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    第六十五回 小平編  平成二十八年七月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.03.23

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     昨日はこころにハスを見せた。団地造成の際に、小畔川への排水を調節するために造られた池が、小畔水鳥の公園として整備されている。その三分の一程が、二三年前からハスに覆われて、ピンクの花が咲いているところだ。池の周囲に大きな望遠カメラを据え付けた連中が多いのは、カワセミを待っているのだと言う。この池でカワセミなんか、私は見たことがない。この望遠カメラが団地を覗いているように感じる人も多く、池に面した棟では問題になっている。
     池に直接降りては行けず、柵の外から眺めるだけでは、こころの視力には少し遠すぎたか。「ミエル」とは言うものの、視線はあらぬ方を彷徨っている。「何色?」「ブルー。」違うだろう。「ピンクだよ。」
     そこに大きな鳥が羽ばたいて降りてきた。アオサギだ。「オッキイネ。」これは分ったようだ。「コッチモ。」こっちにいるのはカモだった。孫の成長を見ていると実に面白い。息子たちの時には面白いなんて思う余裕はなかった。
     旧暦六月六日。小暑の初候「温風至」。明日は参議院議員選挙だが、私は選挙制度と国民の投票行動に何の期待も持てないでいる。各種報道は全て自公の圧勝と、改憲勢力が三分の二を超える可能性を予測している(そして予想は的中した)から、近い将来、必ず改憲は発議されるだろう。安倍政権は卑劣にも改憲を選挙の争点に掲げず、マスコミはそれに対して何の批判もしなかった。やがて国民投票が実施されるだろう。国民投票の恐ろしさはつい最近イギリスで見たばかりだ。
     今回の選挙の最大の眼目は、安倍政権を倒して安保法制を廃止に追い込むための人民戦線結成にあった筈だ。共産党はいち早く歴史的な決断をしたが、民進党は最後まで及び腰だった。目標を見失っているのである。
     新自由主義と呼ばれる市場原理主義者は、グローバリズムの名のもとに暴力的破壊的な競争を推進することで世界をズタズタにし、格差とルサンチマンを撒き散らした。アメリカのトランプ現象もイギリスのEU離脱騒動も、根っこにあるのはこの問題である。しかしこのことを指摘するマスコミ報道には殆どお目にかかったことがない。そして新自由主義は安倍政権だけでなく、民進党(!)の経済政策にも大きく影響しているのだから始末に負えない。
     左翼は死語になって久しいが、気が付いてみるとリベラルさえどこに行ってしまったのか。リベラルということを、私はロールズの「公正としての正義」によって考えているのだが、「公正」というのは既に議論の前提にもならないのだろう。そしてベクトルは全く逆だが、そこにはハンナ・アーレントの「公的な領域」もないだろう。舛添要一の「公私混同」は実は、あらゆるものが私的化し、公的なものが見失われた時代の象徴であった。
     根本的なことをマスコミが報道しない社会で、投票によって民意を問うと言う、その「民意」とは何だろう。私には民意が見えない。(そして都知事選でもまた野党は戦術を誤った。これも民新党の共産党アレルギーによるだろうが、宇都宮健児を統一候補にすべきだった。鳥越俊太郎は四年後には八十歳になるのである。)
     しかし全て愚痴である。所詮、私は投票に行かない男である。

     今日は江戸歩きとしては久々の雨になった。リーダーのロダンには気の毒だが、おそらく参加者は少ないだろう。川越市駅から本川越駅まで歩くのも久し振りだが、以前は若松屋を過ぎてイーグルバスの辺りに突き当ってから、左に大きく迂回しなければならなかった所に道ができでていた。お蔭で川越市駅からほぼ一直線で、新設された本川越駅西口に入ることができる。以前より十分も短縮したのではないか。
     本川越から小平までは西武新宿線でおよそ三十分だ。所沢のカズちゃんは早く来過ぎてしまったと言う。「誰もいなくて、不安だったわ。」不安になってロダンにメールしたが、そのうち人が集まって来たので安心した。「一番近いんだから、もっとゆっくり来れば良いのに。」「愚図々々してると、出かける気がなくなっちゃうから。」そんなものか。
     「アッ、返事が返ってきました。」スナフキンと一緒にカズチャンの画面を覗き込むと、ロダンの返事は「小平でお待ちしております」だった。「まだ来てないじゃないか。」お待ちしているのはカズチャンである。やがてそのロダンが現れた。「リーダーは真っ先に来てなくちゃダメじゃないか。」相変わらずの講釈師節が響く。
     「桃太郎からメールがきてます。」どういう訳か拝島にいて、これから向かうので十分遅れになると言う。「なんで拝島なんかにいるんだよ?」「間違ったんじゃないか?」この辺りは西武線の支線が入り組んでいて、余程調べて来ないとどこに行ってしまうか分らない。国分寺線、多摩湖線、拝島線、西武園線、狭山線、山口線を正しく理解している人はどれだけいるだろう。
     あんみつ姫からは、所沢で乗り換えが上手く行かなかったので十時ちょうどになりそうだと連絡が入った。待っている間にカズチャンが飴をくれる。
     小平の地名は明治二十二年四月一日に施行された市制・町村制による合併で生まれた。最初の開拓者小川九郎兵衛から「小」を、起伏の少ない平らな土地であるから「平」を採ったのである。重要人物なので、『朝日日本歴史人物事典』から引いておこう。

    江戸前期に武蔵野の新田開発を推進した土豪。諱は安次。武蔵国多摩郡岸村(東京都武蔵村山市)の出身。明暦二(一六五六)年幕府に出願、翌年岸村の東南東約十キロの武蔵野で開発に着手。玉川上水と野火止用水の分水地点に、青梅街道に沿い街村状の集落を作り、その後背に短冊型の新畑を開発、小川新田(東京都小平市)と名付けた。新田は、青梅から江戸への白土(石灰)運送の馬継場となり伝馬をも負担。子孫は幕末まで同村の名主を世襲。

     十時十分までに集まったのは講釈師、ヨッシー、カズチャン、あんみつ姫、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の八人である。外を見ると雨風が強くなってきて、スナフキンはレインパンツを穿き、姫とカズチャンはポンチョを纏う。私以外の皆はザックカバーを着けている。(ロダンはショルダーバッグなのでない。)半袖シャツ一枚では寒いくらいだ。

