文字サイズ

    第七十回 立会川から平和島
    平成二十九年五月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.05.24

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     旧暦四月十八日。立夏の次候「蚯蚓出」。一昨日は三十度を越え、昨日はやたらに蒸し暑い日だったが、今日は気温は上がらず降雨確率九十パーセントである。
     集合は京急立会川駅だ。鶴ヶ島で副都心線に乗ったので渋谷で乗り換えたのだが、渋谷駅は分かり難くなっている。田舎者には優しくない駅だ。山手線で品川に出て京急のホームに入ると、あんみつ姫が電車を待っていた。
     立会川の改札前には既に、今回のリーダーのロダン、ヤマチャン、桃太郎、スナフキンが到着している。「ヨレヨレだよ、昨日も飲み過ぎ。」スナフキンはその状態で、しかも雨の日に何故出掛けなければならないのかと、夫人に呆れられたと言う。十時まで待っても他に人は来ない。今日はこの六人だけと決まった。「雨だからね。」「まだ大丈夫だろう。」しかし駅を出た途端に降り出した。
     立会川は目黒区碑文谷池に発し、品川区内を流れて東京湾の勝島運河に注ぐ約七・二キロの川だ。名前の由来には幾つか説がある。往古、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」としたというのはどうだろうか。そんなに広い川ではないし、かつては護岸もこんなに高くはなかった筈だ。鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となったというのは信じたくなる。中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)、それが転じた。あるいはこの付近に野菜の市がたち、人々が立ち会った等である。
     「案外大きな駅でしたね。もっと小さな駅かと思ってました。」「国道駅みたいに?」「そこまでは。」大井競馬場への最寄駅にもなっているから、競馬開催日には混み合うだろう。川に沿って狭い商店街が続いている。中華居酒屋があり、焼鳥屋にはホッピーの提灯も吊るされている。「ここで飲めるんじゃないの?」「最後は平和島だから、ここには戻らないよ。」
     商店街は第一京浜の向こう側にも続いていて、そちらの方はアーケードが掛けられている。道を渡って右(北)に少し歩けば、「この角を記憶しておいてください」とロダンが声をかける。そして少し先の浜川中学校の前に案内板が立っていた。土佐藩下屋敷跡である。品川区東大井三丁目付近。「さっきの角からこの辺一帯がそうでした。」「上屋敷は有楽町の国際フォーラムのところ。中屋敷は築地警察の辺りだったね。」「山内容堂のお墓も見ましたね。」それは鮫洲の大井公園だった。
     「鯨って呼ばれてたんですよね。」山内容堂は大酒飲みであり、自ら鯨海酔侯と称した。容堂の名は隠居してからの号で、名は豊信である。松平春嶽、島津斉彬、伊達宗城と共に幕末四賢侯と呼ばれた「名君」だということになっている。「名君」の実態はなかなか難しいが、幕藩体制の危機を感じた改革派であったことは間違いない。政治的には公武合体派である。
     松平春嶽は橋本佐内を登用し、島津斉彬は西郷や大久保を登用した。伊達宗城は高野長英を匿い、長州から村田蔵六を招いて蒸気船を建造した。彼らは皆一橋慶喜を擁立し井伊直弼と対立した結果、安政の大獄に至る。
     容堂は酒のために、肝心なところで大失態を演じる。慶応三年(一八六七)十二月九日、小御所会議の席上に泥酔して出席した容堂は、討幕論が大勢を占める中で徳川宗家温存論を主張した。しかし酔った勢いで、岩倉等が「幼沖の天子」を擁し権威を恣にしていると口走ったのが災いし、岩倉に「天子を捉まえて幼沖とは何事か」と叱責されて面目を失った。泥酔しているから理論立てて反論することが出来ないのだ。
     どこの藩でも多かれ少なかれそうだったが、土佐藩では吉田東洋の公武合体派、武市半平太の尊皇攘夷派、更に佐幕派が激しく抗争し、暗殺と弾圧、脱藩が横行した。容堂の股肱であった吉田東洋は武市率いる勤皇党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。私は何となく暗殺者は岡田以蔵かと思っていた。吉村寅太郎(天誅組)、坂本龍馬、中岡慎太郎は脱藩する。安政の大獄で隠居した後に政権復帰した容堂は武市に切腹を命じ、勤皇党を徹底的に弾圧した。
     坂本龍馬、中岡慎太郎は京都見回り組によって暗殺され、維新後に政治家として生き残っていたのは吉田東洋の義弟・後藤象二郎位しかいなかった。薩長土肥と言われる割には、維新後の土佐が政府にそれほど大きな影響力を行使できなかったのは、こうしたことが原因であっただろう。この辺の事情は水戸藩と似ている。

