「東京・歩く・見る・食べる会」
第六回 大久保・余丁町編 平成十八年七月八日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2006.7

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 「今日は私的な会ですから保険は掛けていません。車には充分注意してください。それから、暑いので水分補給も大事です」江口隊長が注意する。今日のリーダーは気合が入っている。保険のことを言うのは、かつて生態系保護協会の主催する「ふるさとの道自然散策会」では必ず保険を掛けていたからだ。
 今年は雨に祟られることが多かった私たちの会だが、梅雨の合間の貴重な一日になった。十時半の時点で既に蒸し暑さがきついが、それでも雨よりは良い。隊長が一ヶ月以上も前からコースの案と地図を配布してくれたので、私も事前にかなり調べることができた。実に知らないことが多いのです。知らないから調べて知識を得たいと思う。その知識を実地に見て納得したい。このシリーズでの私の楽しみはここにある。この頃の私は、明治の文人になんだか言いようのない親しみを感じている。
 平野さん、関野さん、あっちゃん。それに江口さんの友人が二人参加した。山下さんは佐賀出身で江口さんとは小学生時代からの友人、声の大きな元気な人だ。島村さんは江口さんの元会社の同僚。物静かな人で、蓮田に生れ蓮田に育ち、現在も蓮田に住む生粋の蓮田人だ。
 久し振りに参加するぞと言っていた池田御大は急な用事で不参加、鈴木さんも仕事だろうか、このところ随分忙しそうだ。松下さんは確か弘前旅行中だ。いつも早い三澤さんが定刻になっても現れないから、どうやら今日は不参加だ。
 「今日は静かな散策になりそうだね」と、初参加の二人には意味不明のことを言いながら笑いあう。「佐藤さん、サングラスが怪し気ですよ」とあっちゃんがからかうが、仕方がない。太陽が顔を出せば結構日差しは強い。紫外線は目から入ると言うではないか。(最近テレビで紫外線の恐ろしさを見たばかりだ)近頃老眼が進み、目の健康は大事なのだ。そう言う彼女も、きちんと長袖を着込んで紫外線対策は怠りない。

 豊嶋郡大久保村は、文政元年(一八一八)の「江戸府内朱引図」では辛うじて府内町奉行管轄範囲の中に編入されているが、郊外、場末と言っても良いだろう。新大久保駅の周辺は、伊賀組百人鉄砲隊の同心屋敷があったことから百人町と名付けられた。甲賀、伊賀、根来、二十五騎と四つの組が、それぞれ与力三十人、同心百人で組織され、百人同心の名がついた。江戸城内の百人番所に二十五人づつ交代で常勤することになっていて、江戸城の警備と、戦時将軍の隊列を警護するのが目的だ。
 前回、あっちゃんの案内で江戸城を見学した時に百人番所は見た。三澤さんがいればまた、忍者の真似をしたかも知れない。大久保の他には、甲賀組は神宮球場付近(明治の頃には青山百人町という地名があったらしい)、根来組は市ヶ谷矢来町(屋敷が竹矢来で囲まれていた)、二十五騎組は内藤新宿(古地図で見ると今の新宿御苑駅の辺り、太宗寺の近くに百人組の名がある)に屋敷が与えられた。それぞれ甲州街道に沿って配置されており、一朝事あれば、将軍を警護して甲州街道を八王子まで向かうのが任務だ。
 また大久保の同心屋敷(百坪程度の屋敷)では躑躅の栽培が盛んで、明治以降、本職の植木屋も集まって、躑躅の名所として知られた。もともとは同心の内職から始まったとも言われる。同心の暮しの程度はどれほどだったか。
 江戸町奉行所与力は二百石、同心の俸禄は三十俵二人扶持で、それが百人同心と同じかどうかの保証はないが、大体その程度だと考えてみる。一俵を四斗三升、一人扶持を一日五合として計算すれば、石高に換算して十五石弱になる。俵換算ならば三十四俵程度。一俵を六十キログラムとすれば、現在の米価十キロ四千円としてみるか。年収はおよそ八十万円程度ということになる。全物価に対する米価の比率は現在より遥かに高かった筈だから(何倍位になるのだろうか)単純に比較はできないが、やはり暮らし向きは苦しいだろう。
 明治になって本郷団子坂の菊人形を真似て、躑躅人形をつくるものもあったらしい。ところが、日比谷公園ができた時に、大久保の躑躅の大半が日比谷に移植され、この地の躑躅は廃れた。

 新大久保駅からすぐ西に、交番の脇の路地を入ると皆中稲荷神社がある。天文二年(一五三三)創建。小さな稲荷神社だが大久保発祥以来総社として祀られて来た。名前の由来は、皆が命中するようにと、百人鉄砲隊の面々が祈願したことによる。それまでは単に稲荷神社とだけ呼ばれていたものか。江戸時代には、「鉄砲組百人隊出陣の儀」が行われていたという。この儀式は昭和三十六年年に復活し、以後、隔年九月に、火薬を使った鉄砲の試射を行う行事が行われている。百発百中の祈願から、今では競馬や宝籤ファンの神頼みの神社になってしまったようだ。社務所には大久保つつじ保存会の表札も掛かっている。開運稲荷の幟がはためいている。

 大久保通りの近くには国木田独歩の住んだ跡もある筈だが、そこには行かない。江口さんの調べでは、説明板も存在しないそうだ。居酒屋「笑笑」の辺りだという。二葉亭の訳した『あひびき』に深く影響され、『武蔵野』を書いた。その家から独歩は明治四十一年二月に茅ヶ崎のサナトリウムに移り、そこで死んだ。四十一年六月二十三日、三十七歳。但し、年齢については異説がある。正嫡の子ではなかったことによる戸籍の混乱に加えて、自己韜晦の気味がある。高校生私は独歩の「山林に自由存す」の詩を一所懸命暗誦したものだった。

 大久保通りから、道が一本違うかも知れないと隊長が言いながら、小さなホテルが目立つ狭い路地を南下して、職安通りに出るとすぐ、島崎藤村ゆかりの玉寶山長光寺がある。文禄三年(一五九八)、武田家の菩提を弔うため遺臣によって建立されたとされる。現在の建物は平成十三年に建てられた。江口さんが窓口で頼んで、墓地の扉を開けてもらう。坂本家の墓というだけで、藤村の名前はない。
 島崎藤村は新体詩だけを認めるといえば、文学史のいろはも知らないやつだと叱られかも知れない。『破戒』を読んで感動したのは高校生私だったが、『新生』で躓いた。藤村は倫理的に正しくない。人倫に悖ると私は思った。
 小諸での六年間の生活を終え明治三十八年五月、再度上京した藤村は長光寺檀家である植木職、坂本定吉の敷地内の借家に一家四人で居を構え、本格的な執筆活動に入った。その家はもうちょっと東の方、明治通りと交差する辺りにある。三十四歳の藤村は「文学の鬼」となって『破戒』を書き続けた。その間、生活は悲惨で食うものも満足にない。三女縫は急性髄膜炎で、二女孝は急性消化不良、長女緑は結核性脳膜炎で相次いで死んだ。その後、浅草に転居してから妻の冬が脚気で死ぬ。直接的な病因はいろいろだが、その死んだ根本原因は飢えにある。その四人が坂本家の好意で長光寺に葬られた。後、馬籠に改葬される。妻が死んだ後、藤村は姪と関係するのだ。
 妻子を飢え死にさせてまで文学か。姪との関係、姪の生んだ子供のことを世間に公表してまで、自分の文学が大事か。この頃から、文学の為には全て犠牲にしても良い、作家の「正直」な内面を表現すれば良いという芸術至上主義的イデオロギーが発生した。「犠牲」にされた周辺の人たちのことは置き忘れて。日本文学史が自然主義から私小説へ流れていく道筋なのだが、そのために、日本文学史は頽廃した。
 透谷を尊敬して『若菜集』の詩を書いていた頃の藤村だけを評価するのは、私の感傷癖によるものだと言っても良いが、歌謡曲になっているのは私の愛唱歌でもある。

 まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり(『初恋』)

 また、歌謡曲では『惜別の歌』として知られている『高楼』。

 きみがさやけき めのいろも
 きみくれなゐの くちびるも
 きみがみどりの くろかみも
 またいつかみん このわかれ

 少し黄色味がかった朱色の花はノウゼンカズラだと教えられる。漢字では凌霄花と難しい字になる。
 「あっ、むくげ(木槿)。韓国のコッカですよ」とあっちゃんが白い花を指差す。山下さんが「国歌?」と怪訝な顔をしながら「アーリラン、アーリラン」と歌いだす。「コッカ、国の花ですよ。」国歌がアリランと言う感覚も面白い。韓国では無窮花の文字を宛て国の繁栄を意味している。

 とにかくこの辺りはコリアン・シティなのだ。焼肉、韓国料理、韓流スターの写真、ハングル文字がやたらに目に付く。職安通りから鬼王神社前の標識の少し前を左に曲がる。車が一台やっと通れるほどの狭い道だ。その一角に、ひっそりと小泉八雲記念公園がある。新宿区と八雲の生れたギリシアのレフガタ町が平成元年に友好都市になったのを記念して作られた。八雲の胸像はギリシアから贈られたものだ。
 「百科事典で見る顔と印象が違いますね」とあっちゃんが言えば、平野さんは「横顔はそっくりだよ」と答える。私は見たことがないが、八雲と言えば和服姿のイメージを持っているから、背広姿は合わない。台座の右側にはギリシア語、英語、日本語で碑文が書かれている。公園は全体にギリシアを意識した造りになっていると説明され、独特の形をした柱、白い壁が目立つ。「この柱、エンタシスって言うんだろう」山下さんが記憶を確かめる。
 江口さんの選んだコースには八雲ゆかりの場所が多いから、実は初めてまともに八雲を読んでみた。あっちゃんは中学の時に英語のリーダーで習ったと言っているが、私の時代にはなかったような気がする。昔『耳なし芳一』などいくつかの短編を子供向きに焼き直した物語を読んだ記憶だけで、八雲なんて、たんなる怪奇趣味とオリエンタリズムではないかと見向きもしなかったのだが、違っていました。ラフカディオ・ハーンは鋭い。日本に対する評価がやや甘いのは差し引くとしても、当時これだけの見識をもったものは、それほど多くはいなかったと思われる。怪異なものへの嗜好はケルトの血によるのかも知れない。
 アイルランド人の父(軍医)とギリシア人(アラブの血も入っているといわれる)母との間に生まれ、各地を放浪した挙句、「ハーパーズ・マンスリー」の特派員として日本に辿りついたのは、明治二十三年、ハーン四十歳のときだった。
 「アイルランド人は頭が良いんだ」と平野さんが口を切り、話題はアイルランドへの差別からWASPに転じ、ケネディが米国大統領としては初めてのアイリッシュでカトリックだったことにまで広がっていく。
 ハーンは松江で生涯の伴侶となる小泉節子と出会い、熊本では「日本でもっとも醜い、もっとも不快な都市」に絶望する。熊本第五高等学校を退職して神戸に移った(神戸クロニクル論説委員)後、帝国大学文科大学長外山正一に招聘され、英文科講師として上京したのが四十六歳になる。初めは市谷富久町に住んだが、五十二歳で西大久保二六五番地に転居。坪内逍遥の招聘により早稲田大学で教鞭を執ったが、明治三十七年九月十九日、心臓発作で倒れ、二十六日、再度の発作で急逝した。享年五十四歳。
 オリーブの木を見ながら公園を出て、大久保小学校の脇を通ると、正門脇に「小泉八雲終焉の地」の碑が建てられている。

 きみ子がほかの芸者と違うところは、血筋のよいことである。芸名をつけるまえは、名を「あい」といい、正しく書けば愛という意味になる。別の漢字に、同じ音で哀という意味のものがある。「あい」の生涯は、この哀と愛の物語であった。(『きみ子』)

 八雲の後半生こそ、古き日本、失われつつある日本に対する「哀と愛の物語」であったろう。
 八雲は淋しい。関川夏央・谷口ジロー『坊つちゃんの時代』シリーズに、ちょっとだけ登場するその姿は特にそれを印象づける。谷口ジローの描く八雲の表情は淋しい。外山正一が亡くなり、後任の帝国大学文科大学長になった井上哲次郎が、八雲に給与の半減か退職かの選択を提示する。それでは暮らしていけないと抗議する八雲に、井上はこう言うのだ。漫画だから、それが実際に井上の言葉だったかどうかは分らない。

 ――古い日本をお好きだとおっしゃる。個人の御趣味としては結構。しかしわれわれ日本人は、あなたが愛しておられる古い殻を脱ぎ捨て、欧州に伍していくために日夜努力しておるのです。同胞から学べることは同胞から学び、一国も早くお雇い外人の軛を脱したい。それがわれわれの偽らざる気持です。

 こうして八雲は帝大を退職し、その後任にはロンドンから帰国した漱石が座ることになる。明治日本は大量のお雇い外国人を高額の俸給で抱えたが、その後、留学から帰国した若い才能をもって徐々に外国人を追放していくのだ。

 ――現在、日本の若い世代のひとたちがとかく軽蔑しがちな過去の日本を、ちょうどわれわれ西洋人が古代ギリシア文明を懐古するように、いつの日にか、かならず日本が振り返って見る時があるだろう。素朴な喜びを受け入れる能力の忘却を、純粋な生の悦びに対する感覚の喪失を、はるか昔の自然との愛すべき聖なる親しみを、また、それを映していた今は亡んだ驚くべき芸術を、懐かしむようになるだろう。かつて世界がどれほど、光にみち美しく見えたかを思い出すであろう。古風な忍耐と献身、昔ながらの礼儀正しさ、古い信仰のもつ深い人間的な詩情――こうしたいろんなものを想い悲しむことであろう。そのとき日本が驚嘆するものは多いだろう。が、後悔もまた多いはずである。おそらく、そのなかでもっとも驚嘆するものは、古い神々の温顔ではなかろうか。その微笑こそが、かつての日本人の微笑にほかならないからである。(上田和夫訳『日本人の微笑』)

   職安通りを横切れば稲荷鬼王神社だ。「きおう」と読む。

 古来より大久保村の聖地とされていた当地に、承応二年(一六五三)に当所の氏神として稲荷神社が建てられました。宝暦二年(一七五二)、当地の百姓・田中清右衛門が旅先での病気平癒の感謝から、紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)を勧請し、天保二年(一八三一)に稲荷神社と合祀し、稲荷鬼王神社となりました。それ故、当社の社紋は稲荷紋と巴紋の二つがあります。
 ところが現在、紀州熊野において鬼王権現は現存せず、ために当社には全国一社福授けの御名があります。(中略)なお、当社では「鬼王様」の御名に因み、節分時、鬼を春の神として「福は内、鬼は内」を唱えます。明治時代に旧大久保村に散在していた火産霊神の祠や、盗難除けの神など大久保村の土俗の神々が合祀されました。(神社由緒)

 紀州熊野の鬼王権現を勧請したのに、その熊野には鬼王権現など存在しないとも言っており、説明に苦心が見える。本来の由緒は違うのではないか。ちょっと調べるとやっぱり同じことを考えている人がいる。どうやら将門信仰に由来するらしいのだ。

