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    第七十二回 佐原編
    平成二十九年九月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.09.17

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     八月は殆んど梅雨の戻りのようで、雨が降り続くおかしな夏であった。台風が来れば毎度のように「記録的な」豪雨となる。この長雨で農作物に甚大な被害が出て野菜が高騰している。海水温の上昇によってサンマも獲れない。アメリカでも史上最大規模のハリケーンが発生するし、地球が壊れかけているのは間違いない。しかしトランプはパリ協定離脱を宣言している。
     そして世間はおかしなことばかりだ。民進党は前原新体制になった途端、山尾志桜里のスキャンダルで早くも倒壊の危機に見舞われた。いずれ民進党は消滅するだろう。それにしてテレビを点ければフリン、フリンと、あらゆるメディアがイエロー・ジャーナリズムに追随している。この国はどうなってしまったのだろう。
     今日は旧暦七月十九日。白露の初候「草露白」。団地の脇のヒガンバナが一輪咲いた。キバナコスモスも咲いた。壊れかけた地球ではあるが、植物は健気に生きている。家を出る時には少し寒いくらいだったが、予報では二十七八度になる見込みだ。

     さて江戸歩きの会でどうして佐原なのか。私の周囲で佐原を知っている人は多くないし、佐倉と間違える人もいる。佐原は成田と銚子のほぼ中間に位置し、江戸からは直線距離で七十キロ程離れている。しかし川越、栃木と並んで関東三大小江戸と呼ばれる町である。利根川東遷によって小野川が繋がり、江戸への舟運で栄えた。その栄えた頃の明治大正の町並みが残っているのだ。感覚にもよるだろうが、この町並みの美しさは川越や栃木にも勝っているのではないかと思える。
     しかし川越は別にして、舟運で栄えた町の大半は近代化の波に乗り遅れた。だから古い町並みが残っているとも言えるので、目ぼしい産業もなく、これらの町はもはや観光で生き延びるしかない。それなのに佐原は電車の便が酷く悪い。JR成田線が一時間に一本しかないのだ。
     それでも行ってみたいのは、何と言っても伊能忠敬の町だからである(生誕地は違うけれど)。深川黒江町(門前仲町)の居宅跡には何も残っていないが、富岡八幡の旅立ちの像はお馴染みだし、浅草(台東区東上野)の源空寺で高橋至時に並んで立つ墓も見た。五十歳で江戸に出て本格的に天文暦学を学び、五十六歳から七十二歳まで全国を歩いて日本地図を完成させた伊能忠敬は、私たちにとってはヒーローである。
     実は今回はコース決めに悩んだ。四月に職場を異動したこともあって、なんとなく気忙しく過ごしていた。たまたま七月の初めに、会社の後輩が異動したからと私の職場に挨拶に来たのが良いタイミングだった。彼が佐原在住なので、そうか佐原もあるなと思い付いたのだ。ところで佐原はサワラと読む。サハラでは砂漠になってしまう。
     下見をしたのは八月九日の水曜日だからちょうど一ヶ月前だ。この日から四日間、大学が一斉休日になったので動けたのである。実に暑い日で、ペットボトル三本を飲み尽くしながら、全コースを歩くのは途中で断念した。だから観福寺への道や全体の時間配分に少し不安を抱えている。

     鶴ヶ島を七時十三分に出る。JR武蔵野線で北朝霞を七時四十分、新松戸には八時十九分に着く。そして常磐線各駅停車で八時三十六分に我孫子に到着するのがちょうど良い。しかし少しでも遅れると成田線に乗り損ねる恐れがあるので、万一を考えて十五分程早く出て来た。
     長い旅だから、趙治勲『達人囲碁指南』第三巻「攻めの達人」を持ってきた。和尚がこの会に参加しなくなって随分経つが、碁を覚えたいと言うので七年振り(実質的には十年以上)に碁を再開したのだ。ついでに団地の囲碁クラブにも復帰して会費も払ったが、七月第四日曜日の例会では酷かった。力が随分衰えているから勉強し直さなければならない。ところで和尚は、老人ホームを訪問してギターを弾いて歌うボランティアで川越市から表彰された。
     我孫子駅まで順調に着き、二十分程待って八時四十六分発成田行き(成田線・我孫子支線)に乗った。仲間の姿は見えない。武蔵浦和や越谷の人はこれが一番簡明だと思うのだが、もしかしたら日暮里から京成線を使って京成成田に行くコースを選んでいるか。あるいは東京駅から千葉経由で成田までを選んだか。
     成田線に乗るのはは初めてだ。湖北駅がある。湖とは手賀沼のことか。新木(アラキ)駅、木下(キオロシ)駅、下総松崎(シモフサマンザキ)駅は読みが難しい。
     九時二十八分成田着。必ずこの電車に乗るようにと、九時四十一分発銚子行きを指定してある。乗り込むと、先頭車両からマリーが不安そうな顔で歩いて来た。「誰もいないのよ。」「お早うございます。」脇から声がかかったのはヨッシーだ。「これに乗らないと、次は一時間後ですよね。」
     既に席は半分以上埋まりかけていて、取り敢えずそれぞれボックス席の通路側の座席を確保した。「ちょっと探してくる。」まだ少し時間があるので五両編成の電車を最後まで歩いてホームに降りると、階段の方から声を掛けられた。「全員いますよ。」ロダン、スナフキン、マリオは京成電鉄を使って来たのだ。あんみつ姫は「私は取手からです」と言う。それなら私と同じ電車だったか。車内は混んでいて、マリオとロダンが座れない。
     ヨッシーは佐原の観光案内チラシに伊能忠敬に関する日経新聞のコラムを貼り付けた資料を作ってきてくれた。スナフキンも以前に入手したというチラシを持ってきた。私は下見の時に観光案内所で手に入れた一部二十円の観光マップを取り出すが、五枚部しか買わなかった(要するに百円しか払わなかったのだ)から全員に行き渡らない。
     「この方たちも佐原に行くんだね。」私たちの様子を見て、隣の窓際に座っていた赤シャツでスキンヘッドの男性が向かいの席の仲間に話しかけている。「そちらも佐原ですか。」「そうです。」「われわれは香取まで行きます。」地図は持っていないようだから、コピーして来た観光マップを渡して喜ばれた。その二人も含め、佐原駅で乗客の大半は降りて行く。佐原観光の人達はここで降りるのが常道で、香取まで行く私たちの方が異常なのだろう。
     「ミサイルは大丈夫そうね。」「いつも朝早くだからね。」北朝鮮の建国記念日に当る今日、金正恩がまたミサイルを発射するのではないかとの推測もあったが、取り敢えず今日は無事である。金正恩はどこまで突っ張る積もりなのだろう。この時にアメリカの大統領がトランプであることは、最悪の事態を危惧させる。(発射されたのは九月十五日だった。)
     マリーがスマホの画面を見て、「桐生選手が十秒を切ったのよ」と教えてくれる。九秒九八である。日本学生陸上競技対校選手権の決勝だった。今年は不振が続いていたが、やはり底力はあった。

