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    第八十二回 保土ヶ谷宿と古・旧東海道
      令和元年五月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2019.05.26

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     長い連休の前半は雨が多く、後半に入って晴れた一日、妻と二人で越生の五大尊山のツツジを見に行った。小高い丘に広がるツツジはなかなかのもので、越生町はもっと宣伝しても良いのではないかと思われた。そもそも五大尊なんて初めて知ったのだが、不動明王を中心に、降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の各明王を配したものを言う。ツツジ公園から降りて鰻屋でビールを飲み、それから太田道灌の山吹の里に行った。山吹は既にほとんど終わりかけていたが、何年振りかの妻とのデートである。
     漸く初夏らしい気候になってきた。旧暦四月七日、立夏の次候「蚯蚓出」。今日は暑くなりそうだ。久し振りにクリップオンのサングラスも付けて出た。
     今回のリーダー桃太郎から、保土ヶ谷は東海道線が停まらないと事前に注意を受けている。路線上は東海道線にあるのに東海道線の列車は停車せず、横須賀線と湘南新宿ライン(宇都宮線)だけが停車する不思議な駅だ。だから池袋で湘南新宿ライン厨子行きに乗れば、乗り換えなしで保土ヶ谷に着く。
     今日の電車旅のお供は、佐野眞一『唐牛伝』である。三年前の単行本を書き換えた文庫本で去年十一月に出ている。たまたま本屋で見つけたのだが、日本人は何故怒りを発しないかと考えた時、六〇年安保時のブント(共産主義者同盟)全学連委員長唐牛健太郎の生涯を改めて確認してみたいと思ったのだ。唐牛は石原裕次郎よりカッコ良かったと言う。ブントの幹部の多くは大学教授になったが、関係者の判断によれば(唐牛自身の思いは分らない)、全学連委員長としての責任を一身に背負って後半生を生きた。西部邁、島成郎達は生涯、唐牛に対して負い目を感じていた筈だ。
     佐野は『誰が「本」を殺すのか?』で松原治(当時紀伊國屋書店会長)を「閣下」と祭り上げて業界人の顰蹙を買い、また盗用剽窃、橋下徹への差別発言で問題を起こした人物である。眉に唾つけながら読んでみたが、この本は面白かった。ブント(共産主義者同盟)は結局ブランキストだったのだろう。一九六〇年の時点で、日本現代史の問題が全て提出されていることも、今更ながら確認できた。

     六〇年安保闘争から一〇年後に書かれたこの二つの文章(三島由紀夫と吉本隆明)を読んで、私は初めてブント全学連が〝無意識〟に目指そうとした世界が分ったと思った。
     彼らは、六〇年安保闘争後、三島が言う「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残る」ことをうっすらと感じていたような気がする。(佐野)

     安保闘争は戦後日本の大きな転換点だった。これによって岸信介が退陣し池田隼人が首相になり、日本人は近代化路線を承認したのである。もちろん幕末から明治維新を経て、日本は西欧化という意味の近代を目指した。それは否応なく選択しなければならない方向だったが、この頃までは辛うじて古い日本的なものも残されていた。しかしこの時期を境に現在の産業資本主義、金融資本主義、大衆社会へ行きつく道が定まったという意味である。

     安保条約改定を強行せんと頑張った岸信介首相の陣営も、逆に、最盛期五八〇万人といわれた反安保の国民運動も、さらにこの運動内部の過激派にしても、それぞれの役回りを息せき切って演じながら、皆が歴史のハードルを越えようとしていたのである。六〇年の安保闘争は日本国民のひとつの「通過儀礼」だった。(長崎浩『一九六〇年代 ひとつの精神史』)

     近代化が産業社会化と同時に大衆社会化と同義語であるとするならば、その行き着いた果てが現在のていたらくである。トクヴィル『アメリカのデモクラシー』、オルテガ『大衆の反逆』、アーレント『全体主義の起原』が等しく指摘したのは大衆(マス)と言うものの恐ろしさ、多数者による専制であった。西部邁は大衆社会を罵倒する保守主義に向かった。
     移民排斥を標榜し自国第一主義を掲げる政党が各国で勢力を伸ばしている。ここ三十年の日本を振り返れば、構造改革、規制緩和の美名を信じさせられ、小選挙区制を認め、安倍長期政権を支持したのは、わが日本の「大衆」であった。もはや選挙は民主主義を担保するシステムではなくなっている。しかしその代わりに何があるのか、私はまだ何のイメージも持てないでいる。
     また西部邁『六〇年安保 センチメンタルジャーニー』等と読み比べ、ブント解体後の新左翼運動が連合赤軍を頂点とする凄惨な殺し合いに向かう歴史を改めて振り返る。佐野はどちらかというと、ブントの牧歌的な(あけっぴろげな、秘密のない)運動を懐かしんでいるのであるが。

     もちろん、ブントは政治的殺戮というものを経験していない。ただし、少なくとも私にかんするかぎり、共産党との争闘をつうじて、六〇年の春には、このままいけば自分は彼らを殺すか彼らに殺されるかするであろうという濃厚な予感をもつ段階に達していた。(中略
     殺人へとほぼ論理的に展開していくであろうこの憎悪の心理機制は、あるいは、マルクス主義的メンタリティの一部を成すものかもしれないが、ともかく憎悪の過剰は、しかもそれが一元的に累積していくのは、私には重荷であった。(中略)
     こんな気分で過ごしていたものだから、連合赤軍事件の報道は応えた。リンチの凄惨ぶりもさりながら、私は自分の思想の曖昧さを思い知らされてうろたえたのである。六〇年の時すでに、私はこうした類の政治的殺戮を我身のうえに、そして「翼」一般のうえに予感して、それでひとりになったはずである。(西部『六〇年安保 センチメンタルジャーニー』)

