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    第七十一回  箱根旧東海道と杉並木、箱根関所跡
    平成二十九年七月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.07.16

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     九州北部では記録的な豪雨で甚大な被害が出た。この所、西日本は毎年のように「記録的な」大雨に襲われ、山は崩れ家は流される。それと対照的に、埼玉県では梅雨入り後まともに降ったのは三日程度であり、荒川水系に取水制限が出る程雨が少ない。もはや地球気候ははっきりと変わったのであり、これからも「記録的」「未曾有」の事態は頻発するに違いない。
     旧暦閏五月十五日。小暑の初候「温風至」。スナフキンは雨なら順延と考えていたが、今日もその心配はなく暑くなりそうだ。団地の前の調整池にはピンクのハスが咲いている。

     いつもより一時間早く起きたから眠い。妻が旅行中なのでファミリーマートで弁当とお握り二つを買って、保冷剤を入れたクーラーバッグに収納した。ついでにペットボトルのお茶を二本。「早いじゃないの、どこ行くの?」「箱根だよ。」今日の昼食は一時を過ぎる予定なので、お握りは途中で腹に入れるためである。
     鶴ヶ島を六時四十九分発の急行に座ってウトウトする。池袋から新宿に回り、七時五十一分発の小田急線小田原行きの先頭車両に乗りこんだ。皆もこれに乗るだろうと思っていたのに誰の姿も見えない。実は湘南新宿ラインで小田原まで直行するのが一番早いのだが、六百円も違うのです。お金持ちはそちらのコースを選んだのかも知れない。
     旅のお伴にと折口信夫『古代研究Ⅴ 国文学篇一』を持ってきたのは失敗だった。全く頭に入ってこない。『古代研究』シリーズは、新しく安藤礼二の解説を付して角川ソフィア文庫が復刊していて(今月末か来月初にⅥ巻が出て完結予定)、最近のKADOKAWAでは珍しく素晴らしい企画なのだが、何しろ折口信夫は難しい。森まゆみ『青鞜の冒険』も、平塚らいてうがどうしても好きになれず、前に進まない。
     呆然と一時間も座り続けると腰が痛くなるので、時々立ち上がって腰を伸ばす。急行だが、本厚木を過ぎると各駅に停まり、愛甲石田、伊勢原と大山街道で歩いた駅を過ぎて行く。新松田からは五駅を飛ばして九時二十四分に小田原に着く。目の前に停車している九時半発の箱根登山鉄道に乗って、予定通り九時四十五分に箱根湯本に到着した。片道千八百五十三円。
     トイレを済ませて改札に行くともうみんな集まっている。「一番遅いよ。」「だって予定通りだろう。」「万一のことを考えて普通は一つ早いのに乗って来るのよね。」リーダーのスナフキン、ヨッシー、マリオ、ロダン、桃太郎、マリー、蜻蛉の七人だ。マリーと桃太郎はJRで来たと言う。「赤羽で乗って爆睡しちゃったわよ。目が覚めてもまだ小田原に着かないのよね。」小町とあんみつ姫は七曲りの坂をパスして甘酒茶屋で落ち合う予定だ。これ以上は参加しないと分っているから十時を待たずにバス停に向かう。
     箱根湯本は奈良時代に開かれたと言う日本でも最古の温泉場である。湯本熊野神社の社殿下には天平十年(七三八)、釈浄定坊が発見したと言われる「惣湯」が残っている。江戸時代後期には箱根七湯として観光地化され、各地から訪れる湯治客で賑わった。天保十二年(一八四一)「諸国温泉効能鑑番付では、東の大関は上州草津の湯、西の大関は摂州有馬の湯。相州芦之湯は東前頭二枚目、湯本温泉は前頭九枚目となっている。

     兼て温泉に行度と思ひけれと時節来らす、心願のみにて其事もはたささるに、こたひはせいぜい行はやと思ひけれとも、かまくらさえも参詣成かねし事なる温泉に行度とも云出かねなからも、延岡へ行ては猶々行かねしまま湯本迄行は湯之有宿に休に成候ははせめて其やうす計も見度と申出たる所、温泉場は通りより入込し所なれと近き所にも有ゆへ少しのまはりゆへ夫にて昼休にせんとの事、嬉しくて段々山中を行に・・・・・・(内藤充真院繁子『五十三次ねむりの合の手』)

     繁子は井伊直弼の異母姉で、日向国延岡七万石の藩主内藤政順の夫人となった。文久二年(一八六二)大名の妻子帰国令によって、東海道を延岡まで下った。参勤交代の緩和と大名妻子の帰国許可は、幕府法制の根幹を変更する大変革であり、崩壊の第一歩であった。この時、一橋慶喜が将軍後見職に、越前福井の松平春嶽が政事総裁職に任命されている。
     小田原城下を離れて箱根の山道に入った時には、もはや江戸も見納めと袖を涙に濡らした充真院繁子だったが、湯本で生まれて初めて温泉に入れることが分って嬉しくなる。福住と言う家で、その宿の様子を絵入で克明に記している。
     帰国許可と言っても実は命令に等しかった。江戸生まれ江戸育ちで、延岡は何も知らない土地である。夫の内藤政順は既二十八年前に死んでいる。

     おほやけの命におふじ、去年の冬より諸家の奥向わが国へこせよとの仰せにて、なれし東を跡にして立せ給ふ、我身も上の仰故行よとの事にしあれど、老に成までひとたびも東をはなれし事もなく、はるばるの遠き旅路もうき事と思ひつれど、何れとかいひなして立出る事をのばさばや、其うちには世の中のふりもまたかわるべきものと思ひしかど、・・・・

     出発を延ばそうかと思ったが、世間は騒々しく、戦も始まるような気配を感じて出立した。この時、繁子は六十四歳で当時としては老齢だが、知的能力と好奇心は驚くべきものだ。時々は籠を降りて歩いてはどうか、その方が疲れないと薦められても、繁子は殆どの行程を駕籠に揺られて東海道を行く。孫の光姫も同行している。
     『延岡藩主夫人内藤充真院繁子道中日記』(明治大学博物館)はあんみつ姫に貰ったのだが、そのすぐ後、神崎直美・城西大学准教授にその著書『幕末大名夫人の知的好奇心――日向国延岡藩内藤充真院』を戴くと言う幸運に巡り合った。大学図書館で働いていて教員と知り合うと、こういうことがある。