 ――将門の幼名は「外都鬼王」(または「鬼王丸」)と伝えられている。辟邪のため命名と思われる。ちなみに、紀貫之の幼名は「阿古屎(あこくそ)」で、悪霊に名前を呼ばれないようにするため、あえて汚い名前を付けるという「辟邪名」である。「鬼」や「夜叉」という命名の例には、後の時代にはなるが、世阿弥元清の「鬼夜叉」がある。
 ――織田完之『平将門故蹟考』によれば、「将門の霊を祀り、その幼名『外都鬼王』を以って社号とす」とある(ちなみに、紀州熊野には「鬼王権現」なる神社はないという!)。
 参道に「かえる石」があるのも、大手町の「首塚」に蛙の置物があることと考え合わせると、将門信仰の名残を思わせる。(『一風斎の板東風土記』より)

 「茅の輪」というものが本殿の正面に設置されている。私は本当に無学で、何か民俗学的な由来があるのだろうかと考え込んでしまったが、隊長やあっちゃんは知っていた。茅草で作られた大きな輪は、正月から六月までの半年間の罪穢を祓う夏越しの大祓に使用され、それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われるのだそうだ。夏の季語になっている。くぐる時にも儀式があって、「水無月の夏越しの祓する人は、ちとせの命のぶというなり」という古歌を唱えながら、左回り・右回り・左回りと、八の字を書くように三度くぐり抜けなければならない。私は一回だけ適当にくぐってみたが、隊長にそれでは駄目だと叱られてしまう。

 つぎつぎと 見まねの茅の輪 くぐりかな 《快歩》

 狛犬の形が変わっている。もともと想像上の生き物だから、一般的には装飾的な姿が多いのだが、この狛犬は全体に細身で背が高く、装飾化への意志がない。写実主義かとも思えるほどで、そうならば、これは美術史的に新しい形ではないだろうか。左の「吽」の方はそうでもないのだが、右の「阿」が背を一杯に伸ばして吼えている姿は、羆か狼が伸び上がって吼えている様子を髣髴させ、なにやら物の怪じみた禍々しさを感じてしまう。
 狛犬と唐獅子の違いがいまひとつ理解できなかったのだが、たぶん同じものなのだな。勿論、両者を意識して区別する場合には、一方に角を生やしたりするというのは、前回、芝神明宮で見たとおりだ。
 古代中国で百獣の王とされたのはライオンではなく虎だ。東から左回りに青竜・朱雀・白虎・玄武となって、虎は西を守る神に当る。おそらくエジプトかメソポタミアの辺りからライオンに対する信仰が生まれ、中国及び朝鮮半島を経由して日本に伝播した。伝播のルートによって「狛犬」と言い「唐獅子」というに過ぎない。

 ――獅子は死者の世界において、邪悪なものから守るとされた。墳墓や聖域を守護するにもってこいの聖獣である。その典型的な例が、日本での神社本殿前に立つ狛犬であろう。狛犬は高麗犬で、中国より高麗を経て我が国に伝来されたもので文明のルートを物語る。唐獅子は唐の獅子を意味する。獅子舞も中国の民間芸能の影響を強くうけたものである。聖獣として獅子は東アジア全域に広がる。当初は翼をもった獅子で四脚で立っていたが、次第に前脚を立て座った日本の狛犬のような形となっていく。中国でも南北で獅子像が異なり、北はライオンの実像に近く、南は想像がより多く加えられた像となる。(http://www.nakanoprint.co.jp/chitanokaze/4seijyu/seiji_06.html)

 神社や神道と言えば、日本古来の純粋なものと思いがちだ。しかし、この狛犬に見るように、明らかに大陸文化の影響の下に発展していたことを確認しておきたい。周辺から弧絶した「純粋」な伝統などというものはない。仏教との習合など、先進的な文化に触れることで、神道は生き延びた。

 本殿右横の天水琴の竹筒に耳を当てていたあっちゃんが「いい音色です」と言うので、それに続いてみる。水滴が地中に落ち、それが竹筒の中で反響して、微妙な音を奏でる。深々と脳髄に染み入る。隊長が、もう一つあると教えてくれ、それにも耳を当ててみる。
 「三澤さんがいれば何か薀蓄を喋っていた筈よね」「今日は随分静かな会になったね」「そうそう」
 ゴツゴツとした姿の鬼が水盤を支えている。かえる石。裏口から出ようとするところに富士塚がある。「もしかして、ここが正面の入口?また裏口から入ったのかな」と誰かが言えば、「今日は三澤さんがいないから、裏口でもいいんですよ」と誰かが答える。

 職安通りと明治通りが交差する辺りに島崎藤村旧居跡の碑が建つ。坂本定吉所有の貸家のあったところだ。住所表示は歌舞伎町になっている。実際の家は碑から振り向いた所にある新宿ノアビルのところだった。

 江口さんの計画では昼食は「更井」のパスタだったのだが、あいにく今日は休みだ。まだ昼にはちょっと早いのだが、この先には食事ができそうな店は余りない。蕎麦にでもしようかと、ちょっと戻ると東新宿食堂という定食屋が見つかった。「下町の味」などと訳の分らないキャッチフレーズの幟が揺れている。時間が少し早めなので広い店内が空いている。惣菜が並んでいるケースから好きなものを選んで取る方式だ。穴子の天麩羅にけんちょう(私は知りませんでした。けんちん汁から汁を抜いたようなもの)、ひじきの煮つけを取ってご飯と味噌汁で税込六百九十四円也。「ついつい取りすぎちゃうよね」と言いながら、みんな食欲旺盛だ。関野さんだけは、ご飯を少なめに貰っている。
 次第にサラリーマンや工事現場の人たちで店内が混んできた。頃合を見計らって外に出る。

 この辺は少し登り坂になっているから歩いていると汗が噴出す。島村さんが「ずいぶんいろんなことを知っていますね」と話しかけてくる。ここにも誤解する人がいた。初めて見る知らないものばかりだから、なんとか調べてきているだけなのだ。
 さらに東に歩いて、右に斜めに下りる坂道を入ると西向天神に着く。この坂を山吹坂というのは太田道潅の伝説に因むものだ。「こんなところに神社があるんだね」と、山下さん、島村さんも驚いている。本当に、普段は表通りしか歩かないから、ちょっと奥に入ると意外なものにぶつかるのだ。神社に入ってホッと息をつくのは、樹木があるためだ。緑陰。微風が快い。東京には意外に緑が多いのだと、皆が納得する。

 この地の鎮守。祭礼は六月二十五日。別当は梅松山大聖院といい、聖護院宮の直末、本山修験派の江戸役所であり大先達である。棗(なつめ)の天神ともいい、または西向天神ともいう。社殿が西を向くためこう呼ばれる。棗と称する由来は不明。
 安貞年間(一二二七〜二九)に京都栂尾の明恵上人が祀ったもので、明慶、覚運らが奉祀した。後に太田道灌が田圃を寄附した。そこで天正年間(一五七三〜九二)兵火により焼失した歳、ご神体は谷間の桜の枝に移された。その桜を瑞現桜というが、今は枯れてしまった。この時青山氏某が村人とともに祠を建てた。聖護院宮道晃法親王が江戸に下った時、大僧都元信を当社の別当とした。この頃には社殿もようやく整備され、四時の祭典も怠る事が無く続けられるようになった。(新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」)

 この説明では、棗の由来は不明とされているが、隊長の調査では、三代将軍家光がよくここに立ち寄り(鷹狩にでも来たのだろう)、社の修理のために棗型の金の茶器を与えたことに因むとのことだ。