     南口に降り、駅前ロータリーからあかしあ通りを南下すると、ルネこだいら市民文化会館の前に巨大な赤い丸ポストが立っていた。「日本一丸ポスト」だ。小平市に丸ポストが多く残っているのは、大分前に近辺を歩いた時に知った。現在も使われている丸ポストは三十二本、都内の自治体では最多と言う。二十三区内には五本しか残っていない。逆に兵庫県芦屋市には十九本残っており、人口比では最も多いらしい。
     小平市はこれを観光の目玉にしようと、この巨大ポストを造ったのである。通常の投函口には手が届かないので、腹に投函口を設けている。高さ二・八メートル、幅八十センチ。上の投函口は二・一メートル、下は一・四メートルの高さになっている。「上の口は途中で詰まってるんじゃないか?」両方とも使えるのだ。

     かつては日本全国に普及していたが、四角い箱型のポストへの置き換えが進んだ。これは、箱型ポストは中に郵便物を貯める袋を吊るし、それを交換するだけで収集できるのに対し、丸型ポストは小さな取出し口から郵便物を手でかき出す手間がかかるためであった。しかし合理化による粛清を生き延びた丸型ポストは、希少価値ゆえに保存される傾向が強まっている。再開発などによって移設されることになっても、四角ポストへ置き換えられることなく丸ポストが移設され継続して使われる事例なども出てきている。(ウィキペディア「丸型ポスト」より)

     「合理化による粛清を生き延びた」と言われれば、なんだか我が身を見るようで愛おしい。このようにしてガラケーも生き延びて欲しいと思う。人は合理化、便利ばかりでは生きていけない。便利になるだけ人の知力体力は確実に衰える。この点に関して私は保守主義者と呼ばれて何の痛痒も感じない。但しこれが単に「カワイイ」からという理由なら私には縁がない。
     少し行くと青梅街道に出る。「今度ここを歩くんですよね」と桃太郎があんみつ姫に確認している。日光道中が先月の十七回目で終わり、姫は十月から青梅街道歩きを計画しているのである。元々江戸城築城のために、青梅成木村の石灰を運ぶ道として整備された街道で、青梅から先は大菩薩峠を経由して甲州に至った。因みに五日市街道は主に木材や炭の輸送路として使われた。
     街道を東に少し行けば、小平熊野宮前交差点には大きな石鳥居が立っている。そこから二百メートル程が参道になるが、両側はマンション群になっている。途中で細い用水を渡る。「この用水も玉川上水から引いたものです。」地図を見ると、街道を挟んで南北約三四十メートルの辺りを小さな用水が平行に走っている。幅一メートルにも満たない用水だが、きれいな水が流れている。橋の脇のガクアジサイの、白い四枚のガクに囲まれた中央部には青く小さな花が可憐に咲いている。

     武蔵野の命の水に四葩咲く  蜻蛉

     二の鳥居に向かい合うように建っている大きな門構えの家は余程古くからの名家だろう。表札を見ると「宮崎」だった。これが宮司の家である。社殿正面には大きな対の欅が立ち、夫婦欅と名付けられている。樹齢三百年という立派なもので、二本の幹を注連縄が結んでいる。社務所の前では初参りの家族連れが写真を撮っている。小平熊野宮。小平市仲町三六一番地。

     当宮は、武蔵国多摩郡殿ヶ谷村鎮座の延善式内社・阿豆左味天神社の摂社として、 同郡岸村字岸組に産土神と奉斎されていた社を、小川村の開拓に着手した小川九郎兵衛と、阿豆左味天神社の神主で当宮社家の始祖である宮崎主馬が、寛文年間(一六六一~一六七二)に小川村明主の屋敷内に遷祀し、その後小川新田(現在の仲町、喜平町、学園東町、学園西町と上水本町の一部、上水新町)の開拓を行うのに先立って、その守護神として宝永元年(一七〇四)に榎の大樹のもとに祠を建立し遷座したのが縁起である。(掲示板より)

     宮司の宮崎氏は、ここにある寛文年間の宮崎主馬の後裔になるのだろう。小川九郎兵衛と宮崎主馬によるという由緒は、実は小平神明宮(小平市小川町一丁目二五七三番地)と同じである。つまり最初の小川村(小川旧田)開拓に当たって神明宮(祭神はアマテラス)を、次いで小川新田開拓のために熊野宮(祭神はイザナキ、イザナミ)を勧請したのである。祭神はなんでも良いのだ。
     阿豆左味天神社は武蔵国多摩郡八座の一座に数えられ、武蔵七党の村山党の氏神として信仰を集めた。殿ヶ谷村(西多摩郡瑞穂町)とは、村山氏の居館があったことに由来する地名らしい。西多摩から埼玉県南部にかけては村山党の拠点であり、同族の山口(所沢市)、金子(入間市)、宮寺(入間市)、仙波(川越市)の本貫の地が地名に残っている。
     拝殿の提灯の文字は「武蔵野乃一本榎 熊野宮」だ。桃太郎はいつものように拝礼を欠かさない。神輿蔵のガラス越しに見える大太鼓と神輿は立派なものだ。太鼓の直径は一メートルもあるだろうか。「一本の木を刳り抜くんだから、立派な欅だったんだよ。」石川県の浅野太鼓の作成で、平成十六年(二〇〇四)、熊野宮鎮座三百年を記念して奉納されたものである。
     浅野太鼓は慶長十四年創業の専門店で、そのHPをみると、大太鼓とは口径三尺以上のものを言う。これを作るためには幹の直径が一メートル以上のものでなければならず、本来はケヤキで作りたいところだが、自然木は稀少なため、主に目有(タモ、唐木)が用いられる。
     社殿の裏に回ると、「武蔵野乃一本榎」が立っている。この榎の方がこの神社にとっては重要だった。

     往時この一帯は「逃水の里」と称され、川もなく水の便が非常に悪い場所で、人家が一軒もない荒漠たる武蔵野の原野であったと言われている。その当時から重要な街道であった青梅街道は田無から箱根ヶ崎までの間には宿場もなく、往還する人馬にとって寒暑風雨や飲み水の確保に至極難渋した地域であったようである。
     そのような原野の中にあって、当地に一本の榎の巨木が聳え立っており、これが「武蔵野の一本榎」と呼ばれていて、街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたと伝えられている。宝永年間の「一本榎」は、既に樹齢数百年を経た老大樹で、その枝は四方の広大なる地域に張り、その投影は百数十間にも及び、盛夏の炎天下にあっても絶えず千古の涼風が吹き通っていたとも伝えられている。
     この初代の榎は、寛保年間(一七四二~四四)に枯木となり、その後に一本榎神社として祀られ、現在その社は、境内の末社殿に合祀されている。二代目の榎も目通り七尺の大樹であったが、大正三年九月の暴風雨により倒潰し、現在繋っている榎は、樹齢約百年の三代目の孫木である。(掲示板より)

