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    第六十九回  奥深いぞ!深川「清澄辺り」
    平成二十九年三月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.03.20

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     昨日三月十日は七十二年前の東京大空襲、そして今日は勿論六年前の東北大震災の日である。あの日は金曜日で寒い日だった。翌日には桃太郎企画の第三十四回「神田川遡上編(一)」が予定されていたが、当然中止になった。
     今日は旧暦二月十四日。啓蟄の次候「桃始笑」。朝晩はまだ寒い日が続く。今日は多少暖かくなる予報だが、家を出た時はまだ寒い。
     深川近辺は第一回(平成十七年九月)、第四十五回(平成二十五年三月)を始めとして何度も訪れているが、あんみつ姫は更に見逃していた場所を探し出して企画してくれた。それがタイトルにある「奥深いぞ!」の意味である。
     集合は地下鉄森下駅A1出口だ。あんみつ姫、チロリン、マリー、画伯、ヨッシー、ダンディ、マリオ、スナフキン、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十二人が集まった。ただスナフキンは午後どうしても抜けられない会合があって半日券を行使する予定だ。
     画伯は随分久し振りだ。「そんなことないよ、去年の荒川線沿線は参加したんだから。」それならちょうど一年である。去年少し体調を崩して入院したとは聞いていたが、もうすっかり完治したらしいので良かった。その代りと言っては変だが、講釈師がお休みである。
     新大橋通りを左に入り、姫が最初に立ち止ったのは区立八名川小学校の前だ。江東区新大橋三丁目一番十五。校庭の北側のフェンスの内側に新大橋の橋名板が展示されているのだ。右から左へ「志ん於ほはし」、その下にローマ字は当然左から右に書いてある。「川がないよね、埋め立てたのか。」「小さな橋だったんじゃないか。」「隅田川の新大橋のことだよ。」
     「同じシで、『志』と『し』とあるのはおかしい。いい加減なんだな。」たぶん変体仮名の使用ルールがあるのではないかと思ったが、自信がないのでその時は言わなかった。調べてみるとやはりそうで、単調を嫌って同じ音でも複数の文字を使い分けた。原則として語頭には「志」、語中・語尾には「し」を使うのが一般的とされている。大槻文彦の『言海』でも、語頭の「し」は全て「志」で表記している。
     明治三十三年(一九〇〇)、帝国教育会国語改良部が「同音ノ仮名ニ数種アルヲ各一様ニ限ルコト(即チ変体仮名ヲ廃スルコト)」を議決し、小学校施行規則において変体仮名が廃止され、小学校で教えられる仮名の字体が一字体に統一された。
     しかし小学校で教えなくても世間ではまだ使われており、この橋名板は明治四十五年(一九一二)に架けられた時のものだ。昭和五十二年(一九七七)に架け替えられるまで、江東区側の正面上部のアーチを飾っていた。その歴史を残そうと、八名川小学校PTAを中心に、ここに保存する運動を展開したのである。
     「新大橋って言ったって新しくない。」元々両国橋を大橋と呼び、約三十年後の元禄六年(一六九三)に架けられたので新大橋と名付けられた。千住大橋、両国橋に次いで、隅田川に三番目に架けられた橋で、すぐ近くの芭蕉庵に住んでいた芭蕉はその完成を心待ちにしていた。

     初雪やかけかゝりたる橋の上   芭蕉
     有り難やいたゞいて踏む橋の霜  同

     広重の「大はしあたけの夕立」がこの橋を描き、ゴッホがそれを模写した。しかしこの橋は運が悪く、二十回以上も破損、流出、焼落を繰り返した。江戸の川に橋が少なかったのは、メンテナンスが難しいからである。
     「結構寒いね。」マリーは春らしい薄手の上着を着ているが、これでは寒かろう。「だって何を着てきたらいいか分らないんだもの。」手が悴んでくる。
     姫の資料は菅野兼山の会輔堂を紹介しているのだが、場所が特定できなかったと言う。調べてみると江東区新大橋二丁目五番付近だ。菅野兼山のことは知らなかった。兼山は武州埼玉郡小針村(埼玉県伊那町)の人。始め佐藤直方に学び、後京都で伊藤仁斎に師事して古義学を学び、また三宅尚斎に朱子学を学んだ。佐藤直方、三宅尚斎は山崎闇斎門だが、闇斎の垂加神道とは一線を画していた。

     ・・・享保八年(一九二三)、目安箱で幕府に請願した結果、金三十両と本所深川に校地を貸し与えられ、会輔堂を創設した。その名は、『論語』顔淵篇の「曾子曰く、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔く」にちなむ。その後、将軍吉宗は、京・大坂にも学問所の創設を申請するものがあるか否かを兼山に下問した。その話を承け、三輪執斎などの仲介を得て、中井甃庵、五同志らが中心となって懐徳堂の官許を求める運動が進められた。(新建懐徳堂「会輔堂」)http://kaitokudo.jp/Kaitokudo1_cgi-bin/HTMLWordRep3.exe?HTML=2JisyoMain&%5BDocID%20-INSERT-%5D=j175&%5BFunc%20-INSERT-%5D=

     懐徳堂の五同志とは、三星屋武右衛門、道明寺屋吉左右衛門、舟橋屋四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎の五人である。大阪の有力商人がこの計画に全面的に協力した。
     校地として菅野兼山には船蔵の跡地三百四十坪が与えられた。こうして吉宗の教育政策による官許の学問所として、江戸の会輔堂、大阪の懐徳堂が設立された。官許と言っても運営資金は民間で賄わねばならない。懐徳堂からは富永仲基・山片蟠桃が出たが、会輔堂出身者にどういう人物がいるかは分らない。
     芭蕉記念館を右手に見ながら南に向かい萬年橋を渡る。「これが隅田川?」「小名木川だよ。」小名木川流域もまた姫の案内で第十六回(平成二十年三月)に歩いている。
     テイソー(帝国倉庫)物流サービスを隅田川の方に回り込むと、陸奥宗光宅跡(江東区清澄一丁目五番付近)のパネルが設置されている。陸奥がここに住んだのは明治五年(一八七二)から十年(一八七七)までの間で、大蔵省で地租改正に当たった。しかし西南戦争に呼応した土佐立志社の林有造・大江卓による挙兵計画に加担したとして、十一年から五年間投獄されることになる。「その間に家を守ったのは亮子さんなんですよね。」山形監獄に収監中、陸奥は亮子夫人に綿綿たる手紙を書いていた。
     「薩長じゃないんだね。」陸奥は紀州藩士である。「できる人はどんな出身でもできるんですよ。」陸奥は不平等条約の改正等、外務大臣として大きな功績を遺したが、次男潤吉を古河市兵衛の養嗣子にし、足尾鉱毒事件では農商務大臣として田中正造の訴えを一切無視した。

     ・・・しかして当時、被害民はみな憤慨激昂して叫ぶらく、「陸奥はその姻戚なる古河の利益を保護するために、態度を曖昧にして以て責任を免れたりき」と。吾人はすでに物故せる陸奥に対し、みだりに彼れが当時の心情を忖度せんとする者に非ず。されども今にしてこれを想う、吾人もまた不幸にして「政府資本家が共謀結託して、谷中村を滅亡せしめたる組織的罪悪は、実にその端緒をここに発す」と、宣言せざる能わざるを悲しむ。(荒畑寒村『谷中村滅亡史』)