     西部は「マルクス主義的メンタリティの一部」と言うが、実はフランス革命を振り返って、革命一般が竟にテロルに終ることは、トクヴィルやアーレントが早く指摘していたことだ。やはり連合赤軍事件に衝撃を受けた笠井潔(かつてプロレタリア学生同盟のイデオローグだった)は『テロルの現象学』や『バイバイ、エンジェル』に始まる矢吹駆シリーズで、燃えるような理想主義がある瞬間に人間憎悪に転換するメカニズムを考察した。
     佐野は、唐牛真喜子(健太郎の妻)の死が西部の自死に影響を与えたのではないかと考えている。

     私には唐牛真喜子、西部邁、石牟礼道子の相次ぐ死が、日本の歴史の暗転を予感させる死だったような気がしてならない。(佐野)

     保土ヶ谷駅の出口はホームの最南端にある。改札を出た途端に、桃太郎から昼食のメニューを渡された。「一品ものもあるけど丼とセットがお得」と言うので、カツ丼と蕎麦のセットに決めた。更に横浜市が作成した「横浜旧東海道 みちの散歩」と保土ヶ谷区作成の「横浜旧街道保土ヶ谷宿 歴史とひとにふれあるよりみちこみちマップ」を渡される。事前準備は万全であるようだ。
     「既に暑いね。」「帽子を忘れてしまったんです。」こういう日に帽子を忘れてはいけない。私はリュックにしまっていた帽子を取り出した。「どうやって来たの?」ハイジの問いに対してはかくかくしかじかと答える。「私も一緒の電車だったわ。」十時まで待った結果、今日のメンバーは桃太郎、ハイジ、ノリリン、あんみつ姫、マリー、ヨッシー、ダンディ、スナフキン、ファーブル、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の十二人に決まった。「今日は水分補給を忘れないでください。」
     今日のコースは、旧東海道を北東に追分まで歩き、そこから古東海道で山側を通って再び旧東海道に戻って南西に向かい、権太坂を越え武相国境から東戸塚まで歩く予定だ。旧東海道は慶安元年(一六四八)に開通した道で、古東海道はそれ以前の道である。
     保土ヶ谷の地名の由来ははっきりしない。古代の幡屋(はたのや)郷が中世には榛谷(はんがや)になり、戦国期に保土ヶ谷に変化したと言う説があるが、そういう風に転訛するものだろうか。
     西口に出て今井川を渡れば旧東海道だ。ここからいったん江戸方向に向かう。岩間町交番の前が旧中之橋跡である。かつて今井川は西寄りの部分を蛇行しており、嘉永五年(一八五二)改修されて現在の河道になった。

     全長は七・〇キロで、流域はすべて横浜市保土ケ谷区になる。保土ケ谷区今井町の横浜カントリークラブ付近に源を発し、横浜新道をくぐる地点より下流約五・六キロは二級河川となる。保土ケ谷区法泉付近よりJR東海道本線と国道一号に沿って市街地を東に流れる。天王町駅付近で相鉄本線をくぐり、西区との区境に近い岩間町・西久保町の境で帷子川に合流する。(ウィキペディアより)

     髪型製作所と言う小さな工場のような建物がある。「髪型ってなんだ?」「カツラじゃないかな?時代劇とか歌舞伎で使う。」「そうか。」しかしそんな想像はまるで違って、ここは美容院であった。親子連れを歓迎し、子どもが走り回っても良いと言うのがコンセプトらしい。
     川古谷石材店のウィンドウは「まちかど博物館」になっていて、ふいご等の道具を展示している。「両国にもこういうのもありましたよね?」こういう試みは素敵だ。スエ時計店では古い眼鏡屋時計を展示している。

     「まちかど博物館」は、旧東海道沿いに昔からお店をかまえる八か所です。各館長の善意と協力によって、希少な歴史的建造物や店舗の一角に、保土ケ谷で積み重ねられてきた歴史や、生活文化を物語る道具や資料などを展示しています。(保土ヶ谷区)

     大門通交差点。「リーダー、大門の由来は?」「浅草吉原の大門と似たようなものか?」しかし保土ヶ谷に大きな遊郭があったとは考えにくい。大きな寺か神社があったと考えるのが普通だろう。地図を見ると、西に行けば神明社がある。それに由来するのではないだろうか。「江戸名所図会」がその証拠になるだろう。

     大神宮 神戸の地にあり、海道の右側に鳥居を建つる。大門三丁あまりを入りて社あり。

     鳥居を大門と読んだのだ。神明社方向に交差する道は相州道だ。大山へ行く道だが、古い街道で、かつては府中(武蔵国府)と鎌倉を結ぶ道だったようだ。
     帷子橋跡。天王町駅の南側で、かつては帷子川がこの下を通っていた。この辺りの河口が帷子湊と呼ばれて物資の集積場になっていたようだ。ここが天王町駅前公園になっていて、常夜灯を置き、宿場の光景を思い出させる仕掛けだ。「かたびら」は元々宿駅の名で、後に保土ヶ谷宿に組み入れられた。太田道灌がここで歌を詠んでいる。

        かたびらと名づくるところにて
      日ざかりはかたはだぬぎて旅人の汗水になるかたびらの里

     今日も「汗水になる」陽気だ。半袖にしてくれば良かった。「だけどまだ朝晩は少し肌寒いよ。」水飲み場に鳩が二羽とまっている。「アッ、逃げちゃった。」姫がカメラを向けた途端に一羽が飛び去った。
     駅のガード下からは商店街が続いている。「こういうところに住みたいんですよ。」「ダメだよ、桃太郎がこんなところに住んだら、昼から飲み過ぎちゃう。」帷子川には大きな黒い鯉が数尾泳いでいる。「随分大きいわね。」「鯉は外来種だって聞いたよ。池をカイボリする番組で。」

