文字サイズ

    第六十一回  隅田川橋巡り編(二) 十一月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.11.21

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     川と橋が好きな桃太郎が、第五十四回(昨年九月)に続く二回目を企画した。前回は東向島(旧玉ノ井)に集合して、白鬚橋から蔵前橋までを歩いた。
     旧暦十月十三日。立冬の次候「地始凍」。あちこちで赤いサザンカが目に付くようになってきた。八日の日曜日が立冬の始まりで、終日雨の降る寒い日だった。その雨は火曜まで残り、水曜からは晴れ間がでたものの次第に気温は下がってくる。今日は終日雨、夕方から本降りになる予報だ。今年は雨が多いような気がする。
     山手線外回りで本を読んでいて、気が付くと有楽町だった。集合は浅草橋だから秋葉原で乗り換えなければならないのに、注意力が散漫だ。昨夜、寝るまでのつなぎにと思って、本棚の奥に隠れていた庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』を引っ張り出してきて、読み直していたのが失敗の原因である。昨夜の残りを読み終えたのが有楽町だったのだ。
     つい最近、かつての東大全共闘代表山本義隆の『私の1960年代』を読んだことと、もうひとつ、林達夫『共産主義的人間』(中公文庫)末尾の庄司薫の解説を読み返していたこともある。将来の東大教授が約束されていた筈の山本の当時の決断と、小説中のことではあるが受験を断念する主人公との間に、何かの接点があるのではないかと思ったのだ。
     芥川賞を受賞して単行本が出たのが高校三年の時で、その時に単行本を買って(私がリアルタイムで芥川賞作品を買った最初で最後)、その後のシリーズも全て買った。それがいつの間にかなくなっていたので四部作全て文庫本を買い直しているのだから、昔から気になっていたのは間違いない。
     こんな風に始めてしまうと、その中身にも触れておかなければならないだろう。本が売れない時代に、少しでも本の紹介をするのは業界の人間の務めだ。というのは言い訳で、単に好きなだけである。今回読み直してみると、意外なことに私はかなり影響を受けていた。
     主人公薫クンは、東大入試が中止になった時の日比谷高校三年生だから、スナフキンと同い年、私の一歳上になる。勿論著者(本名福田章二)の年齢はもっと上だ。当時の日比谷といえば東大に二百人も入るような全国一の進学校である。秋田の高校生は日比谷高校生の日常感覚(風俗的な意味で)に若干の反感を覚えたのも事実だ。この事件がなければ、薫クンは何も考えずに東大法学部に入っていた筈で、それが頓挫したのは謂わば山本のせいであるといっても良いが、主人公に被害者意識は全くない。
     あの独特の饒舌体と「薫クン」という主人公の名前によって軽く見られがちなのは、あんみつ姫がライトノベルだと思っていたことからも分るが、右往左往しながら本当の知性を獲得しようとする薫クンの、知性の目覚め、知性の探求の奮闘努力の物語である。漸く今頃になって分るのだが、知性の発生現場における精神のてんやわんやを正確に描くためには、どうしてもあの文体が必要だっただろう。そして薫クンの周囲では、既に知的なものに対する侮蔑や反感が芽生えていた。つまり現代世界に蔓延する反知性主義の源流が、あの時代に遡るのだ。
     しかし初めて読んだ時にはそれに気づいていない。多分、私が最も影響を受けたのは、薫クンの兄貴の仲間たちが冗談半分ででっち上げた「馬鹿馬鹿しさの真っただ中で犬死しないための方法序説」である。

    つまり、誰かがもしなんかの問題にぶつかったら、とにかくまずそれから逃げてみること、特にそれが重大な問題であると思われれば思われるほど秘術をつくして逃げまくってみること、そしてもし逃げ切れればそれは結局どうでも良かった問題なのであり、それは逃げまくる力と比例して増えてくるはずで、つまり、逆にどんな問題にとっつかまってジタバタするかでそいつの力は決まってくる、だから、逃げて逃げて逃げまくれ、そうして、それでもどうしても逃げ切れない問題があったらそれこそ諸兄の問題で・・・・・・。

     私自身もあらゆる問題から逃げていた。他人様には言えない無様な問題から逃げ切るのはかなりの時間がかかったし、学問から逃げたのは一生の不覚であるが、ついに逃げ切れない問題、つまり「諸兄の問題」というやつにぶつかった。それが分ったのが二十六七の頃だから精神の成長が遅れている。
     ついでに言えば、シリーズ三作目の『白鳥の歌なんか聞こえない』に大きな影を落とす(一度も登場しないが、影の主人公と言ってもよい)、死に臨んでいる知の巨人のイメージは、おそらく林達夫である。林が実際に死ぬのは昭和五十九年だから、昭和四十六年に刊行された本のモデルに擬すのはいささか不穏当だが、そうとしか思えない。著者の恩師丸山真男とはイメージが違うような気がする。
     何人かの論者が、あの時代を契機として「教養」が滅びに向かったと論じているが(竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』、三浦雅士『青春の終焉』)、薫クンはそれにささやかな、しかし粘り強い抵抗を試みているのだと思えば、その奮闘努力が愛おしい。その庄司が小説の筆を折り、人生の後半を株と資産運用で過ごしているのは、私にとってはなかなか理解できない謎だ。隅田川とは全く関係ない余計なことを喋りすぎた。

     慌てて山手線を降り、秋葉原に戻って総武線に乗り換え何とか間に合った。雨だから参加者は少ないだろうと勝手に思っていたのに、意外に女性の参加者が多い。隅田川は人気のコースかも知れない。
     女性はあんみつ姫、チロリン、シノッチ、ペコチャン、マリー、お園さんの六人、男性は桃太郎、病から復帰した講釈師、ダンディ、ヨッシー、ドクトル、スナフキン、ロダン、蜻蛉の八人、総計十四人が集まった。一時入院していた講釈師も笑顔を見せるからもう快癒したのだろう。ペコチャンは江戸歩きには初めての参加ではないだろうか。随分久し振りだ。
     私の失敗は乗り越しだけではなかった。妻が魔法瓶にお茶を入れてくれたのに、それを忘れてきた。「帰ったら怒られますね」とロダンが笑う。仕方がないので、百六十円のペットボトルを買う。
     最初は柳橋を通るまだ隅田川ではなく、神田川が隅田川に注ぐ手前の最下流の橋である。元禄十一年(一六九八)に架けられ、明治二十年(一八八七)に鉄鋼の橋となった。現在の橋は関東大震災後の復興である。北岸は台東区柳橋一丁目、南岸は中央区東日本橋二丁目になる。
     お園さんとペコチャンはこの辺りは初めてだというので、少し説明する。「欄干に簪の模様があるでしょう。」「これですね。」柳橋が花柳街であり、成島柳北が『柳橋新誌』を書いたことは既に何度か触れているので繰り返すのは避けたいが、『柳橋新誌』第二篇(明治四年)は、初篇(安政六年執筆)当時と比べて大きく変わってしまった柳橋を歎じて、江戸情緒への深い哀惜に満ち満ちている。
     「新橋は明治になってできた新興の花街で政府高官が贔屓にしましたが、ここは江戸の中期からの古い町でした」とあんみつ姫も説明する。従って格付けとしては柳町芸者が上になる。天保の改革で弾圧された深川などの岡場所から、文化年間(一八〇四~一八一七)に芸者が移転してきたのが始まりで、安政六年(一八五九)には芸者の数百四十から百五十人になったと言われる。
     「そこの店で佃煮を買ったな。」スナフキンが佃煮を買ったのは、北詰の袂にある創業明治十四年の小松屋である。神田川が隅田川に注ぐ地点で、船宿も営む店である。
     大通りに入ると「旧跡両国広小路」の石碑が立っている。「この辺には店とか見世物小屋が立ったんだ。」これは講釈師の説明だ。『江戸名所図会』の挿絵を見れば、芝居や軽業の小屋、土弓、髪結床や茶屋が並び、南側には「舟宿多し」、北川には「料理や多し」と書かれている。江戸最大の盛り場であった。土弓は射的場で、矢場の女は殆ど遊女と等しい。