 『新宿の女』(石坂まさを・みずの稔作詞、石坂作曲)歌碑がある。昭和四十四年(一九六九)、私が高校三年生のとき発売された。石坂まさをがこの近くで育ったからだという。藤圭子も今では宇多田ヒカルの母親と言わなければ通じない。みんなは、なんだか場違いなものがあると、むしろ顰蹙気味だが、私には溢れる思いがこみあげる。
 四十五年(一九七〇)に歌った『圭子の夢は夜開く』で一躍スターになった。絶対に美少女であったと私は断言するのだが、その容姿と、浪花節で鍛えたしゃがれ声とのミスマッチが藤圭子の魅力だった。ウタダなんかちっとも良いと思わないのは、私が時代とずれてしまっているのだろう。
 『夢は夜開く』という歌は、藤圭子が歌うもっと前、四十一年に園まり(雨が降るから逢えないの/来ないあなたは野暮なひと/濡れてみたいわひとりなら)と緑川アコ(命限りの恋をした/堪らないほど好きなのに/たったひとこと言えなくて)が、それぞれ違う歌詞で歌った。今典拠を示せないのだが、もともと、浜松あたり(だったか)の女子刑務所(少女鑑別所かな)で歌われた作者不詳の歌だ。『ネリカンブルース』や『東京流れ者』『網走番外地』と同じ、獄歌と分類される。詞を読めば実に下らないとしか言いようがないが、その下らなさが身に沁みた時期もあった。
 「十五、十六、十七と私の人生暗かった」と歌う藤圭子は暗い。しかし、その二三年前、岡林信康が「夜明けは近い」(『友よ』)と歌っていたのを私は信じていなかった。暗さこそが信じられた。内ゲバと称する凄惨なテロルが相次いで起った。ロシア革命のテロリスト、サヴィンコフがロープシンの筆名で書いた『蒼ざめた馬』が流行っていた。埴谷雄高『死霊』はまだ四章で中断したままだった。歴史学を志して上京したはずの私は、歴史なんかちっとも勉強せずに、イワンがアリョーシャに語る「大審問官伝説」に圧倒された。理由の分らない行動をすることでナスターシャ・フィリッポヴナを彷彿させる女が私を混乱させていた。
 ダミアのシャンソン『暗い日曜日』と引き比べて、藤圭子に対するオマージュとも言うべき文章を書いたのは五木寛之だが、今本棚を探してみても見つからない。人生論めいた本を書き続けている今の五木には何の興味もないが、あの頃の五木寛之はちょっと良かった。藤圭子も素敵だった。
 あの頃の数年間。ハイライトが八十円で、私はそれを一日二箱吸った。サントリーホワイトが八百円で、角瓶(千四百円か)やサントリーオールド(千九百円かな)を飲んでいる人間を見かけると、とてつもない金持ちに違いないと思った。レッドやハイニッカというとんでもないウィスキーがあり、一本四百円か五百円だっが、味の分らない私でも、それは飲めなかった。二級酒というのがあって、池袋や新宿の赤提灯で冷ならば百円で飲めただろう。ウィスキーのシングルをやはり百円で飲ませる、トリスバーの生き残りのようなバーもあった。焼酎だって今とはまるで違う。初めて球磨焼酎を口にし時の、あの強烈な臭い。あの頃の酒を今、飲めるとは到底思えない。飲めば必ず酔い潰れ、吐いた。そんな酒を飲みながら、薄汚れていた私は中原中也の真似をして「ボーヨー、ボーヨー」と呟いているばかりだった。
 新宿区役所通り裏にいた奈々子、歌舞伎町のリリー、阿佐ヶ谷一番街のお姉さん、代々木上原にいたみっちゃん、池袋のバーテンダー大木さん。往時茫々。

 私の思いとは関係なく、宗匠の感覚は風流に赴く。

 天神や そろり西向く 夏帽子 《快歩》

 本殿の左にある大聖院の駐車場の引き戸を開けて中に入れば、片隅に紅皿の碑というのが建っている。隊長がこの場所を知らなかったので、これは私の自慢だ。雨に難渋した太田道潅に山吹の花を差し出した娘の名が紅皿で、ここがその墓だという。例の「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき(わびしき)」の伝説の主人公だ。後に道潅が大久保に住まわせ、ここで死んだということになった。
 道潅がこの娘に会ったのは「一日、道潅城北高田の地に狩りす。おりしも夏の初め、驟雨たちまち沛然として襲い来る」(『江戸の懐古』)とあるように高田(現在の面影橋の辺)での出来事とされているのだが、異説があり、葛西とも武州金沢であるとも言われている。確か越生にも山吹の里があった。また娘ではなく老婆だったとも言うし、幼少から文学に親しみ歌人として名高い道潅が、この程度の歌を知らなかった筈はないとの説も紹介しながら、しかし『江戸の懐古』の著者は、次の言葉で締めくくる。

 佳話は佳話として存するも可、なんの道潅の真価を上下することやある。

 「これを見ただけでも今日来た甲斐があったよ」山下さんが真剣に感激する。子供の頃ご尊父に散々言い聞かされて育ったという。葉隠れの国ではこの挿話が教育の種になるのか。
 「こっちに夕陽の名所があります」と江口さんの指示に従って本殿の右の奥に戻れば、富士塚だ。江戸の富士信仰は、このような富士塚を五十箇所以上作った。ここにある石が全て富士山から運んだものかどうかは知らない。
 隊長作成の資料によれば、大町桂月が『東京遊行記』(明治三十九年)に「新宿附近唯一の眺望よき処也」と記し、また永井荷風がその美しさを書いているという。今ではビルに隠れて夕陽を見ることもできないだろう。桂月なんかは参照できないから、それでは『日和下駄』を覗いてみると確かに書かれてある。

 ――東京の西郊目黒に夕日ケ丘と云うがあり、大久保に西向天神というがある。倶に夕日の美しきを見るがために人の知るところとなった。これ元より江戸時代の事にして、今日わざわざかかる辺鄙の岡に夕陽を見るが如き愚をなすものはあるまい。然し私は日頃頻りに東京の風景をさぐり歩くに当って、この都会の美観と夕陽の関係甚だ浅からざるを知った。
 ――何一つ人の目を惹くに足るべきものもなく、全く場末の汚い往来に過ぎない。雪にも月にも何の風情を増しはせぬ。かかる無味殺風景の山の手の大通をば幾分たりとも美しいとか何とか思わせるのは、全く夕陽の関係があるが為のみである。

 後半部分は、特にこの西向天神の場所を指しているのではなく、新宿通りや目黒へ抜ける街路のことを言っているのだが、同じようなものだろう。荷風は「かかる辺鄙の岡」と言っている。新宿などはその当時(『日和下駄』が書かれたのは大正の始めのことだ)、風が吹けば砂煙があがり、雨が降れば「泥濘人の踵を没せんばかり」の場末だった。
 黄色い山吹の花が咲いているが、これは一重だから実が生る方だと平野さんが説明する。

 専福寺には月岡芳年の墓。芳年は天保十年(一八三九)に生まれ明治二十五年(一八九二)に没した。歌川国芳に学び、玉楼、玉桜楼、魁斎、一魅斎、大蘇などと号した。歴史画とともに無残絵が評判になったと言われるが、私には知識がない。たぶん、こんなことは荷風が書いているかも知れないと見当をつけてみれば、見つかった。