     香取駅には予定通り十時十五分に着いた。住所は香取市津宮一四二八番地、香取市の香取駅である。それに香取神宮への最寄り駅だから、当然ここが市を代表する駅だと思っていたが、とんでもなかった。鹿島線が分岐する駅でもあるのに無人駅で、しかも駅舎は香取神宮とは逆の北口になっている。「パスモは使えますか。」「大丈夫。」一日の平均乗降客は二百人程度しかなく、トイレは男女共用だ。黒と丹に塗られた駅舎は香取神宮の社殿をイメージした造りになっている。駅前に店はない。バス停もない。
     直線距離で北西五百メートル程の所に利根川の津宮鳥居河岸があり、かつては香取神宮への表参道口であった。十二年に一度の神幸祭では、香取神宮からの行列がその鳥居まで来て、船に乗って佐原の方に行くと言う。舟運が盛んな頃には賑わっていただろう。
     参加者七人は私の予想を超えていた。四五人だろうと妻には言って出てきたのである。嬉しい。姫、ヨッシー、ロダンは以前に佐原を歩いた経験がある。「車で通ったことはあるけど」と言うマリオは、この辺りのゴルフ場はお馴染みなのだ。
     他には誰も歩いていない。「田舎に帰って来た感じですね。」「やっぱり房総の雰囲気だよ。独特なんだ。」「高い山がないからね。」踏切を渡って少し行けば神道山古墳群に突き当たる。「皆さんは登るんですか。」小さな鳥居の向こうに階段が続いているが、ここは通り過ぎるだけだ。

    神道山の大半は香取神宮の所有地で、昔は、香取神宮が「香取山根本寺」を置き寺領として與え守護させたが、安政年間(一七八〇年頃)廃寺となった。神道山には、古墳時代五~六世紀に構築された古墳十二基があった。現在は主墳「前方後円墳」一基、陪塚と呼ばれる円墳が六基残っており、昭和五十二年に市指定の遺蹟となった。山頂には「桝原稲荷」も祭られている。(案内板より)

     案内板に「與え」と、ここだけ本字を使っているのがおかしい。前方後円墳の長さは四十七メートルある。昭和三年(一九二八)に発見された当時は「香取神宮主の御陵墓か」と報じられたこともあったらしい。香取神宮主と言えば香取連だろうか。

    神宮の祭祀氏族は、古くは香取連(かとりのむらじ、香取氏)一族であったといわれる。「香取大宮司系図」によれば、フツヌシ(経津主)の子の苗益命(なえますのみこと、天苗加命)がその始祖で、敏達天皇年間(五七二年?~五八五年?)に子孫の豊佐登が「香取連」を称し、文武天皇年間(六九七年~七〇七年)から香取社を奉斎し始めたという。(ウキペディアより)

     現在はハイキングコースになっているようで、小学生が描いた簡単なマップが掲示してある。神道山の名は、この道が香取神道とされるのと同じだろう。かつては利根川の津宮河岸から香取神宮への表参道であった。
     また、香取神宮の東南約七キロの辺りには、前方後円墳が集中する城山古墳群があって、三角縁神獣鏡(下総地区で唯一の出土例)や環頭太刀四振など大量の副葬品が出土した。相当の有力者がいたのだろう。
     古墳に沿って道なりに歩くのだが、今や表参道の面影は全くない。約三十分の道を香取神宮まで歩いて行こうなんて考える人はいないのだ。香取神宮のホームページでも、佐原駅からタクシーまたはバスに乗れと書いてある。
     右手は森、左は田圃だ。時々車が通って行く。「下見の時は不安だったよ。ホントに香取神宮に着くのかって。」「ホントにそんな道ですよね。」所々に神宮の標識があるから何とか安心する。「アジサイだよね。」ガクが枯れてはいるがまだ形は残ったままのアジサイが目に付く。「香取さんだ。」香取神宮の神官香取氏の一族であろうか。ふとキンモクセイが香ったように感じたが、勿論勘違いだろう。
     道はやや上り加減になり、後続との距離が大分開いてきた。「リーダー、少し早すぎますよ。」どうも気が急いてしまう。と言うより、時間配分が不安なのだ。姫は歩きながら、母上が握ってくれたと言うお握りを食べている。私も腹が減って来た。
     右手の森の中にポツンポツンと民家が建っている。道路には街灯もないから夜は怖いだろう。やがて道は下りになり、下りきった左側に駐車場がある。「通った記憶がある。初詣には満杯になるんじゃないかな。」神宮の予備の駐車場だろう。「そこを左です。」
     十時五十四分。広い駐車場にはかなり多くの車が駐車している。「歓迎・香取神宮」のゲートから昔ながらの土産物店が並ぶ。「厄除け団子がありますね。」「昔来た時も暑くて、ベトナムのお百姓さんが被るような笠を買いました。」その姫は、今日は帽子を被っていない。暑くなってきた。「カキ氷、いいですね。」「帰りには寄って下さい。」それぞれの店から声がかかる。
     「あれ、確かあれですよね。」ロダンが赤鳥居の脇に銅像を見つけて近寄っていく。下見の時には気付かなかったが山村新治郎だった。「よど号のね。」「身代りですね。」先月の蒲田大森周辺散策の際、三島事件のあった一九七〇年を回顧したが、これも一九七〇年の事件だ。三月三十一日に発生した共産同赤軍派による日航機ハイジャック事件で、乗客解放の条件として当時運輸政務次官の山村がソウルからピョンヤンまで身代り人質となったのである。山村はこの事件で一躍有名になり、春日八郎が『身代わり新治郎』を歌ったらしいが、さすがに私もそんな歌は知らない。ただこの事件によってハイジャックという言葉を知った。
     「その事件は知らなかったな」とマリオが言うのが意外だ。その時の乗客には日野原重明や沖中重雄もいた。「その事件で死んだんですか。」「死んでないよ。」「それじゃ、身代りとは違う。」不思議な感想だ。山村はその後、運輸大臣(宇野内閣)、農林水産大臣(を歴任した。
     「この辺の出身なんですね。」山村家は佐原の名家で新治郎は十一代目である。そして隣の像がその父の十代新治郎(行政庁長官)であった。今回調べるまで知らなかったが、山村は平成四年(一九九二)五十八歳のとき、精神疾患の次女に殺されていた。その次女は責任能力無しと判定されて不起訴になったものの、四年後には自殺した。

