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    第七十六回 小菅から堀切辺り
      平成三十年五月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.06.12

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     月曜から木曜まで雨の寒い日が続いた。昨日は久し振りに晴れ、今日も天気は快晴で暑くなる筈だが明日はまた雨が降る予報なので、梅雨の晴れ間のようである。旧暦三月二十七日。立夏の次候「蚯蚓出」。駅前のタチアオイが咲き始めた。
     集合場所は東武伊勢崎線小菅駅である。武蔵野線南越谷駅で下り、伊勢崎線新越谷駅に回って浅草行きに乗って二十分で着いた。谷塚から西新井までは以前コースを企画していたし、隣の五反野がそうだからてっきり足立区だと思い込んでいたが、大きな勘違いだった。ここは葛飾区である。千住駅とは荒川を挟んで北東に当たる。小菅と言えば東京拘置所くらいしか思いつかないが、車に乗る人は小菅ジャンクションと言えばおおよその位置が分るだろう。

     小菅はもと千葉袋(もとの上千葉町)のうちに所属していた村で、葛西領中の西端に位置しています。地名の由来については菅は「かや」であり、むかしこの辺一帯古隅田川に面し、蘆、茅などが多く密生していたところから、この名が生じたのではないかという説があります。また、「万葉集」巻十四東歌の中に「古須気呂乃、宇良布久可是能、安騰須酒香、可奈之家児呂乎、於毛比須吾左牟、コスゲロノ、ウラフクカゼノ、アドススカ、カナシケコロヲ、オモヒスゴサム」と詠んだ句があります。この「古須気(こすげ)」を小菅に解し、もとの小菅町がその旧地であるという説がありますが、一般的には、「古須気」は北武蔵(埼玉県)に比定されています。また、小菅は土地の形成からみても古代においてはまだ十分に陸化しておらず、地名としても中世の記録上にも確認できないことから、中世以降に成立した比較的新しい村のようです。(葛飾区HPより)

     十時までに、リーダーのあんみつ姫、ハイジ、マリー、ヨッシー、ダンディ、講釈師、スナフキン、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十一人が集まった。「ファーブルは来ないのか?」「北海道に行ってるよ。」彼はしょっちゅう北海道に行っているのだ。
     姫も足立区だと勘違いしていたらしい。小菅煉瓦工場と小菅拘置所の関連について姫から説明があって出発する。
     駅を出るとすぐ、ガラスの引き戸に「二番組 鳶田村」と書いた家があった。鳶の頭が住む町である。どの家の前にもプランターを置いて花を咲かせてある。小林信彦に倣えば葛飾区を下町と呼ぶのは抵抗があるが、下町の雰囲気は確かにある。
     そして掘割に出る。道路と堀の間には木造風のデッキが造られ、花壇にはギボウシが咲いている。岸辺にはキショウブが咲き、カモが泳いでいる。「鯉もいるな。」「亀も。」「あれはミドリガメだな。」
     「あれは団地だろうね。」堀の向こうにかなり大型の団地が建っている。「あれが拘置所の官舎なんです。」官舎だとすればかなりの人数が働いていることになる。「小菅銭座跡」の案内があるが、ここではなく、小菅小学校の場所だと言う。
     拘置所正門脇の柵の間から石灯籠が見える。葛飾区小菅一丁目三十五番。これは小菅御殿に置かれていたものだ。御影石で中台のない寸胴形は非常に珍しいものだ。本来は御殿の奥にあったものが、現在ではここに移されている。
     小菅御殿とは、この会ではお馴染みの伊奈氏が家光から拝領した下屋敷であったが、伊奈氏改易後は将軍の鷹狩りの際の休憩所になっていた。元文元年(一七四一)吉宗の命で屋敷内に御殿が新造され、小菅御殿と呼ばれたのだ。
     首都高速にぶつかって東京拘置所前交差点を左に曲がる。その角の、二階建ての小さなビルの看板がおかしい。「保釈保証金立て替えいたしますだってさ。」一般社団法人日本保釈支援協会であった。こういう組織があるのですね。「スマホでも申し込めるって言ったって、中に入ってる奴は申し込めないだろう。」「家族が申し込むんだよ。」
     拘置所側が塀で覆われているのは官舎の解体工事中だからで、拘置所をみせないためではない。すぐにその全貌が見えてくる。拘置所は随分モダンな建物だ。現在の収容者は三千人である。起源は明治十一年(一八七八)の東京集治監にある。その後は小菅監獄として重罪犯を収監していたが、関東大震災で倒壊した。山田風太郎に初期の北海道の集治監を舞台にした『地の果ての獄』の傑作がある。主人公は薩摩出身の若き有馬四郎助で、各地の典獄を務めたのち、大正四年、小菅監獄の典獄となった。

     大正十二年。九月の関東大震災に際し、小菅刑務所に軍隊が出動して、銃剣をもって囚人の逃走を警戒しようとしたとき、有馬刑務所長は、せっかくですが、ここにはその必要はありません、と謝絶した。一人も逃走しない囚人を眺めつつ、有馬の眼から滂沱として涙が流れつづけていたといわれる。のちにアメリカのウィスコンシン大学社会学のギリン博士が来日した際、大震災に小菅から一人の逃亡者も出なかった原因について質問したのに対し、有馬は答えている。
     「あなたは多分、私がクリスチャンであることをご存知でしょう。私は彼らを囚人としてではなく、人間として処遇します。私はキリスト教について説教はいたしません。ただ私は彼らと友人になろうと努力します。」(中略)
     免囚保護の父といわれる原胤昭とならんで、有馬は後まで「愛の典獄」と呼ばれる。

