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    第七十五回 早稲田・雑司ヶ谷・大塚・巣鴨
      平成三十年三月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.03.28

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     原尞の十四年振りの新作『それまでの明日』が三月一日に出た。知っている人は少ないと思うので補足すると、チャンドラーの圧倒的な影響のもとに「探偵沢崎シリーズ」だけを書いている作家だ。ジャズピアニストでもある。『そして夜は甦る』(一九八八年)でデビューし、『私が殺した少女』(一九八九年、直木賞)、『さらば長き眠り』(一九九五年)、『愚か者死すべし』(二〇〇四年)の長編四作と、短編集『天使たちの探偵』一冊、それにエッセイ集一冊しか出していなかった。極端な寡作で読者としては気が揉めること夥しい。
     第一作では四十歳だった沢崎は五十歳を過ぎ、相変わらずショートピースを吸っている。巨漢相良は母親の介護のため、暴力団の清和会を一時休職中だった(介護休暇を取るやくざ!)。新宿署の錦織は警部のまま捜査課長になった(普通なら警視になってなければならない)。しかし原尞自身が七十二歳だから、このペースでは次作は期待できないだろう。
     森友問題では決済済み文書の改竄と言う前代未聞の事実が発覚し、ついに自殺者がでた。こういう時、必ずノンキャリアの中間管理職が犠牲になる。佐川国税庁長官は辞任したが、これだけで済む筈がない。(十二日、廃棄した筈の文書が全て出てきた。麻生は「最終責任は佐川」と切り捨てたが、そう上手くはいかないだろう。その後の進展についてはここでは書かない)。
     それにしても防衛省に始まり文科省、厚労省、財務省と官僚の質は驚くほど低下した。内閣人事局が上級官僚の人事権を掌握していることだけが問題ではない。政権の思惑のまま是非の判断を停止して自動的に行動してしまう官僚の思考構造は、ハンナ・アーレントが全体主義の特質に挙げたことである。
     そして全体主義を支えるのは大衆社会である。橋本、小泉政権に始まる新自由主義、金融資本主義とグローバリズムの罪については言わないが、大衆社会をきちんと判断するために西部邁を読み直す必要を感じている。しかし四五冊買った筈なのに『経済倫理学序説』も『大衆への反逆』も見つからない。『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』だけはあったが、当面の問題には関係ないだろう。これは唐牛健太郎を中心に据えた、ブントと己の青春への挽歌である。仕方がないので取り敢えずオルテガ『大衆の反逆』を引っ張り出した。

    ・・・・そうした問題に一度も関心を持ったことのない凡庸な読者がもしその論文を読むとすれば、それは論文から何かを学ぼうという目的ではなく、実はまったくその逆に、自分が持っている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪せんがために読んだということを銘記しなければならない。
    ・・・・今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとすることである。(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)

     私は凡俗であるが、「凡俗であることの権利を敢然と主張」することのないよう、心しなければならない。オルテガが立つのは精神の貴族主義であるが、それは社会階層のことではない。なにか卓越したものに奉仕するように生を作り上げることである。アーレントが『人間の条件』で言う公的領域と私的領域とを画然と区別し(現代は公私の別がなくなり、私的なものが世界を覆っている)、「活動的生活vita activa」に入る者である。そこには高潔な倫理観(noblesse obligeと言っても良い)がなければならない。西部が一貫して凡俗なるものへの罵倒を繰り返したのも同じ意味だ。

     ・・・・われわれがここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史が、初めて、凡庸人そのものの決定にゆだねられるに至ったという新しい社会的事実である。・・・・
     ・・・・この支配と勝利の実感が、彼にあるがままの自分を肯定せしめ、自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であるというふうに考えさせるのである。この自己満足の結果、彼は、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使せしめる。したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないかのように行動することとなろう。

     トランプや安倍晋三のことを言っているのではない。オルテガは百年前のヨーロッパを語っているのだ。知識人が大衆の中に溶解してしまった現実である。但し日本で大衆社会が問題になるのはもっと遅い。谷川雁が『工作者宣言』を書いたのは一九五九年で、高橋和巳が知識人論を書いたのはおよそ十年後(今タイトルを思い出せない)だったから、その当時はまだ知識人論が有効だった。今や「知識人」も「教養」も死語である。

     水曜、木曜と寒さがぶり返し、木、金と雨が続いた。週初めの予報では今日も雨になるかも知れなかったが、その心配はなくなった。旧暦一月二十三日。啓蟄の次候「桃始笑」。あの大地震から七年経った。
     今回は桃太郎が企画した。下見で歩いて三万歩を越えたので、途中で都電を使って二万歩台後半に抑える積りだと言う。おそらくカットする場所もあるだろう。
     集合場所は東西線早稲田駅の早稲田口だ。桃太郎、あんみつ姫、マリー、ファーブル、マリオ、スナフキン、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヤマチャン、ヨッシー、若旦那、蜻蛉の十三人。ドクトルと若旦那は久し振りだ。米寿になる若旦那の元気な姿を見るのは嬉しい。それに傘寿を迎える三人が揃って参加するのも珍しい。桃太郎は花粉症が酷いらしく、マスクの顔はあまり元気そうでない。「風が冷たいね。」暖かくなる予報だが結構寒い。
     「早稲田はしょっちゅう来たけど、こっちに降りるのは始めて」と言うファーブルにはひとつ知識を伝えておかなければならない。「漱石の父親がこの辺の町名主だったんだ。」元禄の頃以来、夏目家は神楽坂から高田馬場辺りまでの十一ヶ町を支配していた。目の前が馬場下交差点だ。牛込馬場下である。牛込は早稲田から神楽坂、市ヶ谷辺りまでの地域で、二番出口を出た所に漱石生誕地の碑がある筈だ。そこから南に伸びる坂が夏目坂だ。

     私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下といふ町にあった。町とは云ひ条、その実小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂れ切きつてかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるといふ意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあつたに違ないのである。(夏目漱石『硝子戸の中』)

     江戸八百八町と言うが、十八世紀中頃には千六百町余にまで膨れ上がった江戸市中は、町年寄三人、町名主二百五十人前後によって運営されていた。明治二年(一八六九)三月十日、東京府は名主二百八十三名を呼び出した。名主一同御役御免となり、名主制度は廃止されたのである。
     そして東京市中が新しく五十番組(区)に再編成され、各組に中年寄・添年寄、複数の組を束ねる中年寄世話掛八名、更に上位の纏め役の世話掛肝煎二名が決められた。漱石の父・小兵衛直克は二十六番組の中年寄世話掛に任命され、牛込など三十三ヶ町、一万三千二百人を支配することになった。喜久井町の名は直克が家紋に因んで名付けた。

     この町は江戸と云つた昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まつた時か、それともずつと後になつてからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵へたものに相違ないのである。
     私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使つて、喜久井町としたといふ話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教はつたのか、何しろ今でもまだ私の耳に残つてゐる。父は名主がなくなつてから、一時区長といふ役を勤めてゐたので、あるいはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になつて考へて見ると、厭な心持は疾くに消え去つて、ただ微笑したくなるだけである。(夏目漱石)

     最初は穴八幡宮に行く。かつては高田八幡宮と称していた。新宿区西早稲田二丁目一番十一号。康平年間(一〇五八~一〇六四)、前九年の役を終えて奥州から凱旋した八幡太郎義家が創建したと伝える。寛永十八年(一六四一)社殿造営のため山裾を切り開くと、横穴から金の阿弥陀像が発見された。これが「穴八幡」の由来である。
     交番の横に石段がある。「あれは太田道灌でしょうか?」「そうだと思うよ。」朱の鳥居を潜ると左の石垣に騎射の構えの武者像が立っているのだ。しかしこれは流鏑馬だった。この像がいつ頃建ったのかは分らない。

     高田八幡宮 牛込の総鎮守にして高田にあり(世に穴八幡とよべり)。この地を戸塚といふ。別途右派真言宗にして光松山放生会寺と号す。(旧名は威盛院中之坊と唱へしとなり。祭礼は八月十五日にて、放生会あり。旅所は牛込神楽坂の中腹になり)。
     社記に云く、寛永十三年丙子(一六三六)、御弓隊の長松平新左衛門尉源直次に与力の輩、射術練習のためこの地に的山を築き立てられる。八幡宮は源家の祖廟にして、しかも弓箭の守護神なればとて、この地に勧請せんことを謀る。(『江戸名所図会』)