     「枯れた時に、一度に二三本植えれば良かったじゃないか。」「それじゃ一本榎にならないだろう。」
     ここにも記されるように、小平地区は水利が悪く田畑も作れない荒野であった。それが開拓されるのは承応二年(一六五三)十一月に完成した玉川上水のお蔭である。
     境内を出る頃には雨はいったん止んだ。御遷座三百年記念の石燈籠の前に庚申塔が立っていて、姫が注意を促してくれる。「文字だけですけど、ちゃんと三猿もいますね。」
     青梅街道を東に五六百メートル程行けば、延命寺(伽羅陀山)だ。真言宗豊山派。小平市天神町三丁目五番地一。

     延命寺は、もともと武蔵国多磨郡中藤村(現武蔵村山市中藤)の竜華山真福寺の塔頭六ヶ寺のうち随一といわれた由緒ある寺院でした。享保年間の野中新田開発に際して入村した者たちによって、享保十八年(一七三三)九月、時の代官上坂安左衛門役所に願いが出され、間もなく許可されてこの地に引寺されたといわれます。
     その後、住職五世を経て、浄範和尚が現れてこれを中興したので、浄範和尚を中興第一世として伽羅陀山地蔵院延命寺と称しました。(小平市教育委員会・小平郷土研究会掲示)

     「延命寺って他にもありませんか?」「寺の名前には同じものが多いよ。」「商標登録はないからね。」新しく村が出来れば菩提寺が必要になるのである。
     嘉永三年(一八五〇)の庚申塔が珍しい。笠付角柱の中央に立つ青面金剛が邪鬼を踏みつけているのは普通だが、台座の三猿が、衣装を纏い烏帽子を被っているのである。「面白いですよね」とあんみつ姫も喜ぶ。細部は剥落して黒くなっているので良く確認できないが、説明によればこういうものだ。

     この庚申塔は、嘉永三年(一八五〇)に造立されたもので、市内に現存する庚申塔の中でも珍しいものです。塔は小松石の唐破風屋根付角柱石で、高さ一・七メートル、正面上段に日輪と月輪があり、青面金剛が魔物の天邪鬼を踏みつけて立っています。その顔は至極柔和で笑っているようにもとれます。また台座面の三猿は烏帽子をかぶり、狩衣をつけて足をあげ、一匹は左手に扇を持ち右手で口をふさぎ、一匹は左手に鈴を持ち右手の扇で顔をおおい、一匹は左手にご幣をかつぎ右手で耳をふさいで、三匹で三番叟を踊っているユーモラスなものです。

     加賀には張り子の「猿の三番叟」という玩具があって、有名らしい。能の前身が猿楽であれば、猿と三番叟との結びつきはそれほど不自然ではないのか。三番叟を三番猿楽とも言うそうだ。能の教養がないので、それ以上の意味を推測するのは難しい。
     庚申塔物語「扇子型の三猿」(http://hoko.s101.xrea.com/koshinto/tama1-47.html)によれば、三番叟を踊る三猿の庚申塔は、この辺では青梅市千ケ瀬の宗建寺(文化二年)、青梅市黒沢野上(文化六年)、青梅市成木の慈眼院(文政九年)、あきる野市伊奈の山王宮(弘化四年)などにあると言う。
     山門を潜って境内に入ると、六地蔵の真ん中に観音が陣取っている。「真ん中に聖観音がいるのは珍しいね。」しかし中央の坐像を聖観音と思ったのは勘違いだった。台座の文字の先頭が「聖」だと思ったのだが、後で写真を確認すると、頭頂を凸凹したものが囲むようになっているので、これが化仏なら十一面観音だったかも知れない。
     いずれにしても六地蔵の間に鎮座しているのは余り見たことがない。地蔵も観音も、その役割は似たようなものだから、一緒にいて貰っても私は一向に構わない。観音も地蔵も独鈷のようなものを持っている。「これも珍しいんじゃないですか」と桃太郎とあんみつ姫も呟いている。
     本堂脇には線刻の石碑がいくつか建っている。四国巡礼記念に建てられたものには僧侶の座像が描かれているが、これは弘法大師空海か、それともここは豊山派だから興教大師覚鑁か。境内には用水が流れ、アジサイが美しい。静かで落ち着いた良い寺だ。「アジサイ寺みたいだね。」

     紫陽花や絲雨穏やかに六地蔵  蜻蛉

     青梅街道を更に東に向かい、西武新宿線を超えると公立昭和病院の駐車場にはバスが二台駐車している。小金井市、小平市、東村山市、東久留米市、清瀬市、東大和市、武蔵村山市、西東京市の八市が作る組合病院である。
     その先が武蔵野神社だ。小平市花小金井八丁目二十六番地。武蔵野神社とはありそうでない、随分お手軽な命名ではないか。

     武蔵野神社の起源は、野中新田開発のときにさかのぼる。上谷保村(現国立市)の円成院住職大堅と矢沢藤八らは、新田開発に当たり全開墾地を十二等分し、その一つを社地と寺地にすることに決めた。そして、新田開発の基礎ができた享保九年(一七二四)九月三日、上谷保村から毘沙門天を村の鎮守として野中新田に遷宮したのである。
     以来、円成院(花小金井一丁目、享保一二年(一七二七)上谷保村より引寺)が管理していたが、明治維新の際に分離独立し、末社として祭ってあった猿田彦大神を村鎮守に祭祀して、社号を「武蔵野神社」とした。(略)(小平市教育委員会・小平郷土研究会掲示より)

     円成院は黄檗宗の寺である。矢沢大堅と矢沢藤八の開拓には、渡来して間もない黄檗宗を広める目的もあったらしい。それにしても「毘沙門天を村の鎮守として野中新田に遷宮した」と言うのが、私には新鮮な驚きだった。毘沙門天は言うまでもなく仏教の四天王の一であり、普通は「宮」に祀られるものではない。江戸時代の神仏習合は、それをも許容していたのである。

