「東京・歩く・見る・食べる会」
第七回 駒込・小石川・高田・三ノ輪 平成十八年九月九日
―― 八百屋お七と不動を訪ねて
今回のタイトルはどう決めるべきか。松下さんは「五色不動めぐり」と題して企画してくれたのだが、勝手に表題のように改めた。第四回『本郷編』で歩いたコースのやや外周、昔の行政区分で言えば、本郷区の北半分から小石川区を巡り、更に都電荒川線全線を乗り続けて浅草まで、今日のコースは実に広範囲に亘る。 駒込駅は改修工事中で、集合場所に定められた南口とは違う場所に仮設の改札口が設置されている。どちらで待とうか迷いながら南口に行けば三澤さんが手を上げる。松下さん到着。八谷女史到着。彼女はこのシリーズ本編には初めて登場するが、生態系保護協会の北本・桶川支部長で偉い人だ。私はいつも頭が上らないので姐さんと呼ぶ。江口さん、関野さんと予定通りに到着したが、あっちゃんと平野さんが遅い。 「二人だけで、どこか行っちゃったんじゃないの」と姐さんが疑うが、あっちゃんは三分遅れで到着。念のために平野さんの自宅に電話してみたが当然いない。自宅を出ていることはまちがいないから十五分待ってみるがそれでも現れない。コースは知っている筈だし、私の携帯番号も知っているから、先に行こうかと言っているところに漸く姿を現した。鈴木さんは昨日いきなり「山に登る」とメールで連絡が入っていたから今日は来られない。彼はこのところ、随分山に夢中のようだ。 今回、私は万歩計を腰につけてきたので、ここでリセットしてスタートする。 「枝垂桜が素晴らしいんですが、今の季節ではあまりお薦めできないので」と松下さんが説明するので、六義園は通りの向こうの入口を眺めるだけで、本郷通りを南に歩く。赤レンガが美しく、明治時代を描いた映画やドラマでは必ずロケ地に利用されるのだと、早くも三澤節が始まる。本郷通りも今ではビルが立ち並んでいるが、昔は(講釈師の言う昔はいつの時代なのだろうか)しもた屋ばかりで、六義園の緑が良く見えたそうだ。三澤さんは頻りに「ろくぎえん」と言うから「りくぎえんだよ」と平野さんに訂正される。 六義とは「詩経」に言う詩の分類で、最初の三分類は「風」(民間の歌謡)、「雅」(朝廷で歌われる正しい音楽)、「頌」(宗廟での祭祀の音楽)と、どんな場面で歌われるか、その目的を表す。更に表現方法による分類が三つ、「賦」(感想を述懐)、「比」(比喩を用いる)、「興」(これは良く分らない)を加えて六分類になる。これを紀貫之が和歌に転用し、そえ歌、数え歌、なづらえ歌、譬え歌、ただごと歌、祝い歌と名付ける。古今集の序では六義は「むくさ」と読まれたから、六義園も「むくさとのさと」と呼ばれたという。 (http://ias-server.musabi.ac.jp/tokyo_form2004/gp07/works/fujimura/rikugi/01.html) 元禄八年(一六九五)、当時川越藩主だった柳沢吉保が綱吉から拝領した土地に、七年の歳月をかけて庭園を造った。犬公方綱吉との関係が有名だから、吉保の評判は良いとは言えない(むしろ、奸物のイメージが強い)が、学芸の愛好家として知られる。荻生徂徠を抱え、その弟子の服部南郭なども、ここ六義園に出入りして詩を作った。徂徠は古文辞派として漢詩を作ることを奨励したから、あるいは六義園の名も、徂徠の命名に拠るかも知れない(全く当てずっぽうです)。 本郷通りからひとつ脇道に入れば、車の通りも少なく、落ち着いた雰囲気の住宅地だ。駒込富士神社の石垣に突き当たり、塀に沿って正面ではなく、横から入る。「なんだ、また横からか。この会は裏口だったり、横からだったり。まっすぐ入ることがない」講釈師が毒づく。その言葉に「予想通りですね」と松下さんが笑う。前回とはうって変わって、今日は賑やかな一日になりそうだ。 天正元年(一五七三)、駿河国富士浅間社を勧請して本郷に創建されたが、加賀前田家が本郷の地を賜ったことで、ここに移転した。正確な年代が分らないが、『武江年表』には「慶長年間記事」として
石段を登れば、明治四十四年六月の日付を記した市村羽左衛門の墓がある、と思ったのは私の勘違いだ。何代目だろうかとみんなで悩んでいたのだが、一番有名な十五世羽左衛門(混血の)の墓地は雑司ヶ谷霊園にある。しかし、十五世が羽左衛門を襲名したのが明治三十六年だと分れば、四十四年の日付の墓はおかしい。何かを寄進した記念碑だったかも知れない。そもそもこんな所に墓があること自体を疑うべきだった。 大きなカヤの木にはところどころ焼け焦げたような跡が見え、「焼夷弾の跡だ」と三澤さんが説明する。囲碁名人の関野さんは榧の碁盤は持っているが「生のカヤは初めて見ます」と言う。カヤの大きな実は「アーモンドのようでしょ」とあっちゃんが説明する。 富士神社を出て裏道を歩けば、吉祥寺に突き当たる。山門は本郷通りに面しているから少し回り込まなければ入れない。太田道潅が江戸城を築いた時、土中より吉祥増上の文字を彫った銅印を掘り出し、城内に堂を建て吉祥庵と名付けたのが始まりだが、家康の江戸城大改築に伴い神田駿河台に移された。それが更に明暦の大火で類焼し、ここに移った。神田駿河台の吉祥寺門前町の商人が移り住んだのが、武蔵野市の吉祥寺になる。 