパスは上り坂になってそのまま新行徳橋に入っていくが、私たちはその下で土手に突き当る。階段を上れば目の前には川が広がる。ここから四五百メートルほど上流で江戸川が二股に分岐していて、ここは大正八年(一九一九)に開削された江戸川放水路である。これ以後、こっちの川が江戸川本流とされ、元の江戸川は旧江戸川に呼ばれるようになった。ヨッシーが開いた地図を見ると、逆Y字に分岐している関係がはっきりする。
     「そうか、こういう風になってるんですね。」地図を覗き込んで、若旦那が感心したような声を上げる。岸辺には葦が生茂り、船が何艘か浮かんでいる。「サギが見えました。」この辺りでは希少な水棲昆虫の存在も確認されている。
     「あの橋は何ですか?」二百メートル程左に見える行徳橋の上に、窓のついた小部屋のようなものが等間隔にいくつか建っているのだ。あれが行徳可動堰である。「地図のここに説明が書いてます。」「そうか。ローリングゲートって言うんだね。」

     明治改修後、昭和十年、十三年と相次いで大洪水に見舞われて、昭和十四年に江戸川増補計画が策定されましたが、第二次世界大戦によりほとんど工事は進捗しないうちに終戦となりました。
     そして、昭和二十二年九月のカスリーン台風による大洪水を契機に、昭和二十四年利根川改訂改修計画が策定され、江戸川では引堤が行われました。
     江戸川放水路の堰地点の流下能力が不足していたため、固定堰を可動堰形式にするために、行徳可動堰の建設が行われました。行徳可動堰は昭和二十五年に着工され、昭和三十二年三月に竣工しました。その後、広域地盤沈下のため昭和五十年から五十二年の三ヶ年にゲートの嵩上げ工事を行い、現在に至っています。
     行徳可動堰は江戸川の最下流部に位置し、江戸川水閘門と連携して、平常時はゲートを閉めて首都圏の生活用水に海水が混入しないよう塩分遡上を防止するとともに、洪水時にはゲート操作により堰下流に洪水を安全に放流させる目的で昭和三十二年に完成した施設です。
     しかし、完成後五十年が経過した行徳可動堰は、いま「老朽化」という問題をかかえており、現在改築に向けて検討を行っております。
     (江戸川河川事務所 http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00094.html)

     時間があれば川を遡って分岐点の江戸川水門まで行っても良いのだが、昼食時間の兼ね合いもあり、行徳橋の袂から行徳街道を南に向かう。「ハクモクレンじゃないかしら。」ハイジが指差したのは、道路から一段下がった農家の庭先だ。モクレンは時期的に早過ぎないだろうか。私はコブシかと思ったが、姫もモクレンだと言う。「私はこの間紫木蓮も見ましたよ。」我が家の近所の紫木蓮の蕾はまだ小さくて固い。広い庭には夏みかんも生っている。
     「この辺で曲がろう。」「大丈夫ですか?」下見の時に通った道とは違うのだが、たぶん行ける筈だ。そして案の定ちゃんと旧江戸川に出る。「江戸川はホントの川じゃないって聞きました。」姫は誰に聞いたのだろうか。渡良瀬川から続いて江戸湾に注ぐ川を昔は太日川と呼んだ。犬塚信乃と犬飼現八はこの川を流れて来たわけで、これが現在の旧江戸川になる筈だが、江戸時代初期に流路が変更されたと言う説がある。実は江戸時代初期の河川の詳細は、分からないことが多いのだ。
     川に入れないように設置された緑の鉄柵の脇に、既に散りかけた河津桜が立っている。「壊れた船じゃないですか。」廃船の墓場のような雰囲気で、どんよりした水面にいくつも浮かんでいる。ここは船着場の跡だ。「それが河原水門です。」少し左に水門があり、赤いゲートが二階部分に上がっている。「撮影スポットが、なかなか。」目の前に木が生い茂っているから、なかなかうまい場所が見つからない。「ここが絶好だね。」桃太郎が決めた場所は、「だけどそこじゃ、正面じゃないし」と姫は不満だ。
     利根川東遷の結果、江戸川は房州・上州・野州・奥州からの物資を江戸へ運ぶ流通幹線となり、流域には河岸が作られて大いに賑わうことになる。野田の醤油、流山の味醂なども江戸川を経由して運ばれた。握り寿司や鰻の蒲焼に代表される江戸前の料理は、これがなかったら生まれなかった。
     また日本橋小網町から行徳河岸まで運行する船は行徳船と呼ばれ、江戸からの成田参詣者はここで船を降りて成田を目指した。これもこの界隈が賑わった理由だ。行徳船に乗って江戸時代の文人も多くやって来て、芭蕉、十返舎一九、一茶、渡邊崋山、大原幽学などの名前が記録されている。円山応挙も来たかも知れない。街道沿いには今も美しい商家の建物が残り、かつての旧街道の趣を伝える。先走って言ってしまったが、これは午後のコースになる。
     しかし舟運で栄えた町も鉄道敷設を嫌って寂れていく。東西線が東陽町から西船橋まで延伸したのは昭和四十四年(一九六九)であり、総武線から見放された地域は陸の孤島と化していた。南行徳駅が昭和五十六年(一九八一)、妙典駅が平成十二年(二〇〇〇)に開業し、漸くこの地域の開発が始まった。開発が遅れただけ、街道沿いに古いものが残っている。歴史的景観保存の意識が生まれたのはそんなに古いことではない。

