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    第五十九回 羽田編  平成二十七年七月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.07.24

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     旧暦五月二十六日。小暑の初候「温風至」。七月に入って一昨日まで太陽をほとんど見ない日が続いた。沖縄や九州には台風九号が大量の雨を降らせているが、関東にはその影響はなく、今日は久し振りに晴れて三十度を超える予報になっている。大学構内ではサルスベリの花が開いてきた。これで梅雨も明けてくれると気分はすっきりするが、その代わり暑さに堪える覚悟はまだできていない。暑くなると寝不足になるのである。
     今回のコースを決めるためにロダンは三回も下見をしたと言う。羽田と言えば飛行場しか知らないのは無学だった。人はとっくに知っているだろうが、羽田は多摩川の河口に位置し、漁師町の面影を色濃く残す町である。
     羽田の地名由来にはいくつかの説がある。まず海老取川を挟んで東西に島があり、鳥が羽を広げた形に見えたからだという説がある。他に多摩川が運んできて堆積した土地だから埴田(はにた)という説、新しく開墾した土地だから墾田(はりた)という説、海鳥が多い土地で羽根が落ちていたという説などもあって、確定はしていないようだ。

     集合は京急大鳥居駅だ。京急にはこれまで一度だけ、生麦から神奈川新町まで乗ったことがあるが、それ以外に利用した記憶がない。池袋から山手線内回りで品川に着き、京急の改札に入ると目の前に快特・三崎口行が待っていてすぐに発車する。車内は混んでいて座れない。七分で蒲田に着き、ホームに降りたところでヤマチャンと出会った。「分かりにくいんだよね。」
     同じホームに上りと下りの両方向が発着するのでややこしい。それに成田行きなんて、どういうコースを通るのか想像もできない電車も走るのである。乗換案内で調べてきたから空港線は四番線だとは確認している。「俺はそこまで調べなかったよ。」そこにヨッシー、ドクトル、ハコサン、スナフキン、マリーも現れた。「こっちだよ」と階段を一つ下に降りた。ホームは二層になっていて、更にその下に改札があるという、三階建ての駅舎なのだ。「高架になったから、箱根駅伝の踏切もなくなったんだ。」
     「次は椛谷かな?」ハコサンは今停まった駅に気付かなかったらしい。「今過ぎたところ。大鳥居は次です。」このコースで片道九百八十円である。
     大鳥居駅に集合したのは十六人だった。女性陣は椿姫とそのお友達のスーチャン、小町、あんみつ姫、ハイジ、マリー。男性はロダン、講釈師、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、ハコサン、マリオ、スナフキン、ヤマチャン、蜻蛉である。「昨日、一昨日と飲みすぎなんだよ。」スナフキンはいつも同じことを言う。
     「今日は暑くなる筈だから、椿姫は来ないかと思ってた。」「ダンディが言うには、蜻蛉はワタシの天敵なんですって」と椿姫が笑う。「そんなことないよ、仲良しじゃないの。」スーチャンが笑っている。スーチャンは「生まれは深川よ」という気風の良い姐さんである。椿姫の天敵は宗匠の方ではあるまいか。
     最後に到着したハイジも久し振りだ。「京急蒲田で降りたホームでずっと待ってたのよ。」既に書いたように複雑なホームだからね。今日は彼女が可憐な句を作ってくれるだろうか。あんみつ姫のサングラスは香港マフィアの情婦のようだ。「それじゃ出発しましょう。」

     東から環八と重複して走ってきた国道一三一号が、ここで北にほぼ直角に分かれていく。私たちはその角から南に歩くことになる。「これは夜霧の第二国道かしら。」講釈師が口にしそうなことだが、スーチャンは歌謡曲のファンであった。残念ながら第二京浜国道はもっと西である。この道は地図には産業道路と書かれていて、正面に見えるのは大師橋だ。つまり多摩川を渡ると対岸に川崎大師があるということだが、私は一瞬、レインボウブリッジかしらなんて思ってしまった。この辺の地理がよく呑み込めていないのだ。
     自性院(真言宗智山派)の門前には「当院に用無き者の立ち入り・通り抜け防止」を記した立て看板が立てられているので入らない。大田区本羽田三丁目九番十。本来寺院は万一の際の避難所でもあり誰でも入って良い筈だが、これもセキュリティを考えなければいけない時代のせいである。と書いていて、「なんでも時代のせいにしてりゃ、楽だわな」と笑った田辺茂一の言葉が浮かんでくる。
     後で知ったことが、自性院は平治元年(一一五九)の創建というから古い。「坂東八カ国の大福長者」と称された江戸重長かその父の重継が、江戸湾とそれにつながる舟運を支配していた頃だろう。境内には、昭和四年に移設された牛頭天王堂(文久元年の棟札あり)があり、その彫刻が素晴らしいようだ。隣の羽田神社は、この寺から明治以後に分離独立したものである。
     そして羽田神社に入る。大田区本羽田三丁目九番十二。神社の由緒によれば、「鎌倉時代、羽田浦の水軍の領主だった行方与次郎が牛頭天王を祀ったこと」に始まる。しかし、鎌倉時代というのは信じられない。これは自性院が平治元年の創建ということから来た伝説だろう。鎌倉時代には江戸氏、後にその支流の六郷氏や蒲田氏が支配した地域である。少し調べてみると、行方与次郎は後北条の家臣で、その存在が十六世紀には確認できる。
     「地名『六郷』の由来」(http://www.tamagawa-kisui.jp/ref/ref-1.html)によれば、江戸湾における北条氏の水軍は玉縄城主の管轄下におかれ、玉縄衆に属していた行方弾正与次郎が蒲田、六郷、羽田、大師河原一帯を領していたことが、「小田原衆所領役帳」(一五五九)に記されていると言う。ここは江戸湾の喉元であり、それを領有していたからには、行方氏は北条水軍の実質的な支配者であったということになるだろう。

