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    第七十四回 下北沢編
      平成三十年一月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.01.26

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     十二月二十三日から一月八日まで、こんなに長い年末年始休暇を初めて過ごした。十二月二十七日には誘われて、池袋の東京芸術劇場に日本フィルと武蔵野合唱団の第九を聴きに行くという、これも初めての経験をした。S席九千円のところ七千五百円だったのは合唱団の団員に誘われたからである。そして新年は比較的穏やかに開けた。
     この年末年始、日馬富士暴行事件は最後には貴乃花事件の様相になり、連日うんざりする程報道されたが、気になったのは「横綱の品格」ということだ。他人に「品格」を求める連中は、わが身の品格を振り返っているのだろうか。論者は全て勘違いしているように私には思える。
     相撲は人間を太らせて異常な身体を作り上げ、裸で戦わせる。異形のチカラビトの世界であって、近代スポーツや武道の観点で批評できるものではない。異形の者には神が宿る。だから奉納相撲が行われ、人は力士の身体に触り、赤ん坊を抱いてもらうのだ。飯島和一『雷電本紀』(実に面白い小説です)は天災の続く中で江戸市中を駆け巡り、頼まれれば誰の赤ん坊でも抱き上げる雷電の姿を描いた。
     異様な強さによって魑魅魍魎や魔を鎮めるのが横綱の勤めであり、土俵入りはそれを表している。つまり横綱に求められるのは何よりも圧倒的な強さの一点であり、それこそが横綱の品格と言うものであろう。良い子のお行儀ではない。千代の富士が常に八百長を疑われながら誰も逆らえなかったのは、その圧倒的な力にあった。朝青龍だって立派な横綱だったと私は思っているし、横綱在位歴代一位、優勝四十回という前人未到の業績を成し遂げたことこそが白鵬の品格である。
     白鵬を批判する者は「勝ちに拘る」と言うが、勝ちに拘り常に優勝を目指すのが横綱の責務だろう。力の衰えを自覚しているからこそ、なりふり構わず勝ちに行く。白鵬は修羅の道を歩んでいるのだ。
     多くの論者は国技、日本の伝統を言うが、もともと明治維新後に各藩のお抱えがなくなり落魄していた相撲界に、常陸山(水戸藩士の子)が登場して武士道を持ち出したのが誤解の始まりである。たかだか百年ちょっとしか経っていない。そして常陸山には認知した子が五十人以上いたとも伝えられ、現在ならメディアによって抹殺されているだろう。大鵬にしても、四場所連続休場から再起した柏戸に負けて優勝を譲ったのは明らかに片八百長であった。
     張り手もかち上げも立派な相撲の技である。古くは前田山(高砂)の張り手が有名だし、三重の海(武蔵川理事長)だって使った。横綱だから使ってはならないと言うのはまるで理屈に合わず、モンゴル人白鵬をこれ以上優勝させないように制限を課しているとしか思えない。相撲界を支えてきたモンゴル人力士の功績を語らず、日本人の優勝、日本人の横綱を「国民がこぞって熱望」しているなんてメディアが騒ぐのは嘘っぱちである。連続優勝もしくはそれに準ずる成績という条件を無視してまで、相撲協会は無理矢理日本人横綱を作ったが、その結果は無残なものだ。私は今回の問題の背景に、日本人のどうしようもない人種意識、民族意識を見てしまった。

     今週、日本海沿岸は大雪になった。秋田も例年より雪は多いようだ。今日明日とセンター試験で、北国の高校生は難儀なことである。うって変わって関東周辺は乾燥した天気が続き、家の近所のロウバイの香りが強くなってきた。
     今日は旧暦十一月二十七日。小寒の次候「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」。しかし池の表面には氷が張っている。
     今年最初の江戸歩きは、桃太郎が幼少年期を過ごした下北沢周辺である。桃太郎は北千住で生まれ、三歳から十八歳までこの地で過ごした。その当時とは相当変わっているだろう。私は学生時代代々木上原で暮らしていたが、駅の位置が変わってしまって、昔住んでいた場所すらもう分らなくなっている。半世紀はやはり長い。
     小田急線で下北沢に着いて驚いた。ホームは地下深くになっていて、集合場所の北口改札が遠くて分り難い。案の定、あんみつ姫は構内で迷った。平成二十五年(二〇一三)、東京都市計画都市高速鉄道事業第九号線に基づき、小田急線東北沢駅~世田谷代田駅付近までの区間が地下に潜っていたのだ。
     集まったのは、桃太郎、あんみつ姫、チロリン、ペコチャン、マリー、ダンディ、講釈師、ヨッシー、マリオ、スナフキン、ヤマチャン、ロダン、ファーブル、蜻蛉の十四人だ。病が癒えた講釈師は一年振り位だろうか。まだ足の具合は本調子ではないようだ。そしてチロリン、ペコチャンも久し振りに参加した。チロリンは「今は越生支部に参加してるの」と言う。そっちが日曜なので二日連続はきついからこちらにはなかなか参加できない。明日はたまたまそっちが休みなので参加したのだ。ペコチャンは、来月の青梅宿歩きには是非参加したいと言う。
     初参加のファーブル(姫の命名である)は、高校卒業以来北海道で虫一筋に生きて、定年退職を期に去年の秋に東京に移住してきた。東京に慣れるのに良いのではないかと、この会に誘ったのである。高校時代に生物部で虫に触っていたのだから首尾一貫していて、目標も何もなく生きてきた文系の私とは性格も全く違うので、どうして親しくなったのか不思議だ。マリーも「全然違うじゃないの」と首を傾げる。修学旅行の京都自由散策の日には二人で歩き、歌声喫茶に行ったりした。高校二年の時の同級生だから五十年の付き合いになると思えば茫洋とするが、卒業以来会ったのは十回に満たないと思う。
     「蜻蛉から連絡があってネットで調べたから顔を見てすぐに分ったよ」とスナフキンが笑う。名前と大学名で検索すると、結構大きな顔写真を見ることが出来る。私が駅に到着した時、二人で親しそうに話していたのはそのためだった。それにしても世間は狭いと言うか、スナフキンの交友範囲が広いと言うべきか、スナフキンの知り合いの娘がファーブルの大学の学生で、その名前は当然ファーブルも知っていた。

     商店街を抜けて住宅地に入る。道は狭く入り組んでいて、おそらく畑地の道をそのままに宅地にした名残だろう。山手線の外側の農村地帯が宅地化されるのは関東大震災の後である。昭和四年の『東京行進曲』が「いっそ小田急で逃げましょか」と歌ったように、その頃から私鉄が郊外に伸び始めた。
     「メジロですよ。」「そこにも。」垣根の中にメジロが二羽、三羽か。「季節違いじゃないの?」メジロはウグイスと共に春を告げる鳥である。青木光一『柿の木坂の家』(石元美由起作詞・船村徹作曲)でも「春には青いめじろ追い秋には赤いとんぼとり」と歌っている。だから春の季語だと思っていたら、夏あるいは秋の季語になっていた。しかし一年中いる鳥だから、季語としての力は小さいと見るべきだろう。皆が声を上げても逃げようともしない。「最近は住宅地でよく見られますよ。」数年前まで、私はこの鳥をウグイスだと思っていた。

