「東京・歩く・見る・食べる会」
第八回 雑司が谷・巣鴨編 平成十八年十一月十一日
雨。 悔しいことに天気予報が当った。目が醒めた時にはまだ薄曇で、太陽がちょっとは見えていたのだが、家を出るときになって小雨が降り出した。雨と寒さに震えた第三回谷中編のことが頭に浮ぶ。 目白駅に着くともうみんな揃っていて、「遅い」と三澤さんに叱られる。松下さんからも「リーダーはもうちょっと早く来てくれないといけない」と忠告を受ける。申し訳ない。前回少し遅れて「もう除名だ」と三澤さんに何度目かの除名通告を受けた平野さんは、「遅れそうだったから初めて西武線の特急に乗ってしまった」ので、早めに着いた。江口さん、関野さん、橋本さん。本郷編に参加してくれた大川さん、大久保編に登場した島村さんもいる。雑司ヶ谷墓地の安藤鶴夫墓に惹かれて参加しようかと悩んでいた川崎さんはやはり仕事が忙しいのだろう、十時まで待ったが現れない。総勢九名の会と決まった。 「誰か、雨男がいるんじゃないの、谷中もそうだったし」と三澤さんが煩い。川崎さんがいれば、講釈師の鉾先も少しは違っていた筈だ。谷中も私の企画だったから、犯人は私ということになるか。このところ休日も少し忙しかったので、地図を用意する暇もなかった。資料は、今日の見学コースと、雑司ヶ谷墓地の地図のコピーだけだ。およそ十キロの行程になる筈だ。 「緊急事態が発生しました。どうしましょうか」と鈴木さんから電話が入ったのは先月の十八日だった。今日のために、もう三ヶ月も前から千住コースを企画し、下見を重ねてきた鈴木さんが、急に中国へ出張しなければならなくなったのだ。「だけど、千住は是非、自分がやりたいんですよ」と鈴木さんが言う。それならば、一月にと考えていたコースだが、それと差替えるしかない。あっちゃんに「急転直下」と評されたくらいで、一回歩いただけで充分な下見をする余裕間がなかったから、時間の按分が実は少し心許ない。 駅前から目白通りを横断してすぐ狭い路地に曲がる。商店街を抜ければ静かな住宅街に入る。狭い道なのに時折自動車が通るから注意しなければならない。右手に「千種画廊」があって、その玄関前に「赤い鳥社・鈴木三重吉旧宅跡」の立て札が立っている。現在の所有者千種氏と三重吉とは何の関係もない。下見のときには玄関が開いていて、そこに新聞記事のコピーが置いてあった。その千種堅「我が家は赤い鳥社跡」(「毎日新聞」昭和六年五月十五日夕刊)によれば、千種氏本人もここが赤い鳥跡地だとは全く知らずに家を建てた。坪田譲治の長男に指摘され調べた結果、正にここが三重吉の居宅であって、「赤い鳥」発祥の地だと判明した経緯が語られている。旧町名は高田町。 三重吉は明治十五年広島に生れ、東京帝国大学に進み、漱石の勧めで小説を書いた。「赤い鳥」を創刊したのは大正七年(一九一八)。以後、童心主義を掲げて児童教育に大きな影響を与えることになる、というのが文学史的な説明だ。しかしいくら考えても具体的な作品名が思い浮ばない。目録を見ると古事記を子供向けに書き直したものがあるようだ。実作よりもプロデューサーとしての資質が強かったのだろうか。 童話には詳しくないのだが、芥川龍之介『蜘蛛の糸』、有島武郎『一房の葡萄』、新見南吉『ごんぎつね」など僅かな例外を除けば、『赤い鳥』に発表された童話はほとんど忘れられているのではないか。それに比べると、北原白秋の指導した童謡のほうでは、白秋を筆頭に、西條八十、野口雨情など今でも歌われる歌が多い。松下さんが「赤い鳥小鳥、なぜなぜ赤い、赤い実を食べた」と歌う。ちょっとメロディが変だが歌詞は正しい。関野さんは初めて聞きましたと不思議そうな表情を浮かべる。関野さんの年代では、小学の頃には既に「少国民」の時代に入っていて、大正期の「軟弱な」童謡などは聴いてはいけなかったのかも知れない。 思いついて山中恒『ボクラ少年民と戦争応援歌』を開いて見る。少国民の世代がどんな歌に囲まれていたか。山中は昭和六年の生れだから、ほぼ関野さんと同世代で、膨大な資料を徹底的に網羅収集して、戦時小学校教育を弾劾した(『ボクラ少国民』シリーズ)。その山中にしても、尋常小学校入学前には、母親から『赤い鳥』の童謡を教えられている。当時、山中の家は看板店で、そこに働く「アンちゃん」たちが歌う歌謡曲を好きでよく歌っていたのだ。 一方母の方はその反動からか、私にしつこく、<赤い鳥>童謡をうたって聴かせた。『かなりや』(西条八十詞・成田為三曲)とか、『お山の大将』(西条八十詞・本居長世曲)、『雨降りお月さん』(野口雨情詞・中山晋平曲)、それに北原白秋と山田耕筰のコンビによる『この道』とか『からたちの花』などである。これもおそらく母が女中奉公時代に主家の子どもたちとともにレコードで聴いておぼえたのだろう。 だから昭和十年代の初め頃までは、家庭によっては大正童心主義の残滓があったことが分る。大正期には『赤い鳥』のほかにも、八年創刊の『金の船』(後『金の星』野口雨情が拠った)、『こども雑誌』(三木露風)、十一年の『コドモノクニ』などが、大正から昭和初期にかけて童話童謡運動を展開した。 与田準一編『日本童謡集』を引っ張り出してみると、知らない歌が余りに多いのに我ながらがっかりしてしまう。収録数の圧倒的に多いのはやはり白秋(四十曲)、八十(三十曲)、雨情(二十四曲)だ。 