     階段を登るのがきつい。最近足がやや衰えてきたか。境内では濃いピンクの桜が咲いていた。「カワヅザクラかな?」「カンヒザクラの一種でしょうね。」その隣にロウバイがまだ満開だ。「不思議ですよね。」今年のロウバイは花期が長い。
     「前はこんなじゃなかったわ。」境内を見てマリーが言うのは学生時代の記憶だろう。私の記憶とも違って随分綺麗なのだ。拝殿は平成元年、随身門は平成十年に再建されている。十年前(江戸歩き第十八回)に来た時は既に完成しているのに、すっかり記憶が飛んでいる。もしかしたら水稲荷と勘違いしていたかも知れない。
     朱塗りの随身門、黒の拝殿ともに金がふんだんに使われている。「菊の紋の真ん中に模様があるのは珍しくないですか?」よく見ると中にあるのは小さな三つ巴だ。八幡の神紋は通常三つ巴である。一方、皇室に関われば菊花紋を使う。八幡神が応神天皇だから二つを合わせたものだろう。境内には各町内の神輿蔵が並んでいる。
     今度は女坂から下りて南通り商店街に入る。水稲荷・甘泉園公園で堀部安兵衛の碑を見るテもあるのだが、今日はそのコースは取らない。「お酒を買いましたよね。」延宝六年(一六七八)創業の小倉屋(旧夏目家の隣)で、姫は吟醸酒「高田馬場堀部安兵衛」の四合瓶を買ったのだった。実は私も一本、桃太郎は二本買っていた。「途中で皆さんに飲んで貰いましたよ。」
     早稲田大学の塀越しにピンクの桜がきれいだ。「ソメイヨシノじゃないよね。」ソメイヨシノはまだどこでも開花宣言が出ていない。それに色が違う。「やっぱりカンヒザクラなんじゃないか。」おそらく新入生向けだろう、マンションのモデルルーム見学会のパンフレットを配る男たちが立っている。私たちにも配ろうとするのは余計なことだ。
     「大隈重信の像は?」私は早稲田大学には二度しか来たことがないので詳しくない。マリーに訊こうかと思ったが、たまたま左を見ると奥の方にあった。「あそこだ。」大隈はヤマチャン故郷の偉人である。「佐賀の大隈記念館は人気がないんだよね。」
     一月二十一日の『朝日新聞』によれば、昨年佐賀市が市民五百人に「佐賀の七賢人」について質問した。最も多かった答えは大隈重信で、解答率は六十四パーセントであった。つまり佐賀市民の三割は大隈の名を挙げられなかったのである。更に佐野常民四十二パーセント、江藤新平三十九パーセント、鍋島閑叟三十八パーセント、副島種臣二十七パーセント、島義勇二十パーセント、大木喬任十六パーセントであった。そして全体の四分の一は一人も名を挙げることができなかった。佐賀市としては由々しき事態である。

     成文堂の角から大隈通り商店街に入ると、さっきの見学会のマンションがあった。今時の学生はこういうところに住むのである。「俺たちの頃とはエライ違いだネ。」ファーブルによれば部屋を探す新入生は、母親と一緒だと高い部屋を選び、父親と一緒だと安い部屋に決めるらしい。
     私の学生時代には一畳三千円程度の相場だったと思うが、その頃は寮に入っていたから詳しくない。三畳間に住んでいた友人もいた。会社に入った時に入居した阿佐ヶ谷の部屋は六畳で二万円だった。トイレは共同で風呂なんか勿論ない。初任給六万七千円、手取りで六万円の時代である。
     都電早稲田停留所の横を通る。「昔は都電の路線が一杯あったんですけどね。我が家(駒込)から日本橋まで都電で行けたんですよ。」荒川線はその殆どが専用軌道だから残された。「残っているのは荒川線と玉電だけですか?」「玉電は私鉄だから。」
     新目白通りを歩いて面影橋に着く。「ここが鎌倉街道だと言われています。」以前、桃太郎が神田川を遡上する企画を立てた時(平成二十三年五月)にも立ち寄っている。川は水が少なく、少し臭うようだ。解説板には、「俤の橋・姿見の橋」としているが、『江戸名所図会』では、それぞれ別の橋だとする。

     俤の橋 ・・・・昔は板の橋なりしが、近頃は土橋となれり(この橋を姿見の橋と思ふは誤りなり。次にしるす)。・・・・
     姿見の橋 同じく北の方に架せる小橋を号く。昔はこの橋の左右に池ありてその水泛んで流れず。ゆゑに行人覗きみれば鏡の面に相対するがごとく、水面湛然たるゆゑに名とするとも、あるいは寛永(一六二四~四四)の頃、大樹(将軍家光)このところへ御放鷹のとき、御鷹それけるが、この橋の辺りにて見出でたまひしかば、台命によりてこの名をよばせられし由、里諺にいひ伝ふ(また土人の説に、在五中将業平朝臣歌枕みんと、あづまにさすらはれし頃、この水に姿をうつされたりしゆゑに名づくといへども、信とするにたらず)。

     橋の北詰、工事中の囲いの前にあるのが山吹の里の碑だ。石碑の下には如意輪観音、上に「山吹の里」と彫ってある。「ここも随分変わっちゃったな。」太田道灌の山吹の里については別に説があって、入間郡越生町にも「山吹の里公園」がある。広大な武蔵野の原野の中で、道灌がどこで雨に降られたかなんて特定できる筈がない。そもそも伝説中のことであり、史実かどうかも怪しい。ただ十五世紀の武蔵国一円は太田道灌抜きにしては語れないから、道灌伝説は各地に残る。
     しかし私たちの常識は現代の非常識である。この故事が今も尚国民的常識だと思ってはいけない。後日、念のために若い人に訊いてみると、「昔オバアチャンが、山吹は実がならないって言ってたのをおぼろげながら覚えてます。だけど太田道灌との関係なんて分りません」という答が返ってきた。古老になった気分であるが、それなら記しておこうか。
     鷹狩りの際に急な雨にあって、太田道灌は農家に蓑を借りに入った。しかしその家の娘は何も言わずに山吹の花を差し出した。意味が分らず館に戻った道灌は、『後拾遺和歌集』「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」(兼明親王)の歌を教えられ己の無学を恥じた。しかし和歌の名手として知られる道灌が、この程度の謎解きを解けない筈がない。

     按ずるに、この山吹の里のことは、『和漢三才図会』および『俗説弁』・『艶道通鑑』等のうちに出づるといへども、戸塚の金川といへるに思ひよせて、鎌倉なりとし、または東海道の方駅神奈川などいへど、みなその実を得たるにあらざるべし。穴八幡の前を宝泉寺の方へ流るる小溝を、いま蟹川といふ。昔は加牟川と唱へけるとなり。これ、先にいふところのかな川ならんか。その是非は詳らかにせずといへども、しばらくここにいひ伝ふるに任せて、これを挙ぐるのみ。(『江戸名所図会』)

     この話を広めた『常山紀談』も、『江戸名所図会』が挙げる書もいずれも江戸時代のものだから、既に伝説である。そう言えば宗匠が新大久保から新宿を案内してくれた時(江戸歩き第六回)、山吹を差し出した娘「紅皿」の墓を見た。西向天神の隣の大聖院(新宿六丁目)である。
     鎌倉街道はここから鬼子母神方面へ上り坂になる。少し行けば左が高田の総鎮守、氷川神社だ。豊島区高田二丁目二番十八号。貞観年間(八五九~八七七)に大宮から分霊を勧請し、スサノヲを祀った。落合(新宿区下落合二丁目)の氷川神社はクシナダヒメを祀って女体の宮、こちらは男体の宮と呼ばれた。
     石造の鳥居は寛政二年(一七九〇)正月、高田四つ家町に下屋敷のあった稲垣摂津守(志摩鳥羽藩)が寄進したものだ。鳥居の下は人口の小さな川を造って小さな橋を架けてあるが水は流れていない。「枯山水みたいなものでしょうか。」
     文化四年(一八〇八)の古い狛犬が鳥居右奥に置かれている。東京大空襲でヒビが入り、阿形の方は顔がなくなった。新しい狛犬を作って、ここに保存しているのだ。境内社は高田姫稲荷(トヨウケ)、神明(アマテラス)、道祖神(猿田彦)。「アッ、ボケですね。」白いボケは初めて見ると思う。