     寒中を垣根に遊ぶ目白かな  蜻蛉

     桃太郎が最初に立ち寄ったのは大雄山真竜寺だ。世田谷区北沢二丁目三十六番十五号曹洞宗。大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)の末寺として昭和四年(一九二九)創建。本尊は道了大薩埵。道了大薩埵とは誰か。

     大雄山最乗寺の守護道了大薩埵は、修験道の満位の行者相模房道了尊者として世に知られる。
     尊者はさきに 聖護院門跡覚増法親王につかえ幾多の霊験を現され、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山に修行。三井寺園城寺勧学の座にあった時、大雄山開創に当り空を飛んで、了庵禅師のもとに参じ、土木の業に従事、約一年にしてこの大事業を完遂した。その力量は一人にして五百人に及び霊験は極めて多い。
     應永十八年三月二十七日、了庵禅師七十五才にしてご遷化。道了大薩埵は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされた。以後諸願成就の道了大薩埵と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしている(最乗寺http://www.daiyuuzan.or.jp/history/)

     聖護院(修験の総本山)に所属していた修験者である。道元の教えは修験とは無縁な筈で、そもそも道元は宗派の名乗りさえ許さなかった。しかし只管打座だけでは大衆を組織できない。道元の死後、宗派を維持拡大するため第四世瑩山(総持寺開祖)は白山信仰と結んで修験を取り込み、加持祈祷を行った。
     狭い境内に建つ天狗堂には、高さ三メートル、幅二メートルの巨大な天狗面が安置されているが、格子のガラスに日が反射して良く見えない。本殿の額は「神通殿」、紫の暖簾には天狗の葉団扇が描かれている。節分行事として天狗面を山車に載せ、大天狗・鳥天狗を中心として山伏・福男・福女商店街を練り歩く、天下一天狗道中という祭りがあり、今年は二月二日に予定されている。
     寺を出て少し歩くと、民家の縁の下に六角柱の、臼のような石が置かれているのが見えた。表面に幾何学文様や仏像のような形が彫られているが正体は謎だ。「中国かどっかから持ってきたんじゃないでしょうか。」縁の下に置くべきものなのかどうか。そして大きな石の上にやや小さな石を載せて、家の土台を支えている。
     「あの赤い花は?」一重の赤い花が高いところに咲いている。「バラですね。」姫は一言のもとに断言する。「ツルバラですよ。」どうしてもバラのようには見えない。正式な名称かどうか分らないが、ネットを調べるとカクテル(コクテール)と出てくる。
     次は三階建てアパートの隣にある永世寺だ。曹洞宗。世田谷区北沢二丁目三十九番六号。石の冠木門の貫は真ん中で波型に分割されている。しかしその奥の二階建ての白壁の建物は普通の民家と変わらず、ドアも閉ざされている。「近所の人もここがお寺だと気付かない人がいるかも知れません」と言うのが、ここに寄った理由である。
     住宅地の角に建つのが野屋敷稲荷だ。世田谷区北沢四丁目十番六号。狭い境内に黒松がある。「あっちは赤松ですね。」赤松は向かいの家の庭に立っている。野屋敷とはどうやら地名のようで、一時期、薩摩藩の拝領屋敷があったとも言われる。民家の庭に伸びるコブシに小さな芽が一杯出ている。長命地蔵。地図を持たずに歩いているから、今どの辺なのかさっぱり分らない。

     そして大山交差点で大きな通りに出た。「この通りは?」「井の頭通りだよ。」そうか。井の頭通りを東に向かう。「あれじゃないか?」尖塔が見える。「モスクってドームじゃないんですか?」近づけばちゃんとドームもあった。日本最大のモスク、東京ジャーミー・トルコ文化センターだ。渋谷区大山町一番十九。トルコ共和国在東京大使館の所属である。すぐ先に代々木上原駅が見える。
     「ジャーミイ」とはトルコ語で、金曜礼拝を含む一日五回の礼拝が行われる大規模なモスクのことで、アラビア語で「人の集まる場所」を語源とする。英語表記ではCAMIIと書く。
     モスクの見学なんて初めての経験で、無料だというのも有難い。皆もこれを楽しみにして来たのだ。但し事前に桃太郎から注意が渡されている。その注意書きがなんとなくおかしい。

    男性は短パン、ランニング以外はOKだが女性は制約が多く長ズボンか足首までのスカート、ソックス、長袖上着、スカーフ着用が求められる。つまり手首から先、顔しか露出できない。男性の場合東京とは家一月の厳寒期に短パン、ランニング姿をしているのは箱根駅伝の選手くらいなので問題はない。女性も江戸歩きにミニスカートで参加された方は今までいないので普段の江戸歩きの服装でスカーフを持参すれば問題ない。(桃太郎)

     玄関を入ると、「何の会?」と背の高い男が声をかけてきた。「江戸東京を歩く。」「それじゃ説明しようか、ちょっとここで待ってて。そうだ、ナツメヤシを食べてよ。甘味料を一切使ってない。干し柿と同じ。それから紅茶も飲んでよ。」ちょっと言葉は乱暴だがそんなに違和感はなく日本人だと思っていたが(ヨッシーも同じ)、ヤマチャンやあんみつ姫によれば日本人ではない。
     「ナツメヤシは砂漠の大事な主食なんだ。」喫茶コーナーの一角のテーブルの上に、ナツメヤシを盛った皿が置かれている。長さ四センチ程の楕円球形の実だ。干し柿よりも味はかなり濃厚で相当甘いが、植物本来の甘さは私でも食べられる。少し遅れて入ってきた若い男女が不思議そうに見ているので、お節介だが「ナツメヤシが食べられるよ」と教えてやった。ヤシ科の常緑高木で、果実はデーツと呼ぶ。

     ナツメヤシはギルガメシュ叙事詩やクルアーンに頻繁に登場し、聖書の「生命の樹」のモデルはナツメヤシであるといわれる。クルアーン第十九章「マルヤム」には、マルヤム(聖母マリア)がナツメヤシの木の下でイーサー(イエス)を産み落としたという記述がある。アラブ人の伝承では大天使ジブリール(ガブリエル)が楽園でアダムに「汝と同じ物質より創造されたこの木の実を食べよ」と教えたとされる。またムスリムの間では、ナツメヤシの実は預言者ムハンマドが好んだ食べ物の一つであると広く信じられている。なお、聖書やヨーロッパの文献に登場するナツメヤシは、シュロ以外のヤシ科植物が一般的ではなかった日本で紹介されたときに、しばしば「シュロ」、「棕櫚」と翻訳されている。(ウィキペディア「ナツメヤシ」より)