     この地の納涼は、五月二十八日に始まり、八月二十八日に終はる。つねに賑はしといへども、なかんづく夏月の間は、もつとも盛んなり。陸には観場(みせもの)所せきばかりにして、その招牌(看板)の幟は、風に飄りて扁翻たり。両岸の飛楼高閣は大江に臨み、茶亭の床几は水辺に立て連ね、灯の光は玲瓏として流れに映ず。楼船扁舟、所せくもやひつれ、一時に水面を覆ひかくして、あたかも陸地に異ならず。弦歌鼓吹は耳に満ちて囂しく、実に大江戸の盛事なり。(『江戸名所図会』)

     「両国橋を渡るんだろう?それじゃ向こう側に渡らなくちゃダメだ。大高源吾の碑を見るんだから。」忠臣蔵と新撰組が講釈師の十八番であることは、昔からのメンバーで知らないものはない。今日はいつもより講釈が長くなりそうだ。
     信号の変わるのを待って通りの南側に回ると、薬研掘跡の石碑があった。ここから南に百メートルほど行くと区立日本橋中学校がある。隅田川からこの中学校内を南西に直進し、九番地で北西に折れ、東日本橋一丁目に至ったL字型の運河である。
     両国橋を渡る。両国橋が架けられたのは、万治二年(一六五九)と寛文元年(一六六一)の二つの説があり、『江戸名所図会』では両説を併記している。隅田川に架けられた橋としては二番目で、明暦三年(一六五七)の大火で逃げ場を失った市民十万八千人が死んだことが橋の必要性を幕府に痛感させたのである。大橋と名付けられたが、当時は川の対岸は下総国であり武蔵国とを結ぶから一般に両国橋と呼ばれた。
     両国橋が正式名称となったのは、元禄六年(一六九三)に新大橋が架けられてからである。しかし江戸の木造の橋は損耗が激しく、そのメンテナンスに莫大な費用がかかった。何度も流出、破損、焼失を繰り返し、明治三十七年(一九〇四)に初めて鉄橋が、現在地から二十メートルほど下流に架けられた。現在の橋になったのは、関東大震災後の隅田川の橋梁復旧再興事業である。昭和五年(一九三〇)着工、昭和七年(一九三二)竣工したゲルバー式鋼鈑桁橋という形式だ。
     橋を渡り切った東詰の小さな児童公園には大きな表忠碑が建っている。これは明治三十七年戦役(日露戦争)の戦死者を供養したもので、大山巌の揮毫になる。しかしこれではなく、その前にある大高源吾の句碑が目的だ。源吾の俳号は子葉、其角の弟子である。

     日の恩や忽ちくだく厚氷  子葉

     「橋の上で其角と会ったんだよ。知ってるだろう?年の瀬やって言うと、明日待たるるって応えたんだ。」講釈師は完全復調したようだ。声が大きい。実際にそうした応答があったのか、粋で派手好みだった其角の創作ではないかとの説もある。芭蕉没後、江戸の俳壇は其角の風が圧倒した。

     年の瀬や水の流れと人の身は  其角
     明日待たるるその宝船     子葉

     大高源吾は大高忠晴(二百石)の長男に生まれながら、父の死後は二十石五人扶持の相続しか認められなかった。有能な官僚らしいのに、この処遇は何故だったのか。赤穂浅野家は塩のお蔭で豊富だった筈だが、実は逼迫していたのではないか。討ち入りでは間十二郎と共に表門一番乗りを果たした。享年三十二。辞世はこういうものである。

     梅で呑む茶屋もあるべし死出の山

     「両国橋と百本杭」の案内板もある。両国橋の北から横網の辺りまで、水量が多く、岸を守るために杭を打った。少し北のパールビルの辺りに、その説明板が設置されている。「月も朧に白魚の」と朗々と歌い上げるお嬢吉三の前に、お坊吉三、和尚吉三が現れ、義兄弟になる場面だ。
     「ももんじ屋」は享保三年(一七一八)の創業というから古い。墨田区両国一丁目十番二。金色の猪の看板は前からあったろうか。大きな猪が逆さに吊るされているのは前にも記憶がある。この店では「ももんじ」は「百獣(モモジュウ)」の訛だとしているが、幼児語で妖怪をモモンジと言うことからきているという説もある。
     ただ「ももんじや」はこの店だけの固有名詞ではなく、江戸には何軒もあって、特に麹町とこの両国広小路の店が有名だったと言う。『守貞謾稿』では、江戸で獣肉を喰わせる店は麹町にしかなかったと言っているが、それは勘違いだろう。たいてい店頭の行燈には「山くじら」と書き、牡丹(猪)や紅葉(鹿)を描いた。勿論これは花札の図柄による。鍋や鉄板焼きにしたらしい。室町時代に成立した『かちかち山』でも狸が婆の肉を汁にして、狸汁だと騙して爺に食わせるのだから、庶民の肉食は珍しいことではなかった。
     そのまま回向院に向うのかと思えば、リーダーは角を右に曲がる。「ここが回向院の正門だったんだよ。ここを見ないで回向院に入るわけにいかないだろう。」講釈は続く。「この門が閉まってて入れないから、赤穂浪士は広小路で待機したんだ。」「見てきたみたいね。」「あそこの喫茶店で見てたんだね。」上野戦争も谷中の喫茶店で目撃していた人である。講釈師見てきたような嘘をつき。しかしこれは嘘ではなくホントのことである。
     浪士たちは休息したかったのだが、恐らく血塗れになったその姿に寺側は恐怖したのだろう。暮れ六つから明け六つまでは門を開けないのが寺法だと拒否したのである。つまりまだ夜明け前だった。仕方がないので両国橋東詰の空き地と言うから、さっきの大高源吾の句碑の辺りで休息したのである。

     回向院正門跡
     回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。
     かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。(以下略)  墨田区