     明治の政治家の光と闇の部分はきちんと押さえておく必要がある。時代の制約とは言え、彼らの意識に「国」はあっても「民」はなかった。陸奥に関しては根岸の旧宅跡にも以前立ち寄っている。勿論何も残ってはいないけれど。
     清洲橋通りを越えると、読売江東ビルの端に「平賀源内電気実験の地」の標柱が建っている。江東区清澄一丁目二番一。安永五年(一七七七)、源内はこの付近に住んでいた。

    その頃平賀源内といふ浪人者あり。この男、業は本草家にて生まれ得て理にさとく、敏才にしてよく時に人気に叶いひし生まれなりき。(杉田玄白『蘭学事始』)

     ある時、江戸参向中のオランダ商館のカピタンとの宴席で、カピタンが取り出した知恵の輪を誰も外せずに、源内一人が簡単に外した。又ある時、カピタンがスランガステーンという物を見せた時、直ちにこれは『本草綱目』にある竜骨だと判断して驚かれた。

    その後源内かの地(長崎)へ遊歴し、蘭書、蘭器なども求め来たり、且つエレキテルといへる奇器を手に入れ帰府し、その機用のことをも漸く工夫して、遍く人を驚かせり。(同上)

     エレキテルとは静電気発生装置で、オランダでも宮廷の見世物や医療器具として使われていたらしい。源内は電気学の知識はなかったが、異常なほどの好奇心の持ち主である。長崎滞在中の明和七年(一七七〇)、破損したオランダ輸入品を骨董屋で見つけて買い入れ、それを修復した。
     源内の数々の「発明」は大したものではないが、薬品・物産の展覧会を開催して諸国にネットワークを築いたことが、近代の幕開きにとっては最大の貢献であろう。書物の知識だけでなく、実物に当たって観察するという科学的態度が全国に広がった。

     ・・・平賀源内は何かをした人、というのではなく、バタバタ駆けずりまわっただけで何もしなかった人である。「洋学から近代科学へ」という図式でいうなら、「解体新書」グループや緒方洪庵や桂川家の人々など、近代に貢献した人はたくさんいる。平賀源内は何も貢献しなかったからこそ、私はここで、ひとつの「台風の眼」「空虚の中心」に使うことができるのである。(田中優子『江戸の想像力』)

     そのバタバタした活動範囲は広く、戯作、浄瑠璃を作り、蘭画も書いた。小田野直武に油絵と遠近法を教えて秋田蘭画が始まる。その直武に洋画を習ったのが司馬江漢だ。

     源内は才の人であつた。学の人ではなかつた。しかしその学殖が浅膚であつたとて、もとよりそれは源内を累するものではない。(中略)源内の手を触るゝところ新しい世界がつぎつぎと開けたのである。(森銑三『平賀源内研究』)

     田沼意次に庇護されたが、高松藩からの「仕官御構」によってどこにも仕官することが叶わなかったため、源内は生涯不安定な生活を送った。一攫千金の夢と名声欲が強く、一か所に留まらずあちこちに手を出したから山師と見られることもあった。

     嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常
     ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや

     理由は不明だが大工を殺害して捕えられ獄中で死んだ。この墓碑銘は杉田玄白による。源内を良く知っていると言うべきだろう。

     春寒し非常の人の住みし町  蜻蛉

     太平洋セメントの敷地(江東区清澄一丁目二番)の前には、セメント工業発祥の地碑と浅野聰一郎の銅像が立っている。官営で始まった深川セメント工場が、明治十七年(一八八四)浅野に売却された。浅野は越中の医師の家に生まれながら商人を志した。水売り、竹の皮売りなどを経由して、薪炭商となってコークスに目を付けたのがセメントに向かう大きな転機となった。

     此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年(一八七二)大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ。同七年(一八七四)工部省ノ所管トナリ深川製作寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ。 明治十年(一八七七)一月深川工作分局ト改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同十六年(一八八三)四月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場ト称スルニ至ル。明治三十一年(一八九八)二月浅野セメント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同三十六年(一九〇三)十一月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ。大正元年(一九一二)十月組織ヲ改メ株式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ。蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ同時ニ又当社発祥ノ地タリ。仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス。

     京浜臨海工業地帯は、安田善次郎の支援を受けて、殆ど浅野が造り上げたものだ。鶴見線の浅野駅は聰一郎、扇町駅は浅野家の家紋、安善駅は安田善次郎に由来する。このことは千意さんの案内で国道駅から新芝浦駅まで乗って海を見たときに知った。
     大きなコンクリートの車輪と、何かの製品だと思う四角い塊が「江東区登録文化財」とされているのだが、説明がない。四角い塊の隅には年月を彫り込んでいる。これについては桃太郎が調べてくれた。大きな車輪は直径一六五センチ、最大幅三六センチ。フレットミル粉砕ローラーと言う。セメントの材料を潰して粉にする。四角いものは明治二十二年から二十九年にかけての横浜築港に防波堤の波消ブロックとして使われたものである。「テトラポッドは商品名です」と桃太郎に教えられるまで、私はそれを知らなかった。但しこの方塊には足がないので、テトラポッドではない。

     清州橋通りに戻る。「午前中はデニーズ周辺を回っています。」昼をそこで取る予定なのだ。三野村合名会社のビルに「第七回江東区まちなみ景観賞」のプレートが置かれている。清澄二丁目八番。昭和二年に建てられたビルは二階建ての変哲もないものだが、入り口部分の装飾が珍しいだろうか。「陶器を貼り付けたみたいですね。」黄色く光る部分を触ってロダンが言う。正確にはテラコッタというものであった。
     三野村合名は三野村利左衛門の創立になる。この名前は初めて知った。三野村は三井の大番頭で、幕末維新の危機を乗り越え、近代三井の基礎を築いたとされる。その功績で清澄二丁目に土地が贈与され邸宅を構えた。その敷地の一部分がこのビルである。邸宅に隣接して岩崎彌之助の深川別邸(清澄庭園)があり、豪華さを競ったと言う。

    幕末の混乱期、三井は本店や両替店など各事業の不振に加え、幕府からの度重なる御用金の賦課にあわや破産という状況にまで追い込まれていた。そうした窮状を救ったのが三野村利左衛門(一八二一~一八七七)であった。のみならず、利左衛門は旧弊に染まった三井の組織改革を断行し、後の三井の根幹をなす重要事業の基礎を築き上げた。(三井広報委員会「三井を読む」)http://www.mitsuipr.com/history/column/11/

     この記事には生没年が書かれているが、実際には正確な生年は分っていないらしい。出羽国庄内の産で、天保の頃江戸に出て駿河台の小栗家の中間となった。そこには六歳下の忠順(上野介)がいた。駿河台の小栗上野介生誕地はヤマチャンの案内で見たが、今はYWCA会館になっている。やがて商人として独立して両替商を開くのだが、忠順と親しくしたことが利左衛門にとって大きな財産となった。度重なる御用金の減額には、小栗上野介の力が働いたのである。

    三井が大政奉還後に新政府との関係を強めていったのは利左衛門の指揮によるものとされる。利左衛門は幕末に薩摩藩との接触を持ち、西郷隆盛とのつながりも深かったといわれる。明治元年(一八六八)二月、会計事務局為換方拝命を皮切りに新政府の要職につき、国の財政難を乗り切るための施策である「太政官札」発行事務を引き受けたのは、ある意味新政府に貸しをつくるためであった。そして利左衛門は当時の大蔵卿・大隈重信や大蔵大輔・井上馨、大蔵大丞・渋沢栄一らと親交を保ち、関係を深めていた。こうした施策が実を結び、明治四年(一八七一)六月、新貨幣との交換における地金回収の国内実務を独占的に引き受けることに成功。後年の私立三井銀行創立に至る道を拓いたのである。(同上)