立派な山門は享和二年(一八〇二)に建てられたもので、戦災にも生き延びた。「栴壇林」の扁額が掛かっている。曹洞宗の壇林(学寮)で駒澤大学がここから生まれた。 門をくぐって、「六地蔵よ」と姐さんが左手を指差した時、私はてっきり、そのすぐ奥の丈六仏(坐像の如来)を指したものかと早合点して、違うよと言ってしまったのだが(瞬間的に江戸六地蔵を考えてしまった)、その手前に六体の地蔵が確かに安置されている。「地獄に落とすか極楽浄土に行かせるかを判定するんだ」と三澤さんが言うが、それでは閻魔と同じになってしまう。六体の地蔵は、六道に輪廻して苦しむ衆生を救済する象徴だ。地獄道を守るのは大定智悲地蔵、餓鬼道は大徳清浄、畜生道は大光明、修羅道は清浄無垢、人間道は大清浄、天上は大堅固となる。だから地蔵は六人と決まっていて、江戸六地蔵、東都六地蔵などが作られるのだ。 「お七・吉三比翼塚」が建つが、本来ここは八百屋お七とは何の関係もない。江戸人の噂好きが、実説異説さまざまな伝説を作り出し、吉三はこの吉祥寺の寺小姓だったことに決めた。この辺では吉祥寺が最も有名な寺だったことによるのかも知れない。松下さんはお七が好きだから、今日はそれに因む跡を全て巡ることになっている。 二宮尊徳像には興味がない。商品経済が発展して制度的に破綻した封建制度を、自作農民の自助努力で救おうとするのはそもそも無理なのだ。兵農分離を実施して武士を都会に集中させた時、当然商品経済の発展が前提にならなければならず、江戸幕藩体制自体が矛盾の塊だったのだ。 目立つ所に川上眉山墓がある。今では誰も眉山を知らない(だろう)。眉山は何を血迷ったか、一葉と婚約したとの噂を自分で振りまき、一葉一家を困惑させた。
榎本武揚の墓がなかなか見つからない。松下さんが開いている地図(『大きな字の地図で東京を歩こう』)には、尊徳像のすぐそばに記されているのだが、幾ら探してもない。松下さんのもと上司だという家族の墓参に出くわしたりしながら探し続けるが、分らない。結局工事をしているらしい人に三澤さんが尋ねて、やっと分った。随分離れた場所に柵で囲った立派な墓がある。地図が間違っていた。「海軍中将子爵榎本武揚墓」とあって、戒名はない。「海舟は伯爵でしたね」と松下さんが言い、福沢諭吉の『痩せ我慢の説』に話題が及ぶ。二君に仕えるのは武士にあるまじき振舞だと、諭吉が武揚と海舟に難癖をつけたのだが、この話は、第二回『両国編』で触れたことがある。天保七年八月二十五日(一八三六)生、明治四十一年(一九〇八)十月二十七日没。 蝶を見つけて姐さんが「写真を撮りたい」とはしゃぐ。「ツマグロヒョウモンだね」平野さんが武揚の墓所の敷地の中に入り込んで捕まえようとするが難しい。アオスジアゲハも飛んでいる。蝶を見ると平野さんは子供のようになってしまう。追いかけてどこまでも走っていく。 鳥居耀蔵の墓もある筈だが、そこは諦めた。結構広い募域だから地図がなければとても探し充てることができない。今、武揚で苦労したばかりだ。耀蔵は水野忠邦の天保の改革で江戸南町奉行として辣腕を振るった。もともと大学頭林述斎の三男で鳥居家を継いだのだが、こちこちの教条主義の朱子学者で、蘭学を蛇蝎の如く嫌いぬいた。そのため蛮社の獄をでっち上げ、渡辺崋山や高野長英を殺した。(崋山の死は自殺だが、同じようなものだ)。耀蔵のヨウと甲斐守のカイをとって「妖怪」と呼ばれる。 本郷通りを向こう側に渡れば、養昌寺の山門前に「半井桃水墓」の説明板が立てられている。中には入らない。馬場孤蝶の手によって一葉の日記が刊行された時、感想を求められた桃水は、彼女がそんな風に思っていたとは知らなかった、兄妹のような関係だったとしらっぱくれた。おそらく恥じたのだろうね。桃水としては、こうでも言うしかなかっただろう。一葉の思い人だというだけで、歴史に名を残す
この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(一六一五〜二四)万行和尚が、伊勢国赤目山で黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国を巡り、今の動坂の地に庵を結んだ。寛永年間、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から現在の土地を賜り、目赤不動尊とせよとの命を受けこの地に移った。 江戸の鎮護のため、青・白・赤・黒・黄の五色の不動が置かれた。東西南北中央を表す。密教の五色を不動に当てはめたものらしいが、この辺の事情はよく分らない。なんだかこぢ付けではないかと思う。むしろ、木火土金水の五行説の方が説得力があるような気がする。寛永年間、家光の時代に五色が完成したことになっている。 ここ目赤の他、目白不動は豊島区高田「金乗院」、目青不動は世田谷区太子堂「教学院」、目黒不動は目黒区目黒の「滝泉寺」にあるのだが、目黄だけはふたつになっているのは何故だろう。台東区三ノ輪の「永久寺」と江戸川区平井の「最勝寺」にある。 天栄寺の前には「駒込土物店跡」碑が立っている。土物とは大根、牛蒡、芋などの土の着いた野菜のことだ。境内に入ればサイカチの木。豆の仲間。こんなに大きな豆ができるのかと、植物に詳しい人は驚いている。私のように何も知らない人は、そんなものかと思うだけだから驚くことがない。江戸時代、近郊の農民が市中に野菜を売りに出て集った。門前の大きなサイカチが緑陰を作り、格好の休憩場となったのだが、いつのまにかここに青物市場が立つようになった。神田、千住と並んで、江戸の三大青物市場のひとつ。競りの掛け声からヤッチャバと言う。 そのまま南に少し行けば大円寺だ。お七に因む供養塔が建つ。天和二年(一六八三)、この大円寺から出た火事が江戸の大火に発展した。
