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    第六十四回 谷根千落穂拾い&田端文士村
    平成二十八年五月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.03.23

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     六日(金)は特例退職被保険者の申請のために、お茶の水の出版健保会館に行った。しかし書類が不備でいったん家に戻ってもう一度出かけたのだから手際が悪い。年金証書が必要だったのだが、私はまだ届いていないと思い込んでいたのだ。六十歳になった時点で発行されていると言われて家に電話すると確かにあったのである。そんなものが来ていたのは全く記憶になかった。「ここに日付を入れてください。」「ここ、間違ってます。」窓口の係員がうんざりしたような顔で私を見る。恥かしい。交通費を無駄にして一日掛かりの仕事になってしまったが、健康保険証は即日発行してくれた。
     その日から部屋のリフォーム工事が始まった。三十年近くも住み続けていると、いかに無駄に物を溜め込んでいたか。捨てても捨ててもゴミが出てくる。本は正確に数えた訳ではないが七百冊以上を古紙回収業者に、布団三組・毛布二枚他を市の資源センターへ運び、そのほか通常のゴミ回収日には毎回五袋以上のゴミを出した。それでも捨てきれない物は段ボールに山積みになって鬱陶しい。
     先月痛めた背中はまだ鈍痛が残って不快だ。木曜日の午後は早退し、整形外科で電気マッサージを受けた。「放っておいたら長引くだけなんだから、ちゃんと定期的にリハビリしなくちゃダメですよ」と医者に叱られた。保険証が月末で切れていたのだから仕方がない。快適な日々は戻ってくるのだろうか。

     旧暦四月八日。立夏の次候「蚯蚓出」。今回はあんみつ姫の企画である。谷根千は何度も歩いているのに、まだ見落としている所があって、姫はそれを丹念に拾い出してくれる。田端文士村は桃太郎の第二十一回「谷中七福神巡り編」(平成二十一年一月)と、私一人で多少は歩いているが探せなかった所もある。
     山手線で桃太郎と一緒になった。「今日は三社祭なんですよ。」なるほど、出口付近に半纏を着こんだ女性が立っている。集合は鶯谷駅南口で、あんみつ姫、イッチャン、ハイジ、マリー、ロダン、桃太郎、マリオ、スナフキン、ダンディ、講釈師、ヤマチャン、ヨッシー、蜻蛉の十三人が集まった。
     「そこ、閉店しちゃったようですよ。」目の前の蕎麦屋「公望荘」の壁には「管理」のプレートが貼られていた。「潰れちゃったのか?美味い店だったけどな。」「美味しいお蕎麦屋さんだったのにね。」「天麩羅が美味しかったわ。」姫もハイジも同じことを言うから、ホントに美味い蕎麦屋だったのだろう。理由は分らないが、昨年十一月二十九日で閉店していた。駅前からは三社祭の手拭いを肩に掛けた男たちがタクシーに乗って行く。
     「今日はお昼がどこで食べられるか分りません。最悪、田畑駅前辺りで分散することになるかもしれませんから、寄り道はしないで下さいね。」寛永寺第一霊園の脇を過ぎると、スナフキンの母校である上野中学校がある。コンクリートの運動場で生徒たちが遊んで(授業?)いる。「ここで回転レシーブなんかやったんだからな。」
     言問通りに出ると、正面が浄名院(東叡山寛永寺)だ。台東区上野桜木二丁目六番四。寛永寺三十六坊のひとつだから勿論天台宗である。寛文六年(一六六六)浄円院として創建、享保八年(一八二三)に浄名院へ改めた。
     境内には墓石のように箱形光背の地蔵がぎっしり並び、その他にも大小様々な地蔵が立っている。この寺は「八万四千体地蔵」で有名なのだ。「八万もあるかな?」「まだ増え続けてるって書いてあるから、途中なんだよ。」今現在はどれ程あるか分らない。

    地蔵信仰の寺となったのは第三十八世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大阪に生まれ、二十五歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を建てた。明治九年浄名院に入り、明治十二年、さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治十八年には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。(台東区教育委員会掲示)

     丈六の地蔵座像は「江戸六地蔵第六番」と称しているが、地蔵坊正元が造立した他の五つとは明らかに表情が違う。第六番は元々深川永代寺にあり、明治の廃仏毀釈で廃寺になって地蔵も破壊された。永代寺はうんと小さくなって再興されたが、かつての面影はない。浄名院では明治三十九年、日露戦争戦没者慰霊のために地蔵を造り、ついでに第六番を自称したのである。
     浄名院の東から出る。「そこ、ケーキが有名なんですよ。」パテシエ・イナムラショウゾウという店である。台東区上野桜木二丁目十九番八。それにしても女性陣はこういう店を良く知っている。店頭のベンチで女性が一人何かを食っている。
     次の路地を左に入って三軒目辺りが平櫛田中旧居跡だ。台東区上野桜木二丁目二十番三。弁柄色の門は閉ざされているが、その奥に瓦葺木造二階家が、玄関を中心に八の字のように繋がっている。塀の隙間から覗き込んでみると、玄関には唐破風が載っていた。「小平に美術館があるよね。」「ここに一番長く住んだんです。」

     上野桜木の平櫛田中アトリエは、大正八年、横山大観、下村観山、木村武山ら、 日本美術院の画家たちの支援により建てられました。 日中安定した自然光を得るため北向の天窓を備えた近代アトリエ建築の先駆けです。 大正十一年には傍らに伝統的日本家屋を建て、家族とともに小平に転居する昭和四十五年まで暮らしました。 その後、旧アトリエ・住宅は故郷の井原市に寄贈され、現在は通常非公開ですが、 井原市の協力の元、平櫛田中先生の顕彰と建物維持、新たな芸術文化の育成・発信を願って、 地域やNPO、東京芸大等の有志により掃除・修繕と公開活動が折々おこなわれています。(NPO法人台東歴史都市研究会http://taireki.com/hirakushi/)

     大正十一年(一九二二)から昭和四十五年(一九七〇)までここに住み、それから小平に移って昭和五十四年(一九七九)に死ぬまで住んだ。その小平の家が平櫛田中彫刻美術館になっている。「百七歳まで生きてたんですよね。」「スゴイ。」私は平櫛田中を良く知らない。上野の美術学校が近いこともあって、谷中や田端には多くの美術家が住んだ。
     谷中霊園の南端に沿って西に向かうと、姫は日展新会館の脇で立ち止まった。路地の突き当りにある谷中ビアホールを説明するためだ。今流行りの古民家を改造した店らしい。珎々亭の角で三崎坂から斜めに分かれる路地に入る。初音道と言う。
     絵馬堂、赤塚鼈甲店、スペース小倉屋を過ぎ、功徳林寺(浄土宗)に入った。台東区谷中七丁目六番九。明治二十六年に創設された寺だが、かつては広大な天王寺境内で、笠森お仙の水茶屋「鍵屋」があった場所である。その縁で笠森稲荷を祀っている。
     笠森お仙なら、第三回「谷中編」では大円寺で永井荷風撰のお仙の碑を見た。「住職からお仙の錦絵のコピーを戴きましたね」と姫も覚えている。冷たい雨の降るとても寒い日だった。お仙をモデルにして春信が何枚もの錦絵を描いた。有名なものでは、片手で盆を持ち、後ろを振り返って足元を見るお仙の裾が割れ、膝の内側辺りまで露わになっている。こういう姿によって、お仙は江戸のトップアイドルになったのである。

    社前には参詣の人もなく、賽銭箱に投げ入れられる銭の音も無い。俄かにして一朶の紫雲下り、美人の天上より落ちて、茶店の中に。座するを見る年は十六七ばかり、髪は紵糸の如く、顔は瓜犀(うりざね)の如し。翆の黛(まゆずみ)、朱き唇、長き櫛、低き履(げた)、雅素の色、脂粉に汚さるゝを嫌ひ、美目の艶、往来を流眄にす。将に去らんとして去り難し。閑に托子の茶を供び、解けんと欲して解けず、寛く博多の帯を結ぶ。腰の細きや楚王の宮様を圧し、衣の着こなしや小町が立姿かと疑う。(大田南畝『売飴土平伝』より)

     浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」お藤、浅草二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」およしと合わせて明和三美人と称された。明和は一七六四年に始まり、明和九年(一七七二)の目黒行人坂の大火で改元されるまでの期間である。お仙は宝暦十三年(一七六三)から家業の水茶屋で働き始めたというから、最初は十三歳だっただろうか。春信のモデルになったのは明和五年(一七六八)、十八歳の頃である。
     ところで「出会い茶屋」というのは待合、ラブホテルのようなものだ。また谷中には「いろは茶屋」と呼ばれた岡場所があって、坊主が頻繁に出入りしたことでも知られている。しかし、お仙が働く水茶屋はそれとは違う。寺社の境内にあって参詣客に一杯十文程度で渋茶を出すのだ。多くは小笊に茶を入れて熱湯で濾して提供した。しかし二三杯のお茶を入れて貰い、お仙とちょっと言葉を交わして五十文から百文を払う客が多かった。掛け蕎麦が十六文の時代である。
     明和七年(一七七〇)二月、二十歳で突然鍵屋から姿を消したお仙についてはいくつかの説があるが、幕府隠密と結婚して七十七歳の長寿を全うしたというのが事実らしい。百姓の娘が御家人と結婚するためにはしかるべき身分の家の養女にならなければならず、水茶屋勤務が公になってはいけない。それが突然姿を消した理由だった。そして同じ年、鈴木春信が死んだ。
     長安寺(平櫛田中が一時寄宿していた)の向かいで右に曲がり、谷中墓地に沿って北に行くと、朝倉彫塑館の裏門に出た。門の上から屋上に置かれた女性像が見える。その屋敷の左隣の洋館に、大正十五年(四十一歳)から昭和三年まで北原白秋が住んだ。台東区谷中七丁目十八番二十八。「一般の方が住んでますから静かにして下さいね。」
     「白秋の旧居はあちこちにあるな。」これまで私たちは神楽坂、小田原、馬込、それに市川市里見公園内に移設された紫烟草舎を見ている。生涯に二十回以上引っ越した筈だ。「当時は持家っていう観念がなかったんだよ。」白秋の場合も小田原を除いて全て下宿か借家である。漱石だって死ぬまで借家住まいだった。持家と言う観念が日本人に染み付くのは戦後のことで、要するに土地が金になるという、魔術的な経済政策の影響である。
     白秋は大正十年(一九二一)に佐藤菊子と三度目の結婚をし、翌年には長男隆太郎、大正十四年には長女篁子が生まれていた。生活的には最も安定した時期だっただろう。この時期に詩誌『近代風景』を創刊し、童謡集『からたちの花』などを出した。昭和二年(一九二七)には弟の北原鐵雄のアルス社が『日本児童文庫』シリーズの刊行を始めた。これは菊池寛の『小学生全集』と競合し、菊池の強引な手法もあって泥仕合のような広告合戦が惹き起こされた。
     その数軒先には、幸田露伴が明治二十四年一月(二十四歳)から二年間住んでいた。台東区谷中七丁目十八番二十五。この辺の路地は錯綜していて、以前御殿坂の方から来た私は探し出せなかった。朝倉彫塑館の裏手と分れば迷わない。向島の蝸牛庵跡は露伴児童公園になっていた。
     露伴はここで天王寺の五重塔を見ていた訳だ。それまでに『露団々』、『風流仏』などで一定の評価を受けていたが、『五重塔』(明治二十四年十一月~二十五年三・四月)で一躍一流作家としての地位を獲得した。
     紅葉、漱石、子規と同年ながら、露伴は彼らのような学歴を作らなかった。東京府第一中学(尾崎紅葉、狩野亨吉と同級)を中退、東京英学校(青山学院)を中退して東京府図書館に通って淡島寒月と知り合った。その寒月が露伴や紅葉に西鶴を教えた。
     逓信省官立電信修技学校を出て、電信技士として北海道余市に赴任したものの、文学を諦めきれず、明治二十年には職を放棄して勝手に上京した。

     身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるなく、目前に痛き刺激物あり、慾れども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫してこの逆境を出いでむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。(幸田露伴『突貫紀行』)

     この明治二十年八月二十五日午前九時をもって、露伴の文学生活が始まった。一部馬車を使った他は郡山まで殆ど歩き通し、残金で上野までの汽車賃がなんとか賄えると見極めがついて汽車に乗った。一か月以上掛けて東京に辿り着いたのは九月二十九日である。『五重塔』が成ったのはそれから四年だった。
     「こういう作家はみんな大金持ちだったのかな?」ヤマチャンが首を捻る。「だって、林芙美子が世界旅行をしたりしてるからさ。」林芙美子の場合は、『放浪記』の印税でパリに行ったものの金はすぐに使い果たして出版社に前借を頼んでいる。明治大正昭和戦前期には、戦後と比べて読者層が問題にならないほど少ない。大量出版の円本は一時期爆発的に売れたが、それ以外は、新刊を出しても精々二千冊も売れれば良い方ではないか。ミリオンセラーなんて言うのは戦後の話である。それに露伴の本が売れなかったことは露伴自身も、全集を出した岩波も認めている。
     ところで、グーグルで「露伴」を検索するとヒットするのは「岸部露伴」である。荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の登場人物らしいのだが、ページを繰って画面二枚目の後ろの方にやっと幸田露伴が出てくる。これが現代日本文化の現状なのだ。
     御殿坂に出て、もう一度初音道を戻る。「どこを歩いているのかしら?」イッチャンはイラストマップを見ながら悩んでいる。「ここを戻ってるんですよ。」後ろを振り返ると、後続が随分離れてしまって観音寺の前に立ち止まっている。「赤穂浪士所縁だから、講釈師が張り切っているんでしょう。」近松勘六行重と奥田貞右衛門行高がこの寺の第六世朝山大和尚と兄弟だった縁で、しばしば赤穂浪士の会合が持たれた場所である。「そこは以前立ち寄ってますから、先を急ぎます。」路地の右を眺めると築地塀が伸びている。
     三崎坂に入ると、「猫衛門」なんてカフェがある。「谷中は猫だものね。」「私はどっちかというと犬の方が好きだな。」「実は私もそうなの。力いっぱい尻尾を振ってくるとたまらないのよね。」ハイジは犬派だった。あんみつ姫は猫派だっただろう。私は犬も猫も余り近くに寄りたくない。
     全生庵は山岡鉄舟開基の寺で三遊亭円朝の墓がある。「円朝が集めた幽霊の絵があって、お盆の時期には公開するんだよ。」「じゃ、その時期になるといっぱいになるのね。」
     谷中小学校の校舎の日蔭で少し休憩をとる。片隅には手押ポンプ式の井戸がある。「飲めないよね。」「だけど災害の時は?」「煮沸すればね。」煎餅が配られる。
     その向かいが、先にも書いた笠森お仙の大円寺だ。実はこの寺はお仙とは何の関係もないのだが、境内に瘡守稲荷があったために、笠森お仙に付会したのである。ついでに鈴木春信の供養碑も建てた。

     (大正八年)四月廿四日。某新聞の記者某なる者、先日来屢来りて、笠森阿仙建碑の事を説き、碑文を草せよといふ。本年六月は浮世絵師鈴木春信百五十年忌に当るを以て、谷中の某寺に碑を立て法会を行ひたしとの事なれど、徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して応ぜず。(『断腸亭日乗』)

     最初は断った荷風だが、六月になって笹川臨風に更に勧められて、碑文を書くことに応じた。それが下記である。

    女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大洲に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦絵に面影をとゞめて百五十有余年、矯名今に高し。本年都門の粋人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。
    時恰大正己未の年 夏滅法鰹のうまい頃 荷風小史識。

     この辺からかなり急な下り坂になる。左に「いせ辰谷中本店」があった。「千代紙なんかがあるのよね。」ハイジの言葉に「俺は風呂敷を買ったよ」と言うと、「愛を包むように」とロダンが応じる。「ロダンじゃないと言えない言葉ね。」
     その先の、三崎坂と交差する曲がりくねった道が、かつての藍染川の川筋である。これが文京区と台東区との境をなしていて、南側は「ヘビ道」、北側は「夜店通り商店街」になっている。
     藍染川の由来にはいくつか説がある。上流に藍染を業とする者が多かったから、水源が染井だから、二つの川が合流するので逢初川などである。上流になれば谷戸川、谷田川、蜆川、蛍川等とも呼ばれた。
     もう三崎坂とは呼ばず、ここは団子坂下になる。菊見煎餅総本店の前で姫が立ち止った。文京区千駄木三丁目三十七番十六。「入っていいでしょうか?」「なんだよ、急ぐから寄り道しちゃダメだって、自分で言ってたじゃないか。」姫は泣く泣く断念せざるを得ない。「寄りませんよ。」

