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    第八十回 西池袋・南長崎・落合
      平成三十一年一月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2019.01.27

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     平成最後の年が明けた。この三十年を総括しておかなければならず、小熊英二編『平成史』や、斎藤美奈子・成田龍一編『1980年代』等を読み返している。
     平成の幕開けとして多くの論者は、昭和六十年(一九八五)九月のプラザ合意を取り上げる。アメリカ経済を守るための円高誘導に始まり、これ以後日本は際限なく譲歩と敗退を強いられていく。一時のバブル景気も五年後には崩壊し、大銀行や証券会社の倒産が続くという夢想もしない時代に至った。平成三年(一九九一)にはソ連が崩壊し冷戦構造が終結した。グローバル化という名のアメリカ化が進み、世界的に新自由主義と金融資本主義によって格差が拡大し、大量の貧困と分断が生み出された。イギリスのEU離脱を巡る混乱、アメリカのトランプ登場、フランスの大規模デモ、世界的な右翼の台頭等全ての根っこは同じ所にある。
     日本では、特に小泉純一郎による規制緩和と構造改革が、格差を修復不可能なまでに深めてしまった。非正規低賃金労働者は拡大の一途を辿り、見かけ上、失業率は改善した。憎悪と反知性主義が蔓延し、人文社会科学への無関心と軽視が拡大した。その代替が、雑学的知識のつまみ食いで成立するクイズ番組の盛況である。
     これら全ては、インターネットが爆発的に拡大した時代と密接に結びついている。メディア環境研究所「メディア定点調査2018」によれば、スマートフォンの所有率は七九・四パーセントとなった。どこもかしこもスマホ人(西部邁の用語)が溢れかえり、ガラケー人種は絶滅寸前である。便利だというのは分っても、便利で快適過ぎるものに頼るのは知性を崩壊させる。世界は既にブラッドベリ『華氏451度』の世界に入ってしまったようだ。
     小選挙区制のもとで、官邸の力が異常に大きくなり政治が著しく劣化した。左翼はもとより、リベラルも真っ当な保守も消え失せた。行政の劣化も甚だしい。厚生労働省の勤労統計が長年に亘って偽りであったことも判明した。自衛隊の日報問題、森友・加計に関わる公文書の隠蔽、捏造、技能実習生への聞き取り調査結果の改竄に続き、歴史の検証に備えるべき基本文書が、こんなにもいい加減に扱われる時代はなかった。
     これに阪神淡路、東日本大震災と原発事故、更に全国的に頻発する大規模水害や地震を加えれば、平成は最悪の時代であったと後に回顧されるに違いない。今上天皇の真摯な祈りだけが突出して光るとすれば、やはり不幸な時代なのである。
     やや希望が持てるのは、二年前の呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)以来、新書を中心に日本史の啓蒙書が目立つようになったことだ。歴史修正主義に対抗するためには発言し続けなければならないと、漸く歴史研究者が気付いたのではないか。最近読んだものでお薦めは、呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)、中公新書編集部編『日本史の論点』(中公新書)、佐藤信編『古代史講義』(ちくま新書)、高橋典幸・五味文彦編『中世史講義』(ちくま新書)等だ。

     旧暦十二月七日。小寒の次候「水泉動(しみずあたたかをふくむ)。」乾燥した日が続いていたが、今日は夕方から雨か雪になる予報が出ている。歩いているうちは大丈夫だろうが、念のため折り畳み傘をリュックに入れて来た。
     今回は私の企画で、集合はJR池袋駅南口とした。池袋駅での待ち合わせは結構悩むが、山手線、埼京線等で一番新宿寄りの階段を上がってくれれば良いので簡単だろう。一番早かったダンディ、少し遅れて来た三人には、ここは寒いのでエスカレーターを降りた所(東武東上線の正面入口前)で待って貰うことにした。ロダンからは、別の改札から出たので集合場所を教えてくれと電話が入った。しかしそれ以降、定刻十分前になっても人が来ない。おかしい。
     下に降りていた桃太郎が様子を見に来た時、あんみつ姫から電話が入った。「南口にいるんですけど。四人一緒です。」私が南口と思い込んでいたのはメトロポリタン口で、南口は別にあったのだ。「待ち合わせ場所は正確に書かないと。」ダンディたちがいる筈の場所に移動して貰う。
     それ以上誰も来ない。十時になって桃太郎と一緒に降りると、ちょうど西武線の方から回って来たマリオが到着した。「イヤー、参った。西武線で駅員に南口を訊いたら、南の方へ行けって言うだけなんだ。」西武線で来る人を私は想定していなかったが、よく辿り着いてくれた。これで今日の参加者はハイジ、あんみつ姫、マリー、ダンディ、講釈師、ヨッシー、マリオ、ファーブル、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十一人に決まった。スナフキンは東京経済大学の講座に出席するため、反省会だけ参加する予定だ。ヤマチャンからは欠席の連絡を受けている。
     駅舎を出て道を渡って左に歩くと、ホテルメトロポリタンの手前の角に元池袋史跡公園がある。豊島区西池袋一丁目九十二号。隣接する池袋デュープレックスタワーの敷地内に、池袋の地名の由来になった池(弦巻川の水源である丸池、あるいは袋池)があったことを記念する公園だ。但し池の場所はこの辺の他に、谷端川流域の雲雀ヶ谷戸と呼ばれる低湿地だという説もある。
     白壁にはフクロウの彫刻が多く飾られている。「どうして?」「池袋はシンボルにしてるんですよ。」「イケフクロウなんだ。」下手な洒落だが、池袋駅周辺にはあちこちにフクロウの彫刻が置かれている。「雑司ヶ谷にもあるね。」「あそこはミミズクですけどね。」区の形が羽を広げたフクロウに似ている(?)こと、郷土玩具「すすきみみずく」が伝わっていること等を理由にしているらしい。
     その白壁の前にあるのが「成蹊学園発祥之地」碑だ。「有名な文句が書いてますね。」「桃李不言下自成蹊。」これが成蹊学園の由来である。出典は『史記』「李将軍列伝」にある。

     太史公曰はく。
     伝に曰はく、「其の身正しかれば令せずして行はれ、其の身正しからざれば令すと雖も従はれず。」と。其れ李将軍の謂ひなり。余李将軍を睹(み)るに、悛悛として鄙人のごとく、口道辞する能はず。死の日に及びて、天下知ると知らざると皆為に哀しみを尽くせり。彼の其の忠実心、誠に士大夫に信ぜられたるなり。諺に曰はく、「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」 此の言小なりと雖も、以て大を喩ふべきなり。

     『史記』を引用したので思い出したのは、武田泰淳『史記の世界』冒頭の「司馬遷は生き恥さらした男である」の書き出しで、秋田の高校生はこれにシビレた。どんな辱めを受けても、歴史家は必ず生き延びて真実を記録しなければならないとの謂いである。しかしこれは当面の問題と関係なかった。
     明治三十九年(一九〇六)、中村春二は本郷に私塾「成蹊園」を開いた。そして今村銀行(後に第一銀行に吸収)の今村繁三と、三菱の岩崎小弥太の全面的な財政的支援を受け、明治四十五年(一九一二)には成蹊実務学校を池袋に開校した。これが成蹊学園の発祥である。その後、周辺に中学校・小学校・女学校・実業専門学校を順次開校して、敷地面積は二万坪余りになった。岩崎から別荘地の寄贈を受けて吉祥寺に移転するのは大正十三年(一九二四)である。
     また、東京芸術劇場や西口公園の辺りには豊島師範学校(明治四十二年創立)があった。「今の大学だと、どこになる?」「東京学芸大の母体の一つ。」名称を変更して青山の東京第一師範、豊島の第二師範、大泉の第三師範に東京青年師範を合わせて四校が東京学芸大学になった。「筑波ですか?」「あれは教育大学。東京高等師範だよ。」
     立教や自由学園を含めて、この周辺は文教地区だった。しかし空襲で一面焼け野原になって西口ヤミ市が形成された。そのヤミ市が一掃されるのは昭和三十七年だから、ヨッシー、ダンディ、講釈師の世代にとっては、池袋は場末のいかがわしい町だったに違いない。

     池袋をはじめ豊島区は一九四五(昭和二十)年四月十三日を中心とする大空襲により、大きな被害を受け、豊島区東部から中央部にかけては、ほとんど焼け野原になりました。池袋駅も焼けましたが、ここは山手線が通り、赤羽線・武蔵野鉄道(現西武池袋線)・東武東上線の終点でもあり、交通の要所でした。しかも武蔵野鉄道や東上線の沿線は戦災にあわないところが多く、池袋は大きな購買力をもつ地域を背後にかかえていたことになります。これらの条件があって、池袋は典型的なヤミ市が形成される街となりました。
     池袋連鎖商店街の分布図や規模概況表および業種別構成表をみればわかるように、一九四七年六月の時点で、池袋に十三か所の連鎖商店街があり、商店は千二百軒以上ありました。これらは星野朗氏の調査によるものです。このなかには必ずしもヤミ市とはいえないものも含まれています。ヤミ市は建物疎開の跡地とか、学校・工場などの焼け跡の空地に建てられました。店の多くは飲み屋を中心とする飲食店でした。それについで食料品を売る店が多く、衣料などの家庭用品をあつかう店もありました。(豊島区「池袋ヤミ市」より)
     https://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/jyousetuten/005872.html

