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    第六十回 小田原編 ――碁聖・関野悟朗氏を偲び――
    平成二十七年九月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.09.22

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     八月二十七日(木)、碁聖が八十四歳で逝った。春先から入院していたが、そろそろ回復してまた会える頃かと待っていた矢先だった。二十八日の朝に知らされ、電話口で私は取り乱していた。碁聖はこの会には第四回から参加しているから古いメンバーの一人で、私とは十七八年の付き合いになる。一月の第五十六回「皇居界隈編」に出たのが最後だった。背筋のピンと伸びた姿勢が若々しく元気な人だった。時折発する捻りの利いた一言やカラオケでの声量ある低音も、二度と聞くことができないのだ。

     秋霖や背筋伸ばして逝きしひと  蜻蛉

     通夜は前日からの雨の晴れ間に行われたが、その頃から半月以上、雨が降り湿度の高い梅雨のような日が続いた。朝晩はひんやりとするのだが、ちょっと動くと汗が流れてくる。しかも台風十八号から変わった低気圧が停滞していた秋雨前線にぶつかり、同時に列島に沿って太平洋岸を北上する十七号の影響もあって九日、十日の関東地方は大雨となった。栃木県、茨城県の被害が大きく、特に鬼怒川の堤防が決壊した茨城県常総市では広範囲に水が氾濫した。埼玉県内でも越谷のせんげん台駅前の道路が冠水した。幸いドクトルの家では、水は庭の芝の丈を若干越える程度で特に問題なく、あんみつ姫の家も無事である。
     埼玉県は金曜日にはすっかり晴れて夏が戻った。しかし北上した雨は宮城県でも堤防を決壊して大きな被害を齎した。町や田が泥沼と化し家が流される光景を見れば、どうしても三・一一を想い出してしまう。

     地震で目が覚めたのは五時五十分頃だった。揺れは二十秒程続いただろうか。震源地は東京湾で、多摩東部が震度五弱、周辺地域で震度四、川越では震度三程度だったらしい。いずれにしても大した被害はなく、電車は問題なく動いているようだ。
     旧暦七月三十日。白露の初候「草露白」、明日からは「鶺鴒鳴」という季節だが、今日も暑くなりそうだ。昨日は今年初めてヒガンバナ一輪を見た。予告もなく、いきなり咲く花である。今日はスナフキンの企画で、碁聖にも所縁のある小田原を歩く。碁聖は小田原高校の卒業生だったのだ。
     今更ながら六十回という回数を考えると茫洋とする。組長、隊長、講釈師、桃太郎、あんみつ姫、蜻蛉の六人でスタートした当初は、こんなに続くとは想像もしなかった。あれから十年、その間にメンバーも入れ替わりながら随分増え、当然のことながら私たちも年を取った。
     駅までの道で今年初めてキンモクセイの香を感じた。鶴ヶ島を七時十三分に出て、新宿で八時十八分の快速急行藤沢行きに乗った。十一分発の急行小田原行もまだ間に合ったが、車内が混んでいるし、最初から座りたいのでやり過ごした。相模大野で八時五十二分の急行小田原行に接続して九時四十五分には小田原に着く筈だった。
     しかし雲行きが怪しくなってきた。頻りに車内放送が流れ、地震の影響でロマンスカーは運行を停止している、線路の点検は完了しているが所々速度を落とす部分があると言う。「ただいま四分遅れで走っています。」「先行する電車は最大十分遅れになっています。」やがて、「相模大野で小田原行には接続しません」と放送された。横着せずに、さっきの小田原行きに乗るべきだったろうか。
     相模大野には八分遅れて到着し、予定していた小田原行はとっくに行ってしまっている。次の九時三分始発の小田原行は三分遅れで出発したが、小田原到着予定が分からない。念のために、遅れるかも知れないとスナフキンにメールを入れた。小田原まであと七駅の新松田の辺りではかなり遅れそうだったが、小田原に近づくに連れ駅間距離が短くなって、なんとか十時四分に着いた。急いで西口に向かう。
     集まったのはスナフキン、ヨッシー、マリオ、ロダン、桃太郎、小町、あんみつ姫、マリー、マリーの友人のお園さん、蜻蛉の十人である。お園さんは小田原出身で、マリーとは、その娘が幼稚園時代からのママ友達だった。「それじゃ俺より詳しいでしょう」とスナフキンが言うと、「解説を見てもほとんど知らないところばっかりです」と謙遜する。
     私が最後だった。「小田急が遅れたんだよ。」「私たちも小田急だけど、全然遅れません。定刻通りですよ。」おかしい。先行する電車も遅れていると車内放送があったではないか。「地震の影響があると思って、予定より早く出てくるでしょう。普通は。」
     ところで江戸東京を歩く会(正式な名称として議論した訳ではないが、私は勝手に「江戸東京季節を歩く会」と名付けた)で、何故小田原なのか。違うではないかという人は考えが狭い。東京や埼玉の至るところには北条氏の痕跡がある。家康の江戸入部以前、武蔵国一円は北条氏の支配下にあり、最盛期には群馬・栃木・茨城の南部で諸勢力との抗争を繰り返していたのだから当然である。八王子城や太田金山城は既に見たが、なんといっても北条氏の本拠地を一度は歩いておく必要があるとスナフキンは考えて計画したのだ。
     彼は事前にA4版九ページにもなる地図入りの懇切な解説を作ってくれた。随分力が入っているので、お蔭で私もかなり予習せざるを得なかった。

     ロータリーの真ん中に騎乗の北条早雲像が立っている。遠目で見ると、早雲の馬にまとわりつくように角に松明を括り付けた牛もいるようだ。これは火牛の計を表したもので、木曽義仲が倶利伽羅峠で使った戦法だが、早雲もまた大森藤頼を討って小田原城を手中にするために、この計略を採用したと言う。私は早雲のことは殆ど知らないが、スナフキンは今日のために司馬遼太郎『箱根の坂』を読んできたのでかなり詳しくなっているだろう。
     以前は、早雲の出自は素浪人だとされていた。美濃の斎藤道三と同じように、どこの馬とも知れない人間が成り上がった戦国下剋上の典型だと考えられていたのだが、最近では、名門伊勢氏の支流で、備中国荏原荘(現井原市)に生まれたことがほぼ確定した。父伊勢盛定は足利義政の申次衆であり、母は政所執権の伊勢貞国の娘である。そして姉の北川殿は今川義忠の正室になっているから、一族は幕府内で相当な地位にあったことが分かる。今川氏は足利氏の支流で、万一の場合には吉良氏、その次に今川氏から将軍を出すと決まっている家柄である。
     早雲自身も文明十五年(一四八三)足利義尚の申次衆となっている。申次衆とはどの程度の位置にあるのか、ウィキペディアで確認してみる。

    幕府の申次は将士が将軍に拝謁するために参上した際にその姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。室町幕府六代将軍足利義教の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の四氏出身者によって独占されるようになり、彼らは数名で結番して交代で申次の職務にあたった。これを申次衆と呼び、後に御相伴衆・御供衆・御部屋衆に次ぐ家格としての意味を有するようになった。

     通称は新九郎、正式には伊勢盛時、号は宗瑞。早雲の名は出家してからのもので、北条氏を名乗るのは二代氏綱からである。駿河国にやって来るまでの早雲の経歴ははっきりしない。
     文明八年(一四七六)、応仁文明の乱の真最中に今川第五代義忠が討ち死にする。応仁文明の乱と言えば、京都を中心にした戦乱かと思っていたが、東国まで影響しているのである。そして幼少の嗣子龍王丸(後の今川氏親)と小鹿範満(今川第四代範正の子)の間で後継争いが起きる。早雲は幕府から派遣されて駿河国に入り、龍王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とすることで調停を成功させた。小鹿範満擁立を図っていたのは関東執事の上杉政憲や太田道灌であり、京都の将軍とは利害が対立するのである。
     しかし龍王丸が十五歳を過ぎても小鹿範満は家督を譲ろうとせず、龍王丸は再び早雲の援助を求めた。長享元年(一四八七年)、早雲は駿河で兵を起こし、範満とその弟小鹿孫五郎を討ち取った。龍王丸は駿河館に入り、二年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。そして早雲は駿河国守護代として氏親を補佐しながら今川家内に地位を築く。
     早雲が戦国時代史に華々しく名を挙げるのは、明応二年(一四九三)の伊豆討ち入りで、当時伊豆一国を支配していた足利茶々丸を襲った事件である。茶々丸は、堀越公方の後継に決まっていた異母弟の潤童子を殺して、堀越公方を僭称していた。この討ち入りも単なる下剋上ではなく、早雲が京都の十一代将軍足利義澄と連携していたことが分かってきた。義澄は潤童子の弟である。つまり事件の背景には将軍職を巡って、十一代将軍足利義澄・細川政元・今川氏親・北条早雲と連なる陣営と、十代将軍足利義稙・大内政弘・足利茶々丸・武田信縄・山内顕定の陣営との対立構造があったのである。
     茶々丸は逃れて抵抗を続けたが五年後に滅ぼされ、早雲は韮山城を根拠に伊豆一円を平定するのである。その間、明応四年(一四九五)あるいは五年に小田原城を奪取し、永正十三年(一五一六)には相模を平定した。しかし早雲自身は生涯伊豆韮山を居城としていた。
     永正十五年(一五一八)氏綱に家督を譲り、翌永正十六年に死んだ。享年八十八歳と言われていたが、最近では六十四歳説の方が優勢になっている。スナフキンの解説にもある通り、司馬遼太郎『箱根の坂』は八十八歳説を採用しているらしい。
     しかし、こうした権力争いによる領土拡張だけでなく、早雲が歴史上重要なのは、永承三年(一五〇六)、まだ他では誰もやらなかった(やれなかった)検地を領国一円に実施したことにある。これは荘園制に関わる重層的な権利関係を完全に一掃したということであり、これをもって早雲は「守護大名」から「戦国大名」へと時代を先駆けたのだ。中世から近世へと時代は移っていく。以降代々の北条当主は代替わりの度に大々的な検地を行うのである。

