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    第六十七回 町田編  平成二十八年十一月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.11.23

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     世界システムは確実に崩壊に向かっている。新自由主義とグローバリズムが齎した格差の著しい増大は、世界に不満と怒りを充満させている。それがどれだけ拡大していたかが、トランプが勝利したアメリカ大統領選で改めて明白になった。
     根にあるのはエスタブリッシュメントへの憎悪であり、現状打破への激しい、しかし方向性の見えない儚い希望である。変化するなら何でも良いというメンタリティは、イギリスのEU離脱にも同じようにみることができる。韓国の朴槿恵の場合は余りにもお粗末だが、若者のデモの底にあるのは、イギリス、アメリカと同様であり、一部特特権階級による利益独占への怒りである。もはや現在の資本主義システムは機能していない。
     ヒラリーが最善ではないが、少なくともリベラルな方向への一定の理解はあっただろう。アメリカはこれからどこに向かって行くのか。それにしてもアメリカの知的荒廃がこれ程になっているとは思ってもいなかった。
     日本だって他人事ではないので、いわゆる正社員の雇用は減って、低賃金有期雇用の労働層が急激に増大している。いつ契約期間満了を宣告されるか分からない不安定な状態で、将来の生活設計をどうしたら良いのか。遠からず不満は爆発するだろう。
     世界はナチス台頭前夜の様相を帯びてきたのではないか。派手で過激な政策を謳って移民や他民族への憎悪を煽り立て、不満を逸らす手法は正にヒトラーがやったことだ。ならず者のような剥き出しの差別的・排他的言辞が、アメリカ国民の半数の支持を集めたことに、私は失望しているのである。そしてトランプの「強い国」復活への渇望は安倍晋三にも共通している。世界の前途は暗い。
     大統領候補が二人ともTPPに反対しているのは、アメリカの国益に反すると考えているからだが、要するにグローバリズム経済は利益よりも不利益を増大させることを明確に認識しているからだ。TPPに関しては私自身も異論があるが、それにも関わらず安倍内閣は強行採決した。

     九月の第六十六回「横須賀・浦賀編」(スナフキン企画)は、江戸歩きを始めて以来初めて欠席してしまったので、江戸歩き本編への参加は久し振りになる。先週は暖かな日が続いたのに、今週になって急激に寒くなった。水曜日には木枯し一号も吹いた。これは昨年より十六日遅いと言う。昨日は一日中冷たい雨が降り続いた。
     旧暦十月十三日。立冬の次候「地始凍」。それでも今日は昨日より暖かくなる予報で、こんな日には何を着て行けば良いか。長袖シャツに薄手のベストを着こみ、先日二千五百円で買った人造皮革のジャンパーを羽織り、頭が寒そうだと妻が言うので毛糸の帽子をかぶった。
     今回のリーダーは桃太郎、集合は小田急線町田駅東口である。東武東上線はいつもの土曜日とはまるで違って、池袋まで座れなかった。山手線も立ちっ放しだ。新宿に着くと、保土ヶ谷で人身事故があり湘南新宿ラインに遅れが出ていると言う。小田急線は普通に運行していたが、成城学園まで座れなかった。今日はどうして、こんなに人が多いのだろう。暑いので毛糸の帽子はリュックにしまい込んだ。
     町田駅にはこれまで降りたことがなかった。東口という改札はなく、東口と南口に出る小さな改札があった。その改札前でロダンガ誰かと熱心に話し込んでいる。知り合いだろうか。集合場所はここではないだろう。東口の方に向かうと、外に出る階段の下で桃太郎とスナフキンが待っていた。「ちょっとタバコを吸ってくるよ。」「そこに喫煙所がありますから。」
     駅前は小さな広場になっていて、ベンチも設置されている。比較的地味な感じの駅前だ。ベンチにはシノッチとチロリンが座っている。喫煙所には三四人の先客がいた。暑いのでジャンパーの下のベストも脱いでリュックに放り込んだ。
     煙草を吸っていると、前を通る道に「絹の道」石碑が設置されているのに気が付いた。この石柱は道標にもなっていて、「此方よこはま」「此方はちおゝじ」、裏面には「原町田誕生四百年記念 昭和五十八年建立」とある。
     日本のシルク・ロードは一般に、富岡・高崎・川越・八王子・原町田・長津田を経由して横浜までを言う。また信州方面からは岡谷・塩山・大菩薩峠を経て八王子に達するコースも、もう一つのシルク・ロードだ。上州方面からは水上の道もあって、鉄道敷設以前は倉賀野河岸(鳥川最上流部)から平塚河岸(伊勢崎市)を経て利根川を下り、関宿から江戸川に入る経路もあった。

     新編武蔵風土記稿に〝神奈川道〟と記された原町田中央通りは東西文化の交流を果たした中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
     そして原町田は商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として、生糸をはじめ諸物資の集積所となり、繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
     この碑は歴史と伝統を受け継ぐ原町田商人の証として、原町田誕生四百年を記念し一番街商店会が建立しました。(解説板より)

