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    第八十一回 中野・落合・早稲田
      平成三十一年三月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2019.03.24

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     あの震災と原発事故から八年経った。膨大な数の人が故郷を失い、未だに五万を超える人が仮設住宅や避難地での生活を強いられている。破壊された共同体は元には戻らない。福島第一原発の廃炉に至る工程は未だ不透明であり、放射能汚染土の処理も進んでいない。「復興」には程遠い現実でありながら、復興庁は来年には廃止されることが決まった。一方で「復興五輪」にはしゃぐ連中がいる。何が復興だろう。何のためのオリンピックなのだろう。
     旧暦二月三日。啓蟄の初候「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)。」先月の末から雨が多く寒い日が多かったが、今日は暖かくなる予報だ。
     集合は西武新宿線の沼袋駅北口だ。池袋・高田馬場を経由するより、本川越から西武新宿線を利用する方が二百円安く、所要時間も数分しか違わない。鶴ヶ島から六百四十円、一時間十八分で着いた。駅舎は改築工事が始まったばかりのようで、ホームには数人の係員が「北口出口はこちらです」と案内している。トイレも新築で綺麗だ。
     学生時代、友人が一時住んでいたので沼袋には何度か来たことがある。もう五十年近く前のことで、友人が贔屓にしていた安い寿司屋は勿論今はない。寿司屋と言っても、イカのゲソだけ頼んで酒を飲むのだから、店にとっては余り有難くない客だっただろう。
     集まったのはリーダーのあんみつ姫、ハイジ、マリー、オクちゃん夫妻、ヨッシー、ダンディ、マリオ、ファーブル、桃太郎、蜻蛉の十一人だ。「江戸歩きは初参加です。立教には行きたかったんですよ」とオクちゃんから声がかかった。「何で行けなかったのかな?天候が悪かったのかな。」「少しだけ雪と雨が降りましたね。」
     大きなマスクを着けた桃太郎の左目はパンダのように黒く隈取りされ、額に絆創膏、右手にはネットを被せてある。「どうしたの?」「転んじゃった。爪先がちゃんと上がっていなかったんだね。」私もそれで躓きそうになることがある。気を付けなければいけない。マリオは「久し振りにゴルフをしたら肉刺ができちゃって」と言う。
     「一月の蜻蛉の会の後で、落合の地図をお渡ししました。今日持ってきて下さいって。」しかし真面目に持参したのは二人だけだった。私もすっかり忘れていたが、姫はそれを見越してまた大量に同じ地図を持ってきてくれた。

     北口から新青梅街道まで伸びる長い商店街は何でも揃っているように見える。シャッターを下した店が殆どないのも珍しい。「住みやすそうな町だね。」「懐かしいような感じですね。」学生向けのアパートが多い筈だから、こういう商店街があると住みやすい。
     右手の路地の入口の角の家には、石垣の上に赤いツバキの花が咲いている。そこに朱塗りの鳥居が道幅一杯に建っていた。このため二トン以上のトラックは通行できない。鳥居の額には「大岡稲荷大明神」とある。「予定にはありませんが、ちょっと寄ってみます。」平屋建て民家の前庭に朱塗りの鳥居が建ち、小さな祠が道に並行して石の台座に載せられている。中野区沼袋二丁目二十九番十二号。解説によれば、越後長岡城の守護神が、明治維新後に古志郡栃尾堀の代官所跡に遷座した。それを奉戴していた小池氏が当地に移転してきて、小池一族の守護神として祀ったのがこの大岡稲荷である。
     商店街に戻ると角の家(さっきの石垣の家)も立派だ。「旅館だったかも知れないな。」天野書店が開店した時間のようで、女性が店頭に並べる準備をしている。「寄りたそうですね」とオクちゃん夫人が笑うが、今は古本屋に寄る余裕はない。
     相変わらず余計なことだが、今いる大学図書館では今月から除籍図書のリサイクルを行っている。理工系の大学だから私には殆ど縁がないのだが、みすず書房のマルク・ブロック『封建社会』(1・2巻)を見つけたのは奇跡のようなものだった。買う機会がないまま四五年前に別の図書館で借りて読んではいたが、いつか手に入れたいと思っていたものだ。
     翻訳(新村猛他)があまり良くなくて(未見だが、堀米庸三訳の岩波書店版が良いかも知れない)読み直すには時間がかかりそうだから、古書に手を出す余裕がないのである。これを手に入れた翌日、近所のクマザワ書店でたまたまブロックの『比較史の方法』も見つけたので買った。一年半前に「講談社学術文庫」になっていたのに気付いていなかった。江戸歩きに全く関係ないがちょっと紹介しておきたい。歴史修正主義への対抗として、仲間にだけでも本物の歴史学を紹介することくらいしか私にできることはないのである。
     二十年程前アナール派のフェルナン・ブローデル『地中海』(高くて手が出ない)が注目を浴びたが、マルク・ブロックはアナール派の創始者の一人で、『封建社会』はその代表作である。アナール派とは、一九二一年一月、ブロックとリュシアン・フェーブルが雑誌『アナール』(「社会経済史年報」)を創刊したことから名づけられた名称だ。歴史研究の方法論として政治史、経済史など様々なアプローチがあるが、その時代に生きた人々が実際にどんな生活をしていたのか、どんな思想感情にとらわれていたかを明らかにすることがアナール派の目標である。日本では西洋中世史の阿部勤也、日本中世史の網野善彦などの「社会史」がこれに比べられる。

     アナール学派は特定の理論によって統一されているグループではなく、思想傾向も多様であるが、歴史を総体的に把握し、現代からの歴史への問いかけを重視しようとする点が共通している。アプローチの方法としては、文献資料だけでなく、数値資料、口承文芸などの生活資料を活用するといった人類学的手法も取入れた。フェーブルやブロックを中心としたアナール学派の第一世代は、社会構造の分析をおもな課題とし、特に社会を支える集合心性の役割を重視した。 五七年のフェーブルの死後、F・ブローデルを中心にした第二世代が登場し、歴史上長期にわたって持続する事象に注目する深層の歴史学を提唱した。(『ブリタニカ国際百科事典』「アナール学派」)

     第二次大戦中ナチスドイツに占領されたフランスで、五十三歳のブロックはパリ大学教授の職を擲ってレジスタンスに参加し、最後にはナチスに捕らえられて銃殺された。五十七歳である。レジスタンスの活動中に書いた『歴史のための弁明』、『奇妙な敗北』が遺作となった。前者は「パパ、歴史は何の役に立つのか説明してよ」という子供の質問に誠実に答えようとしたもので、職人の手仕事にも似たブロックの歴史研究の方法が克明に記されている。史料を厳密に扱うその方法自体が、勝手に歴史を歪曲し夜郎自大に民族意識を煽るものへの警告になっている。後者は、何故フランスは敗北したのかを分析したもので、当時のフランス官僚制システムの退廃を徹底的に暴いた。つまり両書とも現在の日本でなお読まれるべき価値がある。
     ついでに林達夫の文章を思い出してしまった。戦中、哲学者(田辺元や和辻哲郎、谷川徹三等)や素人が万世一系、天壌無窮などと勝手な歴史を声高に語っていたことへの批判である。ここで林はほとんどブロックと同じ位置に立つ。現代の例として、私は取り敢えず百田尚樹『日本国紀』を念頭においている。

     私は歴史家ではあるが、歴史と取引することは好まない。ましてかかる取引を是認することになるような仲介人になることは猶更辞退したい。現代において書かれる歴史が現代を反映するということと、現代の自己的利害から歴史に注文を付けるということは別事であろう。近頃はいろんな形の歴史的取引が大はやりのように見受けられる。歴史の素人――たとえば哲学者が自分の思想大系に合わせて歴史的倉庫から何かを勝手に取り出すのはまだしもだが、れっきとした歴史家自身が歴史的作品の名のもとに――ひどいのになると「唄」をこっそり忍び込ませている。それは自己の胸中にわだかまる鬱憤を晴らす一つのカタルシスとしては、たしかに存在理由があるかも知れない。だが、それならばそれとして正直に「文学」と名告るべきであって「科学」を僭称すべきではないであろう。
     公衆は学問のきびしさというものがどんなものだかわかっていない。だから甘い与太な唄を歌っても、その道具立てが物々しくもいかめしければ学問的厳密の傑作のように思い込んでしまう。私は歴史で鬱憤晴らしをやるのはいちばんやさしい仕事だし、第一男らしくない卑怯なやり方だと思う。そういうことが学問として通用するのは、我々のところに実証的精神と歴史的感覚が欠如しているがためである。(林達夫「歴史との取引」『歴史の暮方』所収)