     煎餅を買ふ暇もなし初夏の町  蜻蛉

     明治八年創業の店で、「菊見」は団子坂の菊人形に由来する。「円は天、方は地」という言葉から、四角い形の煎餅になっていると言うのが良く分らない。
     暑くなってきて、団子坂を上るのが少しきつい。「ここは前に歩いたな?」昨年八月の姫の番外編企画で歩いている。坂上の青鞜社発祥の地を過ぎた辺りのコインパーキングが、江戸川乱歩がやっていた古本屋「三人書房」の跡地である。
     三人とは乱歩(平井太郎)、次弟通、末弟敏男の三人である。弟二人が古本屋を始めるにあたり、乱歩はそれを手伝いながら小遣い銭が得られれば良い位に思っていた。主に小説を扱い、土間には応接テーブルを置いて、蓄音器で流行歌を流した。大正八年(一九一九)二月のことで、乱歩は二十五歳であった。『二銭銅貨』で作家デビューを果たすには大正十二年(一九二三)まで待たねばならない。
     この頃、乱歩は職を転々とし、封筒貼りの内職、市立図書館の貸出係、英語の家庭教師、貿易商、タイプライターの販売、造船所、雑誌編集、支那そば屋、新聞記者、ポマード瓶の意匠宣伝等を経験した。
     乱歩の志は本格推理にあったのだろうが、世間が求めたのはいわゆる「変格」ものであろう。しかし私はあのグロテスク趣味が合わないので、良い読者ではない。『少年探偵団』シリーズも二三作しか読んでいない筈だ。『D坂の殺人事件』が青空文庫にあったので読んでみた。

     それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある白梅軒という行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。当時私は、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽ると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェ廻りをやる位が、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも、必ずその前を通る様な位置にあったので、随って一番よく出入した訳であったが、私という男は悪い癖で、カフェに入るとどうも長尻になる。それも、元来食慾の少い方なので、一つは嚢中の乏しいせいもあってだが、洋食一皿注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もお代りして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段、ウエトレスに思召があったり、からかったりする訳ではない。まあ、下宿より何となく派手で、居心地がいいのだろう。私はその晩も、例によって、一杯の冷しコーヒーを十分もかかって飲みながら、いつもの往来に面したテーブルに陣取って、ボンヤリ窓の外を眺めていた。
     さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り広げられ、何間道路とかいう大通りになってまもなくだから、まだ大通りの両側に、ところどころあき地などもあって、今よりはずっと寂しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、わたしは先ほどから、そこの店先をながめていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、わたしにはちょっと特別の興味があった。というのは、わたしが近ごろこの白梅軒で知り合いになったひとりの妙な男があって、名まえは明智小五郎というのだが、話をしてみるといかにも変わり者で、それで頭がよさそうで、わたしのほれ込んだことには、探偵小説好きなのだが、その男の幼なじみの女が、今ではこの古本屋の女房になっているということを、この前、かれから聞いていたからだった。(『D坂の殺人事件』)

     現在の推理小説の水準からみれば殆ど問題にもならず、小説史的な興味がなければ読む必要はないだろう。ただ冒頭の「冷やしコーヒー」という言い方が面白い。幅五メートルほどの狭い通りが、漸く現在の道幅になって間もなくの頃の時代で、明智小五郎が初めて登場した。
     乱歩の実作期は短く、功績は戦後『宝石』の編集長として若い作家を育てたことにあるだろう。戦後の推理小説作家はほとんどすべて江戸川乱歩に育てられた。山田風太郎だってそうだ。江戸川乱歩賞は推理小説の新人登竜門として最も権威がある。乱歩の晩年の素顔については、小林信彦『回想の江戸川乱歩』が詳しい。小林は乱歩に誘われて雑誌『宝石』の編集者になったのである。小林泰彦の描く乱歩邸内のイラストも面白い。
     「乱歩邸は立教のそばにあるよね。」ヤマチャンも行ったことがあるらしい。昭和九年(一九三四)から昭和四十年(一九六五)に七十歳で死ぬまで住んだ家だ。息子の平井隆太郎が立教大学教授で、平成十四年(二〇〇二)に家や土蔵を立教大学に寄付した。数年前のホーム・カミング・デイで土蔵が公開されていたので見学したことがある。
     路地を右入れば、駒込高校の裏手に御林稲荷がある。文京区千駄木五丁目六番十三。小さな神社で、稲荷とは言うが祭神は木花咲耶姫命だから本来は浅間社だったのだろうか。駒込天祖神社の飛び地境内だという。姫がここに寄ったのは、駒込の「御林」を説明したからだった。この辺りは寛永寺の御領林だったのだ。入り口脇に案内板が立っている。

    旧 駒込林町(昭和四十年までの町名)
    千駄木山の内で、千駄木御林といった地である。
    上野寛永寺創建の後、この林地を同寺の寺領とし徳川霊廟用の薪材をとらせた。
    延享三年(一七四六)開墾して畑とし、後その内に宅地を設けて御林跡と称えた。当時は下駒込村に属していた。(文京区の掲示より)

     「それじゃ行きましょうか。」次は駒込大観音である。これに因んで、観潮楼の辺りから通りは大観音通りと名付けられている。天昌山光源寺(浄土宗)。文京区向丘二丁目三十八番二十二。大観音は元禄十年(一六九七)に造立された。約五メートルの十一面観音だったが、東京大空襲で焼失した。現在のものは平成五年に再建されたもので、六メートル余の金ピかの像だ。
     それよりも姫は「こっちの石造の千手観音が珍しいと思います」と先導してくれる。確かに、石造丸彫りで千手を表すのは難しいだろう。翼のように見えるが確かに左右十本づつの腕になっている。
     「こっちの庚申塔も見て下さい。」庚申待百万遍講中庚申塔と名付けられているのは確かに珍しい。笠付角柱形で、高さは二・五メートルの立派なものだ。一面六臂の青面金剛は彫もしっかりしている。明和九年(一七七二)造。左側面に「天長地久御願円満/一天四海天下泰平」とあり、右側面には「庚申待百万遍講中」とある。百万遍講とは、念仏講である。世界大百科事典を引くと、下記のようなものである。

    祈禱、追善などのため、大型の数珠を多数のものが早繰して、同音に唱える念仏のこと。百万遍の念仏に用いる大念珠を百万遍数珠という。百万回の念仏を唱えることを本義とし、これに一人が七日または十日間に百万回念仏を唱えることと、十人またはそれ以上の者が同時に唱えた念仏の総計が百万回におよぶものと二種類がある。後者は百人の集団が念仏を百回唱えれば一万遍となり、同時に自他の唱える念仏の功徳が相互に隔通しあって、総計で百の三乗、つまり百万回の念仏を唱えたのと同じ功徳があるとする。

     実際に百万遍唱える必要はないのだ。ここで講釈師が柿の種の小袋を配ってくれたので、つまみながら歩く。
     寺と駒込中高校の間の路地を右に入ると連光寺だ。金池山功徳院(浄土宗)。文京区向丘二丁目三十八番三。門前の解説で最上徳内の墓があると分れば入ってみたいが、姫は昼飯の時間が気になっているから入らない。「蜻蛉だけじゃないですか?最上徳内を知ってるのは。」「ロダンは知っているだろう?」「エーッ?」眼鏡をかけなおして解説を読んでいたロダンが、「アーッ、蝦夷地探検ね、思い出しました」と声を出した。
     最上徳内は刻苦勉励の探検家であった。貧農に生まれ行商に明け暮れた後、幕府医官山田図南の家樸となって、奉公しながら医術や数学を学んだ。やがて本多利明に学び、東蝦夷探検隊に師の代理として参加したのがきっかけで、生涯を蝦夷地に捧げることになる。最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵等の北方探検の先駆者は、南下しつつあるロシアに対して非常に大きな脅威を感じていた。そういえば近藤重蔵の墓(文京区向ヶ丘一丁目十三番八、西善寺)もこの近く(本郷通り)にある。
     「平野金華は知ってますか?」最上徳内と並んで平野金華の墓の案内もあるのだ。「知ってるのは名前だけ。」念のために調べてみると、原念斎『先哲叢談』に小伝があった。私は『先哲叢談』を持っているのに、ちゃんと読んでいないことが露呈してしまう。改めて確認すれば、平野金華は徂徠門下で大酒飲みであった。