     ここで言う「神奈川道」は長津田から恩田川南岸沿いに東海道神奈川宿に向かう道である。またこの道は町田街道とも呼ばれ、北西に真っ直ぐ行けば八王子に至る。中央通りと言う程には、特に大きな商業施設がある訳でもない(この感想は後で覆される)。「この駅は昔、原町田って言ってたんだよ。」「JRが原町田で、小田急が新原町田だったかな。」古いことを知る人はいる。
     原町田は、天正十年(一五八二)新たに原野を開拓して町田村から分村した。それが「原」町田の由来であり、旧町田村の方は本町田と呼ばれるようになった。明治四十一年(一九〇八)に横浜線が開通して原町田駅ができ、更に昭和二年(一九二七)には小田急線が開通して新原町田駅ができた。昭和五十一年(一九七六)には小田急線が町田駅に改称し、JRの方は、駅前再開発のために昭和五十五年(一九八〇)現在地に移転した時に改称した。両駅間の距離はおよそ二百メートルだろうか。
     集まったのは桃太郎、姫、チロリン、シノッチ、ダンディ、ヨッシー、スナフキン、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の十人である。「少なかったね。」「遠いからね。」新宿・町田間は三十五分程だが、埼玉県の特に東部からはやはり遠い。私の自宅からは徒歩も含めて丁度二時間というところだ。「いやあ、意外なところで意外な人と会ってしまいましたよ」とロダンが言う。この辺に住んでいる人ではないから、偶然らしい。
     ロータリーからすぐ路地に入る。「ずいぶん飲み屋があるね。」「この辺はしょっちゅう来た。そこの立ち飲みは女性向きだよ。」中央線沿線に加えて小田急線沿線もスナフキンのテリトリーである。「男は入れない?」「そういう訳じゃない。洒落てるんだ。」磯丸水産もある。今日はまたこの駅に戻って来る筈だが、多少時間が早くても大丈夫そうだ。
     「ちょっと向こうに行くと、青線地帯だったんだよ。いまでも雰囲気が残ってる。」現在のJR駅南口の一帯(住所は神奈川県相模原市)で、横浜線の駅舎が移転して来る前は、境川沿いの田圃の中で、通称「田んぼ」と呼ぶ青線地帯だったらしい。

     飲み屋街が途切れ、住宅地に入るとすぐに母智丘(もちお)神社に着く。町田市原町田五丁目十二番一。左の民家の外壁と、右の金網で仕切られた畑の間の狭い通路に、ステンレス製の小さな神明鳥居が建っている。それが狭い参道で、抜ければ右側の民家と庭続きの境内の正面に入母屋造りの社殿が建っていた。
     「聞いたことのない神社ですね。」母智丘とは初めて聞く名前だが、大正八年(一九一九)三月、黒木昇・ハナ夫婦が、日向国北諸県郡庄内(現・都城市)の石峯山上に鎮座する豊受姫大神と大年神を勧請したものと言う。最初は母智丘教会を名乗っていたが、戦後宗教法人となって母智丘神社と称するようになった。
     母智丘とは、宮崎県都城市西部郊外の丘陵地の名称である。そこにある母智丘神社は、元々は陰陽石信仰に基づく石峰稲荷明神だった。陰陽石信仰は安産ひいては五穀豊穣祈願につながる。明治三年(一八七〇)に三島通庸が社殿を新しくし、現在の祭神を定めたと言う。その当時、都城は薩摩藩の領地であり、三島が地頭を勤めていたのである。三島はその時の業績が認められて新政府に出仕し、後に全国に悪名を轟かせる。
     豊受姫は言うまでもなく伊勢神宮外宮の神、アマテラスの食事を司る穀物神である。大年神は素戔男尊と神大市比売との間に生まれた神で、宇迦之御魂神(稲荷神)の兄弟だと言う。「年」はまた稲の実りを言う。穀物の死と再生は古代信仰の基盤にあって、それが一年を表す。いずれも穀物神である。
     社殿は伊勢神宮外宮に倣ったものと言う。拝殿の裏に回ると、個人が勧請した神社とは思えないような立派な本殿も付属している。千木の先端が縦に切られているので、これは男神だと姫がロダンに教えている。「男女はそれに決まってる訳じゃないんだけどね。」先端を縦に切り揃えるのを外削ぎ、水平に切り揃えるのを内削ぎと言う。元は知らず、今は単なる意匠になっているのではあるまいか。現にこの神社は男女二神を祀っているのである。
     出雲大社が男神(外削ぎ)、女神(内削ぎ)を採用しているため、これに倣う例が多いのだが、全部が全部そうなっている訳ではない。たとえば福岡県の宗像大社(宗像三女神)の千木は外削ぎだと言う。伊勢神宮の場合をみると、内宮(祭神はもちろんアマテラス)は別宮十ヶ所も含めて全て内削ぎ、外宮(トヨウケビメ)は別宮四ヶ所を含め外削ぎとなっている。別宮の中には勿論男神もいる。
     伊勢神宮外宮の場合、中世の度会神道(伊勢神道)が、豊受姫は天地開闢以前の天之御中主神・国常立神と同神(つまり男神)の絶対神で、内宮より格上であると主張したことと関係があるのかどうか。度会神道は神仏習合の影響を受け、儒教や道教を取り入れて神道の理論化・体系化を試みたものだ。つまり神道というのはこの辺から始まる。その根拠は『神道五部書』とされ、それが度会神道の根本経典になるのだが、これらは完全な偽書である。
     そもそも古代から続くこの国の信仰に経典はない。山川草木あらゆるものに神が宿ると言う素朴なアニミズム、それに穢れと清めの観念だけで、これを宗教と呼ぶことすら躊躇ってしまう。現代でも神社神道に経典はない。
     中世の神道家は、仏教や儒教に対して甚大なコンプレックスを抱いていたから、自分で経典を偽作し、それを根拠に理論をでっち上げた。五部書の中では『倭姫命世記』しか読んだことがないが、祟り神としてのアマテラスが皇居を離れ、倭姫命によって伊勢の五十鈴川に鎮座するまでの放浪の経緯を記したものだ。おそらくヤマト王権と伊勢勢力との同盟関係が築かれた歴史が反映していると思われる。