     国際短大の看板があった。知らない短大だが、新青梅街道を渡ったところにある。中野高等無線電信学校を母体とするが、改組を繰り返して現在では国際コミュニケーション学科だけになっている。英語と観光とビジネスを専攻する学科で、これは今最もありふれた構成だろう。
     「大学は半分に減らすべきなんだよ。」ファーブルの意見に反対はしない。多くの大学はもはや高等教育を担う学校ではなく、就職のための予備校でしかない。キャリア教育と称して、入学早々から就活のためのテクニックが何よりも優先されて教えられる。産業界の構造変化とともに大学の概念が変わったのであり、全て一括して「大学」と呼ぶのは殆ど無意味になった。
     十八歳人口は平成四年(一九九二)の二百五万人から百十八万人に減った。ほぼ半減したわけだが、平成四年には二十六・六パーセントだった進学率が、現在五十一・五パーセントにまで伸びたことから、大学生の数は増加した。元々進学率を上げることが国の政策であり、増える学生を収容するため、平成三年(一九九一)に大学設置基準を大幅に緩和(設置基準の大綱化)して大学の数をイヤになるほど増やした。
     その結果、平成四年に五百二十三校だった大学が、現在では七百八十二校になった。数と質は反比例するのが道理で、全体の質は著しく劣化したのである。
     更に設置基準の大綱化では一般教育科目も廃止された。旧制高校に由来する「教養」の息の根が止まったことを意味する。多くの大学で歴史や文学や哲学の科目はなくなった。外国語教育からも文学は外され、TOEICだけが幅を利かせている。「教養」は無駄なのであり、それに該当する教員は駆逐された。
     但し教養の終焉は実は昭和四十五年(一九七〇)頃に起こったと、竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』、三浦雅士『青春の終焉』などは言う。私、スナフキン、ファーブルが大学に入った年であり、その頃から大学の遊園地が始まったのは確からしい。その年の十月、ミシェル・フーコー『知の考古学』の邦訳が出版された。フーコーは人文学の死、とりわけ歴史学の死を宣告したのであったが、当時の私には見えていなかった。変化は徐々に進行し、平成六年(一九九四)には『知の技法』(東大出版会)が出版された。こうして「教養」は「知」に変わった。

     ・・・・・教養には、そのどこか押しつけがましい響きに明らかなように、身につけていなければ恥ずかしいという雰囲気が潜んでいた。知にはそういう雰囲気はいっさいなかった。その冷ややかな響きにはむしろ人を拒絶するような趣さえあった。知は教養を不必要にしただけではない。知をも不必要にしたのである。いってみれば、学生は教養からも知からも解放されたのである。それは趣味の問題になってしまったのだ。(三浦雅士『青春の終焉』)

     無知無学は恥ずかしいものではなくなった。東大生であることを看板にして雑学的知識の蓄積を誇る(まさに趣味の世界)者がいる一方、無知を売り物にする者がいかに多いことか。

     「バカ」と言われりゃ、少し以上たじろぐのに、「おバカ」になったらたじろがない。「バカ!」にはエクスクラメーションマークがつくが、「おバカ」にはつかない。下手をすればハートマークがついてしまう。「バカ」が「おバカ」になって、バカがたじろがない結果、「バカでもいいんだ。バカってたいしたことじゃないんだ」と思って、「バカな自分を恥じる」という感覚をなくしてしまう。「恥」の感覚をなくしてしまうということは、知性にとっての危機なんですけどね。それで日本はやばいことになっているんだと、私は本気で思いますけどね。」(橋本治『思い付きで世界は進む』)

     私立大学の四割は定員割れの状態にある。十年後には大学進学者数は十万人程減少すると予測されていて、そぅなれば倒産する大学が相次ぐだろう。そうでなくても、有力大学に吸収されるもの、縮小を迫られるものは数多く出るはずだ。

     新青梅街道を渡って右に行けばすぐに中野区歴史民俗資料館だ。中野区江古田四丁目三番四号。建物の前に直径一メートル以上の大きな石の円盤が二つ置かれている。「石臼だ。」「大きいね。」「これでどうやって回すんだ?」二つの石臼を縦にして機械で回すのである。中野は蕎麦の一大生産地であった。

     江戸時代、青梅街道は江戸五街道に次ぐ重要幹線道路でした。江戸城築城のために青梅に産出する石灰を運ぶ役割として開設されましたが、泰平の世になると、多摩地域の物資輸送路というライフラインに変わりました。中野宿は最後の宿場町にあたり、すべての物資の集荷地としてにぎわったのです。
     豊かな原料はやがて地場産業を発展させます。大豆から味噌・醤油生産などの醸造業、麦・蕎麦からは製粉業が興りました。浅田醸造所・石森製粉、いまでも現役のあぶまた味噌などが有名でした。(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)
     https://www.visit.city-tokyo-nakano.jp/category/walking/history/39307

     建物の屋根は茅葺を銅板で覆ったような形だ。一階には雛壇を二つ設置しているが、一台の方は中途半端な飾りつけだ。「片づけているのかしら?」なるほど、箱の中に雛人形をしまっている途中のようだ。「片づけたわよ」と言うのはハイジだ。「アッ、これは自分の家の話。」
     展示室は二階だ。一室が雛飾りの特設展示場になっていて、江戸から平成期までのものを飾っている。豪華な檀飾りは縁がない。こころには、内裏雛だけがガラスケースに入ったものを買った。しかし今年の三月三日は寒い雨の日で、こころは来なかった。
     そもそも現代の住宅事情では、段飾りを置ける家はごく限られているだろう。「私たちの時代にはコンパクトなものが流行ったわ」とハイジが証言する。我が家にはそもそもお雛様はなかった筈だ。「今年は三段だけ飾った」と宗匠は言っていた。
     隣の常設展示場に移る。綺麗な板碑が何基か展示されている。展示ケースの中に象の置物があるのを見て、「中野でどうして象?」とファーブルが疑問を口にする。「享保の頃、象が来たんだよ。」このことは以前調べている。「シャムから持ち込まれたんだ」と言ってしまったが、これは記憶違いで、享保十三年(一七二八)交趾国(ベトナム)から吉宗に献上されたものだった。長崎に上陸してすぐ雌が死に、雄だけが江戸に来た。
     「長崎から江戸まで歩いて来たんだけど、途中で天皇が観覧する際、官位のないものが禁中に上がるのは前例にない。だから象に従四位を与えたんだ。」箱根越えは大変だったろう。六郷の渡しでは多くの船をつないで板を渡した仮橋を造った。しかし江戸にやって来た象を養うのは大変だった。

     一日の間に、新菜二百斤、篠の葉百五十斤、青草百斤、芭蕉二株(根を省く)。大唐米八升、その内四升ほどは粥に焚きて冷やし置きてこれを飼ひ、湯水(一度に二斗ばかり)、あんなし饅頭五十、橙五十、九年母三十。また折節大豆を煮冷やして飼ふことあり。(略)(『江戸名所図会』)