与田の本によって「赤い鳥」に限らずに知っている歌を数えてみれば、白秋では『赤い鳥小鳥』『アメフリ』『あわて床屋』『ちんちん千鳥』『からたちの花』『砂山』他。『ペチカ』は南満教育会用に作られたなんてことがこの本で分る。八十は意外に知らなかった。『肩たたき』『かなりや』など。『お山の大将』(お山の大将俺一人、あとから来るもの追い落とせ)の詩には覚えがあるがメロディが浮んでこない。雨情には『青い眼の人形』『赤い靴』『雨降りお月さん』『しゃぼん玉』『証城寺の狸囃子』がある。 彼ら以外には『月の沙漠』(加藤まさを)、『靴が鳴る』『叱られて』(清水かつら)、『赤とんぼ』(三木露風)、『どこかで春が』(百田宗治)、『花嫁人形』(蕗谷虹児)など。 『赤い鳥』には投稿欄があり、少年時代の大岡昇平が従兄に導かれていくつかの童謡を投稿して入選した。歴史と自己検証に厳しい大岡のことだから、当然『赤い鳥』と、そこに投稿した自分自身(単なる模倣に過ぎなかったと自己評価している)にも情け容赦がない。
泉鏡花や島崎藤村の書く童謡なんて信じられるだろうか。『日本唱歌集』にはそれぞれ一編づつ採用されているが、子どもが歌いたくなるような詩ではない。大岡が「テーマを失った純文学作家」と言うのも無理はない。 いっそついでだから、それでは同じ頃(大正期)の文部省唱歌にはどんなものがあったか、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』で見てみる。『春の小川』、『広瀬中佐』、『村の鍛冶屋』(暫時もやまずに槌うつ響)、 『橘中佐』『早春賦』『鯉のぼり』『海』(松原遠く消ゆるところ)、『冬景色』(さ霧消ゆる湊江の)、『朧月夜』『故郷』『浜辺の歌』。好きな歌も多いのだが、童心主義派との決定的な違いは文語体が多いことだ。やはりこれは学校で教える歌だ。意味の分らない子ども達は、替え歌を作って歌った。『広瀬中佐』なんか、私は軍歌だとばかり思っていたが、唱歌なのだった。 やがて、昭和期に入り、徐々に子どもの音楽シーンは変わっていく。昭和十五年、一般公募された当選詩が歌になり、レコード各社競作で大々的に売り出されたのが『紀元二千六百年』だ。そして昭和十六年の国民学校令によって、尋常小学校は国民学校に改められ、「軟弱な」あるいは「芸術的な」歌は学校現場で禁止されることになる。
山中恒の証言によれば、第四学年用には『村の鍛冶屋』(大正期の文部省唱歌)も採用されているのだが、その三番、四番の歌詞が削除されている。その削除された部分はこうだ。
ちょっと先に行けばすぐ左側に、豊島区立目白庭園がある。小さな庭園だが回遊式のもので、池水は綺麗で手入れが行き届いている。橋本さんが受付の女性に頼んで小さなパンフレットを貰ってくれた。それを見れば、平成二年開設だから『赤い鳥』とは関係ないのだが、三重吉旧居跡に因んで「赤鳥庵」と名付けた建物を付設している。有料でお茶会などに利用できるらしい。ゆっくりと一回りしてみる。一周した辺りで、みんな座り込んでしまってのんびり池を眺めている。いつもとは違って、随分ゆったりとした散策になりそうだ。 西武線の踏切を越えたところで、「この辺に駅があった」と平野さんが思い出す。昔の地図で確認すれば、池袋と椎名町との間に確かに上り屋敷駅というのがある。しかしこの駅が廃止されたのは昭和二〇年二月(西武鉄道株N表)だから、平野さんはまだ七歳、よく覚えているものだ。 「椎名町って言えばさ、帝銀事件だよ。結局死刑にならなかったね」。昭和二三年八月二一日、帝国銀行椎名町支店で事件は起った。「テンペラ画っていう特殊な描き方なんだ」と三澤さんが言う。平沢貞道の絵については、こんな批評を見つけた。
公園の角を右に曲がると、古い家に「坪田」の表札が掲げているが、人が住んでいる気配はなく荒れ果てたままになっている。坪田譲治が住んで、「びわの実文庫」を主宰していた家だ。『善太と三平』『風の中の子どもたち』があるから、三重吉よりは私には馴染みが深い。しかし、子どもの私にとっては、これらは余り面白いというものではなかったような気がする。さっきの山中恒で思い出した。私の小学生時代(昭和三十年代)は、山中恒(『赤毛のポチ』『サムライの子』など)、さとうさとる(『だれも知らない小さな国』)、いぬいとみこ(『木かげの家の小人たち』)等が輩出した頃で、児童文学のルネサンス期と言われることになるのだが、小学生私は、彼らの作った骨格のはっきりした物語のほうが好きだった。 自由学園はすぐそばにある。柵から見る芝生の奥に、緑の屋根に白壁の校舎が広がっている。どうやら結婚式のようだ。卒業生が利用できるのだろう。芝生の向こうから、真っ白なウェディングドレスの花嫁が介添えに手を引かれてこちらに向かってくる。通りを越えて向かい側の講堂が式場(チャペル)になっているらしい。私たちの目の前で道を横断するとき、三澤さんが声をかけて、私たちはみんなで拍手をする。おめでとう。花嫁はみな美しい。雨の中で江口さんは萩を見つけた。 白萩や 新婦の笑顔 こぼれをり 快歩 こうしたイベントがなければ内部も見学できるのだが、今日は柵越しに外から建物の外観を見るだけだ。ここはフランク・ロイド・ライトの設計になり、国の重要文化財に指定されている。
