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    第六十三回 都電荒川線を歩く編(大塚から三ノ輪まで)
    平成二十八年三月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.03.23

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     昨日で東日本大震災からちょうど五年経った。未だに避難者は十八万人にも上り、岩手・宮城・福島三県で九万人が仮設住宅に住む。津波は自然災害だったとしても、原発事故は断じて自然災害ではない。あれだけの経験をしながら、そして使用済み核燃料の最終処分場が決まらないまま、安倍政権は原発再稼働を推し進めようとしている。大津地裁は高浜原発運転停止の仮処分を出したが、これから政府と電力側の巻き返しが始まるだろう。
     旧暦二月四日。啓蟄の次候「桃始笑」。近所にまだ桃の花は見えない。畦道や畑にはホトケノザが赤紫の絨毯のように広がってきた。八日の火曜日は二十度を超え暑い程だったのに、しかし水曜からまた気温が下がり、今日はかなり寒い一日になりそうだ。

     今回は、大塚から三ノ輪橋まで、豊島区・北区・荒川区をほぼ路線に沿いながら歩いてみたい。早稲田・大塚間には面影橋(太田道灌・山吹の里説)や鬼子母神、雑司ヶ谷墓地など見所があるが、距離の問題もあるので今回は割愛した。今日は講釈師を筆頭に、私以上に詳しい人が何人もいるだろう。
     都電荒川線は早稲田・三ノ輪橋間を結ぶ路線距離十二・二キロ、一部区間を除いてほぼ全線が専用軌道上を走る。停留所の数は三十ある。
     明治四十四年(一九一一)大塚・飛鳥山間に敷設された後、大正二年(一九一三)飛鳥山下・三ノ輪橋間に延長され、昭和七年(一九三二)に早稲田まで開通した王子電気軌道が原型である。昭和十七年(一九四二)東京市が買収して、27系統(三ノ輪橋~赤羽)と32系統(荒川車庫前~早稲田)の二つの路線を別個に運行していた。
     最盛期には四十一系統が運航していた都電だが、一九六〇年代に入ると、交通渋滞解消と赤字路線整理のために都電廃止政策が進められた。その中で、この路線は大半が専用軌道であること、また明治通りが恒常的に渋滞していてバス路線への代替が困難であることにより、存続が強く要望されていた。
     そして昭和四十七年(一九七二)十一月までに都電のほとんどが廃止された後も、この区間については王子駅前~赤羽間が廃止されたのみで、二系統のほとんどが存続することとなった。昭和四十九年(一九七四)には、二つの系統を統合し「荒川線」と改称した。二十三区内を走る都電として唯一残った路線である。私鉄では世田谷線(かつて玉電とも呼ばれた)が残っている。
     大塚駅北口集合。「駅前は随分変わりましたね」と画伯や若旦那が驚いている。以前は地下道のような暗く細い通路があったような気がする。調べてみると平成二十一年(二〇〇九)に、北口と南口とを結ぶ自由通路が完成したようだ。
     戦後は池袋が大きくなったが、戦前まで城北の中心は大塚だった。本来、大塚は文京区の地名であり、ここは巣鴨村であった。山手線が計画された時、線路は目白から大塚方面に向かう筈で、そのために大塚駅と命名された。後に駅名に合わせて豊島区南大塚、北大塚の町名が作られたのである。
     あんみつ姫、イッチャン、ペコチャン、チロリン、シノッチ、ハイジ、マリー、マルチャン、カズチャン、椿姫、画伯、ロダン、マリオ、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヤマチャン、ヨッシー、若旦那、蜻蛉。年末には体調を崩して参加が難しいとハガキで知らせてきた画伯が元気な顔を見せたのが嬉しい。
     「碁聖のことがショックでね。」碁聖の奥様から、一月の末に無事に納骨を済ませたと知らせを戴いている。お墓は新宿区若葉二丁目の真英寺(真宗大谷派)。「それでも今日は楽しみにしてたんだよ。」企画した私としてはお世辞でも嬉しい。若旦那も画伯も八十歳を超えて参加してくれるのは有難い。いつまでも元気でいてほしいものだ。
     「都電もなかは買えるかしら?」「前に買おうと思ってお店が見つけられなかったのよ。」イッチャンとシノッチの願いには応えなければならない。「大丈夫、行きますよ。」「スナフキンはどうしたのかな?」「職場の懇親旅行で金沢に行ってるんじゃなかったかな。」「桃太郎は来ないのね。飲みすぎていないかしら。」「宗匠は?」「ボランティアで忙しいみたいだよ。」
     常連何人かの姿が見えなくても、男女同数、二十人の大人数になったのは久し振りのことだ。これも幹事の人徳の賜物でと、バカなことを口走ったのが良くなかった。実は今回は下見が充分にできていない。なんとなくバタバタしているうちに日が経ってしまった。

