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    第六十二回 飯田橋から各種「発祥の地碑」を巡り皇居界隈に至る
     平成二十八丙申歳一月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.01.19

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     旧暦十一月三十日。小寒の初候「芹乃栄」、明日からは「水泉動」になる。このところ最高気温は連日十五度を超える暖かさで、実に過ごしやすい正月であった。年末から咲き始めた近所のロウバイがかなり大きくなり、強い香りが漂ってくる。
     こころは大晦日に久し振りにやって来た。時間だからそろそろ来るかと階段に出ると、ちょうど上り始めて私の顔を認めた途端、母親の脚に顔を埋めて泣き出した。又か、と思ったが一時間もすると漸く慣れた。片言の単語も口にし、ある程度の意思疎通ができるようになってきた。初めてジイジと声を出し、笑顔をカメラに撮らせてくれた。赤ん坊は進化するのである。
     元日の朝は暖かかったので団地に面した水鳥公園に行ってみた。団地を出て坂道を下る時、父親が右手をつなぐと、私の顔を見上げて左手もつなげと催促する。こんなことは初めてのことで、やっと私が祖父であり、己が孫であると認識したのだろうか。朝早いせいか、カモは土手の芝生で寝ていて動かない。写真は良く撮れたので、皆に見せて無理矢理でも「可愛い」と言わせなければならない。

     元日や孫の手を引く影長し  蜻蛉

     我が家の正月は平和に開けたが、しかしあの三・一一から丸五年経って福島原発は未だ完全復旧せず、にも関わらず各地で原発再稼働の動きが加速している。北朝鮮は水爆実験をしたと発表した。ISによるテロは更に世界各地に拡大するだろう。難民の増大は極右勢力の移民排撃の主張を正当化し、だから日本政府の極端な難民抑制策は正しかったと言うものが出る。新自由主義経済は暴力的な競争による格差拡大と投機的・博奕的な金融システムによって世界を破壊している。そして反省というものをしない安倍政権は憲法改正に突き進む。世界に未来はあるのだろうか。
     解決できることは何もなく何の出口も見えないから、仕方がないので私たちはただ歩くのである。今年の歩き初めはヤマチャンの企画で、第五十六回「皇居界隈編」に続いて、飯田橋駅西口から歩き始める。この辺はヤマチャンの縄張りだ。
     鶴ヶ島からは、和光市駅で有楽町線に乗り換えるのが最も安い。少し前に家を出た妻から、東上線は今朝五時台の人身事故で少し遅れているとメールが入ったので心配したが、それ程でもなく九時四十分には飯田橋に着いた。山手線も少し遅れていたらしい。改札口にはヤマチャンだけがいて、牛込橋の袂で待機してくれと言う。行ってみるとダンディと講釈師がいた。
     「いやあ、分かり難くて随分歩いちゃったよ」と若旦那が現れた。有楽町線で出口を間違えると本当に大変なのだ。私も一度東口の方に出てしまって、線路沿いにかなり歩いたことがある。八十五歳の若旦那の元気には驚くばかりだが、若女将は体調が悪いらしいのでちょっと心配だ。
     女性はあんみつ姫、イッチャン、チロリン、シノッチ、ハイジ、マリー、随分久し振りのマルチャン、男はヤマチャン、ロダン、マリオ、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヨッシー、若旦那の計十七人が集まった。しかし「今日は早退します」とあんみつ姫が小さな声で言う。
     「おばあちゃんの家がすぐそこだったのよ。」相変わらずマルチャンの声は大きい。それなら近辺にはかなり詳しいだろう。「うちの孫の写真見たいでしょ?」誰もそんなことは言っていないのだが、写真を出して見せびらかす。「あら、可愛い。いくつ?」「一歳七か月。」「うちはまだ一歳なのよ」(シノッチ)、「うちと同じくらいだわ」(イッチャン)。「ジイジと一緒の写真はないの?」とハイジに訊かれたが、まだそんな写真が撮れるほど馴れていない。「女の子はいいな、うちは男ばっかりだよ」とマリオが笑う。
     神楽坂の方に見える東京理科大学の校舎には、大村教授ノーベル賞祝賀の垂れ幕が下がっている。「山梨大学じゃなかったっけ。」大村智は山梨大学卒業後、高校教諭として働きながら東京理科大学の修士課程を修了したのだ。そして東京大学で薬学博士、東京理科大学で理学博士を取得した。

     定刻になって、改札口に待機していたヤマチャンもやって来て挨拶する。その声が大きい。「さすが職業柄ですね。」最初は東京大神宮だ。千代田区富士見二丁目四。「子供の頃、初詣には親父があちこちの神社に連れてってくれたけど、ここは来ていないんですよ。」東京出身の若旦那にしては珍しい。念のために大神宮のホームページを確認しておく。

     東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治十三年に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていました。関東大震災後の昭和三年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。http://www.tokyodaijingu.or.jp/syoukai/index.html

     戦前戦中の東京の人がここに初詣に来なかったとすれば、その理由は何か。背景を調べてみると、実は神社神道と教派神道との区別に至る。普段、私たちは教派神道には余り縁がない。
     維新後、平田流神道によって神道国教化が推進された結果、明治三年(一八七〇)に大教宣布の詔が発せられた。しかし廃仏毀釈を進めただけで殆ど何の効果も齎さず、神道の国教化も簡単には実現しない。
     形式上は太政官と並ぶ位置にあった神祇官は明治四年(一八七一)に神祇省に格下げされ、更に五年(一八七二)には廃止された。明治維新から僅か五年の間に、平田神道が近代化を目指す国家の政策と一致しなくなったことを意味している。それが『夜明け前』の青山半蔵(モデルは島崎藤村の父)を狂わせることになる。
     初期の明治政府の宗教政策は混迷を極め、神祇省を廃止して作られた教部省は、神仏合同による国民強化を狙って大教院を設置するが、これも効果はなく、神仏合同布教は明治八年に廃止される。明治十五年、祭祀を司る神官と布教を行う教導職との兼業が禁止された。神社から宗教活動が分離されたということである。

    これは神道から宗教活動をとり除き、国家の祭祀として超宗教とでもいうべき特別の地位を与え、祭祀と宗教を分離するための措置であった。政府は、市民的自由の一環としての信教の自由、政治と宗教の分離の要求にたいしては、神道は宗教ではないというたてまえをとりつづけ、祭祀を宮中にうつして天皇に祭祀の大権を帰することによって形式上の祭政一致を保持した。(村上重良『近代日本の宗教』)

     これに応じて、大社教、大成教、神習教、扶桑教、実行教(不二道)、御嶽教などが神道事務局から独立して教派神道となった。同時に伊勢神宮は祭祀を司る神宮司庁と、布教活動を行う神宮教院とに分割し、教派神道としての神宮教が発足した。この時、皇大神宮遙拝殿は神宮教院に属して神宮奉斎会本院となった。つまり東京大神宮はいわゆる「神社」ではなく、教派神道の一派だから、一般の国民が初詣の場所として選ぶような神社ではなくなったのではないだろうか。

    教派神道とは、宗教としての神道という意味で、国家の祭祀である神社神道(国家神道)よりも低次元におかれ、仏教とならんで国家神道体制下の事実上の公認宗教の地位を占めた。(村上、同書)

     三ケ日程ではないだろうが、初詣だと思われる大勢の参拝客が石段前の手水舎に並んでいる。これも礼儀だから、普段はこんなことはしない私もその列に並ぶ。「柄杓がないな。」取り敢えず両手を洗い、口を漱ぐと、白装束の若い巫女が手拭き用の紙をくれる。
     階段を上がる神門の前には若い男性の神官が二人立って、参拝客にパンフレットを手渡している。私は初詣の習慣がないので良く知らないが、こういう光景は珍しいのではないだろうか。なにしろ初詣と言えば、高校受験を控えた年に仲間に誘われて弥高神社(佐藤信淵を祀る)に行ったきりだ。寒稽古の後そのまま夜明かしして行った。それ以外にはない筈だったが、実は結婚前に一緒に明治神宮に行ったことがあるのを思い出した。いずれにしても生涯に二度しかない。
     拝殿にも大勢並んでいる。スナフキンとマリオも並んでいるが、「あっちに行こう」とその列を離れて脇に逸れる。机に薦樽を置いて振る舞っているのだ。「白鷹です。美味しいですよ。」白鷹は伊勢神宮の御料酒と定められている。