     十時十分発のバスまで十分以上時間がある。いくつかルートがあって、他の路線はかなりの客が並んでいるのに、四番線(元箱根港・箱根町行き)に立ったのは私たちだけだ。「下見の時は一杯だったんだよ。これじゃ貸切になっちゃうんじゃないか。」それでも列は少しづつ長くなってくる。湯本富士屋ホテルの右の山の上に白い雲がひとつ浮かんでいる。タバコを吸い、朱塗りの橋や山を撮っていて気が付くと、今までいなかった大柄な白人女性が先頭に立っている。何だろう、このオバサンは。同伴者と思われる女性はちゃんと最後尾で待っている。
     バスはほぼ満席になった。アジア系の若い男女も乗っている。窓からは旧道を歩く姿も数人見かけたが、この辺の狭い道は歩道もなく、バスを避けながら歩くのは大変だ。須雲川に沿って神奈川県道七三二号(旧東海道)を二十分弱走って畑宿に着いた。三百九十円。
     ここの景色には見覚えがある。実は今回のコースは一度歩いているのだ。「いつ頃?」「三年前の十一月」と私は思い込んでいたが、実は四年前の十月であった。翌日八十歳の誕生日を迎える(とは当日知ったのだが)藤木久志師を囲んで、ゼミ仲間七人が箱根ホテル小涌園に集まることになり、その中の男二人女二人が雨の中を畑宿から箱根関所まで歩いたのだ。

     畑宿は湯本と箱根の間の宿で、箱根寄木細工発祥の地である。一つ前の停留所が本陣前で、そこからこの辺まで寄木細工の店が並ぶ。バス停のそばには金指寄木工芸館、寄木細工すずきやがある。

     寄木細工の誕生は、十七世紀半ば、駿府の浅間神社建立にあたって全国から集められた職人によるものと考えられています。それからおよそ二百年間、寄木細工の技術は静岡で発展しました。
     江戸時代中期になると箱根地方は湯治客で賑わい、土産物としての箱根細工は大変な人気を博すことになります。そのころには従来の挽物細工のほかに、指物細工も多く作られるようになりました。そして江戸時代後期、畑宿に生まれた石川仁兵衛(一七九〇~一八五〇)が静岡から寄木細工の技術を持ち帰り、それを取り入れた指物細工を作り出します。箱根寄木細工の誕生です。その後、畑宿で脇本陣だった「つた屋」の金指松之助なども加わり、寄木細工は畑宿で発展してゆきます。(「箱根寄木細工の歴史」
     http://www.kanazashi-woodcraft.com/history.html

     箱根には九世紀の小野宮惟喬親王に由来する木地師の伝承があり、木地細工そのものは中世から盛んだったようだ。惟喬親王は一種の貴種流離譚の主人公で、全国の木地師が奉戴している。秋田の木地山系こけしにもその伝承がある。

     畑の小休に附座敷へ上りぬれは座敷には色々なるぬり物品又木地なろも有、又かwゆらしき子供の手遊やうの品もならへ付有とよきと思へる品もあれと、長の旅時荷に成ゆへに少し計整見すくす、・・・・・ゑんかはは木地をぬりてつるつるとし用所杯は皆よせ木、・・・・(内藤充真院)

     県道が大きくV字にターンするところを真っ直ぐに、「寄木細工畑の茶屋」の脇と守源寺(足柄下郡箱根町畑宿一六七番地二)の石段の間を通る狭い道が旧東海道だ。「箱根路東海道の碑」が立っている。「守源寺は寄らなくて良いだろう?」箱根七福神の大黒天を祀っているが他に見るべきものはなさそうだ。
     大黒天と言えば、図書館で偶然発見した弥永信美『大黒天変相――仏教神話学1』は驚くべき本である。ヒンドゥーのマハーカーラ(シヴァ神)が仏教の守護神に取り入れられ、それが日本の大国主と習合したと言う程度が私の浅薄な知識だったが、大黒天はそれどころではない変容を繰り返している。破壊と憤怒の神がなぜ福の神になるのか。著者はペルシア、インド、チベット、中国、日本の仏典や像容を博捜してその変容過程を追っていく。ヴァイシュラヴァナ(毘沙門)、ダーキニー(荼枳尼天)、ハーリティー(鬼子母神)、ガネーシャ(歓喜天・聖天)、そして大きな袋を担ぐことでは布袋も無縁ではない。
     本文六五〇ページ、一万五千百二十円の本だからとても買えないので、今月いっぱい借りている。しかしこれは著者による当初計画の前半部分に過ぎず、後半は『観音変容譚』として刊行されている。日本独自のものだと思っていた神仏習合も、アジア全域に及ぶ考察が必要なのだ。
     末木文美士が次のように絶賛しているのも珍しい。末木は『日本仏教史――思想史としてのアプローチ』で私を啓発した人で、仏教思想史の専門家である。それが「我が身の非力と不勉強をまざまざと思い知らされ」とまで言う本なのだ。

    氏の学業に多少なりとも近づきたいと願っていたものにとって、二巻の大著の完成はこれ以上ない喜びである。しかし、総計千五百頁を超える大著に圧倒され、目くるめく仏教神話の世界に幻惑されると、我が身の非力と不勉強をまざまざと思い知らされ、到底書評者としての任を果たせそうにない。そもそも「仏教神話学」という言葉自体が「耳慣れないことば」(Ⅰ・一一頁)であり、「ほとんど未開拓」(Ⅰ・一五頁)の分野である。著者はたったひとりでその巨大な宇宙大の山に挑み、一歩一歩足下を踏み固めながら、前人未踏の地に足跡を印していく。