     街道に戻ってコカコーラの倉庫を通り過ぎる。「地図に清涼飲料水会社ってあるのが、これですね。」「固有名詞を使っちゃいけないんだ。」豊受神社神明宮。市川市本行徳一番地。豊受宮は何か所かあり、ここはその一つだ。「豊受って伊勢神宮の外宮と同じですか?」桃太郎は伊勢神宮に行ったことがあるらしい。「そうだよ。アマテラスの食事を司るんだよ。」トヨウケビメの「ウケ」は食物・穀物の意味である。
     ここは行徳一丁目から四丁目と本塩の五ケ町の総鎮守である。境内には猿田彦大神の石碑が立っている。桃太郎やヤマチャンが見つけたのが行徳町道路元標の石柱だ。これはロダンの分野になる。説明を読むと、街道と寺町通りの交差点付近にあったものらしい。その交差点はすぐそこだ。「保存のために移設したんですね。」
     「ここにもお寺がありまよ。寄らないんですか。」姫の言葉で隣の寺に寄ってみることにしたのが正解だった。神明山自性院。真言宗豊山派。市川市本行徳一番地。山号の通り、隣の豊受神社の別当寺だったのだろう。説明を見ていた姫が「勝海舟自筆の碑があるようですよ」と気が付いた。石造りの門を入ると塀もなくがらんとした境内で、本堂横にそれほど広くない墓地がある。「これだね。」その一番手前にある秋本家の墓域に、勝海舟の署名のある石碑が建っている。

    勝安芳誌
      よき友の消へしと聞くぞ、我この方心いたむるひとつなりたり

     「ここに、勝安房しるすって書いてあるでしょう。」しかし、これはヤスヨシと読んだ方が良かった。受領名の希望を問われて、一番小さな国が良いと安房守をもらったのだが、明治になって改名したのである。安房の音読みと通じていて、本人はアホウと読めるから良いなんて言っていた。
     歌ははっきり言って、私の俳句モドキ並みに下手だ。この後ろにも文章が続くが、表面にカビのようなものが浮かんでいて判読できない。立札の説明によれば、海舟邸に奉公していた娘が死んだのを悼んだものである。「だけど秋本家って書いてますよ。」「娘の実家じゃないかな。」しかしどうやらこの説明は違っているようだ。市川市のホームページによればこんな説明になる。

    勝が、「よき友」熊谷伊助の死を悼んで建てたもの。勝の「日記」の中には「松屋伊助」と記されている。伊助は、睦奥国松沢(現岩手県一関市千厩町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来する。慶応年間に横浜のアメリカ商館の番頭の職を得た伊助は、奉公した江戸の酒屋の縁で行徳出身の妻と結婚したと言われている。
    http://www.city.ichikawa.lg.jp/gyo01/1111000032.html

     奉公人を「よき友」と呼ぶのは考えられないから、この方が信頼できそうだ。デジタル日本人名辞典によれば、熊谷伊助は横浜開港の際に埋立・築堤・市街整備の請負工事で巨利を得て、高島嘉右衛門と肩を並べた程の人物だったらしい。『明解行徳の歴史大事典』にも、この碑は「熊谷伊助慰霊歌碑」とされている。しかし熊谷伊助と秋本家との関係は分からない。伊助の妻の実家であろうか。
     熊谷伊助の名前は初めて知るのだが、横浜開港資料館には、伊助がペリー提督から贈られたと伝える望遠鏡がある。但しペリーが望遠鏡を贈ったという確実な資料は存在していないらしい。

     ご子孫の家には、伊助の活動を現在に伝える古記録がいくつか残されているが、明治三(一八七〇)年の記録には、伊助が水戸藩と関係を持ち、同藩が北海道で獲れる海産物を輸出しようとした際に、伊助がその仲介者として活躍したと記されている。
     また、伊助は勝海舟とも親交があり、ご子孫の一人である故熊谷守美氏の家には勝が伊助に宛てた手紙が残されている。この手紙は、明治二(一八六九)年四月二十日付のもので、手紙にはアメリカに留学中の勝の長男に留学費用を送金したいと記されている。
     送金にあたってはウォルシュ・ホール商会に為替を依頼したようで、金千両を子供に送りたいとある。また、手紙が記された日の勝の日記には「米国為替、松屋伊助へ届方頼む」(『勝海舟全集』)とあり、手紙の内容を裏付けている。(横浜開港資料館・館報「開港のひろば」第一〇四号)http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/104/06.html

     金千両を送金された海舟の長男の小鹿は、四十歳で死んだ。そのため海舟は慶喜の十男である精を小鹿の娘伊予子の婿養子として迎えるのだが、精も四十四歳で妾とともにカルモチンを服毒して自殺した。海舟は家庭的には不幸だった。
     十一時を過ぎた。少し急いだ方が良いだろうか。寺町通りに曲がりたいのに信号がなかなか変わらない。車の通行量も多い。「長すぎるじゃないか。」講釈師の声が少しイライラしている。漸く信号を渡って寺町通りに入ると、ここは静かで落ち着いた通りだ。
     「どこだったかな。」道の左だったか、右だったか。漸く思い出して黒塗りの門を入る。塩場山長松禅寺(臨済宗)。市川市本行徳八番地五。天文二十三年(一五五四)建立。かつてこの辺り一帯が塩場(塩田)だったのだ。しかし境内はがらんとしていて、石幢六面六地蔵を見るだけだ。「スゴーク珍しいと言う程ではないけど、あんまり見ないものです。」私もこれまで六基ほど見ただろうか。これは笠付でかなり大きなものだ。
     その向かいにあるのが正国山妙応寺だ。市川市本行徳二番地十八。永禄二年(一五五九)の創建になる。「七福神が揃ってます。」「ここ一か所でお参りできるのね。」昭和五十八年頃に作ったものらしい。自転車に乗った子供が、何をしているのかとハイジに訊いているようだ。人懐っこい子供で、ハイジも丁寧に相手をしている。七福神だけを見てすぐに隣に向かう積りだったが、皆は境内に入り込んで植物観察が忙しくなった。
     紅白の梅が咲いているのは源平梅だろうか。「違いますね、二本を結んであります。」なるほど、源平に見えるように、細い梅の幹を結んである。よくまあ、こんな小細工をしてくれるものだ。
     「フキノトウですよ。」ヨッシーはよく観察していて教えてくれる。細い竹を植えた一角に、かなり大きく開いたフキノトウが四つほど顔を見せている。「秋田じゃバッケって言いませんか?」桃太郎はどうして知っているのだろう。確かにバッケと呼ぶ。「やっぱり、盛岡と一緒ですね。」フキノトウは秋田の県花になっているが、バッケの語源は分からない。アイヌ語説を言う人もいるが当てにはならない。庄内弁ではバンケになると言う。
     「これは黒竹ですね。釣竿にちょうど良い。」この黒い竹を私は初めて見た。これでクロダケでもコクチクでもなく、クロチクと読む。黒竹はハチクの変種である、なんて言われてもハチク(淡竹・呉竹)が分からないのだから意味がない。
     七福神だけで見るべきものはない寺だと思っていたが、意外なことに春を感じることができた。