     その先の角を曲がって少し行けば、商店の前に「桑田立斎先生種痘所之跡」碑が建っている。江東区清澄二丁目十二番三。裏には「平成十年ジェンナー種痘発明二百年」とある。姫の調査では種痘所の跡は少し離れた場所だったらしいが、そこには何の説明もないと言う。桑田立斎なんて私は全く知らなかった。
     立斎は文化八年(一八一一)越後新発田藩地蔵堂街に生まれた。父は村松喜右衛門、母は成田氏。十六歳で初めて江戸に出て一年で戻ったが、更に十九歳で江戸に出て鴨池氏に医学を、蒲生氏に外科を学んだ。やがて深川冬木の坪井信道(その日習堂跡は深川第二中学校の敷地内にあった)に学び、天保十二年(一八四一)その媒酌で桑田玄真の養子となる。

     一、嘉永二酉年(一八四九)十一月二十五日、牛痘創業。同十三日永井公御前にて伊東玄朴先生出会、一昨十一日舶来牛痘苗嵜陽より到着に付、即刻鍋島公邸に於て児に接し、来る十八日宅にて他児に引接すべきに由て可参を約し、即十八日大原太郎左衛門娘井葛や七兵衛児両人引連れ伊東氏へ至り引接し、右痘苗を以て二十五日宅にて七児に接す。是全く数万人に施すの元苗なり。尤、人痘種法を専ら行ひ、既に自児嫡女、次女、嫡男三人は人痘種法なり。其外三四百人に施すの後なり。(二宮陸雄・秋葉實「立斎年表」『日本医史学雑誌』第四十五巻第一号より)

     『立斎年表』は立斎自身が晩年になって書き遺したもので、中の一節には「天保九戌年、蘭学家高野長英、渡部登入牢。小関三英自害。夢物語一件、且つ無人島御開発可然説を申談、異国海防之御用心可然よし申に付、花井席一訴人致し候に付、鳥井甲斐御目付中、要蔵殿と申節なり。何れも無睾可憐。」の記事もある。

    オットー・モーニッケ(Otto G.J.Mohnicke:一八一四~八七年)によって公式に我が国に病苗がもたらされたのは 一八四九(嘉永二)年のことである。その後、日野鼎哉(一七九七~一八五〇年)、楢林宋建(一八〇二~五二年)、笠原良策(一八〇九~八〇年)、桑田立斎(一八一一~六八年)、緒方洪庵(一八一〇~六三年)などの蘭方医が血の滲むような苦労をして、この普及に貢献している。(「医療史蹟 桑田立斎」『Isotope News』二〇一四年一月号)

     立斎は六万人以上に種痘を接種し、やがてアイヌの人への接種を建言して老中阿部正弘に認められ、蝦夷地に渡りアイヌ人六千人に種痘を施した。当時、天然痘に罹患すれば死亡率は二十五パーセント以上、幼児の場合には七十五パーセントという推計もある。ジェンナーが種痘の効果を発表したのが寛政十年(一七九八)のことであり、それが日本で行われるには五十年が必要だった。
     「お玉が池にもあったじゃないか。」あれは安政五年(一八五八)、伊藤玄朴や大槻俊斎ら江戸の蘭学者たち八十二名が資金を出して作ったもので、後の東京帝国大学医学部の前身ともなる。それに比べて桑田立斎の種痘所は九年も早い。
     石碑に接して吸い殻入れが置かれ、一緒にビニール紐で結ばれているのが奇態だ。「蜻蛉さん、タバコが吸えますよ。」それなら吸わない訳にはいかない。「灰皿があるから吸ってしまうってこともあるかもしれないね。」「オリンピックになったら全部撤去されるんだろう。」私は未だに、何故オリンピックを開催しなければならないのか、さっぱり分らないでいる。

     次は深川稲荷だ。江東区清澄二丁目十二番十二。深川七福神の布袋である。寛永七年(一六三〇)の創建というから深川では古い。かつて深川西大工町と呼ばれたのは、この稲荷の裏側の小名木川沿いに船大工が住んでいたためである。境内は狭く、清住二丁目町会会館の中に社務所がある。
     錣山部屋。江東区清澄三丁目六番二。「読めないよ。」「シコロヤマ。」赤煉瓦の建物で、入り口が青い。明日から名古屋場所だから、閑散としているのは当たり前だ。「錣山って誰だっけ?」「寺尾だろう。」「三兄弟だよな?」「長男は大成しなかった。次男が逆鉾、今の井筒だよ。」清澄には高田川部屋(関脇・安芸乃島)、尾車部屋(大関・琴風)、大嶽部屋(十両・大竜)、山響部屋(前頭・巌雄)もある。
     再び清洲橋通りに出て、清澄白河駅を越えると干鰮(ほしか)場跡の標柱が立っている。江東区白河一丁目五番。姫は「蜻蛉の時には寄っていません」と言うが、なんだか記憶がある。もしかしたら下見で寄ったものだろうか。

     干鰮場はいわしを乾燥したもので江戸時代から重要な肥料であった 寛永のころ関西地方の漁民が銚子付近の海岸で干鰮をつくり、江戸へ輸送するようになった 江戸の干鰮取引きははじめ中央区方面であったが元禄十三年から小名木川にそった白河小学校付近に干鰮の荷揚場がおかれこれを干鰮場といった。

     干鰮は元々関西で綿栽培のために始められ、商品作物の栽培が広まるにつれ全国に広がった。但し蝦夷地では鰊を使っていた。草肥や人糞に比べて収穫は上がったが、その分、農業は商品経済の大波に巻き込まれることになる。ここが海辺大工町の銚子場、西永代町(現佐賀町二丁目)に永代場、小松町(現佐賀一丁目)に元場、和倉町(現冬木)に.江川場があった。
     「イワシって、魚へんに弱いって書きますよね。なんですかね、この字は?」「イワシにもいろいろ字があるんだろう。」実は鰯は国字で、鰮が漢字なのだ。
     奥に見える建物にインターナショナルスクールの文字がある。K・インターナショナルスクールである。白河小学校が廃校になって(江東区立明治小学校に統合)この学園がやってきた。相当レベルの高い学校のようだが、私には全く縁がない。
     昼食を予定しているデニーズの看板が見えた。私はさっきから腹が減っている。しかしそんなことは知らない姫は臨川寺に入る。江東区清澄三丁目四番六。臨済宗妙心寺派。「このカエルが面白くて入ったんですよ。芭蕉ゆかりなんて知りませんでした。」姫が言う通り、庇に葉のようなものを飛び出させ、そこにカエルが貼り付けてある。夜は照明が当てられるようになっているのだ。

     臨済宗妙心寺派の瑞甕山臨川寺は、承応二年(一六五三)鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳三年(一七一三)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可されました。延宝八年(一六八〇)深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。

     「どうしてカエルがあるんですかね?」「芭蕉ゆかりだからじゃないかな。カワズトビコムだろう。」「それしか考えられませんね。」寺の住職仏頂は芭蕉より三歳上で、「古池や」の句は、その禅問答から生まれたという伝説があった。