     帷子川は旭区若葉台付近を水源として、横浜港に注いでいる全長十七キロの二級河川です。
     名前の由来は、昔、北側の河口部沿岸がなだらかで、片側だけが平地だったことから「片平」の名が起こり、それが「帷子」となったと言われています。
     江戸時代、帷子川河口には舟着場があり、潮の干満を利用した舟運の拠点として、商人が薪や炭を江戸方面に送るなどにぎわいを見せていました。
     明治になると絹のスカーフの輸出が急増し、港に近くて水陸の交通の便が良く、清流で豊富な水量があったことなどから、帷子川周辺に染色工場が集まりました。  捺染の最後の工程で、布の余分な染料やのりを落とすため、川の流れを利用して水洗いする作業があり、流れ出した染料で川も七色に変わったと言います。
     以前は、川の蛇行が激しく大雨のときなどに度々はんらんしたことから「暴れ川」の異名をとっていましたが、河川改修や分水路の整備が行われ治水対策が進みました。(横浜市保土ヶ谷区「帷子川」)
     https://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/shokai/rekishi/sanpo/katabira.html

     商店街から左に入れば橘樹(たちばな)神社だ。保土ケ谷区天王町一丁目八番十二号。「これでタチバナって読むんだね?」「タチバナ神社って、どうしてでしょうか?」「橘樹郡があったんだ。」律令制の国郡制では、この辺りは武蔵国橘樹郡とされたのである。範囲は鶴見区、神奈川区の全域、保土ヶ谷区と港北区の一部、川崎市川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域、麻生区の一部になる。川崎市高津区子母口富士見台にある古墳が弟橘媛(オトタチバナヒメ)の御陵と伝えられることから命名されたと言う。しかしオトタチバナが実在の人物だとは、証明されていないだろう。その近くにある橘樹神社(旧武蔵国橘樹郡橘樹郷子母口村)が、橘樹郡の総社だったと推定されている。
     文治二年(一一八六)に、京都の祇園社(祇園八坂神社)を勧請して創建されたと言う。「牛頭天王です」と桃太郎から補足説明される。これが天王町の由来になる。「牛頭天王は神仏混淆の神様だから、明治以降は名乗りを許されなくて改称したんだよ。」八坂、祇園、八雲、須坂などの神社がかつての天王社である。
     「会社に牛頭さんがいる。」ファーブルが驚いたように声を出す。「牛頭天王自体はあちこちにある。秋田にも天王町あるだろう?あれも牛頭天王だよ。」
     静かな落ち着いた神社だ。明治天皇東幸遺蹟碑の細長い石碑が建っている。「この形は珍しいですね」と姫が喜ぶ。本殿は黒塗りに金をあしらった立派なものだ。しかし社務所に掲げられた厄年の表がおかしい。「七十歳って、なかっただろう?」七十歳(昭和二十五年)が表の末尾に記載されているのだ。該当するスナフキンが不満そうに声を上げる。
     高齢化社会に合わせて、神社も商売のタネを探してくるのである。「迷信でしょう?」数学の先生は、迷信は信じないと言う。私も信じないが全く迷信と言うわけでもないと思う。「江戸時代の人生の節目にも関係してるんだよ。」女性の本厄三十三歳はおそらく出産年齢の最後の方で、出産時死亡者の多さを考えれば、これを乗り切れば長生きした筈だ。男の本厄四十二歳は「シニ(死に)」の語呂合わせだったかも知れない。
     桃太郎が社務所で御朱印を貰っている間、本殿の裏に回ると、きれいな覆堂に青面金剛が三基納められている。真ん中は寛文九年(一六六九)の合掌型で、横浜市内最古という。「手は何かを持ってたのが欠けたんですかね?」合掌している指の先が欠けているようだ。「何も持ってないんだ。」また六手のものは神奈川県内でも最古という。
     左にあるのがショケラを握った天和三年(一六八三)の剣人六手型。右にある明和九年(一七七二)のものはかなり摩耗が進んでいる。ノリリンは不思議そうに覗き込む。「こんなものを観察するのも初めてでしょう?」「勿論初めてです。」この会に引きずり込まれなければ、普通の人はこんなものの存在さえ知らないだろう。
     「桃太郎は?」「昼食の予約をしてる。」その連絡も終わって桃太郎が戻って来た。「ご飯が足りなくなるからこれから炊くって言ってる。」一時間以上あるから大丈夫だろう。
     街道に戻れば「江戸方見附跡」だ。ここが保土ヶ谷宿の北の外れだ。「見附って、桝形のあれですよね?」ロダンは四ツ谷見附などを連想したのだろう。城郭に見附はあるが、街道の各宿駅の出入り口を見附と呼んだと言うのは私も初めて知った。「竹矢来を組んだって書いてますね。」宿場の出入りを監視する番所だった。

     江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(この ため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防御施設として設置されたことがうかがえますが、同時に また宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。
     ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ケ谷宿 では外川神社付近の上方見附まで十九町(約二キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。(解説板より)