     大塚駅北口から都電の線路を超えて、真っ直ぐ北に延びる折戸通りに入った(積りだった)。暫く歩くと、何となく記憶している風景と違う。「間違いました。」「エーッ、最初から。」戻ってもう一本別の道を選んだが、巣鴨警察を過ぎた辺りで完全に間違っていると気が付いた。「どこに行くんだよ?」「庚申塚。」「それなら線路に沿って行けばいいじゃないか、自然に着くんだから。」今通り過ぎた集団がまた戻って来たので、立哨している警官が笑っている。
     ロダンの知恵を借りながら再び戻って漸く正しい道に入った。「ここでいいですね」と地図を見ながらロダンが保証してくれた。それにしても、こんなところで躓くとは思ってもいなかった。私はこの道を二度歩いているのである。
     「おかしいですね。女性が十人も集まったので緊張したんでしょう。」「朝ご飯、ちゃんと食べてきたの?」とあんみつ姫や椿姫に笑われてしまう。そう言えば、私は以前にも同じことをしている。第五十回「本所界隈を歩く編」(平成二十六年一月)で、菊川駅から長谷川平蔵屋敷跡に向かう筈が、とんでもない方向に歩いていたのだ。根本的に地理音痴なのかも知れない。
     左に都立文京高校があるのでちょっと立ち止まる。豊島区西巣鴨一丁目一番五。ここは旧制第三東京市立中学校である。府立一中から三中までは、日比谷、立川、両国と覚えていたが、それとは別に東京市立のナンバースクールがあるなんて、私は知らなかった。第一が九段高校、第二が上野高校である。色川武大(阿佐田哲也)は昭和十八年(一九四三)に十四歳で無期停学処分となり、終戦後にそのまま退学している。
     旧中山道と交差する右の角に、目標にしていた猿田彦庚申堂(巣鴨庚申塚)がある。豊島区巣鴨四丁目三十五番一。お馴染みになっている人もいる多い筈だ。文亀二年(一五〇二)に高さ八尺の庚申塔を建立したのが始まりで、中山道板橋宿にも近く、飛鳥山、王子に出る王子道の道標を兼ねていた。飛鳥山は桜、王子は紅葉、江戸庶民にとっての行楽地である。
     明暦の大火(振袖火事)の復興事業で木材が集積されたとき、木材の一部が倒れ掛かって八尺の塔は砕けた。現在の塔は明暦三年(一六五七)に復興したものだ。そして明治初期に銚子の猿田神社から猿田彦の分霊を勧請し、猿田彦庚申堂となった。明治初期の神仏分離、廃仏毀釈政策の影響だと思われる。
     「どうして猿なんですか?鶏もいるし、庚申塔には十二支の動物全部がいるんですか?」椿姫は不思議なことを訊いてくる。庚申の日の夜、人が眠るとそれまで体内に潜んでいた三尸(サンシ)が抜け出し天帝にその人間の悪事を報告する。だからその夜は眠ってはならない。これが道教起源の庚申信仰であり、『枕草子』にも庚申待ちの行事が記されていた。平安貴族にとっては信仰というより、夜を徹して遊ぶための工夫が重要で、その時は歌を詠みあっていたのだった。その段階では猿は登場しない。
     やがて古来からの月待信仰と習合して庶民にも広がり、念仏講の場ともなっていく。申から猿へと、庚申信仰に猿を結びつけたのは山王信仰(天台宗・日枝神社)であるが、中世密教は本尊として青面金剛をでっちあげた。「ああ分りますよ。あの、講釈師を踏み潰してるやつ。」「そうそう。」そして像容が確立するにつれて、三尸に因んで猿は三匹となり、夜明けを待つので鶏を配すことも発明されたのである。
     また山崎闇斎の垂加神道が猿田彦を結びつけた。儒仏など外国起源のものに対して、全て日本独自のもの(神道)が世界に冠するのだという夜郎自大の思想が生まれたのだ。これが後の国学や尊王思想に大きな影響を与えることになる。「神様って、そんな人間の勝手で作ってもいいんですか?」椿姫が頓狂な声を上げるが、神は人間が作ったものである。特に日本では神羅万象あらゆるものが神になった。
     猿田彦はニニギ降臨の際にアメノウズメと問答して道案内の神になった。庚申塔は村はずれや橋の袂に置かれて道標を兼ね、道祖神とも習合していたから都合がよかった。
     中山道(庚申塚商栄会)に入り、都電の踏切を渡ってすぐ左の小道に入る。小さなアパートが並ぶ中を抜けると、右手が特別養護老人ホーム菊かおる園、左手の工事中の建物が東大の寮(豊島国際学生宿舎)だ。街路樹には濃い赤紫の花が満開に咲いている。「ベニバナマンサクでしょうか?」「そうだね。」正確にはベニバナトキワマンサクというようだ。「記念碑があるんですか?」突き当たった巣鴨幼稚園の前に、「明治女学校跡碑」が建っている。豊島区西巣鴨二丁目三十番十九。女学校は老人ホームと東大寮を含めた敷地にあった。
     明治女学校は木村熊二によって明治十八年(一八八五)、九段下牛ケ淵に設立された。発起人は植村正久・田口卯吉・島田三郎・巌本善治、教師には津田梅子・人見銀(どういう人物か私は知らない。横浜山手共立学校卒)・富井於菟(日本最初の女性新聞記者)等がいた。巌本善治も近藤賢三から『女学雑誌』を引き継いで発行する傍ら、教頭をしていた。
     木村は但馬国出石藩の儒者の子として生まれ昌平黌で学んだ。一番町教会で植村正久から洗礼を受け、アメリカで牧師試験に合格して明治十五年(一八八二)に帰国した。
     設立の翌年、木村の妻で校長の鐙子(佐藤一斎の曾孫、田口卯吉の異父姉)がコレラで急死し、木村はやがて明治二十一年に再婚した伊東華子のスキャンダルで女学校を退いて小諸に引き籠る。そこで小諸義塾を開き、三十二年に島崎藤村を教師として招くことになるが、それはまた別の話である。
     女学校は巌本善治が引き継いだ。巌本が主宰した『女学雑誌』の寄稿者である星野天知、北村透谷、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村等、後に巌本と袂を別って『文学界』に結集する若者たちが教壇に立った。生徒の中には明治女学校の「三羽烏」と謳われた羽仁もと子(自由学園)・相馬黒光(新宿中村屋)・野上弥生子がいる。
     羽仁もと子は府立第一高女を卒業して女子高等師範の受験に失敗して、明治二十四年(一八九一)に明治女学校高等科に入学した。翌年学校は六番町の校舎に移転し、生徒数三百人と最大の規模となった。
     相馬黒光は宮城女学校、横浜フェリス英和女学校と転校して飽き足らず、明治二十八年(一八九五)に入学した。しかし二十九年(一八九六)二月、六番町の校舎は失火で焼失したのである。その五日後の二月十日、結核で衰えていた若松賤子(巌本の妻)は心臓麻痺で死んだ。享年三十三。横浜フェリス第一期生で『小公子』の翻訳で名を高めていた。この年十一月二十三日には樋口一葉も二十五歳で死ぬ。学校は翌三十年に巣鴨村に移転する。
     野上弥生子は明治三十三年(一九〇〇)十五歳で大分県臼杵から上京して入学し、巣鴨の校舎に入った。当時は雑木林の中である。街道から細い通路が続いているから単なる森ではないと分かるだけで、弥生子は郷里の大分よりも田舎に来てしまったと愕然とした。
     そして明治三十七年(一九〇四)に巌本が現場を退き、四十一年(一九〇八)には閉校になる。ところで、実質的に開校当初から明治女学校を運営していた巌本善治は、晩年スキャンダルに塗れた。若松賤子は夫の女癖の悪さを証言しているし、相馬黒光も巌本と女学校生徒との噂を非難した。星野天知や平田禿木は詐欺行為を指摘している。
     明治四十年(一九〇七)ブラジル移民を扱う明治殖民会社を興し、大正元年(一九一二)にはコーヒーの直輸入会社カフェ・パウリスタを興した。大正時代、文士や慶応の学生がよく通った店である。何年か前に調べた時には「銀ブラ」語源説を掲げていたが、今ホームページを見ると、「一説に」と多少トーンダウンしている。大正十三年(一九二四)には日活の取締役にもなった。勝海舟を信奉して『海舟座談』(岩波文庫にあり。原題は『海舟余話』)を編集している。島崎藤村は『黄昏』の中で、巌本をモデルにこう書いた。小説だから全てが事実のままではないだろうが、大方は世間の評価そのままだろう。

     世が変るに伴れて、彼も亦た変つた。それから鉱山に関係したといふ噂もあるし、樺太へ人夫を送つて手を焼いたといふ話もある。彼は真逆方に世のどん底へ落ちた。若も変節の為に斥けられるなら、暖簾を掛替へたものは彼ばかりでは無い。いたづらで咎められるなら、身を持崩したものは、世に数へきれない程ある。彼のやうに爪弾きされるとは、抑々何故だらう。そこがそれ、彼の人格にある。社会から捨てられるやうな辛い目に逢ふものは、いづれ一度は可愛がられた人だ。実に彼の生涯は、正義と汚濁と、美しいことと悲しいこととの連続した珠数のやうである。