焙烙地蔵は、お七の罪業を救うため自ら焦熱の苦しみを受けるのだとの説もあるが、矢田挿雲『江戸から東京へ』では、こんな風に冷たくあしらわれる。
「高島平の地名は秋帆に因むんだ」三澤さんは実に何でもよく知っている。秋帆は高島流砲術の創始者として、近代的な軍隊を模索した先覚者の一人だ。天保十二年(一八四一)水野忠邦以下、幕府の高官を集めて西洋式軍隊の調練を実施した時、その地は赤塚村徳丸ケ原と呼ばれていた。はるか後、日本住宅公団が大規模開発を行なったとき、徳丸ケ原では人が集まらないと考えたか、高島秋帆を引っ張り出して、高島平と名付けたのが始まりだ。 斉藤緑雨は忘れられた批評家、作家だが、一葉日記の読者には馴染み深い。正直正太夫などとふざけた筆名も使ったが、最晩年の一葉が本当に心を開いて語り合ったのは緑雨だった。明治二十九年七月二十二日の夜半、緑雨が訪ねて来て、長い物語をした。三木竹二(鴎外の弟)、露伴が連れ立って、一葉に「めさまし草」同人への参加を促したことに、緑雨は反対するのだ。一葉はその緑雨の言葉を書いているうち、
緑雨がいなければ一葉全集は刊行されなかったかも知れない。邦子から預かっていた日記は死の前日、馬場孤蝶に託したから、私たちは一葉日記を読むことが出来ている。一葉の読者にとっては恩人ともいうべき人物だ。慶應三年に生れたのは、漱石、子規、紅葉、露伴と同じで、明治の年がそのまま満年齢に相当する。
そろそろ昼に近くなってきた。松下さんの企画は盛り込んだ内容が多く、到底今日一日で回り切れない。「江口さん、本念寺は省略させてください。太田蜀山人の墓があるんですけどね」と松下さんが謝り、白山神社もパスすることになった。川柳をものにする江口宗匠は狂歌も得意だろうか。しかし暑い。朝、家を出たときにはまだ小雨が少し残っていたし、こんなに晴れ上がるとは予想していなかったから、体が不意打ちに遭ったようだ。 「お腹すいたわ。だって朝食べてないんだもの」姐さんが昼食を急かす。ちょうど中華料理屋が開いていて、二階の個室に通されると、八人が程よく座れる円卓に着くことができた。 海老チャーハン(あっちゃん)五目チャーハン(三澤さん)、ラーメン(関野さん)、B定食(レバニラ炒め)は松下さんと私。この順番に料理が出てきて、A定食(豆腐のスープのようなもの)を選んだ三人(江口さん、平野さん、姐さん)のが一番遅くなってしまった。普通A定食が最初にでてくるのではないかしら。貸し切り状態の個室でゆっくり食事を終えて、少し疲労が回復した。鉄分の補給が良かった。 植物園の塀に沿った上り坂がちょっと堪える。やっと下りになると、右の塀には「御殿坂」の説明が書かれている。犬公方綱吉が館林宰相の頃の屋敷地で、白山御殿と呼んだ。その小石川植物園に入る。入場券は正面入口と道路を挟んで向かいにあるパン屋で購入する仕組みだ。三百円。入口にはちゃんと受付があるのだから、何故そこで販売しないのか。どうも官のやることは良く分からない。 小石川植物園の歴史を語るためには、本草学の歴史を見なければならないだのが、大場秀章編『日本植物研究の歴史――小石川植物園三百年の歩み』というのが、ネットで公開されている。一九九六年に特別展が開催された時の記念に刊行されたものらしい。これを読みながら、ちょっと要約してみることにする。 (http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Koishikawa300/index.html) 江戸幕府創設以来、府内には二つの薬草園が存在した。牛込(高田)には北薬園が置かれ、敷地一万八千坪、本草学の祖とされる神農皇帝を祭った。南麻布には南薬園が置かれ、これはどちらかと言えば薬草よりも花草栽培を目的とした。 綱吉が五代将軍職に就いて二年目、天和元年(一六八一)、北薬園の地に護国寺が建造されることになり、廃園と決まった。三年後の貞享元年には、南薬園も白金御殿拡張のため廃止された。それでは綱吉は薬園に全く関心がなかったかと言えばそうではなく、館林藩下屋敷の拡張と同時に、その一部を薬園としたのが、この小石川御薬園の始まりになる。当初は一万四千坪あったが、正徳三年(一七一三)には二千八百坪と大きく削減された。 画期になったのは、吉宗の時代だ。国産朝鮮人参の栽培に関心を持った吉宗のもとで、享保六年(一七二一)薬園の総面積は四万四千八百坪と大きく拡大する。ところが人参は気温の関係でこの小石川では無理と分って日光の分園に移され、また薬園の規模は一万五千坪に大きく削減される。 一方、享保七年には町医者小川笙船の建言によって施薬園(養生所)が設けられ、当初の収容力四十人ほどだったが享保十四年には百五十人の収容力を誇った。