    (北野中新田)毘沙門社
    村の中央青梅街道の北にあり。上屋三間に六間南向、内に五尺四方の祠を置。拝殿は造りかけなり。神体立像にて長一尺二寸許、前に鳥居をたつ。例祭九月三日、村内円成院持。(新編武蔵風土記稿より)

     「毘沙門社」というから明らかに神社の扱いである。調べてみると、毘沙門社、多聞天社と呼ばれた神社はいくつかある。例えば所沢の多門院(真言宗豊山派)は、三富新田が開発された際、鎮守の宮として祀られた毘沙門社であった。
     明治の神仏分離に当たってそれではまずいと考えたのだろう。たまたま末社に猿田彦を祀っていたので、これを主祭神に取り上げたのだ。
     百メートルほどの銀杏並木の参道の両側には朱塗りの灯篭が並んでいる。狛犬のそばには、大きな石に七福神を彫り込んだものがある。
     社殿の鈴は三つ、それに綱が結ばれているから綱(鈴緒)も三本ある。「三本あるのはどういう意味ですか?」知らない。講釈師は「三種の神器に関係するんじゃないかな」と言うが、余り信憑性があるとは思えない。ネットを調べてみたが特に本数の決まりはなさそうだ。
     社殿の脇には猿田彦の巨大な立像を収めた小屋のような祠がある。「新しそうだね。」「大魔神みたいじゃないか。」「大魔神って埴輪ですよね。」私は大魔神について詳しくないが、この像も埴輪のようでもある。つまり素人の粘土細工のようなのだ。全身チョコレート色で、青い鉄棒(?)を持っている。

     昭和六十三年の境域一新の大改修事業は、ここに完工をみるに及び、氏子指田蔵吉氏は大神の御神徳のなお一層の発揚をと、猿田彦大神の御神像を全身全霊を込めて製作、奉納されました。

     私に美術や彫像の鑑定眼があるとは思えないが、この像を見る限り、指田蔵吉氏はおそらく素人である。大胆な人だ。念のために『日本書紀』(宇治谷孟訳「全現代語訳」)から猿田彦の姿を引用しておこう。

     先払いの神は帰っていわれるのに、「一人の神が天の八街(道の分れるところ)に居り、その鼻の長さ七握、背の高さ七尺あまり、正に七尋というべきでしょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは、赤酸漿に似ています」と。

     背の高さ七尺余りならばせいぜい二メートルを超す程度だが、古事記によれば「天の八衢に居て、上は高天の原を光し、下は葦原中国を光す神」とされるので、もっと巨大である。これから、猿田彦はアマテラス以前の太陽神であったという説も生まれてくる。
     ニニギを先導した後、猿田彦は伊勢の五十鈴川に鎮座するのだが、漁をしていて比良夫貝に手を挟まれ溺れて死んだ。比良夫貝とはタイラギではないかという説がある。いくら大型の二枚貝とはいえ、これに挟まれて溺れるのは余り恰好良くない。
     「猿田彦って、鼻が大きくて天狗みたいなのですよね。天狗なのに、どうしてサルなのかな?」桃太郎は面白いことを考える。天狗が現在イメージされるような鼻の長い姿に決まったのは、そんなに古いことではない。

     今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである。
     事実、当時(平安時代)の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった。(ウィキペディア「天狗」より)

     猿田彦と天狗とは本来何の関係もないのである。「お茶の水博士が猿田彦の末裔なんだ。」「『火の鳥』の猿田彦ですね。」こういう話がすぐに通じるのはロダンだ。『全巻読みましたよ。』全部で何巻あるのか分らないが、本棚には朝日ソノラマ版で黎明編、未来編(主人公の名前がマサトだったのは知っているだろうか)、ヤマト編、宇宙編、鳳凰編、復活編があった。『火の鳥』は手塚治虫が何度も書き直しているので、版によって異同がある。私たちの世代は朝日ソノラマ版で読んだ人が多いだろう。

     手塚による加筆・修正の順番は、『雑誌掲載版』→『朝日ソノラマ版』→『角川書店版』 である。それぞれ編によってはストーリーが大きく違うものもある。『復刊ドットコム版』は手塚が手を加えてない雑誌連載時の状態がそのままが読める単行本である。(ウィキペディア「火の鳥(漫画)」より)

     「それじゃ少し早目の昼にしましょう。」ロダンは神社の向かいにあるサイゼリアに予約をしてくれていた。十一時半。土曜だからランチメニューはなく、ライスは別料金である。「セットって頼めば良いんだよ。俺は知ってるからさ。」しかし講釈師が「ハンバーグのセット」と注文すると、「セットはないんですよ」とあっさり言われてしまった。調べてみると、平日には五百円のランチセットがあり、ライスにサラダとスープがついてくるようだ。「それじゃ、ご飯は大盛りで。」大盛りを食べるのか。
     私とロダンはハンバーグと普通のご飯、ヨッシーはカツレツを注文した。隣のテーブルではスパゲティが流行っている。スナフキンと桃太郎がジョッキ、姫がグラスビールを注文しているので、私もジョッキビールを追加した。「俺はワインにしようかな。」酒を飲まない講釈師は言うだけだ。ハンバーグ三百九十九円、ライス百六十九円、ビール三百九十九円、計九百六十七円である。
     講釈師の大盛りライスはやはり多過ぎて、ロダンと私に少しづつ分けてくれる。「ここの大盛りはホントに大盛りだよ。」それよりも、年齢というものを考えなければいけない。喜寿を超えた人が大盛りなんか注文してはいけないのだ。

     十二時になって出発する。また雨が降ってきた。青梅街道をもう一度西に戻る。西武新宿線を超えるとすぐ右手が小平ふるさと村である。小平市天神町三丁目九番一号。まず土産店に入ったと思ったら、ここは管理棟であった。前もってロダンが案内を頼んである。案内してくれるのは、麦わら帽子に長靴のオジサンである。
     管理棟を出て、木戸を抜ける。地面は所々ぬかるんでいて歩きにくい。最初は旧神山家住宅主屋だ。元は五日市街道に沿った回田町(江戸時代は「廻り田新田」と呼ばれた)という、小平で最も小さな新田に建てられた家だ。土地は街道側の間口三十三間(六十メートル)、奥行き百四十二間(二百六十メートル)四千六百八十六坪で、南側の街道から畑と雑木林を抜け北側の奥に、三十三間四方(千八十九坪)の宅地を構えた。