 ――文政天保時代において画家北斎が文学者馬琴とその傾向を同じうし共に漢学趣味によりてその品位を高めしが如く、芳年は王政復古の思想に迎合すべく菅公楠公等の歴史画を出して自家の地位を上げたり。さればその画風の夙に北斎に倣ふ処ありて一種佶屈なる筆法を用ひしもまた怪しむに足らず。余は芳年の錦絵にては歴史の人物よりも浮世絵固有の美人風俗画を取る。風俗三十二相は晩年の作なれどもその筆致の綿密にして人物の姿態の余情に富みたる、正にこれ明治における江戸浮世絵最終の俤なりしといふべし。(永井荷風『江戸芸術論』)

 本堂脇に小さな親鸞像が安置されている。葉が妙に白い草をみて、「ハンゲショウです」と、あっちゃんが指差す。葉がペンキを塗ったように白く変化している。ドクダミ科。半夏生の頃に白変し、あるいは花が咲くから半夏生という。葉の付け根から白くなるので半化粧とも書き、片白草ともいうようだ。
 なるほどとは思ったものの、それでは半夏生の頃とは何か。こんなことまで気にしだすと収拾がつかなくなってしまいそうだ。旧暦では月齢による暦だけでは季節感がずれて行くため、太陽の運行に基づいて一年を均等に分割した暦を併用する。太陰太陽暦という所以だ。二十四分割したものを二十四節季といい、さらにそれを三等分したものを七十二候と名づける。二十四節季の一つ夏至から次の小暑までの間に、「鹿の角解つ(しかのつのおつ)」「蜩始めて鳴く(ひぐらしはじめてなく)」「半夏生ず(はんげしょうず))と三つの候があり(これには少し違う呼び方もあるようだ)、夏至から数えて十一日目が「半夏生ず」となって、現在の暦では七月二日頃に当たる。春分を基点に黄道を三百六度に分割したものを黄経と言い、夏至は九十度、半夏生は百度に相当する。
 それでは、そこに生ずる「半夏」とはなんだろう。サトイモ科のカラスビシャクという植物がありその塊根は漢方薬になって半夏と言う。カラスビシャクの花が咲く頃、これが「半夏生ず」候なのだった。実に面倒くさい説明になってしまうから、隊長の句に切り替える。

 親鸞の 像の目線に 半夏生 《快歩》

 抜け弁天。正式には厳島神社で、永保三年(一〇八三)源義家が後三年の役で奥州に赴く時に、戦勝を祈願したのが創建の由来だという説明が記されている。しかし義家ならば、その名にし負う八幡に祈願するのではないか。平清盛と厳島神社の関わりがすぐに浮かぶから、源氏と厳島神社とではなにやら不思議な思いがするのだが、それとも、八幡太郎の時代には厳島神社と平家との結びつきはまだ、それほどでもなかったのだろうか。どうやらこのあたりはかつての(江戸時代以前の)奥州街道に沿っているようだ。

 奥州街道は渋谷より千駄ヶ谷、冨塚、滝野川、西ヶ原、平塚、箕輪の各地を過ぎ、隅田川を越えて、隅田村の方へいたれるものにして、今の東京の市外を、西より北、北より東へと迂回せしなり。(『江戸の懐古』)

 日本橋を起点にする街道を思い浮かべてしまうと違ってくるのだが、武蔵の国府は府中だから、たぶん、府中から渋谷に出て千駄ヶ谷から滝野川に北上し(地図で線を引けば、おおよそこの辺りを通りそうだ)、やがて東の隅田川に出る道があったのだろう。とすれば在五中将業平も通ったし、鎮守府将軍源頼義、八幡太郎義家も通ってもおかしくない。さらに奥州に下った義経も同じ道を歩いたに違いない。鎌倉時代になれば、当然鎌倉街道とも呼ばれたのだろう。
 神社自体はとても小さい。用事があれば西向神社に来いと案内が掛けてあるから、宮司は兼任しているのだ。南北に抜けられるから抜け弁天。これに因んで職安通りは抜け弁天通りとも言う。別に苦難を切り抜ける意味だという説もある。「私たち、百発百中も見たし、どんなことでも切り抜けられる。これで百人力ですね」とあっちゃんが言う。
 これが紫式部だと彼女に教えられたのは、秋になれば紫色の清楚な実をつけるそうだが、今の時期の花はそれほど美しいとは思えない。「今覚えた積もりでも、あとになったら小野小町なんて言っちゃうかもしれないね」と関野さんが笑う。どうやら私と同じで植物には強くない。ユズリハ。楪(ゆずりは:ユズリハ科の雌雄異株の常緑高木)。別に弓弦葉(ゆづるは)、交譲葉(ゆずりは)、親子草という呼び方もある。植物班の説明に、初参加の二人が驚いている。

 抜け弁天のあたりから東にかけ、この付近に広大な犬御用屋敷があった。江戸時代を通じてこれほど愚劣で痴呆的な政策が実現したのは空前絶後のことだった。若松地域センターの前に説明版がある。ここでトイレ休憩。

 元禄七年四月二十三日、大久保の御用邸二万五千坪を割きて、犬小屋を建て、江戸中を捜索して、主なき犬を捉え、ことごとくここに収容す、その総数十万頭に達して、さしも宏大の犬屋敷も、たちまち狭隘を告ぐ。ここにおいてその翌八年九月、さらに中野の地十万坪を画して、犬小屋を建つ。(『江戸の懐古』)

 「お犬様」に充てる費用が莫大だった。一日、犬一頭につき下白米三合、味噌五十匁、干鰮一合。元禄八年十二月の記録では、一日の消費量が米三百三十石六升、味噌十樽、干鰮十俵、薪五十六束となる。これで計算すれば、犬の総数は十一万二十頭になり、米だけで年間の総費用十二万石に及ぶ。
 元禄八年は奥羽大凶作の年で、弘前藩では餓死者三万余、盛岡領内でも餓死者五万人を超えた。十月に幕府は弘前藩に米三万俵を貸与しているが、犬に給付されたものと比較して余りに少ない。それを言うと「やっぱり地元の恨みが残っている」とこれも東北出身のあっちゃんが笑うが、別に奥羽の恨みだけを言うのではない。彼女は逆に、この時代に動物愛護の精神があったということ自体を少しは評価するようだが、これについては別の議論になる。

 小笠原伯爵邸は地下鉄河田町駅出口の目の前にある。
 豊後小倉藩三十代当主長幹(ながよし)によって昭和二年に建てられた。設計したのは、唐津藩小笠原家に仕えた曾禰達蔵だ。曾禰は嘉永五年(一八五二)に生まれ、工部大学校で学ぶ。当時の主任教授は鹿鳴館を設計したお雇い外国人コンドルで、同窓に辰野金吾(東京駅・日本銀行本店など)、片山東熊(迎賓館赤坂離宮)がいる。小笠原邸は、イスラムの影響を受けた本格的なスパニッシュ様式とされる。黄土色の土壁の形を見れば、なるほどアラブかスペインの城砦のようにも思えて来る。
 太平洋戦争後、占領軍に接収されてからは小笠原家の人間は住むことがなく、返還後は東京都所有になり児童相談所として使われた。やがて老朽化が烈しく、長期間空き家の状態になったが、東京都には金がない。修復を条件に公募の結果、青和インターナショナルに無償で貸し出され、二〇〇二年、レストランとして再生した。予約しなければ入れない。
 映画の書割のような背景を描いた壁は必要だろうか。入口の正面に向かって写真を撮っていたあっちゃんが、「お店から出てくる振りをして撮ってもらいたいわ」と言うが「だけど、そのリュックじゃどうだろう」「靴もパンプスでなくちゃね」などとみんなが応酬する。
 もう一度抜け弁天を通り抜け、坪内逍遥旧宅、演劇研究所跡に着く。あやうく通り過ぎそうになりながら、隊長がなんとか道路脇の説明版を発見した。面影は全くない。明治二十二年、本郷真砂町の炭団坂上の家から、ここ牛込余丁町に移転した。三十九年に島村抱月とともに文芸協会を設立。四十二年九月にはこの自宅敷地内に文芸協会演劇研究所を開いて、新劇がここから始まる。第一期生に松井須磨子がいて抱月との運命的な出会いが生じた。

