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    第七十三回  日比谷・霞が関・永田町・紀尾井町・赤坂
       平成二十九年十一月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.11.21

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     旧暦九月二十三日。立冬の初候「山茶始開(つばきはじめてひらく)」。午前中まで雨が残るかと心配したが、起きた時にはどうやら止んでいる。それでも風が強くなれば寒くなるだろう。このところ急激に冬が近づいてきた。
     今回はヤマちゃんの企画で、集合場所はJR有楽町駅日比谷口だ。今年は箱根、佐原、取手と遠出が多かったが有楽町なら近い。そう油断したせいか、家を出るのがぎりぎりになってしまった。池袋から地下鉄有楽町線に乗ったのは良いが、有楽町でホームの案内を見ると、日比谷方面とJR駅方面が全く逆になっている。これは悩むネ。集合はJRの出口なのだから取り敢えずJR方面を目指して地上に出ると京橋口に出てしまった。
     定刻まであと三分しかない。日比谷口はどう行けば良いのか。ガード下を潜って反対側に行ってみれば国際フォーラム口で、ここには駅員の姿がない。もう一度京橋口に戻って駅員に場所を訊き、左に走って中央口を過ぎた所でガード下を潜る。左を見るといた。十時ぎりぎりで、既に皆は集まっている。「電話がないから来るとは思ってたけどさ、遅いよ。」 
     今日の参加者はヤマちゃん、ハイジ、あんみつ姫、マリー、ヨッシー、マリオ、スナフキン、桃太郎、蜻蛉の九人になった。「七五三の写真は持ってきたの?」とハイジが笑う。先日の近郊散歩の会の後、見せびらかす積りで忘れてきたと作文に書いていたからだ。「持ってきたよ。後で見せるよ。」

     今日予定されている場所は何度かコースを変えて歩いているが、何か所か気付かなかった所もある。日比谷見附跡の石垣を見て、日比谷公園に入ると東京都観光菊花大会の最中だった。「これってケンガイでしたっけ?」「菊は分らないよ。」(正確には菊「も」分らない)。大菊盆養(厚物・管物)・大菊切花・盆栽・江戸菊・懸崖・だるま(厚物・管物)・福助(厚物・管物)・実用花・ドーム菊等の種類があるらしい。
     「先日、団子坂を歩きました。菊は団子坂ですよね。」姫は良く歩いている。団子坂の菊人形は安政から明治末年まで続いた。美禰子(漱石『三四郎』)は菊人形を見て気分が悪くなり、その後で「ストレイシープ」と謎のような言葉を呟く。男を翻弄する手管を知っているのだ。
     それはさておき、菊に限らず、江戸時代は世界にも稀な園芸の発達した時代であった。元禄期までは樹木を中心に上層階級に普及し、大名たちは競って庭園を造った。その頃の作では小石川後楽園、六義園等がお馴染みだ。染井村で桜の新種が開発されたのもその頃だろう。
     文化文政以後は庶民の間に草花がブームとなって、貧乏御家人は内職として花を育てた。大久保の百人同心によるツツジ、下谷御徒町の徒組による朝顔が有名だろう。全国的にも花合わせ(品評会)が行われ、新種の開発が進んだ。中心になったのは露地植えではなく鉢植えである。江戸庶民の住む下町では植木鉢が不可欠で、それが普及したのもこの頃だ。
     渡辺京二『逝きし世の面影』によれば、江戸時代から明治初期に来日した外国人は、一様に日本人の花好きに注目した。幕末に来日したイギリスのプラントハンターであるフォーチュンはこう書いているそうだ。

     ・・・・・日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生まれつき花を愛し、二、三の気に入った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見出していることだ。仮にこのことが一国民の文明の高さのしるしだとするならば、日本の下層階級はわが国のおなじ階級とくらべるとき、大変有利な評価を受けることになる。(渡辺・同書)

     またイザベラ・バードは「もっとも貧しい階層の住居」を見ながら、「粗末で狭く黒ずんだ住居のほとんどすべてが、寺院の庭師が羨望にかられるような盛り上がった大輪の菊を少なくとも一鉢は飾っていた」と書いた。渡辺はこれを失われた徳川文明のしるしだと見ているのだ。
     公園を出ると、弁護士会館の脇に大岡越前守忠相の屋敷跡の解説板が立っている。大名になった後の屋敷だ。忠相が三河国西大平(現岡崎市)一万石の大名になったのは寛延元年(一七四八)七十二歳の時であり、町奉行から大名になったのは江戸時代を通じて忠相しかいない。それまでは大名が任ぜられる寺社奉行に就いていた。寺社奉行は奏者番を兼帯するのが通常だったが、大名でないために奏者番にはなれず、城内に専用の部屋が用意されなかったと言う。「意地悪されたんですよね。」
     「大岡越前と遠山の金さんには共通点があるんですよ。」あんみつ姫が笑いながら披露する。「二人とも痔が酷くて馬に乗れなかったんです。登城の際には乗馬が原則ですが、特別に駕籠の利用を許されました。」この話は私も聞いたことがあるが本当だろうか。忠相が痔で公務を欠勤したことがあるのは日記に書いてあるらしい。
     ウィキペディア「遠山景元」の項では「景元の身分では駕籠での登城は許されていなかったため、疾病を理由に申請した」とある。しかし一般に布衣(六位相当)以上は原則として駕籠登城が許されていたのではないか。ウィキペディア「町奉行」にも、「町奉行は高位の旗本の就く役職で、移動の際には駕籠に乗り、二十五人程度の同心や従者を伴っていた」とある。但し武官(番方)は原則として騎馬で登城した。
     このように、ウィキペディアの情報も違う項で別々のことを言うものがあるので注意が必要だ。但し通常は大手門の外で駕籠を降りるが、特別に許可を得るとその先まで行けたので、そのことかも知れない。遠山景元の場合は町奉行になる以前、西丸小納戸役当時のことらしいが、小納戸役も布衣であり大手門までの駕籠登城は許されていた筈なのだ。
     東京地裁の角を曲がる。赤レンガは旧法務省の建物である。法務史料展示室は平日のみの開館だから今日は入れない。

     明治政府は、諸外国との条約改正に先立ち、近代国家としての体制を整えるため、明治十九年(一八八六年)に西洋式の建築による官庁集中計画に着手しました。そして、その計画案の策定のためにドイツの高名な建築家で、共同の建築事務所を開いていたエンデとベックマンを招へいしました。
     まず、ベックマンが来日し、大規模な官庁集中計画案を作成しましたが、その帰国後、完成案を持ってエンデが来日しました。エンデは、当時の政治状況や反対者の意見を考慮して、ベックマン案を縮小し、日比谷に諸官庁を建てる案を作成しました。
     実際に建てられたのは、司法省と大審院(後の最高裁判所)の建物でした。司法省の庁舎(赤れんが棟)は、明治二十一年に着工され、同二十八年に竣工しました。赤れんが棟は、関東大震災ではほとんど被害を受けませんでしたが、昭和二十年の戦災によりれんが壁とれんが床を残して消失しました。戦後、同二十五年までに改修され、その後、法務省の本館として使用されてきました。そして、平成三年に復原改修工事が始められ、平成六年に創建当時の姿に復原されました。(法務省)

