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    第八十三回  鎌ヶ谷編
      令和元年七月十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2019.07.26

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     久し振りに雨が止んだ。梅雨の合間の貴重な一日である。去年は六月末に梅雨が明け、途端に三十五度を超える猛暑が続いたのに比べ、今年は肌寒いが続いている。ただ今日は暑くなるようだ。旧暦六月十一日。小暑の次候「蓮始開く」。団地に隣接する調整池にも蓮が開き始めた。
     前回の近郊散歩に続いてロダンの代わりを務めるのはあんみつ姫だ。集合は東武野田線の鎌ヶ谷駅である。東武はこの路線をアーバンパークラインと呼ばせたがっているが、どこがUrban Parkなのか、さっぱり分らない。大宮から船橋まで東京近郊農村地帯を巡る路線だ。
     鎌ヶ谷と言って知っている人は稀であろう。鎌ヶ谷大仏は知られているだろうか。昔千葉営業所に六年間勤務した私だが、一度も足を踏み入れたことがない。妻が幼年の頃に過ごした町である。船橋市、松戸市、柏市、市川市と接している。
     江戸時代の小金牧中野牧の周縁に当たり、木下街道沿いの継場である。旅籠が七軒に茶屋や商家が数軒あった程度だ。木下街道は行徳河岸から木下河岸までの約九里の道で、行徳宿、八幡宿、鎌ヶ谷宿、白井宿、大森宿、木下河岸が木下六宿と呼ばれた。銚子沖で水揚げされた魚貝類は利根川を下り、木下河岸で馬に積み替えて本行徳河岸まで運んだ。行徳からはまた船に乗せて日本橋小網町まで運んだのである。鎌ケ谷村・粟野村・中沢村・道野辺村・佐津間村・串崎新田村・軽井沢新田村が合併したのが現在の鎌ヶ谷市だ。
     現在の市の中心部は野田線、新京成線、北総線が交差する新鎌ヶ谷駅周辺で、鎌ヶ谷駅は少し外れている。
     秋葉原から船橋を回る経路もあるが、日暮里で常磐線に乗り換えて柏まで、そこから野田線に乗るコースを選んだ。鶴ヶ島を七時四十九分に出発し、鎌ヶ谷には九時四十三分に着く。徒歩も含めて二時間以上の旅になる。旅のお供は中橋孝博『日本人の起原 人類誕生から縄文・弥生まで』。人類学や考古学に疎い私にとって、最新の研究成果に基づいた記述は充分刺激的だ。
     柏駅の野田線乗り換え案内が不親切だ。ホームから上がる階段は二か所あって、どちらを選べばよいのか。少し迷って漸く。「野田線は改札を出て左」の小さな文字を発見した。船橋行に乗って十数分で鎌ヶ谷に着く。ホームから下に降りる階段で、後ろから声を掛けられた。ハイジである。「良かった。初めだから不安だったの。」
     改札の外には姫、ヨッシー、ファーブルがいる。小銭に崩したいので東武ストアでボールペンを買って戻ると、マリーも到着したところだった。「早く着きすぎて誰もいないんだ。不安だったけどヨッシーが来てくれたから良かった。」ファーブルは前に集合場所を一ヶ月後の分と間違えた経験があるからね。
     鎌ヶ谷駅の住所は鎌ヶ谷市道野辺中央二丁目一番十号だ。日本ハムファイターズの鎌ヶ谷スタジアムがあるため、発車メロディーに『ファイターズ讃歌』(私は全く知らない)を使っていると言う。
     「電話が鳴ってるみたいだよ。」ポケットで鳴っていると気づかいことが多いのだが、今日は私も気付いた。「今日は中止ですか?」マリオである。「やってますよ。」「駒込にいるんだけど誰もいないから。」ロダンの当初の計画が駒込集合だったのだ。そこから鎌ヶ谷までは一時間以上かかる。「それじゃ、今日は諦めます。」スナフキンは母校野球部の地区予選の応援に行っている。相手は帝京だと言うのでまず勝ちは考えられないが、試合の後のOB飲み会が目的だろう。
     「もうこの位でしょうか。柏方面から来る人はいませんよね?」「俺とハイジは柏から来たよ。」「あら、そうだったの。」他の連中は船橋から来たらしい。十時になって出発する。
     リーダーに貰った地図を片手に西口に出る。日が照ってきた。ファーブルは「これいいだろう」と息子に買って貰った帽子を自慢する。優しい息子を持った父親は羨ましい。それにしても、この陽射しならサングラスもあった方が良かったかも知れない。
     田舎道をほぼ南に進むと、焼鳥屋が三軒ほど並んでいた。お好み焼き屋もある。狭い道で歩道の幅も狭いが自動車は結構なスピードで走って行く。わくい煎餅店には、「鎌ヶ谷ふるさと産品」の看板が出ている。「日本古来の伝統の味 鎌ヶ谷煎餅」と言うのだが、実は瓦煎餅である。私は小麦粉を原料とする瓦煎餅を、煎餅とは呼びたくないナ。そもそも甘い煎餅は関西のものではなかっただろうか。
     鎌ヶ谷ふるさと産品には、茂野製麺の手折り麺、私市食品の黒酢ドリンク、山屋食品のケチャップソース、ケーキ工房ラ・セーヌの菓子、鎌ヶ谷市商工会企画の梨スパークリングワイン、東葛食品の肉まん・あんまん等がある。なんだかちょっとガッカリしてしまう。
     下り坂を歩き、最初に入ったのは道野辺八幡だ。鎌ヶ谷市道野辺五丁目六番十号。道野辺とは面白い地名だが、その由来は分らない。鎌倉時代に遡る集落だと言う。石造明神鳥居から入る高い階段の向こうに長い参道が続いているようだ。
     「そこの青面金剛の表面が削られているんです。」幕末に過激な神道復古派が庚申塔の表面を削った例は忍藩領内で良くみられる。塞ノ神や猿田彦神に改刻したものだ。「だけど、削った跡は新しいね。」ファーブルが指摘するように、最近削られたように見える。天保十年のものだ。
     「変な場所に鳥居が。」朱塗りの両部鳥居が、脇参道から少しずれた空き地に建っているのだ。「車を入れるために、道をずらしたんだね。」社叢を残すため、鎌ヶ谷市は「環境風土 道野辺八幡の森」に指定している。
     林の中の長い参道を抜けるときれいな拝殿が建つ。「立派じゃないか。」鎌ヶ谷市の総鎮守である。「何か御祈祷をしてるみたいですね。」何のための祈祷か分らないが、祈祷料は五千円、七千円、一万円、それ以上となっている。

