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    第七十九回 立川
      平成三十年十一月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.11.27

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     今日は旧暦十月三日。立冬の初候「山茶始開(さざんかはじめてひらく)」。十日ほど前に引いた風邪がなかなか完治しない。痰が切れず洟もでるからポケットティシューを大量にリュックに入れてきた。それでも立冬だというのに今週は比較的暖かな日が続いた。昨日だけは冷たい雨が降ったが、今日は再び二十度を超える予報が出ている。
     集合はJR立川駅だ。立川駅に降り、トイレを探しているとヤマチャンと出会った。「大宮から直通があるんですね?」「むさしの号だろ。」「知ってましたか?」私も二週間前に初めて知った。トイレは仮設だった。そこにマリオもやって来た。
     今回のリーダーはロダンだ。椿姫、あんみつ姫、ハイジ、マリー、ヨッシー、ハコサン、マリオ、スナフキン、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の十二人が集まった。椿姫は六時に起きて出てきたと言う。「俺は家を九時半に出て来たよ。」スナフキンが一番近い。ハコサンはずいぶん久し振りだ。「ファーブルはどうしたの?」「今週は札幌に行ってる筈だよ。」「忙しいな。」
     実はここから歩き始めるのではなく、多摩モノレールに乗ることになっている。私にとっては初めてのモノレールは、南は多摩センターから、北は東大和市上北台まで多摩地区を南北に縦断して十六キロを走る。
     それにしても上北台とはなんとも中途半端な場所ではないか。「埼玉までつなげる積りだったんじゃないかな。」「所沢の方かな?」しかし上北台からまっすぐ北に線を引けば狭山湖にぶつかってしまうので、実は西に折れて箱根ヶ崎まで用地取得が進められているらしい。
     JRの北口から出ると、ペデストリアンデッキに直結したビルはヤマダ電機だった。ロードサイド店だけでなく、今は駅前のビルを丸ごと買い取って商売しているらしい。二三分歩けば立川北駅で、エスカレーターを上がって改札口に来た。「アラッ、お姉さんはどうしたのかしら。」「もう迷子になっちゃったのかな。」幸い椿姫はすぐにマリーと一緒にエスカレーターでやって来た。一駅乗って降りたのは高松駅、運賃は百円だ。途中でIKEAが見えた。「この先にららぽーととか、大坂なおみがやったテニスコートがあるんだよ。」アリーナ立川立飛である。