     回向院には何度も来ているのに、私がこれを知らなかったのは迂闊なことだ。もう一度京葉道路に曲がって現在の門から入る。「十時四十五分まで、自由見学とします。」「今何時?」「三十五分。」十分しかないが、初めての人に最小限の説明だけはしておかなければならないだろう。明暦の大火の焼死者十万八千人を宗派の別なく葬ったのが回向院の始まりである。この碑は、昭和十一年(一九三六)に日本相撲協会が歴代年寄の慰霊として建立したものだ。
     力塚の玉垣には関脇豊前・双葉山定兵衛、大関陸奥・清水川元吉、横綱武蔵・武蔵山武、横綱土佐・玉錦三右衛門、横綱常陸・男女川登三など、戦前の力士の四股名が刻まれている。「回向院は江戸勧進相撲の場所なんだ。」「だからなのね。」勧進相撲は京都、大坂、江戸を中心に全国各地で行われたが、江戸勧進相撲の始まりは富岡八幡宮だ。富岡八幡宮に歴代横綱碑があるのはそのためだ。
     風紀紊乱を理由に慶安元年(一六四八)には禁止されたが庶民の間で相撲人気は高く、貞享元年(一六八四)になると業界団体の結成と年寄による管理体制を条件に幕府も勧進相撲を認めるようになった。最初が深川富岡八幡宮、更に本所回向院、湯島天神などで晴天八日の興行が開催された。やがて天明年間になると回向院での開催が多くなり、天保四年以降は回向院が独占するようになった。それ以降、明治四十二年(一九〇九)に両国国技館が完成するまで、相撲といえば春秋二回に回向院で行われるものだった。
     江戸相撲が盛期を迎えるのは、谷風、小野川、雷電が活躍した天明から寛政期のことである。力士は大名のお抱えで、勝敗は即ち大名同士の確執に繋がったから、引き分けが多かったし、番付編成にも影響があった。谷風梶之助は仙台藩、小野川喜三郎は久留米藩、雷電為右衛門は出雲松江藩のお抱えである。
     岩瀬京伝、京山兄弟の墓にも注目してもらおうか。岩瀬と言って分からなくても、山東京伝と言えば分るだろう。京伝はなかなかの人物であるが、弟の京山は作家として大成しなかった。「馬琴の悪口ばっかり言ってたよ。」但し京山が鈴木牧之『北越雪譜』の刊行に努力した功績は認めなければならない。
     御存知鼠小僧の墓。「この石を欠いて持ってると競馬で勝つんだ。」「競馬なのね。」今では墓石本体が損傷しないよう、わざわざ打ち欠くための石を墓石の手前に据えてある。「貧乏人に施したなんて、嘘なんだぜ。」「ああら、そうなの。いやねえ。」処刑前からその噂は流れていたらしいが、実態は謎である。生涯に盗み取った金額は三千両余り。それを恐らく博奕と女で使い果たしたのではないかと言われている。小塚原の刑場で処刑された。寛政九年(一七九七)に生まれて天保三年(一八三二)の処刑だから、享年四十二ということになる。
     「鉢植えのは珍しいですね」とあんみつ姫が指差したのはホトトギス(杜鵑草)だ。「これはヤマジノかしら?」ペコチャンが訊いてくるが、ヤマジノホトトギス、ヤマホトトギス、タイワンホトトギスなどいくつかある種類を私が判別できる筈がない。「ツワブキも咲いてますね。」

     回向院の裏に回ると、松坂町公園の向いに「鏡師中島伊勢住居跡」の高札がある。あの事件後、元禄十六年(一七〇三)の大地震と大火によって崩壊して荒れ地となったこの場所を復興するため、御鏡師の中島伊勢と御研師の佐柄木弥太郎が拝領して町屋ができたからである。吉良邸があった時代には本所松坂町の地名はなく、本所松坂町一丁目、二丁目が出来たのはそれ以後である。
     この立札によれば、葛飾北斎が中島伊勢の養子あるいは妾腹の子、更に実子だと言う説があるらしい。しかし北斎の生まれたのは宝暦十年(一七六〇)とされているから、少し時代がずれるのではないだろうか。中島伊勢の伝記は分からないからどうしようもないが、若く見積って仮に元禄十六年に二十歳だったと仮定して、北斎が実の子だとすれば、七十七歳で生んだことになる。一応、説明をそのまま引いておく。

    中島伊勢の住居は、赤穂事件(忠臣蔵)の後、町人に払い下げられた本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府用達の鏡師で、宝暦十三年(一七六三)、のちに葛飾北斎となる時太郎を養子とします。
    北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も北斎は中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。
    飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この噂は、北斎自身が広めたようす。

     明治二十六年刊の虚心飯島半十郎『葛飾北斎伝』には(林美一「北斎の父は中島伊勢」からの孫引き)、「父は徳川家用達の鏡師にて、中島伊勢といひ、母は吉良上野介の臣、小林平八郎の孫女なり。」とあって、立札にある「平八郎の娘」ではない。「此のこと、北斎、常に人に語りし由、書肆柴文の話」と付記してあるので、北斎が公言していたのは間違いないようだ。但し本人が言っているから正しいとは限らない。
     本所松坂町公園に入る。墨田区両国三丁目十三番九号。三十坪弱の小さな公園で、これが吉良邸の規模だと思ってはいけない。屋敷は東西に細長く二千五百五十坪あったと推定され、西側の裏門は道を隔てて回向院に面していた。北は土屋主税邸と本多孫太郎邸に塀で接し、東は道を隔てて鳥居久大夫邸、牧野一学邸と向き合っていた。南は道を挟んで町屋である。敷地内の母屋の建坪は三八一坪、長屋が四二六坪だった。この公園は首洗い井戸のあった場所である。
     「そんなに広くて、もし発見できなかったら歴史は変わっていましたかね。」回向院も今よりももっと広く、この辺一帯は回向院と吉良邸で占められていた。
     小さな公園に入ると正面には、以前来た時にはなかった吉良義央の座像が鎮座している。「前にはなかったですよ」と姫も断言する。「平成二十二年建立って書いてますね。」講釈師が企画して、ここから泉岳寺まで歩いたのが平成二十一年二月のことだから、確かに私たちは初めて見る訳だ。
     「義央ってどう読むんだい?」「ヨシオでしょうか。」「ヨシナカだよ。」私は昔からの常識でそう言ったが、実は最近の研究ではヨシヒサと読むのが正しいということになったらしい。
     ところで討ち入りに参加した赤穂浪士の動機のひとつに、就職活動の面はなかったろうか。事件後の幕府内の判断も分れたように、一つ違っていれば「義挙」として賞賛され、各大名から引く手数多になったことは充分考えられるのだ。一生うだつの上がらない浪人暮らしが続くと思えば、一か八かの就活に賭ける連中がいたのではないかと思うのだ。
     この少し東には芥川龍之介の卒業した両国小学校と勝海舟が生まれた地(両国公園)が並んでいるが、そこには行かない。
     公園を出ると、講釈師が先頭に立って大川屋に入っていく。墨田区両国三丁目七番五。明治二年創業の老舗和菓子屋で、店の正面の造りがだいぶ新しくなったような気がする。女性陣も続々と店内に入っていくので狭い店内が一杯になる。ホントに女性は買い物が好きだ。
     講釈師はさっさと買ってすぐに出てきた。「何を買ったの?」「最中。ここに来ると必ず買うんだ。」吉良饅頭、隅田川最中、おにへい団子などがある。鬼平が若き日を過ごした屋敷はここから少し東だが、長谷川平蔵の在世時にこの店があった訳ではない。「まだ買ってるのか。早く行こうぜ。」「自分ばっかりさっさと買って。」「ホントよね、勝手なんだから。」
     店の外には小さなテントにテーブルと椅子が置かれていて、そこで休憩することもできる。店内ではお茶もサービスしている。スナフキンは団子をひと串買って、紙コップに入れたお茶をもって、姫と分け合って食べている。「甘かったよ。」そうだと思う。大酒飲みのスナフキンが、こんな団子を食べるのが私には不思議で仕方がない。

