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    第七十七回 猛暑の都心(日比谷・新橋・芝・愛宕・虎ノ門)
      平成三十年七月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.08.05

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     西日本豪雨の死者は二百人を超えた。「これまで経験したことのない」「未曽有の」自然災害は、いまや常態となった。既に日本は亜熱帯になったのだが、全てが不可抗力の自然によるものではない。扇状地を開発した団地が土砂災害に見舞われたのは明らかに土地開発の誤りである。四年前に被災した同じ場所が再び被災したところは対策の欠如でしかない。その後の猛暑は被災地を更に苦しめるだろう。
     旧暦六月二日、小暑の次候「蓮始開。」団地の調整池でも蓮が咲き始めている。今日も三十五度を越えそうな予報で、アスファルトの反射熱、ビルの冷房の放射熱や車の排気熱を考えれば、実質的には四十度にもなるだろう。こんな日に年寄の集団が都心を歩こうとするのは暴挙と言われるのではないか。
     集合はJR線有楽町駅日比谷口。有楽町線で行くといつも迷ってしまうので、今日は少し早めに出てきた。リーダーのヤマチャン、ヨッシー、ダンディ、講釈師、あんみつ姫、ハイジ、マリオ、スナフキン、ロダン、蜻蛉の十人が集まった。
     有楽町は何度も来ているのに、ちょっと来ないと街の様子はどんどん変わっている。東京ミッドタウン日比谷なんてビルは初めて見た。千代田区有楽町一丁目一番二号。新しいビルが建つと、以前は何があったのか全く覚えていないが、三井銀行本店があった場所だ。これからオリンピックに向け、都心は更に変わって行くだろう。
     日比谷通りに入ると、帝国ホテル本館前の道路側には「農産陳列所蚕病試験所跡」の立て札が建っている。千代田区築地内幸町一丁目一番地。当時、生糸は輸出品の中心であったから蚕業発展を目的としたものである。「西ヶ原でも見ましたね。」あれは蚕糸学校だった。明治十七年(一八八四)ここに開設した施設は、明治十九年(一八八六)に北区西ヶ原に移転して東京高等蚕糸学校となった。東京農工大学工学部の前身である。
     「杉並に蚕糸試験所がありましたよね。」蚕糸試験所跡地の蚕糸の森公園には青梅街道を歩いて立ち寄った。明治四十四年(一九一一)農商務省原蚕種製造所が設置され、大正三年(一九一四)に農林水産省蚕業試験所、昭和十二年(一九三七)に蚕糸試験所と改称した。それが筑波に移転したので跡地を公園にした場所である。戦前日本において、養蚕がいかに重要だったかということだ。
     そして帝国ホテルの隣のビルに、黒大理石の「鹿鳴館跡」碑が建っているが余り目立たない。この辺の地理には詳しい筈のヤマチャンも下見で初めて見たらしい。「江戸時代?明治?」鹿鳴館が江戸時代にある筈がない。条約改正を進めるため、外国人と交際する施設として井上馨が主導して明治十六年に建てられたのだ。欧化主義の象徴であるが、どれだけ効果的だったか。
     ここは薩摩の装束屋敷の跡である。設計はお馴染みジョサイア・コンドルで、明治初期の西洋建築は殆ど彼による。名付けたのは桜州中井弘で、『詩経・小雅』冒頭の「鹿鳴」の詩から採用したと言う。「鹿鳴」は賓客をもてなす宴席で歌われる詩である。中井桜州は井上馨夫人武子の前夫で、何故か武子を大隈重信の屋敷に預けていた時、入り浸っていた井上が妻にした。離婚後だという説もある。普通の感覚ならあまり付き合いたい仲ではないが、井上とは生涯友達付き合いしていた。薩摩の中井と長州の井上とは不思議な関係だが、中井は奇人であった。
     鹿鳴館とは要するに政府御用達のダンスホールであった。煉瓦造りの二階建てで、一階には大食堂、談話室、書籍室があり、二階は三室に区切られ開け放つと百坪になる舞踏室、その他バーやビリヤード、外国人向けの宿泊室も設備されていた。しかしその命は短かった。明治二十年に井上馨が失脚するとともに鹿鳴館時代は終わるから五年しか続かなかったのだ。「鹿鳴館と迎賓館の区別がやっと分かったよ。」
     「昔はこんな名前じゃなかったろう?」姫もヨッシーも大和生命と言い、私の持っている二〇〇四年版の地図でも大和生命となっているが、現在のグーグルマップではNBF日比谷ビルになっていて、これも情報が古い。大和生命はこのビルを証券化して平成十三年(二〇〇五)に日本ビルファンド投資法人に売却し、今年三月、更に三井不動産に売却されたのである。現在の名称は日比谷U―1ビルだ。
     「芥川龍之介に『舞踏会』がありますね。」ピエール・ロティ『江戸の舞踏会』をモチーフにしたものだが、大した小説とは思えない。若い頃に鹿鳴館でロティと踊った女主人公がロティの名を知らず、およそ三十年後に若い小説家に「いえ、ロテイと仰有る方ではございませんよ。ジュリアン・ヴイオと仰有る方でございますよ」と語るのが工夫と言えるだけのものである。
     条約改正のために必死になって鹿鳴館なんていう「グロテスク」なものを生み出した日本の貧弱さを、ロティは徹底的に皮肉な筆致で描いた。ロティは東洋人を軽蔑していながら、日本ではお菊さんを妻(妾)にした。

     東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は、まったくの猿真似であった。そこでは白いモスリンの服を着て、肘の上までの手袋をつけた若い娘たちが、象牙のように白い手帳を指先につまんで椅子の上で作り笑いをし、ついで、未知のわれわれのリズムは、彼女たちの耳にはひどく難しかろうが、オペレッタの曲に合わせて、ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊るのが見られた。
     この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが、根本的には、この国民には趣味がないこと、国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。ヨーロッパのいかなる民族も、たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ、こんなふうにきょうから明日へと、伝統や習慣や衣服を投げ捨てることには肯んじないだろう。(『日本の婦人たち』船岡末利編訳『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』収録)

     これを換骨奪胎して山田風太郎は『エドの舞踏会』を書いた。狂言回しは大山捨松に同行する山本権兵衛である。鹿鳴館の舞踏会に明治高官の夫人たちを参加させるために、権兵衛は苦労する。高官夫人の多くの前身は芸者や遊女だった。