羽仁もと子は、明治六年(一八七三)青森県八戸に生まれた。当時の普通教育八年(初等科四年、中等科高等科各二年)を終えて上京し、二二年(一八九九)に開校された東京府立第一高等女学校に入学した。在学中にキリスト教と出会って洗礼を受ける。卒業後は明治女学校に入学するが、中退して盛岡でカトリックの女学校の教師となるが、その後再び上京。報知新聞社に入社し、やがて日本最初の女性新聞記者となった。職業婦人のはしりだ。 羽仁吉一は明治一三年(一八八〇)山口県三田尻(現在の防府市)で生まれ、小学校卒業後、漢学塾で学んだ後上京して報知新聞社に入社した。二人はここで出会って結婚し、やがて明治三六年(一九〇三)四月に『家庭之友』(後『婦人之友』に改題)を創刊する。この雑誌は初めて家計簿を考案したことで画期的だが、「私、家計簿なんてつけたことありません」と橋本さんは豪快に笑う。 もと子は子どもたちの受ける小学校教育に非常な不満を感じていた。三女恵子が女学校に進学する時が来て、夫妻は自分たちで理想的な学校を創ろうと決心し、自由学園を開校することになった。最初の生徒は『婦人之友』読者の家庭が送った少女たちの中から選ばれた二十六人だった。 学校の名は新約聖書『ヨハネによる福音書』八章三二節の「真理は汝らに自由を得さすべし」からとられたものだ。(自由学園ホームページより要約) 斎藤美奈子『モダンガール論』は、その当時続々と創刊された婦人雑誌を比べて、『婦人之友』が目指した読者の理想像は、「生活改善に励み、何らかの形で社会参加するインテリ主婦」だと分類している。『主婦之友』(節約と貯蓄に励み、夫を助け、子の良き母でもある賢い主婦)や『婦人倶楽部』(料理や手芸にひいで、家事を楽しむ明るい主婦)の読者では、まだ創立したばかりの、しかも文部省の認可も受けられない小さな学校に、自分の娘を送り込もうなどとは思わないだろう。因みに松下さんの母堂が読んでいたと言う『婦人公論』の読者層は「高等教育を受け、教養にあふれたハイブラウな婦人」とされる。確かに女子大を卒業した女性に相応しい。 同書によれば、明治三二年の高等女学校令がきっかけになり、大正七年から昭和三年にかけて、女学生の数は急激に増加している。(大正七年の約十万人から昭和三年の三十五万人まで)もと子の理想も、ちょうど時代の風潮に適合したということだろう。ただし、女学校に進学できるのは、限られた数の恵まれた家庭の少女達だった。昭和初期の女学校進学率は、都市部で十数パーセント、村落部では僅か数パーセントに過ぎず、全体では九割近い少女たちは進学せずに(できずに)生活のために働いていた。 三木露風『赤蜻蛉』(大正十年)でも、「十五で姐やは嫁に」行く。小学校を卒業したか中退した彼女は女中(あるいは子守奉公)になり、十五歳でおそらく夫になる人の顔も知らずに、人手不足の農家の嫁になっていく。当時の農家の嫁の生活は辛い。大正のモダンガールの時代は、同時に『女工哀史』の時代でもあった。圧倒的多数の少女達は農家に入るか、女工や女中になり、最悪の場合は女郎になるしかなかったのだから。 もと子の娘説子と結婚して羽仁家を継いだのが羽仁五郎だ。松下さんは左翼に同情がないから「悪い奴」と評するが、五郎が戦時中に書いた『ミケル・アンジェロ』は傑作だろう。『都市の論理』はさっぱり分らなかったが、七十年代には老いて益々元気な、しかし、ちょっと風変わりな老人として姿を現した。 門の脇にはミミズクだかフクロウだか分らない石像が立っている。ミミズクならば雑司ヶ谷に縁がありそうだ。それともミネルヴァのフクロウだろうか。そもそも私には、その区別が分っていない。 「まだ存在してたんですね」と松下さんが驚くが、「『婦人之友』は今じゃ定期購読者だけでしょう、書店には置いてないと思いますよ」と大川さんが答える。その婦人之友社のウィンドウに飾られている家計簿を眺めてから資料館に向かう。「こんな曲がりくねった道を、よく覚えていますね、下見は一回しただけでしょう」と関野さんが驚く。裏道を通って消防署の隣、勤労福祉会館に着く。七階に豊島区立郷土資料館がある。 この郷土資料館は小ぢんまりしているが、作成した資料が充実している。資料館作成の「地図・絵図で豊島区を読む」に収載されている昭和二二年の地図によれば、自由学園やこの資料館のあたりは雑司ヶ谷六丁目、七丁目だ。そこから省線の線路を渡って東に雑司ヶ谷五丁目、四丁目、南に下って三丁目、二丁目、一丁目となり、雑司ヶ谷の範囲は現在の西池袋の東側から、南池袋、雑司ヶ谷に及ぶ。目白駅から出発したのに今日のコースを「雑司ヶ谷・巣鴨」としたのも、これが理由だ。 雑司ヶ谷の地名の由来についても「ぞうしがや――鬼子母神門前とその周辺」にちゃんと書いてある。@もと法明寺(後で行きます)の雑司領であったからとする説、A小日向金剛寺(文京区春日にあった曹洞宗寺院)の雑司領であったからとする説があるが、B元弘・建武期(一三三一〜三七)に朝廷の雑士(ぞうし)を勤めた柳下氏、長島氏、戸張氏がこの地に土着したためであろうというのが、この資料館の結論だ。