     そこからすぐに芹が谷公園に入る。町田市原町田五丁目十六番。昨日の雨で地面は所々ぬかるんでいる。雑木林の山道を下ると湿地帯に出た。「ここから水が湧いてるんですよ。」林の脇の小さな池だ。「こういうのが何か所もあって、恩田川に注いでいます。」
     「芹が谷っていうから、セリが生えてたんだろうね。」「そこにセリが生えてるよ。」「水が綺麗なんだ。」細い流れは確かに透明だ。関東のセリは秋田できりたんぽに入れるものより、葉が小さい。きりたんぽ鍋を作ろうとしていつもセリの問題で悩んでしまう。根も白くて長く伸びているのが欲しい(きりたんぽ鍋では根も食べる)のだが、埼玉ではお目にかかったことがない。
     ここは山に囲まれた谷戸である。それにしても駅から五百メートル程の場所にこんな公園があるのは珍しいのではないか。町田は余程の田舎なのだ。ツワブキが咲いている。湿地帯を抜けて公園から右に出る道路を見ると、見上げるような坂だ。
     更に行けば多目的広場で、犬を散歩させている人がいる。「滝が見えます。」姫が声を上げるが、滝ではなく噴水だった。巨大な鹿威しのような二本の構造物が、噴水の水を受けてシーソーのように動く。冬には寒々しく感じるだろうが、昨日とは打って変わって暖かい日になったから、気分は良い。日差しが噴水に反射して眩しい。夏になれば子供たちが喜んでこの池に入るだろう。「犬を入れちゃダメって書いてますね。」「書いてるってことは、犬を入れる人間がいるんだな。」
     「そこに国際版画美術館があるんだよ。」北西から南東に伸びる細長い公園の、南東のはずれだ。「棟方志功はあるかな?」「好きなのかい?」「版画っていうと、それしか知らないんだ。」ヤマチャンと同じで私も版画は詳しくない。しかし姫は違った。「ホックニーをやってますね。」「それって有名?」「有名です。」ロダンも私と同じレベルであった。看板を見ると「ポップ・アートの旗手」である。ポップ・アートとは商業主義との結合ではないのか、芸術ではないだろうと思うのは私の感覚が古い。

     二〇世紀を代表するイギリスの美術家、デイヴィッド・ホックニー(一九三七~)。彼の創作活動は絵画や版画にとどまらず、舞台美術やオペラのデザインなど、常に多彩に展開してきました。カメラやコピー機、デジタル機器を自在に操り、新しい視点も呈示しています。本展は人気美術家ホックニーの原点とも言うべき版画制作に着目し、その魅力と表現の秘密に迫ります。

     国内外の版画を集めているから、当然浮世絵もある。美術館のホームページを見ると、コレクションの中に棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子 富樓那」というものを見つけた。ピカソの「ランプの下の静物」なんていうものもある。但し、いつも公開しているとは限らない。
     入館料は八百円、六十五歳以上は四百円である。「安いな。」「だけど、半額って言われると少し悔しい。子ども扱いされてるみたいだからな」とスナフキンが口をとがらす。私は安ければ安いほど嬉しい。「証明書出そうと思っても、顔見ただけでいいって言われると、がっかりするよ。」こんな話だけで、美術館に入る訳ではない。

     公園を出て大通りを少し歩くと、小さなスーパーの店先の歩道に台を並べ、野菜の安売りをしていた。野菜高騰の折から、主婦は値段が気になる。「安いわね。」「玉ねぎはもう売り切れだぜ。」「みかんも安いわよ。」「でも持って帰るのは重いしね。」気が付くと、ヨッシーはみかんの袋を抱えてレジに行っていた。素早い人である。
     また雑木林の入り口に着いた。「原町田ふるさとの森」の看板が出ている。町田市原町田三丁目一五七六番二。町田市では四十五ヶ所もの「ふるさとの森」を定めていて、その六割が私有地で、残りは民間所有の森である。「いいですね。」今日は里山の雰囲気だ。
     森を抜け、成瀬街道((都道一四〇号・川崎町田線)に出ると高ケ坂(こがさか)熊野神社に着く。町田市高ヶ坂一四二五番。元は高ケ坂の鎮守だが、社殿は権現造り(だと思う)の立派なものだ。

     創建の年代は詳らかでない。熊野那智大社の地形に似ていて社殿の裏山に滝があった水源に奉斎したのである。天保十四年(一八四三)毎年地頭より米六斗の奉納があり除地分として六百坪があった。
     大正十二年九月朔日(一九二三)の関東大震災のため社殿倒壊その後再建した。現社殿は昭和五十一年(一九七六)の造営である。(境内掲示より)

     滝は見つけなかったが、今ではないのだろう。本殿の左脇には桜の木の根元に小さな稲荷があった。桜稲荷である。例大祭のほかに桜稲荷祭りも、かなり盛大にやっているらしい。
     神社を出て成瀬街道を行き、高瀬橋で恩田川に出た。ここから暫くは左岸の遊歩道を歩く。川沿いは桜並木で、ここから横浜市緑区との境にある桜橋まで、およそ三キロ続いている。遊歩道には桜紅葉が落ちて広がっているが、枝にはまだ半分ほど残っている。

     東京都町田市本町田の滝ノ沢地区、町田街道の町田三中西交差点の北東に源を発し、JR横浜線の北をほぼ平行に流れ、神奈川県横浜市緑区青砥町と緑区中山町の境界で鶴見川に合流する。(略)
     武蔵国都筑郡(現在の神奈川県の流域)では、郡内の恩田村(現在の恩田町・田奈町・しらとり台など)から流れてくる川として、古くから恩田川と呼ばれていた。
     一方、南多摩郡(現在の東京都の流域)では、郡内の町田村から流れてくる川として、町田川と呼ぶことが一般的であった。(ウィキペディア「恩田川」より)