山本周五郎『赤ひげ』で御馴染みだ。また享保二十年には大岡忠相の進言で、青木昆陽が薩摩芋の試作を行なった。江戸時代は飢饉頻発の時代でもあって、救荒作物の開発が急務でもあったのだ。 この頃まで日本本草学は明の李時珍『本草項目』を日本の植物に比定する文献学が主流だったが、漸く、実地の植物を観察研究する近代的な学問に近づいてくる。貝原益軒『大和本草』がその契機になった。平賀源内も最初は本草学者として現れたし、西洋渡来の学問だけでない、日本の地についた実証精神がこの辺りから始まった。 こうして江戸時代を経過し、明治になってからは、医学部所属か理学部所属かで若干の混乱はあるのだが、帝国大学理科大学(理学部)の管轄になって現在に至る。 正門を入ってすぐ正面に、箒かはたきのような大きな穂を立てたススキみたいな植物が立っている。これはなんだろう。疑問はそのままに、躑躅ばかりが植えられている一角から歩き始める。 「これってゴッホの『糸杉』と違うんですか。私はずっと同じだと思っていたのに」とあっちゃんが指差す樹には「カイヅカイブキ」と札が掛かっている。私に質問されてもどう答えれば良いか、うろたえるばかりだ。確かに枝や葉が捩れたように上を向いている。カイヅカは大阪の貝塚だと、松下さん。漢字で書けば貝塚伊吹となり、ヒノキ科の常緑樹で園芸種のようだ。 「メンデルのぶどう」「ニュートンのリンゴ」。 「精子発見のイチョウがあるはずなんだ」と平野さんが言うと、「それはあっちの方だ」と三澤先生が先導する。この人にとっては知らない場所というものがない。公孫樹にはもう銀杏が生っている。「これは旨いんだよね」「でも匂いがね」「殻を剥くのが難しい」と言い合っていると、平野さんが難しい顔をしている。 銀杏ができるのは雌木だからだ。精子を発見したのならば、近くに雄木がなければならない。しかし、その雄木が見えないというのが平野さんの悩みの正体だ(たぶん、そうだろうと推測するのだが)。「あるいは、どこからか飛んできて受粉後、受精前の精子を発見したのかも知れないね」と無理やり自分を納得させるように言う。 私には良く分ってはいないのだが、このことは随分大変なことらしいのだ。精子があるのは当たり前ではないかと思っていたが(というよりそんなことに疑問を持ったこともないのだが)、種子植物で、イチョウとソテツだけが精子をもっているのだそうだ。ほかの植物はどうやって子孫を残していくのだろう。前掲の大場秀章書から引用する。
「光源氏」「空蝉」「白乙女」「白拍子」などと空虚な名札をつけた樹が固まっている。なんとなく見覚えのあるような気がするが「これ、何の樹」と質問すると、「佐藤さん、これは椿ですよ」と松下さんに笑われてしまった。そうか、言われてみれば葉の形がそれらしい。 ボダイジュの前で、「日本の菩提樹と西洋のリンデンバーグとはどうやら違うものらしいですね」と松下さん。ここにあるのは中国原産だから、仏陀が悟りを開いた方のものだろう。「シューベルトです」と松下さんが歌いだすと、「学校で習ったよ」と三澤さんも歌う。
水面から数十センチも上に花を咲かせている睡蓮には、熱帯スイレンと書かれている。江口宗匠は珍しいものを見たと驚いている。睡蓮と蓮の違いについては、以前から話題になっていたから私も覚えている。葉に切れ込みがあるのが睡蓮です。 今日の植物班は昆虫班も兼ねているから忙しい。蝶を見つければ写真を撮ろうとするし、なかなか前に進まない。姐さんがトンボを捕まえて、ルーペで良く見ろと私に見せてくれるのだが、ルーペの扱い方が良く分らないし、遠近両用眼鏡との距離感も難しい。苦戦しているところに松下さんが何か声を掛けてきた。姐さんが不器用な私を叱って早く見ろと催促するから、今私は忙しいのだ。 業を煮やした松下さんがついに大声で「折角私が発見したのに」と声を上げる。「聞いてやれよな」と三澤さんも声を出す。松下さんが大きなユリノキを見つけたのだ。日頃、植物学には全く疎いと謙遜している松下さんだが、そんなことはない。ユリノキには、大正天皇がこの花を見て百合だと言ったから命名されたとの説明が書かれているが、そんなことは、第五回『芝から東京』編で、松下さんにちゃんと教えてもらってあるのだ。 「チョウチョを見つけたら追い払っちゃおうぜ」と三澤さんが手を振り回す。「こんな調子じゃ前に進まないよ。ここは植物観察なんだから、昆虫はもう駄目だ、あの連中は除名だな」。これまで私たちは何度、三澤さんに除名されたか分らない。本当なら残っているのは三澤さんただ一人になっている筈だ。松下さんも、それじゃ少しペースを上げましょうと、号令をかける。 芝生の庭園から見る元東京医学校本館の赤いレンガと白壁のコントラスト。傍らに立つ百日紅の赤い花が美しい。みんながカメラを向けようとするのだ、その入口の前で悠々と太極拳らしいポーズをしている女がいて邪魔になる。なぜ、そんなところでやっているのか。見せびらかす程のものなのか。 天高し 池泉に臨む 西洋館 快歩 猫を見て松下さんが「シャノワール」と笑う。確かに真っ黒い猫が寝そべっていて、あっちゃんが喜ぶ。立ち止まっては植物や昆虫を見つけて観察する三人(平野さん、姐さん、あっちゃん)だが、そのあっちゃんが「初彼岸花を見ましたか」と追い抜いていく。