     国道一六号(八王子街道)の向こうには人だかりが見える。「下見の時も混んでたんですよ。」洪福寺松原商店街だ。かつては松並木だった通りが商店街になっている。横浜橋商店街、六角橋商店街と共に、横浜の三大商店街だと言う。「ハマのアメ横」とも呼ぶらしい。平日で二万人、休日には二万五千人の人出になると言う。衣料品、野菜、漬物などの店に人が群集している。
     商店街が尽きると追分だ。江戸から来ると旧東海道(新町通)と古東海道(古町通)との分岐になる。ここから古東海道に入る。
     一六号を渡るとURの賃貸団地が見えて来た。「URって?」「都市整備公団。」「昔の住宅公団だよ。」「良く昔の名前が出てきましたね。」「我が家はURの分譲団地だからさ。」「何の略字だい?」「Urban Reconstructionじゃないですか?整備だから。」正しくはUrban Renaissanceであった。ルネサンスとは思いもよらない。「URは高いんだよ。」「その代わり保証人と礼金が不要なんだ。」
     帷子川を越え、相鉄線の下を潜れば旧古町橋跡。暫く行くと庚申堂があった。ここにもショケラをぶら下げる剣人六手形青面金剛がいる。右側のものは半壊したものを補修したようで、手が良く分らない。その間から小さな地蔵が覗いている。神戸下町神明社講ノ庚申堂で、元禄の頃に立てられたらしい。
     神戸の読みが分らない。「ゴウコかな?」「カンベ?」調べてみるとゴウドと読む。伊勢神宮の神領だろう。古代律令制下の伊勢神宮領として、神戸や神田と呼ばれるものがあった。中世になると御厨、御園が伊勢神宮領の中核となり、御師の活動で全国に広まって行く。
     旧相州道の道標を右に入れば神明社だ。保土ヶ谷区神戸町一〇七番。石造神明鳥居を潜って境内に入る。「伊勢神宮の内宮、外宮は離れた場所にありますが、ここは内宮と外宮が並んでいます。」正確には本社にアマテラス、それに並んで摂社にトヨウケビメが祀られているのだ。「トヨウケはアマテラスに食事を提供する役なんだ。」「それが神様になるのか?」

    ■今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)と呼ばれていた平安時代の中頃、天禄(てんろく)元年(九七〇)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨(みくりや)の庄の内、榛谷の峯に影向(ようごう)し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄(かろく)元年(一二二五)神託があって、神明の下宮を造り、当地を神戸(ごうど)と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜(ねぎ)・社人(しゃにん)・供僧(ぐそう)・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀(さいし)を営み隆盛を極めたという。
    ■その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(一五九〇)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、四石一斗の御朱印地(ごしゅいんち)が安堵(あんど)された。また元和五年(一六一九)宮居(みやい)を神戸山々頂から現在の場所に遷し、社殿の造営や境内の整備が行われた。
    ■平成十年、鎮座一〇三〇年祭・当地遷座七百七十年祭・伊勢神宮鎮座二千年祭を記念して「平成の大造営」が行われ、三百八十年ぶりに本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。平成十二年、神奈川県神社庁献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)神社に指定された。(神明社御由緒)

     静かな参道を進んで境内に入る。「コンパクトにきれいにまとまってるね。」建物もきれいだし、境内の手入れも行き届いている。手水舎の隣には、池に浮かべるように白い人形(ひとがた)の紙が用意されている。人間に備わっている汚れや厄災を人形に付着させて流すのである。本来は川に流すものだが、池だから流れて行かない。作法は、「①人形で身体を撫でます 悪い所は念入りに、②人形に息を吹きかけます ③人の罪汚れを付着させた人形を清流に流します」である。「お雛様の原型だよ。」原義からすれば、高価な雛人形を飾るのはおかしな話になる。現在の雛人形は、江戸時代に入って金銭的な余裕ができるようになってからの風習である。
     境内社には月読社、風宮、切部王子社、日之王子社、鹿島社、白鳥社、火産社、山神社、厳島社、見目社、天満宮、稲荷社、水神社がある。「見目社って初めて見ました。知ってますか?」解説を見ると祭神は見目大神、伊豆の白浜神社が根本社である。白浜神社の祭神は伊古奈比咩命(イコナヒメミコ)で、それを守護する神の一人が見目神であるらしい。
     「常識的なことしか書いてないな」と笑いながらスナフキンが絵馬掛けを見ていると、その最下段にはアワビの殻に文字を書いたものがぶら下がっていた。アワビは神饌だから、神も喜ぶのだろう。「売ってるのかな?」「売ってるみたいです。あそこに並べてました。」

     アワビは、ご神前にお供えするものの中でも特に大切な品とされてきました。「のし袋」の「のし」とは「のしアワビ」のことです。アワビの身は初穂料に添えてお供えし、その殻を安産祈願の絵馬に使う風習が全国各地に伝わっています。アワビの殻の内側はキラキラ光っていますので、目のパッチリした子供に恵まれると言われています。

     「全国各地に伝わっています」と言われても、私は他所で見たことがない。扇子型のおみくじもある。三百円である。「桃太郎はおみくじは買わないの?」「そういうのは要らない。」  十一時四十分。そろそろ腹が減って来た。」「今朝納豆を食わなかったらやたらに腹が減るんだ。」スナフキンは面白いことを言う。納豆でどれだけエネルギー量が違うのだろう。「昼飯までどの位?」「二十分かな。」神社を出て古町通を南に向かう。
     「この辺は寺町だね。」見光寺、天徳院。「日蓮大聖人御霊跡」の看板が立つ広大な敷地は大蓮寺だ。日蓮が宿泊した民家を法華堂としたのが始まりだから、日蓮宗ではかなり格の高い寺なのだろう。遍照寺(高野山真言宗)の涅槃堂の外壁には二体の金剛力士像が取り付けられている。「珍しいですね。」こういう形は余り、見たことがない。
     そして旧東海道に戻って来た。「さっき通った所だ。」岩間町交番である。ここからは街道を南に下る。
     助郷会所跡。以前にも書いているが、問屋場の最大の業務は人馬継立である。しかし、問屋場で用意した人馬では賄いきれず、近郷の農村から人馬を挑発した。それが助郷である。農繁期でも構わず挑発されたから農村の負担は相当だった。この制度によって農村の階層分化が進んだとする見解もある。会所は、その助郷を手配する役所だ。すぐに問屋場跡もある。問屋、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番等の役人が詰めていた。問屋は名主の苅部清兵衛が務めた。「この先に高札場がありますが、それは昼食の後で。」