    私たちが朝晩の食事をとるように、伊勢の神々にも古くから朝晩の食事が供えられてきました。伊勢神宮ではこれを日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけのまつり)と呼び、伊勢の大神の御饌は、豊受大神宮(外宮)の御饌殿という御殿で供されます。大御神にそなえる大御饌は、鯛、昆布、御飯、鰹節、野菜などがあり、専用の土器(かわらけ)には酒が入っています。
    白鷹は 、全国数ある酒蔵の中よりただ一つ、この神宮御料酒に選 ばれ、以来一日も欠かすことなく献上をつづけ、神宮の神々 に供えられています。(白鷹株式会社)

     「貰えますか?」「お気持ちだけでもいただければ。」横に置いた箱には千円札が数枚と、百円玉が無数に入っている。」それなら百円で良いだろう。小さな紙コップに半分ほどの酒だが、樽酒特有の木の香りが甘い。マリオは、なみなみ入れてくれと催促したらしい。

     樽酒やもう一杯と初詣  蜻蛉

     「甘酒の露店が出るのは見たことありますけど、珍しいですよね」と姫は言う。そういえば講釈師が好きな神田明神の甘酒屋(天野屋)も繁盛していることだろう。ハイジがコーヒー味の飴をくれる。「二つとってね。」
     「十六人かな、いや十七人、確かにいます。」いつもの通りロダンが人数を確認して出発する。「リーダーは早すぎるよ、もっとゆっくり歩いて貰いたいね」とチロリンやマルチャンからクレームがつく。
     目白通りに出ると地下鉄A4出口付近に、上部に「飯田橋散歩路」中央に「東京農業大学開校の地」と記した石の標柱が立っている。「こんなもの初めて見たな。新しいんじゃないか?」この辺には詳しい筈のスナフキンが、この案内標柱があるのを知らなかった。
     散歩路はサンポーロと称する。これからいくつもお目にかかることになるのだが、飯田橋駅から九段下までの目白通りを飯田橋散歩路と呼び、この形の案内標柱「歴史の標柱」が十三ヶ所に立っている。「こんなところに農業大学ですか?」農大なら畑や田圃も必要だろうし、ビルが立ち並ぶ今の光景からは想像できない。「今は世田谷だよね。」「大根踊りだよ。」「榎本武揚が創立したんだね。」
     明治二十四年(一八九一)、「徳川育英会育英黌農学科」がここに創設されたのである。学校法人東京農業大学のホームページでも、沿革の第一行目は、「東京市麹町区飯田河岸に徳川育英会を母体とした私立育英黌農業科を設立。管理長に榎本武揚、黌長に永持明徳が就任。」としてある。
     但し甲武鉄道新設工事のために翌年には大塚窪町に移転し、二十六年(一八九三)には育英黌から独立して東京農学校となって、第一回の卒業生十八人を出した。明治三十年(一九八七)には大日本農会に移管され、東京高等農学校となる。
     徳川育英会は沼津兵学校の流れを汲んで、榎本と伊庭想太郎が中心となり、旧幕臣の子弟に対する奨学金支給を目的として作られたものである。しかし単に奨学金を支給するだけではなく、実際に学校を作ろうと商業科、農業科、普通科を持つ育英黌が設立された。困窮する旧幕臣の子弟を教育して北海道開拓に充てたいということだったらしい。
     修業年限は二年だった。そして榎本は他にも東京地学協会や電気学会など数多くの団体創設にも関与している。
     「榎本は元々反政府でしょう?よく重用されたよね。」積極的に榎本助命を主張したのは、函館戦争で政府軍の指揮を執った黒田清隆で、そのために剃髪したとも言われている。明治四年、北海道開拓使となった黒田は榎本を起用した。これが明治政府内で榎本が活躍するはじめだ。黒田にはこうした功もあるが、一方では酒乱で、妻を殺害したという噂が払拭できないし、開拓使官有物払下げ事件の醜聞もあった。
     これは千三百万の費用をかけた国家事業を、無利息三十年年賦、三十九万円で五代友厚の関西貿易商会に払い下げるというもので、各新聞での大批判キャンペーンによって頓挫した。裏には三菱と組む大隈重信と、黒田の対立があった。ちょうどNHKの朝ドラ『あさが来た』がその事件を取り上げているが、五代友厚は重要な登場人物だから、当然詳しいことは説明されない。

     道路を横断すると、次は地下鉄A5出口付近に立つ「日本大学開校の地」だ。ここ旧飯田町五丁目には、明治十五年(一八八二)に皇典講究所が設けられ、明治二十二年(一八八九)その中に日本法律学校創設されたのである。たまたまこの皇典講究所の教室を夜間に借りただけで、組織上のつながりはなかったようだが、設立の中心になったのは時の司法大臣山田顕義であり、山田は皇典講究所を設立した人物だから、その縁であろう。日本大学では山田を学祖としている。
     「何て読むのかな。」「アキヨシ。」山田顕義は長州藩士で松下村塾には最年少の十四歳で入門した。岩倉使節団の一員として欧米を視察、後にフランスに滞在してナポレオン法典と出会い、法整備を生涯の事業と定めた。明治六年に帰国すると、前年に出されていた徴兵令の延期を求めて「兵は凶器なり」と書いた上申書を提出した。これによって徴兵令推進派の山縣有朋と対立し、軍を離れて司法の道に進む。
     皇典講究所を設立したのも、法律制定に当っては国民の歴史や民族性を充分考慮しなければならず、そのための研究機関が必要だと考えたかららしい。私は山田のことを全く知らなかったが、なかなかの人物ではあるまいか。主に民法と商法の制定に務めていたようだ。
     十四年(一八八一)には明治法律学校(現明治大学)が設立され、フランス法学を中心に教えていた。それに対して日本法律学校は日本の法律を学ぶ目的で設立されたのである。明治後期には、帝国大学・明治法律学校・東京法学校(後和仏法律学校、現法政大学)・東京専門学校(現早稲田大学)・英吉利法律学校(後東京法学院、現中央大学)・日本法律学校を明治六大法律学校とも呼んだ。
     皇典講究所(現神社本庁)が設けられた明治十五年は、先に東京大神宮のところでも触れたように、明治国家がそれまでの錯綜した宗教政策を清算した年である。つまり平田流の夜郎自大、誇大妄想的な神道が完全に否定され、総合的な国学の研究(これが山田の考えていたことだろう)と神職の養成が必要になったのである。後にこれを直接引き継ぐのは國學院大學であり、従ってここは國學院の開校の地でもある。
     そして皇典講究所の付属学校として創立した補充中学校が、後に府立第四中学校(現都立戸山高校)になる。「補充」とは東京府尋常中学(日比谷)の定員不足を補充するという意味である。
     「学校が密集してたんだね。」江戸時代、この地域は旗本屋敷が並んでいた。姫は切絵図を持参していて、それを見せてくれる。屋敷は広いから、学校を作るのに適当だったのだと思われる。「府立第四学中発祥の地」は見たが、並んで立っている筈の「国学院大学開校の地」は見逃してしまった。
     道路を横断すると「日本赤十字社跡」だ。前回は東京逓信病院の敷地にある発祥の地碑を見たが、甲武鉄道新設のため明治二十七年(一八九四)にここに移転してきたのである。
     今度は「飯田橋むかしむかし」という、銅版に地図を描いた案内板がある。「これが『むかしむかし』でしたか。」ヤマチャンの案内資料に書かれていたのだが、意味が分らなかったのである。これも飯田橋サンポーロの設置する「歴史地図板」というもので、四カ所あるらしい。
     ここにあるのは「家康入城」で、天正十八年(一五九〇)当時のこの辺りの手書き地図である。上の方に千鳥ヶ淵、真ん中を横に通る道は、大手門から竹橋、九段下を.通って飯田橋まで。その下に神保町、図面右下隅が神田山、左の端は日比谷入江である。大手門の右は小さな江戸城があって、その上に紅葉山がある。南北が逆になっていて分かり難い。そもそも、この時代の地図は残っていない筈だ。
     「これは畑かな?」道の周囲に長方形や楕円形など不規則な形が並んでいるのは、ドクトルが言うように畑かも知れないが、図面には何の説明もない。
     飯田橋二丁目交差点、「串鐵」や「カレーにっぽん」等の入るビルの斜め前には「新徴組屯所跡」がある。文久二年(一八六二)清河八郎によって作られた浪士組が母体である。折角京都まで行ったものの、清河の行動は幕府の思惑とは全く逆で、当惑した幕府は江戸召喚を命じた。江戸に戻れば清河は佐々木只三郎等によって暗殺され、浪士組は新徴組と改め庄内藩預かりなる。「飯田町むかしむかし」には、文久二年のこの辺が描かれていて、これを見ると庄内藩酒井家と道を挟んで向かい合った辺りということになる。
     一方、江戸に戻らず壬生に残った芹沢鴨や近藤勇等はやがて新選組を結成する。どちらにしても大した思想的違いがある訳ではない。この混乱期に乗じて上昇するための一か八かの賭けだった。新政府派と佐幕派に分かれたのは、ちょっとした偶然に過ぎない。運よく明治の高官になった連中だって、大半は同じようなものだ。どちらも名分は尊王であり、「錦旗」を発明した薩長が少し賢かっただけである。その賢さが、私は嫌いだ。
     新選組は講釈師の重要なテーマで、普段だったら講釈が煩いほど聞かれる筈なのに、今日は静かだ。まだ体調が万全ではないのかも知れない。
     大神宮通りが目白通りに斜めに交わる角に立つのが「徽章業発祥の地」だ。徽章と言えば、私は学生帽に飾るものしかイメージできない。徽章業界というものはどれ程の規模なのだろう。明治十八年(一八八五)、鈴木梅吉がこの地に日本帝国徽章商会を創ったのが、業界の始めだと言う。
     日本赤十字社等バッジやメダルを必要とする団体が相次いで創設され、学校、軍隊で需要は大きくなっていたのである。徽章は今では記章と表記されるらしい。そしてそれが意味するのは、こういうことである。そう言えば両国高校ではマッチ業発祥の地碑も見た。
     「越後へぎ蕎麦」の店の前を通ると「へぎ蕎麦、食べましたね」と姫が声をかけてくる。御徒町の越後屋でへぎ蕎麦を食べたのは第一回の時だから十年前のことである。参加者は組長、隊長、講釈師、あんみつ姫、桃太郎、蜻蛉の六人だった。
     そこを過ぎた辺りに「北辰社牧場跡」がある。これも榎本武揚が作ったものだ。乳牛四十八頭で国内で初めてバターを製造したという。「こんなところに牧場があったなんて信じられないね。」牛乳を消費するのは西洋人と、ハイカラ好きな都会人である。地方では絶対に売れない。そして冷蔵技術や輸送の未発達のため、牧場は消費地に最も近い場所に造らなければならなかった。当時の日本人口がおよそ三千人、東京でも土地は充分に余っていたのである。