     駅舎を出ると広い道路が貫通し、新しいマンションや公的機関らしい建物が見える。まだ空き地は多そうだ。目の前にあるのは大きな裁判所だ。東京地裁立川支部である。一帯は広大な米軍基地跡で、昭和五十二年(一九七七)の全面返還後に再開発された地域である。
     戦前は陸軍立川飛行場だった。陸軍航空部隊の中核拠点として飛行第五連隊が置かれたが、昭和十三年(一九三八)飛行第五戦隊へと改変され柏に移転したから、太平洋戦争中は実戦部隊は不在だった。その代わり研究・開発の拠点として立川陸軍航空工廠となり、周辺には立川飛行機や日立航空機、昭和飛行機工業など多くの軍需工場があった。
     つまり空襲の大きな目標になったので、昭和二十年二月十六日以降、立川は十三回にも及ぶ空襲を受けた。勿論これは立川市に限らない。八王子を始め多摩地区の多くが同様の被害を受けている。
     普通の商店は全く見えない。この辺の住民はららぽーとで買い物するのだろうか。余り住みたいとは思えない街だ。ここに国立国語研究所や国立極地研究所などの国の機関が移っていたなんて知らなかった。私は筑波に集中させる方針だと思っていたが、筑波への研究機関の移転は昭和五十五年(一九八〇)に終了していた。
     ロダンの最初の目的は南極・北極科学館である。立川市緑町十番三号。国立極地研究所の広報展示施設である。「食堂がないから職員は大変なんだよ。」食堂が維持できるだけの職員数がいないとスナフキンは言うのだ。「昔のことだから、今でもそうなのかは分らないけど。」現在の研究所の職員数は二百二十七人。家賃、水道光熱費、人件費などを考えればとても食堂が経営できる規模ではない。
     入口を入ると床には白く大きな南極大陸が描かれている。「ここが昭和基地でしょ?」「こっちがさ。」声が煩い。展示室では南極大陸の大きな地図を前にして、私たちより少し前に入った団体に研究員が説明しているので一緒に聞かせてもらう。
     白瀬矗が使った防寒服が展示されているので、秋田県人としては気になるところだ。「由利の記念館から戴いたものです。」白瀬矗は文久元年(一八六一)、出羽国由利郡金浦村(現・にかほ市)に生まれた。私の父の先祖は由利郡矢島(由利本庄市)、母方は由利郡亀田(由利本庄市)の出身だから、なんとなく親近感がある。陸軍教導団を卒業して、輜重兵として陸軍に入る。郡司成忠大尉の千島列島探検隊に同行し、郡司の命により占守島で二年越冬して壊血病に罹って苦労した。越冬者四名中白瀬以外の三名は死んでいるのだ。日露戦争で負傷し、帰国後中尉に昇進したのが最終階級となった。
     明治四十五年(一九一二)一月十六日、白瀬は南極大陸に到着し「開南湾」と名付けたが上陸には不向きだったため、クジラ湾から再上陸した。この間に隊では内紛が絶えず、白瀬毒殺未遂事件もあったと言う。一月二十日、隊員のうち五人が二十九頭のカラフト犬の曳く犬橇二台に分乗して極地に向け出発した。既にノルウェーのアムンセン隊は南極点に到達し帰還の途にあった。先を越された英国のスコットは南極点に到達し、アムンセンが残した手紙を持ち帰ったが、帰還途中で全滅した。白瀬隊は九日間で三百キロ進んだ地点で極点到達を諦め、南緯八〇度五分・西経一五六度三七分の地点一帯を「大和雪原」と命名し、日章旗を掲げた。「どこの国の地図でもヤマトセツゲンと書かれています」と解説員が話す。
     ノルウェーや英国の探検隊は国家的事業として行われたが、日本政府が白瀬隊に支給したのは三万円のみで、残り十四万円は国民の義援金によって賄われた。しかし資金は充分ではなく、積載量僅かに二百四トンの中古木造帆漁船を買い取って、中古の蒸気機関を取り付けた。現地での輸送力は二十九頭のカラフト犬だけである。その時に使われた犬橇も展示されている。
     二月四日に南極を離れる際には海が大荒れとなり、カラフト犬二十一頭を置き去りにせざるを得なくなった。このため樺太出身のアイヌの隊員二名は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告された。
     ニュージーランドのウェリントンに到着した時には、隊の内紛は修復不可能なまでに悪化していた。そのため白瀬ほか四名は貨客船に乗り、残りの隊員は開南丸に乗り込み、とにもかくにも全員が無事に帰国した。内紛の原因は明らかではないが、白瀬の性格によるとも推測されている。乏しい資金のため装備は劣悪で、過酷な航海であったことが、様々な不満を生んだのではないか。
     帰国後、後援会が使い込みをしていたことが発覚し、白瀬は個人で四万円の借金を背負うことになった。自宅を売り、南極での実写フィルムを抱えて全国はもとより台湾・満州・朝鮮を講演行脚し、およそ二十年後にようやく借金を返済した。晩年は不遇で、昭和二十一年(一九四六)、次女が間借りしていた愛知県豊田市の仕出し屋の一室で死んだ。先覚者ではあるが悲運の人でもある。
     その後の日本の南極観測は、昭和三十一年(一九五六)の第一次南極地域観測隊(永田武隊長)を始めとして現在まで六十次に及んでいる。日本人として初めて南極点に到達したのは、昭和四十三年(一九六八)第九次越冬隊(村山雅美隊長)である。
     黒塗りの雪上車は第七次探検隊(一九六七~一九六八)が往復五千キロ、五か月の間使用したものだ。但しこの年はまだ極点には到達できず、翌年の第九次探検隊でやっと到達した。車内の両側に狭い二段ベッドが二組作られているが、立てば頭がつかえてしまう。こんな車で五か月も生活したのだ。しかもこれでは四人しか乗れないではないかと思ったのは早とちりで、四台の雪上車に十二人が分乗した。
     「メーカーはどこかな?」ハコサンはこういうことが気にかかる。「コマツだ。」キャタピラーで移動する車である。「自分は雪上車に乗ったことありますよ。サスペンションがないから痛くて。」桃太郎はスキー場で乗ったのだろう。昭和基地の隊員用個室が再現されている。小さな机とロッカー、はしごで上るベッドがあるだけの四畳半程度の部屋だ。ほとんど子供部屋に近い。
     南極の氷に触れることができる。厚さ二センチ、長さ十五センチ程の氷片である。「耳に当ててみな。」スナフキンの言葉で耳に近づけると、発泡する音が聞こえる。しかしこんなにしていては、すぐに溶けてしまうのではなかろうか。「いっぱいあるんだよ。」
     オーロラシアター。直径四メートルほどのドームの中で、椅子は六脚ほどしかないから、全員は見られなかったかも知れない。「癒されるね。眠くなっちゃったよ。」音楽が流れる中で、天井に映し出される三百六十度の天空を眺めるのだ。二〇一二年九月三日の晩に昭和基地で撮影されたオーロラである。
     姫はミュージアムグッズを買おうとしたが係員がいない。受付に行くと、「今係員が参ります」と応える。「日本だけですね、こんなに無防備なのは。」ヨッシーも何かを買ったようだ。
     建物の外に出ると、蜂の巣岩(黒雲母片麻岩)が面白い。昭和基地から持ち帰ったもので、強風と飛んできた流砂によってできたと考えられている。こういうものは椿姫の世界だ。
     「これは東京タワーの下にあったものです」とロダンが教えてくれるのは、カラフト犬十五頭のブロンズ像だ。大分前に見たことがある。第一次南極地域観測隊(一九五七~一九五八)に同行したカラフト犬十五頭である。このうち、タロとジロだけが生き残った。昭和三十四年(一九五九)その慰霊のために、日本動物愛護協会(港区)が東京タワー敷地内に設置したものだ。「ヤマチャンが案内してくれた時はもうなかったよね。」平成二十五年十一月二十三日に、移転竣工の記念行事が行われた。「どれがタロだか分らないな。」
     しかし平成三年(一九九一)に採択された「環境保護に関する南極条約議定書」の「附属書II」の規定によって、南極への動物の渡航が禁止されたので、現在、犬橇は使われない。

     次は国文学研究資料館に入る。ロダンがこういう場所を選ぶのは珍しいが、私はこの資料館の存在を知らなかった。国立大学法人総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻が設置されている。館長はロバート・キャンベルである。

     二〇一〇年六月、国の重要文化財に指定された「春日懐紙(紙背春日本万葉集)・附中臣祐定書状案(紙背春日本万葉集)」をはじめ、およそ二十万点に及ぶ日本文学の原典資料・貴重古典籍のほか、国文学に関する書籍、専門雑誌、更に絵画資料等を多数所蔵している。また日本実業史博物館設立準備室旧蔵資料をはじめとする渋沢敬三収集諸資料(渋沢コレクション)、真田家・津軽家・蜂須賀家などの旧大名家・旧華族家文書、山鹿文庫(山鹿素行の自筆草稿類・所蔵本(一部重要文化財))、愛知県・群馬県庁文書および市町村役場文書、鈴木荘六・守屋栄夫などの個人文書等、近世から近現代にいたる五十万点を超す日本史関連史資料も所蔵している。(ウィキペディア「国文学研究資料館」より)

     「この地下が保存庫になってるんだ。大部分マイクロ化した。」スナフキンは仕事で関係しているから詳しい。かつてはマイクロなら永久保存できると考えられ、貴重な資料が次々にマイクロ化された。しかし特に一九九〇年以前のマイクロフィルムは劣化が激しく、ビネガーシンドロームを起こすと酸っぱい臭いが耐えられない。こうなると閲覧さえできない状態になる。現在ではフィルムの性能向上によって、期待寿命五百年とされているらしい。但し室温と湿度は厳密に管理しなければならない。
     資料保存の問題は情報公開とも密接につながっており、国会図書館ではデジタル化を推進している。国文学研究資料館も、最近では凸版印刷と共同で情報公開のためのデジタルアーカイブ化も積極的に行っている。資料保存の問題は難しく、結局デジタル化とマイクロ化との併用しかないようだ。
     特別展示は「祈りと救いの中世」だ。ここだけでなく、国立歴史民族博物館、國學院大學博物館、国際日本文化研究センター、神奈川県立歴史博物館、神奈川県立金沢文庫、名古屋大学人類文化遺産テクスト学研究センターの共催だ。
     「十王図」の閻魔は余り恐ろしげではない。『往生要集』はタイトルだけが分かった。ハイジは書をする人だから読めるだろうか。源氏物語が祈りと救いにどう関係するのか。デジタル資料もいくつか見ることができる。立派な展示図録が無料でもらえるのは有難い。唱導、説草等ほとんど知らないものばかりで、この辺りはしっかり勉強しなければならないのだが、何しろ学力が足りない。
     何故、中世には祈りと救いが必要だったか。大火、地震、洪水、飢饉、戦乱である。例えば『方丈記』を読んでみるか。