     法務省の敷地の角には米沢藩上杉家江戸藩邸跡の案内がある。法務省の場所で七千四百三十二坪あった。「左遷されたんだよね。」こういうものも「左遷」と言うのだろうか。関ヶ原の後、会津百二十万石が米沢三十万石に減知転封された。それでも家臣の数を削減しなかったから、台所は常に火の車だった。
     更に三代藩主綱勝が無嗣子のまま急死して断絶の危機に陥った。保科正之の斡旋で吉良上野介の子の綱憲を末期養子の形で迎えたものの、不行き届きとして十五万石に減知された。さすがにこの時は下級家臣千人以上を解雇したらしいが、それでも家臣は五千人を超えていた。慶安の軍役規定によれば十万石で二千百五十五人、単純計算して十五万石なら三千三百人が相場だった。
     向かいに見えるのが桜田門だ。「あの辺で井伊直弼が殺された。」安政七年三月三日(一八六〇年三月二十四日)の朝のことである。彦根藩邸(国会の辺り)から桜田門まで僅か四五百メートルの距離で、総勢六十人程の行列だったが、雪のために視界が悪かった。襲撃したのは水戸の脱藩浪士十七人と薩摩の一人である。
     しかし桜田門には以前に行っているから今日は寄らない。「霞が関跡」の標柱が立っている。「江戸時代にも関所があったのかな?」「古代中世の話だよ。」

     霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。
     千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という史料の「上古ハ荏原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、『江戸名所図会』という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導きだされています。
     また、名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。

     平安時代の奥州街道ならば後の鎌倉街道下道に相当するだろうか。丸子辺りで北に向かう中道(渋谷、中野から岩槻方面に抜ける)と分かれ、江戸湾に沿って上野を通って浅草で隅田川を渡り、国府台、馬橋(松戸)を経て水戸方面に向かう道である。おそらく在原業平も通った道筋で、これなら解説にある「荏原郡の東境にあった奥州路」と合致する。その関だったろうか。
     鉄柵の中でピラカンサスの真っ赤な色が鮮やかだ。国会前の通りに入れば銀杏並木の紅葉の具合が一律でなく、緑から薄い黄色まで微妙なグラデーションをなしている。見頃と言うにはまだ早い。「日当たりが違うんだろうね。」「ギンナンは余り落ちてませんね。」「掃除してるんだろう。」「これが国会議事堂の正面です。」そこを通り過ぎてヤマちゃんは国会前庭洋式庭園に入っていく。
     「ここです。日本水準原点。」ロダンの好きな場所である。しかし日本水準原点標庫のそばに立っている黒御影石の解説碑は記憶がない。「俺も記憶がない。平成二十三年の十月ってあるな」とスナフキンも言う。記録をひっくり返すと、ロダンの案内でここに来たのは平成二十三年七月のことだったから(第三十五回「日本の測量原点を訪ねて編――日本経緯度原点・日本水準原点・三角点・几号水準点」)、その時はまだなかったのである。
     東京湾平均海面からの標高は平成二十三年(二〇一一)十月二十一日以降、二十四・三九〇〇メートルと定められた。「しょっちゅう変わるんだね。」原点を設置した明治二十四年(一八九一)には二十四・五〇〇〇メートルだった。関東大震災、東日本大震災で沈下したのだ。
     名水桜の井は、もともと加藤清正が掘ったとされている。加藤家が熊本に転封された後、ここは彦根藩井伊家の上屋敷になった。井戸はその表門の外にあり、井伊直弼はここから出発したのである。井伊家の屋敷の広さは一万九千八百十五坪、明治になって参謀本部・陸軍省が置かれ、昭和二十七年(一九五二)に衆議院の所轄になった。
     十時五十分。八時過ぎに家を出てからここまで煙草を吸っていない。東京は喫煙者には冷たい街である。他に誰もいないので木の間に隠れて煙草を吸う。ネズミモチの大木を見て姫とハイジが驚いている。ブドウのような実が大量に生っているのだ。「まだ完全には黒くなってないのね。」まだ灰色に近い。
     「ハナミズキの実は食えるのかな?」「食えないと思う。」「プラタナス。」「スズカケだね。友と語らん鈴懸の経。恩師が唯一歌える歌だったよ。」「それじゃ憲政記念館に入ります。トイレもあります。」

     憲政記念館は、一九七〇年(昭和四十五)にわが国が議会開設八十年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、一九七二年(昭和四十七)三月に開館しました。(中略)
     一九五二年(昭和二七)にこの土地は衆議院の所管となり、一九六〇年(昭和三十五)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎行雄記念財団によって尾崎記念会館が建設され、衆議院に寄贈されました。 その後これを拡大して憲政記念館となりました。

     しかし「議会制民主主義についての一般の認識」は深まるどころか、今や憲法は政権の思うがままに捻じ曲げられ、立法も司法も内閣に支配されて三権分立さえ存亡の危機に立っている。「最高裁判事の木澤克之は加計学園の監事だからな。」スナフキンは良く知っているね。これは安倍政権による異例の人事であり、誰も止めることができなかった。憲法は政権の暴走を抑止するためにあるという基本的なことさえ忘れられようとしている。

     落ち葉踏む音のかそけき永田町  蜻蛉

     咢堂尾崎行雄は安政五年(一八五八)相模国津久井郡又野村に生まれた。十一歳で番町の平田鉄胤の塾に入り、父の転勤に伴って高崎の英学塾で学んだ後、慶應義塾に入った。明治二十三年(一八九〇)の第一回衆議院議員選挙で当選して以来、昭和二十八年(一九五三年)吉田茂のバカヤロー解散による選挙で落選するまで、議員勤続六十三年に及んだ。その間、明治三十六年(一九〇三)から四十五年(一九一二)までは東京市長も兼務しているのである。市長時代にワシントンに桜の木を贈り、その返礼としてハナミズキが日本に齎された。昭和二十九年(一九五四)十月六日に九十五歳で亡くなった。
     護憲運動に参加し、五・一五事件で犬養毅が暗殺されて政党内閣が終焉した後は、一貫して軍部内閣、翼賛体制を批判した。そのために「憲政の神様」と呼ばれた。
     二階に上がると、歴代総理大臣の書が展示されている。野田佳彦「正心誠意」は小学生のようだ。管直人「草志」も小学生の習字だ。「お前がそれを言うか」と言われるのは覚悟の上だが、文字が下手だと知性まで疑われてしまう。麻生太郎「天下為公」はいい加減な崩し字で、特に「公」の崩し方が嘘である。安部晋三「至誠」、森嘉朗「切磋琢磨」、小泉純一郎「無信不立」。しかし書についてはハイジに任せたい。私は論じる立場にない。
     「田中正造の直訴状があったんじゃなかったかな。」私もここで見たような気がしたが、違っていた。どこで見たのだろう。原本ではないが、古河の雀神社近くの水没した旧谷中村を見下ろす土手に立つ「田中正造翁遺徳之賛碑」に全文が彫られている。それについては「日光街道 其の九」に書いた。田中正造は議会に絶望したから直訴を決行したのである。
     一階に戻ると喫煙室があったのは有り難い。窓からは池の中に右手で帽子を振る尾崎の像が見える。