     倒壊した旧獄舎は煉瓦積みだったため、新獄舎は鉄筋コンクリートで建造された。建築工事には受刑者が駆り出され、昭和四年(一九二九)に再建した。
     もっと遡れば、明治二年(一八六九)、ここに小菅県の県庁が置かれた。小菅県は武蔵国内の旧幕府領・旗本領の管轄のために設置されたが、明治四年(一八七一)の府県統合で東京府に含まれ、県庁は廃止された。
     一般に廃藩置県は明治四年のことと習った筈だが、明治二年の版籍奉還によって、大名領は藩主が知藩事となって基本的には幕藩時代と同じ支配体制を構築したが、旧幕府領や旗本領は、このように一時的に県が設置されて、中央から知事が派遣されたのである。
     明治五年(一八七二)その県庁跡地に、木村彦兵衛、西川勝八、鹿島万兵衛によって煉瓦工場が造られる。銀座煉瓦街のための煉瓦製造が目的だったが経営は上手くいかず、川崎八右衛門等が経営を引き継いだもののやはりだめだった。そこに、監獄の囚人を使わせれば人件費が安上がりだと言う理由で小菅監獄が設置されたのである。
     「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」の案内立て札が建っていた。天保三年(一八三二)、不時の災害に備えるための籾蔵が江戸各地に造られた。深川新大橋の東詰めに五棟、神田向柳に十二棟、江戸筋違橋に四棟、そしてここ小菅には最大規模の六十二棟が建てられたのである。寛政六年(一七九四)に小菅御殿が取り壊され広大な敷地が残されていたこと、綾瀬川の水運の利便性などによるらしい。
     道を渡ると小菅稲荷神社だ。小さな社の周囲を朱塗りの鉄柵で塞いである。狭い敷地なのに石造明神鳥居の奥に朱塗りの鳥居が三基立っている。「狐の穴ってどこかな?」説明を見ながら話していると、隣家のオジサンが声を掛けてきた。「その石の奥に隠れてるんです。」そこは柵があるから入れない。

     小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。
     本殿の裏、こじんまりとした庭の石山の根元には二つの穴があります。小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったといいます。
     この抜け道を明治時代に入り不要なものとして埋めふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に一匹の白狐が現れ「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に住んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められて大変に難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消えました。
     そこで速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています。

     「その説明看板も町内会で作ったんですよ。本当なら、向こうがやってほしいんだが、やってくれないので。」もともと小菅御殿内の鎮守だったが、昭和に入ってここに移されたのだ。だから「向こう」と言うのは拘置所のことである。
     ところで、その説明文の中で、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の別称「御饌津神」(みけつかみ)から狐への関連を書いてあるのは珍しい。稲荷神社に狐がいるのは、ミケツが狐の古語と思われたことによるのである。書いた人はウィキペディアなどを参照したのだろうか。「いろいろ調べて切り貼りしたようです。」
     「煉瓦もありますよ。」道端のプランターの台に、煉瓦が積み重ねられている。「刻印があるから」とその中の煉瓦を引き出そうとするが難しい。「ちょっと待って。」そして自宅から煉瓦を一枚待ってきた。「これですよ。」「サクラですね。」「これは八重だけど。」桜の刻印にもいくつかの種類があるらしい。「看守のボタンのデザインなんですよね。」姫は事前に調べてある。
     「良かったら持って帰ってください。」煉瓦工場が廃業して捨てられたものを保管してあるのだ。「エーッ、こんな重いのに。」「結構遠方から貰いに来る人もいるんですよ。」趣味はそれぞれであり、批判する訳ではないが、私には物を収集すると言うことが分らない。もし私がこんなものを集めたら、妻に手ひどく叱られてしまう。
     裏通りの狭い道を行くと、「ぜんざばし」の親柱だけが残されている。「ここが川だったんだね。」道の気配が川の跡のようだ。西小菅小学校には「葛飾教育の日」の立て看板が立てられている。葛飾区小菅一丁目二十五番一号。教育の日とは授業参観日のことだろうか。子供たちがバケツの中に何かを入れてこね回すのを保護者が眺めている。「紙粘土かな。」
     正門の前に「小菅銭座跡」の説明が出されていた。「ぜんざばし」とは銭座橋が訛ったものだった。学校の門も塀も赤煉瓦造りなのは、小菅ならではのことである。

    安政六年(一八五九)から翌万延元年にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。この吹替のため幕府は安政六年八月に小菅銭座を設けました。小菅銭座は旧小菅御殿跡の一角に作られたといわれ、広大な敷地(一万五千平方メートル、約四千六百坪)を持ち、この西小菅小学校の辺りがその中心地であったと思われます。ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されていました。今その頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なものです。

     造られたのは鉄の四文銭で、これは前例がない。「鉄だと、すぐ錆びちゃうだろうな。」鐚銭と言われる低品質の銭で,銅銭一貫文に対して鉄銭一貫四百文の為替レートになったらしい。
     言うまでもなく、日本の貨幣は金銀銅の三本建てで、為替レートは常に変動している。但し日本国内だけならそれほど面倒なことはないが、国際市場に巻き込まれると大変なことになる。
     日本では、金銀の含有量にかかわらず小判は本位貨幣として一定の額として通用する、銀はその本位貨幣と交換できる兌換券である(要するに現在と同じ思想である)。それに対し、欧米では金銀の含有量が問題だったから、話がずれる。と言うより、当時の欧米人は定位貨幣の理屈を知らなかった(知っていても知らないふりをした)から、あくまでも同種、同量での交換を主張した。それに押し切られ、一ドルは三分銀に相当すると言う為替レートが確立した。話はややこしいが、銀貨を一分銀に交換し、小判と両替する。その小判を地金として上海で売却すると、実に二十倍もの価格になるである。日本の金は大量に流出し、つまり幕末の急激なインフレがこれによって生まれたのである。
     万延元年の遣米使節団はこの改善交渉を行って、小栗上野介は日本の主張が正しいことを確認させたが、理屈が正しくても利害は別である。この辺の事情は佐藤雅美『大君の通貨―幕末「円ドル」戦争』に詳しいのだが、見つからないので下手な説明になってしまった。
     住宅地を行けば民家の庭でブラシの木に花が咲いている。「久し振りに見ましたね。」そして綾瀬川の上を走る首都高速三郷線にぶつかった。橋の脇の空き地に、石灯籠二基と八幡宮の石祠が置かれている。葛飾区小菅一丁目十九番十一号。ここは水戸橋の跡である。