古い池袋周辺の地図を見ても私にはさっぱり分らないが、平野さんや三澤さん、松下さんは詳しい。「ボクはこの近くに住んでたんだから」と平野さんが地図を指差す。西武池袋線はもと武蔵野鉄道と言った。戦後すぐの九月に西武鉄道と合併、当初は西武農業鉄道株式会社を名乗ったが、翌年には西武鉄道株式会社となって現在に至る。西武鉄道と武蔵野鉄道との間には随分ややこしい関係があって、この合併には堤康次郎と五島慶太の確執があったらしいし、根津財閥も関係する。(西武鉄道株N表)「二階建ての小さなデパートだったよ」武蔵野デパートと言ったのが今の西武百貨店だ。 戦後の家電製品を並べたコーナーで、古いテレビを見れば「ローハイド」とか「コンバット」なんかを見たと、三澤さんが相変わらず盛り上がる。 長崎アトリエ村の様子を展示したコーナーがある。アトリエの模型を見れば、天井の高い十五畳ほどのアトリエに、三畳程度の居室を付け加えた一戸建ての家だ。資料館でもらった資料によれば、もともと奈良次雄(有名な人なのだろうか、私は知りません)の祖母が、孫と同じように美術家を目指す若者達のために、昭和六年に要町に建てたのが始めと言う。その後同じような借家が次々に建てられ、六十軒ほどの規模になり、池袋モンパルナスとも言われた。アトリエ村の地図には居住者の名前が記されていて、ここで関野さんが知り合いの名前を発見した。斎藤求という油絵の画家だそうだが、硝子のケースにその絵も展示されている。晩年世田谷に移住してきて、関野さんの碁会に参加した。同じ五段だからちょうど良い手合いだったそうだ。関野さんは喜んでいる。 一階の喫茶室でコーヒー休憩。外に出ると雨が烈しくなっている。 JRの大きなガード下を抜け東口に出る。明治通りを横断してジュンク堂の脇から東通りに入る。この辺りで、「ちょっと早めに昼飯にしよう」と三澤さんの提案で、ちょうど目に付いたパスタ屋に入る。十一時半だから店内は空いていて、九人がゆっくり席に着くことが出来た。私はこんな店に入るのは初めてで、メニューを見ても何を注文してよいのかまるで見当がつかない。仕方がないから島村さんが注文したホウレン草と茄子のスパゲティにあわせた。平野さん、大川さんもたぶん私と似たようなものだったのではないか。同じ物を注文する。江口さんはイカ墨スパゲティ、三澤さんはナポリタン。松下さんと橋本さんは何だか難しそうな名前のものを注文した。 橋本さんは、先日来松下さんにドイツ歌曲の歌詞を教えてもらう約束だったらしい。松下さんは辞書を片手にしながら、しかしほとんどその辞書は使わずに、逐語的に訳している。橋本さんは実に多彩な趣味を持っている人だ。オペラは詳しいしカンツォーネは三年間習ったことがあるという。この仲間でその教養に太刀打ちできるのは松下さんしかいない。「イタリア語なら俺だって知ってる。ナポリタンとかさ」三澤さんが茶化す。橋本さんの尊敬を一身に浴びている松下さんに対抗して、平野さんはイッヒ・リーベ・ディッヒと口走り、「その言葉は奥さんか本当に親しい恋人にしか使ってはいけないんです」と松下さんに窘められる。私や島村さんは唖然とするばかりだ。だんだん店内も混んで来て、「だから早く入って良かっただろう、昼前だからちゃんと座れたんだよ」と講釈師が自慢する。 ほぼ食べ終わりそろそろ出ようかと思ったとき、ウェイトレスが、コーヒーか紅茶もつきますと言う。関野さんは「無料ですか」と確かめた上で、堂々とコーヒーを注文した。笑顔の可愛い女の子。店を出ると雨は少し小降りになっている。「まだスタートしたばかりで、随分のんびりしましたね。コースは大丈夫ですか」と関野さんが心配する。雑司ヶ谷霊園で時間を調整すれば、五時頃に終了するのではないだろうか。 東通商店街を歩き始めると食べるところは一杯あるが、「もうこんな時間じゃ、全員入れないの。あそこに入って正解だよ」と三澤さんがしつこく主張する。法明寺参道に曲がれば、右側が墓地、左が広大な寺域になっている。狭い路地で数人の女子高生とすれ違う。途中の威光稲荷は入口が塞いであって入れない。池袋駅からそれ程離れていない場所に、こんな広い寺があることに、大川さん、島村さんも驚く。 参道を抜ければ右側の墓域の入口には、豊島一族(道潅に滅ぼされた一族)、楠公息女、小幡景憲(「甲陽軍鑑」を著した)、三代目小さん(漱石が天才と称した)などの墓があると説明されているが、とても探せるものではないだろう。松下さんの友人に、豊島一族の末裔がいると言う。墓探しは諦めて威光山法明寺の山門をくぐって境内に入る。 この寺は弘仁元年(八一〇)真言宗として創建されたが、正嘉元年(一二五七)日蓮宗に改宗したから、実に古い由緒を誇る。春になれば桜の名所になるらしい。 享保十七年(一七三二)再鋳された梵鐘がある。鐘の下縁に曲尺、木升、天秤、算盤等の江戸時代の庶民生活を表す用具が図案化されているため、昭和十九年に文部省の重要美術品に認定され、お蔭で戦時中の供出を免れたということだ。本堂の前にある天水桶(と言うのだろうか)を見て橋本さんが、釜の形をしているのはどうしてかと質問する。本堂の両脇に狛犬が安置されているのも、寺としては珍しいのではないだろうか。山門の右手に酒井抱一の朝顔の絵に添えて句が彫られた蕣塚(あさがおづか)がある筈だが発見できなかった(下見の時には確かに見たのだけれど)。 「鬼子母神に行ったらフクロウを買おうよ」と三澤さんが急かすので、それでは鬼子母神に向かおうと山門を出ると、松下さん、橋本さんの姿が見えない。