     小田原駅構内を抜けて東口に回ると、出口には二宮金次郎の例の銅像が立っている。尊徳も小田原が生んだ偉人である。「私の小学校には銅像があったよ。」小町の頃にはあっただろうが、私の小学校にはなかった。「私の時にもなかったな。」ロダンは私の二つ下だ「私だって戦後の小学校だよ。」昭和十年代の初めには全国の小学校に設置されたものの、戦中の金属供出で殆どが撤去され、戦後に残ったものは少ないのである。
     「今だったら本じゃなくてスマホかな。」「あれは危なくてしょうがないね。」階段を下りる途中で、スマホを見ていた女がいきなり立ち止ったりすると、ホントに危ないのだ。しかも彼らは一様に耳にイヤホンを差し込んでいるから音が聞こえない。
     駅前東通り商店街は狭い道だがかなり賑わっている。「守谷のパンですよ。」正確には守谷製パン店。小田原市栄町二丁目二番二。小さな古い店だが、アンパンで有名らしい。小田原はアンパンが旨いことになっているのは何故だろう。
     その先を曲がると、道路の左を石垣で高くして北条氏政・氏照の墓所が設けられている。小田原市栄町二丁目七番八。「知りませんでした。」お園さんが初めて見ると驚いている。マリオも「何度も通っているのに気付かなかった」と言う。
     小さな古い形の五輪塔が二つ(これが氏政と氏照)並び、板塔婆も立っている。その前に生害石と呼ばれる平べったい石が一つ置かれている。生害石とは、この石の上で氏政・氏照が自害したと言われるものだ。右端の大きな五輪塔は氏政夫人(武田信玄の娘の黄梅院)のものらしい。「家庭の力関係そのものじゃないかな。」ロダンはすぐに愛妻と自分との力関係を連想する。
     墓所に巡らせた木柵には、小さな鈴が無数に結びつけられている。これは「幸せの鈴」というもので、説明によれば、氏政・氏照は戦禍にまみえる領民を思って開城した。だから、ここにおいてある鈴に願をかけて、成就したら再びここにきて結び付ければ、氏政・氏照への供養になると言うのである。こういうことを誰が考え出すのだろうか。
     小田原開城に当たって切腹を命じられたのは隠居の氏政と、その弟で主戦派とみなされた氏照の二人であり、当主の氏直は高野山へ流されるに留まった。氏直夫人は家康の娘であり、秀吉もいずれは氏直に北条再興を許す積りだったとの説もある。しかし氏直は子のないまま翌天正十九年(一五九一)に三十歳で死んだ。
     北条家の家督は氏政、氏照の弟の氏規が継いで、河内国狭山に領地を許された。氏規は小田原包囲の以前、和平工作(豊臣への臣従)に力を尽くしていた。また幼少時には今川義元の人質となって駿府にあって、同じ時期に人質だった家康と親交があったとも言われる。そしてその裔は河内狭山藩一万石の大名として明治維新まで存続する。
     二人が自刃したのは城下南町の田村安斎邸で、遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬された。しかし北条氏滅亡後伝心庵は寺町(中町)に移された。墓所は永く放置されていたが、稲葉氏の時代に墓碑が建立された。関東大震災で埋没して行方不明となり、翌年、地元の有志によって復興されたものである。それが右側にある笠塔婆型墓石で、墓碑には次のように刻まれている。
     滋雲院殿勝岩傑公大居士  天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政
     青□院殿透岳關公大居士  北條陸奥守氏照  天正十八庚寅年七月十一日

     狭い路地を抜けると「おしゃれ横丁」だ。「私たちは通っちゃいけない道でしょうか。」路地のT字路の中央には不思議な形の街灯が宙に浮いている。「何ですか、これは。」ロケットか、あるいは小田原提灯をイメージしたものだろうか。下の部分には時計がはめ込まれ、上部にはLEDライトが無数につけられているようだ。
     商店街を抜けてお堀端通りに入り、深い緑色の濠を右手に眺めながら歩く。赤い欄干の学橋があったが、これを渡るのではない。馬出門から城址公園に入るのが正式な登城ルートになっている。濠に浮かぶように石垣と白壁が美しい。「あっ、ダメだ。」スナフキンは天守閣の見学を予定していたが、耐震工事中のため天守閣には入れない。「下見の時は入れたんだよ。」
     二階建ての古めかしい木造建物は二の丸観光案内所だ。役所か小学校だったのだろうか。堀や土塁、枡形も復元された銅(アカガネ)門を潜ったところで、その二階に入れることが分かった。「無料というのがいいね。」階段を上がって靴を脱いで内部に入ると、中は意外に広い。明治五年に破却されたものだが、昭和五十八年(一九八三)から行われた発掘調査や絵図などを参考に、平成九年に復元されたものである。
     太い梁の表面にはテニスボール大程の薄い窪みが無数に作られている。これは手斧で削ったものだと言う。「これです」と案内の女性が手斧を見せてくれる。「道具もないので、それを作るだけで百万円かかりました。」「これ一本で?」「全部でです。」釿(ちょうな)仕上げと呼ぶらしい。窓の下には「石落とし」という穴も作られている。
     歴史見聞館には寄らない。「下見の時に寄ったけど、大したことないんだ。」常盤木門を通って天守閣方面に向かうと、本丸広場の入り口には猿を入れた金網があった。何匹いるのか分からないが、一匹が穴から出てきて金網の縁で寝転んだ。かつて動物園があった名残である。閉園決定後、動物はそれぞれ別の動物園に移されたが、サルだけは引き取り手が見つからずにこうして残っているらしい。だから、これだけでまだ「動物園」は継続しているのだ。
     小田原城情報館では甲冑や打掛の貸し出し、着付けができる。外壁に足場を組んだ天守閣を背景に、自分の姿を入れて「自撮り」する男がいる。棒の先にカメラを付けて地面を舐めるようにする姿は、いささか怪しげである。
     北条氏時代に天守閣はない。と思ったが、スナフキンの解説では、天正八年(一五八〇)氏直の時代に築造されたと言うのだが、私は確認できていない。寛永十一年(一六三四)に家光が天守閣に登った記録があるので、稲葉氏が寛永九年(一六三二)から行った大改修によるのではなかろうか。元禄十六年(一七〇三)の大地震で倒壊し、宝永三年(一七〇六)に再建、明治維新で破却された。この天守閣は昭和三十五年(一九六〇)に、宝永の図を基に外観を復元したものである。
     北条氏はこの天守の周辺に居館を置き、八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城とし、三代当主氏康の時代には難攻不落と謳われた。最大規模に膨れ上がったのは豊臣の軍勢を迎え入れるために築かれた広大な外郭で、八幡山から海側まで小田原の町全体を総延長九キロに及ぶ土塁と空堀で取り囲んだ。これは大坂城の惣構を凌ぐ規模だったと言われている。しかしその外郭も慶長十九年(一六一四)、家康によって全て破却された。
     早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と続く百年は、京都の幕府、古河公方、上杉氏(扇谷、山内)等の旧勢力対立時代から、武田信玄や上杉謙信との抗争を経て、北関東での里見氏、佐竹氏、宇都宮氏など様々な勢力との領土争いに至る、実に錯綜した時代であった。
     織田信長との連携を図ったものの本能寺の変で計画が頓挫し、家康との同盟を盾に関東独立を目指す北条氏の夢が、秀吉の天下統一路線と対立してしまう。北条氏以外の北関東諸大名は上杉氏を通して豊臣政権とつながりを求めたのに対し、北条氏はあくまでも関東一円の領土に拘った。しかし最後に頼みの家康も秀吉に従ってしまえば、孤立するだけである。