     寺町の七福神と蕗の薹  蜻蛉

     午前中の最後は道を挟んで隣にある海厳山徳願寺で、法華の多い行徳では珍しい浄土宗だ。市川市本行徳五番地二十二。慶長五年(一六〇〇)に家康が開基したとされ、格式は高い。門前に日本橋成田山講中が建てた背の高い永代橋溺死供養塔が建っている。後で江戸川の船着場の所でも触れるつもりだが、行徳は成田詣の講中の往来が盛んな土地である。
     安永四年(一七七四)に建立された仁王門と鐘楼が美しい。「立派な門だね。」仁王像は、明治の初めに葛飾八幡宮から移されたものである。
     この寺には円山応挙『幽霊画』、宮本武蔵『達磨図』を所蔵していると言う。「それは見せないのかい?」「見せてくれるのは年に一度でしょう。本堂にしまってあるんじゃないかな。」「貸金庫じゃないかしら。」言い伝えでは、応挙が行徳の旅籠「志がらき」に宿泊したときに描いたもので、応挙の落款がある。「応挙は偽物が多いって、鑑定団で言ってたよ。」

    この絵は、元前田公爵の所蔵であったが、東京新川の酒商中井新右衛門が手に入れ、さらに行徳の酒問屋遠州屋の岩崎粂蔵が譲り受けた。しかし、どういうわけか遠州屋に不幸が続きやがて没落してしまい、その時に徳願寺にあずけられた。(「円山応挙の幽霊の絵 その二」http://www.shinei-kunren.biz/sakuhin/kitasuna3/14/oukyo.html)

     「こっちです。」仁王門を潜らずに右を通りると、高い袴腰が美しい鐘楼の向こうには、宮本武蔵供養の地蔵が立っているのだ。しかし私と一緒に来たのはヨッシーだけで、他の連中は境内のどこかに行ってしまった。地蔵は簡素な石彫で、その脇の標柱には「新免宮本武蔵藤原玄信二天道楽大徳菩提」とある。暫くしてロダンや桃太郎もやって来た。
     「新免って何ですか?」新免氏である。武蔵の父が新免無二で、赤松氏の裔と考えられている。「宮本は?」「宮本村。」「生まれはどこでしたっけ?」「備前。」私は播州という積りで言い間違った。「作州ですよ。」これは桃太郎だ。美作国宮本村に生まれたというのが吉川英治の説である。
     「二天は?」武蔵はその兵法を二天一流と名付けた。二天、二天道楽は武蔵の号である。若い頃には円明流と言っていたのだが、後に二天一流と称したのである。地蔵の台石の文字が欠けているが、「諸国遊歴」ではないかと思われる断片が僅かに残っている。

     武蔵は、晩年出家し藤原玄信と称し諸国行脚の折りに、現在船橋の法典ヶ原の開墾に従事した。その途中に当寺に留まっていた因縁により、水誉上人が武蔵の遺品を集めて、正徳二年(一七一二)に建立したものである。
     (市川市ホームページhttp://www.city.ichikawa.lg.jp/gyo01/1111000010.htmlより)。

     武蔵は『五輪書』では新免武蔵守藤原玄信と称した。これは本姓が藤原氏であると主張しているのであり、「出家し藤原玄信と称し」と言うのとは違う。『五輪書』を書いたとき武蔵は出家ではなく、明らかに武士である。「武蔵守」は正式な官職ではなく、当時の慣習として自称したものだ。
     武蔵が死んだのは正保二年(一六四五)五月十九日で、死後五十八年後の建立とすれば、この地蔵はかなり早い時期になる。その当時から既に武蔵伝説が広まっていたということか。講談や歌舞伎の主人公としてかなり有名だったようだ。
     そもそも、武蔵が本当にこの辺りに来たことがあるのか。ちょっと見た限りでは、それを言う説は必ず「吉川英治の『宮本武蔵』によれば」と注釈してある。それならば吉川本の本文を確認してみよう。中学二年の時に初めて読んで以来のことだ。

     そこは下総国行徳村からざっと一里程ある寒村だった。いや村というほどな戸数もない。一面に篠や蘆や雑木の生えている荒野であった。里の者は、法典ヶ原といっている。

     法典は東葛飾郡法典村(現船橋市)であろう。小説では武蔵はここで伊織に出会い、開墾に従事することになる。しかし開墾は簡単ではない。豪雨によって荒野は一面の泥海と化した。食うものもない。その時、いつの間にかいなくなっていた伊織が食料を携えて戻って来た。