     ところで初期の女学校にはどんなものがあったか。
     最も早く明治三年(一八七〇)に開設したのは、ヘボン施療所キダー塾(フェリス女学院)であった。若松賤子はその第一期生である。四年(一八七一)には官立東京女学校(後に東京女子師範学校・お茶の水女子大学)、アメリカン・ミッション・ホーム(横浜山手共立女学校)が開かれた。五年(一八七二)には新英学級及女紅場(京都第一高女・京都府立鴨沂高等学校)、七年(一八七四)女子小学校(青山女学院)、六年(一八七五)跡見学校、エディ女学院(平安女学院明治館)、駿台英和女学校、女子寄宿学校「神戸ホーム」(神戸女学院大学)。
     以降煩雑だから年は記さないが、札幌農学校女学校、同志社女学校、立教女学校、梅花女学校、永生女学校(プール女学校)、活水女学校、神戸女子神学校、広島女学校、和洋裁縫伝習所(東京家政大学)、高梁向町縫製所(順正高等女学校・岡山県立高梁高等学校家政科、東洋英和女学校、ウヰルミナ女学校(大阪女学院大学)、明治女学校、華族女学校(学習院/学習院女子中等科)と続く。
     漸く女子教育が普及し始めていたのである。「津田梅子や山川捨松が帰国した頃ですか?」二人が帰国したのが明治十五年(一八八二)十一月だから、それもちょうどタイミングが良かった。文部省が漸く女子の中等教育機関として、高等女学校の名称と共に教育課程を整備した時期だった。

     官立東京女学校を模範とし、明治初年以来よるべき規定もなく設立されてきた女学校に対して、明治十五年七月十日東京女子師範学校付属高等女学校を創立し、女子中等教育の方策を指示した。政府は東京女学校を廃校とし、その生徒を東京女子師範学校に移して、英学科・別科・予科等に収容したが、これも十二年三月限り廃した。十三年七月に予科を再興したが二年を経てこれを廃止し、この女子師範付属高等女学校を新設したのである。文部省はこの後、女子の中等学校に高等女学校の名称を用いることとした。東京女学校廃止後、教育令の公布をみたが、そこには「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルヲ得ス」と定め、小学校の他は男女別学を原則とした。これ以後中学校に女子の入学が認められないこととなった。このようにして女子中等教育は女学校だけで行なわれることとなった。(中略)
     文部省や府県においていまだ女子中等教育を充実させることができなかった時期に、女子中等教育に先鞭をつけたのはキリスト教主義の女学校であった。一般に発足当初の女学校は規模が小さく、個人の住宅などを校舎に充てたものが多く、私塾的な形態をとっていた。東京では桜井女学校、立教女学校、英和女学校などがキリスト教主義の女学校として創立された。全国の都市についてみると横浜のフェリス和英女学院、ミッションホーム、ブリテン女学校、長崎の梅香崎女学校、活水女学校、大阪の照暗女学校、梅花女学校、京都の同志社女学校などが明治三年から十三年ごろまでに創設された。これらの女学校の多くは英米婦人による英語教育を通じ、キリスト教に基盤をおく欧米の新しい人間観や社会観を若い女性に培った点で歴史的意義は大きかった。これらの他に八年に設けられた跡見女学校は婦人の伝統的教養を目標とし、和歌、書道、絵画などを授ける学校となっていた。これらの女子のための学校は私塾的な形をとったものが多く、当時は女子中等学校として制度化されていなかった。(文部科学省『学制百年史』三「明治初期の女子教言」)
     http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317595.htm

     そのまま菊かおる園の脇の細い路地を抜け、住宅地に入った。車一台がやっと通れるかどうかという道である。「三階建ての家が多いわね。」ハイジに言われて気が付いた。確かに鉄筋三階建ての家がやたらに多いのだ。「敷地が狭いからだろうね。」路地が狭いせいだろう。家の前に花鉢を置く家はない。
     庚申塚商栄会に出る手前の角には延命地蔵がある。「長生きしたい人はお詣りして下さい。」地蔵は文政年間に建立され、八十年前にここに移転したという。最初にどこに建てられたのかは書いていない。表面は剥落して像様もよく分らない。「危ない。」こんな狭い路地を車が通るのか。
     二基の石碑のうち、一基の下の部分に「徳本」の文字を見つけた。これは念仏聖の徳本行者のことだろう。「あっ、読売新聞で読んだ気がします」と椿姫が声を出す。「どんな記事でした?」「忘れました。」徳本なら剥落した文字は「南無阿弥陀仏」である。その隣の石碑の文字は「南無妙法蓮華経」と読める。
     商店街には古い黒板壁の二階家が何軒も目に付く。巣鴨北中学校の隣は大正大学だ。コース案内には入れておいたのだが、最初に時間を浪費してしまったのでやめようかと思った。
     しかし、あんみつ姫は是非入ってみたいと言う。「階段だよ。」「だって珍しいじゃありませんか。」それなら入ってみようか。私も下見の時には入っていない。大正大学さざえ堂(すがも鴨台観音堂)である。豊島区西巣鴨三丁目二十番一。
     大学の中は近代的なビルがいくつもあるようで、ビルの間から見る堂の前に白いコブシが咲いている。「さざえ堂は西新井で入ったわよね。」ハイジに言われるまで忘れていた。西新井大師(總持寺)の三匝堂は木造の古い建物で、歩くとミシミシ音がしたのではなかったか。それとは違って、ここは平成二十五年(二〇一三)に完成した鉄筋コンクリート造りのモダンなものだ。八角三匝の黒屋根に金の格子、頂上には金色の宝珠を載せている。

     花辛夷宝珠輝く栄螺堂  蜻蛉

     内部の撮影は禁止されている。一階部分に制吒迦童子が立っていた。一般には矜羯羅童子と共に不動明王と一緒にいるのだが、単独でいるのは珍しいのではないか。「こういう字なのね。」「背高かと思ってた。」階段を登り切ったところには聖観自在菩薩が祀られている。

    観音堂の螺旋構造は、仏さまの眉間にある白い毛=白毫の象徴です。仏さまは白毫から智慧と慈悲による救いの光明を放つことから、これを大正大学の建学の理念である「智慧と慈悲の実践」に重ねて具象化したものでもあります。(大正大学「すがも鴨台観音堂」)
    http://ohdai-sazaedo.jp/odai_kannon.html

     ここから階段は下りになる。「大正大学は何宗なんだい?駒沢は曹洞宗で聞いたけど。浄土宗かな。」確か各宗派が合同で設立した大学ではなかったろうか。念のために調べてみるとやはりそうだ。
     大正七年(一九一八)大学令が公布され、翌年には文部省によって大学規程が定められた。仏教各派も大学創立の思いは高かったが、単独宗派ではなかなか文部省の基準を満たすことはできない。そこで、当時の仏教学をリードしていた高楠順次郎・姉崎正治・前田慧雲・村上専精・澤柳政太郎が、仏教連合大学構想を作って各宗派長老に呼びかけた。
     その結果、天台宗(天台宗大学)・真言宗豊山派(豊山大学)・浄土宗(宗教大学)が賛同し、大正十五年(一九二六)大学令による認可を受けたのである。後に真言宗智山派の智山専門学校も加わった。初代学長は大正自由主義教育運動の中心だった澤柳政太郎である。
     「この食堂、高いですね。」校舎の中だから学食かと思えば、店頭のメニューを見るとランチが千九百円(但しサーロインステーキ)もするのだ。いわゆる「学食」ではない。「東大の食堂が懐かしいですね。」鴨台食堂(オウダイジキドウ)と名付けられたもので、プリンスホテルが経営するレストランだった。「地域の人が来るんだろうね。」西巣鴨の人はこんなレストランで昼飯を食うのだろうか。私はいつも学食で四百三十円のランチを食っているゾ。
     目白通りを右に曲がると、大正大学の正門が立っている。「凱旋門ですか?」そのように見える。大学の前身の一つ、宗教大学(浄土宗)の車寄せがモデルだという。