     ホテルメトロポリタンを過ぎ、そのまま真っすぐ大通りを越えて路地に入ると、繁華街の喧騒を離れた西池袋の静かな住宅地になる。大邸宅はなく小さな一戸建の密集する住宅地に、洒落たヨーロッパ風のテラスハウスや小さなマンションも建っている。「ちょっと入ると雰囲気が全然違うね。」ファーブルが驚く。
     「池袋の街は学生時代にかなり歩いたんですか?」桃太郎に訊かれたが、実は殆ど知らない。歩いたのは駅と大学との間、それに大通りの雀荘「東仙坊」、昼飯を食った洋食屋「きよみ」、ジンライムを覚えたロマンス通りの「パブエリート」、新政を飲ませる「天狗」、その近くの赤提灯位で、半径五百メートル程の区域でしかない。四年生のある日、宿酔いの頭でいつもと違う駅の 出口を出てしまって大学への道が分らなくなり、通行人に道を訊いたのは実に不様であった。
     「ブーゲンビリアかな?」民家のフェンスに絡まる紫色の花を見て、ファーブルが姫に確認する。「そうです、ブーゲンビリアですね。」「今頃咲くの?」私は知らなかったが、初夏から秋にかけて咲く花らしい。「南国の花ですからね。でもホントは花じゃないの。」「ガクですか。」
     「結婚式をやってなければ入れるんだけど。」一応コースに組み込んだが、中に入れるかどうかは行ってみないと分らない。明日館(みょうにちかん)の裏口から路地を曲がりこめば婦人之友社があり、その斜向かいが自由学園明日館の正門になる。豊島区西池袋二丁目三十一番二号。昭和九年(一九三四)に学校が東久留米に移転した後は、校友会のイベントや結婚式の会場、公開講座の教室として使われている。
     「前に来た時は結婚式をやってたよな。」講釈師も思い出した。第八回(平成十八年十一月)で目白から雑司ヶ谷、巣鴨周辺を歩いた時のことだ。自由学園や婦人之友社についても、その時の作文に書いてある。「今日は入れますよ。」喫茶付き見学が六百円、ただの見学だけなら四百円である。「お茶もいいですよね」と女性陣が声を揃えるが。それは別の機会にして貰おう。
     大正十年(一九二一)フランク・ロイド・ライトの設計によって建設された建物である。ロイドはたまたま帝国ホテルの設計のために来日していて、その助手を務めていた遠藤新が、友人の羽仁夫妻を引き合わせたのだ。「左右対称だね。」中央棟を除いて他は全部平屋の木造建築である。
     最初の部屋には自由学園の年表や刊行物を並べてある。「古い『婦人之友』がないな。」明治三十六年(一九〇三)、前身の『家庭之友』創刊以来、名称を変えて今も尚続いている息の長い雑誌だが、それほど一般的ではなかったと思う。対象は都市中流階級の主婦だっただろう。昭和二年の調査では、婦人雑誌の販売部数第一位は『主婦の友』の二十万部、次いで『婦女界』十五万部、『婦人倶楽部』十二万部、『婦人世界』八万部、『婦人之友』五万部となっている。
     「モンペの作り方とか書いてたんだ。」講釈師は実際に見ていたのだろうか。そういうテーマは『暮らしの手帖』の方が似つかわしく思うけれど。「『暮らしの手帖』は戦後ですよ。」それはそうに違いない。雑誌購読者を「友の会」に組織したのが羽仁夫妻の工夫だろう。『婦人之友』の主張を実現すべく、会員の子女の教育のために自由学園が創設された。
     食堂の天井が高い。「冬は寒かっただろうね。」暖炉が一つあるだけだ。「熱効率が悪いよ。」「素敵、学生の頃こんなところでお昼を食べたかったわ。」そこから一段上がるとフランク・ロイド・ライトのミュージアムになっている。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれるそうだ。「この窓が有名ですよ」と姫が指摘する。

     前庭に臨むホールの大きな窓は、明日館の顔ともいえる部分です。ライトは限られた工費のなかでいかに空間を充実させるか、ということに尽力しました。
     それはこの窓一つにも明確に表れています。ライトは建物全体の意匠を幾何学模様にまとめ、ホールの窓には高価なステンドグラスを使用する代わりに、木製の窓枠や桟を幾何学的に配して工費を低く抑え、かつユニークな空間構成を実現したのです。(「重要文化財自由学園明日館」)

     全体にどことなく大正自由主義教育の雰囲気が感じられる。喫茶室では若い女性が一人お茶を飲む姿を眺めて素通りする。いくつかの教室では講座が開かれている。珍しく講釈師がJMショップの中に入って人形なんかの小物などを熱心に見ている。私には全く縁のない店だ。「いい値段だよ。」「女性陣はこういう店が好きなんじゃないの?」「でも高いんですよ。」

     正門の前の道を行く。「この辺に坪田譲治の家があったんじゃないか?」講釈師の記憶力は衰えていない。「この角だったと思うよ。」坪田譲治が開いた児童図書館「びわの実文庫」があり、あの時は「坪田」の表札もそのままだったのに、今ではなくなってしまった。案内表示もないから正確な場所が分らない。「池があったろう?赤い鳥の公園。」正式には目白庭園で、鈴木三重吉の旧居に近いので「赤鳥庵」という茶室を併設している。「あれは西武線を渡ってもっと目白寄り。あの時は目白からこっちに向かって歩いて来たんだ。」
     大通りに出た角の、としま産業振興プラザ(昔は勤労福祉会館だった)の七階が豊島区立郷土資料館だ。豊島区西池袋二丁目三十七番四号。外からは資料館があるようには見えない。「全員乗れるかな?」エレベーターには先客が二人いる。「定員十五名だから大丈夫でしょう。」ドアが閉じるのにやたらに時間がかかる。「年寄り用か?」「車椅子を想定してるんですよ。」集団に恐れをなしたのか、四階、五階で降りる筈の先客は二人とも四階で降りて行った。
     「随分きれいになったわね。」小さな資料館で、はっきり言って展示は大したことはない(と思う)が、刊行する図録や資料が充実している。「私は何冊も持ってますよ。」姫は博物館の図録が大好きだ。私も以前ここで『地図・絵図で豊島区を読む』を買っていた。
     一面焼け野原になった池袋を米軍が撮影した写真がある。若旦那は中学三年生でその空襲にあった筈だ。東口ヤミ市(森田組)のジオラマを見れば年寄りは喜ぶ。「輪タクだ。」「木炭車がいる。」「あれは臭かったね。」広場の前のバラックの長屋の一階には中華料理、トンカツ・てんぷら、おでん等の他に、時計、傘、下駄、古物売買、花等の店、二階にはダンスの看板も掲げられているから、終戦直後ではなく多少は落ち着いた頃のものだろう。トイレを済ませて外に出る。
     劇場通りを西池袋一丁目交差点から左斜めに入り、西池袋公園を過ぎて立教通りに曲がれば空気が賑やかになってきた。「何でもあるね。うちの大学の周りは何もなかった。」北海道の大学とは違う。大学の周辺には本屋は勿論だが、喫茶店や雀荘、飲み屋がなければならないと私は思う。「この辺に古本屋がありませんでしたか?」ロダンはどうして知っているのだろう。確かにその角にあった筈で、その店と芳林堂があったから買うべき本は大抵間に合った。それに今よりも本の寿命ははるかに長かったから、店頭になくても注文すれば手に入る。
     そして立教大学の正門に着いた。「来週になるとセンター試験で入れないんだ。」赤レンガに蔦の絡まる建物群は東京都選定歴史的建造物になっている。「ペギー葉山の『学生時代』だよ。蔦の絡まるチャペルで、って言うやつ。」「そのモデルですか?」いい加減なことを言ってしまったが、実は歌のモデルは青山学院大学だった。作詞作曲の平岡精二もペギー葉山も青山学院の卒業生である。確かに立教のチャペルには蔦が絡まっていない。
     守衛がいる訳でもなく、構内には誰でも自由に入れる。最初は正門を入って左手角にある学院展示館に入る。大正八年(一九一九)サミュエル・メーザーの寄付によって建てられ、平成二十二年(二〇一〇)まで図書館として使われた建物である。現在はメーザーライブラリー記念館と呼ばれている。「何人ですか?」「十一人です。」受付簿に卒業年次と学部学科を書き込んでいる間に、受付の女性がパンフレットを配ってくれる。
     床は板張りで二階に上がれば、内部は黒い透かしのパーテーションでいくつも区切られている。「元々は何に使った建物ですか?」「普通の教室」と桃太郎に答えてしまったのは恥ずかしい。旧図書館だと知ってはいたのだが、下見の時には場所が分らず学生に教えて貰った。図書館には入学直後のオリエンテーションで一度入っただけで、私には馴染みがないのだ。足を踏み入れなかったのは、本は自分で買うものだと思っていたし、勉強しないので雑誌論文も必要ないからだ。卒論が必修ではなかったので猶更だ。
     企画展示のテーマは「歴史の舞台、池袋キャンパス―『池袋の立教』その百年―」である。「最初は築地だったんだね?」私も数年前に築地で「立教学院発祥の地」碑を見て初めて知った。明治七年(一八七四)米国聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が、聖書と英学の教育を目的として築地の外国人居留地に設立した立教学校が最初である。大正七年(一九一八)に現在地に移転して来た。「そうか、池袋に移転して百年なんだね。」
     築地時代も含めて展示資料は充実していて、好きな人なら二時間程度は楽しめるだろう。「立派ですね。」「蜻蛉の卒論が保存されてますよ。」私は卒論を書いていない。ロクに勉強もしない学生が剽窃混じりででっち上げるレポートを「論文」と称するのはチャンチャラおかしい。「成績表もありますよ。優秀な学生だったんだな。」
     徳光和夫、関口宏、みのもんたの写真が並べてある。なかにし礼や土居まさるも卒業生だし、古くはディック・ミネ、灰田勝彦の名前から数え上げれば、軟派の巣窟のようではあるまいか。
     「野球は最近低迷していますね。」神宮球場にも行ったことがないし詳しくないが、強かったのは、長嶋、杉浦、元屋敷の時代だけではないか。「大沢親分もいました。」昔、父がどこから貰ってきたのか、この三人のサインボールが家にあった。「長嶋は授業には出てましたかね?」ほとんど出てないんじゃないか。
     窓から見ると雪が降っている。予報より早い。「なんだかお腹がすいてきました。私の腹時計では十一時半です。」「それじゃ飯にしようか。」雪が舞っているが積もることはないだろう。「初雪だ」と講釈師が喜ぶ。「雨よりはましだね。」