     遊園地の豆汽車が走るのを見ながら城址公園の端に回ると、報徳二宮神社がある。明治二十七年(一八九四)四月、伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模六ヶ国の報徳社の総意により創建された神社である。境内の周囲には鬱蒼とした林が重なり、小峯曲輪北堀跡が残っている。ここは天守閣の裏手にあたる。私は尊徳にも報徳思想にも全く縁がなく過ごしてきた。
     尊徳は天明七年(一七八七)、相模国栢山村(現・小田原市栢山)の豪農の家に生まれたが、度重なる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し両親にも早く死に別れた。薪を背負って本を読む銅像は、その頃の苦労を表わしている。荒地を開墾して金を貯め、二十歳で家を再興した。この頃身長は六尺、体重は二十五貫(九十四キロ)あったというから大男である。
     小田原藩家老の服部家で奉公人としての働きぶりが認められ、任されて服部家の家政を建て直した。それが評判となって、それから各地で腕を振うことになる。その思想の中心概念は、至誠・勤労・分度・推譲である。分度は無駄な消費を抑えて貯蓄することであり(分に相応した支出の限度を決めること)、推譲は溜まった余剰を他に分け与えることである。
     現代資本主義の中心課題が、購買心を煽りたて、不要なものまで買わせて消費を拡大することである限り、尊徳の思想は現代に生き残ることはない。資本主義の未来には何の希望も見出せないが、さりとて尊徳の昔に帰ることはできない相談だ。そもそも尊徳の時代だって、封建制度と石高制の社会システムはとっくに破綻していたのであり、個人の勤倹努力で解決できる話ではなかった。
     ただ個人的には、不要な消費をせず分相応な生活をすることは、私の信条でもある。昔、村上ファンドの村上世彰がインサイダー取引で逮捕された時、「金儲けって悪いことですか?」と開き直っていたが、不相応な金儲けは悪いのである。
     学橋を渡って外に出て、神奈川県立小田原城内高等学校建学百年記念碑を見る。「女子高だったんですよ。」旧小田原高女は平成十六年(二〇〇四)に男子校の小田原高校と統合して廃校になった。前身は明治三十六年(一九〇三)に開校した小田原高等小学校女子部補習科である。この学校があったから、橋の名前が学橋(まなびばし)なのだ。
     裁判所の向かいには大手門跡の石垣が残っている。「鐘楼みたいですね。」石垣の上は確かに鐘がある。この鐘はここから百五十メートルほど南にあったものだが、大正時代にこの石垣の上に移設された。太平洋戦争で供出されたので、今あるのは昭和二十八年に鋳造された鐘だ。
     横に回ってみると、これを管理している家のオバサンだろうか、「上に上ってもいいですよ」と教えてくれる。「ただ鐘は突かないでくださいね。」それなら上ってみるか。姫もお園さんも上ってきて、「こんなに近くで見るなんて初めてだわ」と驚いている。
     国道255号に出ると、道路の向こう側のやや左が目的のだるま料理店だ。小田原市本町二丁目一番三十号。この店は明治二十六年創業の老舗である。関東大震災で損壊したため、大正十五 年に二代目廣澤吉蔵により再建された建物だ。登録有形文化財に登録されている。

    主屋は、楼閣風の造りで、二階屋根の正面に破風を二つ連ねて比翼入母屋造りの形に凝らした外観と、一階店鋪入り口の向唐破風造りのポーチに特徴がある。そのファザードは、老舗の雰囲気を伝え、多くの市民に親しまれている。二階の客座敷は、数寄屋風の書院造りが基調で、床・棚・付書院などの座敷飾や、建具・欄間などの造作に様々な趣向を凝らしたきめの細かい仕事が施されている。(小田原市文化財保護委員 鈴木亘「だるまの建物の歴史・登録有形文化財指定の唐破風入母屋造りについて」より)
    http://www.darumanet.com/history/index.html

     歩道橋しかないので、車の切れ目を狙って横断する。十一時二十三分。天守閣に行けなかったのが結果的には幸いしたようで、都合よく全員一つのテーブルに座ることができた。
     後で川崎長太郎が住んだ物置小屋跡に寄ることになっているが、その川崎は毎日のように通ってチラシ丼を食っていた。定食では「さしみ天ぷら定食」が千四百円、「天ぷら定食」が千七百円、丼物では「天丼セット」、「野菜天丼セット」が千五百円である。「俺は定食だな。」「そんなすぐに決めないでメニューをもっと見ましょうよ。」ロダンは慎重にメニューをめくる。「ネットで調べてきたから知ってるよ。」
     スナフキンとマリオが天丼セット、その他は皆さしみ天ぷら定食にした。桃太郎が生ビールを注文するので、それにつられて手を挙げたのがマリオ、スナフキン、姫、蜻蛉である。「一杯だと多いので、ロダンに半分手伝ってもらいます」と姫は言う。店内も次第に混んできたが、料理は意外に早くやってきた。
     この店には一昨年の十月、恩師を囲んで箱根に一泊した翌日の昼に寄っていた。ちょうど師の満八十歳の誕生日で、あの時は相模湾で獲れた魚の寿司(平目、金目鯛、スズキ、イサキ、メジ鮪、庄子)を食った。
     それで思い出したが、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』(東京大学出版会)は、当然のことながら小田原の北条氏滅亡と深い関係がある。「豊臣平和令」とは、惣無事令・喧嘩停止令・刀狩令・海賊停止令など豊臣政権の一連の強力な政策を言う。
     領土紛争における大名の個別交戦権を私戦として禁止し、豊臣政権の裁断以外を許さない。関白として天意を実行するというのが名目で、ほとんどの大名はこれを受け入れ豊臣政権に従ったが、北条氏は従わなかった。小田原征伐の名目は惣無事令違反である。中世を通じて基本原則だった当事者主義、自力救済主義から、統一政権が裁判権を独占する近世へと時代が移るのである。
     戦国内戦の時代は飢餓を生み、刈り取り、略奪、暴行、人買いが横行した。奴隷としてヨーロッパに売られた者も数多い。豊臣政権に対する評価がどうであれ、内戦を終結させた功績は大きい。
     敗れ去った北条氏ではあるが、藩主独裁ではなく評定衆の合議制によって政策を決定したこと、四公六民という当時としてほとんど例を見ない低率の年貢体系を維持したこと、インフラ整備に努めて内政を重視したこと、後継争いが起きず親子兄弟の結束が強かったこと等は充分に評価されなければならない。優秀な官僚機構が働いていたのである。
     しかし国内の内戦を終結させた豊臣政権は、一転して朝鮮半島への侵略を始める。そこで再び、刈り取り、略奪、暴行、人買いを横行させるのである。
     食べ終わって、建物の内部を見学させてくれるというのは嬉しい。店を出て東に回り、料亭の玄関口から靴を脱いで入ると、その脇に小さな応接室がある。室内装飾にはアールデコの影響があるというが、よく分からない。店員が「シャンデリア」と言ったのは、白熱電球四個を組み合わせたものだ。この建物は「ブリ御殿」と呼ばれたと言う。「ニシン御殿は聞くけど、ブリ御殿は初めてだね。」初和三十年代まで、小田原の鰤漁は日本一の漁獲高を誇っていたのだ。壁にはその鰤漁の様子を描いた絵が架けられている。
     ほかの部屋も見せてもらえるのかと思っていたのに、見学できるのはここだけだった。なんとなく拍子抜けがする。

     「後で寄るつもりだったけど、先に入っちゃおう。」松原神社である。小田原市本町二丁目十番六。石の門柱に「○社 松原神社」とあるのだが、この○の部分の文字が、これだけ崩してあって読めない。「何でしょうかね、村社ですか?」郷だろうか。しかしこの神社の社格は県社であった。これが懸の崩し字か。祭神は日本武尊命、素戔嗚命、宇迦之魂命である。創建の由来は不明だが、小田原宿の総鎮守として栄えた。
     内侍所奉安所址の碑が立っている。明治天皇が来た時の記念である。「内侍所って何ですか?」内侍とは女官である。神鏡(八咫の鏡)を奉安する場所に女官が詰めたのでその名がある。本来滅多に動かすものではないが、東遷の際には当然鏡を持参したのである。鏡の本物(?)は伊勢神宮にあるので、天皇の身辺にあるのはレプリカということになるのだが。
     境内を出る時、マリオが面白いことに気付いた。「台湾の人なんですよ。」石造鳥居の寄進者の住所が台北市になっているのだ。池ではカメが日向ぼっこをしている。「ミドリガメだな。」
     この辺りは狭い小路が錯綜して分かりにくい。後で地図を確認すると、東海道が直角に曲がる本町交差点から東に入った道である。石の旧町名標識には「宮の前町」と彫られている。高齢者用住宅「プラージュ古清水」の前には、「脇本陣古清水旅館」の看板が立ち、二階に資料館があると記されているが、そこには寄らない。実はこの隣に大清水本陣があり、兄が本陣、弟が脇本陣をやっていた。小田原市本町三丁目五番二十七。
     小田原宿は東海道九番目の宿で日本橋から二十里二十七町、およそ八十一・五キロの距離である。本陣四軒、脇本陣四軒、旅籠九十五軒は東海道中でも最大規模である。
     本陣と脇本陣があったのだから、この道が旧東海道である。案内板には、八月十五日の小田原空襲のことが記されている。古清水旅館館主・清水伊十良氏が「戦時下の小田原地方を記録する会」を組織しているのだ。

     一九四五(昭和二十)年八月十五日、まさに敗戦当日、深夜一時か二時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
     小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記録は一切なく、計画されたものではありませんでした。(中略)
     八月十五日の小田原空襲で被災した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町二・三丁目にまたがり国道一号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約四百軒、死者は本会の調査によれば十二名です。