     これは余計なことであったが、私の作文自体が余計なことばかりなので勘弁して貰おう。
     すぐそばには畑宿の一里塚がある。日本橋から二十三里、湯本から一里の地点だ。林に囲まれていて、これでは目立たないかとも思うが、街道の両側に綺麗な塚が築かれ、右にモミ、左にはケヤキが植えてある。これは発掘調査の上で元通りに復元したものだ。直径五間(九メートル)の円形に石を積み、更に小石を盛り上げ、表層に土を盛って塚を築くのである。湯本から箱根までの箱根道には三つの一里塚があったが、こうして残しているのはここだけだ。
     旧東海道は不規則な石畳の坂道になっている。一辺三十センチ程の石は角が磨り減って丸くなっているが、表面はデコボコして歩きにくい。石を敷く前は箱根山に群生している通称「箱根竹」と呼ばれる細竹を敷いていた。更にそれ以前は雨が降れば脛までつかる泥道になったと言う。しかし竹は腐るから毎年敷き替える手間(助郷による労力負担)と費用(奥伊豆村の負担)が莫大で、そのため延宝八年(一六八〇)に千四百両余りをかけて石畳に改築した。その建設費のほとんどは、奥伊豆の村々が「石道金」として毎年百両を負担したと言う。竹敷きの時も毎年百両以上の負担を強いられていたから村にとっては同じことだったが、こうした国家的なインフラ整備も幕府が金を出す訳ではないことを覚えておいて良い。
     しかし土は流れるから、石畳でもメンテナンスは欠かせなかった筈だ。その後何回かの改修が行われ、現在の石畳は文久三年(一八六三)の十四代将軍・徳川家茂上洛に際して整備されたものだ。家茂上洛の際の総勢は「凡三千人とそ聞へし。其内百人計り騎馬衆。銃手大小隊凡七百人計り」であった。この道を三千人が通るのだから容易ではない。
     「石は大八車で運んだのかな。」大八車は坂道を通れない。「モッコで担いだんだと思うよ。」兵站を全く考えなかった太平洋戦争の南方戦場でも、人跡まれな山や森の中を蔓を払い枝を切って、日本軍兵士は人力によって重い荷を運んだ。石の表面には緑の苔が付着していて滑りやすい。「昨日、雨が降ったんじゃないか?」そう言われれば多少濡れているような気もする。「昔の人は草鞋だったから尚更大変だったでしょうね。」何より足の裏が痛いと思う。
     斜めの排水路がはっきり分る。道を斜めに横切って水を沢に落とす工夫だ。「江戸の土木技術もたいしたもんですよね。」ロダンはこういうものが大好きだ。

     排水路は、上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに敷き、段差を造り出すというかたちをしています。水は、この大きな石の側面を伝わり、並木敷土手の外にある沢へと流れ出すようになっている。(箱根町教育委員会掲示)

     「西海子(さいかち)坂」と刻された、細長くて斜めに少し曲がった石碑が建っている。結構急な坂が終わって県道に出ると、ここから七曲りに入る。「これより一・二キロの間七曲り 上り勾配一〇・一%」の標識がある。そのヘアピンカーブが続く登り道をショートカットして、ほぼ一直線で上れるよう何ヶ所かに階段が作られている。しかしこれは話が逆になるか。石段(坂)が先にあって、県道は後から作られただろう。
     石段を上り、県道に出るとまたすぐ石段だ。県道に出ると少しほっとする。土手にはアジサイが咲いていて、箱根のアジサイはちょうど今が盛りのようだ。やはり標高が違う。ヨロヨロと車道を上る自転車の脇を車が通って行く。「もう一台。」マリオも自転車を数えていた。
     橿(かし)の木坂の停留所。「柿の木坂は知っていても橿の木坂は知りませんよ。」青木光一『柿の木坂の家』(船村徹作詞・石本美由起作曲)は名曲だが、ロダンの冗談に笑えるのもここまでだ。ここから最長の石段が続く。

     『新編相模国風土記稿』に「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあります。『東海道名所日記には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。
     「橿の木のさかをこゆればくるしくて どんぐりほどの涙こぼる」と書かれています。(案内板)

     元は単なる坂道だっただろう。鬱葱と茂る山の石段に入るとすぐ、藪の中に「橿木坂 登五町許」の石標が埋もれそうに立っている。登り五町ばかり。一町は百九メートルだから五百五十メートル程の坂になる。県道なら一・二キロの所をその半分の距離で行くのだから、勾配がキツイのも無理はない。
     「これは小町もあんみつ姫も無理だよな。」首筋を汗が流れ落ちる。「滑るから気を付けて。」いったん県道に出てまた石段に取り掛かる。脹脛が張って来た。見上げても頂上が見えないのが辛い。手摺につかまらないと足が縺れそうだ。胸突き八丁とはこのことではあるまいか。
     漸く上りが終わって見晴橋で息を整えお茶を飲む。橿木坂に取り掛かってから十分。ドングリ程の涙は出なかったが汗は大量に出た。「下りは経験したけど登りはキツイ」とマリオも息が上がっている。七十九歳のヨッシーが一番元気だ。さすがに月に一回は高尾山に登る人である。しかし暑い。ヨッシーは日焼け止めクリームを塗り直している。「塗っても汗ですぐに流れちゃう」と言うマリオも塗ってきたらしい。「タバコを吸ってる姿がいいね。吸いたくなっちゃう。」マリオがタバコをやめたのは定年で会社を辞めた時からだから、まだ十年も経っていない。
     畑宿一・五キロ、元箱根まで三キロ。実はここから猿すべり坂に続く旧道が分岐していたのだが、「旧箱根東海道」(新設歩道)」の「新設」の文字に惑わされて、そちらではなく見晴し台に向って県道に出た。但しスナフキンにとっては予定のコースだったようだ。
     二三分歩けば樫の木平の見晴台に出る。山は緑一色、リューイーソーだ(麻雀を知らない人には何のことか分からない)。日は照っているが、空は少し煙っているだろうか。
     腰より少し高い石の台の前面にあるプレートの文字は「貴方は今 歌っていますか 小澤征爾」である。最大の難所を過ぎて視界が開けると歌っても良い気分だ。これは箱根八里記念碑のひとつである。別の場所には井上靖「北斗闌干」、司馬遼太郎「幾億の跫音が坂に積もり 吐く息が谷を埋める 我が箱根にこそ」、東山魁夷「青山緑水」、大岡信「森の谺を背に この道をいく 次なる道に出会う為」、芹沢光次良「箱根路や往時をもとめ登りしに 未来の展けてたのしかりけり」等があるらしい。
     見晴し茶屋が開いている。足柄下郡箱根町畑宿三九二番地。箱根蕎麦を食わせる店だ。「下見の時にはやってなかったんだ。」四年前にもやっていなかったから、平日は店を閉めているのかも知れない。少し先の猿すべり坂のバス停の向かいの石段を降りてきた三四人が、道を横断して左の石段を下りて行く。
     これが猿すべり坂だったか。さっきの新設歩道はここに繋がっていたのだろう。階段がない頃は猿も滑り落ちた坂である。「最近も猿が出没するらしい」とスナフキンは調べてある。
     県道を渡って右の階段を上る。この階段はすぐ終わり、平地になった所に「須雲川自然探勝歩道」の大きな地図が建っていた。「現在地はどこですか?」「真ん中下のところ。」地図によれば甘酒茶屋はすぐそこだ。今は十一時二十分だから、私たちは一時間弱でここまで歩いてきたことになる。ほぼスナフキンの計画通りだ。
     親鸞聖人詠歌の石碑と、「親鸞聖人御旧跡 性信御房訣別之地」と彫られた大きな自然石が置かれている。「親鸞上人と笈ノ平」の説明板がある。変体仮名の歌は読めないが調べてみればこうである。