      初雪や煉瓦と蔦に遠い日を  蜻蛉

     藤棚の下を通って正面にあるのが第一食堂だ。これも大正八年建築の東京都選定歴史的建造物である。姫の腹時計は殆ど正確で、ちょうど十一時半だ。土曜日はメニューが少ないし、味には期待しないでくれと事前に案内してある。脇の入口から入ると、自動券売機に品切れ表示が目立つが、それでもなんとか全員が食券を買って料理を受け取り席に着く。私は本日のスペシャルランチA「鶏ネギ丼」四百二十円を選んだ。「パスタが丼で出てくるのね」とハイジが驚いている。
     「規模は全然違うけど、オックスフォードに雰囲気が似ている。」ファーブルにオックスフォードと比べられるとは随分光栄なことである。「入学式の後、ここで学科の教員一同が揃って新入生歓迎会をしてくれた。当たり前にビールも出たよ。」「今ならとんでもないよね。」法律はどうであれ、高校を卒業すれば大人と見做され、酒もタバコも完全に自由だった。
     「第一食堂と言うからには第二もあるんですか?」「あると思うけど、どこなのか分らない。」調べてみると五号館地下にレストラン・アイビー、ウィリアムズホール二階(どこだろう)にカフェテリア山小屋、九号館に軽食堂、セントポールズ会館に日比谷松本楼があるようだ。しかし昔はただ「学食」とだけ言っていたような気がするから、一つしかなかったんじゃないか。かなり混み合うし、ここではなく外に出ることが多かった。「学食を使わないなんて、お金持ちですね。」「アルバイトで月に五万円稼いでたからね。」
     土曜日だと言うのに結構混んできた。今どきの学生はホントに真面目に学校にやって来る。「蜻蛉はあんまり来なかったのよね。」一年の頃は出席を取る語学があったから真面目に登校していたが、それでも土曜日の授業は取らなかった。二年の後半からはアルバイトが忙しくなった。登校しても教室に仲間が三人いれば、授業に出ずに雀荘に行くことも多かった。但し真面目に出席するものもあったことは歴史的事実として言っておこう。フランス革命史と秩父事件史で有名な井上幸治教授「史学概論」、キリシタン史研究の海老沢有道教授「古文書演習」(ちっとも身につかなかったけれど)、そして藤木久志助教授「日本史特講(中世)」とゼミである。
     「こんな歌がありました」とダンディが笑いながら『大学数え唄』を歌い出す。「十一とせ、十字架背負ってナンパする、キリスト泣かせの立大生、でしたね。」私は「喧嘩する」と覚えていた。「軟派」は漢字表記だったし、それを動詞形にする用法は当時まだなかったのではないか。守屋浩の歌では、当然のことながら大学名を「ウン大生」と隠してある。
     「あの旗のデザインは何ですかね?」訊かれても分らない。斜めに見上げているから、なんだか家の形のようにも見える。「立じゃないですか。」そう言われればそれが正しい。紺地を白の十字で区切り、左肩に金色で「立」を入れてあるのだ。全く私は立教について何も知らない。ホントに卒業したのだろうか。一番アホだった時代が思い出されて、なんとなく落ち着きが悪い。ボーヨー、ボーヨー。私は中原中也の口真似ばかりしていた。
     やがて女性陣も食べ終わり、身支度を整えて外に出る。雪は小雨に変わっていたが、まだ傘をさすほどではない。
     次は「鈴懸の径」だ。「これだけなんだけどね。」四号館と十号館との間の僅かな間にプラタナスの並木があるのだ。プラタナスは大正十三年(一九二四)に植樹された。古びた煉瓦の台に据え付けられた歌碑は昭和五十七年(一九八二)に建てられたものだから、私の時代にはない。
     「灰田勝彦だよ、知らないのか?」『鈴懸の径』は昭和十七年(一九四二)九月に灰田勝彦が歌った。当時、三拍子の曲は珍しい。ゼミのコンパで恩師が歌った唯一の歌だった。生前の碁聖は「鈴木章治だ」と言っていた。本来三拍子の曲を、戦後に鈴木章治が四拍子のジャズにアレンジして演奏したのだ。
     「作曲はお兄さんですよね?」この辺りは姫の得意分野である。佐伯孝夫作詞、灰田有紀彦(晴彦)作曲。同じ年十月の『新雪』(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)と共に、戦時中には珍しく戦意高揚には全く縁がない。まだ学徒出陣に至っていないこともあるだろうか。葛飾区堀切を歩いた時、九品寺(真言宗豊山派)脇の路地が「鈴懸の径」を称していたのを不思議に思ったが、佐伯孝夫の墓が九品寺にある縁だった。
     「鈴懸って枕詞にありませんか?」「ないと思う。」「スズカケは新しい樹ですよ」と姫が言う。ウィキペディアによれば日本渡来は明治年間のことだ。しかし桃太郎は修験山伏の衣服のことを言っているのだ。「それじゃ行きましょう。」時計台のある一号館を潜る。

     米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから、「モリス館」とも呼ばれる立教のシンボル。一九一九年の落成以来、現在も教室として使われています。中央時計台の時計はイギリス・デント社製で、直径九十センチ。動力は分銅式で、三~四日に一度、手で巻かれています。

     そろそろ傘が必要になってきた。「姫は傘を持ってこなかったの?」「そうなんですよ、コンビニで買わなくちゃ。」正門を出て信号を渡り、姫は正面のセントポールプラザ内のローソンで傘を買った。
     五号館と六号館の間の路地を右に入れば、左手に建つのが江戸川乱歩邸だ。豊島区西池袋五丁目十五番十七号。昭和九年(一九三四)から三十五年(一九六〇)に七十歳で死ぬまで乱歩が住んだ家だ。平井太郎、平井隆太郎の表札が残っている。太郎が乱歩の本名だ。一人息子の隆太郎が立教大学名誉教授(心理学・社会学)だったので、その縁で立教大学が買い取った。水・金の公開日には書庫として使われた土蔵の内部も見られるのだが、今日は外から眺めるだけだ。
     「乱歩の探偵は誰だったかな?」「明智太郎?武智かな?」「明智小五郎だよ。」「小林少年。」「怪獣二十面相。」「ロダンの怪獣がおかしい。」記憶が少しづつ混乱している。『少年探偵団』シリーズは小学生の読書の定番だったし、ラジオ、テレビでも放送されているから、「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団」の主題歌も大抵知っているだろう。
     「なんだか怪しげな話が多かったような気がするんですが。」桃太郎は良く読んだのだろう。乱歩にはエログロとサディズム、それに少年愛がある。本来は本格物を目指した筈だが、売れたのは変格の方だった。読んだ限りでも、『人間椅子』『芋虫』『鏡地獄』『蜘蛛男』等はかなり怖いし、子供にとってはエロ本のようでもあった。

     氷川鬼道の名をスキャンダラスなものにする、一連のグロテスク趣味の小説は、昭和四年から六年にかけて、作者の自棄的な思いきりの下に多作され、六年には全集まで出ているが、自己の作品への嫌悪感を募らせた彼は七年の三月に再び、〈休筆宣言〉をして執筆を絶ってしまう。それから隠棲を決意する昭和十四年までは,中篇一作と(かつて今野を震撼させた)少年向き小説が挙げるに足る仕事といえよう。
     鬼道をして隠棲を決意せしめた直接の原因は、短編集中の一篇全部が警視庁によって削除を命じられた事件にあった。それは手足を失って芋虫のようになった傷病兵を扱った残酷小説であり、鬼道に反戦的意図など少しもなかったのだが、発表当時、左翼の評論家によって評価されたのが逆作用したかのようである。表面上の発禁はこの一作であったが、鬼道の作風からして、ほどなく旧作のすべてが抹殺されねばならぬ運命にあった。(小林信彦「半巨人の肖像」『回想の江戸川乱歩』所収)

     氷川鬼道とは乱歩、今野は小林自身のことである。小林は乱歩の推薦で『ヒッチコックマガジン』(宝石社)の編集長になった男で、引用したのは小説ではあるが、乱歩について正確な記事だと判断して良い。姫が間取りを描いた図面を開いてくれる。「随分広い家ですね。」小林信彦『回想の江戸川乱歩』には、信彦の弟泰彦が描いた乱歩邸応接間のスケッチが載っている。「戦後は新人作家の育成に力を注いだんだ。」
     雑誌『宝石』が昭和二十一年に創刊された当時から協力していた乱歩は、経営悪化した雑誌を引き受け、編集から経営までタッチして巨額な私財を投入した。だからこの家には編集者や新人作家が大勢出入りした。山田風太郎、島田一男、日影丈吉、土屋隆夫、鮎川哲也、高木彬光等、要するに戦後に登場した推理作家の殆どは、乱歩に見いだされたと言って良い。
     そのまままっすぐ進んで大通りに出る。横断の途中で信号が変わってしまったので、突き当りの光文社ビルの間で立ち止まって後続を待つ。ミステリー文学資料館があるのだ。豊島区池袋三丁目内番二号。遅れて来た姫が「今それを話していたところなんです」と喜ぶ。姫からミステリーの話は聞いたことがないが、ミステリー専門の珍しい図書館だ。場所だけ覚えておいて貰おう。入館料三百円、日月祝日が休館日になる。館外貸し出しはできない。