     三宅坂の角の、最高裁の向かい側の三宅坂小公園に入る。千代田区隼町四丁目二番。三人の女性裸像が立っているのは日本電報通信社の広告記念像だ。この台座の上には、元は元帥寺内正毅の像が建っていたらしい。

     広告が我が国の平和産業と産業文化の発展に貢献した事績は極めて大きい。創立五十年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当たり、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功労を永久に偲ぶこととした。

     裏面には大橋佐平(博文館主)、岸田銀次郎(初代吟香)、小林富次郎(ライオン歯磨)に始まる人名が列挙される。しかし広告が常に平和に貢献してきたものでないのは言うまでもないだろう。ちょっと目に付いた戦中のポスターを例に挙げてみよう。
     「空爆にキャラメル持って」(森永キャラメル)、「戦線の兵隊さんに慰問品を」(松坂屋)、「戦争と髪」(花王シャンプー)「ドイツのラヂオ政策」(ナショナル)、「戦勝てり我國産車 見よ!この威力この成果」(トヨタ)、「戦車の様に」(トンボ鉛筆)、「スパイに注意」(三菱鉛筆)、「富士のフィルム 写真で翼賛」(富士フィルム)、「勝つか負けるかの瀬戸際だ」(安田生命)、「沈黙!一人一人が防諜戦士」(井筒屋商店)。広告は常に時代の最も優勢な側についてきた。国家権力にとっては人心を操作する最も有効な武器であることも言うまでもない。

    もっと使わせろ/捨てさせろ/無駄使いさせろ/季節を忘れさせろ/贈り物をさせろ/ 組み合わせで買わせろ/きっかけを投じろ/流行遅れにさせろ/気安く買わせろ/混乱をつくり出せ

     これは一九七〇年代に作られたという電通の「戦略十訓」である。消費を煽るのは資本主義の本質だが、不要不急のものを買わず倹約とか節約を言っていた時代の方が懐かしい。昭和四十八年(一九七三)に三十七歳で自殺したCMディレクター杉山登志の遺書も記憶しておきたい。

    リッチでないのにリッチな世界など分かりません。ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。「夢」がないのに 「夢」を売ることなどは……とても……嘘をついてもばれるものです。

     それよりも大事なのは、ここが渡邊崋山の生誕地であることだ。「田原で生まれたんじゃなかったの?」崋山の父は江戸詰めであった。三宅坂の名の通り、ここは三河国田原藩三宅氏の上屋敷のあった場所で、崋山はこの屋敷内の長屋で生まれたのだ。
     「田原がある渥美半島は三河っていうより、感覚的には遠州に近いんだ。」スナフキンはあの辺の風土に詳しい。私は全く無学なので改めてウィキペディアを覗いてみると、島崎藤村『椰子の実』の舞台になった伊良湖岬のあるところだ。私はなんとなく、『椰子の実』は紀伊半島の辺りかと思っていた。

     崋山名は定静(さだやす)、通称は登、田原の三宅家の士である。寛政五年九月十六日に、江戸麹町半蔵門外の藩邸に生まれた。三宅家は児島高徳から出たと伝へられる旧家であるが、石高は僅か一万二千石余に過ぎず、当時は甚だしい財政難に陥つてゐた。崋山の父定通は、後には年寄役にも挙げられたが、やうやう百石四人扶持の小禄で、家には崋山を頭に八人の子があり、その上に定通は二十余年も病床生活を送つて居り、崋山はいひやうもない貧困の裡に人となつたのである。(森銑三『渡邊崋山』)

     禄高百石とは言いながら、藩の財政難による削減で実収は十二石しかなく、崋山は生涯貧困に苦しんだ。しかし収入を得るため金子金陵、谷文晁に学んだ絵は一家をなした。崋山の絵で有名な鷹見泉石(古河藩家老)の旧宅には、私たちは日光街道の途中、古河で立ち寄っている。
     漢学は松崎慊堂に学び、また高野長英、小関三英と知って海外事情にも通じた。崋山自身語学はできなかったが、蘭法医のグループとは別に、海外情勢に目を向けるグループを組織して「蘭学の施主」と呼ばれる程になった。
     江戸時代の学芸の人で、崋山ほど人として優れた人物を私は知らない。「以前、大山街道で『游相日記』を紹介して貰いましたね。お銀様を探す旅。それまでただ絵を描く人だとばっかり思ってました。」あんみつ姫はよく覚えていてくれる。「大山街道を歩く 其の五(すずかけ台駅から海老名駅まで)」に書いたことだが、あれを読むと崋山の人柄が良く分かる。
     天保二年(一八三一)のことである。お銀様は、十三代藩主三宅康明の異母弟友信の生母であり、屋敷を下がって既に農家の妻女になっていた。その再会の場面は感動的である。そして旅の途中では、田原藩の家老であり当時最先端の知識人でありながら、庶民とともに酒を飲み率直に談笑する。庶民もまた崋山に心を許して平気で政道批判を口にする。

     ・・・・天保四年の春には田原に赴いて、暫く同地に滞在したが、往復の路銀として賜つた六両はとうに使ひ果たして、客中苦しいこと限がない。仕方なしに衣類を質に入れて、わづかに二分二朱の金を得て、辛うじて一時を凌ぐといふことを、やはり日記に書いてゐる。崋山は後年に於ても、常に窮迫の状態にばかり置かれてゐた。
     崋山ほどの人物が、さやうな気の毒な生活を続けてゐた事実には、同情に堪へないものがあるが、さうした貧窮にまつはれながら、崋山その人には少しも貧乏臭いものがなかつた。崋山の性格はどこまでも明るく、のどやかであつた。心には綽々たる余裕があつた。その顔には、いつも春風が吹き渡つてゐた。人の窮乏を見ては心から同情して、己も苦しい中から、着てゐる着物を脱いで与へてまで、これを救はうとした。崋山ほど貧乏の経験を十二分に持ちながら、崋山ほど貧乏の匂のしなかつた人も珍しい。(森・同書)