     小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和三十年代に作られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡やしろ」と歌われています。(中略)
     由緒などは不明ですが、「水戸佐倉道分間延絵図」に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年庚辰年(一七〇〇)五月三日、第五代将軍徳川綱吉に仕えた柳沢保吉によって、小菅御囲内の鎮守として再興されました。(中略)
     このあたりは「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてみましたが、昭和以降の大水害にも浸ることはなかったと言われます。(小菅西自治会広報部)

     その社殿が水戸橋の架け替えに伴って取り壊され、こういう小さなコンクリートの祠になってしまったのだ。
     かつてこの付近には妖怪が出没し、それを水戸黄門が退治したと言う伝説があり、それが水戸橋の由来になっている。コンクリートの胸壁に石組が置かれているのは、かつての水戸橋の橋台を記念して復元したものだ。
     そして正覚寺に着いた。葛飾区小菅一丁目三番六号。真言宗豊山派。明治二年(一八六九)小菅県において最初の公立小学校「小菅仮学校」がこの寺の堂内で開設した。学制が発せられたのは明治五年だから、明治二年というのは非常に速い。小菅県知事だった河瀬秀治の意向であろう。
     河瀬秀治は宮津藩士。小菅県では外国学校を設立、印旛県では茶の生産拡大と牧場設置、熊谷県では富岡製糸工場に倣って近代的な製糸工場を設立、前橋には学校を設立した。その後、内務省に入り明治十年(一八七七)には内国勧業博覧会を成功させた。十三年(一八八〇)には渋沢栄一・五代友厚とともに日本最初の商工会議所である東京商法会議所を結成した。佐野常民とともに龍池会を結成して副会頭に就任して美術奨励にあたり、またアーネスト・フェノロサを支援した。後に実業界に入る。開明的な人物だったようだ。

     創立年代不詳。開山法印定心の没年が文禄元年(一五九二)であるから、室町時代末期の草創と推察される。境内の地蔵堂には水戸光圀の伝説を有する地蔵尊を安置し、厨子裏の銘に「本尊慈覚大師作、法印甚求宝永三年三月入仏、厨子宝光、正徳四年正月法印甚目宥」とある。この銘はおそらくは本尊阿弥陀如来像に関する記事で、園像は慈覚大師の作、宝永三年(一七〇六)に法印甚宥が作ったということであろうか。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)
     

     境内には別のウォーキンググループが集まっていて、何かの説明を受けている。「正覚寺念仏結衆地蔵像」は寛文元年(一六六一)。ここら境内の奥に向かって石仏が多く並んでいる。如輪観音はお馴染みだが、地蔵庚申塔は珍しい。
     地蔵堂は閉ざされていて、「水戸光圀の伝説を有する地蔵尊」は見ることができない。「当堂地蔵菩薩ハ其勧請ノ歳時縁起等詳ナラズト雖モ霊験顕著ニシ・・・・」とあって、水戸黄門との縁も分らない。元は小菅字北川通称元屋敷にあった。「内務省起業荒川改修ノ工事起ルヤ」有志が集まって、この寺に堂を建てて移したのである。
     今度は新水戸橋の階段を上って綾瀬川を渡る。「これは水道橋ですね。」川を渡った所に東京都水道局小菅水再生センターがあった。十一時。「なんだか腹が減ってきたよ。」首都高速の下を通る。
     ここは小菅ジャンクション。「構造はかなり傷んでますよね。」首都高速の最初は東京オリンピックの筈だから五十年以上経っているだろう。「この辺はもう少し新しいですよね」とスナフキンがヨッシーに確認している。念のために調べてみると、昭和三十七年(一九六二)、京橋・芝浦間四・五キロが開通したのが、首都高速道路の初めである。中央環状線の堀切ジャンクションができたのが昭和五十八年(一九八二)、小菅ジャンクションが昭和六十年(一九八四)だから、かなり新しい。とはいっても三十年以上は経っている。それでも三十年程度ならつい最近のことのように思ってしまうのは、私たちが古老になったからだろう。
     前方に、左水戸街道、直進堀切の標識があった。小菅中の橋北の交差点を渡って姫が立ち止まる。「なんてことないんですけど、ここが小菅と堀切の境です。」ブロック塀に貼られた住所表示が、小菅から堀切に変わった。上を通るのは中央環状線である。

     堀切村は、江戸時代には武蔵国葛飾郡に属した。明治維新後、小菅県を経て東京府に属し、一八七八年の郡区町村編制法により南葛飾郡の所属となった。一八八九年五月一日の町村制施行に際して周辺各村と合併して南綾瀬村の大字となる。南綾瀬村は一九二八年二月一日に町制を施行して南綾瀬町となり、一九三二年十月一日に東京市に編入されて葛飾区の一部となった。
     一九三〇年代までは東京(江戸)近郊の農村地帯であり、堀切園をはじめとする菖蒲園が集まり著名な行楽地となった。しかし、東京市に編入される頃から都市化が進行し、環境の悪化から堀切園以外の菖蒲園は太平洋戦争期までに廃園となった。高度経済成長期までに工業地として都市化は完了し、現在では住宅に小工場や堀切菖蒲園駅周辺の商店街が混在する地区となっている。(ウィキペディアより)

     「ミヨシ油脂、懐かしいですね。石鹸を使ってましたよ。」私は全く知らなかった。「秋田にはなかったんでしょうか?」しかしマリーがハイジに「クレンザーがあったわよね」と話しているのであったのかも知れない。私は子供の頃から男子厨房に入るべからずと信じていたから知らないのだけか。
     しかしウィキペディアによれば、「マーガリン、ショートニング、ラード等の食用加工油脂の生産量は、国内一位」である。しかも昭和二十六年(私の生まれた年)に発売された「『ミヨシ食卓用マーガリン』は、ミヨシ坊やと言われる子供の顔をプリントした缶入り商品で、ロングセラー商品となっている」のだ。
     会社の沿革を見ると、大正十年(一九二一)のミヨシ石鹸工業合資会社が初めである。昭和三十五年(一九五〇)に食用油脂の製造を開始、平成八年(一九九六)石鹸事業と油脂事業を分離している。
     電柱に「ここは荒川のはん濫により二メートル以上浸水する恐れがあります」という注意書きが貼られている。「ゼロメートル地帯ですね。」
     小谷野神社。葛飾区堀切四丁目三十三番十七号。