    又按ずるに行方氏はもと上杉の家人にて、後に北条家に属し、久しく六郷の地頭なり。世系の詳かなることは傳はざれど、土地に付て尋るに、享禄の頃行方半右衛門と称し、天文の末に弾正と称す。これは父子か又は同人か、それも又知べからず。永禄のはじめ与次郎と称し同年甲斐の信玄此邊に乱入せしの時、八幡の社地えたてこもりし頃は弾正明連といひしよしものに見えたり。此もとの弾正が子なるべし。永禄の末に左馬允と称せしは同人か或は明連が子歟。(『新編武蔵風土記稿』円頓寺の項より)

     円頓寺は蒲田二丁目にある日蓮宗の寺院で、文禄元年(一五九二)日藝上人が、蒲田の地頭であった兄行方直清とその一族の菩提を弔うために開基したと伝えられる。
     神社は旧羽田村と羽田猟師町の鎮守である。八雲神社の碑が建っているのは、明治の神仏分離で八雲神社を名乗っていた名残だ。明治四十年に今の名前に改称する。さっきも書いたように、元々は自性院の中に祀られていた牛頭天王社である。神仏分離で牛頭天王を祀るわけにはいかなくなったので、現在は須佐之男と稲田姫を祭神とする。境内社として鈴納稲荷神社、増田稲荷神社、日枝神社、羽田稲荷神社を祀る。
     航空安全、えんむすび、病気平癒の幟が、緩やかな風に揺れている。神楽殿の横には神輿庫がある。正面のガラスが光ってよく見えないが、金の装飾がこれでもかと飾られているから、絢爛豪華なものらしい。
     拝殿の左には羽田富士がある。崩落の危険があるから上るなと注意書きがしてあるのが残念だ。明治初年の築造で、大田区の文化財に指定されている。講の碑は木花講社と木花元講とある。勿論コノハナサクヤビメに由来するだろう。ただ、平野栄次『富士と民俗――富士塚をめぐって』によれば、羽田富士は天保五年(一八三四)木花元講によって築造されているから、それならば明治初年に自性院から分離した際に、移築されたのではないか。
     休憩所でタバコを吸っていると椿姫が笑いながら近づいてきた。「ワタシ、タバコやめたんですよ。もう一ヶ月半になるわ。」また仲間が一人減っていく。ドクターストップがかかったのだと言う。「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。」なんて言葉が急に浮かんでくる。山本宣治の言葉は「背後には大衆が支持しているから」と続くのだが、私のタバコには勿論大衆の支持はない。
     山本宣治は昭和四年(一九二九)三月二十五日、衆議院で治安維持法改悪法案が与党によって強行採決されたその夜、「七生義団」の黒田保久二によって暗殺された。山宣、三十九歳であった。安倍晋三は、千万人と雖も吾往かんと言う言葉が好きらしいが、その背後には誰がいるというのか。
     羽田神社の隣の正蔵院の門前には、羽田街道の道標が立っている。大田区本羽田三丁目十番八。「右三原 東海道」、「左七曲 要嶋」だ。江戸時代には海照山観藏院東照寺だったが、大正十一年に廃寺となって正蔵院に合併したらしい。要嶋(鈴木新田。現在は羽田空港の敷地)の弁天や稲荷へ参詣するためには、七曲りの道を辿らなければならなかったのである。三原は現在の大森本町から大森東にかけての辺りである。
     塀際の祠には庚申塔が三基並んでいる。右が貞享元年(一六八四)の合掌型青面金剛、真ん中が享保十年(一七二五)の剣人六手型、左は文字だけで殆ど判読できないが天和三年(一六八三)のものらしい。

     大師橋の袂からロダンは右の道に入る。「この赤煉瓦に注目してください。」道路の端に、高さ一メートルほどの煉瓦の壁が数メートルおきに断続的に連なっている。「これが多摩川の堤防でした。」この辺りは以前から水害の多発地域で、特に明治四十、四十三年の被害が大きく、堤防設置の要望が高まっていた。そのため国の直轄改修工事として、大正七年から昭和八年にかけて築かれた堤防である。しかし現在の堤防はかなり先にあって、その間には家が立ち並んでいる。
     「イギリス積みという言う方式です。富岡製糸場と同じですね。」イギリス積みというのは、長辺だけの段と短辺だけの段とを一段置きに積む方式である。ほかにフランス積み(本来はフランドル積みというべきもの)という方式があり、こちらは一段に長辺と短辺を交互に配置する方式のようだ。それにしても、この高さで実際に堤防の役を果たしたものなのだろうか。
     堤防の方へ曲がりこめば、佃煮の大谷政吉商店(創業百二十年と看板に書かれている)があった。大田区本羽田三丁目二十四番十一。「老舗だなんて、こんなところじゃたいしたことないでしょう。」しかしバカにしてはいけない。人の知る有名店で、店のホームページを見れば、「羽田大谷の若炊きアサリ」は二〇〇九年から七年連続でモンドセレクション金賞、「浅利たらこ昆布」は二〇一〇年から二〇一五年まで六年連続で同銀賞を獲得しているのである。
     と言っても、モンドセレクションなる賞はどの程度権威のあるものなのか。こういうことはウィキペディアを見なければ全く分からない。