     これと同じことが秋田でも起きていた。八月十四日二十二時半頃から十五日の未明まで土崎港を襲った空襲である。投下されたのは百キロ爆弾が七千三百六十発、五十キロ爆弾が四千六百八十七発であり、死者は二百五十人以上に及んだ。父の祖母と母の住む家を焼かれた。空襲の悲劇はどこでも辛いが、玉音放送の僅か数時間前というのが、一層悔しさを増す。そもそも八月十日には日本政府はポツダム宣言受諾を打電し、十四日には無条件降伏を決定している。米軍は余った爆弾を一挙に捨てるために、戦略的に全く意味のない空爆を行ったのである。
     その先から曲がりこんで蒲鉾通りと呼ばれる道に入った。干物屋が多い。小さな店の前には所々に「小田原市街かど博物館」と記した青い幟が立っている。この街かど博物館には現在下記の店が参加している。
     塩から伝統館(小田原みのや吉兵衛)、倭紙茶舗(江島)、菓子どころ小田原工芸菓子館(栄町松坂屋)、のれんと味の博物館(だるま料理店)、漆・うつわギャラリー(石川漆器)、漬物、佃煮、惣菜工房(田中屋本店)、砂張ギャラリー鳴物館(柏木美術鋳物研究所)、陶彩ぎゃらりぃ(松崎屋陶器店)、かまぼこ伝統館(丸う田代)、ひもの工房(早瀬幸八商店)、かつおぶし博物館(籠常商店)、染め織り館(山田呉服店)、薬博物館(済生堂薬局小西本店)、梅万資料館(欄干橋ちん里う)、木地挽きろくろ工房(大川木工所)、ひもの体験館(カネタ前田商店)、とうふ工房(下田豆腐店)、寄木ギャラリー(露木木工所)、かまぼこ博物館(鈴廣)。
     「道を一本間違えたよ。」この道は目的の「丸う田代総本店」の裏口に面しているので、脇から表の玄関に回ればよいのだ。実はさっきの脇本陣の前を真っ直ぐ来れば簡単だった。小田原市浜町三丁目六番十三。鈴廣、籠清と並ぶ小田原の蒲鉾の老舗である。「風祭に鈴廣の大きな博物館があるね。」皆よく知っている。
     皆は土産を買う。「丸うに行くっていったらさ、旦那が塩辛買って来いって言うんだよ。」中将は小田原の人で、今日は犬の世話のために家に籠っているのである。あんみつ姫は実家に宅送を頼んでいる。持ち帰る人には保冷剤を入れてくれたらしい。姫が伝票を書いている間、外に出て斜向かいのおでん屋の門前の小田原提灯を見る。「小田原っておでんが有名かい?」「町興しだろう。」調べてみると平成十五年(二〇〇三)に、町興しのために蒲鉾業者十三社を中心に、「小田原おでん会」が発足したのである。

     丸うの脇から海岸に向かうと、民家が途切れて空き地になったところに「川崎長太郎小屋跡碑」が建っていた。小田原市浜町三丁目。碑には『抹香町』の一節が引かれている。川崎は私にとっては全く食指の動かない作家だった。明治三十四年(一九〇一)に生まれ、昭和六十年(一九八五)に死んだ。長生きだったと言えるが、この名前をどれだけの人が知っているだろうか。
     昭和十年、三十四歳で『余熱』が第二回芥川賞候補となりながら受賞できなかった。太宰治は第一回で受賞できず(受賞者は石川達三だから、太宰が怒ったのも無理はない)、この第二回のために佐藤春夫に「伏して懇願」の手紙を出したりしたのだが、前回の候補者は対象としないという条件が決められた。太宰排斥が目的だっただろう。結局この第二回は受賞者なしとなった。
     東京での生活に見切りをつけ、捨てた筈の小田原に帰ると実家の魚屋は弟が継いでいて、その裏の物置小屋に住んで小説を書き続けた。実生活を粉飾することなく書くことが文学の王道だと信じ、「私小説の極北」とも呼ばれた。そう呼ばれたのは葛西善蔵や嘉村礒多、島尾敏雄等ほかにもいるから、便利なレッテルでもある。
     その実生活というのは、屋根も外壁もトタン張りで、穴だらけの物置小屋に畳二枚を敷いて住み、極貧の中で毎日だるま料理店のチラシ丼を食い、抹香町という私娼窟で女と交渉し、ビール箱を机にして小説を書くことである。自分では、聊かの誇張も作為も排した告白であり日記であり記録だと称した。

     ・・・・郷里小田原の海岸の物置小屋で一連の娼婦小説を綿々と書きつづけている川崎長太郎は依然しぶとく生きていた。それどころかこの年(昭和三十七年)の春には、三十三歳の未亡人東千代と結婚して、世間の話題を浚った。川崎このとき六十一歳。・・・・入籍を機に二人は物置小屋を出て、国鉄鴨宮駅に近い田圃の中の旅館別棟の平屋に移り住んだ。この家屋は六畳、三畳、板の間、台所がついていて、それだけでも川崎にとってはこれまでとは違う別天地のようであった。・・・・
     ・・・・千代との間では絶対に彼女のことは小説に書かない、と約束させられたが、川崎は雑誌からの注文があると、簡単にこれを破った。その年の「新潮」八月号に「或る女」、「群像」九月号に「やもめ爺と三十後家」、「新潮」十月号に「衾」と、千代との結婚生活の細部をいつもと変わらぬ調子であからさまに描いた。(大村彦次郎『文壇挽歌物語』)

     そもそも己の実生活をそのまま報告することが文学になるというのは傲慢だが、川崎はそんな批判はハナから承知の上で、確信犯的に書き続けた。私が川崎の名を知った頃は、時代遅れの私小説を書き続ける怪しげな老人だとしか認識していなかった。それに平野謙『私小説論』や伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』によって、日本特有の「私小説」は理論的に批判され尽くした筈だった。
     しかし何も読まずに悪口を言っても仕方がないので、短編を数編読んでみた。「俺も読もうかと思ったけど、そこまでする義理がないから」とスナフキンが笑う。そして予想は外れなかった。ダメな自分の上に胡坐をかいている。自身を批判するような口振りも見せるが、それは単なるポーズである。人として悪質だと私は判断した。
     川崎を読むために小学館の『昭和文学全集』十四巻を借りたのだが、他に上林暁、野口富士男、八木義徳、壇一雄、和田芳恵、木山捷平、外村繁が収録されているので、ついでだから読んでみた。上林『聖ヨハネ病院にて』、和田芳恵『暗い流れ』、一雄『リツ子、その愛』、木山捷平『大陸の細道』などには、書かなければならない強い思いが感じられた。野口富士男『散るを別れと』は齋藤緑雨を追いながら若い女性編集者と心を通い合わせる経路が巧みで、佳品になっていた。結論として、私小説は死滅していなかった。要するに良い小説と悪い小説があるだけである。
     そこから十メートルもない、西湘バイパスを潜る小さなトンネルの向こうに海が見える。「海ですね。」「うれしい。」海を見ると喜ぶのは、どういう気持ちだろうか。三好達治は次のように歌った。

    蝶のような私の郷愁!……。蝶はいくつか籬を越え、午後の街角に海を見る……。
    私は壁に海を聴く……。私は本を閉じる。私は壁に凭れる。隣の部屋で二時が打つ。
    「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」(「郷愁」)

     フランス語の母はmère、海はmerである。第一詩集『測量船』に収められた詩だから若い頃のもので、気の利いた言い方だが、それだけかも知れない。「郷愁」と名付けるなら『測量船』の「乳母車」の方がその気分が濃いのではなかろうか。こんな風に始まる詩だ。

     母よ――  淡くかなしきもののふるなり
     紫陽花いろのもののふるなり

     波は結構荒れていて、カモメが多く浮かんでいる。「木の枝に乗ってるのが一羽。」右手の山の方は真鶴半島だそうだ。ここでヨッシーが、さっき買ったイワシの蒲鉾を配ってくれる。「折角買ったばかりなのに。」実に有難いことである。イワシの蒲鉾は塩味が効いていて、これだけで酒のつまみになる。いつまでも海を見ていてはきりがない。

     もう一度蒲鉾通りに戻り、今度は鰹節の「籠常」に入る。小田原市本町三丁目二番十二。明治二十六年(一八九三)創業である。「お婆ちゃんが一人でいるんだよ。入ったら買わなくちゃいけない気分になる。」確かにお婆ちゃんがいたが、スナフキンの言うのはその人ではないらしい。
     鰹節はガラス容器の中の削ったものを量り売りする方式である。私は買う積りはないから外で待っている。しかし買い物には随分時間がかかる。「美味しい味噌汁を作るんでしょう。」マリオの新婚時代は毎朝カツオ節を削って味噌汁を作ったと言う。「今じゃとてもそんなことしませんがね。」鰹節を削って味噌汁を作るなんて、妻は一度だってしたことがない。
     漸く小町と姫が出てきた。「歩いているって言ったら、紙袋じゃなくて真空パックしてくれたんだよ。」それで時間がかかったのか。「安かったんだ」と言うが、こんなに大きいと一度では使いきれないし、すぐに香りが飛んでしまうのではないか。「だからパックが一番。」小町の荷物はかなり大きく膨れてきた。通りには鈴廣もある。
     御幸の浜交差点で東海道に曲がる。創業寛永十年という薬屋「済生堂」小西薬局がある。小田原市本町四丁目二番二十八。昔通りの街道沿いの二階屋の店舗である。少し行くと、箱根口の交差点を挟んで、こちら側には梅干しの「ちん里う」、向こう側には天守閣のような外観の「ういろう」(欄干橋町)と、うす皮あんぱんの「柳家ベーカリー」(筋違橋町)がある。ここで時ならぬ買い物ツァーが始まった。集合はここ箱根口の交差点である。
     あんぱんには何の興味もないので、「ういろう」に入ってみる。小田原市本町一丁目十三番十七。外郎家は、元の大医院、礼部員外郎だった陳延佑が、元の滅亡によって亡命して陳外郎を名乗ったのが始めである。本業の薬は天皇から「透頂香」の名を賜ったが、一般には外郎薬と呼ばれる。副業として菓子も作ってこれを外郎菓子と呼ぶ。やがて早雲に招かれて小田原にやって来た。 
     二世市川團十郎がこの薬を愛用して、享保二年(一七一八)『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)を上演し、その中で「外郎売」の長科白が生まれた。
     桃太郎と一緒にショーケースの中の透頂香を眺めていると、「いらっしゃいませ」と店員が寄ってきた。「ゴメン、見学だけなんだ。」彼女が微笑む。そこに男がやってきた。「五千円のをひとつ。」透頂香を買っていったのである。「何に利くんですかね。二日酔いに利くかな。」桃太郎は二日酔いが一番気になるのだ。「外郎売り」の口上によれば、「この薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃、心、肺、肝が健やかに成りて、薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。」と言う。これなら二日酔いにも良さそうだ。
     「名古屋の人間としては、小田原の外郎を買うのは抵抗がある」とマリオが言う。調べてみると名古屋のういろうと小田原のういろうでは、その発祥が違うらしい。小田原のものは、陳外郎が博多あるいは京都で作ったものが伝播した。一方名古屋のものは、元々三河地方の伝統菓子「生せんべい」が元になったと言う。
     皆は柳家に集まっているようなので、そちらに行ってみる。小田原市南町一丁目三番七。駐車場には他県のナンバーも見られるから、ここも有名店なのだ。そして小田原でアンパンと言えば、この店と今朝方通った守谷が双璧をなしているようだ。「これで女房の機嫌のいい顔を見られるんだから」とロダンが呟く。姫は買ったばかりの袋を開けて小さなアンパンを口にする。「美味しいですよ。」さっき昼飯を食ったばかりではないか。ヨッシーは全ての店で買い物をした。「買い物が大好きなんですよ。」