     参道の周囲には高い樹木が生い茂り、両側に石灯籠が並んでいる。「ここには増上寺の石灯籠はありませんか。」ないだろう。大きな石灯籠を見れば増上寺か寛永寺のものかと考えるのは、埼玉県の人間だからだ。「増上寺は徳川家、ここは皇室だからね。」それにしても下総国一宮の境内は広い。
     三十段程の石段を上って朱塗りの総門を潜る。手水舎で清めて楼門を潜る。元禄時代の建造になる朱塗りの楼門は表から見れば隋身門で、右が武内宿禰、左が藤原鎌足だと言う。武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代に仕え、二百九十五歳まで生きたという伝説の人物である。それがどうしてここにいるのか分らない。内側には狛犬が鎮座している。額の文字は東郷平八郎である。
     権現造りの真黒な社殿が圧倒的な存在感を示している。檜皮葺の屋根には千鳥破風。虹梁、組物、蟇股は中華風の極彩色で飾られ、破風飾りや金具には金箔が施されている。黒づくめの建物はなんとなく東照宮の大猶院に雰囲気が似ている。

    香取神宮の本殿は、平安時代には伊勢の神宮と同様に二十年ごとのお建替の制度がありましたが、戦国時代には衰退しました。現在の本殿は、元禄十三年(一七〇〇年) 徳川幕府の手によって造営されたものです。
    この本殿は、慶長年間の造営で用いた桃山様式を元禄の造営時にも取り入れよく受け継いでいます。
    本殿の様式は正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、現在屋根は桧皮葺ですが、もとは柿葺でした。規模も大きく、また建築様式も近世前期の正統的な手法を用いており、全国的に見てもこの時期の神社建築を代表する建物です。
    (香取神宮HP https://katori-jingu.or.jp/about/treasure/)

     祭神は経津主神(フツヌシ)である。「アマテラスとどう関係があるんですか?」案内板の説明がアマテラスから始まっているのだが直接の関係はない。「ニニギが降臨する前、鹿島の武甕槌神(タケミカヅチ)と一緒に先兵を務めてオオクニヌシを降伏させたんだ。」「それは日本書紀に書いてあるんですか。」「そう。だから両方とも武神として崇敬された。」後世には香取神道流、鹿島神流の武術が生まれた。
     フツヌシは、岩裂(イワサク)神・根裂(ネサク)神の子の磐筒男神・磐筒女神の子だともされる。日光街道を歩いたとき、イワサク・ネサクを祭神とする星宮神社をよく見かけた。しかし古事記にフツヌシは登場せず、タケミカヅチの別名が建布都神(タケフツ)とも豊布都神(トヨフツ)ともされている。だから恐らく元は同一の神だったのではないかと言う説が有力だ。
     タケミカヅチは言うまでもなく雷神である。「フツ」はフルでもあり鋭い剣であり、刀を鍛える際に飛び散る閃光(雷にも通じる)をも象徴する。又フツヌシの祖父に当るイワサク・ネサクは雷によって磐や木の根を裂く、またはそれほど強く鋭い剣でもある。つまり剣も雷もほとんど同じことに関係するのだ。

     風土記では祟神天皇のときに香島(鹿島のこと)の大神へ奉幣したとする品々の名を記しており、その中に、鉄弓や鉄箭などの珍しい鉄製品とともに、枚鉄(ヒラガネ〉、練鉄(ネリガネ)という鉄鋌(テツテイ)らしいものが記載されている。鉄鋌とは貨幣的性格を持つ鉄の素材のことで、香取神宮には大きな伝世の鉄鋌が宝物館に陳列してある。風土記では香島の神山に砂鉄が産出し、よい剣ができると.記している。古墳後期の関東の古墳では、同時期の近畿の古墳より鉄刀の副葬品が一般に多く、すでに在地の鉄資源による鉄器生産が軌道にのっていた可能性がある。(森浩一『考古学 西から東から』)

     とすれば、製鉄や鍛冶に関わる集団が祀った神だったと考えてもおかしくない。要するに元はこの地域の製鉄集団の神であり、ヤマト王権の蝦夷侵略の前進基地となってから天孫降臨神話に組み込まれたと思われる。ヤマト王権は地政学的な要衝とともに、最も重要な軍事産業を握ったことになる。谷川健一『白鳥伝説』によれば物部氏が祖とするニギハヤヒもまた製鉄と鍛冶の神であった。また物部氏はフツヌシを氏神としたとも言う。それならば物部東遷とも関係がありそうだ。
     かつて霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼まで広がる香取海と言う広大な内海があり、その喉元に位置する鹿島と香取は軍事的にも経済的にも要衝だった。

    香取海の周辺は香取・鹿島両神宮の神郡であり、後有力貴族や他の有力寺社が荘園を設定したため神郡が浸食されるが、平安時代末期までは権益は全て両神宮に帰し香取神宮が「浦・海夫・関」も支配した。具体的には東京湾に通じる古利根川水系に関所を設けて、通行料を徴収した。また香取海の港や漁民を支配し、漁撈や船の航行の権利を保障した。(ウィキペディアより)

     「春日大社でしたよね、香取神宮の神を迎えてるのは。」春日大社は藤原氏の建てた神社である。第一殿にはタケミカヅチ、第二殿にフツヌシ、第三殿に藤原氏の祖の天児屋根(アメノコヤネ)、第四殿に比売神(コヤネの妻)を祀る。つまり自らの祖より上位に迎えているのだ。「東日本の人間としてはなんだか嬉しい」と姫が笑う。朝廷と藤原氏に庇護されれば平安時代には怖いものがない。
     本殿の裏から、摂社の鹿島新宮と桜大刀自神社(コノハナサクヤビメ)の間の馬場のような道を抜けると寂れた茶店があった。客は誰もいない。平屋の屋上には自由に登れと書いてあるので登ってみた。しかし樹木が茂りすぎて殆んど眺望が利かない。「どうですか。」「何も見えない。」
     階段を降りると、店の脇に「下総国式内社の碑」があった。碑の面は読めない。説明によれば延喜式神名帳に記載される下総国の式内社十一社と「三代実録」の子松神社の所在地を、清宮(せいみや)秀堅が調査して碑としたもので、文久元年(一八六一)の紀年銘がある。売店からオジサンが出てきて、説明にある通りのことを口頭で説明してくれる。しかし私が知りたいのは、清宮秀堅の正体である。

