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    第六十八回 神保町から柳橋
    平成二十九年一月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.01.27

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     「ホンノージノヘン、ホンノージノヘン、ホンノージノヘン。」最近のこころが嬉々として歌って踊る歌である。いろいろ芸を仕込まれている。最初は意味が分らなかったが、エグスプロージョンというユニットの「踊る授業シリーズ」『本能寺の変』であった。たぶん一年もすれば忘れられると思うので、時代の記録として残しておこう。

    本能寺の変 本能寺の変 本能寺の変 本能寺の変
    一五八二年 本能寺で起こった悲劇
    織田さんが家臣の明智にシバかれる話
    どうして~どうして~
    どうして織田はシバかれたん~?
    明智さんは織田さんに長い間イジられた
    みんなの前で呼ばれたあだ名は
    ・・・・・ハゲっっっ!!!!(以下略)

     同じシリーズで『ペリー来航』というのもあった。意味も分らず幼児が喜ぶのは、そのリズムなのだろう。
     旧暦十二月十七日。小寒の次候「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」。その言葉とは裏腹に、この冬一番の大寒波がやって来て、北海道や日本海側は大雪になった。東京の最高気温も六度までしか上がらないとの予報がでている。今日と明日はセンター試験だが、雪の多い地方は毎年のように苦労することになる。
     集合は地下鉄神保町駅A6番出口だ。神保町の地名は、元禄二年(一六八九)に旗本の神保新五左衛門長治(九百石。後に佐渡奉行)が神田小川町に屋敷地九九五坪を賜ったことに由来する。但し嘉永二年の切絵図では、神保伯耆守屋敷は周辺の旗本屋敷と同じく、間口が狭く奥行きのある短冊形で、とても町の名前になるような広さではない。恐らく分割されたのだろう。その位置は、さくら通りを挟んで岩波ホールと有斐閣に跨る辺りだった。
     神田周辺は大名屋敷や旗本屋敷の並ぶ土地である。維新後、その荒れ果てた屋敷跡に学校が建てられ、明治から大正にかけてその数が増えて行く。それと共に本の需要が高まったのが古書店街の始まりである。
     出口から通りに出ると、学生服の高校生がヤマチャンに何か訊いている。「日大経済?そこを真っ直ぐ行けばいいよ。」センター試験は十時十五分開始で今は九時五十分だ。大丈夫なのだろうか。
     定刻に岩波ホールの前に集まったのはリーダーのヤマチャン、あんみつ姫、ペコチャン、チロリン、ハイジ、マリー、ロダン、桃太郎、マリオ、スナフキン、ダンディ、講釈師、ヨッシー、蜻蛉の十四人だ。「ペコチャン、久し振りですね。」「孫がセンター試験でネ、家にいても心配で落ち着かないものだから。」この段階で心配しても仕方がない。
     「講釈師に無茶苦茶怒られちゃったよ。二百円のことで。俺は聞いてないって」と、ヤマチャンがこぼす。これまで江戸歩きは会費なしでやってきたが、今年から一人二百円を徴収すると、幹事連中で年末に決めたのである。下見を重ねるリーダーの交通費補助の意味であり、保険ではない。メール網では流していたが、メールを持っていない人への連絡が遅くなった。「一人分足りないんですよ。誰か払ってない人いませんか?」会費を集めていたロダンが悩んだが、「俺は出してないよ」とリーダーが言ったので解決した。
     ヤマチャンの挨拶に続き、ロダンが二百円徴収のことを改めて説明して今日の江戸歩きが始まる。
     「折角だから、ちょっとこっちに行こうよ。」スナフキンは岩波ホールの中を突っ切って、さくら通りに出る。「毎年秋に、ここで古本フェステイバルが開かれます。」最近ではカレーグランプリも開かれているのだそうだ。神田はカレーの街であり、その中でもスナフキンが勧めるのは共栄堂だと言う。
     日本古書通信社の八木福次郎によれば、靖国通りが拡幅される前は、このさくら通りから続くすずらん通りの方がメインストリートだった。

    大きな転機は東京市電が走った明治三十九年あたりですね。先ほど触れた地図のほんの数年後です。市電が走ったことは大きな意味をもちます。靖国通りが拡張され、それまで、すずらん通りがメインストリートだった神保町一丁目界隈の中心が、靖国通り側に移動したわけですね。靖国通りを中心に古書店街が広がっているという意味では、現在の古書店街の原型ができるきっかけだったと言えます。(『神保町へ行こう』特集「古書店街の生き字引・八木福次郎さんに訊く」
    http://go-jimbou.info/hon/special/071020_01.html)