     いちどに春も来たような暖かい日であったかが、空はうす曇っていた。が、午後六時になると、日比谷の鹿鳴館の内外にはぱっとガス燈が点じられて、白堊の壁と窓々の灯が幻のように浮かびあがった。
     八五三二坪にわたる敷地を囲む海鼠塀の真正面に、以前ここが薩摩屋敷だったころの黒門でそのまま残されていたのが八文字にひらかれて、そこから続々と黒塗りの馬車がはいって来る。(山田風太郎『エドの舞踏会』)

     「鹿鳴館と言えば大山捨松ですよね。」鹿鳴館の貴婦人については何度か触れたことがある。「会津藩家老の娘がなんで薩摩の大山巌と結婚したのか理由が分らないんですよ。」水戸の人はどうしても納得行きかねている。
     捨松は会津藩国家老・山川尚江重固の末娘に生まれた。兄に大蔵(浩、斗南藩権大参事、陸軍少将)や健次郎(東京大学初の理学博士、東京帝国大学理科大学総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長)がいるなんて今更言うまでもないだろう。会津戦争では捨松も家族と共に籠城し、そこに砲弾を撃ち込んだのが新政府軍の砲兵隊長の大山弥助(巌)だった。
     明治四年、満十一歳の捨松は五人の少女の一人としてアメリカ留学に選ばれた。最初の名前はサキであるが、捨てた積りだが帰国を待つという意味で捨松に変えられた。日本人女性として初めてアメリカの大学を卒業し(卒業生総代としてスピーチもしている)、明治十五年に帰国していた。大山巌は一年前に夫人を亡くしたばかりの三人の娘を持つ男やもめである。しかも捨松より十八歳も年上だった。
     最初は断固拒否していた山川家だが、西郷従道の粘り強い説得で、本人の気持ち次第と山川浩が妥協し、最終的には捨松自身が決断した。結婚前には何度もデートしたが、大山は薩摩弁だし、捨松は日本語が怪しいから日本語ではうまく通じず、英会話で通じ合ったとも言われる。大山も英仏語に堪能だった。
     「後で行きますけど、捨松は看護学校創立のための慈善バザーをここで開いたんですよ。」姫もよく知っている。新しくできた有志共立東京病院を見学した際、驚いたことにそこには看護婦の姿はなく、雑用係の男性数名が患者の世話をしていた。捨松はヴァッサー大学を卒業してから更に看護婦養成学校に通って看護婦免許も取得していた。衝撃を受けた捨松は院長の高木兼寛に看護婦の育成と採用を進言したが、如何せん資金が足りないのだと嘆かれた。そこでアメリカで知った慈善バザーを開いた。親友のアリス・ベーコンに宛てた手紙にはこんな風に書かれている。

    ・・・・・まだお知らせしていませんせんでしたが、私は最近新しく作られた病院を援助するためにバザーの準備をしています。日本では慈善バザーは今までに一度も開かれたことがなく、今回が初めての試みです。残念ながら日本人は慈善事業について全く何も知りませんでしたが、皆さん私のアイディアにとても賛成してくださり、今では東京中がこの話題でもちきりです。(中略)
    ・・・・・六名のバザー委員は、伊藤夫人(伊藤氏は宮内卿で、梅が家庭教師として住み込んでいるのはこの方の家です)、私の姉(ロシアに行っていた姉で現在は宮中で女官をしています)、それに梅と私、他二名(井上馨夫人、森有礼夫人)です。(久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』)

     アリスは後に津田梅子の英学塾の教師として来日するのだが、この当時、まだ鬱屈していた津田梅子が伊藤博文の屋敷に住み込んでいたことも分る。伊藤博文夫人梅子は馬関の芸者だった。森有礼夫人常子は後に青い目の子を産んだという噂がある。真偽は不明だが、当時の新聞は個人情報保護も名誉棄損もお構いなく、面白おかしく報じたから世間はその噂を信じた。そして山本権兵衛の妻は品川の遊女だった。海軍兵学校のカッターを使って、山本が薄倖の遊女を品川の遊郭から救い出す冒険談は、関川夏央・谷口ジロー『秋の舞姫』(『坊ちゃんの時代』第二部)に描かれているが、それはまた別の物語である。噂のことで言えば、捨松も徳富蘆花『不如帰』によって世間からは鬼のような継母と噂され深く傷ついた。
     捨松が主宰したバザーには三日間で一万二千人が来場し、目標額の千円をはるかに超えた八千円が集められ、全額が有志共立東京病院に寄付された。この病院が現在の東京慈恵会医科大学の前身である。バザーは欧米人の偽善に始まったが、偽善は偽悪よりはるか優る。
     アメリカから帰国して、志は赤十字運動と女子教育にあったが、当時の日本でアメリカ帰りの女性が活躍できる場はなかった。まして伯爵夫人として自身が教師として活動することは許されなかった。結局それらの活動のバックアップが捨松の生涯の事業になる。津田梅子の女子英学塾も、捨松の奔走でアメリカからの寄付が寄せられたから運営できた。

     それにしても暑い。新橋駅を通り抜ける時、納豆巻きを食いながら歩く女性を見た。納豆が糸を引いている。「日本人か?」「分からない。」この暑い街中を、納豆巻きを食いながら歩く神経は謎である。納豆巻きは極端でも、モノを食いながら街中を歩く姿は余り美しくないと私は思うが、頑迷固陋と言われるだろう。