     武蔵の眼には涙が溜った。健気よとも忝いともいいようがない。自分はここを開拓して、農土に寄与するものと、ただ気概のみを高く抱いて、自分の餓えるのを忘れていたが、その飢えは、この小さい者に依って、からくも凌がれているのだった。
     だが、自分たち師弟を、狂人呼ばわりしている村の者が、どうして、食物を施してくれたろうか。村の者自身さえ、この洪水では、自身の飢えにおののいているに違いない場合に。
     武蔵が、その不審を糺すと、伊織は事もなげに、
     「おらの巾着を預けて、徳願寺様から借りて来た」
     と、いう。
     「徳願寺とは?」
     と聞くと、この法典ヶ原から一里余り先の寺で、いつも彼の亡父が、
     (おれの亡き後、独りで困った時は、この巾着の中にある砂金を少しずつ費え)
     といわれていたのを思い出し、常に、肌身に持っていたその巾着を預けて、寺の庫裡から借りて来たのだ――と、伊織はしたり顔に答える。(『宮本武蔵』第六巻「空の巻」より)

     ここに徳願寺も登場した。当時この地方には土匪が跋扈しており、武蔵は村人に武器を持たせ軍事教練を施したうえで、襲ってきた土匪を撃退するのである。このモチーフは黒澤明の『七人の侍』に影響を与えた筈だ。そして武蔵に関する私たちのイメージは、結局「吉川武蔵」によって創られたので、影響は相当大きい。しかし武蔵の伝記が殆ど不明なのは、吉川英治の次の言葉でも分かる。

     断っておくが、僕が、武蔵の史実は要約すれば、六、七十行に尽きるものしかないといったのは、どの書物も嘘や間違いを書いているという意味からではない。
     著者の主観を読むならべつだが、単に、史料の参考に漁あさってみるなら、その全部が、大同小異だからだ。小倉碑文、二天記、地誌類のうちの一部の記事あたりが原書で、あとはそれに後人の異聞や伝説が附加されているに過ぎないのである。伝写本から活字の近刊書にいたるまで、同じ史料の並列だ、この書にあってあの書にないというような掘り出しの記事は絶対にない。あれば俗説の尾鰭か編者の史眼の混濁である。(吉川英治『随筆宮本武蔵』)

     吉川英治が挙げている内、「小倉碑文」(新免武蔵玄信二天居士碑)は承応三年(一六五四)、宮本伊織が養父武蔵の十回忌供養のために記したもので、これが根本史料になる。伊織は島原の乱で功を挙げて加増され、豊前小倉藩(小笠原家)で四千石取りの筆頭家老となった人物である。
     碑文によれば、武蔵は播州赤松氏の流れを汲む新免氏の裔であり、『五輪書』に「生国播磨」とあるのと一致する。ただ赤松氏の流れだとすれば、赤松氏は村上源氏を称しているので(これは仮冒であろう)、武蔵が藤原を名乗る根拠はどこにあったのか。
     京都で吉岡一門を滅ぼし、舟嶋で岩流を倒したことも、この碑文に書かれている。『五輪書』には出てこないエピソードだが、要するに武蔵の伝記的事実としては他に手がかりがないのである。巌流島の闘いについては、こんな風に記している。原文は漢文らしいが、読み下し文を掲載しているサイトを見つけた。

    爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。
    凡そ、十三より壯年迄、兵術の勝負六十余場、一として勝たざる無し。且つ定て云く、敵の眉八字の間を打たずば勝を取らずと。
    (「宮本武蔵・資料編」http://www.geocities.jp/themusasi1/ref/t012.htmlより)

     「岩流」とはあっても、佐々木とも小次郎とも記されていない。吉岡の方は清十郎、伝七郎と名前を出しているのだから、この時点では岩流は無名の剣術者だっただろう。佐々木小次郎とは後世の人がでっち上げた名前である。
     また武蔵本人も息子も、生国は播磨だと言っているのに、吉川英治は美作国宮本村の出生とした。典拠は『東作誌』にあるらしいが、これは寛政期から文政にかけてまとめられたものだから、史料としては一級のものではない。吉川の言う「地誌類」がこれに当るだろう。更に吉川が参照した種本は『二天記』らしいが、これは更に遅く熊本藩の兵法指南・豊田景英が安永五年(一七七六)に書いたものだからもっと信頼性が低い。

     武蔵について長々と書き過ぎた。トイレに行った人を待っている間に、講釈師は横を向きながら煎餅の袋をダンディに渡す。「自分で配ればいいのに。」「そんなワザとらしいことはできない。」照れているのである。「講釈師がお菓子を配るなんて、珍しいじゃないの。」「俺は最近ちゃんと持ってくるよ。」「更生したんだね。」「正しく生きることにした。」喜寿を迎えた不良少年は、何か反省すべきことがあったのだろうか。薄桃色の枝垂れ梅が良い雰囲気を醸し出す。
     午前中はここまでにして、いったん妙典駅に戻る。今は十一時五十五分。「十二時四十五分にここに集まってください。」宣言し終わると皆はあっという間にいなくなり、姫とマリオと私だけが残された。マリオは、朝コンビニのコーヒーを買ったときに見つけた「やよい軒」に行くと言う。「それってどういうお店ですか?」「普通の和食屋ですよ。焼き魚なんかもある。」「それなら私も行きます。」姫は中華が苦手で、それでもご飯が食べたい人である。
     「大戸屋みたいですね。」定食の値段は六百円台から八百円台で、ご飯がお替りできる。券売機で食券を買う方式だ。「店内禁煙ですね。」それは仕方がない。私は和風ハンバーグ定食にしたが、ご飯が結構旨かった。マリオは「ナス味噌と焼き魚の定食、姫は彩定食である。チェーン店らしいのだが、私は初めてだ。「あちこちありますよ。」「横浜はそうなんですか。埼玉では見かけたことがありません。」調べてみると北海道・東北を除いて全国展開しており、埼玉県内にも十四軒ある。越谷にもありました。明治十九年(一八八六)茅場町に開業した西洋料理店「彌生軒」が始まりだという。
     いつものように私はあっという間に終わってしまい、気を使った姫が「先に出ていいですよ」と言ってくれる。「それじゃ。」私だけが少し早目に出て目の前の公園で一服する。集合場所には誰も遅れることなく集まり、きっちりと約束の時間通りに出発する。

