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    第七十八回 せせらぎの街 三島宿を歩く
      平成三十年九月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.09.17

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     猛暑、豪雨、台風そして地震。この夏は大規模災害が頻発した。直近では関西空港が使用できなくなり、北海道全域が停電になった。自然の猛威だけではない。「あれは人災だよ」とファーブルは断言する。彼は地震の前の日まで札幌にいた。電力供給のシステム設計思想がおかしいのである。そして豪雨も頻発する台風も地球温暖化の影響と考えれば、これもまた原因は人間に返ってくる。もはや「想定外」と言う言葉は使えない。世界は別の次元に突入したのであって、どれだけの想像力を働かせられるかが人間に試されている。
     政治に希望はもてない。スルガ銀行の不正融資事件は、拓殖銀行が破綻に陥り金融危機が起きた経緯を再現しているのではないか。スポーツ界のハラスメントも後を絶たない。しかし悪いことばかりではない。甲子園野球大会では金足農業が決勝に進出した。快挙である。準決勝後の街頭インタビューに応える女性が「秋田県の一大事」と語った言葉に完全に同意した。高校野球にほとんど関心のない私が、「秋田県の一大事」のために仕事を休んでテレビを観た。何しろ決勝進出は百三年振りのことなのだ。
     第一回大会決勝戦で、秋田中学が京都二中に延長の末敗れたのは、秋田勢の決勝進出の歴史としてささやかな郷土自慢の一つではあったが、どれ程の規模で行われたのか。改めて歴史を紐解いてみた。
     第一回全国中等学校野球優勝大会は大正四年(一九一五)に開催された。第一次世界大戦の真っただ中であり、ドイツがツェッペリン飛行船でイギリス本土を空爆し、西部戦線では世界で初めて毒ガスを使用した。日本は袁世凱の中華民国に二十一ヶ条の要求を突き付けた。まだ甲子園球場はなく、大会は大阪の豊中球場で行われた。
     甲子園球場が使われるようになったのは大正十三年(一九二四)の第十回大会からである。最初はドタバタの内に始まった大会も次第に人気を博し、入場者の急増に合わせて、この年八月に新球場を完成させたのである。甲子の年であったので甲子園球場と名付けられた。
     ドタバタとはこういうことである。八月十八日に全国大会を開催すると、朝日新聞社が新聞紙面で告知したのは七月一日だった。余りにも突然なことで、東北の中では秋田中学だけがその情報をキャッチした。朝日新聞に単独での参加を打診したが予選会が必須と言われ、秋田中学が呼びかけて横手中学、秋田農業(現・大曲農業)の県内三校のみで予選会を開いた。そこで秋田中学が勝ち上がり、東北代表として全国大会に出場したのである。他県には呼びかけなかったのだから、卑怯と言われても仕方がない。東北最強を誇る岩手県をはじめ東北各県は遺恨を抱いた。「情報収集力も実力なんだよ」とファーブルは笑う。
     しかし『秋高百年史』(昭和四十八年)にはこんなことは書いていない。「大正三年の夏休み、野球部は東都遠征をおこない、素晴らしい成果をおさめた。(中略)これによって、全国的レベルにありと認められた野球部は、翌四年の第一回全国中等学校野球大会に東北代表として推薦された」とあるだけだ。
     但し奥羽線は開通していたものの、東北を横断する鉄道はなかった。秋田や山形から仙台、盛岡に行くのは大変で、短期間で東北大会を開催するのは事実上無理だったという事情もある。(第二回には岩手県の一関中学、第三回は盛岡中学、第四回は一関中学、第五回は盛岡中学が東北代表となったから、やはり東北では岩手県勢が強かった。)
     開催を知っていても時間がなくて関東、北陸では予選を行えず、東京では春に実施した東京大会優勝校の早稲田実業を代表として送り出した。北海道は中等学校生徒の対外試合を禁じていたから参加できなかった。明治四十四年(一九一一)に野球害毒論争というものが起こり、北海道はそれを引き摺っていたのではないか。
     そもそも東京朝日が始めたネガティブ・キャンペーンだったが、背景には応援合戦の過熱による乱闘事件の多発があった。新渡戸稲造や乃木希典が野球の害毒を論じ、安倍磯雄や押川春浪が野球擁護の論陣を張った。この辺の事情は横田順弥・会津信吾『快男児押川春浪』に詳しいのだが、余計なことになってしまう。そして東京朝日のキャンペーンにも関わらず、野球熱は高まる一方だった。全国大会は大阪朝日の主催である。
     結局、予選参加校は九地区七十三校。九地区の代表に東京の早稲田実業を加えて、全国大会に出場したのは十校に過ぎない。秋田中学は二回戦から登場し山田中学、早稲田実業を破って決勝に進出した。相手は京都二中(現・鳥羽高校)である。七回表に一点先取したものの八回に追いつかれ、そのまま延長に入って十三回サヨナラ負けを喫した。これが秋田県勢最初の(そして最後だと思われた)決勝進出である。

     優勝校には優勝旗、銀メダル、選手にはスタンダード大辞典、五十円図書切手、腕時計が贈られた。準優勝校には英和中辞典、一回戦の勝利校には万年筆が選手全員に送られた。しかし大会終了後に、選手に数々の副賞を贈るのはどうかと議論が起こり、翌年からは優勝旗と参加メダルのほかは、おみやげとして大阪名物の粟おこしだけとなった。(ウィキペディア「第一回全国中等学校野球優勝大会」)

     大正四年の白米十キロの値段は一円十銭とするデータがある。現在の白米十キロを四千円とすれば価値はほぼ四千倍で、京都二中の選手各人に贈られた副賞五十円図書切手は二十万円相当ということになる。これはスゴイね。
     そして今年の金足農業だ。良いピッチャーがいるというのは噂で聞いてはいたが、チーム力はそれほど評価されていなかっただろう。逆転ホームランやツーラン・スクイズと、奇跡が起こったようであった。決勝相手の大阪桐蔭は、プロになるために各地から集まった連中である。万が一にも可能性はないとは思いながら、もしかしたらという儚い希望も湧いてくる。判官贔屓によってマスメディアをはじめ全国の同情は金足農業に集まり、投手の吉田輝星は一躍スターになった。メディアのハシャギぶりも只事ではなかった。優勝旗が白河の関を越えることはなかったが、よくやった。