     明治六年にはすでに七軒の牧場があり、竹橋には、吉野文蔵が幕府の牧場を引き継ぎ、芝桜川には明治四年、洋式搾乳の先駆者前田留吉が、下谷には旧幕臣辻村義久が、麹町五番町には阪川当晴が、そして木挽町に越前屋守川幸吉が牧場を開きました。
     このように殆んどが江戸幕府崩壊による失業武士によるものでしたが、大官、貴族による開設も続出。男爵松尾臣善が飯田町、佐倉藩主堀田子爵が麻布、榎本武楊、大島圭介が神田猿楽町、さらに明治八~九年の頃になると、松方正義が芝三田に、山県有朋が麹町三番町に、由利公正は木挽町に、桑名藩主松平定教は向柳原に、副島種臣は麹町霞ヶ関に、細川潤次郎が駿河台で牧場を開設したほか、平川町、永田町、三崎町、錦町などにもたくさんの乳牛が飼われており、日本の畜産の黎明はこの社の地域からスタートしています。(JA東京中央会「江戸・東京の農業」http://www.tokyo-ja.or.jp/farming/tokyo01.html)

     新宿太宗寺の裏手には芥川龍之介の実父新原敏三が澁澤栄一に任された「耕牧舎」もあった。明治十四年には東京に百以上の牧場があったと言う。
     「私が東京に出てきた時は、この辺は木造の建物ばっかりでしたよ」とヨッシーが呟く。「いつ頃ですか?」「大学に入った時だから、昭和三十一、二年ですね。」昭和三十年の東京地図を見ると、小さな家が並んでいるだけだ。「東京が大きく変わったのは東京オリンピックからでしょうね。」いずれにしても江戸や明治の面影をこの辺りに期待しても無理である。
     道路を渡ると「台所町」の案内が立つ。江戸の初めから元禄の頃まで、この辺りは台所衆の組屋敷があった場所だ。説明によれば、『武鑑』に「台所頭四百石、台所町 鈴木喜左衛門」の名があるという。江戸城に詰める布衣(従五位上)以上の者の食事は表台所で作られ、料理人の数は二百人もいたといわれる。台所衆は四十俵二人扶持というから、町同心の三十俵二人扶持よりは多いが、大した待遇ではない。
     信号を渡って、飯田橋一丁目交差点で目白通りから斜め右に入る道(専大通り)を行く。首都高速西神田ランプの手前に「東京理科大学発祥の地」が立っている。千代田区飯田橋二丁目一。明治十四年(一八八一)、「東京物理学講習所」としてこの地に設立された。当時は稚松小学校の校舎を夜間だけ借りて講義が行われた。明治十六年(一八八三)年東京物理学校と改称した。
     「無試験だったんですよね。誰でも入学できたけど、なかなか卒業できなかった。」「だから坊ちゃんは優秀だったんですよ。」戦時中に中学生だった若旦那も、もしかしたら進学先の一つとして考えていたのかも知れない。文化系と違って、理科系は徴兵延期の特典があった。
     ガクアジサイが咲いているのは、去年の咲き残りだろうか。それにしてはピンク色がそんなに色褪せていないのが不思議だ。もう一度目白通りに戻ると、ホテルグランドパレスの前には「東京女子医科大学発祥の地」碑がある。

     遠江国城東郡土方村(現:静岡県掛川市)に、漢方医の娘として生まれた吉岡彌生は明治三十年(一八九七) 当時の飯田町四丁目九番地に東京至誠医院を開院しました。そして明治三十三年(一九〇〇)年には、同院内に「東京女医学校」を創立しました。これが後に「東京女子医学専門学校」を経て、 昭和二十五年(一九五〇) 「東京女子医科大学」となりました。

     吉岡彌生については殆ど知らなかった。女子も入れる済生学舎(現日本医科大学)で学び、明治二十五年(一八九二)医術開業試験に合格した。女性として二十七人目である。済生学舎が医術開業試験の予備校であったことは、どこかで触れた筈だ。野口英世もここに入っている。
     九段北一丁目交差点を右に曲がると、登り坂の途中に築土神社の案内標柱が立っているが、神社はもう少し先の左手だ。「そこですよ。」千代田区九段北一丁目十四番二十一。境内はビルの中である。姫か境内に入らず外で待つと言っているのは、将門の怨霊を恐れているからかも知れない。ここは平将門を祀った神社である。「ビルの中なんだね、ちょっとがっかり。」

     一九九四年(平成六年)五月、社殿老朽化に伴い社殿・社務所の大改築を実行し地上八階(地下一階)建てのビルが完成(千代田区都市景観賞受賞)。社殿もコンクリート壁の現代的な神社となった(この時、境内にあった末社の木津川天満宮より築土神社の「相殿」に菅原道真公を配祀)。(築土神社「神社概要」http://www.tsukudo.jp/gaiyou-rekisi.html)

     このビルはモチの木に因んで「アイレックスビル」と名付けられた。かつて鎮座していた田安の地がモチの木坂と呼ばれたことによるようだが、そんなことは誰も知らないだろう。参道入口にはシンボルとしてモチの木が植えられているそうだが、私たちは全く気付いていない。
     天慶三年(九四〇)六月、豊島郡上平河村津久戸と言うから平河町の付近だろうか、観音堂に将門の首を祀ったのが始まりで、津久戸明神と呼ばれてきたとされる。空襲で焼失するまで、この神社には将門の首を納めたとされる首桶が保管されていた。勿論首塚にはほかにも候補があって、豊嶋郡芝崎村(今もある大手町の将門塚)のものが、将門の首塚として最も有名だろう。そこには午後行くことになっている。
     しかしこの神社は引越しを繰り返し、更に呼び名も変わってきた。文明十年(一四七八)、太田道灌が江戸城を築くと城内北西(現皇居乾門内)に移された。しかし頻繁な洪水にあったらしく、天文二十一年(一五五二)には上平川村田安(現田安門外九段上付近)に移された。この時から田安明神と呼ばれるようになる。
     天正十七年(一五八九)、家康が江戸に入城すると下田安牛込見附(現・千代田区飯田橋駅西口周辺)に移され、更に元和二年(一六一六)には江戸城外堀の拡張にあって、新宿区筑土八幡町の筑土八幡の隣に移り、今度は文字を変えて築土明神と呼ばれるようになった。
     しかし第二次大戦の空襲によって焼失し、昭和二十一年(一九四六)、千代田区富士見町(現・九段中学校敷地内)に、昭和二十九年(一九五四)に当地に移った。