     八木福次郎は八木書店創業者・敏夫の弟である。同じ回想の中で、最も古い古書店はどこかと訊かれ、今残っている中では新刊書店になった三省堂書店、東京堂書店、有斐閣だろうと答えている。今では法律経済書の出版社だが、有斐閣も古書店として出発した。これは岩波書店も同じだ。
     八木の名でもう一人思い出すのは、敏夫の子の佐吉だ。丸善の大番頭で、丸善本の図書館長を務めて洋古書の第一人者と呼ばれた。八木佐吉編『書物語辞典』は洋書を扱うには欠かせない単語集だった。
     「それじゃ行きましょう。」靖国通りを東に向う。明倫館書店(自然科学)、一誠堂書店(国文学・歴史・人文科学全般)。「一誠堂は古い。反町茂雄が修業した店です。」明治三十六年(一九〇三)の創業である。スナフキンの説明に、女性陣はこんな反応をした。「反町って、反町隆史しか知らないわよネ。」「ネーッ。」一般に知られている人ではないが、出版書店図書館業界で反町茂雄の名を知らないのはもぐりである。
     反町茂雄は東京帝大法学部を卒業して、一誠堂に住み込み店員として入社した。当時としては異例なことだが、岩波をモデルとして古書店を開くための修業である。短期間で実質的な支配人となり、後に独立して弘文荘を開業し、その目録は海外でも高い評価を得た。古書店の目録は書誌学の心得がなければ作れないし読みこなせない。また若手業界人の育成のために勉強会「文車の会」を運営した。編著に『紙魚の昔がたり語り』等、遺作に『一古書肆の思い出』(平凡社・全五巻)がある。天理教二代真柱の中山正善と懇意になって、天理図書館に国宝級のものを含めて数多くの貴重な古書を入れたのも、反町である。
     戦後困窮していた森銑三の面倒を見た。森銑三については何度か触れているが、正規の学歴としては高等小学校卒しかないにも関わらず、独学で近世文芸を研究した。埋もれた古書の山から記事を抜き書きして蓄積し、多くの近世人物伝をものにした。その抜き書きの集成は巨大なデータベースと言うべきものであったが、空襲で全て失った。戦後は西鶴研究に没頭し、西鶴自身の著作は『好色一代男』だけだと断定した。学界からは殆んど無視され、評価したのは中村幸彦(中野三敏が師事)だけだった。著作集(中央公論社・全十三巻)、続編(全十七巻)がある。
     巌松堂は既に古書店を廃業し、巌松堂ビルに入っているのは澤口書店だった。厳松堂からは巌南堂と雄松堂が出た。小宮山書店(三島由紀夫関連・文学・歴史)、八木書店(国文学)。小宮山書店の小宮山慶一、八木書店の八木敏夫、一心堂書店(美術)、悠久堂書店(美術展目録・料理)の創業者など、若い頃に一誠堂で修業した人である。一誠堂は古書店を開きたい者の学校であったと言っても良い。独立開業をする若い者に、どうせやるなら近くでやろうというのが、一誠堂創業者の酒井宇吉の方針だった。
     店舗が全て靖国通りの南側にあって北向きなのは、本が日に焼けないためである。それぞれの店頭に並べてある商品を見ながら姫は喜ぶ。どの店だったか、『樋口一葉全集』(筑摩書房・六冊本)が三千五百円で出ているのを見て、私も心が動いた。
     「一番好きなのは東京堂だよ。」八木福次郎の回想にあったように、明治二十三年に高橋新一郎が創業した店である。ここも文化史にとっては欠かせない本屋だった。高橋は博文館の大橋佐平の妻の弟で、二代目の大橋省吾(佐平の次男、新一郎の娘婿)が取次と出版業を始めた。戦前は四大取次の一角を占めていたが、戦時中の統合で日本出版配給(日配)に吸収された。私の頭の中では、取次の東京堂が現在の東京堂に繋がっているイメージがなかった。戦後は出版と書店を分離していたが、平成二十三年(二〇一一)に合併した。「品揃えがいいんだ。神保町に来たら是非寄ってみて下さい。カフェもやってる。」カフェはPaper Back Caféというらしい。
     神保町にしょっちゅう通っていたスナフキンと違って、私はこの街に余り縁がなかった。学生時代には池袋の芳林堂でほぼ用が足りたし、そこになくても新宿の紀伊國屋に行けばまず買えないものはなかった。社会人になった後は、会社で社員割引ができたから、研究者でもないサラリーマンは、わざわざ神保町に足を延ばす必要もなかった。
     数少ない思い出の一つは、大学に入学するため上京した翌日、何の知識もないまま神保町に足を踏み入れ、ぶらついている内、『中原中也全集』(角川書店・全五巻)を見つけたことだ。その日は金がなくて取り置きを頼み、翌日もう一度出かけて買った。まだ新刊書店でも買えたのだが、真新しい本で定価の二割引きはお得だ。しかし二日分の往復電車賃を考えれば、それほど得をした訳でもなかったかも知れない。今確認すると、裏表紙見返しの角に中山書店のシールが貼ってある。この店も平成二十年に閉店している。別巻だけは後で、たぶん紀伊國屋で買った。

     寒晴や中也を買ひし街に来て  蜻蛉

     誰のエッセーだったか、日本には世界に誇る古書店街があると外人に自慢したら、日本には図書館がないのかと驚かれたという話を目にしたことがある。そのエッセーでは、だから図書館を充実させなければならないと結論していたと思う。しかし図書館と古書店は役割が全く違うのである。
     特に近世文学の研究者にとって古書店は不可欠なもので、二束三文で売られている雑書の中から人に知られぬ資料を探し出す喜びは、中野三敏『本道楽』に限らず、多くの学者が回想していることだ。和本は異本が多く、長澤規矩也は「重複を恐れずに買え」と中野に教えた。特定するためには書誌学が必須で、古書店の目録が珍重された。弘文荘が森銑三を抱えたのは理由があるのだ。

     ・・・・・図書館というのは、だいたい見たい本を請求して見せてもらうのが殆んどだが、古本屋の店頭はそうではなく、中身がなにとも知れないものを、その場で心置きなく知ることができる場だと言うことである。極言すれば図書館は知識を確かめる場であり、古本屋さんは知識を発見する.場であるということになろうか。(中野三敏『本道楽』)

     しかしこの業界の未来も明るいものではない。研究者の質が変わってきた。図書館での調査業務はレファレンスと呼ばれ、データベースを効果的に検索する謂になった。大学図書館予算は年々高騰を続ける電子ジャーナル、データベースに占有され、古書を購入する余裕なんかなくなった。

     しかし一考を要する所ではある。三十年代までの研究者の卵は一一を手足で稼がざるを得なかった。不能率なる事おびただしい。ところが所期の書物に行き当るか当らぬかはともかく、その間に極めて豊富に諸々の書物の名前や、著者の名前が目の前を通り過ぎる。それが思わぬ発見につながり、予期せぬ知識となって脳裏に堆積する。外題学問という言葉は負の価値で称された謂だが、ここでは明らかに正価である。無駄の値打ちである。こうして多くの蓄積が果された。一転して今の便利さは、一瞬にしてピン・ポイントで目的を達するがそこまでであり、無駄のない代りにジャンルごとに痩せ細った専門知識の骸骨になる恐れがありはしないか。少なくともその恐れに十分自覚的であることをこれからの卵が要求されることになるのは確かだろう。(同書)

     少し観点は変るが、たまたま中野三敏『江戸文化再考』を読んだので、ちょっと紹介してみたい。江戸文化を考える上で、和本(木版本)を外す訳にはいかない。古代から江戸期までに出版された本は写本も含めて推定百五十万点に上る。『国書総目録』にはざっと五十万点が収録されているが、雑書は含まれない。
     百五十万点のうち、活字本になっているのは約二万点に過ぎない。つまり九十九パーセント近くのものは活字化されず、木版印刷や写本のまま、どこかに埋もれているわけで、それを読まずに古典や江戸文化を云々するのは如何なものか。森銑三も中野も、雑書の山の中から江戸の文化を発見していった。
     江戸文化を再考するとは近代の歪みを見直すことであり、そのためにはまず、木版本(変体仮名と草書体漢字)を読む力をつけなければならない。それが和本リテラシーである。私自身にそのリテラシーがないのが悔しい。
     一冊数百円程度で売られている雑書は、誰も読まなければ潰されて、この世から失われてしまう。こういうものを一冊でもよいから買って読んでみよう。そして初等教育に和本リテラシーを普及させよう。それが文化の継続ではないか。これが中野の提言である。
     手元には吉田豊『寺子屋式古文書手習い』というごく初歩のテキストがあって、途中で放り投げていたのだが、改めて勉強しなければならない。