     文化六年十月一日生まれ。二十七歳で下総佐原村の里正(村長)となる。三十年がかりで地誌「下総国旧事考」をあらわし,維新後は新治県の地誌編集にあたる。(デジタル版 日本人名大辞典より)

     伊能頴則に師事したともある。因みに延喜式で「神宮」の称号があるのは大神宮(伊勢神宮内宮)、香取神宮、鹿島神宮の三社だけだ。「延喜式ってなんですか。」「延喜は年号、醍醐天皇の時代に作られた法律ですね。」正確には「式」は施行細則と言うべきだろう。延喜五年(九〇五)に編纂が始められ、完成したのは延長五年(九二七)である。神名帳に記載された二八六一社は式内社と呼ばれ、格が高いことになっている。
     十一社を調べてみた。香取郡には香取神宮があるのは勿論だ。千葉郡に二座、寒川神社(論社)と蘇賀比咩神社がある。匝瑳郡に老尾神社、印播郡に麻賀多神社(論社)、結城郡には高椅(タカハシ)神社と健田神社、岡田郡に桑原神社。葛飾郡に茂侶神社(論社)と 意富比(オホヒノ)神社。相馬郡に蛟蝄(ミヅチノ)神社。「論社」というのは、候補が二つ以上あるという意味である。
     境内に戻って、海上自衛隊の練習艦「かとり」の碇を見る。「海軍にこの名前の戦艦がなかったですか。」それはロダンしか知らないのではないか。調べてみると確かにあった。日露戦争に備えてイギリスに発注した戦艦だが、実際に就航するのは日露戦争後になった。大正天皇、昭和天皇の皇太子時代の御召艦として使われたが、大正十二年(一九二三)ワシントン軍縮条約によって除籍、解体された。
     太平洋戦争中には、昭和十五年に海軍練習用巡洋艦として「香取」「鹿島」が造られたが、香取は昭和十九年二月、トラック島への米軍大空襲にあって沈没した。海上自衛隊の練習艦については下記の通りだ。

     「かとり」は、第二次防衛力整備計画に基づく昭和四十一年度計画練習艦三五〇一号艦として、石川島播磨重工業東京工場で一九六七年十二月八日に起工され、一九六八年十一月十九日に進水、一九六九年九月十日に就役し、練習艦隊に直轄艦として編入され旗艦となった。定係港は横須賀。
     一九七〇年から一九九三年まで二十四回の遠洋練習航海に参加、この間の延べ訪問国数は二〇九ヵ国(三〇七港)、航程七十一万八千七百七十二浬、育て上げた実習幹部は三千五百三十七名という記録を残した。(ウィキペディアより)

     三本杉の巨木のうち、真ん中は四五メートルの高さで折れ、空洞になってしまっている。説明では源頼義が書かれている。頼義の祈願によって三本に分かれたというのだ。頼義がここに来たのは永承六年(一〇五一)、陸奥守・鎮守府将軍として赴任する途中であろう。

    後冷泉天皇御宇源頼義公が参拝して「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つの願 成就せば此の杉自ら三枝に別れん」と祈願したところ一株の杉が三枝に別れた以来これを三本杉と云う。(立札より)

     「そこの空洞に入っていいのかしら」とアベックが話している。「それじゃ出発しましょう。」要石まで行っていると時間が足りない。「玉垣で囲まれた中に石があるだけなんだよ。」「ナマズを抑えるって書いてるな。」

    香取、鹿島の大神、往古この地方尚ただよえる国であり、地震が多く地中に住みつく大鯰魚を抑える為地中深く石棒をさし込み、その頭尾をさし通した。香取は凸形、鹿島は凹形である。
     伊能頴則「あずま路は香取鹿島の二柱うごきなき世をなほまもるらし」(案内板より)

     ここでも香取、鹿島はセットである。地震の原因を地中の大鯰とする民間信仰は恐らく江戸時代に始まったもので、それ程古い訳はない。安政の大地震の直後には鯰絵が大量に出版されたが、宝永大地震(一七〇四年)の際にはそんな話は出てこない。鯰原因説は幕末のものではないか。
     伊能頴則は幕末から明治にかけての国学者で、佐原の呉服商をやめて江戸で塾を開いた。後に香取神宮の権少教正を勤めた人物である。通称は伊能三右衛門だから、伊能の分家のひとつである。伊能の一族は学者を何人か出していて、忠敬の周囲は学問に近かった。
     土産物店を眺めながら出口に向かう。「ちょっと待って。姫が何かを買ってます。」しかしそうではなく、有平糖の試食をしていたのだ。「アリヘイトウってどんなの。金平糖みたいなものかね。」「違うんです。飴ですね。」「アリが好んで食べる。」「それじゃ座布団外されちゃう。」私もその正体を知らなかった。

     有平糖(アルヘイとう、ありへいとう)とは、砂糖を煮て作られた飴の一種であり、南蛮菓子の一つである。金平糖と共に、日本に初めて輸入されたハードキャンディとされている。阿留平糖、金花糖、氷糸糖、窩糸糖とも呼ばれる。
     語源にはポルトガル語のアルフェロア(alféloa:糖蜜から作られる茶色の棒状の菓子)とする説とアルフェニン(alfenim:白い砂糖菓子)とする説とがある。
     製法は、原料の砂糖に少量の水飴を加えて煮詰め、火からおろした後に着色や整形を行って完成させる。初期の頃は、クルミのように筋がつけられた丸い形をしていたが、徐々に細工が細かくなり、文化・文政期には有平細工(アルヘイ細工)として最盛期を迎えた。棒状や板状にのばしたり、空気を入れてふくらませたり、型に流し込んだり、といった洋菓子の飴細工にも共通した技法が用いられる。江戸時代、上野にあった菓商、金沢丹後の店の有平細工は、飴細工による花の見事さに蝶が本物の花と間違えるほどとされた。(ウィキペディアより)