     その隣が瑞鳳山祥雲寺(曹洞宗)だ。豊島区池袋三丁目一番六号。山門前には「不許葷酒入山門」の戒壇石と並んでイケフクロウがいた。朱塗りの山門を潜ると、小雨の境内は静まり返っている。永禄七年(一五六四)後北条氏の重臣で江戸城主だった遠山隼人正景久によって、和田倉門内に創建されたとされる。江戸時代には神田駿河台、小日向金杉、小石川戸崎台と移転し、明治三十九年に当地に移ってきた。
     「首切り浅右衛門と石森章太郎がいるんですよ。」ただ下見の時には法事の最中だったので墓地の探索は諦めている。「さて探してください。」「そう言われてもね。」石森章太郎の墓は本堂裏手の右奥にあるとネットで読んでいたので一番奥まで行くとあった。「こっちです。」
     茶褐色の御影石には「萬 小野寺家」とある。本名が小野寺章太郎だ。ストーリーマンガ、劇画、ギャクグマンガ、四コマ等をひっくるめて、あらゆる表現が可能な「萬画」と表記しようというのが石森の主張だった。
     その横の、通常は墓誌が置かれる位置に、赤い制服に身を包んだ『サイボーグ009』のジョーとフランソワーズの石碑、『佐武と市捕物控』の二人と仮面ライダーを描いた石碑が並ぶ。更にその隣の、大勢の主人公たちを放射線状に描いた石碑の上には、ペンを持って頬杖をついた石森自身(自画像の顔)が顔を覗かせている。
     「さるとびエッちゃんもいる。」これは『週刊マーガレット』に連載されたから姫が知っているのは当然だが、私はどうして知ったのだろう。初期の石森は『テレビ小僧』も含め、ギャグ漫画でも一流だったと思う。日常生活の中で異常な能力を発揮する少女というモチーフは、赤塚不二夫『秘密のアッコちゃん』や横山光輝『魔法使いサリー』に共通するが、道具に頼らないこと、東北弁の主人公が美少女でないことが特長だろうか。
     「サブとイチじゃないか。」講釈師が知っているとは思わなかった。最初は『少年サンデー』に連載されていたらしいが、私は『ビッグコミック』で知った。この当時の石森は実験的、前衛的な作者でもあって、コマ割りが独特だった。『ジュン』は全編殆どセリフがなく、絵とコマの流れだけで表現した。但しこの方向には『ガロ』系の佐々木マキがいる位で、他には継承されなかった。
     関川夏央『知的大衆諸君、これもマンガだ』によれば、むしろセリフが重要な要素になったのが現代マンガである。大島弓子、柴門ふみ等は昔なら文学を目指した筈で、文学の価値が下落したことでマンガを選択し、吉本ばななは絵が描けないから小説家になったと関川は言う。
     しかし石森晩年の『マンガ日本経済入門』はどうしようもない愚作だった。かつて表現の限界を追求していた天才石森でさえ、精神が衰えればここまで墜落するという見本だった。ところで私が「石森」と書いているのは、後年改名した「石ノ森」にどうも馴染めないからだ
     首切り浅右衛門の墓を探すのは諦めて墓地を出ようとした時、横に立つ石碑が目についた。あった。「これだ。」一世から八世までの山田浅右衛門の系譜を記した「浅右衛門之碑」である。残念ながらもう殆どが墓地を出て行った後で、二三人にしか教えられなかった。

    山田氏の先は六孫王源経基に出づ。始祖貞武、資性倜儻不羈武を好み山野氏に従て刀術を修め其妙を極む。江戸平河に住し浅右衛門と称す子孫之を其家号とする。二世吉時、徳川家の御腰物御様御用を勤め傍ら首打同心の役を兼ぬ。後世職となり、三世吉継、四世吉寛相承け、五世吉睦山田流据物刀法を大成し又刀剣鑑定家として名声籍甚なり。六世吉昌、七世吉利、八世吉豊皆能く其裘の業を紹恢し、敢て家声を堕ず。以て明治維新に至。今や継嗣絶え、墳墓亦殆ど壊滅に帰せり。仍て同志胥謀り世系事蹟を石にし、祥雲寺の境内に建て且つ髻塚を修造し以て後に貼すと云爾。
           昭和十三年十月九日 鴇田恵吉

     七世吉利は安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎を斬首した事で知られる。明治になって吉亮(八世吉豊の弟)は雲井龍雄や大久保利通暗殺犯の島田一郎、長連豪を斬り、更に明治十二年一月三十一日に高橋お伝を斬った。これが最後の斬首刑である。ただ吉亮は何故か世系には含まれず碑文にも記載されていない。横に立つ細長い石碑が髻(もとどり)塚だ。六世吉昌が建てた慰霊塔である。
     明治十三年(一八八〇)刑法の制定によって死刑は絞首刑とされることが決まり、十五年(一八八二)の法施行によって、斬首刑は完全に廃止された。斬首の役得によって人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を入手し、それを原料とした丸薬も山田家の副業だったが、これも禁止され、山田家は没落した。「そういう人の名前を初めて聞いたわ。」ハイジは時代小説を読まないのだろう。綱淵謙錠に『斬』がある。
     どうやら雨はやんだようだ。山手通りにぶつかる直前を左に曲がる。路地の角地の民家の庭に、ブロンズ像が何体も置かれているのに驚かされ、姫も喜んで写真を撮る。長崎アトリエ村の名残だろうか。「画家だけじゃありませんからね。彫刻家もいたんですよ。」
     昭和六年(一九三一)頃から要町・長崎・千早・椎名町にアトリエ付き貸家群が建てられ、「さくらが丘パルテノン村」、「みどりが丘」、「ひかりが丘」、「すずめが丘」、「つつじが丘」等と呼ばれるアトリエ村が形成された。最盛期には数百人から千人とも言う画家や彫刻家が住みつき、小熊秀雄はパリの場末に喩えて池袋モンパルナスと名付けた。

    池袋モンパルナスに夜が来た
    学生 無頼漢 芸術家が
    街に出る
    彼女のために
    神経をつかえ
    あまり 太くもなく
    細くもなく
    在り合わせの神経を(小熊秀雄「池袋風景」)

     ここから谷端川(やばたがわ)南緑道に入る。ほぼ全ての流路が暗渠化されている。「いいですね、この道は。車で通っても知らなかったな。」ロダンが喜ぶ。「車は通れない道だからね。」谷端川の概要は以下の通りだ。

     東京都豊島区千早と豊島区要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池が水源である。千川上水の長崎村分水が現在の有楽町線千川駅付近から樋で落とされ、粟島神社の湧水先で谷端川に合わせて南流する。西武池袋線を椎名町駅西側で越えると流れは東に曲がって山手通りと交差し、一転して北に流れを変える。再び西武池袋線を越えて、山手通りの東側を道に並行するように北東に進む。現在の立教大学の西側、有楽町線要町駅の東側を北に向かって流れ、以降板橋区と豊島区の区界に沿って行く。
     東武東上線の手前で支流を交えると、東に転じて下板橋駅の際で東上線を越え、板橋駅の北側で赤羽線の線路を潜る。今度は北区と豊島区の区界に沿って東南へ流れ、山手線大塚駅の北側に出る。大塚駅の東側で山手線を潜った後、大塚三業通りを経て東京都道四三六号小石川西巣鴨線に沿って小石川植物園脇を流れる。文京区千石、小石川と流れ、現在の富坂下を横切り、旧水戸藩上屋敷(現・東京ドーム一帯)を通って、外堀通りの仙台橋の下(水道橋の西)で神田川に注ぐ。(ウィキペディアより)

     遊歩道はタイル貼りの道になっていて、濡れているから靴が滑りやすい。それより一段低く、遊歩道と両側の民家の間の幅一メートル程の道が、昔の川沿いの道だったのだろう。こんな狭い道を挟んで川に向かって家が密集していたのだ。「神田川もそうでしたよね。」マンションの間に古い木造モルタルのアパートも多い。
     立教通りに架かるのが霜田橋。赤レンガを積み重ねた親柱に風情あるが、この下も川が流れている訳ではない。「どっち方向に歩いてるんですか?」ヨッシーが訊いてくる。「南に向かってます。」いくつか道を横切り、西武池袋線の線路にぶつかった所で遊歩道は終わり、右に曲がる。突き当たった高架の下が西武池袋線椎名町駅前駐輪場で、ここにトイレを済ます人を待つ。「この上は高速?」「違う、山手通り。」そう言ってしまったが、首都高速中央環状線も走っていた。
     駅は椎名町だが、椎名町の町名は昭和四十一年(一九六六)に廃止され、南長崎一丁目から六丁目と目白四丁目、五丁目に変更された。江戸時代の長崎村に戻ったと考えれば良いだろうか。北条得宗家の御内人の長崎氏の所領だったという説がある。
     公的機関として椎名町の名称を保持しているのは、この駅と豊島区立椎名町小学校だけである。その小学校は徳光和夫が卒業したと言う。「紅梅?」ファーブルの言葉で目を向けると、どうやらそれらしい。ちょっと早過ぎるのではないか。
     高架の下を抜けると、金剛院(真言宗豊山派)蓮華山仏性寺は北口前にある。豊島区長崎一丁目九番二号。小さな寺だが赤門だからそれなりの由緒があるのだろう。寺の歴史を見ると、大永二年(一五二二)の開基。「天明年中、大火の折、罹災者を多く助けた功績の褒賞として、将軍から朱塗りの山門の建立許可を受ける」とある。御府内八十八箇所霊場の第七十六番札所。
     境内に「赤門テラスなゆた」と言うカフェが設置されている。「なゆたって何?」確か無限に近い数のことではなかっただろうか。桃太郎もそんな風に説明する。詳しく知らないので調べてみると、那由他はサンスクリット語に由来し、十の七十二乗あるいは十の百十二乗、十の六十乗など様々な説がある。

     この「なゆた」を店名に用いた理由には、「人として限りなく大きな存在であることを感じてほしい」という願いが込められているそうです。
     そして、「なごんで」「ゆっくり」「たのしく」の頭文字も掛け合わされているということですね。(金剛院公式HP)http://cafe-bar.click/concept-cafe/nayuta/