     建物は喰い違い四間取りで、茅屋根を兜造りとしています。伝承によると、小金井から曳家したものとのことですが、その建築年代は伝わっていません。調査によって、建築当初(江戸時代中期~後期)は三つ間取広間型であったものを、移築時(天保年間と推定)に復元の形に改築したと考えられています。

     広い土間にはヘッツイが二つ置かれている。「こちらは三升炊き、こっちは普通の煮炊きに使いました。ところで、ヘッツイと言うのは関西の言葉ではないだろうか。東日本では普通にカマドあるいはクドと言うのではないかと思うのだが、説明する人はヘッツイと言う。調べてみるとヘッツイは古代日本語で、ヘツヒが転訛した。「ヘ」(竈)「ツ」(格助詞)「ヒ」(霊または火)である。
     「庄屋の家でしたか?」「そうです。」「庄屋っていうのは関西の呼び方、この辺では名主と呼ぶんだよ。」座敷にはテーブルが置かれて団体客がうどんを食っている。土日だけの営業で、「小平糧うどん」と称するものを五百円で提供しているのだ。

     まぼろしの味「小平糧うどん」を広く知ってもらうため、武蔵野手打ちうどん保存普及会が「JA東京むさし」の協力により、小平産の地粉を使って「小平糧うどん」を毎週土曜・日曜日および祝日の昼食時に、一日五十食を限定に小平ふるさと村で販売(一食五百円)しています。
     小平糧うどんは、冷たい盛うどんを温かいつゆで食べるといったシンプルなものですが、うどんだけでもおおむね二十三の製造工程があり、その他、つゆや糧も含めれば、なかなかもって奥の深い郷土料理ともいえるのです。(小平ふるさと村)
     http://kodaira-furusatomura.jp/kateudon

     「この辺は米が出来ないので、もっぱら麦が主食でした。」小平糧うどんの「糧」は「かて」と読む。江戸時代以前は全くの荒れ地であった。玉川上水、野火止用水から水を引くことによって漸く作物栽培が可能にはなったが、水田を作るだけの水量は得られなかった。但し、分水は主に開拓農民の飲用水として使用された。水の少ない土地で採れるのはヒエ、アワ、小麦である。これがこの地方の貧しいうどんになった。

    しかし、江戸に比べ、武蔵野一帯は住む人もなく荒涼とし、旅人などの困難はたいへんなものでした。こうしたなかで、明暦二年(一六五六)小川九郎兵衛によって小川村(現在の小川町一・二丁目、中島町、栄町、小川西町一・五丁目、小川東町、小川東町一・五丁目、たかの台、津田町一・三丁目、学園西町二・三丁目、学園東町一丁目の一部)が開拓されました。
      さらに享保年間(一七一六~一七三六)には小川新田、大沼田新田、野中新田与右衛組、野中新田善左衛門組、鈴木新田、廻り田新田と次々に開拓されました。(小平市「小平の歴史・文化・市の誕生」http://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/023/023249.html

     ヘッツイの裏側は馬小屋になっている。新田開拓農民は五日市街道の伝馬役を果たしていたのである。
     そこから桑畑を抜け、開拓当初の農家を復元した家に入る。入口は低く、背を屈めなければ入れない。「穴を掘って柱を立てただけのものです。」「掘っ立て小屋ですね。」茅葺屋根に、外壁も茅か藁で覆われている。二人用の家屋と言うから、夫婦で暮らしたのだろう。土間の中央に囲炉裏が作られている。「茅葺屋根の防虫のため、今でも毎日火を焚きます。」「明かり取りはどうしたんですかね。」「そこの四枚を開けるだけです。ただ、ここは寝に帰るだけだったそうですから、明かり取りを必要としたことはそんなにないんですよ。」
     近隣の農村の二三男坊が、用水の水番などを名目として開拓のために移住してきた。荒れ地の開墾は大変だっただろう。街道を挟んで南北に短冊形の屋敷地が開かれた。

    しかし、開発は必ずしも順調にはいかなかったようで、寛文二年(一六六二)十一月の名主九郎兵衛非法の訴状には「新田ニ而つぶれ百姓六拾四間(軒カ)御座候、此者ともニ妻子我身を売御江戸在々方々ニ罷在候」とあって数多くの挫折者が出たことが記されています。また、万治二年(一六五九)の百両の夫食拝借願を初めとして、寛文三年(一六六三)には干魃によって再び拝借金を願い、元禄十二年(一六九九)には風損によって九十一軒の家が倒れ九八五本の木が折れる等の被害に遭い、享保十九年(一七三四)には大雨で水に浸かった畑は皆損状態になるなど開発には数多くの困難がありました。(中略)
    入村者は大半が狭山丘陵と加治丘陵付近の村々からの者達で、遠くは奥多摩・秩父・吉見および江戸から来た者もみられます。明暦四年の「相定申一札之事」によれば、開発に着手して一年余で七十八軒の入村が確認できます。その条件は新田に定住して家作を持ち、伝馬継を負担するというもので、延宝二年頃の村絵図には青梅街道に沿って南北に短冊形に地割りされた土地一筆毎に家が描かれています。正徳三年(一七一三)の村鑑には家数二〇二軒・人数九〇八人(男四七九人・女四二九人)、馬数一五八疋で、享保十九年(一七三四)には家数一九二軒・人数九二三人(男四九四人・女四二九人)、馬数一五〇疋となっています。(小平中央図書館『小平市史料集』第十二集「解題」より。引用された文書番号は省略した)

     旧小川家玄関棟は開発名主の小川家である。文化五年(一八〇八)に完成した建物の、独立した表玄関の部分だけがここに移築された。図面で見ると敷地間口六十間、奥行三十間だから千八百坪の広さで、街道に沿ってほぼ真ん中に表大門があり、そこから入った所にこの玄関があった。ここから渡り廊下で数棟の建物が繋がっている。通常の名主よりもはるかに格が高かったと想像される。おそらく北条遺臣ではなかったろうか。
     名主は村の指導者であるとともに支配機構の末端にあり、その屋敷は役所を兼ねていた。表玄関から入れるのは代官や役人だけだったろう。
     旧鈴木家の穀櫃。桁行三間、梁間一間半、高さ六尺の建物の上に茅葺屋根が載り、その間は隙間があいている。非常用のヒエや粟を備蓄した倉庫だ。日光道中では文挟の二荒山神社境内の郷倉を見ているが、あれと同じであろう。
     消防小屋には半鐘の鳴らし方の絵が貼られている。ショウボウカネウチヒョウジバンである。近火信号、組区域内火災信号、組区域外火災信号、報知信号(他組内火災)、鎮火信号、演習召集信号の区別があるのだ。「聴く方が知らなかったら意味ないよな。」「隣が本物の消防署です。」
     旧小平小川郵便局舎。「電話室」の入り口がある。窓口は金網で仕切られていて、その奥に電磁ケースが置かれている。