     佐原香取街道(県道五五線)を西に向かう。田圃が広がる何もない街道だ。外壁に大きな鬼瓦を置いた二階家は建築事務所だ。「サギだ。」田圃の上をオオサギが飛んでいる。観福寺に寄っていれば昼飯が一時頃になりそうだ。「先に飯にしようか。」それで良いと皆の了解を得たのだが、念のために地図を確認すると、それではコースが大幅に無駄になってしまう。香取神宮一の鳥居が建つ県道一六号の交差点で、「ここから一キロなので、やはり観福寺に行きます」と宣言した。
     県立佐原病院がある。「遮るものがなんにもないな。」街路樹がないのである。「あれ何かしら、猛禽ですね。」「トビだね。」

     鳶舞ふや街道の秋なほ暑し  蜻蛉

     「小野川です。」香取市織幡付近に発して北西へ流れ、香取市牧野で香西川を合わせ、佐原市街地を北上して利根川に合流する川である。これが佐原の大動脈で、市内の小野川沿いには豪商の蔵屋敷が建ち並んだ。
     右にスーパーのセイミヤがある。「どういう字かな。」「清宮かも知れないですね。」調べて見ると清見屋である。潮来を本拠として、茨城、千葉県に展開するスーパーだから見かけたことがないのも当たり前だ。「これを曲るとすぐです。」前方左手に森が見えるから、あの辺りかも知れない。歩道がなくなって車道を歩く。
     「ここだ。」「急にあったね。」真言宗豊山派、妙光山蓮華院観福寺。香取市牧野一七五二番地。川崎大師(平間寺)、西新井大師(總持寺)と並んで関東厄除三大師を称している。十二時十七分。森の入口のような山門を潜ると一気に蝉の声が降りかかってくる。ヒグラシ、ツクツクボーシ。参道は木陰になって涼しい。「アジサイが有名なんですよね。」参拝客はいないと思ったら一人いた。本堂は古いが重厚な趣である。平将門の守護仏とされる聖観世音菩薩(木像秘仏)を本尊としている。大師堂、薬師堂、鐘楼。
     「そこから行けそうですね。」階段を上がれば伊能家の墓所である。目的は伊能忠敬の墓参りだ。忠敬は遺言で、師の高橋至時の傍に葬られることを望んだので、遺骨を納めた墓は源空寺(台東区東上野六丁目)にある。従って伊能家の菩提寺であるここには遺髪と爪を納めたのだ。有功院成裕種徳居士。苔生した宝篋印塔や五輪塔が並び、いかにも古刹の趣が漂ってくる。
     楫取魚彦(かとりなひこ)、伊能頴則の墓もある筈だが分らなかった。結構重要な人物なのだから、案内板は欲しい。魚彦は伊能本家(茂左衛門家)の当主で本名は伊能景良、忠敬より二十三歳年上になる。最初は建部綾足の門に入り、後に賀茂真淵に師事して縣門の四天王と称された。この四天王の中では、深川清澄の村田春海の墓(本誓寺)には姫の案内で行った。他に加藤千蔭と加藤宇万伎がいる。
     伊能氏は大須賀氏(千葉流)に随う武士だったと伝える。北条氏滅亡とともに大須賀氏が滅びると帰農した。要するに佐原は伊能氏が開発した村である。明和五年(一七六八)の記録では、佐原村の家数千三百二十二戸、人口五千八十五人というから相当大きな村だ。小野川の東側を本宿、西側を新宿と呼んだ。
     佐原の名門であるが、三郎右衛門家は当主が二代続けて若死にする不運にあって、もう一つの名門である永沢家に後れを取っていた。両家とも佐原の酒造業の草創期からの家である。そこに、元は上総国山辺郡小関村の名主を勤める小関家の次男として生まれた忠敬が養子に入った。忠敬十七歳、妻のミチは二十一歳である。忠敬の父は武射郡小堤村(現在の横芝光町)の酒造家神保家の次男で小関家に婿入りしたが、妻が死ぬと離縁されて神保家に戻った。妻の弟が家督を継いだためである。
     天明元年(一七八四)三十六歳で佐原村本宿組名主となる。忠敬には経営の才があって、隠居する五十歳までに、伊能家の年収を三倍にまで拡大した。
     安永三年(一七七四)忠敬二十九歳の時の伊能家の年収は、酒造が百六十三両三分、田徳が九十五両、倉敷・店賃が三十両、舟利が二十三両二分、薪木が三十七両三分、炭が一両一分の合計 三百五十一両一分であった。
     それが隠居する前年の寛政五年(一七九三)には、酒造が三百七十両三分、田徳・店貸が百四十二両一分、倉敷が三十両、運送が三十九両三分、利潤高が四百五十両一分、米利が二百三十一両一分の合計千二百六十四両二分までに拡大したのである。金融の割合が大きくなったことが分る。
     玉垣には百万円の寄進者の名が彫られている。「伊能家もあるじゃないか。」姫は寺務所で佐原の観光案内を貰ってきた。私が観光案内所で一部二十円で買ったものである。「ご自由にどうぞって書いてました。」「お寺は太っ腹だね。」腹が蹴った。
     「それじゃ昼飯に向いましょう。ここから三十分かな。」「お水がなくなったから、自販機があったら寄って下さいね。」しかし姫は階段を降りる際に足を痛めたらしい。大丈夫だろうか。コインランドリーの店先に自販機はあるが、「あそこに入ろう」とスナフキンはさっきのセイミヤに入って行く。
     「これ、安いぜ。」ペットボトルの水が三十五円である。何かの間違いではないか。飛騨の水とあるから、そんなに変なものではないか。話のタネに私も買ってみた。「エッ、そんなに安いんですか。」姫は百円の水を買っていた。ヨッシーがアイスクリームを買って皆に分けている。「足は大丈夫?」「さっきよりは大丈夫。急にきたんです。」
     さっきは東から来たのだが、これからはほぼ北東に真っ直ぐの道だ。電柱の住所表示が「佐原イ」になってきた。「次はロですか。」イロハニホとあるようだ。「佐原市ってないのか。」「香取と合併したんだよ。」私は香取市と佐原市が合併したのだと思い込んでいた。
     平成十八年(二〇〇六)に佐原市、香取郡小見川町、山田町、栗源町とが合併した。その時点で市は佐原だけだから普通は佐原市に吸収されると考える。「名前は香取神宮に負けてしまいました。」名称は公募で決まった。古代の香取郡の復活とも考えられるが、中心部が佐原であることは間違いなく、現香取市役所は旧佐原市役所である。
     十分程歩けば香取神宮入口の交差点で佐原香取街道と交差する。「ここからが古い家並みが残る地域です。」山車会館(八坂神社内)は後で寄れるだろうか。八坂神社は佐原本宿の鎮守で、夏の大祭はここの祭りである。
     街道には爛漫の額を掲げた見世蔵、二階家の向後酒店、畳屋など木造の店が並ぶ。川越や栃木の蔵造とは違って木造が中心で、なんとなく親しみを感じる通りだ。恐らく明治の頃の建物だろうがこれが今でも営業しているのだ。
     三菱館(大正三年築の煉瓦造り)の隣が忠敬茶屋だ。香取市佐原イ一九〇三番地。通りのこちら側、佐原町並み交流館の辺りから忠敬橋まで、伊能家の貸し長屋が連なっていて、間口三間から四間程の店が入っていたらしい。
     一時だ。広い店内に客は三四人しかいない。昼時を少し過ぎたとは言え、観光地の土曜の昼間としては少し淋しい。ミニ天丼とざる蕎麦のセットが八八〇円、生ビール(恵比寿)が五二〇円。ヨッシーは一番高いうな丼のセット(一二五〇円)にしている。姫とマリーは天ざる。マリオとロダンは何を注文したのだったか。
     厨房のカウンターで注文して前金で支払うセルフサービス方式である。天ぷら定食が八三〇円なのだから高い店ではない。入口付近には忠敬関連の書籍や地図を置いてある。欲しいものもあるが、四千円では手が出ない。
     店内のテレビで佐原祭のビデオを流している。これは山車会館で流しているものと同じではなかろうか。それなら山車会館には行かなくても良いか。私はビデオを見ただけだが、年二回の大祭に繰り出す山車は豪華だ。特に人形が特徴だろう。
     夏祭(八坂神社)にはイザナギ、フツヌシ、タケミカヅチ、アメノウズメ、神武、菅原道真、太田道灌、金時山姥、それに鷹と鯉が出る。秋祭り(諏訪神社)ではニニギ、スサノヲ、神武、ヤマトタケル、仁徳、大楠公、小楠公、小野道風、源頼義、為朝、義経、桃太郎、浦嶋太郎、牛天神、諏訪大神(タケミナカタ?)。
     佐原囃子も情緒があって良い。姫は蕎麦を半分ほども残した。勘定を済ませると山車会館の割引券をくれた。