     元に戻って目白通りを横断する。目白通りには馬琴旧居跡の標識はあるのだが、そこではない。「分からなくて、警官に教えて貰ったんだ。」そのまま真っ直ぐ行く。「ここなんですよ。住宅だから大きな声をしないで。」声が一番大きいのはヤマチャンだが、東建ニューハイツ九段の敷地である。千代田区九段北一丁目五番九。
     奥まった玄関ロビー脇の坪庭のようなところに井戸があり、丸竹の簀子で覆い隠してある。滝沢馬琴家跡の井戸。赤っぽい石で作られた井戸の枠を見て、「そんなに古くはなそうですね」とヨッシーが鑑定する。復元したものだろう。簀子をめくって中を見たが、水はない。
     寛政五年(一七九三)馬琴が二十七歳で、三歳年上の履物商伊勢屋(会田家)の寡婦お百に入夫してから文政七年(一八二四)五十八歳まで、三十一年間住んだ家の跡だ。当時の呼び方では飯田町中坂下。引っ越してきた当初は蔦屋の手代をやめたばかりで、作家としての修業を始めたばかりである。
     文化元年(一八〇四)の『復讐月氷奇縁)』、翌年の『復警奇談稚枝鳩』、『繍像綺譚石言遺響』などで漸く読本作家として自立できるようになり、文化四年(一八〇七)の『椿説弓張月』前編で第一人者の地位を獲得した。文化十一年(一八一四)には『南総里見八犬伝』初篇を刊行し、この家では第五輯まで書かれることになる。
     崋山渡邊登もこの家を訪ねてきた。崋山は元々宗伯の年長の友人だったが、次第に馬琴の蔵書を借覧する目的で訪れ、話し合うことが多くなった。北斎も頻繁に訪れた。狷介不羈な馬琴にも知己はいたのである。
     その後は、虚弱な息子宗伯のために買い与えた神田明神石坂下の同胞町東新道の家に移転することになる。しかし宗伯は天保六年(一八三五)五月、三十九歳で死ぬ。その息子のデスマスクを描いてくれるよう、馬琴は崋山に依頼した。

     崋山と同じく金子金陵に画を学んだ馬琴の一子琴嶺は、天保六年の夏に歿したのであるが、その危篤に陥った時に、馬琴は崋山にその肖像の作成を請うた。然るに書簡は後れて達した。崋山が主用で他へ赴く途中に駕を止めて立寄ったのは、既に琴嶺の歿した翌日の申の刻(午後四時)だった。崋山はその死を悼み、特に請うて遺骸を見、半時を費して枯相を写生した。そしてその日は怱々に辞去したが、やがて琴嶺の肖像を作って馬琴に送った。
     馬琴は『後の為の記』の中にその顛末を詳述して、「此挙千金也。抑崋山子初め画を金陵老人に学びしかば、琴嶺と同門にて、総角より相識られたり。其後一家の画風を興して、古画の鑑賞に詳也。且人の為に肖像を画くに、をさをさ蘭法により、鏡二面に照してその真をとるを以て、いずれも似ずといふ者なし。こゝを以て肖像を求むる人多しと聞ゆ。只画の上のみならず、学術あり見識あり、其性も亦毅剛なるべし。(中略)まことに友は持つべきものぞと思ふ。感心のあまりになん、此大略を書すのみ」としている。まことに友は持つべきものぞと思うの一句に千金の重みがある(森銑三『渡邊崋山』)

     琴嶺は宗伯の画号だ。「馬琴は、生家跡(深川)も、神田の住居跡も行きましたね。」十年も歩いていると、それぞれ関連する場所も多くなってくる。「お墓(小日向の深光寺)も行ったよ」と言ってしまったが、あの時姫は途中参加で、墓は見ていなかったかも知れない。

     目白通りに戻り、九段下から右に曲がれば九段坂だ。昭和館敷地の外れに蕃書調所跡碑が立っている。九段南一丁目六。安政三年二月(一八五六)、竹本図書頭屋敷地に蕃書調所が設置された。後に文久二年(一八六二)護持院原(現神田錦町)に移って洋書調所、文久三年に開成所となって、東京大学の源流の一つになるのは言うまでもない。
     実は前年、天文台蛮書和解御用掛を発展させて洋学所を設置したのだが、開設した直後に安政の大地震に見舞われて倒壊したのである。この大地震については、野口武彦『安政江戸地震』が詳しい。名称については林大学頭の反対にあって、洋学ではなく「蕃書」に決まったと言う。当時の保守派の夜郎自大振りが良く分る。
     頭取に古賀謹一郎、教授に箕作阮甫と杉田成卿、教授手伝に川本幸民、高畠五郎、松木弘安、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六、木村軍太郎、市川斎宮、西周、津田真道、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元の布陣である。
     実際に開講したのは安政四年一月である。後、教授手伝には坪井信良、赤沢寛堂、箕作秋坪も加わってくる。語学は蘭・仏・独。他に精錬学(化学)、器械学、物産学、数学、画学などが講じられた。
     「それじゃトイレ休憩しましょうか。」ヤマチャンの言葉で昭和館に入る。私は二度目だ。ここは六、七階の常設展示室以外は無料で入れる。常設展示室も大人三百円(六十五歳以上は二百七十円)だから高くはない。今回はトイレ休憩が目的だから上には行かない。
     それでも一階には昭和二十年代の月刊少年少女雑誌が展示されていて、懐かしいものもある。マルチャンは、図書室が無料で利用できると聞いて「今度来なくちゃ」と喜んでいる。
     昔、新宿の昭和館ではやくざ映画を良く見たが、ここはそれとは全く関係ない。厚生労働省援護局所管の国立博物館である。戦中戦後の国民生活に関わる資料を保管展示している。援護局所管だから、当然遺族会も関係している。

     田安門は入り口だけを見て九段坂公園に入る。講釈師から煎餅が配られたが、粉砂糖をまぶしてあるので私は食えない。シノッチからは普通の煎餅を貰った。「ゴメンネ、甘いものしかなくて」と云いながらチロリンがチョコレート(?)を配る。
     高灯篭(常灯明台)、品川弥二郎、大山巌騎馬像が並んでいる。千代田区は喫煙規制が厳しく、今日はなかなかタバコが吸えなかったが、人眼がないのでここで隠れるように吸う。高校生になった気分だ。
     『トコトンヤレ節』は品川弥二郎が作詞、大村益次郎が作曲したことになっているが、祇園の中西君尾の作詞あるいは作曲したと言う説もある。品川は明治二十四年(一八九一)、第二回衆議院議員選挙で内務大臣として猛烈な弾圧と選挙干渉をし、民党側に多数の死者を出したことで悪名は高い。
     『都風流トコトンヤレ節』という錦絵風の刷り物を、国会図書館と早稲田大学のデジタルアーカイブで見ることができるが、絵柄もサイズも違っていて、国会図書館所蔵の方が横長になっている。いくつかの種類があったのだろう。但しいずれも刊年不詳で、維新当時のものかどうか確証は得られていない。後に至るまでかなり流行したようで、本当に維新当時に歌われたのかという根本的な疑問を呈するひともいるのだ。

     一天萬乗の帝王に 手向ひする奴を トコトンヤレ、トンヤレナ
     狙ひ外さず どんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレ、トンヤレナ

     宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ
     あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ

     伏見、鳥羽、淀、橋本、葛葉の戰は トコトンヤレ、トンヤレナ
     薩土長肥の 合ふたる手際ぢやないかいな トコトンヤレ、トンヤレナ

     音に聞えし關東武士 どつちへ逃げたと問ふたれば トコトンヤレ、トンヤレナ
     城も氣慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ、トンヤレナ