     局舎は、明治四十一年(一九〇八)建築の和風建築で、わが国に現存する郵便局舎の中でも、古いものの一つです。当初は集配業務を行い、また昭和初期からは電話交換業務も行っていました。和風平屋建、赤茶色の屋根、窓口は鉄格子、屋根の二か所に〒マークがあります。明治末期から大正期にかけての郵便局の様子を知ることができる貴重な建物です。
     昭和五十八年一月まで地域住民に親しく利用されていました。

     「奥は住宅になっていました。」要するに特定郵便局である。郵便制度発足当初、全国に郵便局を作るだけの金が国家にはなく、地域の名士や豪農を郵便局長に任命して土地家屋の無償提供を求めたものだ。これは郵政民営化によって廃止された。
     小平で最初に郵便業務を取り扱ったのは森田蔦吉であるが、明治十五年(一八八二)、小川村の名主・小川弥次郎が自宅を改造して、森田家から引き継いだ。そして明治四十一年(一九〇八)に荒井伊左衛門が継承して郵便局を新築した。これがその建物である。
     「ご案内はここまでです。」「有難うございました。」約三十分か。「私も歩くんですよ、東松山のスリーデーマーチもよく歩きました。」「何キロコースですか?」「初日は五十キロ、二日目は三十、三日目は二十キロです。」それは大したものだ。「だけど今年からここに来たもので。ここは土日が休みじゃないんですよ。」年を食った新人であった。雨のせいでゆっくり見学できなかったが、なかなか勉強になった。晴れたときにもう一度来ても良い。
     もう一度管理棟に入ってみんなは土産を買う。ブルーベリーを使った菓子がいろいろある。ジャム、どら焼き、ロールケーキ、タルトなどで、私には関係がない。ロダンの計画では、最後に花小金井の島村農園に立ち寄る予定なのだが、「生のブルーベリーが売ってるかどうか、分りません。時期が少し早いので」と窓口のオバサンが声を揃える。要するに生が手に入るかどうか分らないから、ここで菓子を買えと言っているのだ。ヨッシー、講釈師、スナフキン、あんみつ姫がそれぞれ買った。

     新小金井街道を北に向かい、西武新宿線を超える。四五百メートル程歩くと、右側には錦城高校があった。「高校時代、野球で勝ったことがある。あの当時は男子校だったよ。」スナフキンは高校球児だった。所ジョージがこの学校を卒業している。今は共学になっているようだ。左手は広大なグランドで、これも高校のものかと思ったが、実は東京ガスのものである。
     そして新青梅街道を渡った左手が東京ガスの「GAS Museumがす資料館」である。小平市大沼町二丁目五百九十番地。構内には赤煉瓦の建物がいくつか建ち、庭の周囲には東京や横浜で実際に使われていた街燈が火を灯している。ここだけが文明開化の雰囲気を漂わせているようだ。
     一時だ。ガス燈館に入り、リュックをロッカーに収めて室内に入る。小さな子供たちを連れた団体が先に椅子に座っている。子供たちの声で説明が聞き取れない。
     「最初に団体に説明してしまいますから、江戸の方は七八分、お待ちください。」何かの施設の子供たちだろうか、引率の大人はオレンジのユニフォームを着ている。子供たちはビデオ映像に集中しないから、係員は火をつける。点火実験である。最初にろうそく、次に街燈、花火型の照明、エジソンの電燈。これは面白い。
     子供たちが出て行ったあとで、もう一度最初からビデオを見る。アニメの説明役は高島嘉衛門だろう。私たちは横浜を歩いた時から、高島嘉衛門にはかなり詳しくなっている。
     明治五年(一八七二)に横浜馬車道に始まった街燈は、七年(一八七四)には東京銀座に灯された。これが日本のガス事業のはじめだが、当初は民間会社が運営するだけの規模にはなく、東京府の事業として行われた。明治十八年(一八八五)澁澤栄一によって東京瓦斯会社が創設されたのが、日本のガス会社の嚆矢である。「ここにも澁澤栄一がいるんですね。」
     ビデオを見た後、もう一度火をつけてもらう。裸火は炎が四本立っているが、この炎が魚の尻尾のように見えるので魚尾灯とも呼ばれたという。この明るさで本を読むのはまず無理だ。これで十六燭光程らしい。燭光という単位は今では使われていないが、ろうそく一本の明るさを一燭光と呼んだらしい。そして非常に大雑把に考えて、一燭光は一ワットとみてもよいらしい。勿論、厳密にいえばワットは消費電力を表す単位で、明るさの単位ではないのだけれど。エジソンが発明した白熱電球も、明るさは標準的なガス灯に合わせて十六燭光だった。
     花ガスというのは、車輪状の管全体から炎が出るもので、イベント会場に設置されたものだろう。「これって、不完全燃焼ですよね」と桃太郎が指摘する。黄色い炎は不完全燃焼なのである。
     そして、ガス灯の完成形はマントルガス灯というものらしい。「終戦後、停電が頻繁に起こったころに使いましたよ。」ヨッシーの証言だ。これはかなり明るい。

     ガスマントルを利用することにより、従来の裸火ガス灯と比較して、一灯の出力が四〇燭光程度にまで伸びたガス灯。 ガスマントルは、一八八六年(明治十九年)、カール・ヴェルスバッハによって発明された。麻や人絹の織物に硝酸セリウム・硝酸トリウムを含浸させたもので、一旦火を付け灰化させるとガスの炎で発光する。日本では明治二十七年頃からガスマントルを利用したガス灯が出現した。 タングステン電球が普及するまでは相当数が用いられた。従来の裸火のガス灯と区別する為に白熱ガス灯という。現在見ることのできるガス灯の大半はこの白熱ガス灯である。(ウィキペディア「ガス灯」より)