     「江戸東京と関係する話が出来るか分らないけど。何故、ここにイスラム教のモスクがあるか分る?」「?」「それは一九一七年に遡るんだ。」そうか。「分ったようだね。ロシア革命で追われたイスラム教徒がこの周辺に集まったんだ。建築した当時はまだ代々木の森だったって言うよ。」
     第一次世界大戦とロシア革命はロシア帝国、オスマン帝国、ハプスブルグ帝国を滅ぼし、「民族」を一挙に歴史の表面に押し出し、二十一世紀に続く最も困難な問題を出現させた。帝国の古い体制を擁護するわけではないが、オスマン帝国もハプスブルグ帝国も、その広大な領域に様々な民族を緩やかに包み込んでいたのであったが、それが崩壊したのである。

       一九一七年ロシアで発生したロシア革命の後、中央アジアの国々に居住していたイスラム教徒はさまざまな拷問や弾圧を受けました。生命の危機を逃れるために、その地方に居住していたイスラム教徒は、海外への移住を始めました。
     その一部は、中央アジアからシベリア鉄道を通って満州に移動・定住し、他の一部は小規模な商売をしながら韓国や日本に定住を始めました。
     自国から逃亡し満州に定住した避難者にはパスポートがなく、海外渡航のためのビザを取得できませんでした。しかし当時、日本政府が千五百円の保証金の代わりにビザを発給することがわかり、一九二〇年代に満州に逃亡していたカザン州のトルコ人が、日本に移住を始めました。
     カザン州トルコ人の増加する子供達への教育に対応するために、一九二七年に日本政府に学校設立を申し込みました。許可取得後、新大久保にある建物を賃貸し、一九二八年メクテビ・イスラミイェと命名された学校が開校されました。そして、この建物の一部を礼拝所として使用しましたが、一九三一年に富ヶ谷に建物を購入し学校が移転されました.
     その後、日本企業の協力により渋谷区に土地を購入し、一九三五年校舎が建てられ、富ヶ谷から学校が移転されました。(東京ジャーミーの歴史))
    http://tokyocamii.org/ja/%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%9f%e3%82%a4%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%83%9f%e3%82%a4%e3%81%ae%e6%ad%b4%e5%8f%b2/

     ロシア革命とイスラームについての私の知識は、山内昌之の『神軍・緑軍・赤軍』と『スルタンガリエフの夢』に負っている。革命によってムスリム民族の独立を確保しようとするスルタンガリエフのムスリム共産主義の動きは、革命当初に利用されただけで、スターリンによって粛清された。脱出できずソ連内部に留まったムスリム諸民族は、定住化の強制、シベリアへの強制移住等の弾圧を加えられた。例えばカザフでは農業政策の失敗もあって、一九二六年から一九三九年の間に百五十万人の住民が餓死した。
     そして難民として海外に逃げ延びた人たちは、当時白系ロシア人と呼ばれた。共産党の赤に対する白である。「白系」に民族的な区分はないが、多くはタタール人であった。

     「タタール人」ということばは、いつも独特な響きがつきまとう。「地獄から来たもの」というラテン語から作られた「タルタル人」が、モンゴルの一部族としての韃靼(タタール)の音とよく似ているために、中世のヨーロッパ人がモンゴル人を指す語として用いたことは良く知られている。しかし、ヴォルガ中流域のタタール人は、もちろんモンゴル人そのものではなかったし、ましてや「地獄から来た者たち」では決してなかった。
     一五五二年のカザン陥落後に、中央ユーラシアのムスリム民族として初めてロシアの軍門に下ったこの集団は、ロシア革命にいたる近代史のなかでも、しばしば独特な役割をはたした。(中略)
     ・・・・・一九一七年二月革命の時点では、同じ言語を話し同じ文字を使う四二〇万のタタール人がロシア帝国内に分散して住んでいたことになる。・・・・・タタール人は帝国全土にいわば「ディアスポラ」状態で分散していたと考えると、ユダヤ人の境遇と比較できる点がないわけではない。しかし、タタール人は、故郷から遠く離れていても、各地の都市を中心に信仰と風俗と慣習だけでなく、言語を共有する「エトノス」をもち、「エスニックな共通性」はもとより、カザンという精神的郷土を帝国内にもっていた。(山内昌之『神軍・緑軍・赤軍』)

     「彼らは羅紗を商った。ロシアがラシャに訛ったんだよ。」その場ではそうかと思ったが、これはどうもおかしい。戦国時代には渡来していた筈だと確認してみれば、羅紗は十二世紀頃にセルビアの首都ラサで産し、南蛮貿易によって日本へ渡来した。但しカザンのタタール人にラシャ職人が多かったのは、山内(同書)によっても間違いない。

     タタール人の勤勉さと相互扶助の美徳は、十月革命後に亡命し六〇〇~一〇〇〇人(一九三五年頃)にふくれあがった在日タタール人にも受けつがれた。・・・・異郷での困苦のなかでも、地味な職業生活を営み、日本の既製服や洋服生地問屋からの信用を博した者が多かった。また、日本渡航に際して必要だった「提示金」と呼ばれた一五〇〇円の高額保証金や旅費・支度金なども、先駆者として渡日し成功をおさめた有志たちが「たとえ未知の人ではあっても口約束ひとつで送金したものであった。」地理学者の鴨澤巌が紹介するその顛末もタタール人の律儀さを偲ばせるようで奥ゆかしい。「こうして渡日した人びとは、日本で働きながら、立て替えてもらった金を返済した。借金を踏み倒した人などひとりもいなかった」と。(山内・同書)

     日本政府が求めた保証金の千五百円はどの程度だったか。貨幣価値の比較はとても難しいのだが、大正十四年(一九一五)の大卒初任給五十円を現在は二十万円としてみる。これなら四千倍で、現在の六百万円に相当することになる。但し当時の大卒はエリートだから、その給料は今の二十万円よりもっと価値があっただろう。荒っぽく倍の価値と考えれば千二百万円となる。難民にとっては目も眩むような金額ではないか。それでも現在の日本政府の難民認定と比べればましだと言えるだろうか。
     「私は見たことないけど、羅紗はトンビに使ったって言うよ。」「和服の外套ですね。」二重回し、インバネスとも言うが、昔の小説を読んでもなかなかその違いが分らない。

     一般に「インバネスコート」は袖があるもの、二重回しは袖が無くてケープの下はベスト状でケープが肩を覆っている。トンビはケープは背中まで達しておらず、背中の部分にケープが無いものを指すことが多い。着丈は二重回しもトンビも膝下まで達する。
     これらの呼称は混乱しており、さまざまな定義が成されているが、歴史的にどれかが正しいと言える物ではない。(ウィキペディア「インバネスコートより)