     炎天をもの食ふ女闊歩せり  蜻蛉

     そして旧新橋停車場跡に着いた。港区東新橋一丁目五番三号。以前来た時と周りの風景が違うような気がする。「あの建物がなかったんじゃないかな。」新しい発見はないが、冷房の効いた鉄道歴史展示室に入ると一息つく。一階の椅子で休んでいると、レストランの扉が開いて、中からランチのサンプルを載せた台が運び出された。「結構高いな。」ここは銀座ライオン汐留店だ。「生ビール」の文字が誘惑的だ。
     外に出てプラットホームと線路の復元を見る。ゼロ哩標識。ホームも広い。「ここにさ、草履が並んだんだよ。」当初は下足のまま乗車するとは考えられなかったのである。「線路が広いんじゃないかな。」「最初はイギリスの技術で作ったので広軌だったんです。」実は違った。当時の世界標準は一四三五ミリ、それより広いものを広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。イギリスの技術指導で造られた新橋・品川間のレール幅(つまり今見ている軌道)は一〇六七ミリだから狭軌である。
     なぜこの幅が採用されたかについては様々な説があって確定しがたいが、イギリスが植民地に敷設したのがこの狭軌だったらしい。少ない資材で作ることができるから安上がりなのだ。
     ここで姫がかつての新橋駅の写真を取り出して説明してくれる。それを見ると、建物の外観は全く当時と同じ形だ。忠実に再現してくれているのである。
     もう一度新橋駅に戻り、SL広場に置かれた蒸気機関車を見ながら日比谷口南から路地を入れば烏森神社だ。港区新橋二丁目十五番五号。神社の本殿はコンクリートになっているが、狭い路地は昔懐かしい飲食店街で、小さな飲み屋が並んでいるのだ。これが新橋の昔の光景だろう。社務所前に並んでいるのは御朱印を貰う連中だろうか。祭神は倉稲魂命だから稲荷神社である。相殿にアメノウズメとニニギを祀る。

     平安時代の天慶三年(九四〇年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが、烏森稲荷の起こりである。(烏森神社「神社の創始」http://karasumorijinja.or.jp/烏森神社について)

     一本西側の南北に走る通りが赤レンガ通りと言うのを初めて教えて貰った。かつて清隆館と言う赤レンガ造りの勧工場があったことに由来すると言う。「『俺のイタリアン』があるな。ハッツァンの息子の店だよ。レトルトのカレーを貰っただろう。」「やたらに油っぽいカレーだった。」まあ、これは私だけの感想だから信じなくて良い。
     環二から日比谷通りに曲がりこんだところが田村右京大夫屋敷跡だ。「浅野内匠頭終焉の地」の石碑が建っている。「切腹最中があったろう?」「さっき見たよ。」この辺一帯が屋敷跡には違いないのだが、切腹の場所は「切腹最中」の老舗和菓子店「新正堂」の辺りだった。赤レンガ通りから環二通りに出た突き当りになる。港区新橋四丁目二十七番二号。「切腹最中は、謝罪に行くとき土産にするらしい。」

     内匠頭の下城はもっと哀れだった。『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』によれば、預かりを命じられた田村家からの檻送の駕籠が来たのは「八ツ半時」(午後二時頃)であった。中の口から入って坊主部屋の前に駕籠を横付けにし、乱れた大紋姿のままの内匠頭を押し込んで錠をおろし、網までかぶせた。(中略)
     間もなく田村邸に「七時少し前」(午後四時頃)、大目付庄田下総守、目付大久保権左衛門・多門伝七郎が入来した。内匠頭に切腹を申し渡し、執行を検分するためである。『一関藩家中北郷杢助手控』によれば、切腹は「六つ時過ぎ」(午後六時頃)に行われた。田村家の磯田武大夫が介錯したが、同藩の『御用留書抜』は「なるほど手ぎわよく御座候」と感嘆している。内匠頭が型通りの白木の三方の上に置かれた九寸五分の短刀に手を伸ばすか伸ばさぬかのうちに、一刀で首を打ち落としたのである。市街はただちに白張りの屏風で囲われた。切腹の場所は庭先であった。(野口武彦『忠臣蔵』)

     この時、切腹の場所を庭先と命じた大目付の庄田下総守安利と、それに反対する多門伝七郎との間で論争があったとも伝えられる。罪人とはいえ大名が庭先で切腹を命じられるのは異例のことである。この後、庄田が役を解かれて小普請組に入れられるのは、この時の処置に拠るとも言われる。忠臣蔵は講釈師得意の演目なのに、今日は余り声が聞こえない。
     「それじゃ少し早いけど食事にします。」十一時半だ。「ヤマチャンだから中華ですよね。」「以前もそうだったものね。」案の定、入って行ったのは広東名菜「慶珍楼」だった。港区西新橋三丁目八番二号。小学生の男の子が厨房の外に陣取っていて、姫に何かと話し掛ける。
     日替わりランチはワンタンメンに半チャーハン付きで六百八十円。それでいいや。若者はこれにした。傘寿の三人と姫、ハイジは冷やし中華を選ぶ。「それよりとにかくビールを。」「生はありますか。」四百五十円。姫にビールが運ばれてくると、「エーッ、飲むの」と小学生が驚く。
     手作りの弁当も売っているので、店はなかなか忙しい。主人が料理し、奥さんと母親が手伝っている按配だ。中国人である。店内にも中国人らしき客が多くなってきた。暫く経って出されたのはワンタンメンのセットである。日替わりランチだから早いのだ。冷やし中華はかなり時間がかかる。傘寿の人たちのテーブルには餃子が運ばれた。「ワンタンメンは結構量が多いね。」「麺も入ってるんですか?」「ワンタンメンだからね。」
     それから暫くして冷やし中華もできた。「甘酸っぱくて美味しいです。」昔風だろうか。他の客に運ばれる定食を見ると飯の量がかなり多い。弁当は五百円のようだ。都心のこの場所で、七百円以下でこの量が食べられれば文句はない。「中国人が来るんだから、本場の味じゃないかな?」「台湾?」「広東って書いてたよ。」もう歩きたくはないが十二時十五分に店を出る。

     日比谷通りを南下して適当なところで右に曲がれば東京慈恵会医科大学病院だ。ここがさっき鹿鳴館のところで触れた看護婦教育発祥の地である。「ナイチンゲールの像があるんですよね。」「どれどれ。」「あそこに。」
     「高木兼寛は海軍の食事を改善して脚気を減らしたんだ。」スナフキンは良く知っている。「それに対して鴎外は。」「高木はイギリス医学、鴎外はドイツ医学だから。」鷗外だけでなく、当時の医学界はほとんどドイツ医学で占められていて、高木の説は海軍以外には受け入れられなかった。ただ高木が栄養欠陥と言ったのは実は間違っていたのだが、洋食を推奨することで実際的に海軍の脚気患者を劇的に減らすことができた。一方、ドイツ医学を信奉する連中は、その説が証明できないことから排斥したのである。現実に効果があるのに証明できないから採用しないというのは、日本近代科学の歴史に付きまとっていた。