「彼女がそう言うのなら写真を撮らなければならない」と、関野さんがちょっと戻って、一本だけ咲いている彼岸花を撮影する。「珍しいものじゃないけどね」。 植物班には物足りないだろうが、今日の予定というものもある。そろそろ出ましょうかと松下さんが声をかけ、出口に向かう。「今度はゆっくり来ましょう」と植物班兼昆虫班の三人が約束している。 植物園を出たところで思いがけず、武川岳に行っている筈の鈴木さんから電話が入った。まだ二時なのに、もう下山して自宅に戻ってきたらしい。合流したいと言うので、連絡を取り合うことにする。それにしても早い。予定では、春日部を出て東飯能駅からバスで名郷まで行き、前武川岳、武川岳、焼山、二子山、芦ヶ久保駅と行く筈だから、何時に家を出ればこんなに早く終了するのだろう。「山に行っても仲間がいないから淋しいんだよ」と悪態をつくのはやっぱり同じ人だ。 蝶やトンボが近寄らないように手を振り回しながら歩いている三澤さんの後で、植物班の美女が歌うように「カリンです」と声を揃える。「これは植物です、昆虫ではありません。」講釈氏が「ちぇっ」と舌打ちする。関野さんが笑いを堪えている。 教育の森公園には、占春園跡から入って行く。占春園は陸奥守山藩松平家の庭園だと記されているが、さて、守山藩ってどこだろう。「佐藤さんが知らないんじゃね」と松下さんが言うが、私は出羽国だからね。調べて見ると郡山だった。それなら、あっちゃんが知っていなければならない筈だが。
秋暑し 講釈続く 休息所 快歩 少し移動して、子供達が水遊びをしている広場でまた休憩。私は自動販売機でペットボトルのお茶を追加する。何しろ暑い日だ。三澤さんが盛んに弁解している。美女を前に、大変失礼なことを口にしてしまったのだ。「俺じゃないよ、佐藤さんが」「だって、きっかけは三澤さんですよ」実は私が一番悪かったかも知れないな。「佐藤さん、ワルだな」と三澤さんが嘆息する。 お茶の水女子大学の正門には「身分証・学生証の提示がなければ入構できません」とちゃんと書いてある。「東大とは違います」「三澤さんみたいな人が入るのを防いでいるのね」「また俺のことばっかり」。 跡見学園の前を通れば、男女の学生の姿が多くなる。 音羽通りに出ると右に講談社、左には光文社のビルが見える。「この頃は、本は売れていないだろう」と三澤さんが口をきり、何故か、「『冒険王』っていうのはまだあるのかい」と尋ねて来る。どうも講釈師と話をしていると時代感覚がずれてくる。「少年マガジン」「少年サンデー」と二大少年週刊誌が創刊されて、月刊誌が駆逐されたのは昭和三十年代のことだ。「私は山川惣治『少年ケニヤ』が大好きでした」と松下さん。漫画ではない、絵物語と呼ばれた頃だ。「復刻されたものを全部読んで、アフリカに行ったものです。」冒険小説の南洋一郎などいう名前も飛び出すのは、この年代の人たちならではだ。 通りの右を見渡せば、突き当たりに見える甍は護国寺だ。音羽通りを渡って目も眩むような坂道に出る。地図で確認すると、どうやら鉄砲坂という名がついているようだ。それにしても急な坂だ。雪が振ればまず歩けない。左のほうに何やら高い建物が見え「東京カテドラルです」と松下さんが教えてくれる。 住所表示は目白台となっているが、「この辺は高田と言ったはずです」と松下さんが言う。日本女子大学は日本で初めて創設された女子大だ。松下さんのご母堂がその卒業生だということだが、そうすると年代的には平塚雷鳥などと同じ頃だろうか。それならば「新しい女」のひとりになる。「女子大と言えばここのことでした」と松下さん。「お茶の水は女高師ですからね。」 正門の脇、成瀬記念会館前で何かチラシのようなものを配っている若い女性が、こちらに笑顔を見せる。この頃の若い娘は、仲間と大声で喋っているのを聞くと何の魅力も感じないが、こうして一人で微笑んでいるとちょっと素敵だ。私はこっそりそう思って見ていたのだが、実は江口さんも同じ思いを感じていたらしい。 ほほゑみの 似合ふ娘見やる 残暑かな (快歩) 宗匠が「自画自賛」というから自信作なのかな。目白通りの向こう側には田中邸。「あの頃は、ここが報道のカメラの定位置になっていたんだよ」三澤さんは何でも知っている。「交番もあったんだ。」 細い路地を歩いて目白不動のある金乗院に到着する。階段を登って不動堂を覗いてみるが、不動像はずっと奥の方に鎮座しているようで、良く見えない。目白不動は以前、文京区関口にあったが、昭和二十年五月の戦災により消失したため、本尊の不動明王像を金乗院に移して合併した。 墓域には丸橋忠也の墓があると書かれている。「元気な人はどうぞ」と松下さんが言う。松下さんは墓には余り興味がないようだが、ちょっとした石段を登って、奥まで行って見る。囲いのしてある墓には確かに丸橋忠也の名前があり、その隣には長宗我部家の墓(丸橋忠也の一族)と書かれた墓石がある。長宗我部の一族ならば、徳川に反抗する理由があると、皆が納得するが、何、忠也が自称していたに過ぎない。「江戸城のお堀でさ」とやっぱり講釈師は詳しい。講談や芝居の種だからね。