        団子食ふ本所松坂冬の雨  蜻蛉

     「ロダンはアリバイは買わないのかな?」「私は後で佃煮を買います。」午後のコースでは佃島にも寄ることになっているのだ。結局買わなかったのは私とロダンと桃太郎くらいではなかろうか。
     右に曲がる角には堅川に架かる塩原橋があり、塩原太助炭屋跡の立札がある。「青って知ってるだろう?」講釈師は必ず「知ってるだろう?」という言い方をするが、初めての人にはあまりピンときていないようだ。「落語の。」「ああそうか。」塩原太助の話ももはや国民的常識ではなくなっているだろう。私だって詳細は知らない。
     塩原太助は寛保三年(一七四三)~文化十三年(一八一六)に実在した人物である。円朝の『塩原太助一代記』で有名になった。円朝の噺では上州沼田の出で(実は利根郡新治村)、裸一貫から身を起こして江戸の豪商になった。『塩原太助一代記』は今では青空文庫で読むことができるので、「青」が登場する場面を引いてみる。速記本では太助を多助と書いている。太助の女房おえいは丹治と密通し、仲間と共に太助の殺害を企てていた。太助は殺害計画までは知らなかったが、おえいに愛想を尽かして江戸に向かうところだ。

    今多助が引慣れた青という名馬は南部の盛岡から出たもので、大原村の九兵衞方より角右衞門が買取ったのを、多助が十二歳の時より労って遣って居りますから、庚申塚の前へ来ると馬は足が自然に前へ進みませんのは、丹治が待伏している事を知り、後の方へ退りまする。圓次が引けば動き、多助が引けば動きませんゆえ、圓次は右の青を引出し、多助は御膳籠を担ぎ、急ぐ積りでございますが、馬は足早にポカポカ駆出すように行ってしまい、庚申塚へ掛った時は最早圓次の姿は見えなくなりましたゆえ、余程後おくれた様子、多助は重荷を担いで居ります故、七八町も後れましたから、畑中を突切れば道が近いと云うので、荷を担いで桑畑の間をセッセと参ります。此方は圓次が今庚申塚へ通りかゝる。時は宝暦十一年八月五日、宵闇の薄暗く、木の間隠れに閃く刄を引抜きて原丹治が待受ける所へ通りかゝる青馬に、大文字に鹽原と書きたる桐油を掛けて居りますゆえ、多助に相違ないと心得、飛出しざまプッツリと菅笠の上から糸経を着ている肩先へ斬込まれ、アッといいながら前へ俯る時、手綱が切れましたゆえ馬は驚きバラバラバラと花野原を駆出し逃げて往ゆく。手負はうんとばかりにのたりまわるを、丹治は足を踏み掛けて刀を取直し、喉元をプツリと刺し貫き、こじられて其の儘気息は絶えました。

     青は、太助の命が狙われているのを察して、それを教えようと懸命に努力するのである。丹治は間違えて仲間の圓次を切り殺して姿をくらました。しかし命の助かった太助も、江戸まで青を連れて行くわけにはいかない。沼田原まで来たところで太助は青と別れる。

    多「おゝ青、汝(われ)泣いて呉れるか、有がてえ、畜生でさえも恩誼を知り名残を惜むで泣いてくれるに、それに引換え女房おえいは禽獣にも劣った奴、現在亭主の己を殺すべえとする人非人め、これ青、己が出れば原の父子が家へ乗込むで来るに違えねえ、そうすれば鹽原の家は潰れるに違えねえから、汝辛かんべえが何卒どうぞ己の帰えるまで家に辛抱して居て呉んろよ、よう、よう」
    といいながら行きにかゝりますと、馬が多助の穿いている草鞋の切れ目を蹈み、多助の袖を噛くわえて遣るまいとするから、
    多「あアまだ留めるか、己も別れたくはねえが、居たくっても居られねえから其処を離して呉んろよ、よう、よう」
    と惜しき別れを無理に振切って別れまして、多助は泣きながらトットッと御城下まで一目散に三里ばかり駈けて参りまして、(以下略)

     江戸に出た太助は炭屋に奉公して蓄財し、独立してから大商人になった。江戸の町では炭や薪にする木材は全て他所から持ってくるしかなく、薪炭は高価だった。利益の上がる商売だったに違いない。二宮金次郎が薪木を背負っているのも、当然それに関係している筈だ。紀州藩江戸屋敷の足軽が小金を貯め、勤めをやめて内藤新宿の外れで薪炭商を営んだ。それが紀伊國屋書店創業者の田辺茂一の先祖である。
     『文政年間漫録』によれば生活費に占める燃料費の率は高く、妻と子供一人の大工の家(九尺二間の長屋住まい)では、光熱費が米代の倍にもなっていた。一日当たりの光熱費は二百三十文と言う計算もあり、長屋住まいの独身男性は外食をする方が安かった。蕎麦は十六文として、江戸に蕎麦を中心とする外食産業が発達したのはそれも理由であろう。薪が高いから飯を炊くのは一日一回、京阪は昼に、江戸は朝に限った。

     江戸ハ、朝ニ炊キ味噌汁ヲ合セ、昼ト夕ベハ、冷飯ヲ専トス。蓋、昼ハ一菜ヲソユル。菜蔬或ハ魚肉等、必ズ午食ニ供ズ。夕飯ハ、茶漬ニ香ノ物を合ス。(『守貞謾稿』)

     橋は渡らずその西に行けば出羽海部屋があった。墨田区両国二丁目三番十五。マンションのような建物で、白の外壁に海鼠塀を模した黒いタイルを張っている。「ひと気がないわね。」九州場所の真最中だから、相撲取りがここに残っていては却っておかしい。  「今の出羽海は誰だっけ。鷲羽山かな。」「鷲羽山、大好きでした。」しかしこれは私が無知だった。鷲羽山の出羽海は去年四月に定年退職しており、現在は小城ノ花である。「名門出羽海も最近は衰えたね。」現在、幕内は御嶽海ただひとりだ。出羽海部屋が名門になるのは常陸山の再興による。分家独立を許さぬ家訓で、九重(千代の山)は破門された。
     「俺は佐田の山が好きだったな。五島の出身だよ」とスナフキンが言う。佐田の山は横綱にはなったが、柏鵬時代の脇役である。と言っても優勝六回は柏戸の五回より多い。「優勝した直後の場所で引退したんだよね。」あの頃の姿はテレビで見ている。昭和四十二年の九州場所と翌初場所で連続優勝したものの、三月場所では二勝三敗となったところですぐに引退した。それが、美しい突っ張りの姿と相俟って潔いと思われた。突っ張りと言えば後に麒麟児や富士櫻が有名になったが、佐田の山の場合は長い腕が美しく回転するのである。後に二子山の跡を継いで相撲協会理事長となった。
     同じ出羽海部屋の大先輩で、もっと潔く(あっけなく)引退したのは栃木山(春日野)である。三連覇した後、翌場所を待たずに引退した。その六年後、昭和六年(一九三一)に開かれた第一回全日本力士選士権に出場して、現役力士を破って優勝しているのだから、何故引退したのか分らない。真偽は不明だが、毛髪が薄くなって髷が結えなくなったからではないかとの説がある。
     分家独立は許さぬと決めた常陸山自身が栃木山に限って認めたのは、春日野が元々行事年寄の名跡であることが理由だ。幕内格行司の木村宗五郎が相撲部屋を起こす悲願を持っていて、現役時代の栃木山を養子に迎えていたのである。三保ヶ関部屋は大阪相撲から出羽海一門に合流したので、出羽海一門はずっと、この三部屋で続いていた。
     しかし佐田の山の決断で武蔵川(三重ノ海)が独立した後は、境川(両国)、田子の浦(久島海)が独立した。春日野部屋からも玉ノ井、入間川、千賀ノ浦が、三保ヶ関部屋からは北の湖、尾上、木瀬が独立、一門の部屋の数はずいぶん増えた。
     出羽海部屋が名門である所以は、歴代日本相撲協会の理事長を見れば一目瞭然だ。初代は陸軍主計中尉だから除外して、二代常ノ花から十二代北の湖まで、十人十一代中(北の湖が二度就任しているので)、六人七代が出羽海一門から出ているのである。出羽一門以外では、時津風(双葉山)、二子山(若乃花)、時津風(豊山)、放駒(魁傑)が理事長になった。