     いつものことだが余計なことを長々と書き過ぎた。やっと本題に入る。旧暦七月二十九日、「白露」の初候「草露白」。最盛期から比べれば暑さもやや落ち着いて来た。
     今日は静岡県の三島である。江戸歩きの会で静岡とは意想外であるが、昨年箱根越えをした時から、スナフキンは三島を考えていたのだ。小田原から箱根まで四里、箱根から三島まで四里を合わせて「箱根八里」と言う。つまり三島まではセットと考えて良い。また徳川家と静岡と考えれば縁は深い。家康は駿府城に拠って大御所政治を行い、大政奉還後は徳川家は駿河・遠江七十万石に転封されているからだ。いずれにしても、生麦、小田原、箱根と続いたスナフキンの東海道篇も、ここが最終になるだろう。
     しかし三島は遠い。新幹線を使えば二時間十五分で行けるが、四千五百二十円かかる。八月は少しお金を使い過ぎたので、できるだけ安く、しかも時間が余りかからないコースを選ばなければならない。スナフキンは、首都圏内どこからでも小田原までは往復二千六百七十円という「休日おでかけパス」を教えてくれた。JRだけを使う人にはかなり安くなるのは間違いないが、計算した結果、鶴ヶ島から池袋まで東上線を使う私には得にならない。
     一番安いのは小田急線で新宿から小田原に行くコースだが、それだと家を五時半過ぎに出なければならない。結局、副都心線で横浜まで行き(東上線からそのまま行けるのだから随分便利になったものだ)、東海道線に乗り換えるコースを選んだ。これなら鶴ヶ島発六時二十五分で良い。新幹線を使うより二千円節約になる。妻はまだ起きてこないので、生卵と納豆、インスタントみそ汁で朝食を済ませ、六時五分に家を出た。
     長旅だから倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』をリュックに入れてきた。一度通読した後の再確認である。歴史学からの正当な批判が、歴史修正(否定)主義者になぜ届かないのかという問題提起の書であるが、解決策は見えない。但し、それらがサブカルチャーを中心としたネットの場で発生したこと、ディベートという「詐術」によって拡散したことは了解できた。学術的に正当な手続きによってほぼ確定している通説に対し、本来なら問題にもならないトンデモ説を対等に扱って二者択一の論を張る。その時点で既にディベートは詐術になる。
     三島駅ではSUICAやPASMOが使えない筈なので横浜駅で切符を買った。三島まで直通で行く電車はなく、小田原行、熱海行き、島田行きと東海道線を乗り継いで九時五十分に三島に着いた。集合場所の南口には既に六人が集まっている。やがて桃太郎と姫もやって来た。桃太郎は同じ電車だったようだが、姫は新幹線で来た筈だ。
     スナフキン、あんみつ姫、ハイジ、マリー、マリオ、ファーブル、ロダン、桃太郎、蜻蛉。「そんな遠い所に行く人いるの?」と妻は疑っていたが、九人は上出来だ。「五六人かなと思ってました」とスナフキンも喜ぶ。今日は横浜のマリオが一番近かっただろう。
     「今朝は朝焼けがきれいだったわ。」ハイジの言葉にマリーも「そうそう」と頷く。浦和から川口の辺りは晴れていたか。鶴ヶ島では起きた時は曇り、駅までの間に傘を差す程ではないが細かい雨が降っていた。「越谷も曇ってましたよ。」
     下土狩に住む友人(高校時代、新浦壽夫の球を打ったことがあると言っていた)がいるが訪れたことはなく、三島については殆ど何も知らない。いつものようにスナフキンが詳細な案内を作ってくれたので、水の美しい町だと初めて知った。三島は東西を東海道が通り、北に佐野街道、南に下田街道が通る交通の要衝である。かつては伊豆国の国府があった。江戸時代には幕府領で、東海道十一番目の宿が置かれた。本陣は二軒、旅籠が七十四軒あり、三嶋大明神の門前町として栄えた。

     「昼飯の候補がいくつかあるんですが、店はそれぞれ離れてる。それによってコースを変えます。」三島ならウナギに決まりだと主張する人は私の友達ではない。小遣いの範囲と言うものがある。奢ってくれるなら友達になっても良い。カレー屋や魚の定食屋なども選択肢に上がっているが、スナフキンの誘導尋問もあって、うどん屋に決まり、最初に楽寿園に向かうことになった。
     「お寺は行かないから。」世古本陣赤門が山門になっているという浄土宗長圓寺のことだ。十分も歩くと楽寿園の入り口に着いた。三島市一番町十九番三号。入園料は三百円。「年寄割引はないのかな?」「ないよ。」「せっかく六十五になったのに、なかなか割引の機会がないんですよ。」ロダンの嘆きはしょっちゅう聞いている。桃太郎のJAFカードも効果がない。

     楽寿園は三島駅のすぐ南に位置した広さ約七万五千四百七十四平米の自然豊かな公園です。
     ここは、明治維新で活躍された小松宮彰仁親王が明治二十三年に別邸として造営されたもので、昭和二十七年七月十五日から市立公園として三島氏が管理運営しています。
     近年湧水は減少傾向にありますが、小浜池やせりの瀬などの天然地泉と、周囲の自然林からなる庭園は、国の天然記念物及び名勝に指定されています。
     園内では、約一万年前の富士山の噴火の際流れ出た溶岩(三島溶岩流)の上に実生した樹木や、野鳥を観察することができます。(パンフレット)

     小松宮彰仁は伏見宮邦家親王の第八王子で仁和寺三十世門跡だったが、明治維新に際して還俗を命じられ、仁和寺宮を名乗って軍事総裁、海陸軍務総督、軍防事務局督、軍務官知事、会津征討越後口総督を勤めた。その後、宮号は東伏見宮に改める。生涯軍人の道を歩き、元帥府に列せられた。
     広大な敷地は樹木で一杯だ。少し歩けば楽寿館だ。「ガイドは十時半なんだよ。」館内の解説があるらしい。それまで少し付近を歩いてみる。「珍しい灯篭があるみたいだ。」「そっちは後で行くから。」
     定刻になって楽寿館の玄関が開かれガイドの女性が現れた。見学者は私たちの他に七八人いる。全員が靴を脱いで中に入ると、ガイドは玄関のカギを閉めた。「ここは京間風の高床式数寄屋造りの建物で、三島市の文化財に指定されています。傷つけないようにリュックなど大きな荷物はここに置いて下さい。」
     「『宮さん宮さん』の歌の宮さんは小松宮だとも言われています。諸説あります。」これにはちょっと首を捻ったが、ガイドに反論するような失礼なことはしない。定説では東征大総督の有栖川宮熾仁親王の筈だ。小松宮説の根拠を知りたい。変な所で引っかかってしまったが、三島には全く関係ないことである。この歌については、西沢爽『近代日本歌謡史』が膨大な史料を博捜して論じていた筈なので、その大部の本を開いてみた。
     『トコトンヤレ節』『トンヤレ節』とも呼ばれるこの歌は、品川弥次郎の作詞、大村益次郎作曲とされているが、一説に弥次郎の馴染みの祇園芸者君尾が節をつけたとも言われる。以下は『都風流トコトンヤレ節』(瓦版一枚刷)から。

    一天萬乗のミかどに手向ひする奴を トコトンヤレ、トンヤレナ
     ねらひはずさずどんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレ、トンヤレナ
    宮さま宮さま御馬の前にびらびらするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ
     ありや朝敵征伐せよとの錦の御旗じや知らなんか トコトンヤレ、トンヤレナ
    伏見、鳥羽、淀、橋本、葛葉の戰は トコトンヤレ、トンヤレナ
     薩土長肥の合ふたる手際ぢやないかいな トコトンヤレ、トンヤレナ(後略)

     「宮さん」とは考えるまでもなく有栖川宮のことだろうと思っていたのだが、そんなに簡単なことでもないようだ。鳥羽伏見の戦いの際に、征討大将軍として錦旗と節刀が与えられたのは仁和寺宮嘉彰親王(小松宮のことだ)であった。この錦旗は大久保利通と品川弥次郎が急拵えででっち上げたものだから、あるいはガイドの説が本当かも知れない。名分のないクーデターに錦旗を持ち出したのが西軍の知恵で、幕府軍はほとんど抵抗できなかった。
     西沢爽も「宮さん」が誰かの考証はしていないが、歌が作られたのは鳥羽伏見の直後であることは証明された。田辺尚雄の回想に「此歌のつくられた動機は、明治元年に東征大総督宮有栖川熾仁親王殿下が、総督西郷隆盛以下官軍を率ゐて進軍されつつあつた時に、奥羽鎮撫総督参謀品川弥次郎(長州藩士)が其軍士の士気を鼓舞する為に作歌されたもの」という文がそのまま引用されている。
     皇族を代表として錦旗を押し立てることがどれだけ効力があるか。それを鳥羽伏見の戦いで品川は気付いたのだろう。だから発想の元には小松宮があったかも知れないが、実際に行軍で歌われ、世間にも流布した際には、誰もが東征大総督有栖川宮を念頭に置いただろう。
     また作曲については、京都の書肆田中文求堂の妻女であった。但し元は花柳界で流行した拳唄の変調であろうと言う。この歌が出来上がるとすぐさま、品川は田中文求堂で大量に印刷させて京都市中の読売にばらまき、東征軍の将兵に歌わせた。