    甞て徂徠と同じく墨多河に泛ぶ、問うて曰く、吉原の娼家は知らず東か西かと、徂徠東方を指示して曰く、江上に長堤あり、日本堤と名く、所謂吉原の妓樓其堤下に在り、金華笑つて曰く、先生の妄言惟に文字の上のみならず、地理に於ても亦能く妄言す(中略)
    金華酒を好んで痛飮す、徂徠其三河に之くを送る序に曰く、子和酒を飮んで傲睨、深く伯倫青蓮の人となりを慕ふと、紫芝園漫筆に曰く、何充善く飮む、劉タン常に云く、何次道が酒を飮むを見れば、人をして家醸を傾けんと欲せしむと、余平金華に於て亦云ふ、南郭墓に記して曰く、酒を飮んで慷慨、時に或は激烈涙下るに至ると(『先哲叢談』)

     その斜向かいの養源寺(臨済宗妙心寺派)には安井息軒と西村茂樹の墓がある。文京区千駄木五丁目三十八番三。当然ここも素通りすることになるのが聊か惜しい。
     安井息軒については鷗外『安井夫人』で知っている人もいるのではないか。息軒、名は衡、字は仲平である。日向国宮崎郡清武郷に生まれた。幼時に罹った天然痘のために顔面アバタで、片目が潰れていた。要するに醜男だった。昌平黌では松崎慊堂に学んだ。「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり」と言い、これに因んでその塾を三計塾と名付けた。慊堂も息軒もそうだが、この時代の儒者には農民出身者が多い。
     西村茂樹は明六社の創立メンバーで、大槻文彦に日本国語辞書の編纂を命じた文部省報告課長だったとだけしか知らなかった。

     明治七年、おのれ、仙臺にありき、こは、その前年、文部省のおほせをうけたまはりて、その地に宮城師範學校といふを創立し、校長を命ぜられて在勤せしをりなりけり。さるに、この年の末に、本省より特に歸京を命ぜられて、八年二月二日、本省報告課(明治十三年に、編輯局と改められぬ。)に轉勤し、こゝにはじめて、日本辭書編輯の命あり、これぞ本書編輯着手のはじめなりける。時の課長は西村茂樹君なりき。(大槻文彦「ことばのうみのおくがき」)

     つまり西村がいなければ『言海』は生まれなかった。『古事類苑』も文部省大書記官(従五位、奏任官の筆頭)時代の西村の発案によって編纂されたもので、今でも日本史学や国文学では基本史料である。日本最大にして唯一の官撰百科事典と言って良い。西村の着眼は冴えている。若い頃、佐倉藩の藩校で安井息軒に学んだ。
     明六社は有名だが、他に大槻磐渓(文彦の兄)、依田學海等とともに洋々社を結成している(私はこの名を初めて知った)。磐渓や學海は開化に背を向けた人物で、そうした方面とも関係したのが人間の幅の大きさかも知れない。大槻文彦を国語辞書編纂事業に登用したのは、磐渓の縁で文彦を知ったからではないか。文彦も洋々社に参加した。ゆまに書房『洋々社談』復刻の宣伝惹句を見つけたので引いておこう。

     明治初期(明治八年四月~明治十六年三月)の学術結社「洋々社」の機関誌である『洋々社談』創刊号から終刊九十五号までを復刻出版。近世と近代の学術・知識集団を考察する上で、大変重要な史料。
     『洋々社談』は、明六社やその啓蒙思想を再検討するために欠くことができない雑誌である。西村茂樹、依田学海、大槻文彦、黒川真頼、南部義籌、大川通久、飯島半十郎など、和漢洋、人文・自然科学の当時の学界の最先端にあった人々が加わっており、明治政府の教育、文化行政との関係も注目される。
     代表的論文以下の通り。
     大槻文彦「日本文法論」、黒川真頼「言語文字改革の弁」、南部義籌「無事ヲ改換スル疑」同「以羅馬字写国語並盛正則漢学論」、大川通久の地理、測量関係の論文、飯島半十郎「日本全国面積表」「沿海地図凡例」等(http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843323823)

     しかし西村の本領は『日本道徳論』にあるようで、儒教的道徳教育の普及を目指して明治九年(一八七六)修身学社(現・社団法人日本弘道会)を創設している。この辺については全く知識がない。
     ヤマボウシがきれいに咲いている。この花が咲いてくると、もう梅雨が近いと思う。「ゴルフボールみたいな実が生るんだ。食えるよ。」

     先学の眠る寺町山法師  蜻蛉

     大通りを渡り、こんなところを行けるのかと思う路地を抜けていくと、吉祥寺の裏手(南側)に出た。こちらからだと分かり難いが、本郷通りからなら吉祥寺手前を入る路地である。洞仙寺の門前に「林氏墓所」の案内掲示があったが、原氏って何だと思えば、原念斎の一族であった。と言っても誰も知らない。

     「先哲叢談」を著した原念斎をはじめ、江戸時代中・後期の著名な儒学者を出した原一族四代の墓所で、当時のまま現存しており、墓域は円頂角柱形墓石十基からなる。
     雙葉桂(一七一八年〜一七六四年)は、肥前唐津藩(後に下総古河に転封)の儒医であったが、五十歳で致死し江戸で病死した。著書に「桂館漫筆」「過庭紀談」などがある。
     敬仲(一七四八年〜一七九三年)は、雙桂の次男で古河藩儒となったが、のち江戸に出て幕府に仕え、寛政五年四十六歳で死去した。
     念斎(一七七四年〜一八二〇年)は、敬仲の子で折衷学派の山本北山に学んだ。文化十三年(一八一六)に著した「先哲叢談」は、儒学者の言行・逸話・詩などを資料として記述した歴史書で、近世儒学史の名著として知られている。著書はほかに「史氏備考」「念祖斎遺稿」などがある。文政三年三月十九日病死した。享年四十七歳。墓碑銘は佐藤一斎(坦)の書いたものである
     徳斎は、志賀理斎の子で京都に生まれ、念斎の養子となり北根岸村に住んだ。啓蒙的著作に「先哲像伝」がある。生没年不明。(東京都教育委員会掲示より)

     「ここなんです。」姫はその向かいの家を指さす。以前は案内板があったようなのだが、今はない。落合直文の浅香社跡である。文京区本駒込三丁目六番九。当時の町名は浅嘉町七十八番地。落合直文は今ではほとんど忘れられているだろうが、それでも『櫻井の訣別』(青葉繁れる櫻井の)の歌は知っているだろうか。ネットを見ると、かつて文京区教育委員会が作った案内板が見つかった。

    あさ香社跡(落合直文終焉の地)
     落合直文(歌人・国学者一八六一~一九〇三)は仙台藩主鮎貝盛房の次男として生まれ、国学者落合直亮の養子となった。
     東京大学を卒業し、第一高等中学校や東京専門学校で教鞭をとりながら、国学の研究に従事した。この間、居を転々としたが、明治二十六年(一八九三)旧小石川掃除町から、旧浅嘉町七十八番地(当地)に移り住んだ。翌明治二十七年(一八九四)二月町名にちなんで、「あさ香社(浅香社)」という歌塾を創設し、新しい短歌運動をおこした。社友には、鮎貝塊園(実弟)、与謝野鉄幹、尾上柴舟ら三十人ほど集まった。ここから、新誌社(鉄幹)、いかづち会(柴舟)など、和歌革新運動が起り、発展していった。直文は和歌のみでなく、「大楠公」「孝女白菊」などの名作も残している。明治三十六年(一九〇三)この地で没した。
     「木がらしよなれがゆくへの静けさの おもかげ夢見いざこのよねむ」(直文の辞世)