     電柱には「ここは海抜二・一メートル」の表示板が取り付けられている。来た道を戻り、駅前から川に沿った商店街を歩く。架かる橋は「ボラちゃん橋」と名付けられている。平成十五年二月から三月にかけて、この付近でボラが大量発生した、その記憶のために名付けられた橋である。
     「ボラは汽水域で生息しますからね。」「この辺のボラは泥臭いんじゃないの?」私はボラを食った記憶はない。「大洗で刺身を食ったけど美味かったよ」とスナフキンが言う。
     品川龍馬会の幟が数本立っているのは北浜川児童遊園で、その一角に坂本龍馬像が立っている。品川区東大井二丁目二十五番二十二。「そういう会があるんだね。」「紋は組合せ枡に桔梗です。」ロダンはこんなことまで調べている。「龍馬はここに来たのかい?」嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリーが来航した際に、剣術修行中だった龍馬も土佐藩下屋敷警護に駆り出されたのだ。当時龍馬は築地の中屋敷か鍛冶橋の上屋敷に寄宿して千葉定吉の道場に通っていた。
     数えでは十九だが、龍馬の誕生が天保六年十一月十五日〈新暦一八三六年一月三日〉だから、満では十七歳である。この時点の龍馬はまだ何者でもない。黒船事件が与えた衝撃は大きく、龍馬も十二月には佐久間象山の私塾に入門することになる。しかし翌年四月には象山は吉田松陰の密航未遂事件に連座して投獄されるので龍馬が直接師事したのは半年にも満たない。
     「桂浜の像の方が大きいんじゃないか?」行ったこともないが、調べてみると桂浜に立つのは、像の高さ五・三メートル、台座が八メートルもあるらしい。ここにあるのは精々二メートルか。龍馬の身長については六尺豊かな大男だったと言う説がある一方、精々五尺六寸で普通より少し大きい程度だったと言う説もある。
     司馬遼太郎『竜馬がゆく』が龍馬を国民的英雄にし、ほとんどの人はそのエピソードや解釈を信じているが、どこまでが史実なのか、龍馬が果たした役割が言われるほど大きかったのかは、よく分らない。司馬遼太郎の影響は圧倒的で、歴史学の立場からは重要な問題が残されている。三条実美と岩倉具視を結びつけ、薩長同盟を成し遂げ、薩土密約を成功させたのも実際には中岡慎太郎の働きが大きかった。

     当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本龍馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。先生曽て坂本君の状を述べて曰く、≪豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて『中江のニイさん煙草を買ふて来てオーセ』などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき。≫(幸徳秋水『兆民先生』)

     中江兆民の回想が面白い。龍馬自身がどれほどの実績を挙げたかは別にして、人懐っこい性格だったことは間違いない。
     蒸気船サスケハナ(ペリーの旗艦)、蒸気船ミシシッピ、帆船サラトガ、帆船プリマウスの絵も展示されている。「モルタルで塗ってたから黒かったんですよ。」
     その脇には黒塗りの木を組み合わせた馬もある。「龍馬が乗った馬かな?」そんなことはないが、「こころざしの馬」と名付けられている。その足元に咲く紫の花はシラン(私は一瞬ギボウシかと思ってしまった)。「こっちは?」姫が鑑定してゼラニウムと分る。

     少し行けば浜川橋、又の名は涙橋だ。鈴ヶ森の刑場に運ばれる科人を、その親族が見送って涙した。南千住の小塚原に向かう思川にも泪橋が架けられていたが、そこは現在暗渠となっている。「向こうは泪橋でしたね、サンズイに目の方。」
     立合川が勝島運河に注ぐ場所には、東京都下水道局浜川ポンプ所がある。この辺の埋め立ては昭和十四年(一九三九)に始まり、日中戦争勝利を祈願して「勝島」と名付けられた。「あんな所に龍馬が。」金網から見える白い建物に龍馬の絵が描かれているのだ。
     ポンプ所の向かいの小さな公園に、土佐藩の砲台が復元されている。浜川砲台跡だ。品川区東大井二丁目二十六番二十八。「三十ポンド六貫目ホーイッスル砲」(全長三メートル、車輪の直径一・八メートル)を実寸で再現したものだ。ここは土佐藩抱え屋敷の一角で、ペリー再来航に備えるため、幕府の許可を得て嘉永七年設置したのである。屋敷はこの辺りで海に接していた筈だ。解説によれば江戸市民にも評判は上々で、こんな狂歌が作られたと言う。出汁と鰹節とかけてある。