     「良かったら使って下さい」とガイドが言うのは与那国の団扇である。棕櫚だろうか。「クバです。」クバは和名で「びろう」、漢名で蒲葵と言う。ヤシ科で、枝は無く広い葉が長い柄につくから笠や団扇に適している。「どうして与那国なんだ?」「昨年、与那国馬を導入したのです。」今日は行かないが、園内には動物ふれあい広場もあって、カピバラやアルパカなんかもいるのだ。
     溶岩流の敷地に立っているから建物はあちこちに段差があり、坂になった廊下もある。宮が使った書斎、謁見の間、控えの間。襖や杉板戸、天井には数々の絵が描かれている。「皆、帝室技芸員、今の人間国宝の作品です。」
     館内の撮影ができないのが惜しい。銀箔張の襖、円窓の下を一直線に切った十六夜窓、櫛形欄間、蝙蝠の透かし彫りの欄間、縁側の縁桁は十三・五メートルの北山杉等々。これを造るのに、どれだけの金が使われただろう。謁見の間には「鵞」を大書した大きな額が飾られている。ガチョウであるが、その意味が分らない。色々調べた結果、これに由来するのではあるまいか。

     又山陰有一道士、養好鵞。羲之往観焉、意甚悦、固求市之。道士云、「為写道徳経、当挙群相贈耳」。羲之欣然写畢、籠鵞而帰、甚以為楽。其任率如此。

     王義之はガチョウが好きだった。山陰のある道士が美しいガチョウを買っているのを見てどうしても欲しくなった。道士は「道徳経」を書き写してくれたらガチョウは全部進呈すると言う。求めに応じて道徳経を書き写し、ガチョウを貰って帰り、非常に喜んだ。王義之の書は高価なガチョウに匹敵する価値があるということか。
     「国民は苦しんでた時代だよね」とファーブルが囁く。建物が造営された明治二十三年には、教育勅語が発せられ、第一回衆議院議員選挙が行われた。一方で日本最初の経済恐慌(二十三年恐慌)が起きた時期である。松方デフレ終息期の投機的企業設立ブームの崩壊、綿糸紡績業の過剰生産、凶作による米価騰貴などが原因とされている。
     廊下から眺める小浜池も素敵だ。かつては富士山の伏流水が湧き出て枯れることのなかった池だが、昭和三十年代後半から水が減少してきた。「高度経済成長で、地下水の汲み上げが増えたことも原因ですね。宅地化もあります。」今では六七年おきに満水になるそうだ。「満水になれば、あの石段の下まで水が来て、溶岩流は隠れてしまいます。」小松宮はこの池で舟遊びを楽しんだという。「溶岩で座礁するんじゃないのかな。」
     板張りのホールは、小松宮死去の後、李王が買い取ってから増設したものだ。ダンスホールにしてはちょっと狭いと思ったが、「ビリヤード台を置いていました」のことばで納得する。李王は大韓帝国最後の皇太子李垠である。日韓併合後は日本の皇族に準ずる扱いを受け、梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚した。「方子様は昭和天皇のお后候補にもなった方です。」政略結婚ではあるが仲睦まじい夫婦であった。
     昭和二十二年、日本国憲法施行とともに夫婦は皇籍離脱し、無国籍となる。まだ韓国との間に国交はなく、帰国できないまま在日韓国人として暮らしたが、昭和三十七年に朴正煕の韓国政府より夫妻に大韓民国国籍の回復が告示され、翌三十八年、韓国に帰国した。昭和四十五年の李垠の没後も方子は韓国に留まり、障害児教育や福祉に力を尽くした。その功績により、葬儀は準国葬として行われた。自伝『動乱の中の王妃』がある(読んだ筈だが見つからない)。
     似たようなケースに、愛新覚羅溥傑と結婚した嵯峨侯爵家の浩がいる。浩も昭和天皇の后候補になったことがある。溥傑は、清朝最後の皇帝で満州国皇帝溥儀の弟だから、敗戦後の浩の苦労は並大抵ではなかった。最終的には溥傑とともに北京に永住したが、後に長女慧生が天城山で心中する。文化大革命当時は紅衛兵に襲われたこともあった。自伝『流転の王妃』があり(これは本棚に見つけた)、タイトルに相応しい苦難の一生であった。
     「戦後は米軍に接収されて、壁はペンキで塗られてしまいました。」アメリカ人はなんでもペンキを塗るらしい。「そういう文化なんだよ。」文化の違いと言われればそれまでだが、地球上どこに行っても自国の流儀を押し通して疑問を感じない精神構造は、現在のトランプに典型的に表れているだろう。全体が塗られなくて良かった。米軍はダンスホールとして使用した。

     およそ三十分のガイドが終わり、外に出て小浜池の周りを歩く。深池は溶岩流のトンネルの天井が崩壊してできたものと考えられている。鞍馬灯籠は、石が鉄錆色に変色し笠の部分が剥落している。「これが珍しいだろう。」鞍馬山周辺の閃緑岩というものだ。
     赤松(いこいの松)が立派だ。「アカマツが多いですね。」芝生から顔を覗かせる花は何だろう。「ツルボかしら?」姫とハイジの声でマリーがスマホで検索すると、確かにそれである。初めて聞く名前だ。キジカクシ科。

    花期は八~九月で、葉の間から細長い花茎を伸ばし、総状花序をその先端につける。花茎の高さは二十~四十センチ、分枝せず、途中に葉はなく、また花序の基部に総苞はない。花序は細長い円筒形で下から開花して行き、長さ三~十センチ、幅一・五~二センチ。花は密集して並び、長さ三~六ミリの花柄がある。花披片は六個あり、長楕円状倒披針形で長さ四ミリ、先端は尖り、淡紅紫色をなし、平らに開く。雄蘂は六本あり、花糸は紫で先端が細まる。子房には短い毛が三つの縦列になっている。(ウィキペディア)

     朝鮮灯籠は李王が持ち込んだとされるもので、滑らかな石でできている。この石が朝鮮灯篭の特徴なのかどうか分らないが、日本の灯籠にこんなすべすべしたものは見ない。
     「あの赤い花はヒガンバナ?」「そうだね。遠くて良く見えないけど。」川岸に咲いているのは今年初めて見るヒガンバナだった。別のグループの女性が「マンジュシャゲね」と言っているのが聞こえる。最近では珍しい呼び方ではなかろうか。赤い花なら曼殊沙華。池の中には水深計が立っている。かつては三島湧水群の中でも最大規模の湧水量を誇った池である。
     南口から外に出ると「ほたるの里」の案内が立っていた。これだけ水が澄んでいるとホタルも生まれるのだ。小浜池から流れる蓮沼川には「宮さんの川」の看板がたち、川の中に水車とブロンズ像が立っている。
     「源兵衛川は後にします。」五一号線に出ると、白滝公園の入り口には、手押し棒の両側に男女の人形が取りついているのが見えた。二人とも麦わら帽子をかぶり、男児は青い着物、女児は花柄のきものを身に着けている。手押し棒の下は木製の箱で、そこから竹の導管がつながり桶に水が溜まっているが水は出ていない。溜まり水で手を洗っていると、子供がいきなり動き出した。「カワイイ。」「センサーが働いてるのかしらね。」筒から冷たい水が噴出してくる。アルマイトのお椀で掬って飲んでみると旨い。からくり人形は「めぐみの子」と名付けられている。その脇には白滝観音堂がある。
     湧水が滝のように流れることから白滝公園と名付けられたと言う。しかし私たちは公園の中には入らない。ここから桜川沿いの水上通りに並ぶ「水辺の文学碑」を見るのだ。最初に登場したのは大岡信である。