     更に珍しいのはマンガ地蔵なのだが、下見の後にネットで知ったのだから場所が分らない。本堂前に行っても見当たらない。「そこにありましたよ」と手前の植え込みをヨッシーが教えてくれた。植え込みに隠れるように小さな金の地蔵が立っているのだ。光背はペン先(かぶらペンと言うものらしい)、地蔵の持つ錫杖がペン(Gペンか)、衣の柄がマンガのコマになっている。地蔵が向いているのはトキワ荘の方向だ。「あら、そうなの。凝ってるわね。」
     隣が長崎神社だ。豊島区長崎一丁目九番四号。本来は十羅刹女社であった。十羅刹女は仏教の天部の鬼神で、鬼子母神と同じく法華経守護を誓った。神仏習合時代には神社として祀られたのである。しかし明治の神仏分離令はこうした神社を許さない。そこで大宮氷川神社から分霊を勧請して氷川神社としたと言う。溶岩の上に乗った唐獅子が立派だ。
     「この神社の向かい辺りに帝国銀行椎名町支店があったらしいんだ。」「仕舞屋みたいな銀行だったんだよ」と講釈師は見てきたように言う。「お茶碗全部飲んで下さいって言ったんだ。」「お茶碗は飲めません。」「もう、揚げ足取るようなこと言わないでよ。」
     帝銀事件は昭和二十三年(一九四八)一月二十六日に発生した。厚生省技官を名乗る男が現れ、赤痢が発生したから予防薬だと言って青酸化合物を飲ませ、十二人が死んだのだ。確かな証拠はないが、アリバイが証明できなかった平沢貞道が逮捕され、本人否認のまま死刑が宣告された。しかし帝銀事件は謎が多く、関東軍七三一部隊(細菌部隊)の関係者説なども語られる。
     「平澤はテンペラ画を描いたんだよ。」詳しいことは分らないが、油絵が誕生する前の技法らしい。「死刑は執行されなかったんですよね。」再審請求は却下され結局真相不明のまま、昭和六十二年五月十日、平沢は九十五歳で獄中に死んだ。養子の武彦が名誉回復の再審請求をしていたが、彼も平成二十五年に死んで、請求は無効になった。
     椎名町駅北口のすずらん通りは、昔懐かしいアーケード商店街だ。蕎麦屋、とんかつ屋、惣菜店等が並んでいる。「いいね、うちの近所はこういう場所がないからちっとも面白くない。」スーパー・サミットに突き当たって踏切を渡り、椎名町公園の中を抜ける。「実が生ってるよ。」公園中央に大きな夏みかんの木が立っている。「下見の時はこの辺で迷ったんだ。」椎名町小学校の方に歩いてしまった。
     木造二階建てアパートがまだ多く残る住宅地で、狭い路地が縦横に通る。角の空き地に出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)・西国・秩父坂東供養塔が建っている。「ハグロヤマ。」ロダンが読んだ瞬間、「バッカジャネエノ」と講釈師が喜ぶ。「ハグロサンだろう。ハグロヤマなら相撲取りになってしまう。」「湯殿山はちゃんとユドノサンって言ったのにネ。」「冗談で言ったのにな。」
     「ハグロヤマなら安念山だよ。」私は古いことを言う。横綱羽黒山(立浪)の相撲は知らないが、その娘と結婚して二代目羽黒山を継承したのが安念山だった。大関にはなれなかったが、昭和三十年代には若羽黒、北の洋、時津山とともに立浪四天王と呼ばれ、筋肉質の関脇として人気があった。こんなことは私と講釈師位しか知らないだろう。立浪を襲名したが、後に弟子の横綱双羽黒(北尾)と大喧嘩して男を下げた。「その隣の曼荼羅みたいなものが面白いですね。」私も気になっていたが何の説明もないのだ。十三仏かも知れない。
     目白通り(二又商店会)に出て右に曲がり、交番前の分岐で右手のニコニコ商店街(トキワ荘通り)に入る。街灯には水野英子初期のマンガ『銀のはなびら』を描いたフラッグが吊るされている。「『白いトロイカ』とか、『星のたてごと』とかあります。」姫は少女漫画にはめっぽう強い。水野英子はそれまでにないスケールの大きい作品を描いた。ただ少女漫画は時々従姉妹の家で盗み読みした程度だから、私には何か云々する資格がない。
     「昔は男性が少女漫画を描いてたんですよ。ちばてつやの『みそっかす』とかあります。」女性のマンガ家はまだ少なかった。やがて水野に憧れた世代から多くのマンガ家が生まれてくる。ちばなら『1・2・3と4・5・ロク』、『島っ子』等も記憶がある。ちばはその頃から絵の質が変わっていない。『あんみつ姫』の倉金章介は戦前からの作家だ。松本零士も松本あきらの名で少女まんがを描いていた。トキワ荘グループも最初は少女アンガを描いていたが、今に残る作品は多くない。
     「益子かつみもそうですね。」私は益子の少女マンガは知らない。「それって誰?」とロダンが首を捻る。「俺は『さいころコロ助』は覚えてるよ。」「それは聞いたことがある気がするな。」月刊誌時代の最後の頃ではなかったろうか。「よく知ってるわネエ」、「ホントホント」とハイジとマリーが囁いている。
     「シャッター通りじゃないか。」確かにシャッターを下ろした店が多いのは土曜日だからかも知れない。「ここは後で行きます。」トキワ荘通りお休み処を通り過ぎて、子育て地蔵を見る。戦前の縁日は、巣鴨のとげぬき地蔵を凌ぐ賑わいだったと言う。
     少し先の中華料理「松葉」は、トキワ荘の連中がいた時代からそのまま営業を続けている店だ。入口のガラス戸にはトキワ荘の面々がラーメンを食べているマンガのページが貼られている。おそらく藤子不二雄『マンガ道』だろう。「小池さんがラーメン食べてる。」もじゃもじゃ頭の小池さんのモデルは後にアニメーターになる鈴木伸一である。
     その向かいの路地を右に入ると、日本加除出版株式会社の新館入口付近に、トキワ荘跡地モニュメントが建っている。豊島区南長崎三丁目十六番六号。モニュメントになると結構立派なアパートにも見えてしまう。トキワ荘が解体された後、この会社が新館を建てた。
     「加除って、算数の本ですか?」加減乗除とは言うが、算数で加除と言うだろうか。「法令の差し替えですよ。」「ぎょうせいってありますよね?」「バイダー式の?」「そうです。」加除式図書とはそういう意味である。頻繁に改正される法令を差し替えるため、出版社の営業担当者が図書館にやって来る。
     昭和二十九年(一九五四)六月、安孫子素雄、藤本弘が富山から上京して、最初は森下町の二畳間に落ち着いた。二畳の部屋に二人で住んだことに驚いてしまう。トキワ荘には手塚治虫と寺田ヒロオが住んでいたから、二人は頻繁にトキワ荘を訪れ、締め切りの迫った手塚のアシスタントも務めた。そして手塚が雑司ヶ谷の並木ハウスに転居することになり、敷金はそのままにするから入れと勧めてくれたのである。十一月に二人はトキワ荘に入居した。これが、ときわ荘伝説の始まりである。最初は手塚が住んでいた部屋に二人で入って、これまでと比べて広いと感激したが、すぐに隣室を借りて一人づつになる。
     翌三十年八月には下関の鈴木伸一、三十一年二月には岡山の森安なおやが鈴木の部屋に居候を決め込み、八月に宮城の石森章太郎と新潟の赤塚不二夫が入居した。皆、学童社の『漫画少年』の常連投稿者だった。『漫画少年』投稿欄を担当していたのが寺田だから、寺田の目にかなった若者が呼び寄せられたのである。
     学童社は、戦前『少年倶楽部』の名編集長と呼ばれた加藤謙一が起こした出版社である。井上一雄『バット君』、手塚治虫『ジャングル大帝』、『火の鳥・黎明編』などが連載され、投稿コーナーを設けたことが全国の漫画少年を刺激した。しかし『漫画少年』は昭和三十年十月に休刊(学童社の破産)しているから、私の世代では読んでいない。まだ月刊誌と貸本マンガの時代である。

     漫画は子供の心を明るくする/漫画は子供の心を楽しくする/だから子供は何より漫画が好きだ/「漫画少年」は、子供の心を明るく楽しくする本である/「漫画少年」には、子供の心を清く正しくそだてる小説と讀物がある/どれもこれも傑作ばかり/日本の子供たちよ「漫画少年」を讀んで清く/明るく正しく伸びよ!(創刊のことば)

     これが加藤の思想であり、寺田の考えるマンガの基本だった。後に寺田がマンガの筆を折るのは、この思想が時代に合わなくなったからである。
     三十三年三月には下関の水野英子が入居した。石森、赤塚と合作をするためで、トキワ荘にいたのは七ヶ月だけだった。その年の暮れになると福島のよこたとくおがやって来る。入居はしなかったが頻繁に通って来て「通勤組」と呼ばれたのが、永田竹丸、長谷邦夫、つのだじろう、横山孝雄、園山俊二たちだった。
     「それじゃ、トキワ荘が復元される予定の公園に行きます。」もう少し西に歩けばすぐに南長崎花咲公園だ。豊島区南長崎三丁目九番二十二号。記念碑「トキワ荘のヒーローたち」は、マンガ家の自筆サインと自画像のプレートが貼られた台の上に、トキワ荘のミニチュアを置いたものだ。寺田ヒロオ、藤本弘(藤子F)、安孫子素雄(藤子A)、鈴木伸一、森安なおや、手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお。この公園内に、二〇二〇年三月オープンを目指してトキワ荘が再現される計画が進行している。
     「ここで休憩しましょう。」ヨッシー、姫、ハイジ、マリー、ロダン、ファーブルから様々なお菓子が配られる。トイレに行って戻ると、姫やハイジたちが笑っている。「おかしい。ロダンがネ、復元されるのはどこなんですかって訊くんですよ。」「ここよ。だからここに来るって言ってたじゃないって。」今日のロダンは絶好調かも知れない。
     ファーブルが配ったのは札幌土産のクッキーだった。「これを持って帰れば女房が喜ぶ。」「きれいな女性に貰ったって言うんでしょう?」「あんな女って言うのかしら。」これについてはややこしい物語があって、ななかな上手く説明できない。「うちは愛ある家庭だから大丈夫。」愛妻家ロダンを揶揄うのは、みんな羨ましいからでもあるか。