     品川のかための出しのよくきくは下地もうまくなれし土佐武士

     「日本で初めて反射炉と鉄の大砲を鋳造したのは佐賀でしょう?」「そうですよ、鍋島閑叟ですね。」「それなのに韮山の反射炉だけが国の指定遺蹟になってるんだよ。おかしいよ。」佐賀県人の愛郷心である。しかし、佐賀の反射炉は現存しないのだから指定しようにもできなかったのだ。
     嘉永二年(一八四九)に江川太郎左衛門英龍は小型の反射炉を試作していたが、本格的なものとしては、幕府直営で嘉永六年に計画され安政四年(一八五七)に完成した韮山反射炉である。英龍はその完成を見ず、安政二年に亡くなっていた。その屋敷跡は深川で見ている。
     一方鍋島藩では嘉永三年(一八五〇)に計画、江川の元に藩士を送り込んで技術を習得させ、その年のうちに一号炉が完成した。しかし鋳造は簡単ではない。原因として炉の温度が低すぎたと推定され改良を重ねた結果、嘉永四年(一八五一)四月、五回目の鋳造で漸く鉄砲一門が出来上がったものの、試射によって方針が破裂した。何度も鋳造を試み、嘉永五年(一八五二)五月に漸く軌道に乗った。新技術の開発には苦労したのである。
     公園を出てロダンはすぐに歩き始めるがちょっと待って欲しい。土手に上がれば川が見えるのはあるまいか。「雨が降ってなければ歩こうと思ってた場所なんですけどね。」しながわ花海道と名付けられた勝島運河の土手である。平成十四年、立会川商店街と鮫洲商店街が中心となって、土手に花を咲かせるプロジェクトが始まった。春は菜の花、秋はコスモスが咲くそうだ。運河は直角に曲がって京浜運河に注いでいくが、ここは船だまりになっていて、釣り船が何艘も停泊している。

     降り頻る緑雨に煙る船だまり  蜻蛉

     涙橋から旧東海道に入る。「ここが東海道ですか、なるほどね。」天祖神社には寄らない。角に石の標柱が立っているので確認すると「三十四番 競馬場通り」であった。空襲で焼け残ったような古めかしい二階家が建っている。二階の屋根と窓の柵にアールデコ風が感じられる。左の奥の方に森が見える。「あれは何だろう。」「公園じゃないですか。」しながわ区民公園だった。「この中に水族館があるんだよ。」
     浜川神社はマンションになっていた。品川区南大井二丁目四番八。「宗教法人は税金がかからないからな。」玄関ホールの屋上に千木が見える。天明頃(一七八一~一七八九)福島三右衛門が、富士山、高尾山、出羽羽黒山で修行して羽黒修験となり、自宅に厄神大権現を祀ったのが始まりである。木更津から佐貫、鴨川にかけての漁村の人々の信仰を集めた。明治の神仏分離で神社の道を選び、浜川神社と称した。つまり単立の神道である。
     少し歩いて小さな墓域を過ぎれば鈴ヶ森刑場跡である。品川区南大井二丁目五番六。姫はこういうものが苦手なので、通り過ぎて次の交差点まで避難した。当初は高輪大木戸にあった刑場を、慶安四年(一六五一)にここに移したのである。最初の処刑者は慶安事件の丸橋中弥だったとされる。それに象徴されるように、当時は大名家の取り潰しにより職を失った浪人が大量に発生し、浪人による犯罪も激増していた。

     新緑や八百屋お七も雨に濡れ  蜻蛉

     「二百二十年間で約十万人が処刑されました。そのうち四割は冤罪だったと言われます。」「拷問して自白させるからね。」正確な記録は残されていないので、四割冤罪と言うのも推定でしかない。「刑場は八王子にもあったよ。」鈴が森(東海道)、小塚原(日光道)の他、八王子(甲州道)、板橋(中仙道)にも刑場があった。
     第一京浜の巨大な歩道橋にはエレベーターが設置されているから姫には有難い。大森北公園を過ぎると磐井神社だ。大田区大森北二丁目二十番八。かつては鈴ヶ森八幡と呼ばれた。『江戸名所図会』「鈴の森」では、海岸沿いの東海道を大名行列が通っている。その画面中央に小さな堂と塔が二本経っているのが鈴ヶ森八幡だろう。式内社だから古い。
     道路脇に井戸が残っているのは、第一京浜拡張のために取り残されたのだ。「心正しければ清水、心邪ならば塩水」と言う伝説があったという。「嘘だろう。」磐井の名はこの井戸によるらしいが、こんな海岸端に井戸を掘るものだろうか。
     鳥居の前には桃太郎の絵柄の幟旗が立ててある。端午の節句のためだったろうが、外すための人手がないのだろうか。拝殿前の唐獅子は立派だし、小さいながら権現造りの社殿も大したものだ。鈴ヶ森の名の由来になった鈴石は仕舞いこまれているから、見ることができない。振れば鈴のようになる石である。「ホントかよ。」酸化鉄を含んだ石の内部がうつろになって、酸化鉄の小片が残っているのではないかと推測されている。鈴ヶ森の地名由来でもある。