    地表面の七割は水
    人体の七割も水
    われわれの最も深い感情も思想も
    水が感じ 水が考へてゐるに違いない
      (一九八九年刊『故郷の水へのメッセージ』より)

     「大岡信は三島出身なんだよ。」「大岡マコト」と言ったスナフキンの言葉に、「私はシンだとばっかり思ってました」とロダンが言う。「シンと呼んでも構わないだろう。」ロダンが徳川慶喜をケイキさんと呼ぶのと同じだ。
     私は『折々のうた』を断片的に読んだだけで、詳しいことは知らない。確か丸谷才一達と歌仙をやっていたんじゃなかったかな。調べてみると大岡信・丸谷才一・岡野弘『歌仙の愉しみ』(岩波新書)があった。連歌連句からの発想で、「連詩」を提唱した。
     スナフキンはかなり詳しい。平成二十一年(二〇〇九)、Z会文教町ビルに「大岡信ことば館」が開設された時、図書室と記念グッズコーナーの書籍を納入したのだそうだ。だから思い入れがある。私はZ会の通信教育には縁がなかったので、本社が三島にあったことも知らなかった。
     大岡信は昭和六年(一九三一)三島に生まれ、旧制沼津中学から一高を経て東大国文科を卒業した。読売新聞に十年間在籍した後、明治大学助教授、教授、東京芸大教授、日本近代文学館理事、日本ペンクラブ会長などを歴任した。平成二十九年(二〇一七)四月没。「残念ながら、ことば館は去年閉館しちゃったんだ。開館していれば行きたかった。」

    大岡信ことば館の閉館と今後につきまして
     突然ではございますが、この度、大岡信ことば館を十一月二十六日(日)をもちまして閉館させていただきました。
     これまで大岡信ことば館にご来館いただき、大変ありがとうございました。皆様から温かいご支援、ご協力を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。
     今後は、大岡信先生の蔵書・著書・原稿・美術品等を明治大学に寄贈し、同大学にて二〇二〇年開設予定の「大岡信文庫(仮称)」に集結させるとともに、明治大学との協働により先生の功績についての研究や詩歌・ことばに関する文化的講座の開設等を行うことにより、大岡先生の功績を、より多くの人たちに提供していく予定でおります。引き続きご支援を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。(大岡信ことば館)

     公園の側にある歌碑が読めない。「富士の雪。そのあとは?」崩し字が読めない。下の句は読めた。「三島女﨟衆の化粧水」。それなら「富士の白雪やノーエ」じゃないか。その脇に平井源太郎の解説があった。石碑は「富士の白雪の碑」であり、文字は「富士の白雪朝日に溶けて三島女﨟衆の化粧水」だった。七七七五だから都都逸である。

    【農兵節のルーツ】  農兵節の起源には諸説あります。幕末、韮山代官の江川英龍(坦庵公)が三島で洋式農兵調練を行った際に、長崎伝習から帰った家臣・柏木総蔵が伝えた音律が坦庵公の耳にとまり、行進曲として唄い始められたという説、三島宿の人々が当時唄っていた田草取歌が盆踊り歌に発展し、その後尻取り歌「ノーエ節」として流行したのが始まりという説、文久二年(一八六二)に横浜で作られた野毛山節(ノーエ節)が三島に伝わり農兵節になったという説など諸説様々ですが、いずれにしても、大正末期頃に三島で歌われていたノーエ節を洗練し、三島民謡として全国に宣伝を始めたのが平井源太郎と矢田孝之の二人でした。
     その宣伝方法は、東京・大阪などへ赴き、「農兵節」の幟を立て、源太郎は農兵指揮官の装束である韮山笠・陣羽織を着用して大・小刀を腰に差し、近在の若者達と共に農兵踊りを披露し人目を引きました。一方、昭和九年に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコード化しヒットさせています。こうして「農兵節」はレコードやラジオで全国へ広まり、現在でも「三島」といえば「農兵節」といわれるほど有名になりました。(三島市観光情報)
    http://www.mishima-kankou.com/msg/midokoro/10000004.html

     「農兵節だったのか。」ロダンもマリオも感心している。ただ上の記事を読む限り、元はノーエ節であり、昭和初期にそれを農兵節として歌詞を確定したということらしい。歌詞全文を確認してみると、風が吹けば桶屋が儲かる類の尻取り歌である。但し娘島田が登場するのが良く分らない。

      富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ  富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとける
    とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
    三島女郎衆はノーエ  三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆はお化粧が長い
    お化粧長けりゃノーエ お化粧長けりゃノーエ お化粧サイサイ 長けりゃお客がこまる
    お客こまればノーエ お客こまればノーエ お客サイサイ こまれば石の地蔵さん
    石の地蔵さんはノーエ  石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
    頭丸けりゃノーエ  頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃ烏がとまる
    烏とまればノーエ  烏とまればノーエ 烏サイサイ とまれば娘島田
    娘島田はノーエ  娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情でとける

     横浜の野毛山節(ノーエ節)というのは知らなかった。「野毛の山からノーエ 野毛の山からノーエ 野毛のサイサイ 山から異人館を見れば 鉄砲かついでノーエ」という歌詞である。
     農兵と簡単に言うが、これは兵農分離を原則とする幕府兵制の根幹を揺るがす危険思想である。それにも関わらず担庵江川太郎左衛門英龍が農兵採用を強く進言したのは、大名戦力の分担ではもはや海防ができないという危機感にあった。
     但し英龍の生前には農兵は許可されず、調練は行ったが謂わば黙認の形だったようだ。次の代の江川英敏の時、文久三年(一八六三)十月に、韮山代官所支配地に限定して農兵の採用が正式に許可された。文久三年には馬関(下関)戦争が起こり、長州でも高杉晋作によって奇兵隊が創られた。時代の危機感は深かったのだ。
     また三島女郎の起源については、秀吉の小田原攻めの際に集められて定着したと言われる。江戸時代に遊郭があったわけではなく、女郎衆は飯盛旅籠で客を取る飯盛女郎だ。明治になってから遊郭ができ、大正十四年(一九二五)に茅町(旧新地・現清住町)に移転し、昭和三十一年(一九五六)の売春防止法まで営業を続けた。

     次は宗祇「すむ水の清きをうつす我が心」。文明三年(一四七一)頃、宗祇は三島で東常縁から古今伝授を受けた。東常縁は当時最高の歌の権威で、堀越公方に従って伊豆に在陣していたらしい。伝授を受けた宗祇は三島大明神に千句を奉納した。これを三島千句と言う。これによって宗祇は当代最高の連歌師としての格を手に入れた。
     連歌は当初百韻を基本としたが、やがて短縮が試みられ、歌仙(三十六句)、半歌仙などが作られるようになり、江戸時代には俳諧連歌が主流となった。芭蕉の作品の多くも単独ではなく、歌仙の中で詠まれたものである。
     正岡子規によって発句は「俳句」とされ、独立の作品と見做されるようになって連歌は廃れたが、集団によるコミュニケーションの復活を目指したのが大岡信等の活動であったとも言えるだろう。

     三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、町の中央に映画の常設館があって、その前には幟(のぼり)旗が何本かはためいていた。
     私たち山村の少年たちは、ひとかたまりになり、 身を擦り合わせるようにくっつき合って、 賑やかな通りを歩いた。
      「少年」(昭和二十九年(一九五四)発表)より

     これは井上靖だ。生まれは北海道だが、軍医の父の応召で幼時を母の実家の伊豆湯ヶ島で過ごした。湯ヶ島から比べれば三島は大都会だった。その頃を描いた自伝的作品に『しろばんば』があり、昔の少年少女向けの文学全集には必ず収録されていた。