     昭和十三年に建てられた建物は金沢の宮大工の手によった。しかし屋上部分の防水を全くメンテナンスしなかったため、壁の内部に水漏れが溜まって老朽化し昭和六十一年(一九八六)に解体された。「五十年しか持たなかったんだよ。」マンションだって、二十年に一度の長期修繕には必ず屋上防水の手直しを盛り込まなければならない。五十年放置したままでは故障も生じる。今の建物は平成十二年になって再建されたものだ。
     「モハメッド・アリも二度来たよ。」アリはヒーローだった。ローマ・オリンピックの金メダリストもアメリカでは人種差別され、金メダルを川に投げ捨てた。但しこれは自伝のフィクションで、実際は紛失したとも言う。
     マルコム・Xに出会ってイスラム教に改宗したのは有名な話だ。旧名はカシアス・クレイ。「蝶の様に舞い蜂のように刺した」ほら吹きクレイはベトナム戦争への徴兵拒否で一九六九年にタイトルを剥奪されながら、一九七四年にジョージ・フォアマンを破って奇跡的な復活を遂げる。晩年パーキンソン病を患った姿でロンドン・オリンピックに登場したが、一昨年六月に七十四歳で死んだ。

     一九二八年に始まるソ連のイスラーム攻撃は、「絶滅政策」といってよい性格をおびていた。すべての宗教学校が閉ざされ、ブハラとヒヴァを除いても二万五〇〇〇あったモスクは、一九四三年になると一二〇〇に減っていた。イスラーム法にもとづくシャリーア法廷も廃止され、ワクフ(宗教寄進財産)は国有化され、ウラマー(宗教指導者)にいたっては「日本とドイツのスパイ」として情容赦なく粛清された。(山内昌之(同書)

     グルジア人のスターリンはロシア(スラブ)民族第一主義を推し進め、スラブ民族以外の少数民族を弾圧した。弾圧されたのはムスリム諸民族だけではない。これがナチスの民族浄化と殆ど同じであることはすぐに分るだろう。全体主義は必然的に「人種主義」を要求するというのは、ハンナ・アーレント『全体主義の起原』の言うところだ。
     人間の生きる条件の第一に公的活動を挙げるアーレントは、難民とは国籍を剥奪されたものであり、人間の条件として最も基本的な政治的権利を奪われたものだと定義している。アーレント自身、強制収容所に収容される寸前にアメリカに亡命し、一九五一年に市民権を得るまで十年間を無国籍者として生きた。ハイデッガーとヤスパースに愛されたユダヤ人女子学生は、この経験によって独特な政治哲学者として生まれ変わる。今や世界中に難民排撃の気分が蔓延している。世界が全体主義化していると考えるのは、余りに悲観的過ぎるだろうか。
     「すみません、この後の予定があるので。」「そう、残念だな、まだ説明したいことは一杯あるんだけど。でも二階の礼拝堂は必ず見ていってよ。」実は私はもう少し聞いていたかった。「俺も聞きたかった」とファーブルも小さな声で言う。階段を上がると屋上で、そこから靴を脱いで入口を入ると広いドームの礼拝堂だった。女性のスカーフはここで必要になる。
     ちょうど礼拝のために二人の外人が待機していて、ロダンがわざわざ断りに行った。エライ。「神聖な場所ですから大きな声を出さないでくださいね」と姫が念押しする。「あれはステンドグラスですよね。」銅像のようなものは勿論なく、装飾は全て幾何学文様である。「偶像崇拝は禁止だからね。」書見台で開かれている大型本はコーランだろう。大天使ガブリエルを通じてムハンマドに啓示された神の言葉である。
     コーランを最近では「クルアーン」と呼ぶようだ。アラビア文字には母音がないというのをどこかで聞いたことがある。そのためマホメット、モハメッド、ムハンマドと、同一人物の日本での読み方は変遷した。外国の地名、人名は出来るだけ現地の音に近くというのが今の原則だが、井筒俊彦が昭和二十七年(一九五二)に出した本は『マホメット』である。

     まず第一に、『コーラン』という名称そのものについて。日本では普通、「コーラン」といっておりますが、より原語に近い形では「クルアーンQur’an」と申します。但し「クルアーン」というこの言葉が、どこから来て、もともとどういう意味を持っていたのか、正確にはわかりません。奇妙なことだとお思いになるかもしれませんが、イスラームの聖典がなぜ「クルアーン」と名付けられたのか、学問的には確定できないのです。(井筒俊彦『コーランを読む』)

     あんみつ姫は仏教と比べる。「仏教だと、聖書やコーランみたいなものはありませんよね。」中村元訳『ブッダの言葉』(岩波文庫)はあるが性格が全く違う。仏教経典は膨大にあるが、聖典というものはない。あるいは法華を信ずる人にとっては法華経がそれに当るだろうか。
     下に降りるとさっきの人が待っていた。「床に横一線に線が引いてあったろう?イスラムの人はその線に並んで礼拝する。前後だと上下関係が生まれ。イスラム教は平等なんだ。」ファーブルはここでパンを買った。チロリンのビニール袋にも大量のパンが入っている。
     パンフレットを貰うと、「本も無料だから持っていってよ」と二冊渡された。『ISLAMイスラーム正しい理解のために』と『イスラームQ&A』である。「今度はゆっくり来てよ。」有望だと思われたかも知れない。私もそうしたい。今日最大の見所であった。
     「四人までいいんでしょう?」マリオはさっきからそれを言う。「一人だって大変なのに」とは、誰でも想像するようにロダンの反応だ。イスラム教と言うと必ず一夫多妻が話題になる。おそらくコーランに規定された時代は戦乱期で、戦争で死ぬ男が多かったのではないか。寡婦になる女性も少なくなく、むしろ女性保護の意味合いがあったと思われる。

     大山の交差点からさっきの道を戻る。エジプトカレーの店がある。茶沢通りに曲がると和菓子司「ほそか」を見つけて姫が立ち寄る。世田谷区北沢四丁目一番三号。創業五十年。
     専光寺。浄土真宗本願寺派(西本願寺)。世田谷区区北沢三丁目九番十号。二階の外壁に「専光寺」の看板がなければ寺とは思えない。境内と言うより駐車場のような空間があって、玄関先に親鸞像が置かれている。「弘法大師かな?」浄土真宗と書いているではないか。
     傘・履物の村田屋の隣に庚申堂が建っている。世田谷区北沢三丁目十七番二号。堂の中央には合掌型の青面金剛(延宝五年)が立つ。右に並んでいるのは(元禄)頭部が欠けていて、像の足元と三猿との間がかなり空いている。この会ではお馴染みだが初めてのファーブルに「これは庚申塔で、ショウメンコンゴウって言うんだ」と教える。シクラメンのような花が供えられている。「これは造花ですね。」
     下北沢駅に近づいてきた。「農民カフェってのがあるよ。」世田谷区北沢二丁目二十七番八号。店先にはおそらく有機栽培の野菜が並んでいる。角を曲がる。「十四人入れる店はないよな。」「分散しようって行ってたよ。」しかし「こより」と言う店を桃太郎が覗いた。「入れそうですよ。」店内は広く、問題なく全員が入れた。世田谷区代田六丁目五番二十六号。いわゆる創作和食のような店だが、ランチタイムには十割蕎麦と丼だけを出している。十一時四十分。
     私は鶏そぼろのミニ丼と温かいそば、スナフキンとファーブルは梅シラス丼と蒸篭そば。それにビール。隣の席でそれを聞いていたあんみつ姫もビールを頼む。桃太郎は言うまでもない。女性陣が注文したのが一番後になった。「先に行かないで、待ってて下さいね。」講釈師が憮然とした表情で聞いている。十二時半に店を出る。千五百五十円也。