宝蔵院流槍術の達人だが、ちょっと軽はずみなところがあって、石を投げ入れて堀の深さを測っているところを松平伊豆守に怪しまれたのが、事件発覚の発端になったということになっている。 「ほんとに佐藤さん、墓が好きだな」と三澤さんがからかう。生きている人間より、死んでしまった人の方が煩わしくないからかも知れない。大岡昇平が「全集だけ読んで中原中也のファンになった人が羨ましい。我々は生身の中也と付き合って苦労したんだから」と言っていたことを思い出す。 「今日は端折ってしまった雑司ヶ谷霊園は、今度佐藤さんに担当してもらいましょう」と松下さんも言う。疲れた人は墓を見ずに下で休憩していた。 たぶん、コースを企画した松下さんも気付かなかったのではないだろうか。予想もしていない所で、意外なものに突き当たる。「ここってお寺ですか」とあっちゃんが目を向けるので、角の道を曲がってみると、「名作怪談乳房榎ゆかりの地」の大きな案内板が掲げられている寺がある。南蔵院。円朝の作らしいが「これはどういう話ですか」と松下さんが三澤さんに問いかければ、流石に講釈師にも知らないことはある。それでも、榎の樹液が赤ん坊を育てたのだと、なんとか話の辻褄が合うから大変なものだ。 ただ、その話とこの寺がどういう関係にあるのか判らない。本堂のコンクリートの石段を掃除している女性に聞いてみると、榎は板橋にあるとそっけなく答える。無学な連中だと呆れたのではないか。明治大正の人たちにはおそらく常識だったが、それが私たちには伝わっていない。境内にある木は乳房榎とは関係ないのだが、どうも要領を得ない。調べてみるとこれは随分長い話で、前半と後半に大きく分かれるのだが、その前半がこの南蔵院を舞台にしている。 間与島伊惣次(三十七歳)は文武両道に秀でる二百五十石取りの武士だったが、趣味の絵が嵩じて主家を致仕、菱川重信と名乗る絵師になる。妻きせ(二十五歳)は絶世の美女で、生れたばかりの真与太郎、下男の正介と暮らしていた。ここに浪人磯貝浪江(二十九歳)なる者が重信の弟子になったことで悲劇が胚胎する。 南蔵院(ここがその寺だ)から天井画の龍を描くことを依頼され、重信は正介を伴って泊り込みで描き始めた。好機到来。初めからきせに横恋慕していた浪江は、重信の不在を狙って毎日のように留守宅に上がりこみ、とうとうきせを手篭めにした。抵抗していたきせも、やがて浪江に靡くようになるから人の心は頼み難い。 絵が完成して重信が帰宅すれば、きせとは別れなければならぬ。浪江は正介を誘い出し、言いくるめた上で重信殺害の手引きをさせる段取りとなった。 やがて絵の完成が近づき、残るのは雌龍の片腕だけになった頃、正介が落合の蛍見物に重信を連れ出し、飲めない酒を無理やり飲ませた挙句、その帰り道、浪江が竹槍で刺し殺す。 正介は南蔵院に戻って、何者かが重信を殺したと報告するのだが、誰も聞こうとしない。それもその筈、重信は普段どおり絵を描いているからだ。驚愕する正介に重信が一喝、正介は恐怖の余り気絶する。その瞬間全ての明かりが消えた。 やがて一同が恐る恐る明かりをつけてみると、重信の姿はなく、龍の絵は完成して今押したばかりの落款が、べっとりと赤く濡れていた。 円朝が南蔵院の龍を見て思いついた噺だというが、現在その龍はないそうだ。ここまでの話では何故、乳房榎という題名なのかは分らない。榎が登場するのは後半になってからだ。 正介は、浪江から真与太郎を殺害するように脅される。迷いに迷った挙句、四谷角筈村十二社の大滝の滝壺に真与太郎を投げ込むと、真与太郎を抱いた重信の亡霊が現れ、正介を睨み付け「真与太郎を養育し、敵を討て」と大喝する。正介は亡霊の言葉を聞いて改心する。(正介の性格造形はちょっと杜撰ではないだろうか)とにかく改心した正介は生まれ故郷の練馬の在、赤塚村へ隠れ住み、松月院という寺の門番になって真与太郎を養育する決心をする。 ところで、この松月院の境内には乳房の形をした榎があり、そのコブからしたたり落ちる甘い雫が、乳房の病を治し、乳の出ない女も乳が出るようになる。摩訶不思議なことにその雫は、乳のかわりとなって真与太郎を育ててくれた。噂は江戸中に広まり、その雫を求めに多くの人が参拝に集ってくる。 その頃きせは浪江の子を産んだものの、乳が全く出ず、死なせてしまった。そして乳房に腫れ物が出来てきせは苦しむようになる。松月院に使いを遣って榎の雫を貰い受けたが、その晩重信の亡霊の祟りで乳房の醜い腫れ物が痛みだし、狂い死にする。 真与太郎はすくすくと育ち、五歳になった。浪江は真与太郎が生きていることを知り、亡き者にしようと松月院に現れるが、正介と真与太郎は重信の亡霊に助けられ、見事仇を討ち果たす。真与太郎は、長じて真与島の家督を継ぐことを許される。(「落語の世界を歩く」より http://ginjo.fc2web.com/60tibusaenoki/tibusaenoki.htm ) この榎の四代目に当る樹が、今も赤塚の松月院に現存している。榎は板橋にあるというのは、こういうことだったのだ。しかし、怪談もこうして要約するとちっとも怖くない。ディテールこそが怪談の命だからだろう。細部に拘り、身近な地名や誰でも知っている寺院、地名を盛り込むことで真実らしさを保証するのは、こうした噺の常套手段だったに違いない。 