     白山通りの信号を渡る。二十人もいると一度では渡り切れない。咳がひどくて欠席する積りだったというカズチャンは元気で、私の後ろにぴったりついてくる。後ろから追いついてきたマリーに「リーダー、早すぎるわよ」と言われてしまった。信号が二回変って、最後にヤマチャンとロダンが到着した。
     手がかじかんできた。寒い。「手袋持ってこなかったの?」こんなに寒くなるとは思ってもいなかった。雨がぽつりと二三滴落ちてきたようだった。「大丈夫でしょうか、傘を持ってきませんでした。」私も雨は全く予想していない。しかしそれ以上降ることはなかった。
     地下鉄西巣鴨駅入り口を過ぎた辺りから、胸の高さほどの赤い煉瓦塀が続いている。そこに案内銅版のプレートを嵌め込んであるのは、河合映画(大都映画)跡である。豊島区西巣鴨四丁目九番一。
     「そこにもありますね。」プレートは全部で四枚だろうか。撮影所の敷地の図面、当時の撮影所入り口の風景などだ。「画伯なら知ってるんじゃないの?」河合映画は昭和三年設立、昭和八年に大都映画に改称。戦時統合で大映となったから、画伯はその名前では知らないだろう。若旦那は知っていただろうか。私はもちろん知る由もないが、低予算で娯楽作品を量産したらしい。
     河合映画が設立されたのは、ちょうど無声映画の全盛期からトーキーへと時代が変わろうとする時代で、群小の映画会社や独立プロが時代の波に乗れずに廃業し、また統合するなど激しい興亡が繰り広げられていた。

     ところが、この四社(帝キネ・東亜・マキノ・河合)の一つ、河合映画というのは、創業以来、戦時による企業整備の日まで、終始一貫して、同一経営体の下に運営されてきた不思議な生命力を持つ会社であった。(中略)主宰者は河合徳三郎である。河合は、土木建築業者として知られた侠骨の一人で、東京三河島町屋に映画館を経営するかたわら、独立プロを興した市川歌右衛門映画の配給を委託され、映画事業に食指を動かした矢先、付近に三十坪ほどのバラック・スタジオを持つ沼井春信の奨めで、映画製作に手を出すようになった。(中略)河合は、この沼井スタジオを利用して、帝キネ、マキノにいた従業員を招き、速成映画の清作を始めた。(中略)
     町屋スタジオは、たちまち狭くなったので、河合は以前整理に立ち会った国活会社のスタジオが、巣鴨に廃屋同様になっているのを知り、三月下旬これを買収して、修理を加え、京都のマキノ・スタジオから、俳優杉狂児、鈴木澄子、監督曾根純三、古海卓二らを抜いて専属とする一方、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画の解散によって不用となったユニヴァーサル社輸入のアケリー・カメラほか撮影器具一切を買い受け、製作陣の強化を図った。配給館はたちまち七十余館に達した。(田中純一郎『日本映画発達史』)

     田中のこの本(全五巻)のことはすっかり忘れていたが、本棚を整理していて発掘した。そして昭和八年には東亜キネマが潰れ、東活が没落する中で、その系列館が大挙して河合系統に流れ込む。事業規模拡大に伴って大都映画株式会社を設立した。
     琴糸路、鈴木澄子、久野あかね、橘喜久子、大山デブ子、水川八重子、木下双葉、佐久間妙子等の女優陣に、杉狂児、市川百々之助、山本礼三郎、ハヤフサヒデト、大乗寺八郎、藤間林太郎、水島道太郎、近衛十四郎、阿部九州男等の男優陣を抱えていたという。女優は殆ど知らないが、男優の名前を見る限り、かなり豪華な顔触れではなかろうか。山本礼三郎は黒澤明『酔いどれ天使』に出ていた筈だし、水島道太郎は私たちの世代では晩年の東映任侠映画の脇役でお馴染みだった。
     「校地は開放しています」の看板に、「中に入れば何かいいことがあるのか」とドクトルが首を捻る。ここにはかつて朝日中学校があったが、統廃合でなくなり、今は「にしすがも創造舎」となっている。

     にしすがも創造舎は、二〇〇一年に閉校した豊島区立朝日中学校の校舎や体育館をそのまま残し、〇四年八月にオープンしたアートファクトリーです。「ファクトリー=工場」として、アーティスト、子どもたち、地域の方々などがいろいろなものを創り出しています。豊島区文化芸術創造支援事業の一環として、「アートネットワーク・ジャパン」と「芸術家と子どもたち」の二つのNPOが共同で管理運営しながら、子ども向けワークショップや読み聞かせ、地域の方々とアーティストによるプロジェクトなどを行なっています。教室は稽古場として貸出し、体育館は稽古場や劇場としても使われています。これからも、アートを創りながら楽しめる「みんなの場所」でありたいと思っています。
     http://sozosha.anj.or.jp/about/

     鉄筋造りの正法院の脇から路地に入る。「この辺は主に関東大震災で移転してきたお寺が集まってます。」盛雲寺(新門辰五郎墓)、善養寺(江戸三大閻魔、尾形乾山墓)等も近くにあるが、今日行くのは西方寺(浄土宗)だ。豊島区西巣鴨四丁目八番四十三。元和八年(一六二二)建立。「静かにしてくださいね。」庫裏の脇を通り墓地に入る。
     ここでは二代高尾太夫(万治高尾とも仙台高尾とも呼ばれる)の墓を見るのが目的だ。「ここです。投げ込み寺ってあるでしょう。」墓の手前に立つ銅製の灯篭にその文字が記されている。元は浅草日本堤にあって、三ノ輪の浄閑寺と共に遊女の投込み寺として知られた。昭和二年(一九二七)に現在地へ移転してきた。浄閑寺には荷風の文学碑や花又花酔「生まれては苦界死しては浄閑寺」を刻んだ新吉原総霊塔があって有名だが、この寺は余り知られていない。
     高尾は万治三年(一六六〇)に死んだと伝えられ、その百五十回忌に新吉原竹屋七郎兵衛が建立したものらしい。だから墓というより供養塔であろう。地蔵のようにも見えるが剥落が激しくて判別がつかない。実は東浅草の春慶院(台東区東浅草二丁目十四番一)にも二代高尾の墓とされるものがある。
     「高尾って何人もいたんですか?」こういうことは講釈師に任せれば良いだろう。「太夫っていうのはさ、吉原で最高位なんだよ。」京都島原の吉野太夫、大阪新町の夕霧太夫と共に、江戸吉原では高尾大夫が最高位の遊女として名を馳せた。吉野や夕霧は一代で終わったが、高尾の名跡は襲名され、高尾を名乗った太夫は六人から十一人まで様々な説がある。落語に『紺屋高尾』があるのはロダンなら知っているだろう。そのモデルは五代高尾だとされている。全て三浦屋抱えの遊女である。

     君は今駒形あたりほととぎす

     二代高尾はこの句の作者だとされているのだが、この高尾については異説が多くて、その真偽は分らないことが多い。一般に流布しているのは、伊達騒動の発端となった仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったため、隅田川の船中で逆さ吊りに惨殺されたというものだ。しかし考証家の稲垣史生は(『考証・江戸の面影 二』)で、この句を「舟で帰る仙台綱宗公への、ほのかな高尾の思慕を歌っている」と解釈している。それならば、綱宗に殺される理由がなくなる。別に、若くして隠居した綱宗に落籍されたという説、三浦屋の別荘で死んだという説もある。
     ところで、高尾を花魁と呼んではいけない。宝暦年間(一七五一~一七六三)の終わり頃に吉原の大夫はいなくなり、それ以降、最高位の遊女を花魁と呼ぶようになる。つまり江戸初期には「花魁」はいないのである。これを初めて知ったのだから私の知識も貧弱だ。