     又養和のころ(一一八一~一一八二)とか、久しくなりて覚えず。二年が間、世中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋、大風、洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごときならず。・・・・果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひ歩く。かくわびしたれるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も不知。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に充ち満ちて、変りゆくかたち、ありさま、目もあてあられぬこと多かり。・・・・・
     ・・・・・仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も不知死ぬる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、全て四万二千三百余りなんありける。

     これは自らでは何も生産できない都の様子であり、生産現場である田舎では状況は多少異なっていただろう。しかし『往生要集』などに描かれた地獄図はまさに現実の光景であった。そんな時代だから人は救いを求めて祈った。法然や親鸞が阿弥陀如来による救済を説いた理由である。
     しかし一方で、貴族たちは現実と完全に切り離された幽玄の世界、つまり『千載集』から『新古今集』の世界に耽溺しているのである。フランス象徴詩にも譬えられる文学的達成が、時代と全く無縁な階級のメンタリティによって作られた。

     世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ。

     藤原定家のこの言は、己は世界の動きに一切関係しないと言う宣言でもあった。関心があるのは荘園からの貢納がちゃんと入るかどうかだけである。後鳥羽院が討幕を志しても、現実に根差さない貴族の発想が成功する筈がない。
     廊下に出ると隣は図書館、向いは統計数理研究所になっている。全く分野が違うものが同じ建物に一緒にあるのはなんだかおかしい。「それじゃ出発します。」

     「そこはなんだ?」「上はマンションみたいだけど。」一階部分がおかしな形をしているのは駐車場になっているのだろうか。「トミンハイムって書いてますね。」側面からみるとベランダに布団が干してあった。築二十年の賃貸マンションである。
     立川市役所は地味な建物のように思えたが、角を曲がるとかなり大きな建物だと分る。敷地には巨大な書籍のオブジェがある。一ページが畳一枚ほどにもなり、開いたページには何かの部品のような、様々な形の金属片が貼られているのだ。説明は何もないので、もしかしたら空襲の遺品だろうかと思ったが違った。

     作品は、全国公募で応募のあった四十五作品の中から選ばれたもので、幅四メートル、奥行三メートル、重さ九百キロの大きな鉄の絵本。開いたページに、熱した鉄の廃材をハンマーでたたいた「ペラペラのオブジェ」約百五十点が張り付けてある。廃材はもともと、同市内の学校で使われていたいすや家庭用ガスコンロ、自転車のカゴなど、市民の生活の中から出たもの。使われなくなった道具や生活用品に付いた傷やゆがみに「人の手を経た道具の記憶や街の営み」を感じた小沢さんは、それらを作品としてよみがえらせ、一冊の本に集約することで「現代の立川の姿」を映すモニュメントを作り上げた。
     http://genjiito.sblo.jp/article/178934567.html

     制作は小沢淳志。「一冊の街」というのがタイトルらしい。これが「現代の立川の姿」とは不思議だが、少なくとも趣旨を説明したものが置いてあっても良いだろう。すごそばにあるのは平和祈念像「おはなし」だ。鳩を手で遊ばせる半裸女性座像で制作は茂木弘行。
     「道路が広いね。」中央分離帯も広いが、その割には車の通行はそれほど多くはない。この道と、西の昭和記念公園の間が陸上自衛隊の立川駐屯地である。道路が広いのは自衛隊の使用を前提にしているからではないだろうか。ここから北上すると、右手に見えるマンションは立川拘置所職員宿舎で、その隣が拘置所だ。
     砂川五差路を左に曲がる。野球場と歩道を仕切るフェンスの向こうには白いサザンカが満開に咲いている。「砂川平和ひろば」はプレハブの倉庫のような平屋で、シャッターが閉ざされている。立川市砂川町一丁目三十八番一号。展示は毎週水曜、土曜の午後一時半からだけのようだ。「食堂もやってるみたいですよ。」

     砂川闘争の資料を展示する立川市砂川町一の「砂川平和ひろば」で、九月から毎月第一日曜日に子ども食堂と無料塾が開かれる。ひろばを運営する実行委員会代表の福島京子さん(六十八)は「活動を通して、ひろばと地域のつながりを深め、平和について考えるきっかけになれば」と話している。(竹谷直子)
     ふらっと立ち寄れて、全ての人が平等に-という意味を込め、子ども食堂は「ひろば食堂ふらっと」、無料塾は「ふらっと教室」と名付けた。
     実行委のメンバーやボランティアの大学生が中心となって、調理をしたり、勉強をみたりする。塾は食事の後で開講、苦手科目の克服や農業体験など、子どもたちの要望を聞きながら内容を決めていく。
     福島さんは、一九五〇~六〇年代に米軍立川基地の拡張計画に反対した農家で「砂川町基地拡張反対同盟」の副行動隊長だった故宮岡政雄さんの次女。宮岡さんが立ち退きを拒んだ土地に「ひろば」はある。
     拡張を中止に追い込んでから半世紀が過ぎ、記憶の継承が今後の課題だ。子どもを対象に食堂や塾をつくるのも、次の世代に地域の歴史を知ってもらいたいという思いがある。(「東京新聞」二〇一八年八月三十日)