     余りの大食に幕府も音を上げ、中野村の源助に払い下げられた。源助はそれを見世物にし、糞は焼いて薬として売り出して大儲けしたが、象は寛保二年(一七四二)に死んだ。象皮は幕府に献上されたが源助はめげることなく、象の骨を護国寺や湯島天神、両国広小路などで見世物にした挙句、安永八年(一七七九)には中野坂上の宝仙寺に売り渡した。
     外に出ると隣接する山崎家庭園に大きなスダジイの木が立っている。「お庭の中は入れないんです。」中には入れないが「鍋屋庭園の石橋」というものが置かれていた。「鍋屋横丁は青梅街道を歩いた時に通っていますよ。」青梅街道から杉並区堀ノ内の妙法寺に向かう参道で、その角に鍋屋という茶店があったのである。巨大な漬物樽も置いてある。
     「それでは出発します。」通りに出て左に行くと、静かな住宅地の一角に不思議な家があった。家を覆い隠すように樹木が立ち、壁面には蔦が絡まっている。二階には大きな丸窓が開き、時計台が立っている。何これ?」「普通の民家なんだろうか?」入口脇に「地面下の家(ちめんかのや)」の立て札があった。「調べてみると、バー&ギャラリーである。中野区江古田四丁目十一番二号。

     この建物は住居として一九八八年に建てられたもので、設計は斎藤裕氏。建築雑誌やフランスVOGUE誌等に発表され話題を呼び、同年の 新建築賞を受賞している。この個性的な住居をそのまま生かして「地面下の家」をはじめたのが一九九五年のこと。(Barちめんかのや「お店の紹介」http://chimenkanoya.com/cmkbar.html)

     先を歩いていた姫が「おかしいですね、薬局はありませんでしたか?」と戻って来た。なかったと思う。資料館の前まで戻ってもやはり薬局はない。姫は地図を持っていない。「この辺のことなら大抵知ってますよ。」自転車に乗ったご婦人が声をかけてくれた。「配水塔に行きたいんです。」「かなりありますよ。こっちに行ってもらえば着きます。」姫の行きたい方向とは逆になるが、その言葉に従って歩き始めた。下見の時に歩いた道とは違うようで、姫の不安は消えない。民家の庭に白梅が咲いている。
     そこに「お経塚」があった。中野区江古田二丁目十四番。小さな公園の片隅に覆屋が建てられ、元文三年(一七三八)建立の舟形の地蔵と安永五年(一七七六)建立の馬頭観音が並んでいる。大正時代には人の背丈ほどの塚があったと言う。砂利置き場にするため、その塚の盛り土を整地した際に人骨と経筒が出土したのである。東福寺の火災により経文などを埋めた、あるいは文明九年(一四七七)の江古田・沼袋合戦の戦死者を埋葬した豊嶋塚である等の説がある。但し、豊嶋塚に比定される場所は他にいくつかある。
     江古田・沼袋合戦とは、太田道灌と豊島泰経との間で闘われた合戦である。古河公方と結んで上杉顕定に反旗を翻した長尾景春の乱に呼応し、豊島氏は石神井城(石神井公園)と練馬城(豊島公園)に拠った。これは太田道灌の江戸城と河越城を結ぶ線を分断することになる。何度かの小競り合いがあって、最終的には豊島氏は太田道灌に滅ぼされる。石神井公園には、落城の際に豊島泰経と娘の照姫が三宝寺池に入水したという伝説が伝えられているが、史実ではない。
     ファーブルがタブレット端末を取り出して地図を広げる。「このために持ってきたんだよ。」「萩原医院がありますか?」あった。「こっちに行けばいいんだ。」「資料館を出る時、出口が違ったんですよ。」本来の出口はトラックが塞いでいて通れなかったので、別の出口から出たことに姫は気付かなかったのである。「ああ、十年くらい言われそうだわ。」「だけど、お陰でお経塚を見られたじゃないの。」
     狭い道を不安そうに歩いていると、確かに萩原医院があった。「ここです、これでいいんだわ。」その角を右に曲がり新青梅街道と平行に東に向かう。江古田川に架かるのは不動橋だ。川は三面コンクリートで固められていて、がっかりしてしまう。この川は少し下って新青梅街道沿いの江古田公園の辺りで妙正寺川と合流する。
     親柱には「万垢離行事」の絵が嵌め込まれている。褌裸の男五人が踊りながら、大山参りの大きな木刀を洗っているようだ。神仏に祈願する際、冷水で身を清めるのは神道の禊と同じだろうが、特に修験道や山岳信仰では垢離と言う。東詰めには垢離取不動があり、大山や富士へ参詣するものがここで水垢離し、太刀を洗ったのだ。不動尊は珍しい線刻で、周囲を溶岩で固めてある。
     車の通行も多くない静かな住宅地だ。「アッ、白がきれいですね。」「咲いているのもある。」「コブシ、モクレン?」コブシの花だ。「春ですね。」十五分程歩いただろうか。「ドームが見えてきました。」
     野方配水塔である。中野区江古田一丁目三番一号。公園の奥に塔が建っている。「覚えてますか?」「記憶があるような、ないような。」以前、里山ワンダリングの会がここに来たことがあるのだと姫は言う。「重複しないようにしてたのに。江戸歩きでは来てないことが確認できたんですけど、里山の記録を見てがっかりしました。」しかし誰も記憶していないのだから問題はない。

     荒玉水道の野方給水場(のちに野方給水所に改称)に作られた配水塔である。高さ三十三・六メートル、基部直径十八メートル。
     野方配水塔は、一九二九年三月末に竣工し、配水塔としては一九六六年に使用を停止した。一九七二年七月三十一日に給水所が廃止されてからは跡地及び配水塔を東京都水道局が管理してきたが、現在は中野区の災害用給水槽となっている。(ウィキペディア)

     荒玉水道は荒川と多摩川の謂である。豊多摩郡・北豊島郡にある十三の町が組合を作り、旧式の木樋水道を改良して、多摩川の水を喜多見で引水したのである。
     「機銃掃射の弾痕があるんですよ。」塔の裏側に回って上を見る。窓枠の近くにあるらしいのだがよく見えない。「あれかな?黒くて丸い穴。」どうやらそれらしい。中野区は、昭和十九年十一月二十四日の鷺宮二丁目に始まり、二十年五月二十五日の山手大空襲まで計七回の空襲を受けた。
     「青梅街道で見た戦争遺跡はすごかったよね。」桃太郎の言うのは玉川上水駅の近くにある旧日立航空機株式会社立川工場変電所のことだ。外壁は穴だらけだった。
     蓮華寺(日蓮宗)には寄らないが、路地を抜けながら墓地を眺めると立派な墓石が見える。ここには井上円了の墓がある筈だ。新青梅街道に出ると、その南側は哲学堂公園になる。宗匠が案内してくれた他に、私はもう一度度行ったことがある。
     「哲学堂って?」「東洋大学を創った井上円了が世界の思想宗教に関するものを集めた公園だよ。」「哲学のテーマパークか?」「そうだね。」ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った四聖堂の他、哲理門(天狗と幽霊)、六賢台(聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅)、三学亭(平田篤胤、林羅山、釈凝然)等、不思議な建物がたくさんあって、その選択の基準が良く分らない。私にとっては謎の人物である。
     新宿区に入ると、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所チベットハウスというものがあった。新宿区西落合三丁目二十六番一号。「こんなところにあるんだ?」亡命政権「ガンデンポタン」の代表機関である。

     ダライ・ラマ法王日本代表部事務所は、ダライ・ラマ法王及びチベット亡命政権の正式な代表機関として、一九七六年に東京に開設されました。現在の管轄範囲は、日本を含む東アジア地域です。日本代表部事務所の責任者である駐日代表職は、ダライ・ラマ法王によって直接任命されます。(日本代表部事務所HP)

     チベットの歴史については殆ど無知であるが、共産党中国における少数民族問題の一つの典型であり、旧ソ連における少数民族問題と共通するだろう。チベット仏教とダライ・ラマの存在の大きさは、イスラム問題に匹敵するのではないか。「中国に行った時、チベット自治区の人が、私たちは誰もダライ・ラマを信じていないって言ってた。」それは当然だろう。中国の国内でダライ・ラマ信奉を表明すればたちどころに逮捕される筈だ。取り敢えず日本代表部の主張を見れば、チベット族への弾圧の酷さが分る。ここではブリタニカを当たってみた。