     雨は強くはないが止む気配がない。「でも風がないから楽だわね。」しかしこれだけの人数が傘をさして歩いていると、周囲の状況がよく見えない。案内板の前も傘の列になるから、読むのも容易でない。
     堅川に架かる一之橋を渡る。「何て読むの?」「タテ川。江戸城から見て真っ直ぐに、つまりこの辺だと東西に流れるのがタテ川、横に(南北)に流れるのが横川だよ。」「ヘーッ、そうなんだ。」チロリンも珍しく説明を聞いてくれる。ここから東に行けば、二之橋は清澄通り、三之橋が三ツ目通り、四之橋が錦糸町駅前を通る四ツ目通りになる。
     「討ち入りの日は総登城の日で、両国橋が渡れないから、浪士はこの橋を渡って永代橋に向かったんだ。」「今日はリーダーよりサブリーダーの解説が多いわね。」しかし講釈師の説明は省略が多い。両国橋が渡れないのではない。この橋を渡ると必然的に日本橋界隈の大名屋敷の近くを通らざるを得ず、登城の混乱に巻き込まれては泉岳寺に到達できないと考えたのである。
     江島杉山神社も前に寄っている。墨田区千歳一丁目八番二。江島は江の島の謂である。社殿の中では集会が開かれているようだ。右手の岩屋に入ると突き当りに宇賀神が鎮座している。江の島の弁財天を勧請した人頭蛇身の神は、中世密教が作り出した神仏習合の異形の神のひとつである。三重にとぐろを巻いた尾に、直接白髭の老人の頭が乗っている。周囲には小さな蛇が数えきれないほど群がっている。
     「いよいよ隅田川の橋に入ります。」新大橋である。

     両国橋より川下の方、浜町より深川六軒掘へ架す。長さおよそ百八間あり。この橋は元禄六年癸酉(一六九三)はじめてこれをかけたまふ。両国橋の旧名を大橋といふ。ゆゑに、その名によつて新大橋と号づけらるるとなり。(『江戸名所図会』)

     広重の「大橋あたけの夕立」に描かれるのがこの橋である。かつて最大の軍艦「あたけ(安宅丸」の係留地だった。だから「御船蔵跡」の立札がある。しかしこの軍艦は大きすぎて実用にならず、天和二年(一六八二年)に解体された。ただそれ以後も、この付近の呼び名として「あたけ」が通用していた。
     破損、流失、焼落はこの当時の橋の宿命で、架け替えは二十回を超えたという。明治四十五年(一九一二)にピントラス式の鉄橋が架けられ、その後すぐに市電が開通した。アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱だったらしい。関東大震災でほかの橋がすべて焼け落ちた中で、この橋だけは無事で多くの人命を救ったので、このためお助け橋とも呼ばれた。
     現在の橋にかけ替えられたのは昭和五十二年(一九七七)である。黄色の柱には由来を説明した銅版、広重のレリーフが埋め込まれている。由来にも書かれているように、芭蕉はこの橋の完成を心待ちにしていた。

     初雪やかけかかりたる橋の上      芭蕉
     ありがたやいただいて踏むはしの霜   同

     橋を渡れば浜町だ。両国橋から箱崎の辺りまで、江戸時代初期に河口の海浜を埋め立てた地域である。ところで「浮いた浮いたと浜町河岸で」(『明治一代女』)と歌われる浜町河岸はどこだったか。浜町と蠣殻町の間を通って、大川の水を通す水路で物資輸送の運河で、西沢爽は、「浮いた浮いた」というような花街ではなかったと断言している(『雑学艶歌の女たち』より)。
     ここからは隅田川テラスを歩くのだが、膝の悪い姫は土手の階段を上り下りするのがきつい。外を大きく回って次の清洲橋で合流することになる。と思っていたが、リーダーとの間で若干の勘違いがあったようで、姫は皆が一緒に来るのだと思っていたようだ。
     土手の壁面には芭蕉ともう一人の男の絵が描かれている。この男は曾良ではないだろうね。笠の下に頭髪が見えるし、着物も僧衣ではなく、梅鉢模様を散らした着物姿だ。(私が曾良は僧形だと思い込んでいるのは、草加にある芭蕉と曾良の像によるだが、違うのだろうか。)脇差を腰にさし、細い棒のようなもの(煙管かな)で道を指示しているように見える。「芭蕉はどの辺から舟に乗ったんですか?」「もう少し下流になるね。」
     雨の中を、屋根のない遊覧船が客を大勢乗せて過ぎていく。「予約したから仕方がないんだろうな。」ここで桃太郎に姫から電話が入った。いろいろ勘違いはあったようだが、結局清洲橋で合流することに決まる。ただこの辺りは土手に沿った道がなく、姫はかなり遠回りしなければならないようだ。
     赤錆びた鉄柵で囲われた場所には「日本橋消防署浜町出張所」とあり、岸には白塗りの船「はまかぜ」が係留されている。勿論これが出張所であるわけはなく、それが管轄しているという意味だろう。出張所はこの土手の外側にあるようだ。「水上消防だよ、知らないのは江戸っ子じゃないな。」「江戸っ子じゃないですよ、水戸ですからね。」現在、東京に水上消防署はない。浜町出張所には「はまかぜ」「きよす」の二艇が水難救助艇として稼働している。
     対岸に小さく、芭蕉庵史跡展望公園(芭蕉記念館分館・江東区常盤一丁目六番三)の芭蕉像の胸から上の部分が見える。「どこに?」「あそこ、川が合流する角にあるでしょう。」「見えるような、見えないような。」小名木川が隅田川と合流する地点である。「万年橋だよ。」
     「あの川はどこに続いているんだい?」東は旧中川と結んでいる。「浦安の塩を運んできたんです。」
     そして清洲橋の袂に上ってきたが姫はまだ到着していない。スナフキンが探索に出かけた。五分ほど待って漸く二人が現れ、清洲橋を渡る。関東大震災の復興事業として架けられた橋だ。東岸が深川清住町、西岸が日本橋区中洲町だったことから、両方の文字を採って清洲橋と名付けられた。ドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊り橋をモデルにしたという。街灯の家の形をしたランプが昔風である。
     十一時四十六分。かなり腹が減ってきた。「時間も時間だし、雨も降っているので、清澄庭園はパスして飯にしたいと思います。」「ここまで来て清澄庭園に入らないのは可哀想だろう。せめて入口を見ていこうぜ。」講釈師の主張には誰も反対できない。
     清洲橋通りをまっすぐ行き、清澄公園を通り抜ける。「あればバレーで有名な中村高校だよ。」「バレーッて、ダンスの?」ロダンが手をひらひらさせる。「バレーボールじゃないか。全国大会五連覇したんだよ、知ってるだろう?」私は知らなかった。調べてみると、平成二十二年の時点のバレー部創部八十年の記事に「公式戦一四九連勝という偉業を達成し、全国優勝は三〇回以上、全日本選手も数多く輩出している本校バレー部」と書かれていた。
     清澄庭園の入り口まで行って中には入らない。「ずいぶん綺麗になったんじゃないでしょうか。」姫の感想は私も同じで、暫く来ないと様子は変ってしまう。外から見る池の水も昔より綺麗になったのではないだろうか。
     清澄橋(仙台堀川)を渡ると、「さっきは清洲橋、今度は清澄橋。分かり難いわねエ」とペコチャンが悩む。この辺りは運河が縦横に走っていて、私も地図を確認しないと良く分からない。