     当社は鎌ケ谷市を代表する大神社として道野辺八幡宮と尊称され、市民及近隣住民より崇敬されて居ります。
     御祭神は八幡大神と申し上げ誉田別尊ほかを御奉祀して居ります。
     御創建は悠久の歴史の中で生成流転栄枯盛衰により貴重な資料が逸散、世情人心の変遷に遭って史実と伝承伝説が風化し今俄に断定する事は出来ないが俚伝によれば、中沢城(東城西城)築城に関わりこの地を城地の鬼門と目し厄除け方除けの神、弓矢兵馬の神、文武勝運守護の神として鎌倉時代に、又土地の伝説として平将門が下総を征服し市川大野の地に宮殿を建てた折中沢にも築城したと云う事が有りその時、鎮祭されたものと云う。(境内掲示板)

     「ここが城でもよかったね。」北総一体には将門伝説が多く残っている。平将門が築城したという中沢城の場所は分っていない。土塁の遺構だと思われた場所も牧の土手の可能性が高い。但し、この南の高台に妙蓮寺や根頭神社があり、そこなら城があってもおかしくないし、ここを「鬼門」と呼ぶのも納得がいく。
     「神馬は剥製かな?」残念ながら作り物であった。「髪の毛だけか。」アジサイがきれいなのでカメラを向けていると、その横に葉が白変した植物を発見した。「半夏生だね?」姫もハイジも承認してくれたから間違いない。十数年振りで見るだろうか。ドクダミ科。カタシログサとも呼ばれる。
     「桃太郎がいれば御朱印を貰ったんでしょうけど。」この時点で知らなかったが桃太郎の御母堂が今朝亡くなっていた。ご冥福を祈る。
     「階段を降りるのがイヤなので、こっちから行きます。」神社の外周の道路を行けば、この境内がどれだけ広いかが分る。「これってムクゲですよね。」花弁が八重で、赤、ピンク、白が微妙に混ざっている。「珍しいです。」神社の裏手は台地になっていて、交差する路地を見ると下に降りて行くのが分る。
     畑が広がる中に割に新しい住宅が建てられていて、住所表示が中沢新町になった。「通勤圏内ですからね。」「エッ、通勤圏?」「そうですよ、船橋にでれば東京まですぐだし、松戸や柏にも近いんですよ。」
     道路を渡って市民の森に入る。鎌ヶ谷市中沢七四七番地一号。市営キャンプ場になっている。「こっちだと思うんですけど。」やや滑りそうな道を行く。今日は江戸歩きと言うより近郊散歩の趣が強い。階段を上り切ると小さな神社の脇に出た。根頭神社だ。鎌ヶ谷市道野辺五十番。鄙びた社殿の前に男三人が屯している。まず由緒を見る。