     水はきれいだが、「それだけでは水質は分りませんよ」と姫は言う。それでも、透明な川が流れ、その脇を歩くのは気持ちがよい。暑くなってきた。途中、小さな弁財天の祠があった。町田市成瀬 二一〇六番地。隣は消防署だろうか。
     コンクリートブロックで作られた祠に鎮座するのは墓石型の石で、「奉造立 弁財天女」「成瀬村」の文字だけが分った。「文字だけの弁天様は珍しいですよね。」脇にある解説板に書かれてあるのは弁財天一般の解説で、この弁財天の由来には何も触れていない。この近所に弁天池があったらしいが気が付かなかった。
     「飯はあとどのくらい?」「十分か十五分。うどん屋を予約してます。」桃太郎は二十人で予約を入れていたため、さっき人数訂正の電話をしていた。「お蕎麦屋さんもあるけど狭いから。」川を離れて住宅地に入っていく。「こんな所にうどん屋があるのかな。」中層の都営団地が並んでいる。都立成瀬高校の校舎からはブラスバンドの音が聞こえてくる。「見えた。」
     他人の駐車場の中を突っ切れば早いが、桃太郎は律儀に道路を曲がる。裏から来たから気が付かなかったが、成瀬街道に出たのである。東雲寺前の交差点だ。うどん屋は「味の民藝」町田成瀬店だった。町田市成瀬七丁目九番一。「なんだ、これなら知ってるよ。あちこちにある。」私は初めてだ。調べてみると東京に二十一店、千葉に八店、神奈川に十二店あるが、埼玉には二店(北浦和と所沢)しかないから私が知らなくても仕方がないだろう。十一時四十分。
     店のこだわりは「手延べうどん」である。メニューは豊富で、何を注文したら良いか悩んでしまう。ようやく決めて係員を呼び、姫が注文すると、「そのメニューは平日用でした」と引っ込められた。「こっちのは?」「そちらは大丈夫です。」
     蕎麦もあるが、この店ではうどんを注文しなければならないだろう。桃太郎はちゃんぽんうどんの野菜大盛りを注文した。私は昔リンガー・ハットで良く食った長崎ちゃんぽんしか知らず、「ちゃんぽんうどん」というのは初めて聞いた。そう言えばリンガー・ハットは今でもあるのだろうか。「あるよ。」佐賀の人ヤマチャンも初めてだという。調べてみると日本各地にさまざまなものがあり、福岡にはうどんをつかった「ちゃんぽんうどん」というものがある。沖縄でちゃんぽんと言えば、平皿に盛ったご飯に野菜炒めの卵とじを載せたものだと言う。
     私はミニうどん付の親子重にした。姫は天ぷら付セイロうどん、ヤマチャンとロダンは黒豚つけ汁うどん、スナフキンは肉すきうどん。隣のテーブルではちゃんぽんうどんを選んだ人が多かった。そして瓶ビールを二本。「グラスはおいくつで?」「六つ。」
     ビールはあっという間になくなるが、スナフキンのウドンはその前にできてきた。「早い。」「注文を受けた時点で、無線で飛ぶんだな。」うどんは確かに旨いが、量が少ない。親子重のセットにして正解だった。ヤマチャンは少し物足りなさそうにしている。「野菜が多過ぎた。」桃太郎が真っ赤な顔をする。「ちょっと多すぎるので」と、姫の天麩羅からはエビがロダンとヤマチャンに分けられた。つまり彼女は野菜の天麩羅しか食わなかったのではないか。
     スナフキンとヤマチャンの万歩計を確認すると約五キロになった。人数が少ないせいか、いつもよりペースが早い。私は暫く前から自分の万歩計を信じていないので装着していない。ロダンの三千歩は論外である。万歩計が壊れているのか、それとも余程振動を与えない絶妙な歩き方をしているのか。「混んできたね。」広い店内の空席が少なくなっている。
     姫の発案で、来年の担当を阿弥陀クジで決めた。なにしろ六人で回しているから、ここ二年間、毎回同じ月の担当になってしまうのだ。但し来年一月は既にヤマチャンが計画済なので、三月から再来年の一月までの六回分である。籤の結果、三月は姫、五月はロダン、七月はスナフキン、九月は蜻蛉、十一月はヤマチャン、再来年一月は桃太郎に決まった。三月の予定だった私はまだ何も考えていなかったので、半年後ろ倒しになったのは良かった。
     スナフキンはここで半日券を行使して別れていった。「立川で落ち合おうぜ。」野口京子のコンサートに行くためである。組長も行っているらしい。組長は、江戸歩き第一回のリーダーで、第三回まで参加した人である。その後、奥の細道の全行程を踏破して本を出した。
     野口は元同僚で、退職後カンツォーネを歌うようになった。知り合いが活躍しているのは嬉しいことなので、彼女のために宣伝しておこう。受賞歴は、第十一回太陽カンツォーネコンコルソ ポピュラー部門(河合秀朋賞)、第十二回太陽カンツォーネコンコルソ ポピュラー部門(優勝)、第十五回太陽カンツォーネコンコルソ クラシック部門(入賞)である。私はYouTubeでしか聴いたことがないが、素直で綺麗な声で歌う。
     「シャンソン歌手の友達もいるし、なかなか多彩ですね」と姫が笑う。それなら大内マコトのことも少し紹介しないと大内に申し訳ないか。同級生で、五十歳頃から勤務の傍らプロのシャンソン歌手について研鑽した。今では年に何度もコンサートを開いている。平成二十三年度日本アマチュアシャンソンコンクール神戸大会入賞、浜松シャンソンコンクール最優秀フランス語賞受賞、平成二十四年度日本アマチュアシャンソンコンクール神戸大会入賞、関西シャンソン協会主催コンクール最優秀フランセーズ賞等の受賞歴がある。自分では「秋田高校時代に合唱コンクールで歌った『愛の賛歌』が最初のシャンソンとの出会い。心の中でシャンソン歌手への夢を育み続け、五十四歳の春からシャンソン界にデビュー」と書いている。合唱コンクールはクラス対抗で、わが三年E組は混声四部合唱で『愛の賛歌』を歌って優勝したのである。こんなことは江戸歩きとは全く関係ないことで、顰蹙を買うだろう。少しでも関心があれば二人の歌をYouTubeで聴いてみて下さい。

     十二時二十五分、店を出て交差点を渡ると成瀬杉山神社だ。町田市成瀬四丁目十三番十六。石造の神明鳥居が石段の中ほどに立っている。ちょっとした階段だが、膝の悪い姫は躊躇している。と思ったら、脇のスロープをやって来た。境内に車が入れる道がついていたのだ。拝殿は鉄筋コンクリート造の入母屋造り。
     前にも調べたことがあるが、杉山神社は神奈川県と多摩地方の鶴見川水系に集中して分布する珍しい神社で、椙山の表記をする場合もある。「久伊豆神社が元荒川流域に限定されるのと同じですね。」杉山神社は紀州との関係が深く、イソタケルやヤマトタケルを祀ることが多い。この成瀬の神社ではアマテラス、イソタケル、熊野大神を祭神としている。しかし下記の記事には、イソタケルの代わりに主祭神をヤマトタケルとしている。どこかの時点で入れ替わったものだろうか。掲示板には「ご祭神を五十猛命としているが、日本武尊の説もある。」と駐機してある。