     國を迫ふのも人を殺すも 誰も本意ぢやないけれど トコトンヤレ、トンヤレナ
     薩長土の先手に 手向ひする故に トコトンヤレ、トンヤレナ

     雨の降るよな 鐵砲の玉の來る中に トコトンヤレ、トンヤレナ
     命惜まず魁するのも 皆お主の爲め故ぢや トコトンヤレ、トンヤレナ

     「宮さん宮さん」の前に「一天萬乗の帝王に」の歌詞があるのが不思議ではないだろうか。この歌については、西沢爽が克明に調査して、次のように書いている。

    いうまでもなく、この唄の第一節は「一天萬乗のみかどに手向いするやつをねらい外さず、どんどんうちだす薩長土」であるが、なぜ第二節の「宮さん宮さん〈正しくは宮さま宮さま〉」が最初にうたわれるようになったかは、さきの『禁苑史話』では、「これは薩長土の宣伝に類するというので漸次すたれ、国家的である宮さん宮さんの歌詞がはじめにうたわれるようになった」という。納得できる解説である。
     王政復古に参加したのは薩長土藩のみではないから、当然、薩長土という歌詞に不満の勤王諸藩があったことは想像できる。(西沢爽『日本近代歌謡史』)

     西沢の調査は同書(B5版二段組)の中で、八十九頁にも及ぶものだが、様々な説や資料を検証して、結局作詞作曲者についても確定的なことは言えていない。「宮さん」は東征大総督有栖川宮親王であり、「城も氣慨も 捨てて吾妻へ逃げた」と揶揄されるのは慶喜である。敵前逃亡の罪は重い。
     「大山巌は薩摩ですね。海軍の東郷平八郎と並んで有名ですよね。」ヤマチャンはそう説明するが、東郷平八郎は昭和の艦隊派にかつがれて晩節を汚した。これがやがて統帥権干犯と言う昭和史上の大問題に発展するのであり、東郷の罪は大きい。
     それに比べて大山巌は、政治的な野心や権力欲とは縁がない、なかなかの人物である。西郷隆盛の従弟で、私たちが知っている西郷隆盛の顔は、キヨソーネが大山巌と西郷従道の顔を合成して描いたものである。
     会津の山川大蔵(浩)の妹で鹿鳴館の貴婦人と謳われた捨松を後妻に迎えた。先妻の子の信子は三島弥太郎と結婚して若く死に、蘆花『不如帰』のヒロインとなった。捨松の子で家督を継いだ柏は、陸軍少佐まで進んだものの軍人を嫌って考古学の道に進んだ。大山家にはそれを許容する雰囲気があったと言うことだ。大山柏の史前史学研究所跡には随分前に行っている。
     「この像はさ、敗戦の時は進駐軍に壊されるのを恐れて土に埋めたんだ。」この講釈師の話は確認できない。ただ騎馬像の横のブロック塀には、焼け焦げた跡を残すように、篆書の一文字一枚の石の板が縦三枚、十九行に貼られている。「どっちから読むの?」当然、縦書きで読まなければならない。「左からかい?」縦書きで左から読む習慣はないだろう。「元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵大山巌」まで読んで、あとは面倒なので諦めた。以下、「天保十三年十月十日生於鹿児島従日清日露両大戦役大正五年十二月十日薨於東京」と続く。元々は違う形のものをこんな風に復元したのかも知れない。
     元は三宅坂にあって、戦時中の金属供出で撤去されたが、実は供出されずに東京芸大敷地に放置されていたと言う説がある。(「FindTravel」http://find-travel.jp/article/10173より)。千代田区観光協会では、元は永田町の尾崎記念公園内にあって、移設の時期は不明だとしている。三宅坂と言い、永田町と言うのは参謀本部のあったところだ。これが移設されたと言う説である。
     別に、像を守ったのはマッカーサーであるという説も見つけた。自室に大山の肖像画を飾るほど心酔していたというのである。(国際留学生協会http://www.ifsa.jp/index.php?oyamaiwaoより)。こちらは移設には関係なし。従来からここにあったと言う説だろう。
     大きな木が成長して、根元の金網のゴミバコを取り込むようになっている。箱の底は既に根っこに埋まっている。「このゴミバコも相当古いってことだね。」なんだか暑くなってきた。予報では寒くなるようなことを言っていたのではないだろうか。ジャンバーの下のセーターが邪魔になるが、今日はリュックではなく小さめのショルダーバッグにしてきて、収納できないので脱ぐこともできない。

     初春の日差し眩しき江戸歩き  蜻蛉

     牛が淵の碑には北斎の「九段牛が淵」がパネルに嵌め込まれている。左の淵に沿って急な山坂が描かれているのが九段坂だ。「坂の下には大八車を押す連中が屯してたんだ。」「押し屋ね。」「下りの方が、手間賃が高いんだぜ。この絵の坂は極端だが、今よりもはるかに勾配の急な坂で、ブレーキを利かせるのは難しいだろうね。
     関川夏央・谷口ジロー『坊ちゃんの時代』第二部では、押し屋として九段坂下で待機していた新コ(長谷川伸)が「ガキは要らない」と断られて泣いていた時、鷗外を追って来日したエリスに、この場所でハンカチを貰った。長谷川伸が押し屋をやっていた事実はないから史実ではないが、『一本刀土俵入り』のアレンジである。
     「大八車で事故を起こすと死刑になったんだ。」ホントカネ。「ホントだよ、知らないのか。」調べてみると、江戸初期には故意でなければ罰せられなかった。厳罰主義をとったのは享保の頃からで、人を死なせたら理由の如何を問わず死罪とされた。享保と言えば大岡越前の方針だろうか。やがて後には多少は緩和され、原因によって死罪も有りうるということになったようだ。
     清水門を過ぎて千代田区役所前に出ると、ちょっと不思議な形の自転車が数台並んでおかれている。「ちょくる」と名付けられ、サドルの後部には電卓のような数字板がある。私は電動自転車を見たことがないが、これがそうなのか。NTTドコモと千代田区が、コミュニティ・レンタサイクルの実証実験をしているのである。電動アシスト自転車に、通信機能やGPS機能、遠隔制御機能(自転車の貸出・返却制御や電動アシスト機能のバッテリー残量の把握等)を搭載している。
     千代田区内三十ヶ所に三百台設置している。一回で二十四時間利用でき、最初の三十分が百五十円、以降一時間毎に百円である。しかし「ちょくる」というネーミングは如何なものか。千代田区とサイクルとの合成語だろうが、日本語では余り良い意味ではない。
     建物の前には、「大隈重信候雉橋邸跡碑」がある。裏面に回ると佐賀県の天山御影石と記されている。「綺麗な石ね。」「天山って言うのは山ですか?」「山です。」早稲田大学・千代田稲門会によって建てられたものだ。大隈はヤマチャンの郷土の偉人のひとりではあるが、私はどうもその人物像に親しみを感じない。

     大隈重信は、一八七六(明治元年)年十月から一八八四(明治十七年)年三月まで、この雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町一丁目一番地)に住み、一八八二(明治十五)年十月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

     ちょうど土曜日の下校時間になるのだろうか、女子高生の列がやってくる。「土曜日もやってるのか?」「私立はやってるんだよ。」今回は、「ヤマピー」と呼びかける女子高生はいない。それでも見つけられないように、ヤマチャンは急いでパレスサイドビルに入る。前回と同じく、ここで昼食だ。今は十二時十分。「一時にここに集まって下さい。」「ヤマチャン、声が大きいよ」とロダンが慌てる。近くにいた人が驚いたような顔をしている。地下に降り、スナフキン、マリオと一緒に奥まで探索してみたが、三分の一程は開いていない。「土曜日だからだよ。」
     もう一度出発点の方に戻って来ると、姫とロダンが二人で悩むように佇んでいる。「前回はここの百人亭に入ったよね。」牛タンがメインで、無国籍風の店だったから、味付けが私にはちょっとくどい。他の連中はどこに行ったのか、姿が見えない。「そこがすいてそうだ。」向かいの蕎麦居酒屋の「まる竹」だ。旧店名は長寿庵。
     店内は広く、七八人の団体がビールを飲んでいるが、私たちが座ってもまだ席は充分ある。スナフキンと私がジョッキ、姫とロダンがグラスのビールを頼んだ。「早退して夜飲めないから嬉しい」と言う姫は揚げ茄子と小海老が入ったぶっかけ蕎麦、スナフキンは鴨せいろの大、マリオは天丼と蕎麦のセット、ロダンは親子丼セット、私はいつものようにカツ丼セットを注文する。出てくるまで時間がかかったが味は悪くない。お茶は蕎麦茶である。少し食べすぎた。