     社記に曰く、往古、神宮皇后三韓征伐のとき、長門国豊浦の津より御船にめされんとし、その海辺にして、含珠の神石を得たまふ。その石青く、鶏卵のごとし。石中鈴の音ありて錚々たり。ゆゑに鈴石と称す。異賊征伐の後、香椎の宮に蔵めたまひしが、欽明天皇の御宇、八幡大神はじめて筑前宇佐宮に鎮座の日、霊示あるによりて、この宝石を宇佐宮に遷せらる。(中略)嫡孫中宮大夫従四位中納言(石川)豊人卿、桓武天皇の延暦年中、武蔵守に任ぜられ、当国に任ぜられ、当国に下向し、荏原郡に在せし頃、つひにこの地を封じて当社を経営し神石を鎮座なし奉る。(『江戸名所図会』)

     平和島口交差点からロダンは平和島に入って行く。まさかボートレースを見る訳ではないだろうね。私は学生時代一度だけ見に来たことがあるが、ルールも何も分らないからちっとも面白くなかった。
     「ここの角を覚えておいてください。三業地があった場所です。」「三業地?」「芸者置屋、料亭、待合の三業が揃ってる街のことだよ。」「アッ、花街ね。」ただの花街なら珍しくもないが、ロダンは、戦後この町が連合軍相手の慰安所になったことに触れる。「悲惨な話ですよ。」
     ここだけの話ではない。戦後、連合軍兵士による大量のレイプ事件を予想した政府は、特殊慰安施設協会(RAA)を設立して「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」を募集した。RAAはRecreation and Amusement Associationの意味である。
     朝日新聞に出された広告は「急告―特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス 東京都京橋区銀座七ノ一 特殊慰安施設協会」であった。仕事の内容には一切触れていない。東京新聞には「キャバレー・カフェー・バー ダンサーヲ求ム 経験ノ有無ヲ問ハズ国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム最高収入 特殊慰安施設協会キャバレー部」の募集広告が掲載された。
     事情は様々であろうが、応募者は五万五千人に上った。七万人と言う説もある。全てが娼妓でなく、ダンサーや女給に応募したものもいただろう。八月二十七日、施設の第一号として大森海岸の料亭「小町園」が指定され、以後続々と作られた。要するに国立の売春所である。

     世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋をつくるというような例が――。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。(中略)
     戦争は負った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐兵御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。(高見順『敗戦日記:』

     ロダンの目的は平和島観音であった。昭和三十五年(一九六〇)に建てられた観音である。ロダンは丁寧に一礼する。
     「戦時中、捕虜収容所のあった場所です。大森収容所。」屋根にPWの文字を大きく書いていたので、空襲にも逢わず、米軍の航空機は却って捕虜への支援物資を投下した。「PWって何だっけ?」スナフキンがスマホを検索する。」正式にはPOW(Prisoner of War)であった。「八月十五日の時点で、アメリカ人四百三十七人、イギリス人百十五人、カナダその他が六十四人、合わせて六百六人いました。」
     ロダンが見せてくれた当時の写真を見れば、ここが本当に島だったことが分る。橋一本でつながっているのだ。この島は昭和十五年頃から埋め立てが開始されたものの、戦争の激化で中断していたらしい。そこに東京俘虜収容所本所を建てたのである。この近辺では、大船収容所、川崎分所、川崎扇島分所、横浜分所などがあり、京浜工業地帯の労働につかせた。
     日本軍に捕らえられた連合軍捕虜が虐待されたかどうか、私には知識がないが、関連した軍人二十八人がBC級戦犯として処刑された。大岡昇平『俘虜記』に見るように、連合軍に捕らえられた日本人俘虜は豊富な食料を与えられてぬくぬくと暮らした。それに比べて日本軍に捕らえられた俘虜に対する食糧が不足がちだったのは当然だろう。たとえ日本人並の食糧が与えられたとしても、それを虐待と感じる者がいても仕方がない。牛蒡を出して、木の根を食わせたと訴えられたと言うのは何かで読んだことがある。何よりも国力が違っているのであり、食料は欠乏していた。
     それに、戦陣訓は日本兵士が捕虜になることを想定せず、当然、捕虜に対するジュネーブ条約の保護規定も教育もしなかったから、捕虜は恥ずかしいものであると言う観念が蔓延していた。軍隊では暴力が日常茶飯事だったから、捕虜に対しても同じように暴力を振るったに違いない。
     しかし長谷川伸は戦後、日清日露戦争の時代、日本人は俘虜に対してどのように丁重に遇してきたかを克明に調べて『日本捕虜志』を書いた。その時代に比べて、太平洋戦争時の日本人の俘虜に対する扱いは驚く程低下しているという判断だった。参考までに「捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーブ条約」の一部を惹いておこう。日本語訳は防衛省である。