どうしたのだろう。墓の方に行ったのだろうかと墓地の方を見に行くが、たらいで手桶を洗っているおばさんが、誰も来なかったと言う。コースは知っているのだから、取敢えず行ってみよう。蓮光院、玄静院、観静院など子院がいくつか並んでいる。 鬼子母神に着くと、「遅いじゃないですか」と向こうの方から二人が現れた。「案内板を読んでいる内に誰もいなくなっちゃうんだから」。そのときには私たちは寺の本堂の方に入っていたのだろう。置いて行かれてしまったと思い込んだ松下さんと橋本さんが慌てて鬼子母神に来たときには、まだ誰も到着していない。私たちは二人を探していた積りだったのだけれど。「ふたりで駆け落ちしちゃったんじゃないかと思ったよ」と三澤さんが悪態を吐く。「佐藤さん、このことは二ページ位使って、大々的に書いてくれよ。どうも、あのドイツ語あたりから怪しい」。宗匠も句を捻り出す。 秋雨に しけこむ二人 鬼子母神 快歩 鬼子母神についても勉強しなければならない。三澤さんが講釈してくれたが、それを整理すると、こういうことになる。
○ 雑司ヶ谷鬼子母神、参詣群集する事始まる(江戸町人、伊勢屋武兵衛といふ者、社を再建す) 樹齢六百年の公孫樹は幹周り八メートルにもなる。樹高は都内では麻布善福寺、府中大国魂神社に次いで第三位に相当する。「葉が少し小さいんじゃないでしょうか」と橋本さんが疑問を感じる。三澤さんはフクロウを買うと言っていたが、「ススキミミズク」のことだ。しかし上川口屋は戸を閉ざしている。昔懐かしい駄菓子を並べている店なのだが、三澤さんがしきりに悔しがる。 ススキミミズクの由来はこうだ。久米と言う娘が病気の母を看病しながら暮していた。しかし薬も買えないような貧しさの中で、鬼子母神に祈ると夢に鬼子母神が現れ、ススキミミズクの造り方を教えた。これを門前町で売ると飛ぶように売れ、お蔭で薬も買えるようになり、母も健康を取り戻した。 大門ケヤキ並木を抜け都電の踏切を渡ると、地下鉄駅の新設工事をしている。マンションの間の狭い道を抜けて行くと「ここだよ」と三澤さんが声を掛けてくる。「和カフェ・ラバさん」と看板を出している店だ。戦後初の衆議院議員選挙にタレント議員第一号として当選したから有名だ、と三澤さんが言うのだが、いまどき知っている人がいるだろうか。その石田一松の縁者がやっている店だそうだ。いつものことながら、講釈師は実に何でも知っている。演歌師。「のんき節」で有名なのだが、実際の歌を私は知らない。一松はこんな歌詞で歌っているようだ。勿論即興で、いくらでも歌詞は変えただろうが。
こうなれば、「ノンキ節」の元祖唖然坊も引いて見たくなる。今日のコースには全く関係ないことで、こんなことましていては先に進めない。ヤケクソ気味で、添田唖然坊『流行歌・明治大正史』を開く。一部分だけを抜粋するが、こんな歌詞だ。
初めての人は管理事務所で地図を入手できる。販売しているのではなく、寄付をお願いするという趣旨だから、財団法人東京都公園協会の東京都都市緑化基金にあてられる。地図の裏は索引になっているのだが、押川春浪が「春波」と記されていてがっかりする。小雨模様で、時折雨脚は強く降るが、それほど長続きはしない。私が先頭に立って探して歩くが、傘をさしながら地図を見ているから、どうも探し当てるのが難しい。 最初は小栗上野介忠順だ。「今でも御用金のありかを探してる奴がいるんだよ」と三澤さん。「もっとも強硬な主戦論者でした」と言うのは松下さんだ。その死の当時から、徹底抗戦のための軍資金を隠したのではないかと噂されていたのだ。安政七年(一八六〇)三十四歳の時、井伊大老の抜擢によって日米修好通商条約批准のため米艦ポウハタン号で渡米、地球一周して帰国した。その後、外国奉行、勘定奉行勝手方、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行、海軍奉行並を歴任した。有能だから用いられるが、行く先々で上司同僚を罵倒し喧嘩して退けられ、また登用される繰り返しの人生だった。日本最初の株式会社は坂本竜馬の海援隊だと思っていたが、実はそれより先、小栗上野介が兵庫商社を設立している。横須賀製鉄所、横浜造船所の設立、フランス式陸軍制度など、近代化に向けた小栗の功績は大きい。幕府瓦解時、最も強硬に主戦論を主張したから西軍には睨まれ、慶應四年閏四月六日、理由も不明のまま理不尽に斬首された。福地桜痴『幕末政治家』では岩瀬忠震、水野筑後守忠徳と並んで幕末政治家三傑に数えられている。
永井荷風・禾原先生(父久一郎)の墓の前を行き過ぎてうろうろしていると、関野さんが「あれが荷風ですか」と目敏く見つけてくれる。禾原の「原」の文字が欠けて見えない。 それにちょうど向き合うように、岩瀬肥後守忠震の墓がある。良く見れば「岩瀬肥後守通り」と刻んだ小さな石柱が立っている。「肥後守って、私にはナイフのことしか思いだせない」と関野さん。 老中首座堀田正睦の下で、外務官僚としてハリスとの日米修好通商条約交渉にあたった。京都での勅許請願は失敗し、勅許なしで条約が調印された。後、一橋慶喜擁立運動に連座して忠震は井伊直弼によって罷免され、蟄居した。