     ここに一つの逸話がある。慶応四年に俳人春湖によって書写刊行された『芭蕉翁古池真伝』で、禅の立場から見て面白いので紹介しょう。
     [仏頂和尚、芭蕉を訪わんとして、六祖五兵衛(五平とも)を供に芭蕉庵に至り、五兵衛先ず庵に入り、「如何なるか是れ閑庭草木中の仏法?」と。芭蕉答えて曰く、「葉々大底は大、小底は小」と。それより仏頂門に入り、「近日何れの所にか有る?」。芭蕉曰く「雨過ぎて青苔を洗う」。又問う「如何なるか是れ青苔未だ生ぜず春雨未だ来らざる以前の仏法?」その時 池辺の蛙一躍して水底に入る。音に応じて「蛙飛びこむ水の音」と答う。仏頂これを聞いて「珍重、珍重」と。]
     問答はこれだけだが、仏頂が帰ったあと、芭蕉はそこに居合わせた杉風や其角らに上の句を置いてみよと置かせてそれを聞いてから、我はこの庭のままに「古池や」と置こうと云ったという。(井本光蓮「禅者・松尾芭蕉」)
     http://www.ningenzen.org/zen43/05-1.pdf

     「墨直しの碑」は、宝永七年(一七一〇)芭蕉十七回忌にあたって各務支考が京の雙林寺に建立した石碑を、神谷玄武坊が写したものである。石碑の表面の文字が薄れていくので、定期的に墨を入れ直すことから「墨直し」と言う。梅花仏は各務支考の諡号。各務(かがみ)に因んで円形の鏡の形をしている。「芭蕉由緒之碑」は全く読めないが、こう書いてあるそうだ。

     抑此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。しかるに、翁先だちて遷化し給ひければ、禅師みづから筆を染めて、その位牌を立置れける因縁を以て、わが玄武先師、延享のはじめ、洛東双林寺の墨なをしを移し、年々三月にその会式を営み且、梅花仏の鑑塔を造立して東国に伝燈をかけ給ひし、その発願の趣意を石に勒して永く成功の朽ざらん事を爰に誌すものならし。
      文化坊応一 以中坊待買 礎石坊四睡

     「まだお昼は早いですね。もう一軒行きましょう。」今度は本誓寺である。江東区清澄三丁目四番二十三。浄土宗。墓所入り口には「明人呂一官先生菩提所」の案内があるが、私は知らない。
     墓所に鍵は掛かっていないから勝手に入ることもできるのだが、姫は律儀に訊きに行く。その間に路地の先まで行ってみると村田春海墓の案内があった。墓地の隣の寺から出てきたオバサンは実は別の寺の人で、「本誓寺さんはそこですよ」と教えてくれる。墓地の目の前がそうだった。そして了解を得たのだが、ドアは姫が一所懸命引っ張っても開かない。「スゴクきついんですよ。」私が代わって押すと簡単に開いた。「逆だったんですね。」
     狭い墓地に墓石がぎっしりと並んでいる。さっきのオバサンが奥に進めと教えてくれた。村田春海の墓である。周囲の墓石に比べて色が白いのは、ヤスリで擦ったのではあるまいか。墓が六基ほど向かい合う村田氏の墓所で、その裏は竹の策で仕切られ、別の寺の墓地になっている。「墓地を統合したんだな。」この辺は関東大震災と空襲で壊滅状態となり、区画整理の結果、墓地を統合した寺が多い。
     春海の墓には「平春海先生」の文字が彫られている。私は国学者流の、漢字の音読みを嫌ってノンベンダラリと大和言葉を垂れ流す文体が生理的に合わない。だからほとんど避けてきたので知識が薄い。確か森銑三が国学者の評伝を書いていた筈で、念のために『著作集』を開いてみると第七巻にあった。

     賀茂眞淵の門下といへば、何人の頭にも、加藤千蔭、村田春海の両人がまづ浮び来るであらう。
     眞淵の門人は、その数三百を越してゐたといふ。その中には一方に傑出してゐた人も少なくなかったが、加藤家と村田家とは、眞淵の江戸に出でた当初から関係が深かったところから、千蔭も春海も幼少の頃から眞淵に親炙した上に、その師の没後、同門の人々も多く凋落した後までも生存し、寛政年間を中心に、その前後に亘って、二人並んで江戸の国文学界に重きを成してゐた。それらの点が、この二人を縣門の双璧の如くに考へしめるのであらう。(森銑三『村田春海』)

     千蔭は春海より十一歳上で、春海は千蔭の袖にすがるようにして真淵の塾に通った。そして意外な事実も分ってくる。

     春海に就いて語らうとするに当つて、総叙として最初に挙げて置きたいものに、菅沼斐雄に江戸で就いた幕臣中山業智の『真際随筆』の記載がある。
     「村田春海、字土観、号織錦齋、小字は平四郎、其先小田原北條の士、上総村田村に住し、其孫江戸に来つて商賈と成、大に富をなす事数十万金に及ぶ。深川に別業在て、その四境皆林なりしかば、土地を森下町と云ふ。織錦翁豪放にして家産を失ふ。・・・(同上)

     森下の地名が村田家の別荘に関係していた。村田春海は日本橋の干鰯問屋に生まれた。父は春道、兄は春郷。春道は真淵が江戸に来た時以来のパトロンだった。病弱の春郷に代わって家督を継いだが、十八大通の一人にも挙げられるほど遊興に耽った挙句、家産を傾けた。「十八大通」とは吉原でとてつもない大金を費消する遊び人である。芸者や役者のパトロンとなって、大金をばら撒く程「通人」と見做された。
     本居宣長のように極端に漢意を排斥することなく、漢学を服部白賁(服部南郭の婿養子)に学んで、漢詩も作った。契沖以来の実証的古典研究を目指していたと言われる。後に松平定信の扶持を得た。
     前田勉『江戸国学派と平田篤胤-村田春海と和泉真国論争をめぐって』によれば、春海は和泉真国と論争して、日本に本居宣長の言うような「道」というものはない、大和魂というものもないと断言した。これによって本居宣長も吉田松陰も三島由紀夫も完全に否定されるのである。
     「もし、実に、本心より、神代の事跡をまこと也と信ぜしならば、宣長は至愚の人なりとこそいいつべけれ。・・・少し怜悧の質なるをのこは、宣長が学を信ずる人なし」とまで言い切る。つまり本居宣長はアホであり、それを信じるのもアホだと言っているのだ。
     但しいつも宣長を批判していたのではなかった。森銑三は、春海の弟子の澤近嶺『春夢独談』を現代語訳して紹介している。

     ・・・しかしわが大人(春海)とても、本居翁を尽くそしられたのではない。その説のひが言をひが言とし、その歌文などの拙いのを拙いと笑ひ給うたので、これもわが師の大人の歌文と本居翁の歌文とを列べて見たら、その優劣は眼のある人なら、一目して知られやう。学問のことは、上述したやうに、さやうにはそしられなかった、そのよしは、己が入門した頃に、国学の大意を知るのには、何を見たらよろしうございませう、と問うたら、大人は答へて、本居宣長の著した『古事記伝』を繰り返し読み考へるがよい、これに大むねの心は籠つている。国学する人は、必ず見なくてはならぬ書物だ、と仰せられた。(『村田春海遺事』)