     杉山神社(成瀬)
     田中の明神という。寛文八年(一六六八)一一月、当時の代官福井清兵衛が二〇〇疋の寄進と地頭の井戸忠兵衛勝吉が金三分の寄進により社殿を創建したのである。
     元禄一二年(一六九九)一一月二一日、享保元年(一七一六)一一月、安永三年(一七七四)九月、寛政二年(一七九〇)一二月、享和二年(一八〇二)九月と五回に及び再建をしたことが社宝の棟札にある。一社相殿造りで主祭神の日本武尊を中央に、右に天照皇大神、左に熊野大神を合わせ奉斎してある。真言密教により黒と丹にて彩色がしてある。
     境内末社は安永三年六月一五日の創立で、悪病除の神である八坂神社を奉斎し、七月一四日が例祭日である。
     参道正面の両部鳥居は、天保一四年(一八四三)九月二〇日の造立になる。現在の社殿は、昭和三一年(一九五六)四月一五日のものである。
     境内坪数二六〇坪余り。町田市成瀬一三四一番地に鎮座している。(『町田市史』より)

     イソタケルは木の神で熊野との縁が深い。末社にはスサノオを祀る八坂神社(元は牛頭天王社)もある。女子高生のアルバイトだろうか。朱の袴を着けた若い巫女二人が、竹箒で落ち葉を掃いている。仕事ぶりは余り手際の良いものではない。

     ぎこちなく落ち葉掃きゐる巫女二人  蜻蛉

     今日見てきた神社はいずれも新しいきれいな社殿を持っていた。氏子が今でも頑張っているのだろう。「地主が多いんじゃないでしょうかね。」社務所の前を通って裏に回れば東雲寺だ。曹洞宗、龍谷山。町田市成瀬四丁目十四番一。
     境内には黒御影の解説板がたくさん設置されている。金持ちの檀家が多いのだろう。

     室町時代後期、小田原北条氏が関東に進攻するに及び、大永四年(一、五二四)頃、それまで廃城となっていた小机城を、重臣笠原越後守信為の居城とした。信為は父能登守信隆追善供養のため、曹洞宗臥龍山雲松院を建立、北条氏は更に勢力拡大に伴い小机城の支城を各地に築き、出城として会下山に成瀬城を築城した。
     雲松院第三世龍谷性孫(一五三六・天文五年五月廿七日入寂)は、成瀬城外護のため、向い地に龍谷山成就院を建立、寺屋敷と稱する地なり。
     豊臣秀吉の小田原城攻略に際し天正十八年(一五九〇)同城落つ。成瀬城は廃城となる。江戸時代になって成瀬村が松平忠直の所領となった頃、元和六年(一六二〇)雲松院第六世明岩宗珠(一六三一、寛永八年一月十五日入寂)現在地に寺を再興、龍谷山東雲寺と号し爾来連綿として法灯を護持し今日に至る。(縁起)

     ここには白鳳時代(七世紀後半)の誕生迦釈仏像がある。六角堂に納められていて、ガラスが反射して見えにくいが、高さ九・八センチと言われれば、それだろうと思う黒い物体が台の上に立っている。
     町田市のホームページによれば、火災で両足首以下が失われ、手首や肘にも損傷があり目鼻立ちも定かでない。白鳳時代が本当なら、関東以北では最古の仏像になる。本来は右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えるが、この誕生仏は左手を上げているのが珍しいと言う。ところで「天上天下」を私はずっと「てんじょうてんが」と読んでいたが「てんじょうてんげ」と読む方が一般的だったらしい。仏教用語には呉音が多く、素人には分り難い。
     墓地の入口には、ペリー来航時の浦賀奉行井戸石見守弘道(安政二年七月五日)と妻(明治二年三月三日)とを並べて刻みこんだ墓があり、横には本のページを開いた形の、黒御影石の大きな顕彰碑が建っている。妻女は遠山左衛門藤原景壽女とあるので、遠山の金さんの娘か孫かも知れない。
     皆は前回、浦賀に寄っているのでこの辺の事情は詳しくなっているだろう。当時浦賀奉行は井戸のほかに戸田伊豆守氏栄がいて、戸田が現地滞在、井戸は江戸常駐だった。当初、浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行を称して黒船を訪問したが、最高位の役人でなければ親書は渡せないと言うのがペリーの方針だった。そのため戸田は皇帝第一顧問・主席全権、井戸はその補佐と称して、大統領親書を受け取った。
     「色々あったけど、開国して良かったんですよね。」「幕末の官僚は、それなりに頑張ったよ。後から言われるほど無能な人物ばかりじゃなかった。」「井伊直弼だって英断ですよね。」「安政の大獄だけが拙かったけどね。」この辺についてはロダンと話が合う。
     あたかも幕末官僚の尽くが無能であったかに思わせたのは薩長新政府の宣伝であり、それを払拭するために福地桜痴は『幕末政治家』を書き、それを下敷きにしながら綱淵謙譲は『幕臣列伝』を書いた。勿論優秀な官僚はごく一握りであったとしても、攘夷派による悪辣な妨害に対抗して、彼らが誠実な努力を積み上げたからこそ、西欧列国との国際関係は築かれたのだと綱淵は語る。私はそれに完全に同意する。

     率直にいって、幕府外交の実績があったからこそ、換言すれば、のちに明治政府を形成する〈薩長土肥〉が行った攘夷運動の尻拭いを諸外国にたいして誠実に行ってきた幕府外交の一貫した実績があったからこそ、明治国家は西欧列強と(幾分の不平等は背負わされていたとしても)相互に通交ができたのである。(綱淵謙譲『幕臣列伝』)

