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    第五十八回 青葉の季節のそぞろあるき~本所から向島~
    平成二十七年五月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.05.24

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     旧暦三月二十一日。立夏の初候「蛙始鳴」だ。六日間の連休と木曜の出勤を挟んだ久しぶりの長い休みも終わり、来週からまた仕事が始まる。この間に桃太郎は十二連休を取得し、湯河原やあちこちに出かけていた。スナフキンは次に予定する小田原の下見をした。私は欠席した「日光街道」其の十を一人で辿った。昨日は近所の公園で、孫のアンヨハジョウズの練習をした。まだ一人では歩けない。
     今回はあんみつ姫が企画した。第五十回「本所界隈編」、五十四回「隅田川橋巡り編」や一月に講釈師が企画した「隅田川七福神巡り」などでもお馴染みの地域なのだが、コースに組み込めないで残された見どころがまだ点在しているのである。
     このコースの後半は私が企画したかった場所でもある。「深川(第四十五回)、本所とやったでしょう。絶対、蜻蛉が企画すると思っていましたよ。それが、いきなり行徳にずれちゃいましたからね。」
     その後半部分には、饗庭篁村、淡島椿岳・寒月父子、依田学海、成島柳北などの旧居跡が予定されている。姫は良くこういう人物を探してきたものだが、しかし今時これらの名前を見て嬉しくなる人は少ないだろう。普通の文学史では無視される人たちで、柳北は別格としても、これに幸田露伴や大槻如電、森田思軒、幸堂得知、久保田米僊、岡倉天心などを加えると根岸党が出来上がる。江戸趣味で結ばれた遊び仲間である。

     現在一般に流通している「日本近代文学史」において、「根岸党」もしくは「根岸派」の名称はもちろん、幸田露伴以外の根岸党の文士たちの名を見ることは皆無である。その一方で、明治二十二、三年頃から二十七、八年頃を指す「紅露時代」という時代区分ならば多くの文学史で採用されており、近代文学を学ぶ者は見聞きしたことがあるだろう。露伴と、硯友社を率いた尾崎紅葉とは、いずれも明治二十二年に発表した元禄調の小説によって急速に人気を得、同時期に読売新聞社に入社し、読者の人気を二分したと言われている。確かにそれは間違いではない。しかしながら、実際に同時代における文学作品の出版状況をみるならば、「紅露時代」はまた、根岸党と硯友社とによる、「根硯時代」あるいは「硯根時代」とも言うべき時期であることが分かるのである。(高橋寿美子「根岸党と江戸風文学の隆盛」Hosei University Repository)

     「元禄調の小説」というのは、紅葉も露伴も淡島寒月によって西鶴を教えられたからである。饗庭篁村は、自分はもっと早くから西鶴を知っていたと自慢する。二葉亭の登場以前は江戸文学との断絶はなく、その初期は江戸末期戯作の流れを引く仮名書魯文が人気を博していた。逍遥の『書生気質』も文体は魯文に倣っているだろう。それに対する西鶴である。紅葉や露伴は西鶴に近代的な知性と描写力を発見したのである。
     しかし図書館で各種文学全集を当ってみたが、筑摩書房版『明治文學全集』の第二十六巻が「根岸派文學集」(昭和五十六年)として一巻をまとめているだけで、ほかには根岸党の文を収録したものが見当たらなかった。
     取り敢えず手持ちの本を読み直してみた。森銑三『明治人物夜話』は依田学海、饗庭篁村の逸話と逸文を紹介している。内田魯庵『思い出す人々』に「淡島椿岳――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド」が収められ、山口昌男は『敗者の精神史』で、魯庵に負いながら「軽く、そして重く生きる術――淡島椿岳・寒月父子の場合(一)」と「明治大正の知的バサラ――淡島椿岳・寒月父子の場合(二)」を書いた。たぶん姫以外は名前も知らないだろうと思うので、これらをリュックに詰め込んだ。今回はそれを紹介してみたい。作文がいつも以上に長くなりそうだ。

     朝から曇りがちで午後からは雨が予想されていて、家を出て駅までの間に早くも小雨が落ちてきた。池袋まで立ちっ放しで、山手線外回りに乗り換える。集合場所の錦糸町駅まで地下鉄を利用した方が良いかと思っていたが、実はこのコースが一番安い。
     錦糸町に着くと雨は止んでいる。「実は私も品川まで乗り過ごしちゃいました。」ロダンは、先日の私の失敗を繰り返したと頭を掻く。定刻まで、駅前の地図を眺めて周辺を確認する。「本所松坂町はどっちですか?」桃太郎の言葉に「あれは両国。回向院のそばだから、こっちだよ」と指差した。因みに事件当時、松坂町の名はまだない。本所一ツ目回向院裏である。「違うよ、逆じゃないか。」私は西の積りで左を指差していたのだが、地図が南北逆になっていた。ここは南口である。
     「今日はこの天気だから少ないと思います」と姫が予想していた通り、集まったのは、あんみつ姫、クルリン、講釈師、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、マリオ、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十一人である。
     「伊藤左千夫の碑を見てない人は?」初めてのクルリンのために、姫はまず駅前ロータリーにある伊藤左千夫の碑に立ち寄る。この辺一帯に左千夫が経営していた牧場があった。「冷蔵技術が発達していないから、都心に供給するには近場でやるしかなかったんだよ。」芥川龍之介の実父・新原敏三も、新宿と築地に牧場を持つ耕牧舎の支配人だった。
     京葉道路を西に向かうと、両国高校の北東角のフェンスの中に「国産マッチ発祥の地」碑が建っている。こんな場所だと気づく人は少ないだろう。第五十回では西側の正門内の芥川龍之介文学碑を見ているが、その時はまだこの碑の存在を知らなかった。何でも知っている講釈師が教えてくれたのだが、寄りはしなかった。
     黒御影の石碑に「東京本所柳原町」「新燧社」とあるのは読めるが、上部に書かれたSakerhets-Tandstickor(二つのaにはウムラウトがつく)が読めない。石碑のほかには何の説明もない。

     明治二年(一八六九)に金沢藩の藩費でパリに留学した清水誠は、明治六年(一八七三)には廃藩置県で文部省留学生となり、同年フランスの工芸大学に入学している。七年に外遊中の宮内次官吉井友実とパリのホテルで会談した際、吉井卿が卓上のマッチを指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、外貨不足の際これを日本で作れないだろうか」と言われて、清水誠はマッチを日本で製造する決心をしたといわれている。
     清水誠は官費留学生であったことから、八年に海軍造船官として横須賀造船所に勤務した。その傍ら暇ある毎に東京に出て三田四国町にある吉井友実の別邸を仮工場としてマッチの製造を始め、試売している。従って日本におけるマッチを工業的に製造を始めたのは明治八年(一八七五)となる。
     九年九月、清水誠は本所柳原町に一大工場を新築し、「新燧社」(しんすいしゃ)と名づけて本格的な工場生産を開始した。新燧社の代表的な商標には、桜印がある。(日本マッチ工業会「マッチの世界」
     http://www.match.or.jp/history/index03.htmlより抜粋)

     マッチ業界に展望はあるのか。「この頃の子供は見たこともないだろうね。」我が家にももう存在しない。「マッチのラベルをいっぱい集めてました」と姫が言う。あの頃は(私が学生時代の頃だ)、喫茶店やスナックでは必ずと言って良いほど、自前のマッチラベルを作っていたのである。「マッチがなくなる時代が来るなんて想像もしなかった。」「そもそも売ってるのかね。」「売ってるよ。」仏壇の線香に火をつけるには百円ライターという訳にはいかないので、川口の実家の仏壇にはちゃんとマッチがおいてある。ただ墓参りの時はチャッカマンを使う。
     江東橋のたもとでクスノキの花を姫が教えてくれる。小さな花だ。マリオが匂いを嗅いでいる。橋の下に水が流れていないが、ここが大横川だ。この辺から北は親水公園になっているのだ。馬車通りの角には、時の鐘の小さなレプリカが建っている。ドクトルが腰をかがめて説明を一所懸命読んでいる。ここは撞木橋跡である。

     ここに架かっていた撞木橋は万治二年(一六五九)当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋一丁目より、同緑四丁目の大横川に架けられました。
     なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられましたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。