     モンドセレクション(Monde Selection)とは食品、飲料、化粧品、ダイエット、健康を中心とした製品の技術的水準を審査する民間団体であり、ベルギー連邦公共サービスより指導及び監査を受け、モンドセレクションより与えられる認証(この組織では賞と表記している)である。一九六一年、独立団体としてベルギーの首都・ブリュッセルに作られた。 全審査対象品のうち五割が日本からの出品で、日本から出品した食品の八割が入賞している。(ウィキペディア「モンドセレクション」)

     コンクールではなく、一定の基準を満たしているかどうかが鍵らしいのだが、ベルギー人が日本の佃煮の味を審査するのである。分かるのだろうか。しかし農林水産大臣賞や水産庁長官賞も受賞しているから、満更看板だけでもない。創業は明治十年だと言う。スナフキンは佃煮が好きだから当然買うだろう。
     その間に、堤防に上って川を眺める。「広いね。だけど揚子江ほどじゃないな。」ヤマチャンはおかしな感想を口にする。「今は揚子江って言わないんだね。長江だよね。」長江の最下流域を揚子江と言う。長江と言えば李白の七言絶句を思い出す。父が中国で買ってきた額が実家に飾られていたのである。

     黄鶴楼送孟浩然之広陵  李白
    故人西辞黄鶴楼  故人西の方黄鶴楼を辞し
    煙花三月下揚州  煙花三月揚州に下る
    孤帆遠影碧空尽  孤帆の遠影碧空に尽き 
    惟見長江天際流  ただ見る長江の天際に流るるを

     しかし多摩川と長江と比較しても仕方がないが、そう言えばヤマチャンは先月から長江のことをしきりに話題にする。余程深い思い入れがあるのだろうか。ほかにも何人かが佃煮を買ったようで、そのお蔭でリーダーは女将から全員分のお土産(佃煮の小さなパック)を頂戴することになった。何種類かの中で私に回って来たのは昆布の佃煮で、少し辛めだが甘くなく、なかなか美味いものだった。
     ここからは堤防に沿って東に向かう。目の前の大師橋の塔から伸びるケーブルが美しい。昭和十四年に建設された旧橋の老朽化に伴って、平成三年から十九年にかけて建造された。中央の両側に建てた二つの塔から左右に七本づつ、合計二十八本で橋桁を吊る斜張橋である。
     堤防の外には船が停泊している。暇そうな釣り人も多い。堤防の左下には釣り船屋もある。川面に停泊している釣り船や屋形船が多くなってきた。船はほとんど「かめだや」のものだ。左の堤防の下を見ると、その「かめだや」があった。小さな店で、二階には洗濯物が干してある。大田区羽田二丁目三十一番十三。
     かめだやの屋形船にはお台場コース(かめだや・大井競馬場・お台場・レインボーブリッジ・天王洲アイル・かめだや)と横浜コース(かめだや・羽田空港・浮島橋・つばさ橋・氷川丸・MM21・ベイブリッジ・かめだや)がある。料理は六千五百円、八千七百円、一万八百円の三種類から選ぶ仕組みらしい。飲み物の持ち込みは可能。ただし十五人以上での申し込みが必要だ。
     この辺りは、例の赤煉瓦の塀が川側では露出しているが、山側は道路と一体になっている。道路を盛り上げたものだろうかと思ったが、どうやら違った。

    即ち羽田地先に於ける千六百三十二米の区間は、初め旧堤を拡築する計画なりしが、其後土地の状況を考慮して工法を変更し、旧堤表法肩に鉄筋煉瓦の胸壁を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用する事となしたるが為、沿川住民及一般の利便を増進せり。(内務省東京土木出張所『多摩川改修工事概要』)
    http://library.jsce.or.jp/Image_DB/j_naimusyo/kawa/46139/honbun.pdf

     最初から道路となるように作られたのである。羽田第二水門を過ぎる。左には船溜りがあり、その出入り口の防潮水門である。首都高速横羽線の下を潜ると、羽田の渡し跡碑があった。

     古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)。
     この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
     渡し場付近の川幅は約四〇間(約八〇m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。(中略)
     ここで使われた渡し舟は、二〇~三〇人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
     江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。(後略)
                     大田区

     東海道の六郷の渡しより船賃が安かったと言う。江戸時代の船賃は分からないが、明治の頃で荷車が三銭、大人一人が二銭だった。これによって六郷の渡しの利用者が減ってしまった。六郷渡船の収入は川崎宿の大きな収入源であり、羽田の渡しを使われては宿場経営が圧迫されるのである。それも昭和十四年の大師橋の竣工によって廃止された。
     説明の隣に埋め込まれたレリーフは、正面の富士山に向かって、多摩川を渡る帆かけ舟の帆がいくつも並ぶ絵だ。誰の絵か分からない。広重『江戸名所百景』にも「はねたのわたし 弁天の社」があるが、これではない。
     「これって橋脚ですかね。」そばに置かれているのは旧大師橋の親柱だと思う。ただ、その上の部分五十センチほどが、草むらの中にポツンと置かれていて、何の説明もない。
     堤防を離れて狭い道路に入ると、赤煉瓦の壁から一メートルも離れずに家が立ち並んでいる。家から外の道路に出るためにはぐるっと回らなければならず、これでは不便だから、ところどころに石を三段置いたり、鉄の階段を設置している。「生活用の階段なんです。」
     一カ所、煉瓦が途切れた地面にレールのような跡が見えた。水門の跡だろうかと思ったが、これは陸閘(りっこう)であろう。