     書泉グランデ、悠久堂。三省堂から道なりに右方向に行けば、向かい側には石井スポーツが見える。駿河台下の交差点には黒澤楽器。この辺りはスポーツ店と楽器店が目立つ。交差点を横断して明大通り(文坂)に入る。「内外地図もありますね。よく来ましたよ。」ロダンの専門は地学だから、正確な地図が必要になる。地図を探そうと思えばこの店である。「地図は難しいですよね。どれを買えばいいか、悩んでしまったことがありました」と姫も言う。
     明治の角を右に曲れば太田姫稲荷だ。千代田区神田駿河台一丁目二番。かつては一口稲荷とも称した。太田道灌が娘の天然痘治癒を山城国(京都)の一口神社に祈願すると効験があり、それを江戸城内に勧請したのが始まりだとされる。
     元々は小野篁に因む伝説から始まっているのだが、篁伝説は怪奇で荒唐無稽なものが多くて殆んど信用できない。篁が遣唐使任官を拒否して隠岐に流罪になった時、海上が大荒れになった。すると波上に白髪の翁が現われ、「流罪はすぐに解けるが、庖瘡を患えば命はおぼつかない。自分は太田姫神である。わが像を常に祀れば痘瘡に罹らない」と神託があった。やがて許されて都に戻った篁は、翁の像を刻み山城国一口の里に祀ったと言うのである。つまり「太田姫神」は太田道灌による名称ではなく、痘瘡を癒す神の名であった。
     しかし海上に白髪の翁が現れるのは、宇賀神出現の時と同じではないか。宇賀神は人頭蛇身の異様な神であるが、弁財天と習合して宇賀弁財天となる。これが竹生島、厳島、江の島の弁天であり、私たちは本所の江島杉山神社の洞窟で宇賀弁財天を見ている。
     仮に太田姫神が宇賀神と同根の伝説だとすれば、それは中世密教が作り出した神である。小野篁の時代では古すぎて平仄が合わない。
     「一口って書いてイモアライって読む。」「ヘー、そうなのか。」「そうですよ。」姫は流石に知っている。しかし、なぜそう読むのかはさまざまな説があって確定していない。各地にあるイモアライの地名は痘瘡神が祀られた場所と関係があるらしい。イモは痘瘡を意味し、痘瘡(イモ)洗いがイモアライに転じたと言うのは間違いなさそうだが、それと一口との関係が分らないのだ。
     一口の里は、宇治川・木津川・桂川が流入する巨椋池のそばにあったらしい。おそらくその地形によるもので、最初はヒトクチと呼ばれていたのではないか。そこに痘瘡神(イモアライ)が祀られたことで、イモアライと呼びなすようになったのかも知れない。
     家康の江戸城改築に当って神田川右岸の淡路坂、後に架けられた聖橋南詰に移転した。そのため淡路坂は別名一口坂とも呼ばれた。昭和六年(一九三一)、御茶ノ水駅拡張のために現在地に遷座した。
     狛犬の片方は顔面が剥落し、元の場所からおかしなところに移されている。拝殿に下げられた提灯の文字は「太田姫神」で、「稲荷の文字がないですね」とロダンが不思議そうな顔をする。「そこまで入れると文字数が多いんじゃないですか?」「フォントを小さくすれば。」先に書いた伝説でその理由が分るのではないか。桔梗紋は太田道灌の家紋である。
     甲賀坂に入る。日大理工学部、東京YWCAの南側を通り、明大前交差点を越えて山の上ホテル前に至る坂だ。「甲賀忍者に関係するんでしょうか?」標識にはこう記されている。

     この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には「南北甲賀町の間に坂あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。

     嘉永二年の地図では、甲賀組(鉄砲百人組)の組屋敷は青山にある。それ以前、本当にこの場所に組屋敷があったかどうかは既に検証できないが、この坂の北側が北甲賀町、南側が南甲賀町である。
     YWCA会館一階のサクラ薬局の入口に「小栗上野介ここに生まれる」のプレートが設置されていた。千代田区神田駿河台一丁目八番十一号。開館当時の住所表示は駿河台北甲賀町だ。小栗上野介についてはこれまで何度か書いているし、スナフキンが浦賀を案内したときにも(私は欠席したが)所縁の地を訪れて説明している筈だ。
     上野介忠順(ただまさ)は文政十年(一八二七)、旗本小栗忠高(二千五百石)の子としてここに生まれた。その功績はいまさら言うまでもないだろう。横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設、横浜仏蘭西語伝習所の設置、日本初の西洋式火薬製造所、フランス軍事顧問団の導入、築地ホテル館の建設等、要するに富国強兵、殖産興業の先駆者であった。司馬遼太郎によれば、小栗は明治国家の設計図を描いた人である。
     徹底抗戦派であったが、徳川慶喜の恭順によって罷免されて後は知行地の上州権田村(高崎市倉渕町権田)に隠棲した。その上野介を捕えて惨殺した東山道軍には何の名分もない。慶応四年(一八六八)閏四月六日のことである。殺したのは上州巡察使の大音厚竜(彦根郷士)、副巡察使の原保太郎(丹波国園部藩)、豊永貫一郎(土佐藩)だ。実際に斬ったのは安中藩徒目付の浅田五郎作だとの説もあるが、いずれにしろ命令は彼ら軍監によって出されただろう。翌日には上野介の養嗣子忠道も殺された。
     明大通りに出ると、道の向こうに山の上ホテルの看板がある。川端康成、檀一夫、三島由紀夫、池波正太郎、山口瞳などの定宿になっていた。「常盤新平に『山の上ホテル物語』があるよ。」私は読んでいない。スナフキンの読書範囲の広さには驚いてしまう。
     「そこに刑事博物館がある。」スナフキンが言うのは明時大学である。現在は明治大学が持つ三つの博物館が統合され、明治大学博物館「刑事部門」と言うのが正式名称になった。「知らないで行ったんですけど、もう二度と行きたくありません。」あんみつ姫は心底嫌そうな顔をする。ギロチン、鉄の処女、磔の写真等、女性には厳しい展示物があるのだ。
     杏雲堂病院前の歩道には「法政大学発祥の地」の石碑が建っている。明治十三年(一八八〇)、法政大学の前身である「東京法学社」が神田駿河台北甲賀町十九番地池田坂上に設立された。現在の日大病院の場所だから、実際にはこの病院の裏になる。
     その更に角の植え込みの中に「大久保彦左衛門屋敷跡」碑がある。千代田区神田駿河台一丁目八番。「一心太助と遊んでいたってのは嘘でしょう?」彦左衛門忠教(ただたか)について伝わっていることは殆どが講談種であり史実とは異なるが、江戸時代に人気があった事だけは分る。
     子孫にだけ残す筈だった『三河物語』の写本が出回っていて、それに興味本位のフィクションを交えた実録本『大久保武蔵鐙』が、現状に不満を持つ下級武士や庶民にもてはやされたのである。実録本とは講談や歌舞伎の種本であり、いわゆるノンフィクションではない。この『大久保武蔵鐙』が一心太助を登場させ、河竹黙阿弥『芽出柳翠緑松前』が歌舞伎に取り上げたらしい。因みに宇都宮釣天井事件も、『大久保武蔵鐙』によって世間に知られるようになった。
     彦左衛門は永禄三年(一五六〇)三河国上和田に大久保忠員の八男として生まれ、最終的には二千五百石の旗本で終わった。没年は寛永十六年(一六三九年)、八十歳である。三河以来の回顧談は、家康を尊敬した家光には喜ばれただろう。しかし「天下のご意見番」などというものではない筈だ。庶民が口にできない政道批判を、彦左衛門の口を借りて言わせたから人気が出たのである。水戸黄門や大岡政談と同じだ。
     御茶ノ水駅前交番横には「お茶の水」由来の碑が建っている。「こんな所にあるなんて知らなかったですよ。」

    聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
    神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 
    享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 
    川の中になりて 今その形もなし(再校 江戸砂子 より)
    慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった 
    ある時寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ
    お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。
    それから毎日この水を差し上げる様になり 
    この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。(以下略)

     高林寺(曹洞宗)は御茶ノ水駅から順天堂辺りまで広がる広大な寺だったが、明暦二年(一六五七)の大火後、文京区向丘(駒本小学校の隣)に移転して現在に至っている。緒方洪庵の墓があるので、日光御成街道の途中で立ち寄ったことがある。
     ここから東に行く。「昔は食堂が多かったんだよ。そうだよね。」「丸善は今でもあるのかな。」「あるよ。」ここ数年、丸善は組織変更が著しくて現状がどうなっているか良く分らない。現在、外商部門は雄松堂と合併して株式会社丸善雄松堂書店、出版は丸善出版株式会社、店舗は株式会社丸善ジュンク堂書店と分社しているが、書店の名称は丸善であったりジュンク堂であったりする。この店の看板は相変わらず丸善のままだ。同じ大日本印刷の傘下だから、そのうち丸善ジュンク堂文教堂書店なんていう長ったらしい名称になる可能性もある。

     丸善の角を曲がり、日大歯学部、理工学部棟を経由してニコライ堂に着いた。千代田区神田駿河台四丁目一番三号。この辺りは日本大学と明治大学の校舎が錯綜していて勘違いしやすい。桃太郎に「日大ですか?」と訊かれてまごついてしまった。裏口から入ってしまったので、ドームが随分遠くに見える。「向こうから回って行けばいいんだよ。」しかし道路には出ずに、講釈師はそのまま真っ直ぐ行き、半開きの鉄の格子戸から入って行く。
     江戸時代には駿河台の定火消役屋敷だった。宝永元年(一七〇四)、それまで十五組あった火消役が十組に定められたので、十人火消とも呼ぶ。他に八重洲河岸、赤坂溜池、半蔵門外、御茶ノ水、赤坂門外、飯田橋、小川町、四谷門外、市谷佐内坂にあった。歌川(安藤)広重は八重洲河岸(現丸の内)の定火消役屋敷で生まれた。
     ここは駿河台南甲賀町だ。そして六番地だとすれば、元大垣藩主・戸田氏共伯爵の邸宅があった場所である。因みに氏共の妻極子(きわこ)は岩倉具視の三女で、陸奥亮子と共に鹿鳴館の華と謳われた。写真を見ると陸奥亮子のモダンな顔立ちと違って、日本風の美人である。
     時は鹿鳴館時代、極子と伊藤博文とのスキャンダル事件が持ち上がった。前田愛『幻景の明治』が新聞報道を克明に調査して、そのスキャンダルの経緯を追いかけた。発端は、『東京日日』『絵入自由』『やまと』『絵入朝野』の四紙にほぼ同様の記事が掲載されたことだった。
     第一報は、永田町方面から走って来た十六七の令嬢が、ドレスに裸足で人力車に飛び乗ったと言うのである。やがて人力車が着いた場所が駿河台南甲賀町の屋敷となれば、戸田邸であることに決まる。極子は当時三十一歳であった。伊藤の好色は世間周知のことだが、相手が伯爵夫人、しかも岩倉具視の娘と言うことで一大スキャンダルになったのである。強姦致傷の噂も出たが、実際には密通と言うべきものだったらしい。大した功績はないのに事件直後、氏共がオーストリア・ハンガリー全権公使に任ぜられたのは、口封じのためだと世人は噂した。この間に、伊藤失脚を狙って薩摩閥の三島通庸警視総監の暗躍もあった。
     ニコライ堂の正式名称は、日本ハリストス正教会の東京復活大聖堂である。ニコライの名は、日本に正教を伝えたニコライ・カサートキン(一八三六~一九一二)に由来する。だからロシア正教なのかと思っていたが、それは正確ではなかった。正教会は各国にそれぞれに総本山があって、ロシア正教会はそのロシア地域の名称に過ぎないのである。セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ポーランド正教会、アルバニア正教会、チェコ・スロバキア正教会、アメリカ正教会等と同列なのだ。但しギリシア正教会はギリシア国内の組織を言うと同時に、各国の正教会を総合した名称でもある。要するにビザンティン帝国以来の東方キリスト教会である。ハリストストはギリシア語でキリストのことだ。
     「十字架の形が違うだろう」と講釈師がペコチャンに講釈している。これはロシア正教会で用いる八端十字架と呼ばれるもので、十字の上に短い横棒を置き、縦棒の下の部分に左上から右下に斜めに一本入る形だ。
     明治二十四年(一八九一)に建てられた建物の原設計はロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ、実施設計はジョサイア・コンドル(解説板では工事監督としている)、建築工事は長郷泰輔が請負い、施工は清水組が担当した。長郷泰輔は旧会津藩士で、帝国議会議事堂の建築も担当している。関東大震災でドームと鐘楼が倒壊したが、最初の構成を若干変更して修復し現在に至っている。幸い空襲の被害は免れた。東京のランドマークとして藤山一郎『ニコライの鐘』を始め、歌謡曲にも多く歌われる。