     バイパスに出るまで、狭い道に車が詰まってなかなか動かない。「さっきの信号ですね。」漸く道を渡って、行徳小学校前の歩道橋の手前を曲がる。この辺りから少し地理が少し怪しくなってくる。「下見の時に迷ったんだよ。」地図を確認するために、予定には入れていなかった豊受神社に入る。こんなに近いところに豊受神社が二つもあるのも珍しい。唐獅子は溶岩の上に乗っている。本殿には彫刻がなく、姫ががっかりしている。道路際には斜めに注連縄をかけられた、合掌型六臂の青面金剛が建ち、ハイジが判読して元禄の年号が確認できた。「ちゃんといますね。」「俺はいつだっているさ。」ただその邪鬼はかなり磨り減っていて、ようやく分かる程度だ。
     境内を出れば記憶は残っているもので、すぐに正覚山妙覚寺に着く。市川市本行徳十五番地二十。中山法華経寺の末寺。天正十四年(一五八六)日通上人の創建と伝えられる。
     門を入り墓地の方に向かう。ここで見るべきものは一つで、下見の時にどうしても探せずにいると、墓参りに来ていたオバサンが住職の住まいまで訊きに行ってくれたのである。ただ、檀家の癖によく分かっていない。「なんだか、キリストがどうとか言ってるんだけど。」「お待ちください、○○ちゃん、資料を持ってきて頂戴。」そして娘さんが教えてくれたのがこれである。墓参者のための休憩所のそばだ。
     千葉県で唯一の織部型灯籠(古田織部好みの様式)である。「目黒で見たわね。」ハイジの言葉を追いかけて「目黒で見たじゃないか」と講釈師も大きな声を出す。目黒では大鳥神社、大聖院のほか、もう一か所で見た記憶がある。「新宿太宗寺にもあった。」講釈師の異常な記憶は衰えていない。
     その当時は私も無学で、キリシタン灯篭と言われて何の疑いも持たなかったが、日欧交渉史、南蛮文化研究の第一人者ともいうべき松田毅一は切支丹説を強く否定している。大正か昭和の初めに、これが切支丹灯籠だと言いだした人物がいて、学界では否定されても、一般には今でも流布しているのだ。切支丹には関係ない、古田織部に由来するというのがほぼ定説だろう。そしてこの地域に隠れ切支丹の形跡はない。
     「これが神父なんだよ。」切支丹には関係ないと、今私が言ったばかりではないか。台石がなく竿を地面に直接埋め込む方式で、庭の景観に応じて、浅くあるいは深く埋め込んで高低を調節する。その竿の部分に「マントを着た神父」と言われる像が浮き彫りにされているのだが、これは地蔵だと考えるのが現在の常識だ。ラテン語のような模様も梵字で説明できるらしい。
     寺が作ったA4版の資料によれば、昭和三十年代か四十年代頃、東京の学生がやってきて、これは切支丹灯篭という珍しいものだと指摘したそうだ。そのため寺も半信半疑で看板を立てたのである。切支丹には関係なくても、この形の灯籠はそんなに頻繁にお目にかかれるものではないので、見る価値はある筈だ。
     さて、次はどう行くのだったか。「あれかな。」しかし私が指差したのは方向も全く違う寺院であった。とにかく寺が多いので紛らわしい。「道が分からなくなったみたいだよ」と講釈師が囁く声が聞こえてくる。「ここだ、ここだ。」歩き出してすぐに記憶が甦った。駐車場入り口から境内に入る。
     仏性山法善寺(浄土真宗本願寺派)。市川市本塩一番二十五号。慶長五年(一六〇〇)、片桐勝元の家臣、河本弥左衛門が出家し、宗玄和尚と名乗って創建したとされる。慶長五年は関ヶ原の戦いの年である。片桐勝元の家臣がどうした理由で行徳にやってきたものか。
     この河本が塩の製法を伝えたと言うのだが、冒頭にも書いた通り、北条氏の時代に既に行徳で塩は作られていた。ただ、それまでは揚げ浜式だったものを、河本が上方で発明された入浜式を伝えたということらしい。地元の人は塩場(しょば)寺と呼ぶ。本堂の前の句碑を見て、清純可憐な句を作るハイジが悩む。「情景が全く浮かんでこないの。」

     うたがふな潮の華も浦の春  芭蕉

     寛政九年(一七九七)、行徳の俳人が芭蕉百回忌に建てた碑で、潮塚と呼ばれる。私だって分からないので、解説を探してみた。これは元禄二年(一六八九)芭蕉四十六歳のとき、伊勢国の二見ヶ浦を詠んだ句であった。先入観なしでこの句を読んで、解説にあるような事情を感得するのは至難の業である。

     「二見の図を拝み侍りて」と前書きがある。二見が浦は伊勢市二見町にある伊勢神宮の垢離場で、夫婦岩からの日の出も有名である。
     句意は、二見が浦の夫婦岩に勢いよくあたって、花のように舞い散る波も、この浦の春を寿いでいる。二見が浦の神である伊勢神宮の神德を決して疑ってはいけない、という意。(「芭蕉会議」http://www.basho.jp/senjin/s1102-1/index.html)
     