     狛犬や白木瓜の花二つ三つ  蜻蛉

     その斜向かいが南蔵院だ。豊島区高田一丁目十九番十六号。真言宗豊山派。正式には大鏡山薬師寺南蔵院と言う。三遊亭円朝の『怪談乳房榎』に所縁がある。「乳房榎はどこかでも見たよ。」「板橋だよ。」赤塚の松月院(板橋区赤塚八丁目)には第九回(平成十九年一月)に立ち寄って、乳房榎の四代目と称する榎を見ている。ついでに言えば松月院には千葉氏一族の墓、下村湖人の墓、高島秋帆顕彰碑もある。「エノキは見つけられないな。」
     絵師の菱川重信は南蔵院の天井に龍の絵を描くことを依頼された。だから物語の発端はこの寺である。弟子の磯貝浪江は重信の女房おきせを強引に寝取ったうえ、落合の蛍見物にことよせて重信を誘い出して殺害する。しかし南蔵院に戻れば重信は変わらぬ様子で絵を描いていて、絵は完成間近だった。そして龍の絵が完成すると同時に重信の姿は忽然と失せてしまう。浪江とおきせは一緒になるが、おきせは乳の腫れ物を患って死ぬ。重信の残された子の真与太郎を育てたのが、赤塚の松月院の榎からしたたり落ちる樹液であった。その後、成長した真与太郎は父の亡霊の助けを借りて、浪江を討って仇を晴らすのである。
     だからこの寺でエノキを探しても無駄なのだ。相撲の片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠等の墓があるらしいが今日はそこまでは見ない。いずれも江戸相撲の年寄名跡だから、現役時代の醜名は分らない。二所ノ関一門だと思われるが、江戸時代にもそうだったのかは不明だ。
     枝垂れ桜が咲いている。これもカンヒザクラか。本堂を囲むように鉢植えの花が無数並んでいる。「ジンチョウゲだ。」「香りはあまり強くないね。」

     民家の塀からミモザアカシアの黄色い房が伸びている。今年初めて見た。城西大学キャンパスでは「ギンヨウアカシア」とされていたが、私はそれとの区別がつかない。同じものだろうか。
     「『アカシアの大連』っていう小説がありますね。」清岡卓行だ。大学一年の時に読んだ筈だが(それなら姫はまだ中学生で読んだのだろうか)全く覚えていない。あの頃はまだ芥川賞受賞作を読む習慣があった。「それってハリエンジュじゃない?」「北海道はハリエンジュですか?」「ウン。ハリエンジュばっかり。」ハリエンジュはニセアカシアのことで、小説や歌謡曲に登場するアカシアは全てニセアカシアなのだ。
     次が根性院。豊島区高田一丁目三十四番六号。正式には金剛賓山根生院延寿寺と言う。この寺も豊山派だ。元々春日局の猶子榮春法印を開山として神田白壁町に建立された。新義真言宗の触頭で、元禄三年(一六九〇)には百石の加増を受けているから格は高い。
     正保二年(一六四五)下谷長者町へ、元禄元年(一六八八)に本郷切通坂知足院跡へ、明治二十二年(一八八九)に上野池端七軒町へ移転、明治三十六年(一九〇三)当地へ移転と目まぐるしく移転している。その間に火災で焼失再建、廃仏毀釈で廃寺再建を繰り返してきた。
     空襲で山門を除いて消失し、戦後は住宅地になっていた。昭和二十八年(一九五三)境内の一部に本堂を再建した。
     「ここは田安家の下屋敷だったんですよ。」「田安って?」「御三卿だったよね。」意外なことに純粋理科系のファーブルが知っていた。虫だけの人ではなかった。「一橋と田安と、もうひとつは?」「清水。」こういうことは水戸の人ロダンが詳しくて色々語る筈だが、今日は参加していない。ただ嘉永の近江屋版切絵図では松平大炊頭(常陸宍戸藩)下屋敷になっている。田安家の屋敷だったとしても相当前のことなのだろう。念のためにウィキペディアを覗いてみた。

    この地は、もと尾張候の下屋敷であったものを田安家に譲り渡され、文政のころは一橋屋敷となったと伝えられている。下屋敷跡であり、池あり丘あり樹木あり、また清泉涌き出た幽境の地であり、宿坂より山門までの参道は欅の並木があり、山門の奥には満々たる水を湛えた池があり、四季折々を楽しませた。殊に菖蒲の頃は散策と参詣の人で賑わったと伝えられている。