     首都高速深川線を潜り、佐賀町一丁目に入るとすぐに目指す長寿庵があった。江東区佐賀一丁目十六番二。隣の定食屋もよさそうだが、長寿庵は折角リーダーが予約してくれている。桃太郎がこの店を選んだのは、平岩弓枝『御宿かわせみ』に深川佐賀町の長寿庵が登場するからなのだ。よく読んでいるね。ちょっと探し見ると、こんな具合である。こういうものをネットで公開してくれる奇特な人がいるのだ。

     今年は初天神に参詣しなかったから、とるいがいい出して、千春とお吉を伴って亀戸天神へ出かけ、帰りに千春がおねだりをして深川佐賀町の長寿庵へ寄ると、そこに畝源三郎と東吾がいた。(『御宿かわせみ』三十二「十三歳の仲人」)

     節分の日に、深川の木場で川並鳶の筏の初乗りがあるので見物にお出かけになりませんかと誘ったのは、深川佐賀町の長寿庵の主人の長助で、本業は蕎麦屋だが、当人は若い頃から捕物好きで、定廻同心の畝源三郎から手札を頂戴して、今は岡っ引の中でも古顔になっている。(同二十一「犬張子の謎」

     佐賀町の名の由来は、元禄八年(一六九五)の検地で、ここの地形が肥前国佐賀湊に似ていると考えられたからだと言う。
     一階は狭いが二階に席が作られているらしい。しかし階段が狭くて急だ。これでは姫は登れない。「何人か、下でもいいかな?」「いいですよ、どうぞ、どうぞ。毎度。」やたらに元気で声の大きなオバサンだ。姫とスナフキン、私が一階に陣取った。五六人も入ればいっぱいになるが、奥の厨房は広い。「雨の中、わざわざすいませんねエ。ごゆっくりしてくださいね。」
     メニューを見ると蕎麦だけでなく、ラーメンもやっている。私はカツ丼とかけ蕎麦のセット、スナフキンはあさり丼とモリ蕎麦、姫は天ぷら蕎麦を注文した。なるほど、深川に来たからには浅利だったかと思っても後の祭りだ。私は蕎麦屋ではたいていカツ丼と蕎麦を食うことに決めている。
     「お待たせしました、毎度。」初めて来た客に「毎度」とはいかがなものだろうか。最初に私のかつ丼セットが出てきた。「うちは量が多いですよ」と最初に言われていた通り、ボリュームがある。やがてあさり丼も天ぷ蕎麦もでてきたが、天ぷらの量もかなり多い。「きれいな奥さんだからサービスでつけたのよ。」満腹になった。六十を過ぎてこんな量を食べてはいけない。「漬物はうちで漬けたやつだから、糠漬け。食べてよ。」旨い。
     店を出ると雨は止んでいる。「良かったですね、お気をつけて。」「社長は元気?」「元気ですよ。」講釈師は麺類業界の人で、昔はこの辺を縄張りにしていたのである。
     シノッチやクルリンもあさり丼と蕎麦のセットを食べたようで、「お腹が一杯、あんなに多いとは思わなかったもの」と口を揃える。「ちょっと、これ食べてよ。重いからさ。」チロリンが大量の柿を入れたビニール袋を取り出す。「爪楊枝もあるよ。」それでは遠慮なく一切れ戴くとかなり甘い。「美味しいわね。」
     「オーイ、待ってよ。」かなり先に行ってしまった連中をチロリンが呼び戻す。「ひとつじゃ味が分らないな。」講釈師のこの言葉は何度も聞いたことがある。「いいよ、全部食べてよ。」小さな体でこんなに柿を持ってきたのは、さぞ重かっただろう。

     柿ひとつ味分らぬと催促し  蜻蛉

     隅田大橋の上には首都高速が走っているのは、昭和四十五年(一九七〇)、首都高速深川線に合わせて建設されたためだ。対岸にはIBMがある。「社員食堂が良かったよ。」何度か入ったことがある。二十年以上も前のことになるが、レシートにはカロリー計算が印字されていたように思う。「紀伊國屋のブックセンターがあったよな。今でもあるんじゃないか。」「もうないんじゃないかな。」調べてみると平成二十二年に閉店になっていた。
     また雨が降ってきた。豊海橋を渡る。日本橋川が隅田川に注ぐ要衝で、元禄十一年(一六九八)に橋が架けられたのが最初である。北詰には船手番所が置かれていた。現在の橋は関東大震災の復興橋梁である。
     「この辺が大川端町でしたか?」「『御宿かわせみ』ですね。」実家には文庫本が殆ど全巻揃っていたから、母もマリーも読んでいただろうが、私はたぶん一冊しか読んでいない。この辺が旅籠「かわせみ」のあった場所だったようだ。正保の頃にできた町名で、正式には北新堀大川端町と称した。現在の住所では中央区新川一丁目二十か二十一番の辺りだ。

     屋敷を出る時から、心のどこかで、今夜は大川端町の、るいの許へ行くつもりがある。
     神林東吾は仲間と別れると、自然、酔った足をそっちへむけていた。
     豊海橋の袂から少しはずれて「御宿、かわせみ」と小さな行燈が夜霧の中に浮んで見える。
     星も月もみえない、しっとりとした晩である。(平岩弓枝『御宿かわせみ』第一話「初春の客」より)

     桃太郎は、「オオカワ・バタチョウ」か「オオ・カワバタチョウ」か悩んでいた。多分「オオカワバタ」と一息に読むだろう。町名は別にして、吾妻橋から下流を大川と通称していたから、その両岸は理論的に大川端になるのではないか。こういうことは西沢爽が書いてはいないかと、西沢爽『雑学艶歌の女たち』を開いてみると、さすがに西沢である。知りたいことを書いていてくれる。
     元禄十六年(一七〇三)本郷追分と小石川辺から出火した火事が下町を総なめにし、両国橋も半分焼け落ちたことがあった。そのため幕府は両国橋から新大橋にかけて広大な火除地を設けた。これを大川端と称したと言うのである。つまり本来の大川端と、大川端町とは別のものである。ついでに隅田川の異称を尋ねてみる。

     隅田川はこまかく言えば、江戸の頃は荒川の下流と綾瀬川が合流する千住辺から隅田川、下って橋場、今戸辺からを浅草川、宮戸川などと言った。そして吾妻橋から下流を大川と呼んだのである。(西沢・同書)

     そして永代橋だ。元禄十一年(一九六八)、将軍綱吉の五十歳を祝して架けられたのが始めである。現在の位置より百メートル程上流の、箱崎と深川佐賀町を結ぶ深川の渡しがあった場所である。当時、佐賀町が永代島と呼ばれていたようで、その名を採って永代橋と名付けられたというのは、『江戸名所図会』や『東都名勝図会』に書いてある。またウィキペディアアにh将軍家の永代を願って名付けたと言う説も挙げてある。
     しかし文化四年(一八〇九)八月一九日、深川富岡八幡宮の十二年振りの祭礼で、群衆の重みに耐え切れず橋は落ちた。死者・行方不明者は千四百人を超え、史上最悪の落橋事故となった。