     政教一致の文化をもつチベット人が中国からの独立や高度の自治を求めて生じている紛争。近来は中国当局によるチベット人の宗教・自由の抑圧が人権問題だとして国際問題化している。チベットは十八世紀後半に中国の版図となり、清国が宗主権をもつが内政はダライ・ラマ政庁が握る状態で推移した。(ブリタニカ国際百科事典「チベット問題」)

     つまり清朝の時代には朝鮮とほぼ同じ立場の国だったのである。清朝滅亡にあたって、宗主権は失われたとして独立を宣言した。しかし中華民国成立の際の孫文の大統領就任演説では、「漢満蒙回蔵の諸地を合して一国と為し、漢満蒙回蔵の諸族を合して一人のごとくする。これを民族の統一という」と語った。「回」は新疆のイスラム系諸民族、「蔵」がチベット族である。

     一九一一年の辛亥革命後、イギリス、チベット、中国がチベットの帰属問題を協議 (十三年シムラ会議)、事実上の独立国だとするイギリス、チベット側と中国が対立し、合意にいたらないまま、中華人民共和国が樹立された。中国は軍隊を派遣、チベット側と協定を結び (五一・五)、西部チベットに限って「区域自治」方式で統合を進めた。五十九年三月、改革の強制や漢民族の移住に怒ったラマ教指導者が反乱を起したが鎮圧され、ダライ・ラマ 十四世はインドに亡命、ダルムサーラに亡命政府を樹立した。六十四年にはダライ・ラマに代ったパンチェン・ラマ十世もその座を追われ、六十五年チベット自治区が成立。文化大革命中には大規模なチベット仏教 (ラマ教) 寺院の破壊が行なわれた。 八十年からチベット反乱者の名誉回復、信教の自由、ダライ・ラマの中国帰還に許可など融和策をとりつつ、漢化が進められ、その後もチベットでは独立運動、反漢民族の暴動が起っている。八十九年三月には人民解放軍が出動、一年あまりラサ地区に戒厳令が敷かれた。ダライ・ラマは、チベットの平和地帯化、人権尊重、漢民族の移住禁止、核兵器生産の停止などとともに、「チベット全土を中華人民共和国と協同して民主的な自治地帯にする」よう求めている (八七・九・二一)。アメリカ下院での演説、八八・六・一五ストラスブール・ヨーロッパ議会での演説) が、中国政府は「チベットは中国の不可分の領土」だと主張し、歩み寄りの気配はない。八十九年にダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞して以来、世界の関心がチベットに集っている。(ブリタニカ国際百科事典・同)

     ダライ・ラマはチベットの守護神である観音菩薩の化身であり、転生によって継がれる。現在の十四世は三歳の時に見いだされた。この辺りが私には理解できないことなのだ。既に亡命政権の長を引退し、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。

     「サイゼリヤでお昼にします。」がってん寿司がある。「ここでもいいけどね。」その先にすぐサイゼリヤがあった。十一時半。一人では歩くのも大変そうな老婦人が階段の途中で苦労している、大丈夫かな。そこにご主人(だろうか)が上から現れ、手をつないでやっと上れた。
     店内はまだガラガラだ。イタリアン料理のサイゼリヤで私が注文できるものは多くない。スパゲティを注文する人が多い中で、ミックスグリルを選び、それにライス、ビールを付ける。珍しく桃太郎がビールを注文しないのは、余程具合が良くないのだろう。「
     「チーズのWサイズを下さい。」「それはピザのチーズの量を倍にするサービスですから、単独ではご注文できません。ピザをお選びください。」「どっちでもいい。」「それじゃ注文にならないよ。」店員と目を合わせると笑っている。勿論ピザを注文したのは私ではない。ダンディはグラスワインを頼んだ。ファーブルは悩んだ挙句、スパゲテイだけでは足りないからとパンを追加した。ファーブルはビールは飲まないんですか?」「昼間っから飲む奴なんて信じられない。」
     「ワインが安いからちょっとした人数で飲むのに都合がいい。」マリオは何度かサイゼリヤで飲んだことがあるらしい。「だけどワインを飲み過ぎちゃうんだ。」これは私の経験である。
     ファーブルが注文したスパゲティは一番シンプルなものだったが、パンが出て来ただけでなかなか本体が出てこない。「どうしたのかな?」以前、スナフキンと同じものを注文したのに私の分だけが来なかったこともある。ちゃんと注文が生きているのだろうか。彼がパンを食べようとしたとき、やっとスパゲティが現れた。これが一番最後だった。
     テーブル毎にお金をまとめると、一円玉が大量になってしまった。「これ替えてよ。」マリーのテーブルには十円玉がいくつか置かれている。「一円玉を十円玉に。」会計を済ませて店を出たのは十二時二十分だ。

     西光山自性院無量寺。真言宗豊山派。新宿区西落合一丁目十一番二十三号。門柱に小判を抱えた猫の像が立っている。その後ろの紅梅が美しい。ここは猫寺である。世田谷の豪徳寺は井伊直孝に因む招き猫の寺であったが、ここは何故猫なのか。 

     猫地蔵の縁起は、文明九年(一四七七)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。また、江戸時代の明和四年(一七六七)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、牛込神楽坂の鮱屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏となっており、毎年二月の節分の日だけ開帳されている。(「新宿区の文化財」)

     境内の解説板には私年号「福徳元年」の板碑があると言うのだが見つからない。おそらく本堂内にひそかに隠してあるのだろう。本来、元号は帝王によって定められるが、それとは別に中央地方独自で作られたものが私年号である。福徳元年は延徳二年(一四九〇)とする説が多いが、論者によっては二年ほどのずれがある。

     室町幕府による分権体制への移行は地方の自立化を促したが、一部勢力の間では反幕意識を表明するために私年号が使用されたこともあった。具体的には、禁闕の変後に近畿南部の南朝遺臣(後南朝)が使用したという「天靖」「明応」、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の子・成氏を支持する人々が使用した「享正」「延徳」などがその例である。ところが、十五世紀末以降の戦国期に発生した私年号は、依然として戦国大名の抗争の中にありながら、従来の私年号とは性格を大きく異にしていることが指摘できる。すなわち、「福徳」「弥勒」「宝寿」「命禄」などは、弥勒や福神の信仰に頼って天災・飢饉などの災厄から逃れようとする願望の所産であって、単なる政治的な不満と反抗を理由に公年号の使用を拒否していた訳ではない。しかも、これらの私年号の多くは甲斐国(山梨県)から発生し、寺社巡礼の流行に乗じて中部地方・東北地方に伝播したとみられ、現在東国の広い地域に残る板碑・過去帳・巡礼札などの中にその実例を確認し得る。こうした事態の背景には、幕府と鎌倉公方との対立による改元伝達ルートの乱れや途絶があったに相違なく、その意味において、広範囲に通用した私年号は中世後期東国の歴史的所産と呼べるものであろう。(ウィキペディア)

     「横から入っちゃったんです。」真っ赤な山門を潜って外に出る。街道から離れて住宅地の中を歩く。ジンチョウゲが花開いている。白の中に赤が見え隠れるのがきれいだ。
     次は中井出世不動だ。新宿区中落合四丁目十八番十六号。「皆さん、順調に出世を遂げた人ばかりですから、お礼参りということで。」最も敬虔にお参りするのは桃太郎である。

     江戸時代の遊行円空(一六三二~一六九五)の作で、不動明王(像高一二八センチ)、矜羯羅童子(像高六四センチ)、制咤迦童子(像高六七ンチ)の三体からなり、不動明王には火焔光背と台座、二童子には台座が付属している。
     江戸時代後期に円空生誕の地に近い尾張国一の宮の真清田神社の東神宮寺より移され、明治時代後期まで中井御霊神社の別当不動院に安置されていた。
     彫法は円空の素木を生かした作風をよく示したもので、都内伝存の円空仏としては唯一の発券例である。

     円空仏自体は全国で五千産百体以上発見されているから、そんなに珍しいものではない。ただ愛知県で三千二百体以上、岐阜県で千六百体以上見つかっていて、それ以外の地域ではやはり珍しいもののようだ。
     「不世出って読んでしまいました。」堂に掲げられた額の文字である。一行一字に書いた文字だから右から読まなければいけないのだが、左から読んでしまうと確かに出世不動になってしまう。
     「弘法大師御作・落合村中井・自是四丁 一心出世不動」の道標の裏に、鳥取県の文字があるのが不思議だ。鳥取県米子町川合●●・府下世田谷町●●●●・神奈川県横浜市道家重吉。道標の寄進者の名前だろうが、それにしても不思議だ。