     『新編武蔵風土記稿』小谷野村の条には「稲荷社 村ノ鎮守ナリ。宝性寺持」といい、柳原村の条にも、稲荷社を村の鎮守と記するによれば、小谷野村と柳原村とが分村した際に、それぞれ稲荷社を建てて村の鎮守としたのであろう。ただし、『元禄十丁丑年武蔵国葛飾郡西葛西領小谷野村検地水帳』に稲荷社が載っているから、当社が元禄十年(一六九七)にすでに存したことは明白である。(中略)社名は明治以来、稲荷神社と称していたが、昭和四十三年五月、住居表示の実施に伴い、小谷野の地名が消失するので、小谷野神社と改称した。
     また境内社の三峰・水天宮の両社は、もと当社の南方約三百五十メートル、隅田川と綾瀬川の合流地点にあったが、荒川放水路の開削により、三峰社は現堀切橋側に、水天宮は隅田川水門側に移され、後さらに当社境内に遷座してものである。(葛飾区教育委員会「葛西区神社調査報告」より)

     消失する地名を残そうとする志は良い。国旗掲揚台には「国威宣揚」とある。小さいながら社殿は権現造りの立派なもので、稲荷社とは思えない。
     京成線の下を潜る。「この辺は町が二段になってるんです。」堀切橋を境にして町が段差になっていて、それをトンネルが結んでいる。「アッ。ここは三メートルだ。」この近辺には三階建ての家が多いことにスナフキンが気付いた。「どうしてかな。洪水対策?」「そんなことないだろう。」敷地が狭いから上に伸ばして面積を稼いでいるのではないか、というのがスナフキンの意見である。
     堀切菖蒲園に着いたのは十一時二十三分だった。葛飾区堀切二丁目十九番一号。入園は無料だ。「ショウブはまだなんですけど、七月になったら土を掘り返してしまいますからね。青い葉が見られるだけでもいいんじゃないでしょうか。」

     この地に、 はじめて花菖蒲が伝来したのは、 いつの頃か明らかではないが一説には、 室町時代の頃 堀切の地頭久保寺胤夫という人が、 家臣宮田将監に命じて奥州郡山付近の安積沼から種子を持って来て自邸に培養されたのが始めといわれ、 また一説としては、 寛文、延宝(一六六一~一六八〇)の頃堀切村の小高伊左衛門が各地の花菖蒲を収集し、自庭に植えたのが始めともいわれております。
     享和年間(一八〇一~一八〇三)には、花菖蒲の収集家として知られた松平左金吾という人の秘蔵の花菖蒲を小高伊左衛門が譲り受け、更に万年録三郎の逸品「十二単衣」をはじめ、 相模、土佐などから十数種類を集め、天保末の頃には 園内では数多くの名花が咲き競うようになったといわれています。
     また、 春信、 広重の錦絵や名所案内、 紀行文にもこの地の菖蒲園のことが記され、 江戸時代には、 広く知られていたことがわかります。(葛飾区教育委員会掲示)

     戦前までは武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園など、いくつもの菖蒲園があったらしい。低湿地帯だったのだ。他はなくなってしまったが、堀切園は昭和三十四年(一九五九)に東京都が買い取って整備したのである。昭和五十年(一九七五)に葛飾区に移管された。
     花壇の一角には黄色がかったアヤメのような花が咲いている。ジャーマン・アイリス。ハナショウブ、カキツバタ、アヤメ等アヤメ属をアイリスと言うのだと、姫が教えてくれる。いずれ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)。ややこしいが、アヤメ科アヤメ属のアヤメは菖蒲、ハナショウブは花菖蒲と書く。一方サトイモ科(ショウブ科とも)のショウブもまた菖蒲と書く。結局カタカナ表記が一番良いようだ。
     「うちじゃ菖蒲湯に入るよ。」スナフキンの家庭は伝統文化を重んじる家であった。我が家ではそんなことをしたことがない。菖蒲湯に使う菖蒲は、サトイモ科のショウブである。葉が剣のようなので、魔を払うと考えられた。園内は随分きれいで、ごく最近リニューアルしたように見える。

     花菖蒲輝く雨に走るなり  中村汀女

     「汀女の句碑は横浜でも見たね。」「そうだよ。」私は横浜出身だと誤解していたが、熊本出身である。熊本県立高女を卒業し、大蔵官僚と結婚して東京、横浜、仙台、名古屋など各地を転々として最後に東京に定住したのだった。

     天日に菖蒲の花の白まぶし  松野自得

     自得は明治二十三年(一八九〇)舘林に生まれ、晩年には前橋の最善寺住職となり、昭和五十年(一九七五)になくなった。曹洞宗の僧侶で俳句、画をよくした。
     薄いピンクの可憐な花はタニウツギ。ヤマボウシの白い花(ではなくガク)はまだ小さいが、今年初めて見るものだ。ビヨウヤナギの蕾、ザクロの小さな実、スイカズラ。トケイソウは随分久し振りに見る。「隊長の時にみましたよね、どこだっけ。」どこで見たかは私も覚えていない。
     「あそこに一本だけ咲いてる。」緑一色の中にアヤメらしきものが一論だけ咲いている。ガクアジサイも咲いている。「クロマツが多いね。」幹はまだそれほど太くなく、背も高くない。「盆栽のイメージですね。」十一時五十分に園を出る。腹が減った。