     路地を抜け、私が先頭で踏切を渡った瞬間、遮断機が下りてきた。都電はひっきりなしに通って行く。お岩通りに入って次の角(巣鴨五丁目)で左に曲がり、もう一度線路を渡れば妙行寺(法華宗陣門流)だ。豊島区西巣鴨四丁目八番二十八。
     「四谷怪談」のお岩の墓を売り物にしている寺だ。「お岩様は四谷の筈なのに、どうしてここにあるのかな。」四谷左門町のお岩稲荷には行ったことがある。さっきも言ったように、この辺の寺は移転して来た門が多いのである。この寺は寛永元年(一六二四)赤坂に創建され、四谷鮫ヶ橋南町を経て、東京府による市区改正事業のため明治四十年に当地に移転した。四谷にあったとき、田宮家の菩提寺だったのである。
     「私はここで待ってます。」姫はお岩様の祟りを恐れているのである。墓地に入り、奥まで真っ直ぐ行って左に曲がると突き当りに赤い鳥居が立っている。「お寺に鳥居はどういう意味でしょう?」私にも分らない。そこを左に曲がると、お岩ではなく浅野家の墓所になる。
     浅野家遥泉院供養塔(墓は泉岳寺にあるが、昭和二十八年、二百四十回忌に建てられた)、瑤泉院の祖母高光院(浅野匠頭長直室)、蓮光院(浅野大学長広室)の供養塔が並んでいる。「これがお岩様?」「そうじゃなくて、浅野さんですよ。」瑤泉院が祖母高光院の永代供養を依頼した(三十両の喜捨だったという)縁で、昭和二十八年(一九五三)瑤泉院の二百四十回忌に供養塔が建てられたのだ。
     「大名の正室は国元にいたんじゃないの?」これはヤマチャンが勘違いしているので、正室は人質として江戸に住まいする。だから「入り鉄砲」に加えて「出女」が厳しく禁じられたのだ。
     「南部坂雪の別れがあるじゃないですか。南部坂って行きましたよね。どこでしたっけ」とロダンが訊いてきた。「六本木の辺りだったか。」赤坂福吉(赤坂二丁目)と麻布今井町(六本木二丁目)の境にある。瑤泉院は、南部坂の頂上にあった実家の三次藩下屋敷に引き取られていたのである。桃中軒雲右衛門の浪曲では、大石はそれとなく瑤泉院に別れを告げに来た。

    時は元禄十五年、師走半ばの十四日。卍巴と降る雪の中、御納戸羅紗の長合羽、爪がけなした高足駄、二段はじきの渋蛇の目、あとに続くは大石の、ふところ刀寺西矢太夫、来たるは名代の南部坂。

     勿論史実ではない。この日の夜には討ち入りに入るのである。わざわざ主君の未亡人を訪ねている暇はない。忠臣蔵、特に義士銘々伝は、芝居や講談、浪曲によって様々な伝説を纏ってきたので一筋縄ではいかない。それだけ庶民の人気が高かったということでもある。
     その裏側にあるのがお岩の墓だ。「立派なお墓ね」とイッチャンやシノッチが囁いている。笠を五層重ねて頂上に宝珠を載せた形だ。石の色がずいぶん黒い。線香の煙が立ち上っているから、今でも頻繁に墓参の人が訪れるのだ。ここは現在も家系がつながる田宮家の墓域である。一説によれば、岩と伊右衛門は仲睦まじい夫婦であった。
     「それは違います。この間、歌舞伎の会でエライ学者が違うことを言ってた。」エライ学者とは誰のことか分からない。そもそも『東海道四谷怪談』はフィクションである。実在の人物名が使われていたとしても、そこから事実に辿り着こうと思うのは徒労に近いだろう。当時の歌舞伎は庶民にとっては現代のニュースショーのようなものだが、火のないところに煙を立てて、センセーションを巻き起こす。
     これは勿論江戸庶民のメンタリティに無縁ではないので、江戸の庶民(いっそ日本人一般と言ってもよいか)は噂話が好きであり、あることないこと尾鰭をつけて拡散していく。たまたま一気に成功した家族を見れば、陰で悪事を働いているのではないかと邪推し、余所者が近所で成功すれば、生まれが卑しいから身分を隠して移転してきたと噂する。若死にした者がいれば何かの祟りに決まった。お岩についても、こうしたことが影響していないとは言えないだろう。
     『東海道四谷怪談』の初演は文政八年(一八二五)だから、岩が死んだとされる寛永十三年(一六三六)から二百年近く経っている。どうにでも細工は自由にできるのである。寺の説明にはこう書いてある。

     お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永十三年二月二十二日であり、爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。

     門前で姫と合流し線路沿いの細道を行くと、停留所の手前に「纏最中」(梶野園)の幟が翻っている。北区西ヶ原四丁目六十五番五。「美味しそうですね。」「マトイっていうのが珍しいな。」大正三年(一九一四)、小笠原長生子爵の命名により創業したと言う。火消しの纏を模ったもの(だから何種類かの形があるようだ)で、「北海道産小豆、和三盆糖など上質な素材を使い、手煉あんを手詰めした、サッパリした甘さと旨みのある最中」ということだ。四個入り六百七十二円である。興味のある人は、後日この店に来て貰えばよい。
     西ヶ原四丁目停留所で線路を渡り、天理教会を見ながら北東に向かう。「ここから王子までひたすら歩きます。」街道に似合いの黒板壁の二階家がある。三味線製造の店がある。この辺りが王子道と呼ばれる古い道なのだろう。
     首都高速環状線の脇から明治通りに出ると、突当りに飛鳥山が見えてきた。「もうすぐですよ。」列がずいぶん長くなっている。飛鳥山の前は荒川線が珍しく路面を走っている場所だ。ここを曲がりこめば王子駅に出る。
     ちょうど十二時だ。駅前の「和民」がランチをやっているのだが、二十人が入れるだろうか。近くにはまとまった人数が入れる店がない。後続がかなり遅れているので、あんみつ姫に先に入ってもらった。「大丈夫です、席を確保しました。」こういう交渉事はあんみつ姫に任せておけば良い。奥の座敷に十三人、手前の椅子席に三人と四人。
     本日のランチ(七百五十円)は「豚肉のから揚げ野菜甘酢あんかけ」だ。あんみつ姫、椿姫、若旦那、私はそれにした。しかし豚肉は筋が固く、しかも脂が多い。私を除いて三人はなかなか噛み切れずに苦労している。「から揚げっていうから、てっきり鶏だと思ってました。メニューを確認しなかった私が悪いんです。」週変りランチ(八百五十円)は肉と野菜を蒸して、おろしポン酢で食べるものだから、そっちの方が良かったかも知れない。
     椿姫は一年以上止めていた煙草をまた吸い出した。「ダンディには内緒ですよ。」そんなことを言ってもすぐにバレテしまうだろう。「民謡をやりだしたんですよ。」それは素敵だ。「秋田の民謡が好きで、なんて言ったかしら、海の歌。ハアヤッショヤッショですよ。」私は民謡というものに殆ど知識がないので困ってしまう。「秋田船方節でした。」仕方がないので歌詞を調べてみた。