     姫が武田百合子『富士日記』を読み始めたと言うので、今日のコースとは関係ないが少し触れておきたい。「あれは実に面白い。」「それは誰ですか?」ロダンだけでなく、一般には余り知られていないのではあるまいか。「武田泰淳の奥さんだよ。」
     武田泰淳・百合子が富士に別荘を買い、赤坂のマンションからこの山荘に来るたびに付けていた日記だ。昭和三十九年夏から五十一年九月まで、泰淳の死の直前まで続き、泰淳の死後発表されて絶大な評価を得たものである。「三巻もあるんですよ、読み切れるかしら。」諦めずに全巻読んでほしい。泰淳が末期肝臓癌で入院する前日、竹内好と埴谷雄高がやってきた。

     そのうち、かんビールをくれというので皆唖然とする。「今日は誰も飲んでいないよ。よくなったら飲もう」と竹内さんがいうと、湯呑にビールを入れて三人だけ飲んでいるという。「かんビールをポンとぬいてスッとのむ」と手つきをして繰り返してねだる。「かんビールをポンとぬいてスッとのむ。簡単なことでしょう。かんビールをくれ」という。私が「ダメ」と言うと、「いつの間にか権力者のような顔しやがって」とにらみつけ、埴谷さんたちに向って「この女は危険ということを知らないんだからね。前へ前へ暴走するんだ。俺はずーっと心配で」などと言う。あとはよく判らない口調だったが、今年の夏、山で霧の晩に酔って車を運転し、危うく横転しかけたときのことを話しているらしい。

     久し振りに旧友が訪ねてくれたので、泰淳は上機嫌だったのである。戦後派の文学者も既に大半が亡くなり、同世代で親しくできるのはこの二人と大岡昇平くらいだった。この日、九月二十一日、泰淳が寝込んだところで日記は終わる。そして十月五日に泰淳は死ぬ。六十四歳であった。もっと年寄かと思っていたが、今の私と同い年ではないか。
     そして武田百合子と言う女性がただものではない。横浜の大地主鈴木家の三女して生まれたが、父は戦争中に亡くなり、戦後の農地解放で没落した。戦後の混乱期を行商など様々な仕事で生き抜き、やがて昭森社に入社したが、社長の森谷均が経営する喫茶店兼酒場「ランボオ」の女給となって泰淳と知り合った。開けっぴろげで真っ直ぐな、しかし時に不思議な感覚を持つ文体は泰淳の口述筆記で生まれたものかと思われたが、村松友視『百合子さんは何色』によれば、少女時代から詩を書いていたから、元々才能はあったのである。賑やかで楽しく、時に悲しく辛いことを、こんなに素直に、しかも明確に表現するのは才能である。天衣無縫と評する人もいる。村松は中央公論の編集者として武田山荘にしょっちゅう来ていたのである。
     山荘に出入する園芸業者やガソリンスタンド、商店の人たちがしょっちゅう山荘を訪れ、鍋を囲み酒を飲んで喜んで帰って行く。百合子夫人の人徳であろう。
     赤坂と富士山との往復は百合子が運転し、泰淳は助手席で缶ビールを飲んでいるだけである。泰淳は運動神経ゼロだから運転免許なんか取れるはずはない。百合子は猛烈な睡魔に襲われたり、鞭打ち症で足が動かなくなってクラッチを踏む足を紐で結んだりしながら、それでも運転しなければならない。車をぶつけられて動けなくなれば、百合子は怒りまくって知り合いを呼ぶが、その間、泰淳は相手を車に引き入れてビールを勧めたりする。
     やがて大岡昇平も近くに別荘を構えたので、往来が頻繁になる。武田家と大岡家の家風の違いも面白い。因みに大岡昇平『成城だより』にも、武田百合子が頻繁に登場する。また『富士日記』には、日本文学を牽引した多くの作家の死が報告される。
     姫の御尊父の書架にあったと言う百合子の『犬が星見た』は、泰淳夫妻と竹内好がソ連旅行をした時の記録である。竹内好は東京帝国大学文学部支那文学科在学中に武田泰淳と「中国文学研究会」を結成して以来の盟友であり、これが最後の旅行になると覚悟を決めていた。
     ついでに大岡昇平『成城だより』も紹介しておこう。百合子も頻繁に登場するのは先に触れた通りだが、大岡は最後まで知的好奇心が旺盛で、論理的で論争的だった。こういうものを読んでいると、今時の小説なんか読む気になれない。

     予定通り一時に集合して午後の部が始まる。最初は雉橋を渡る。「この川は何なの?」「外堀じゃないかな。」違った。日本橋川である。和あたしは地理に弱い。沈丁花の蕾がもうじき咲きそうだ。 
     「若い頃、あそこにロカビリーを聴きに行ったよ。」「山下敬次郎とかミッキーカーチスとかですか?」「そうだよ。」講釈師の言うのは共立講堂だ。「日劇が有名だけどさ、最初は共立講堂なんだよ。」
     調べてみると、昭和三十三年二月には第一回日劇ウエスタンカーニバルが開かれており、初日だけで九千五百人、一週間で四万五千人を動員した。私たちが時々映像で見るのはこれだろう。あの熱狂は何だったのか、私にはさっぱり理解できないでいるのだが、翌三月には共立講堂で東西対抗ロカビリーというものが開かれている。
     学士会館の前には「我が国の大学発祥地」碑が建っている。千代田区神田錦町三丁目二十八番。明治十年(一八七七)、東京開成学校と東京医学校が合併して、ここに東京大学が設立されたのである。神田錦町は江戸時代の護持院ケ原で、日比谷公園よりも広い大きな火除け地があった。
     漱石が入学した大学予備門はここにあった。同時期に子規も南方熊楠もいた筈だが、まだ出会っていない。すぐ近くの外国語学校には二葉亭四迷もいたが、当然知る由もない。
     予備門は明治十九年に第一高等中学校と改称する。漱石が予備門を卒業して東京大学に入学するのは明治二十一年、既に東京大学は本郷に移転していて、第一高等中学が本郷に移転するのが明治二十二年のことである。そして東大生として漱石が子規と出会うのはその年の一月であった。
     学士会とは、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学及びその前身の帝国大学、(旧)京城帝国大学、(旧)台北帝国大学出身の学士、修士、博士、学長、教授、準教授を正会員とする組織である。明治十九年に創立された。
     つまり私には関係ないが、「Aの結婚式がここだったじゃないか」とスナフキンに注意された。私は全く覚えていない。
     植え込みの中には、自然石に「新島襄先生生誕之地」と書かれた碑があった。それなら上州安中藩上屋敷があった場所である。「門人徳富正教書」とあって、正教(しょうけい)を調べてみると蘇峰徳富猪一郎の字である。文字はあまり上手くない。「大磯で終焉の地を見ましたね。」蘇峰は思想的には新島と別れたが、生涯新島に対する尊敬は変らなかった。
     「ベースボールもあるんだよ。」回り込めば、神保町駅側に野球ボールを握った右手のオブジェがあった。「あの握りは、球種はなんでしょうか?」とヨッシーが笑う。野球のことは専門家のスナフキンに任せなければならない。

     この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。
     一八七二(明治五)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(一八四三~一九二七)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが 「日本の野球の始まり」といわれている。 七六年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。
     ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州 ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、七一年九月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日。七七年七月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。二〇〇三年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。
     まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。
     二〇〇三年十二月 財団法人 野球体育博物館

     通りの向こうは地下鉄神保町の駅である。「ここが神保町なの?」とマルチャンが驚いている。目的地に向かって真っ直ぐ歩いているのとは違って、こんな風にあちこち寄りながら歩いていると、自分がどこにいるのか分からなくなることがある。そもそも私も実はこの辺りの位置関係が少し怪しい。ここで、あんみつ姫は早退して行った。
     「蕎麦だけじゃ足りなかったな。」私は満腹である。如水会館の前には東京外国語大学が建てた「東京外国語学校発祥の地」碑がある。明治六年(一八七三)、既設の官立外国語教育機関を統合し設立された。当時の住所表示は神田区一ツ橋通町。先に触れたように二葉亭四迷が通った学校だ。しかしこの学校は不幸な運命を辿った。