     病む子をばあずけて帰る旅の空 心はここに残りこそすれ

     東国布教は道半ばだとの思いであろうが、なぜこの時期に親鸞が京に戻ったのかは良く分らない。草稿状態の『教行信証』を完成させるため、あるいは望郷の念やみ難く等の説がある。
     親鸞の東国滞在は、越後配流を許されて三年後の建保二年(一二一四)から二十年間に及んでいた。文暦元年(一二三四)八月、六十三歳になった親鸞が都に戻る際にこの地で、弟子の性信房に東国教化の役目を託して涙の別れをした。その際に愛用していた笈を性信房に譲り渡したので、それが「笈ノ平」の地名になったと言う。
     性信房は常陸国に生まれて俗名は大中臣与四郎、若い頃は悪五郎と呼ばれる乱暴狼藉者であった。それが親鸞高弟「関東の二十四輩」の筆頭となり、下総国横曽根(茨城県常総市豊岡)に報恩寺を建立し、横曽根門徒を組織。後に親鸞が息子の善鸞と対立した時にはその調停役を務めた。その報恩寺は慶長七年(一六〇二)に江戸に移り、外桜田、八丁堀、浅草と移転し、文化三年(一八〇六)の大火の後上野に移った。この報恩寺が唯一、親鸞真跡の『顕浄土真実教行証文類』(略称『教行信証』)を伝えた。

     この脇から登る石段は追込坂。案内によれば、「ふっこみ坂」と呼ばれていた。「これを登るのかい?」最後のゆるい階段を上りきれば箱根旧街道休憩所だ。四年前は改築中で入れなかった。その奥に茅葺屋根の甘酒茶屋がある。神奈川県足柄下郡箱根町畑宿二子山三九五番地二十八。標高六九〇メートル。畑宿の辺りが約四百メートルだから、三百メートル程登って来た勘定になる。
     茶店は江戸時代から十三代続く。神崎与五郎が馬子の丑五郎に詫び証文を書いたと言う伝承があり、ご丁寧にも、その証文が隣の休憩所に展示されているらしい。しかし大高源吾にも同じ逸話があって(証文は三島の旧本陣家が所蔵)、韓信の股くぐりを講釈師がアレンジしたものだ。義士銘々伝中の大半の挿話はこの類であろう。これに因んで、この店では毎年十二月に「与五郎まつり」というものを開き、講談や河内音頭をやっている(今でも続いているかどうかは分らない)。
     十一時半。小町とあんみつ姫はまだ到着していない。店の外のテーブルの、切り株のイスに腰を下ろす。腹が減ったので、取り敢えず持参したお握りを一つ食べていると、それを見ていたロダンもお握りを食べ始めた。「まだ昼じゃないよ。」「だって蜻蛉が食べてるから。」「これはオヤツだよ。」「エッ。まだ昼食じゃないんですか。」「昼飯は遅くなるって言ってたじゃないか。」「勘違いしました。」
     「結構人が多いね。」「バスで来たんだな。」さっき登っていった自転車の男が小学生らしい子供と一緒にいる。子供も一丁前のレーサー姿だ。トイレに行って戻ると、小町とあんみつ姫が茶屋に入って行く後姿が見えた。彼女たちは私たちより一時間遅いバスに乗ったのである。
     皆もリュックを置いて中に入って行く。この店に私が食うものがないのは分っているから外でリュックの番をして待っていると、どうせだから皆で入ろうとスナフキンが呼びに来た。冷たい甘酒と言うのがあるらしい。甘酒はいらないが、お茶でも飲むか。
     四年前は弁当を持たずに、蕎麦でも食えるかも知れないとここまで来たものの、蕎麦もうどんもなく、仕方がないので磯部巻を食べた。あれが三十年ぶりかで餅を食った最後だ。ついでにホテルで飲む積りで持参した酒も男二人で飲んだ。雨が降っていたから仕方がない。
     「バスは混んでた?」「そうでもないよ。途中でパスを持った人が乗ってきたけど。泊まった人たちだね。」あんみつ姫は甘酒の他に力餅を食べた。お茶が独特の味で、熱いが美味い。ドクダミかも知れない。小町は偶然イトコと出会って驚いている。「冷たい甘酒も美味しいね」と桃太郎が満足そうに小町に声をかけている。缶ビールも売っているが、まだこれからが長いので我慢する。
     茶屋の脇にある駕籠の座布団の上に、田舎芝居で使うような男女のかつらも置いてある。これを被って記念撮影をする人がいるのだろう。「案外小さいね。」小町がこの籠に乗るのは難しい。「大名の駕籠だって疲れるだろう。」「ずっと正座だからね。」「エコノミー症候群になってしまうんじゃないか。」だから時々は駕籠を降りて歩くのだ。

     十二時に出発する。「これからはもうキツイ登りはないから。」一瞬、県道を歩こうとしたスナフキンが慌てて茶屋の裏に戻って旧道に入る。石畳を歩き出してすぐに小町と姫は音を上げ始めた。「茶屋まで来たらもう登りなんかないのかと思ってました。」それでも簡単ではないと予想はしていたのだろう。「出来るだけ重くならないようにカメラも置いてきたんですよ。」姫のカメラはそんなに重かったろうか。
     桃太郎が小町と姫のリュックを預かり、胸に抱え込むようにする。「大丈夫?」「大丈夫。」「桃から生まれた桃太郎 気は優しくて力持ち」(田辺友三郎『ももたろう』)そのままである。あんみつ姫は五十肩のリハビリ最中だから、リュックを背負うのもきついだろう。小町はストックを突いているが、石畳の坂では却って危なくないだろうか。
     ホーホケキョ。「近いですよ。上かな。」「後ろみたいだけど。」「こんなに近くウグイスを聴くのは珍しいですね。」ケキョケキョ。次第に小町と姫が遅れ始め、桃太郎がそれを介助する。桃太郎と言うより義経を守る弁慶の風情だ。「新緑じゃないけど、緑が素敵ですね。」ロダンの心が洗われる。
     於玉坂の標石が立ち、その脇にはケルンのように石を積み上げてある。於玉は関所を破って処刑された娘である。南伊豆から江戸に奉公に上がった於玉が、故郷恋しの一念で江戸を抜け出し、手形がないから箱根山中で捕えられ、関所破りとして斬首獄門にされた。おそらく品川辺りの女郎として売られた娘ではなかったろうか。