     永代とかけたる橋は落ちにけり今日は祭礼あすは葬礼  大田南畝

     石原慎太郎の筆になる「永代橋」の碑の横にはコノテガシワがプラスチックのような実をつけている。「門前仲町ってどのへんかしら。」「これを真っ直ぐ行ったら着くよ。」橋を渡り、少し行ったところで信号を渡ってまた戻る。「あら、この橋は、さっき通らなかったかしら?」左岸が工事中で通れないので、右岸を歩くと桃太郎が言っていた。「そうだったの。」下をのぞき込むと、隅田川テラスのすぐ先が通行止めになっている。
     新川一丁目の児童公園で、「新川の跡碑」をみる。

    新川は、現在の新川一丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約五九〇メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
     この新川は、豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六〇)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。
     昭和二十三年(一九四八)、新川は埋め立てられましたが、河村瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年(一九五三)に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。

     『江戸名所図会』の挿絵には「新川酒問屋」として、酒樽を積んだ船が何艘も川に浮かび、菰樽を見せに運び入れる様子が描かれている。河村瑞賢は海運(東回り、西回り航路)と治水に功績があったが、その財は明暦の大火の際の木曽木材の買い占めによって築かれた。また福神漬け元祖説話がある。瑞賢が不遇だった時代、お盆の精霊流しでナスやキュウリが流れ着いたのを拾い集め、漬物にして売ったというものだが、上野「酒悦」の野田清右衛門の創作と言うのが定説ではなかろうか。本来は今のように甘くはなかったようで、甘くなったのは軍隊が支給した缶詰の福神漬けによるという。
     中央商業学校発祥の地碑も建っている。学校法人中央学院とあるので、我孫子の中央学院大学の前身であろう。講釈師からはいつものように煎餅の大きな袋が渡される。チーズ鱈も出てくる。そんなに食えるものではない。全員で分けても半分以上は余ってしまう。「持っていってくれよ、リュックに入るだろう。」「多すぎるよ。」「貰ってて言うことじゃないわよ」とマリーが顔を顰める。「だって、どうせ講釈師だって人から貰ったものなんだ。」「マンションの三階の人がくれるんだよ。うちじゃ食べ切れないからさ。」シノッチも煎餅をだしてくれ、ヨッシーはチョコレートを配ってくれる。

     川にはユリカモメが群れをなしている。中央大橋の下を潜り、今度はロダンが先頭に立ってどんどん先を歩く。どこに行くのだろう。佃島によって隅田川が東側の豊洲運河と分かれる分岐点で、亀島川が隅田川に注ぐ角である。一等水準点があるが、目的はここではなさそうだ。更に行くと、「日本水準原点と霊巌島水位観測所」の案内板が立っていた。ロダンの目的はここである。
     日本の水準原点は国会のそばにあって、以前ロダンが案内してくれた。

    平均海面を算出するために霊岸島水位観測所で明治6年6月から明治12年12月の間、4ヶ月間の欠測を除き6年3ヶ月の毎日の満潮位と干潮位を測定しその平均値を求め、さらにその平均値を算出したのです。そのときの値が霊岸島水位標の読み値で1.1344mでした。これを東京湾平均海面すなわちT.P.0mとし全国の高さの基準として定めたのです。そしてその後の明治24年5月に東京都千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、このとき霊岸島水位観測所から原点までの水準測量を行い、日本水準原点の高さ24.5000mを基準点としたのです。しかしこの値は、大正12年に起きた関東大震災の影響により昭和3年に24.4140mに改訂され現在に至っています。

     説明を読んでも「水位標の読み値で1.1344m」とはどういうことか良く分らない。とにかく、ここを海抜ゼロメートルとして、永田町の水準原点を二四・五メートルに定めたということらしい。それが関東大震災の影響で、この案内板に記されている数値になった。「だけど三・一一でまた少し変わって、現在では二十三いくつかになっています。」ロダンの説明に、「それならこの看板に追記しなくちゃ」と言う人がいる。ロダンの責任ではない。
     「この写真にある建物(?)はどこにあったの?」「そこにあるでしょう。」なるほど、すぐ近くの海面に立っていた。「角度が違うから分らなかった。」なんと言うか、商店街の福引で、ガラガラと回してポンと出す箱がある。あれを大きくしたようなイメージで、その周囲を細い棒で組んだ三角錐のようなもので囲んである。説明にはこう書いてある。

    観測室については、斜方十二面体と言う形で立方体それぞれの面に勾配四十五度の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。

     「霊巌島って、ここは島だったのかい?」江戸時代初期には箱崎島 と一体で江戸中島と呼ばれた島である。寛永元年 (一六二四)霊巌雄誉上人が霊巌寺を創建してから霊巌島と呼ばれた。但し寺は明暦の大火後に深川に移転した。江戸六地蔵のひとつと、松平定信の墓所として有名で、以前に立ち寄っている。
     そして中央大橋を渡る。平成五年(一九九三)、レインボーブリッジと同じ日に竣工した橋で、二径間連続鋼斜張橋という形式である。斜張橋というのは、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁につないで支えるものらしい。
     橋を渡ればここは佃島だ。石川島灯台跡には人足寄場の説明があり、十人ほどの女性グループがいた。慶応二年に建てられた灯台は、いまはレプリカで、白壁のきれいなトイレになっている。人足寄場が「鬼平」長谷川平蔵によって作られたことは今更言うまでもないだろう。そして佃島が摂津国佃村の漁師が移住してできたことも、勿論言うまでもないだろうが、一応説明を引用しておこう。

    佃島は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。家康が一五八二年京都から堺の地に遊んだ時本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向ったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出して一行を助け、ここに徳川家と佃島漁民の間に固い絆が結ばれることになった。その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく老中安藤対馬守を通してその出府を促し、一六一三年には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。

     住吉神社に向かっていると、さっきのグループらしい四五人がやってきた。「はぐれちゃいけないわね。」半分に分かれた私たちの後半部隊を追い抜いた。先に歩く数人が自分たちの仲間だと思い込んでいたらしい。「あら、違ったわ。皆さんはどちらからいらしたの?」「埼玉です。」「昨日は埼玉に行ったわ、長瀞に。私たちは町田です。」そしてすぐに引き返して行った。
     住吉神社もまた佃の漁民がもたらしたものである。欄間の彫刻には船が描かれている。境内には江戸の鰹節問屋による大きな鰹塚がある。二宮金次郎の像もある。「石ですね。」「銅像は戦時中に殆ど供出しましたからね。石だから残っているんでしょう。」
     前に来た時には「写楽終焉の地碑」があった筈だが、今回は気付かなかった。写楽の正体については様々な議論があったが、俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住む阿波徳島藩・蜂須賀家の能役者であることが中野三敏『写楽』によって確定した。中野の考証を覆すような新しい証拠は出ないだろう。
     川沿いには佃島渡船の碑がある。鳥居の台のような対になったものは祭礼の際、大幟を立てるための台だろう。神輿蔵からはガラスを通して大きな神輿と獅子頭が見える。
     そしてお目当ての佃煮だ。さっきのグループは丸久(安政六年創業)から出てきたが、桃太郎はそれを素通りして天安(天保八年創業)に向かう。昆布、アミ、浅利、鰹角煮、キャラブキ等のほかに、桃太郎のお勧めはイナゴである。二度の下見をして、その都度この店で佃煮を買ったらしい。
     佃小橋の赤い欄干が可憐だ。この辺は漁船の係留所になっているようだ。佃島は古い建物と新しいマンション群が交雑する不思議な町だ。建物と建物の間が半間幅で空いている。その路地の入口に「佃天台地蔵尊入口」の看板が立っていた。「抜けられるのかしら?」「行ってみよう。」擦れ違うのも大変な路地の途中、右側がその地蔵尊である。中央区佃一丁目九番六。狭い建物の内部を大木が貫通している。「何の木かしら?」「イチョウじゃないかしらね。」
     柱のラッカーの色に照明が反射して、狭い堂はキラキラ光り、壁の上部には奉納された赤い提灯がずらりと並んでいる。地蔵は黒光りする石に線刻したものだ。私は気づかなかったが、ヨッシーがパンフレットを見つけてくれたので引用しておく。