     幕府公認の時の鐘は十ヵ所にあったようだ。本石町三丁目、本所二ツ目、上野、芝切通、浅草寺、目白下新長谷寺、赤坂田町成満寺、市谷東円寺、四谷天竜寺、下大崎村寿昌寺で、ここは本所二ツ目である。「本石町は行きましたね。」「伝馬町の牢屋敷(十思公園)のところだよ。」本石町の鐘を聞いてから、ここで撞いたと説明されている。不定時法の時代に、塩梅よく鐘を付くのは難しい。
     この地域は関東大震災と東京空襲によってほぼ壊滅したから歴史的な建造物は期待できない。しかし大通りの拡幅はあっても、南北に走る狭い路地の構造は江戸以来それほど変わっていないだろう。ところで「馬車通り」の由来はなんだろう。

     菊川町には乗合馬車の会社もありました。墨田区で著名な小島惟孝さんの「墨田の町々」によりますと、明治二十二年の五月の中外商業新聞(現在の日本経済新聞)によると、「本所区菊川町二丁目の東京乗合馬車会社は、昨年五月十一日其筋より設立の許可を得・・・・・馬車も江木社長が英国にて購入し来りたる分三十両丈到着したるを以て、既に此の程より仮営業を始めしが・・・・」とみえ、菊川から二之橋を渡り、左折して馬車道を両国橋にでて、九段まで通じていた。市電が開通する三十五・六年まで繁盛した。今でも二之橋から北へ二本目の通りを「馬車通り」という愛称で呼んでいる。とあります。(「すみだあれこれ」http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/g-54.html)

     次の緑四丁目南の角を右に曲がると、ローソンの前に「長谷川平蔵旧宅」の高札が立てられている。墨田区緑四丁目十二番七。「鬼平が、本所の銕と呼ばれた放蕩無頼時代に住んでいました。」切絵図に見るかつての地名は本所入江町である。
     平蔵の父宣雄は明和二年(一七六五)に御先手弓頭となり、明和八年(一七七一)には火付盗賊改加役に就任した。そして明和九(一七七二)年、目黒行人坂火事の下手人真秀を捕えた功績で京都西町奉行に登用されるのだが、それまでここに家族で住んでいた。平蔵が二十八歳までの時代だ。菊川の屋敷は、平蔵が火付盗賊改役になってからの役宅である。今日は『鬼平犯科帳』に関わる場所をいくつか回ることになっている。
     すぐ北にあるのが五柱稲荷だ。鳥居は朱塗りだが、稲荷鳥居の形式ではなく普通の明神鳥居になっている。稲荷は享保十三年(一七二八)、植村土佐守正朝(大坂定番)によって勧請されたとされる。切絵図を見ると、小さな長谷川家の敷地の隣に植村帯刀の広い屋敷がある。同じ植村だから関係あるのだろう。社殿の脇に置かれた注連縄を巻いた古い石は、上に何かが載っていたような窪みがあるが、それが何か分からない。
     更に北に歩くと、江東橋保育園の植え込みに「勝海舟旧居跡・旗本岡野氏屋敷跡」の高札が建っている。墨田区緑四丁目三十五番六。四十一俵二人扶持で生涯無役の小普請組だった小吉は、天保二年(一八三一)頃から十年間程、この岡野孫一郎融政(千五百石)の屋敷に住んだ。
     この家に来て二か月目、九歳の麟太郎が狂犬に睾丸を噛まれた。医者には難しいと言われたが、小吉が刀を床に突き立てて無理矢理手術をさせた。

     始終おれがだゐて寝て、外の者は手を付させぬ。毎日々々あばれちらしたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびやうがかんじんだよ。(勝小吉『夢生独言』)

     この岡野は無役の癖に放蕩三昧の挙句の借金で苦しんでおり、どうやら町の顔役である小吉の力を借りる積りだったようだ。その目論見通り、小吉は岡野の借金返済の肩代わりをしてやり、そのせいで自分が苦しむことになってしまう。

    地主の当主が道楽者で、或とき揚代が十七両たまつて、吉原の茶屋が願うといいおつてこまつたが、不断だから誰も世話をしない故、おれに頼んだ。おれは昨今のことだから、しらず、金を工面して済してやつたが、其後も五両に壱分の利の金を七十両かりて、女郎を受たが、皆済目録とかを代りにやつたとて、用人や知行の者がこまつている故に、またおれに頼んだから、諸方の道具屋より来ていた大小やら道具やらいろいろ魂胆をして、取りかへしてやつたが、いちゑん夫を返さぬから、おれがこまつて、諸方へだんだんと返したが、夫から万事 金のゆふづうがわるくなつてこまつた。それにつき合がはるから、大迷惑をした。(勝小吉・同書)

     最初は揚屋の十七両だと思ったが、その後数百両の借金が発覚した。これを返済しなければ岡野家断絶の危機になったのである。それを小吉が背負った訳だ。結局、孫一郎の余りの不行跡に母が小吉に相談して隠居させることに決まり、家督は十四歳の息子に継がせるまで小吉が面倒を見た。しかし隠居後も孫一郎の放蕩は改まらず、その都度、小吉が尻を拭った。小吉は無頼の不良御家人ではあったが、面倒見がよかった。
     海抜マイナス〇・二メートルの標識がある。北斎通りに入って西に少し歩き、左に曲がると堅川中学校正門前には山岡鉄舟旧居の説明がある。墨田区亀沢四丁目十一番十五。ここで鉄舟が小野朝右衛門高福の四男として生まれた。山岡を名乗るのは槍術の師・山岡静山の妹英子(ふさこ)と結婚して婿養子になったからで、静山の実弟・高橋泥舟に望まれたのである。私は鉄舟の剣禅一如というやつがどうも分からない。

     三ツ目通りの一つ東側の路地を行くと、亀沢四丁目こども広場の隅に「相模の彦十の家」の立札が建っている。フィクションの人物ではあるが、墨田区は「鬼平情景」と題して鬼平所縁の地十六か所に高札を設置しているのだ。池波正太郎がいかに墨田区に貢献していることか。しかし、小説中にそんなに詳しく住所が書かれているのだろうか。家とは言っても九尺二間の長屋であろう。
     「俺は全部、二回も読んだよ。」文春文庫で全二十四巻、百三十五編にものぼるらしい。スナフキンも姫も熱心な読者で、講釈師も詳しい。私は殆ど読んでいない。たまに再放送のドラマを垣間見る程度だが、相模の彦十なら猫八が演じていたのは知っている。
     次の角から三ツ目通りに入る角に新懲組屋敷跡がある筈なのだが、案内は一切ない。そのすぐ先の車道側に松倉米吉旧居の案内がある。墨田区石原四丁目二十二番。おそらく角のマンションからこの辺一帯に屯所があったと思われる。「私、松倉米吉って知りませんでした。」私だって知らなかった。

     ここはアララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなるまで、三年間暮らした理髪店があった場所(本所区長岡町四十三番地)でした。
     米吉は明治二十八年(一八九五)、新潟県の糸魚川で生まれました。十二歳の時に母の再婚先(日毛家)に入るために上京しました。日毛家は現在の二葉小学校の周辺にあったようです。
     米吉は近くのメッキ工場で働き始めますが、十六歳の時に作った回覧誌「青年文壇」で短歌に出会います。大正二年(一九一三)、工場近くに住む歌人の小泉千樫を訪ねて正式に会員として活躍を始めます。米吉は結核等の病いや貧しさと戦いながら、異色ではありましたが鋭く研ぎ澄まされた労働歌を次々と紡ぎだしていきました。
     大正六年(一九一七)に母の死により松倉姓に復し、ここで暮らし始めましたが、大正八年(一九一九)二十四歳を目前にして没しました。
         平成十三年三月 墨田区教育委員会

     これだけでは何も分かったことにならない。「アララギ派の代表的歌人」というのは言い過ぎであろう。三十首ほど見つけたので、参考までにプリントしてきた。「もう、貧乏と工場働きと結核ばっかり。」「暗いね。」