     本堂前の香炉は青銅製の立派なものだ。「アッ、オナガです。」姫がいち早く見つけて声をあげる。「飛んだ。」一瞬で隠れてしまったが確かにオナガのようだ。「また飛んだ。」「オナガは寺に多いよね。」ヤマチャンはそういうが本当だろうか。私には分からない。
     境内には巨大な赤い石が置いてある。「変成岩ですよね。」ロダンとドクトルが検討しているが、正体はよくわからないらしい。「佐渡の赤石じゃないか」と言うのは講釈師だ。もう一つの巨岩は、全体は灰色なのに部分的に赤紫の結晶のようなものが見える。「アメジストですよ。」おそらく冗談だろう。
     「入っていいのかしら。」「人が出てきたら、こんにちはって言えばいいんじゃないかな。」寺の境内なのか、自宅の庭なのか区別がつかずにつながっている庭にも、巨大な岩がこれでもかというほど配置されている。巨岩と、その背景の松を見ていると、南画のような風景を意図しているようだ。
     門を出たところで説明版に気が付いた。これによれば「四万十川の巨石と、豊臣秀吉が京都聚楽第に集めたものと同じ石」が置かれているのである。それにしてもこれだけの巨石を運んでくるさえ、相当なコストがかかる。「檀家がお金持ちなんですね。」
     「浄土真宗で卒塔婆を建てるかしら?」ハイジが墓地を眺めて不思議そうに呟いている。我が家の宗旨は真宗大谷派だが、卒塔婆は建てないと決まっている。「そうでしょ?あそこに見えるのよ。」本願寺派ではそのようにするのかどうか、私には分からない。
     「ここの住所が本塩でしょう。次が塩焼、煮付けってあるんだ。」「嘘ばっかり。」桃太郎がハイジに冗談を言って笑わしている。「たぶんこっちだよ。」適当に歩いて左に曲がれば、午前中に通った寺町通りに出た。「午前中に通った道を戻るなんて、珍しいコースだね。」昼飯の関係でそうなったのだが、下見の時は別の道を歩いた筈で、どうしてここに出たのか分からない。そして行徳街道に戻った。
     少し歩くと、瓦葺二階家の古い家並みが目立つようになってきた。右手には家々の間の路地から、江戸川の土手が見える。ちょっと目に付いたので路地に入ってみる。「何があるんですか?」大谷石で作ったような蔵が見えたのだ。「これがあったから。」「大谷石は水に弱いんじゃないですか?」姫の疑問にロダンは答えない。私も少しだけ調べてみたが、耐火性に強いとか軽くて加工がしやすいというのはあっても、水に弱いというのは見つけられなかった。
     「それじゃ街道に戻ります。」田中家は明治十年の建築である。当時の当主である田中栄次郎は福沢諭吉の門下生で、公選の行徳町初代町長だった。先祖は塩場師である。「間口はそれほどじゃないけど奥行きが深い。間口税の関係だよ。」講釈師はこの話題が得意である。家の前には芭蕉句碑が建っている。

     月はやし梢は雨を持ながら  芭蕉

     この碑には芭蕉とあるが、『鹿島詣』(『鹿島紀行』)では桃青の署名になっている。貞享四年(一六八七)八月、四十四歳の芭蕉が鹿島詣での際に詠んだものだ。その時、行徳で船を降りた芭蕉は田中家に立ち寄ったらしい。

     洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。
     伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。
     僧はからすのごとくなる墨の衣に三衣の袋を衿に打かけ、出山の尊像を厨子にあがめ入てうしろにせおひ、杖引ならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩して出ぬ。
     今ひとりは僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの鳥なき島にもわたりぬべく、門より舟にのりて、行徳と云処に至る。舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。(『鹿島詣』)

     同行したのは曾良と宗波の二人である。しかしせっかく月を見に行ったのに、当日は昼から雨で「言ふべき言の葉もなし。はるばると月見に来る甲斐なきこそ本意なきわざなれ」という始末だった。同行の二人の句はこうである。

     雨にねて竹おきかへる月見かな   曽良
     月さびし堂の軒端の雨しづく    宗波

     「そこの駄菓子屋さんで行徳の古い写真を見せてくれるそうなんですけど。」姫の言葉でちょっと戻る。声をかけると、入り口を塞いだ衝立を脇に寄せてくれるが、中に入れそうな空間はない。「アッ、吊るし雛が綺麗。」「見せてもらっていいですか?」全員はとても無理なので、私と姫だけが中に入って見せてもらう。二十八日に行徳の「寺のまち回遊展」の企画があって、その準備で忙しいのだそうだ。「我々も今日はお寺を巡ってるんですよ。」「二十八日にぜひ来てください。」
     田中家の向かいは八幡神社だが、特に寄らなくてよいだろう。煉瓦塀に続いて二階家が建っているのが、加藤家である。「ここは塩問屋でした。」玄関の唐破風に吊るした模様は鳳凰か鶴だろうか。一階の屋根の銅板が緑色になっている。「覗きこんじゃダメですよ。」
     その斜向かいは笹屋うどん跡だ。安政元年(一八五四)築。石橋山の合戦で敗れた頼朝が立ち寄ったと言う伝説があるが到底信じられない。そもそもその当時、うどん屋という商売が存在する筈がない。それよりも、うどんが普及するのは十四世紀頃と推定されているので、頼朝の時代に関東の片田舎でうどんが存在したとは思えない。
     太田南畝書の大看板は市川市立博物館に寄贈された。十返舎一九なども立ち寄って紀行文に書いているのは、当時有名な店だったからだ。