     江戸時代の中期、正徳五年(一七一五)~元文三年(一七三八)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたまわり、地蔵尊造立を促されたと伝えられています。
     享保八年(一七二三)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像を描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(中略)
     妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永三年(一八五〇)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁にふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。
     佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手には錫杖を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいといわれています。(パンフレットより)

     八万四千体建立の発願通りだとすれば、もっと頻繁にお目にかかっても良さそうなものだが、この形は初めてだ。
     佃大橋を渡って今度は築地側に向かう。この橋は東京オリンピックに間に合わせるため急ピッチで造られ、昭和三十九年(一九六四)竣工した。「怖いわね。」チロリンやシノッチが眺めているのは聖路加ガーデンの二棟をかなり上で結ぶ渡り廊下だ。オフィス棟の二十八階とホテル・レジデンス棟の三十二階をつないでいるというが、見ているだけでもかなり怖い。
     ここから左岸の隅田川テラスを南下する。川の水量はかなりあって、ちょっと雨が降ればこのテラスはほとんど冠水してしまうと思われる。遊覧船を無数のユリカモメが追っている。「餌を上げてるからじゃないかな。」

     冬鴎遊覧船を追ひかけて   蜻蛉

     そして勝鬨橋だ。明治三十八年(一九〇五)旅順陥落記念として、築地と月島を結ぶ勝鬨の渡しが有志によって設置された。月島は石川島播磨重工を筆頭に工場群が立ち並び、交通需要があったために、昭和四年(一九二九)の東京港修築計画で架橋が承認された。実際には昭和八年に着工して昭和十五年(一九四〇)に完成する。
     この年は皇紀二千六百年で、月島で開催を予定していた万国博覧会に間に合わせたものである。しかしこの万博は当時の世界情勢によって、当然ながら実現しなかった。今日の講釈師は「紀元は二千六百年」の歌を歌わない。代わりに替え歌を歌ってみようか。

    「金鵄」上がって十五銭
    栄えある「光」三十銭
    今こそ来たぜ この値上げ
    紀元は二千六百年
    ああ一億の民は泣く

     煙草を吸い.始めた頃のハイライトが八十円、今吸っているメビウス(昔のマイルドセブン)が四百三十円。私も泣いている。
     月島万博の前売券は十円で販売されていたが、これを後生大事に持っていた人は、昭和四十五年の大阪万博と、平成十七年の愛知県地球博で使用することができた。大阪では三千枚、愛知では八十枚が使用されたらしい(ウィキペディアによる)。またこの年は幻に終わった東京オリンピック(昭和十三年七月に辞退)の年でもあった。
     大型船の運航がなくなったこと、交通量が増加したとこにより、昭和四十五年(一九七〇)十一月二十九日を最後に勝鬨橋は開閉されなくなった。大阪万博の年である。昭和五十五年(一九八〇)には電力供給も停止された。「俺は開閉しているのを見たことがあるよ」とスナフキンが言う。こういうものをリアルタイムで見た経験は羨ましい。江戸歩きをしていて、私は全てに間に合っていないのである。
     「ほら、ここが真ん中の継ぎ目だよ。」この当たりになると橋はかなり揺れ、その継ぎ目が浮き上がる。橋を渡ると、前方のマンションに三日月マークが見える。何だろう。花王石鹸ではないだろうね。「月島だからかな。」なるほど。下にデニーズの入るイヌイマンションの屋上である。三日月の左に樹木のようなものもあるようだ。
     明治二十五年(一八九二)の「東京湾澪浚計画」に基づき、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられた土地である。もんじゃ焼きが有名らしいが、私は食べたことがない。「駄菓子屋で食ったよ」とスナフキンは言う。そんな子供の小遣いで食えるような手軽なものだった筈だが、桃太郎の下調べではかなり高いものになっているようだ。「食べログ」を見ると、昼間でも千円から二千円になるのは信じられない。月島にはもんじゃ焼きの店が七、八十軒もあるらしいのだが、何故なのか。

     橋の東詰で解散する。スナフキンの万歩計で一万八千歩。十キロちょっとになるだろう。私の万歩計は一万六千歩しかいっていない。腕時計型だから腕を動かさなければ作動しないのが当たり前で、左手で傘をさしていた間は全くカウントされていないのだ。雨の日は役に立たない万歩計だった。
     実はヤマチャンから次回一月の案内をするよう頼まれていたのだが、すっかり忘れてしまった。申し訳ないことである。講釈師とその一党には必ず私の責任で連絡する。遅ればせながらここで書いておけば、JR飯田橋西口に集合し皇居周辺を歩くことになっている。
     講釈師とヨッシーと女性陣は目の前のデニーズに入ってお茶を飲むことになった。残りは勝鬨駅に行く。いつの間にかロダンの姿が見えなくなったが、お茶の水で大学の同窓会だと言っていたので、そちらに向かったのだろう。と言っても、それならどの駅に向かったのか。私はこの辺の地理がよく分かっていない。
     この駅は初めてなので、大江戸線がどういう経路を通るのか分らない。路線図を検討した結果、上御徒町まで行けば良いと決まる。「ドクトルは清澄白河で半蔵門線に乗り換えるのが便利ですからね。」姫がドクトルに説明する。上御徒町に着くとダンディは「失礼します」とさっさと電車を降りて行った。
     姫、スナフキン、桃太郎、蜻蛉はJRのガード下の居酒屋に入る。四時を少し過ぎたところだ。スナフキンは中学の同窓会があるのだが、五時まで少し時間があるので付き合ってくれた。彼が早く出てしまうと焼酎のボトルを空けるのは難しいだろう。「ヌル燗にしよう。」しかし二合と称する徳利はぜいぜい一合五勺か。簡単にすぐに空いてしまう。五時少し前にスナフキンは出ていった。
     それからも桃太郎と私はヌル燗を飲み続け、あんみつ姫は梅酒のロックに切り替えて飲む。「十本も飲んでますよ」と姫は言うが、そんなにはならない筈だ。精々八本ではなかろうか。八本で一升二合とすれば、最初にスナフキンが少し飲んでいるから、桃太郎と二人で五合づつか。一本七百円の徳利で、これなら焼酎ボトルを入れた方が安かった。お開きにしたのは七時頃だったろうか。一人四千百円は少し使い過ぎである。三人で割り勘にしたのは、あんみつ姫には申し訳なかった。
     桃太郎はもうかなり酔っているように見えるが、「ここまで来て行かない訳にはいかないからね」と、「金太郎」に向かう。私と姫は素直にJRでそれぞれの自宅に向う。

    蜻蛉