     この辺りは豊島台地の南側の崖線に当たり、南の妙正寺川に向かって下っている。その崖線に沿って山手通りに近い方から、一の坂、二の坂に始まって八の坂まで西に並んでいる。民家のフェンスの上に白いツバキが開いている。四の坂通りの案内があった。
     姫が立ち止まったのは、旧島津家住宅アトリエである。新宿区中井二丁目十九番十六号。現在の住所表示の中井は、かつては下落合である。「今も実際に住んでいますから大きな声を出さないでください。」今日は講釈師がいないから大丈夫だ。島津家と言うから薩摩かなんて思ったのは無学のせいだ。島津製作所なのである。

     旧島津家アトリエは、昭和七年(一九三二)以前に建てられた、木造平屋建て(中二階)のアトリエ建築である。島津製作所の三代目島津源吉の長男一郎のアトリエとして建てられたもので、吉武東里(一八八六~一九四五)の設計と考えられる。島津家はこの辺りに広大な土地を所有し、そこに和洋折衷の邸宅のほか、娘鈴子夫妻(夫は洋画家刑部人)の住宅(吉武東里設計、平成十八年解体)と息子一郎のアトリエが建てられた。その後、島津家は京都に本邸を移したため、敷地・建物は昭和十七年(一九四二)に売却された。
     内部は、一階中央にアトリエ、西側に応接室と洗面所・トイレ、東側に書斎と風呂が配置されている。アトリエ南側にはバルコニーがあり、その上にアトリエを見下ろす中二階が設けられている。アトリエ特有の北側の採光窓は天井まで高さがあり、垂直に三段、水平に九連の片開き窓となっている。
     平成二十六年三月 新宿区教育委員会

     島津家はこの辺りに一万坪の土地を所有していた。初代源蔵は京都の醒ヶ井魚棚(現・堀川六条付近)の仏具職人の子として生まれた。明治三年(一八七〇)に京都府が開設した舎密局に出入りして知識を蓄え、明治八年(一八七五)に教育用理化学機器の製造を始め、島津製作所を創業した。からくり儀右衛門として知られる田中久重が東芝の前身、田中製造所を設立したのもこの年だ。明治十年(一八七七)国内初の有人気球の飛揚に成功し名を高めた。
     二代源蔵も発明家である。国内初のX線撮影に成功し、教育用X線装置を商品化した。その技術者育成のため島津レントゲン技術講習所を創った。現在の京都医療科学大学の前身である。また国産初の鉛蓄電池を作成した。昭和五年(一九三〇)には日本の十大発明家に選ばれている。
     源吉は二代源蔵の弟で、島津製作所の常務を勤めていたらしい。アトリエを建てて貰った一郎は結局画家を断念し、島津製作所に入って専務になる。
     戦時中に島津家は本拠を京都に移したため、その膨大な土地は分割して売却された。ところで、落合界隈については落合道人なる人が克明なブログを書いている。興味のある人は覗いてみると良い。
     吉屋信子の旧居は四の坂と五の坂との中間にあるらしいが、姫は確定できなかったと言う。大正十二年(一九二三)、二十七歳の信子は高山しげりの紹介で、女学校の数学教師だった門馬千代(二十三歳)と運命的な出会いをした。関東大震災の後、二人が一緒に住むために建てたのがこの家だ。
     千代は女学校時代、数学の天才と呼ばれたらしい。当時帝国大学の中で唯一女性の入学を認めていた東北大学への入学も期待されていたようだが、弟妹五人の長女の境遇では進学はあきらめざるを得ない。
     私は吉屋信子に縁がなく、ただの少女小説だろうと思っていた。現代なら同性婚を高らかに宣言しただろうが、まだ時代は偏見に満ちていた。LGBTと言う概念が一般に承認されるようになったのはごく最近のことで、私だって偏見がなかったとは言えない。信子は堂々としていたが法的には千代になんの権利もなく、自分の死後のことを考えて昭和三十二年(一九五八)千代を養女として入籍する。
     渋谷区と世田谷区が同性カップルを結婚に相当する関係として「パートナーシップ証明書」「パートナーシップ宣誓書受領証」を発行したのは平成二十七年(二〇一五)十一月のことだった。しかし日本国としてはまだ同棲婚を認めていない。
     民家の前庭に咲くミモザアカシアの黄色は今年初めて見る。ヒカンザクラ、赤いボケも咲いている。「これはドウダン?」「アシビだよ。」

     最後の石段を下ると林芙美子記念館だ。新宿区中井二丁目二十番一号。坂の中腹になるだろう。入館料百五十円。「以前に宗匠の企画で寄っていますが、通り道なので。」。枝垂れ紅梅が咲いている。今の住所表示は中井だが、かつては淀橋区下落合四丁目二〇九六番地である。
     最初林芙美子は妙正寺川の南の低地に住んでいて、丘の上の家に憧れた。低地にはプロレタリア文学が住み、丘の上にブルジョアと文化的な生活があった。

     私のところは窪地にありながら字上落合三輪と呼んでいた。その上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。(『落合町山川記』)

     つまり妙正寺川の南側の低地が上落合、川を挟んで北側の丘が下落合である。この頃、吉屋信子が芙美子の家を時折訪れた。その後、昭和七年(一九三二)八月には下落合の洋館(西原亀三の持ち家)を借りて数年間住んだ。十部屋もあ
    る家で、家賃は五十円だった。それまでの上落合の家が家賃十四円だから比べ物にならない。この頃から小説の注文が続々と入り始めたのである。
     その洋館は植民地の領事館の様だとも噂された。下落合に住むのは出世でもあった。金があると思われ、湯浅芳子や共産党員がゆすりまがいの寄付を強要した。このため共産党に寄付したと、中野署に九日間も拘留されることになる。

     私は冗談に自分の町をムウドンの丘だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。(「わが住む界隈」)

     ムウドンはオーギュスト・ロダンの住む村である。そして昭和十四年(一九四〇)島津家の土地三百坪を購入し、自ら建築の勉強をして昭和十六年(一九四二)に家を建てた。当時は一棟の建坪三十・二五坪の制限があり、芙美子名義の生活棟と、手塚緑敏名義のアトリエ棟とに分割して登録した。東西南北風が通る家という芙美子の希望が叶った家である。
     二年後には、生後間もない養子の泰と緑敏は共に芙美子の籍に入籍する。泰について本気か冗談か、芙美子は自分で産んだ、高齢出産で大変だったなどと吹聴していた。絵の売れない緑敏は画家を諦め、芙美子のマネージャー兼秘書役に徹することになる。高群逸枝における橋本憲三の位置に似ている。
     ガイドは頼まず、姫が建物の周りを巡りながら説明してくれる。書斎、寝台列車の様な二段ベッドのある女中部屋。「狭いと思うかも知れませんが、これでも一人になれる空間があるのは幸せだったんです。」「行儀見習いなんかもできたのよね。」故郷の家では勿論個室などはない。起きてから夜遅く寝るまで家族と一緒でプライバシー等はない。だから比較的恵まれていたと言うのである。
     農家の娘は家で農業の手伝いをするか、仕送りをするために女工になるか、口減らしのために女中奉公に出るかしか選択肢がなかった。もっと言えば、貧なるが故に女郎に売られて行く道もあった。
     斎藤美奈子『モダンガール論』が報告するところによれば、大正末年の働く女性の七割が女中、三割が女工で、いわゆる職業婦人は一割に満たなかった。更にこれ以外に自宅で働く農村婦人は全体の六割を占める。女学校に進学できるのは全国平均では一割程度であり、九割の女性はこのように働いた。
     女中奉公の中で、縁故や行儀見習いのための奉公ならまだましだと言えるのだが、その多くの実態は違った。女中は基本的に二十四時間拘束されるのである。