     御祭神は根頭之大神(国津神・大地主の神)と申上げる。創建の年代は不詳なれども当境内に続き「西山遺跡」あり、縄文中期(阿玉台式)に属する住居跡、土器、石器、土製器を出土し、上古より此の地区に住み、生活を営みし事、史家の認むる処なり。(中略)
     御本殿は旧千葉県立師範学校の御真影奉安殿にして、一時、千葉県護国神社の仮本殿たりし由緒ある建物なり。

     それ程由緒のありそうな建物には見えない。ただ神話にかこつけた神をもってくるのではなく、名もない国津神を祀っているのはエライと思う。創建年代は不明だが鎌倉時代かと推定されているようだ。解説によれば。この地の草分け八軒衆と呼ばれる家の一つ三橋孫六家の遠祖、藤原左衛門丞(親盛?)がわけあって東国に下向した時、都の公家からお墨付きと大神の神事を授け、自らの土地を寄進し根津神社と称したことに始まるという。公家と言うのは左衛門丞の主家に当たるのだろうが、都の公家がこの地の地主神と関係するとは思えない。この一帯が中沢城だったのではないかとの説もある。
     そこに警官がやって来た。「隠れなくていいの?」「平静な顔でいましょうね。」講釈師がいれば慌てふためいて逃げ出したかも知れない。男たちの話を聞いていると、賽銭泥棒が防犯カメラを壊したのだそうだ。小銭だけを盗んでいったようだと言っている。
     「蚊がいる。」「蜻蛉は半袖ですね。」みんなは蚊を予想して長袖にしてきたらしい。私はそんな知恵もなかった。
     境内社に古峰神社(祭神はヤマトタケル)もある。栃木県鹿沼の古峰神社を勧請したもの出る火防の神として信仰され、この地域からも講を組んで代参したと言う。
     市民の森とは違う方向に長い参道が続いているが、そっちを回ると遠回りだと姫は言う。確かに地図を見れば直角に曲がりこむような参道で、道路に出るにはかなりの距離がある。根頭神社の森の周縁を行くのかも知れない。「もう一度、市民の森に戻ります。」この森もおそらく神社の社叢だったのだろう。「あそこでキャンプもできるんですよ。」「ファイアー?」管理人らしい男性が火を燃やしていた。
     森を抜けて車の通る道路を西に少し行く。「学校ですかね?」「弓道場ですね。アーチェリーもあります。」道端にはユウゲショウが群生している。「可愛らしい花ですよね」とヨッシーも言う。珍しくもないが私はわりに好きだ。道路の両側には梨畑が広がっている。「松戸は二十世紀梨が生まれた地だからこの辺も梨が多いんだよ。」「まだ小さいね。」収穫は秋だからまだこの時期では小さいのは当たり前か。
     姫とハイジが垣根から覗く庭木に咲く小さな花を見つけて喜んでいる。匂いがきつい。「何の花?」「モッコクよ。」そう言えば富士見市でもハイジがモッコクと言っていた。花を見るのは珍しいらしい。民家の塀際に貝殻を撒いているのは何の呪いだろうか。
     市民の森から七八百メートルほどで八幡春日神社についた。鎌ヶ谷市中沢九〇七番地。八幡(源氏の守護神)と春日(藤原氏の氏神)を同じ名前で持つ神社は珍しい。明治の合祀政策によるだろうか。
     明神鳥居の前には巨大なクロマツの切株が鎮座している。神社のシンボルとされてきた樹齢三百年と推定されるクロマツが、昭和四十六年に枯死したのである。ここも林に囲まれた百五十メートルほどの長い参道を持っている。元々、二百~三百年前にスギとクロマツを植林して造られた森で、総面積は九千二百五十平米ある。鎌ヶ谷は鎮守の森を大事にしているのがエライ。
     「ここの庚申塔も表面を削られているんです。」隣に立つ石碑は帝釈天だ。帝釈天を祀るということは、この辺りは法華信仰が盛んだったのだろう。中山法華経寺の影響範囲だと考えられる。拝殿は小さい。
     ここから西に四百メートル程行けば、北海道日本ハムファイターズの鎌ヶ谷スタジアムがあるらしい。来た道を戻り、トイレ休憩のために南部公民館に立ち寄ることになった。公民館手前の空き地にはタチアオイが咲いている。「ビャクシン類植栽機制区域」の大きな看板が立っている。ビャクシンとは何か。ヒノキ科の針葉樹で、ハイネズミ、カイヅカイブキ、ネズミサシなどを言うらしい。それが梨の病害である赤星病の中間宿主となるのである。