       三島の町に入れば小川に菜を洗う女のさまもややなまめきて見ゆ
     面白やどの橋からも秋の不二  正岡子規

     住宅地と歩道の間を川が流れているから、小さな橋が無数に架けられている。生憎空は曇っていて富士山は見えない。俳句に専念する覚悟を決めた子規は明治二十五年十月十四日、箱根を下って三島に来て相模屋に泊まった。

    三島神社に詣でて昔千句の連歌ありしことなど思い出させば有り難さ身にしみて神殿の前に跪きしばし祈念をぞこらしける。(『旅の旅の旅』より)

     柳の並木が美しい。川に浮かぶ藻を見て、ファーブルは梅花藻と判断した。澄んだ水の中を長さ一メートル程の藻の塊が流れに沿って浮いている。「だけど花が小さいな。」梅の花の形をしていると言うのだが、小さくて良く判別できない。姫は、梅花藻ではなくタヌキモではないかと言う。「食ったことがあるよ。」「これを食べるんですか?」「腹は壊さなかったから毒じゃないと思うよ。」ウィキペディアには、「ウダゼリなどの名称で食用、または薬用に使用されることがあるとされる」とある。
     川にはカルガモが多い。それがみな上流に向かっているのは何故だろう。水が澄んでいるから泳いでいる足が良く見える。川底の藻を食べようとするのか、水中に逆さまになっても流れが急で流されてしまう。何度も何度も一所懸命逆立ちしては流される。ガンバレ。

     水藻流れ身を逆しまに秋の鴨  蜻蛉

       十返舎一九の『膝栗毛』の一節は、三島宿で女に強引に手を引かれる弥次喜多だ。芭蕉「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」。若山牧水の随筆の一節。司馬遼太郎はこんな風だ。

     この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。
     むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のようにそのすきまに多くの水脈をつくった。
     融けた雪は山体に滲み入り、水脈に入り、はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の縁辺である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。(「裾野の水、三島一泊二日の記」より)

     花壇に咲く淡い桃色の花は何だろう。「ニチニチソウです。」初夏から晩秋まで次々に花が開くので日日草と呼ぶ。キョウチクトウ科ニチニチソウ属。白い花もある。窪田空穂「水底にしづく圓葉の青き藻を差し射る光のさやかに照らす」。「オサムチャンだね」とマリオが言うのは、太宰治『老(アルト)ハイデルベルヒ』の一節だ。

    町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛の巣のやうに縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり清冽の流れの底には水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて三島の人は台所に座つたままで清潔なお洗濯ができるのでした。

     『アルト・ハイデルベルク』はヴィルヘルム・マイヤー=フェルスターによる五幕の戯曲で、元になったのは自身の小説『カール・ハインリッヒ』である。ハイデルベルクは主人公カールが青春を過ごした思い出の地であった。昭和初期までドイツ語を学ぶ学生にとって必読書になっていたらしい。

     人間は誰しも、思ひ出のハイデルベルヒを持つてゐる。(太宰治『老ハイデスベルヒ』序)

     帝大生の太宰(二十五歳)は酒屋を営む坂部武郎(作中では高部佐吉)を頼って一夏を三島で過ごし、滞在中に『ロマネスク』(第一創作集『晩年』に収録)を書いた。仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎が出会って兄弟の契りを結ぶ。嘘の三郎こそが、命懸けで人を笑わしたいと願った太宰の自画像だろう。

     ・・・・・三郎はおのれの有頂天に気づいて恥かしく思った。有頂天こそ嘘の結晶だ、ひかえようと無理につとめたけれど、酔いがそうさせなかった。三郎のなまなかの抑制心がかえって彼自身にはねかえって来て、もうはややけくそになり、どうにでもなれと口から出まかせの大嘘を吐いた。私たち三人は兄弟だ。きょうここで逢ったからには、死ぬるとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭越ながら私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。嘘の三郎の嘘の火焔はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらに於いて木葉の如く軽い。(太宰治『ロマネスク』)

     ただ、碑文は三島の良いところだけ抽出していて、下記を省略している。

    昔は東海道でも有名な宿場であったようですが、だんだん寂れて、町の古い住民だけが依怙地に伝統を誇り、寂れても派手な風習を失わず、謂わば、滅亡の民の、名誉ある懶惰に耽っている有様でありました。実に遊び人が多いのです。佐吉さんの家の裏に、時々糶市が立ちますが、私もいちど見に行って、つい目をそむけてしまいました。何でも彼でも売っちゃうのです。乗って来た自転車を、其のまま売り払うのは、まだよい方で、おじいさんが懐からハアモニカを取り出して、五銭に売ったなどは奇怪でありました。古い達磨の軸物、銀鍍金の時計の鎖、襟垢の着いた女の半纏、玩具の汽車、蚊帳、ペンキ絵、碁石、鉋、子供の産衣まで、十七銭だ、二十銭だと言って笑いもせずに売り買いするのでした。

     太宰が三島に滞在したのは昭和九年の夏だから、まだ三島には鉄道が通っていなかった。太宰が降り立った三島駅は現在の御殿場線下土狩駅である。東海道線は静岡県国府津から沼津まで現在の御殿場線を経由していた。駿東郡長泉町下土狩が三島駅だったというのもおかしなことだが、鉄道の走らない三島が、何とかして駅名に三島を残したいと強く願っていたのだろう。
     かつて繁栄した町が鉄道から取り残されたために寂れてしまう例は数多い。この年の十二月、丹那トンネルが開通して東海道線の経路が変更になり、漸く三島に鉄道が通るのだが、まだ三島の中心地は明治以来の衰退を引き摺っていただろう。しかしそんな三島に太宰は心魅かれた。

     三島は、私にとって忘れてならない土地でした。私のそれから八年間の創作は全部、三島の思想から教えられたものであると言っても過言でない程、三島は私に重大でありました。(太宰治『老ハイデスベルヒ』)

     児童文学者の小出正吾の名は誰も知らなかった。「これも三島出身か。大岡信だけだと思ってたのに。」碑文は『ジンタの音』の一節だ。日露戦争後の少年の日々を描いたものだという。「ジンタねエ。」「美しき天然だわね。」
     ジンタッタ、ジンタッタ、あの物悲しい三拍子をジンタと言うのかと私は思い込んでいた。しかしウィキペディアによれば、ジンタとは明治二十年(一八八七)海軍の軍楽隊出身者を中心に三十人のメンバーで結成された「東京市中音楽隊」の愛称であった。やがて族生する少人数の広告請負業の楽隊をジンタと呼ぶようになったが、次第に乱立して衰退に向かいチンドン屋に駆逐された。
     川から立ち上がる石垣に青々とした蔦が絡み、その石垣に「小唄・三味線教授」の看板が取り付けられている。三島女郎衆で知られる三島宿だ。「小唄、端唄、長唄。全然分らない」とマリオが言う。私だって、長唄は歌舞伎に使われるという程度の知識はあるが、小唄、端唄は分らない。
     花壇の縁石に眼鏡が置いてある。こんな所で眼鏡をはずし、そして忘れてしまう人とは何だろう。穂積忠(きよし)も知らない人だ。「町なかに富士の地下水湧きわきて冬あたたかにこむる水靄」。中学時代に北原白秋門下となり、国学院では折口信夫に師事した歌人であった。三島南高校校長在職中に死んだ。俳優の穂積隆信はその息子である。文学の碑はここまでだ。