     十五分程休憩してトキワ荘通りお休み処に戻る。豊島区南長崎二丁目三番二号。お休み処と言ってもお茶が飲める訳ではない。一階には各作家の単行本が書棚に並べられ、二階には寺田ヒロオの部屋が復元されている。「ここで靴を脱いで階段を上るんです。」「何人ですか?」「十一人です。」「それじゃちょっと説明しましょう。」下見の時にはいなかったガイドのオジサンが張り切った。
     書棚の反対側の壁に貼られた色紙の殆どは知らないマンガ家ばかりだ。「右端の森安なおや、よこたとくお、水野英子が実際に住んでいた人でした。」
     「この棚の本はその椅子に座って、いつでも何時間でも読んでいただけます。」「これだけあったら何日も通わなくちゃいけないな。」「どうせ暇なんだから通ったら。」「私は忙しいんですよ。」
     「私は田川水泡とか山川惣治しか知らないな。」「『少年ケニヤ』とか『少年王者』とか。」山川惣治は戦前は紙芝居作家、戦後は絵物語作家として月刊誌時代まで活躍したが、週刊誌になると殆ど仕事の場を失った。
     トキワ荘の作家がメジャーになるのはダンディやヨッシーが大学生の頃で、六〇年安保世代の学生はマンガなんか読まなかったろう。大学生がマンガを読むと驚かれ、「右手にジャーナル、左手にマガジン」と揶揄されたのは全共闘世代(団塊の世代)以降のことだ。その意味でマリオがマンガに関心のないのも珍しい。昆虫少年のファーブルも余り読んでいない感じだ。マンガが苦手、あるいは読めないのは、子供の頃にどれだけマンガを読んでいたかの経験の多寡によるというのが、関川夏央の説である。
     だからヨッシーたちと同年齢の講釈師の方が実は不思議だ。「歴史のマンガを書いてただろ?あれが良かったな。」残念ながら私は石森の歴史漫画を知らない。「歴史は横山光輝が書いてますよね?」姫に言われて言葉が詰まる。横山の『三国志』は有名だが、その他は知らなかった。山岡荘八原作『徳川家康』などがあるらしい。
     「それじゃ二階にどうぞ。」靴を下駄箱に入れ狭い階段を上ると、「私はグループとは違うんですけど、いいですか」と若い女性もついて来た。上がった所には寺田ヒロオの四畳半が再現されている。昭和二十九年(一九五四)の時点で敷金三万円、家賃三千円の部屋である。「当時は一畳千円と言われましたから、トキワ荘は安かったんです。」しかし敷金十ヶ月分は異常に高い。その二十年後、私が阿佐ヶ谷で住んだ六畳間は二万円、敷金は二ヶ月分だったと思う。
     卓袱台には焼酎とサイダーの瓶が置いてある。「寶焼酎だ。」焼酎三に対してサイダー七の割合で割ってチューダーと称した。昭和二十九年の甲類焼酎一升は三百十円、サイダーは一本三十五円だった。ビールは一本百二十五円だからブルジョアの酒である。まだ二十歳前後の連中ばかりで酒は余り強くなかった。

     みんな明日の生活にも困るような経済状態でしたが、若さと夢がありました。
     そのころ〝漫画〟は現在のように市民権を得ていませんでしたので、トキワ荘に住む一般市民からみれば、ぼくたちの仲間はかなり怪しげなグループに思われたでしょう。
     たしかに怪しげな生活でした。いい若い者が一日中ゴロゴロしていて、三時には一番風呂へいき、夜ともなれば一室へ集まって深夜までワイワイ騒ぐ、という毎日だったのですから。(藤子不二雄『トキワ荘青春日記』)

     「明日になれば今日よりは良くなるって思ってた。」ファーブルが言う。トキワ荘の連中とは少し時代がずれるが、東京タワーが建てられ、舟木一夫が『高校三年生』を歌った。「ボクラ、道はそれぞれ別れても」道を切り開いていける筈だった。そして東京オリンピックが開かれる。『ALWAYS三丁目の夕日』の時代だ。
     「寺田さんは面倒みの良い人で、家賃が払えない人にはお金を貸しました。彼らだってプライドがあるから、お金がないなんて言わないけど、仕事をしていないのは見ていれば分るから。」

     「近ごろ、来るたびに机の上に紙のってないので心配していたんだ。昨年の暮れなんか、毎晩おたくたち電灯つけっぱなしで身体のこと心配したけど、このところは仕事あまりしてないみたいなので気になっていたんだ。家賃なんか大丈夫?もしお金困っていたらいつでも言ってよ。百万円とかじゃ無理だけど、当座の分なら貸せるから・・・・」とおっしゃる。(藤子・同書)

     赤塚不二夫はほとんど仕事がなく石森の手伝いをしていたが、マンガをやめて喫茶店のボーイにでもなろうかと寺田に相談した。上手くいかずに中断している原稿を見せると、テーマを盛り過ぎだから五つに分割してみろと言われてその通りにしたら良くなった。その時に「お前、金ないんだろう?」と四万円を貸してくれたと証言している。

     そのときオレ、家賃四ヶ月分ためてて、「もう今月末には出てくれ」って言われていたんだ。そんなとき、返せるかどうかもわからないような大金貸してくれてねえ。本当に助かったよなあ。(藤子・同書)

     「トキワ荘の連中はみんな自伝を書いてますが、誰一人、借りた金を返したって書いてません。」しかし藤子の本には返済したことは書いてある。「寺田ヒロオには『スポーツマン金太郎』とか『くらやみ五段』がありましたね。」「千葉真一が演じています。」「くらやみ五段を?」「そうです。」それは知らなかった。「『背番号ゼロ』は知ってます」とロダンが言う。
     しかし寺田の晩年は不幸だった。「寺田さんは児童マンガに厳しい信念を持ってましたから、だんだん新しい作家の作品が気に入らなくなってきた。出版社にクレームを付ければ、却って寺田自身が嫌われました。」週刊誌のペースに合わなかったこともある。結婚してトキワ荘を離れ、やがてかつての仲間とも一切会うこともなくなっていく。やがて離れに引きこもって家族とも顔を合わさず、三食はその部屋の前に置かれた。朝から酒浸りの毎日だったが、ある日、朝飯が手つかずになっているのを不審に思った妻が部屋を覗くと既に死んでいた。
     「それにしても、みんな若くして死にましたね。手塚先生が六十歳、寺田ヒロオ六十一歳、石ノ森章太郎六十歳、藤子F六十三歳。水木しげるさんは九十三歳まで長生きしましたけど、自分は朝昼晩三食きちんと食べて睡眠も充分取る。それが元気の秘訣だ。それに比べてトキワ荘の連中は可哀そうだと言っていました。」彼らは殆ど仕事を断らなかったから寝る時間もない。「やっぱり睡眠が大事ですよ。」
     「これを見てください。」ガイドが広げた写真は、山中湖で撮影した集合写真だ。金もないのに皆で一緒に良く遊んでいた。安孫子、石森、藤本、森安、赤塚、寺田、そして女性がひとりがいる。「この女性は石森さんのお姉さんです。」「若くして死んじゃったんだ。」「石森さんとはまるで違って美人でした。」トキワ荘のマドンナで、安孫子に恋心を抱いていたフシがあるが、昭和三十三年(一九五八)三月、二十三歳になる前日に急逝した。もともと喘息が持病で、療養するため東京に出て来たのであった。発作が起きて病院に運ばれた時、喘息を抑えるため、医師がモルヒネを打ち過ぎたために心臓発作を起こしたとされる。それなら医療過誤である。
     「晩年の顔からは信じられないけど、一番の美少年が赤塚不二夫だったらしいよ。」「そうなの?」「そうです。リーダーがおっしゃった通りです。喫茶店エデンに可愛らしい店員がいて、石ノ森さんと一緒に行くとモテたのは赤塚さんだったそうです。赤塚さんの二番目の奥さんはモデルかと思うほど美人でした。」
     「あの人はものすごくシャイなんです。初対面の人にはまともに眼も合わせられない。お酒を飲んで初めて話ができるんです。」その酒が晩年の無茶苦茶に結び付いた。「苦労した人ですよ。満州から引き揚げてきて中学卒業で働きました。」「新潟の看板屋だ。」「だからトキワ荘の仲間で一番絵が上手かったのは赤塚さんです。」それはどうだろうか。上手さで言えばやはり石森ではないかと私は思う。
     隣の部屋にはトキワ荘のジオラマもある。「眼の良い人は窓を覗いてみてください。襖の模様がそれぞれ違います。」「そこまで見えないな。」「共同トイレ、風呂なしですね。」二階には普通の人たちが住み、漫画家たちは二階に住んでいた。
     「トキワ荘が建てられたのは昭和二十七年、取り壊されたのが五十七年ですから、三十年しかもたなかったんです。」木造アパートでも三十年と言うのは短すぎるような気がする。「安普請で屋根も瓦じゃないんですよ。」「スレート?」「正解です。」ロダンが褒められた。
     「復元される公園は行きましたか?」「行ってきました。」「貸し切りバスがとめられる駐車場も作るそうです。」町興しとして期待されているのだが、そんなに人は来るだろうか。
     一階に戻って本棚を眺める。「COMは貸本でしたか?」ロダンは不思議なことを言う。「違うよ。」昭和三十九年(一九六四)青林堂の長井勝一が、白戸三平の『カムイ伝』を連載するために『ガロ』を立ち上げたことが発端だった。そこに水木しげるや、仕事の場がなくなりつつある貸本漫画系の劇画家が集結したので、手塚治虫は危機感を抱いた。劇画は手塚にとっては「正しい」マンガではなかった。そのため、『ガロ』に対抗して昭和四十二年(一九六七)に『COM』を創刊したのである。『火の鳥』を連載したのは勿論、トキワ荘グループが描いた。その他で私の記憶に残っているのは、永島慎二の『漫画家残酷物語』や『フーテン』だ。

     既存の漫画家の作品に加えて、COMからデビューした新人作家による作品がCOMの両輪として人気を博した。登竜門としてのCOMから巣立った作家としては、青柳裕介、あだち充、市川みさこ、居村真二、岡田史子、加藤広司、コンタロウ、竹宮惠子、能條純一、日野日出志、諸星大二郎、やまだ紫、長谷川法世、宮谷一彦、西岸良平らがいる。(ウィキペディアより)

     お礼を言って外に出ると、女性ガイドが一緒に出て来た。「皆さん、石ノ森さんのファンの方ですか?」「違いますが、さっきお墓を見てきました。小学校三年の時に、マガジンとサンデーが創刊された。だからトキワ荘のマンガで育ったようなものです。」「そうですか。お若く見えるのに。」
     ずっと小学校三年とばかり思い込んでいたが、念のために確認すると『少年マガジン』(講談社)と『少年サンデー』(小学館)は昭和三十四年(一九五九)三月十七日に同時創刊されていた。それなら二年生になる直前である。何を勘違いしていたのだろう。サンデーの創刊号表紙は入団二年目の長嶋茂雄、マガジンは横綱昇進を決めたばかりの三代朝潮太郎、これは記憶通りだ。毎週買って貰える訳ではなかったから、主に床屋に行った時にバックナンバーを読んだ。初期の頃はマンガだけでなく、絵物語や小説も掲載されていた。
     「私はマーガレットの創刊号から読んでます」と姫は自慢する。『マーガレット』(集英社)の創刊は昭和三十八年(一九六三)四月だ。そしてライバル誌の『少女フレンド』(講談社)は前年十二月に刊行されていた。「ガイドも喜んだんじゃないですか?話がすぐに通じるから。」