     踏切地蔵。下北沢駅から世田谷代田方面に少し下った所で、小田急線が地下に潜る前にはここに下北沢二号踏切があった。碑文は良く読めなかったが、昭和二年に事故死した人を悼んで、昭和十一年に建てられたと書いてある。しかし実にいい加減な読みだった。Web東京荏原都市物語資料館「下北沢X物語六三三」(http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/50625693.html)で碑文を見つけた。

      斎藤安五郎 昭和二年十一月十日歿於當所踏切行年七十六才
    小関美禰子  同七年七月十五日歿於鎌倉通踏切行年十三才
    小関 清   同十年七月卄一日歿於同 右  行年十才 
    崔 垣 斗 同十一年七月十日歿於當所踏切 行年四十二才
    此外遺族住所不明ニテ記載ヲ省畧

     線路の跡地は工事中だ。南口商店街の外れの三叉路の角に庚申堂がある。世田谷区代沢五丁目。しかし格子の中を覗いて見ると、入っているのは庚申塔ではない。頭部は赤い帽子を被り、短い胴体も赤い布で覆われていて正体が分らないが、五輪塔か宝篋印塔の一部のようでもある。どこかから移して来たではないだろうか。像の前には富士山御嶽神社のお札が立て掛けられている。
     旧桃太郎家跡はマンションの工事中だった。彼の記憶では家の隣に川が流れていて、キャッチボールで取り損なったボールを良く流したが、その川は暗渠になってしまった。「ここに家を建てるの?」空き地に木枠を立てた場所を見て北海道の人は驚いている。「東京じゃ普通だよ。」「これだって二十坪はあるんじゃないか。」
     日本基督教団富士見丘教会。世田谷区代沢二丁目三十二番二号。「ここの日曜学校に通ったんですよ。」私はカトリックの幼稚園だったが、日曜学校なんて知らない。読んだ本でそういうものがあるとは知ったが、それは都会のブルジョアの子弟が通うものだと思っていた。

     富士見丘教会は、一九三五年、開拓伝道に熱心に取り組んでいた伝道者並びに信徒達により当時未だ開発途上にあった下北沢の地に発足し、翌一九三六年教会堂建設後、日本組合教会に正式に所属することとなりました。
     富士見丘と言う教会の名称は、文字通り当時そこから富士山を見ることができることから付けられました。その頃教会の多くは都心部にあり、一方教会員には郊外に住むという不便さがあり、小田急線と新設された井の頭線(一九三四年開通)が交叉する便利な地点を選ぶことで、教会員が遠方の教会に通う不便さを解 消したいとの考えがありました。(「教会の歴史」http://www.fujimigaoka-ch.org/history/より)

     昭和十年の時点で、下北沢は「未だ開発途上」の農村地帯だった。そして幼稚園「愛育園」が設立されたのは昭和二十八年だから、桃太郎生誕の一年前になる。壁は漆喰塗りだろうか。建物は登録有形文化財に指定されている。

    木造、二階建で、切妻造、東西棟の主体部南西に塔屋を付属する。礼拝堂は中央を広く取って身廊と側廊とに分け、東奥に聖壇を構える。全体に質素平明な意匠だが、外部の薔薇窓風レリーフや塔屋頂部のバトルメント、内部のハンマービームトラスなど要所を飾る。(「文化遺産オンライン」http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140801)

     池の上駅の辺りから南に下るとアンゴラ共和国大使館だ。世田谷区代沢二丁目十番二十四号。「大使館って麻布とかあの辺にあるんじゃないの?」「家賃の関係じゃないかな。こっちの方が安いんだよ。」「休みかな?誰も警備してないな。」「そもそもアンゴラってどこだい?」大使館のホームページを見ておこう。

    アンゴラは、正式な国名をアンゴラ共和国といい、国土面積は一二四六七〇〇平方キロメートルで、アフリカ大陸で七番目に大きな国です。十八の州があり、もっとも北に位置するカビンダ州は、間にコンゴ民主共和国の領土を挟んで、飛び地となっています。首都ルアンダの他、ルバンゴ市、ベンゲラ市、ウアンボ市、カビンダ市、ロビト市、ナミベ市、マランジェ市、ソヨ市が主要な都市となっています。
    アンゴラは、アフリカ大陸南部大西洋岸、赤道より南に位置し、その国土は、北はコンゴ共和国とコンゴ民主共和国、東はコンゴ民主共和国とザンビア共和国、南はナミビア共和国、西は大西洋に面しています。陸上の国境は、全長四八三七キロメートルに及びます。
    海岸線は一六五〇キロメートルあり、主要な港はルアンダ港、ロビト港とナミベ港です。ロビト港には、アンゴラの大西洋岸とコンゴ民主共和国やザンビア共和国とを結ぶベンゲラ鉄道が接続しています。また、これら以外にも、アムボイン港、カビンダ港、ソヨ港があります。さらに、アンゴラで最も大きな河川は全長一〇〇〇キロメートル以上に及ぶクワンザ川で、国の通貨の名称にもなっています。その他、クバンゴ川、ロンガ川、クイト川、クネネ川、ケーヴェ川、クアンゴ川およびクアンド川も重要な河川です。

     アンゴラは昭和五十年(一九七五)にポルトガルから独立した。だから桃太郎が下北沢に住んでいた頃にはまだない。主な輸出品は石油、ダイヤモンド、木材、水産物、コーヒー、サイザル麻等。輸入品は食料品、医薬品、自動車、機械、電気機器、繊維機械等である。
     大木の脇に石の台を据付け、その上に小さな赤い鳥居と祠を載せてある。隣の洒落たビルは何かと思えば設計事務所だった。
     淡島通りにぶつかり、右に折れると下代田橋。北沢川は暗渠となって、下水の再生水をせせらぎとして北沢緑道を造っている。