     「三島大社は後にして食事にしましょう。」スナフキンは何度か店に電話を試みるが出ないようだ。「忙しいのかも知れない。」右に曲がって桜小路に入る。「ノーリツ号だよ。」シャッターが降ろされた店のモルタル壁にその文字が書かれていた。ファーブルは知らないようだ。「自転車だよ。」昭和初期の実用車である。昔の実用車は重かったし、変速機もなかった。高校に通い始めた頃、父が昔乗った実用車を使ったのだが、坂道がきつかった。
     赤橋という名の小さな太鼓橋を渡る。江戸時代には駿豆五色橋の一とされたと言う。流れる川は御殿川。橋の袂には柳の木。
     すぐに目的のうどん屋「まるかつ」の看板が見えた。本格的讃岐うどんが売りの店である。しかし中に入ったスナフキンがやっと出てきたと思ったら顔が暗い。「満員なんだ。仕方がないから取り敢えず神社に行こうか。」まだ十一時半だが有名店なのだろう。「今はネットが発達してるから。」
     道を戻る途中で姫が「鎌倉古道」の碑に気が付いた。緑の鉄柵を閉ざした豪邸のような医院の前である。大通りに戻って正面に三島大社の鳥居を見たが、他に店がないかどうか、右に曲がってみる。「ラーメン屋が空いてる。」「今日はちょっとラーメンはダメです。」「寿司はどうかな?」「あそこは会席料理って書いてるから高いよ。」その先に回転寿司があった。「それじゃ回転寿司は?」それに決まった。
     大社町西交差点の角に建つ「はま寿司」三島中央店である。三島市中央町三丁目三十七番。十一時五十分。五人と四人に分れて座る。回転寿司なんて、子供が小さい頃に一度入ったきりだからもう三十年近く前のことで、勝手がまるで分らない。ロダンが湯飲みにお茶の粉を入れてお湯を注いでくれる。「どのくらい入れればいいか分らないけど。」
     「取り敢えずビール飲もうよ。」注文は全てタッチパネルでする仕組みだ。ビールがやってくると、隣の席で女性陣と一緒になった桃太郎が、「ビールはどうやって注文すればいいの?」と訊く。女性陣は寿司の注文に忙しくて、なかなかビールまで回ってこないのだ。
     「マグロが回ってきたら取ってよ。」私は回転レールから一番遠いので直接取れないのだ。「きたよ。」随分小さな寿司だ。機械で丸めたシャリの上に、刺身の薄片を載せただけだ。サビ抜きだから、わさびは自分で、納豆についてくるカラシの小袋のような小さな四角い袋からひねり出さなければならない。そうか、回転寿司屋の主役は子供なのだ。スナフキンとロダンが注文と皿を取る係になって忙しい。
     途中でトイレに立って窓の外を眺めると雨が降っている。それもかなり激しく降っているようだ。「それじゃ少しゆっくりしようか。女性はデザートでも食べて貰って。」「お皿はスナフキンに回せばいいのね。」「そんな。」
     「さんまを注文してください。」ファーブルの注文に、ロダンがタッチパネルを操作してもなかなか検索できない。隣のテーブルでは桃太郎も苦労したらしい。カッパ巻はあるが鉄火巻はない。貝の三種握りを食べる。
     十二時半になった。後の行程もあるからそろそろ出なければならない。「勘定はどうする?」「割り勘でいいんじゃないの?ビールは別で。」しかしやってきた.店員は、「おひとりづつにしますか?」と訊いてくれる。それは有り難い。私は百円の皿が五枚、百五十円の皿(貝の三種)が一枚、それに中ジョッキを入れて千二百二十円だった。それぞれ六枚から七枚を食べていた。桃太郎の皿は少ないようだ。

     雨はやや小降りになっている。三嶋大社は伊豆国の一宮である。三島市大宮町二丁目一番五号。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)である。大山祇は国土開拓の神、事代主はオオクニヌシの子で恵比寿とも同一視される。この二柱を三嶋大明神とする。

     御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。
     中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願しました。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなりました。この神宝の中でも、頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる 国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」は、当時の最高技術を結集させたものとして知られています。
     頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置し、伊豆国一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていきました。(御由緒)

     三島は、伊豆諸島を「御島(みしま)」と尊称したことによると言われる。

    三嶋は、「御島」から変化したもので、もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。噴火や造島を神格化したものだと思われる。
    三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
    延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。(玄松子の記憶「三嶋大社」)
    http://www.genbu.net/data/izu/misima_title.htm

     また別に、伊予一宮の大山祇神社(今治市大三島町)の三島神を勧請したとの説もある。それが大山祇を祭神とする理由だ。こちらの大三島も御島に由来すると言われる。
     大鳥居の両脇の常夜灯には「角切三」の紋。鳥居を潜ると、右手には「たたり石」がある。たたりは「絡垜」と書き、本来は糸のもつれを防ぐ道具である。東海道の往来が頻繁になり、混雑を防ぐために東海道の中央に置かれたものだという。やがてそれが祟りの意味に置き換えられたのだ。
     池の前には若山牧水歌碑が建っていた。牧水の歌碑は全国至る所にある。牧水は大正九年には沼津町在楊原村に住んでいて、大正十年八月十五日の三島大社夏祭りの花火を見て詠んだ。

     のずえなる三島のまちの上げ花火 月よの空に消えて散るなり

     神池には厳島神社を祀ってある。総門を潜る。左の端に矢田部式部盛治大人の像がある。「大人」は勿論「うし」と読むのだろう。嘉永七年(一八五四)の東海大地震の際の神官である。倒壊した社殿の再建のため全国に勧進行い、一万六千六百七十六両を集めたらしい。立て札の説明では本人自身がその巨額を投じたように書いてある。
     神門の手前右手には神馬舎、神門を潜れば中央に舞殿、そして拝殿へと続く。拝殿の上の彫刻には網がかかっている。「網がなければいいのにね。」本殿はかなり大きい。流石に伊豆国一宮である。賽銭箱の紋は五七桐。蚊に刺されたようで肘の辺りが痒い。
     樹齢千二百年という天然記念物の金木犀の巨木は、まだ花は咲いていない。満開の時期には八キロ先まで芳香が香ると言うが本当だろうか。その右奥に芭蕉句碑があった。

     どんみりと楝(あふち)や雨の花曇  芭蕉

     元禄七年(一六九四)五月十四日、芭蕉は三嶋大社に参拝し、群生する楝(栴檀)を見て、江戸で病床にある妻・すての身を案じて詠んだと説明されている。「すて」とは寿貞尼のことだろう。寿貞尼は六月二日、深川の芭蕉庵で死んだ。その知らせが届いたのは芭蕉が京都嵯峨落柿舎に着いた頃だった。七月、伊賀上野の松尾家の盂蘭盆会で芭蕉は寿貞尼を偲んで句を詠んだ。

     数ならぬ身となおもいそ玉祭り  芭蕉

     そしてその年の十月十二日、芭蕉も逝った。いったんは止んでいた雨がかなり激しくなってきて、マリオ、ハイジ、私以外は雨具で完全武装する。「私も持ってきましたよ」とロダンもビニールの合羽を取り出す。暑くはないか。私はビニール風呂敷でリュックを覆った。
     「それじゃ行こうか?」「ちょっと待って。マリオは?」いない。「見てきますよ。」ロダンは客殿から社務所の方に歩いて行った。鳥居のところで待っているのではないか。いた。「ロダン、いたよ。」

     街並みがかつての街道のような雰囲気になってきた。ここが旧東海道だ。三島中央町郵便局の脇に「問屋場址」の小さな碑が建っていた。三島市中央町五番地五。その先には「世古本陣跡」。三島市本町二丁目。かつての本陣の門が今は長圓寺の門になっていると言う。世古本陣は一の本陣と呼ばれ、安政四年(一八五七)タウンゼント・ハリスも宿泊した。「向かいにももう一軒本陣があったんだ。」樋口本陣である。つまりここが宿場の中心だったのだろう。
     膝から下がびっしょり濡れてきた。冷たい。しかし雨はいったん止んだ。街道側にはうなぎ屋「桜家」(三島随一の有名店らしい)があり、その奥の川沿いに神社がある。三石神社。三島市広小路町十二番三。石造明神鳥居と小さな社殿があるだけだ。