     トキワ荘通りを東に戻って、そのまま目白通りに入る。山手通りを渡ってすぐ右の角を曲がり、突き当って狭い道を曲がると、空き地の向こうに佐伯祐三アトリエ記念館の全貌が見える。「以前は建物が建っていたから、ここからは見えなかったんです。」新宿区中落合二丁目四番二十一号。かつての住所表示は豊多摩郡落合村下落合六六一番地だ。
     入口の前に目白(落合)文化村の地図が掲示されていて、「堤康次郎の西武が開発した高級住宅地で、文化人が大勢移住してきたんですよ」と姫が解説してくれる。正確に言えば当時は箱根土地株式会社である。現在の中落合一丁目と二丁目の一部、三丁目と四丁目の大半、中井二丁目、西落合一丁目の一部までの一帯になる。大正十一年分譲開始の第一文化村と十二年の第二文化村が主に山手通り(その当時はまだ開通していない)の西側で、この辺は十三年に分譲の第三文化村になるようだ。その他、十四年に分譲した第四文化村まである。政治家や学者が多く住み、高級住宅地のイメージが広まった。私が知る名前では会津八一、安倍能成、石橋湛山、吉屋信子、林芙美子等がいる。
     この地図は、もう少し範囲を広げてある。「林芙美子の家は以前に行ったよね。」「あら、松本俊介もいたのね」とハイジが喜ぶ。「それ、誰ですか?」「佐伯祐三より、今は松本俊介にはまってるのよ。」私は全く無学なので、ウィキペディアのお世話になる。

     竣介は、都会風景を好んで描いた画家として知られる。作品は、青系統の透明な色調のなかに無国籍的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた系列と、茶系統のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものの二つの系列があるが、戦時色が濃くなるにつれ、後者のくすんだ色調の風景が多くなる。その他、一九四七年から一九四八年にかけての短い期間だが、赤褐色を基調とし、太い線によるキュビズム的作品を描いたが、再び、以前のような線を持つ作品へ戻った

     展示室に入ると、ガイドが若い女性の相手をしている。下見の時にはガイドなんかいなかった。取りあえず勝手に見学する。
     佐伯は明治三十一年(一八九八)大阪府西成郡中津村に生まれた。大正九年(一九二〇)に池田米子と結婚し、翌十年にここにアトリエを建てた。今見ている建物はその時のものである。大正十二年には妻子を帯同して渡仏し、体調悪化と資金難のため十五年(一九二六)に帰国したものの翌昭和二年(一九二七)に再渡仏するから、このアトリエで制作活動をしていた期間は短い。既に結核は回復不能な状態で、自殺未遂を引き起こして精神病院に収容され、昭和三年(一九二八)八月フランスで客死した。三十歳。その半月後に娘の彌智子も六歳で死んだ。結核の感染であろう。
     佐伯の死後に帰国した米子は昭和四十七年(一九七二)七十五歳で死ぬまで、ここで画家として活動した。
     若い女性を小部屋の方に案内してガイドが戻ってきた。「米子夫人が亡くなってから、新宿区がこの土地建物を買い取りました。」補強と補修をしたが、躯体はそのままである。「これって教科書に載ってたやつですよね。」講釈師もファーブルも目を付けたのは「郵便配達夫」である。「日本のユトリオなんて呼ばれたこともありますが、ユトリオ風ではないものも沢山あります。特に落合の風景を描いたものは、佐伯独特です。」
     結核のために遠出できないからこの近所を描いた。その下落合風景十二点がパネルになって展示されている。「風景画の中の人物の描き方に特徴があります。」なるほど、人物は小さく細く、点景のように添えられている。「今でも当時の風景に近いのがこれですね。」高田馬場と目白の間の山手線のガードだ。切通しを赤レンガの土台で支えて、上を電車が走っている。「以前来た時に道を間違えちゃって、あそこまで行ってしまいましたよ」と姫が笑う。
     パネルにもあるが、独立して原寸大で展示されているのが「テニス」である。後ろに二階建ての家があり、手前のテニスコート(ただの空き地だと思った)で数人がプレイしている絵だ。「何号ですか?」と講釈師が訊いているのは、そういうことに興味があるのだろうか。残念ながらガイドは答えられなかったが、下落合風景の中で最大サイズの五十号だった。
     長くなりそうなので適当にお礼を言って、小部屋の展示室も覗いてみる。佐伯自身が増築工事をしたもので、関東大震災でもびくともしなかったと言う。ここには米子夫人関連のものが展示されている。
     「それじゃ行きましょう。」目白通りに戻ると、歩道を自転車が頻繁に通る。ピーコックの角の路地を右に入り、少し行くとアダチ版画研究所だ。新宿区下落合三丁目三番十七号。浮世絵の技術を現代に継承するための職人集団で、数多くの浮世絵の復刻のほか、現代版画にも取り組んでいる。地下のショールームが無料で公開されているのだ。

     私たちは、昭和の初め頃より浮世絵に培われた伝統木版技術を継承し、木版制作を続けてきました。日本独自の印刷技法である伝統木版画は、絵師、彫師、摺師の三者とその三者をまとめてプロデュースする版元によって生み出される総合芸術と言えます。
     伝統木版画の優れた彫りと摺りの技術は職人によって日々研鑽され、山桜の版木、水性顔料、手漉き和紙など日本独自の材料を使用し、他の版式では表現できない色鮮やかで、温かみのある作品を作り出しています。
     アダチ版画研究所では、これまで伝統木版の技術保存・発展のために浮世絵版画の復刻をはじめ、源氏物語絵巻に代表される大和絵、墨絵の再現、日本画巨匠の木版画作品、現代アーティストの作品等数多くの作品を発表し続けています。

     入口を開けて声を掛けると、小部屋から若い男性が出て来た。「どうぞご自由に。」特に解説してくれるわけではなく、すぐに部屋に戻っていった。忙しいのだろう。「あの人は何?」「職人じゃないかな。ここは職人の育成もしてるんだよ。」
     「これ有名だよな。」講釈師が声を挙げるのは、北斎の「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」である。これらも新しく版を起こしたものだ。「一枚一万三千円になります。いかがでしょうか?」と言ってみたが、勿論それを買う人はこの会にいない。専用の額に入れるともう少し高くなる。「こういうのが海外に影響を与えたんですよね。」特に印象派に影響を与えた。「ゴッホとかマネとか。あっマネじゃなくモネでした。」と姫が笑う。マネだって背景の一部に浮世絵を飾ったものがある。
     歌川国貞(三代豊国)の「内裏雛」を見て、「左右の並びが違ってるんじゃないの?」とファーブルが不思議がる。この会では何度か話題になっているのだが彼はまだ知らない。「天子は南面する。その時、太陽の上る東は左になるから、左の方が右より上位と決まってるんだ。江戸時代まではこの並び方。明治になって天皇が西洋式の礼法を採用して逆になる。それで関東の内裏雛は西洋式、関西は伝統的なものが多いらしい。」
     「こころちゃんに買って上げたら?ジイジは一生感謝されるわよ。」ハイジはそう言うが、ジイジに三万五千円も払う資力はない。順次色を重ねていく段階を示した美人画も展示されている。「よく色がずれないよね。」そのために「見当」というものがある。因みに「神奈川沖浪裏』は刷りを十五回重ねている。「美人の顔はみな同じに見える。」「よく見れば違いますよ。」
     「それじゃ最後に中村彝を見に行きます。」この先を曲がれば新宿区立中村彝アトリエ記念館だ。新宿区下落合三丁目五番七号。林芙美子記念館、佐伯祐三アトリエ記念館とともに、新宿歴史博物館の関連施設である。平成二十九年にオープンした漱石山房記念館もそうだ。中村彝の名前は臼井吉見『安曇野』で知った程度だから知識は少ない。

     彝の没後、遺品の整理等は身の回りの世話をしてきた岡崎きいと近くに住んでいた画友鶴田吾郎を中心に進められたが、間もなく友人らにより「中村彝画室倶楽部」(保存会)が結成され、遺品・遺作・アトリエの分類・整理が行われ、一点ずつ「中村彝画室倶楽部」というシールを貼り付け、遺品の分配も行われた。「中村彝画室倶楽部」は、その後「中村会」「中村彝会」等、改称されたが、多湖実輝・小熊虎之助・遠山五郎・會宮一念・鈴木良三・鈴木金平らにより、展覧会開催・出版。墓地整備等の顕彰事業が行われ、昭和六十三年に茨城近代美術館が開館した際には、彝の弟子で一九七一(昭和四十六)年から「中村彝会」会長を務めた洋画家・鈴木良三(一八九八~一九九六)や梶山公平らの尽力で、遺品の寄贈や復元アトリエの整備も実施された。イーゼルや家具等は、昭和六十三年十月茨城県近代美術館が開館し、敷地内に中村彜アトリエが復元されたのを機に、同館に寄贈され、アトリエ内に展示されている。
     一方、このアトリエは協議の結果保存することになり、友人でもあった酒井億尋(荏原製作所第二代社長)が買い取り、さらに一九二九(昭和四)年に新制作協会創立メンバーの一人である洋画家の鈴木誠(一八九七~一九六九)に売却された。鈴木は、その後、西側に木造二階建の和館、東側に同じく洋館を増築するが、アトリエ部分については、基本的に手を加えずに使用して来た。このアトリエが今日に伝えられたことは、鈴木とその息子の正治(建築家)の見識と努力によるところが大きいといえる。
     二〇〇七(平成十九)年三月、地元の下落合地区を中心に、中村彝アトリエの保存・活用を実現することを目的とし「中村彝アトリエ保存会」が設立され、新宿区や関係者への働きかけと募金活動を行った。このような取り組みがやがて中村彝アトリエ記念館整備の機運を醸成していった。
     この記念館は、後年増改築された建物を、大正五年建築当初の姿に復元したものである。当時の部材も数多く活かして復元されたアトリエは、この記念館の最大の財産である。(「史跡写真集」中村彝アトリエ記念館より)
     http://mandarinhistoricalplace.web.fc2.com/historical_place/tsune_nakamura_shimoochiai/index.html