     東京慈恵会医科大学の源流は、高木兼寛(嘉永二年(一八四九)~大正九年(一九二〇))によって明治十四年(一八八一)五月一日に創立された成医会講習所に始まる。彼は脚気の原因について栄養欠陥説を提唱し、それによって日本海軍から脚気を撲滅した人として世界的に有名である。
     明治八年(一八七五)から五年間、海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校に学んでいるが、その頃すでにこの学校のように権威のある医学校を、いずれは日本につくってみたいと思っていたらしい。彼は計画の予定を著しく早めて、帰国早々のあわただしい中でこの成医会講習所なる医育機関を創設している。これは帰国後、日本医学界全体の急激な、しかも好ましくない変貌に気づいたからであった。英医ウイリスの下向に始まる明治政府のドイツ医学採用の方針は、わが国医学界の風潮を急速にドイツ的医風に変容させつつあった。特に当時唯一の医育機関であった東京大学は、この医風で固められていた。権威主義、研究至上主義が横行し、病気をもつ人間を医学研究の対象ないしは研究材料とみる傾向が強かった。高木は、より健全な英国医学の萌芽を日本の土壌に育成する必要があると痛感した。彼は松山棟庵とともに明治十四年(一八八一)一月、成医会なる研究団体を、次いで同五月にこの成医会講習所を設立している。
     明治十五年(一八八二)、高木は戸塚文海とともに有志共立東京病院なる慈善病院を発足させている。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしている。「美服をまとい資力のあると認められた者はむしろ断られる」風さえあったという。このような趣意は、高木が英国留学中にうけた人道主義や博愛主義の強い影響によると思われる。同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためであった。(学校法人慈恵大学「源流――貧しい病者を救うために」)
     http://www.jikei.ac.jp/jikei/history_1.html

     そして米国宣教看護婦のメアリ・リードを招き、明治十七年(一八八四)十月には看護婦教育を始めるのだ。但し慈恵医大のHPには、大山捨松のことは一切触れられていない。
     日比谷通りを南下すると、御成門駅を過ぎた辺りから東側が道路に沿った公園になっている。これも芝公園の一部なのだ。植え込みの間に「近代初等教育発祥の地」碑が建っている。明治三年と言うから学制発布の前である。東京に六つ設置された小学校の中の仮小学第一校の跡だ。私は明治五年がスタートだと思い込んでいた。

     旧跡 日本近代初等教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)
     わが国の近代初等教育は、明治五年(一八七二)年の学制発布に先立ち、同三年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、六月十二日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は八歳から十五歳までとし、机・硯・箱・弁当は各自持参した。
     この小学第一校は、明治四年に、西久保巴町(虎ノ門三丁目)は移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。
     平成二年十月二十四日  東京都港区教育委員会」(案内板より)

     慶應義塾大学薬学部。かつての共立薬科大学だ。「慶應が買収したんだよね。」「そうじゃなくて、共立が身売りしたんだよ。」スナフキンはやたらに拘るが、同じことではないかしら。経営が苦しくなった共立が身売りを決意し、慶應が買い取ったということである。
     「だけど薬学部も大変だよね。」薬剤師になるためには六年行かなければならないし、国家試験に合格しなければ何もないのだ。「大体、ダメな奴は試験を受けられないんだよ。」大学としての合格率が公表されているから、明らかに不合格と分っている学生はそもそも試験を受けさせて貰えない。そして薬学部自体が既に飽和状態に達している。「医大に裏口入学した学生はどうなるのかしら?」「まずダメだろうね。」仮に今回問題にならなくても、国家試験を受けるに至らなかっただろう。
     それにしても、今回判明した文科省の局長の事件は、あまりにも古典的と言うか、どうしようもないね。安倍政権下のこの数年、官僚の質は著しく低下した。
     松並木が復元されている。枝折戸を抜けると、港区役所前に「浅岡飯炊きの井戸」があった。「『先代萩』ですね。」『伽蘿先代萩』では政岡になる。「『樅ノ木は残った』だよ。」伊達騒動と言った方が良いだろう。歌舞伎では極悪人とされた原田甲斐(仁木弾正)をヒーローとしたのが山本周五郎だが、種本として大槻文彦の『伊達騒動実録』があった。
     それならここに伊達藩の屋敷があったのかと思うがそうではなく、増上寺の子院の良源院があった。そして良源院は伊達家の支度所だったのだが、それは何なのか分らない。亀千代(後の伊達綱村)を毒殺から守るため、この井戸の水を使って浅岡自身が調理したと伝えられる。目黒の祐天寺で浅岡の像を見たような記憶があったが間違いで、「三沢初子(先代萩 政岡)像」があるのは正覚寺(目黒区中目黒三丁目一番六号)だった。但しあれは歌舞伎界の連中が建てたもので、歴史とは全く関係がない。
     三解脱門から増上寺に入る。本堂の向こうに東京タワーが見えるのがここの特徴である。「二十分、自由に見学してください。」増上寺を見るためには二時間あっても足りないだろう。しかしここはお馴染みの場所だから適当にまわるしかない。
     境内の熊野神社(鳥居が新しい)の手水舎には、鮮やかな夕日の中に八咫烏が描かれている。「サッカー協会のシンボルだね。」「アラそうなの?知らなかったわ。」ハイジはそう言うが、私だって数年前まで、日本サッカー協会が八咫烏をシンボルにしているなんて、知らなかった。
     八咫烏と言えば神武東征に伴う日本神話と思ってしまうが、三足烏の伝説はエジプト、アジア、アフリカに広がっているから日本固有のものではない。太陽と関係づけられることが多い。

     JFA旗に描かれた三本足の烏は、日の神=太陽を表しています。光が輝いて四方八方を照らし、球を押さえているのは私たち日本のサッカー界を統制・指導することを意味しています。准南子という中国の古典や芸文類聚五経正義という本に、太陽の中に三本足の烏がいると書かれています。また、日本神話にも、神武天皇御東征の際に、タカミムスビ(日本神話の神)によって三足烏が神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたと言われています。
     JFA旗の黄色は公正を、青は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。このシンボルマークは、東京高等師範学校の内野台嶺(JFA理事)ら当時の協会役員らが発案し、彫刻家の日名子実三氏がデザイン化。一九三一(昭和六)年六月三日に理事会で正式に採用することが決まりました。(日本サッカー協会「JFAのマークの意味は?」
     http://www.jfa.or.jp/info/inquiry/2011/11/jfa-1.html