     もうひとつ、女中労働で特筆すべきは労働時間の長さである。一九三六(昭和一一)年に、京都市が二七四三人の女中を対象に、「京都市に於ける女中に関する調査』を実施している。やってる仕事は、掃除、洗濯、炊事の手伝い、お使い、子守り、外出時の荷物持ちなど、いわゆる家事労働一般だが、働かされ方が尋常ではない。朝は五時ないし五時半に起床、夜は十時ないし十一時に就寝。一日の労働時間は平均一七時間である。八時間労働の二倍、女工の一一時間労働と比較しても一・五倍だ。自由時間は「なし」か、あっても二時間未満。公休日はあっても月に一日か二日。「藪入り」と称して、休みは盆と正月の年に二かいだけという、江戸時代の奉公のようなケースさえ珍しくない。(斎藤美奈子『モダンガール論』)

     「お料理が好きだったので、当時は高価な電気冷蔵庫も買いました。その冷蔵庫は、芙美子のお葬式の後、川端康成が持って行ってしまって。」国産第一号の東芝製冷蔵庫である「自分で料理したのかな?女中じゃないの?」「自分でしました。」岩波文庫の『林芙美子随筆集』の表紙には、割烹着姿で包丁を使っている芙美子の写真が使われている。自分でも「料理はうまい、やっていて面白い」と書いている。
     トイレは当時珍しい水洗で自家用浄化槽を設置した。玄関脇の部屋は編集者を待たせるためのものだ。「でも親しい人は茶の間に入れたんですよ。」「差別があったんだね。」
     アトリエ棟は展示室になっていて、ビデオが流されている。「ビデオは前にもありましたか?」「なかったと思う。」芙美子の声は初めて聴いたが張りのある若い声だ。NHK「ラジオウィークリー若い女性」録音時の映像らしい。死の四日前のものだ。
     芙美子の自画像はマチスを思わせる筆致で、緑敏の手堅い画風とは異質だ。上手いと思う。姫は、芙美子の母キクについて「男好きのする女性だったようです」と説明する。「ニンフォマニアと言ってもいいかも知れません。」

     私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習ったことがあった。
     更けゆく秋の夜 旅の空の
     侘しき思いに 一人なやむ
     恋しや古里なつかし父母 
     私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侍しい気持ちで習ったものであった。(『放浪記』)

     実父は伊予出身の宮田麻太郎。キク(明治元年生まれ)が桜島の古里温泉で兄が経営する宿屋で働いていた時、宿泊客の麻太郎と一緒になった。麻太郎は太物等の行商で九州一円を回っていた。キクは麻太郎より十四歳上である。これ以前にキクには父親の違う二男一女を産んだとも言われるが、その消息は分らない。芙美子は下関生まれと書いているが、最近の研究では門司が正しいようだ。麻太郎が認知しなかったため、キクの兄林久吉の姪として籍に入れられた。
     一家は若松(現・北九州市若松区)へ移って「軍人屋」と言う店を持ち商売は繁盛した。芙美子も裕福な生活を送っていたが、麻太郎が芸者を家に引き入れて妻妾同居となったため、明治四十三年(一九一〇)キクは十九歳も若い番頭の沢井喜三郎と一緒に家を出る。芙美子は六歳だった。そこから放浪の日が続くのである。
     長崎・佐世保・下関と北九州の炭坑町を行商して回り、下関では古着屋を営んで少しの間落ち着いたが大正三年(一九一四)に倒産し、再び行商の旅が続く。芙美子は一時鹿児島に預けられたが、すぐに養父と母に伴われて木賃宿を転々した。
     大正五年(一九一六)からは尾道に落ち着き、二年遅れで市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)に入り、小学校の教師小林正雄の薦めで尾道高女に入り卒業した。この境遇で高等女学校を卒業したのは只事ではない。女学校の国語教師今井篤三郎の援助があったにしろ、確かに相当な才能であった。林芙美子と言えば尾道を思い浮かべるのは、六年間の尾道生活のためである。昭和三十九年(一九六四)に放映されたNHKの連続ドラマ『うず潮』(林美智子主演)の影響も大きいだろう。
     初恋の岡野軍一を追いかけて上京した後は、女工、事務員、女中、女給等、さまざまな職を転々とした。どん底時代には玉ノ井の女郎になろうかと口走ったこともある。一枚しかない浴衣を洗って水着でいた時、編集者が訪ねて来た。昭和三年(一九二八)十月から翌々年十月まで二十回、長谷川時雨の『女人藝術』に『放浪記』を連載したのが世に出るきっかけだった。
     「芙美子さんが死んだ時、キクさんは夫の緑敏さんに、自分と結婚しようって言ったんです。」姫は本で読んだと言うが、それは知らなかった。「スゴイ人ね」とハイジが笑う。芙美子自身も複数の男と同棲と別れを繰り返した。俳優の田辺若男、詩人の野村吉哉は緑敏とともに芙美子が三回の結婚と書いた相手であるが、それだけではない。緑敏がいるにもかかわらず、外山五郎を追いかけてパリにまで行った。外山は相手にしなかったが、今度は考古学者の森本六爾や後に建築家となる白井晟一と交渉する。芙美子は白井に夢中になってしまった。

     四月十三日、Sまつてゐる。会へば胸あふれる思ひ。只ぼんやりだまつてゐた。ここだけは別な少女の私でありたい。どんなムチでもうけませう
     四月十六日、こころと心寄りそふて歩るく。黙つてゐる。

     これが単に母親の血であったとは言えない。芙美子の生涯の盟友とも言うべき平林たい子だって、似たようなことを繰り返していた。考えてみれば彼女たちが娼妓に転落しなかったのは奇跡みたいなものだった。それを支えたのが文学への志であったろう。数々の男性遍歴は、生き延びるために必死でつかんだ藁のようなものではなかったか。
     緑敏はそれらを全て知りながら芙美子を支えた。その馴れ初めも、野村から逃れるために、顔見知りだった緑敏のアパートに芙美子が逃げ込んだのがきっかけだった。いきなり、寝ていた緑敏の布団に潜り込んだのである。
     芙美子がパリに遊んだ昭和六年(一九三一)から七年頃、パリには多くの日本人がいた。藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児、金子光晴と森三千代、土方定一、武林無想庵と山本夏彦、辻まこと(辻潤と伊藤野枝の息子)、武林イヴォンヌ(後にまことと結婚、離婚)。夏彦、まこと、イヴォンヌの三角関係めいた青春は、山本夏彦『無想庵物語』が告白している。

     当時のパリはブラックボックスのようであった。得体の知れない、または目的のない日本人がわだかまっていた。なぜパリがそんな役割をになったかは研究に値するが、林芙美子は、金子光春、森三千代とはパリでは会わず、山本夏彦の存在は知らなかった。(関川夏央『女流 林芙美子と有吉佐和子』)

     山本夏彦は十五歳の自殺未遂経験者である。まだ何物でもなかったから、芙美子が知らないのは当たり前だ。数年後フランス語の論文『大日経の研究』を書いてパリ大学文学博士になる学僧・田嶋隆純もいた。後に巣鴨の教誨師を勤め、北小岩の正真寺で地蔵菩薩になったのは前回の成田街道歩きで知った。田嶋は森本と一緒に何度か芙美子と食事を共にした。
     林芙美子は何故、死に至るまで仕事をつづけたか。「書き続けてないと売れなくなっちゃうって思ってたんじゃないかな。」「心臓弁膜症だったんですよね。」関川夏央は、おそらくヒロポン(覚醒剤)の影響もあったとみている。当時ヒロポンは疲労回復剤として合法的に売られていた。ボロボロになった体で『主婦之友』の連載「名物食べ歩き」を引き受け、その取材で銀座の「いわしや」に行き、その後で深川の鰻屋「みやがわ」へ回った。その夜に苦しみだして深夜一時頃に死んだのである。戸籍上では四十七歳であるが、四十八歳だったという説もある。