     北沢川緑道は、上流は赤堤から下流の代田・代沢・池尻までの延長約四・三キロで、かん木や雑木類が植えられ、四季折々の花が咲く緑の遊歩道となっています。北沢川の水源は旧上北沢村あたり(松沢病院の構内)で、湧水を集めて赤堤、松原をとおり、池尻、池沢、三宿の三村境で烏山川と合流し、目黒川と名を変えます。(略)
     環状七号線から目黒川緑道合流点までの区間においては、平成六年度から住民参加で、せせらぎを復活した整備を進めてきました。(世田谷区「北沢川緑道」)
    http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/157/691/d00014287.html

     「こういう道があるのは良いね。」桃太郎は門を潜って民家の庭のようなところに入っていく。「入れるんですか?」淡島阿川公園である。世田谷区代沢三丁目十一番二十号。「そこの家のお庭かと思いましたよ。」名主阿川家の敷地の一部が世田谷区に寄付されたものである。「阿川泰子さんと関係あるかな?」阿川と聞いて阿川泰子を思い浮かべるヤマチャンは教養があるが、阿川泰子は鎌倉出身だった。私は阿川弘之、佐和子しか思いつかなかった。
     ロダンは何をしているのか。「まだ使い方が分らないんですよ。」スマホである。「ロダンもとうとうスマホ・デビューですか?」「ガラケーは会社支給だから、四月には返さなくちゃいけない。今のうちから覚えようと思って。」
     すぐ近くに阿川家の赤門(紅殻色)が建っていた。世田谷区代沢三丁目九番十六号。赤門は勝手には造れない筈だが、何か理由があるのだろうか。「乳鋲もありますね。格が高いです」と姫も言う。調べてみると、将軍鷹狩りの際の休憩所になったという。そのためか。しかし門がこの色に塗られたのは戦前の修復時だったという記事も見つけてしまった。江戸時代には関係なかった。

    もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
    秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。
    「ここですよ。どうですかね」
    大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑だったが、周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
    「どうしますか。お気に入ったら帰りに地主の家へいって交渉してみますが」
    「じゃ、ここにしよう」(横光利一『睡蓮』)

     いきなり横光利一が登場してしまったが、横光の北沢八幡の裏手の丘の家の「地主」が阿川金三郎だった。つまりこの門の家であり、一帯は阿川の森と呼ばれていたらしい。「子供の頃、阿川君っていう友達がいたんですよ。もっと親しくしておけば良かった。」「代沢は高級住宅街でしょう?俺は知ってるよ。」ヤマチャンもこの近辺に住んだことがあるらしい。私は知らなかった。
     次は北沢八幡だ。世田谷区代沢三丁目二十五番三号。玉垣の角の大きな石に佐藤栄作の名が刻まれている。佐藤栄作も代沢三丁目に住んでいた。その近所には竹下登の家も関口宏の家もあった。かつて東京府荏原郡下北沢村の中心はこの辺りであった。
     八幡は文明年間(一四六九〜八七)、世田谷城主であった吉良頼康が勧請したと伝えられる。吉良義央の三河吉良氏(足利義氏の長男の系統)とは違って、義氏の四男に始まる武蔵吉良氏である。世田谷城は豪徳寺の近くで、姫の案内で以前行ったことがあったね。大永四年(一五二四)北条氏綱が上杉朝興の江戸城を落とすと北条氏に従った。その正室は北条氏康の娘である。世田谷の他、久良岐郡蒔田村(横浜市南区)に居を構え、蒔田殿、世田谷殿とも呼ばれる。武蔵吉良氏は江戸時代には蒔田氏を名乗って高家として取り立てられた。赤穂事件で三河吉良氏が断絶した後、吉良氏に復姓した。
     「神楽殿があるんだね?」ファーブルは神社には余り縁がないのではないだろうか。「神楽殿を持つ神社は結構あるよ。」明治二十六年の造。石段を上って正面が拝殿だ。講釈師は階段を上るのが辛いので下で待っている。嘉永二年の銘のある狛犬の台座に、願主として阿川正作、鈴木喜左衛門、月村善左衛門の名が彫られている。一帯の名主であろう。
     境内社に円海稲荷、高良玉垂(武内宿弥)。他に野屋敷稲荷、弁天社などがあるらしい。晴れた日には富士が見えると言うが今は見えない。朝でないと無理なのだろう。
     そして森巌寺に入る。浄土宗。世田谷区代沢三丁目二十七番一号。「今日初めてのお寺らしいお寺です。」門前には「淡島の灸」の看板、淡島大明神の石碑がある。常夜灯は内藤新宿上町の旅籠屋中の寄進である。
     越前宰相結城秀康の位牌所だから格は高い。秀康は武勇抜群であったが悲運の人である。家康の次男に生まれながら秀吉の養子(人質)となり、豊臣姓を下賜されたものの再び結城家に養子に出された。秀忠ではなく秀康が将軍になるべきだと考えた連中は多く、本人も無念だった。三十四歳で病没。梅毒説がある。

     江戸から遠く離れた越前での臨終に際して秀康公は、一乗院住職万世和尚に自分の死後に江戸の地に一寺を建立し、自らの位牌所とせよと命じました。
     この遺命を託された万世和尚が高齢だったため、弟子の清譽存廓上人に託して、慶長十三年(一六〇八年)に當寺を開山。その建立にあたっては隣接する北沢八幡別当寺とし、森巖寺一帯は天領となりました。そしてその八幡を山号、秀康公の法名浄光院殿森巖道慰運正大居士にちなんで浄光院を院号寺号として、八幡山浄光院森巖寺と命名されました。徳川家の位牌所の多くは天下泰平後に創建されていますが、森巖寺はその直前に建てられた由緒ある寺院です。(森厳寺「寺歴と由緒」http://www.shinganji.jp/?page_id=13)

     「子供の頃は怖かったんですよ。」桃太郎が言うのは閻魔堂だ。格子戸が少し開いて、中の閻魔がはっきり見える。ガラスで作られた八角(?)堂は弁財天だ。一面八臂で、頭上に宇賀神を載せている。
     その横の古びた堂が淡島神を祀る淡島堂だ。本社は紀州加太で、別に粟島と表記することもある。淡島神の正体をスクナビコナとするもの、蛭子と同様にイザナギ、イザナミの間に生まれて海に流されたとするもの、住吉明神の后として婦人病を治癒するもの、婆利塞女(ばりさいじょ、やはり住吉明神の妻)で婦人病を癒す、などの説がある。
     この寺と浅草寺の淡島堂はスクナビコナを祭神としている。天保七年の建立。開山清譽存廓上人は常日頃腰痛に苦しんでいて、淡島明神に熱心に祈願を続けていた。ある夜の夢に淡島明神が現れて灸の秘法を伝授した。その夢告に従って灸を試すと積年の腰痛はたちどころに完治した。そして紀州の明神を勧請して灸を広めたという伝説がある。神仏習合の形跡が今も残っているのだ。そして淡島通りの名はこれに因むのだ。
     針塚もある。私は鍼灸のハリかと思ったが違っていた。かつては富士塚もあった。本堂の前に紅梅が咲いている。今年初めての梅だが、香りが心地よい。去年まで北海道に住んでいた人は信じられないというような顔をしている。
     「インコがいるよ。」高い木の上に三羽、黄緑色の鳥が留まっている。「飼ってたのが逃げたんだね。」隣の幼稚園の敷地に立つイチョウが見事だ。「樹齢百年?もっとか。」寺のホームページによれば樹齢四百年である。