 もう少し南に行けばすぐに断腸亭跡だ。もともと荷風の父久一郎(禾原と号す)の邸宅で、敷地約千坪。漢詩人でもあった久一郎は来青閣と名付けた。父の死後、荷風はその離れに住み込んで断腸亭と称した。弟威三郎とは義絶同様の間柄となり(新橋芸者の八重次を入籍したことによる)、母は威三郎と同居。父の邸宅は改築を理由に威三郎によって取り壊され、断腸亭に拠った荷風ひとりが父の旧宅を守り続ける筈だった。

 ――屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたりしに、この日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑篭などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の往年上海より携え帰られし陶器文房具の類なり、これに依って窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし、果たして然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人々に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。ああ余は幾たびかこの旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。(『断腸亭日乗』大正七年八月八日)

 この秋、この家屋敷を売り払い、最初は築地、そして麻布市兵衛町「偏奇館」へと荷風は転居し、戦災で焼失するまでそこに住むことになる。家の売却によって、地所家屋二万三千円、家具什器千八百九十二円、来青閣唐本書画千百六十三円八十二銭、荷風所持洋書八十七円など総計二万六千二百六十四円二十二銭也を得た。
 「荷風の放蕩はいつ頃から始まったんでしょう」と関野さんに聞かれても、若い頃からだと言うしかない。文部官僚から日本郵船の上海、横浜支店長を歴任した父の財産のもとで、吉原での遊びを覚えた。落語家に入門して三遊亭夢之助と名乗り、歌舞伎にのめりこんだりしながら色町を彷徨った。腕に芸者の名を刺青したこともある。そんな荷風を実業に就かせるために久一郎がアメリカへ渡らせたが、荷風と実業ほど似合わないものはない。父の期待は当然のように裏切られ、荷風は娼婦イデスとの別れを惜しみながらフランスへ渡って帰国する。『あめりか物語』『ふらんす物語』はその結果生れた。

 小さな稲荷が祀られているところが市ヶ谷監獄署跡だった。何の説明もない。脇には清涼飲料水の自動販売機が設置され、稲荷の後には空き缶を詰めたポリ袋が積まれている。「高橋お伝が斬首されたんですよね」とあっちゃん。ここは小伝馬町牢屋敷を廃止して明治八年に市ヶ谷に移設したものだ。
 ちょっと歩いて、子供達が遊んでいる小さな余丁町児童遊園に着くと、片隅には「刑死者慰霊塔」が立つ。東京監獄署跡。明治三十六年六月より収監を開始し、昭和十二年に廃止された。総レンガ造りの近代的な建物だったという。さっきの市ヶ谷監獄が老朽化して、ここに吸収されたのだ。廃止されるまでの間、一九二〇年(大正九年)には監獄官制の改正で市ヶ谷刑務所と呼ばれるようになったから、名前が紛らわしい。
 片隅の石に腰を下ろして、「お伝と阿部定って、どっちが毒婦だったんだろう」と平野さんが疑問を投げる。谷中墓地のときから、平野さんはお伝と阿部定が好きだ。「阿部定は死刑になってないよね」
 お定さんは主観的には殺人を犯す積りもなかったわけだから、お伝に較べれば罪が軽いのではないか。事後、色々とややこしいことをしてしまったが。殺人の意志と刑罰の等級についてあっちゃんが一家言を披露する。ここで、「罪」と「罰」について議論するだけの能力は私にはない。『愛のコリーダ』の話題。
 戦前の社会主義運動の歴史を見れば、この市ヶ谷刑務所に収監された経験を持つものが多い。もっとも有名な刑死者は幸徳秋水を始めとする大逆事件被告たちだが、江口さんは、姦通事件で投獄された北原白秋の歌を紹介してくれた。

 しみじみと涙して入る君とわれ監獄の庭の爪紅の花(収監されたとき)
 くれなゐの濃きが別れとなりにけり監獄の花爪紅の花(出所するとき)

 監獄は「ひとや」と読み、爪紅の花は鳳仙花だそうだ。宗匠と違って私は荒畑寒村の文章を思い出す。本来であれば寒村、堺利彦、大杉栄なども捕らえられた筈だが、たまたま赤旗事件で千葉監獄に収監されていたことで命永らえた。

 四十四年一月二十四日、大逆事件被告十二人の死刑が執行された。前年の秋に出獄した堺先生が悲憤やる方なさに酒を被って大酔淋漓、杖をふるって軒燈をたたき毀しながら深夜の街上を彷徨したというのはこの時である。(中略)棺の蓋を払って菅野の死顔を見た安成は、頚筋の幅ひろい暗紫色が絞刑の策の跡を示していると語ったが、私にはどうしてもそれを見る勇気がなかった。判決後、彼女は堺先生に寄せた訣別の手紙の中で、「断頭台に上る最後の際までも寒村の健康を祈ってゐると伝へて下さい」と記していたが、私も幾度か処刑前に彼女と会って今生の別れを告げたいと思いながらも、生別死別の哀しみを忍び得ないでついに決行できなかった。私は彼女を愛していただけに、それだけ一時は烈しく憎みもしたが、今となっては彼女の数奇な運命を哀しみ、悲惨な最期を悼むの情にたえない。(『寒村日記』)

 処刑の行なわれた日から僅か八日後、徳富蘆花は旧一高大教場で、準公開の講演を行なった。当時、こんな意見を公然と発表したのは、徳富健次郎唯一人だった。社会主義に理解を持っていたわけではない。トルストイアンとしての理想主義、平和主義が、こう言わせた。後に荷風がドレフュス事件におけるゾラの態度と自分とを比較して、文学者としての己の責任を感じて後悔する。

 ――彼らは乱臣賊子の名をうけても、ただの賊ではない。志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為の志士である。自由平等の新天新地を夢み、身を献げて人類のために尽さんとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとも、その志は憐れむべきではないか。
 ――白日青天、明治昇平の四十四年に十二名という陛下の赤子、しかのみならず為すところあるべき者どもを窘めぬいて激さして謀叛人に仕立てて、臆面もなく絞め殺したに到っては、政府は断じてこれが責任を負わねばならぬ。麻を着、灰を被って不明を陛下に謝し、国民に謝し、死んだ十二名に謝さなければならぬ。(『謀叛論』)

 民家の敷地の間の狭い路地を抜けてまた表通りに出る。「ここだけが道がよく分らないんですよ」と江口さんが言いながら、曲がりくねった路地を入ってなんとか辿りついたのが、鎮護山自證院だ。寛永十七年(一六四〇)創建。堂宇が節目の多い檜で建てられたため瘤寺という異名があるが、戦災で焼失し、再建された建物に今瘤はない。すぐ近くに住んでいた八雲が毎日のように散歩に訪れた。ある日、貸家にするため境内の大きな杉の木が切り倒され、八雲は深く悲しむ。「生命を大事にする筈のお寺が木を切るなんて、言っていることと違うじゃないですか。酷い」越谷支部長が憤慨する。
 「あれって葵のご紋でしょうかね」正面に描かれた紋を見てあっちゃんが質問すると、即座に江口さんが答える。家光の側室お振りの方を供養するために開基された。だから葵がある。「阿弥陀三尊種子」という梵字についても江口さんが調べていた。上に阿弥陀如来を表す文字、その下に小さく左右に観世音菩薩と勢至菩薩が並ぶ。
 寺を出ると成女学園だ。一人だけ日直で残っているらしい受付の女性に江口さんが頼んでくれたので、校内に入ることが許された。講師室と書かれた部屋の表札が相当に古い。中庭の壁面には蔦が絡まっている。建物に金をかけていない。あまり流行ってはいないのではないかと思ってネットで検索してみると、こんな教育方針にぶつかって困ってしまう。余計なことだが、これでは生徒は集らないのではないか。