     路地を行けば民家の脇に紫のアヤメが咲いている。「あれ、見てよ。」小学校の校庭に隣接した駐車場に、「立ち小便禁止」の立て札が置かれている。「こんなところで、するか?しかも立て札が二つもある。」
     堀切小学校の正門を入ってすぐ隅に郷倉があった。葛飾区堀切二丁目四十二番一号。建設年代は不詳だが、天明年間(一七八一~一七八八)以降に続いた飢饉や洪水対策のための備蓄蔵である。郷倉は青梅街道などでも何か所か見ているが、茅葺屋根の倉がこれだけきれいに保存されているのは珍しい。私たちが珍しそうに眺めているのを、子供たちが不思議そうに見つめてくる。「土曜は休みじゃないのかい?」「さっきの小学校に教育の日ってあったじゃない。」今日は特別なのだろう。
     「あそこに何かの像があるよ。」二宮金次郎だった。ごく普通の、歩きながら書物を読む姿勢で、台座には「忠孝」とある。最近は石に腰を下ろして本を読む像もある。
     「どこから来たんだい?」必ずこういう声を掛けてくるオジサンがいる。「東京、埼玉。」「妙源寺は行くのかい?」「後で寄ります。」そこに自転車に乗ったオジサンが加わった。「この人はボランティアで説明する人だよ。」「今も小学校で説明してきたところですよ。」
     アイリス会のネームプレートを付けていた。「アイリス会って、誤解しちゃったよ。」図書館関係者は富士通の図書館システムIlisを思い出してしまうのだ。勿論このアイリスは菖蒲園に由来するだろう。
     さて丁度十二時だ。もう昼にしても良いのではないか。姫は妙源寺を先にしようかと迷ったが、やはり昼飯を先にすることに決めた。大通りに出て、平和通りの妙源寺前交差点の角にある蕎麦屋「桝屋」である。堀切ラッキー通り商店街。
     「懐かしいお店ですよね。」かなり広い店だが、私たちが席に着いた直後に入って来た客は出て行った。蕎麦、うどんからラーメンまで出す昔ながらの蕎麦屋だ。調べてみると創業百年を超える。私はかつ丼にした。ロダンは大盛である。「ごはんの大盛ですか?」「違いますよ、もりそば。」「もりとざるで百五十円も違うぜ」とメニューを眺めていたスナフキンが言い出した。「海苔を載せるだけだろう?ちゃんとした店は汁も違うけど。」
     ビールは大瓶で、私とスナフキンがグラスに一杯、姫とロダンに半分づつ分けて丁度になった。桃太郎は一人で一本頼んだが飲み切れず、やはり私とスナフキンに半分づつ回ってきた。
     新しく入って来た客に、「これだけお客さんがいるから遅くなりますよ」とおばさんが声を掛ける。「早いのは?」「同じです。」客は出て行った。
     ご飯ものは私だけだから遅くなるかと思っていたのに、かつ丼が一番先にできた。「なんだよ、一番早飯のヤツが。」私のせいではない。なかなかできてこないのにイライラした講釈師は立ち上がって厨房を見つめる。立ったからと言って早くできるものではないから、これは何の効果もない。全員の分が出されるまでにはかなり時間がかかった。店を出たのは一時十分だったから一時間もいたことになる。
     会計やトイレを済ませている人を外で待っていると、横断歩道の前で五十代程のご婦人が、道路の向こうに手を伸ばして何か叫んでいる。「お前たち、正しい日本人がそんなことをするのか。恥を知れ!」事情は全く分からないが尋常ではない。なるべく眼を合わせないようにしなければならない。「暖かくなるとでてくるんだよ、ああいうのが。」こう言うのは講釈師だ。
     そのうち、タクシーが止まった。呼ばれたから来たと言っているらしいが、女性が呼んだのではなさそうだ。少し交渉してからタクシーは去って行った。「お前たち、こっち見てるんじゃないよ。」
     「またこの道を戻って来るんですけど。」信号が青になったので、眼を合わせないように道を渡り、急いで左に歩いて天祖神社に入る。葛飾区堀切 三丁目十一番二号。「天祖神社って何?」「アマテラス。伊勢神宮の系統だよ。元は神明社。」鳥居は当然神明鳥居である。

    御由緒
    当地一帯が神宮の神領・葛西御厨とされていた一一六五(永萬元)年、皇大神宮の御分霊を勧請し創建された堀切村の鎮守である。
    相殿の譽田別尊は一四四九(宝徳元)年、千葉介実胤の家臣・窪寺蔵人頭胤夫が、武運長久祈願のため勧請した八幡宮とされる。
    また菅原大神は太宰府天満宮を勧請したものである。

     玉垣の柱の右に「神徳」、左に「洽潤」と彫ってある。「なんて読むんだ?」「神の徳があまねく潤う、かな。」拝殿の千木は外削ぎ、鰹木は五本。本殿の方は鰹木が七本。
     社殿の左手の社務所の入り口には、「蘇民将来子孫の家」の藁でできた護符がかかっている。牛頭天皇に纏わる護符を神明社に見るのは珍しいのではなかろうか。少なくとも私は初めて見た。念のために書いておこうか。
     牛頭天王(あるいは武塔神)は七歳にして身長七尺五寸、頭頂に牛頭、赤い角を持つ異形の神である。妃を求め、眷属を引き連れて竜宮に向かう旅の途中。裕福な巨旦将来の家に一夜の宿を求めたが拒否された。その兄の蘇民将来の家は貧しかったが、いやな顔一つせずに懇切にもてなした。
     牛頭天王は竜宮で妃を得て八人の王子を儲けて帰って来た。天王は破壊と厄災の神である。八年前に宿泊を拒否した巨旦は滅ぼさなければならないが、間違って蘇民の家が襲われないよう、「蘇民将来の家」と書いておくようにと伝えた。その結果、巨旦の一族は殲滅され、蘇民の家は繁栄したのである。
     牛頭天王はスサノヲと習合しているから、アマテラス系の神社で見るのは不思議なのだ。ついでに言えば茅の輪も、牛頭天王が蘇民将来の娘に与えた魔除けの目印であった。また東京八王子の地名は牛頭天王の八人の王子に因む。
     石のベンチを支えているのは二匹のカエルだ。二匹とも正面を向いて笑っているのが面妖だ。何の意味があるのだろう。ガクアジサイが咲き始めている。
     「またさっきの信号に行くんですけど。」元の道に戻ると、菖蒲園診療所の隣に実に奇妙な建物があった。建物の西側は幅八十センチほど、東側でも一メートルちょっと程しかない。要するに極端に薄っぺらなのだ。ちょっと揺れればすぐに倒れてしまいそうだ。「横に寝られませんね」とヨッシーが笑うが、寝るどころかどうやって生活できているのか分らない。
     さっきの蕎麦屋の角に来た。幸い、さっきのご婦人の姿はない。右に曲がれば正覚山妙源寺だ。葛飾区堀切三丁目二十五番十六号。日蓮宗。正覚会館はモダンな建物だ。片隅に東條一堂先生百年記念祭の石碑が建っていた。題字は宇野哲人、撰文が塩谷温、文字は『大漢和』の諸橋徹次である。「蜻蛉なら知ってるんじゃないですか?」「残念ながら知りません。」調べなければならない。