     河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設。
     扉を人力や動力で閉じる方式や木板等をはめ込む方式など様々な方式や規模のものがある。天井川のある地域や海抜ゼロメートル地帯、港湾部に多数存在する。津波や高潮を防ぐ海岸線の堤防・防潮堤にあるゲート(防潮扉)についても陸閘と呼ばれる(ウィキペディア「陸閘」)

     「この辺は漁師町じゃないの?」ヤマチャンが大きな声を上げた。「そうだよ。」但し羽田猟師町と書かれた。「そうでしょう。俺もそうだと思ったんだよ。」羽田は御菜八ヶ浦の一である。御菜八ヶ浦については以前どこかで調べたことがあるが、江戸湾で獲れた海産物を江戸城に献じるため、その範囲の漁業独占権を与えられた村である。
     「新編武蔵風土記稿」によれば、羽田猟師町の家数三百軒余で、平田船十五艘、茶船三十八艘を持っていた。その船は「御免言字御極印船」と称し、その極印は大阪の役の際軍船を多く出したことによって賜わったとしている。また漁業だけでなく、羽田は多摩川流域各村からの江戸回米の舟運権益を握っていたから、相当裕福だったと思われる。
     そしてロダンはさらに狭い路地を曲がりこんで行く。車がすれ違うのも容易ではない道幅だ。「空襲にあわなかったから、昔の町のままなんだよ。」空襲のことなら講釈師が詳しいが、どうして被害を免れたのだろうか。
     大田区(当時の大森区と蒲田区)には小規模な軍需工場がひしめき合っていて、昭和十九年から数次に亘って空襲を受けた。特に蒲田区(羽田町、蒲田町、矢口町、六郷町)は九十九パーセントが焼失したとされている。それなのにこの近辺だけが無事だったのは偶然なのか、それとも米軍に何らかの意図があったのか。仮に意図があったとすれば、占領した後、羽田飛行場を利用する予定があったことと関係するだろうか。この辺の事情は私にはよく分からない。
     連合軍は昭和二十年(一九四五)九月十三日に羽田の飛行場を接収し、その拡張のために二十一日には、海老取川以東の羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町の千三百二十世帯、二千八百九十四人に対して、四十八時間以内の立ち退きを命じた。たった二日での立ち退き命令である。もう無茶苦茶ではないか。その一部は海老取川を越えて、この辺に住み着いたという。煉瓦堤防の外側に住み着いたのはこうした人たちではなかったろうか。
     ところで先日、「日本は占領されなくて良かったですよね」という言葉を聞いて驚いた。「天皇がマッカーサーに頼んだんですよね。」どういうことなのだろう。これが現在の三十歳代の知識の平均値だとは思いたくない。もう少し若い人間の証言を聞くと、「教科書だと占領っていう言葉じゃなくて、統治下って習ったと思います」ということだった。私たちの時代でも高校の日本史の授業は明治維新から自由民権運動あたりで終わっていたから、学校で習わなかったというのは仕方がないが、太平洋戦争後、現在に至る出発点が占領だったことを知らない世代が出現したのである。昭和二十五年、林達夫は戦後の現状認識について、こんなことを述べた。

     その時から早くも五年、私の杞憂は不幸にして悉く次から次へと的中した。その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題がOccupied Japan問題であるという一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言論が圧倒的に風靡していたことである。このOccupied抜きのJapan論議ほど間の抜けた、ふざけたものはない。(中略)「マッカーサーの日本」――この簡単な政治地図に目をすえて政治を談ずるもの、少なくともその地図を胸中に秘めて政治を諷示するものがほとんど数えるほどしかなかったところに、この国の政治論議の度し難い低調さと不真面目さがあった。戦争の真実を見得なかった連中は、やはり戦後の真実をも見得られなかったわけである。戦争後の精神的雰囲気の、あのうそのような軽さこそ、人民の指導的立場にある知識階級の政治的失格を雄弁に物語るものである。(『新しき幕明き』)

     「一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言論」の状況は今でも変わっていないと言うべきだろう。この文章の少し前に、林はこうも言っている。

     あの八月十五日の晩、私はドーデの『月曜物語』を読んでそこでまたこんどは嗚咽したことを想い出す。戦前、戦中、私はある大学でアメリカ合衆国史を講じていて、当時としては公平至極に歪曲しないアメリカのすがたの闡明に努めたものだが、その日以来私はぴったりアメリカについて語ることをやめてしまった。もはや私ごときものの出る幕ではなくなったのである。日本のアメリカ化は必至のものと思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう――そういうこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。私は良かれ悪しかれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。

     事態はもっと悪くなっていると言っても良い。グローバル・スタンダードいう名のアメリカン・ルールを押し付けられ、中小企業の体力がどれだけ消耗したか。それは現在の非正規雇用の増大と関係ないことではない。勿論日本に限ったことではなく、世界がアメリカ流の市場原理主義、新自由主義に占領されているのである。国会の審議を始める前に、法案成立の期限をアメリカに明言したのも全く同じことだ。
     石破茂は「国民の理解が進んできたと言い切る自信は私にはない」(七月十四日)と、アリバイ工作のような発言をし、安倍晋三は「残念ながら、まだ国民の理解は進んでいる状況ではない」(七月十五日)と開き直った。法案の内容について今は言わない。「国民の理解」とは民意の謂であろう。法案の採決に民意は関係ないと、安倍晋三は言っているのである。私たちはこういう政府を持っているのだ。そして自民党の中で公然と反対を表明したのは、村上誠一郎ただ一人であった。