     二階のギャラリーでは明治の錦絵が展示されている。別棟のくらし館との間には、石炭からガスを作り出す大きな装置、硫黄や窒素化合物を除去する装置が置いてある。小雨はまだ降っているので急いでくらし館に入る。
     ガス七輪の四面でトーストが焼けるトースターは聞いたことがある。カニの形をしたストーブは、この形にした意味が分らない。それにしてもなかなか面白いミュージアムである。
     もう一度くらし館に戻ってトイレ休憩がてら、入り口付近の椅子に座って休憩する。講釈師とヨッシーからオカキが配られる。
     雨は止んだようで、少し暑くなってきた。新小金井街道を戻り、野菜の直販所で立ち止まる。「ナスが三つで百円は安いですね。」桃太郎は早速そのナスを買う。ヨッシーは買い物が好きだ。新じゃがいも一袋百円、その他葉物を買い込んでいる。
     「正しくシソって書いてるのは珍しいですね。今は大葉って言うじゃないですか。」実は私も紫蘇と大葉の区別が分らなかったので調べてみた。食用のシソには赤紫蘇と青紫蘇があり、そのなかで青紫蘇の葉を大葉と呼んでいる。何故、こんな呼び方を
    したのか。

     大葉と呼ばれるのは青紫蘇の葉で、大葉と青紫蘇の葉は同じものを指す。
     同じものなのに「青紫蘇」と「大葉」と呼び分けられるのは、昔、青紫蘇の芽と葉を区別して販売するため、青紫蘇の葉を束ねたものを「大葉(オオバ)」という商品名で売り出したことがきっかけ。
     その後、流通量が増え、「大葉」の呼称が世の中に浸透していったため、現在でも青紫蘇の葉を「大葉」として販売されているのである。
     「大葉」と呼ばれるのは、食用の香味野菜として販売される時であって、植物として青紫蘇の葉を指す時には「大葉」と呼ばない。(「紫蘇(シソ)」と「大葉」の違い)
     http://chigai-allguide.com/%E7%B4%AB%E8%98%87%EF%BC%88%E3%82%B7%E3%82%BD%EF%BC%89%E3%81%A8%E5%A4%A7%E8%91%89/

     西武新宿線の南側を狭山・境緑道が通っている。ロダンはこの道を発見した時、コースを組み立てたのだと言う。「日差しが暑いときには木陰が涼しいからね。」「まっすぐだね。」「川だったのかな。」「それにしては真っ直ぐ過ぎるよ。」しかし川ではなかった。水道道路である。

    多摩湖から境浄水場までの水道管を布設した道路を緑化したのが、狭山・境緑道です。現在は、西東京市から東大和市までの一〇・五キロにわたって開園しています。
    緑道沿いには、サツキ、ヤマブキ、アジサイ、サルスベリなど花の咲く樹木が多く、花の季節には彩りも鮮やかに装います。緑道と並行して幅四メートルの自転車・歩行者専用道が通っており、都立小金井公園、狭山公園とあわせて散策やサイクリングを楽しむことができます。(「むさしのの都立公園」http://musashinoparks.com/kouen/sayama/)

     時折背後から自転車がやってくる。「俺を挽かせようと思って注意しなかったな。」「そんなことないですよ、私だって気付かなかった。」自転車歩行者用の道なのだ。
     右手の広いグランドのフェンスに「放火禁止」のプレートが貼られているのがおかしい。放火は「禁止」されるものか?日本語の語感がおかしくなっている。「ここはどこだい?」「地図を見てよ。」ロダンの地図を見ると嘉悦大学のようだ。「加藤寛が学長やってたんだ。」相変わらずスナフキンは詳しい。「確かスキャンダルがあったろう?」「あった。」
     嘉悦大学は日本で初めての女子商業教育校として、明治三十六年(一九〇三)嘉悦孝(孝子とも)が私立女子商業学校を創設したのに始まる。女子にも経済力を身に着けるための教育をという創立者の理念は高いが、世襲のオーナー理事長の質は次第に落ちていく。平成二十三年(二〇一一)から五年間にわたり、嘉悦克理事長、その妻、息子である事務局長が八千六百万円を不正に受け取っていた。この金額は学園の発表だが、文科省は不正支出の総額は一億三千八百万円だとした。これが去年の十二月のことで、今年三月になって、不正支出は約一億円ということに決まったらしい。
     また加藤寛は慶応SFCを作り、千葉商科大学の学長もやった。教え子に小泉純一郎、橋本龍太郎、竹中平蔵、小沢一郎がいるのを見ても分るように、新自由主義の親玉であり、つまり、日本をこんな風にした元凶だったと言って良い。
     遊歩道を離れて鈴木街道に入る。「鈴木街道ってなんだよ?」開拓者の一人、鈴木利左衛門の鈴木新田に因む街道である。道の反対側にはブルーベリー畑があるが、ロダンの目的はそこではない。
     少し行くと右の林の奥に大きな立派な二階家が見えた。その角に島村農園の看板が立っている。花小金井南町一丁目十番十三号。「ブルーベリー栽培発祥の地 Since 1968」というのだが、ホントだろうか。「ブルーベリーって、本来は高原のものだろう。」しかし、この看板は正しかった。

     日本でのブルーベリー栽培は、戦後 東京農工大学の岩垣駛夫(はやお)教授が 一九五二(昭和二十七)年にアメリカから持ち帰った苗からスタートした。当時 農工大の学生だった島村速雄氏は栽培法を習得し、一九六八(昭和四十三)年に「島村ブルーベリー農園」を開いた。
     当時 日本ではブルーベリーは全く知られておらず 市場ではほとんど受け入れられなかったが、 一九七〇年代になって ブルーベリージャムのCMが放映されると 一気にブームとなり、 地元 小平市だけでなく 各地に栽培農園も拡がっていった。

     網越しに見る畑のブルーベリーの実はまだ余り黒くなっていない。やはり生のものはまだ採れないのではないか。広い中庭に入ると、さっき見た立派な和風建築が立ち、縁側にジャムの価格表が置かれていた。「どこで買うのかな?」「ここで呼ぶんじゃないですか?」しかし、呼んでからだれも買わなかったでは申し訳ない。
     私たちの声が聞こえたようで、中からオバサンが出てきた。「生もありますよ。パックで千五百円です。」講釈師が憮然とした顔をしている。自分は買いたいのだが一人だと恥ずかしいという表情である。「生もあるってさ」とヨッシーに声をかける。「それじゃ買いましょう。」ヨッシーの声で、漸く自分も買うと意思表示をした。中庭を挟んで向かいの小屋が冷蔵庫になっている。オバサンはそこに入ってパックを持ってきた。「完熟したものだけ、パックにしたんです。」
     ヨッシーはすぐにパックを開けて、皆に配り始める。甘い。桃太郎は今まで食べたことがないのだろうか。「種がないね。どうやって増やすんだろう」と首を捻る。挿し芽で苗を育て、それで増やすようだ。「目にいいんですよね。」ブルーベリーは目に良いと言われている。目の何に効果があるのか。