     江戸後期の儒者。名は弘、字は子毅、通称文蔵。本姓源。上総国埴生郡八幡原村(千葉県茂原市)の富農、江戸で医を開業した自得の次男。母は片岡氏。墓碑によれば十六歳(一七九三)で志を立て、京都の儒者皆川淇園門下に十年を過ごした。その後江戸に帰り亀田鵬斎、朝川善庵、羽倉簡堂などと交わった。文化の初めに弘前藩に督学として迎えられたが、建議が受け入れられないのを不服として江戸に帰り、昌平坂学問所のそば、のち、お玉が池に私塾を開いた。古注学に精しく、朱子学を強く排斥した。町の儒者でありながら多くの権家に信頼され、閣老阿部正弘の諮問を受けるほど実学の名声は高かった。著書は『学範』『論語知言』『五弁』など多種。(『朝日日本歴史人物事典』より)

     亀田鵬斎と親しかったのなら当代一流の知識人である。お玉が池の私塾は千葉周作の玄武館の西隣にあった瑤池塾である。一堂門下の三傑に清河八郎・那珂通高・桃井儀八がいる。那珂通高は盛岡藩の儒者で、奥羽列藩同盟を支持した。那珂通世は養子である。桃井儀八は武蔵国榛沢郡の生まれ、最初は血洗島の渋沢仁山に学んだから、渋沢栄一とも交流はあっただろう。一堂は幕末の漢学者としてかなり重要な人物であったが、私は江戸の漢学者については全く疎い。
     鉄の門扉から寺の境内に入る。黒いベンチ二台に、それぞれ吸い殻入れを設置してある。「エライ。」「エライって、そんな言うか?」喫煙者は国家にとって重要な納税者であるにも関わらず、今や非国民扱いである。その非国民を保護しようとするのはエライのである。
     寺は嘉元二年(一三〇四)あるいは建武年中(一三三四~一三三六)、天目上人によって創建された。かつては江戸本所番場町(墨田区東駒形一丁目)にあり、大名・儒者・歌舞伎役者の菩提寺として栄えたが、関東大震災の後、現在地に移った。古刹である。
     墓地で探すのは安積艮斎の墓である。二本松藩郡山の安積国造神社宮司の三男に生まれた。十七歳で江戸に出て昌平黌で佐藤一斎、林述斎に学んだ。後に神田駿河台の小栗家邸内に私塾「見山楼」を開いたから、小栗上野介忠順はここで学んだ。門人には岩崎弥太郎、栗本鋤雲、清河八郎。尚歯会に参加して渡邊崋山とも交友があった。ペリー来航時にはアメリカ国書の翻訳、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わった。
     因みに艮斎の「艮」は「良」と間違えやすいが、上の点がない。「変換できないだろう。」こういう時私はGoogleで検索してコピペをするが、実はこの文字は「うしとら」を変換すると出てくる。
     しかし墓はなかなか見つからない。「これじゃないか」とスナフキンが言っていたのにそれを無視して墓所中を探して見つからない。最後に講釈師が「これじゃないか」と言ったのは、スナフキンが最初に指摘したものだった。艮斎安積先生之墓である。私はどうして気付かなかったのだろう。

     赤井東海の草した『奪紅秘事』といふものに拠れば、天保九年十二月十八日に、艮斎は自宅新築の祝に、林藕潢以下七人を招いた。その内に崋山もまた在つて、席上地図を按じて異域を弁証すること掌中を指すが如く、雄弁宏才一座を圧倒したが、藕潢一人は柱に倚つて、これを冷視した。後に崋山の奇禍は艮斎楼上に始まるといひ伝へたともしてある。次にまた艮斎が「大雲行」といふ詩を崋山に見せたところ、崋山が捕へられて家宅の捜索を受けた時、東海の詩と共に、それらは奉行所へ没収せられた。それよりして艮斎は大いに不安を感じた。(中略)
     ・・・・断定は下されないのであるが、艮斎は自己に累の及ばうこあとを懼れて、進んで旧友の救援にも参加することをしなかったらしい。さうした点に於て、艮斎の人物は、やや頼もしさを欠いてゐたといはれても致方ないのではないかと思はれる。(森銑三『渡邊崋山』)

     そもそも艮斎の名前を私がどこで知ったのだったか、あちこち探して、これを見つけた。ここに出る林藕潢は林復斎の別号である。述斎の六男で林家当主を継ぎ大学頭になった。崋山の才を妬んだとも思われる。因みに鳥居耀蔵は述斎の三男で、鳥居家に養子に出た。
     寺を出て歩き始めると、また薄っぺらな建物があった。さっきよりは厚みがあるが、それでも倒れそうだ。京成線の線路を渡る。ビワの実がまだ青い。ガクアジサイが咲いている。「柿の花を知ってますか?」
     ヨッシーが聞いてくるが私はたぶん見たことがない。「そこに咲いてますよ。」小さな白い花だった。「昔は赤い花だと思ってました。小学校の時、カーキニ赤い花咲くっていう歌を教えられました。それを言ったらみんなにバカにされました。」垣と柿。「Long Log Agoだね。」