無想庵の親友には辻潤、谷崎潤一郎、川田順などがいる。大蔵経を全巻読破してしまうほどの博識に芥川が驚嘆した。幸田露伴と徹宵語り尽くして語り尽せない程、その知識は和漢洋古今に及んだという。三島家の長男だが、父の写真の師である武林家の養子に迎えられ、贅沢な生活を送った。実家の異母妹に子供を産ませ、パリでは妻を寝取られ、もうなんというか無茶苦茶な一生を送った。娘イヴォンヌ(五百野)は辻潤の息子まことと結婚、後離婚。イヴォンヌは、夏彦と結婚した方が良かったかと、無想庵に尋ねたことがある。晩年、全くの盲目になりながら最後の妻に口述筆記をさせ、長い自伝を書いた。 小泉八雲・セツ子夫妻も並んでいる。探そうと思えばいくらでも歩けるのだが、後のコースを考えればそろそろ切り上げ時だろう。漱石を見て、ここはおしまいにしようと相談がまとまった。文献院古道漱石居士、円明院清操浄鏡大姉が二つ並んでいる。今日見た墓では最も立派なものだ。「夏目家は金持ちだ」「著作権はいつまで有効なのだろう」「房之介は孫かい」「半藤一利は孫の旦那さん」などなど。こう見てくると、この漱石夫妻のものだけが墓に戒名を記している。戒名を付けるという習慣は決して古いものではないということが分る。墓石の裏に回って「ヒナの名前があります。余ほど可愛がっていたんでしょうね」と松下さんが言う。僅か一歳七ヶ月で死んだ五女雛子のことだ。 江口さんは東洋大学で公開講座(印度思想史)を受講するため、ここで一旦別れる。夕方、巣鴨で予定している反省会には参加するよと言い残して、宗匠は白山方面に向かった。このために江口宗匠は先週、今日の後半コースを一人で回っている。しかし、五十歳台半ばになって印度思想史を勉強している江口さんって凄い。 今日はやめたが、下見のときに見たのはこんな人たちだった。 安藤鶴夫(花島家墓所という立派な墓所だ)。義太夫八代目竹本都太夫の長男で、本名は花島鶴夫だ。川崎さんが大好きな人、と言えば松下さんも「私も好きです」と言う。 伊澤修二は文部官僚。「音楽取調掛」として『小学唱歌』を創始。近代音楽教育の基礎を築いた。日本人の耳が西洋音階を受け入れるために、唱歌は大きな力を発揮した。伊澤の功績は大きい。『赤い鳥』を始めとする童心派の連中は、この唱歌に対抗したのだった。 市村羽左衛門。市村家は代々、江戸川区の大雲寺に葬られているが、この十五世羽左衛門の墓だけがこの雑司ヶ谷にある。混血で十四世の養子になったことが、なにか影響しているのだろうか。 押川春浪。地図の裏の索引には「春波」と印刷されているので、間違える人もいるかも知れない。父方義は東北学院の初代院長。雑誌「武侠世界」「冒険世界」等を創刊、冒険小説を書いた。『海底軍艦』はジュール・ベルヌの明らかな模倣。横田順弥『快男子押川春浪』という伝記がある。横田は日本SF史の源流を訪ねて春浪に出会った。『断腸亭日乗』には、酔った春浪が荷風の席に暴れこんできたのを顰蹙している記事もある。 村山槐多。学生時代に『槐多全集』を買ったことがある。昼飯が食えなくて、近所の古本屋に五百円で売り払ってしまったのが、今では勿体ない。天才画家と称されたが、私には槐多の絵も詩もよく分らない。松永伍一『荘厳なる詩祭』という、夭折した詩人ばかりを書いた本で出会ったのではなかったか。京都府立第一中学校在籍中多数の詩や小説、戯曲などを創作した。『尿する裸僧』、『槐多の歌へる』あり。何度か日本美術院賞などを受賞するが、貧困と放埓な生活で発病した結核性肺炎に苦しみ、「白いコスモス」「飛行船の物憂き光」という謎めいた言葉を残して死んだ。二十二歳。 その他に、島村抱月、中浜万次郎、荻野吟子(明治一八年、政府公認の女医第一号)。 「近くですから旧宣教師館に行きましょう」と、今度は松下さんが先導してくれる。狭く分り難い路地を曲がって行くと、その前の道だけがレンガで舗装されている。木造二階建ての建物だ。児童図書コーナーで「赤い鳥」を読む会が催されているようで、狭い玄関に靴が一杯並んでいる。一階二階とも三部屋づづあり、それを回廊のように廊下が囲んでいる。二階の廊下はサンルームを兼ねていたのではないかというのが、松下さんの意見だ。 明治二五年(一八九二)に来日したJ・マッケーレブが、明治四〇年にこの地に建てた。私は知識がないので、もらったパンフレットを鵜呑みにするだけだが、十九世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した素朴な建物だということだ。おそらくアメリカのピューリタニズムが最も美しく、理想を掲げていた時代だ。美しかったアメリカの理想や「正義」も時代が変われば最も醜悪なものに変わっていく。なにもブッシュが初めて露わにしたわけではない。二〇世紀後半からのアメリカの最大の問題がそこにあるだろう。 各部屋に暖炉の設備がある。二階の浴室に水道設備がないのは、湯を汲んで、浴槽で体を洗うだけだからだ。二階の一部屋は秋田雨雀を中心とする雑司ヶ谷文化人のコーナーになっている。 この路地から護国寺に向かうのはどう歩けばよいのか。流石に松下さんも困っていると、ちょうどアパートから出てくる若者がいて、聞くとすぐに分った。谷を覗き込むような坂道を下り、左に曲がるとすぐに音羽通りの首都高速の高架下に出た。下見の時には墓地の方から入ったのだが、今日はちゃんと不忍通りに曲がって、正面から入る。 