    (ハァ ヤッショヤッショ)
    ハァー (ハァ ヤッショヤッショ)
    三十五反の (ハァ ヤッショヤッショ)
    帆を巻き上げて (ハァ ヤッショヤッショ)
    鳥も通わぬ沖走る そのとき時化に遭うたなら (ハァ ヤッショヤッショ)
    綱も錨も手につかぬ 今度船乗りやめよかと (ハァ ヤッショヤッショ)
    とは言うものの港入り 上りてあの娘の顔見れば (ハァ ヤッショヤッショ)
    つらい船乗り 一生末代孫子の代までやめられぬ (ハァ ヤッショヤッショ)

     聞いたこともない。「知らないんですか。秋田なのに。」私が知っているのは『秋田音頭』と、結婚式でYが歌ってくれた『秋田長持唄』くらいだ。「『秋田長持唄』は因幡晃が歌ってますね。CDに入ってます」と姫が言う。私は昔カセットテープで持っていたが、とても歌えない。
     店はかなり混んできて、待つ客も出始めたので出発する。ちょうど一時だ。マルチャンはここで別れる。「孫の高校卒業と誕生日が重なったのよ。」お祝いを貰いたくて孫が待っているのだそうだ。店を出て「洋紙発祥の地」碑を見る。

    此地ハ明治五年十一月渋沢栄一ノ発議ニ由リ創立シタル王子製紙株式会社ガ英国ヨリ機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ地ナリ 当時此会社ハ資本金十五万円ヲ以テ発足シ同九年畏クモ明治天皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテ一般ノ縦覧スル所トナレリ 同社ハ昭和二十四年八月苫小牧製紙十条製紙本州製紙ノ三社ニ分割スルニ至ルマデ名実共ニ日本製紙界ノ中心タリキ 茲ニ八十年ノ歴史ヲ記念シテ永ク洋紙業発展ノ一里塚トセン 
                 昭和二十八年十月
                         藤原銀次郎 撰文
                         高島菊次郎 篆額
                         近藤高美  書

     藤原銀次郎は富岡製糸工場支配人から王子製紙の社長になった人物である。昭和八年(一九三三)に王子製紙・富士製紙・樺太工業の三社合併を成功させ、日本国内の市場占有率八割以上を占める巨大製紙企業となって、製紙王と呼ばれた。昭和十三年(一九三八)には、将来慶應義塾大学に寄付する前提で、私財を投じて横浜に藤原工業大学を設立する。予定通り昭和十九年(一九四四)には慶應に吸収された。現在の理工学部である。
     食事が済んで緊張感が切れてしまったようで、また道を間違えた。どんどん都電から離れていく。こんな筈ではないのだ。「どっちへ行くんだ?」「梶原の方面。」ヨッシーが地図を確認してくれたのでなんとか道を回復した。
     このどさくさで、東書文庫に行くのは諦めた。東京書籍附設教科書図書館(北区栄町四十八番二十三)のことだ。「行きたかったんですけど」と姫が残念そうな声を出すが、どうせ土日は休館なのだ。建物は東京都北区の有形文化財(建造物)、経済産業省の近代化産業遺産(近代製紙業)に指定され、平成二十一年(二〇〇九)所蔵資料の一部(七万六千余点)が国の重要文化財に指定された。「東京書籍って大きいの?」教師がそんなことを訊いてはいけない。「教科書会社としては最大手だよ。」
     「あれ、モクレンかな?」高い木に赤紫の花が咲いている。「そうね、シモクレンだわ。」モクレンがこんなに早く咲くのか。今年初めての花である。

     木蓮や線路探して迷ひ道   蜻蛉

     ここからは荒川線の線路伝いに歩けば良い。線路と民家の間の路地は幅一メートルもない。梶原に着いたのは一時半だ。この辺から道は多少広くなる。「あれが日本一駅に近い書店。」早稲田行きのホームに接するように建つのが梶原書店とで、古書店の傍らスポーツ新聞やタバコも売る店だ。商店街に曲がり込めば、その入口に「都電もなか本舗明美」がある。北区堀船三丁目三十番十二。「ここですよ。」
     真っ先に店に入ったのは講釈師で、暫くして十個入りの紙袋を下げて出てきた。そして十五人ほどが店に入っただろうか。店はいっぱいになり、他の客がびっくりしたような顔をしている。店にとってはちょっとした特需であろう。店頭には「王子のコン太クン」という、狐にしては随分丸顔の像が置かれている。
     「なんだ、他でも買えるんじゃないか。」池袋西武や日本橋三越、浅草松屋でも販売していると貼りだされている。しかしこれは曜日限定で、各店毎週一日だけの販売である。「製造しているところで買うのがいいんですよ。」「鎌倉に行ったらさ、江ノ電最中を買えばいいよ。」何でもよく知っている人だ。ここで随分時間を使った。椿姫が最後に出てきておしまいだ。この調子で三ノ輪橋まで行けるのだろうか。
     赤レンガを敷き詰めた、昔懐かしい風情の商店街を歩けば、「こばやし玩具店」の前にはブリキの都電が飾られている。「食べられないのならしょうがないわね。」こう言うのは椿姫である。商店街を抜け細道に入って突き当たって右に曲がる。白山神社と読売新聞の間の、少し上り坂になった遊歩道を行くと黄色のミツマタが咲いている。「ホントに全部三又かな、四又はないか。」ロダンが一所懸命観察した結果、やはりミツマタは三又である。変異はない。
     その向かいあるのは何だろう、トサミズキにもちょっと似た感じの小さな黄色い花が咲いている。知っている筈なのにカズチャンに訊かれて答えられない。ハイジに教えてもらってヒュウガミズキだと思い出す。ミツマタもヒュウガミズキも今年初めて見た。赤い花はツツジだった。
     隅田川に突当ると、ここが梶原の渡船場跡だ。北区堀船四丁目二番。隅田川対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ。明治四十一年(一九〇八)足立方面から下野紡績王子工場(キリンビール跡地)へ通勤する女工のために開始。昭和三十六年(一九六一)廃止。「あんまり風情がないわね。」椿姫に訊かれて、石神井川だといったのは私の間違いである。三百メートル程上流(左手)で石神井川は隅田川に合流したのである。
     ベンチに座って少し休憩すると、あちこちからお菓子が回ってくる。「これからはさ、何も持ってこない奴は除名だな。」そういう講釈師は今日は何も持ってきていない。「三回持ってきたら昇格するんだ。」昇格するとどういう利点があるのだろうか。
     「そこは読売新聞の印刷工場ですか?」東京北工場と言って、平成十五年(二〇〇三)に建てられたものらしい。

    ・・・・三〇台(六「セット)の東京機械製・高速オフセット新聞輪転機を、備えています。
    印刷された読売新聞は、東京都内や埼玉県などに配達されています。
    流線型の工場の屋根は、隅田川流域を吹き渡る川風の自然な通り道の役目を果たしており、二〇〇四年には北区景観賞を受賞しました。
    http://www.yomiuri-pm.co.jp/map/tokyokita.html