    ブルーベリーに含まれている「アントシアニン」は抗酸化力がとても強いとされており、注目度の高い「フィトケミカル(植物由来の化合物)」のひとつです。アントシアニンには、紫外線などの光によるダメージから植物自身を守るという働きがあります。そのため、アントシアニンを摂取することで、紫外線のダメージを受けやすい目を守る効果が期待できるのです。
    また、アントシアニンには血行促進作用もあるため、疲れた目に栄養を運ぶ役目も果たします。しかし、このアントシアニンは熱や保存に向いていないため、サプリメントでの摂取がより効果的です。摂取後も体内に蓄積されにくいので、毎日少しずつ摂る必要があります。(ヘルスケア大学http://www.skincare-univ.com/article/005931/)

     これが一般的な説明である。紫外線から目を守り、疲れた目に栄養を運ぶと言うのである。しかし、これに疑義を申し立てる説もある。

    しかし、アントシアニンが眼に疲労回復効果があるという信頼できる実験結果は報告されておらず、他のビタミンによる説明はブルーベリーだけを指しているわけではなく、他の食品でも説明可能であるため、ブルーベリー成分の論理性の補強にはならない。また、たとえば国立健康・栄養研究所においてビルベリーが特定疾患にのみおいて有効だとの報告もあるが、それにおいても他の食品との比較研究という観点では懐疑的な立場をとっているため、論理的にまだ説明が不十分である。
    さらに、そもそもの根底として、ブルーベリーサプリがヒトの眼の“何に”有効なのか、その対象を特定していない。現代の医学的、生物学的、あるいはすべての科学的な観点からヒトの眼の“不調”について神経系によるもの、内分泌系によるもの、視覚の筋肉の働きの低下によるもの、純粋にエイジングによるものなどと、その説明項を非常に多岐にわたらせている。しかし、ブルーベリーサプリの肯定的な言説では、“効く”“良い”“有効性がある”といった記述のみで、対象を“あえて”ぼかしていると推測でき、その点でも論理不全であるといえる。(明治大学コミュニケーション研究所「疑似科学とされるものの科学性評価サイト」http://www.sciencecomlabo.jp/healthy_food/blueberry_extract.html)

     「ハンゲショウですよ。」姫の指摘で気が付いた。庭を出た隅にハンゲショウがあった。ずいぶん久し振りにお目にかかる。同じように葉が白変するのにマタタビがあり、これは先月の日光道中杉並木公園で見た。「ハンゲショウは絶滅危惧種だろう。うちの庭にあるよ。」スナフキンの庭には珍しいものがある。ドクダミ科でカタシログサとも呼ばれる。今年の二十四節季「半夏生」は七月一日から六日に当たる。
     花小金井駅に着いて今日のコースは終了した。一万七千歩、十キロ程度である。雨も酷くはならず、楽しいコースだった。八月は番外編で姫が目黒近辺を案内してくれることになった。九月はスナフキンの企画で横須賀から浦賀、久里浜を歩くことになっている。
     花小金井駅前には飲めそうな店はない。「小平に行こう。」スナフキンの言葉で電車に乗る。ヨッシーは野菜やブルーベリーを早く家に持ち帰らなければならないから、真っ直ぐ帰って行った。講釈師は勿論酒を飲まない。今日はカズチャンも近いから参加する。
     小平に着いたのが三時四十分。北口に降りると石材屋があった。「やはり霊園があるからですね。」何軒かあったがこの時間に開いている店はない。踏切を渡ったところで「花の舞」を見つけた。四時開店だから十五分待った。待っている間にオジサン二人が店を覗き込み、「以前はこの時間でも開けてくれたんだけどな」と言いながら別の店を探しに行った。
     四時になって看板を出しに来た店員は、私たちが待っていたのを知っている筈なのに一言も言わない。「普通は何か言うだろう。」「最近はこんなもんだよ。」
     スナフキンはメニューを見て、焼酎は黒甕にしようと言っていたのに、実際に注文したのは一刻者だった。「おかしいな、俺そんなこと言ったかな。」言ったのである。しかし一刻者の方が旨いのだから文句はない。「次は黒甕にしよう、安いから。」焼酎二本を空けて三千円なり。
     「まだ明るいな。」四時から飲み始めればこういうことになるのは分っているのだ。スナフキン、桃太郎、あんみつ姫、蜻蛉はもう一軒行くことになる。店の名前は忘れたが焼き鳥の店で、今度は赤ワインをデカンタで注文した。気が大きくなっている桃太郎は全部奢ってくれるような言い方をしたが、それでは申し訳ない。三人は千円づつ払った。


     この作文を書いている間、第一腰椎圧迫骨折になってしまった。七月十四日(木)、ちょっと無理をしたせいで腰がギクッとなった。何とか歩けるので、いつもの軽いギックリ腰だ、二三日静かにしていれば回復するだろうと医者にも行かなかった。しかし三日四日と経つうち、特に夜間の激痛が酷くなってきた。横になって一時間もすると電撃的な痛みが出るので、眠ることができない。只事ではない。ちょうど妻が最近評判が良いという整形外科を聞いてきた。十九日(火)に初めて行くと二時間半待ちだったが、その診断結果が圧迫骨折である。
     第一腰椎がペシャンコになって(第二腰椎と比べて半分の厚さ)少し飛び出ている。立っていたり座っている分には鈍痛がある程度だが、寝返りを打つたびに、その飛び出た部分が神経に触れて激痛を発するのである。体の捻りが良くない。全治三か月、最低一か月は余り歩いてはいけない、特に通勤が一番問題だと言われてしまった。歩く振動で、上半身の重みが潰れた腰椎にかかり、その復活を邪魔するのだという。「電車で揺れるのもよくありません。」
     エライことである。大学の職員駐車場を十月まで借りることにして、二十一日(木)から車通勤になった。ちょっとしたことでこんな風になってしまうのは、腰も経年劣化しているからだろう。皆さんも気を付けてほしい。
     と言う訳で、残念ながら暫く歩く会は欠席となる。


    蜻蛉