    日もすがら金槌をうつそこ痛む頭を巻きて金槌を打つ
    工場に仕事とぼしも吾が打つ小槌の音は響きわたりぬ
    しんかんととぼしき仕事抱えつつ窓に飛びかふ淡雪を見る
    指落して泣いて行きし友のうしろかげ機械の音もただならぬかな
    わが握る槌の柄減りて光りけり職工をやめんといくたび思ひし
    ニツケルのにぶき光に長き夜を瞼おもりて手骨いたみきぬ
    半月に得たる金のこのとぼしさや語るすべなき母と吾かな
    独子のひとりの母よ菰に寝て今はかそかなる息もあらぬか
    痛しとも言はぬ母故今はさびし骨あらはなるむくろ拭ひつつ
    独子の吾はさびしも身を近く柩にそひて歩きて行かむ
    しげしげと医師にこの顔見すゑられつつわが貧しさを明かしけるかも
    薬さげて冬さり街をまだ馴れぬ親方先にまたもどりゆく
    ひし抱きいねむとおもひまちまけしその夜もむなしいまにさびしき
    久々に吾の寝床をのべにけりところどころにかびの生えたる
    灯をともすマツチたづねていやせかる口に血しほは満ちてせかるる
    血を喀きてのちのさびしさ外の面にはしとしととして雨の音すも
    かなしもよともに死なめと言ひてよる妹にかそかに白粉にほふ
    命かぎるやまひをもちてさびしもよ妹にかそかに添寝をしつつ
    帰しなば又遭ふことのやすくあらじ紅き夜空を見つつ時ふる
    かうかうと真夜を吹きぬく嵐の中血を喀くきざしに心は苦しむ
    救世軍の集りの唱歌も今宵寂しひそひそと振る秋雨の音

     己の境涯を歌ったもので、俳句の富田木歩に近いだろうか。時代が少し後になればプロレタリア派と呼ばれてもおかしくない。アララギといえば斎藤茂吉、万葉調というのが私の浅薄な知識で、その先入観からすると、とてもアララギ派とは思えない。同じ貧乏を歌っても、啄木にはもっとアッケラカンとした明るさがある。米吉の歌には救いがないから辛くなるばかりだ。
     石原三丁目で蔵前通りに入り、東に向かって大横川に架かる報恩寺橋を渡る。文政九年(一八二六)創業の蝶谷菓子店のガラスには、江戸切絵図を入れたポスターが張り出され、「東京五つ星の手みやげ」とある。「太平焼き」と称するどら焼きが名物らしい。墨田区太平一丁目十八番二十二。「買いたかったんですけど。」
     信号から二つ目の路地が報恩寺参道だ。石造の冠木門には「太田道灌公開基 江戸十大祖師」とある。陽運院、善行院、法泉院、千栄院の間を抜けた正面が報恩寺である。墨田区太平一丁目二十六番十六。本堂の後ろにスカイツリーが聳え立つ。
     「境内には第五十回で入っているので、今日は門前で説明を見るだけにします。」例の鬼平情景の高札が立っているのだ。尻毛の長右衛門というのが登場するので、境内には小説の一節を記した案内がある筈だ。ただ本来は太田道灌と道真の供養塔(五輪塔)を拝む寺である。
     姫は昼飯の時間が気になっているので、すぐに歩き出す。予約をしていないので十二時前には店に入りたいのだ。門前からすぐ西の塀際に「高杉銀平道場跡」の高札が立っている。
     紅葉橋の砲弾のような親柱から、親水公園に降りようとする角が「出村の桜屋敷」だ。「鬼平と左馬之助がおふさに惚れてたんだ。」「盗賊になるんだよね。」私は事情が呑み込めない。
     ここから下に降りて親水公園を歩く。水にはカモが浮いている。鳩に混じってカルガモの子供がよちよち歩く。花壇には忘れな草やメモフィア、ベチュニアが植えられている。犬を連れて散歩する連中も目に付く。
     右側にある大きな建物が「たばこと塩の博物館」だった。墨田区横川一丁目十六番三。今年四月二十五日に渋谷公園通りから移転してきたばかりだ。「渋谷の方は行ったことがありますよ。」ロダンは不思議な博物館を知っているものだ。入口前には村井兄弟商会芝工場の門柱が移設されている。タバコが専売制になるまで岩谷天狗と競合した会社である。
     中は広い。JTには金があり余っているのだろう。二階が塩、三階がタバコを中心にした展示室になっている。前回の行徳編を企画して以来、塩には関心があるが、若い連中は、JTがどうして塩と関係するのか分からないかも知れない。「専売公社でしたからね。」この用語も既に死語になっただろう。改めて確認してみるとJT(日本たばこ産業)が生まれたのが昭和六十年だから、あっという間に三十年も経っているのだ。
     塩の入口には岩塩の彫刻「聖キンガ像」のレプリカが立っている。ポーランドの王妃であるらしい。ヴィエリチカ岩塩坑の地下百メートルに礼拝堂が継売られているという。瀬戸内海の入浜のジオラマもある。ポーランド岩塩だという赤茶けた塊(一・四トン)が置かれていて、ドクトルが指を付けて舐めている。
     三階に入ると、街角の小さなタバコ屋の店先を再現したコーナーがある。かつてはタバコだけを商って、小さな家族が食えた時代もあった。煙草屋には必ず看板娘がいなければならないのに、私は爺さんか婆さんの煙草屋しか知らない。
     その脇にある自動販売機ではハイライトが百二十円になっている。「今でも買えるんじゃないか。」まさかね。私は八十円としか覚えていないが、マリオもスナフキンも七十円時代を知っているという。調べてみると、昭和三十五年(一九六〇)に発売された時が七十円、和田誠のデザインが採用されて世に出るきっかけになった。四十五年(一九七〇)三月に八十円になった。ちょうど高校の卒業式の翌日から大っぴらに買えるようになった時だから平仄があっている。その前は父の煙草をくすねたり、貰い煙草で済ましていたのだろう。百二十円になるのは五十年(一九七五)で、それ以降上がり続けて現在は四百二十円である。
     江戸のタバコ屋の店頭情景があり、キセルやパイプ各種が並ぶ。「パイプもやったよ。」スナフキンがそうなら、私だって試みてみた。しかしパイプは難しかった。すぐに火が消えてしまうのだ。マッカーサーのコーンパイプも展示されている。それにしても今のご時世で、タバコは文化だといくら主張しても、その地位が復権するわけではない。
     しかし、と私は繰り言を言わずにはいられない。この世にタバコがなかったら、キャメルを吸わないフィリップ・マーローはどうやってタフな世界を生きていっただろう。和田誠はハイライトのパッケージをデザインすることなく、従ってデザイナーとして注目されることもなかった。團伊玖磨も『パイプのけむり』を書かなかったから、エッセイストとしての名声を得ることもなかっただろう。
     一階の売店には可愛らしいお姉さんが待機している。「ここで買うと、他より旨いのかな?」おじさんの下らない冗談にもめげずに笑顔を返してくる。喫煙者は非国民か犯罪者のように扱われる時代に、こういう場所で働く若い女性の気持ちというのはどうなのだろうか。
     平川橋で上にでる。本所税務署の前には「小梅銭座跡」の説明がある。墨田区業平一丁目七番。元禄以降の金銀貨改鋳のあおりで、銅貨が高騰して銭が不足したことから、幕府は各地に銭座を儲けたのである。

    小梅銭座跡
     勝海舟編「吹塵録」に銭座請負人として、「小梅・野州屋・南部屋」の名が確認されます。しかし、その期間と鋳造額はわかっていません。また、銭座の位置は、業平橋から東方に税務署あたり一帯に及んでいたと伝えられています。(中略)
     銭座は、寛永十三年(一六三六)に芝と浅草橋場に設置されたのが最初です。その後、江東地域への鋳造所設置が多くなり、この小梅銭座は、元文元年(一七三六)寛永通宝の銅銭を鋳造したところで、銭貨の背面上部に「小」の文字が入ってます。

     「この辺が撮影ポイントですよ。」スカイツリーを撮影したければここに来ればよい。道路を渡ってジョナサンに入ったのは、姫の目論見通り十一時五十分だ。私はヒレカツ定食にした。スナフキンと桃太郎は珍しくビールを注文しようともせず、タンメンだけだ。姫は若鶏のみぞれ煮、クルリンは鮪のたたき丼にする。
     隣のテーブルでは講釈師、ヨッシー、ダンディが食前にアイスクリームを注文している。「今日はアイスの日なんだよ。」そんな記念日があるのか。