     店を出たのは一時四十五分だ。「胡麻油の有名店があるんだよ、そこじゃないか。」スナフキンはよく知っている。姫は躊躇いもせずに入って行く。油茂。香取市佐原イ三三九八番地。店は明治二十五年(一八九二)の建築である。「寛永年間創業。現存最古の油屋です。(新潮社認定)」というのがなんだかおかしい。

    当社は製油業として、創業以来三五〇余年の歴史を有する老舗です。
    戦前までは菜種油を搾油し、戦後は現在の二十二代目当主に至るまで頑固なまでに、数百年間受け継がれている「玉絞め」という、古式搾油法にこだわって製造を続けてきました。
    味を保つ為に、事業を拡大することなく、「玉絞め一番搾りごま油」を中心に生産しています。
    現在、工場で使用している機械も大正年間から稼動しているものです。
    本当に良いものを作り上げるのは大変手間ひまのかかるものですが、これからも当社では時代の趨勢におもねることなく、これからも最上のものをめざして製品作りを続けます。(油茂製油 http://www.abumo.com/)

     隣の「すずめ焼き」の暖簾の掛かる麻生屋本橋元店は天保三年(一八三二)創業の川魚問屋で、店頭には各種の佃煮が置かれている。香取市佐原イ三四〇〇番地。姫はここで佃煮を買った。お母さんへのお土産のようだ。ウナギの佃煮と言うのもあるが、大き過ぎて佃煮の感じがしない。この通りにはこんな店がズラリとならんでいるのだ。時間があれば一軒一軒覗いてみたい。
     そして小野川に出る。橋は忠敬橋。橋を渡らずに川に沿って左に曲れば忠敬旧宅だ。住いと店を兼ねている。家の前に架かるのが樋橋(とよはし)で、別名ジャージャー橋と呼ばれる。事前にスナフキンから案内を貰っているが、どんなふうに水が流れるのか想像もつかない。
     店先の土間に面した八畳程の部屋はそれほど大きなものではないが、その奥に部屋はいくつあるのだろう。店舖部分は店と居間を含んで建坪三十二坪、母屋は玄関、書斎、納戸などの五室で建坪二十四坪である。
     「何を売ってたんですか。」「酒、米。」庭もかなり広いが、当時はこの五倍ほどの敷地があったらしい。「象限儀ですよ、すごいな、これは。」ロダンが感激するのは、半径三尺八寸の円を四分の一にした大きさだ。とにかく忠敬に関してはスゴイとしか言いようがないのである。庭に出れば江戸時代初期の土蔵がある。観音開きが普及する以前で、戸は引き戸だ。忠敬が隠居する際、息子に渡した家訓が御影石に彫られている。

    第一 仮にも偽をせず孝悌忠信 にして正直なるべし
    第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし
    第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ少も人と争論など成べからず

     「音が聞こえますよ。」外に出ると橋から水が流れ落ちている。なるほど、ジャージャー橋である。橋の両側面の底に一メートル半程の幅で口が開いて、水が川の真中に流れ落ちるのである。本来は灌漑用水を川の東西に引くための樋であり、その上に板を渡して橋にしたものである。今はその役目がないから、観光用に日中三十分毎に水を落とす。ちょうど二時である。珍しいものを見た。

     秋晴れや橋より落つる水の音  蜻蛉

     橋を渡って突き当りが忠敬記念館だが、敷地内右側の「東京バンドワゴン」と看板が掲げられた店も伊能家に関係している。「東京バンドワゴン」というのはテレビドラマの題名で、そのロケ地になったらしい。私は見たことがないので全く知らなかったが、ドラマでは古本屋、実際には「遅歩庵いのう」というカフェである。当主は伊能本家十七代目と言う。香取市佐原イ一七二一番地一。店頭にこんな張り紙がしてある。