     この寺に井戸石見守弘道の墓があるのは、井戸が成瀬村の領主だったからである。明治になって井戸家は没落し、成瀬村の米倉のあった家に身を寄せていたが、明治二年に弘道の妻が亡くなって、この墓地に埋葬された。
     姫とはさっきの交差点で落ち合うことにして、下り階段の裏参道を降り、合流して再び恩田川に戻る。谷本川(鶴見川)合流点まで八・六キロ。左岸を少し戻り途中で対岸に移る。
     そして左に曲がりこんで入ったのは城山公園である。町田市成瀬三丁目十六番七。階段を昇ればちょっとした広場があるだけだ。川に向かうと断崖で、かなりの比高差がある。ここは成瀬城跡である。公園自体は狭いが、川の反対側は住宅地になっていて、かつての城はその奥まで広がっていただろう。宅地化のために遺構は残っていない。井戸跡と称するものがあるが、キャンプファイアーの木組のようなものを置いてあるだけだ。
     川の対岸には大きなマンションが建っているが、かつて周りは原野だっただろう。見晴らしは良い筈で、狼煙を焚けば小田原まで見えたのではないか。「城って言っても天守閣のあるようなものじゃないんでしょう?出城みたいなものかな。」「天守閣が出現するのは安土城からだね。」

     成瀬城の成立年代・城主については資料が乏しく、不明な点が多い。
     成立年代については平安時代から鎌倉時代初期にかけてこの地を所領した横山党の鳴瀬四郎太郎の居館跡とする説が有力であり、室町時代後期の城主については中里伊賀守(不詳)のほか、四条彦次郎(北条氏綱の家臣か)・小山田弥三郎(甲斐武田氏の譜代家老衆)の名が挙がっている。
     いずれにしても室町時代後期より相模は後北条氏により統治されていたことから、この成瀬城も相模の拠点・小机城の出城として北条氏の統治下におかれていたものと考えられ、廃城年も小田原城本城の開城年天正十八年(一五九〇)と考えられている。(カッコ内は蜻蛉追記)
    http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/narusejousitokyo.htm

     公園を出たところで、シノッチ、チロリンからおやつが配られた。ヨッシーからはさっき買ったばかりのミカンを貰ったが、腹がいっぱいでまだ食えない。
     横浜線の踏切を越えると松葉谷戸公園だ。町田市金森東一丁目三十番。公園というより雑木林で、かなりきれいに手入れがされている。宅地開発の際に、個人の市有林を町田市が買い上げて公園としたものである。広さは二万六千平米。「町田は公園が多いね。」「金があるんだよ。」真偽不明だ。
     「後ろから見ていると腰は完全に治ったようですね」とヨッショーが声をかけてくる。コンクリートより土を踏む時間が長いからだろうか、今日は調子が良い。木漏れ日が眩しい。「ヤブミョウガですよ。」青黒い小さな実が生っている。「食えるのかな?」「食えません」と姫が断固として言う。その隣に、赤いガクから黒い実がでているのはクサギだ。
     一時半、出口の東屋で休憩する。さっきヨッシーから貰ったミカンを食べる。甘い。姫は飴を配り、ロダンは「女房がね」と言いながらバッグの中からお菓子を取り出して配った。
     「雲一つないですね」とロダンが頻りに感激したような声を出す。小春日である。「小春って冬じゃないんですか?」本来、小春は旧暦十月の異名だから、まさに今なのである。但しそれほど厳密ではなく、冬の間であれば良い。冬は言うまでもなく旧暦十月から十二月を言う。

     「ここからは平地です。」「町田街道って大山に行く時も横切らなかったかな?」「長津田から歩いていたから通ってますよ。」すずかけ台の辺りではなかったか。町田市の南部は神奈川県に入り込んでいて、大山街道も東京から横浜に入ったと思うとすぐに東京都になり、再び大和市に入ると言う、ややこしい場所である。
     今日は上り下りが多かった。町田は丘陵地帯なのである。改めてウィキペディアで確認してみる。

     市域の大部分が多摩丘陵に属し、地形的には同丘陵の北部、相模原台地の北東の縁であり、ほとんどが丘陵地帯である。最高地点は西端にある草戸山(標高三六四メートル)。平地は町田駅付近や西および南を流れる境川・ほぼ中央を流れる鶴見川とその支流恩田川近辺など少ない。ほぼ町田街道を分水嶺に、北側が多摩川水系および鶴見川水系、南側が境川水系である。(ウィキペディア「町田市」より)

     「駅に向かっているんですよね。」「そうです。」そして金森杉山神社に着く。町田市金森七丁目一番一。今日二つ目の杉山神社である。

     杉山神社(金森)
     当社の創建は明らかではない。天和三年(一六八三)一二月に旗本の高木伊勢守の一族が下屋敷内に再建したことが、社宝の棟札にある。境内末社に八坂神社がある。七月一五日が祭典日である。現在の社殿は、昭和一一年(一九三六)一〇月五日の新造になるものである。祭神は日本武尊である。(『町田市史』より)

     隣家との塀際には石仏が並べられ、ひとつづつ説明が施されているのが有難い。なかなか、こういうものは見ないのだ。右端には日露戦争時の艦砲模擬弾が二発おかれているのも珍しい。皇太子降誕記念碑、鳥居台座とあって、地蔵、庚申塔、地神、庚申塔、庚申塔、日待塔、道祖神、光専神と並んでいるが、どれもかなり磨滅している。「光専神って初めて見ます。」私だって初めてだから、説明を見よう。

    光専神は「香仙茶菩薩」の当て字と考えられ、麦こがしを賽物としたことから「こうせん婆さん」と呼ばれ、六月一日の縁日には竹筒にお茶を入れ咳の神様としてお参りしたとの伝承があります。