     路地に曲がりこんで着いたのが「宿場そば 桑名屋」である。保土ケ谷区岩井町二十一。「素敵なお店じゃないの?」古民家風である。靴を脱いで二階に上がる方式だ。下駄箱には番号でなく、東海道五十三次の宿場名が書かれている。「名前を覚えておいてください。」
     テーブルには既に丼がセットされている。丼がなく天婦羅だけが置かれているのは姫のもので、それ以外は女性も蕎麦と丼のセットにしていた。店としては、こんなにセットが多いとは予想していなかったらしい。「ウォーキングの方たちはいつもお蕎麦ばっかりだから。お蕎麦はこれから作ります。」カツ丼、親子丼、玉丼は、丼の種類で分けられている。生ビールはないので、キリンの瓶ビールを二本頼み、スナフキン、桃太郎、蜻蛉、そして姫が飲んだ。
     蕎麦は小さな蒸篭で、姫の天婦羅にはそれが二枚、セットには一枚がつく。この小さな蒸篭が、先日の姫が食べたうどん(中卯)程度だろうか。「これだけあれば大丈夫ですよ。」十割蕎麦だからだろうか、少しパサパサしているかも知れない。姫は天婦羅のエビを桃太郎とスナフキンに分けた。
     座敷の隣の板の間には宿場のジオラマが置かれ、展示会で使うパネルが大量に保管されている。食べ終わってそれを見ていると店の主人が現れ、いきなり助郷の説明を始めた。しかしその説明は少し違うので、口出しをしたのは拙かったか。後でスナフキンとファーブルに叱られてしまった。「黙って聞いていればいいんだよ。」
     しかし、最初に助郷役があって、後に問屋場ができたと言われれば口を挟まざるを得ない。慶長六年(一六〇一)、各宿駅に伝馬を常備させたのが始まりである。しかし街道の往来の急増に従って問屋場に用意している人馬では間に合わず、近隣農村に負担を強いたのが助郷である。「助郷を担当する村には税金を安くした。だから村は潤ったんです。郷を助ける。それが助郷。」これにも唖然としてしまうが私は口を出さない。宿場の経営を助ける意味である。

     幕藩体制の確立にともない、交通量が急増しつつある状況のもとで、宿駅は在郷馬確保の強制力を有しない不安定な継立体制に甘んじていなければならなかった。このような状況を克服するために、幕府は寛永十四年、助馬令を発布して助郷役収取機構の確立をはかったのである。このことは同時に、宿駅問屋が、助郷からの人馬挑発権を手にしたことでもあった。(平川新『日本近世地域社会の研究』)

     それに、助郷役の代わりに年貢を減免したなんて聞いたことがない。特に農繁期に強制的に挑発される助郷役は米の収穫にも影響する。年々増加する一方の助郷役は後に金銭代納が認められたが、それは夫役の代わりに金銭を出すことだから、負担が減る訳ではなかった。むしろ近世農村の疲弊の大きな原因の一つが助郷役にあったことは日本史の常識である。
     「横浜を作ったのは保土ヶ谷宿の人間です。」一番近いのだから保土ヶ谷の人間が関わったのは当然だと思うが、神奈川宿や近隣の者だって参加しただろう。ウィキペディアを引いてみる。

     横浜は大岡川によって土砂が堆積するという不利点があったものの、南の本牧台地が風を防ぐ利点があった。横浜沖はすぐに水深を増す浚渫工事が施された。当時の横浜村は砂州の上に形成された半農半漁の寒村であった。開港に相前後して居留地、波止場、神奈川運上所(税関)、神奈川奉行所などが整備され、東海道から横浜村に至る脇往還(よこはま道)が短期間で造成された。これらの事業や初期の町作りを担ったのは、神奈川宿・保土ヶ谷宿や周辺の村々の人たちだった。横浜開港の成功の背景には、神奈川湊及び同宿によって培われた経済的基盤が存在したとされる。下田出身の写真家・下岡蓮杖の浄瑠璃『横浜開港奇談 お楠子別れの段』では横浜開港の功労者として、初代横浜総年寄を務めた保土ヶ谷宿本陣家十代当主の苅部清兵衛、吉田新田の吉田勘兵衛、石川村名主の石川徳右衛門を挙げている。(ウィキペディアより)

     この蕎麦屋は創業百二十年を超え、主人は四代目だと言う。先祖は桑名で店をやっていた。「桑名は蕎麦はあんまりないでしょう?」スナフキンはそういうことも詳しい。「桑名では餅とか団子を売っていたようです。」この店は、江戸東京博物館を造った大工に頼んで、江戸時代の雰囲気で造らせたと言う。「そのマップで何かおかしいことがあったら、私の責任だから言ってください。」ジオラマは小学生が作ったものだと言う。
     この界隈の世話役なのだろう。祭りを仕切るタイプの人だ。こういう人の努力は大いに顕彰しなければいけないと思う。しかし歴史的なことはきちんとしたことを語ってもらわなければいけない。「程ヶ谷と書くこともあるけど、それは文人が使いだした。正しくは保土ヶ谷です。」文献上の最も古い例は保土谷だから、それについて異見はない。
     保土ヶ谷宿は保土谷町、岩間町、神戸町、帷子町の四町で構成され、安政五年には家崇六百九十軒あった。旅籠は天保期に六十九軒、うち四十九軒が飯盛女二人を抱える食売旅籠であった。いつまでも喋り続けたい主人に礼を言って店を出る。十二時四十五分だ。

     高札場跡。この辺りが宿場の中心になる訳だ。金沢横丁道標。石碑四基の右端、「円海山之道」と「かなさわかまくらみち」は読めた。解説によれば他は、「杉田道」、「富岡山芋大明神社の道」とあるそうだ。
     東海道本線の下を潜り、街道がほぼ直角に曲がる角が本陣跡だ。門と蔵が残されている。建坪二百七十坪、部屋数十八、百四十畳の規模だった。