     垣に赤い花咲く いつかのあの家
     ゆめに帰るその庭 はるかなむかし
     鳥のうた木々めぐりそよかぜに花ゆらぐ
     なつかしい思い出よ はるかなむかし(古関吉雄訳詞・ベイリー作曲『思い出』)

     姫と私が一所懸命見ていると、「柿の花なんか珍しくないだろう」と声がかかる、「俺は都会の子供だったから見たことがない。」と言うより、自然に全く関心のない子供だった。実はこの歌には近藤朔風の古い訳詞があった。タイトルは『久しき昔』

     語れ愛(め)でし真心 久しき昔の
     歌えゆかし調べを 過ぎし昔の
     汝(なれ)帰りぬ ああ嬉し
     永き別れ ああ夢か
     愛(め)ずる思い変わらず 久しき今も

     九品寺には寄らない。堀切六丁目二十二番十六号。真言宗豊山派。建久四年(一一九二)の創建で、普賢寺とともに葛飾区内有数の古刹である。
     「ちょっと面白い道があるんですよ。」少し遠回りになるらしいが、姫はそこを通りたいと言う。狭い路地の入口には「鈴懸の径」とあった。「灰田だよ。」「灰田勝彦ですよね。」姫は灰田勝彦が好きだ。講釈師が鼻歌を歌い始める。

     友と語らん鈴懸の径
     通い慣れたる学舎の街
     優しの小鈴よ葉かげに鳴れば
     夢はかえるよ鈴懸の径(佐伯孝夫作詞、灰田有紀彦作曲)

     実は九品寺に歌の作詞者の佐伯孝夫の墓と歌碑があって、それに因むのだ。姫はお墓が苦手だから寄らなくても仕方がなかった。
     「スズカケって何ですか?」「プラタナスだよ。」「スズカケって、修験者の着物でしょう?」桃太郎は人の知らないことを知っている。私は知らなかった。「それがどうして樹木になるの?」

     篠懸とも書く。修験道独自の法衣で、九布の上衣と八つの襞のある袴を白衣の上から着する。上衣を金剛界九会、袴を胎蔵界八葉の曼荼羅に擬し、金胎不二の小宇宙であることを示す。これは、不動明王や大日如来と同一性質を修験者がもつことを表している。この衣は、俗人の直垂(ひたたれ)と類似し、俗体を本義とする修験の意図にかなっている。江戸後期に行智の著した、修験道入門書ともいうべき《木葉衣(このはごろも)》に、鈴(篠)懸の語義は、山岳修行で篠(ささ)が掛かる意だとある。(『世界大百科事典』より)

     これと樹木のスズカケとの違いは分らない。昭和十七年(一九四二)の歌だと言えば改めて驚く。灰田は同じ年に『新雪』(佐伯孝夫作詞・佐々木俊一作曲)も出している。
     既に大学や専門学校の修業年限は短縮され、翌年には学徒出陣が実行される。残り僅かでな死ぬべき命と覚悟した果ての叙情であろうか。その後、灰田は『空の神兵』(梅木三郎作詞・高木東六作曲)、『バダビアの夜は更けて』(佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲)、『加藤隼戦闘隊』(田中林平作詞・岡野他作曲)などを歌っていく。
     それはともあれ、この歌は、四十年以上昔に恩師が唯一歌った歌である。ミノルがヨリコさんと結婚した時、結婚式なんか挙げられないから池袋の焼鳥屋の二階でゼミの連中がささやかなお祝いの会をした。その時だったと思う。
     立教大学のキャンパスにその小径があることを、学生時代は全く知らなかった。恩師の定年退職に伴う最終講義に出席した際に初めて知ったのだから、私は全く無学であった。そして如何に大学に行かなかったかと言う証拠でもある。
     しかし昭和四十五年(一九七〇)に、大学は既に「学舎」ではなかった。大学の遊園地化というのは私たちの時代に言われ始めたことで、既に大学に学問の雰囲気は薄れていた。(僅かに残っていたと言わなければならないかも知れない。)
     その遊園地の中で恋は生まれ、池袋のマンモスバーで進展して、そして失われた。私はいつも酔っ払っていた。今はあんな店はなくなったが、店の名は「パブ・エリート」である。私がその名前を覚えているのは、開店何周年記念かで配ったプラスチック定規が目の前にあるからだ。バーテンダーの大木さんに教えて貰ったことは多い。Long Long Ago。
     歌謡曲は懐旧を強制する。それが良いことかどうかは言わないが、クラシックしか知らない人には分らないだろう。しかし堀切でこんなことを思い出すのは不覚であった。

     鈴懸や失はれしとき日の光  蜻蛉

     そして普賢寺に着いた。日照山源光院。真言宗豊山派。葛飾区東堀切三丁目九番三号。小さな堂に鎮座する総力の坐像は弘法大師だろうか。その脇には苔むした駒形の青面金剛が置かれている。
     少し遅れて奥に行けば、講釈師が大きな水掛不動尊に水を掛けている。それを見てみんなが集まってきた。「水かけていいなんて誰も言ってないよ。」「また、そんなこと言う。自分がかけてたじゃないの。」「藤島桓男だよ。」『月の法善寺横丁』(十二村哲作詞・飯田景応作曲)である。

     こいさんが、わてをはじめて法善寺へつれて来てくれはったのは「藤よ志」に奉公に上がった晩やった。はよう立派な板場はんになりいやゆうて、長いこと水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなあ。あの晩から、わては、わてはこいさんが好きになりました。