    ・・・・道づれになりたる人は同じたはれ歌の道草をくふ、厩の豆成といへるひとのよし。これを語り合つつ行徳の里に到り、笹屋といへるにやすらひはべる。此處は饂飩の名所にて、往来の人足を留め、饂飩、蕎麦切たうべんことを、せちに乞ひあへれど、打つも切るもあるじひとり、未だそのこしらへ、はてしもあらず見へはべれば、御亭主の手打ちの饂飩待ち兼ねていづれも首を長くのばせり。(十返舎一九『南総紀行旅眼石』)

     この当時、饂飩は「うんどん」とも言った。亭主が一人で忙しくうどんを打っていたのである。「この地域でうどんなのかい?」私も不思議だ。むしろ蕎麦の方がふさわしいのではないかと思う。古川柳にもいくつか詠まれている。

    音のない滝は笹屋の門にあり
    さあ船がでますとうどんやへ知らせ
    行徳を下る小舟に干しうどん

     加藤家の脇から川に向かう。突当りの土手の上に立つのが、文化九年(一八一二)、日本橋の成田山講中によって寄進された常夜灯だ。「あんまり大きくないな。」そしてここは船着き場であった。 最初に書いたように、日本橋からここまでの航路は行徳村が独占し、行徳船と呼ばれた。成田山に向うにはここで船を下りて、陸路に替えるのが便利だった。「新河岸だってさ。」「川越のことかと思ってしまいますね。」 

    行徳船場 大江戸小網町三丁目行徳河岸といへるより、この所まで船路三里八丁。房総の駅路にして旅亭あり。ゆゑに行人絡繹として繁盛の地なり。ことさら正・五・九月は、成田不動尊へ参詣の人夥しく、賑はひおほかたならず。(『江戸名所図会』)

     『江戸名所図会』の挿絵を見ると、画面左下に川に面して石垣を台にした常夜灯が建ち、右上に小さく「名物ささやうんどん」の店が描かれている。土手の上が細長い公園になっているので、トイレ休憩を兼ねることにする。「あそこの青い屋根がトイレです。」ヨッシーはポッキーを、チロリンは「蜻蛉は要らないよね」と言いながら何か甘いお菓子を、姫は黒酢飴、シノッチは煎餅を出してくれる。私も負けずに煎餅を出す。これはある美女(この会には関係ない)が、「ウォーキングのお供に」と、わざわざ差し入れてくれたものだ。そう言われなければ自分で食ってしまおうと思ったのだが、仕方がない。
     川の向こうは工場が立ち並ぶ江戸川区だ。「川を挟んだだけで、ずいぶん風景が違いますね。」釣りに行くのだろうか、船が一艘、浦安方面からやってきた。「向こうの高層ビルはどのへんでしょうかね?」桃太郎が私の地図を開いて、「松戸のほうだね」と確認した。
     「川だから風が冷たいのかい?」ドクトルに言われて一気に寒くなってきた。さっきまで暖かかったのに、少し風が出ると一遍に気温が下がってくるようだ。「それじゃゆっくり出発しましょうか。」街道に戻る。
     浅子神輿(店舗兼主屋)跡で立ち止る。応仁年間、初代浅子周慶が浅子神輿を創業。平成十九年(二〇〇七)に閉店した。江戸の神輿の多くは行徳で作られた。塀の脇から建物の横を眺める。「お神輿みたいじゃないか。」「あの屋根の反りもそうだね。」二階の部分の手摺や屋根の形が神輿に見えるのだ。

     また、「戸数千軒、寺百軒」といわれ、寺社の多い行徳は神仏具の需要も多かったためか、塩とともに神輿造りも盛んであった。浅子神輿店(雅号 浅子周慶)と、後藤神輿店(雅号 後藤直光)が古くからの家柄で、日本のみならず昭和の時代では海外まで、特に関東の神輿の四割は行徳神輿といわれるほど有名であった。しかし、後継者不足や需要の落ち込みから平成の初めに後藤神輿店が、平成十九年(二〇〇七)には浅子神輿店が閉店した。現在、浅子神輿店から分かれた中台製作所が一軒あるのみである。(中略)
     平成元年(一九八九)、十五代浅子周慶(鈴木憲平氏)の死去に伴い、妻である紀恵子氏が十六代を襲名することとなった。日本初の女性神輿師として先代の遺志を継ぎ、深川富岡八幡宮の一之宮神輿(台輪寸法、五尺)を受注し、日本一の黄金神輿を造り上げた。これ以降も次々と名神輿を生み出していくが、平成十九年(二〇〇七)、突然の病死により十六代を最後に老舗神輿店は幕をおろした。(中略)
     「神輿師」浅子周慶として全国に知られているが、戦前は「仏師」として仏像、神仏具置物を手掛けていた。十四代周慶(鈴木隆蔵氏)は昭和六年(一九三一)の日蓮上人六百五十年祭に向け、池上本門寺・中山法華経寺・原木山妙行寺などから多数の注文を受け、次々と職人の増員を行う。この時期浅子神輿店の発展に一役も二役もかったといわれているのが、小川新三郎氏と中台新太郎氏である。二人はその後独立し、それぞれ㈱宝珠堂、㈲中台製作所を設立、地域の発展、神輿の修復にも力を注いでいる。(阿部郁子「浅子神輿店の軌跡」)
     http://kirara.cyber.kyoto-art.ac.jp/digital_kirara/graduation_works/detail.php?act=dtl&year=2011&cid=552&ctl_id=95&cate_id=9