     以前は気が付かなかったが、「大本山増上寺 熊野みこし講 創始者綿貫次郎」の碑があった。これだけの立派な碑を建てられるほどの地元の有力者であったか。

     西暦一九七四年(昭和四十九年)、故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。

     通称おじいちゃんと言うのがおかしい。この熊野神社は増上寺の鬼門を守っているが、老朽化していたのを、「おじいちゃん」の仲間(みこし講)の手によって手作りの鳥居を作り、更に少しづつ改修していったのだ。平成二十六年、みこし講の四十年を記念して建てられた碑である。
     め組碑がある。「め組だけがあるのもスゴイですよね。」「喧嘩はするもんだね。」それは冗談で、め組は芝を守る組なのだ。
     阿波丸事件殉難者之碑を見る。「阿波丸事件って?」簡単に言えば、赤十字の仲介によって緑十字の識別記号を付けた阿波丸を、米軍の潜水艦が撃沈した事件である。明らかに国際法違反なのだが、日本軍も軍需物資を積み込むという違反を犯していた。

    アメリカの安導券を持ってホンコン、オランダ領インドネシア、シンガポールにいた連合国捕虜、抑留者に救恤品を輸送した日本郵船の『阿波丸』 (一万 一二四九トン) が、二千余名の日本人乗客を乗せて帰航中、同年四月一日午後十一時すぎ、アメリカの潜水艦により台湾海峡で撃沈された事件。アメリカ側は賠償を約束したが,四十九年四月日本は戦後の物資援助への感謝として国および国民の対米請求権を放棄した (阿波丸請求権処理協定) 。(『ブリタニカ国際大百科事典「阿波丸事件」より』)

     外に出て築地塀に沿って行けば、旧台徳院霊廟惣門だ。台徳院は徳川秀忠である。東京大空襲で多くの建物が焼失したのに、この惣門は奇跡的に残された。入母屋造八脚門、金剛力士は埼玉県川口市の西福寺にあったもので昭和二十三年に浅草寺に譲渡され、さらに昭和三十三年(一九五八)頃にここに移されたらしい。
     そして東照宮に入る。港区芝公園四丁目八番十号。「ここは神社ですか。お寺ですか?」ヨッシーが神官に訊いている。東照大権現を祀る神社であるが、東照宮と名乗ったのは明治の神仏分離以後だとは知らなかった。江戸時代には、ここは増上寺の境内で安国殿と称していた。家康の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」による。

    安国殿の御神体は慶長六年(一六〇一)正月、六十歳を迎えられた家康公が自ら命じて彫刻された等身大の寿像で、公は生前、駿府城において自らこの像の祭儀を行っていた。死に臨んで公は、折から駿府城に見舞いに参上した増上寺の僧侶に、「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と仰せになり、この像を同寺に祀るよう遺言していたもので、安国殿の創建の時に造営奉行であった土井大炊助利勝(後の大老・土井大炊助利勝)の手により駿府から護り送られたのである。
    (東照宮「御由緒」http://shibatoshogu.com/html/0001.html)

     「東照宮って日光だけかと思ってたよ。」全国には五百以上あるらしいが、もともと家康の遺骸を久能山に葬って東照社と号し、それに対して朝廷から東照大権現の神号が宣下された。因みに秀吉は豊国大明神であり、家康の時も明神号にすることも考えられた。明神号を主張したのは金地院崇伝だったが、論争の結果天海の主張が通り、薬師如来を本地仏とする権現と決められた。明神と権現の違いは結構難しいのだが、明神は日本の神で仏教を守護する者、権現は本来は仏であるが日本に仮の姿を現したもの、と言えば良いだろうか。
     そして丸山古墳に入る。「蝉が鳴いてるね。」一週間ほど前から蝉の声を聴くようになってきた。そしておかしなことに、その中に蜩の声も混ざっているのだ。「姫は下で待っててください。階段を下りるのが大変だから。」

     築造は五世紀中頃過ぎ(四世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長百二十五メートル(案内板では百六メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。
     一八九二年(明治二十五年)、三年間の欧州留学を終えた自然人類学者坪井正五郎は日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じた。翌年の一八九三年(明治二十六年)に坪井が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見した。しかし遺構らしいものは確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できなかった。(ウィキペディア「芝丸山古墳」より)

     途中にある虎の石像が立派だ。「なぜここに?」「大野伴睦ってあるよ。」昭和三十八年、調理師法施行五周年にあたって、調理師会が伴睦の労をねぎらうために贈呈されたものらしい。伴睦は調理師会の名誉会長だった。調べるとこれは句碑になっていて、「鐘が鳴る春のあけぼのの増上寺」とあるらしい。たいした句だとも思えないが、文字は鳩山薫である。伴睦は虎の骨董品を収集する趣味があったらしい。
     頂上には伊能忠敬測地遺功表が建っている。伊能図を浮き彫りにしたものだ。港区芝公園四丁目八番。「どうしてここにあるんでしょうかね?」「出発点?」「出発は富岡八幡宮じゃないか。」深川の自宅を出た忠敬は富岡八幡に祈願することを欠かさなかったから、私もそこが出発点だと思い込んでいた。但し測量の起点は高輪大木戸とした。その大木戸を見下ろす地点だから、この地が選ばれた。
     明治十五年(一八八二 )九月、元老院議長佐野常民が東京地学協会で忠敬の事績を講演したのが発端になった。佐野常民はヤマチャン郷土の英雄で、赤十字設立者として知られている。その時の講演内容を地理学者の保柳睦美が紹介してくれているので一部を引用しておく。測地遺功表再建にあたって『地学雑誌』に発表された文章で、その全体はJ―Stage(科学技術振興機構)を経由してネットで見ることができる。伊能図が一般には流布しなかったとしても、幕末の先進的な官僚や各藩では閲覧、模写ができたことが分る。