     この説明だけではよく分らないが、光専も香仙もどちらも当て字である。漢字で書くなら「香煎」が相応しいだろう。麦こがし、関西では「はったい粉」である。伊豆急下田駅前に香煎通りがあり、香煎塚があると言う。下田と町田と伝承がどう関係しているかは分らないが、香煎の粉が喉につかえ、むせて咳き込んで死んだ婆さんの供養塚である。
     香煎は、一般的には湯で溶いて飲むもので、粉のまま口にするものではないのではないか。ただ子供の頃の私は、粉に砂糖を塗してそのまま舐めたことがあるような気がする。日本大百科全書(ニッポニカ)の解説が分りやすい。

     米または麦類を炒(い)ってから粉末にしたものの総称。「こがし」ともいう。オオムギを原料とした麦こがし、俗に「はったい粉」とよばれるものが、比較的よく知られている。以前は塩を混ぜてそのまま食べたり、湯で練って食していたようである。現在は砂糖を混ぜて型押ししてつくる麦落雁(らくがん)などの菓子の原料とか、砂糖を加え湯で練って食べるといった用い方をする。また、シソやサンショウの実、陳皮(ちんぴ)(ミカンの皮)などの粉末や、糯米(もちごめ)でつくる小さいあられのことも香煎という。単独または混合して湯を注ぎ、お茶がわりに飲用する。大唐米(だいとうまい)(イネの一品種で赤ばんだ米)を主材料に、陳皮、サンショウ、ハトムギ、ウイキョウなどをあわせた香煎は、江戸時代以前からあり、湯を注いで飲用していたという。[河野友美・大滝緑]

     婆さんは何かの拍子で、粉のまま口にしてしまったのでろうか。迂闊であるが、それが死んで、咳止めの神になるのが民間信仰の不思議なところだ。
     車が止まり、親子連れが下りてきた。小さな女子は白いレースのスカートに、赤いポックリを履いている。「可愛いね。」「着物が暑いって、脱いじゃったんですよ。」若い母親が応えてくれる。七五三であったか。もう儀式も写真撮影も終わったということだろう。この小さな神社にどういう用があるのか分らないが、社殿の引き戸のカギを開けてもらっている。こころと同じくらいだろうか。「満三歳なんですよ。」それならこころより大きい。ネクタイを結んだ男の子は五歳か。
     「アッ。」女の子が社殿の階段の前で転んだ。履きなれないポックリで走り回っているからだ。それでも特に怪我をした訳でもなく、泣かない。

     初めての木履に転ぶ七五三  蜻蛉

     民家の塀の上にはキウイと大きな夏みかんが生っている。「キウイはもう時期が過ぎてるんじゃないか?」ヤマチャンは疑問に思うが、「十一月だと思うわよ」とシノッチが教えてくれた。「そこにも夏みかんが。」この辺では庭に夏みかんを植える家が多い。
     次は渋池神社だ。町田市金森一丁目五番四。小さな祠があるだけのものだが、正確には渋池弁財天社である。金森杉山神社の境外社となっている。弁財天は仏教の天部に属する神であり、それが神社になるのは不思議だ。平成元年に建立された石灯籠には、寄贈者として渋谷八郎右衛門の名が彫られている。「いまどき、八郎右衛門って珍しいですね。」「襲名するんじゃないかな。」鳩の翼が落ちている。「食痕ですね。」「タカかな、猫かな?」
     「皇帝ダリアです。」民家の庭の高いところに薄いピンクの花が咲いている。「もっと暑い頃の花じゃなかったかしら?」「ちょうど今頃よ。」木立ダリアとも呼ばれ、大きなものでは高さ十メートルにもなる。ダリア属キダチダリヤ種。普通のダリアは夏から秋にかけて開花するが、これは今頃なのだと言う。
     「前に見たのも暑い日だったので、暑い頃の花かと思ってました。」「講釈師がいたときじゃないかな?」ロダンが言うので思い出した。私も講釈師と一緒に見た記憶があるが、それがどこだったか覚えていない。
     そして町田天満宮に着く。町田市原町田一丁目二十一番五。横の入口から入ると、天満宮の名前を染めた紺の法被を纏った若い衆が何人か座り込んでいる。

     天正十年(一五八二年)に原町田村が本町田村と分かれて独立しました。分村前までは原町田地区の鎮守は本町田菅原神社であったのですから、分村によって原町田地区には神社がないことになり、住民は心の拠り所を失ってしまいます。当時は農民一揆が各地で起こるなど、農民の領主に対する怒りが鬱積していた時期だけに、それに拍車をかけることになってしまったのでしょう。
     当時、この地域を知行していた北条氏輝は、社寺政策によって村民を統治する方法に熱心に取り組んでいました。戦乱の時代をくぐり抜けて原町田の地に移り住んで来た開拓者等(三橋家・武藤家)と話し合い、分村に先駆けて元々古い祠のあったこの地に菅原道真公をお祀りしたと推察されます。
     とにかく分村前に御祭神を替えることなく神社をこの地にお祀りすることが、当時の支配階級のとった最善の策であったと思われます。したがって、町田天満宮の起こりは天正年中の一五八〇年前後と推測できるでしょう。(天満宮HP「町田天満宮の歴史」より)
    https://tenmangu.newsinet.com/history/

     神輿倉には金色に輝く神輿が二基鎮座している。この神社は七五三の宣伝にやっきになっている。係員のような女性が待機して、該当する家族を狙っているようだ。レンタル衣装がどの程度なのか、念のために見てみると、三歳児の着物が三万円からとなっていた。七五三は数えでやるのか満年齢でやるのか。数えなら今年だが、息子夫婦にはそんな気配がないから、来年やるのだろうか。「何歳なの?」シノッチが訊いてくるので「二歳半」と答える。
     摂社の前に置かれた狛犬が、犬と獅子の対になっているのを姫が見つけた。ロダンは忘れてしまっているようなので、念のために説明しておく。「角のある方が犬、無いのが獅子なんだよ。」姫は良く覚えていて、「芝神明宮でも見てますよ」と補足してくれる。ついでに言うと、獅子の口は阿形、犬は吽形である。次の説明が分りやすいので引いておく。