     暑くなってきた。ロダンは小さな鴎稲荷神社に入って行く。大田区六丁目二十番十。民家に挟まれた狭い境内で、社殿の裏の家に二階の窓に洗濯物が干されている。社殿の隣には「厄神様」の小さな祠も並んでいる。

     今から約二百九十年前享保年間から天保年間にかけて江戸では三大飢饉が起り疫病、大火、洪水等があり人々は毎日の生活に苦しんでいた。当時どこの村でも神頼が始まり生活の安泰を祈った。
     この稲荷神社は江戸時代の頃、弘化二乙巳年(一八四五)三月吉祥日(鳥居に刻まれている)その頃に創立されたものと思われる。(略)
     その頃の多摩川は、六郷川と呼ばれ鷗が多く群がっていた。その鷗にちなんで鷗稲荷神社と名付けたと聞く。又、この辺は、徳川幕府の領内で六郷領であった。羽田は、六郷から東に向って上田、中村、西町、仲町、猟師町となっていた。仲町は、現在の横町町会、稲荷前町会、下仲町町会となっている。
     その三町会の守護神として交代で守っている。(境内掲示より)

     この前の道が羽田道の七曲りである。民家の間の狭い路地の突当りに小さな藤崎稲荷がる。また堤防の脇に出ると、今度は玉川弁才天だ。大田区羽田六丁目十三番八。古めかしいが虹梁の彫刻が見事だ。社殿にめぐらした白い柵には後北条氏の三つ鱗紋が飾られている。元は上宮と下宮と二つあり、下宮は要島(鈴木新田)にあった。ここは別当寺の金生山龍王院(真言宗)にあった上宮に相当するのだろうが、場所は移転しているようだ。

     玉川羽田弁財天  茲に祀られて居る弁財天は御大四寸八分「天長七年(八三〇)空海作」と銘刻があり弘法大師が護摩の灰を固めて御自刻されたものと伝えられて居る。この弁財天は広島県厳島神社、神奈川県江の島弁財天と共に日本三弁天と言われて居り往古より変らぬ信仰を今に伝えて居り祭礼は正月、五月の十日に行われる。龍王院(境内掲示)

     空海の話は信じなくても良い。「なんだ、そうか。空海はどこでも行くよね。」それよりも、こんな小さな弁天が「日本三弁天」とは大きく出たものだ。普通は厳島、江の島、竹生島を言うだろう。しかし『江戸名所図会』には図入りで立項されており、江戸時代にはかなり有力な神社だったと知られる。その隣には水神社の祠があって、高齢者は石段に座り込む。
     川沿いに歩いていると、コンクリートの堤防の上に白線を引いた部分があった。「この川底を東海道の貨物線が通ってるんですよ。」河底横過トンネルというらしい。「東海道線って六郷橋を通るんじゃないんですか。」貨物線は芝浦辺りで本線から別れて東側を走り、ここから川の底を通って浜川崎に至るのである。
     そこからすぐ、多摩川から海老取川に入る口には、川に四五メートル程の桟橋が突きだし、その突端に小さな堂が建っている。近づいてみると、正面に建てられた角塔婆には「南無妙法蓮華経為多摩川五十間端水死横死之諸霊追善供養」と書かれている。塔婆には「五十間端」とあるが、説明には「五十間鼻」とあるから、ハナと読むのである。この辺りは水流の関係で水死者が漂着しやすい場所だったという。

    五十間鼻無縁仏堂の由来
    創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。その方々を、お祀りしていると言われております。
    元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
    又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
    又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
    合掌
    堂守謹書

     私の他には誰も桟橋を渡って来ないが、堤防の階段の上でハイジがじっと立ち止まっている。「川風が気持ち良いのよ。」「利根の川風じゃないけどね」とあんみつ姫が笑う。海老取川はここから真っ直ぐ北上して、森ケ崎海岸で東京湾に注ぐ約二キロの川である。
     現在は空港と一般地とを区切る川になっているが、江戸時代は西側が羽田村で、北に向かって糀谷村、大森村と続いていた。東側は干潟を干拓して鈴木新田となった。
     地図を確認して今更驚くのも無学だが、昭和三十年代まで、東京湾には平和島(昭和四十二年竣工)も、昭和島(同)も、京浜島(昭和四十九年~五十六年竣工)もなかった。つまりそれより東側は全て海の下である。羽田空港も明治初年の頃には、現在の整備場駅から国際ターミナル駅の辺りまでの細長い地域しかなかった。
     下の浅瀬では何人もが水の中に立って釣りをしている。子供たちも遊ぶ。堤防の胸壁には「羽田の漁業」を説明するプレートが嵌め込まれている。川の向こうに飛行機が飛んでいる。

     夏空に飛行機釣るか竿の群れ  蜻蛉

     海老取川を少し遡ると弁天橋だ。橋を渡ると大鳥居が建っている。元は旧空港ターミナルビル前の駐車場にあったものだ。大田区羽田空港一丁目一番。
     「将門の首塚とおんなじだよ。」「祟りがあったんだ。」移設しようとすると必ず事故があったという都市伝説のひとつである。曰く、ロープをかけて倒そうとするとロープが切れ作業員たちに死傷者が出てしまった、鳥居に手をかけた日に限って飛行機の機器に不良が起こった等。
     しかしそんな事実は一切なかった。昭和四年に作られたコンクリート製の大鳥居はかなり重く、人力ではなかなか移すことができずに、長年放置されたというのが実際らしい。平成十一年二月にここに移された。鳥居の額には「平和」と記されている。