     翁が測量図の大成は、前述のごとく六十年前なるも、幕府に上呈したる原図は東京紅葉山の書庫に、その副図は勘定所に秘蔵して曾て江湖に伝わらず。今を距るほとんど三十年前、オランダの軍盤、崎陽に来航したるときに当り、始めて海軍伝習の挙ありて、永井尚志そのことを督し、勝麟太郎、矢田堀景蔵等来学せり。当時永井の請求によりて、わずかにその小図の写本を東京より送り来れり。時に余が旧藩鍋島家もまた航海術の必須なるを知り、藩士をしてこれを学ばしむ。余このことに関かるをもつて永井等と往来し、たまたまその図を一見するを得たり。よつて百方懇請してこれを借り、同藩の図手六七名をして日夜これを騰写せしめたり。爾後余藩、命を承て海を航するに当り、該図によりて近海の航路を定むるに、島嘆の形状岩礁の位置等を掲出すること確実精詳にして、常にその力に頼り、暗夜燈火を得たるの思あり。深く翁が図の精なるに敬服し、その功の大なるに驚嘆せり。(保柳睦美「旧伊能忠敬測地遺功表について」『地学雑誌』一九六五年・七十四巻四号より)

     翌年一月には東京地学協会会長北白川能久親王より忠敬に対する贈位が申請され、二月二十七日正四位が贈られた。
     明治二十年(一八八七)、渋沢栄一、大倉喜八郎、福地源一郎、大鳥圭等を総代として、東京都に銅像建立を申請。そして明治二十二年(一八八九) 東京地学協会が「贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表」を建立した。しかし戦時中の金属回収によって失われたため、昭和四十一年(一九六六)に再建されたのが、この測地遺功表である。

     伊能忠敬先生は一七四五年(延享二年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後五十歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は一八〇〇年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び一八一八年(文政元年)江戸八丁堀で七十四歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。
     その偉業は引きつがれて一八二一年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。
     東京地学協會はその航跡を顕彰して一八八九年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。仍て今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。
       一九六五年五月
       社団法人東京地学協會 會長細川護立

     佐原では旧宅と観福寺の墓、諏訪神社の像を見た。深川の旧宅跡、東上野の源空寺(浄土宗)の高橋至時と並ぶ墓、富岡八幡の像と、伊能忠敬に関する遺跡は私たちにとってはお馴染みだ。
     坂を下りて姫と合流して少し休憩する。ハイジとロダンからは煎餅、姫からは塩飴を貰う。「少し風が出てくるといいわね。」暫く休憩して歩き始める。「東京タワーで休憩しますから頑張りましょう。
     あちこちにムクゲが咲いている。長柏園跡は近代造園界の先駆者、長岡安平の屋敷跡である。「造園って本多静六じゃないですか?」日比谷公園の本多静六の名前は知っていても、長岡安平は知らなかった。肥前大村藩士。郷土の先輩である楠本正隆に従って上京、楠本が東京府知事に就任した際に東京府土木掛に採用されたのがきっかけらしい。ウィキペディアでは「日本人初の公園デザイナー。明治初期から大正にかけて東京府の公園係長などとして活躍。数々の名園を生み出した。明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニア」と記している。

     そこで、芝公園をはじめ大小ほとんどの公園整備や街路樹植栽を行い、明治二十九(一八九六年)に着手した千秋公園(秋田市)の設計で評判となり、各地から公園・庭園の設計依頼が殺到するようになりました。
     大正十四年(一九二五年)にその生涯を終えるまで関与した主な公園は四十一件、庭園二十五件、その他史跡、名勝、天然記念物の保存、街路樹苗木の育成等幅広い緑に関する知識と、卓越した技術により明治・大正期の日本の造園界をリードしてきました。(大村市観光振興課)http://old.omura.itours.travel/02history/history05_09.html

     秋田の千秋公園も長岡の設計になると知ればなんとなく親しみが湧いてくる。久保田城址の千秋公園は秋田の高校生にとってはデートの場所であった。猛烈な吹雪の寒い日に千秋公園に私を呼び出した彼女は何を考えていたのだろうか。
     キョウチクトウが咲いている。すぐに東京タワーに行くのかと思えば、ヤマチャンはタワーから離れてまだ歩く。桜田通りを横断したところで百十円のペットボトルを買った。少し先の自販機でロダンが買ったのは百三十円だった。「姫も買ったとたんに安い自販機があったよな。」「あれはひどかったですよね。あんなに近くにあるなんて分らないもの。」去年八月の馬込のことだ。あれも暑い日だった。
     そして入ったのは赤羽橋そばの飯倉公園である。港区東麻布一丁目二十一番八号。赤羽接遇所の跡である。領事館を持たない国の使節のための宿泊所だ。

     赤羽接遇所は、安政六年(一八五九)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同安政六年(一八五九)八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された。
     黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれており、内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものとの二棟の木造平屋家屋から成っていた。
     幕末にわが国を訪れたプロシアの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日善修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。
     昭和四十八年(一九七三)三月 東京都港区教育委員会

     水道の水を頭にかぶると一息つける。「羨ましいわね、女性じゃできないもの。」よくぞ男に生まれけり。と言うより私の頭髪の問題である。
     そしてもう一度芝公園に戻って東京タワーに入る。「ベンチがありますよ。」しかし一階のベンチはふさがっている。「もっと奥に。」何とか座れる場所が確保できた。周囲ではアジア系言語が乱れ飛んでいる。「着替えてくるよ。三枚持ってきたんだ。」スナフキンが言うので、私もシャツを着替える。
     「上まで行くのにどのくらいかかるのかな?」私はてっぺんまで行ったことはないが、千円もしないのではないか。しかし違った。百五十メートルのメインデッキまでは五百円、そこから二百五十メートル上のトップデッキ(特別展望台)に登るには二千八百円もかかるのだ。「意外に高いんだよ。」
     ベンチの近くの売店ではビールも売っているが、ここで飲む気にはなれない。高いのだ。十五分程休んで出発する。
     金地院には寄らない。港区芝公園三丁目五番四号。家康の時代、黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝が開山住職となった寺だ。臨済宗南禅寺派。今年初めて見るヒマワリが咲いている。「初めてですか?私は二回目です。」隣のビルは機械振興会館だ。
     聖アンドレ教会。港区芝公園三丁目六番十八号。キリスト教の宗派には不案内なのだが、日本聖公会東京教区だから立教大学とも関係があるのだろう。
     神谷町駅の手前で、講釈師とダンディは帰って行った。かなり疲れていたようだったから無理もない。それにしても彼らと同い年のヨッシーは元気だ。そして榮閑院に入る。港区虎ノ門三丁目十番十号。右の表札は「浄土宗」、左は「さる寺榮閑院」。門前に「杉田玄白墓」の石柱が建っている。
     猿塚、何匹かの猿の像を見て、墓地に入れば玄白の墓がある。「九幸杉田先生之墓」と彫られた質素なものだが、実は「杉」の字は「檆」になっている。これで杉と読むらしい。辞書を見ると、『説文解字』の本字である。
     杉田玄白について今更説明を加える必要はないだろう。『蘭学事始』は実に感動的である。ただ玄白程知られていないと思うので一言付け加えれば、『ターヘル・アナトミア』訳読のリーダーは前野良沢(蘭化)である。天才的な語学者であったが、『解体新書』の訳が不完全だと恥じ、刊行の際には己の名前を出さなかった。従って世間が良沢の名を知ったのは『蘭学事始』によるのである。蘭化の号は、豊前中津藩主奥平昌鹿より「蘭学の化け物」と称賛されたことに由来する。
     玄白と良沢が蘭学の恩人であることに間違いはない。良沢の弟子で、後に江戸の蘭学の中心となる大槻玄沢(磐水)は、玄白と良沢からその名を貰い、後に解体新書の誤訳を訂正して『重訂解体新書』を出した。明治になって玄沢の孫の大槻如電と文彦の兄弟が良沢の顕彰に努めた。