     「砂川裁判は、俺は政経の授業で習ったよ。」ヤマチャンが言うのだから私もそうだったのだろうか。政経の授業の内容なんかまるで覚えていない。三里塚闘争は始まっていたから、その関連で知ったのだったろうか。あの頃の私は授業なんか信用していなかった。昭和四十三年(一九六八)八月のチェコ事件が大きなきっかけで、何も知らなかった私は勝手に現代史を齧り始めていた。「朝日ジャーナル」を読んでいたのもその頃だ。「内灘事件(昭和二十八年)なんかもあったんだ。」これは米軍の試射場に対する反対運動であった。
     「私は習ってません」と姫が言う。「テレビでもよくやりますよ」と椿姫はかなり思い入れのあるような言い方をする。昭和を回顧した特殊番組などでは必ず取り上げられる筈だ。
     「いわゆる伊達判決ですよね。最高裁でくつがえされたけど」とロダンが説明する。砂川闘争は米軍基地拡張への反対闘争である。昭和三十二年(一九五七)七月八日、デモ隊の一部が立ち入り禁止の境界柵を壊して基地内に数メートル立ち入ったとして、九月二十二日に学生や労働組合員二十三人が検挙され、うち七人が起訴された。
     訴因は日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪である。昭和三十四年(一九五九)三月の伊達判決(一審)では、そもそも米軍駐留は違法であり全員無罪としたが、検察は高裁を飛び越えて最高裁に上告した。そして十二月の最高裁判決は、「国家統治の基本に関する高度な政治性」を有する国家の行為は司法審査の対象にしないと、地裁に差し戻した。これ以後、最高裁は憲法に関する判断を回避して今日に至る。東京地裁は全員に罰金二千円の有罪を宣告した。上告したが最高裁は上告棄却を決定し、有罪が確定した。
     平成二十七年(二〇一五)九月成立の安保関連法案の審議の中で、安倍政権は砂川判決を根拠として集団的自衛権は合法だと主張したが、当時の最高裁判決をいくら読んでも、そんなことは書かれていない。判決文を見てみよう。

     従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

     駐留米軍は、「わが国が主体と」なったものではないから、第九条第二項に言う「戦力」に該当しないと言っている。むしろここでは、「わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」は「同条項がその保持を禁止」したものだという認識さえ示している。そして結論は、日米安保条約は「高度の政治性」を有する案件であり、裁判所の判断すべきものではないというのだ。

     本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもので・・・・・

     「それで結局どうなったの?」「米軍が基地を全面返還したからね。問題は一挙解決。」昭和四十三年(一九六八)米軍は基地拡張中止を発表し、五十二年(一九七七)全面返還が実現した。但し罰金二千円の刑は確定しているのである。そして裁判長の田中耕太郎は更に無茶苦茶な補足意見を付している。

     ・・・・つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてかりにそれが違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できるところである。
     およそある事実が存在する場合に、その事実が違法なものであつても、一応その事実を承認する前提に立つて法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在することは、法学上十分肯定し得るところである。

     「普天間だっておんなじなんですよね」と椿姫が言う。砂川闘争の終焉から五十年。しかし沖縄は七十年以上闘い続けているのである。
     その先を曲がると、空き地の隅には「平和の碑」が建っている。元拡張予定地が利用されずに原っぱになっている場所が多いらしい。「あれなんだい?」原っぱの奥に道標のようなものが立っている。
     矢印は、ビキニ島第二福龍丸被爆地まで三七五・三キロ、広島原爆爆心地まで六五〇・六キロ、長崎原爆爆心地まで九三七・二キロ、福島第一原発(原子炉)まで二三八・三キロ、沖縄辺野古一一四八五・四キロ、やんばるまで一四四九・六キロを指している。福島、沖縄への連携を視野に入れているのだ。その脇には広島被爆アオギリ二世が立っている。

     山茶花やヒロシマ福島沖縄へ  蜻蛉

     砂川秋まつりひろばの掲示板には「砂川秋まつり」のチラシが貼られている。「明日なのね。」国に買収された土地の一つである。

     ・・・・政府は立川基地拡張をあきらめましたが、国に買収された多くの土地が砂川に残されました。一九九〇年頃に、国はこの場所をフェンスで囲おうとしました。しかし「砂川にフェンスは似合わない」と市民たちが声をあげ、現在まで「木を植える会」がひろばとして草刈りや遊具の整備を続けています。毎年秋には砂川秋まつりが開催され、市民に親しまれています。

     「この赤い花は?」垣根のサザンカだ。「花弁が落ちてるでしょ」とハイジがヤマチャンに教える。そろそろ腹が減ってきたがロダンは立川市砂川学習館に入る。立川市砂川町一丁目五十二番七号。普通の公民館なのだが、一角が砂川地域歴史と文化の資料コーナーになっていて、砂川闘争の写真が掲示されている。「砂川町はがんばってるな。」「三多摩の自由民権の血が流れてるんじゃないか。」スナフキンは五日市憲法の舞台を歩くコースに応募して当たったらしい。「一日は講義、二日目は歩くんだ。」五日市憲法草案の発見者・新井勝紘が講義すると言う。

     五日市街道に出て、阿豆佐味天神を通り過ぎて「くら寿司」に入る。十二時五分。一階がドラグストアで、二階に回転寿司とは珍しい造りではなかろうか。もっとも私が単に知らないだけかも知れない。三十年の間入ったことのない回転寿司に、今年は二回も来ることになった。三組に分かれて座る。
     三島で入った「はま寿司」とも違うから勝手が分らない。タッチパネルで探してもビールがみつからない。「ハイボールはあるけどね。」「あそこにサーバーがあったでしょう、セルフかな?」桃太郎の言葉で入口付近を見に行くと、確かに初めて見るセルフ方式のサーバーがあった。ジョッキをセットして五百円投入するとジョッキが少し傾いて、そこにビールが注がれる。「アッ、こぼれちゃう。」
     流れてくる皿には蓋がかぶせてあって、ヨッシーもマリオも皿が上手く取れない。「ダメ、取れない」とマリオはすぐに諦めてしまう。しかし他の席では問題なく取れているようだ。何度か試した挙句、メニューの説明を読んだヨッシーが試してみる。蓋を持ち上げるのではなく、皿を持ち上げろと言うのだ。皿は磁石で固定されているので、少しコツがいるらしい。初めての客は結構苦労するだろう。この蓋は「鮮度くん」と名付けられている。
     タッチパネルは面倒そうなので、流れてくる皿だけを取って、マリオ、桃太郎、蜻蛉は六皿食べた。ヨッシーは十皿も食べた。私の食べた中に色の違う皿があったから値段が違うかと思ったが、全て百円であった。さび抜きの寿司に後からワサビを付け、上から醤油を垂らす方式は、私にはなかなか馴染めない。

     十二時四十分に店を出る。「それじゃ少し戻ります。」さっき通り過ぎた阿豆佐味天神社だ。立川市砂川町四丁目一番一号。二組の親子が写真を撮っている。「七五三って今日なの?」今どきは十月頃から十一月一杯いつでも良いようだ。
     「瑞穂町の方に本宮がある。あの辺から移住して砂川を開拓した連中が勧請したんだ。」「それなら、ここは支店なのね。」青梅街道を歩いてその本社に立ち寄ったが、手入れも施されず、なんだかみすぼらしい神社だった。支店の方が本店より立派だ。「岸村から移住してきたって言うんですけど。」ロダンは岸村と瑞穂町との関係に悩んでしまう。