     尾張家、田安家、一橋家、松平家と代替わりを繰り返した場所を、「田安家の跡」と言うだろうか。もう一度寺の掲示を確認すれば、「田安侯旧邸」とある。伯爵となった田安達孝の屋敷だったのではないだろうか。
     「勝つイナリですよ。珍しい。」姫が喜んだが、残念ながら「勝」ではなく、「藤」のクサカンムリの部分から上が欠けている石柱だった。藤(ふじ)稲荷大明神。下落合二丁目の東山藤稲荷神社のことらしい。道標になっていて、左には「〇道乃里六丁」、裏には「所傷害而 不得己乃 中橋南〇」とある(そうだ)。読めない。
     モクレンが開き始めている。次は金乗院慈眼寺、通称目白不動だ。豊島区高田二丁目十二番三十九号。さっきの藤稲荷の道標はこの門前に建てられていたと言う。寺の前の坂を宿坂と言った。『江戸名所図会』によれば、「この地は昔の奥州街道にして、その頃関門のありし跡なりといへり」とある。
     ここも来たことがある。「いつでしたか?」「ダンディが五色不動をやった時。」但し江戸時代に五色不動はないと言うのはその時に記した。江戸時代にあったのは目白、目黒、目赤の三不動である。
     山門前の左には地蔵坐像、そして右に不動明王坐像が鎮座している。「この剣おかしい」と姫が笑うのは、剣が細くなく体にくっついていて、横からだとまるで本を抱えているように見えるからだ。石の丸彫りだから、剣のように彫ってしまうと割れる恐れがあるのだろう。本来の不動尊は秘仏だから簡単には見られない。不動尊は元々文京区関口の新長谷寺にあり、綱吉や桂昌院に信仰されたのだが、東京大空襲で被災して廃寺になったため、ここに移したのである。
     以前にも見ているが、丸橋忠弥の墓があるので墓地に行ってみる。「鈴ヶ森にも行きましたからね。」鈴ヶ森刑場は慶安事件に際して設置されたので、丸橋中弥はここで処刑された第一号とされる。但し奉行所に寝込みを襲われた時に死んでいるので、死体を磔にしたのである。
     丘に沿って墓地が広がっている。しかし坂の途中に青柳文蔵の墓に「日本における図書館の始祖」とあったので寄り道する。「蜻蛉なら知ってるんじゃないですか?」「知らなかったよ。スナフキンなら知ってると思う。」「聞いたことがあるようだけど。」スナフキンがスマホを検索したが、「違ってた」と言う。
     調べてみると、陸奥国磐井郡松川村(現岩手県一関市東山町松川)出身である。松川村は仙台藩と南部藩との境に位置し、仙台藩領となっていた。十八歳で江戸に出て、貧困に苦しみながら折衷派の井上金峨に学んだ後、学問を諦め公事師や金融業で財を成した。天保二年(一八三一)、仙台藩に書籍二千八百八十五部、九千九百三十七冊及び百両を寄贈した。若い頃、本も自由に手に取ることのできない環境で苦労したから、武士町人を問わず、学びたい者に公開してくれとの意思である。仙台藩がこれを了解して文庫を建て一般に供したことから、これをもって日本初の公開図書館とする。
     また金千両を藩に献じ、松川村に米蔵を建て備蓄米四千石を蓄えた。平時には低利で貸付け、その利息が文庫の運営資金となり、飢饉の際には無償で放出した。偉人がいたのである。
     忠弥の墓は墓域の一番奥にあった。切妻屋根を架けた堂の中に二基の墓が建っているが、表面はまるで読めない。「犯罪者でしょ。こんな立派な墓を作っていいんですか?」「国家転覆事件だからね。」「祟らないようにってこともありますよ。」
     鈴が森で処刑された時、一族の者が秘かに遺骸を貰い受けて紀州に埋葬した。後、安永九年(一七八〇年)に秦武郷が金乗院に移して墓碑を建てたことになっている。最初紀州に埋葬したというのは、紀州徳川頼宣の事件への関与が疑われたことに関係するだろうか。忠弥は長宗我部の一族と称していた。長宗我部氏は渡来人秦氏の裔を称したから、ここに秦武郷という人物が出てくるのである。しかし忠弥が処刑されてから百三十年経っているのだ。信ずるに足りない。
     実録物の『慶安太平記』が成立したのは安永の前、明和頃(一七六四~ 一七七二)とされている。これを種に、人集めのために寺が墓を建てたのではないだろうか。
     沈丁花が香ってくる。「槍の名人でしたね。」明治三年初演の二代河竹新七作『慶安太平記』も講釈師のネタになる筈だ。江戸城の堀の深さを知ろうと石を投げ入れているのを松平伊豆が見かけ、不審に思ったのが露見の発端である。
     慶安四年(一六五一)事件の背景は要するに急増した失業武士の不満であった。家光までの徳川三代で多くの大名が改易になって、浪人が溢れていたのである。計画では丸橋忠弥が江戸市中に放火し御三家と老中を殺害する。由比(由井とも)正雪は久能山、金井半兵衛は大坂で蜂起し全国数十万の浪人に一斉蜂起を促すことになっていたが、密告によって頓挫した。この事件の結果を受け、幕府は大名政策を多少は緩和せざるを得なくなった。武断政治から文治政策への方向転換の画期となったとされている。
     丸橋忠弥には殆ど興味はないが、由比正雪と言う存在がよく分らない。兵藤裕己『太平記(よみ)の可能性』によれば、門弟四千人と言われた軍学塾「張孔堂」は神田連雀町裏店の小さな借家で、数人が入れば一杯になってしまう。そして正雪の講じた楠木流軍学とは、『太平記秘伝理尽鈔』を種本にした講釈である。これは太平記中のあらゆる合戦について、楠木正成がその成否の理由を解説するというもので、平凡社の東洋文庫に入っているがめちゃくちゃ面白い。つまり由比正雪の正体は「太平記読み」(講釈師)と何ら変わるところがないのである。それが「軍学」として多くの大名に信頼されたと言うのが実に不思議なことなのだ。
     兵藤の本や若尾政希『「太平記読み」の時代』によれば、太平記読みが楠木正成忠臣説と南朝正当説を一般に広め、尊王派の思想形成に大きな影響を与えた。日本近世の政治思想は講釈師を抜きにしては語れないのである。
     境内に戻る。三面六臂の青面金剛と三猿の庚申塔は笠付きのものだ。三猿の上に倶利伽羅明王の載る庚申塔は初めて見る。おそらく貴重なものではないか。寛文六年(一六六六)のものだ。若旦那は「倶利伽羅紋々ってこれですか、そうですか」と感心している。解説板には、倶利伽羅龍王は青面金剛の化身と書かれているが、信じなくて良いだろう。庚申塔に青面金剛の刻像が確認できるのは承応年間(一六五二~一六五五)以降とされているので、ちょうど端境期になる。それ以前の庚申塔には阿弥陀如来や観音、地蔵などが刻されたから、何でも良かったのだ。
     「鍔塚があるよ。」直径五十センチ程で一面コケに覆われているが、鍔塚と言うのも珍しい。寛政十二年(一八〇〇)のものだが由来が分らない。「Kサンに教えてやればいいじゃないか。」この会には全く関係ない人物で、刀剣鑑定士の資格を持つ鍔の収集家(?)である。通勤カバンの中にいつも短刀を忍ばせていて、電車の中で騒ぐ高校生をこれで脅したと、本人は自慢していた。書店の事務室で日本刀を抜いて自慢しているのを客に見られ、百十番通報されたこともある。

     目白通りを渡って鬼子母神通り商店街に入る。「リーダー、ちょっと待ってくれよ。遅れてるやつがいるんだ。置いてっちゃおうか。」若旦那が多少遅れ気味になるのは仕方がない。すぐに追いついた。「俺たちはもうすぐ極楽に行くんだから、他人に迷惑かけちゃダメだ。」「私は極楽浄土だけど、講釈師は地獄だよね。」「そうだよ、俺は地獄に行くんだ。」年寄りの会話にファーブルが驚く。
     「なんだかお腹がすきました。腹時計だと十一時半ですが。」「まだ十一時十分だよ。」都電に沿って少し行くと大鳥神社だ。豊島区雑司が谷三丁目二十番十四号。「大鳥神社って酉の市?」「そうだよ。あちこちあるけどね。」正徳二年(一七一二)鬼子母神境内に鷲神社として創祀され、明治以降に現在の名前になった。
     拝殿前の狛犬が犬と獅子の対になっているので、ファーブルに注意を促す。「角のあるのが犬(吽形)、ないのが獅子(阿形)なんだ。」「犬に角があるのは何故?」「良く分らないけど、朝鮮に一角獣がいるんだよ。」そう言ってしまったのだが訂正が必要だった。実は中国のカイチという一角獣(麒麟に似ている)が朝鮮半島に渡ってヘテ(ヘチ)という獅子になるのだが、ヘテは角がない。いずれにしろ、この影響ではないかと素人は考える。
     「そこのケヤキ並木が有名だよ」と講釈師が声を上げる。「こっちから来たのは初めて。」これまで二回は池袋方面から来ているから逆方向になる。そして仁王像から鬼子母神堂境内に入る。豊島区雑司ヶ谷三丁目十五番二十号。入谷真源寺の鬼子母神、市川法華経寺の鬼子母神と合わせ、江戸三大鬼子母神とされる。
     「鬼」の一角目の点がないのがここの自慢だ。「角がないんですよね。」子供を食らう夜叉が仏教に帰依して護法善神となって角が取れたと言うのである。代わりに人肉の味がするザクロを食う俗説がある。

     当山におまつりする鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄四年(西暦一五六一年)一月十六日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。
     東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
     その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正六年(一五七八年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。
    http://www.kishimojin.jp/history/index.html

     上川口屋が開いている。天明元年(一七八一)創業と言う駄菓子屋だ。桃太郎がここで煎餅を買って分けてくれる。梅ジャム煎餅かソース煎餅か、正確な名前は分らないが、何もつけなければ同じものか。子供の頃の記憶と同じ味でやや甘い。

     この地は遥かに都下を離るるといへども、鬼子母神の霊験著明く、諸願あやまたず協へたまふがゆゑに、つねに詣人絶えず。よつて門前の左右には貨食店(りょうりや)軒場を連ねたり。十月の会式には、ことさらに群衆絡繹として織るがごとし。風車、麦藁細工の獅子、川口屋の飴をこの地の名産とす。(『江戸名所図会』)