     公式な関所日記が失われた関係で関所破りの正確な数は不明なようで、日記の抜書や小田原藩の記録等から集計すると、箱根関所は五件六人、根府川関所は四件五人、仙石原関所は一件六人、矢倉沢関所は三件五人となっている。
     関所破りは小田原藩の手を離れて公儀がお裁きにあたるのだが、関所破りの罪人はその関所付近の刑場において御仕置になる決まりがあった。
     箱根関所に関しては元禄十五年(一七〇三)〝お玉〟という女性が処刑になっている。
     〝元禄十五閏午四月二十六日、箱根関所破り候玉女儀明日死罪、おいたいらに獄門にかけ成され候、川村宇門被遣山江登られ候〟(「江戸時代の刑罰施設――箱根関所」http://www2.hp-ez.com/hp/bunsei/page8/121

     これによれば関所破りの数は思ったより少ないが、実は見逃されたケースはもっと多かったに違いない。特に江戸時代も中期以降になれば、情実や賄賂もあった筈だ。見つけたとしても、犯罪人でもない限り、薮入り(道に迷った)にするケースが多かったらしい。ケキョケキョケキョケキョケキョ。ウグイスの鳴き声が大きく、なんだか喧しくなってきた。

     老鶯や箱根の山の石畳  蜻蛉

     県道を横切ると杉並木が始まる。白人男女が、「モトハコネ?」と前方を指差して訊いてきて、スナフキンが「イエス」と答える。男性が女性の写真を撮っていたので、スナフキンが二人を撮ってやる。「アリガトゴザイマス。」案内板には元箱根まで四十分とある。「フォーティミニッツって教えてやれば。」マリオが言っているが聞こえてはいないようだ。一緒に向かうのかと思ったが、来る気配はない。
     杉並木は元和四年(一六一八)箱根宿開設に伴い、日光街道と同じく川越藩主松平正綱が植林した。明治三十七年(一九〇四)湯本から芦ノ湖畔にいたる新道工事の際、不足する工事費を捻出するため、松杉合わせて千本以上を伐採したと言われ、現在では四百二十本程度しか残っていない。箱根町教育委員会によれば、そのうち良好な状態を保っているのは三割に過ぎないと言う。
     石畳は上り坂になる。さっきは斜めの排水路を見たが、今度は石畳の脇に排水路が縦に設えてある。斜面に横たわる大きな岩がある。天ケ石坂。緑の苔に覆われた八尺四方と言われる巨大な岩がどうしてこんな場所にあるのか。元々は天蓋石と読んでいたものが訛って天ケ石となった。
     街道の幅は二間、その真ん中の一間幅に石が敷いてあるから、そこから外れた土の方が歩きやすい。林が少し開けた場所に大きな石碑があった。「なんですか?」「箱根八里は馬でも越すがこすに越されぬ大井川。」『箱根馬子唄』の碑だ。

     箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川
     箱根御番所に 矢倉沢なけりゃ 連れて逃げましょ お江戸まで
     三島照る照る 小田原曇る 間の関所は雨が降る
     松になりたや 箱根の松に 諸国大名の 日除け松に
     雲か山かと 眺めた峰も 今じゃわしらの 眠り床
     箱根番所と 新井がなけりゃ 連れて行きましょ 上方へ
     尾上高砂 千歳の松は 千代も変わらぬ 深緑

     箱根八里は、小田原宿から箱根宿までの四里と、そこから三島宿までの四里を言う。この馬子唄には杉並木は出てこない。松ばかりだ。右前方に二子山がはっきり見える。北側が上二子山で一〇九九メートル、南側が下二子山で一〇六五メートル。箱根駅伝の選手が走る国道一号線はあの山の向こうを通っている。
     お玉観音堂に向かう分岐点に種子「カ」の下に「六道地蔵菩薩之なんとか」と刻んだ石碑が建っている。「弘法大師の名前も見えるね。」観音堂には寄らないが、その北側にはお玉が池がある筈だ。さっきのお玉を哀れんだ村人が名付けたと言う説と、芸人のお玉が身を投げたと言う伝説とある。
     「神田お玉が池もあるね。」みんな千葉周作の北辰一刀流玄武館を連想する。「坂本龍馬です。」龍馬はお玉が池ではなく桶町(千葉定吉)の方だ。「赤胴鈴之助だね。」小町はどうしても赤胴鈴之助でなければいけないらしい。昭和三十二年一月に始まったラジオドラマでは、その年に十二歳になる吉永小百合と藤田弓子が出演した。
     『いがぐり君』の福井英一が昭和二十九年(一九五四)に原作第一回を描いたところで急逝したため、武内つなよしが引き継いでヒットした。私は鈴之助の真空斬りと少年ジェット(やはり武内つなよし)の「ウーヤーター」とゴッチャになっていた。鈴之助の掛け声は「おりゃー」である。登場人物の名に横車押之助とか火京物太夫とかあって、あの頃のマンガは実に牧歌的だったね。一九七〇年代、武内つなよしは劇画版の赤胴鈴之助を描いたが、見るも無残であった。
     やがて上り坂も漸く頂点に達したようだ。「ここから下りに入るよ」と後ろに向かって声をかける。かなり遅れているので少し待つ。権現坂。権現は箱根権現である。やっと後続が追いついた。「いい経験になったでしょう?」「でも二度と来れないわ。」
     前方からミニスカートにサンダル履きの女性が、左手に握ったスマホを見詰めながら登ってきた。スマホからは音楽が流れているようだ。「あの恰好で来るかな?」「箱根をナメテルよ。」「日本人かな?」「違うみたいだ。」「一人で来るんだよな。」「昔だったら雲助に襲われたりして。」

     サンダルの爪の赤さや箱根山   蜻蛉

     下り終わったところに、ケンペルとバーニーの碑が建っている。「明治初期には外国人にお世話になったんですよね。」「ケンペルは江戸時代だよ」とスナフキンが訂正する。
     エンゲルベルト・ケンペルはドイツ人で、オランダ通商使節の一員として来日し、元禄四年(一六九一)と翌年に箱根を越え、帰国してから箱根の美しさを世界に紹介した。シリル・ モンタギュー・バーニーは英国貿易商で箱根に別荘を持ち、大正十一年にケンベルの『日本誌』序文を引用して碑(隣にある大きな石碑)を建てた。