     「馬琴の息子宗伯と親しくて、宗伯が死んだ時は、そのデスマスクを描いてくれって馬琴に頼まれるんだ。」宗伯(画号は琴嶺)とは金子金陵の下で共に絵を学んだ間柄である。その縁で馬琴の家にはしばしば訪れ、あの狷介で猜疑心の強い曲亭馬琴に信頼された。
     天保十年(一八三九)崋山や高野長英は鳥居耀蔵のフレームアップによる蛮社の獄で捕らえられた。無人島渡航計画は関係ないと分かったが、崋山が草稿として家に秘匿していた『慎機論』が、幕府批判であると罪に問われた。これに対して師の松崎慊堂が必死の助命嘆願をした。「嘗て外に露したるものにあらず」「屋捜しをして反故取出、吟味仕らんには、誰かは罪人ならざらん。」慊堂は、鳥居耀蔵のやり口が卑劣だと言っているのだ。ひとたび権力が決断すれば、どんなことでも罪にできる。明治四十三年の大逆事件(幸徳事件)もそうだった。共謀罪はその危険を大きく秘めているのである。
     小関三英は逮捕を恐れて自殺した。高野長英は『戊戌夢物語』によって永牢(終身禁固)、崋山は田原での永蟄居(幽閉)と決められた。崋山、老母妻子ともに江戸育ちで田原は殆ど知らない土地である。知人もなく生活も覚束ない。
     その生活を助けるべく、江戸の門人たちが崋山の絵の即売会を開いたが、田原藩士はこれをもって不謹慎であると非難した。藩侯にも罪が及ぶとまで噂が流された。有名人の崋山に対する田舎者の妬みである。藩主に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は自害する。可哀そうな崋山。私が当時の田原藩士を田舎者と罵っても悪くないだろう。

     左に国会図書館、右に最高裁を見ながら、いつの間にか平河町に入った。やがて見覚えのある景色になってきた。城西大学の法人本部や校舎が近くにあるので、この辺は何度か来ている。しかし貝坂の案内標柱には気が付かなかった。

     『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その路傍にありし一里塚を土人・甲斐坂と呼びならわせしとなり。或る説に貝塚法印というが墓なりともいいてさだかならず」とかかれていますが、貝塚があったというのが定説となっています。

     縄文海進の頃の江戸では、この辺りに貝塚があっても全く不思議はない。貝坂は、平河町交差点から北上してすぐこの先で甲州街道(新宿通り)に繋がる坂である。一本西側の通りには城西大学本部や文春がある。
     その向かいの白塗りの小さなマンションの外壁に、「麹町貝坂 高野長英大觀堂學塾跡」と彫られた黒いプレートが嵌め込まれている。千代田区平河町一丁目六番十三号。これも知らなかった。天保元年(一八三〇)十一月、日本橋の薬種問屋「神崎屋」の片岡源造、松本良順の養父・松本良甫、佐倉順天堂を開く佐藤泰然等の援助で、高野長英はここに塾を開いて渡邊崋山と知り合うことになる。崋山の弟子の椿椿山は長英の肖像を描いた。
     長英は文化元年(一八〇四)陸奥国水沢藩士後藤実慶の三男に生まれたが、九歳で父が死んだため母の兄である高野玄齊の養子となった。十七歳で養父の反対を押し切って兄と共に江戸に遊学し、更に長崎でシーボルトの鳴滝塾で学び、日本最高の語学者としての名を高めた。シーボルトの要請で、日本地図の地名をローマ字にしたのは長英である。文政十一年(一八二八)のシーボルト事件の際には上手く逃れて、天保元年に江戸に戻ってきた。
     「お墓は見ましたね。」北青山の善光寺にあった。「ほかにも長英関係の場所を見てるよ。逃亡中に匿った水村玄洞の旧宅で石神医院。」中山道板橋宿本陣の真向かいであった。「匿ってくれた人は全国にいるよ。」小伝馬町を脱獄してからの長英の行動は、吉村昭『長英逃亡』に詳しい。改めて読み直したが、実に手に汗を握る逃避行である。
     ところで水村玄洞の子孫に作家の水村美苗がいる。「それ誰だっけ。」私が「水島」と言ってしまったので、スナフキンも気付かなかった。経済学の岩井克人の妻で、『私小説from Left to Right』(バイリンガルとして生きる困難)、『続明暗』(漱石を継ぐ)、『日本語が滅びるとき』(鋭い考察)がある。
     それにしても長英を匿った多くの人たちのことは顕彰するに足りる。己の命も危ないのは知っていながら、そして実際にも投獄されて獄死した者も多いのに、それでも長英を匿った。幕末の日本人の学問への尊敬と品性の高さであろうか。長英は傲岸不遜であったが、それでもその学識を慕う人は多かった。
     ところで、長英の著述に関しては主に『夢物語』だけが語られるが、実は医学における貢献も大きかった。鳴滝塾で学んだのは語学だけではないのである。

     長崎鳴滝塾および江戸開業時代に、長英は『夢物語』など約四十種の著訳書を出すが、このうち医学関係が主著『西洋医源枢要』をはじめ二十八種に上る。主要関心は、『枢要』題言にあるように、「性命存活」の学理を明らかにして、「人身究理ノ学」とするという、医学における「極致ノ学」としての、「生理学」の確立にあった。『西洋医源枢要』は、関係蘭書数部を訳出しながら、その要点を一部にまとめて、「医原」としたもので、内編五巻、外編七巻からなる。
     医術という実践に至るための医学の学問的構造を明示して、『解体新書』時代を超えたのである。ここに、新たな医学観・科学観が提示されているのに注目すべきである。(金子務『江戸人物科学史』) 

     民家の塀から伸びる立派なピラカンサスに姫もハイジも驚いている。実の数が半端でなく、その重さで長い房のように垂れ下がっているのだ。「ここで飯ですから。」しかしヤマちゃんは店には入らずそのまま歩いていく。「飯じゃないのか?」そして入ったのは平河天神の境内だ。千代田区平河町一丁目七番五号。

     江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明十年(一四七八)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)。
     慶長十二年(一六〇七)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
     徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
     現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰篤く合格の祈願客も多い。(境内掲示)