    東京アイスクリーム協会(日本アイスクリーム協会の前身)では、アイスクリームの一層の消費拡大を願って、東京オリンピック開催年の昭和三十九年(一九六四年)に、アイスクリームのシーズンインとなる連休明けの五月九日に記念事業を開催し、あわせて諸施設へのアイスクリームのプレゼントをしました。
    以降、毎年五月九日を「アイスクリームの日」として、この日を中心に各地区で各種イベントと施設へのアイスクリームのプレゼントを実施しています。
    http://www.glico.co.jp/info/kinenbi/0509.html

     「日本で初めて発売した日だよ。」しかしウィキペディアによれば、明治二年(一八六九)六月(新暦では七月)に町田房蔵が横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で製造・販売したのが日本初とあって、今日の日付とは関係がない。
     ヒレカツは柔らかすぎた。スナフキンはタンメンの汁が少ないと文句を言い、姫は鶏の皮を丁寧に剥がしている。食べ終わると、三つのテーブルでややこしい計算と小銭の集金が始まる。メニューには本体価しか示されていないので、税を乗せると小数点以下は九二になってしまう。切り捨てか切り上げか。「本体の設定がおかしいんだよ。」苦労していると店員が、「おひとりづつレジで承ります」と言ってくれるが既に集めてしまった。
     三つのテーブル分を全てまとめて計算しなおすと三円不足する。これは他のテーブルが切り上げているのに、私たちのテーブルだけ切り捨ててしまったためだ。この店は切り上げ方式を採用していると分かった。「さっきの五円玉だしてよ。」スナフキンから五円を徴収して二円を渡す。
     せっかく苦労して小銭の種別に分けて渡したのに、レジの店員はそれをいっしょくたに漏斗状の口に注ぎ込んだ。「アッ。」スナフキンと私が同時に声を出す。「済みません。折角分けて頂いたのに。」こういう文明の利器があるのを誰も知らない。「ピタリです。有難うございます。」そのために苦労したのだ。

     十二時四十五分に店を出て、浅草通りを東に向かう。この辺になるとさすがに人通りが多くなってくる。スカイツリー目当ての観光客であろう。通りの向こう側、正面にスカイツリーが立っているのだ。
     煎餅屋「みりん堂」の前で「おしなりくん煎餅」とか「東京スカイツーせんべい」を眺めながら店の横に回ると、「西尾隠岐守屋敷」の高札があった。これも例の「鬼平情景」である。西尾隠岐は遠州横須賀藩三万五千石で、殿様不在の下屋敷は賭場になったというのである。墨田区業平一丁目十三番七。みりん屋の主人が、土産を買ってくれることを期待するようにニヤニヤしながら私たちを眺めている。
     それにしても「おしなりくん」とはなんであろう。不審に思っていると、すぐそこにお休み処「おしなりくんの家」があった。団体を見つけて中から出てきたおかみさん(?)が「押上と業平ですよ」と笑って教えてくれる。商店街の名がおしなり商店街である。
     人物は在原業平をモチーフにした公家姿で、タワーをイメージした烏帽子をつけているのである。「ゆるキャラですよ。」吾妻橋近辺には「あづまちゃん」、言問には「向嶋言問姐さん」というものがいるらしい。日本全国どこに行ってもゆるキャラばかりだ。私はゆるキャラのない世界が好きだ。「是非あとで寄って下さい。」
     春慶寺に来たのは何年前のことだったろう。墨田区業平二丁目十四番九。寺自体はビルになっているが、その一階の入り口部分に「岸井左馬之助寄宿之寺 江守徹」の石柱を立てている。左馬之助を演じ続けた江守の寄進によるものだ。
     元は敷地三千坪にも及ぶ寺だったが、浅草通り貫通時に大半が買い上げられて三百坪に縮小した。更に昭和二十年三月十日の空襲で堂宇が消失した。また当時の住職がアル中で死んだと言われる。のちに柳島妙見堂から派遣された住職が小堂を建立、更に保険会社の六階建ビルを購入して本堂を移したのである。
     入口左の壁面を少し引っ込ませて鶴屋南北の墓域を作り、前面には歌舞伎役者の名入りの玉垣を並べてある。正面が南北の墓で、その左は「関係俳優之碑」だ。

    四世鶴屋南北の墓
     (前略)文化七年(一八一一)には四世鶴屋南北を襲名し「於染久松色読販」、「東海道四谷怪談」など庶民の生活を克明に、時には大胆に描いた傑作を次々と世に送り、人々から圧倒的な支持を得ました。文政十二年(一八二九)十一月二十七日、七十五歳で没しました。
     記録によると、墓石には正面に「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれ、側面には墓誌名の記載もありましたが、震災・戦災による被災のためかなり損傷しました。
     昭和五十八年(一九八三)、劇作家宇野信夫の染筆を以て新しい墓石が作られました。
     平成二十年(二〇〇八)三月  墨田区教育委員会

     「鶴屋南北之墓」の後ろ上に、ガラスケースに入れて置かれているのが本来の墓石だった。二つに割れ、良く判読できないが、それぞれに「華」「経」と彫られているようだ。その右には宇野信夫の歌碑もある。銀杏の根方に無残に転がっていた南北の墓を見て、なんとかしたいと考えたのが宇野信夫だった。

     なつかしや本所押上春慶寺 鶴屋南北おきつくところ  信夫

     こういう懇篤なひとがいたから南北の墓も日の目を見ることできた。ビルの左隣には本所押上普賢堂がある。押上の普賢と親しまれていたらしいのだが、白い象が蹲って後ろを振り向いているのが、なんだか不気味だ。「見返りの白象」というものである。
     道路を渡り、スカイツリーの真下に出ると人が大勢集まっている。「首が痛くなってしまう。」こんなところで見上げるものではない。北十軒川を右に見ながら東武橋を渡る。東武線の高架の下には、柳沼工務店と看板のある二階建てが収まっている。営業している気配はないが、この高架下にはこうした間口二間程の店がいくつも入っていたようだ。今は全てシャッターが下ろされている。
     左の高架に沿って行くと、源森橋北詰の角を曲がった所が荻野吟子旧居(荻野病院跡)だ。墨田区向島一丁目八番。荻野吟子が女医第一号で、熊谷に生まれたことは知っている。「熊谷の生家の跡にも行ったことがありますね。」ただそれ以後のことはほとんど知らない。
     医術開業後期試験に合格し、産婦人科・荻野医院開業したのが明治十八年(一八八五)、吟子三十五歳の時だった。十九年にキリスト教に入信し、二十三年(一八九〇)四十歳で、同志社神学生の志方之善(二十六歳)と結婚する。翌年、之善キリスト教の理想郷建設を目指して単身で北海道に渡るがうまくいかない。二十七年(一八九四)、吟子も職を辞して北海道に渡る。それからの苦労は並大抵ではなかっただろう。
     明治三十八年(一九〇五)、之善が病死したことを機に吟子は帰郷しここに開業したのである。五十八歳になっていた。吟子が亡くなったのは大正二年(一九一三)三月二十三日である。

     隅田公園に入った所に堀辰雄旧居の案内が立っている。墨田区向島一丁目七番六。「なるべく公園の中には入りたくないんです。」姫はイネ科花粉のアレルギー持ちで、少し前からマスクをつけている。「以前は、道路側にありましたよね。」水戸藩屋敷のことだからロダンは何度も来ているのだろう。
     今日は堀辰雄の旧居跡を二か所訪ねるのだが、どちらが先の住まいだったか姫も私も勘違いしていた。ウィキペディアの記事も混乱していて、ここが最初の家だと思っていたのである。この際いろいろ調べて次のように確定した。実は、ここの説明に詳しく書いてあるのだが、良く読んでいなかったのである。
     明治三十九年(一九〇六)辰雄が三歳の時、母西村志気が辰雄を連れて堀浜之助の家を出た。浜之助には正式な妻がいたのである。最初は向島の親戚に厄介になったが、四十一年(一九〇八)志気が向島中ノ郷三二に住む上條松吉と結婚した。その家が後で行く「すみだ福祉保健センター」の場所だ。
     次が明治四十三年(一九一一)の洪水で、新小梅町二ノ四(すぐ近くらしい)に移った後、新小梅町八番地の水戸屋敷裏(つまりここである)に引っ越した。