     「今日は新宿歴史博物館の専門家が来てますから、なんでも質問してください。」顎鬚を長く伸ばしたオジサンだ。血を連想させるような、赤を多用したルノワール風の「少女像」が飾られているので、「これが中村屋の娘だよ」と姫に言う。これは着衣のもので、第三回文展で三等を得た作品である。「俊子さんも早く死んだんですね。知りませんでした。」姫もここを自分のコースに考えていたからよく知っているのだ。ここではグッズも売っている。
     以前にも来ている私と姫はすぐにアトリエ棟に入ったが、他の人たちは鬚のオジサンの解説を聞いているのだろう。この記念館で見られる絵はすべて大日本印刷による複製である。イーゼルに立てられて並んでいるのは、盲目のエスペランティスト、ワシリー・エロシェンコをモデルに鶴田吾郎と二人が競作したものだ。鶴田の「盲目のエロシェンコ」は厳しい面持ちで、中村の「エロシェンコ氏の像」は風貌が柔らかい。
     十分もすると全員がやって来たが、講釈師は何故か一人で外にいる。「ロダン、そのソファに座っちゃダメですよ。展示品ですから。」「これ買っちゃいましたよ。」「風呂敷?」桃太郎が広げて見せてくれたのはエコバッグだった。ちょうどビデオが一周したところで、オジサンも一緒に最初から見る。
     彝は明治二十年(一八八七)茨城県仙波村(現水戸市)に生まれ軍人を志して陸軍幼年学校に入学したが、結核が見つかって退校を余儀なくされた。「水戸ですよ、ロダン。」「水戸だけど知らなかったな。」
     志破れた彝に、小学校時代の友人野田半三が絵画の手ほどきをしたことから、白馬会洋画研究所で絵を本格的に学び始めた。美術学校在学中に中原悌二郎、鶴田吾郎と知り合って切磋琢磨した。
     やがて新宿中村屋裏のアトリエに移った。「もとは荻原守衛の」とオジサンが言いかける。「碌山ですね。」そのアトリエだった。碌山は相馬愛蔵と同じく安曇野に生まれた。ロダンに学んで帰国した新進気鋭の彫刻家だったが、明治四十三年(一九一〇)三十一歳で死んだ。「荻原碌山は相馬黒光さんに惚れていたようです」とオジサンが小声で話しかけてくる。黒光は碌山の三歳年上で、二人が安曇野で初めて会った時、黒光は十七歳、愛蔵と結婚したばかりだった。やがて相馬夫妻は新宿で中村屋を開く。海外留学から帰国した碌山はそこで家族同様に扱われ、黒光が愛蔵の浮気を碌山に相談したことから、碌山の恋は燃え上がって行った。
     黒光は若い芸術家や亡命者に囲まれるのが好きで、中村屋サロンが形成された。中村彝、中原悌二郎、高村光太郎、鶴田吾郎、戸張孤雁、柳敬助、秋田雨雀、ワシリー・エロシェンコ。新宿の文化を語る上でこのサロンは欠かせない。「黒光さんは女傑でしたね。」若い芸術家の心を独占せずにはいられない黒光の姿を、臼井吉見『安曇野』は皮肉な筆致で書いている。
     彝はここで相馬夫妻の長女俊子と出会う。俊子は明治三十一年(一八九八)の生まれだから十一歳違いになる。俊子は裸体画のモデルにもなりやがて二人は恋愛するが、黒光に反対されて引き裂かれた。

    いくら芸術であっても我が娘の裸体の絵を文展に飾り、人々の目にさらすことへの抵抗、娘が敬愛しているとしても相手は喀血が続いている病人…。次第に夫妻は俊子が彝に接近するのを妨げるようになってしまいます。そして終に彝は中村屋を離れ日暮里に移転、大正三年の暮れには大島に逃避します。大正五年に俊子と再会するもその恋は実らず、彼の短い生涯の中で最大の悲劇となりました。(新宿中村屋「創業者ゆかりの人々・中村彝」)
    https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/people/p_002.html

     当時、インドの革命家ラース・ビハリー・ボースが日本に密入国していた。大英帝国にとっては重大なテロリストである。ボースの引き渡し要請があって日本政府は国外退去を命じたが、指定された船が英国籍のものだったから、命令に従えば捕えられてしまうのは明白だった。玄洋社の頭山満が奔走し、中村屋が匿ったのである。相馬愛蔵は国士であった。隠れ家を転々とする日は続いたが、彝と別れた俊子はボースと結婚し、一男一女を儲けた。中村屋のインドカリーはボースの考案である。
     やがて第一次世界大戦の終結によって、ボースへのイギリスの追及は終わり、今度は日本陸軍がボースを利用する。ボース自身は日本の力を借りてインド独立を達成する積りだったが、日本を頼ったアジアの革命家は一様に不幸だったろう。そしてインド独立の日を待つことなく、ボースは昭和二十年一月二十一日に日本で死んだ。インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権はスバス・チャンドラ・ボースに移譲された。
     その間、彝は大正五年(一九一六)下落合にアトリエを持った。「今村銀行の今村さんと中村春二の援助を受けたんです。」これは知らなかった。やはりガイドの話は聴くものだ。偶然、これで今日最初の成蹊学園と繋がった。
     「裸体画はルノワール風です。」それは私でも感じる。「この風景画はゴッホかな。糸杉みたい。」「そうです、まさにゴッホのタッチです。」しかし「これは明らかにセザンヌです」と言われた「大島風景」だが、私はセザンヌを良く分っていない。「彝は留学していませんが、今村さんがゴッホやルノワールの絵を持ってたんです。それを見て勉強したんでしょう。」
     「老母の像」のモデルは、住み込みで彝の世話をしていたのが岡崎きいである。喪服を着た老母は手首に数珠をかけている。そのきいが寝泊まりした小部屋もある。「大名屋敷勤めをした女性でした。いわゆるお手付きですね。恩給もあったので、自分だけの生活なら困らなかったようです。」最晩年の「髑髏を持てる自画像」はキリストのようでもある。
     大正十三年(一九二四)十二月二十四日、彝は満三十七歳で死んだ。その二か月後に俊子も結核で死んだ。「感染してたんですね?」「そうでしょう。」
     「中村彝の墓誌は中村不折が書きました。鴎外もそうです。」それも知らなかった。「根岸の子規庵の向かいに不折の書道博物館がありましたよね。」不折は荻原碌山と同じ画塾で学んだ縁で中村屋にも出入りしていて、そのロゴを書いている。彝とも中村屋で知り合ったようだ。
     オジサンにお礼を言って外に出る。「今日は文化的なコースでしたね。私は漫画は苦手だけど、版画も洋画もあって良かったですよ。」もしかしたら私は「文化人」かも知れない。「立教も良かったし、トキワ荘も良かった。」ヨッシーとロダンにそう言って貰うと嬉しい。姫は立教の学食に満足したようだ。「あんなに無料で入れるところがあるなんて知らなかったよ。」最初の段取りはまずかったが、雨も大したことがなかったし、一度も道を間違わなかったのも良かった。
     目白駅に着いて一万六千歩。かなりのんびり歩いたので歩幅は狭い筈で、八キロか九キロというところだろう。四時だ。「絶妙な時間配分だったね」とファーブルが笑う。ハイジ、ダンディ、講釈師、マリオはここで別れ、残った者は高田馬場に向かう。マリオはこの後所用があると言っていたから別の飲み会があるのだろう。
     高田馬場で早稲田口に下りた。「さて、どこにしようか?」「あそこの商店街がいいんじゃないの?」マリーが言うのは山手線の高架脇から斜めに入る商店街である。ゲートの上に「さかえ通り」、その下に大きく「東京富士大学入口」とある。「こういう飲み屋街に大学入口の看板っておかしいね。」「以前、神田川を歩いた時に通った道ですよ。」桃太郎に言われるとそうかも知れないと思い出す。
     「ここはどうかな?」清龍高田馬場店だ。池袋に本店があって安いことでも知られている店だから良いのではないか。「だけど禁煙席って書いてありますよ。」「いいよ、入口前に灰皿があるから。」ロダンがスナフキンに電話をし、メールを入れることになった。「何故か四回も送信しちゃった。まだ慣れてないんですよ。」「どこにいるって?」「電車の中だそうです。」
     地下の一番奥の座敷に座った、ビールはサッポロだからファーブルも大丈夫だ。姫は突き出しの貝が食べられないので桃太郎に回された。胡瓜の漬物一本は姫専用、もう一本と茄子一本をみんなで分ける。刺身五点盛りを一つ。「二つにしますか?」「スナフキンが来てから考えよう。」
     ビールを半分ほど飲んだところでスナフキンが登場した。意外に早かった。「蜻蛉にメール入れたのに返事が来ない。」それは失礼してしまった。今日は新年会でもあるので、改めて乾杯する。アサリバター。「この汁が美味しいんだよ。」桃太郎は前回に続いてトマトのチーズ重ね(本来は違う名前がある)を注文する。黒霧島を二本開けてお開き。
     ヨッシーと桃太郎は帰って行ったが、残り六人がビッグエコーに入る。先月は飲み放題なんてバカな選択をしたから、今日はいつものワンドリンク方式に戻した。姫は相変わらずレパートリーが広い。ロダンの絶好調は続き、かなりの曲を歌った。「アニさんと好みが一緒なんですよ」と言いながら、井上ひろしや守屋浩を催促するので『雨に咲く花』と『僕は泣いちっち』を歌った。スナフキンは珍しく、ちあきなおみバージョンの『黄昏のビギン』を歌う。ちあきバージョンは難しくて、私は水原ひろしバージョンしか歌えない。ファーブルも『岬めぐり』ほかを歌って、「上手ですよ」と姫に褒められた。


    蜻蛉