    青い空さえ 小さな谷間
    日暮れはこぼれる 涙の夕陽
    姿変れど 変らぬ夢を
    今日も歌うか 都の空に
    あゝニコライの 鐘がなる(門田ゆたか作詞・古関裕而作曲『ニコライの鐘』)

     明治四十一年(一九〇八)十一月、『明星』を百号で廃刊した与謝野鉄幹・晶子夫妻は、翌年一月、千駄ヶ谷村大通五四九番地から駿河台東紅梅町二番地に転居してきた。長男が暁星小学校(千代田区富士見)に通学しやすい場所というのが理由だったようだ。ここから本郷通りを挟んで東側、御茶ノ水NKビル(旧名倉堂医院。神田駿河台四丁目二番五)の辺りで、晶子は毎日ニコライ堂のドームを見ていた。

     ニコライのドオムの見ゆる小二階の欄干の下の朝がほの花  晶子

     聖橋を渡って湯島聖堂に入って、杏檀門を抜け大成殿の前に立つ。「あの屋根の上の、名前はなんでしたっけ。水戸の弘道館でも見ましたよ。」一度調べているのに、すぐに名前を忘れてしまう。魚身龍頭で水を吹きだすように見えるのは鬼犾頭(きぎんとう)、猫のような動物は鬼龍子(きりゅうし)であった。鬼龍子は騶虞(すうぐ)というもので、生物を食わず、聖人の徳に感応して現れる霊獣だと言う。
     すぐ下に降り、楷の木を見る。山東省曲阜の孔子墓所「孔林」に子貢がこの木を植えたことから、孔子の木とされている。そして世界最大の孔子像がある。昭和五十年(一九七五)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたもので、高さ十五尺、重さ一・五トンある。孔子の身長は九尺九寸と伝えられ、長人と呼ばれた。もちろん今の尺とは異なり、周尺は六寸程といわれるから、換算すれば五尺九寸、一七九センチ程になるか。
     ちょうど白川静『孔子伝』を読んでいるところだったので、リュックから取り出してみせるが、誰も余り関心を示さない。「難しそうね。」確かに簡単に読める本ではない。昨年末の里山ワンダリングで久喜を歩いた時、中島玉振から白川静に話題が及んだので、読み直していたのである。白川は、『史記』「孔子世家」に書かれた孔子伝は下手な小説と同じで信用できないと断言し、「儒」は葬送儀礼に携わった巫祝の集団であるとする。つまり賤民であった。

     孔子はとくに卑賤の出身であった。父のことも明らかでなく、私は巫児の庶生子ではないかと思う。晩年にはさすがに一代の師表として、尊敬を受けたであろうが、亡命中のある時期には、「夫子を殺すもの罪なく、夫子を藉(しの)ぐもの禁なし」〔荘子・譲王篇〕という、引き受け人のない亡命者、いわゆる外盗の扱いであった。(略)
     焚かれたのは巫祝であった。祝は巫に対して男巫をいい、髪を断つことをもいう語である。焚巫に用いるものは、大てい巫祝の中の異常者であった。わが国の一つ目や一本足の妖怪が、そういう古代の人身御供から生まれた語であるように、中国では侏儒などがそれに使われたのである。儒はおそらく、もと雨請いに犠牲とされる巫祝をいう語であったと思われる。その語がのちには一般化されて、巫祝中の特定者を儒とよんだのであろう。それはもと、巫祝のうちでも下層者であったはずである。かれらはおそらく、儒家の成立する以前から儒とよばれ、儒家が成立してからもなお儒とよばれていたのであろう(略)
     巫とともに、神事に従うものに史があった。巫史・祝史のように呼ばれていることが多い。巫史の起源は、遠い原始の時代に発している。それは人類が、何らかの意味で霊的なものの存在を意識し、それとの交渉を試みようとしたとき、すなわち人々が原始的な宗教な感情をいだきはじめたときから起っている。霊的なものには、霊的な方法で対処しなければならない。そういう呪的な行為をするものが、巫史であった。(略)
     儒はもと巫祝を意味する語であった。かれらは古い呪的な儀礼や、喪葬等のことに従う下層の人たちであった。孔子はおそらくその階層に生まれた人であろう。しかし無類の好学の人であった孔子は、そのような儀礼の本来の意味を求めて古典を学んだ。(略)
     孔子は最も狂者を愛した人である。「狂者は進みて取る」ものであり、「直なる者」である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる。そしてそれは、精神史的にもたしかに実証しうることである。

     そして白川は、孔子の晩年の思想を最も正統的に受け継いだのは荘子であり、若くして死んだ顔回の流れを引くと論じている。それに比して孟子は正統外の人であった。
     酒見賢一『陋巷に在り』(全十三巻のうち私は半分しか読んでいない)は、孔子に最も愛された顔回を主人公とする小説だが、儒については白川の説を踏襲している。また諸星大二郎の『孔子暗黒伝』は陽虎との闘争に加え、ブッダやアスラ(阿修羅)、ハリハラ(シヴァとヴィシュヌの合体神)が重要な意味を持つ壮大な物語であるが、そこで描かれる孔子も巫祝出身を思わせる。

     ロウバイが咲いている。「以前はもっといろんな門を潜りましたよね。」仰高門、入徳門などだ。昌平坂を上って左に曲ると公園がある筈だ。「そこでちょっと煙草を吸わせてよ。」しかし公園内も禁煙である。千代田区は冷たい。
     ここで五分程休憩して神田明神に入る。女性陣や講釈師は門前の天野屋で甘酒を飲むと張り切っている。「十一時四十分にここに戻ってきてください。」リーダーの言葉で散会する。今は十一時十分だ。
     境内はそれほど混んでいる訳でもないが、賽銭を上げるにも並ぶ必要がある。スナフキンや桃太郎が神妙に並んでいるのを尻目に、私は銭形平次の碑の方に行ってみる。国学発祥之地碑は、賀茂真淵と勘違いしていた。荷田東丸(春満)が元禄十三年から享保七年まで在府した際、ここに初めて教場を開いたのである。
     新妻恋坂を見下ろす垣際には二三本の紅梅が咲いている。今年初めて見る梅だ。ロダンがやって来たので教える。「いいですね、これ位が丁度いい。」すぐ脇に喫煙所があったので一服する。風もなく大寒波と言う割には寒くなく、良い天気だ。
     枡酒一杯千円の張り紙を見た。「千円は高いよな、五百円だったら飲んでもいいけど。」「でも縁起物だから、飲んでみようかな。」そう言っていた桃太郎も結局やめた。鳥居に戻ればもう全員が集まっている。甘酒は三百五十円だったらしい。「ちょっと早いけど出発しましょう。王将を予約してあります。」姫は餃子や中華が苦手だが、他の料理もあるだろう。