     箱根口から南に入り、次の交差点を右に曲がると西海子(サイカチ)小路になる。通りの名は昔サイカチの木が植えられていたことによるという。江戸時代初期には馬場があり、大久保氏が戻ってきてからは武家屋敷地となった。閑静な屋敷町だ。
     ここに小田原文学館、白秋童謡館がある。小田原市南町二丁目三番地四。元々は伯爵田中光顕の別荘であった。芝生の奥に三階建の洋館があり、入館料は二百五十円だ。小田原在住の六十歳以上は百円でよい。「なんだ、小田原在住が条件か。」同じ愚痴が何人もから漏れてくる。靴を脱いで中に入る。
     一階第一展示室(元食堂)には小田原出身の北村透谷、尾崎一雄、川崎長太郎、第二展示室には福田正夫、井上康文、牧野信一、薮田義雄、北原武夫、辻村伊助、鈴木貫介、藤田湘子、二階第三展示室には北条秀司、谷崎潤一郎、佐藤春夫、村井弦斉、斎藤緑雨、小杉天外、首藤剛志、第四展示室には西海子通りに住んだ三好達治、坂口安吾、岸田国士、大木惇夫、長谷川如是閑、川田順、辻潤、加藤一夫。
     はっきり言って展示に付けられた解説は通り一遍のもので、あまり参考にはならない。ただ、こんなにも多くの作家や詩人が、一時期でも小田原に住んだとは知らなかった。ほとんど関心のない(そして名前も知らない)人物もいるが、触れておきたい人物は何人かいる。
     「大木惇夫は知ってる?」「知りません。」「広島の出身で小田原に移って白秋の門に入ったんだ。」姫だけでなく、今日の仲間で知っている人はいないだろう。「ハイネを訳したんですか?」これは知らなかったが、ウインドウには大木訳の『ハイネ詩集』(世界社・昭和二十四年)が置いてある。
     大木惇夫については、今の時代だからもう一度考えておきたい。美しい抒情詩を作る詩人だったが、昭和十七年(一九四二)に白紙の召集令状が届けられ、陸軍文化部隊宣伝班員としてジャワ戦線に徴用された。同じ時にマレー方面に徴用された高見順は、戦後にこう書いた。

     ――全く私たちは「おまけ」みたいなものだつた。何をしに、そんな戦地へ連れられて行つたのか、私たちも分らなかつたが、私たちを連れて行った将校(職業軍人)の方でも、何をさせたらいいのか分らなかつたようである。その曖昧さは、私たちがあるときは宣伝班と呼ばれ、あるときは報道班と呼ばれていたことからも分るのだった。当時、大本営に出入していたドイツ通の嘱託の誰かが、恐らくナチスの宣伝部隊を真似て、こうした思いつきを建言したのだろうというのだが、その結果は、私たちを生命がけの戦争見物に連れ出しただけのようであつた。(高見順『昭和文学盛衰史』)

     「『国境の町』もそうなんですね。」東海林太郎の『国境の町』も大木の作詞になるが、最も人口に膾炙して大きく影響を与えた詩は、バダビア沖海戦の経験から生まれた。しかし展示の説明に、このことは一切触れられていない。
     大木の乗った輸送船「佐倉丸」はバンダム湾敵前上陸を目前に連合軍と遭遇し、魚雷を受けて沈没した。大宅壮一、阿部知二、浅野晃、群司次郎正、横山隆一等と共に数時間、南十字星を見ながら海上を漂って救出される。しかしこの魚雷は味方の誤射であったことが戦後明らかになる。

     戦友別盃の歌
         ――― 南支那海の船上にて。
     言ふなかれ、君よ、わかれを、
     世の常を、また生き死にを、
     海ばらのはるけき果てに
     いまや、はた何をか言はん、
     熱き血を捧ぐる者の
     大いなる胸を叩けよ、
     満月を盃にくだきて
     暫し、ただ酔ひて勢へよ、
     わが征くはバタビヤの街、
     君はよくバンドンを突け、
     この夕べ相離るとも
     かがやかし南十字を
     いつの夜か、また共に見ん、
     言ふなかれ、君よ、わかれを、
     見よ、空と水うつところ
     黙々と雲は行き雲はゆけるを。(大木淳夫『海原にありて歌へる』昭和十七年より)

     諦めの果てに到達した哀切極まる決意である。この詩を読んだ兵士は誰も泣いただろう。そして黙々と死んでいったことだろう。善悪を超えて感情を揺さぶるのである。しかし「ただ酔ひて勢へよ」とは美しいが価値判断の停止であり、断念への誘いである。美しいからこそ認めてはならないのである。
     大木は有名詩人だったから、南方戦線にあった吉田嘉七曹長から詩を託され、その中から四十二編を取り上げ『ガダルカナル戦詩集』として刊行した。

     妹に告ぐ

     汝が兄はここを墓として定むれば、
     はろばろと離れたる国なれど
     よ、遠しとは汝は思ふまじ。
     さらば告げむ、この島は海のはて
     極れば燃ゆべき花も無し。
     山青くよみの色、海青くよみのいろ。
     火を噴けど、しかすがに青退めし、
     ここにして秘められし憤り。
     のちの世に掘り出なば、汝は知らん、
     あざやかに紅の血のいろを。
     妹よ、汝が兄の胸の血のいろを。(吉田嘉七)

     ガダルカナル島に投入された戦力は三万二千、うち二万六千人以上が殆ど餓えて死んだ。幸い吉田は生き延びて昭和二十一年六月に復員した。娘は後に詩人となって学習院大学の教授にもなったから、戦後はそれほど辛いものではなかっただろう。
     戦争詩を書いた詩人はいくらでもいるが、その圧倒的な影響力のゆえに、大木は戦後詩壇に復帰できなかった。スケープゴートとして抹殺されたと言って良い。娘の宮田毬栄が『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』を書いているが、私は読んでいない。

     斎藤緑雨は結核の転地療養で鵠沼の旅館に滞在して女中頭の金澤タケと知り合い、タケの実家を頼って小田原に転地した。家はタケの父親が探してくれた。小田原滞在は二年に及んだが、結核が治癒するはずもない。
     「『小田原日記』と言うのがあるんですね。」明治三十五年の日記だが、原稿の字は力がない。青空文庫で読めますか?」青空文庫に入っていないのは確認済で、私は筑摩書房『明治の文学』第十五巻「斎藤緑雨」で読んだ。
     その頃訪ねて行った馬場孤蝶には、早く東京に帰りたいと嘆いた。東京を離れては生きている甲斐のない男である。東京に戻り浅草須賀町、千駄木林町と転居して最後は本所横網の陋屋で死んだ。両国駅のそばに、地味な目立たない旧居跡の標柱が建っている。

     岸田國士は言うまでもなく衿子、今日子の父親である。フランス仕込みの知的でモダンな演劇を志向し、昭和十二年(一九三七)に岩田豊雄(獅子文六)、久保田万太郎とともに文学座を起こした。戦後は三島由紀夫、福田恆存、小林秀雄、千田是也などと「雲の会」を結成する。組織者としての資質に恵まれていたことが、戦中には仇になった。
     ちょうど渡邊一民『林達夫とその時代』に続いて、同じ渡邊の『岸田國士論』を読んだばかりだった。翼賛運動に関して林と全く対照的だった岸田の動きを確認したかったのだ。
     岸田が大政翼賛会文化部長を務めたのは、人望があったことと、三木清の強い推薦によるものだったが、しかしやるべきではなかった。元々、昭和研究会が母体となって近衛新党を画策したのが、非常にややこしい経緯を辿って大政翼賛会に行きついた。
     そもそも一国一党体制を目指すのは、スターリンのソ連、ムッソリーニのイタリア、ヒトラーのドイツに倣って、全体主義へと続く道である。政党を糾合して軍部に当たるという意図は分からないでもないが、非常に危険な賭けであった。かつて三木の盟友であった林達夫は、この運動に知識人が群れ集うのを見て、絶望していた。
     三木も岸田も、体制内部に食い込んで、軍部に対する防波堤となって内部から革新しようと意図していただろうが、せっかく担いだ近衛文麿はすぐに政権を投げ出して東条英樹に譲ってしまう。そうなれば、翼賛会は軍部の下部機関でしかなくなってしまう。政治の世界で誠実は通用しない。そのため戦後は公職追放にもなった。
     今翼賛運動を見直しているのは、ついつい現代と対比してしまうからなのだ。リベラルから新自由主義まで、ハト派からタカ派まで、様々な立場と意見を包含していた筈の自民党が、安倍政権の元で一切の異論を封じられている。意思の表明が命や生活と引き換えになった時代とは違うのである。それがこのザマだ。政治上の「一枚岩」と言うのは、要するに全体主義の別名に過ぎない。
     そして私は少し若い連中を見直している。何を読んだらよいかと図書館に相談に来た女子学生が、二度目に来た時には、「国会前のデモにも行きました。戦争のことをもっと知りたい」と言う。中島敦は面白かったと言うので理解力はあると判断して、大岡昇平『野火』を薦めてみた。