     高野長英はご近所だから分るが、塙保己一と平河天神の逸話は知らなかった。どうやら百度参りを千日続けたらしい。「隅に灰皿があるんだよ。」「そうですね、あったと思います」と姫も保証してくれたが、灰皿は撤去されていた。境内禁煙である。これだから千代田区は嫌いだ。学校法人城西大学奉納の布袋像、狛犬、筆塚、力石、銅製の鳥居、常夜灯を見る。
     ちょうど十二時になって、小さなビルの二階の上海酒楼に入る。千代田区平河町一丁目七番十九号。ヤマチャンが事前に予約を入れていたので十人が座れる小部屋の席に着いた。土曜日なのにランチメニューがあるのは有り難い。
     チンジャオロース七百五十円。私を含めて五人がこれにした。桃太郎は日替りの麻婆豆腐ランチ、スナフキンとマリオはタンメンに半チャーハン。生ビールは四百二十円。姫のためにはグラスビールを注文したが意味が通じず、空のグラスが二つ出されてしまった。この店では小ジョッキと言うのである。
     ここで、こころの写真を取り出す。女性陣はお世辞の言い方を知っているから「可愛い」と言ってくれるが、男性は殆ど関心を示さない。お愛想の一つもあって良いのではないか。
     運ばれてきたトレイを見て驚いた。量が多いのである。チンジャオロースは通常の量の五割り増しというところで、野菜サラダ、もやしのナムル、杏仁豆腐がついている。これでこの値段は安い。「サラリーマン向けですね。」「だけどテーブルに載るかな。」十人掛けのテーブルに九人のトレイを載せるのは難しく、ヨッシーがその間だけ隣の席に移ってくれた。
     タンメンは最後に出てきた。「これがタンメンか?」「私が思っていたのとは違うな。」タンメンと言えば色のないスープを連想するが、これは醤油の黒さが目立つ。「五目蕎麦だね。」それでも味は悪くなかったようだ。
     女性陣は量の多さに苦戦する。「誘惑に負けてビールを頼んだのがいけなかったわ。」姫はご飯を半分も食べられない。マリーも珍しく残しているようだ。「ハイジはエライ。」ハイジはなんとか完食したのである。「それぞれ別のものを注文してシェアすれば良かったな。」食べ終わってからマリオが言うのは正論であるが遅すぎた。
     十二時五十五分出発。平河町交差点の南側、参議院議長公邸の東門の脇には「華族女学校遺跡碑」が建っている。千代田区永田町二丁目十八番二号。

    学習院創立(一八七七年)
    明治政府はそれまでの大名・公家を華族と呼び、その教育に力を入れました。華族のための学校として一八七七年(明治十年)に設立されたのが学習院です。当初から男女に門戸が開かれ、女子も満六歳から修学できましたが、女子の人数は男子の三分の一にも満たず、卒業する者もわずかでした。
    華族女学校(一八八五年~一九〇六年)・学習院女学部(一九〇六年~一九一八年)
    一八八五年(明治十八年)、華族の女子のための教育機関として華族女学校が開校。華族の女子に対する本格的な教育の始まりです。「徳育」を重んじて質素・正直を信条とする華族女学校の気風は、一九〇六年(明治三十九年)に再び合併し学習院女学部となってからも引き継がれました。(学習院女子大学「開学前史」)

     ミッション系の私立女学校も創設されたが、明治五年の学制では男女の区別がなされていなかったので、同じ公立中学校で女子が共に学ぶことが出来た。公立の女学校ができるのは明治二十八年(一八九五)高等女学校規程以後のことである。
     当初の華族女学校の教授・学監は下田歌子である。皇族や華族の娘は無条件で入れた。女子学習院時代になると、士族・平民の娘がおよそ六割を占め、彼らは入学試験を通らなければ入れなかった。この辺りの女子教育の歴史については、斎藤美奈子『モダンガール論』がお薦めだ。これを読んで以来、私は斎藤美奈子のファンになった。
     江戸は坂の町で、名前がついている坂だけでも八百以上あるとも言われる。文字がかすれた標柱は「三べ坂」。

     永田町二丁目、参議院議長公邸と旧永田町小学校の間を、日比谷高校グラウンドを右に見て日枝神社の方に下る坂です。
     『新撰東京名所図会』には、「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありしより名づくといふ。」とあります。
     また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役をかねていたところから、この坂は水坂とも呼ばれました。

     「次は自民党本部に向かいます。」ヤマチャンは時間調整のためか、随分遠回りのコースを選んでいる。自民党本部には何の関心もない。「今日は右翼の人たちがいないな。」三宅坂に社会党本部があった時代は、あそこが右翼街宣車の溜り場だった。それでも要所々々には警官が立哨している。首相官邸前にも数人の警官がいた。「今はいないだろう。」「APECに行ってる。」「大体、ここに住んでないよ。」
     「そこが日比谷高校です。」「最近回復してるみたいだね。」小尾乕雄の悪名高い学校群制度によって都立高校は長く低迷したが、最近は回復してきたようだ。日比谷は平成十三年(二〇〇一)に進学指導重点校に指定されたこと、そして平成十五年(二〇〇三)に学区制度が廃止されたのが大きい。
     そして日枝神社はその向かいである。千代田区永田町二丁目十番五号。外堀通りからは何度か来たことがあるが、ここから入ったことがなかった。階段を上るのは姫には少しきついかも知れない。
     「最初に宝物殿に入りましょう。」ヤマチャンは受付の男性に挨拶している。その男性が最初に解説をしてくれるのは太刀と刀である。「随分長いね。」三尺六寸とか三尺五寸は江戸時代の刀としてはかなり長い。通常は二尺三寸から四寸で、その程度でなければ腰に差したままで抜けない。実用ではないから長くしてあるのか。実は反りが深く長くて刃を上にしているのが馬上から振り下ろす太刀であった。刀は逆に置かれている。歴代将軍が奉納したものだから名刀と呼ばれるものだろう。「売ればどのくらいですか?」「家の一軒位はするでしょう。」
     山王祭りの山車に載せる人形も江戸時代のものだ。鎧を身に着けているのは神宮皇后、もう一体は武内宿弥である。獅子頭は家光が手習いをした反故紙を貼り合わせたと言う。「紙は貴重でしたから無駄にしません。」
     「江戸時代には山王大権現と言いました。」これは神仏習合の名称だから、明治の神仏分離で使えなくなって日枝神社としたのである。「明暦の大火、空襲でかなりのものが焼けてしまいました。現在の社殿は昭和三十三年(一九五八)に再建されたものです。」お礼を言って宝物殿を出る。「午前中だって聞いてましたから待ってたんですよ。」「俺、そんなこと言ったかな。」ヤマチャンが下見をしたのは夏のことで、おそらく忘れてしまったのだ。
     「どうぞお通り下さい。」門前で結婚式後の二人の写真撮影が行われていて、立ち止まっていると邪魔になるのだった。隋神門の内側には猿の像が置かれている。七五三の参拝客も多い。境内を少し眺めて、今度は階段ではなく女坂から降りて外堀通りに出る。
     「この鳥居の形が珍しいですね。」ヨッシーは鳥居の形に興味を示す。明神鳥居の笠木の上に三角の破風がついた形で、山王鳥居と呼ぶ。「これは特許ですか?他の神社では使えない?」ヤマチャンの言い方が面白い。日枝神社特有と言って良い。破風とそれを支える縦の柱で「山」を、破風の斜めのライン、笠木、額束、貫の組み合わせで「王」の文字を表すとも言われている。
     「琵琶湖の近くにありますよね。行ったことがある。」桃太郎は前にもそう言っていたような気がする。大津坂本の日吉大社が総本社である。伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を開いた時、地主神であるヒエの神(大山咋神)を守護神としたのが始まりである。ヒエの山を比叡山と表記した。古事記には日枝山とある。日吉と書いてヒエと読んだが、第二次大戦後はヒヨシと読むようになったらしい。山王は、天台宗本山である天台山国清寺で祀られていた道教の山王元弼真君に因る。つまりその最初から神仏道の習合で、天台宗とともに発展してきた。