     昌平橋、万世橋。ユリカモメが二羽、三羽。「都鳥だよ」と講釈師が呟いて、ペコチャンが驚く。「これが都鳥なの?」ミヤコドリは今では別のもの(チドリ目ミヤコドリ科)を言うが、古代中世にはこの鳥(カモメ科)を都鳥と呼んだ。『伊勢物語』に、「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる」とあるのがその証拠になる。

    なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)
    さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。(『伊勢物語』九段「東下り」)

     万世橋の辺りは新しい高層ビルが立ち並んでいて、食事をする店はいくつもありそうだが、ヤマチャンはどんどん歩いていく。「肉の万世でも良かったけどな。」しかしその店の前を通ると、まだ開店していない。「まだかな。」須田町の交差点に出て、靖国通りを東に少し行くと、岩本町の駅近くにヤマチャンが予約した王将があった。ちょうど十二時だ。「十四人になった。」ヤマチャンは二十人で予約していたのだ。一階はほぼ満席で、「大阪ラーメンってどんなの?」と訊いている男がいる。「中華そばです。」これでは回答になっていないのではないか。
     二階に席が作ってあり、店員がそこから椅子を六脚外して丁度十四席にしてくれる。餃子の王将かと思っていたが、ここは大阪王将である。「王将にふたつもあるなんて知らなかった。」予約したヤマチャンが知らなかったのである。私も初めての店だから、ウィキペディァを引用する。

     一九六九年に大阪市都島区京橋に中華料理店「王将」として創業したのがはじまりで、現法人設立は一九七七年八月である。その後「大阪王将」として、チェーン展開を始める。
     その後、「よってこや」、「コートロザリアン」、「シノワーズ厨花」など餃子以外の業態でチェーン展開が進んだことに伴い、二〇〇二年十月にイートアンドに社名を変更した。(中略)
     なお、同じく「王将」を冠し中華料理チェーン「餃子の王将」を展開・運営する、京都に本社を置く王将フードサービスとは、古くは「のれん分け」などの関係があったものの、現在は資本関係は無い。

     「どうする?ビール。」「瓶にしようか。」スナフキンと姫と私で中瓶を二本、桃太郎はジョッキを頼んだ。十四人もいると注文もややこしい。てんでん勝手に注文しても店員が迷うばかりだ。「順番に行こうよ。」「タンメンの方?」「ラーメンの方?」それぞれ何人かが手を挙げる。「餃子定食の方は?」チロリンも手を挙げたが、彼女はラーメンに手を挙げたばかりだ。「私は餃子の単品だよ。」「それじゃちょっと待って、後にして。」「もう一度餃子定食の方。」私は肉野菜炒めに餃子が六個付く定食にした。「俺もそれでいいや。」マリーは大阪ラーメンなるものを注文している。
     大阪ラーメンは、野菜あんかけの上に天カス、紅ショウガ、海老などが載っているものだ。「なんだかお好み焼きみたい。汁が甘い。」そして、これを注文した人はカップ麺が貰えるのである。

     大阪のご当地ラーメン作りを目指し、産経新聞社と即席麺大手、エースコック(大阪市吹田市)が共同開発したカップ麺「産経新聞 大阪ラーメン」がリニューアルされ十五日、全国発売された。第六弾となる今回は、外食チェーン「大阪王将」の協力を得て、大阪特産の泉州タマネギを大胆に使い、「甘辛味」をグレードアップ。揚げ玉のコク、とろろ昆布の風味、鶏そぼろの食感で、独特な味わいを作りだしている。(「産経WEST2016.8.15 22:13」http://www.sankei.com/west/news/160815/wst1608150086-n1.html)

     ラーメンの汁が甘いのは玉ねぎのせいだろう。餃子の皮はパリッとしていない。私は腹が一杯になった。食べ過ぎである。

     店を出たのは十二時四十五分だ。ちょっと神田川方面に戻れば柳森神社だ。千代田区神田須田町二丁目二五番一号。長禄二年(一四五八)現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られたのが始まりである。万治二年(一六五九)、神田川堀割の際に現在地に移った。その際に柳の樹も堀の土手に移植されて江戸の名所になった。それが柳原土手である。
     境内には小さいながら富士塚がある。名を刻んだ力石が十個以上置かれた傍には、マンリョウが赤い実をつけていて、姫やハイジが喜んでいる。
     「千畳敷きだよ。」口のとんがった狸が大きな陰嚢を抱くように座っているのだ。講釈師得意の話題で、千畳、百畳、八畳とも言う。これは「狸の金箔八畳敷」が「狸のキンタマ」に誤伝したと考えられている。金箔を延ばす時、狸の皮は丈夫なので、それに包んで叩く。すると金一匁が畳八畳程に広がるのだそうだ。
     「商家の店先にタヌキの置物が置いてあるだろう?他を抜くの意味なんだよ。」それも解説板に書いてある。但し信楽では、狸の狸の八相縁喜ということを言っている。どうせコジツケに決まっているが一応記録しておこう。
     笠は思わざる悪事災難避けるため。見開いた目は何事も前後左右に気を配る。笑顔は互いに愛想よく暮して商売繁盛。通帳は、信用が第一、活動常に四通八達。太鼓腹は、決断力の大胆だ。大きな金袋は蓄財。大きな尾は、何事も終わりは大きくしっかりとということである。

     和泉橋の近くには柳原土手跡の解説板がある。美倉橋で神田川を渡るのは清洲橋通りだ。次は医学館跡である。台東区浅草橋四丁目十六番。元は神田佐久間町にあった。

     江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館が清洲橋通りのこの地にあった。
     明和二年(一七六五)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政三年(一七九一)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。文化三年(一八〇六)三月、大火に遭い焼失、同年四月に、前方の旧向柳原一丁目に移転、再建された。
     敷地約七千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保十四年(一八四三)には寄宿舎を設け、全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。