     他の女流作家に書かせたくないから、自分でできる限りの、あるいはそれ以上の仕事を引き受けたという平林たい子の仮説には、やはり説得力がある、芙美子は女性新人作家の文壇への参入をいやがった。実力ある女流作家に対しては闘争心を隠さなかった。(関川夏央『女流 林芙美子と有吉佐和子』)

     芙美子は文壇で嫌われていた。『放浪記』を世に出してくれた恩人である長谷川時雨が死んだ時、芙美子は陰で笑ったと伝えられる。芙美子にしてみれば時雨の『女人藝術』は所詮お嬢様たちの遊びであった。若い頃に親しくしていたアナキスト詩人たちが訪ねてきても会いたがらなかった。上昇志向が強く、実は『放浪記』の時代を忘れたかった。若い頃からの友人で最後まで付き合ったのは、壷井栄と平林たい子だけだった。葬儀の際、川端康成はこんな弔辞を述べた。

     故人は自分の文学生命を保つため、他に対しては、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、あと二、三時間もたてば故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか、この際、故人を許してもらいたいと思います。

     葬儀には文学には縁のない近所のおかみさんたちが、香典として皺だらけの百円札を握りしめてどっと押し掛けた。
     庭にフクジュソウが一輪咲いている。「これからどちらへ行かれるんですか?」可愛らしいガイドに声をかけられた。「近衛邸から早稲田まで。」「それはスゴイですね。毎月の行事ですか?」「月に二回。」「どなたが企画を?」「持ち回りです。」

     福寿草 花の命は短くて  蜻蛉

     玄関を出た所に、芙美子の絵姿が立てられていた。「これって実物大ですよね。」人間だから普通は等身大と言うけれど。「ハイジより小さいね。」芙美子の身長は百四十三センチだった。

     芙美子の家から少し離れると、通りには「染の小道」の暖簾が垂れ下がっている。昭和三十年代まで、神田川・妙正寺川流域には三百軒を超える染色関連業が集積し、京都・金沢に並ぶ三大産地として知られていたと言う。落合・中井を染の町として再生しようと言う試みだ。
     路地の手前で姫が躊躇した。「下見の時は一人だったので、敷居が高くて入れなかったんです。」紀州梅干の味覚庵だ。新宿区中井一丁目四番十二号。暖簾はガラス戸の内に垂れているが、電気がついている。「入っちゃおうよ。」「入ると買わなくちゃいけない。」

     都内でも数少ない梅干の専門店。和歌山県に工場があり毎日定期便で荷物が入荷している。初代が和歌山より出てきてこの事業を始めこの地で五十年以上の歴史がある。都内の有名ホテルや私立学校の給食。伊豆の高級料亭、旅館などでの業務用の利用や、都内の百貨店のお中元・お歳暮などのギフトに実績がある。店内の多くの商品が味見できるのも嬉しい。夏の梅干とともに冬の味覚としてべったら漬や数の子漬、関西の千枚漬なども扱っている。(中井商工会)http://www.e-nakai.net/shops/55

     専門店は高いから、旨い筈だが何も買うまいと思っていた。薄い円形にカットした梅干しが試食できる。この形をタブレットと言うらしい。これは散歩のお供に丁度良い。本体価二百円で一袋購入する。オクちゃん夫人に一切れ進呈すると、口に含んだ途端に「酸っぱい」と顔を顰める。そんなに酸っぱいだろうか。
     中井駅の横を過ぎるとき、「前もこんなところを歩いた」とファーブルが言い出した。それは一月の椎名町駅のことではあるまいか。「そうだった、こんな風に駐輪場があったよね。」西武線の駅だからどこか雰囲気が似ていてもおかしくない。
     商店街には小さな書店があった。「頑張ってるな。」見晴坂を過ぎると児童養護施設「あけの星学園」があった。明の星学園とは関係なさそうだ。

     日本で唯一の中学校や高等学校に通う子どものみで、就学中心の生活です。高校卒業後を視野に入れ、上級学校に進学する子ども、就職する子ども、社会訓練のため他施設を利用する子ども等、一人ひとりにあった自立支援をおこないます。

     新目白通りに出る。「ここが聖母坂です。佐伯祐三や中村彝のアトリエは向こうの方です。」下落合駅前交差点から北に上る坂で、目白通りに繋がっている。坂の名は聖母病院に由来する。特に産科が有名らしい。
     西武新宿線が新目白通りに接する辺りに下落合氷川神社があった。新宿区下落合二丁目七番十二号。「ここも氷川神社か?」氷川神社が武蔵国に集中していることにファーブルはまだ慣れていない。ヒカンザクラと思えるピンクの花が満開だ。
     江戸時代には、豊島区高田の氷川神社が「男体の宮」、下落合の氷川神社の祭神が「女体の宮」と称されたと言う。現在では、スサノヲ、クシナダヒメ、オオナムチ(オオクニヌシ)を祭神としている。桃太郎は御朱印を貰いに寺務所に入っていく。

     大通りから狭い路地が斜めに分岐する辺りには、その三角の角地に沿った狭い建物が立っている。「これじゃ横に寝れないね。」赤紫のゼニアオイが咲いていたが、誰も何も言わない。梅雨時の花であろう。
     左に曲がれば、「おとめ通り」と名付けられる上り坂だ。「私たちのことじゃないのね。」乙女ではなく、「御止」である。錦松梅東京工場があった。新宿区下落合二丁目三番十号。「フリカケだろう?」
     坂の左手に東山富士稲荷神社がある。新宿区下落合二丁目十番。おとめ通りから左に入る坂を登らなければならないが、「奥から抜けられると思います」と姫が言うので行ってみる。狭い境内に社殿があるだけだが、由緒を見ると古い。

     当社は、かつて此の地方を統治された、清和天皇の皇孫源経基という御方が、今より約一千百年前、醍醐天皇の御世、延長五年(九二七年)初午の日に京都稲荷山より勧請御遷宮申し上げた御社であり、「藤稲荷神社」「富士稲荷神社」とも申し上げております。
     当社は源経基を始め、源家一族の守神として大変厚く信仰されました。その由縁は、当時平将門が謀逆を企てた折、当東山稲荷の大神様よりその旨御神託あり、経基は早速忍者を走らせ調査した処御神託の通りだったため、帝の許しを頂き、これを平定致しました。この功により、帝より源姓を賜った経基は、以来東山稲荷神社を源氏の氏神として一族で崇敬することとしたと伝えられております。

     源経基は六孫王と呼ばれる清和源氏の祖である。承平八年(九三八)武蔵介として関東に下向して武蔵武芝を襲ったことから将門の乱が始まる。関東は平氏の地盤であるが、地元の平氏各党を糾合して支配下においたことが、後の源氏の東国支配のきっかけとなる。しかしこの由緒には余り似つかわしくない神社だ。奥から通り抜けることはできず、またおとめ通りに戻る。
     「シャガよ。」「ホントだ。」「この時期に咲くなんて不思議。」時期的に早すぎるのだ。「さっきゼニアオイがあったわね。」「そうそう。」ハイジと姫も見ていたのだ。そしておとめ山公園に入る。「ここは門馬さんの屋敷、違った。相馬さんの屋敷でした。」姫は吉屋信子の「妻」の苗字に引き摺られていた。相馬氏は千葉氏の裔である。相馬中村藩六万石。大正初期に近衛家の敷地のうち一万五千坪を購入して屋敷を建てたのである。

     おとめ山公園は落合崖線に残された斜面緑地です。
     江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場でした。一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっています。
     大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成しました。のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和四十四年(一九六九)にその一部が公園として開園しました。湧水・流れ・池・斜面樹林地からなる自然豊かな風致公園となっています。

     「どこから来たんだい?」ボランティアのオジサンの問いに、ハイジは「埼玉県から」と答える。「歩いてかい?」まさか歩いては来られない。「都内にこんなところがあるんだね。」ここでは蛍が見られるらしい。『江戸名所図会』によれば、落合は蛍の名所である。

    落合蛍 この地の蛍狩りは、芒種の後より夏至の頃までを盛りとす。草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶをば、あまつ星かとあやまつ。諸人暮るるを待ちてここに逍遥し壮観とす。