     『江戸名所図会』には麦藁細工の獅子は取り上げられるが、ミミズクのことが記されない。ススキで作ったミミズクも名産である。貧しくて母親の薬が買えない親孝行な娘が病気平癒の願をかけたところ、蝶の化身が夢枕に立ち、ススキで木兎を作って売ればよいと教えられたという伝説だ。
     ファーブルに本殿裏の小さな妙見堂を紹介する。「妙見は北極星の化身だよ。」北辰妙見菩薩とも言い、日蓮宗の寺で祀られることが多い。また千葉氏が守護神として信仰したので、千葉周作の北辰一刀流の「北辰」は妙見信仰からきたものだ。
     大イチョウは樹齢七百年年と言う。大黒堂ではおせん団子を売っている。笠森おせんかと思ったら、鬼子母神のホームページによれば、鬼子母神に千人の子がいたことにあやかるのだ。羽二重団子本舗が復活させたものである。値段は高い。
     そして法明寺に入る。威光山。豊島区雑司ヶ谷三丁目十八番十八号。鬼子母神はこの寺の別堂なのだ。弘仁元年(八一〇)に真言宗威光寺として開創し、正和元年(一三一二)に厳譽立師が日蓮上人に帰依、日源と名を改めて日蓮宗に改宗して威光山法明寺と改称した。江戸時代には十四ケ寺を擁する寺院だった。
     説明板には小幡勘兵衛景憲(甲州流軍学の創始者)、豊島氏一族、四代目橘家円喬(三遊亭円朝門下、明治の名人)、楠木正成息女の墓などが記されている。豊島氏は秩父平氏の一族である。石神井城(石神井公園)を本拠に練馬城(豊島公園)、平塚城(上中里の平塚神社)等に拠ったが、文明十年(一四七八)太田道灌によって滅ぼされた。ここにあるのは、その末裔を称する江戸時代の旗本である。そこから絵島生島事件の絵島(大奥年寄)が出ている。楠木正成の娘の墓が何故こんなところにあるのか謎だが、今日は墓地には寄らない。
     寺を出ると東京音楽大学があった。この大学がここにあるとは知らなかった。豊島区南池袋三丁目四番五号。「一番古い音楽大学ですね。」「東洋音楽学校でした」とヨッシーが補足してくれる。沿革を見ると、明治四十年(一九〇七)神田区裏猿楽町に創立し、大正十三年(一九二四)に北豊島郡高田町大字雑司ヶ谷村に移転して現在に至っている。
     「国立じゃないんですか?」「私立だよ。国立は東京芸大だけだからね。」「日本に国立の芸術大学は一つしかないんですよね。文化の貧困と言うかなんと言うか。」他の国ではどうなっているのか私は知らない。「読みは違うけどもう一つ。」「ああ、国立音大ですね。」
     淡谷のり子は最初ピアノ科に入学して声楽科に移った。船村徹と高野公男(中退)はここで出合った。春日八郎もこの学校を出ていたとは知らなかった。その他歌手では、菊池章子、織井茂子、霧島昇、菅原都々子、三浦洸一、仲宗根美樹等々が卒業生だ。
     雑司ヶ谷停留所から都電に乗る。相変わらずこの電車は混んでいる。早稲田から三ノ輪橋まで十二・ニキロ三十停留所のどこで乗降しても一律百七十円である。「この辺に家があったんですよ」と若旦那は外を眺める。空襲で焼け出されるまで若旦那の一家は池袋に住んでいた。北区・豊島区を中心にした城北大空襲は四月十三日深夜から翌未明にかけてのことである。死者二千四百五十九人、焼失家屋十七万千三百七十戸。「中学三年でした。」
     「どこで降りる?」「大塚です。」乗客の多くが大塚で降りるのはJRに乗り換えるためだ。

     大塚 小石川原町の辺りより護国寺の辺りまでの惣名なり・・・・ある人いふ、いまの水戸大学侯(陸奥守山藩主)の藩邸、古への奥州街道にて、榎の大樹あるはその頃の一里塚にて、すなはち大塚といふはこれなりと。(『江戸名所図会』)

     ちょうど十二時だ。場合によっては分散しようということだったが、たまたま覗いた定食屋に全員が入れた。らくや食堂。豊島区南大塚三丁目五十二番六号。
     高齢者と桃太郎のグループ、若者グループとが離れた席になった。サバの塩焼き、マグロのカマなどの定食があるが、私はトンカツ八百五十円にした。「ビールが四百円だよ。」アサヒだったのでファーブルは飲まない。こちらの席では姫、スナフキン、蜻蛉がビールを頼んだ。
     「俺は今夜の飛行機でタイに行くから、反省会は参加できないんだ。」ファーブルは忙しい。なんでもタイの北部と南部で、遺伝子の違うアブ(ブヨだったかな)が、画然と分れて生息している。その分岐する地点を確定したいというのが目的だそうだ。私が全くの門外漢なことは誰でも知っているが、姫は「面白いですね」と熱心に耳を傾ける。