     じっとしていると体が冷えてくる。さっきの道まで戻り、適当な路地に入り込む。先に行けるのか不安になりそうな、実に狭い路地が縦横に通っている。私はこういう町には住めないな。「下見が少ない割にはよくこんな道を知ってるね。」知っているのではない。下見の時には通らなかった道だが、方角さえ間違わなければなんとかなるに違いない。案の定、路地を抜けると前方に線路が見えてきた。
     再び線路沿いに歩く。荒川車庫前には「都電おもいで広場」があるのだ。荒川区西尾久八丁目三十三番七。土日祝日のみ開館。「ここにトイレがあります。」しかし一つだけだから時間がかかる。待っている間に、私たちの話に興味を持ったようで、係員(ボランティアだろうか)が近づいてきた。
     「三ノ輪橋まで歩くんですよ。」「大塚から来ました。」「それはそれは大変でしたね。」暫くして、昭和三十二年の都電系統図を持ってきてくれた。「勉強するなら。一枚しかないんでコピーしてください。」それは有難い。画伯もヨッシーも懐かしそうにそれに見入る。「駒込から三越に行くのが便利だったんですよ。」
     「この電車は1系統(品川駅前~上野駅前)につかったんですよ。行先表示は銀座になっている。車幅が広くて荒川線には使えませんでした。」線路に対して直角に置かれている。線路に平行に置かれているもう一台と比べると車高も高い。PCCカー、5500形(5501号車)昭和二十九年製造。もう一台は旧7500形(7504号車)昭和三十七年製造の車両で、大塚駅前~町屋駅前までを走った。愛称は学園号である。
     ちょうど三ノ輪橋行きの、賑やかなラッピングの都電がやってきた。都電落語会。「林家こん平事務所ってありますね。」こん平は難病に罹って今はリハビリ中だったではないか。

    都電落語会とは
     故郷・新潟を愛したこん平が第二の故郷・東京の地域で伝統芸能継承・地域活性化を願い、企画致しました。
     都電落語会とは、二〇一四年八月二十二日、チンチン電車の日よりスタートし、毎月一回都電を貸し切りにし、都電に揺られながら、伝統芸能である落語を味わう、新たな移動型の寄席です。そしてこの企画は、TV、雑誌、新聞等のメディアにも注目をされております。また、今までの都電落語会には、笑点でおなじみ、三遊亭小遊三師匠、荒川区の観光大使、三遊亭好楽師匠、三遊亭円楽師匠、春風亭昇太師匠、林家たい平と出演をしております。また教育の側面で子供向け落語の開催や、オリンピック・パラリンピックに向けて外国人向けの英語落語なども行いました。  また、この八月二十二日は奇しくも十年前にこん平が倒れた日でもあります。現在も闘病の中、毎月この都電にも乗車し、回数を経ることに快方に向かっております。そしてこの都電落語会からパラリンピックへとの目標で、闘病されている方々やご家族の皆様にも、勇気や希望を送っていければと願っております。(林家こん平事務所 http://123chara-n.jp/)

     ドクトルがなかなかトイレから出てこない。「大丈夫かな?」その時トイレで急にブザーが鳴った。すぐに係員がやって来て、「大丈夫、押し間違いだね」と言いながら音を消した。中から憮然とした顔でドクトルが出て来た。水を流すボタンと緊急ボタンを間違えたようだ。何事もなくて良かった。
     係員にお礼を言って広場を出る。荒川遊園停留所の前は広場になっていて、トイレがあるので休憩をとる。遊園の煉瓦塀も計画に入れていたのだが、もう三時だ。特に見なくても良いだろう。「そこの案内板で写真を見ましたから、行かなくても大丈夫です」と若旦那が言ってくれる。一応事前に調べたことだけ記しておこうか。
     あらかわ遊園から小台橋小学校に続く約二百五十メートルの道沿いの煉瓦塀のことである。明治五年(一八七二)、石神仲衛門によって煉瓦工場が造られ、明治二十八年(一八九五)に広岡勘兵衛に譲渡され、広岡煉瓦工場となった。大正十一年(一九二二)広岡勘兵衛は煉瓦工場を閉鎖し、あらかわ遊園を開園した。その際に工場で不要になった煉瓦で塀を造ったのである。
     だから行かないが、荒川遊園に向かう道沿いにはもんじゃ焼きの店が多い。それも駄菓子屋兼用の店ばかりのようだ。

    「もんじゃはソウルフード」と言う人もいるほど、荒川区が子どもの頃からもんじゃ焼きが身近な存在になっている地域です。しかしながら、月島ほどの知名度がないのは、区内の広範囲にお店が点在しており、目立たないからと言われていますが、それぞれ特色のあるお店がそろっています。(東京商工会議荒川支部)

     「アーッ、また撮れなかった。」姫が車両を撮ろうとしたのに、ちょうど車が邪魔したのである。「五種類めでしょうかね。」車両の色の種類だ。黄色が元々の色で、オレンジ、バイオレット、ローズレッドなどのほか、クリーム色にグリーンのライン、上がクリームでしたがオレンジ、黄色に青帯等、様々な車両があるのだ。
     小台を過ぎると、立派な店構えの、かつては温泉旅館だったと言う割烹「熱海」がある。尾久警察署がある。宮の前には尾久八幡神社。荒川区西尾久三丁目七番三。最古の棟札には至徳二年(一三八五)と記されているので、南北朝時代の創建になる。正和元年(一三一二)頃、この地が鶴岡八幡宮に寄進され、その際に分霊を勧請したのではないかと推測されている。
     昭和六十年(一九八五)、地域学習で地元の歴史を調べていた尾久宮前小学校の生徒が、古絵図に川が流れていることに気付いたことがきっかけで、八幡堀の存在が明らかになった。

    八幡堀は、王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社を取り囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久三~四周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑わい、神社の西側では下肥の積み下ろしも行っていたという。(荒川区教育委員会掲示より)

     八幡の社殿はかなり立派で、赤ん坊を抱いた親子が写真を撮っている。線路を挟んで向かいには伊勢元酒店がある。私がイセゲンと言うと、「あれはイセモトって読むの」と画伯が訂正してくれた。「あれっ、行かないの?」「後で寄ります。」最初に碩運寺(曹洞宗)の案内板を見なければならない。荒川区西尾久二丁目二十五番二十一。
     この寺で、大正三年(一九一四)にラジウム鉱泉が発見され、「寺の湯(後に不老閣)」が建設されたのである。井戸水の水質が良いので寺の住職が水質検査を依頼したところ、ラジウムの含有が認められた。つまり湯が噴出して来るのではないらしい。
     「それをきっかけにして尾久は三業地として発展するのです。」芸者置屋、料理屋、待合の三業が揃う町である。昭和四年当時、芸者置屋は五十九軒に達したと言う。「温泉はまだ出るのかしら。」「もう出てないんだ。」尾久は明治の頃までは農村地帯で、関東大震災後に中小の工場が進出してきた。その工場群は地下水を使ったため、戦後の高度成長期に地下水が枯渇し、それに伴って三業地も衰微した。
     昭和十一年(一九三六)五月十八日、待合「満佐喜」(当時の住所表示は荒川区尾久町一八八一)で三十二歳の阿部定が四十二歳の石田吉蔵の局部を切断した。「今も残ってるよ、女子医大の裏にある。」「女子医大があるの?」東京女子医学専門学校尾久病院、現在の東京女子医科大学東医療センターである。
     講釈師はこういう話が大好きだから、切断することができたのは、モノが大きかったからだとイヤラシゲに何度も吹聴する。下手をするとセクハラになる恐れがある。「『愛のコリーダ』だよ。」これを知っているのは私たちの年代を下限とするのではないか。大島渚監督作品で、本格的な初のハードコアポルノと騒がれた。しかし日本ではノーカットでは上映されず、大幅な修正が施されていた。
     電車通りは広く整備されているが、この寺から奥に入れば、Y字や鍵型に曲がりくねった道は錯綜し、歩く内に方角も分らなくなってしまいそうだ。田圃を潰して、てんで勝手に家を建てたのではないだろうか。
     それではお待ちかねの伊勢元酒店に行こう。荒川区西尾久二丁目二十五番二十。ここは「都電の街」と称する地酒、地ビール、ワインを売っているのである。都電沿線の酒屋十二軒が共同開発したブランドである。椿姫は買ったが、あんみつ姫は「重くなっちゃうから」と諦めた。
     三時二十分。みんなの歩くスピードを考えると、全員が三ノ輪橋まで行くのはどう考えても無理だ。途中でいったん解散したい。「それなら町屋にしようぜ。あそこならコーヒーも飲めるから。」講釈師の意見に従うことにする。女性陣はかなり疲れているようだ。