     第十三条〔捕虜の人道的待遇〕
     捕虜は常に人道的に待遇しなければならない。抑留国の不法の作為又は不作為で、抑留している捕虜を死に至らしめ、又はその健康に重大な危険を及ぼすものは、禁止し、且つ、この条約の重大な違反と認める。特に、捕虜に対しては、身体の切断又はあらゆる種類の医学的若しくは科学的実験で、その者の医療上正当と認められず、且つ、その者の利益のために行われるものでないものを行ってはならない。
     ②また、捕虜は、常に保護しなければならず、特に、暴行又は脅迫並びに侮辱及び公衆の好奇心から保護しなければならない。
     ③捕虜に対する報復措置は、禁止する。

     第十四条〔捕虜の身体の尊重〕
     捕虜は、すべての場合において、その身体及び名誉を尊重される権利を有する。
     ②女子は、女性に対して払うべきすべての考慮をもって待遇されるものとし、いかなる場合にも、男子に与える待遇と同等に有利な待遇の利益を受けるものとする。
     ③捕虜は、捕虜とされた時に有していた完全な私法上の行為能力を保持する。抑留国は、捕虜たる身分のためやむを得ない場合を除く外、当該国の領域の内外においてその行為能力に基く権利の行使を制限してはならない。

     第十五条〔捕虜の給養〕
     捕虜を抑留する国は、無償で、捕虜を給養し、及びその健康状態に必要な医療を提供しなければならない。

     「戦後は一時期、A級戦犯が収容されました。」私は最初から巣鴨プリズンだと思っていた。東条英機は横浜の大鳥国民学校内に開設されていた米第九十八野戦病院第三十号室で治療を受け、更に米第四十三陸軍野戦病院に移ったのち、十月七日に大森捕虜収容所に移送された。巣鴨に移されたのは十二月七日である。
     これを記憶するために平和島と名付けられたのだが、そんなことは全く知らなかった。競艇に来る連中はこれを知っているだろうか。

     競艇場の入口付近はドンキホーテや映画館も入るビッグファンと言う大きな商業施設になっている。「驚安って書いてるよ。」ドンキホーテの入口の宣伝文句だ。競艇の他、温泉、映画、カラオケなどがあるから土日は混雑するかと思いきや、今日はそれほどの人がいない。「雨だからだよ。」
     「競艇って公営でしょう?」「私営のギャンブルなんかないよ」と言ってしまったのは私の無知のせいである。美濃部亮吉以来、二十三区が運営するギャンブル場はない筈だ。しかしここは京急開発株式会社の所有だから私営である。競艇と言えば笹川良一の船舶振興会とばかり思っていたが、これは知らなかった。そもそも
     但し競馬場を所有運営する日本中央競馬会は、日本政府全額出資の特殊法人だから公営である。競輪は地方自治体の主宰になるので公営だ。そもそも博奕は胴元が必ず儲かるようにできていて、現在でも二十五パーセントは胴元に入る。競艇について言えば、そのうち七パーセントが開催地の地方自治体に、残りが日本財団に入る。
     「ボートレースって面白いのかな?」私にも分らない。最近テレビCMが競艇や競馬を盛んに取り上げているのを腹立たしく感じている。
     昭和二十六年(一九五一)モーターボート競走法が公布され、京急開発が大森海岸の営業権を獲得、二十八年(一九五三)には隣接地の埋め立て権を獲得して営業を開始した。たまたまボウリングしていて温泉が湧き出したので三十二年には平和島温泉も開業して、一大レジャーランドと化したのである。

     「それじゃ食事にしましょう。二階にサイゼリアがあるんですが、一階を見てみましょうか。」奥はフードコートになっている。「ここで定食もやってるよ。焼き魚定食とか。」入口付近にあった店だ。「それじゃそこにしましょう。」海鮮処・壱番屋である。
     姫はミックスフライ(九八〇円)、私はアジフライの定食(七八〇円)、桃太郎は天丼(九八〇円)、残り三人はチラシ丼(七八〇円)を選んだ。そうか、ここは寿司屋だった。私も海鮮チラシ丼にすれば良かったかな。値段もお手頃なのだ。
     ビール中瓶二本を六人で分け、飲み終わった頃に料理が出てきた。海鮮チラシは旨そうだ。天丼は山盛りだし、アジフライはかなり大きなものが二尾付いている。「ミックスフライもボリュームがあります。」旨い。「私のアジフライが大きすぎるから交換してください。」しかし姫のアジフライも私のも同じ大きさだ。それでも姫は「違うと思いますよ」と言い張るので交換した。満腹した。普通はこんなところまで来ないが、しょっちゅう行き来する場所にあれば、この店はお薦めである。
     「笹川の像がある。」「田町の笹川記念財団にもあるだろう。」例の笹川良一が老母を背負った像である。「日本財団でしょう?」笹川良一の死後、笹川色を薄めようと改名したのである。「曽野綾子が理事長やったでしょう。なんだか結びつかないけどね。」曽野綾子は今やウルトラ保守的な発言でしか注目を集めない。それを考えれば笹川良一とはそれほど違っている訳でもないだろう。
     先に引いた高見順日記は、「銀座松坂屋の地下にRAAのキャバレーの看板を見た時の感想だった。