     この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。
     その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。
     しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。
     米軍から、施設が日本に返還された昭和二十七年七月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。
     昭和五十九年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害とならことから、撤去を余儀なくされることとなりました。
     しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成十一年二月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。
     ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。(碑文より)

     もう一度弁天橋を渡ると、さっきは気付かなかったが欄干に往時の海苔取りの様子を描いた絵が何枚か掲げられている。ヒビの組み立て、ヒビ立て、海苔取り、海苔付け。ヒビは篊(タケカンムリに洪)と書く。日比谷の地名がこのヒビに由来するなんて、今更言わなくても皆知っている筈だ。川面にはかなり大きな黒い鯉が何尾も泳いでいるのが見える
     今年初めてのムクゲの花を見た。天空橋は鉄橋みたいだ。欄干が赤い橋は稲荷橋だが橋の先は行き止まりになってしまうようだ。戦前は穴守橋(環八)がなく、穴守稲荷にはこの橋を渡って行ったのだ。

     底紅や昔語りの羽田浦  蜻蛉

     川から離れて環八に入る。「あれは何ですかね。チロノなんとか。」ロダンが指差すのは、大和運輸の羽田CHRONOGATEである。「クロノゲートですね。」

     ギリシャ神話における時間の神〈クロノス〉と国内とアジアの「ゲートウェイ」となるべく、〈ゲート(Gate)〉=「門、出入り口」の二語を組み合わせて、『新しい時間と空間を提供する物流の「玄関」であるとともに、物流の新時代の幕開け』を表現しています。http://www.yamato-hd.co.jp/hnd-chronogate/

     左に曲がれば穴守稲荷神社だ。大田区羽田五丁目二番七号。明治三十五年(一九〇二)には、蒲田・穴守間の電車が開通した。現在の京急空港線の前身で、元々は穴守稲荷参詣者のための路線だったのだ。戦前の絵を見ると、海老取川を渡ると鈴木新田で、旧空港ターミナル跡の辺りに穴守稲荷があって、穴守駅はそのすぐ南になる。稲荷の北には運動場があり、その北に昭和六年に開港した飛行場が隣接している。運動場の東はすぐ海で、海水プールや海の家もある。穴守駅から東に行くと小さな四角い島状の埋立地(今の国際線新旅客ターミナルの辺)に羽田競馬場があった。
     拝殿の右側から朱塗りの千本鳥居を潜って奥の宮に行く。「おんなじ人が何本も寄進しているよ。」荏原製作所の名前も見える。奥の宮の左半分は倉庫のようになっていて、古びた小さな鳥居が大量に、そして無造作に積み上げられている。「奉納」と呼ぶより、ゴミ捨て場の様相だ。
     脇には溶岩で作った築山があり、頂上に上ってみると御嶽神社の石碑があった。奥の宮の屋根と同じ高さだ。「富士塚じゃないんですね。」

     社伝に云う。文化元年の頃(西暦一八〇四年頃)鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪のために害を被りたり。或時堤防の腹部に大穴を生じ、これより海水侵入せんとす。ここにおいて村民等相計り堤上に一祠を勧請し、祀る処稲荷大神を以てす。これ実に当社の草創なり。爾来神霊の御加護あらたかにして風浪の害なく五穀豊穣す。その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり。そもそも稲荷大神は、畏くも伊勢の外宮に斎き祀られる豊受姫命にましまして、衣食住の三要を守り給える最も尊き大神なり。吾等一日たりともこの大神の恩顧を蒙らぬ日はなく、実に神徳広大なり。
     殊に当社は明治以来、大正・昭和を通じて、最も隆昌に至った。参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く社頭又殷賑を極め、崇敬者は国内は勿論遠く海外にも及べり。然るに昭和二十年八月終戦にのぞみ、敗戦と云う未曾有の大混乱の中、米軍による羽田空港拡張の為、従来の鎮座地(東京国際空港内)より四十八時間以内の強制退去を命ぜられた。同年九月、地元崇敬者有志による熱意の奉仕により境内地七百坪が寄進され、仮社殿を復興再建。現在地(大田区羽田五丁目二番)に遷座せり。(穴守稲荷神社「社史」)

     「三業地のお姐さんが信仰したんだよ。」講釈師の声が大きくなった。「穴を守るから、遊女が信仰したんだ。」「そんな駄洒落みたいに。」ロダンやヤマチャンは私の話を信じないが、駄洒落、語呂合わせは江戸以前の民間信仰にはつきものだ。コトダマの幸う国土の民は、同じ音には同じ内容が籠められていると考えてきたのである。和歌には縁語、掛詞がふんだんに使われるのは同音異義語が多い国語の特徴であるが、この信仰がなければこんなに発達しなかったと思われる。同じように「穴」からの連想で博奕打ちにも信仰された。