     立川市砂川町に鎮座する阿豆佐味天神社は、江戸時代の初め、当社を勧請したものである。砂川の新田開発を行った岸村(現在の武蔵村山市岸)の村野氏(後の砂川氏)は村山党の後裔を称する。また、小平市小川町の小平神明宮、同市仲町の熊野宮は、同じく小川新田の開発を行った岸村の小川氏と、当社の社家、宮崎氏が、岸村に鎮座していた当社の摂社、神明社と熊野宮を勧請したものである。(ウィキペディア))

     この辺を開拓したのは岸村の住人である。阿豆佐味天神社の本宮は瑞穂町であって、違うではないかと言うのが、ロダンの疑問なのだ。あそこは現在の住所は瑞穂町殿ヶ谷であるが、村山郷殿ヶ谷の東の外れであって村山郷岸村と隣接している。青梅街道を歩いた人は覚えているかも知れないが、岸と阿豆佐味天神とは信号二つしか離れていない。要するに村山郷の総鎮守であった。岸村出身者が勧請するのは尤もなのだ。
     「がまん様がいますね。」手水鉢を型で支えているのは四人の唐子で、姫の言う通り普通は、がまん様と呼ばれている。と思ったのは私の勘違いだった。がまん様は鬼である。これは唐子だから別のものだ。但しその説明に、「四隅を四人の唐子が片膝をついて担ぐという、全国でもほとんど例を見ない珍しい形」とあるのが不思議だ。どこだか思い出せないが、私は他でも見ている。「ほとんどって書いてるんだから、見逃してやれよ。全くじゃないんだからさ。」
     祭神はスクナビコナとアメノコヤネである。スクナビコナはオオクニヌシの国造りに協力した開拓神として祀られたのだろう。常世の神、医薬・温泉・禁厭・穀物・知識・酒造の神でもある。アメノコヤネは春日明神とも呼ぶ。藤原氏の祖先でもある。
     猫の像があるのは、蚕影神社が「猫返し神社」と呼ばれることから来ているらしい。蚕がなぜ猫に関係するのかと言えば、蚕の天敵がネズミだからだ。山下洋輔の命名と言い、祈願すれば迷子になった猫が帰って来ると言われている。水天宮の前にいるのは猫の様な顔をしている。「水天宮だからこれは犬ですよ。張り子の犬、安産祈願ですね」とあんみつ姫が判定する。クチナシの実のオレンジ色がきれいだ。ナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)。「こんなに大きいのは珍しいですよ。」
     「もう一ヶ所あるんだよ。」この辺りはスナフキンの地元と言っても良いので詳しい。西砂町五丁目にも阿豆佐味天神社があるのだ。こちらは少し遅れて享保三年(一七一八)頃、殿ヶ谷新田を開拓した時に勧請したのである。
     桃太郎は御朱印帳を見せてくれるが、この神社で朱印を貰うのではなかった。「最初が相模国一之宮の寒川神社ですよ。」つまり相模国限定でコレクションを作るつもりなのだ。「武蔵国一之宮は大宮の氷川神社ですよね?」「時代によって一之宮も変遷しているみたいなんだ。」
     例えば多摩市の小野神社では、第一が小野神社、第二があきる野市の小河神社、第三が大宮の氷川神社、第四が秩父神社、第五が児玉郡上川村の金讃神社、第六が横浜地緑区の杉山神社としている。そして府中の大国魂神社にはこの六神が祀られる。この主張は南北朝時代の『神道集』による。大宮の氷川神社が一之宮を称すことは、江戸時代から明治にかけて確立したことらしい。

     「そこの家が大きいですね。」神社に隣接しているのは宮司の宮崎家だ。門構えと屋根がスゴイのだ。小平の熊野神社でも大きな宮崎家を見ている。同じ一族なのだ。その石塀に「庶民教育記念之誌」のプレートが嵌めこまれている。宮司の宮崎常次郎がこの邸内で寺子屋を開いたと言う、それを常次郎の孫が顕彰しているのだ。
     信号は「砂川三番」だ。「一番から九番まであります。税の徴収単位らしいんですが良く分りません。蜻蛉が調べてくれるでしょう。」そんなことを言われてもネ。ちょうどうまい情報を見つけた。

     「三番組」という言葉が出てきましたが、これは砂川の特徴のある呼び名であり仕組みです。現在の地名としても東(都心)から十番、九番と順次西に向かい、一番西に一番となって残っています。これはかって、地域の呼称とともに、年貢の徴収単位になっていました。
     さらに、元禄七年(一六九四)には、一番から四番までを「上郷」、五番から八番までを「下郷」と区分し、それぞれの郷に「小名主」が置かれ、各組には組頭が置かれていました。「小名主」は、名主の名代として仕事をするものでした。
     当時の原則的な仕組みとしては、当然、「名主」がいるはずです。いました。ここでは「大名主」と呼ばれました。それは村野家で、なんと、当時、村野家は岸村に本拠を置いています。初期の開発から九十年近く経た時、砂川では、現地で「小名主」が実力を持ち、開発を指導した村野家が親村である岸村から全体を見る関係があったことがわかります。
     もちろん、開発者村野家は三番に砂川の本拠を置きました。元禄二年(一六八九)検地帳で、村野家は二筆の屋敷地を所有しているので、早くからこの地に生活の基盤を置いていたことが想定されます。名主は元禄十七年(一七〇四)砂川村に移住しました。
     注目は、村野家と共に最初から砂川の開発に加わった人に「宮崎、萩原、矢嶋、清水、豊泉、内野」家(萩原家「当郷開闢之事」=「砂川の歴史」)などがありますが、そのほとんどの家が、砂川三番、四番に集まっています。大ケヤキはこの「芝分け百姓」の家々を象徴するようです。(安島喜一「砂川新田(1)」)
     http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinorekisi/musasinosinndennkaihatu/sunagawasinndenn/sunagawa1/sunagawasinndenn1.htm