護国寺は大塚薬園のあった場所だが、五代将軍綱吉が生母桂昌院の帰依した亮賢僧正に与えて、天和元年(一六八一)に開山した。神齢山悉地院護国寺と、こけおどしのような山号がついている。真言宗豊山派。 真言宗は本家本元の高野山真言宗のほか、醍醐派、御室派、智山派、豊山派、新義真言宗などのいくつかの派に分かれている。その違いはまるで分らないが、豊山というのはもともと奈良の長谷寺の山号で、だから長谷寺が豊山派の総本山になっていると松下さんが説明してくれる。大川さんが、関西には豊山派は少ないのではないかと言うと(余り口数は多くないが、大川さんはいろんなことを知っている)、松下さんはその通りだと答える。東国に多いそうだ。この護国寺は大本山になる。 「私は宗派なんて全く知りません」と橋本さんが嘆くが、普通の人にはこんなことは関係ない。空海のもたらした密教は日本仏教に大きな影響を与えたが(そもそも密教は仏教なのかという議論もあるのだが)、その死後、真言宗は余り振るわなかったから四分五裂したのではないか。最澄没後広範な展開を見せた天台宗と較べて、真言宗が振るわなかった理由を末木文美土はこう推定している。
不老門に登る石段を見上げると、傘をさして下りてくる和服の若い女性がいて、三澤さんが歓声を上げる。「いいよな、この光景にぴったりだ。」全員が見上げているものだから恥ずかしそうに下りてくる女性に、三澤さんが「良いね、あってるよ」と声を掛けると(こんな胡乱なおじさんに声を掛けられれば、普通は逃げていくのではないか)、「お茶会があったんです」と小さく答えてくれる。ちょっと可愛い。傘が蛇の目ならもっと良かった。島村さんは藤純子を連想し、あろうことか夏目雅子の名を口にした人もいる。平野さんは三好達治を思い出す。
護国寺は何度かの火事を経験したが、元禄時代の建造物が多く残っている。不老門から右手にある大師堂は元禄十四年築の旧薬師堂、本堂は元禄十年の観音堂を移築したものだ。それに本堂左の薬師堂は元禄四年の旧一切堂だ。その手前の月光殿は桃山時代の建立で、大津三井寺の日光院客殿を一九したものだという。 音羽ゆりかご会の看板を見る。昭和八年に創設された最も古い児童合唱団だ。創立者の海沼實は『赤い鳥』の詩人である草川信の弟子として音楽活動を始めた。合唱団結成にあたって、草川が自作『ゆりかごのうた』を贈り、北原白秋が「ゆりかご会」と命名した。戦中戦後、川田正子を筆頭に子どもの歌手が活躍した。 護国寺に沿って工事中の建物の脇の細い路地を入っていくと、吹上稲荷の参道に出る。もと江戸城紅葉山吹上御殿にあったものを、数度の移転後、大正の頃この地に移したので、吹上の名がある。小さな神社だが、稲荷の幟の色が青い。「稲荷は赤って決まってるんじゃないんですか」と私の代わりに関野さんが聞いてくれると、「赤は伏見稲荷の系統だ」と三澤さんが答える。「疲れちゃった」と橋本さんがタバコを取り出してちょっと休憩。本殿の右隣の民家の窓を叩くと、テレビを見ていたおじさんが名簿を出してくれるので、そこに住所氏名電話番号人数を記入する。大塚先儒墓所の鍵を借りるのだ。 裏参道から左に曲がればすぐ大塚先儒墓所だ。南京錠を開けて、石段を登る。それ程広くはない敷地に、まばらに松の木が立っている。その木立の間に墓が、おそらく家族や門人毎のグループによるのだろうか、あっちに数基、こっちに数基と、少しづつ纏まって散在している。寺の墓地でみるような仕切りはどこにもない。墓石の大きさは普通の(つまり私程度の家の)墓石と変わりはない。むしろ粗末、と言えなくもないようだ。関野さんが気が付いたのだが、墓石の上面は平らではなく、鈍角の四角錐のようになっている。珍しいかも知れない。右手一番奥に、室鳩巣は妻と並んでいる。
儒学くらい、現在の私たちにとって馴染みの薄いものはないのではないか。取り敢えず名前だけは知っている者もいるが、その学問がどうであったか、なんてことはちっとも知らない。別にそれで不都合も何もないのだが、江戸期を通してあれほど権威を保った学問が、全く忘れられてしまうということが不思議と言えば不思議だ。名前だけは知っているその中に室鳩巣がいて、その墓がここにある。木下順庵の弟子に五人の有力な儒者が生まれたというのだが、私の知っているのは新井白石、室鳩巣、雨森芳州の三人だ。彼らは朱子学を基準にして政治評論、あるいは大名の政治顧問をしていた。
鳩巣、朱子学を墨守す。深く当世好みて異議を立つる者を悪み、(略) とあって、鳩巣は異端の説(朱子学以外)には厳しく反対した。鳩巣が批判したのは、当時流行していた山崎闇斎(垂加神道)、伊藤仁斎(古学)、荻生徂徠(古文辞学)などだ。その異端排撃の姿勢が、後、寛政異学の禁に活躍した柴野栗山などに大きく影響する。と知ってしまうと、思想科学の進歩に逆行した人物だったのかと、私は思ってしまう。 坂下通りを突っ切ると旧町名「大塚坂下町」だ。道路と家の敷地との間に段差があって、そこに二三段の階段をつけた古い民家が並んでいる。「昔の家はみんなこうだったよ」と三澤さんが語る。マンションが建つ狭い道を上りきると新大塚駅の前だ。ここから南大塚通りを北上する。だんだん、平野さん、橋本さんの足が重くなる。逆に私の方は別に急いでいる積りはないのに足が速くなってしまって、次第に間隔が開いて来る。