     「雪の朝、吉祥寺の境内を散歩している時、寄宿舎で凍えている与謝野鉄幹を見つけて、世話をしたんですよ。」それも知らなかった。当時、吉祥寺では学寮を安い下宿屋として開放していたようだ。明治二十五年(一八九二)、鉄幹が徳山女学校の国語教師を辞めて上京したばかりの頃である。女学校を辞めたのは、教え子の浅田信子との関係が町の噂になったためだ。鉄幹二十歳、まだ世に出ていない。そして落合の家に居候させてもらい、あさ香社の創設に参加する。
     鉄幹はその後一時朝鮮に渡ったりしたが、明治三十一年(一八九八)父の死を契機に山口に戻り家督を継いで浅田信子と同棲した。しかし三十二年に生まれたふき子が生後数十日で夭折し、信子とは別れることになる。ここで鉄幹らしいのは、すぐにやはり同じ教え子の林滝野を伴って上京してしまうことだ。三十三年(一九〇〇)九月に滝野は子(与謝野萃)を生む。そして翌三十四年(一九〇一)六月には晶子と一緒になるのだから、三年の間に三人の女性(山川登美子を含めれば四人)とややこしい関係になっているのだ。この時代の鉄幹は本能の赴くままであり、このために文壇照魔鏡事件というスキャンダルに見舞われる。
     「この吉祥寺は中央線の吉祥寺とは関係あるの?」「吉祥寺に吉祥寺というお寺はないって。」ヤマチャンとマリオは知らないようなので少し説明してみる。私は神田辺と言ってしまったが、元々吉祥寺は本郷(水道橋駅の近く)にあった。明暦の大火で一帯が消失したため、寺はこの地に移されたが、吉祥寺門前町の住人は武蔵野東部に移され、開拓にあたった。そしてかつての門前町を偲んで吉祥寺村と名付けたのである。「前に誰かのお墓を探しましたよね。」榎本武揚の墓を探すのに苦労した。寺には曹洞宗の「旃檀林」が作られ、昌平黌と並ぶ学問の中心だった。
     「あそこに見えるのが駒込病院です。」ヨッシーによれば元々は感染症専門の病院である。姫もそれは知っていて、「昔の地図には、避病院って書かれています」と教えてくれる。

    東京府の本所・駒込・大久保の三病院は一八八六年十一月にそれぞれ東京府○○病院の形で常設化の上改称されたが、これは東京弁では避病院が「死病院」になってしまい、紛らわしいことも一因であったと言われる。(ウィキペディア「避病院」より)

     「そろそろ、お腹が空きましたね。」「急ごうぜ。」動坂に入る。本郷通りが坂上で、東に下っていく。「お不動さんがあったんですよ。それに因む名前です。」

    千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり(『江戸名所図会』)
    動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う(御府内備考)

     つまり現在駒込にある南谷寺の目赤不動が、最初はこの坂下に造られたのだ。不動堂から、「堂坂」とも表記されたようだ。「あそこはどうでしょうか?」駒込病院の向かいにとんかつ屋があった。姫は揚げ物が苦手な筈だが、躊躇なく指をさす。道路を渡ってロダンが偵察に行き、振り返って両手で大きな丸を作った。十一時五十分。タイミングが良かった。「かつ亭みさき」である。文京区千駄木五丁目四十九番一。
     椅子席と座敷とに分かれて座る。みぞれかつ定食(八百円)がスナフキン、姫、ハイジ、蜻蛉。茄子の挽肉はさみフライ定食(八百五十円)がイッチャンと桃太郎。男三人と姫はビール(五百十五円)を注文する。ビールには小さな冷奴がついた。味噌汁はトン汁か、ワカメと豆腐が選べる。
     ソースが四種類、ドレッシングに醤油もおいてあるのが嬉しい。醤油を置かないバカなとんかつ屋がたまにあるのだ。イッチャンの茄子挽肉鋏の一切れが私の皿にのせられ、姫のカツ一枚が桃太郎に渡され、ビールの三分の一ほどがスナフキンのグラスに足される。ご飯とキャベツのお変わりは無料である。ご飯のお変わりはできないが、キャベツは一皿追加してもらう。
     「ハイジはエライのね、完食だもの。」「出されたものは全部食べるようにしてるのよ。」イッチャンと姫は完食するのがきつそうだ。十二時四十分に店を出る。

     「そこに定食屋があるじゃないか。」「なつかしいような食堂ですね。」不忍通りとの交差点で、「御定食 動坂食堂」の看板が掲げられている。後でネットを見ると、かなり人気の定食屋らしいので、あの時間だと満席で入れなかったのではないだろうか。
     そして田端に入った。「ねえねえ、講釈師、田端義夫はここと関係あるんですか?」ロダンは面白いことを訊く。「関係ないよ。」本名は田畑で、おそらく姓名判断かによったのではあるまいか。「オーッスって言うだろう。本人は気が小さくて、あれをやると落ち着くんだってさ。」講釈師は不思議なことを知っている。
     この近辺にも来たことはあるのだが、記憶が混乱している。それに道が錯綜していて分りにくい。これから歩く道を文章で説明する能力はないので、興味のある人は田端文士村記念館で詳細な地図付きのパンフレットを貰ってから歩き始めると良い。
     「文士村」と言うが、実は画家・彫刻家・陶芸家などの一群と、小説家・詩人の一群とが住んでいて、むしろ「文士芸術家村」と言った方が良い。山手台地の縁、坂の多い狭い地域に大勢の芸術家が集まったのである。
     明治三十三年(一九〇〇)に小杉放菴(未醒)が下宿し、明治三十六年(一九〇三)、板谷波山が粗末な家と窯場を作ったのが始まりで、やがて吉田三郎(彫塑家)・香取秀真(鋳金家)・山本鼎(画家・版画家)などが集まって来た。そして彼らはポプラ倶楽部を作ってテニスや遊びに熱中した。小杉はまた押川春浪の天狗倶楽部にも所属していたから、その連中もやって来る。
     一方、大正三年に(一九一四)に芥川龍之介、五年(一九一六)に室生犀星が引っ越してきてからは文人が多く集まって来る。関東大震災で犀星は一時金沢に逃れ、その跡に菊池寛が住んだこともある。大正十四年(一九二五)には犀星が金沢から戻り、朔太郎を呼び寄せると、犀星を師と仰ぐ若い文学者も集まってきた。
     堀辰雄、中野重治、窪川鶴次郎・佐多稲子夫妻などで、犀星が彼らを芥川に引き合わせ、彼らは大正十五年に同人誌『驢馬』を発行する。まだ若くて無名だった。田島いね子は田端のカフェ「紅緑」の女給として彼らと知り合い、窪川と結婚した。そして稲子に小説を書くことを勧めたのが、窪川と金沢四高以来の友人である中野だった。ついでにいうと、吉田三郎と室生犀星も金沢のつながりである。

     最初に姫が立ち止ったのは芥川龍之介の旧居跡だ。田端一丁目二十番地。旧住所表示は北豊島郡滝野川町字田端四三五番地である。大正三年(一九一四)十月、龍之介の養父・道章が決めた家である。道章は東京府の役人だったが、俳句、一中節、囲碁、盆栽などを嗜む多趣味な人であった。

    田端にきめたのは、当時、田端三四三番地に道章と一中節の相弟子であった宮崎直次郎がいて、天然自笑軒という会席料理の店を出していたからであった。(近藤富枝『田端文士村』)

     今日の姫も近藤富枝『田端文士村』を参照しているように、この辺の事情については最も詳しい本である。龍之介は前年九月に東京帝大英文学科に入学していて、二階の一室がその書斎と決まった。大正六年には隣家に香取秀真が引っ越してくる。

     香取秀真 香取先生は通称「お隣の先生」なり。先生の鋳金家にして、根岸派の歌よみたることは断る必要もあらざるべし。僕は先生と隣り住みたる為、形の美しさを学びたり。勿論学んで悉したりとは言はず。且又先生に学ぶ所はまだ沢山あるやうなれば、何ごとも僕に盗めるだけは盗み置かん心がまへなり。その為にも「お隣の先生」の御寿命のいや長に長からんことを祈り奉る。香取先生にも何かと御厄介になること多し。時には叔父を一人持ちたる気になり、甘つたれることもなきにあらず。(芥川龍之介『田端人』)

     坂を下ると与楽寺(真言宗豊山派)。北区田端一丁目二十五番一。江戸時代にはこの辺りまでが道灌山だった。江戸六阿弥陀の四番であり、それなら西ヶ原の第三番・無量寺には行ったことがある。「ゾクヨケ地蔵で有名なんですよ」と姫が言う。私は折角姫が作ってくれた資料をリュックにしまい込んでいるので、分らなかった。「何?」「賊除けです。賊が侵入しようとしたとき、地蔵が僧侶の格好になって追い払ったんですよ。」境内の桜の巨木が目につく。
     次は天然自笑軒跡。北区田端一丁目十七番三(旧田端三四三番地)。車止めの奥に赤い屋根の門が閉ざされている。兜町の仲買人宮崎直次郎が引退して道楽で作った割烹懐石料理屋である。道楽とは言っても一流料理屋で、結婚式もできた。芥川がここで結婚式を挙げ、山本有三も式を挙げた。久保田万太郎「引札のおはなし」が、鴎外がこの店の引き札(広告)を作っていることを紹介している。