     砂川の沿革を見れば、最初の砂川新田に続き、新砂川新田、砂川前新田、殿ヶ谷新田・宮沢新田・中里新田・芋窪新田・八軒新田・榎戸弁天新田の九つの新田が開拓されている。順番は別にして、九番まであるのはこれに依るのではなかろうか。
     年貢の徴収単位というのは、いわゆる「村請」の単位だったということだ。全体の共同責任で税を納めるのである。納税不能の者が出た場合、通常は名主や村役人等(多くは最初期の開拓者である草分け百姓が任命された)が代納し、その分が未進者の借金になる。借金を背負ったものはやがて自作農から小作に転落する。農村の階層分化はこうして始まるのだが、こうして財を蓄えた名主階級の多くが、村の福利厚生を担ったのも事実である。
     「流泉寺には寄りません」。理由は街道を横断するのが面倒だったからだが、「行きましょうよ」とあんみつ姫が道を渡った。ちょうど車が途切れた所だったが、姫が横断歩道でない場所を渡るのは珍しい。
     天龍山流泉寺(臨済宗建長寺派)。立川市砂川町二丁目四十四番一号。山門不幸の立札が立っているから境内に入るのは遠慮する。門前に説明があり、明治初期まで寺子屋があって砂川村の教育の発祥地だとされている。「あそこに碑がありますよ。」駐車場の隅に「立川の教育ここに始まる」碑があった。「これは気が付かなかった。」明治五年、境内に西砂川小学校が開校した。現在の立川市立第九小学校の前身である。門柱には「檀頭総代 砂川昌平」の名が刻まれている。
     斜向かいにある砂川家は豪邸である。「砂川」は明治以降に改姓した名字で、史料には村山党の裔を称する「村野」姓で現れる。砂川の開発名主であり、このあたりが砂川村の中心であった。家の前を、堀のように流れているのは玉川上水からの分水だ。その上には石橋が架けられている。
     分水が許可され新田が開拓されたのは明暦三年としたが、実はそれよりはるか以前の慶長十四年(一六〇九)、村山郷岸村の村野三右衛門が幕府に願い出た。そして実際に着手されたのは寛永四年(一六二七)である。しかしまだ玉川上水もなく、最初に開発されたのは残堀川の沿岸の狭い範囲に過ぎなかった。川は箱根ヶ崎の狭山池から流れ出て狭山丘陵の西南部から五日市街道に向って斜に流れた。そして玉川上水が開削され、本格的な開発が始まったのが明暦三年以降のことなのだ。
     街道に沿って、蔵を持つ豪壮な家が目立ってきた。街道沿いだから草分け百姓の子孫であろう。この辺りが村の中心であったことを示している。「この家も蔵がある。」「ここもだよ。」
     そして残堀川にでた。水量は少ないというよりほとんど流れていない。「瀬切れですね。」残堀川は上述の砂川開拓の契機になった川である。ロダンは大きな地図を前にして、地層の具合やら河道付け替えの経緯やらを説明してくれるが、詳しいことは理解できない。

     狭山丘陵西端付近にある狭山池(東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)に源を発し、立川断層に沿って南東に流れ、武蔵村山市の旧日産村山工場の敷地に突きあたってから南に流れを変える。ここから下流は河道付替工事による人工の流路である。立川市一番町付近で玉川上水を乗り越え、国営昭和記念公園の西辺に添いながら昭島市に入る。東向きに曲がって同公園の敷地に入り立川市域に再び入る。公園内で再び南に向きを変え、立川市富士見町三丁目でほぼ直角に曲がり、立川市柴崎町で多摩川に合流する。(ウイキペディア「残堀川」より)

     残堀川の名の由来は、降雨期を除いて年間を通じて殆ど水が流れない、つまり瀬切れの状態だからだと言う。堀だけが残る川である。原因としては水源の狭山池からの流量減少、都市化による雨水浸透の減少、下水道普及による排水の減少などが考えられる。しかし本当の原因は、再三の河川改修工事によって、「表層(ローム層)を流れていた河道を、河川改修工事により礫層まで掘り下げたため、伏流(地下を流れる)しやすくなった工事のずさんさが、一番の原因だと考えられる」とウィキペディアは言う。
     ニシキギの実が赤い。「相撲取りにいるよ」とヤマチャンが言う。私は知らないが、錦木とすれば余り強そうではない。「いるんだよ、俺は知ってるよ。」相撲も殆ど見なくなった。調べてみると伊勢ノ海部屋所属の二十二歳、今場所は前頭三枚目である。
     川に沿って歩くと武蔵野の雰囲気になってきた。やがて上宿橋にやってきた。ここで玉川上水と直角に交差しているのだ。上水は残堀川の下を潜って対岸に行くのだが水量はかなり多い。「あそこから地下に潜るんでしょう?川を越えるとまた上がってくる。」サイフォンの原理なのだろうか。以前は今とは逆に残堀川を潜らせていたと言う。
     「見沼代用水の柴山伏越があるでしょう?」椿姫の地元から比較的近い場所だ。白岡市柴山には二十七年三月の里山ワンダリングで行った。あの時はオクチャンに中島撫山(敦の祖父)の碑を詳しく解説してもらった。見沼代用水が元荒川の川底に埋められたパイプを流れて直交するのである。
     ここから玉川上水沿いの遊歩道を歩く。ロダンは玉川上水物語が大好きだ。「全長四十三キロを八ヶ月で通したんですよ。スゴイもんです。」オレンジ色の花はルコウソウだ。「それは小さいけどシュウカイドウですよ。」土手に桜の木が増えて来た。
     農家の庭先に野菜を並べてある。「安いですよ、これは」とヨッシーが近づく。おばさんは何故か少しそっぽを向いて座っているが、時々「安いですよ」と声を出す。ヨッシーは大きな大根を買った。「百円ですよ、安い。それに葉がついてますからね。葉も美味しい。」私も大根の葉を炒めたものは好きなのだが、スーパーでは葉付き大根は殆ど見かけない。「赤かぶは珍しいのよ」と椿姫も買った。桃太郎は大きなブロッコリーと落花生を買った。「落花生は後でみんなと食べようと思ったのに、生なんですよ。どうしたらいいのかな。」「茹でればいいんですよ。美味しいですよ。」
     見影橋。ここに「源五右衛門分水」の取水口があった。「ミナモトなの、ゲンゴなの?分らないわよ。」ミナモトはあり得ないだろう。源五右衛門は砂川家当主の名前である。つまり砂川家のために引かれた分水である。「塞いじゃったみたいだね。」石垣の一部がコンクリートで固められている。砂川家に因んで旦那橋とも呼ばれたと言う。
     「ここが巴河岸です。」玉川上水に河岸があるとは不思議だ。そもそも上水であって、船の運航は禁止されていた筈だ。解説を見ると、これは明治になってからのことである。詳しい解説を見つけたので引用する。