     そろそろ腹が減って来た。「それじゃ行きましょうか。」途中の店(社務所?)で小さな鳥居を買っている人がいた。これを買った人は、どこに置くのだろうか。まさか「小便無用」のためとは思えない。住宅地の中を過ぎ、穴守稲荷駅に着いた。入口には朱塗りの鳥居が建っている。
     全員が一度に入れるような店はないので、適当に分散して、一時に駅前で集合することになった。マリオはここで軽く食べて、半日券を行使することになるという。女性軍は手打ちうどんの店「さぬきや」に入った。講釈師たち高齢者軍団は「四川食府」に入っていった。四川は辛いだろう。別の店はないか。少し歩くと中華料理の店「餃子の屋台」があったので入る。スナフキン、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の四人だ。
     日替わり定食(ゴーヤチャンプル)が七百八十円、ヤマチャンが何かの定食、スナフキンとロダンはタンメンに半チャーハンのセット(それぞれ七百九十円)を選ぶ。店名の割に特に餃子を推奨している様子がないのが不思議だ。ビール中瓶一本はスナフキンと蜻蛉が分け合った。定食の量が多い。「チャーハンが余計だったよ。」味は悪くなく、かなり腹が膨れた。
     駅前に戻ると、ちょうど他の連中も店を出てきた。「アレッ、マリオが出てきた。」「とっくに行ったかと思ってたのに。」その理由が分かった。「不味かった。」スーチャンの第一声がこれである。「一時間近くも待たされてさ。二度と行きたくない。」マリオは早く済ませる積りでえうどん屋を選んだのだろうが、これでは奥さんとの待ち合わせに遅れたのではないか。
     それにしてもそんなに酷かったのか。試しに「食べログ」をみると、「讃岐うどんというよりは伊勢うどんやきしめんを厚くした感じ」、「マズイ」と否定的な意見のなかに、ひとりだけ「ダシがすごく美味しい」という意見もあった。
     ここからは京急空港線に乗って国際ターミナル駅まで行くのである。姫は結局何も食べられなかったようで、ホームでお握りを口にしている。

     二駅で国際ターミナル駅に着いた。「二百九十円だよ、高いじゃないか。」「人が一杯いるね。」本庄から来た小町には、この程度でも混雑しているように思えるか。「そんなことないわ、いつもはもっと多いわよ。」スーチャンも椿姫も口を揃えるから、二人ともしょっちゅう来ているのだろう。「景気が悪いのよね。」
     羽田に来るのは何度目になるか、経験が少ないから数えてみればすぐに分かる。昭和五十年(一九七五)は沖縄海洋博の年だったが、博覧会場には一歩も足を踏み入れずに沖縄を三四泊した際に初めて飛行機に乗った。泊まったのは民宿ばかりだが、毎食必ずサバが出てくるのには聊か閉口したものだ。帰りは大阪着だったから、これが一度目である。
     二度目は昭和五十五年(一九八〇)の新婚旅行の行き帰りで、三度目は五十八年(一九八三)秋田に赴任した時だ。生まれてまだ十一ヶ月の長男を連れての赴任だったが、妻の母はこれが今生の別れかと思う程泣いた。そのあと、福岡出張と札幌出張がそれぞれ一回で、結局私が飛行機に乗ったのは、そして羽田空港に来たのは五回だけということになる。海外旅行経験無慮数十回を誇るダンディとは勿論比べるべくもないが、現代人としてはやはり.少ない方だろう。
     だから空港の様子は全く分からない。ロダンが先導してくれる通りに歩くだけだ。折角だから羽田空港の歴史も勉強しておこうか。
     年表を見ると、大正五年(一九一六)葦の生い茂るこの地に日本飛行学校が開かれた。校舎は大駐車場の辺りに置かれたが、海浜の澪標が飛行の邪魔になるため、飛行場は対岸の川崎側の三角洲に作られた。校長は相羽有(二十二歳)、盟友は玉井清太郎(二十五歳)であった。

     日本飛行学校の飛行場は川崎大帥側三角洲の砂地,総面積三十万坪を利用し、飛行学校の校舎は東京府荏原郡羽田町穴守稲荷神社の近くにあった元料亭の空屋を利用した。そのとなりの建物を友野鉄工所から移転した日本飛行機製作所になった。かつて羽田空港が沖合に移転拡張される前の空港大駐車場があったあたりの場所に飛行学校はあった。飛行場はそれよりもかなり南に離れた六郷川の海にそそぐ三角洲の干潟地で、丸太の骨組によしず張りの格納庫が川崎大師側の梨畑に沿った堤の上に建てられていた。
     日本飛行学校の主事、通称「校長」といわれた相羽有は当時二十一歳、「教官」となった玉井清太郎飛行士は二十四歳、使用する機体は斎藤外市から借りたキャメロン二十五馬力エンジンを装備したNFS玉井式一号機で、飛行学校の授業は一九一六(大正五)年十二月から開始された。http://blogs.yahoo.co.jp/takamino55/669114.html

     そして開校したばかりの飛行学校第一期生として、十六歳の円谷英二が入学し、稲垣足穂は近眼のため不合格となった。玉井清太郎は翌年五月に飛行中、主翼の損傷で墜落死した。そのため飛行学校は一時閉鎖されたが、清太郎の弟の藤一郎によって再建される。
     昭和六年(一九三一)八月二十五日、荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎に、逓信省の管轄で初の民間航空専用空港として東京飛行場が開港した。場所は現在の整備場地区になる。幅十五メートル、長さ三百メートルの滑走路一本以外は葦の生い茂る草むらで、管制塔はなく離着陸は全て目視によって行われた。
     昭和十三年(一九三八)には第一次拡張、翌年には二本目の滑走路が作られた。そして昭和二十年(一九四五)八月から始まる占領下において、付近住民の強制撤去による拡張が行われるのは先に記した通りだ。ハネダ・アーミー・エアベース(Haneda Army Airbase、羽田陸軍航空隊基地)の時代である。
     昭和二十六年(一九五一)十月二十五日、サンフランシスコ講和条約の締結を受けて、日本航空の「もく星号」が戦後初の民間定期便として旅客運行を開始した。二十七年(一九五二)七月一日に一部地上施設が返還され、東京国際空港に改名した。全面返還されるのは昭和三十三年(一九五八)まで待たなければならない。