     蛙鳴く田端の里、市の塵森越しに避けて茶寮営み、間居のつれづれ洒落半分に思ひ立ちし庖丁いぢり、手まかせの向、汁椀、焼八寸、吸物と木の芽、花柚の口ばかりは懐石の姿はなせど、味は山吹の取立てて名物もなき土地柄ながら、濃茶薄茶の御所望次第、炉風呂の四季のその折折、花紅葉探勝のお道すがらあるは又山子規虫聞きなどの雅賞にも広間、囲ひの数を備へ、御窮屈ながら茶事を省き、酒飯は時のあり合せ、ただ風流のおくつろぎを第一とし、詩歌、俳諧乃至書画、声曲の仙集にもあてさせられ給はんこと、これ亭主の希望とするところなり。電車の便も都ちかきこの郊外にこの寮あるは、世忘れの仙境之に過ぎたるはなしと、茶音頭とりて亭主にかはり、古き口上振を敬つて白す
     この寮のお目じるしには
     江戸に見し辻行灯や子規

     その斜向かいには下島勲の楽天堂医院もあった。下島勲は書家で俳人でもあり、芥川の書斎の額「澄江堂」の文字を書いた。芥川の主治医であり、最期を看取った。芥川が死んだのは昭和二年(一九二七)七月二十四日。三十六歳であった。
     田端駅前通りの商店街に入ると、ハッピイ・シェイクという喫茶店の前に、「田端散策の皆様 無料にてハーブ・ティをご用意しております」なんて貼りだしてある。「田端散策の皆様」は多いのだろうか。
     田端八幡神社。北区田端二丁目七番二(旧田端三三〇番地)。本殿は石段を上った上にありそうだが、今日の私はなんとなく登る気力がなくなっている。ロダンたちは登って行った。参道には各町内の神輿蔵が並んでいる。

     神社の伝承によれば、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
     現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。(掲示板)

     その赤紙仁王は全身に赤い紙を貼られていて、姿が全く見えなくなっている。線香がまだ煙を立てているから、私たちのすぐ前にお参りした人がいるのだ。「前は工事中だったよな。」講釈師の声で思い出した。
     桃太郎が赤紙と線香を抱えてやってきた。「いくらだった?」「二百円ですよ」とヨッシーが笑う。桃太郎は左の肘に痛みがあるので、仁王の左肘の辺りに赤紙を貼る。「どうしたの?」「テニス肘なんだけどね。」テニスをしたのではないが、仕事で少し無理なことをしたらしい。六十歳を過ぎると、ちょっとしたことで筋肉を傷める。神社に上っていたロダンたちも戻って来た。
     ここから不忍通りに抜ける路地(道が変わってしまったので良く分らないが)に、田島いね子が働いていたカフェ「紅緑」があり、いね子はその近所に下宿していた。
     小杉放菴旧居跡は谷田川通りに面し、田端区民センターの敷地にあった。田端三丁目十六番地二(旧田端一五五番地)。谷田川は藍染川の上流である。

    谷田川通りは谷田川(やたがわ)が暗渠となってできた通りです。 谷田川は西ヶ原四丁目から流れていたものと推定され不忍池に注いでいた川で、藍染川とも呼ばれていました。(北区教育委員会掲示より)

     放菴の本名は小杉国太郎、号は未醒、放庵、放菴と改名した。私が未醒の名前を知ったのは山口昌男『敗者の精神史』だったか、あるいは横田順彌・会津信吾『快男児 押川春浪』が先だったろうか。
     最も早く田端に住んだ画家で、最初は一六三番地の下宿に住んだが、明治四十五年にここに二階建ての家を作り、太平洋戦争で新潟に疎開するまでずっと住んだ。

     小杉未醒 これも勿論年長者なり。本職の油画や南画以外にも詩を作り、句を作り、歌を作る。呆れはてたる器用人と言ふべし。和漢の武芸に興味を持つたり、テニスや野球をやつたりする所は豪傑肌のやうなれども、荒木又右衛門や何かのやうに精悍一点張りの野蛮人にはあらず。僕などは何か災難に出合ひ、誰かに同情して貰ひたき時には、まづ未醒老人に綿々と愚痴を述べるつもりなり。尤実際述べたことは幸ひにもまだ一度もなし。(芥川龍之介『田端人』)

     京都府立一中を卒業した村山槐多が大正三年(一九一四)に上京し、小杉の家に下宿した。従兄の山本鼎の紹介である。学生時代、一巻本の『村山槐多全集』を持っていたのだが、昼飯代にするために古本屋に売ってしまった。五千円の本が千円にもならず悔しい思いをしたが、結局私は槐多が良く理解できないまま今に至っている。
     同じ田端図書館の敷地内の隣には田河水泡・高見沢潤子夫妻が住んでいた。田端三丁目十六番地(旧田端一五五番地)。潤子(本名富士子)は小林秀雄の妹で、小林が長谷川泰子から逃れて関西に出奔している間に結婚していた。昭和四年(一九二九)一月、ほぼ半年振りに関西から帰ってきた小林がこの家に同居したのである。そしてその年に『様々なる意匠』が『改造』懸賞論文第二席となって(『改造』九月号掲載)、批評家として出発する。小林は二十七歳であった。

     吾々にとって幸福な事か不幸なことか知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思想の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心幻惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(『様々なる意匠』)

     小林秀雄は入試問題に多く出されたが、高校生がこんな文章を読まされては堪らない。独断と飛躍、独特な語彙と反語が多すぎるのだ。「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」私はこれだけを記憶した。あるいはこんな文章だ。

     四年たった。  若年の年月を、人は速やかに夢見て過ごす。私もまたそうであったに違いない。私は歪んだ。ランボオの姿も、昔日の面影を映してはいまい。では、私は、今は狷介とも愚劣ともみえるこの小論に、而も、聊かの改竄の外、どうにも改変し難いこの小論に、何事を付加しようというのだろう。常に同じ振幅を繰り返さなかった私の脆弱な心を、ここに計量しなければならないか。
     私はこの任務を放棄する。(「ランボオⅡ」)

     これはもう「批評」なんてものではなく、小林の自己告白でしかないのだが、なんだか分らない癖に高校生はシビレてしまうのである。小林病とでも言うべき症状で、一切の論証過程を軽蔑し、片言隻語で断言する悪癖がつく。
     田河水泡はこの年『目玉のチビちゃん』で子ども漫画を描き始め、昭和六年(一九三一)『少年倶楽部』(一月号)から『のらくろ』の連載を開始した。
     ポプラ坂は結構な上り坂で、足がだるくなってくる。途中で右に逸れていくと、板谷波山旧居跡がある。田端三丁目二十四番地(旧田端五一二番地)。

     陶芸家の板谷波山(一八七二~一九六三)は明治三十六年、当時人家少なく故郷の筑波山を望むことのできる当地、田端五一二(現・三丁目二十四)番地に居を定めた。生活費にも窮していた波山と妻まるは一年三ヵ月の歳月をかけて窯を築き、葆光彩磁など数多くの名作を生み出した。夫婦で苦労して築いたことから、その窯は「夫婦窯」と称された。
     昭和二十年、戦災により住居と工房が全焼し、郷里に疎開したが、戦後再び田端に戻り、終生ここに暮らした。

     「ここから筑波山が見えたんですね。」高い建物なんか何もない時代だった。そこから少し行けばポプラ坂の頂上だ。「ポプラ坂なのにポプラがないな。」しかしヨッシーが「細いのが三本ありました」と笑う。
     「ポプラってセイヨウハコヤナギって言いませんか?」姫の言葉に「知らないわ」とハイジが応える。すかさずスナフキンがスマホを検索すると、確かにそのようになっていた。角に保育園があり、ビワの小さな実が生っている。「まだ食えないよ。」この保育園がポプラ倶楽部テニスコートの跡であった。
     

     若者とテニスしかへるわが命 百まで活くる心しかへる  小杉放菴

     百歳は無理だったが、放菴は八十三歳まで生きた。ついでに放菴と親しかった押川春浪についても少し触れておこう。姫は「国威発揚の小説を書いたので戦後は全く評価されない」と言うが、日露戦争時代である。日本SFや冒険小説の元祖と言っても良いので、私は『海国冒険奇譚・海底軍艦』を読んでいる。来るべき世界大戦に備えて極秘裏に建造された潜水艦で、明らかにヴェルヌ『海底二万里』の模倣である。
     ただ春浪は人間がどうにも無茶苦茶だった。天衣無縫、破天荒と言えば聞こえが良いが、荷風の酒席に乱入して乱暴狼藉を働いたこともある。