     苅部家は北条氏家臣で武蔵国鉢形城主の苅部豊前守康則の裔である。慶長六年(一六〇一)、初代苅部清兵衛が保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役に任命され、明治三年(一八七〇)に本陣が廃止されるまで、十一代にわたって三役を務めた。七代清兵衛吉一は紀伊国屋文左衛門の二男で、婿入りの持参金で本陣の借財の返済に充てた。
     十代当主・苅部清兵衛悦甫は初代横浜総年寄(今の中区本町、南仲通、北仲通、弁天通、海岸通)を任命され町の行政を担い、安政六年(一八五九年)の横浜港開港、横浜道の開発、今井川(帷子川の支流)の改修等に大きな役割を果たし、貿易歩合金制度(貿易商人から売上金の一部を徴収)を導入して、横浜町の財政基盤を確立、吉田勘兵衛、高島嘉右衛門とともに横浜三名士といわれた。
     明治元年の明治天皇東幸時に姓を「苅部」から「軽部」に改称、現在も同地に居住している。十一代清兵衛悦巽も、保土ヶ谷宿の三役と横浜総年寄を務めた。清兵衛の孫娘・タマは、昭和天皇の乳母をつとめている。明治元年の明治天皇東幸時に姓を「苅部」から「軽部」に改称、現在も同地に居住している。(ウィキペディアより)

     「お隣も軽部さんですね。」子孫はここに住んでいるのだ。その先が脇本陣(藤屋)跡。建物は残っていない。建坪百十九坪、部屋数十四、百十畳。ここでは飯盛女二人を抱えていた。脇本陣(水屋)跡。旅籠の本金子屋は立派な門と格子戸の二階家だ。旅籠の留女が必死で旅人の袖を引っ張っているのを見て、弥次郎兵衛は狂歌を読む。

     お泊りは よい程ヶ谷と留女 戸塚まえては 放さざりけり(『東海道中膝栗毛』)

     保土ヶ谷宿お休み処から女性が出て来た。「今、お蕎麦屋さんで説明を聞いて来たところです」と桃太郎が言うと、「それなら大丈夫ですね」と笑う。「どこからですか?」「主に埼玉県、それに神奈川県も。」「東京だっているぞ。」「主にですから。」「それなら埼玉県十二人様と書いておきます。」なにかノルマのようなものがあるのだろうか。茶屋本陣跡。ここは主に大名の休憩場所だったようだ。
     今井川と接する辺りには復元した上方見附と一里塚がある。見附は土塁の筈だったが、ここでは石垣を組んでいる。今井川に架かるのは仙人橋だ。川を渡った所にあるのが外川神社だ。「あそこは行かないの?」「今日は行きません。」幕末に羽黒山麓の外川仙人大権現を勧請したのである。
     ここから若い松並木が少し続く。平成十九年に立てられた解説板がある。

     保土ヶ谷宿 の松並木は、この付近から境木まで三キロあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。
     この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約三百アメートルの区間に松などの木々数十本を植えました。(中略)
     保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、この付近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
     この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。

     「蛇だ。」「イヤダーッ。」ノリリンは蛇が苦手らしい。一メートル半ほどの蛇が川を泳いでいる。あるいは流されているのか。「青大将だろう?」とヤマチャンは言うが、私は蛇に関して全く無学なのでそれが正しいかどうか分らない。「登れないんじゃないですか?」姫はそれが気になっている。肺呼吸するから水中で生きるわけにはいかないのである。

     蛇泳ぐ新緑光る松並木  蜻蛉

     樹源寺。保土ヶ谷区保土ヶ谷町三丁目。日蓮宗。掲示板に貼られたのは「努力する人は希望を語り怠ける人は不満を語る」である。「その通りだね。」石段を上って境内に入る。「よく手入れされてるわね。」静かな境内で、坊守さんが挨拶してくれる。

     寺号の由来でもありました樹源寺の大欅は八百有余年の樹齢をほこり、当山の象徴として広く人々に親しまれていましたが、(残念なことにこの欅は排気ガス等による空気汚染のために枯れ、昭和四十五年に伐採されました。)この大欅の主が当山二十一世日建上人の夢枕に出現した話が残っています。…「上人この時大病で茅に横になっていると、夜中天女が来て申すには我は欅の空洞に棲む白蛇である。朝夕響く法華経讀誦の聲にもはや成仏の因も芽してきた。即ち我れを源龍大善神と敬いくれるならば、汝の病、たちどころに平癒するであろうと告げると思えば夢醒めた。そこで早速、欅の洞穴に小祠を設け祈ると、忽ち快癒してしまった、それからこの大樹にしめ縄をはりめぐらした。」(この文章は昭和四年十二月二十九日付普通新聞に掲載されたものです。)
     現在、大欅の一部は「ついたて」となって大玄関に飾られ、お客様をお迎えしています。

     池には小さな滝から水が落ち込み、その畔には玩具のような茅葺の小屋を造っている。「ここでビールを飲んだりして。」「狭いんじゃないか。」錦鯉が十尾以上泳いでいる。「どこまで行くの?」どうやら池を回遊できると思った人が、行き止まりなので引き返しているのだ。
     元町ガード交差点からほぼ直角に左に曲がる。横浜市保土ヶ谷消防団第一分段第二班。ここに旧元町橋跡の標柱が立っている。その脇の路地には帝釈天王の小さな祠がある。保土ヶ谷区保土ヶ谷町三丁目。明神鳥居を持った小さな堂だ。この辺りはずっと日蓮宗の寺を見て来たから、帝釈天を祀るのはそれに関りがあるのかも知れない。
     橋を渡ると、道端にはショケラを持った青面金剛と堅牢地神塔を収めた祠が建っている。この辺はショケラが普通だったろうか。「地神塔は前にも見ましたね?」堅牢地神は大地の女神である。
     「これから権太坂に入ります。」二時ちょっと前。「権太坂って、あの箱根駅伝の?」「あれは国道だから。こっちは旧道です。」姫は大丈夫だろうか。桃太郎は姫のリュックを胸に抱えた。「優しいのね。」「このために、昼食の時にエビ天を上げたんだな。」
     胸壁に掲げられた案内には、境木地蔵尊まで一・五キロとある。マンション群に囲まれた狭い坂を軽自動車が追いぬいていく。道路の向こう側には朱塗りの粗末な鳥居の中に、「旧東海道権太坂 改修記念碑」が建っている。