     春海の墓に向かい合っている「尚古堂周斎栄夫春道居士」は春海の父の村田春道だ。その隣には、碑文の前半が完全に剥落した石碑があって、その後半部分がかろうじて残り、その末尾に「嗟吁家弟春海泣曰」「賀茂眞淵製文」とあるのだけが分った。春海の兄で、明和五年(一七六八)三十歳で死んだ春郷(はるさと)の墓碑であった。書は加藤千蔭である。碑文は漢文だが、真淵の文集には和文で記録されている。

     真淵はその撰文の中に、春郷の死を心から悼んでゐるが、真淵が遠江の齋藤信行に充てた同年十一月八日附けの書簡…その中にも、「・・・殊に春郷は長歌を得候。惣しも才気高くさとくして、文もよほどかき、末たのもしかりしを、天我を亡すと覚え候なり」といつてゐる。(森銑三『村田春海』)

     「天我を亡す」は孔子が顔回の死に慟哭して吐いた言葉と同じである。「顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼせり、と」。これほど真淵に愛された門人がいたのである。

     古書を読み古風の歌をよくし、ことに長歌に優れていた。また蹴鞠がうまく余人の追随を許さなかったという。(中略)春郷の歌は単なる古歌の模倣ではなく、独自のものとして消化しており、真淵の上代主義を実作において見事に実践したと評価されている。(『朝日日本歴史人物事典』より)

     呂一官の墓は宝篋印塔である。実は私は見過ごしてしまったが、マリオがきちんと見ていた。これについては案内をそのまま写しておこう。

     呂一官は明(中国)に生まれ、日本に帰化した人である。一官は漢方医で、薬草・香木などの研究に大変すぐれていた。はじめ京都にいたが、徳川家康の招きで浜松に居住し、その後家康の侍医として江戸へ移った。日本橋に屋敷地を賜り、元和元年(一六一五)に「紅屋」という屋号の店を構え、紅・白粉などを製造販売し、たちまち評判となった。元和九年(一六二三)十月十日に没した。戒名は「迎誉来相信士」。
     過去帳によると「元祖唐人辻一官」とあり、五代目から「堀氏」を名のっている。文政五年(一八二二)堀氏十三代目の頃、近江商人外池字兵衛正保の子半兵衛正義が養子となり紅屋を継いだ。これが「柳屋」の創業といわれ、現在でも一官は柳屋業祖として祀られている。

     ロダンが好きな朱舜水と同じく、恐らく明の遺臣であろう。紅屋(後、柳屋)、つまり化粧品屋の元祖であった。医学、本草学のほかに土木建築にも知識があったことから、家康に重用されたようだ。今の私に縁がないのは勿論だが、高校生以来髪を伸ばしていた時代でも柳屋の商品は使ったことがない。柳屋はポマードの印象が強い。高校生の頃は資生堂のMG5、大学に入ってからはブロンソンのコマーシャルの影響でマンダムを使っていた筈だ。資生堂のブラバスも記憶がある。
     後で調べて分ったことだが、佐久間象山や梁川星巌の琴の師匠であった仁木三岳の墓もあったらしい。ただ私は仁木三岳について全く知識がない。それにしても今日は知らない名前に多く出会った。「それではデニーズに行きましょう。」十一時二十分である。
     デニーズ清澄店。江東区清澄二丁目六番九。ここでスナフキンは半日券を使って別れていった。十一人が三つのテーブルに分かれる。私は腹が減っているので久し振りにトンカツにした。桃太郎、あんみつ姫、マリーは野菜スープの雑炊のようなものにした。「これで半日分の野菜が採れるんだ。」「半日分だからね、一日じゃないから。」しかし桃太郎には少なすぎるのではあるまいか。
     「野菜をこんなに細かく切るのは難しいよね。」桃太郎は自宅で自作したいのである。「ミックスベジタブルが売ってますから。家でも簡単に作れますよ。」トンカツには当然のようにソースがついてきたが醤油がない。私は大変申し訳ないという言い方で醤油を頼む。なんだか非国民になったような気分なのだ。たかがトンカツを食うのに、なぜ、奇異の目で見られなければならないか。私は声を大にして言いたいが、醤油こそ世界に誇る調味料である。ソースは素材の味を消すために存在するが、醤油は逆に引き立てる。
     そしていつものように私が一番早く食べ終わる。「やっぱり早いね。」「ちゃんと噛んでるの?」猫舌の姫は半分近く残してしまった。
     店を十二時十分に出て、もう一度本誓寺に戻って境内に入る。

     本誓寺は、小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より文禄四年(一五九五)八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったといいます。慶長十一年(一六〇六)馬喰町上町へ、天和二年(一六八二)当地(深川大工町)に移転、元禄十二年(一六九九)には徳川綱吉から寺領三十石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったといいます。明治六年(一八七三)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であったといいます。

     迦楼羅の石像は珍しい。「ガルーダだね。」「そうです、八部衆ですね。興福寺のものが有名ですよね。」迦楼羅は龍を常食とする巨大な鳥頭人身の神である。漢訳で金翅鳥王とも呼ばれる。浮彫だが、ほとんど丸彫りのように立体的に彫ってある。石は花崗岩で、甲冑を着けて横笛を吹く。
     六面石幢六地蔵。「これは珍しいのかい?」「この間、田無で見たときに、見たことがないっていう人が多かったからさ。」「この実は何だろう?」桃太郎はミカンのような実が気になる。色はレモンだが、実は平べったい。結局レモンと結論付けた。
     中村学園の脇を通る。「バレーボールで有名なんだよ。」完全中高一貫校である。「この建物は金がかかってるね。授業料が高いんじゃないか。」清澄庭園も素通りし仙台堀に出る。清澄橋を渡ってここから海辺橋まで、右岸は芭蕉俳句の散歩道となる。木の立札に芭蕉の句が書かれたものがいくつも並んでいるのだ。対岸の梅が綺麗だ。
     清澄通りの海辺橋の南詰には採荼庵がある。江東区深川一丁目十一番。「荼」は「茶」と間違えやすいが、クサカンムリに「余」を書く。意味はニガナ(苦菜)のことだと言う。レプリカの庵の濡れ縁には旅姿の芭蕉が腰掛けている。
     「江戸歩きの栄えある第一回で来ています。」「私は記憶がないな。」「その時、画伯は参加してないから。」「そうか。」あの頃の私は江戸に関してまるで知識がなかった。「今日が六十九回だから、十一年、十二年になるのか。」元禄二年二月、芭蕉は芭蕉庵を離れてこの杉山杉風の別荘に移った。

     草の戸も住み替はる代よぞ雛の家  芭蕉

     そして三月二十七日明け方家を出て、船で千住まで行き奥の細道の旅を始める。船を下りて詠んだのはこの句である。

     行く春や鳥啼なき魚の 目は泪  芭蕉

     清澄通りを南に下ると、歩道橋の傍に小津安二郎生誕生の地碑があった。深川一丁目八番八。かつて深川万年町と呼ばれた地である。「スナフキンがいれば良かったんでけどね。」ロダンも日本映画が好きだ。
     安二郎は明治三十六年(一九〇三)十二月十二日、父寅之助と母あさゑの次男として生まれた。大正二年(一九一三)には家族が松阪に移ることになり、それに伴い東京市立深川区明治尋常小学校から松阪町立第二尋常小学校に転校する。小津家は松阪の本居宣長(小津家の人であるが、その先祖の本居を名乗った)と同じ一族である。但し寅之助は小津本家から分れた分家六代となる。
     次は西尾藩藩校典学館跡だ。深川一丁目六番。亀堀公園の前である。「愛知県に西尾ってありますよね。」「ありますよ、西尾市が。」そういうことは地元のマリオがよく知っている。