    この神社には豊受姫大神が祀られていて、大中島町の氏神です。昔、源兵衛川の川沿いに三石(みついし)という巨石があり、その上に社殿を建て稲荷社を祀り、三石神社となりました。古記によれば天明年間(一七八一~一七八九)に、隣村の新宿(しんしゅく)の出火で大中島町(現、本町)や三島宿の大半が類焼したときに、火防(ひぶせ)の神も併せ祀ったようです。

     時の鐘はコンクリートで造られているから、川越や岩槻のものとは違う。「石町の鐘に似てますね。」姫の言葉で思い出した。日本橋本石町、伝馬町牢屋敷のところだった。明け六つ、暮れ六つの二回鳴らされたが、太平洋戦争中に供出された。現在の鐘は二代目である。
     川は源兵衛川だ。源兵衛川は楽寿園内の小浜池から流れだし、中郷温水池に注ぐ全長一・五キロの農業用水である。戦国時代、地元の豪族寺尾源兵衛が開鑿したと伝える。今年、フランスに本部を置く民間シンクタンク「世界水会議(WWC)」が主催する世界水遺産に登録された。一昨年には世界灌漑施設遺産にも登録されている。これらにどの程度の権威があるのかは分らない。
     伊豆箱根鉄道の踏切の脇から川に下りると水辺の散歩道になる。川の中には木道がつくられ、それが途切れた所は石(直径五十センチほどの円柱石)がいくつか置かれ、それが交互に続いている。水量はそれほど多くはないのだろうが、流れは結構速い。石の周りは水が渦を巻いているようで、目が回ってくる。大丈夫かな。バランス感覚がおかしくなっている。コワイ。雨が止んでいて良かった。恐る恐る歩きながら、それでも橋の前まで辿り着いた。橋の向こうの木道は水に沈んでいる。
     「ヤマブキじゃないですか?」「八重山吹、狂い咲きでしょうかね。」ここからは川沿いの遊歩道を歩く。また雨が落ちてきた。小さな水車のある養殖池のようなところが梅花藻の里だ。三島市南本町七番地。水車は水を循環させているのだろう。「これがバイカモですよ。」なるほど、さっきのものよりは花が大きくて、確かに梅の花の形が分る。一九三〇年に小浜池で発見され、ミシマバイカモと名付けられた。キンポウゲ科キンポウゲ属。
     「でもここだけしかないんですよね。」栽培増殖している面積は狭い。かつては市内の川であればどこでも見られたが、高度経済成長時の湧水減少と水質悪化でほとんど見られなくなったという。ここで見られるようになったのは、水質改善の努力である。

     湧水の減少と水質悪化により市内の川から姿を消した水中花・ミシマバイカモを復元、育成するために、一九九五年に佐野美術館所有の湧水地を借り、増殖基地・観光スポットとして環境整備を行いました。現在では増殖したミシマバイカモを各河川に移植し、原風景の再生をすすめています。
     五月~九月頃にはウメに似たかれんな小さな花を見ることができます。

     「佐野美術館は行きません。たいしたことないんだ。」スナフキンは最後のバス時間を気にしているのである。佐野美術館とは、佐野隆一のコレクションを中心とした美術館である。佐野隆一とは誰であろう。

    明治二十二年三島に生れ幼少年期を三島で過ごし、明治四十三年東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業。大正十四年鉄興社創立以来、日本カーボン㈱、東邦アセチレン㈱等の社長等を歴任し、産業界に大きな功績を残すとともに勲二等瑞宝章を受章した。
    特に三島において郷土のために多額の浄財を寄付し、佐野母子寮、緑町佐野保育園、佐野学園、各小学校のプール等の建設などに多大に貢献するとともに、昭和四十一年に佐野美術館を設立し、市の文化の発展に大きく寄与した。(三島市「名誉市民」)

     雨が止んだ。五一号線を南に下り、三島玉川の交差点で歩道の青信号を確認し、急いで横断歩道に入ったところで突然クラクションが響いた。なんだ。良く見ると、左折待ちの車が私たちを脅しているのだ。歩道の信号は確かに青である。何を考えているのか。「女性でしたね、五十代位の。きちんとした服装でした。」横断歩道を渡りきった時、信号が赤に変わった。
     「ここから三十分位です。」雨が上がると日差しが強く照りつけ暑くなってきた。マリオは「日傘で」と傘を差したまま歩いている。ハイジも「晴雨兼用です」と傘をさしている。それなら私も傘を開こう。乾いてくれれば丁度良い。
     十五分程歩いたところで、スナフキンが作業服や安全靴を売る店に入っていった。道を確認するのかな。ここで雨具完全武装陣は雨具を外す。ファーブルは何枚着ていたのだろう。漸くスナフキンが出てきた。「ゴメン、ゴメン、戻ります。どうも風景が違うと思ったんだ。下見の時にもあちこち歩きまわったんだよ。」田んぼはまだ青々としている。「静岡だからもう稲刈りをしてると思ってました。」
     傘もズボンの裾も完全に乾いた。結局さっきの信号まで戻って左に曲がる。往復で三十分は歩いたろう。二キロほどになるか。「この往復が無駄だったな。」「さっき、信号でイジワルされたせいですね。」
     国道一号線だ。十五分程歩き、やっと柿田川公園に辿り着いた。駿東郡清水町伏見。三島市から外に出たことになる。長屋門を潜り、最初に休憩所にリュックをおろし水汲み場で水を飲む。冷たくて旨い。ついでに頭から水を被る。溢れ出た水はそのまま池に入る。片隅のベンチに灰皿を置いてあるのは親切だ。ここでお菓子と飴が配られる。池の上を大きなヤンマが飛んでいる。
     売店に豆腐の文字が見えたので入ってみた。水が良ければ豆腐も旨いはずだ。冷奴でも売っていないか。しかし売っているのは豆腐アイスクリームだった。アイスクリームなら私に縁がない。ザクロの実が生っている。一休みして出発する。
     泉頭城の解説板がある。「城があったんだ。」弘治年間(一五五五~一五五八)北条氏政によって対武田の守りとして築城された。柿田川のいくつかの支流に沿って曲輪が造られていたようだ。

     元和元年(一六一五 年)十二月家康の目にとまり、「泉頭城」の古跡が景勝地であるため、自身の隠居所としようと縄張りを命じましたが、翌二年(一六一六年)四月家康の死により中止となり、再び築城されることはありませんでした。(静岡県企業局)

     森の中に入ると涼しくて気持ちが良い。「雨上がりだから余計きれいだね。」芝生広場から第一展望台に降りる。展望台とは普通上るものだと思っていたが、ここでは石段を下るのだ。姫もなんとか降りてくる。下に着いて意味が分かった。川底から水が湧きだしているのが良く見えるのだ。「湧き間」と呼ぶ。川底の砂が舞い上がるように水が噴出している。

    柿田川は清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」からの湧水に源を発し南へ流下、清水町役場付近で狩野川に合流する。流水はほぼ全量が湧水から成り、これは富士山への雨水や雪どけ水が三島溶岩流に浸透し、その先端部から湧き出でたものである。(ウィキペディア「柿田川」より)

     第二展望台に下る階段の手すりに触りながら降りていたファーブルが「オッ」と手を放した。立派なカタツムリが止まっている。珍しい。展望台から見る湧水の規模が大きい。湧き間は水面近くまで直径七八メートル程のコンクリートの円で囲まれ、そこから噴出した水が川に溢れ出す。水の色が真っ青だ。ここが柿田川の最上流なのだ。湧き出した水が川になって流れていく。