     今度は弁慶堀に出て赤坂見附を見て弁慶橋を渡る。東京ガーデンテラス紀尾井町(旧赤坂プリンスホテル跡)の前に、紀州家中屋敷跡の案内がある。ニューオオタニの辺りは井伊家の屋敷跡だ。「だから紀尾井町なんだよ。」上智大学の尾張藩拝領屋敷と合わせて紀尾井町である。
     参議院宿舎は今も使われているのだろうか。「ここに福田家があるのか。」千代田区紀尾井町一丁目十三番。「それは有名ですか?」「政治家が良く使う料亭だよ。」「囲碁や将棋の名人戦もやる。」福田家は元々虎ノ門にあったが、空襲で全焼したことからここに移転してきた。

     「福田家」は、北大路魯山人の食と美の世界に心酔した 先代福田マチが、ここ福田家にその理想を実現しようと したことにはじまります。
     魯山人に指導を受けながら、店のしつらい、意匠、料理、接客… 幅広く五感を満足させる「もてなし」を追及。
     「福田家」はすべてにわたって、開業当初から 北大路魯山人の考え方、美意識が色濃く反映されています。(福田家)

     福田家で私が知っているのは、昭和三十六年(一九六一)八月、旧第一期囲碁名人戦最終局の藤沢秀行対橋本昌二戦が行われたことである。本因坊家から寄贈された「名人」の称号を実力で争うもので、第一期だからディフェンディグ・チャンピオンは存在せず、リーグ優勝者が名人位に着くことになっている。
     藤沢は九勝二敗でトップに立っている。一方、芝明舟町の福田屋では坂田栄男対呉清源戦が戦われた。共に八勝三敗である。勝てば優勝の藤沢秀行は負け、プレーオフになると覚悟して吞んだくれていた。坂田・呉戦は呉が勝って、藤沢と共に九勝三敗となった。しかし呉の勝利は白番持碁勝ちであった。持碁とは引き分けのことで、引き分けの場合、白(後番)が勝ちというルールがある。しかし本来の勝ちより劣るという規則もあって、藤沢秀行が初代実力名人位に着いた。そしてこの敗戦で、昭和最強の棋士・呉清源はついに名人位を獲得することが出来ずに終わった。それも囲碁の歴史である。
     藤沢はギャンブル依存症(競輪)、アルコール中毒で酒乱(酔えば四文字言葉を連発する)、様々な事業に手を出してはことごとく失敗して億単位の借金を背負い、愛人が四人という無頼な人生を送った。ある時、愛人の家に出かけて三年帰らなかった。用事ができて帰宅しようとして家が分らず、妻に迎えに来てもらったと言う。将棋の米長邦雄も酷かったが、それをはるかに上回る。今ならマスメディアに抹殺されてしまうだろう。
     対局中しょっちゅうポカがでる。おそらくアル中で集中力が続かないのだ。悔し紛れに「五十手までなら俺が一番強い」と嘯き、若手棋士はポカをする度に「シュウコウ先生をやっちゃった」と頭を抱えた。それでも棋聖連続六期(名誉棋聖)、名人二期、王座五期、天元一期の実績があるのは天才だからだ。終生のライバル坂田栄男(二十三世本因坊栄寿)は、「対戦成績は私が良かったが、才能は私よりあった」と語った。
     しかし、ここまで長々と余計なことを書いてきたのに、私は勘違いしていた。当時ここは別館であり、福田家の本館は上智大学の方にあったのである。

     その隣が清水谷公園で、この辺りが紀州家と井伊家との境に当たる。大久保利通の大きな殉難碑「贈右大臣大久保公哀悼碑」もお馴染みだ。「昔、全学連はここで解散しましたね」とヨッシーが笑う。六十年代後半に全学連が分裂した後は、そうしたことはなかったのではないだろうか。七十年に入学した私は完全なノンポリだったから、その当時のことは知らない。
     明治維新後、西郷は殆ど無能と化し、プロイセンに倣って明治国家の基礎を定めたのは大久保だ。他に選択肢はなかったかどうか、その功罪は別にして、公共事業にまで私財を全て投じたから、その死後には八千円の借金が残された。清廉であったことは間違いない。
     私はどうしたものか夜のことだと思い込んでいて、「真っ暗だった」と言ってしまったが、事件は朝に起こっていた。明治十一年(一八七八)五月十四日午前八時頃、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関(内閣府庁舎の辺り)の自宅を出て赤坂仮御所へ向かった。明治六年の失火で皇居が焼け、明治二十一年(一八八八)に新皇居が完成するまでの間、紀州藩赤坂藩邸跡(赤坂御用地)に仮御所を設けていたのである。
     私たちが「あっちから来たんじゃないか」と紀尾井坂の方を考えていたのは全く逆だった。現在の総理官邸前から国会図書館前で左に折れ、平河町交差点で左折し、ガーデンテラスの中を通ってこの坂に来たのである。紀尾井坂から喰違見付を通って赤坂御所に行く筈だった。

     その頃は千代田の御所が炎上の後で、青山に皇居があり、太政官もそこにあったので、閣員でも役人でも皆ここを通って行った。弁慶橋もなく紀尾井坂も今とはすっかり変わっている。大久保公も裏霞ヶ関から馬車で毎日ここを通られた。淋しい物騒な処さ。公の御凶変に間もなく喰違いの変がある。平生から人通りの少ない気味の悪いところじゃった。(「当時の紀尾井町・・・・高島鞆之助」佐々木克監修『大久保利通』所収)

     「鉄砲かな?」「刀。馬の足を斬ったんだよ。」これは正しかった。清水谷に差し掛かったのが八時半頃で、石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一、島根県士族の浅井寿篤が馬車を襲った。二頭立て馬車の馬の足を斬って御者を殺し、馬車の中から大久保を引き摺り出したのである。大久保の遺骸は全身に十八ヶ所の傷を受けていた。大久保利通享年四十九。

     紀尾井町の変のあった三、四日前の晩、何であったか、相談することがあって、大久保公の屋敷へ行った。一緒に晩餐を食べていたら、「前島さん私は昨夜変な夢を見た。なんでも西郷と言い争って、終いには格闘したが、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。脳をひどく石にうちつけて脳が砕けてしまった。自分の脳が砕けてビクビク動いているのがアリアリと見えたが、不思議な夢ではありませんか」というような話で、平生夢のことなどは、一切話されぬ人であったから、不思議に思っていたが、偶然かどうか、二、三日にして紀尾井町の変が起こった。(「大久保公の俤・・・・・前島密」佐々木克監修『大久保利通』所収)

     この変に接した柴五郎は日記にこう書いた。この時二十九歳の五郎は陸軍中尉、近衛砲兵連隊小隊長なったばかりである。

    会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。

     両雄とは西郷、大久保のことだ。戊辰の恨みはかくまで深い。ここで休憩を取る。女性陣から煎餅、ヨッシーからはポッキーが配られる。ツワブキが綺麗だ。「これはデイゴですね。珍しい。」赤い実である。心字池の脇の茶室のような建物は偕香苑だが、説明を読んでもよく分らない。