     ・・・・・「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。(中略)
     ・・・・・日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは特記に価する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊王攘夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に価する。(高見『敗戦日記』)

     右翼結社の頭目には笹川良一もいた。国粋大衆党(後、国粋同盟)の笹川は昭和二十年九月十八日、大阪でアメリカン倶楽部という名の特殊慰安所を開業した。念のためにネットで笹川良一を検索すると、意外にも好評価の記事が多いので驚いた。今時の若い連中はこれで騙されてしまうだろう。児玉誉士夫が何故笹川に取り入ったか。笹川がどんなことをして資金を溜めこんだか、それを抜きにして、戦後のボランティアやハンセン氏病撲滅運動、一日一善運動を評価しても仕方がないのだ。
     「丁度暑い日ならいいと思ったんですけど。」そうロダンは言いながら平和の森公園の中に入る。「通り抜けるだけです。」新緑は美しいが立ち止る気にはなれない。雨は依然として振り続け、靴の中に沁み込んで来た。東海道に戻れば大森神社だ。大田区大森北六丁目三十二番十二。祭神は久久能智命という私の知らない神である。木の神らしい。

     伝説によると昔このあたりが海辺であったが、ある時海上に金色の光が輝き(弥陀の像ともいう)波のまにまに浮んで岸辺に流ついた。里人達は畏れてこの像を沖へ押流したが、再び元の場所に流れつき、押流すこと三度に及んだ。なおも元の場所に寄り来たるので、この像を社を建てて祀ったのが当社の起源だといわれている。そのためこの社を寄来明神と称し、また寄来神社と称した。また流れついた里を美原の里(美原通りのあたり)と呼ぶ呼ぶようになったといわれている。(「大田区の神社」より)

     境内は狭く、見るものは少ないが、拝殿前に立つ唐灯籠は珍しい。境内の奥を京急線の高架が走っている。ちょっと路地に入り込むと王森稲荷だ。「ここは大じゃなくて王なんだね。」

     当社社記に依れば天保年間武蔵國六郷領東大森美原の里内川の耕地に貝塚あり松欅茂れる処に小祠あり王森稲荷神社と称し諸人奉斎せしが此の頃農作物不作に悩める住民集まりて当社に豊作の祈願をなしたるところ其の後年々五穀豊穣となり土地大いに賑えり依って諸人の神徳を崇め五穀豊穣の神として不入斗村鈴ヶ森の神主森田左京衛に依頼し社殿を建立し一層崇敬の念を深める。(由緒より)

     この道は三原通りと名付けられている。字の南原、中原、北原を三原をと言い、それが美称として美原になった。大森東一郵便局には暖簾がかかっている。その向かいにあるのは「撫愛荘」というたこ焼き屋だ。「ブアイソウだってよ。」
     津島神社。大田区大森東一丁目八番十五。「津島神社って何ですか?」余り見かけない神社だが、本来は牛頭天王社である。拝殿の左に「蘇民将来子孫也」とあるのがその証拠だ。「それは何ですか?」
     牛頭天王(武塔天神)が嫁を探すために眷属を率いて旅をしていて夜になった。裕福な巨旦将来の家に宿泊を頼むと断られ、兄で貧乏な蘇民将来が喜んで引き。受けてくれた。牛頭天王は破壊の神である。「俺はこれからこの辺りを亡ぼす。お前の子孫が茅の輪を作り蘇民将来の子孫だと掲げていれば、そこだけは破壊しないで済ませてやる。「そう言ったんだよ。」茅の輪の誕生説話にもなっている。
     牛頭天王は朝鮮半島から来た破壊と疫病の神である。朝鮮半島から戻って来たのはスサノオ(新羅に行っていた)だから、スサノオをと習合する。高天原を追放されたスサノオはソシモリに降臨したものの、それが嫌で出雲に戻ったとされるのだ。それを祀ったのは牛頭天王社であり、明治の神仏分離後、祇園、八坂、対馬、須賀、八雲などに名前を変えた。
     享保元年(一七一六)創業の「餅甚」で姫はあべかわ餅を買う。「大森名物名代あべ川餅」の幟が立っている。そもそも、あべかわ餅とは何であるのか私は分らない。ブリタニカ国際百科事典にはこう書いてある。

    静岡市の名物。柔らかい餅に黄粉をまぶし,上から白砂糖を掛けた食べ物。徳川家康が慶長年間 (一五九六~一六一五) に笹山金山などの御用金山に出向き、安倍川のほとりで休んだおり、つきたての餅に豆粉をまぶしたものを出された。この豆粉を金山からとれる金の粉にひっかけて「金な粉」と称したのを大いに気に入り、家康が「安倍川餅」と命名したといわれる。以来安倍川のほとりの弥勒には安倍川餅の店が並ぶようになった。