     カッフェープランタンの創設せられた当初、僕は一夕生田葵山井上唖々の二友と共に、有楽座の女優と新橋の妓とを伴って其のカッフェーに立寄った。入口に近いテーブルに冒険小説家の春浪さんが数人の男と酒を飲んでいたのを見たが、僕等は女連れであったから、別に挨拶もせずに、そのまま楼上に上った。僕等三人は春浪さんがまだ早稲田に学んでいた頃から知合っていた間柄なので、挨拶もせずに二階へ上ったことを失礼だとは思っていなかった。就中僕は西洋から帰ってまだ間まもない頃のことであったから、女連のある場合、男の友達へは挨拶をせぬのが当然だと思っていた。ところが春浪さんは僕等の見知らぬ男を引連れ、ずかずか二階へ上って来て、まず唖々さんに喧嘩を売りはじめた。僕は学校の教師見たような事をしていた頃なので、女優と芸者とに耳打して、さり気げなく帽子を取り、逸早く外へ逃げだした。後になって当夜の事をきいて見ると、春浪さんは僕等三人が芸者をつれて茶亭に引上げたものと思い、それと推測した茶屋に乱入して戸障子を蹴破り女中に手傷を負わせ、遂に三十間堀の警察署に拘引せられたという事であった。これを聞いて、僕は春浪さんとは断乎として交を絶ったのみならず、カッフェープランタンにも再び出入しなかった。(永井荷風『申訳』)より)

     「蛮カラ」というものの体現者と言っても良く、早稲田の野球部や応援部の連中を誘って天狗倶楽部を結成し、放菴もそれに参加した。メンバーの中の河野安通志は日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」(芝浦協会)を創設し、押川清(春浪の弟)は「名古屋軍」(現・中日ドラゴンズ)を創設し、飛田穂洲は学生野球の発展に尽くすことになる。この三人はいずれも早稲田の野球部出身者で、天狗倶楽部は草創期の日本野球の発達に大きく貢献した。
     また春浪は放菴とともに雑誌『武侠世界』を発行した。田端四九四番地に住んだのは大正三年で、その年の内に四十歳で死んだ。
     田端公園でちょっと休憩を取ってから村の鎮守の八幡に入る。北区田端四丁目十八番一。さっきの田端八幡は田端村の田端地区鎮守で(別当は東覚寺)、こちらは上田端地区の鎮守(別当は大龍寺)である。それにしても説明板が「村の鎮守」というのはおかしなことだ。講釈師が小さな声で歌い始める。

    村の鎮守の神様の
    今日はめでたい御祭日
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    朝から聞こえる笛太鼓(文部省唱歌『村祭』)

     隣が大龍寺だ。北区田端四丁目十八番四。目の前の道路は、以前に来た時はなかった。ここには子規の墓がある筈なのだが、記憶と違う。私は境内に入ってすぐのところにあったと思い込んでいたが、どうやら何かと勘違いをしていた。「違ってますか?」姫が心配そうに訊いてくる。
     おかしな気分で墓地に入ると、正面に立つのが「板谷波山・室玉蘭墓」である。探しながら歩いていくと、横山作次郎の墓があった。ヤマチャンは知っているかと思ったが、「講道館?柔道?」と反応がはかばかしくない。三船久蔵の師であり、富田常次郎(作家富田常雄の父)、西郷四郎(富田常雄『姿三四郎』のモデル)、山下義韶(史上初の十段位遺贈)とともに講道館四天王と呼ばれた人物である。
     そして奥の隅にやっと見つけた。赤レンガ塀に沿って細い竹が植えられた一画がそれで、真ん中に子規居士墓、右に正岡八重墓、左に正岡家累世墓と並んでいるのだ。「子規は田端じゃないでしょう?」「根岸から運んできたんだよ。」脇に立つ墓誌銘が面白い。

    正岡子規又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓

     この墓誌は死の四年前に河東銓に宛てた書簡の中で、子規自身が書いたものである。河東銓は碧悟桐の兄で、子規の三歳年下になる。実際に死んだのは明治三十五年九月十九日、三十五歳であった。この手紙の中で、こうも書いていた。

    アシヤ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ、石碑立テテモ字ナンカ彫ラン主義デ、字ハ彫ツテモ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ、ムシロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノヂヤケレドモ、万一已ムヲ得ンコトニテ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトルト思フテ書イテ見タ、コレヨリ上一字増シテモ余計ヂヤ

     土葬後三年間は「正岡常規墓」の墓標が建てられただけだったが、陸羯南の筆によって現在の「子規居士墓」が建てられた。墓誌銘は三十三回忌に当たる昭和九年に作られたが盗難にあって、昭和十一年に再度建てられたものである。
     「この向かいの辺りの紅葉館(旧田端三十八番地)と言う下宿に堀辰雄がいました。」帝国大学に入学した堀は、最初は大盛館(旧田端一四二番地)、そして同じ年に紅葉館に移った。しかし田端時代は長くなく、大正十四年九月には向島に移転し、養父と同居することになる。その向島の旧居跡には姫の案内で立ち寄っている。但し芥川自殺の後、昭和二年にはまた田端二九五番地に住んだ。堀は『驢馬』同人でありながら、たった一人プロレタリア文学には目もくれなかった。
     中野重治は、関東大震災の後に金沢に避難していた犀星と知り合って師事した。田端四四五番地に移転して来るのは昭和五年(一九三〇)四月のことで、原泉との新婚住まいだった。しかし五月には治安維持法違反容疑で逮捕された。この時は起訴されたものの十二月に保釈されている。七年には再び逮捕され、その時には二年間収監され、転向を条件に保釈されるのである。まだ学生の中野重治が芥川に呼ばれて自宅を訪問した際、こんな風に言われた。

    「それやアネ、『土くれ』の諸君もいいけれども・・・・・」とそのときまた葛飾が始めた。わきを向くようにして、いくらか沈んだ調子でぼそぼそと彼はそれをいった。「才能として認められるのは、深江君と君とだけでしょう?」(中野重治『むらぎも』)

     葛飾は芥川、深江は堀辰雄、君と呼ばれたのは中野重治である。『土くれ』は『驢馬』だ。この言葉に中野は激しく反応する。

    「とんでもない。とんでもない、道徳的に外れてってしまう・・・・・この人はまちがっている。学問・道徳的にまちがっている。この人は、おれの前で、自分を低くしてしまう。低くしてしまった。」

     堀辰雄のフランス心理主義志向も中野重治のマルクス主義志向も、ふたつとも芥川は、自分には叶えられないと悟ったのではないか。それが芥川の「ぼんやりとした不安」の中身であった可能性があり、中野は芥川の怖れを感じ取ったのだろう。早すぎた晩年の芥川の文章は、ささくれ立って読むのに辛い。
     「オリーブの花ですね、珍しい。」白い小さな花を姫が指さす。「やっぱりオリーブで良かったのね。」さっきもハイジと桃太郎が見ていたのだ。「実が生っていれば分るけどね」と桃太郎は言っていたが、私は実が生っていても分らないだろう。オリーブなんて初めて見るのだから。
     狭い地域をグルグル回っているようで、一向に地理感覚が回復してこない。たぶん室生犀星の旧居がこの辺だったろうか。「もうすぐですよ。」
     田端五丁目五番(旧田端五二三番地)。室生犀星は先にも書いた通り、大正五年から関東大震災までと、大正十四年からの数年間を田端で過ごし、その間に田端内を転々とした。この家は最も長く住んだ家である。そして昭和二年の芥川自殺の衝撃によって、昭和三年には大森馬込に移転する。馬込には萩原朔太郎が昭和元年から住んでいたのだ。
     朔太郎は犀星の強い勧めで、大正十四(一九二五)年四月に大井町から田端にやって来た。田端二丁目四番地(旧田端三一一番地)。その年の初めに前橋から上京していたのである。そして八月には『純情小曲集』を出し、芥川が絶賛した。雑誌発表時に感激した芥川は、寝巻のまま朔太郎の家に駆け付けたと言う。
     しかし朔太郎はその年の十一月に鎌倉に移転したので、田端在住期間は短い。妻の稲子の健康が悪化したためである。稲子は悪妻のように思われているが、朔太郎の母と妹たちは朔太郎を独占しようと、稲子に対して酷く意地悪だった。稲子も気が強かったから前橋の家庭に平和はなかった。そして朔太郎はそれを修復するための努力を何もしなかった。後に馬込に移ってから、稲子が十八歳の大学生と駆け落ちしたのも半分は朔太郎の責任である。稲子がその学生とキスをするのを目撃しても、何も反応しなかったのだ。実生活に関して朔太郎は殆ど無能だった。こんな両親の間に生まれ、意地が悪く権勢を振るう祖母に育てられた娘は作家になるしかなく、萩原葉子は後に『蕁麻の家』を書いた。
     童橋公園には犀星家の庭石が置かれている。童橋は切通しにかけられた橋で、子供たちの通学に使われたためにその名がつけられた。そのわきの高台にある公園である。犀星は庭いじりが好きな人で、借家ながら石にも凝っていた。