     真青なる水湧き溢る秋の川  蜻蛉

     一日の湧水の量は百万トンとも百二十万トンとも言うからスゴイ。ここから狩野川まで一・二キロは、一級河川として日本で最も短い。紫のシャツを着た団体は何者だろう。人口の水遊び場では子供たちが遊んでいる。「アーッ、お尻までびっしょり。」
     「カワトンボがいました。きれいでしたよ」と姫が言う。湧き水の池があちこちにある。「三時二十五分のバスに乗りたいから、あまりゆっくり出来ないんだ。」「イヤー、いいものを見ましたね。」「心が洗われた?」とロダンに声をかける。ハイジが笑う。「いつもドロドロな心がね。」三島は良い町だった。スナフキンが計画してくれなければ一生無縁だったろう。「今日は一万八千歩ですね。」十キロちょっとだ。
     国道を横断してエディオンの前で待つ。バスは定刻通りに来た。「SUICAは使えるかな?」使えない。整理券を取って後払いする方式だ。ここをバスが通るのかと疑わしいほどの住宅地の道を走り、大通りに入った。
     「あれが例のスルガ銀行。」この事件で浮き彫りにされたのはサブ・リース問題である。家賃収入を保証して土地オーナーにアパート、マンションを建てさせるやり方で、テレビCMでも大手不動産会社が競っている。しかし借り手がいないアパートの家賃をいつまでも保証できるわけがないのは明らかであろう。これは一種の詐欺ではないか。但し土地があるだけで、楽をして儲けようと思う人たちに私は同情しない。
     二十分程で三島駅に戻ってきた。二百円なり。
     SUICAが使える筈だと言う人もいる。「全国で使えるようになったんですよ。」「来るときは大丈夫だったよ。」それはおかしい。念のために駅員に訊いてみた。「使えません、券売機で切符を買ってください。」一つのエリア内ならどのカードでも使える。

    「TOICAエリア」、「Kitacaエリア」、「PASMOエリア」、Suicaの「首都圏エリア」「札幌(SAPICA)エリア」「仙台エリア」「新潟エリア」、「manacaエリア」、「PiTaPaエリア」、ICOCAの「近畿圏エリア」「岡山・広島・山陰・香川エリア」「石川・富山エリア」、「はやかけんエリア」、「nimocaエリア」、SUGOCAの「福岡・佐賀・大分・熊本エリア」「長崎エリア」「鹿児島エリア」「宮崎エリア」のいずれか一つのエリア内で完結するご乗車にのみご利用になれます。(JR「交通系ICカードの全国相互利用サービス」)

     「一つのエリア内で完結する」のが条件で、異なるエリアをまたがっては利用できないというのだ。なんだか変だな。東京からだと東海道線の熱海、および伊豆急行の伊東までが「一つのエリア内」になるらしい。小田原までの切符を買う。
     姫は新幹線で帰って行った。残り八人は熱海行きに乗る。ロダンだけが座れなかったが、函南で座れた。ここからトンネルが始まる。「この辺もいいところなんだよ」とスナフキンは言うが、なかなか来られるものではない。
     熱海で降りる。国府津行が停まっているがこれに乗ってはいけない。国府津は小田原より一つ東京寄りだから知らないと間違えてしまいそうだ。「御殿場線だから、ぐるっと回るよ。小田原には行かないんだ。」
     「熱海も良いところなんだよ。」熱海は昔の社員旅行で何度も来たところだ。但し、麻雀と酒で終始したから、「良い所」には余り行っていない。熱海や伊豆は一泊して温泉に入る所なのである。
     次は東海道線ではなく湘南新宿ライン高崎行きである。電車を待つ間に、ホームの建物の陰でシャツを着替える。「気を使ってるんだね。」「ハイジに裸体を見せるわけにはいかないからね。」それにしても、こんな所から高崎まで直通で行けるのだ。
     一本で行けるハイジはボックス席に座りたいと、ホームの端に向かった。旅の気分を味わいたいのだろう。私たちは何も考えずにやってきた車両に乗り込む。この車両にもボックス席はあり、桃太郎、スナフキン、ロダンがそこに座った。途中でうとうとしてしまった。
     小田原駅に着いた。「ボックス席でビール飲んじゃいましたよ」と桃太郎が嬉しそうに言う。「蜻蛉も誘うかと思ったけど、優先席だったから。」優先席でビールを飲むのはかなり勇気がいるに違いない。
     スナフキンは迷いもせずに路地に入って行く。突き当りにはもうお馴染みになった北条氏政、氏輝の墓が見えた。ファーブルに教えると、「こんなところに?」と驚く。駅前の飲み屋街の真ん中だから普通の人は驚く。私だって最初に見たときは驚いた。「そこを左に回り込んだところだね。」マリオも店の場所を思い出した。  路地を左回り込めば目的の海鮮問屋ふじ丸である。「箱根の後も来たんじゃなかったかな。」三年前の小田原散策の時が初めてだから、それなら三回目か。以前は石油缶に蓋をしたような椅子だったが、それは少なくて、殆どがちゃんとした木の椅子になっている。
     「小田原を歩いたのはいつだっけ?」「二年前じゃないかな。」記録を紐解けば平成二十七年(二〇一五)九月だから三年前になってしまった。「碁聖が亡くなった年だね。」それが八月二十七日だった。「一緒に行きたかったんだよな。」
     「ビールは何?」ピュアモルツだ。「それなら大丈夫。」アサヒが飲めないというファーブルも面倒臭い。「夢の海鮮盛り」九百九十円を二つ。「夢だぜ。」一皿が三人前程と言うが、かなりの量だ。「だけど、それぞれ二切れじゃないか。」それでも良い。焼酎に移ると、桃太郎は最初の一杯をテーブルにぶちまけてしまう。「イヤーネ、蜻蛉みたい。」ここで私を引き合いに出すことはないだろう。メカジキのアラ煮もちょっと甘めだが旨い。
     この時点で大坂なおみの決勝戦の結果はまだ知らない。決勝の相手は復活してきたセリーナだからどうなるか分らないが、全米オープンの決勝に進出しただけでも歴史的な快挙である。「だけどスゴイいよ。」「大阪出身だろう?」「おじいちゃんが根室漁協の組合長だよ。」それは私も知っている。(そして本当に優勝してしまった。)
     残念だったのは、肉豆腐を注文してなかなか出てこなかったことだ。業を煮やして聞いてみると品切れだとニコニコしながら言う。それはないだろう。品切れならばすぐに報告するのが筋である。私の胃袋は肉豆腐を食うための準備態勢に入っていたのだ。こういう時、私の声が大きくなるのは良くない傾向だ。老いであろうか。「メカジキのアラ煮をください。」ファーブルは余程気に入ったのだろうか。
     「俺は何月だっけ?三月かな。」「蜻蛉は一月ですよ。」勘違いをしていたようだ。それならもうそろそろ候補を考えなければいけない。まだ何も考えていないのだ。焼酎を二本空けてお開き。
     来た電車はまたしても高崎行きだ。桃太郎、マリオファーブル、スナフキンは途中で降りて行った。ロダンはすっかり寝ている。池袋で降りる時、「赤羽でロダンを起こしてやってよ」とマリーに声をかけていると、ロダンが起き上がった。「埼京線に乗り換える。」湘南新宿ラインは武蔵浦和には停車しないのだ。一緒に階段を下りたが、実は埼京線は今降りた電車と同じホームだった。
     東上線に乗り換え、鶴ヶ島に着くと小雨が降ってきた。折角乾いた傘をまた出さなければならない。十一時過ぎ帰宅。長い一日であった。


    蜻蛉