 処女としての現在は勿論、妻母としての将来においてもよく時代の趨勢を理解して実際の事務に迂闊ならず、理想を追うてしかも労働を厭はず、身を持するに温良快活にして且つ着実勤倹なる女性たらしめん事を期す。

 中庭に入って、囲ってある草の中に足を踏み入れると、奥に「小泉八雲旧居跡」の説明版がある。木の枝を避けながら読まなければならない。随分不便な場所に立っている説明版だ。薮蚊が出そうですぐに退散する。江口さんの参照している参考書には、実際の家は体育館になっている場所だと書かれているので、あれかなと、すぐそばの建物を見上げる。ところが外に出ると、道の向かいの坂の上に体育館があった。「ここに書いてくれればいいじゃないか」とは誰でも思うことだろう。市ヶ谷監獄に近いので、子供の教育への影響を慮って、西大久保に転居したのだ。「孟母三遷みたいだね」と山下さんは意外に古いことを言う。

 靖国通りに出て坂を上ると、平秩東作(へづつとうさく)の墓がある善慶寺。江戸期の梵鐘がある。「供出されなかったんだ」と言ったのは誰だったろう。
 江口さんはよくこんな人物を見つけてきたね。蜀山人や平賀源内の伝記に詳しい人なら知っているかも知れないが、私は知らなかった。稲毛屋金右衛門と言い、馬宿と煙草屋を営んだ。名前だけは何かで見かけた記憶があって探してみたが、田中優子『江戸の想像力』に「一七八三年には工藤平助と平秩東作(狂歌師として有名)が蝦夷調査を行なって」と一行だけ出てくるだけで、良く判らない。荷風『江戸芸術論』には次の文脈で出てくる。

 ――蜀山人が随筆を見るに江戸にて始めて狂歌の会を催せしは四谷忍原横町に住みし小島橘洲にしてそのとき集れるもの大根太木、飛塵馬蹄、大屋裏住、平秩東作ら四、五名に過ぎざる事を記したれども――
 ――蜀山人始め寝惚先生と号して狂詩集を梓行せしは明和四年十九歳の時にしてその先輩平秩東作平賀鳩渓(鳩渓というのは源内のことです)らと初めて相知れり。

 江口さんが下見のときに住職から「想像以上に小さいですよ」と念を押されたそうだが、その通りに墓は小さく、表面に「南無阿弥陀仏」と丸く図案化された書体で縦書きに書いてある。こんな書体はみたことがない。その下には横書きで「立松氏之墓」とあるが、これもずいぶん幾何学的な字だ。「立松」は東作の苗字になる。
 『先哲叢談』という本がある。原念斎が江戸前、中期の儒者七十二人の小伝を記述した(文化十四年)。念斎没後、その拾遺を志して東條琴臺が続編、後編を書き継いだのだが、その続編「巻之十一」に「立松東蒙」の名で平秩東作の伝がある。こんな本のことを知っていたわけでは勿論なく、ネットで偶然見つけたものだ。原念斎のものは平凡社(東洋文庫)から刊行されているので手に入れることができた(因みに水戸黄門の、格さんの伝記があった。本名安積覚兵衛)。しかし後編、続編は刊行されていない。これを電子テキストにして無料で公開している人がいるのだ。国語の教師らしいが名前も明示していない。その無償の行為には頭が下がる。こういう努力こそ日本文化へ貢献するものだ。
 (http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/pre001.htm)ちょっと長くなるが引用してみる。

 立松東蒙。名は懷之、字は子玉、東蒙山人と號す、別に嘉穗と號す、通稱は嘉兵衞、尾張の人なり、東蒙は尾府通籍の士なり、少壯より小吏となるを欲せず、禄を弟に讓り、平安及び浪華・奈良・伏見・長崎・熊本等の諸方に漫遊す、歳三十二、初て江都に到り、市谷田街に僑居し、教授を業と爲す、東蒙は頴悟俊拔、斯文を以て一世を振揚せんと欲す、數々火災に罹り、窮甚し、以て衣食を給するなきに至る、然れども一毫も妄に人に取らず、日に醇酒を沽ひて之を飮む、蓋し都下に在ること三十餘年、未だ嘗て此樂を罷めず、(つまり、金はなかったが酒飲みだった)
 詩あり、曰く、東閣賢を招て訪求を競ふ、弊裘笑ふに堪へたり漢の諸侯、一たび豪氣の盃酒を甘んじてより、潦倒醉中九流を窮む (東閣招賢競訪求、弊裘堪笑漢諸侯、一從豪氣甘盃酒、潦倒醉中窮九流)
 東蒙始めて京に遊び、業を伊藤蘭嵎に受く、專ら堀河の言を修め、篤學敦行を以て儒林に稱せらる、東來の後、陋巷に僻居す、遂に其人と爲りを知る者なし、惜むべし、
   (儒学を修めたが陋巷に逼塞したため、世間に知られなかった)
 東海毎に人に語りて曰く、市井の愚俗、雜劇・院本を觀て、忠臣・孝子、義烈・芳節の世に照映する者に遇へば、感觸洩發す、秉彝の性、得て掩ふべからず、悲傷歎賞、涕泣嗚咽、自ら禁ずること能はざるに至る、是に由りて省檢するに、敦樸善に趣く者あり、憤激行を修むる者あり、士大夫、少壯より書を讀み道を講ず、一たび出身して後は、棄擲して顧みず、其身を終るに至るまで、一善を會得すること能はず、其志す所は、飽煖己に適するに過ぎず、之を市井愚俗の罪人と謂ふと雖も可なり、
 (世に憚る連中は、学んだことが生活の倫理に繋がっていないではないかと罵倒している。次からが、東作の本領にあたる)
 東蒙、歳知命に至りて、家益々窮迫す、自ら世の我を遇せざるを識る、故に朝野を愚弄し、富貴を傲視す、講業の暇傍ら國學に通じ、好みて和歌を詠ず、又流俗の謂はゆる狂歌なるものを以て、世に著聞す、蓋し狂歌は國風の遺意より出づ、其體雅ならずと雖も、均しく是れ三十一言の聲調なり、明和・安永より以降、其技を好む者、陸續として斷えず、近時に至りて海内に傳播す、其異同ありと雖も、之を首唱するは斯人に創まる、東蒙、狂歌に於ては乃ち平秩東作と號す、後、其技を以て時に鳴るもの數人、唐衣橘洲・大屋裏住・元木網・蔦唐丸・四方赤良等のごとき、皆弟子なり、(後略)