     明治十八年の秋、旧外国語学校が閉鎖され、一ツ橋の校舎には東京商業学校が木挽町から引越して来て、仏独語科の学生は高等中学校に、露清韓語科は商業学校に編入される事になった。当時の東京商業学校というのは本と商法講習所と称し、主として商家の子弟を収容した今の乙種小商業学校程度の頗る低級な学校だったから、士族気質のマダ失せない大多数の語学校学生は突然の廃校命令に不平を勃発して、何の丁稚学校がという勢いで商業学校側を睥睨した。(内田魯庵『二葉亭四迷の一生』)

     ここで魯庵が「高等中学校」と書いてあるのは勘違いだろう。一年の違いだが、まだこの時は東大予備門だった筈だ。二葉亭はその措置に怒って退学する。登校せずともあと二、三か月我慢をして卒業証書だけでももらえば官吏になる道もあったのだが、それも断った。その後の二葉亭は、損になると分っていながら、わざわざ損をする方ばかり選んで生きて行く。こうして、近代の「引き裂かれた魂」は二葉亭に始まる。
     やがて明治三十一年(一八九八)、東京商業学校から分離独立を勝ち取って新東京外国語学校が設立され、後に二葉亭が教授となった。その時代の同僚や生徒が、やがて染井墓地に二葉亭の墓を建てる。東京商業学校は一橋大学、東京外国語学校は東京外国語大学の前身である。

     丸紅ビルの裏側辺りの空き地には、「一橋徳川家屋敷跡」碑がある。現在の丸紅本社ビルから気象庁、大手町合同庁舎付近にまで広がる広大な敷地だった。「敵前逃亡なんだよ。」「済みませんね。」謝ることはないのだが、慶喜が水戸出身だと言うだけでロダンは責任を感じてしまう。
     戦線離脱した慶喜が維新後、カメラや油絵、狩猟を楽しんで悠々自適の余生を送ったのに対し、旧幕臣の生活を支えて苦労したのは勝海舟や榎本武揚だった。しかし、それを知ってか知らずか福沢諭吉は「瘦せ我慢の説」で二人を非難した。要するに亡国の臣として、明治国家の大官となっているのは士風に悖る。速やかに引退せよと言うのである。榎本に関する部分を引いてみよう。

     之を要するに、維新の際、脱走の一擧に失敗したるは、氏が政治上の死にして、假令ひ其肉体の身は死せざるも、最早政治上に再生す可らざるものと觀念して、唯一身を慎み、一は以て同行戰死者の靈を弔して、又其遺族の人々の不幸不平を慰め、又、一には、凡そ何事に限らず、大擧して其首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて、決して之を遁る可らず、成れば其榮譽を専らにし敗すれば其苦難に當るとの主義を明にするは、士流社會の風教上に大切なることなる可し。即ち是れ、我輩が榎本氏の出處に就き所望の一點にして、獨り氏の一身の爲めのみにあらず、國家百年の謀に於て、士風消長の爲めに輕々看過す可らざる處のものなり。

     榎本は「昨今別而多忙に付、いづれ其中愚見可申述候」と適当に受け流した。海舟は「行蔵は我に存す。毀誉は人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候」と答えた。これに私はシビレタのである。これだけのタンカを切ることができるようになりたい。私が海舟ファンになったのはこれを読んで以来である。
     和気清麻呂像を見れば「何をした人だったかな」と大抵の人は首を捻る。「戦前はお札の肖像にもなってた。」「ヘーッ、そうなの。」戦前の教科書には必ず載っていて国民的常識になっていた人物だが、時代が変われば全く知られなくなる。称徳女帝が道鏡に皇位を譲ろうとしているのを阻止するため、宇佐神宮から神託を得た。「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」というもので、この神託に称徳女帝は激怒し、清麻呂を別部穢麻呂(きたなまろ)と改名させたうえで大隅国に流した。しかし女帝の死後復帰する。これが「連綿たる皇統」、「万世一系」の維持に大功績があったとされたのだ。
     震災銀杏見て気象庁の気象科学館に入る。受付に人がいないのでヤマチャンが大声で呼ぶと、中から慌てて出てきた。どこからかもう一人もやって来たので、トイレにでも行っていたのではなかろうか。
     人数分のネームプレートを貰った。「首に繋いでください」と言うヤマチャンの言葉がおかしいとハイジが笑う。「首にかけるのよね。」「これはIdecじゃないか。」図書館に関係していると余計なことまで目についてしまう。その入館ゲートではなく脇の柵を開けてくれる。
     中ではボランティアが説明してくれる。「交替でやってるって言ってましたよね」とロダンが隊長の言葉を思い出す。気象予報士のボランティアだったと思う。
     百葉箱は今では使われていないのだ。雨量計、赤外線で積雪を測る機械は身長計にもなっている。地震を体感する機械は、乗った者が自分の足で動かすのだから、あまり実感が沸いてこない。津波のシミュレーターが皆のお気に入りだっただろうか。「この船を沈めてやるんだ。」講釈師は何度も機械を操作するが、船は沈まない。
     記憶が曖昧だったが、やはり十年前とは違っている。以前は髪の毛を使った湿度計とか、竜巻を起こす機械なんかがあったのである。

     気象庁を出て内堀通りを行けば、三井物産は建て替えのための解体工事中だ。工事は昨年一月に始まり、二〇二一年の完成予定だと言う。角を曲がれば将門首塚だ。ここも三井物産の敷地の筈だが、手を付けずに残されている。将門の塚は、移そうとすれば数々の異変を惹き起こした。
     小さな境内には酒井家上屋敷跡の立札が立っている。伊達騒動で原田甲斐が刃傷事件を起こして切り殺された場所だ。『伽羅先代萩』の悪役が、山本周五郎が『樅の木は残った』で顕彰して以来有名になった。原田甲斐の本当の心は分らないが、原田の子、孫は男子であれば乳幼児も含めて全て切腹あるいは斬首された。非常に苛酷な措置である。
     「平将門蓮阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・徳治二年」と三行に彫られた墓石の前にはいくつもの花が供えられ、線香の煙が立ち上る。神田明神のホームページを見るとこんな風に記されている。

     将門塚は平将門公の御首(みしるし)をお祀りする墳墓であり、また同時に神田明神創建の地でもあります。天慶の乱後、将門公の所縁者たちにより、この地に納められ墳墓が築かれました。
     その後、嘉元年間(一三〇二〜五)、将門塚周辺において天変地異が起こり村民たちを悩ませました。徳治二年(一三〇七)になり、時宗の僧・真教上人により将門公の霊が鎮魂され、蓮阿弥陀仏の諡号が付されました。
     その後、村民たちの請いにより定住し時宗寺院・芝崎道場日輪寺を開基。
     この寺院は後に浅草に移りました。さらに延慶二年(一三〇九)、将門公を神田明神に合祀いたしました。

     若い男が膝まづいて合掌している。自転車のツーリングをしているらしい男女三人も丁寧に拝んでいる。これは何だろう。若い連中はパワースポットとか祟りだとかを本当に信じているのだろうか。そうだとすれば、この国の知性は退化している。
     「将門はどうして人気があるんですかね。」京都への反逆が武士の台頭の象徴だと思われた。但し将門だって最初から反逆するつもりはなかった。新皇を自称したのは成り行き上、やむを得ずやってしまった結果だ。
     もう一つは、日本人が古代から保持するメンタリティに関わるのだが、御霊信仰である。恨みを飲んで非業に死んだ者は、大いなる怨霊になって祟りを齎す。それを鎮めるためには丁重に祀り上げなければならない。菅原道真や、保元の乱で讃岐に配流された崇徳院が将門と並んで怨霊の代表とされる。中でも崇徳院は讃岐で憤死して史上最大の怨霊となった。平清盛の死も、後の南北朝騒乱も全て崇徳院の怨霊の仕業である。遥か後、明治維新を達成するためにもその祟りを鎮める必要があり、明治天皇が崇徳院の魂を讃岐から京都に迎え、白峯神宮を創建しなければならなかった。
     御霊信仰は一般に平安時代に始まるとされているが、実は出雲大社もそうだったのではないか。記紀に描かれているほど国譲りが平和に実行された訳がない。凄惨な戦いがあった筈で、先住民族を滅ぼしたヤマト族が、先住の神をオオクニヌシとして盛大に祀ったのが出雲大社だとすれば、そのメンタリティは古い。
     都に運ばれて晒し首になった将門の首が、坂東まで飛んできたというのは単なる伝説だが、その伝説を生んだ、東国の思いというものはある。将門の乱は、歴史的には在地豪族同士の争いであり、いったん樹立したかに見えた将門東国政権も、同じ東国の武士によって打倒されたのである。これに関して京都の朝廷は何ほどの力も行使できなかった。朝廷の無力が露わになった事件である。