    石一つ

    石を眺め悲しいといふものあらんや。
    姿をかしく
    されど皺深く蒼みて
    雨にぬれるとき悲しといふものあらんや。

    わが性はつねに
    ひらたく美しからぬ庭石をながめ
    そをわが家にはこび
    日ねもすは眺めあかぬなり。
    竹の葉すこしく植ゑ
    そのかたへに語ることなき生きものの
    石一つ坐りゐるよ。

    われはうつけものの
    年わかく世を厭ふといはば人人の嗤はん。
    されどいつはりにはあらず。
    まことは俗流のひとなるがゆゑに
    佇みて石をばながむ。

    こころあらば
    誰かわが家に来りて
    水なと打ちそそぎたまへ。
    語ることなき石あをみて
    しだいにおのが好む心をば得ん。(詩集『高麗の花』より)

     犀星が馬込に移転する際、庭石は苔付きで隣家の広瀬雄(当時府立三中校長)に引き取って貰った。広瀬は芥川が府立三中一年生の時の担任で、一高を受験するときには自宅に呼んで英語を教えた。また芥川と同じく三中から一高に進んだ堀辰雄を室生犀星に紹介したのも広瀬であり、縁が深い。庭石は後に広瀬の子息によってこの公園に寄付されたのである。
     サトウ・ハチロー、福士幸次郎旧居跡。北区田端五丁目七番地(旧田端五四三番地)。田端高台交番から少し西に来たところだ。ハチロー・福士と並べるのは順序が違うので、ここは福士幸次郎の旧居である。ハチローはそこ大正九年(一九二〇)から十一年にかけて居候していた。悪ガキのハチローが十七歳から十九歳までのことだ。何度も退学と再入学を繰り返した中学は既に諦めていた。

     田端、田端、田端。おやぢの先生の子規先生のお墓のある田端。僕が福士先生と一緒にゐた田端。芥川さんにおじぎをした田端。ポプラクラブのある田端。いま又、時々岩田専太郎のところへ金をかりに行く田端、タバタ、たばた。(どつちから読んでもたばた)(サトウハチロー『僕の東京地図』より)

     紅緑の弟子とは言いながら、それにしても福士はハチローの面倒をよく見た。詩集『太陽の子』があり、田端時代にはそれまでの詩業をまとめた詩集『展望』を出した。それ以外、私は福士について知識がない。
     文士村記念館に入り、芥川の家の復元模型を見てからでビデオを眺める。「どうしてさ、作家は自殺するのかな。」講釈師がスナフキンに向かって、珍しくシミジミと話しかけている。「太宰もそうだろ。」たぶん、書くことと生きることは同義であっただろう。書けなくなれば生きている意味がない。太宰の場合も、技法上の試みは全て出し切っていた。
     それにしてもと思うのは、文士や芸術家たちの交友密度の濃さだ。毎日訪ね合い、あるいは集まって議論し、酒を飲んだ。密度が濃いから喧嘩になることもあるが、これこそがコミュニケーションというものではあるまいか。既に失われてしまったものを徒に嘆いても仕方がないが、しかしそんな時代が羨ましい。
     遊歩道になっている跨線橋を渡って駅の反対側に出て少し歩けば、三角地に東灌森稲荷があった。北区東田端一丁目十一番一。鉄製の鳥居の奥にある石造鳥居は吉原遊郭の尾張屋彦太郎が奉納したものだ。その奥に朱塗りの鳥居が並んでいる。

    太田道灌公が江戸城築城の際、方除け守護神として、江戸周辺に七つの稲荷社を祭ったと伝えられている。即ち柳森稲荷社・烏森稲荷社・杉の森稲荷社・雀の森稲荷社・吾嬬森稲荷社・宮戸の森稲荷社それにこの東灌森稲荷神社である。御祭神は生産の神、宇賀之御魂の大神で、安政の頃から明治初年にかけてかなりの参詣者があったと云われている。(北区教育委員会掲示より)

     方除け守護神なんていう話は俄かに信じ難い。方除けとして七か所に祀るなら、方位がそれぞれ適切でなければいけないが、この七つを見て、方位に一定の法則を見るのは難しいだろう。江戸五色不動と同じように、後世の付会ではないか。道灌と関係付けるように東灌森と書いているが、稲荷森の音読み(トウカモリ)の訛りではないかという説もある。
     「それじゃ駅に戻りましょう。」駅に着いたところで一万八千歩。「十二・四キロですね。」まだ三時半だ。飲まない人はそれぞれ改札に消えて行った。「どこに行こうか。」「日暮里に行こう。」当てがある訳ではないが、なんとなくそれが良さそうだ。姫、マリー、マリオ、ロダン、スナフキン、桃太郎、蜻蛉の七人になった。「アレッ、ヤマチャンがいない?」「用事があるって、さっき帰ったわ。」

     日暮里に着いたものの、まだ四時前だ。ひとつ開いていた店は既に満席である。「こんな時間から酒を飲むなんて、日本人はどうなってるんだ。」「私たちも同じだからね。」「駅ビルの二階にさくら水産がありましたよ。」ロダンは目敏く見つけていた。最近私はさくら水産に目がいかなくなっていたが、それなら久し振りにさくら水産にしよう。
     その前に、羽二重団子を買いたいとマリオが言い出し、駅前店に入って行った。私は煙草を買いにコンビニに行ったので知らなかったが、ちょうど閉店したところだったが売れ残りが少しあったので開けてくれたらしい。子規や虚子、漱石などが愛好した団子だから、今日のコースの締めに相応しい。
     さくら水産では、タッチパネルの注文機の操作は姫に任せた。焼酎の注文の時大丈夫かなとみていたが、流石に姫の操作は間違いない。マリオはこの店の魚肉ソーセージが初めてのようで、なんだか不思議そうな顔をしている。「子供の頃は、ソーセージってこれでしたよね。」ロダンも当然同じ時代に生きている。我が家では豆腐と魚肉ソーセージは常備品で、妻が仕事で遅くなるときは、これをつまみに勝手に酒を飲んでいる。焼酎を二本空けて一人千九百八十円は異常に安いのではあるまいか。
     「まだ明るいな。」六時半である。「歌わなくてもいいんですよね」と確認する桃太郎を無理やり誘って、姫、マリー、スナフキンとビッグエコーに入った。ロダンは「明日は仕事ですから」といつものセリフを言いながら帰って行った。さっき眠そうにしていたからね。
     ワンドリンクを注文して、桃太郎は更にワインのボトルを注文しようかと言う。「桃太郎の奢りなら。」しかし彼は「金太郎」に電話をしてしまったので、ドリンクが来る前に入谷に向かって出て行った。
     私は小林啓子『さよならをいう前に』(藤田敏雄作詞・中村八大作曲)なんていう、誰も知らない歌を歌ってしまった。高校生の頃にラジオで聴いた歌で殆ど流行らなかったのに、そして自分で歌ったこともないのに何故か突然思い出してしまった。スナフキンがいつもと違って、ザ・ブロードサイド・フォー『星に祈りを』(佐々木勉作詞・作曲)、高木麻早『ひとりぼっちの部屋』(高木麻早作詞・作曲)なんか歌い、姫とマリーが中島みゆきや竹内まりやを歌ったせいだ。
     その他には岸洋子『酔いしれて』(音羽たかし作詞・高寄潤司作曲)、菅原洋一『芽生えてそして』(永六輔作詞・中村八大作曲)、徳永芽里『あなたのすべてを』(佐々木勉作詞・作曲)。私は軟弱である。二時間歌ってひとり二千円なり。


    蜻蛉