     清洲橋通りを更に北に行くと神田和泉町交差点の角にはスーパーのライフがあった。その前に国立衛生試験所発祥の地碑が建っている。千代田区神田和泉町二番地。
     角を左に曲れば三井記念病院である。千代田区神田和泉町一番地。「この説明が気に入ったから。」説明によれば、明治三十九年(一九〇六)汎ク貧困ナル病者ノ為メ施療ヲ為スヲ目的」として、三井家によって作られた財団法人三井慈善病院であった。診療は一切無料である。
     私はさっきのビールが効いてきて、トイレに行きたい。道を渡ってサンクスに行ってみたが、ここにはトイレがなかった。仕方がない。「ヤマチャン、そこのライフでトイレ休憩してよ。」一階が駐車場、店舗は二、三階という、スーパーにしては不思議なビルである。「トイレはどこですか?」「三階です。」トイレに行きたかったのは私だけではなかった。
     「今何時だい?」「一時十五分。」「二時には終わっちゃうんじゃないか。」余り早く終わってしまうと、その後はどうしよう。「俺はまだ腹いっぱいだよ。」「俺も、今は何もはいらないな。」さっきの定食が多過ぎた。時折雪がちらついてくる。
     浅草橋駅前から江戸通りを南に行けば、浅草橋北詰には浅草見付跡碑がある。「そこの舟宿、三浦屋が一番いいみたいだよ。」神田川のこの辺りにはいつも屋形船が数隻繋留してある。スナフキンによれば、料金は協定だから同じだが、料理の内容が良いのだそうだ。
     南詰の交番の脇の植え込みの中に郡代屋敷跡の解説が立っている。「伊奈忠次ですね。」

     関東郡代は、徳川家康が関東に入国したときに、伊奈忠次が代官頭に任命され、後に関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)で焼失し、この地に移りました。

     伊奈氏に関して、私たちは伊奈町で忠次の陣屋跡と熊蔵の墓(願成寺)、川口では忠治の赤山城址を見ている。「水戸の備前堀も伊奈備前守だったんですね。水戸藩には中山備前がいるから、そっちかと思ってました。」久喜散策の里山日記で、関東各地の備前堀等の地名は全て伊奈備前守忠次に由来すると書いた。ロダンはそのことを言っているのだ。
     但し伊奈氏の世襲した職制が「関東郡代」だったかどうかには、異説がある。どうやら正解は、伊奈氏が就いたのは「関東代官」であり、「関東郡代」は寛政四年(一七九二)に伊奈氏の改易された後に設置された職制だ、ということになる。
     伊奈氏の苗字は、荒川易氏が信州伊那郡の一部を与えられたことに始まる。しかし易氏の孫・熊蔵易次が一族内の所領争いに負け、三河国に移って松平氏の家臣となった。これが却って幸いしたと言えるだろう。
     そこから東に適当に歩けばすぐに柳橋に着くのだが、その前に小さな篠塚稲荷がある。「そこ寄りましたか?」「寄ってないかも知れない。」

    当社の創起年代は詳らかではないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。
    正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。
    延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神仏分離の際玉蔵院は廃せられた。
    古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る。(境内石碑)

     この辺りは何度も歩いたところだから、書くべきことも余りない。欄干の簪レリーフにペコチャンは喜ぶ。「オオバンがいるよ。」すぐ先で隅田川と合流する部分に、ユリカモメと並んで黒い鳥が二羽遊んでいる。なんとかハジロというのもいる。カモ科は種類が多くてなかなか覚えきれない。
     久し振りに成島柳北『柳橋新誌』を読んでみようかと思ったが、ソファをずらさないと取り出せないのでやめた。重いものを動かす気力がないのだ。安政六年(一八五九)、柳北二十三歳で書いた初篇では柳橋の隆盛を謳いあげたのに対し、維新七年(一八七四)に書いた第二篇では、明治の高官つまり田舎者によって荒らされる柳橋の現状を冷やかに見つめる。それが必然的に明治政府への批判となって、第三篇は発行禁止処分を受けるのである。
     そして橋の袂のお馴染み小松屋で佃煮を買う。台東区柳橋一丁目二番一号。明治十四年創業になる。船宿を営業しながら、花街に来る客への土産として佃煮の製造を始めた。みんな佃煮が好きだ。桃太郎は牡蠣とアミを買った。「佃煮工場に行ったのはどこだっけ。」「羽田だよ。」「佃島でも買いましたね。」

     風花や佃煮買ふは柳橋  蜻蛉

     「そこの和菓子屋さんに寄っていいですか?」「姫は良く知ってるね」とヤマチャンが大袈裟に驚く。「佃煮屋さんで聞いたんですよ。」梅花亭。台東区柳橋一丁目二番二号。明治中期創業の店である。ウグイス餡の最中や子福餅などが有名らしいが、私には縁がない。
     ここで解散となる。一万三千歩。まだ二時をちょっと過ぎた所だし、私の腹はまだ何も受け付けるような状態にない。「その辺に磯丸水産があるよね。」「もう少し歩かないか?少し腹ごなしが必要なんだ。」飲まない人はそのまま浅草橋駅に向かい、酒飲みたちは上野まで歩くことにした。あんみつ姫、マリー、スナフキン、マリオ、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の八人である。
     「上野は遠いんじゃないですか?」「三十五分だよ。」スナフキンのスマホが教えてくれる所要時間が実際よりかなり低めなのは、武蔵関から吉祥寺まで歩いて知っている。一時間程度見れば良いだろう。
     左衛門橋通りを北上する。上野は斜め左の方角だから、適当にどこかで左に曲がるのだろう。上野はスナフキンの遊び場だから任せておけばよい。「銭湯があるよ。」「学生の頃は七八十円じゃなかったかな。」ロダンがそう言うが、私は全く覚えていない。時折舞い降りる雪片が大きくなるが、積もるようなものではない。
     蔵前橋通りに出ると浅草鳥越神社だ。台東区鳥越二丁目四番一号。有名な神社だが私は初めてだ。白雉二年(六五一)、ヤマトタケルを祀って白鳥神社としたのが始めとされている。前九年の役出陣の際、源頼義・義家が白鳥が飛ぶのを見て隅田川の浅瀬を見つけて渡河したことから、鳥越大明神と称したと言う。
     ヤマトタケルと白鳥伝説に因む神社は鷲神社、大鳥神社など各地にある。谷川健一『白鳥伝説』は白鳥伝説と日本(ひのもと)地名の遷移を追って、物部氏東遷とそれに従う蝦夷の移動について、壮大な古代史を語っている。それと関連しているだろうか。
     「もう神社には寄らないと思って小銭は全部つかっちゃった」とマリオが言えば、スナフキンも「五円がいいんだけど、五円玉がなくなった」と言う。律儀な人たちである。私は賽銭を上げたことがない。本殿の前の狛犬の左側がちゃんと角を持っている。
     左衛門橋通りの一本西側の道で、日蓮宗長遠寺の門前に二宮彦可(げんか)墓碑跡の解説板が建っていた。「知ってますか?」「知らない。」しかし見てしまった以上は調べなければならない。取り敢えず、解説板の写真だけを撮っておいた。『日本人名大辞典』を見てみると、整骨医であった。「墓碑跡」となっているのは、関東大震災で焼失したからである。