     はじめ私が小田原に眼をつけた因縁は、かつて詩人三好達治君がこの地に居を構へ、時をり自然の美しさ、穏やかさを私に漏らしたことがあつたからで、それを覚えてゐて、私が突然、小田原で家を探してくれる人はないかと、相談をもちかけたのである。三好君は困つたに違ひないが、早速、土地ッ子の歌人鈴木貫介君を私に紹介してくれた。
     この鈴木君は大きな蜜柑山の主で、なかなかしつかりした歌は詠むが、借家のことには一向不案内であることがわかり、私は二重に悪いことをしたと思つた。
     しかし、もう今では、そんな詫びを繰り返す必要もないほど親しい間柄になり、この間は、同君を生れてはじめての芝居見物に誘つた。(岸田國士「暖地の冬から山国の春へ」)

     岸田は、三好が佐藤春夫の姪智恵子と結婚した時の仲人である。
     三好達治は昭和十四年(一九三九)から十九年(一九四四)、三十九歳から四十四歳まで小田原に住んでいた。朔太郎の末妹で夫の佐藤惣之助に死に別れたアイと結婚するため、智恵子を離婚して萩原家を口説き落とした。朔太郎は昭和十七年五月十一日に死に、その葬儀委員長を務めた惣之助も十五日に死んでいた。その朔太郎の三回忌である。アイとは、帝大を卒業したばかりの時に一目惚れして求婚したが、職もない文士に娘はやれぬと断られた。なんとか北原鉄男が経営していたアルス社に就職して婚約にこぎつけたものの、それが倒産して破談にされていたのである。朔太郎の母はキツイ人であった。
     三好にとっては長年の恋を貫き通した形だが、離縁された智恵子は堪ったものではない。このことで佐藤春夫は激怒した。逃げるように小田原を出てアイとともに福井県三国に移転するのだが、その生活は一年もしないうちに破綻する。そもそもアイは惣之助と結婚する前に二度の離婚を経験しており、美貌が自慢で贅沢だったらしい。流行歌の作詞家として金を稼ぎ、しかも磊落な性格の惣之助とは、達治は全く違っていた。その詩が高く売れる筈がないし、性格は狷介だった、しかしこれは小田原とは関係ない話になってしまう。
     佐藤春夫は小田原に住んではいないが、谷崎潤一郎との間で小田原事件を惹き起こした。「事件」と言うが第三者から見ればアホラシイ出来事である。潤一郎は大正八年に小田原に転居し、それ以前から親しくなった春夫がしばしば小田原を訪れていた。
     潤一郎は夫人千代を顧みず、その妹せい子(『痴人の愛』のモデル、葉山三千子)と同棲して家には寄り付かなかった。春夫の千代への同情はやがて恋に変化する。春夫は前妻と離婚したばかりである。潤一郎は三千子との結婚を決意し、春夫に千代を譲る約束をした。しかし三千子が潤一郎の求婚を断ったので話がややこしくなる。家に戻った潤一郎は千代が惜しくなり、春夫との約束を破談にし、二人は絶交する。これが大正十年六月の小田原事件の顛末である。潤一郎は九月には横浜に転居し、春夫は「秋刀魚の歌」を書くことになる。「あはれ秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ」に始まる絶唱である。

     あはれ、人に捨てられんとする人妻と
     妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
     愛うすき父を持ちし女の児は
     小さき箸をあやつりなやみつつ
     父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。

     「人に捨てられんとする人妻」は千代、「妻にそむかれたる男」は春夫、「愛うすき父を持ちし女の児」は谷崎鮎子である。
     昭和五年になって漸く潤一郎は千代との離婚を決意し、八月に潤一郎、春夫の連名で新聞各社へ挨拶状を出す。これが「細君譲渡事件」としてセンセーションを呼んだ。しかし貞淑で従順なイメージだった千代が、その一年前には和田六郎の子を流産して、和田との結婚話が進んでいたことを、九月十一日の「朝日新聞」の文化・文芸欄に瀬戸内寂聴が書いている。そして潤一郎も春夫も承知しているのだ。
     翌年正式に離婚が成立し、春夫と千代は結婚し、潤一郎もまた古川丁未子と結婚する。しかし潤一郎の前には人妻であった根津松子の姿が現れてくる。
     これだけを見れば春夫の純情が引き立つようだが、春夫自身小田原事件以後、大正十三年には小田中タミと結婚し、またその同時期に山脇雪子とも恋愛をしていた。どっちもどっちなのである。和田六郎の名は知らなかったが、戦後佐藤春夫に師事して、大坪砂男の筆名で探偵小説を書いたと知って驚いた。山田風太郎、高木彬光などと共に戦後の探偵小説(まだ推理小説とは呼ばれていなかった)を牽引した一人である。
     それにしても、この当時の文士の交流の密度の濃さは驚くばかりだ。そしてその男女関係は無茶苦茶で、今ならマスコミが放っておかない。しかし寂聴は書いている。

     流行作家や詩人たちが、こんな非常識な淫らな恋愛沙汰にふりまわされているのがおかしいものの、当今の小説家や詩人のあまりのおとなしさに唖然としている私は、ここに書いた人々の愚かしい迷いや乱行にむしろなつかしさを覚える。本来、芸術家の本質は、ひかれた軌道をまっすぐ歩めないほどの情熱と乱心が胸に巣喰っているものではないだろうか。(瀬戸内寂聴「残された日々4 もう一人の男」『朝日新聞』九月十一日付け)

     「迷いや乱行」「情熱と乱心」を繰り返してきた寂聴だからこその言葉だろう。「冲方丁さんの事件なんて可愛らしいものですね。」これは妻への傷害容疑で逮捕されたが、本人が否認するまま処分保留で釈放になった事件だ。
     三階は休憩室になっていて、スナフキンがソファで寛いでいる。開け放された窓からの風が心地よい。やがて姫が上がってきた。「二十分で白秋まで見るのはとても時間が足りないわ。」見学時間の二十分はこの建物だけで、白秋童謡館にはそのあとで行くのだ。「なんだ、そうだったんですか。慌てちゃいましたよ」と姫は下に降りていく。
     二十分経って玄関の外に集まるとロダンがいない。「先に行ったんじゃないかな。」歩き出そうとした時、そのロダンが現れた。姫と同じ勘違いをしていて、白秋童謡館も見てきたのである。
     庭には藤村が建てた透谷碑がある。「洞窟みたいじゃないか」と小町が言うように、大きな自然石を組み合わせたもので、横の方は洞窟の入口のようにも見える。しかし見えるだけで、洞窟がある訳では勿論ない。碑を設計したのは小田原出身の彫刻家牧雅雄で、文字は島崎藤村である。昭和四年に大久保神社境内に設置され、二十九年に城址公園内に移されたが、城址公園拡張のために平成二十二年にここに移された。
     透谷は明治元年(一八六八)足柄郡の没落士族の子として小田原唐人町(現・小田原市浜町三丁目)で生まれた。明治六年、父が大蔵省出仕となり、母とその年に生まれた弟は上京したが、透谷は祖父のもとに預けられた。祖父の病気で父はいったん大蔵省を致仕して小田原に戻ったが、再び大蔵省出仕となって、明治十四年(一九八二)今度は一家揃って上京した。数寄屋橋の家には煙草屋が付属していたので母親は煙草屋を営んだ。銀座の泰明小学校を卒業して、私塾に一年学んだ後、明治十六年、十五歳で東京専門学校(現、早稲田大学)政治科に入学した。
     そしてその短すぎる晩年に、ノイローゼを治癒するために国府津の前川村(現、小田原市)に住んだ。

    国府津の寺は、北村君の先祖の骨を葬ってある、そういう所縁のある寺で、彼処では又北村君の外の時代で見られない、静かな、半ば楽しい、半ば傷ついている時が来たようであった。「国府津時代は楽しゅうござんした」とよく細君が北村君の亡くなった後で、私達に話した事があった。(中略)けれども惜しい事に、そういう広い処へ出て行った頃には、身体の方はもう余程弱っていた。(中略)この国府津時代に書きつけた、ノオト、ブックを後で見たが、自分はもうどうにもこうにも仕様が無くなったから、一切の義務なんかというものを棄てて了って、西行のような生活でも送って見たい、というようなことが書きつけてある所もあり、自分の子供にはもう決して文学なぞは遣らせない、という事なぞを書いたものがあった。それから何も物の書けないような可傷しい状態になって、数寄屋橋の煙草屋の二階へ帰る事になった。(島崎藤村『北村透谷の短き一生』)