     ・・・・・・その私達の新しく引越していった家は、或る華族の大きな屋敷の裏になっていた。おなじ向島のうちだったが、こっちはずっと土地が高まっていたので、それほど水害の禍いも受けずにすんだらしかった。前の家ほど庭はなかったが、町内は品のいい、しもた家ばかりだったから、ずっと物静かだった。
     引越した当時は、私の家の裏手はまだ一面の芒原になっていて、大きな溝を隔てて、すぐその向うが華族のお屋敷になっていた。こちら側には低い生籬がめぐらされているだけだったので、自分より身丈の高い芒の中を掻き分けて、その溝の縁まで行くと、立木の多い、芝生や池などのある、美しいお屋敷のなかは殆ど手にとるように見えるのだった(堀辰雄『幼年時代』)

     華族のお屋敷とは水戸徳川家の屋敷のことである。辰雄はここから牛島尋常小学校、東京府立第三中学校、第一高等学校へ通ったのである。そして大正十二年(一九二三)五月、府立三中の広瀬校長の紹介で母と一緒に初めて室生犀星に会った。当時、犀星は田端に住んでいて、その隣家に広瀬校長が住んでいたと言う縁である。

     或る日お母さんに伴われて来た堀辰雄は、さつま絣に袴をはき一高の制帽をかむっていた。よい育ちの息子の顔付に無口の品格を持ったこの青年は、帰るまで何も質問しなかった。お母さんはふっくりとした余裕のある顔付で、余り話ができない人のようだった。(室生犀星『我が愛する詩人たちの肖像』)

     犀星自身は複雑な家庭環境と貧困の中に育ったにもかかわらず、堀や立原道造、津村信夫のような何不自由なく育った青年を愛した。軽井沢の犀星の別荘では、彼等は自分の家であるかのように振る舞った。これは不思議なことで、犀星の人柄には何か穏やかな人を優しくさせるものがあったのだろう。この年、大震災の直前の七月に室生犀星を軽井沢の別荘に訪ねた。
     母は、辰雄が必ず本を書く人間になると信じていて、近所の製本屋にも挨拶に行くような人であった。しかしその母は関東大震災で死んだ。三人で逃げたのだが途中ではぐれ、母だけが水死体で発見されたのである。
     翌十三年の四月、辰雄は焼け跡に家を再建して松吉とともに住んだ。休学のため第一高等学校三年を留年する。松吉が昭和十三年に死ぬまで、辰雄は実父だと信じていたらしい。

     牛嶋神社の鳥居から大通りに出て、言問橋の信号で水戸街道から西に分岐する見番通りに進む。名前の通り、この辺りは花柳街の中心だったのだろう。すみだ郷土文化資料館の角に、佐多稲子旧居の案内が立っている。墨田区向島二丁目三番五。かつては小梅町と言った。
     向島は、文人にとっては墨東の風雅を愛する景勝地だったが、一方では生活に追い詰められた人々が流れ込む場末の吹き溜まりでもあった。堀辰雄の家からそんなに離れていないが、「品のいい、しもた家ばかり」の町内とは随分違う。佐多稲子『私の東京地図』は戦後の焼け跡から始まる。

     この移りゆく風景の中を私が歩いている。まだ肉のつかぬ細い足で、東西も知らず歩きだしている。次第に勝手がわかってきたときは、もう辺りはおもしろくなくて、うつむきがちに惰性の足を引きずって通った。その惰性に堪えかねて、知らぬ道にも踏みいり、袋小路に迷いぬいたこともある。ある時は、人に連れ立たれて、歩調を揃えて気負って歩いた道。それらの東京の街は、あらかた焼け崩れた。焼けた東京の街に立って、私は私の地図を展げる。(佐多稲子『私の東京地図』)

     稲子は明治三十七年(一九〇四)、県立佐賀中学五年の田島正之と県立佐賀高女一年の高橋ユキの間に生まれた。堀辰雄や幸田文と同年である。両親は未婚だったので別女性の私生児として届けられ、両親の結婚後、五歳になって漸く田島家の戸籍に養女として入籍した。
     正之が長崎の三菱造船を退職すると、大正四年(一九一五)、早稲田の学生で小説家志望の叔父佐田秀実を頼って一家で上京し、本所向島小梅町の長屋に住んだ。祖母と弟も一緒だ。長屋は叔父が探してくれたのである。その場所がここになる。稲子は十一歳で、母は七歳の時に亡くなっていた。
     牛嶋小学校の五年生に転入したのだから堀辰雄と一緒だったかも知れない。しかし、この父親がどうしようもない男だった。失業してブラブラしていて新聞広告を見つけ、稲子に神田泉橋のキャラメル工場に行くように命令した。転校したばかりなのに学校をやめなければならない。竹屋の渡しを使えば楽なのに、一銭の渡し賃が勿体ないので吾妻橋を渡って通った。十三歳以上が条件の仕事に年齢を偽って採用されたのだが、大人を基準にした出来高払いの賃金では電車賃も出ない。

     もうとっぷりと日の暮れた寒い夕方、工場の帰りを雨に濡れてこの土手を走ったこともあった。小さな娘には、ただでさえ夜道の土手はこわかったのである。徳川さんの庭木の松のさし出た下を走った。(中略)
     ・・・・・もうこの辺りは震災で一変している。このおそろしい当日は私は日本橋の勤め先から歩いて来て、吾妻橋を渡り、枕橋では家財を車に積んで逃げる人々を押し分けて行った。土手の土が大きく罅割れていたのを見た。この時から、隅田川の土手は、昔日のおもかげを消したのである。
     私の住んでいた長屋はこの土手下の、かたかたとどぶ板を踏んでゆく路地奥にあったのだが、今はもう見当のつけようもない。向島小梅町と、美しい名の所だった。(佐多稲子『私の東京地図』)

     結局工場は二か月で辞めた。そして上野池之端の料亭「清凌亭」の下働きとなり、十三歳でメリヤス工場の内職を始める。父がやっと兵庫県相生町の播磨造船所に職を得たので、大正八年には一時引き取られるが、父が再婚したので、大正九年(一九二〇)十六歳で再び上京して今度は「清凌亭」の座敷女中となった。客には芥川龍之介や菊池寛、久米正雄がいた。
     十年には日本橋丸善の洋品部の店員となる。しかし関東大震災によって長屋が倒壊したので牛込納戸町に移り住む。その後は資産家の息子と結婚して子を産んだものの、家庭は地獄だった。自殺未遂、離婚の後に駒込のカフェに勤めて「驢馬」の同人と知り合った。
     「驢馬」には中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄がいた。中野と堀がいたのだから、芥川の影響が大きかった。後に堀辰雄を除いて他のメンバーはナップ(全日本無産者芸術連盟)に拠る。そして稲子は鶴次郎と一緒になって、窪川稲子の名で文章を発表するようになった。
     芥川が自殺する数日前、そのカフェで稲子に向い、「あなたはもう一度死にたいとは思いませんか」と尋ねた。稲子が自殺未遂者であると知っていたのである。

     この日から四日経った日の朝、芥川龍之介の自殺が新聞に載ったのである。私は脂くさいレストランの二階の女給部屋で、ひとりでむせび泣いた。(中略)
     死は敗北か否か、芸術と人生とは、と男たちがかたりつかれて眠る部屋はいつか明るくなり、ふと気づくと、廊下をへだてる障子に四角な陽かげがきらきらと光りながら明滅してゆく。ことことことこと汽車の車輪の音がそれに歩調を合わせるように聞こえている。今登った朝陽が汽車の窓に映って、丁度鏡を陽に向けたときのように、この部屋の障子に四角な光りをきざみながら照り返してゆくのだった。(佐多稲子『私の東京地図』)

     戦後に書かれた文章だということもあるだろう。絶叫にならない哀しみが浸み通ってくる。そしてどこかで目が醒めている。
     その後稲子は窪川ともに非合法共産党員として活動しながら、作家佐多稲子になるのである。試練が鍛えたのだと言えば言えるが、その試練は酷い。赤ん坊を背負っているとき小林多喜二に会った。