     寺を出て茶沢通りに入ると、板張りの二階屋が目に付いた。鉄板焼きの「さわ」である。「昭和三十年代でしょうか?」実は意外に新しいものかも知れない。古民家風をイメージしているのではないか。
     桃太郎の母校、代沢小学校は建て替えの最中だ。学校だけでなく、区の施設を同居させた複合施設になるらしい。完成は来年なので、その間生徒は廃校になった花見堂小学校の校舎に通っている。またこの小学校では、大正十四年(一九二四)の一年間、坂口安吾が代用教員をしていたと言う。安吾に教えられた生徒はまともに育ったろうか。卒業生に和田誠もいる。
     そして北沢緑道に戻った。二時だ。昼頃の桃太郎の予測では、梅が丘解散が二時頃だったから、かなり調整したのかも知れない。なんだか近い場所をぐるぐる回っているような気もする。橋場橋。双子橋を渡って水路の右岸を歩く。この辺りは文学の路になっている。
     三好達治文学顕彰碑。三好達治、萩原朔太郎は馬込や田端の文士村でもお馴染みだ。昭和十九年(一九四四)、周囲の反対を押し切って、十数年来恋焦がれていた朔太郎の妹アイと一緒になって福井県三国に逃走したものの、一年も経たずに別れた。

     ・・・・私は三好に髪の毛を引っぱられて、二階から引きずり下ろされていた。 そして荷物のように足蹴にされたり、踏まれたりした。後頭部の疵口と目から血が吹き出ても、まだ打ち続けられた。 気違いになったのだろうか。私は三好にこれで殺されると、半ば意識を失いかけながら思った。そして血まみれになった雪の夜道を、警察まで夢中で逃げ込んだ。(萩原葉子『天上の花』)

     文中の「私」はアイである。小説だからどこまで事実に即しているか分らない。アイは佐藤惣之助との結婚生活ではお姫様のように扱われていた。それが三好達治と一緒になると赤貧洗うがごとく、お姫様気分は早々に消えた。その不満を漏らした途端の暴力であった。
     やがて三好は二十四年二月に代田に移り住み、死ぬまで住み続けた。かつて朔太郎が住んだ町で、三好はいつでも朔太郎の後を追っかけていた。
     その詩は古典的で端正で、『測量船』中の「乳母車」や「甃のうへ」」は好きな詩だ。三好の生活は相当無茶苦茶だったが、祖母や親族に疎まれ苛められていた萩原葉子を庇護したのは三好である。
     「イラカとかなんとかあるんじゃないか?」ヤマチャンが言うのは「甃のうへ」のことだろう。ずっと以前、小雨の中、護国寺の石段を和服の女性が傘をさして降りてきた時、講釈師が話題にしたことがある。

    あはれ花びらながれ
    をみなごに花びらながれ
    をみなごしめやかに語らひあゆみ
    うららかの跫音空にながれ
    をりふしに瞳をあげて
    翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
    み寺の甍みどりにうるほひ
    廂々に
    風鐸のすがたしづかなれば
    ひとりなる
    わが身の影をあゆまする甃のうへ

     「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」姫はこの詩を暗誦する。『測量船』中の二行詩「雪」である。中原中也はこの詩をかなり意識して、「生い立ちの歌」を書いた。「意識」と書いたが、大岡昇平によれば「燃えるような憎悪」であり、三好も中原を嫌っていた。二人には、その詩観において決定的な違いがあった。

      幼年時
    私の上に降る雪は
    真綿のやうでありました
     少年時
    私の上に降る雪は
    霙のやうでありました
     十七―十九
    私の上に降る雪は
    霰のやうに散りました
     二十―二十二
    私の上に降る雪は
    雹であるかと思はれた
     二十三
    私の上に降る雪は
    ひどい吹雪とみえました
       二十四
    私の上に降る雪は
    いとしめやかになりました……(中原中也「生い立ちの歌」

     「文学の小路」と大きく白く書かれた自然石(三波石かな?)には、斉藤茂吉「代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ」。私は茂吉には殆ど関心がないが、戦後、疎開から戻って代田に家を建てた。代田八幡の少し南の辺りだと言う。
     鶴ヶ丘橋の袂には朔太郎碑がある。朔太郎は離婚後、前橋の実家に戻ったがそこでの生活に疲れ上京し、昭和八年から代田に移住し、昭和十七年(一九四二)五月に死ぬまで住んだ。

     父は中原醇氏の設計が好きで、氏の設計した家を何軒か見せてもらったり、自分でも家相の本や設計の本をたくさん読んで熱心に研究していた。
     下北沢に住む加藤という大工さんの手で、七十八坪の家が昭和七年の早春から夏にかけて造られた。部屋数は十室ほどで東ヨーロッパふうの高く尖った屋根の家であった。そして屋根裏の洋間は父の書斎で、かなり広く取ってあった。(略)
     外回りや兵は柿の渋で造るという、臙脂と茶の混じったような、京都のべにがらぬりで、白壁とのうつりは効果的だった。尖った家に不似合な支那ふうの門が変わった格好なので、来る人は大抵感心した。(萩原葉子『父・萩原朔太郎』)

     「コサギだ。」川の中に一羽のコサギがいる。近づいても逃げようともしない。私たちの進むに随って、トコトコト歩いてくる。「怖がらないね。」「アッ、ホトトギス。」姫が声を上げた。鳥のことではない。杜鵑草である。「植物にもあるのかい?」「この細かな斑点が鳥の羽に似てるって言うんだよ。」しかしこの季節では珍しい。私は秋の花だと思っていた。「コサギはどうした?」「まだいるよ。」
     円乗院。真言宗豊山派。世田谷区代田二丁目十七番三号。寛永初期、代田村民の菩提寺として創建されたと推定されている。鉾を立てたような枯れ木はコウヤマキだった。「生きてるのかしら。」空襲で枯れてしまった記憶として残してある。
     宮前橋で環七を渡り、少し行けば代田八幡だ。世田谷区代田三丁目五十七番一号。天正十九年(一五九一)創建。別当の円乗院が享保年間(一七一六~一七三六)に炎上し、由緒等の記録は一切失われた。石棒が神宝とされている。

     此社の内に奇石あり、其状雷槌の如くにして青石なり、長さ四尺二寸餘径太き所にて四寸、周一尺三寸五分、細き所一寸三分、これは昔より此ほとりの百姓が宅地の内に在しを、近き頃此社へ納めしと云。(『新編武蔵風土記稿』)