     西暦千七百二十七年中御門天皇・享保十二年四月廿七日倫敦に於て出版せられたる「ケンピア」氏著日本歴史の序文に曰く
     本書は隆盛にして強大なる帝国の歴史なり 本書は勇敢にして不屈なる国民の記録なり 其人民は謙譲勤勉敦厚にして其拠れる地は最も天恵に富めり
     新旧両街道の会合する此地点に立つ人よ 此光栄ある祖国をば更に美しく尊くして郷等の子孫に伝へられよ  箱根にて
     大正十一年十月吉日 於扇港無外居士書

     ケンペルやバーニーが日本人に見た「謙譲勤勉敦厚」は、渡辺京二『逝きし世の面影』が痛切に描いていることでもあろうが、それは既に「逝きし」ものである。失われたものは二度と帰って来ない。

     エンゲルベルト・ケンペル(一六五一~一七一六 ドイツ)は、一六九〇(元禄三)年に長崎オランダ商館医として来日しました。博物学者でもあったケンペルは、一六九二(元禄五)年に帰国し、膨大な日本関係史料をもとに、一七一二年『廻国奇観』という見聞記を発表しました。このなかには、志築忠雄が「鎖国論」として翻訳した論文も含まれています。ケンペルは一七一六年に死去し、彼のドイツ語による『日本誌』の原稿は、大英博物館の基礎を作ったイギリスのスローン卿が購入し、一七二七年に『日本誌』英語版が出版されます。
     『日本誌』には、日本の政治・社会制度、文学、動植物、風景などに関する記述があるほか、シャム国の様子についても述べられています。これは、日本に関する基本的文献として、ヨーロッパにおいて広く、長く読まれました。(九州大学総合研究博物館「ケンペル『日本誌』」http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kaempfer/)

     この『日本誌』の記述をディドロが『百科全書』に採用し、やがて十九世紀のジャポニズム流行に影響したと言われるから、実に重要な人物である。また更に重要なことがある。

     ケンプファー(ケンペル)は著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語版(De Beschryving Van Japan)を底本として、志筑忠雄は享和元年(一八〇一)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。(ウィキペディア『日本誌』より)

     「鎖国」と言う用語の初出が享和元年(一八〇一)のことだとすれば、つまりそれまで誰も、日本の対外政策を「鎖国」とは呼んでいなかった。実際にも「鎖国」なんかではなかったことは、現にこうして元禄時代にドイツ人が来日していることからも分る。志筑忠雄は『暦象新書』でニュートンやケプラーの説を紹介した人物でもある。
     「ここからは平地だから。」国道一号線を横断する陸橋を渡れば興福院(曹洞宗)の裏手に出る。足柄下郡箱根町元箱根二十六番地。元々は箱根権現の別当寺・金剛王院東福寺の子院として室町時代に創建された真言宗寺院だった。明治の廃仏毀釈で東福寺が廃絶し多くの仏像や仏具が焼却されたが、その一部が興福院に移された。青い苔に覆われた大型の宝筺印塔がある。「立派だわね。」箱根八里記念碑「天下の険」がある。箱根七福神の布袋を祀る。
     スナフキンは頻りに腹が減ったと繰り返す。もう一時だものね。私はさっきのお握りが効いているから大丈夫だ。ここからすぐに芦ノ湖に出る。「海賊船がいないな。」「さっき出て行った。」観光遊覧船が海賊船風らしい。
     湖畔では韓国語や中国語の声ばかりが聞こえてくる。勿論日本人だって多いだろうが、声の大きさが違うような気がする。当初の計画では湖畔で昼飯をとる積りだったが、スナフキンは予定を変えた。「ここじゃ日蔭がないから。恩賜公園の西洋館に行きましょう。無料で入れます。二十分くらいかな。」
     国道一号線が合流する辺りが元箱根港バスターミナルで、通りには箱根神社の大鳥居が建っている。箱根神社は山岳信仰と修験が習合した神で文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を本地仏とした。折口信夫は、箱根権現の信仰は熊野信仰から来たものだと断定している。石橋山で敗れた頼朝が一時ここに逃れた。また曾我五郎が幼い時に箱根権現別当に預けられて稚児になっていた。その縁で箱根神社境内には曾我神社が祀られている。今日は立ち寄る余裕がない。
     ターミナルの傍らが賽の河原だ。地蔵や多層塔、大小の五輪塔が.整然と並べられていて、荒涼無残な感じはしない。「箱根神社親鸞聖人御旧地碑」もある。「草津の賽の河原には行ったことがあるよ。」小町の声で、私も何年か前に行ったことを思い出した。あそこは「西の河原」と書く。
     箱根は修験の霊地であると同時に地蔵信仰のメッカである。従って芦ノ湖畔には石仏が多くあった。明治の廃仏毀釈、その後の観光地化による道路整備で失われたものもあり、残されたものはこうして集められた。箱根には精進池畔(磨崖仏や石仏群がある)、姥子の地獄沢にも、賽の河原と呼ばれる場所があるらしい。
     私が賽の河原らしい荒涼とした光景を一番強く感じたのは、渡良瀬の旧谷中村の墓地跡である。谷中には田中正造や荒畑寒村の血が染みついているようで辛い。観光用に整えられた賽の河原と、近代日本国家に斬り捨てられたかつての谷中村と、どちらが無残であるかを思えば当然なことだ。
     賽の河原とは三途の川の河原である。死んだ幼児が父母の供養のために折角積んだ石が、夕方になると地獄の鬼によって崩されてしまう。そして翌朝からまた石を積んでは夕方に崩され、これが永劫続く。シジフォス(最近ではシーシュポスと言うのが一般的らしい。高校生の頃読んだのはカミュ『シジフォスの神話』だった)の苦役である。
     地蔵和讃は十世紀の空也作と伝える『西院河原地蔵和讃』が元らしいが、細部が少しづつ改変されて江戸時代に庶民に普及した。

     これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる
       さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり
     二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが
     父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は
     この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
     かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め
     これにて回向の塔を組む
     一重組んでは父のため 二重組んでは母のため
     三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して
     昼は独りで遊べども 日も入り相のその頃は
     地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする
     娑婆に残りし父母は 追善座禅の勤めなく
     ただ明け暮れの嘆きには 酷や哀しや不憫やと
     親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる
     我を恨むる事なかれ くろがね棒をとりのべて
     積みたる塔を押し崩す(後略)