     三河国(愛知県)西尾藩大給松平氏は、藩校を西尾と江戸の二ヵ所に設置していました。西尾藩校は修道館、江戸藩校は典学館と呼ばれました。
     典学館は、江戸藩邸のうち深川万年町にあった「深川屋敷」に設置されていました。設立時期は天保十二年(一八四一)七月のことで、当時の藩主は十四代目の乗全でした。大給松平氏は代々儒学を尊び、なかでも乗全は藩内における文武興隆に力を入れ、藩士教育のために藩校を設立しました。さらに、年少の子どもたちの通学を容易にするために、大名小路の役邸(現皇居外苑)に分校を設置するなど、教育設備を充実させています。

     西尾だけでは二万石程度しかないが、越前にも飛び地を貰って六万石となっている。「江戸藩邸は単身赴任ですよね。年少の子どもたちっていたんですかね。おかしいな。」桃太郎は鋭い指摘をし、私もうっかり頷いてしまったのは迂闊であった。藩士の中にも江戸定府の者がいるのだ。妻子と菩提寺・旦那寺を持っていたから、江戸で生まれ育った子弟もいた。それに正室と子供は江戸在住だから若殿の遊び相手も必要で、優秀な子供を国許から呼び寄せることもあっただろう。
     こんなことは分り切ったことで、例えば新島襄は神田の安中藩江戸屋敷で生まれているし、大槻文彦は木挽町の仙台藩下屋敷で生まれた。私は何故これに気付かなかったのだろう。
     横断歩道の真ん中からスカイツリーがよく見える。元木橋の上からも正面に見える。首都高速の下を潜れば紀文稲荷だ。江東区永代一丁目十四番。紀伊国屋文左衛門が伏見稲荷を勧請したものである。「ミカンを運んだ人だろう?」紀文の生涯は伝説に包まれていて、ミカン船の話も後世に作られたものだ。晩年は貧窮の底で死んだとも、富岡八幡の御輿を寄進するほど金は持っていたとも言われる。本業は材木商であり、銅座も請け負った。江戸東京博物館の竹内誠はこう書いている。

     政権が代わって建築プロジェクトがなくなり、乱伐により良材が少なくなることによって政商としての材木屋が栄える時代は終わりました。
     「家おとろえ」「段々悪くなりて」といっても深川の隠宅は豪華な造りだったようです。二男新四郎は程ヶ谷宿本陣軽部家へ持参金家作普請付きで婿養子に入った記録が残っています。奈良屋茂左衛門(神田安休)の遺言[正徳四年(一七一四)]や財産分配表などの『神田家文書』をみても老後は蓄えたお金と店賃収入と貸金の利息で豊かに過ごしていたことがうかがえます。(「紀伊国屋文左衛門の実像」江戸東京博物館友の会平成二十四年度定期総会記念講演より)http://www.edo-tomo.jp/edotomo/h24(2012)/edotomo-No68.pdf

     「本屋とは関係があるの?」関係は全くない。紀伊國屋書店の先祖は紀州藩江戸屋敷の足軽をして小金を貯め、内藤新宿で薪炭商を開いた。やがてそこに生まれた放蕩息子が、慶応予科を卒業すると、家業を廃して書店を始めたのである。
     力石にはそれぞれ屋号のようなものが彫られている。「持ち上げた人の名前かな?」私は違うのではないかと思ったが、ちゃんと説明に書いてあった。
     東横インの角を永代通りに曲がると佐久間象山砲術塾跡だ。深川小松町、現在の永代一丁目十四番付近である。信州松代藩下屋敷のあったところだ。象山は江川太郎左衛門英龍に砲術を学び、ここで塾を開いた。当時の門人に勝麟太郎がいる。後に木挽町に塾を移すと吉田松陰、坂本龍馬、河合継之助、橋本佐内、加藤弘之、小林虎三郎等が入門する。「日本人離れした顔だね。」容貌魁偉と言って良い。
     海舟はその妹を象山に嫁がせているが、『氷川清話』の中ではあまり高い評価を与えていない。どちらも傲岸不遜で、この国を救うのは自分だけだと自負していた。信州人特有の剛直さが江戸っ子海舟には会わなかったのかも知れない。それにしても象山は兵学家として当時最先端であった。

     宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、まさに以て我が聖学を資くる足る。(小林虎三郎宛て書簡より)

     元治元年(一八六四)一橋慶喜に招かれて上洛し、公武合体、開国を説いたが、三条木屋町で肥後の河上彦斎、因幡の前田伊右衛門、壱岐の松浦虎太郎等によって暗殺された。松本健一はその裏に長州の桂小五郎の意志があったと見ている。当時の長州は尊王攘夷の牙城であり、公武合体は許すべからざるものだった。
     橋を渡れば渋沢栄一宅跡。永代二丁目三十七番。渋沢倉庫と澁澤シティプレス永代が並んでいる。明治九年(一八七六)から二十一年(一八八八)まで本邸として使用し、後に中央区に移った後も別邸として使われていた。渋沢倉庫は主に米、雑穀の保管を目的として明治三十年(一八九七)に創設されている。

     左に曲がると、周囲のビルに挟まれて木造二階建てが一軒残っている。「頑張ってるね。」その目の前に白いコブシが咲いている。今年はコブシが早いだろうか。首都高速を潜る。「あそこは閻魔様でしたっけ?」桃太郎に言われて思い出した。法乗院だ。
     葛西橋通りに入ると伊能忠敬住居跡の標柱が立っている。江東区門前仲町一丁目十八番。以前、この標識を探すのに苦労した。この人については、ただただエライという感想しか浮かばない。没落した伊能家に養子に入って立て直し、寛政七年(一七九五)五十歳で江戸に出て高橋至時に入門した。その時から文化十一年(一八一四)まで十九年間ここ深川黒江町の家に住んだ。上野の源空寺で忠敬と高橋至時の墓を見たのは、ロダンの企画の時だったか。
     初めての旅は寛政十二年(一八〇〇)閏四月十五日、忠敬五十五歳の時である。富岡八幡宮に参拝し、浅草の暦局に立ち寄り、至時に酒を振る舞われた。千住まで親戚知人に見送られ、奥州街道を歩き始めた。だから富岡八幡宮には忠敬の像がある。この時の第一次測量は蝦夷地太平洋岸まで、百八十日に及んだ。最終的に測量の旅は十次に及ぶ。
     文化十五年(一八一八)四月十三日の死は秘匿され、地図製作は続けられた。文政四年(一八二一)に「大日本沿海輿地全図」が完成し、その三か月後に死が公表された。
     その先を右に曲がればすぐに旧東京深川食堂がある。今は深川東京モダン館となっている建物だ。江東区門前仲町一丁目十九番十五。「ここ、来なかったっけ?」「来てませんよ。」平成二十五年の時、私は確かにここに入っているのだが、下見だけで本番のときには寄らなかったものか。ここから伊能忠敬の住居跡に回ったのだ。