    店名遅歩庵いのうの由来
    伊能本家九代楫取魚彦(国学者・画家)号遅歩庵、分家忠敬の遅い歩きだしで大成した両方を取り店名に。

     本家(茂左衛門家)と分家(三郎右衛門家)の簡単な系図も書かれている。魚彦についてははさっきの観福寺でも触れたが、伊能本家(茂左衛門家)の当主である。忠敬は分家の三郎右衛門家だ。小野川を挟んで向かい合わせに本家と分家があったことになる。そしてその茂左衛門家の敷地に忠敬記念館が建っているのだ。入館料は五百円だが、六十五歳以上は五十円引きである。二時十分から解説があると言うのでそれを待つ。
     最初は縦一間程の、伊能図と衛星写真を重ねたものの説明である。緯度は殆んどぶれていないが、北海道と九州は経度が違うようで、伊能図は僅かに東にずれている。地球は自転しているので正確な経度を測るためには正確な時計が必要である(ということを初めて知った)。しかし忠敬の時代にそれはなかった。それでも形は全く同じだ。北海道の北半分は、忠敬は実測していないので間宮林蔵の調査結果に基づいた。間宮林蔵についてはシーボルト事件でのスパイ説が消えない。
     因みに忠敬が算出した緯度一度は二十八・二里、換算すれば一一〇・七五〇キロメートル。現代では一一〇・九九六キロメートルとされているので、一度で二五〇メートルの誤差しかない。これは驚異的なことだった。元々高橋至時や伊能忠敬の目的は子午線の長さを確定し、地球の大きさを求めることだった。地図製作は実はその副産物である。
     各種の測量器具も並べてある。彎窠羅鍼(ワンカラシン。杖の先に羅針盤を取り付けた)、半円方位盤、中小象限儀、量程車、鉄鎖(内法一尺の鉄線を六十本繋げた)、間縄(六十間)、梵天。解説者の声は眠気を誘う。もうちょっと、メリハリをつけてもらえると有難い。ただ一番前で聴いている女性は、一言ごとに深く頷いている。ヨッシーはベンチで眠り、姫は一瞬の眠気で足がカクンとしたと笑う。
     伊能図(大図)の本物に出会うのは貴重な体験だ。長く公開していると色が褪せてしまうと言う。幕府は紅葉山文庫に秘匿して、公開したのは慶応三年のことだった。それを説明するならシーボルト事件に言及するかと思えば、それにはいかない。
     「一歩が六十九センチなんですよね。」これはロダンの知識である。それはかなり大股である。私たちは通常一歩六十センチで計算する。歩幅六十九センチならば、走るように歩いていたのではないか。忠敬が日本列島を歩いた距離は四万三千七百八キロメートルとされる。とすれば六千三百三十四万歩を越える。井上ひさし『四千万歩の男』は一歩九十センチ以上で計算したようだが、それはなんぼなんでも大き過ぎる。桐生祥秀は百メートルを四十七歩で走った。単純計算で一歩が二一二センチになる。
     「箱根の山道なんか、同じ歩幅で歩けないですよね。」山道は角度を測って、間縄や鉄鎖を使って測ったのではあるまいか。量程車は、路面が平らでないと誤差が大きすぎるので殆ど使われなかったようだ。ガイドの人は量程車を高橋至時の発明だと言っていたが、国土地理院では忠敬の考案としている。
     記念館を出たのは三時だ。ロダンがお菓子を取り出そうとしたが、こんな街中では面倒くさい。「ちょっと歩いて忠敬の像を見て駅に帰ります。公園になってますから、お菓子はそこで食べましょう。」小野川沿いにも旧家はたくさんあり、レストランを経営しているのもあるのだが、今日は時間が足りない。
     中村屋は明治十八年の建築、小堀屋本店(天命二年創業の蕎麦屋)は明治二十三年、福新呉服店は明治二十六年の建築だ。明暦三年創業の虎屋菓子舗、その隣が紀の国屋(陶漆器)。「キノクニヤなんてどこにでもあるよ。」古本の武雄書店はたい焼き屋を兼業しているようだ。
     馬場本家と東薫酒造が並んでいる。東薫酒造は、毎時ゼロ分と三十分に行けば無料で見学できるので予定には入れておいたのだが、この時間ではちょっと無理だ。三時五十八分の電車に乗りたい。「福島の人から東薫酒造のお酒を戴いたことがあるんです。だから福島かと思ってました。」「試飲ができると思ってたんだけどな。」たぶんそうだと思うがしかたがない。

     江戸初期(一六六一~七三年)に伊能三郎右衛門(伊能家の先祖)が常陸(茨城県)の牛堀平八郎から七〇石の酒造株を買い受けて始めた。
     江戸中期(一七八七年)には一村で三十五軒の酒造家がおり、他に類例が少ない「関東灘」の異名を持っていた。
     当時もっとも大きな酒造屋は永沢次郎右衛門の千六百七十五石、次いで伊能三郎右衛門の千四百八十石で千石酒造屋が二軒もあった。(両家とも一八二六年には酒屋株を他へ譲り渡している)
     現在は香取街道沿いにある、東薫酒造と馬場本家の二軒となっている。
     下総佐原に東薫酒造は、江戸時代の華やいだ文政八年(一八二五年)に創業しました。
     日本地図を作りあげた偉人伊能忠敬。その伊能家は前述の通り、佐原で酒造業を営む名主であり東薫酒造の創業者は、伊能家に弟子入りし、酒造業を習得発展させたと伝えられております。

     突き当りは法界寺(浄土宗)だ。理智山照徳院。香取市佐原イ一〇五七番地。この寺のことは何も知らなかったのだが、下見の時に門前の煙草屋でタバコを買って境内に入ったのだ。ずっと歩いていて、コンビニというものに巡り合わなかった。
     「佐原喜三郎のお墓があるんですが。」しかし誰もそんなものに興味はない。「別に寄らなくて良いです。」喜三郎については子母澤寛『游侠奇談』で読んだ記憶があって、確認するとやはり間違いなかった。佐原の豪農本郷武右衛門の倅が身を持ち崩してやくざになり、父の財力を基盤に売り出した。博打の胴元になったのである。しかし天保七年(一八三六)三十一歳の時、芝山の博徒・仁三郎を殺して八丈島に流された。