     そう、左と右とでは形が少し違っていますね。一方は口を開け、もう一方は口を閉じています。そして口を閉じた方には頭に角(つの)があります(角のとれたものもあるので注意してください)。この違いが大切なのです。実は、口を開けているのが獅子で、閉じて角のあるのが狛犬なのです。
     わたしたちはひと口に「狛犬」と言ってしまいますが、正しくは「獅子」と「狛犬」の組み合わせだったのです。もちろん「狛犬」という言い方でも間違いではありません。
     この組み合わせが出来たのは、平安時代の初めです。奈良時代までは獅子二頭だったのですが、ここに新しいセットがつくり出されました。そしてそれが、前にも述べましたように、宮中(きゅうちゅう)、神社、お寺などに置かれました。私たちが今見る狛犬の起源はこんなに古いところにあるのです。(京都国立博物館・博物館ディクショナリー「狛犬」
    http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/choukoku/komainu.html)

     「枝がみんな落とされてるのね」とシノッチが声を出す。落葉樹ではないのに、テッペンまで枝が刈り込まれているのだ。「神社なんだもの、ちゃんと枝を伸ばして欲しいわ。」
     表参道の鳥居からすぐに横浜線の跨線橋が続いているのが珍しい。おそらく境内をつぶして鉄道を走らせたのである。跨線橋の向こうはマンションが林立している。「都会ですねエ。」朝に通った道とは打って変わって、ビルが立ち並ぶ都会であった。
     原町田中央通り(町田街道)を駅の方向に向かう。そして商店街に入ると、人通りがやたらに多い。「やっぱり、人がいなくちゃだめですね。水戸なんか繁華街でも人がいない。」「地方都市はみんなそうだよ。」埼玉だって、大宮、浦和、川越くらいではないか。「所沢もかな。」そう言えば、所沢の西口から北に延びる商店街にも雰囲気が少し似ている。「大袋は田舎です。」それは仕方がない。
     その商店街の真ん中にあるのが浄運寺だ。町田市原町田六丁目二十一番二十八。昨日の酉の市の出店だろうか、ブルーシートで覆った屋台が二つほど残っている。「二の酉まで、そのままにしているのかしら。」
     天正五年(一五七七)に日明が開創、矢部淡路(法善院日証)を開基とし、淡路の後嗣として武藤佐次右衛門(浄運院日徳)とその母(法用院日運)が入寺、寛永十四年(一六三七)に二つの寺を合わせて一寺としたと言う。日蓮宗。原町田七福神の毘沙門天である。
     大須賀明の墓がある。知らない名前だが、自由民権運動に関係した鶴川村(大蔵)の医師である。「知らない」と書いてしまったが、念のために色川大吉『流転の民権家・村野常右衛門伝』を開いてみると、大須賀事件のことはちゃんと書いてある。四十年も前に読んだもので、すっかり忘れていた。
     三多摩は当時神奈川県に属していて、自由民権運動の最大の拠点のひとつであった。指導者としては野津田村(現・町田市)の石阪昌孝(石坂ミナの父)、村野常右衛門、相原村(現・相模原市)の青木正太郎、小川村(現・町田市)の細野喜代四郎等が挙げられる。
     明治二十三年(一八九〇)の第一回衆議院議員選挙は自由民権派が大勝した。二十五年の選挙は内務大臣品川弥二郎の激しい大選挙干渉が行われ、多くの自由党員が事前拘束や暴力を受け、流血の選挙戦となった。それを背景に、大須賀は民権派を裏切ったと思われたのである。そして三多摩壮士二十数名の襲撃を受けて死んだ。

     町田は大都会であった。小田急線町田駅の、朝集合した場所に戻り解散する。ヤマチャンの万歩計を採用して、今日の行程は一万八千歩、十キロと決めた。三時過ぎである。まだ早い。
     スナフキンがコンサートの後に合流したいと言っていたので、それなら立川まで行ってしまおう。姫、桃太郎、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の五人は横浜線の駅に向かう。五分ほどで駅に着いた。横浜線はすぐに出発する。八王子までは二十分程だが、車内は混み合っている。
     「立川ってどう行くんですか?」「八王子から中央線で新宿方面に。」「家に近くなるんですね。町田と立川の関係が分らない。」電車の中で「立川に向かっている」とスナフキンにメールを入れておいた。八王子で乗り換える。十分で町田に着いた。桃太郎が目指すのは北口の二重丸である。「前にスナフキンと一緒に行ったんですよ。」店は空いていた。四時である。
     それにしても暑い日だった。ビールが旨い。漬物、キャベツ(塩昆布)、豆苗炒め。「野菜ばっかりだな。」「普段野菜を食えないからね。」焼酎「一刻者」を入れたところでスナフキンから電話が入った。向こうはさくら水産に入ったところだという。「三十分で抜け出して来いよ。」「分った。」
     女店員の名札は与那嶺とある。「与那嶺さんは沖縄かい?「父がそうです。」「おじさんたちは、野球の与那嶺しか知らないよ。」「確か中日で監督したよね。」若い与那嶺さんには全く関係ないから、彼女は首を捻りながら笑うばかりだ。中高年の男というのはどうしようもない。姫が苦笑いしている
     トランプの話題で怒りが復活してくる。「ヒトラーを思い出しますよ」と姫も怒る。それから最近の高齢ドライバーによる運転事故も話題になる。運転するものは他人事ではないのだ。ただ、この背景には身近な商店が無くなって、車がないと買い物が出来なくなっている事情もある。妻の父は病院に通うためにどうしても車が必要だと、なかなか免許証を返上できないでいる。
     スナフキンが現れたのは六時少し前だ。焼酎の二本目が空き、二時間経ったのでここはお開きにする。「向こうに合流しようよ。」姫とヤマチャンはここで別れ、四人はさくら水産に入ったが、向こうの連中ももう終わっており、二三人が帰り支度をしているところだった。ロダンと桃太郎が組長に挨拶して、私たちは別の店に入って飲み直しとなる。今回も飲み過ぎてしまった。


    蜻蛉