     詞にはいくつかのバリエーションがある。長いのでこの辺でやめておくが、死んだ子が、生きている親の供養をすると言う発想はどこから出てくるのだろう。本地物と呼ばれる説教節も含め、前近代の日本人がこうした陰鬱なものを好んだことが不思議だ。
     セブンイレブンでお茶を補充する人を待つ。ついでだから私は煙草を買い、桃太郎は最中アイスを買って出てきた。大柄なアジア系女性が、出入り口に立つポストの上にカップラーメンを載せて食べようとしている。「日本人はしないよね。」こういうのを文化の違いとは言わない。出入り口だから他人の邪魔になる。ポストの上だから、万一零せば郵便物に汁がかかってしまう恐れもある。そういうことに鈍感な者はどの国にいても迷惑ではないか。
     国道を少し歩けば再び杉並木に入る。「ここの杉は立派ですよね。」日光街道の杉並木が無残な姿になっているのは、排気ガスの影響が大きいだろう。ここは国道から逸れているからその影響が少ないのかもしれない。それでも年々本数は減っている。「元は松だったけど、松は土地に合わなかったようなんだ。」
     「獅子文六が『箱根山』って書いてるんだけどさ、図書館でもないんだよ。」小町はこれをどうしても読みたいらしい。私は高校時代に読んだが細部は忘れてしまった。ここ二三年、筑摩書房が獅子文六作品の文庫化を進めているが、『箱根山』はまだなかったろうか。「小田急と西武の戦争なんでしょう?」小田急の安藤楢六の背後には東急の五島慶太がいて、箱根観光のシェアを巡って西武の堤康次郎との熾烈な戦いがあったのである。
     葭原久保の一里塚は盛り土の上に石碑があるだけだ。江戸から二十四里。白いガクアジサイが綺麗だ。戦没者慰霊碑が建ち、石段を上る献花台が作られている。

     「ここだよ。」広い駐車場から園内に入るには石段を登らなければならない。姫は大丈夫だろうか。「まだ階段だぜ。」どこまで続くぬかるみぞ。それにしても長い石段だ。別のルートに二百階段というものもある。
     漸く芝生の中に建つ西洋館の前に着き、後続を待つ。芦ノ湖に突き出した半島の頂上まで登ったのだ。「明治天皇のために作った離宮だけど、明治天皇は一度も来なかった。」

     ここは「塔ヶ島」と呼ばれ、芦ノ湖に突出した半島のかたちをなしています。 宮内庁はここに皇族の避暑と外国からの賓客のために離宮の造営を計画しました。明治十七年、当時笹の密集していた塔ヶ島を中心に十六万三千平方メートルを買収し、離宮の造営が始まりました。
     明治十九年七月に完成した箱根離宮は、二階建ての西洋館と日本館を中心に官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を芦ノ湖に映していましたが、大正十二年の関東大震災・昭和五年の北伊豆地震と続いた災害によって倒壊してしまいました。その後、箱根離宮を再建する計画もありましたが、時代が戦争へと大きく傾いてゆく中にあって再建計画は打ち切られてしまいました。(神奈川県立恩賜箱根公園「公園の沿革」)

     遅れていた後続も到着し、西洋館に入る。一時半だ。「二階なんだ。」「また階段か。」それでも来て良かった。窓際にテーブル、椅子がセットされ誰でも利用できる。窓からの芦ノ湖の眺望が素敵だ。空気が澄んでいれば富士山も見えるらしい。
     「ここでお弁当が食べられるのは良いですよね。」姫、小町、桃太郎は小田原で金目鯛の弁当を買ってきた。ただ姫のものは西京焼きで、桃太郎の炙ったものとは少し違ったようだ。「なんだかホワイハウスみたいな建物ですね。」「私はホワイトハウスに行ったことがないので。」「私だってないけど。」
     シャツの背中がびっしょり濡れていて気持ちが悪い。着替えは持ってきたが、ここで着替えてもまた汗まみれになると思って我慢する。マリオとスナフキンは着替えた。
     食事を終えたヨッシーが喫茶コーナーでジュースのようなものを注文すると、わざわざ女性がテーブルまで持ってきてくれる。暇なのだ。ついでにアンケート用紙を二枚置いて行った。「一人じゃ飲みきれないから」とヨッシーが半分以上残った瓶とグラスを持ってくる。梅サイダーだった。なるほどサイダーを一本飲むのはきついね。四五人で少しづづ飲んでみた。確かに梅味である。煎餅類が大量に配られる。食べきれないので、夜の小田急線のお供にしようと少しリュックに入れる。
     時間と体力が余っていれば、この園内を一周するのも楽しいだろうが、今の私たちにはその余裕もない。「時間もオシテルので出発します。」二時十五分。階段を下りるのは早い。 
     駐車場の角に『箱根八里』の歌詞碑があった。鳥居忱作詞・滝廉太郎作曲。私は根拠もなく土井晩翠と思っていた。「『箱根八里』って言う題だったんだな、題は知らなかった」と私とほぼ同年代の男性が家族に呟いている。小町と姫は歌いだす。しかしこの歌詞は難しいね。

     箱根の山は、天下の嶮
     函谷關も ものならず
     萬丈の山、千仞の谷
     前に聳へ、後方にささふ
     雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
     昼猶闇き杉の並木
     羊腸の小徑は苔滑らか
     一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
     天下に旅する剛氣の武士
     大刀腰に足駄がけ
     八里の碞根踏みならす、
     かくこそありしか、往時の武士

     「一夫關に当たるや、萬夫も開くなし」の意味が長い間分らなかったのは、「一夫關に当たる」をひとりで関を攻撃すると思い込んでいたからだ。そうではなく、一人で関所を守ると言うことであった。それにしても足駄で石畳の坂道を歩くのは大変だろう。中学時代、剣道の初段に合格した時、仲間三人で足駄を買って得意気に歩き回ったが、あれは土の上を歩くもので、舗装道路や石の上では滑るのである。第二章の現代では「蜀の桟道數ならず」で「猟銃肩に草鞋がけ」となる。
     しかし函谷關と蜀の桟道を持ち出して、それ以上だというのは聊か恥ずかしい。そう言えば清少納言の「夜をこめて鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ」もあった。誇張法は勿論文学表現の一つではあるが、ユーモアがない時には我が仏尊しの夜郎自大に陥る。
     公園を出ればすぐに箱根関所資料館だ。足柄下郡箱根町箱根一番地。入館料五百円、これで資料館と関所に入ることが出来るのだ。但し六十五歳以上は四百円である。折角マリオが免許証を提示しているのに、「何歳ですか?」と訊く窓口のオバサンは感度が鈍い。ヨッシーは免許証を出さなくても大丈夫だろう。「六十六歳」、「六十七歳」。「六十三歳割引はありませんか?」桃太郎が食い下がっているがそれは無理と言うものだ。本日の割引対象は五人であった。
     資料館は簡単に見る。通行手形の実物を見たのが収穫かも知れない。例をひとつだけ引いておこう。