     なお磐水先生の蘭学については、更に遡って、前野蘭化と杉田玄白との両先生のことをも一言しなくてはなりませんが、わが国の蘭学は、実にその蘭化先生によって、初めて一つの学問となりましたので、その蘭化先生が中心となり、玄白先生がこれを助け、なお幾人かの人々も参加して、蘭化先生の乏しいオランダ語の知識にたよって、オランダ解剖医書の翻訳という大事業を起こして、見事にそれを成就しました。(森銑三『おらんだ正月』)

     森銑三が江戸時代の科学技術の先駆者の伝を子供向けに書いた本である。おらんだ正月とは、大槻家で催された太陽暦正月の祝で、新元会と名付けられたものだ。寛政六年閏十一月十一日が太陽暦の一月一日であり、そこから始まって四十年間、江戸の蘭学者たちの交歓会として続く。
     大槻文彦が、日本で初めての近代的国語辞書『言海』を独力で完成させることができたのは、やはりその血と環境であっただろう。

    先人、嘗て、文彦らに、王父が誡語なりとて語られけるは、「およそ、事業は、みだりに興すことあるべからず、思ひさだめて興すことあらば、遂げずばやまじ、の精神なかるべからず。」と語られぬ、おのれ、不肖にはあれど、平生、この誡語を服膺す。本書、明治八年起稿してより、今年にいたりて、はじめて刊行の業を終へぬ、思へば十七年の星霜なり、こゝに、過去經歴の跡どもを、おほかたに書いつけて、後のおもひでにせむとす、見む人、そのくだくだしきを笑ひたまふな。(大槻文彦「ことばのうみのおくがき」)

     先人は父の磐渓、王父とは祖父玄沢のことである。辞書を作るには、まず文法を確立しなければならないが、文彦以前、誰もこのような形で国文法を考えた者はいなかった。『蘭学事始』が感動的であるのと同じ意味で、文彦が『言海』を編纂するまでの伝を記した高田宏『言葉の海へ』も感動的だ。かつて、学問とはこのようにあったのである。
     「それじゃ愛宕山に向かいます。」愛宕山にエレベーターで昇るのは初めてだ。登り切った所はNHK放送博物館の脇である。ここで休憩をとる。一室では8Kの試験放送をしていたが私は全く関心がないので素通りする。ハイジは最後までその放送を見ていたらしい。
     前にも来ているから目新しいものはあまりない。前に来た時は『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターが並んでいた筈だが今はない。一回りして戻ると、ロダンやマリオは椅子に腰かけて涼んでいる。四十分ほど涼んで外に出て煙草を吸う。
     弁天池に向かえば、ロダンが三等三角点を指さす。これは愛宕山が天然の山だということを示すもので、標高二十五・七メートルである。「都内の最高点って言いましたが、正確には天然の独立した山で最高だっていう意味です。」都内西部の台地の大半は標高三十メートルを超えているし、人工なら箱根山の四十五メートルもある。
     それにしても、この孤立した山に池があるのが不思議だ。「水は循環させてるんでしょうね。」かつては湧水だったというが、現在ではやはり人工的に循環させなければこの水量は維持できないだろう。
     姫はエレベーターで、残りの人間は男坂を下りる。やはりかなりの急勾配だ。「ホントに馬で登ったのかね。」「間垣平九郎の後に三人くらい成功したらしいですよ。」ロダンの知識は正確である。そもそも「ロダン」命名の由来は愛宕山にあるのだが、知っている人は少ないだろう。

     以降、出世の石段を馬で登った成功例は今までに三例存在する。一例目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬で、師の四戸三平が挑み、果たせなかった出世の石段登頂を一八八二年に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。
     二例目は参謀本部馬丁の岩木利夫で、一九二五年十一月八日、愛馬平形の引退記念として挑戦し、観衆が見守る中成功させた。上りは一分ほどで駆け上がったが、下りは四十五分を要した。この模様は山頂の東京放送局によって中継され(日本初の生中継とされる)、昭和天皇の耳にも入り、結局平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続けることとなった。
     三例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬である。一九八二年、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』において、安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で三十二秒で登頂した。(ウィキペディア「愛宕山」より)

     歩き始めるとすぐに姫が声をあげた。ハイジも「珍しいわよね」と言うのは、オリーブの花だった。私は初めて見る。青い実もなっている。
     真福寺(真言宗智山派)はコンクリート造りの近代的なビルになっている。港区愛宕一丁目三番八号。「探すのにエライ苦労したよ。こんな風になっているなんて思わないから。」安政五年から半年間、オランダ使節の宿舎となり、その後はロシアやフランス施設の宿舎となった。
     天正十九年(一五九一)中興照海上人が出府して鉄砲洲に庵室を構え、慶長十年(一六〇五)に愛宕下の地所を拝領して開創したと伝える。智積院の別院で、真言宗智山派の宗務出張所が置かれている。
     「砂場がある。」虎ノ門大坂屋砂場。港区虎ノ門一丁目十番六号。「有名なの?」砂場は藪、更科とならんで江戸の蕎麦の名店である。秀吉が大阪城を築いた時の資材置き場の砂場に蕎麦屋を出したのが「砂場」の始まりである。江戸に進出して糀町(麹町七丁目)に店を構えたのが砂場藤吉で、大阪屋砂場は明治五年(一七八二)にその本家から暖簾分けした店である。
     一方砂場には糀町とは別にもう一つの系統があり、「久保町すなば」(後、巴町砂場)の名で営業していたが、昨年閉店している。更科は信州発祥で麻布永坂更科(現・更科堀井)が本店、藪は雑司ヶ谷発祥で神田に引き継がれた。
     金刀比羅宮。港区虎ノ門一丁目二番七号。文政四年(一八二一)に奉納された青銅の鳥居に、四神がまとわりついているのが珍しい。「青龍、朱雀、白虎、玄武ですか。」順に東南西北を表す。この色に季節を当て嵌めれば青春、朱夏、白秋、玄冬となる。 