     十二時五十五分に店を出る。次は庚申塚に行く筈だ。「都電で行こうぜ。」折戸通りを真っ直ぐ行けば歩いても十五分程だが、講釈師には誰も逆らえない。「以前、蜻蛉が道を間違えましたよね。」そうだった。二年前の三月のことである。
     大塚停留所で再び都電に乗り込む。庚申塚停留所で降りるのかと思ったら、そこは素通りして次の新庚申塚で降りた。ここだと離れてしまう。しかし桃太郎は白山通りを少し行って右に曲がる。そうか、庚申塚は諦めたのだ。この辺りは来たことがある。
     寺町の狭い道を歩いて到着したのは盛雲寺だった。三宝山歓喜院。浄土宗。豊島区西巣鴨四丁目八番四十号。目的は新門辰五郎の墓である。「何故こんなところに?」「この辺の寺は明治になって浅草や神田辺から移転してきたんだよ。」『四谷怪談』のお岩さんの墓のある妙行寺も四谷から移転してきた。この寺も元和五年(一六二〇)下谷に開山し、明治四十一年にここに移って来た。
     「新門辰五郎って?」「ヤクザの親分、人入れ稼業の元締め。」と言ってしまったが、火消しの元締め、鳶の頭と言うべきだった。幕末江戸の侠客である。清水次郎長は無職渡世の博奕打ちだが、辰五郎には職業があった。浅草寺僧坊伝法院新門の門番に任じられたので新門を名乗った。これは浅草一帯の利権が集中する役職だったから、莫大な財を築いた。金を無造作に押入に投げ入れていて、押入の底が抜けたという伝説がある。
     「誰も新門には逆らえなかったよ。」こういうことは講釈師の独壇場である。「歌舞伎にも出てくるだろう?」「歌舞伎の演目はなんですか?」暫く考えていた講釈師が「芝で相撲取りと喧嘩になるヤツ、め組の喧嘩だ」と思い出した。迂闊なことに私も納得してしまったが、しかしその喧嘩に登場する辰五郎は新門とは別人である。喧嘩は文化二年(一八〇五)に起きた。新門辰五郎は寛政十二年(一八〇〇)の生まれとされるのでまだ五歳で、相撲取りと喧嘩するには小さ過ぎる。ただ若い頃には大名火消しとの喧嘩は何度かしたようで、それが明治二十三年初演の『神明恵和合取組』に多少は投影されているかも知れない。真山青果に『新門辰五郎』という芝居があるらしい。
     娘が慶喜の妾になったので、元治元年(一八六四年)禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が上洛するのに同行し、二条城の警備に当たった。江戸の武士団よりも、新門率いる鳶の方が慶喜には信頼できたと言うことだ。部下を信頼できない殿様は、慶応四年(一八六八)一月の鳥羽伏見の戦いの敗戦を見て、部下には徹底抗戦を説きながら自身は敵前逃亡する。その時、金扇の大馬印を大阪城に忘れてしまったのだが、辰五郎がそれを取り戻して江戸まで持ち帰った。
     そして現在でも末裔(新門七代目)が合羽橋で稼業を継続している。株式会社新門がそれで、浅草寺と浅草神社の御用出入りの土木建築業であり、三社祭等を仕切っているそうだ。
     お岩通りを横断して朝日通り商店街に入れば松龍山總禅寺だ。豊島区巣鴨五丁目三十二番二号。曹洞宗。ここは赤門である。綱吉によって赤門を許されたというから格は高かったのだろう。門の中には鉄筋コンクリートの建物があるのだが、窓から覗く椅子がモダンだ。それにコンクリートの円柱には上り龍と下り龍が巻き付いている。
     寛永元年(一六二四)湯島に創建、天和三年(一六八三)駒込千駄木に移転、明治三十年(一八九七)当地へ移転した。千駄木への移転は、天和二年十二月の駒込大円寺から出火した大火(八百屋お七一家も焼け出されて非難した)のためだろう。
     手塚治虫の墓があるそうだが、それらしき案内はしていない。観光客に荒らされるのを恐れているのだろう。ところで、手塚治虫が戦後マンガの第一人者であり偉大な存在であることは認めた上で言うのだが、生涯常にトップを走ってきたかのような言い方は間違いである。劇画全盛時には手塚は既に古いと言う評価が一般的だった。その頃は劇画の手法を取り入れようと苦労し、『人間昆虫記』や『奇子』などになった。また手塚をヒューマニズムで論ずる者もいるが、呉智英『現代マンガの全体像』は、手塚は類稀な職人だったと評価している。
     民家の玄関前に見事なピンクの枝垂れ桜が立っている。「造花だろう。」「本物だった。」梅だったかな。
     次は徳栄山総持院本妙寺だ。豊島区巣鴨五丁目三十五番六号。元亀二年(一五七一)駿府に創建、天正十八年(一五九〇)江戸清水御門内に移転、その後移転を繰り返し、明治四十四年(一九一一)に本郷菊坂から当地へ移転した。明暦の大火(振袖火事)の火元になった時は本郷丸山町にあった。
     墓地に入るとすぐに関宿藩久世家の墓域がある。「関宿って?」「利根川と江戸川との分岐点だよ。」「野田から行きましたよね。」終戦時の総理大臣鈴木貫太郎の記念館もある。
     千葉周作成政墓。「神田お玉が池だね。」「北辰一刀流。」千葉周作の功績は、竹刀と防具を用いて素人に分りやすい教程を定めたことである。現代剣道の重要な源流となった。
     遠山金四郎景元の五輪塔墓、遠山氏先塋之碑。「ホントに刺青してたのかな?」「桜吹雪じゃなくて、人の名前だったって言いますよね。」私はその辺のことに詳しくない。それに確実な証拠はないのだ。遠山の金さんがヒーローになったのは、水野忠邦と鳥居耀蔵の奢侈禁止政策(特に芝居小屋の廃止)や人返し令に抵抗したからだ。芝居小屋全廃の方針に対して浅草猿若町への移転に緩留めたのは金四郎の功績だと、芝居関係者が顕彰したのである。金四郎の刺青もその時に作られた。
     将棋の天野宗歩。宗歩は文化十三年(一八一六)に生まれ、安政六年(一八五九)に死んだ。実力は当代随一だったが、世襲の将棋三家(大橋、大橋分家、伊藤)の出身でないため名人にはなれなかった。実力十三段とも言われ後世「棋聖」と呼ばれた。現在のタイトル「棋聖」はこれに由来する。墓石は将棋の駒を象っている。
     明暦の大火供養塔。江戸市中の六割が焼失し、死者は三万とも十万とも言われる。本妙寺だけでなく、小石川新鷹匠町、麹町の三箇所で連続的に出火した。「江戸城の天守閣が焼け落ちたのがこの火事でしたね。」「天守閣再建は保科正之が反対したんです。」「何もしなかったことが功績だね。」平時に天守閣は不要であり、道路拡張や火除け地の整備が優先されるべきだと言った。また本所回向院は、この大火の被災者を供養するために建立された。
     実は火事の原因について異説がある。ひとつは本来の出火元は老中阿部忠秋の屋敷だったとするものだ。火元が老中屋敷では幕府の面目が立たず、本妙寺に因果を含めて火元になって貰ったと言う。
     もうひとつは幕府放火説である。住居の過密化、衛生環境の悪化、浮浪者の増加を一挙解決するための対策を必要とした。しかし都市再開発には市中全体の立ち退き問題が絡むので簡単ではない。火事で焼けてしまえば手間が省ける。時代小説の格好のテーマになるが(隆慶一郎『吉原御免状』等)、真相は不明だ。
     囲碁の歴代本因坊の墓には四世道策から二十一世秀哉まで。「石が置いてあるぜ。」白黒の碁石が数十個散らばっている。本因坊道策は正保二年(一六四五)から元禄十五年(一七〇二)の人、やはり実力十三段と言われた。小林光一(名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖)をはじめ、現代でも道策を史上最強と評価する人が多い。十四世秀策もまた史上最強と言われ、かつて世界最強だった韓国の李昌鎬が傾倒した。
     最後の世襲制名人本因坊秀哉の木谷実との引退碁は、川端康成『名人』に描かれた。引退後、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、これが現在の本因坊戦になった。五連覇以上で名誉称号が許され、秀哉の後を継ぐ。二十二世本因坊秀格(高川格、九連覇)、二十三世本因坊栄寿(坂田栄男、七連覇)、二十四世本因坊秀芳(石田芳夫、五連覇)、二十五世本因坊治勲(趙治勲、十連覇)。
     森山多吉郎(栄之助)の墓もある。オランダ通詞の家に生まれたが英語の必要を痛感していた。嘉永元年(一八四八年)アメリカ捕鯨船船員のラナルド・マクドナルド(白人とアメリカ原住民との混血)を取り調べた際、マクドナルドから本格的に英語を学んで蘭・英二カ国語の通訳となった。日本初の英語通訳である。嘉永六年のプチャーチン、嘉永七年のペリー来航時の通訳頭を務めた。どこかで目にした記憶があったので、おそらく吉村昭だと見当をつけて確認すると、吉村昭『史実を歩く』の中の「日本最初の英語教師」に記されていた。「英語教師」はマクドナルドのことだ。

     かれは、英語を駆使して外交交渉の通訳を務め、外国の外交官の信頼も得た。イギリス公使オールコックは、自著の中で、
     「ペリー提督が最初に到着して以来の外国代表との会見や通信の内容については・・・・どんな役人よりも、おそらくかれ(森山)の方がよく知っていることはわたしにはわかっていたし、それとともにより聡明で、わたしの想像ではより信頼しうる人間であったからだ」と、記している。

     後に小石川に英語塾を開き、津田仙(農学者、キリスト教界三傑の一人で津田梅子の父)、福地源一郎(東京日々新聞社長、立憲帝政党)、沼間守一(東京横浜毎日新聞社長、国会期成同盟発起人、立憲改進党)等を教えた。
     寺を出て白山通り(中仙道)に出るところが、豊島青果市場だ。豊島区巣鴨五丁目一番五号。「ヤッチャバですね」と若旦那が言う。

     豊島市場の起源は、十六世紀頃の「辻のやっちゃ場」駒込土物店に求められます。駒込付近の農民が江戸へ青物をかつぎ売りの途次、駒込天栄寺境内にあった「さいかち」の大樹に憩い、分荷したのが始まりで、都内最古の市場であると伝えられています。
     江戸時代には、神田、千住の両市場とともに青物三大市場のひとつに数えられ、幕府の御用市場として栄えました。
     時は東京市となり、関東大震災後の帝都復興事業を経て、大東京市域に散在していた私設市場も統合され、昭和十二年三月東京中央卸売市場豊島分場としてこの地に開業し、現在に至っています。(東京都中央卸売市場)http://www.shijou.metro.tokyo.jp/info/04/