     「アベカワって静岡だろう?」なぜ、ここであべかわ餅なのか。実はこの店の先祖は駿河の出であった。

     元祖甚三郎が駿府駿河の国安倍川のほとりより居出て武蔵の国大森の地に茶店を開き、東海道を往来する旅人の疲れを癒す為、一辺の餅に特製のみつと黄名粉をかけ、茶を添え、旅情を慰めたのが始めです。

     「ここが羽田道(するがや通り)の入口なんですよ。」以前、ロダンが羽田を案内した時に出てきた道だ。するが屋と言う旅籠があったと言うが、東海道からここで分岐して羽田弁天や川崎大師に向かう道だった。この駿河屋は黙阿弥の『浮世塚比翼稲妻』に登場するらしい。

    「不破・名古屋」の『鞘当』と「権八・小紫」の情話を綯い交ぜにした作品です。初代團十郎の当り役「不破」を復活してみたいと言う七代目團十郎の要望に沿って南北が書き下ろしたものです。南北は、山東京伝の読本『昔話稲妻表紙)』(文化三年[一八〇六年])をもとにして、「あざ娘」の趣向を書き下ろしました。(日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー」
    http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc15/sakuhin/p6/)

     幡随院長兵衛や白井権八、名古屋山三などが登場するらしい。私は歌舞伎は門外漢だが、時代考証が無茶苦茶である。
     内川に沿って歩く。「アッ、鳥が。」「アオサギですね。」海難供養塔。大田区大森東一丁目二十七番。安政二年(一八五五)建立の大きな五輪塔だが、風輪、空輪の形がちょっと変わっている。
     そしてロダンは大森ふるさとの浜辺公園に入っていく。内川の河口部分を埋め立てた人工の浜辺で、都内初の区立海浜公園だそうだ。但し水質が悪く遊泳は禁止されている。「晴れていれば良かったんですけどね。」今日は誰もいない。「カヌーのおじさんがいるよ。」
     「そこの売店で休憩しようよ。」靴の中が気持ち悪い。それに少し寒くなってきた。レストハウスというのが正式名称のようで、売店は開いていない。若い衆数人が屯している。「今日は休憩しなかったものね。」ジャンバーを着込み、配られた煎餅を戴く。この連中はビーチバレーをしていたらしい。
     大森海苔のふるさと館。大田区平和の森公園二丁目二番。実は私は余り期待していなかったのだが、実に有益であった。
     ベカ船を載せた海苔船「伊藤丸」が展示されている。沖合まではこの船で行き、養殖場に到着してからベカ船を下ろすのだ。
     

    浅草海苔 大森・品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古かしこの海に産せしゆゑに、その旧称を失はずしてかくは呼び来たれり。秋の時正に麁朶(粗朶)を建て、春の時正に止まるを定規とす。寒中に採るものを絶品とし、一年の間囲ひ置くといへどもその色合ひ風味ともに変はることなし。ゆゑに高貴の家にも賞玩せらるるをもつて、諸国ともに送りてこれを産業とする者夥しく、実に江戸の名産なり。(『江戸名所図会』)

     海苔作りは享保(一七一六~一七三六)頃、品川から大森周辺の海岸で始まった。それを浅草で精製販売したので浅草海苔の名が付いた。幾つか説があるが、これが本当だろうと学芸員は推測する。浅草海苔の名が生まれたことにより、その海苔の種類をアサクサノリと称するようにもなる。東京湾の埋め立てに伴い、昭和三十八年(一九六三)に生産が中止された。アサクサノリ(ウシケノリ科アマノリ属)は絶滅危惧種である。現在養殖海苔の主流派スサビノリ(ウシケノリ科アマノリ属)という。「韓国海苔は?」「種類が違います。」韓国で好まれるのはオニアマノリ、マルバアマノリ、ツクシアマノリだという。
     『嬉遊笑覧』によれば、かつての海苔は赤みが買った色だったらしい。

     むかしのは今とは色も異なり。『寛永料理集』、「甘苔、ひや汁・あぶりさかな。浅草のり、右同前。色あかし」と有。また『東海道名所記』に、「品川苔とて名物也。色赤く形とさかのりのちいさきもの也」といへり。(中略)その色うす紅の如く、白き磁器に入るゝに、紅色その器につう。むかしの浅草海苔是なるべし。

     冬の海中の作業は厳しいが、その冬季の作業着も展示されている。紺地の多少厚手のものだが、刺し子でもなく、現代人にはとても耐えられない。健康を害す人も多かったのではないか。
     ヒビの実物を見たのは初めてだ。「これが日比谷の由来だよ。」「そうですね。」「日比谷の字は当て字だからね。」『南総里見八犬伝』に「その海苔を採るに、波打ち際より十数間水中に多く柴を建てて、かきの如くになしおけば、波にゆらるる海苔日日この柴に掛るを採ってすき且乾して売るを地方の名産とす」とあって、粗朶柴をヒビと言うようになったと言う。つまりヒビは「日々」である。
     そのヒビを海中に突き立てるための、背の高い下駄もある。「波に向かって、後ろずさりに植えていくのです。」