     「おやア、この子、俺に惚れたなア」
     ようやく人見知りを覚えた女の子が、覗かれた顔を母親の胸に伏せると、小林多喜二はそう言って笑った。そして数日後に身体中を無情な紫色に滲ませて殺されて帰った。久しぶりに、しかし変わった姿で自分の部屋に帰ってきた小林多喜二は、私たちのシャツを脱がす下から、胸も両股も全体紫色に血のにじんでしまった苦痛のあとを、私たちの目と電燈の下にさらした。

     資料館に入る。ちょうど東京大空襲の企画展示の真っ最中だった。東京大空襲の絵が、これでもかという程の量で飾ってある。プロの画家だけでなく、素人の稚拙な絵も多いが、これだけ大量の(資料によれば六十四点)絵や写真を見せられるのは辛い。
     同じく貰った資料「東京空襲による地域別の人的被害状況」(経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」昭和二十四年四月)によれば、東京空襲による死者合計九万五千人に対し、墨田区が二万七年四百三十六人、江東区が三万九千七百五十二人と、両区を合わせて過半数を超える。
     一般市民を標的にした無差別大量殺戮であることは、どんなに強調してもし過ぎることはない。「軍需工場があった訳でもないのに。」「日本の木造家屋を焼き尽くそうとしたんだよ。」「見せしめですね。」広島、長崎も同じだ。日本はアジアに対して酷いことをした。ドイツ軍もイギリスを空襲した、日本軍も大陸で空襲した、というのは別のことである。相殺できることではない。
     ドクトルはこの大量の絵を見て、気持ちが悪くなったらしい。少し中で休憩することにして、その間に私たちは外で休憩だ。講釈師が煎餅をくれる。ヨッシーが煎餅をくれる。クルリンが、姫が煎餅をくれる。「みんな、蜻蛉のためにお煎餅をもって来たみたいですね。」「サキイカもあるよ。全部食ってくれよ。」さっき昼飯を食べたばかりで、そんなに食えるものではない。

     水戸街道に出て一つ先の交差点を右に曲がれば、圓通寺の向かい辺りに饗庭篁村旧居の説明がある。墨田区向島三丁目十一番。「以前、饗庭篁村なんていまどき誰が読むもんかって言われましたよ」と姫が笑う。それは私の無学のせいであった。近代主義に毒されていたのである。篁村は安政二年(一八五五)下谷龍泉寺町に生まれ、大正十一年に死んだ。下谷龍泉寺町と言えば一葉『たけくらべ』の町である。青空文庫の「人物について」はこう書いている。

     読売新聞社に入社後、その才能を買われ、一八八六(明治十九)年「当世商人気質」を連載し作家デヴュー。江戸文学の流れを継承しつつ、西洋文芸の要素を早くから取り入れた。幸田露伴をして篁村の親友・坪内逍遥とともに「明治二十年前後の二文星」と呼ばしめる。劇評家や江戸文学史研究家、翻訳家としても知られる。(大久保ゆう)

     篁村が新聞記者時代、自分の書いた記事を成島柳北に校閲してもらい、よくできたと朱筆で記されると、天にも昇る心地だったという。

     今の人々が篁村をどう見ていようと、そんなことはどうでもいい。少なくとも私は、篁村を今後も愛読しようと思っている。江戸という旧い世界に安住して、時代の流れの外に超然としていた篁村翁が、私にはただなつかしいのである。(森銑三『明治人物夜話』)

     実際にどんな文章だったか。自身が「篁村先生之伝」という伝記を書いているので、その一部を引いてみる。句読点が一切ないので少し補った。

     安政二年八月十五日下谷龍泉寺町に生る。当年とつて三十五歳。これ暦数上の俗勘定にして全く当人は左様な年にならず、確かに十五か或ひは十六の積りなり。(中略)
     ・・・・・・思へば昔し子供のうち神童と称せられたることもあり。ソコデ今は鈍と変はりしか、併し神にして一変鈍と化す以上は鈍また化して神とならずとも云へず。今や閑散無事の身となり金もまた満とあり。是れから大勉強に勉強せば、神妙不思議古今独歩の真の大学者とならんも知れず。又ならず仕舞かも知れず。其時には誰も我伝記を世に現はして呉れまじと、大屋氏が催しを幸ひとして自ら篁村先生の伝を作る。先生姓は饗庭、提灯屋は間違へて郷食庭の三文字とし、友達も早書に饗応と書き、やいばさんと呼ばれ、きやうばさんと称さるる。何でも通用すればよい。面向不背。ハイハイと返事をするを以て温厚の君子たるを知るべし。同業の諸賢これを称して聖人と云ふや。名は與三郎、号は篁村。是れ竹村何某方に里にやられ乳を呑みたる母の恩を忘れぬ為なり。・・・・・
     ・・・・・・常に俳句を好めど古池や流にあらず。壇林風を吹きかへす中興の開山なりとの評判あるやにほのかに聞く。或は然るべし。
      陽炎や退けば我が居たあたりにも
     チョイと見本がこんなもの。僅々文字のうちに景あり情あり寓意あり、俳句も斯くゆくと刈髪床のものでないテと大いに賞賛する者は誰ぞと思ひしに、矢張是れも自らなり。

     ここから真っ直ぐ西に行き、適当なところを左に曲がると「すみだ福祉保健センター」の敷地に「堀辰雄旧居跡」の説明がある。墨田区向島三丁目三十六番七。かつての住所表示は向島中ノ郷三十二である。

    ・・・・・・私の意識上の人生は、突然私の父があらわれて、そんな佗住いをしていた母や私を迎えることになった、曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家のなかでようやく始っている。そこに私達は五年ばかり住まっていたけれど、その家のことも、ほんの切れ切れにしか、いまの私には思い出せない。(堀辰雄『幼年時代』)

     義父の松吉は辰雄を可愛がったので、辰雄は何不自由のない幼年時代を送った。ここのベンチで休憩だ。パンダの遊具があれば必ず乗るのが講釈師だ。先に書いたように、辰雄の記憶にある最初の家がここであった。ロダンが甘いものを配ってくれる。「蜻蛉には申し訳ないけど、今日はこれしかないんですよ。」そんなに気にしてくれなくても良い。
     小梅通りに入ると「ダットサン販売所」と言う看板が珍しい。「販賈所なんて読めないでしょうね。」本所高校の角に沿って桜橋通りに入ると、本所高校の前に森鷗外旧居の案内が立っている。墨田区向島三丁目三十七番二十五。十歳のときに父と上京し、いったんは向島須崎村の亀井邸へ入り、その後、向島小梅村に転居した。小梅村二百三十七番の三百坪の家がここである。依田学海に漢学の手ほどきを受けたのも、ここに住んだ時代だろうか。
     コミュニテイバスの停留所名が「森鷗外住居跡」である。「これ、おもしろい。」「時刻表があるけど、一時間に一本しかないぞ。」コミュニティバスだから仕方がない。
     本所高校の生徒が集団で走っている。「四分だよ」と女子高生の声がかかる。学校の周りを一周すると四分なのだろうか。その声を聞きながら男の子たちは走り続ける。向かいの墨田中学の前には牛嶋学校跡地の説明板がある。堀辰雄や佐多稲子が通った学校がここだった。ちょうどコミュニティバスの「すみまるくん」がやって来た。

     そのまま真っ直ぐ歩き水戸街道を渡る。見番通りに曲がると大きな料亭が建っていた。その先が弘福寺だ。墨田区向島五丁目三番二。私はグフクジと読むのか思っていたが、普通にコウフクジと読む。本堂は屋根瓦の修復の最中らしい。その山門前に、「淡島寒月旧居」の案内が置かれている。父の椿岳、そして後に寒月が境内の小さな堂に住んでいた。

    ・・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍(弘福寺)が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び、玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩得涅槃」の両聯も、訪客に異様な眼を瞠らした小さな板碑や五輪の塔が苔蒸してる小さな笹やぶも、小庭を前にした椿岳旧棲の四畳半の画房も皆焦土となってしまった。この画房は椿岳の亡い後は寒月が禅を談じ俳諧に遊び泥画を描き人形を捻る工房となっていた。(内田魯庵『思い出す人々』)

     椿岳は川越の豪農の三男に生まれ、浅草の軽焼き屋「淡島屋」の養子に入った。淡島屋は大地主でもあって生活に不自由はなく、本人は商売よりも趣味人としての生き方を貫いた。画業は谷文晁の弟子である大西椿年に学んだ。こういえば正統的な絵師かと思うが、洋画の技法も学んだ挙句到達したのが泥絵であった。