     慶応三年十月に砂川村源五右衛門は、羽村名主源兵衛と、福生村名主半十郎を加え、その二年後の明治二年(一八六九)九月二日に通船願を出した。
     明治二年九月二日の通船願から、およそ半年の明治三年四月に、玉川上水の通船願は許可になり「布告書」がでた。
     これを受けて明治三年四月十五日羽村から東京市内大木戸間に通船が開始され、このときの船持は二十一人で船数百四艘であった。上水通船は物流が主目的であったが、客船としての人の交流も見逃せない。上水べりの小金井桜は近郊の観光地として注目され大勢の人びとを運んだ。(中略)
     乗船記録による(通船資料集)と巴河岸(現在の砂川町三丁目)から四谷大木戸まで約三十三キロメートルの運賃が、下り一人銀六匁、上り銀十二匁(舟運の上り・下りは上流に向かって上りその反対を下り)また一人の運賃が荷物一駄(馬一頭に背負わす荷重量、日本の近世では四十貫)と同額である。
     乗客は、村役人・政府の役人の出張、商用、行楽(多摩から浅草のお酉様参り、小金井堤の花見、などに利用された。(屎尿・下水研究会・松田旭正「玉川上水の通舩一件」)
     http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo023.htm

     しかし舟運は衛生上の理由で明治五年に廃止された。まだ東京に近代水道はできていない。玉川上水は重要な水源であり、ここに船を浮かべようとは、とんでもないことだったのだ。

     明治時代を迎え、江戸から東京へと変わっても水道は依然として江戸時代のままでした。
     しかし、上水路の汚染や木樋の腐朽といった問題が生じ、また消防用水の確保という観点からも、近代水道の創設を求める声が高まりました。さらに、明治十九(一八八六)年のコレラの大流行は近代水道創設の動きに拍車をかけました。
     こうして、明治二十一(一八八八)年、東京近代水道創設に向けて具体的な調査設計が開始されました。
     この水道は、玉川上水路を利用して多摩川の水を淀橋浄水場へ導いて沈でん、ろ過を行い、有圧鉄管により市内に給水するもので、明治三十一(一八九八)年十二月一日に神田・日本橋方面に通水したのを始めとして、順次区域を拡大し、明治四十四(一九一一)年に全面的に完成しました。(東京都水道局「近代水道の創設」)
     https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suidojigyo/gaiyou/rekishi.html

     次は金毘羅山だ。立川市砂川町三丁目二十五番二号。植え込みに囲まれた入口の右に秋葉神社、左に金毘羅神社の看板が取り付けられている。「アッ、キンピラか。」それがおかしいとハイジが笑いをかみ殺す。ヤマチャンの発言は本気か冗談か分らないことがある。
     高さ十五メートルほどの人工の山で、玉川上水を掘った土を盛ったとも言われる。鳥居を潜ると左手の空き地は境内と言えるのだろうか。老夫婦(?)が焚火をしている。挨拶して狭い階段を登り始める。「これって線路の枕木かな?」階段は確かに枕木を敷いたように見える。
     中程に秋葉神社の小さな祠があった。言うまでもなく火防の神である。頂上に辿り着けば金毘羅神社と富士浅間神社が並んでいる。ヨッシーは賽銭箱に小銭を入れ、丁寧に拝む。富士塚だったと言う説もあるが、それならば富士山の溶岩がもっと目立たなければならない。金毘羅神を祀ったのは舟運以後のことらしい。頂上は狭いから後続が登ってくれば後退して降りなければならない。
     下の境内(?)にはベンチとテーブルが設置されているので少し休憩する。二時二十分。昼飯後の初めての休憩なので、少し疲れた。お菓子が大量に配られるが、とても全部は食べきれない。老夫婦は焚火を終えた。「ごみは持ち帰ってくださいね。」
     「焚火は確信犯ですね。」野焼きが禁止されたのはダイオキシンの問題である。ダイオキシンが発生しなければ良いのではないか。落ち葉焚きが禁止される謂われはないのではないか。それにバーベキューやドンド焼きは何故許されるのだろう。
     実は私は、ダイオキシンは塩素化合物だから落ち葉からは発生しないと思っていたのである。実に無学なことであるが、残念なことに落ち葉にも塩素は含まれているから、焚けばダイオキシンは発生する。

     家庭用焼却炉を用いて三種の落ち葉(ケヤキ、スダジイ、シラカシ)を焼却し、その結果を用いてダイオキシンの生成要因を考察した。
     葉、焼却排ガス、焼却灰中のダイオキシン類の濃度は、葉の種類による大きな違いはなかった。しかしケヤキの排ガス中のダイオキシン類濃度のみは、スダジイ、シラカシに比べると高濃度であった。このケヤキの排ガス中ダイオキシン類の高濃度は、葉中の塩素含有量に影響を受けているものと思われた。そこで、都内の公園や街路における十四種類の樹葉の塩素含有量を調査した。その結果、ケヤキの葉中の塩素含有量が最も多かった。(早福正孝・辰市祐久・古明地哲人・岩崎好陽「落ち葉の焼却から生成するダイオキシン類に関する考察」『大気環境学会誌』三十七巻二号)

     しかし家庭での軽微な焚火によるダイオキシンの発生量はごく微弱であり、健康上は問題ないという研究もある。「草木の燃焼に伴うPCDD/Fsの発生評価に関する研究」(『山口大学工学部研究報告』平成十九年十二月二十七日受理)では、実際に焚火から出てくるダイオキシンを実験評価し、「落ち葉や枯れ草の野外焼却の自粛までも行われるなど、少々行き過ぎた面があると考えられる」としている
     焚火は法律で禁止されていると私は思っていたが、しかしそうではなかった。ダイオキシンの発生を防ぐため、廃棄物を許可なく焼却してはならないと言うのが「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」の原則だ。しかし廃棄物の焼却の中で禁止とならない例外がある。