     いわゆるシャクジ、シャグチである。男根を模したもので、おそらく縄文中期から後期前半に作られたものではなかろうか。
     代田の地名はダイダラボッチによると柳田國男が言っている。守山小学校裏手に、長さ百間もの右足形の窪地があったと言うのだ。小田原滅亡後、この地を開拓したのは、吉良家家臣で帰農した清水、秋元、斉田(二家)、柳下、山田、大場の七人衆で、現在でも子孫が継いでいる。
     神楽殿には紅白の幕をたらし、その前の地面にはゴザが敷かれている。ここで餅つきが行われるのだ。毎年一月第三日曜日に実施すると言うから、明日のことだ。実行しているのは、代田七人衆の子孫を中心とする三土代会だ。「三土代」は「美土代」、「神田」「御田」「三田」と同じだろう。
     村中で必要になる餅を短時間で一度に搗くので、八人搗きという方法を生み出したらしい。そしてコネドリの際に歌われるのが「代田餅搗歌」である。

    一臼目
     目出度ナーエ 目出度目出度の若松様よ 庭にゃヨー 庭にゃ鶴亀 それさ五葉の松
         松のナーエ 松の下にはお爺とお婆
           お爺ナーエ お爺百までお婆九十九まで
             ともにナーエ ともに白髪のソレサはえるまで ♪
    最後の臼
    これがナーエ これがこの家の納めの臼よ
          臼もナーエ 臼もだいすもせいろも杵も
              それにナーエ それに続いて皆さんもご苦労
                   御縁ナーエ 御縁あるならまた来年も
                        あすはナーエ あすはどちらでお搗きなさるか

     おみくじ、お守りの種類が多い。「蜻蛉玉もあるよ。」「ナイロビの蜻蛉玉がすごく綺麗なんだ。」
     さて、どこかの公園で休憩した筈だが順序がまるで分らなくなってしまったので、ここに挿入しておく。講釈師とヨッシー、それに女性陣から煎餅、チョコレート等が大量に配られた。スナフキンは「最近、蜻蛉に気を使って煎餅ばっかりだ」とぼやいていたが、今日は満足しただろう。しかしここで食べ過ぎれば飲むときに苦しくなってしまう。あんみつ姫はさっき買ったまんじゅうを女性陣に配る。
     住宅地の中を抜け、羽根木公園に入る。桃太郎の記憶では昔は根津山と呼ばれていた。

     全体として丘状の地形になっている。古くは一帯に「六郎次」という野鍛冶が住んでいたと伝えられ、「六郎次山」と呼ばれていた。その後、根津財閥の所有地となったため、「根津山」と呼ばれた。一九五六年に都立公園として開園し、一九六五年に世田谷区に移管され区立公園となった。(ウィキペディア「羽根木公園」より)

     凧が木に引っかかっている。「最近みないよな。」我が家の近所の伊勢原公園では結構凧揚げをしている。和服の父親が金髪の子供に凧揚げをさせている。「ハーフだね。」
     プレーパークという一角では火を燃やしている。「大人がついてますけど、基本的にやりたいことをやらせるんですよ。」姫は良く知っている。プレーワーカーというリーダーや地元の世話人が見守るのだ。運営はNPO法人プレーパーク世田谷がやっている。

    ▼「やってみたい」ができる!
    プレーパークは、子どもが「やってみたい」と思うことを、なるべく何でも実現できるようめざした遊び場。たとえば、木登りや穴掘りや工作、水遊び・泥んこ遊びに焚き火もできちゃう。建物の屋根に登ることも、そこから飛び降りることもOK。自然の中で体を使って、思いっきり遊べます。
    ▼危ないことも、ケガすることも大切。
    高い所からジャンプしたり、木の枝にぶら下がったり、子どもは危ない遊びが大好きです。それは、遊びの中で限界に挑戦し、自分の世界を広げようとしているから。 時にはケガをすることもありますが、その経験が、本当の危険から身を守る力を育みます。(NPO法人プレーパーク世田谷http://playpark.jp/about)

     土の地面を踏みして行けば梅園だ。何分咲きというのか分らないが、白梅も紅梅も咲いている。「八重が早いのかな?」日は少しずれるが、一月十六日の時点で、白梅が四十五本、紅梅が二十六本開花したと言う。全部で六百五十本と言うから一割になる。観梅客も結構出ている。寒中に、今年初めての梅はやはり良い。
     公園を出ると、北沢川緑道にかかる橋は古事記橋。不思議な名前で由来が分らない。梅ヶ丘駅には三時に到着した。スナフキン、マリオ、マリーの万歩計を勘案して一万八千歩、十キロというところか。ロダンのスマホも同じ歩数を記録していた。
     桃太郎の調査では、駅を誘致した際、六百坪の土地を無償提供した相原家の家紋が梅鉢で、それに因んで梅ヶ丘駅と命名された。そして北沢窪の地名も梅丘に変わったのである。「もし相原家の家紋が桜だったら、桜ヶ丘になってました。」
     ここで解散する。来月は青梅街道で姫が青梅宿を案内してくれる。三月は?「また桃太郎ですよ。」「そうだった、まだ全然決めてない。」江戸歩きの担当は三月から新年度に入り、くじ引きで決めたばかりだ。
     今年八十歳になる三人組とチロリン、ペコチャンは喫茶店を探しに行った。「渋谷か新宿か、どうする?」新宿ではマリオが不便になる。「今朝歩いたところに朝からやってる店があったわよ。」そうか、生ビール二百八十円のメニューが出ていた店があった。但しどの辺だったか、私は覚えていないが下北沢なら皆が便利だ。
     小田急線に乗って下北沢に着き、北口に出るとフリーマーケットをやっている。朝の道を行けばすぐにあった。無国籍ダイニング一心。世田谷区北沢二丁目二十四番九号。取り敢えずビールで乾杯しようとすると、ファーブルがアサヒは苦手だと言い出した。生ビールはスーパードライだった。「昼間は我慢して飲んだ。」我慢しなくても良い。ビールの後はどうせ焼酎にするのだから、最初から黒甕のボトルを頼む。メニューを見ればドリンクは全て二百八十円である。
     ここで、あんみつ姫に有志からの感謝状が贈られた。街道歩き、江戸歩き、近郊散歩での多大な貢献に対してのことだ。私も「有志」の一人だからこれは知っていたが、思いもよらないことに、拙い作文を書き続けているという理由で私も感謝状を貰ってしまった。有難いことである。
     話題はファーブルの専門に関わってくる。私は全く無知であるが、姫は専門用語を使って質問する。ヤマチャンも私の知らない名前を出した。「知ってる?」「ナイロビで、先生の奥さんが家の息子とトランプしてました。」二時間飲んで二千円は異常に安い。
     その後、もう一軒行った筈だが、どの店で何を飲んだかさっぱり思い出せない。記憶力が明らかに減退している。スナフキンに「弱くなったんじゃないか」と言われたことだけは覚えている。


    蜻蛉