     暑くなってきたのでセーターを脱ぐ。「すみません、横から入ります」と桃太郎がわざわざ講釈師に断っている。とげぬき地蔵だ。萬頂山高岩寺、曹洞宗。豊島区巣鴨三丁目三十五番二号。慶長元年(一五九六)湯島に開かれ、約六十年後下谷屏風坂に移り、巣鴨には明治二十四年(一八九一)に移転してきた。毛利家の女中が針を誤飲し、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができたという伝承からとげぬきの名がついた。しかし針は誤飲するものだろうか。
     洗い観音には随分人が並んでいる。「今は雑巾だけど、昔は亀の子束子で擦ったんですよ。だから石が磨り減っちゃってね。」だから現在の像は二代目である。亀の子束子の西尾商店は滝野川にある。「お袋がよく通ってた。」
     桃太郎は金太郎飴で地蔵煎餅を買って配ってくれた。地蔵の形の醤油煎餅である。「こういうのは頭から食べるのか、足からかな?」私はそんなことを考えずに頭から齧った。「アレッ、ドクトルは?」「体調が悪いって帰ったよ。」気付かなかった。講釈師とマリーは商店街で塩大福を買ってきた。「塩大福?」スナフキンとファーブルはこういうものに目がない。「どっちだい?」「あっちの方みたいだよ。」しかし彼らはすぐ目の前の地蔵もなか松月堂で買った。「俺も買おう」と桃太郎もその店に入った。「エーッ、そこじゃないわよ。元祖は向こうよ。」
     元祖塩大福を名乗るのは「みずの」である。私はちっとも分らないが、その他に伊勢屋と「東京すがも園」とが有名らしい。そんなに変わるもんじゃないだろう。「それじゃ江戸六地蔵に行きます。」商店街を駅に向かえば、「みずの」の店頭は行列になっていた。
     そして商店街の入口にあるのが江戸六地蔵だ。醫王山東光院眞性寺、真言宗豊山派。地蔵坊正元の発願で、宝永五年(一七〇八)から享保五年(一七二〇)にかけて鋳造された六地蔵の第四番である。中山道の入口の守護である。「その頃から銅で作る技術があったんだね」とはヤマチャンは不思議なことを言う。「奈良の大仏だって銅ですよ。」
     他には東海道の品川寺(第一番)、奥州街道浅草の東禅寺(第二番)、甲州街道新宿の太宗寺(第三番)、水戸街道白河の霊巌寺(第五番)にある。第六番は千葉街道富岡の永代寺にあったが、明治の廃仏毀釈で廃寺されるとともに地蔵も失われた。但し上野の浄名院がその代仏と称して第六番を名乗っている。「六地蔵はみんな笠をかぶってるけど、品川寺だけが笠がないんだ。」
     ここから桃太郎は住宅地の中の細い道を適当に(正確に)曲がりながら歩いていく。「ここです。」坂の上の門が閉ざされているが、東福寺である。観光山、真言宗豊山派。豊島区南大塚一丁目二十六番十号。「この辺りに牧場があったんだそうです。」入れないが、門の前に解説板があるのでそこまで行ってみた。疫牛供養塔(明治四十三年)である。
     「こちらから入れますから。」「これは如意輪観音でしょうか?」半跏思惟像だがそうではない。「十羅刹女神」とある。十羅刹メガミではなく、ジュウラセツニョである。羅刹とは夜叉である。鬼だから「神」が余計なのだ。藍婆(らんば)・毘藍婆(びらんば)・曲歯(こくし)・華歯(けし)・黒歯・多髪・無厭足(むえんぞく)・持瓔珞(じようらく)・皐諦(こうたい)・奪一切衆生の、十人の羅刹女である。元々人肉を食らう夜叉だったが、鬼子母神とともに仏教に帰依した。特に法華経信者を守護する。
     次は日本基督教団巣鴨教会。豊島区南大塚一丁目十三番八号。「山田耕筰がここに住んでいたんです。」そんなことを私は全く知らなかった。金持ちの息子だろうと思い込んでいた。

     巣鴨教会は一八七六年四月四日に設立されました。明治期にアメリカから派遣された長老派の宣教師たちが築地で始めた教会が巣鴨教会のルーツですが、築地の教会で育った一番最初の世代の牧師である田村直臣牧師が一八七六年に築地から巣鴨に移って、巣鴨教会が設立されました。私たちの教会は、プロテスタント教会の祖であるドイツのルターと並んで代表的な改革者であるスイスのカルヴァンをルーツとする改革長老教会の伝統を大切にして歩んでいます。(日本基督教団 巣鴨教会「教会の歴史」)

     山田耕筰については團伊玖磨『好きな歌・嫌いな歌』で、日本語の高低アクセントとメロディの高低を一致させるという説を読んだ記憶しかない。「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の「アカ」は「ア」にアクセントが置かれている。これはどういう意味かと團が訊ねると、昔はそうだったと答えた。東京方言がそうだったのだろう。

     山田耕作が実父を亡くしたのは一八九六年、耕作が十歳の時でした。その後、キリスト教の伝道活動をしていたこの実父の遺言もあり、耕作は巣鴨宮下(現南大塚)にあった自営館という施設に入館します。この自営館こそ、今の巣鴨教会の前の姿です。自営館は、苦学生に仕事を与え、自活させながら学校へ通わせるための施設でした。もともとは巣鴨教会の初代牧師・田村直臣が、芝白金にて開館していたのですが一八九四年(山田耕作が入館する二年前)に今の場所に移転されました。自営館で暮らす学生は、帝大や早大に通いつつ、畑仕事や牛乳配達、活版所の仕事に従事しました。山田耕作も又、十三歳までの日々を館内の活版工場で働きつつ過ごしました。・・・・
     「からたちの花」は、北原白秋が、山田耕作の自営館での思い出(下記をご参照下さい)に共感して作詞したと言われています。・・・・
     山田耕作『自伝 若き日の狂詩曲』より
     ・・・・工場で職工に足蹴にされたりすると――活版職工は大体両手がふさがっているので、殴るより蹴る方が早かった――私はからたちの垣まで逃げ出し、人に見せたくない涙をその根方にそそいだ。そのまま逃亡してしまおうと思った事も度々ではあったが、蹴られて受けた傷の痛みが薄らぐと共に、興奮も静まった。涙もおさまった。そうした時、畑の小母さんが示してくれる好意は、嬉しくはあったが反ってつらくも感じられた。ようやくかわいた頬がまたしても涙に濡れるからだ。
     からたちの、白い花、青いとげ、そしてあのまろい金の実。それは自営館生活のおける私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となったのだ。」
     (「山田耕作と巣鴨教会」)http://www.sugamo-church.com/YamadaKousakuJapanese.htm

     「大塚公園で休憩しましょう。」春日通りに出る。丸の内線新大塚駅を過ぎれば公園だ。通りに面した石のベンチに座り込む。「トイレはこの奥、噴水の所です。喫煙所もあります。」行って見ると、坂を下る途中には大塚庚申塔があった。地蔵に三猿(延宝二年)、大日如来と三猿、観音(馬頭観音かも知れない)と三猿(延宝六年)である。他所にあったものを集めたものだが、地蔵、如来、観音に三猿の組み合わせは珍しい。大日如来とされているのは、頭部だけセメントで新しくしたようでヤケに螺髪が強調されている。
     ラジオ体操発祥の地の立て看板がある。「ホントかよ。どこでもあるんじゃないか?」それでは全国ラジオ体操連盟やかんぽ生命「ラジオ体操の歴史」のページをみる。逓信省簡易保険局が中心となって旧ラジオ体操第一が制定され、昭和天皇即位の大礼を記念して昭和四年(一九二九)二月にNHK本放送が開始した。そして翌五年(一九三〇)七月二十一日、神田万世橋署の面高巡査が千代田区神田佐久間町の佐久間公園で「早起きラジオ体操会」を実施した。これが公式記録ではなかろうか。
     ただ、同じ頃に神田和泉町の宮川広場で実施された「全国ラジオ体操会」が起源と言う説もある。これに大塚公園(五年一月と主張)を加えれば、発祥の地を名乗るのが三ヶ所ということになる。恐らく全国のどこかで似たようなことを考えた人物はいるのではないか。
     「最近は音が煩いってクレームがつくらしいね。」「今は夏休み中ってことないんだよ。七月末の一週間と夏休み最後の一週間だけなんだ。」「そうなの?俺らの頃は夏休み中毎日だった。ハンコを貰うのが楽しみだったけどな。」最後の日にはノートが貰えた。「運営する連中が大変なんだよ。」PTAかと思ったら、自治会がやっているのだった。
     今の子供はラジオ体操ができない。以前トッパン印刷板橋工場にいた頃、朝礼の際には必ずラジオ体操をやっていたが、派遣やアルバイトの連中は殆どまともにできない。却って年寄が一所懸命やるのだ。子供の頃はそんなことは思わなかったが、一所懸命やると結構汗が出てくる。
     「今はテレビ体操ですよね。」ヨッシーとスナフキンは、テレビ体操のお姉さんのファンである。私は実は『ラジオ体操の歌』が好きだ。昭和三十一年から使われた三代目で、藤浦洸作詞、藤山一郎作曲である。

     煎餅などを腹に収めたところで出発する。「もうすぐですよね。」「十五分かな。」「そんなもんでしょう。」春日通りから不忍通りに曲がれば護国寺だ。文京区大塚五丁目四十番一号。真言宗豊山派。正式には神齢山悉地院大聖護国寺と、大層な名前になっている。
     惣門には音羽ゆりかご会の看板が立っている。「ここが音羽ゆりかご会です。」「俺は合唱団しか知らないんだけど。」「それですよ。」