     権太坂(ごんたざか、英: Gonta Slope)は、神奈川県横浜市保土ケ谷区にある旧東海道の坂の名称、また保土ケ谷区にある町名の一つである。現行行政地名は権太坂一丁目から権太坂三丁目で、住居表示実施済み区域。旧東海道を東京から西へ向かう際、最初の急勾配として知られる。権太坂(一番坂・二番坂)、焼餅坂、品濃坂と坂道が続き、旅の難所であった。
     年始に行われる箱根駅伝では、旧東海道の権太坂は通らないが、付近の国道一号の坂を権太坂と称し、往路二区の難所として位置づけられている。律令国制における武蔵国、相模国の境界でもあった。(ウィキペディアより)

     「権太坂は櫛部の悲劇が起きた場所なんだ。」しかし誰もその名前に反応しないのが不思議だ。櫛部清二(現城西大学監督)は三千メートル障害と一万メートルの高校記録保持者として、瀬古利彦の強い要請を受けて平成二年(一九九〇)に早稲田に入った一年生である。早稲田三羽烏と呼ばれた同じ一年生の武井隆次(前エスビー食品コーチ)は五千メートルの高校記録保持者で一区を任され、千五百メートル高校二位の花田勝彦(現上武大学監督)が三区に配置された。瀬古自身もコーチ就任一年目で、最強の布陣で箱根駅伝に臨んだ筈だった。
     平成三年の正月、櫛部は山梨学院大学のオツオリを上回るペースで疾走してきたが、権太坂の途中でいきなり脚が止まった。顔をゆがめ、腹を押さえてフラフラと蛇行しながら、もうだめかと思ったけれど、なんとか花田にタスキをつないだ。
     この映像は今でも覚えている。自分はそんな苦しいことは絶対にできない癖に、私は箱根駅伝のファンだった。脱水症状と報道されたが、実は前日の食事に提供された刺身を朝に食ったための食中毒が原因だった。翌年も成績は残せず、このままではダメかと思われたが、櫛部は三年生になって一区で区間新記録を出して復活した。しかし二区を走れなかったことは櫛部にとって大きなトラウマになっただろう。
     権太坂陸橋から下を覗き込む。「結構きついね。」ヨッシーは先頭を順調に進んでいる。「毎月、高尾山に登っている人だからね。」その後をダンディが追っているのが不思議で、万一のためにとファーブルが追っかける。
     権太坂の解説板がある。「こういうのは頂上に立っててほしいですよね。」坂の名前は、坂の改修工事を請け負った藤田権左衛門に由来すと言う説がある。一方、旅人に坂の名前を尋ねられた老人が、耳が悪くて自分の名前「権太」と答えたと言う説もある。
     上り坂が続く。右に神奈川県立光陵高校があった。土曜日に来ているのは運動部だろう。「いい環境ですね。」しかしこの坂を自転車で来ると思えば大変だ。汗が流れてくる。
     後続とかなり差が開いて来たので、藤田農場の駐車場で後続を待つ。保土ヶ谷区権太坂二丁目三八四番四号。主に幼稚園児に芋掘りなどをさせる農場らしい。後続も追いついて来た。「昔は富士山も見えたようですよ。」
     まだ頂上ではない。もうひと踏ん張りか。なだらかにはなって来たが、坂は坂である。やがて漸く頂上に出たらしい。商店も見えて来た。境木小学校の辺りで、「おじぞうさんもなか」の看板を見つけてしまったのが、この後のコースを決めた。「寄って貰えますか?」「大丈夫です。」
     街道から右に曲がる道が境木商店街である。目指すは菓匠「栗山」だった。保土ヶ谷区境木本町一番三十三号。「なんで地蔵最中なんだ?」実はこの後で行く境木地蔵堂に由来するのだ。地蔵の形の最中かと思えば違って、円形の最中に地蔵の姿を型押ししているだけだった。他には牡丹餅、ごんた餅(大福)、ご利益まんじゅう等がある。

     当店のある「境木」は、その昔東海道中で難所と言われた「権太坂」を登りきったところにございます。立場のありましたこの地には、今でも「境木地蔵尊」をはじめ、当時をしのぶ史跡が残されています。
     当店では、地元にちなんだ和菓子をはじめ季節の上生菓子やご進物等、お客様のご用途に合わせた和菓子をご用意しております。

     回り込んだところが境木地蔵尊だ。保土ヶ谷区境木本町。二時半。十段程の石段を上ると、境内の奥に小さいながら立派な地蔵堂が建っている。但し地蔵はその反対側の隅に立つ、二体の地蔵と波阿弥陀仏の石碑のようだ。新しい季節の花が供えられている。地蔵堂を見ながら水彩画を描いている老人がいる。ここで少し休憩する。

    伝承によれば、鎌倉の由比ガ浜に漂着した地蔵菩薩像を漁師が浜に祀ったところ大雨で流出してしまい、数年後腰越に流れ着いた。夢で地蔵から「江戸の方へ行きたい、途中で止まってしまったらそこに放置して構わない。」と告げられた漁師は、像を牛車に乗せて運んだが、当地で車が動かなくなってしまいそこに放置した。漁師から地蔵像を託された村民は、「どんな粗末なものでも構わないからお堂をつくってくれ、そうすればこの村を賑やかにしよう」と夢告により地蔵堂を作り安置したところ、地蔵への参拝客が集まり、有名なぼた餅屋ができるなどで村が繁盛したという。
    堂が建立されたのは、万治二年(一六五九年)である。(ウィキペディアより)