     清水谷公園は、北白川宮家の邸があった場所で、明治二十三年に東京市へ下腸され、同年東京市立清水谷公園となった。
     昭和三十一年都立公園となり、昭和四十年、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。
     移管後、公園内に先代秋元馨氏が現建物である「偕香苑」を昭和五十九年に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。
     平成十八年三月に御子息である、秋元裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された建物です。

     建物が建てられたのは公園が千代田区の所有になってからのことである。それが、平成十八年に息子によって寄贈されたというのが分らない。千代田区所有の敷地に建てた建物が個人所有になっていたのだろうか。
     石で円とその中に井桁を組んだ井戸があるが水はない。「以前は水が入っていましたよ。」かつての湧水を復元したものだが、今は落ち葉で覆われている。
     「ここを真っ直ぐ行けば文春がありますね。」ヨッシーにそう言われたが、私はどうも地図が頭に入っていない。基本的には方向音痴なのだと思う。要するにこの坂を突き当たって右に行けば麹町駅に着く。その近辺に文春ビルがある。さっき昼飯を食べた辺りで、そこからかなり大きく迂回してここに来た訳だ。
     弁慶橋を戻って青山通りに入る。「この辺は歩いてますか?」「何度か。大山街道でも歩いたよ。」「青山通りは大山街道ですもんね」とヨッシーが納得する。通りの向かい側に赤坂の繁華街の看板が見える。「あれが一ツ木通りですか?」「もう一本先だったと思う。」確かにすぐに一ツ木通りのアーケードが見えた。「高い店ばっかりかな?」「そんなことないよ。安い店が多い。」一ツ木通りと言えば、ロス・インディオスの『別れても好きな人』を連想する人が多いだろう。しかし私は断然、西田佐知子を思い出す。

    夜霧が流れる 一ツ木あたり
    つめたくかすんだ 街の灯よ
    うつろなる心に たえずして
    なみだぐみひそかに 酔う酒よ
    身にしむわびしさ しんみりと
    赤坂の夜は更けゆく 赤坂の夜は更けゆく(鈴木道明作詞作曲『赤坂の夜は更けて』)

     私はサッチンの気だるいノンヴィヴラート唱法が好きだった。ドサ回りの演歌歌手だった瀬川美恵子をレコード歌手に仕立てるため、鈴木淳は西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』を徹底的に歌わせた。そして瀬川美恵子はちあきなおみになった。
     九郎九坂に入る角が豊川稲荷の山門だ。豊川稲荷東京別院、正式には圓福山豐川閣妙嚴寺と言う曹洞宗の寺院である。神社ではない。港区元赤坂一丁目四番七号。一ツ木の大岡邸に祀られていたものを明治二十年に移転したのである。「見るべきものは一杯ありますから、ゆっくり見学してください。」
     ここに来るのは三度目だろうか。何度も言っていることだが、豊川稲荷の本尊である荼枳尼天(吒枳尼天・荼吉尼天)は、ジャッカルに跨り墓を荒らして人肉骨を食らう夜叉である。それがどうして信仰の対象になるのか、実に中世密教は不可思議としか言いようがない。山本ひろ子『異神』、佐藤任『密教の神々』、田中貴子『外法と愛法の中世』等を読んでは見たが、中世人の信仰の構造は私にはなかなか理解できない。
     「お寺なのに、なんで鳥居があるの?」「神仏習合の名残でしょう。」私はそう思っていたが、どうやらそうではないらしい。明治の神仏分離で鳥居は全て撤去され、現在ある鳥居は全て戦後に建てられてと言う。それなら人集めのためではあるまいか。稲荷と言えば人は伏見大社の鳥居を連想するだろう。
     三神殿(宇賀神王、太郎稲荷、徳七郎稲荷)を親子四人で熱心に拝んでいる家族がいる。売店に行ってみると、マリオが稲荷巻せんべいは非常に固いと話している。「前にも聞いた気がする。」「そうか、私もここには三度目かな。」マリオは本家の豊川に住んでいたのだ。
     売店の傍らにあった灰皿も撤去されていた。通りを自転車でやって来た若い娘二人が、「別院って書いてるから違うんじゃないの」と言いながら去って行った。東京都内に豊川稲荷の本院があると思っているのだろうか。無知であることは悲しい。
     青山通りを渡る。「女子高生が多いんじゃないの?」「山脇学園があるんだよ。」ヤマちゃんはその業界には詳しい筈だが知らなかったと言う。「以前歩いた時、講釈師が喜んでましたね。」大山街道歩きの初回のことである。年寄は女学生が珍しいのだ。
     そして高橋是清翁記念公園に入る。港区赤坂七丁目三番三十九号。草月会館とカナダ大使館に挟まれ、青山通りにあるとは思えないほど緑の多い公園だ。ここが高橋是清の屋敷跡である。江戸東京たてもの園に移築された屋敷は前に見た。「それはどこにあるの?」「小金井だよ。」二・二六事件で殺害現場になった二階の部屋も残されている。
     達磨のような高橋是清の坐像も三度目になるか。ダルマ宰相の呼び名の通り、何度も破産しては立ち直る七転び八起きの人生だった。
     「苦労したんですよね。奴隷に売られて。」「奴隷?」ヤマチャンは知らなかった。「奴隷は黒人だけかと思ってたよ。」「そうじゃないですよ」と姫が力説する。「東洋人だっていっぱい売られました。」
     是清は幕府御用絵師・川村庄右衛門の子に生まれ、生後すぐ仙台藩足軽高橋覚治の養子になった。横浜のヘボン塾(後の明治学院)で学び、慶応三年(一八六七)仙台藩の命でアメリカに留学することになったのだが、仲介した横浜の貿易商ユージン・ヴァン・リードが酷かった。学費や渡航費を着服され、アメリカに着いてみるとホームステイ先である彼の両親に騙され、訳も分らず契約書にサインさせられた。それが三年の年季奉公と称する奴隷契約で、牧童や葡萄園での奴隷生活を強いられた。やっと助け出されて帰国したのは明治元年(一八六八)である。
     帰国後は文部省出仕となり、一時は共立学校の校長を務めた。大学予備門への予備校のような学校で、現在の開成高校の前身である。当時の教え子に正岡子規、南方熊楠、秋山真之がいる。
     それが近代日本最高の財政家になるのだから、余程の努力をしたのである。是清は偉人である。昭和恐慌の際にモラトリアムを実施し、片面だけ印刷した二百円札を発行したのも有名だ。「何で殺されたのかな?」大蔵大臣として陸軍省の予算削減を図っていたためだ。是清を殺害したのは中橋基明中尉の部隊である。二・二六事件の首謀者へのある種の同情を持つ連中がいる。齋藤瀏の娘で、栗原安秀、坂井直と幼馴染だった斎藤史は生涯に亘って二・二六を歌った。それはパセティックで美しいが、しかし私は絶対に認めない。
     「宮沢喜一が平成の是清って呼ばれたよな。」粒は小さいし、殺されても進むだけの気概があったとは思えない。「それでも今思えば、宏池会はまだましだった。」「今は麻生太郎だもんな。どうしようもないよ。」麻生自身が高橋是清に倣うなんて言っているのがチャンチャラおかしい。
     庭には韓国風の石人像が数体置かれている。淑容沈氏墓碑石跡とは何だろうか。