     喜三郎は細おもての、鼻筋のすっきりとした何んとも言われるいい男であったという。字もよく書いたし、多少の学問もあり、絵などは素人とは思われぬうまさである。それにこの頃この辺でひどく流行っていた義太夫も上手に語ったし、小唄などもうまく、まことに小粋な渡世人であった。(略)
     仁三郎を殺して、御用弁になったが、お上表は、ただのばくち貸元凶状。人殺しでは当然首はないが、貸元凶状なら重く行っても遠島で済む。これにはおやじの武右衛門が屋敷や、田畑を人手に渡して莫大な金を使った。(子母澤寛『遊侠奇談』より)

     天保九年(一八三八)七月、吉原の遊女花鳥等七人で島抜けに成功したものの、三ヵ月後に江戸で発見されて捕縛された。花鳥は十五歳で火付けをして島流しになっていたのだが、この島抜けで山田浅衛門によって斬首された。この時、花鳥は二十九歳である。しかし喜三郎は父の財力のお蔭で、蔵前の札差から金が差し入れたこともあって死罪を免れた。七年間の獄中生活で、自身の島抜けの記録「朝日逆島記」を著して幕閣に提出し、減刑されて江戸十里四方御構いとなった。
     八丈島のことなんか幕府上層部は何も知らなかったから、喜三郎の著した三宅八丈の地理、生態、風俗の記録は貴重だった。例えば八丈の言葉については、

    一、亭主之事ヲ   アセイドノ ト云
    一、女房ノ事ヲ   アネイドノ ト云
    一、能キ衆ノ男子ヲ ダンナ   ト云
    一、同女子之事ヲ  トノ    ト云

     等である。民俗学というか方言学というか、そのハシリである。その他にも島抜けの状況を詳細に記したものもある。しかし放免された数ヶ月後には労咳で死んだ。喜三郎はやくざではあるが読書人でもあった。一般に佐原の町人の文化レベルは高かった。因みに墓前の解説では、やくざで漢詩人として有名な讃岐の日柳燕石(クサナギエンセキ)と比較している。
     この辺りから潮来、銚子にかけて天保水滸伝の笹川繁蔵も飯岡助五郎もいた。商品流通が盛んになり現金が動くと、そこにやくざが発生するのである。生糸によって上州にやくざが発生するのと同じだ。
     寺の右から道なりに回り込めば五分程で諏訪神社だ。佐原新宿の鎮守である。「階段がきついんだ。」猛暑の中の下見では、階段を上るのが一苦労だった。勿論今日は寄らない。そしてその隣が佐原公園になっていて伊能忠敬の像がある。ここで休憩しよう。
     「これが伊能先生ですか。」「これだけ大きいと、井伊直弼みたいだな。」確かに横浜の井伊直弼の像は大きかった。忠敬の着物の丈が一三五センチなので、身長は一六〇センチ程度だったろうと言われる。
     台座には「仰瞻斗象 府畫山川」とある。「何て読むんですかね。」「そこに説明が書いてあるよ。」仰いでは斗象を見、府しては山川を描く。大正八年に造られた像である。

     台座の高さ約五・五メートル、像の高さ約三・三メートル。脇に角度を測る方位盤を据え、右手に筆、左手には測量データを記録する野帳を持つ、測量中の姿をした立派な銅像です。
     作者は日本近代彫刻の先駆者として著名な大熊氏広氏によるもので、彼の代表的な作品には「有栖川熾仁親王像」や東京国立博物館表慶館正面の「ライオン像」など百を越えます。そして石の台座には、漢学者として有名な塩谷青山による「仰瞻斗象 俯画山川」(天体を観測し、地図をつくる)と刻まれています。(香取市「アーカイブ香取遺産」より)

     大熊氏広については、日光御成道の途中で立ち寄った鳩ヶ谷郷土資料館の展示室で初めて知った。靖国神社の大村益次郎も大熊の作品である。
     ロダンが煎餅、ヨッシーは様々な菓子、姫は塩飴をくれる。三時半だ。「それじゃ駅に向かいます。」私は十分程と言ったが五分で着いてしまった。「そこの観光案内所だよ。観光マップを買ったのは。」駅前に大きな商業施設はない。田舎の駅であるが、入り口に紺の暖簾が掛かっているのが珍しい。本日の歩数は一万九千歩。十一キロ程度になったか。
     小野川沿いをもう少し歩いて見たかったのと、東薫酒造の見学ができなかったのが残念だが、そこを回るにはあと二時間は欲しいところだ。それでは帰りが無茶苦茶遅くなってしまう。
     ホームの北側に大きな建物がある。「何だろう。」「合同庁舎です。」「やっぱり佐原市だよ、香取市じゃない。」成田行きのホームではかなりの人が待っている。「やっぱりこの時間になるね。」この後だと帰りが遅くなるのだ。それでもなんとか全員が座ることができた。四時二十七分に成田に着く。ここで四時三十八分の我孫子経由快速上野行きに乗り換えた。今日の反省会は新松戸に決めた。
     ヨッシーはこのまま上野まで行く。「昨日も、明日も明後日も出かけるので。」来年八十歳になるとは思えない元気だ。柏には五時二十九分に到着し、各駅停車に乗り換えて新松戸で降りる。「さて、どうしようか。」そこに土間土間の客引きのアンちゃんが現れた。「飲み放題千円か、総額の一割引かどちらかサービスします。」土間土間なら変な店でもないだろう。「ちょっと高い店だけどな。三杯飲めば元が取れる。」そうだったか。
     看板はビルの屋上に掲げられていたが、店は地下である。「おかしい、最上階かと思ってました。」ビールで乾杯。旨い。突き出しは糸こんにゃくを甘辛く煮たもので、味が濃い。黒酢も入っているのではないか。姫は苦手だと言ってスナフキンに回す。
     漬物盛り合わせは非常に上品で、つまり小さく少なくて物足りない。「それじゃ胡瓜の一本漬けを。」「その言い方はおかしいな」とマリオが言いだした。「胡瓜は必ず一本丸ごと漬けるでしょう。一本漬けでない胡瓜ってあるのか。」言われてみれば道理である。
     焼酎のお湯割りはとても薄い。水割りにしたスナフキンもロダンも薄すぎるとぼやく。「ワインにしようぜ。」赤ワインのデキャンタに切り替えた。これなら薄める筈はないだろう。デキャンタをいくつお代わりしたろうか。二時間飲んで一人三千円もいかなかった。
     「もう一軒いいじゃないか」とスナフキンが言い出した。マリオはここで別れる。次の店では日本酒にした。焼き鳥を頼んで一時間ほどでお開き。家に着いたのは十一時を回った頃である。


    蜻蛉