    椿岳の泥画というは絵馬や一文人形を彩色するに用ゆる下等絵具の紅殻、黄土、丹、群青、胡粉、緑青等に少量の墨を交ぜて描いた絵である。そればかりでなく泥面子や古煉瓦の破片を砕いて溶かして絵具とし、枯木の枝を折って筆とした事もあった。(内田同書)

     一種の奇人で、明治四五年頃に横浜に初めてピアノが輸入された時、早速買い入れて、神田今川橋の貸席で弾けもしないのに演奏会を開いた。このピアノは後に吉原の彦太楼尾張屋が買い取ったという。でたらめに琵琶を弾いて平家をうなり、琵琶の名人という評判がたったこともある。生涯に妾を百六十人変えたとも言われる。
     なぜか家を出て伝法院の山門に住んだが、後にこの弘福寺の堂守となって生涯を趣味三昧で暮らした。
     息子の寒月もそれに劣らぬ奇人である。安政六年(一八五九)に生まれ、大正十五年(一九二六)に死んだから饗庭篁村の一生とほぼ重なる。生涯、事業と言うべきものに手を染めず、多様な趣味に生きた。百年以上も早くサブカルチャーに親しみ、今でいえば私設の玩具博物館長ともなるべき人である。幕府瓦解後、誰ひとり見るものもなかった西鶴を発見し、露伴や紅葉に教えたことから、明治期の西鶴再評価につながる鑑識眼があった。

     私は江戸の追憶者として見られているが、私は江戸の改革を経て来た時代に生きて来た者である。新しくなって行きつつあった日本文明の中で生きて来た者であって、西欧の文明に対して、打ち克ち難い憧憬をもっていた者である。私は実に、漢文よりはさきに横文字を習った。実はごく若い頃私はあちらの文明に憧れたあまり、アメリカへ帰化したいと願っていたことがある。アメリカへ行くと、日本のことを皆から聞かれるだろうと思ったものだ。そこで、実は日本のことを研究し出したのである。私の日本文学の研究の動機の一つは、まったくそこにあったのである。(淡島寒月『明治十年前後』)

     まさに明治人である。西欧へのあこがれは福沢諭吉の圧倒的な影響である。その寒月が幸田露伴たちに巡り合ったのは図書館だった。

     しかし予が氏を知った自分は、氏は既に日本趣味の人であった。今でこそ『燕石十種』は刊本にもあるが、その頃は写本のみであったし、大冊六十冊の完本は非常に珍稀であった。それで氏はそれを図書館で毎日毎日気長に楽しみ楽しみ影写していられた。毎日借覧する本が定まっているので、図書館の出納係からいえば、まことに手数のかからぬ好い閲覧人で、いつとなく燕石十種先生という綽名をつけられたが、予の如き卒読乱読者流の出納係に手数をかけること夥しい厄介者とは違って、館の人とも自然に懇にしあっていられた。(幸田露伴『淡島寒月氏』)

     こんな風に本を読みたいとは、しかし見果てぬ夢だ。私たちは自分で書写するなんて手間暇のかかることはできなくなってしまった。この後寒月は、当時は紙屑同様の値段で売られていた江戸の古本を大量に買い込んで西鶴を発見する。やがてその範囲は人類学や宗教に及ぶ。晩年に至ると、生方敏郎や会津八一が私淑して頻繁に寒月の家を訪れる。山口昌男は寒月の一面を「先駆けた人類学的知の巨人」とまで言っている。言い過ぎではあるまいか。

    寒月はその気になりさえすれば、柳田出現以前に軽く柳田になり得る実力とスタイルの所有者であったと言えよう。しかし、お上に仕える気のさらさらなかった寒月は、その道を歩まなかった。それに生き方としては、むしろ南方熊楠に近い方を選んだのである。(山口昌男「明治大正の知的バサラ」)

     長命寺の裏に回れば、長命寺の桜餅(山本屋)の脇に「正岡子規仮寓居」の案内が立っている。明治二十一年(一八八八)夏、第一高等中学の生徒だった正岡升が三か月程滞在した家である。案内版には「大学予備門の学生」とある。確かに明治十七年九月に入学したのは予備門だが、十九年には第一高等中学と改称している。「次の句を詠んでいる」と書かれているのは「句」ではなく「歌」である。

     花の香を若葉にこめてかぐはしき桜の餅家つとにせよ

     「桜餅を食おうぜ。」講釈師が真っ先に入り、結局七人が店に入った。「十分くらい待っててください。」残ったのはマリオ、ロダン、桃太郎、私の四人である。「このあいだ、言問団子を食ったから、今日はいいや」と桃太郎が珍しく敬遠した。マリオだって甘いものが好きな人だが、今日は何か支障があるのだろうか。「有名なんですか?」ロダンは知らなかったのだろうか。「江戸以来だよ。」店のホームページにはこんな風に書いてある。

    桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(一七一七年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。
    その頃より桜の名所でありました隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い桜もちが大いに喜ばれました。 http://www.sakura-mochi.com/

     入口の右側に三浦乾也旧居・窯跡の案内もあるが、これは知らない。一応『美術人名辞典』を見て置く。

     幕末の陶工。幼名は藤太郎、初号は乾六、別号を天禄堂、通称は陶蔵。蒔絵・造船などを手掛けるなど多技多才であり、ガラス・煉瓦の製造も行なっている。製陶は尾形乾山の作風を慕い、西村藐庵から乾山伝書を授かり乾山陶の模作も残している。また根付や簪の珠を焼き、乾也珠の名で流行した。明治二十二年(一八八九)歿、六十九才。

     皆を待つ間に長命寺の裏から中に入って、成島柳北の例の長い顔を彫った大きな碑を見る。この顔の長さは柔道家の篠原信一が匹敵するかもしれない。芭蕉句碑もある。三世自在庵祗徳が安政五年(一八五八)に建立した句碑である。

     いざさらば雪見にころぶ所まで  芭蕉

     その右に、木の実ナナの小さな碑があるのはどうしてだろう。こういうことは講釈師が詳しいはずだからあとで教えてもらおう。そう思っていると、講釈師が店から出てきた。

     風のように踊り
     花のように恋し
     水のように流れる  木の実ナナ

     「実家がこの近く、鳩の町なんだよ。親父さんがジャズのトランペット吹きでさ。一時うつ病になって、この寺で祈願したら回復したんだ。」講釈師はこういう情報をどこで仕入れてくるのだろう。

     踊り子や恋し流れよ春の寺  蜻蛉

     「アッ、サクランボだ。」桜の木に実が生っている。大通りに出たところでジャスミンが高く香ってきた。

     茉莉花の香に驚くや向島   蜻蛉

     体育館前を右に曲がり、依田学海旧居の案内を頼りに行った筈なのに、ライオンズマンション言問の東南の角に「榎本武揚旧居」の説明があった。「偶然見つけたんですよ。」墨田区向島五丁目十二番。榎本は明治三十八年から明治四十一年に没するまで、ここに住んだ。毎日馬に乗って墨堤を散歩したので、梅若公園には銅像が建っている。
     その斜向かいが言問小学校の裏門だった。古めかしい木の表札が掲げられている。墨田区向島五丁目四十番十四。

    言問小学校は、昭和十二年一月にこの近隣にある牛島小学校の児童六四七名、小梅小学校の児童三九四名を収容し開校したもので、それに伴い十年十二月より鉄筋コンクリート製校舎の建設を開始、開校の一月前の昭和十一年十二月に竣工したのが現在の校舎だ。
    また現在の墨田区(戦前は本所区・向島区)では、大正十二年の関東大震災後の復興事業を皮切りに終戦まで多くの鉄筋コンクリート製小学校舎が建てられたが、今現存しているのはこの言問小学校のみだそうである。つまり墨田区最古の小学校舎ということになる訳である。(http://fkaidofudo.exblog.jp/13824970/)

     その言問小学校のフェンス沿いに依田学海旧居の説明があった。当時の住所では須崎村になる。「どんな人だい?」「漢学者だよ。」天保四年(一八三四)に生まれ、 明治四十二年(一九〇九)に亡くなった。九代目市川團十郎の演劇改良運動にも参加し、理論的な指導を行っている。