     関東大震災後に、東京市が数か所に設置した食堂の一つで、時代により名称・用途を変更しています。設計時の名称は『黒江町食堂』で、昭和七年三月に『深川食堂』として完成。一時閉鎖後、昭和十三年から『東京市深川栄養食配給所』として再開し、近隣の工場労働者向けに営業。昭和十八年から『東京市深川食堂』、翌年には『都民食堂』となっています。昭和二十年の空襲で被災したため改修し、昭和二十三年から『亀戸公共職業安定所深川分室』となり、それ以降は名称を変えながらも職安の施設として利用。昭和五十四年に江東区へ移管され、内職補導所や福祉作業所に活用して平成十八年に閉鎖。平成二十一年四月に耐震補強等の改修工事が完了し、十月から『深川東京モダン館』として活用されています。

     「百円コーヒーが飲めるんです。」ここで少し休憩だ。チロリン、ヨッシーは甘酒を買う。自由に貰えるガイドマップが便利だ。姫が配ってくれた資料の中に、昭和九年の深川食堂のメニューがあって面白い。
     朝食は甲十銭、乙八銭。昼・夕飯は甲十五銭、乙十銭。並ウドンに飯(小盛)をつけて五銭、カレーライスは十五銭である。それに比べて「和洋食ランチ類」は四十銭と五十銭とがある。「やっぱり洋食は高いんですよ。」ケーキは十銭、カステラ、ソーダ類は七銭、ミルク、コーヒー類は五銭、緑茶二銭。「お茶も金を取るんだね。」「安く抑えてるから仕方がないよ。」
     昭和九年頃の物価を見ると、白米十キロ二円九銭八厘、蕎麦一杯十銭、鶏卵一個二銭六厘、コーヒー一杯十五銭、中村屋インドカリー一円である。米価は戦後の農政によって低く抑えられてきたから比較の基準にするのは難しい。生活実感として蕎麦一杯十銭を基準にしてみるか。駅の立ち食いのかけ蕎麦を二百五十円程度としてみれば、一円は今の二千五百円に相当する。十銭の朝食甲は二百五十円、ランチは千二百五十円、中村屋のカレーは二千五百円となる。
     乙がどの程度のものを出したか分らないが、二百円で夕飯が食えれば文句はないのではないか。要するに救貧事業であったが、裕福な人も相手にした。

     門前仲町の街中に入り込むと、昔懐かしいような飲み屋横丁がある。「小津さんの映画に出てきそうな横丁です。」「門仲はいいな、住みたいな。」「こんな街に桃太郎が住んじゃ大変だよ。」「あれ、何だ?」「魂の焼きそばだってさ。」たかが焼きそばに「魂」とは大仰なことである。
     街中を抜けると住所表示は牡丹になった。由来は牡丹栽培農家が多かったため、あるいは錦糸町駅付近にあった牡丹園の職人が多く住んでいたためとの説がある。そして小さな住吉神社に着いた。江東区牡丹三丁目十二番二。
     享保四年(一七一九)、富岡八幡宮の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ、深川佃町(現・牡丹二、三丁目)と名付けられ、そこに佃島住吉神社から分霊されたのが始まりである。境内社に車折(くるまざき)神社と合祀芸能神社(ウズメ)がある。車折とは知らなかった。祭神は清原頼業で京都府右京区に本社があるそうだ。
     東富橋の南詰の袂に松平定信海荘(はまやしき)跡。江東区牡丹三丁目十五番付近。隠居した定信が文化十三年(一八一六)に入手した屋敷である。牡丹三丁目から古石場二丁目、三丁目に広がる敷地だったが、今は何の痕跡もない。小さな公園のようになっているので、ここで少し休憩を取る。いつものように煎餅その他が配られる。
     「松平定信って潔癖な人なんだよね。」「白河の清きに魚の住かねてですからね。」「『鬼平』ファンとしては、ちょっとね。」野口武彦『江戸人の精神絵図』から、定信の『宇下人言』の一節を見ておこう。

     すべて予人にことなる事なく、おろかさいはんかたなけれども、房事・飲食・衣服・器物・住居・庭牆なんどかくあらねば心わろし、かくあれかしなど思ふ事はつゐい覚え侍らず。…房事なども子孫ふやさんとおもへばこそ行ふ。かならずその情欲にたへがたきなどの事はおぼえ侍らず、そのうへ平日これぞうれしきこれぞたのしきとおもふ事はなし。

     普通の楽しみや喜びを知らないことを自慢する為政者が、己の信条に基づく道徳だけを強制する。「只わがうれしきは」法度・禁令・格式が世に広まるのを見るときである。堪ったものではない。兵農分離によって武士を生産現場から切り離して都市に集中させたことで、商品流通を前提とせざるを得ず、幕藩体制はその最初から矛盾を抱えていた。従って儒教に基づく復古的な改革が尽く失敗するのは当然なのだ。
     川が埋め立てられた親水公園に架かる橋は小津橋で、牡丹三丁目と古石場二丁目を繋ぐ。「小津安二郎か。」安二郎に因むのではなく、伊勢松阪の小津本家六代与右衛門が、この辺に干鰮問屋「小津商店」を置いていたことから名付けられたようだ。与右衛門は明治維新前に亡くなり、明治三十年代には分家六代寅之助(安二郎の父)が、小津商店と日本橋の海産物問屋「湯浅屋」と二軒の経営を任されていた。
     小津本家の財力は大したもので、深川に一万坪の土地を有していたと言われる。不動産業も営み、松竹にも地所を貸していたことから、安二郎はその縁で松竹蒲田撮影所に入社することになる。
     古石場の地名は江戸幕府の石置場であったことに由来すると言われる。要するに埋立地であり、埋め立ての進行につれて周辺に深川海辺新田飛地古石場、久左衛門新田飛地古石場、亀戸村飛地古石場などが出来て、それが明治二十四年に統合して深川古石場となった。
     「あの白梅がスゴイね。」ちょっと迷って古石場文化センターに入る。江東区古石場二丁目十三番二。四階までが公共施設で、その上はマンションになっている。目的は小津安二郎紹介展示コーナーである。私が見たのは『東京物語』だけだと思う。それも映画館ではなくテレビで観たのだから本格ではない。ロダンは最後まで一所懸命展示を見ていた。ヤマチャンやロダンは原節子が美人だと言うが、私はそんなには思わない。鼻が大きすぎるではないか。バランスが悪い。
     三十分程で見学も終わり外に出る。少し西に向かうと今度は調練橋だ。橋は残っていないがその袂に小さな公園がある。安政二年(一八五五)幕府砲術調練所、三年(一八五六)武術調練所、五年(一八五八)講武所付銃隊の調練所となった跡である。
     天保の頃から越中島は房総への補給基地として海防の重要拠点となっており、忍藩、大垣藩が常駐していた。そこに更に幕府陸軍の調練所が作られたのである。対岸にある築地の講武所と一体となったものだ。維新後も練兵所として使用され、明治天皇の天覧もあった。「擂鉢みたい。」「スケボーですかね。」こんなものがこの公園に作られているのだ。
     ここから住所表示は越中島になる。越中島通りに出ると、スポーツニッポンの本社ビルが見えた。これから東京海洋大学の明治丸を見に行くのだが、越中島駅の入口が見えた所で、画伯、ダンディ、チロリンは別れて行った。越中島駅は京葉線の駅で、武蔵野線も乗り入れているらしいが、地下鉄の入り口のようだ。真偽は定かでないが、ウィキペディアにはこう書いてある。