    淑容沈氏墓碑石跡
    この場所に、経緯は不詳ですが、韓国李王朝九代成宗大王の後宮「淑容沈氏」(一五一五年没)の墓碑 が建立されていました。
    約四〇〇年の長期にわたり墓碑の行方を捜してこられた韓国李王朝一族関係者からなる「淑容沈氏墓碑還元推進委員会」の求めに応じ、港区から平成一二年六月一六日(金)に日韓友好の証として、両国の絆がますます深まり、両国の親善交流が一層促進されることを祈念し、譲与しました。

     『民団新聞』(二〇〇〇・六・二十八)によれば、「淑容というのは朝鮮朝の側室の官位を表し、従三品という高位階級に当たる。沈氏は寧山君と利城君の二王子と王女二人の母」である。墓石は秀吉の朝鮮侵略(朝鮮側では壬申倭乱と呼ぶ)の際に日本に持ち出されたものと推測されている。巡り巡って公園内の置物になっていたのだ。その王子の子孫が現存していたのである。

     右に赤坂御用地の広大な敷地を見ながら青山通りを歩く。青山一丁目交差点で右に曲がれば外苑東通り、権田原坂の標識がある。ヨッシーは一人でどんどん先を歩いていく。「一番健脚だよね。」権田原交差点を右に曲がれば安鎮坂だ。「明治記念館は行かなくていいでしょう?」「前に行ってるから。」
     迎賓館の入り口で、ヤマチャンは何時まで入れるか訊いている。「四時半まで入れます。見学は五時までです。」今は三時四十五分だ。「それじゃ入ろうよ。」「違うんですよ。ここは千円払って建物の中に入るところ。」この辺は鮫河橋坂になる。貧乏人は千円を払わず、庭を見るだけだから、その先の学習院初等科の向かいで曲がって正門までいかなければならない。やっと着いた。「何時までですか?」「四時半までです。」
     門を入ると、手荷物検査が物々しい。ペットボトルや水筒は試しに飲んで見せなければいけない。ボトルにガソリンを入れてテロを実行する人間がいるからだろう。「財布も出すの?」「小銭が金属探知機に反応しますから。」携帯電話もカメラもトレイに載せる。
     姫は最後尾についたが、リュックから引っ張り出すのに苦労している。「中がグジャグジャだね」とマリーが笑う。姫のリュックには、万一に備えてサヴァイヴァルセットも収納されているから大変なのだ。それでも全員が不審者ではないことが確認された。
     これまでは柵の外から遠く眺めるだけだったから初めての経験である。去年から通年で一般公開されているらしい。ヤマチャンは下見の際に建物内部に入ったと言う。「インターネットで予約してください。」そこでしか貰えないと言うパンフレットを取り出して見せる。
     「屋根の武者に注目してください。」姫が言う通り、甲冑姿の武者が二人屋根の上に鎮座している。天皇家と鎧武者は似合わないのではないか。「緑色なのは銅だからですね。」「あの鳥は?」「鳳凰かな。」私は迎賓館について余り知らない。

     東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として一九〇九年(明治四十二年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治六年宮城火災から明治二十一年の明治宮殿完成までの十五年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
     一九二四年(大正十三年)、大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が成ると、その後の数年間、赤坂離宮は裕仁親王一家の住居たる東宮御所として使用されたが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。(略)
     日本が独自の文化を守りながらの西洋化と富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を『武勲の者』という印象を表現するために、正面玄関の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に西洋の宮殿建築に日本風の意匠が混じった装飾になっている。
     また、当時電気が珍しかった日本においてイギリス製の自家発電装置を備え付けて照明に電気を使い、アメリカ製の自動温度調節機能付き暖房装置を設置した。ただし、この暖房装置は正常に作動せず、室温が突然上がったり下がったりするトラブルに幾度も見舞われたという。煉瓦石造で西欧様式の建物は高温多湿の日本の気候には全く適さず、晩春から早秋にかけては天候によっては室内の湿度が著しく上がり、暖房はあっても冷房はないために居住性が著しく低く、これに対処するために片山東熊は電気式の除湿機を設置する計画も考えていたが、こちらは実行に移されなかった。(ウィキペディア「迎賓館」より)

     明治以降の建築で初めて国宝に指定された建物だが、住むには適さなかった。明治天皇は「贅沢すぎる」と言ったらしい。正面玄関には金の五七桐紋が飾られている。その建物内部はよく見えない。「トランプはここから入ったんだな。」
     「俺はダンスパーティをしているイメージしかないんだけど。」「それは鹿鳴館でしょ。」鹿鳴館は日比谷にあった。「大和ビルのところでした。」現在はNBF日比谷ビルである。千代田区内幸町一丁目一番七号。それに、そもそも時代が違う。鹿鳴館時代は明治十六年(一八八三)から二十年(一八八七)までである。

     「それじゃ行きましょうか。」四ツ谷駅で解散する。本日の歩数は二万三千歩。十三キロか。最短距離で回ればおそらく十キロに満たなかっただろう。お蔭で飲むには良い時刻になった。ヨッシーとハイジは駅に消えていく。「後はスナフキンにお任せします。」ヤマちゃんは大役を果たしたように笑う。
     まだ四時半だが、三栄通りに入ればかなりの店が開いている。「魚民でもいいんじゃないの?」「ちょっと探索してから。」スナフキンはそう言いながら奥に進んでいく。「ここにしよう。何度か来たことがあるよ。」「鬼平」である。「名前がいいじゃないか。」
     「この席は七時半から予約が入っています。」「そんなに長くいない。せいぜい六時半かな。」掘りごたつ形式で、テーブルの下は畳だ。姫は苦労して靴を脱ぐ。
     お新香、おでん、川えび唐揚げ。他に何を食べただろうか。ビールの後はヤマチャン、マリオの意見を入れて珍しく日本酒の熱燗にした。「越乃柏露」という聞いたことのない酒の大徳利が四百五十円である。「甘い。」「確かに甘いけど、二三杯吞めばすぐに慣れるよ。」その通りだった。
     ロダンがいないが、来年度の担当を阿弥陀籤で決めた。暫定ではあるが、三月(桃太郎)、五月(あんみつ姫)、七月(ヤマちゃん)、九月(ロダン)、十一月(スナフキン)、一月(蜻蛉)となった。今後微調整があるだろう。
     マリオとヤマチャンはここでお別れし、残った人間はカラオケ(店名は忘れた)に入る。私は声が全く出ない。もう歌えなくなってしまったのだろうか。


    蜻蛉