     音羽ゆりかご会の創設者である海沼實は、明治四十二年に長野県埴科郡松代町で誕生しました。童謡の作曲家を志して、昭和七年に上京すると、同郷出身の作曲家・草川信に弟子入りして作曲活動を開始。当時の護国寺貫首・佐々木教純の好意で護国寺境内に無償で教室を借り受け、子どもの情操教育を志して合唱団を創設し、自らその会長となりました。
     海沼の師匠にあたる草川は、自らの代表作である「ゆりかごの歌」を、この合唱団の会歌として贈り、また大正時代の半ばから「赤い鳥童謡運動」を支えてきた詩人の北原白秋は、同会を「音羽ゆりかご会」と命名し、協力にサポートして下さいました。(「音羽ゆりかご会の歴史」)http://0108.tv/history

     川田正子、孝子、美智子(川田須磨子と海沼實の子)の三姉妹が有名で(但し美智子はそんなに有名ではない)、正子は昭和二十年の『里の秋』、二十一年の『みかの花咲く丘』、二十二年に始まった『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』等で圧倒的な人気を得たと言う。海沼實没後は美智子が代表を継いだ。その先の仁王門から入る。
     「あそこの石段から着物の女性が降りて来たじゃないか。」講釈師が力説するのは、先日北沢川緑道を歩いて三好達治の碑のところで書いたことだ。講釈師が声をかけると、茶会の後だと言っていた。「蛇の目でさ。美人だったよ。覚えてないのか。」
     「立派だね。」「綱吉が建てた寺だからね。」黒い本堂の脇からピンクの桜を見ると浮き上がるようだ。ロウバイも咲いている。大きな墓域の並ぶ方に向かう。姫はジョサイア・コンドルだったら見ても良いと言っていたが探せなかった。
     「それは誰ですか?」男女の写真のレリーフの文字を判読すれば、野中到夫妻である。「富士山気象観測ですね。越冬観測。新田次郎の『芙蓉の人』です。」姫は詳しい。考えてみれば、私は新田次郎の作品を読んだことがないかも知れない。藤原てい『流れる星は生きている』は読んだ。息子の数学者藤原正彦はなんとなく敬遠している。「品格」なんて声高に言うのは私の趣味に合わない。
     三条実美、山縣有朋。「山縣はとんでもない悪人だぞ。」それについて異議はない。山城屋事件は山縣に累が及ばないよう、山城屋和助を自殺させた。大逆事件は山縣がいなければあれ程の事件になっていない。山縣が死んだ時、石橋湛山は「死もまた社会奉仕」を発表した。
     大隈重信の墓は実に広大だ。従一位大勲位侯爵である。石造神明鳥居には早稲田大学と彫られている。「みんな鳥居があるのはどうしてですかね。」「神様にしたんじゃないの。」明治政府の神仏分離政策は結局徹底しなかったということではないだろうか。
     大隈の葬儀は日比谷公園で「国民葬」として営まれ、一般市民三十万人が参列したと言う。一方、その三週間後に「国葬」として行われた山縣の葬儀の参列者は政府関係者以外には千人に満たなかった。山縣の不人気は当然だが、大隈の人気の理由が私には分らない。きちんと評価するだけの知識がないのだ。
     田中光顕(土佐)。「安田って?あの安田財閥か。」安田善次郎である。他に大倉喜八郎、池田成彬、團琢磨、團伊玖磨、益田孝(鈍翁)等の墓があるが今日は行かない。「講談社の社長もあるよ。」「野間清治だろう。」
     「隣は日大豊山だろう?」「そうだよ。」明治五年(一八七二)護国寺に設置された真言宗「宗学林」が前身である。明治二十年(一八八七)、真言宗新義派中学林と真言宗新義派大学林に発展し、やがて大学林は大正大学に組み込まれる。中学林は豊山中学となって、戦後、日大に譲渡された。豊山の名は、真言宗豊山派によるのである。

     これで本日のコースは終了した。有楽町線丸の内駅の護国寺側入り口は工事中で入れない。不忍通りを渡って入り口前で解散する。二万歩。十二キロか。
     「前にロダンを呼んで飲んだよな。」何かの用事で欠席したロダンを呼んで飲んだのは思い出した。「あの時も店を探したよね。」調べてみると第三十二回「江戸の坂と神田上水篇」が新江戸川公園で終わり、目白駅に向かう人と別れてここまで来たのだ。その時は白木屋で飲んでいる。
     「はなの舞がある筈なんだ。」スナフキンは調べてきたのである。講談社の方に向かうとまず大塚警察署の隣に講談社があった。「古いビルはどうしたんですかね」とヨッシーが訊いている。「あれですね。残したんだ。」文京区音羽二丁目十二番二十一号。講談社傘下のキングレコード、光文社、日刊ゲンダイ等を音羽グループと呼ぶ。「竹橋の方にあるのは?」「小学館。」小学館、集英社、祥伝社等を一ツ橋グループと呼ぶ。
     そして「はなの舞」護国寺店があった。二つに分かれる席はあるが、全員一緒だと予約の関係で一時間四十五分しか入れない。「それで充分だよ。」四時五分前。姫、マリー、ヨッシー、マリオ、スナフキン、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の八人である。
     焼酎の最初の一杯を私は全部ズボンにぶちまけてしまった。「勿体無い。」「血の一滴だね。」「どうしたのよ。」テーブルの高さがいつもと違うので、感覚が違うのだ。グラスに焼酎を入れようとして瓶を何度も底をテーブルにぶつけてしまう。「何なの、それ。」「もうダメかも知れない。」
     話題は股引、ズボン下、ステテコ、猿股、パッチの区別は如何の問題になった。「股引とズボン下って違うのかな?」同じではないか。「ズボン下はステテコでしょう?」「猿股はトランクス型だよ。」地方差もあるかも知れない。ウィキペディア「猿股」を引用して見る。

     十九世紀頃の欧米の主な下着であったユニオンスーツから派生し、日本に導入された。大正時代以降、褌と並ぶ男性用下着となった。

     ユニオンスーツなんて初めて聞いたが、手首から足首までを覆う上下一体になった下着のことである。脱ぎ難いだろうね。それを二つに分けて下半身専用にしたらしい。

     生地は薄茶色のメリヤス地で、構造は現在のボクサーブリーフと形、構造、伸縮性などの機能に本質的な違いはない。

     つまりトランクスの原型と考えれば良いか。要するにパンツである。「今は男性用ズボンもパンツって言うからね。ジーパンがそうだ。」そういうことを言うから話がややこしくなる。誰がどう言おうとパンツは下着である。

     長さが膝のあたりまであるものは股引、ステテコと呼び、こちらは下着とズボンの間に中間着として(いわゆる「ズボン下」として)穿くこともある。

     ということは、猿股とは下半身用の下着の総称なのか。しかし最近はズボンの下に履かない柄物のステテコもある。「女性も部屋着として使いますよ。」そしてこれによれば股引は膝丈である。それなら踝まで来るのは何と呼べばよいのか。私の感覚では踝までのものが股引で、膝丈のものなんか見たことがない。今度は別の記事を探して見る。

     上方では丈の長いものを「ぱっち」、短いものを「股引」と呼んでいた。宝暦ごろから江戸でも流行し始め、木綿製を「股引」、絹製を「ぱっち」と呼んで区別した。(ウィキペディア「ぱっち」)

     ここで上方と江戸の違いがでてきたが、江戸では長さは関係なかったようだ。しかしどうでも良い話だった。
     予定通り五時四十五分でお開き。桃太郎が持っている不思議なカードで一割引になった。店を出ようとしたとき、子供連れのご婦人たちのグループが入ってきた。彼らが予約していたのだろう。「謝恩会じゃないか?」そうだろう。最近は居酒屋に子供連れで来るのである。
     「どうする?」「池袋か。」ヨッシー、マリオ、ヤマチャン、桃太郎はここで別れる。「ヨッシーは歩いても帰れるでしょう。」「二十分か二十五分かな。」桃太郎は余程銚子が悪そうだ。
     池袋の南口に出た。「どうしようか。」「カラオケか。」目の前にカラオケ広場があった。私は久し振りに『サン・トワ・マミー』なんかを歌ってしまう。二時間でお開き。


    蜻蛉