     廃棄物の処理及び清掃に関する法律施行令
     (焼却禁止の例外となる廃棄物の焼却)
     第十四条  法第十六条の二第三号 の政令で定める廃棄物の焼却は、次のとおりとする。
     一  国又は地方公共団体がその施設の管理を行うために必要な廃棄物の焼却
     二  震災、風水害、火災、凍霜害その他の災害の予防、応急対策又は復旧のために必要な廃棄物の焼却
     三  風俗慣習上又は宗教上の行事を行うために必要な廃棄物の焼却
     四  農業、林業又は漁業を営むためにやむを得ないものとして行われる廃棄物の焼却
     五  たき火その他日常生活を営む上で通常行われる廃棄物の焼却であって軽微なもの

     ドンド焼きは三の「風俗慣習上又は宗教上の行事を行うために必要」の規定が適用される。四によって、田んぼで籾殻や藁を焼く行為も許されるだろう。そして五によって焚火は許されているのだ。これがバーベキューにも適用されている。勿論、煙や臭いが近所の迷惑にならないよう、あるいは地面に直接火をつけることで植物を痛めることのないようになど、注意は必要だけれど。
     それなら何故、焚火はダメだと言う一般的な観念が広がったのだろうか。もしかしたら地方自治体の条例が禁止している場合もあるから安心できない。更に調べてみると、東京都の「都民の健康と安全を確保する環境に関する条例」百二十六条(廃棄物等の焼却行為の制限)に例外規定が示されている。

     ただし、規則で定める小規模の廃棄物焼却炉による焼却及び伝統的行事等の焼却行為については、この限りでない。

     この「伝統的行事等の焼却行為」をどう判断するかが問題なのだが、立川市の判断(「野焼きによる廃棄物の焼却禁止」Q&A」では、「学校教育及び社会教育活動上必要な焼却行為」としてキャンプファイヤー・焚き火を例にしている。つまり焚火は焼却禁止の例外である。
     また「さいたま市生活環境の保全に関する条例及び同条例施行規則」では規則第三十八条(燃焼行為の制限の適用除外)で、「たき火その他日常生活を営む上で通常行われる燃焼行為であって軽微なもの」を指定している。つまりさいたま市でも、焚火はして良いのである。埼玉県内のいくつかの市についてみてみたが、やはり同じだ。結論として、軽微な焚火は許されると考えて良いだろう。但し周辺への配慮は必要になる。要するに煙や臭いに対する現代日本人の忌避感情が強く、クレームが多発するのであろう。

     例外として認められている焼却行為であっても、ばい煙や悪臭などで苦情があった場合は、指導の対象となりますので周辺環境を十分考慮し、苦情を招かないよう最大限注意をしてください。(立川市)

     「お姉さん、行きますよ。」このまま上水に沿って行けば玉川上水駅に出るのだが、ロダンは途中で北に向かう。千手小橋で上水を渡ると目の前は西武拝島線の踏切で、踏切脇に国立音大の看板が掲げられている。そこから線路沿いに国立音大のキャンパスを横目に見て歩く。ここは立川市柏町五丁目である。国立市から移転してきたのは昭和五十三年(一九七八)だから、四十年も前になる。
     「神津善行が出てるよ。」「メイコさんのご主人ね。」「菅原洋一も。」「アナウンサーの加藤綾子もそうですよ。」私はその名前を知らなかったが、他にもたくさんいるだろう。
     玉川上水駅に着いた。西武拝島線と多摩モノレールが直角に交わる駅である。一万五千歩、九キロというところだろう。スナフキンからは次回の近郊散歩の会「高畑不同尊から新選組を育んだ宿場町日野を巡る」の案内があった。残念だが私は参加できない。あんみつ姫は「成田街道 其の二」(柴又集合)の案内をする。
     ヨッシーは西武線のホームに回って行った。モノレールに乗った途端、中央線が人身事故で運行を中止していると放送が入った。ハイジは西武線に回ることにして、一駅で降りて行った。ハコサン、マリオ、マリーは立川北で降りた。マリオは最初からの予定通りだが、マリーとハコサンは南武線で京王線に出るつもりだ。

     そして残った連中は立川南で降りる。「いつものところでいいだろう?」南口に出て東に向かえばすぐ分かる。炭火やきとり十兵衛である。立川市錦町一丁目一番十四号。時刻は四時。椿姫、あんみつ姫、ロダン、スナフキン、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の七人だ。「お飲み物は?」「ビールを全員。」「私はダメ、さっき薬を飲んだばっかりだから。」椿姫はウーロン茶にした。
     突き出しの鶏皮は、あんみつ姫とヤマチャンが食べられない。私は旨いと思うけれど。「交換して貰おう。」そういうことができるのか。「料金を払うんですからね。」代わりに出されたのが冷奴だった。「おかしい。笑っちゃいますね。」あんみつ姫は豆腐も苦手なのだ。こんなに好き嫌いが多くてよく生きている。私は殆ど好き嫌いはないゾ(ウソ、蜻蛉に言われたくない、というあんみつ姫の声が聞こえるようだ。)
     焼鳥盛り合わせを二皿。一皿は早速串を外してバラバラにされた。「こっちもバラシてよ。」「最初は信じられませんでしたよ」と姫が言う。「一人一本だと思ってたから。」この方式を批判する人もいるが、これならいくつかの種類が食えるのだ。「まあ、貧乏人の食い方だよね。」
     焼酎は佐藤の黒にした。「白もあるらしいんだけどね。」私は飲んだことがない。調べてみると佐藤には黒・白・麦の三種類がある。黒は黒麹、白は白麹仕込みだ。「私も一杯戴こうかしら。」椿姫が焼酎とは珍しいことである。「薄くしてね。」焼酎を追加する。
     次はビッグエコーだ。椿姫はカンツォーネ『カタリ』を歌う。画面に表示される歌詞は日本語だが、イタリア語で歌うのだから大変なものである。あんみつ姫は『何日君再来』を勿論中国語で歌う。「歌詞を見ても意味が分らない。」「分かるところもあるよ。君と別れてしまった、いつまた逢えるのだろうか?」「そのくらいは分る。」
     スナフキンと私は椿姫とデュエットする。私は余り歌ったことのない『望郷酒場』も歌ってしまった。「千昌夫が好きなのね?」好きではない。この歌だけだ。「蜻蛉は声が落ちたんじゃないの?」桃太郎よ、それを言ってくれるな。声が出なくなったのは自分で百も承知なのだ。「今日は風邪気味だからね」と誤魔化す。『高校三年生』は桃太郎に歌われてしまったので、私は『花咲く乙女たち』と『高原のお嬢さん』を歌う。ロダンは寝ることもなく結構歌った。二時間でお開き。


    蜻蛉