そこから少し南に行けば、オリジン電気という会社の門の脇に「山吹の里」の碑が立っている。雨に難渋した道潅に紅皿が山吹の花を差し出した所だが、場所自体には諸説がある。説明板にも、埼玉県越生町や荒川区町屋など他の候補地も挙げられている。ただ、この辺一体は鎌倉街道に当っていて、交通の要衝だったようだ。道潅がしょっちゅう立ち寄ってもおかしくはない。小さな山吹が咲いているが一重の花だから、歌にある八重山吹とは違う。案内板を設置して広報するからには、もう少し工夫があっても良いのではないか。面影橋の下を流れるのは神田川。 脇道を歩くと祭り囃子が聞えてくる。神社でもないのに家の門に御幣を垂らし、パッチに揃いの法被をひっかけた男達が集っているのは「御神酒所」と言う所だと三澤さんが教えてくれる。町内の要所々々で、神輿を待つのだ。祭り太鼓と笛の音が近づいてくるが、軽トラックがお神輿を載せて進んでいるのだった。「人がいなくなっちゃったんだよ」三澤さんが嘆く。神輿の担ぎ手が、特に子供がいなくなってしまったのだ。 今日は九月九日、新暦とはいえ重陽にあたる。陰陽道では九は陽数の極になり、従ってそれが重なる九月九日、重陽の節句は最も重要な日であった。これから行く高田水稲荷の祭礼がちょうど今日行われるのだ。目黒大鳥明神、三田春日明神なども同じ九日で、十九日には牛込赤城明神、白金氷川神社、二十九日には渋谷氷川神社の祭礼と、九月の九のつく日は江戸周辺農村部では祝い事や祭が行なわれる。(長沢利明『江戸東京歳時記』より) 甘泉園公園には裏口から入る。ここも大名庭園の一つで、御三卿清水家の別邸だ。入った途端強い匂いが充満している。「ドクダミだね」と三澤さん。回遊式の日本庭園を駆け足で回って出てくれば水稲荷神社だ。境内には露店が並んでいる。
この近くが本来の高田馬場があった土地だ。越後少将松平忠輝(家康の六男)の生母阿茶(高田の君)が遊覧する地であったことから高田の地名がつき、寛永十三年(一六三六)に馬場が築かれた。(死んだ隆慶一郎に『捨て童子・松平忠輝』がある。)現在の高田馬場駅は、本来の地名から言えば戸塚駅と名付けるべきものだったが、当時の国鉄(鉄道院)は無茶苦茶な命名をした。 早稲田大学の横を通りながら、「都の西北早稲田の杜にって言っても、そんな森はないよ」「白雲靡く駿河台」三澤さん、松下さんの口からは大学校歌が次々と飛び出してくる。「そう言えば大学数え歌っていうのがありました」と松下さんが歌いだす。私はあんまり詳しくないのだが、それでもこんな歌詞を思い出した。 十一トセ、十字架かかえて喧嘩する、キリスト泣かせの立大生 都電荒川線の早稲田に到着し、鈴木さんと合流。快歩氏の足が重そうだ。平野さんの腰も悪化してきた。そろそろ全員が疲労を覚えていた頃だったから座れたのは有り難い。三ノ輪まで全長十二キロ、およそ五十分を百六十円では只みたいなものではないか。こんなに混む電車だとは知らなかった。松下さんは「無料の老人も多いんですよ」と言うが、それでは、東京都はかなり負担しているのだろうか。 たったひとつ残った都電だが、路面を走るのは一キロ半程度で、そのほとんどが専用軌道になっている。しかも広軌なのは、もとは明治四十四年創業の王子電気軌道という民間の会社だったからだ。戦争中の統制によって東京市に併合されて以来、戦後は都電と称された。昭和四十二年から始まる都電廃止の政策に、一度は廃止と決まりかけたが、路線の多くが専用軌道であったこと、沿線に適当な公共交通機関がなかったことによって、生き延びた。二十七系統(三ノ輪〜赤羽)、三十二系統(荒川車庫前〜早稲田)を統合し、王子駅前から赤羽の区間を廃止して、現在の路線が決まった。最近、各地で路面電車復活の声が挙がっているから、将来また、都電がどこかで復活するかも知れない。 三澤さんは大塚で降りて行った。あっちゃんが辛そうに顔を顰めている。なんとか三ノ輪まで行けば越谷までは日比谷線で帰れる、しばらく様子を見ようと姐さんと話しながら沿線風景を眺めていたが、私の心は実に冷たい。そのうち眠ってしまった。 三ノ輪に着いても、あっちゃんの様子はまだ本調子ではない。大丈夫だろうかと声を掛けるが、なんかと目黄不動まで行きたいと言う。ところが、まだ五時少し前なのに、目黄不動・永久寺は既に扉を閉ざしている。ここは、鈴木さんが企画する次回の千住編で復活してもらいたい。「どぜう食べたかった」と頻りに残念がるあっちゃんだが、ここでお別れする。彼女は忙しすぎるのだ。明日も越谷支部主催のイベントがあるというのだが、少し休養が必要だろう。(幸い、翌日あっちゃんからメールが入って、無事が確認でたのは、本当に良かった) 平野さんも腰を手で押さえながら遅れがちになってきた。「大丈夫ですか」「ビール飲むまで必死で頑張る」。姐さんだけは「都電で充分休息できたから元気回復」と絶好調だ。 歩いている内に住所表示は竜泉に変わっている。ここですよと松下さんが立派な建物の前で立ち止まる。改築中の一葉記念館だ。内装工事に入っているようで、十一月には開館予定だ。明治二十六年七月、一葉一家は生計を維持するために駄菓子屋を始めようと、本郷菊坂からこの竜泉寺町に引越してきた。下町には住みたくなかった一葉だが、七月十五日から家を探し歩き、やっと決めた。