     空港見学は二階の到着ロビーから始まる。ロダンによれば、床の色が茶色なのは、陸地を表わす。「それなら出発ロビーは青になってるのか。」それは後で確認できた。三階が離陸ロビーである。聞こえてくる話し声は殆ど中国語だろうか。しかしこういうロビーはただ歩いていても余り面白いものではない。
     見上げると和風の構造物が見える。「江戸小路ですよ。」それならそっちの方が面白そうだ。上に上がると、まず赤いホオズキを吊るした店の前を通る。正面にはボンデンのようなものを五本吊るしてある。土産物屋の店頭は芝居小屋を模してあり、中村勘三郎の看板を掲げている。「勘三郎が監修したんだよ。」食事処も何軒かあるが、皆満員だ。少し高いような気がする。
     うどん割烹「つるとんたん」、イタリア料理「エッセ・ドゥエ」、ラーメン店「せたが屋」、「焼き肉チャンピオン」、回転寿司「ありそ鮨し」、そばと焼き鳥の「二尺五寸」、おでんの「おぐ羅」等。いずれも有名店のようだが、私は全く縁がない。
     全長二十五メートルの日本橋を渡ると横の壁には増上寺、京橋界隈、江戸城の絵図等が掲げられている。端を登りきると、壁一面に長方形の木札が赤い糸で大量にぶらさげられている。どうせやるなら絵馬と同じく五角形にすれば良いのにとも思うが、搭乗券の形になっているのだ。すぐ脇に、この札の自動販売機があって、一枚五百円とある。記入台にサインペンも置いてあるのだが、ここには神社も寺もない。日本人というやつはなんと不思議なことを考え付く人であろうか。
     五階の展望デッキに出て暫く飛行機を眺める。人は飛行機を見るとどうしてこんなに興奮するのだろう。「朝晩は五分おきに発着するんだぜ。」今の時間はそれほど頻繁ではなさそうだが、やはり次々に飛んでいく。さまざまな国籍のジェット機が並ぶ中、私に判読できるのはルフトハンザやチャイナ航空のロゴだけだ。「ほらまた飛んだ。」

    見よ、今日も、かの蒼空に
    飛行機の高く飛べるを。

    給仕づとめの少年が
    たまに非番の日曜日、
    肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
    ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……

    見よ、今日も、かの蒼空に
    飛行機の高く飛べるを。(石川啄木「飛行機」)

     調べてみると海外の航空会社は、アシアナ航空、アメリカン航空、エアアジアX、エア・カナダ、エールフランス、エバー航空、エミレーツ航空、カタール航空、ガルーダ・インドネシア航空、キャセイ パシフィック、上海航空、シンガポール航空、大韓航空、タイ国際航空、チャイナエアライン、中国国際航空、中国東方航空、デルタ航空、ハワイアン航空、フィリピン航空、ブリティッシュエアウェイズ、ベトナム航空、香港エクスプレス航空、香港ドラゴン航空、ユナイテッド航空、ルフトハンザドイツ航空と、これだけ就航しているのだ。
     日差しがきつく、展望デッキはかなり暑い。もう一度ビルの中に入る。「ここで休憩しようぜ。」 PLANETARIUM Starry Cafeである。カフェの中にプラネタリウムが設置されているのだが、飲食しながら星を見る訳ではない。プラネタリウムのスペースは黒いカーテンで仕切られていて、十五分の上映のために入場料を支払い、終わったらワンドリンクを注文する方式である。勿論私たちが星を見る筈がない。
     これで大人の社会科見学は終了した。暫くお茶を飲んでお開きとなる。「みんな京急に乗るんだろう?」しかし、京急の品川方面の矢印があるのに、先頭グループは更にエスカレーターで下へ行く。「どこへ行くんですか?」「分からないのよ。」スーチャンの嘆き声が聞こえる。残されたのは姫、ハイジ、小町、スナフキン、ロダン、蜻蛉である。
     「どうする。」「品川には何もないよ。」「それじゃ蒲田だ。」品川直通を待つ小町と別れ、蒲田行きに乗る。ハイジは蒲田から品川に向かう。「JRを目がけていこうぜ。」JR蒲田駅までは六百メートルほどだろうか。ラーメン屋が多い。四時だから飲み屋はまだ開いていない。蒲田駅前をうろうろしていると串焼き屋が開いていた。「ここで良いだろう。」
     注文を取るのはかなり高齢の女性である。ビールを四つ頼んだが聞こえただろうか。しばらくして確認すると店主が「今やってます」と答える。お通しは大皿に盛ったキャベツにドレッシングがかけたものだ。姫は漬物なしでは生きていけないから当然漬物を頼む。それに枝豆。串焼き屋に入ってこんなものばかり注文するのは珍しい。「まだ昼の分が残ってるんだよ。」
     焼酎を一本空ける頃にはロダンはすっかり酔ってしまったようだ。リーダーとして気を使って疲れたのだろう。ご苦労様であった。

    蜻蛉