     私が透谷を読み耽ったのは二十六七歳の頃だったろうか。その頃は明治文学への関心よりも、色川大吉『明治精神史』から派生した民権運動の方に関心が強かったのだと思う。さっきの展示室の説明では、自由民権運動のことは一行触れていただけだったが、運動からの脱落逃亡が透谷の生涯に大きなトラウマになったのは間違いない。そして三歳年上の石坂ミナと出会ったのが決定的だった。そのとき透谷は十八歳である。
     文学は功利的なものではないと山路愛山等と論争し(「人生に相渉るとは何の謂ぞ」)、西欧風の恋愛至上主義を主張した(「厭世詩家と女性」)が、その主張は余りに性急過ぎた。そしてその神経は余りに細すぎた。自殺したのは二十七年五月十六日であった。二十二年に『楚囚の詩』を出してから、その文壇的経歴は僅かに五年に過ぎない。
     透谷の特徴は「青春」という精神の病であった。しかしその病は感染力が強く、若者はすぐにひっかかってしまう。こうして日本の近代ロマンティシズムは透谷に始まるのだ。透谷より一歳年上の斎藤緑雨は遥かに大人で、そんなものは野暮の極みだと冷笑していた。
     白秋自筆の「赤い鳥小鳥」碑があり、尾崎一雄の曽我谷津の家から書斎部分を移築した建物がある。尾崎は宗我神社(小田原市曽我谷津三八七番地)の神官の家に生まれ、小田原中学(現、小田原高校)から早稲田に入った。生まれは別として碁聖と同じコースである。尾崎の飄々とした作風は嫌いではない。しかし志賀直哉が嫌いなのに、それに連なる尾崎が嫌いでないのは、我ながら説明がつかないことだ。開け放たれた縁側を外から眺めて通り過ぎる。
     隣の和風建築が白秋童謡館だ。玄関で靴を脱いで中に入る。二階に上がると、座敷の中央に掘り炬燵が切られて細長いテーブルが置かれている。既にスナフキンをはじめ数人が座り込んでビデオを見ている。白秋の生涯を辿りながら童謡を絡めたビデオである。風が心地良い。
     大正七年(一九一八)三月、三十三歳の白秋は章子と共に葛飾紫烟草舎から小田原に移転してきた。「紫烟草舎には前に行きましたね。」国府台の里見公園内に移設されていたのである。小田原では伝肇寺境内(小田原市城山四丁目十九番地八)の一角を借り「木菟の家」という小さな家を建てた。そして三十大正十五年五月(一九二六)まで八年間を小田原で過ごすことになる。
     「桐の花」事件の俊子とは大正二年(一九一三)に結婚したものの翌年には別れ、大正五年(一九一六)には江口章子と再婚していた。章子は戸籍ではアヤコと読むが、アキコと呼ばれていたようだ。『青鞜』の歌人である。
     小田原に移住した七年の七月一日、『赤い鳥』が創刊され、白秋は自身の作を発表すると同時に、投稿作品の選者となって大正の児童文化に大きな影響を与えることになる。生涯に作った童謡およそ千二百のうち半数がここで作られた。つまり小田原時代は白秋にとっては童謡時代であり、貧乏生活から脱出した時代でもあった。

     雨がふります。雨がふる。
     遊びにゆきたし、傘はなし。
     紅緒の木履の緒が切れた。(北原白秋「雨」)

     元の詩では「紅緒の木履」が「紅緒のお下駄」となっていて、これは章子の作、あるいは白秋と章子の共作ではないかと推測する人がいる。しかし九年になって三階建ての洋館を建設することになり、その地鎮祭に小田原中の芸者が集まり、園遊会のようになったことが引き金となった。貧乏時代の白秋を支えた北原鉄雄と山本鼎は、それが章子の采配によるものだと知って激怒したのである。章子は新聞記者と駆け落ちしたが、男はベルリン特派員として去って行ったこの辺の事情にビデオは何も触れていない。
     翌十年(一九二一)、白秋は佐藤菊子と三度目の結婚をし、これが生涯の伴侶となって、翌年には長男の隆太郎が生まれた。
     章子は一時谷崎潤一郎の元に転がり込んだり、柳原白蓮を頼ったりしたが、やがて放浪生活に入る。三度目の結婚もすぐに破れ、精神を病んで故郷の大分県西国東郡香々地町(現、豊後高田市)に帰った。最後は座敷牢のような土蔵の中で死んだと言う。昭和二十一年、五十九歳であった。

     ふるさとの香々地にかへり泣かむものか生まれし砂に顔はあてつつ  章子

     テレビの上に博多人形が置かれているのを指さして、「白秋は博多だろう。だから置いてるんじゃないか」とスナフキンが言う。「白秋は柳川だよ。」「似たようなもんだよ。」同じ福岡県だが、柳川は最も南である。ロダンと小町は畳に寝転んでしまう。「風が気持ちいいんだもの。」

     寝転びて童謡聴かば風爽か  蜻蛉

     こんなに寛いでしまうと後で疲れが出てくるのではないか。「それじゃ行こう。」さっきは気付かなかったが、玄関前に、径三センチ程のスイカのような模様の実を見つけた。「なんだろう。」「リュウキュウスズメウリって言ってました。」鎌倉のどこかの寺でも見たことがある。
     北条秀司碑も見ておこうと走ったが、誰も関心がないのか、皆はさっさと出口に向かってしまう。碑文は「未だ尽きず 八十の作家の業」である。芝居の『王将』しか知らないのだが、坂田三吉の名と初手端歩突きや「銀が泣いている」を国民的常識にした。と言ってはみたものの、はて、今のこの国に「国民的常識」と呼ばれるものは存在するのか。
     文学館に関して長く書き過ぎたか。こうして多くの文人が住んだ小田原だが、尾崎一雄や川崎長太郎のように小田原で生まれた人間以外は、いつか去って行った。

     ソクラテスの言葉として伝えられているのに、こんなのがある。曰く――「アテネの町は恋人の如くに人々から愛された。ここへ散歩に来ること、閑をつぶしに来ることを、人は愛した。が、何人も、これと結婚するほどには愛さなかつた。即ち、ここに移り住もうほどにはこれを愛さなかつた」と。
     アテネの町を小田原の町と置きかえてみたら不都合であろうか?
     山県有朋も伊藤博文も、ここに別荘を建て、それぞれ古稀庵、滄浪閣と名づけて、今もその跡が残つている。
     北原白秋も谷崎潤一郎も三好達治も、いずれもこの地を愛し、この地に何ものかをとどめ、そして遂にこの地を去つて帰らなかつた。
     しかし、これは小田原の罪ではなく、また誰の罪でもない。東京があまりに近く、かつ、人々が若すぎたというだけのことであろう。(岸田國士「時処人――年頭雑感」昭和二十九年一月一日)

     文人ではないからここに登場しなかったが、昭和最強の棋士であり、碁の神とも言ってよい呉清源も小田原に住んでいた。碁聖がいれば、そんなことも話題に出ただろう。勝負の秘訣は無理をしないことだというのが呉清源の言葉である。
     ここで西海子小路に戻る。静山荘は、伝説の相場師と言われた望月軍四郎が、昭和十四年に移築した屋敷だそうだ。御厩小路に突き当たって右に曲がると東海道だ。西に行くと、早川口交差点の歩道橋の脇に人車鉄道・軽便鉄道小田原駅跡の石柱が立っている。かつて熱海、小田原間を人力で押す.豆相人車鉄道が走っていたのである。明治二十八年七月に熱海、吉浜間が開業し、二十九年三月に小田原まで開通した。二十五、六キロを四時間で走ったと言う。
     「軽便鉄道っていうのは何ですか?」「馬で引っ張るのかしら。」「トロッコみたいなんじゃないかな。」私も詳しく知らなかったのでウィキペディアのお世話になる。

    軽便鉄道は、建設費、維持費の抑制のため低規格で建設される。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線、急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、線路幅が違う場合は積み替え、乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い。(中略)
    軽便鉄道は、鉄道の長所である高速大量輸送能力に乏しい。そのため路線バスの普及によって縮小傾向を迎え、一九三〇年代に入ってからの新規開業例はほぼ途絶える。さらに、一九三〇年代末期までに多くの零細軽便鉄軌道が淘汰されている。

     この小田原軽便鉄道も大正十一年(一九二二)十二月に営業を停止した。
     東海道線を越えると大久寺だ。小田原市城山四丁目二十四番七。入り口には「小田原城主大久保家一族の墓所」と記した大きな木柱を立ててある。小田原開城の翌天正十九年(一五九一)、初代小田原藩主大久保忠世の開基による。慶長十九年(一六一四)二代忠隣が改易されて以後一時衰退し、寛永十年(一六三三)忠隣の二男の石川主殿忠聡が江戸下谷へ移転して教風山大久寺とした。その後大久保新八郎康任が石塔と位牌をここに戻して再建したと言われる。大久保康任は、忠世の伯父の玄孫という実に遠い親戚だ。
     境内に入ると、すぐ脇を小田急線が走っていて結構うるさい。墓地正面に大きな宝篋印塔が建っているので、「これじゃないか」とスナフキンが言うが、何の説明もないから違うのではないか。右手奥を眺めると説明板らしきものが見えた。「あれだよ。」
     墓地には正面右から、三代加賀守忠常、二代相模守忠隣、藩祖七郎右衛門忠世、勘三郎忠良(忠勝五男)、五郎左衛門忠勝(忠俊の子)、常源忠俊(忠世の伯父)、忠良の娘の墓が並んでいる。忠世の墓石は珍しい宝塔らしいが、その価値が分からない。
     大久保忠隣の失脚には謎が多い。大坂方との内通や大久保長安事件への関与があげられるが、実は本多正信、正純父子との対立の結果の粛清であったとするのが、現在の定説である。
     その後の小田原藩は阿部氏一代、稲葉氏三代の治世を挟んで、貞享三年(一六八六)に大久保忠世の五代目になる大久保忠朝が入り、明治維新まで大久保氏の藩政が続く。