     地蔵堂を降り所がちょっとした広場になっていて、「武相国境之木」の標柱が立っている。かつて国境を示す傍示杭がたっていたことから、境木(江戸名所図会では「界木」と書く)と呼ばれた。側面には「これより武蔵国保土ヶ谷宿 一里九丁」とある。ここから先が相模国になる。かつては立場のあった場所だ。立場とは宿駅の出入り口に位置する休憩所である。茶屋はあったが宿泊は許されない。

    立場茶屋  宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和十三年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。(保土谷区役所より)

     黒塀と立派な門の豪邸は若林家である。茶屋を経営していただけではなく、名主であったらしい。「お隣も若林さんですね。」
     信号を左に曲がりここから再び山道に入って行く。「ここが焼き餅坂です。」「昔は網で焼いたよな。」「プーッと膨れる。」「それが語源か?」ロダンの愛妻のことを言っているのではない。本来は、「妬く」と「気持ち」の合成語だと言う説(『語源由来辞典』)がある。立場の茶屋で焼き餅を売っていたのだ。
     「エゴノキかしら?」白い可憐な花が下を向いて無数に咲いている。品平橋を渡る。竹林の中には青面金剛が立っている。次第に道幅が狭くなる。「ここは一方通行か?」車がすれ違う幅はない。
     そこに品濃一里塚が現れた。日本橋から九里。「字が違うじゃないか。」シナノを普通はこんな字に書かないとは思う。かつては鎌倉郡品濃村、現在は戸塚区品濃町である。『江戸名所図会』では品野坂と表記している。

     品野坂(あるいは信濃、また、科野に作る)。俗に権太坂と呼べり。この地は武相の国界たり。坂路の両傍には、蒼松の老樹左右に森烈足り。坂の上にで右を望めば、芙蓉の白峯玉をけずるがごとく、左を顧れば、鎌倉の遠山翠黛濃屋かにして、実にこの地の風光また一奇観と称すべし。

     シナノは山麓の緩やかな傾斜地を意味すると言う。一般には信州信濃はシナノ木(日本の菩提樹)に由来すると思われているが、賀茂真淵は段差を意味する「科」や「級」に由来すると言っている。江戸時代の道幅で、道の両側に塚が残っているのは珍しい。神奈川県で唯一というが、全国的にも珍しいのではなかろうか。
     西ヶ原の一里塚は道路拡幅のために片側は中央分離帯のようになってしまったが(それでも残したのはエライ)、それ以外に私は見たことがない。東側の塚(戸塚区平塚町)の方は手入れが行き届いているように見えるのに、西側の塚(品濃町)の方は、塚から根が露出していて危ない。「ちょっと手入れしてあげればいいのに。」ホーホケキョ。「なんだか声が訛っているね。」

     老鶯の一声響く一里塚  蜻蛉

     突然大きな道に出た。「この道は?」「環状二号って書いてある。」もうゴールはすぐそこだ。東戸塚駅に着いたのは三時をちょっと過ぎた所だ。一万八千歩。十キロというところだろう。「どこにする?」「横浜か?」「この時間でやってる店があるかな。以前も探したじゃないか。」「大丈夫だろう。」スナフキンが大丈夫だと言えば大丈夫だ。
     電車の中で女子高生が席を譲ってくれた。「俺は若いから大丈夫だよ。」そうは言ったが、一度立った女子高生は座ろうとしない。「座らないなら座っちゃおう。」「そういう言い方はないだろう。」
     「失礼だけど、その校章はどこなの?」ヤマチャンは職業柄女子高生と話をするのは得意だ。「四ツ谷雙葉です。鎌倉に遠足で。」遠足のことは聞いていない。彼女が自主的に話したことである。私は全く無学なのだが、女子では名門だそうだ。「田園調布にもある。」母体は同じだが、別法人であるらしい。四ツ谷雙葉は正式には雙葉中学校・高等学校であり四ツ谷はつかない。向こうは田園調布雙葉中学校・高等学校であり、横浜にはやはり別法人で横浜雙葉中学校・高等学校がある。
     ダンディとハイジは帰って行った。横浜駅に着き、スナフキンはどんどん歩いていく。私は横浜の地図が全く頭に入っていないので、一人だったら必ず迷子になってしまう。磯丸水産が見えたから、最悪の場合はあそこで飲める。スナフキンが連れて行ってくれたのは「権太」だった。ビルの上階にあるが、下で客引きをしている若い衆が、「上はやってませんよ」と言う。「念のために」とスナフキンとファーブルが偵察に行くと、店はちゃんとやっていた。客引きは嘘をつくのである。「今日は権太坂を歩いたから」と言うのが、この店を選んだ理由だった。
     十人が席に着く。ビールが旨い。ファーブルは「脱水症状」だよと、水を二杯飲む。焼酎は一刻者。「今日は水割りにしようよ。」いつもはお湯割りに決まっているが今日は暑かった。
     数日前に画伯からもらったハガキを披露する。高齢のためもう参加できないというのだ。残念だが仕方がない。昭和九年生まれの八十五歳か。毎日五千歩程は歩いていると言うから、まだ元気だと思う。「個展に行ったよね。」「胡蝶蘭を差し入れたね。」私はカラオケ大会に参加させてもらったことも思い出す。長時間は歩けなくても、何かの機会に会えることを願うばかりだ。
     久し振りにロダンの愛妻物語が延々と続き、ノリリンが笑いころげる。焼酎を二本空にしてお開き。
     外はまだ明るい。六時だから当たり前だ。姫、スナフキン、ファーブル、蜻蛉はカラオケZeroに入る。初めての店で、案内されたのは異常に狭い部屋だった。私はまるで声が出ない。二時間歌って店を出ると、さっきは気が付かなかったが隣は何やら怪しげな店だ。若い男が数人入って行ったのはキャバクラであった。


    蜻蛉