     依田学海は漢学者であった。まず第一にそのことを、はっきりいっておきたいと思う。しかし漢学者とはいうものの、翁は学堂に経書を講じもしなかったし、塾を開いて生徒に授けたのでもなかった。一時官に就いたけれども、暫くにして罷めて野に下り、売文をもって生活した、もともと藤森天山の門下で、同門の川田甕江と共に、文章をもって称せられ、漢文においては明治年間有数の作家の一人に数えられる。学海翁は漢学者だといったが、あるいは漢文家であったといい換えた方が、一層適切かも知れない。(中略)
     明治の三十年台のことかと思うが、或人が依田学海に、文部省では、今後は漢学教育などには力を入れない方針を執るようです。漢文などを読む人は、今になくなってしまいましょう、といったら、学海は笑って、少しも構いません。世間で漢籍を読もうと読むまいと、私だけは読みますから、といったそうである。(森銑三『明治人物夜話』)

     そして同時にここには成島柳北が住んだ家もあった。維新後、全ての官を辞してここに隠棲し、その後は文人、朝野新聞社長として活躍した。柳北についてはこれまで何度か触れているので良いだろう。

     「墨水別壁」とは、彼の向島の別荘である。学海は明治七年四月向島須崎村の尼寺青雲軒に寓し、翌八年四月にその地に自邸を建てた。自筆の「学海先生一代記」には、その絵に添えて「柳蔭精盧を築きしは明治八年四月の比なり」と記している。それは、同地字大下百六十二・百六十三・百六十五の三つの番地にまたがっている(明治二六年六月一二日条)。日記中に記すところによれば吾妻橋の近くで、すぐ近所に成島柳北旧邸、また隣には榎本武揚邸があった。
     その後明治十四年に至って四谷塩町に、さらに十六年六月神田小川町に転宅したが、この向島の邸宅は処分せずもとのままに残して、別荘として用いたものらしい。三つの番地にまたがるといえばその地域の広さも想像されるが、その番地毎にそれぞれ宅地と庭と園とに区分されている。(今井源衛『依田学海の漢文体日記』)

     二十三歳の露伴が『露団々』を書いて出版する時、淡島寒月と共に学海を訪れ、序文を頼んだ。これを魯庵が紹介している。

     ある時、その頃金港堂の『都の花』の主筆をしていた山田美妙に会うと、開口一番「エライ人が出ましたよ!」と破顔した。
     ドウいう人かと訊きくと、それより数日前、突然依田学海翁を尋ねて来た書生があって、小説を作ったから序文を書いてくれといった。学海翁は硬軟兼備のその頃での大宗師であったから、門に伺候して著書の序文を請うものが引きも切らず、一々応接する遑あらざる面倒臭さに、ワシが序文を書いたからッて君の作は光りゃアしない、君の作が傑作ならワシの序文なぞはなくとも光ると、味も素気そっけもなく突跳つっぱねた。
     すると件の書生は、先生の序文で光彩を添えようというのじゃない、我輩の作は面白いから先生も小説が好きなら読んで見て、面白いと思ったら序文をお書きなさい、ツマラナイと思ったら竈の下へ燻べて下さいと、言終ると共に原稿一綴を投出してサッサと帰ってしまった。(中略)
     朝飯もソコソコに俥を飛ばして紹介者の淡嶋寒月を訪い、近来破天荒の大傑作であると口を極めて激賞して、この恐ろしい作者は如何なる人物かと訊いて、初めて幸田露伴というマダ青年の秀才の初めての試みであると解った。(内田魯庵「露伴の出世咄」)

     何で読んだのだったか記憶が薄れているが、幸田文が露伴の使いで学海の家を訪ねたことがある。帰宅後、若い美人の女中さんが応接してくれたと報告すると、それは学海先生のお妾さんだと露伴が笑った。
     私はうっかりして、柳北の案内板を見落としてしまった、「隣にありましたよ、銀色の案内板です。」皆は吉川英治旧居に向かって歩き始めたが、私だけもう一度戻る。確かにあった。なぜ気が付かなかったのだろう。確認できたので小学校の角を曲がると、皆は少し先で待っていてくれた。
     「これが珍しいよ。」酒屋の店の脇に「自動販売機・コーラ・ビール」の看板が設置されているのだ。「自販機が珍しかったんだよ。自慢したんじゃないか。」
     いつの間にか鳩の街商店街に入っていた。幅二メートルもなく、頭上にはタテに紅白に塗り分けた提灯がいくつもぶら下がっている。吉行淳之介の『原色の街』だ。と言っても高校時代に読んだだけだから中身はすっかり忘れてしまった。後ろで「吉行だよ」と言っている講釈師の声が聞こえた。
     東京大空襲で焼け出された玉ノ井の業者がここに移ってきたのが始まりで、戦後は赤線地帯となった。そして狭い商店街は今でも鳩の街を名乗って生きている。
     その中ほどの路地を入ったところに寺島保育園がある。現在の住所表示は墨田区東向島一丁目二十三番十だが、当時は南葛飾郡寺島村一八二〇番地だった。大正六年(一九一七)、吉川英治二十五歳の時に赤沢やす(昭和十二年離婚)とここで同棲を始めた。やすの実家である。勿論その当時に鳩の町はなく、田や畑、雑木林の広がる地域だっただろう。
     当時の英治は井上剣花坊に師事して雉子郎の名で川柳を作ってはいたが、世間的には全く無名である。いくつか見つけたので引用しておこう。

     貧しさも余りの果ては笑ひ合ひ    吉川雉子郎
     生きぬれば蝶にも汗はありぬべし
     きりぎりす半分泣いて風が吹き
     うれしさに憂きに鬼灯吹く女
     風が出て来たよと下駄をはいた時
     あめつちの中に我あり一人あり

     不遇の時代だ。後に「国民作家」と呼ばれるようになるとは、本人も全く思っていなかっただろう。「カンカン虫だよ。」「牡蠣殻を削り落とすんだ。」みんないろいろ知っている。英治が横浜ドックの船の錆落としをしていたのは明治四十三年頃で、作業中に転落して重傷を負ったのをきっかけに上京したのである。
     吉川英治(明治二十五年生まれ)より八歳歳年長の長谷川伸(明治十七年生まれ)も、「新コ」と呼ばれた時代にそこで使い走りをしていた。二人とも小学校も満足に卒業せず、職を転々としながら必死で生きていた。そう言えば荒畑寒村(明治二十年生まれ)もまた横浜ドッグで働いていて幸徳秋水・内村鑑三の日露非戦論を知ったのである。
     大正九年(一九二〇)転機を求めて英治はやすと共に大連に渡るが、母の危篤で翌年帰国する。その母は十年に死んだ。大正十一年(一九二二)「東京毎夕新聞社」に入社し、『親鸞記』を連載したのが、作家的な出発だった。漸く生活の目途がついたと判断したのだろう。翌十二年にやすと正式に結婚する。
     それにしても今日出会った多くは、満足に学校教育も受けられずに、しかし独学で学んで文章を残した人たちである。それに比べて私たちの知力はいかに貧弱であることか。もう少し北には露伴の蝸牛庵もあるが今日は行かない。
     大人三人が立ち話をしていると路地を通り抜けることができない。花屋がその路地に花を広げて仕事をしている。
     再び商店街を行く。空き家になってテナントを募集している空間は防空壕のような雰囲気で、子供たちが四五人遊んでいる。「最近、こういう子供たちも見かけませんね。」場所は違って本家の玉の井だが、『寺島町奇譚』のキヨシが遊んでいたのは、こんな街なのだろう。

     春曇り子等さざめくや鳩の街   蜻蛉

     四時からは車の進入が禁止されている。「まだ四時にならないだろう?」まだ三時過ぎだ。「あれだよ。」商店街入口の時計が四時五分を示している。
     水戸街道を越えればすぐに曳舟駅西口に着く。一万二千歩。八キロとしておこう。雨も降らず歩き通せたのは姫の人徳によるものだ。

       マリオは押上が便利だからと歩いて行った。五人は越谷方面に向かい、若者五人は浅草方面に向かう。浅草で適当に飲み、桃太郎は箕輪の「金太郎」に向って去った。姫は伊勢崎線に乗った。ロダンはかなり酔っているからそのまま帰る。蜻蛉とスナフキンは上野で降りてもう一軒寄る。

    蜻蛉