     「もう一軒、神輿屋があるんですよね。」ヨッシーは史料をよく読んでくれている。道はS字を描くように曲がる。宿場全体が見渡せない様に作った鍵の手と言われる道だろう。「あれです。」後藤神輿である。隣には、コンクリート造り二階建てが並び、後藤神仏具店の看板が掛けられている。この店も既に廃業してしまった。現在、行徳神輿を作成しているのは、百五十年前に浅子神輿から独立した中台神輿店(市川市本塩 二十一番三)だけになった。
     古い木造二階家の二階の左側端の戸袋(?)を見ると、桃から生まれたばかりの桃太郎が浮き彫りにされている。「どうして桃太郎なんでしょうね。」理由は不明だ。「浦島太郎でしょうか?」「金太郎じゃないの。」最近、桃太郎、浦島太郎、金太郎が登場するCMがあるのが話題になる。右側は外したような跡が見えるから、ここにも何かの彫刻があっただろう。窓枠にも彫刻が施されている。
     もう一度S字カーブが登場する。「アレッ、何でしょう。」道路脇の小さな公園風のスペースに置かれたブロンズの胸像である。よこには新しい小さな祠、それに「ポックリ蛙」と名付けられた石の蛙も鎮座している。道を渡って確認すると、胸像は田中幸太郎である。「有名人かい?」県議会議員と書いてある。小さな祠の下には「人生は八十過ぎたら元気で百まで」「田中稲荷大明神」「ポックリ稲荷」と書かれた黒くて丸い碑が置かれている。こちらのほうは衆議院議員の田中何某である。おそらく幸太郎の子か孫であろう。それにしても「ポックリ稲荷」「ポックリ蛙」とは余り良い趣味とは言えない。特に見るべきものではない。
     押切の三叉路手前からまた川に戻る。「ここにもアロエの花が。」「この辺はアロエに最適な場所なんでしょうか。」「江戸川の水があうんじゃないか。」突当りは押切排水機場で、船着場跡である。祭礼河岸とも呼ばれるのは、西蓮という法師が住んでいたことによると言う。「ここが元の河岸だから、さっきのが新河岸なんですよ。」主に野菜などの物資輸送の基地であった。
     土手下の道路脇には小さな湊水神社がある。湊村の水神だろう。「ここにも桃があるよ。」流造の屋根に桃の実が二つ載せられていたのだ。「桃と水の関係は?」分からない。小さい神社だが、祭礼の時にはこの川沿いの狭い道に露店が八十も出るらしい。
     街道に戻りかけたところで民家の前庭に沈丁花を見つけた。「もうずいぶん開いてるね。」「こっちには白いのもあるわ。」香りが高い。「あんまり匂わない」と言っていた姫も、白い沈丁花に花を近づけて、「匂います」と納得した。

     路地裏に赤きと白き沈丁花  蜻蛉

     「スミレも見つけたわ。今年初めて。」ハイジは見つけたら教えてくれなければいけない。「だけど俺は二週間前に見たよ。」「里山で?」「そう。」
     三叉路の交差点は行徳駅に続く大通りだ。左側に神社がある。「寄ってみましょうか。」境内に入ると道路に面してすぐに本殿があり、その彫刻が立派だ。「今日は本殿の彫刻が見られなかったから嬉しい。」本来は神社の一番奥になる筈だが、メインストリートに面しているのは、この道路が後から作られたことを意味している。ここは押切稲荷である。市川市押切六番地六。

    押切の地に鎮守する迄の間、種々な経緯が有り今から凡そ三百五拾有余年前に鎮座したが度々の津波等により本殿等が破壊し(後略)

     「津波が来たんだね。」「すぐそこまで海だったんだよ。」押切の地名には、押して切り開く、つまり新開地の意味の他に、地を押し切って水が溢れ出すという意味があるらしい。つまり江戸川が氾濫する場所だったと考えて良いだろう。だから、さっきの水神社があるのだし、稲荷もあるのだ。
     「祭神は宇迦之御魂神って書いてあるよ。どういう神様だい?」ウカノミタマは、日本書紀の表記「倉稲魂神」に稲の文字があることから分かるように、食物・穀物をつかさどる神で、伏見稲荷の主神である。ウカ、ウケは食物や穀物を意味し、元々は豊受(トヨウケ)とも同じ神だったと推定されている。
     千寿銀杏と名付けられた大イチョウがある。「乳が太く垂れてるね。」幹周は六・一メートルだと言う。かなり大胆に剪定しているのは、近所の住宅に配慮したためらしい。「それじゃ行きましょうか。」民家の庭に菜の花がきれいに咲いている。「庭に植えてるのは珍しいですね。」その隣には梅も咲いている。
     そして行徳駅前に着いた。「行徳って大きいですね。三十万都市の越谷よりスゴイ。」西友があるからね。「市川市は何万人ですか?」調べてみると四十七万を超えている。これは浦安行徳地区を合併した成果だろう。
     駅前広場には「朝粧」と名付けられたブロンズ像がある。作者は渋谷三朗だ。「アサショウでしょうか?」「アサケハイかな。」しかしチョウショウで良いようだ。「朝粧」ならば黒田清輝が有名で、それをモチーフとしたのだろうか。渋谷三朗は市川市在住の彫刻家で、石井鶴三に師事したらしい。市川市が計画的に設置している「街かど屋外彫刻」のひとつである。
     ちょうど三時だ。懸念された雨にも降られず、まずまずの一日だった。今日は宗匠がいないし、ロダンは万歩計を忘れてきたというので、歩数は不明だが、おそらく七八キロだったろう。そう言えばマリオは横浜市が無料で配布した万歩計を持っていたのに、すっかり忘れていた。挨拶をし、姫から次回(五月)の計画(本所向島)が披露されて解散する。
     目の前に「行徳塩浜のみち」という散策コースの地図が掲げられているので、今日の行程を再確認していると、「お茶を飲もうぜ」と講釈師、ダンディはチロリンたちを引き連れて去って行った。マリオも別れて行き、残されたものは何故か御徒町を目指す。

    蜻蛉