 これを正確に読めと関野さんに追及されても、私にだって読めません。知らない文字が多すぎる。そこは適当にイメージするしかない。
 天明狂歌を率いたのは四方赤良(太田蜀山人)で、朱楽菅江、唐衣橘洲などが有名だが、上の記事を信用すれば、皆東作の弟子だということになる。狂歌についてはよく知らない。酒上不埒(さけのうえのふらち)、腹唐秋人(はらからのあきうど)、大屁股臭(おおへのまたくさ)など、作者達はふざけた狂名を用いた。「芝うんこ」などという名に至っては呆然としてしまう。彼らは幕府官僚、旗本、町人など様々な階層にまたがっているが、その仲間から落語も発生した。江戸落語再興の祖と言われる烏亭焉馬は野見釿言墨金(のみちょうなごんすみかね)の名で狂歌を作る大工の棟梁であった。「金」の字は「曲尺」を当てる例もある。
 不思議にこの種の才能が寄り集まった。「馬鹿孤ならず、必ず隣有り。目の寄る所たまが寄る」(平賀源内)と言う所以だ。奇人平賀源内を筆頭に、この時代にはある種の異常さが感じられる。活躍の場は狂歌だけでなく、戯文あり、落語あり、今で言うコピーライターの世界がある。つまり、十八世紀後半の日本は文化の爛熟期であった。
 別に言えば幕藩体制下の閉塞感からの脱出願望の強い時代であったとも言えるかも知れない。「自ら世の我を遇せざるを識る、故に朝野を愚弄し、富貴を傲視す」とあるが、世に容れられない不満は東作だけではなかった。何を思ってか蝦夷地まで出かけた挙句、「朝野を愚弄」する辞世を残した。江口さんは「罰当たりな」と言う。

 ナムアミダ ブットイデタル ホウミョウハ コレガサイゴノ ヘヅツトウサク

 快歩氏の予定したコースはここまでだが、まだ二時半だ。幾らなんでもこれで終ってしまっては早過ぎる。四谷大木戸に行ってみることになった。

 甲州街道と新宿通りの分岐に来て、地図でみればこの辺りなのだが良く分からない。隊長も私と同じ程度に地図の読み方が得意ではなさそうだ。たまたま交通整理の警官がいたので聞いてみた。ここで取締りをしているにしてはものを知らない警官だが、どうやらそこではないかと指差してくれたので行ってみた。確かに碑が建っている。四谷大木戸、玉川上水の水道碑が並んでいる。ところが一人の浮浪者が、どういう理由によるものか、私たちに異様な敵意を剥きだしにしてやたらに悪態を吐き続ける。鬱陶しいからすぐにその場を離れた。後日もう一度来てみることにする。
 玉川上水は、羽村で取り入れた水を、武蔵野台地の高低差を利用してこの大木戸まで導いた。その距離およそ四十三キロ。ここから江戸府内へは暗渠によって配水された。この地点が、江戸の西の外れだったということになる。
 しかし暑い。汗が噴出してくる。コーヒー休憩。ひとり静かに読書をしていた若い女性にひとつ席を詰めてもらい、七人が納まる場所が確保できた。店内は禁煙だから島村さんは外に出てタバコを吸っている。今日の喫煙者は二名。

 たぶんこの辺じゃないかなと新宿通りから曲がると、ちょうど太宗寺の正面に出て、隊長に勘の良さを誉められる。
 門の右脇には江戸六地蔵第三番の丈六坐像が門の脇に鎮座している。私たちのこのシリーズでは、深川霊巌寺で見た。平野さんはまだ東都六地蔵と間違えている。(第三回「谷中編」を参照のこと)江戸六地蔵は全て坐像の丈六仏で、私はこの他に巣鴨の真正寺で見ている。東都六地蔵(始めの六地蔵とも言う)の方は八尺の立像だ(こっちは日暮里浄光寺、団子坂上の専念寺に現存しているのを確かめた)。漱石が書いているよと、前に江口さんに教えられていたので探してみた。

 彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下ろした。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった、その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に座っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉ったりして、後から肩に手が届くか、または笠に自分の顔が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りてきた。(『道草』)

 「お地蔵さんに上ったり、結構ワルだったんだね」と平野さんが言うのがおかしい。幼い漱石の淋しさに思いを致す。この辺りが内藤新宿の中心だった。信州高遠藩内藤家の下屋敷の一部を割いて新しい宿場をつくったから内藤新宿と言われる。新宿御苑も内藤家の屋敷跡だから、広大な敷地だったのだ。甲州街道最初の宿場は高井戸だが、日本橋からは四里余り、遠すぎて人馬共に苦労しているという理由でこの地に開かれた。しかし旅の目的よりも、飯盛り女、宿場女郎を置いたことで賑わった。開宿の二十年後、一時新宿は廃されたがその五十年後、復興を許される。
 寛永六年(一六二九)、第五代正勝の葬儀を一切取り仕切ったことで、太宗寺は、六代重頼から七千三百九十六坪の寺領の寄進を受けた。内藤家墓所には、中央が五代正勝、右に十三代頼直、左に内藤家累代墓と並んでいる。かつて墓所は三百坪、五十七基の墓塔があったが、東京都の区画整理のために、まとめて改葬された。大きな石の墓誌にはその五十七の人名が刻まれている。
 閻魔大王と脱衣婆の像がある。スウィッチを押すと一分間だけライトが点灯し、安置された堂の内部が良く見える。閻魔と鍾馗って同じだったかなと平野さんに聞かれてもすぐには答えられない。だけど、明らかに違う筈だよね。閻魔は地獄に落ちるか極楽浄土へ行けるかの判定をする裁判官のようなものだったと思う。鍾馗については、こんな伝説がある。
 玄宗皇帝がマラリアに罹り、高熱に浮かされる中で多くの悪鬼を大鬼が現れて退治する夢を見る。大鬼は自分は鍾馗だと言う。科挙に合格しながら、その髯面で恐ろしげな容貌で合格を取り消され、絶望して自殺したが、手厚く葬られたのでその恩に報いるため、天下国家の災いを除くことに執心しようと誓いを立てたのだ。夢からさめた玄宗は病気が全快して、自分の命を救ってくれた錘馗を今後は神として定め、祀ることにし、以来錘馗は、受験の神様・疫病除けの神として祀られるようになったという。
 脱衣婆は白髪を振り乱し、おどろおどろしい姿をしているが、遣り手婆の元祖となって新宿の娼妓に信仰された。身ぐるみ剥がれることが、新宿では江戸時代から常態だったのだ。内藤家の墓所から出土した切支丹灯篭。確かに下の部分の人間は十字になっているようだが、これがマリア像だ。マリア観音と言う。
 三日月不動像を安置した不動堂の前には浮浪者が寝転んでいるため近づけない。

 若山牧水が下宿していたという酒屋を隊長が教えてくれるが、何の説明もない。新宿通りを駅の方に歩き、伊勢丹の向かい、追分団子の店のある方の歩道に、江戸時代の街道が丸い円に図示されているのを江口さんが教えてくれる。こんなところに、こんなものがあったのか。新宿を本拠にする会社に三十年以上勤めていて、私はそんなことも知らない。街道の分岐する地点を追分と言い、ここは甲州街道と青梅街道との分岐にあたる。

 隊長の絶妙な時間調整のお蔭で、四時を少し回ったところだ。「桜水産」はもう開店している。急げ幌馬車。酒を一滴も飲めない関野さんも今日は付き合ってくれるというから嬉しい。
 関野さん以外はまず生ビール。今日は酷く汗をかいたから水分が身体に沁み込んで行く。焼酎。私たちはどうやら小笠原伯爵邸のレストランには合いそうもない。酔っていくにつれ、芝で生れた平野さんが頻りに「シティボーイ」を自称するものだから、私はおかしくなって、ついつい「本当は北海道でしょ」と笑ってしまう。なぜか鬱病の話題になって、真面目な人間ほど罹りやすいというから、私は自分がいかに真面目な人間であるかを力説するが、誰も信じてくれない。平野さんはこれからブログを開設するので、疑問点を江口さんに質問している。二時間ほど飲んで解散。一人二千円は桜水産ならではだ。