     板橋見付で東海道を離れる。小田原用水が流れている辺りから上り坂が続く。汗が出てきた。小町と姫は大丈夫だろうか。後ろを振り返るとなんとか歩いて来ているようだ。住所表示は板橋で、中に鬱蒼とした樹木を持つ広い敷地の屋敷が多い。途中で屋敷が途切れたところから海が見えた。「絶景ですね。」
     「砂山」の案内板が立っている。「海は荒海 向こうは佐渡よ、ですね。好きな歌ですよ。」私は中山晋平作曲のものしか知らないが、説明では山田耕筰の曲もあるらしい。姫が好きなのはどちらだろう。「白秋童謡の散歩道」と名付けられているが、散歩と言うには少し上りがきつい坂だ。
     用水から十五分程で三の丸外郭土塁に着いた。かつてはここにも屋敷があっただろうが、今では空き地になっていて、少年がキャッチボールをしている。ここの高台が一番見晴らしがよい。風景なんかに全く興味を持たなかった筈の斎藤緑雨までが「海よし、山よし、天気よし」と言ったのも無理はない。
     「あの鉄塔のある辺りが一夜城だったんじゃないかな。」海岸から視線を右にやれば、早川を隔てた山の中腹だ。笠懸山である。一夜城と呼ぶが、実際には三万人を動員して八十日で造ったと言う。総石垣で構築されたので、石垣山城とも呼ぶ。「あれは二子山。」「あっちは?」「金時山ですね。」ヨッシーは随分詳しい。
     「あの道がターンパイクだね。」「皆さん、ターンパイクなんて良く知ってますね」と姫が驚くが、私も知らなかった。小田原・箱根・伊豆を結ぶ有料観光道路であるらしい。「年金生活者はあんな道を通りません」とマリオは断言する。
     上りはまだ続く。「杖を持ってくればよかった。」「私も持ってこようかと思って忘れちゃいました。」いつのまにか小町の荷物はすべて桃太郎が引き受けている。三時三十二分、小峯御鐘ノ台大堀切東堀。「からたちの花の小径」の案内板が立つ。

     私には私としての幼児の追憶や、小田原の水之尾道で見た必然的なからたちの花の縁由がある。『からたちの花』は大正十三年五月十三日の作である。(白秋「緑の触覚」)

     この辺りは城山公園の南の端になるようだ。道端の藪の中に真っ赤なヒガンバナが咲いている。「少し早いんじゃないですか。」もうじき彼岸だから、それほど早すぎる訳でもないか。「ジャコウアゲハです。」姫は目敏い。私は遠ざかるその黒い羽根を目で追いかけるだけだ。
     小峯御鐘ノ台大堀切中堀。こうして尾根を大きく削り取って堀切としたものが何カ所にもある。かなりの土木工事だっただろう。「全部、人力だものね、大変ですよ。」この辺から舗装道路を外れて山道に入る。「揺籠のうた」の説明板。白秋が長男隆太郎の誕生に喜んで作った詩である。
     小峯の大堀切。私たちは三の丸の外郭を歩いているのである。毒榎平(どくえだいら)の石柱のあるところは小さな駐車場になっている。城山公園の駐車場になるのだろうか。「蝉が鳴いてる。」「今でも普通に鳴いてますよ。最近はツクツクボウシですか。」ロダンと姫の会話で気が付いた。このところの雨で、蝉の声なんかすっかり忘れていた。
     「ヤブミョウガの花が咲いてます」と姫が注意を促す。藪の中に石碑があるので近づいてみると「民衆」の碑だった。大正七年(一九一八)、小田原在住の詩人によって創刊された雑誌『民衆』の、福田正夫による巻頭言の一節である。

     われらは郷土から生まれる。われらは大地から生まれる。われらは民衆の一人である。

     井上康文の詩碑には、「梅は古き枝に蕾をつけず 新しき青き梢に花を開く」と、なんだか当たり前のことが書いてある。この詩人のことは全く知らなかったが、福田正夫とともに『民衆』に加わり、その編集に携わったと言う。この辺の詩人について、私は全く無学である。
     アザミの花が咲いている。姫はナントカアザミと言っていたが忘れた。秋に咲くアザミだからノハラアザミであろうか。牧野信一の文学碑がある。「どんな人ですか?」『ゼーロン』とか『鬼涙村』が有名だろうか。三十九歳で自殺した。碑文は『剥製』の冒頭から二段落目の文で、井伏鱒二が選んだものらしい。

     長い間のあらくれた放浪生活のなかで、私の夢は母を慕うて蒼ざめる夜が多かった。母の許へ歸らねばならぬと考へた。

     クレーコートが八面あるテニス場の脇を抜け、小田原高校の裏手に出た。小田原市城山三丁目二十六番一。「こんな山の中にあるんですか。足腰が丈夫になるわけですね。」碁聖は健脚だった。五十代までマラソンをやっていたなんて、私はちっとも知らなかった。
     回り込んで正門に着くと、校舎の外壁には、各部の全国大会出場の垂れ幕がたくさん吊るされている。「囲碁将棋同好会のもありますね。碁聖はこの頃から碁をやってたのかな。」小田原高校は藩校集成館を前身に、明治三十三年(一九〇〇)に神奈川県立第二中学として創設された学校である。大正二年に小田原中学と改称した。昭和二十三年(一九四八)の学制改革で新制の小田原高校となった。計算してみると、碁聖は旧制小田原中学から新制高校三年生に編入されたのではないだろうか。
     四時である。鍛冶曲輪、八幡山の石柱。ここからは下り坂になる。そしていきなり前方にかなりの段数の階段が出現した。膝の悪い姫には難行であるがゆっくり降りてくれればよい。下りなら平気の小町は元気になって、桃太郎に預けてあったリュックを受け取る。「コロコロ落ちないでよ。」「大丈夫、大丈夫。」
     階段の途中で買い物帰りの女性に行きあった。「大変ですね。」「もう毎日のことだから。」この階段を毎日上り下りすると思えば茫然としてくる。年を取ったら外には行けない。「うちの方も、この半分位の階段がある。飲んで帰るときはもう大変。神奈川は坂が多いんですよ」とマリオが笑う。坂を下り終えると中学校がある。「ここが城山中学校なのね。」
     駅前に着いたのは四時十三分である。「早雲はもう見なくていいよな。」私の万歩計が一万六千歩で一番少なく、ヨッシーの二万四千歩まで五人の数値にはかなりの差が生じたが、スナフキンに合わせて一万七千歩と決めた。「随分いい加減な。」十キロ程度か、「坂道があったんですから、もっと歩いたことにしましょうよ。」それでは体感的には十二キロ程としておこう。

     小町、マリー、お園さんはJRの改札に入って行った。残り七人は東口のおしゃれ横丁に戻り、海鮮居酒屋「ふじ丸」に入る。小田原市栄町二丁目七番二。今朝方この辺りを通った時にスナフキンが目星を付けていたのである。椅子はペンキの空き缶に座面を貼ったもので、貧しい居酒屋であろうか、それともこれが流行なのだろうか。
     生ビールの後は黒霧島の水割りにする。手作りさつま揚げは、三つ注文したのに一つしか残っていなかった。まだ四時半でこうなのだ。マグロのカマと大根の煮付けの汁は、私には少し甘味が強かった。マリオは缶の取っ手が足に当るのが気になってしまう。焼酎が空になり、まだ少し物足りないのでぬる燗を頼む。気が付くと、海鮮居酒屋なのに刺身類を注文しなかった。
     これで帰る積りが、桃太郎がもう一軒行くという。「墓地の横にボチボチっていう店があるんですよ。」以前に行ったことがあるらしい。「俺は帰るよ。」「ちょっとだけいいじゃないか。」スナフキンも頻りに誘うので仕方がない。ヨッシー、マリオ、ロダン、姫は当然ここで別れる。
     「ぼちぼち」は確かに大乗寺の墓地の横にあった。小田原市栄町二丁目五番四。和服に白い割烹着の女将が一人でやっている。私たちは入り口からすぐのカウンターに座ったが、意外に店内は広そうだ。ここでもぬる燗を頼む。既に私はかなり酔っている。つまみは注文した覚えがない。「蜻蛉はこれから帰るんじゃ大変だよね。」そう言う桃太郎が誘ったのではないか。その口調がかなり酔っている。「明日は出勤だぜ。」「大変だよね。ホントに。」
     駅に戻り、それぞれワンカップを仕入れてロマンスカーに乗り込む。桃太郎は厚木で、スナフキンは町田で降りて行った。結局私はワンカップ一杯が空けられず、眠ってしまったようだ。東上線には池袋から座れたのが良かった。鶴ヶ島駅から家に向かう道で、体が揺れているのに気が付いた。

    蜻蛉