     「よく覚えてるわね。」私のレパートリーである。どうも私は昭和三十年代歌謡曲から離れられないでいる。
     三基の宝篋印塔は葛西氏の墓と推定されている。葛西氏は秩父平氏流豊島氏の流れである。下総国葛飾郡葛西庄を本貫としたことからその姓を名乗った。青戸の辺りにその城址があるらしい。
     二時半。お花茶屋三丁目アパートに隣接する公園で休憩をとって出発する。曳舟十二橋の親柱と欄干が復元されて道路上にある。この辺は南北に伸びる親水公園になっているらしいが、川は見えない。埋め立てられてしまったのだ。

     曳舟川の名称が付けられた区間は、江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和四年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修された。
     江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は、一種の水上交通機関ではあったが、舟を曳く動力が陸からの人力であるため、馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたものであり、当時曳舟は異色の交通機関として人気があり、江戸市中から下総、水戸方面へ行く、多くの旅人に利用されている。他の都市河川と同様に、一九六四年東京オリンピックが開催された昭和三十九年ころまでは、小魚などの生物が生息している川であったが、高度成長期に入ると生活雑排水やメッキ工場からの排水が流れ込み瀕死の状態となっていた。
     排水規制等によって、水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は存在しない。
     葛飾区の区間は、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園となり、自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もある。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられている。(ウィキペディア「曳舟川」より)

     葛飾区郷土と天文の博物館。葛飾区白鳥三丁目二十五番一号。プラネタリウムは改修工事のために休止していて三階には入れないのだが、葛飾と天文との関係が私には分らない。写真パネル展示「葛探写真館 葛飾柴又の文化的景観」が開かれている。これは柴又が「国の重要文化的景観」に選定された記念のイベントである。
     「ミゼットだぜ。」「走ってたよね。」昭和三十年代の民家や工場の復元は、『三丁目の夕日』の世界でもある。ダイハツ・ミゼットは昭和三十二年(一九五七)に発売された三輪の軽トラックである。エンジンは二百四十九CC。最大積載量三百キロだった。
     三時二十分に博物館を出ると親水公園に行き当たった。小さな川が流れ滝もある。細長い水田が造られ田植えの時期を待っている。「博物館のたんぼで米作りをするボランティア募集中」だ。これは子供たちの農業体験実習を補佐するもので、対象は高校生以上、年会費三千円である。
     京成電鉄お花茶屋駅に着いたのは三時三十五分だ。「ここからなら日暮里だろうね。」あんみつ姫、マリー、スナフキン、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の八人が日暮里で降りる。「夕焼けだんだんの方に行くんですかね?」「そこまでいかないだろう、駅前だよ。」東口に出てスナフキンが最初に目を付けた店は四時開店なのにまだ人気がない。「あと一、二分じゃないですか?」「やる気がない店はダメだ。あっちに行こう」と入った店はどこだったか、魚民だったろうか。記憶が曖昧だ。
     いつもは歩いた翌日の日曜から作文を書き始めるのだが、今回はその日にパソコンが急に動かなくなった。起動しても画面は真っ黒のままで、マウスポインタが動くだけだ。壊れたか。一週間何もできないまま過ごし、土曜日にヤマダ電機に持ち込んだ。「もしかしたら、マイクロソフトの脆弱性によるかもしれません」というのがヤマダ電機の説明だったが、三十分で回復した。取り敢えずホットしたが、ウィンドウズのアップデートが途中で中断していることが原因だった。
     一週間の間、作文に取り掛かれなかったのは初めてで、記憶もやや薄れがちになった。今回はわが身の記憶力が試される。というような弁解の言葉を考えなければならない程、記憶に自信がなくなっているのである。
     カラオケはビッグエコーだ。不思議なことに、今日は桃太郎のカードより、私の会員カードの方が安かった。「どのくらいになるの?」「三割引きです。」そんなに安くなるのか。
     さっき思い出してしまったから、私は『月の法善寺横丁』を歌う。「蜻蛉は完全復活じゃないですか。」まだまだ完全ではない。それから、小林啓子『さよならをいう前に』(藤田敏雄作詞・中村八大作曲)。この歌を姫が知らないのが不思議だが、考えればそんなに流行った訳ではない。ロダンは『比叡おろし』を知っていた。寄っているうちは気付かないが、後で三連の歌詞をじっくり眺めていて不思議なことに気づいた。第一連しか覚えていないから全く気付かなかったことだけれど。

    さよならをいうまえにもう一度約束して
    遠い国へ行っていつまた帰るやら
    手紙さえ書けない旅が続こうとも(以下略)

     この歌は昭和四十四年(一九六九)十一月に発売された。いつ帰るか分らない旅、「手紙さえ書けない旅」とは何だったか? 普通の旅でないことは明らかだ。加藤登紀子の夫になる社学同の藤本敏夫が逮捕されたのが前年十一月で、この時は裁判中だった。東大全共闘の山本義隆が逮捕されたのはこの年の九月である。彼は逮捕されるのだろうか。翌年三月にはよど号ハイジャック事件が起こる。北朝鮮に行くのか。
     あるいは遥か後年になるが、矢作俊彦『ららら科學の子』を思い出しても良い。昭和四十三年、新左翼運動で殺人の罪を恐れて文化大革命中の中国に密出国で渡り、三十年振りに非合法の手段で帰国した主人公の物語であった。当時、文化大革命は輝かしきものと思われていたので、『毛沢東語録』なんていうものも売れていたのは、庄司薫『赤頭巾ちゃん気を付けて』でも分かる。実はこれこそ、いつ帰るか分らず、手紙さえ書けない旅であったのではないか。勿論、歌が造られた時代に矢作の小説は存在しないが、これこそが約束を迫られる相手に相応しい。こんなことを連想するのは的外れだろうか。
     作詞の藤田敏雄は労音出身で日本ミュージカルの草分けの一人である。『若者たち』や『希望』の作者でもあるから、どちらかと言えば旧左翼に近いだろう。そう言えば岸洋子の歌った『希望』にも似たような心情が隠されてはいないか。高校野球の行進曲に使われるような明るい歌ではないだろう。五十年も経ってこんなことに気づくのだから、実に迂闊なことであった。
     二時間でお開き。


    蜻蛉