     当宮は万治三年(一六六〇年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(一六七九年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
     当時は「金毘羅大権現」と称されていましたが、明治二年(一八六九年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(一八八九年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。(「由緒」http://www.kotohira.or.jp/history/history.html)

     金毘羅大権現の正体は謎で、本地仏は十一面観音、あるいは毘沙門天、不動明王などとも言う。修験と習合して天狗を眷属とする。しかし神仏分離によって現在の祭神はオオモノヌシ、相殿に崇徳天皇を祀っている。崇徳院は日本史上最強の怨霊で、生きながら大天狗になった人物であるが、四国を守護するとも信じられた。
     「蜻蛉にこれを読んで欲しいんですよ」。虎ノ門三井ビルの手前の植え込みに「江藤新平君遭難遺址碑」が建っていた。江藤新平もまたヤマチャン郷土の英雄である。ネットで探したので全文を引用する。文字面を追えば何となく意味は分るだろう。

    (題額)懐旧表情
    贈正四位江藤新平君遭難遺址碑
    明治二年十二月二十日中弁従五位江藤君新平訪阪部長照於赤坂葵街
    佐賀藩邸会西岡逾明荒木博臣在座歓晤至夜半君先去竹輿出邸僅数歩
    暴客猝狙撃君躍身避溝中三人聞急提刀走出護君入邸招医療創先是君
    為藩権大参事釐革藩制編入下士於卒伍下士深含之所以及此也藩知事
    鍋島侯命吏追捕刑之 勅使慰問賜金若干君歴任顕要功績不尠声望倍
    崇及征韓論起不能全終惜哉四人者皆余旧交也頃博臣子三雄来曰先考
    得江藤氏推輓任司直累進二等官正四位遺族頼其余恵先考嘗有建碑於
    遭難地之志不果而卒今欲継遺志請紀之余嘉其挙略叙若此
      大正五年六月     正二位勲一等伯爵土方久元篆額
                 正三位勲一等股野琢撰幷書

     「佐賀藩邸で宴会をした帰りに襲われたんだね。」「それで死んだ?」明治二年に死んでしまってはその後の歴史が狂ってしまう。佐賀県人は当然知っている筈だが、明治六年(一八七三)征韓論に敗れて下野し、翌年の佐賀の乱で処刑されるのだ。司法卿として、山城屋事件で山縣有朋を、尾去沢銅山で井上馨を厳しく追及したことから薩長閥の恨みを買っていた。その処刑が梟首(斬首・さらし首)とされたことの原因であろう。
     暴漢は、江藤が藩権大参事として実施した藩政改革に不満を持った卒属であった。この時は傷を負っただけで済み、勅使から慰問金を賜った。一緒に飲んでいた荒木博臣の子が、父は江藤の推輓によって二等官正四位まで累進した。そのため江藤の功績を顕彰したいと土方久元に言ってきた。そこでここに碑を建てたということらしい。
     「新聞創刊の地」碑は虎ノ門交差点を西に回り込んだところにあった。千代田区霞が関三丁目。これは初めて見る。

     洋学者子安峻らが当時虎の門外琴平町一番地の旧武家長屋にわが国初の本格的な大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは明治七年(一八七四年)十一月二日である
     江戸時代の情報伝達形式であった「読売瓦版」から名をとって題号とし漢字にふりがなを施した平易な新聞として出発した。創刊のころ漢字教育を与えられていなかった市民から町名番地にちなんで「千里を走る虎の門ことにひらがなは一番なり」と歓迎された。
     維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から 今日に至るまで題号を変えず全国紙に発展したのはわが国新聞史上類例のないことである
           昭和四十九年十一月
           東京都港区教育委員会

     「横浜毎日の方が早いだろう?」スナフキンの言うのは当たり前で、日本最初の新聞と言えば明治三年(一八七一)創刊の『横浜毎日新聞』を言う。更に明治五年の『東京日日』、『郵便報知』などもあったから、「新聞創刊」と言うのは誇大広告の気味がある。
     ここで言っているのは「大衆啓発紙」の初めと言うことだろうが、当時の呼び方では政論を中心に据えた「大(おお)新聞」に対する「小(こ)新聞」である。明治十二年創刊の朝日も小新聞であった。タブロイド判だから、現在の『日刊ゲンダイ』のようなものだろう。
     これで今日のコースは終了した。一万八千歩。この暑さのなかでよく歩いた。取りあえず新橋に向かう。新橋駅前でハイジと別れ、残りは七人になった。「どこにする?」「あそこでいいだろう。」
     入ったのはニュー新橋ビルである。中国人のお姉さんたちの客引きの声が大きい。「あの店は前に入った気がする。何となく顔に見覚えがあるよ。」スナフキンが目指した店は満席だった。「どうする?」どこの店でもお姉さんたちの声が姦しい。「ここでいいか。」今日はヨッシーも参加してくれる。
     入った店と向かいの店が姉妹店のようで、ビールの半分はこちらから、半分は向かいの店から持ってこられた。ビールの後は黒霧島を、今日は水割りにした。
     何か注文をしようと声をかけると、向かいの店から笑顔でやってくるのがおかしい。「息子が来るので」とヨッシーはビール二杯飲んで帰って行った。勘定を頼むと大きな電卓を持ってやってきた。合計金額を聞き、それではひとりいくらになるかと考える間もなく、「お姉さんは二千円、男性は三千円」と即座に答が返ってきた。「スゴイ。」
     何度も言うように実に暑い日だったが、しかしこの夏の暑さはまだこんなものではなかった。二十三日には熊谷で四十一・一度、青梅市で四十・三度を記録した。都内で四十度を超えるのは観測史上初めてのことだ。


    蜻蛉