     池を巡る遊歩道を過ぎて丘を上ると、斜面にスミレが数輪咲いていた。今年初めて見るスミレだ。「タチツボだわね。」頂上の広場では子供たちが大勢遊んでいる。ところどころにオオイヌノフグリが咲いている。頂上のあずまやで二十分程休憩する。
     公園を出て、おとめ山通りの北から右に曲がり、住宅地に入ると高級住宅の多い静かな町に入った。その途中に林泉園の彝桜(跡)があったらしいのだが、場所が分らない。「ここも文化村だね。」堤康次郎が土地を買い占める前は、近衛家、相馬家、早稲田大学などの所有地が広がっていた。
     民家の三輪に立つミモザアカシアの黄色が鮮やかだ。姫は少し不安そうな面持ちで路地を曲がったが、すぐに安心した顔で「大丈夫でした」と笑う。突き当りの少し手前の、建物の間に挟まれた狭い隙間に、近衛篤麿公記念碑が建っている。新宿区下落合二丁目十九番 二十三号。

     五摂家筆頭近衛家当主近衛篤麿を顕彰する記念碑で、大正十三年に建立された。明治三十七年の篤麿死後、大正十一年よりその邸宅が「近衛町」と銘打ち分譲されていることから、近衛家の足跡を記すために建立されたと考えられる。現在でも建物名等に「近衛町」の名称が残るなど、土地の記憶・まちの 記憶として継承されている。総高二百四十・五×幅七十五・五×奥行三十一・三センチ。

     近衛篤麿は文麿の父である。号は霞山。大学予備門に入学したが病を得て退学し、後にボン大学・ライプツィヒ大学に学んだ。アジア主義者として知られ、東亜同文会を創った。アジア主義は一括して右翼と見られがちだが、そこには様々な立場があって単純に割り切ることはできない。きちんと押さえる必要があるのだが私にはまだできていない。篤麿が満四十歳で死んだとき膨大な借金が残された。それがこの辺りを売却した理由である。
     「近衛家は公爵ですよね。五摂家の筆頭だから。相馬家も公爵かな?」「違うよ。子爵だと思う。」爵位には公侯伯子男の五段階あって、大名は一般に石高によった。五万石程度以下は子爵である。最高位の公爵になれるのは、五摂家、徳川宗家、維新に当たって最大の功績があったと認定されたものだけだ。
     近衛を冠したマンションがいくつもあるのは、近衛町の名残である。豪邸の一階の屋上に桜が咲いている。道をふさぐようにケヤキが一本立っているのは、近衛邸車寄せのケヤキである。近衛邸の入口ロータリーだったのだ。元は二本あったと言う。
     目白ケ丘教会は、フランク・ロイド・ライトの弟子、近藤新の作品である。大谷石の外観だったらしいが、その表面を塗りこめたようだ。

     わたしたちの教会は、一九一一年、小石川バプテスト教会として誕生し、戦中に現在地へ移転し、目白ケ丘教会となりました。一九五一年から幼稚園も開園し、新宿区下落合の地に親しまれています。礼拝堂は遠藤新のフランク.ロイド.ライト様式建造物として親しまれ、落ち着いた雰囲気の中での礼拝はまさに至福の時です。
     http://mejirogaoka-church.com/

     日立自由クラブも元は近衛家の敷地の一部で、昭和三年に学習院高等科の寄宿舎として建てられた。現在は日立製作所の所有で、福利厚生、社員の結婚式などに使われている。「レッドカーペットですよ。」玄関の階段に赤い絨毯が敷き詰められている。「関係者以外立ち入り禁止」とされているが、ちょっと写真を撮るくらいは構わないだろう。小さな声で「お邪魔します」と声を掛けて(誰も聞いていないのは承知)、敷地に入った。「私は中に入ったことがありますよ。娘が社員だったので。」ヨッシーはいろんなところを知っている。

     外壁・内壁ともに白で統一。ドア・窓枠はすべて木材であるが建物は鉄筋コンクリート造。そして赤いスペイン瓦の屋根、アーチ形の窓や華麗な鉄装飾のグリル等を特徴とするスパニッシュ-スタイルで建てられている。内部には至るところにアールデコ風のデザインや細やかな装飾も見られ、各部屋の真鍮製のドアノブには「菊」の御紋が見られるなど、旧宮内省との縁がしのばれている。本館と寮舎はいずれも地下一階、地上二階建、建坪は本館が約千二百五十坪、寮舎はそれぞれ約三百から四百坪である。 本館には一階に談話室や娯楽室、二階に読書室や会議室、応接室といった諸室があった。一方寮舎では、当時としては珍しく一人一室が与えられ定員は五十名であった。また第二寮の二階には皇族室が設けられ、久邁宮邦英王が開寮から二年間住まわれたという。寮生活では学期ごとに寮務委員を二名選出し、委員会を開いて寮の運営や事業計画を協議する等、ここでも学生の主体性や個性、人格を尊重するイギリスのイートン校の寮制度を模範としていた。(ウィキペディアより)

     「向こうに見えるのは学校みたいだね。」「学習院だよ。」眼の眩むような坂道を降りる。これが近衛坂だろうか。下から自転車を押した男女が登って来る。いくら高級住宅地でも、こんな坂の多い町には住みたくない。源平の梅が咲いている。
     新目白通りに出た。山手線のガードを潜る。大正製薬の本社はこんなところにあったのか。高戸橋。名前の由来は旧町名の豊島区「高田」と新宿区「戸塚」を合成したものらしい。ここで明治通りと交差する。
     「この川は?」「神田川。」「蜻蛉が歌いそうですね。」姫は誤解している。私はこの歌(一九七三年)がそれほど好きではない。藤圭子の登場に衝撃を受けた私は、それ以降のフォークソングには全く関心を失った。それは志を喪失した者の自己慰藉でしかないと思われた。実はここに、教養がこの頃に終焉したという説と同じ問題が潜んでいるだろう。教養とは言い換えれば志ではなかったか。
     雑司ヶ谷方面から都電荒川線がやって来た。「荒川車庫ですね。」「三ノ輪まで行くんですよ。」ここから都電は早稲田まで新目白通りを走る。次の角を左に曲がれば高田の総鎮守氷川神社がある筈だ。さっきの落合氷川神社と対になる神社だ。面影橋。「あそこに山吹の里の跡がある。」「そうなの?」ファーブルだって、以前見ている筈だが。
     都電早稲田駅を過ぎてから適当なところで(マリーが的確に指示した)、右に曲がって狭い路地を抜ければ早稲田大学だ。旧大隈庭の守衛所の建物の窓から、中に熊のぬいぐるみが飾られているのが見える。「大隈だから熊なんだな。」
     三時四十分。ここで解散する。オクちゃん夫妻は大隈庭園を見てから「折角だから」都電で帰ると言う。ハイジも都電を利用することにした。ヨッシーは駒込方面へのバスにする。残りはバスで高田馬場駅まで行く。あと停留所二つしかないところで、子供連れが大勢乗って来た。この程度なら歩けば良いのではないか。
     桃太郎は駅で別れる。やはりまだ酒を飲む体調ではないのだ。「この間行った店でいいだろう?」清龍である。姫、マリー、マリオ、ファーブル、蜻蛉と久し振りに少人数での反省会になった。前回は地下だったが今度は二階に案内された。
     ビールと同時に、まず漬物を注文しなければならない。注文を受ける若い衆は耳にイヤフォンを付けて、分りましたとも言わない。「返事は?」「そういうことを言わないの」とマリーに諭されてしまった。
     漬物盛り合わせには薄く切ったカブのようなものがある。皮は赤い。「これって赤かぶかな?」「だって中は白いですよ。」「赤かぶは白い。酢に漬けたとたんに真っ赤になるんだ。」東海地方に生まれたマリオの説だから信じなければいけない。
     焼酎は黒霧島。刺身の盛り合わせが安い。スナフキンも桃太郎もいないので、今日は焼酎は一本で済んだ。一人二千円なり。しかしまだ時間は早い。マリオ以外は飲み足りず、もう一軒行くことになった。


    蜻蛉