     しかし、坂東の諸所では、かれの怨霊をいさめるために、在地人によって、墳墓や祠所が多くつくられた。亡魂の祟りをひどく恐れたのである。その武勇をたたえた、独自の説話はうまれなかった、といってよい。かれの事業は、かれとともに滅び去りすぐにはうけつがれることはなかった。(北山茂夫『平将門』)

     将門の怨霊を恐れて祀り上げたのは、将門を滅ぼした坂東在地の人間の、加害者意識から来る怖れの意識であったろうか。大岡昇平は、やがて時宗の僧侶によって将門伝説が各地に広がったとしている。

     時宗の遊行僧は非業の死を遂げた者の怨霊を宰領すると信じられ、信者の前で怨霊の生前の事績を語った。将門塚が、関東、甲斐、信州など、時宗の勢力範囲に拡がる。
     畏れ鎮めるべき怨霊が、庶民の信仰と結びつくと、地蔵その他利益神とかわるのも自然である。徳川時代の農民にとって、世直し神となった形跡があることは前に書いた通りである。(大岡昇平『将門記』)

     内桜田門(桔梗門)に着いた辺りで電話が鳴った。「桃太郎じゃないか。」そうである。「今新宿にいるんですよ、寝坊しちゃって。」どこで飲むかと訊いてくる。「まだ分らない、有楽町か新橋かな。だけどこの後、明治生命にも行くよ。」「それじゃ取り敢えず向かいますよ。」まだ二時を少し過ぎた所だ。
     坂下門。「坂下門外の変はこの辺でしたか。」文久二年(一八六二年)一月一五日、水戸浪士の平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三]、越後の医師・河本杜太郎の六人が安藤信正を襲った事件である。この時代のテロ事件には必ず水戸浪士が絡む。そしてロダンは、全水戸人を代表して歴史に対して反省するのである。
     二重橋では、何が二重なのかが問題になる。「眼鏡橋と奥の橋で二重になってるって聞きました」という人もいれば、「眼鏡がふたつあるからじゃないか」という人もいる。私は全く分からない。警備をしている人に訊いてみると、眼鏡橋(正門石橋)の奥の少し高いところにある橋(正門鉄橋)が、昔は木橋で上下二段になっていたからだと言うのである。「ヘーッ、そうなんだ。」「知らなかったな。」
     私はこの橋が皇居の正門だと言うことも知らなかったのだから論外である。島倉千代子が「ここが二重橋 記念の写真を撮りましょうね」と歌った割には、意味は知られていないのである。
     調べてみると、昭和三十九年の建て替えで鉄橋になった時に二段でなくなったらしい。それならば、島倉千代子が歌った時(昭和三十一年)はまだ木製の二段の橋が存在していて、不思議に思うものはいなかったのだ。僅か数十年前の風景が私たちには分からない。風景が分らないのは、当時の人たちの感覚が分らないと言うことである。

     久し振りに手を引いて
     親子で歩けるうれしさに
     小さい頃がうかんできますよ
     おっ母さん ここがここが二重橋
     記念の写真をとりましょうね(野村俊夫作詞、船村徹作曲『東京だよおっ母さん』)

     貰った煎餅を食べていると警備員に注意された。飲み物は良いが、食べてはダメだと言うのである。中国人観光客の声が多く聞こえる。中国人は皇居に来て何を思うだろうか。それとも、日本に観光に来るような中国人は、何も気にしないのだろうか。
     外桜田門では、桃太郎からスナフキンと私に電話が入る。今有楽町に入るらしい。明治安田生命保険相互会社。千代田区丸の内二丁目一番一。ヤマチャンがマッカーサーだと力説するので私は第一生命ビルと誤解していた。ここには前にも来たことがある。GHQ対日理事会の会議が開かれた場所である。一階部分は普段普通に業務していて、机にはパソコンも置かれているが、土日は一般客に無料で開放しているのだ。若い女性連れやカップルも驚きながら、会議室や応接室を見ている。
     「今、和田倉門の辺りにいるんですよ。」桃太郎である。「それじゃ真っ直ぐ来てよ。馬場先門の向かいだから。」外に出て待っていると姿が見えたが、手を振っても気が付かない。少し酔っているのではないだろうか。足取りが揺れているようだ。そして漸く気が付いた。おめでとうと挨拶する顔が赤い。「寝坊しちゃったんですよ。」それで朝から飲んでいたらしい。
     見学していた連中もやがて外に出てきた。ロダンとスナフキンの万歩計を信じて、ここまで一万七千歩と決定した。私の万歩計は調子がおかしいのか、一万四千にしかなっていない。腕時計型は余り良くないのかも知れない。

     東京駅に向かう人たちと別れ、スナフキン、マリオ、ロダン、桃太郎、蜻蛉は有楽町方面に向かう。「まだ四時前だろう、やってないんじゃないか。」スナフキンが心配したが、有楽町のガード下を覗くとやっている店があった。ちょうど四時。店は二十四時間営業の鳥良商店である。飲み物なんでも六時までなら二百五十円の掲示につられてここに決める。
     店内はほぼ満席に近く、若い女性だけのグループも目立つ。若い女がこんなに日の高いうちから飲んでいて、この国は大丈夫なのだろうか。他人のことを言えた義理ではないか。
     取り敢えずビールで乾杯。ヤマチャンは焼鳥がダメだと言う。宗匠と同じで佐賀県人は焼鳥を食わないことが分かった。マリオも皮が苦手らしい。「鳥肌だからね。」
     壁の手羽先唐揚げのポスターを見て、マリオ、スナフキン、ロダンが名古屋の手羽先を話題にする。「世界の山ちゃん」なんて言っているが、私には何のことか分からない。ウィキペディアによれば、手羽先唐揚げを最初に始めたのは名古屋の風来坊と言う店だと言う。「世界のヤマチャン」の公式サイトでは、それを「ある飲食店」としている。ライバルとして、名前は出したくないのだろう。
     甘辛い手羽先の唐揚げと鉄板で焼いた鶏、冷奴を注文する。その後は全員焼酎のお湯割りに切り替えたのだが、陶器のグラスの形が不揃いだ。「済みません、足りなくなっちゃって。」それにしても混んでいる店だ。焼酎のお代わりを頼むとなかなかやってこない。「済みません、グラスが足りなくて。」グラスと交換でなければ飲めないのである。「もっと用意したらどうだい?」「私もそう思いました。」店員は素直である。
     「一杯二百五十円の時間が終わりました。」女店員の言葉でお開きにする。一人二千八百円也。ロダンがレジで両替をしてくる。「百円玉はないって言うんですよ。そこにあるのに。すぐ支払うからって、無理矢理両替してきましたよ。」
     まだ六時である。有楽町駅の改札を入ろうとした時、「まだいいだろう?」と後ろからスナフキンに引き留められた。マリオ、ヤマチャン、ロダンは首を振って駅の中に消えて行き、スナフキン、桃太郎、蜻蛉が残された。
     「新橋に行こう。」ガード下を覗きながら歩くが、「この辺は高いんだ」とスナフキンはひたすら真っ直ぐに行く。着いたのはニュー新橋ビルだ。しかしスナフキンの目指す店が見つからない。歩いている間に、あちこちの店から女性の声がかかってくる。中国人が多いようだ。「ここだ。」しかしシャッターが下りていて、今日は店休日である。「土曜日だからな、じゃ、どこでもいいや。」
     結局、さっき可愛い女性(これも中国人)に声をかけられた「田はら」に決めた。黒霧島を一本入れる。「ボトルを入れていただけるんですか、有難うございます。」突出しは切り干し大根である。イカ刺、その他いくつかを注文して飲む。
     桃太郎はかなり酔っている。「ハイジとマリーを山登りに誘ったんですよ。了解してくださいね。」私が了解することではない。現代世界の諸問題を憂いながら、黒霧島を一本空にしたところでおしまい。一人二千四百円也。今日もかなり飲んでしまった。

    蜻蛉