     海苔養殖は自然頼みの職人芸として、江戸時代から明治維新過ぎまで、ほとんど変わらない形で受け継がれたのだが、その海苔養殖の方法を画期的に変化させる発見が、明治十一年(一八七八年)に、上総海苔の大産地だった千葉県君津郡でなされた。この年の秋に、芽はよく付かないが品質のよい海苔が育つ河口域で、立てたばかりの粗朶が暴風で多く流失したため、芽は濃く付くが品質のよい海苔は育たないという場所から粗朶を移植したところ、良質の海苔がそれまで見たこともないほどによく繁茂したという。これは後に言う「胞子場(たねば)」の最初の発見だったのである。
     江戸時代から続いた海苔養殖では、粗朶を移植することはなかったので、たまたま行われた暴風被害対策としての粗朶移植が大発見をもたらしたということになる。この大発見の主は、青堀町に住む平野武次郎という人で、普段からいろいろの工夫を試みていたという。しかしこの発見は「企業秘密」とされたらしく、約20年後に、我が国の藻類学の創始者である岡村金太郎博士の勧めによって、ようやく公表されることになった。
     粗朶移植の成功は、それまで「木の皮と肌との間から海苔はわき出てくる」と信じていた漁業者達に「タネは限られた場所から流れてきて粗朶に付く」と気付かせることになった。その頃から大正にかけて各地に設立された水産試験所(現在では水産試験場)などの指導で、胞子場(たねば)が開発され、粗朶の移植も進んだが、いったん胞子場へ植えたあとに引き抜いて養殖の適地へ運んで植え直すという作業が必要になってからは、それまでの「ひび」としての粗朶は非常に扱いにくい存在となり、移植に適した「ひび」の開発が大きなテーマとなった。
     実際に「ひび」の改良が始まったのは、昭和に入った一九三〇年前後頃からである。我が国と同様に海苔を養殖していた朝鮮半島では、早くから竹製の「すだれひび」が広まっていた。「大日本帝国」の統治下にあった全羅南道水産試験場の金子政之助という人がそれを改良して、割竹を簀の子状に編んだ「ひび」を水平に吊す方式を考案し、実際の養殖試験でもよい結果が得られた。(一般財団法人海苔養殖協会・横浜康継「養殖海苔――古今東西」
    http://www.nori.or.jp/essay/essay_002-4-2.html)

     ウィキペディアその他、紙海苔は紙漉きの技法の応用だと書いているが、「紙漉きではありません。それだと厚さが均一にならないのです」と学芸員は断言する。採取した海苔は細かく砕いて水に溶かす。そして底に簾を敷いた十九センチ×二十一センチの木枠に、海苔の水溶液をぶつけるのである。厚さを均一にするには職人技が必要だろう。この枠を障子の枠のように並べたものを日に当てて乾燥させる。これは『江戸名所図会』にも出ているから、江戸時代からのものである。なかなかためになる社会科見学だった。
     現在、全国の海苔の生産量は百億枚を切る程度らしいが、その半分は九州で採れる。平成二十一年の統計では佐賀有明が二十二パーセント、福岡有明が十四パーセントを占めるのだ。「海苔で御殿を建てたやつもいるよ。」最近は生産量が落ちてきて、相対的に値段も上がっているらしい。
     お土産に、十枚七百円の海苔を買った。「実質は五百円程度ですが、包装の絵などが自慢」という高級品である。
     平和島駅に着くと一万五千歩だった。最初は蒲田にしようかと言っていたが、結局新橋にした。着いたのは四時頃だ。「天狗」に入る。学生時代、懐に余裕のあるときには池袋の天狗に良く行ったものだ。ビールは天狗特製の地ビールを頼んだが、ロダンやヤマチャンには余り好評ではなかった。焼酎は薩摩おごじょ(初めて飲む)を二本。クリームチーズの味噌漬けが上手い。最後の焼そばはちょっとしょっぱ過ぎた。三千円なり。

     海苔は旨かった。今まで知っている海苔と比べて香りとコクが全然違うのだ。酒のつまみに良く合う。酒は知り合いに貰った金鵄正宗で、久し振りに息子と飲んだ。この海苔を孫の誕生日の手巻き寿司に使ったのはちょっと勿体なかった。
     森友問題を野党は徹底追及できず、マスコミもきちんと批判できていない。加計問題もうやむやにされてしまうか。その中で共謀罪法案が衆院法務委員会で強行採決された。安倍一強政権の下でもはや国会は機能していない。そしてトランプは権力分立と言う民主主義の根本原理さえ知らない。


    蜻蛉