     熊野前で日暮里・舎人ライナーの下を潜る。私はまだその路線に乗ったことがない。「桜がきれいなんだよ。」「舎人公園?」マリーもハイジも桜の季節になったら行きたいと言う。「もうすぐじゃないか。」
     東尾久三丁目で右に入れば満光寺(浄土宗)だ。荒川区東尾久三丁目二番四。永和元年(一三七五)や天文年間(一五三二~五五)の板碑が六基ある筈だが、阿弥陀三尊種子板碑のキリークが欠けたものしか見つけられない。椿姫は、緑泥片岩の中に白く光る粒子は何かと、ドクトルに質問している。
     「町屋まであと二駅です。」「何分くらい?」「二十分かな。」私とヨッシーが先頭に立って歩く。町屋二丁目を過ぎ、ようやく町屋駅前に着いた。駅前では山谷労働者へのカンパを募集している。ここで講釈師、画伯と女性陣は別れて喫茶店を探しに行った。ドクトルは地下鉄千代田線に消えていった。残ったのは、椿姫、ハイジ、あんみつ姫、マリー、若旦那、ヨッシー、ダンディ、マリオ、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の十一人である。椿姫と若旦那は大丈夫だろうか。
     町屋駅の中を通って適当に歩き、荒川七丁目の辺りで「たぶんこの辺だと思うよ」と曲がりこめば、マンションの脇から荒川自然公園に入る階段が出現した。「なんだかドブ臭いにおいがしてきましたね。」階段を上がり、広大な水処理施設の上を通る橋を渡れば公園だ。三河島水再生センターの上に人工地盤を造って設置された公園である。開園当初は三河島処理場公苑とされていた。「カモが泳いでる。」
     三河島水再生センターは、大正十一年(一九二二)に稼動を開始した日本最初の近代的な下水処理場で、旧喞筒(ぽんぷ)場施設が国の重要文化財に指定されている。
     私はここでトイレを使う。椿姫の息が上がっているので暫く休憩する。ここは中央部分にあたり、公園の中を通って南側に入スロープを降りれば荒川二丁目停留所の前に出る。降りた所に日本最初の下水処理場(三河島処理場)の解説板があった。あとはゴール地点までただ歩けばよい。
     実はここでも道を間違えたのだが、このことは言わなかった。私は線路の北側を歩いてジョイフル三ノ輪の中を通る積りでいたのに、なんとなく、南側に出てしまったのである。明治通りに入る。これなら三ノ輪橋ではなく、三ノ輪まで真っ直ぐだ。どうせ、荒川ふるさと文化館も行かないことにしたのだから、どちらでも良い。
     三ノ輪駅に着いたのは四時四十分頃だ。二万四千歩。十四キロというところか。当初の私の見込みでは十二キロ強だったが、最初の無駄足が一キロちょっとあったのだろう。本日の教訓はいくつもある。まず道を間違えてはいけないのは当たり前のことだ。コースの中に和菓子屋や酒屋がある場合、かなり時間の余裕を見ていなければならない。
     若旦那はここからバスで池袋に向かうため別れる。椿姫、ダンディ、ハイジ、マリーは折角だからと、都電に乗るために三ノ輪橋に向かった。残ったあんみつ姫、ヨッシー、マリオ、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の六人は日比谷線で上野に向かう。

     不忍口に出て、「日本海庄や」に入った。客引きの兄ちゃんが、「そこはいつも一杯です。最上階の店はどうでしょう」と声を掛けてきたが、適当にあしらった。客引きの言葉を真に受けて何度か失敗しているのである。
     最初に案内されたのは畳敷きの部屋で、これでは姫は座れない。「私、帰ります。」そういうことを言ってはいけない。店員に交渉して、掘りごたつ形式の部屋に変えてもらった。
     「高いね。」メニューを見るとそれぞれ少し高めだ。「日本海庄やは高いんですよ」とロダンが言う。それに気づかずに入ってしまった私が悪い。必ず注文しなければならない漬物は、茄子の一本漬にした。さつま揚げは二つ注文したのに、一つしかない。まだ五時を過ぎたばかりなのに。
     最初は勿論ビールだが、焼酎は何にしようか。一刻者と黒霧島が同じ三千円である。「市販価格では一刻者の方が高いですよね」とマリオもいうので、一刻者にする。それがいつの間にか二本目になっていた。一人三千五百円なり。
     「カラオケに行きますか?」最近のロダンは絶好調ではあるまいか。しかし私は小遣いが不足しているので今日はまっすぐ帰りたい。「それじゃ帰りましょう。」ヨッシーはバス乗り場に向かう。姫は常磐線か。私は山手線に乗ったものの、京浜東北線で人身事故があったと、駒込駅で止められてしまった。仕方がないので南北線に乗り換えて飯田橋で降り、有楽町線に変えた。他の人は大丈夫だったのだろうか。(マリオが大変だったようだ。)

     ところで李世乭(イ・セドル)が、グーグル傘下のディープマインドが開発した人工知能「アルファ碁」との五番勝負で三連敗した。将棋やチェスと違って、囲碁の世界ではコンピュータは精々アマ五六段程度で、プロの初段にも及ばないだろうと思われていたが、これが完全に覆った。昨年ヨーロッパチャンピオンが負けたことは先月の里山でも話題になって、「ヨーロッパチャンピオンなんて弱いから、コンピュータはまだまだですよ」とドラえもんが強調していたのである。
     李世乭は三十四歳になったばかり。十七八歳頃、突然登場してきたのではなかったか。あれよあれよという間に国際棋戦で優勝を重ね、世界タイトルの優勝回数十八回は、先輩の李昌鎬(イ・チャンホ)の二十一回に次いで二位になる。李世乭との対戦成績が拮抗するのは中国の古力であり、二十一世紀最強の棋士と呼んで間違いない。日本で六冠(棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖)の井山裕太だって、李世乭には六戦して二勝しかあげていない。その李世乭が三局棒に負けたのである。囲碁界には衝撃が走った。精々二級までしか進めなかった私には雲の上のことであるが、こんな話を碁聖としてみたかった。
     四戦目は李世乭の妙手にアルファ碁が混乱して自滅し、「四局目で人類初勝利」と報道された。コンピュータが混乱するというのもおかしな話だが、しかし最終局はまたもやアルファ碁が勝ち、結局一勝四敗で「人類」が負けた。強者と戦えば戦うほど学習して強くなると言う。遂に人類はコンピュータに駆逐されるか。


    蜻蛉