飛不動では「Flying God Temple」という文字を発見してしまった。「酷いですね」と松下さん。こんな表現は無用のことだ。享禄三年(一五三〇)本山派修験僧正山上人によって創建された。創建後間もなく、住職が修業のため本尊を背負って大峯山まで運んだことがある。そのとき、江戸の寺では本尊不在の間信者が一心不乱に祈っていたところ、本尊が一夜にして大峯山から江戸まで飛んで帰ってきた、これが飛不動の由来だ。 百度石には、石柱に直径十五センチほどの石の円盤を取り付けている。簡易算盤のようなものなのだが、円盤は二つ(つまり二桁)あって、毎回、その石を回すのだ。石には一から九まで記しているから、九十九まで数えられることになっている。 「途中で誰かが回したら分らなくなってしまうよ」「お百度参りって、深夜に人のいないときにするんじゃないか」「それは丑の刻参りでしょう、五寸釘を打ち込む」経験のない連中ばかりだから、分らないことが多いのだ。 鷲神社。私はてっきりワシ神社と読むのだと思い込んでいて、そんな無名の神社に松下さんは何故わざわざ連れて行くのだろうかと、実は不審に思っていたのだ。無学極まりない。これを「おおとり」と読ませ、浅草酉の市の起源になっているから有名な神社だったのだ。 実はこの鷲神社には、足立区花畑に現存する大鷲神社という本家がある。それが文化文政頃からは、本家に対して「新」鳥と呼ばれたこちらの方に、多くの参詣者が集るようになった。人が集るには地理的な条件が必要だということだろう。 句碑が立つ。 はるをまつ 事のはじめや 酉の市 其角 最初「年のはじめや」と読んでしまったから、それでは姐さんが納得しない。年の初めと酉の市では季節感が違うと言うのだ。私は民俗行事に全く無知だから、実は酉の市がそもそもいつ開催されるのかさえ知らないから仕方がない。これは宿題として持ち帰ったが、翌日、江口さんが早速解答をくれた。結局、「事」を「年」と読み違えていたことが明らかになった。一見すれば「事」と「年」は似ているのだけれど、こんな区別は古文書解読では基礎知識のはずだったのに。 雑閙や熊手押あふ酉の市 子規 これはすぐ読めた。一葉玉梓乃碑石は全く読めない。原稿かしらと思ったが、鈴木さんが、「これが原稿なら、一枚いくらって数えられないですよね」と当然の疑問を口にしてくれたお蔭で気がついた。小説類は確かちゃんと原稿用紙に書いていた筈だから、これは手紙だ。和田芳恵の、一葉真筆に間違いなしとのお墨付きが付いて、桃水に充てた未発表の手紙の一節だと記されている。昔の人はよくこんな文字が読めたものだ。私は活字でしか読めないが、一葉の手紙は誰に宛てたものでも恋文のようだ。誤解する人間が出てもおかしくない。もうひとつは、なんとか読めそうだ。(その場では完全ではないから、ちゃんと原文を確認した。)
国際通りを歩き、もと国際劇場だったと松下さんに説明されてビューホテルを見上げながら、横に曲がれば「どぜう飯田屋」だ。私の万歩計は、二万二千歩を記録した。ざっと十三キロほど歩いた計算になる。 二階の大広間に通されると、結構客が入っている。松下さん曰く「知る人ぞ知る泥鰌の名店です。」生ビールが旨い。朝日ビールの工場がすぐ近くにあるからだと松下さんが説明するが、ビールの注ぎ方が違う。泡がきめ細かくて良い。一人前千八百円也の鍋を七人前、それに早く出来るものが欲しいから、空揚げと板わさを注文した。 姐さんは初めての泥鰌に感動して「この葱はどこのものかしら、京都?」と仲居に聞くと、普通の八百屋の葱だと答が返ってくる。泥鰌鍋なんてもともと下賎なものだから(と思う)、高級な食材を使う筈がない。底の浅い鍋に予め出汁で煮込んで骨まで柔かくした泥鰌を放り込み、沸騰したらその上からザク切りした葱を大量にぶちまける。「全然泥くさくない」と姐さんが感想を言えば「私はどちらかと言えばもう少し臭みがあったほうが良い」と松下さんが答える。久し振りに、この会のもともとの趣旨「歩く見る食べる会」の名に相応しい宴会になった。 取り皿にも「どぜう」と書かれているが、これが江戸のいい加減な読み方だと指摘したのは大槻文彦『言海』だ。「どぢやう」の項目を立てて、次の説明をする。
高田宏『言葉の海へ』は文彦の伝を語って感動的だ。大槻玄沢を祖父に持ち、父磐渓、兄如電と、蘭学、漢学の家に生れて、この国に初めての近代国語辞書を、ほとんど独力で完成させた。今ではあまりにも当たり前になっている五十音配列ということさえ、何故イロハ順にしないのかと福沢諭吉に批判されながら、文彦が採用したものだ。こんなことからも、諭吉の底の浅さを私は感じてしまう。それよりも語を配列するためには正確な読みを確定しなければならず、その苦心の一例がどじょうだった。 鍋を食べ終わったところでまだ物足りないが、場所を変えたい。姐さんは神谷バーで電気ブランを飲みたいと言う。私はそれほどのものとは思えないから、適当な居酒屋で良いではないかと思うが、なかなか六人座れる店が空いていない。土曜日の浅草は混んでいる。仲見世を抜けて神谷バーまで来てしまったがやはり満席だ。横を見ると「笑笑」があるので、そこで良いではないかと入り込んだ。今日の疲労がだんだん、心地よい酒の酔いに変わってくる。 |