    当駅の地上出入口が狭い形状となったのは、当時の東京商船大学(現在の東京海洋大学越中島キャンパス)の名称を駅名に取り入れなかったため、大学側の協力が得られなかったことによる。

     「協力」とは敷地の提供のことだろうか。「広いキャンパスだね。」東京海洋大学である。「品川にあるとばっかり思ってたよ。」品川キャンパスには海洋科学部(旧東京水産大学)があり、越中島には海洋工学部(旧東京商船大学)がある(と言うのが調べて分かった)。清澄通りに曲がりこむと、第二観測台、第一観測台がある。

    第一観測台は、一九〇三年(明治三十六年)六月に建設され、赤道儀室と呼ばれていました。内部には東洋一といわれた最新鋭の天体望遠鏡(Theodolite)を備え、屋根の半円形ドームは手動で三百六十度の回転が可能でした。輸入煉瓦を用いた八角形の建物は貴重なものとして、一九九七年(平成九年)十二月に文化庁から登録有形文化財に指定されました。
    第二観測台は、一九〇三年(明治三十六年)に第一観測台と共に建設され、子午儀室と呼ばれていました。内部には子午儀(Transit)という子午線方向にだけ動く望遠鏡と、精密に時刻を測定記録する印字機が置かれ、天体の子午線通過時刻の測定や、天体高度から緯度測定などを行うことができました。(東京海洋大学「キャンパス史跡めぐり」)

     「あれが明治丸です。」「帆船だね。」公開日は毎週火曜・木曜と第一・第三土曜日である。「そうか、今日はダメなんだ。近いうちに来てみよう。」

     明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治七年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌八年横浜に回航されました。・・・
     なかでも明治八年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となったのです。・・・
     およそ二十年間、燈台巡廻船として活躍した明治丸は、明治二十九年に商船学校(本学の前身)に譲渡されました。それからは係留練習船として昭和二十年までの約五十年間に、五千余人の海の若人を育てました。大正十二年の関東大震災や、昭和二十年の東京大空襲では、被災した多くの住民を収容し、災害救援にも貢献しています。
     昭和五十三年には、わが国に現存する唯一隻の鉄船であり、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、国の重要文化財に指定されました。船としての重要文化財指定は明治丸が初めてです。(東京海洋大学「キャンパス史跡めぐり」)

     ここまでで一万六千歩である。この辺は飲み屋どころか普通の商店の影もない。「門仲まで歩きましょうか?」歩道橋を渡って真っ直ぐ行けばよい。「あそこに赤札堂が見える。あの辺りだよ。」一キロもないだろう。
     「そこに神社があるよ。」「折角だから寄ってみよう。妙栄稲荷大善神である。江東区古石場一丁目二番十。

     寛永年間(一六二四~一六四五)当地に下屋敷を構えていた松平越中守の屋敷内に安置されていたと伝えられる。越中守の護り本尊として、家運の繁栄と火防けの神様として熱心に信心した稲荷だと伝えられる。
     ・・・越中島の地名は越中守所有の島の意である。当時、越中守の留守居役だったと言われる鎌田氏が此の一帯を下賜された時にお稲荷さんも戴き守護神として代々祀っていた。

     「そうか、それで越中島なんだ。」「だけど松平越中守って誰かな?」調べてみると松平定信が越中守であったが、寛永年間ではまだ生まれていない。寛永の頃の越中守で有名なのは細川忠利だが、松平の名乗りはしていない。どうもここには記録の混乱がある。
     「越中島」の由来は、明暦から万治年間(一六五五~一六六一)に旗本榊原越中守照清の屋敷があったことだとされている。但し土地が低く大雨のたびに屋敷が浸水する始末で、僅か七年で屋敷替えを申請してここから離れた。
     黒船橋。「黒船が来たのかい?」「来ないよ。」その北詰に火の見櫓が建っていた。そして門前仲町に帰って来た。どこで飲もうか。まだ三時半になろうかという頃である。飲み屋はたくさんあるがやっている店はない。暫く歩き回って漸く見つけたのが串焼きの田中である。「荻窪で入った店だね。」大阪風串焼きである。 
       今日は久し振りにヨッシーも付き合ってくれた。店に入ればアベックが三組ほどいる。最近のデートではこういう店が人気なのだろうか。
     ビールの後、桃太郎はガリ酎なるものを注文した。ガリとは寿司に付け合わせる生姜である。「東京のガリは白いでしょう。大阪のはピンクなんですよ。」ヨッシーの言葉通り、ガリ酎の底にはピンクの生姜の欠片が沈んでいる。梅酢に漬けているのだろう。「ちょっと食べてみますか?」ヨッシー、マリー、私もその欠片を貰う。この店に焼酎ボトルがないことは荻窪で経験済だから、私はホッピーにする。紅生姜の串揚げは余りお勧めしない。二時間でお開き。姫はもう一軒行きたそうだが、今日は二次会はなしとした。


     トランプは相変わらずデマゴギーを流し続け、勝手に大統領令を乱発している。朴槿恵の罷免が決定した。自衛隊の南スーダンからの撤退が決まったが、その理由に「戦闘状態」にあることは全く触れられることがなかった。森友学園が小学校の申請を取り下げたが、謎は全く解明されていない。申請取り下げには圧力がかったろうと推測するが、その腹いせか篭池泰典は安倍晋三からの寄付を言い出した。あまりバカバカしいので、瑞穂の國記念小學院の教育の理念から「教育のかなめ」とされる最初の三項を抜き出してみた。

    天皇国日本を再認識。皇室を尊ぶ。伊勢神宮・天照大御神外八百万神を通して日本人の原心(神ながらの心)、日本の国柄(神ながらの道)を感じる。
    愛国心の醸成。国家観を確立。
    教育勅語素読・解釈による日本人精神の育成(全教科の要)。道徳心を育て、教養人を育成。

     日本語の体をなしていない。「神ながらの道」を唱えながら『大学』や『般若心経』も教えようとするのは支離滅裂でもあるが、安倍晋三が当初「感銘を受けた」と語ったのはこれであろう。また平沼赳夫は「塚本幼稚園の籠池先生が、此度小学校を建設されることになり、日本にとってこれ程の朗報はありません」と学校のHPに寄稿している(このサイトは現在閉鎖された)。土地取得の問題が起きなければ、こんな学校も簡単に認可されていたのである。
     篭池泰典は日本会議大阪支部の委員だから、安倍、平沼、稲田と深く繋がっているのは分り切った話である。稲田朋美は安倍晋三の庇護の元で逃げ切れるか。ノーテンキな安倍昭恵は相変わらずアホの真似をし続けるだろうか。
     稲田朋美は三月八日、教育勅語の「核の部分は取り戻すべきだ」と発言し、三月十四日、松野博一文部科学大臣、は「教育勅語を授業に活用することは、適切な配慮の下であれば問題ない」と発言した。安倍政権と日本会議はどこまで突っ走るのだろう。
     念のために下記を引いて記憶を新たにしておこう。

     教育勅語等排除に関する決議(一九四八年六月十九日衆議院決議)
     民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の改新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
     思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
     右決議する。

     教育勅語等の失効確認に関する決議(一九四八年六月十九日参議院決議)
     われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
     しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
     われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすぺきことを期する。
     右決議する。

     同じ三月十四日、渡瀬恒彦七十二歳で没。胆嚢癌であった。


    蜻蛉