     差上申一札之事
     一 男五人
     右之者共、此度伊勢参宮仕候間、御関所無相違御通被遊可被下候、為後日通手形依而如件
     武州男衾郡板井村 名主 平重郎
     嘉永四年亥極月十九日
     箱根 御関所 御役人衆中様

     御通し遊ばされ下さるべく候である。「依而如件」(よってくだんのごとし)は昔の古文書解読の授業では最初に覚えた。女手形はもっと厳しく、年齢や人相、鉄漿の有無等も詳しく書かなければならなかったらしい。
     ざっと回って残っている人に声をかける。「関所に行ってます。」門番にさっきのチケットを提出する。江戸口御門、京口御門、大番所などを含め、関所は完全に復元された。

    江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である『相州御関所御修復出来形帳(慶応元年:一八六五)』が、静岡県韮山町(現伊豆の国市)の江川文庫から、昭和五十八年(一九八三)に発見されました。箱根町でこの資料の解読を行った結果、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになりました。そこで、平成十九年(二〇〇七)春の完成をめざして発掘調査を行ない、その成果や資料の分析結果に基づき、建物の復元や関所周辺の環境整備を行うことになったのです。(箱根関所公式サイト)

     江戸口御門を潜れば、左の建物の端は獄屋になっている。「ここは何?」「お仕置きで入れられるんだ、牢屋だね。」親子連れの会話だ。中に入って体験することができると言うが、そんなことをする人はいない。子供連れや若いアベックが、「スゴイ」「チョーカッコイイ」などと声を上げている。大番所、上番休息所には上がってみることもできるが、靴を脱ぐのが面倒なのでやめた。
     関所の役人は、番頭一、横目付一、平番士三(ここまでが士分)、小頭一、足軽十、中間二、(以上足軽)、定番人三、人見女二(以上、農民からの徴収)で構成されていた。弓や火縄銃も揃えているが、弓はあっても矢はなく、火縄銃には火薬が装填されていなかったと言う。  入鉄砲出女と言うが、最も厳しく取り締まられたのは出女である。真院道中記から平仮名を一部漢字に直し、句読点を補って引いてみる。

     ・・・・・籠の簾おろし候様大声懸、私供の籠は何事も無。次之籠は婆出、御関所の面番之方てなき籠の戸開き、女房一人相こしも御座りまへんと云て又其次なるも同じ様にして皆済と直々本陣と成る柏谷屋といへる宿につきぬ、」(内藤充真院道中記)

     大名夫人の行列でも、わざわざ籠の戸を開いて見せなければならない。既に大名妻女帰国令が出ているので、「出女」の規制は効力を失ったのではないかとも思えるのだが。

     一、乗物にて出入る輩、戸を開かせて通すべきこと
       一、関より外に出る女は、つぶさに証文に引き合わせて通すべきこと
     附、女乗物にて出る女は、番所の女を差し出して、相改むべきこと

     逆に言えば、籠に乗ったままで通ることが出来たということでもある。「次之籠は婆出」が、附則の「番所の女を差し出して」に対応するだろう。また、江戸へ向かう者に対しては殆ど調べをせずに通した。厳重なのは京へ向かう者に対してであった。
     門を出たところに茶屋があったので缶ビールを買って休憩する。それを見て桃太郎もビールを買った。暫くして全員が集まり、国道をバス停に向かう。

     スナフキンは二十分程かと言っていたが、十分で元箱根港バスターミナルに着いた。予定より早かったが既にバス停にはかなりの人が並んでいる。急行小田原行きだ。「座れないと思うから湯本で降りよう。」しかし私たちが座ってほぼ席が埋まったからタイミングが良かった。これなら小田原まで行ける。立ち席も一杯になり、まだ並んでいる人を残してバスは出発した。
     さっきのビールが効いたか、少し眠ってしまった。気が付くと箱根湯本で、バスは線路を左に見ながら走って行く。やがて小田原市街に入ってきた。「そこのういろうに寄った。」「だるま料理店、入りましたね。」小田原を歩いたのはちょうど二年前だ。
     約一時間で小田原駅東口に着いた。千百八十円。駅前に、甘酒茶屋で見かけた親子連れの自転車乗りがいた。「一万三千歩から一万六千歩。」ロダンが言うのは、人によって歩数が違うからだ、それなら一万四千歩に決めてしまおう。街道自体は畑宿から関所まで六キロ程度だが、恩賜公園までの往復を含めれば八キロは歩いているだろう。
     小町とあんみつ姫はここで別れる。四人は帰りにロマンスカーを使うので、予め切符を買った。「時間はどうする?」「二時間飲むとして」「それじゃ十九時五分にしよう。」新宿まで八百九十円。
     四時半だ。本当なら温泉に泊まってゆっくり飲みたいところだがそうはいかない。「いつものところに行こうか。」スナフキンが桃太郎に声を掛けているが、そんなにしょっちゅう来ているのか。おしゃれ横丁の角には北条氏政、氏輝の墓がある。「これも見ましたね。」海鮮居酒屋ふじ丸は満席で断られた。
     「それじゃ魚国かな。」魚屋であるが、二階にあった筈の店は駅前のビルに移転したと言う。「そこに田中屋がある。」このところ、あちこちでこの串カツ屋を見かける。「ここでいいか。」田中屋は荻窪、門前仲町に続いて三度目になるか。「門仲は俺は行ってない」とスナフキンが力説する。あの時スナフキンは半日券を使ったのだ。
     店内には既に幼い子供連れの客がいる。女性だけのグループも入ってくる。「昔は考えられなかったよね。」ビールが旨い。この店は焼酎ボトルを置いていないのでホッピーにする。
     子供連れのテーブルで時折大きな歓声が上がるのは、チンチロリンで当たったからだ。当たれば一杯無料になる。以前、桃太郎が挑戦した時は当たるどころか、ダブルサイズの酎ハイを飲まなければならない羽目になった。勿論二杯分の金を払わなければならない。
     マリオは「ガリ酎を飲んでみたい」と言って注文したが、旨くなかったようだ。「寿司屋のガリそのものですよ。」以前ヨッシーがこれを飲んでいた。テーブル上の配置が悪く、私は二度もホッピーのビンを倒してしまう。二度目はヨッシーのズボンにまで零してしまったのは申し訳ないことである。
     二時間でお開き。三千円也。マリオ、マリー、桃太郎と別れ、ヨッシー、スナフキン、ロダン、蜻蛉は十九時五分発のロマンスカーに乗り込む。スナフキンはビール、私は大関のワンカップを持ち込んだ。


    蜻蛉