     宝暦四年(一七五四)生まれ。石見浜田藩医。長崎で吉雄耕牛に外科を、吉原杏蔭斎に整骨術をまなび、文化五年江戸で「正骨範」を刊行した。文政十年(一八二七)十月十一日死去。七十四歳。遠江出身。本姓は小篠。名は献。号は擁鼻、叟楽。字は別に齢順。

     三河国岡崎藩(松井松平家)の侍医小篠敏の長男であるが、病弱のため家督相続から除かれ、二宮元昌の養子となった。藩主の岩見国移封に伴って石見に移ったのである。長崎で学んだ後に浜田藩侍医となり、寛政五年には藩主に随行して江戸に来て、木挽町五丁目に住んだ。
     整骨術と言えば柔道整骨術をイメージして、西洋医学とは余り関係ないものかと思ってしまうが。二宮彦可はオランダ流の外科学を学んだ人である。
     そろそろ寒くなってきた。下谷神社。台東区東上野三丁目二十九番八号。かなり前に、桃太郎の案内で来たことがあるような気がする。天平二年(七三〇)、峡田稲置らが、上野忍ケ丘に大年神と日本武尊を祀ったのが始めと伝えられる。延宝八年(一六八〇)に当地に遷座した。都内で最も古い稲荷神社だと言われるが、稲荷神は一般に宇迦之御魂(倉稲魂の表記もある)である。この神社の祭神は大年神で、これも穀物神だか、混同したのであろうか。
     本殿の前でアヒルのガーチャンが蹲っている。「寒いんじゃないかしら。」鳥居の前では焚火をしている。どんど焼きかと思ったが、燃やしているのは段ボールだった。
     寄席発祥の地碑。「そうですよ、確かここだと思ったんですよ。」寄席に関してはロダンが詳しい。寛政十年(一七九八)六月、初代三笑亭可楽がこの境内に寄席の看板を揚げたのが、江戸の寄席の始まりとされているのだ。同じ頃、上方から下って来た岡本万作も神田豊島町で寄席興業を行っている。
     これ以前、天明六年(一七八六)烏亭焉馬が向島の料亭で落し噺の会を開いて成功しており、この頃から落語というものが広まってきた。腕自慢の連中は天狗連と名乗って人を集めたが、まだ仲間内の会であった。
     可楽は馬喰町の櫛職人で、最初は山生亭花楽と名乗った。しかし最初の寄席は失敗したらしい。三か月の修業を経て、どういうわけか日光街道越谷宿で再挑戦して成功を収めた。この時の木戸銭は十二文、掛け蕎麦が十六文だから、かなり安い。碑の隣には子規の句碑もある。

     寄席はねて上野の鐘の夜長哉  子規

     「寄席の後、へぎそばを食べましたよね。ツナギに布海苔を使ってるんですね。あの蕎麦は旨かった。」桃太郎が言うのは江戸歩きの記念すべき第一回のことで、深川を歩いた後に鈴本演芸場を楽しんでから蕎麦屋に入ったのである。「もう閉店しようかっていう頃で、嫌な顔をされましたよね。」あれが平成十七年(二〇〇五)九月のことで、知っているのは桃太郎とあんみつ姫だけである。
     やっと上野駅に着いた。「上野はオイラの心の駅だ。」「伊沢八郎の娘は誰だっけ。」「工藤夕貴。」「自分で農業をしてるんですよ。」そこまでは知らなかった。『ああ上野駅』(関口義明作詞・荒井英一作曲)は二十年も前に死んだMチャンの愛惜する歌であった。啄木の歌碑を見る。

     ふるさとの訛なつかし停車場の人混みのなかにそを聴きにゆく  啄木

     アメ横は凄まじい人出だ。「これが東京か。」「越谷にはこんなに人がいません。」「水戸だってそうですよ。」みんな田舎者である。ここに来たらスナフキンに任せるしかない。上の近辺の店は混み合っているので、結局御徒町まで歩き吉池に入った。私は知らなかったが有名な店らしい。

     一九二〇年(大正九年)、新潟県布川村(後に松之山町、二〇〇五年合併により十日町市)出身の高橋與平(たかはしよへい)が、東京府芝区芝赤羽町(現港区三田一丁目)に鮮魚小売店を開業する。一九三三年(昭和八年)、東京府下谷区御徒町へ移転以降、鮮魚を中心に食料品、衣料品、酒、日用雑貨等を幅広く取り扱い事業を拡大する。一九四一年(昭和十六年)に株式会社吉池商店を設立し、一九六三年(昭和三十八年)に株式会社吉池に社名変更する。(ウィキペデイアより)

     ビルを建て替えたのは平成(二〇一四)で、テナントとしてユニクロ、ジーユー、ユザワヤなどが入っている。ユニクロの看板の方が目立つ。
     九階に上がればそこが吉池食堂だ。「子どもの頃、デパートの最上階の食堂に行きましたね。」そんな感じである。結局ここまで一万八千歩、十キロちょっと歩いたことになる。少しは腹も落ち着いてきた。それでもみんな余り料理を注文しない。漬物、油揚げ、モツ煮込み。黒霧島を二本空けて、ここはお開きとする。
     しかしまだ六時だ。「カラオケかい?」ビッグエコーに入れば、私の会員カードではなく、桃太郎のカードの方が効力を発揮する。どういう仕組か分らないが、二割引きになるのである。「あれっ、ロダンは?」「かなり酔ってたから帰ったよ。」マリオも歌わない人だから、結局六人が残ったのである。二時間歌ってお開き。


    蜻蛉