島村さんも腰が痛くなってきたようだ。いつもは先頭を切って歩く松下さんもやや遅れ気味だ。 大塚駅前の商店街には、ちょっと寄ってみたい飲み屋が並んでいる。そこを抜け、左に曲がれば天祖神社に到着する。子を抱いた狛犬は髪がカールしているから唐獅子だ。夫婦イチョウ。私は雌雄の区別が分らないが、平野さん、橋本さんは当然すぐに判別する。わざわざ「東京都文化財」とご大層に置かれている「さざれ石」を見て、「礫岩ね」と橋本さんはそっけない。「だからサイエンチストは情緒がないんですよ」と松下さんが嘆く。 「都電に乗って行こうよ」と講釈師が言うが、もう十五分ほどだから、我慢してもらおう。都電の線路を横に見ながら真っ直ぐ北へ、ここは折戸通りと名付けられている。漸く雨が気にならなくなった。傘を閉じて十五分ほど歩けば巣鴨庚申塚だ。駅名に採用されるほどだから、全国有数の庚申塚だと考えてよいだろう。 猿田彦を祀る。猿田彦はニニギノミコトが降臨したとき道案内を買って出たから、道祖神と同一視され、街道の分岐点などに祭られることが多い。日本書紀を見れば、ニニギの使者として指名されたウズメが、(古事記には書いていないのだが)天の岩戸と同じようにここでも胸をあらわに出し、裳裾の紐を臍の下まで下ろしながら猿田彦に問いかけるのだ。よくよく裸になりたがる女だ。また初めて猿田彦に面談したことから、ウズメはその名を貰い、その一族は猿女の君と名乗るようになる。おそらく遊芸を専門とする集団が伝える始祖伝説によるのだろう。 猿田彦は鼻の長さ七握、背の高さ七尺余り、目は赤ほうずきのように光り輝いていた。あまり格好よくはない。後、漁をしていて貝に手を食いちぎられ、溺れ死んだ(これは古事記にある)。庚申信仰については、亀田リーダー(生態系保護協会)から何度聞いたか分らない。私たちには既にお馴染みだが、庚申の日に猿田彦を祀る慣習は、どうやら山崎闇斎の垂加神道が始めたものらしい。
この近くには延命地蔵や明治女学校跡がある。振袖火事の火元になったとされ本郷から移転してきた本妙寺も、ヤッチャバ(東京中央卸売市場豊島市場)のすぐ裏手にあって、そこには遠山金四郎や千葉周作の墓がある。染井霊園には二葉亭四迷や高村光太郎・智恵子、若松賎子などが眠っている。今度余裕があれば行きましょうと言うと、「ほんとに佐藤さんはお墓が好きだな」と松下さんが笑う。「だって生きている人はうるさすぎる」と私はわざと三澤さんの顔を見る。 雨のせいか、地蔵通り商店街の人通りは普段よりも少ないようだ。この界隈に来ると三澤さんの舌は絶好調だ。「ここは特攻隊生き残りの店、名物は牡丹餅だよ」と橋本さんに言うが、「わたし、甘いものはちょっと」と橋本さんが答える。この蕎麦屋が旨い。老人だけが集り、新しい歌を歌ってはいけないカラオケ屋。講釈師は実に詳しい。小さな郷土資料館でトイレ休憩をする。 巣鴨の地名はもと「須加茂」「洲処面」「菅面」「洲鴨」と書かれた。近くに石神井川が流れ、それに臨んだ地域として洲処面と名付けられと言う。また大きな池があって、鴨が住んでいたとも言われる。(大石学『地名で読む江戸の町』) 有名なとげ抜き地蔵(万頂山高岩寺)。高岩寺自体は慶長元年(一五九六)に湯島に開基したから由緒は古い。明暦の頃(振袖火事で焼け出されたのだろう)下谷屏風谷に移転し、巣鴨に来たのは明治二四年のことだ。「ここは何宗ですか」と橋本さんが聞く。曹洞宗だ。門前で托鉢に立っている僧を見て、三澤さんが「アルバイトもいるらしいよ」と悪口を言う。 地蔵の体をこするために並ぶ列が普段よりは短そうで、平野さんがそこに並ぶ。私は何度か来ているが、いつも人が大勢並んでいるから、実はこの地蔵をゆっくり見たことがない。しばらくして平野さんが「腰と頭をさすってきた」と戻ってきた。「昔はタワシで擦っていたけど、磨り減っちゃうからさ。今は布でこするんだ」というのは講釈師だ。 商店街を歩けば、赤いパンツを売っている店、春日三球の店、カレーうどんの旨い店、蜂蜜屋。どこを見ても講釈師の舌は止まらない。 商店街の出口、と言うより入口と言うべきだろう。医王山真性寺に江戸六地蔵第四番の丈六地蔵が安置されている。深川の沙門正元が発願し、江戸六街道の入口に安置した。鋳造したのは神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀と言う。とげ抜き地蔵に較べて人気は余りないようだが、巣鴨の地蔵と言えば、こちらの方が本家本元であるのは間違いない。 丈六地蔵の前に来ていながら、「お地蔵さん、どこにあるんですか」と不思議そうに聞くのが橋本さんだ。眼の前にあるでしょう。余り大きく過ぎてイメージと違ったらしい。「だって、お地蔵さんって、普通は道端にひっそりと立ってるでしょ。こんなに大きいなんて」どうやら野仏のようなものを想像していたのだろう。 一番南品川の品川寺(東海道)、二番浅草東禅寺(奥州街道)、三番新宿太宗寺(甲州街道)、四番がここ巣鴨真性寺(中山道)、五番深川霊巖寺(水戸街道)が現存している。六番深川永代寺(千葉街道)のものは現在ない。 菊祭りの真っ最中で、狭い境内には菊が飾られ、屋台が出ている。
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