     江戸時代、八幡(現在の市川市八幡)の川上善六という人が野菜に代わる作物はないかと日本中を歩き、美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)のあたりで梨の栽培を見て関心を持ち、そこの土が八幡の土に似ていたので八幡でもできるだろうと考え、梨の枝を譲り受け持ち帰りました。今の八幡神社のあたりにその枝を植えたところ三年後に数個の梨の実をつけ、さらに数年後この梨を『美濃なし』と名づけて江戸に出荷したところ評判がよかったので近所の農家にもすすめ八幡で梨の栽培が盛んになり『八幡なし』と呼ばれるようになったといいます。
     その後、江戸時代末期から明治にかけて、八幡、市川、柏、八柱、中山、鎌ケ谷、東葛飾等、南部葛飾郡一帯の旧町村がその主要産地として数えられ、今日の東葛梨の隆盛を見るとともに千葉県の梨栽培を発展させました。(鎌ヶ谷市「鎌ヶ谷の梨について」)
     https://www.city.kamagaya.chiba.jp/kanko-bunka-sports/kanko/kamagayanonashinitui.html

     千葉県は梨の栽培では国内トップで、その中でも鎌ヶ谷の占める割合は多いらしい。市にとって梨は最重要なのである。今思い出したが、八千代市に住む妻の両親が鎌ヶ谷の農園で手配してくれるので、我が家も毎年、鎌ヶ谷の梨を食っている。
     十一時十三分。公民館の入り口には今年日本ハムに入団した新人の写真が掲げられている。「エライでしょう?」姫は日本ハムが好きなのだろうか。私は吉田輝星しか知らない。「金農の星だからね。」「北海道人はみんな日本ハムのファンだよ。」私のトイレが長すぎたので心配をかけてしまったようだが、別に異常はない。「それじゃ行きましょう。」跡で地図を見ると、ここはさっきの市民の森に隣接する場所だった。
     「ボタンクサギですね。」姫の言葉にハイジが感心している。私も随分前に見た記憶がある。小さなピンクの五弁花が無数に集まって球形を作り、その隙間から覗く蕾が濃い赤だから目立つのである。この花がクサギ(臭木)と言うのも不思議だ。クマツヅラ(シソ)科。
     「カメムシが。」葉の上に二匹のムシが重なるように載っている。これがカメムシと言うのか。「まだ幼虫じゃないか。」ファーアブルが写真に撮る。葡萄園もある。
     東にまっすぐ歩くと、交差点の右手角の高台が妙蓮寺だ。ここも中沢城比定地の一つである。日蓮の母親・妙蓮の生誕地だと言う。しかし日蓮は安房小湊の生まれである。母親はどうしてここから安房まで行ったのだろう。小湊の両親閣妙蓮寺が日蓮の両親の廟所である。同じ寺号だ。
     その脇の高台が宅地造成のために平にされていて、大きな切株が見える。「一ヶ月前には木があったんですよ。あんまり見事なので写真も撮ったのに。」宅地にしては、周囲から離れてここだけ高台になっているので不便ではあるまいか。
     「上を行くか下を行くか?」姫が言う上の道は今朝通った道らしい。「下を行きます。」東に新京成の電車が見える。妙蓮寺下の交差点から北にまっすぐ行けば道野辺八幡の入り口だ。「こんなに近かったんですね。こっちを歩けば良かった。」
     鎌ヶ谷駅前に出て、姫は東口の方に回って行く。「おうどん屋さんもあるんですけど、今日はイタリアンのお店にします。蜻蛉には申し訳ありませんが。」その店の前に着くと、すぐ向こうに、姫の言う「おうどん屋さん」が見えた。「別々でもいいですよ。」それならと、私とファーブルはそちらに向かう。彼もスパゲティよりは蕎麦の方が良い筈だ。「十二時半にここに来てください。」
     ウェストという博多うどんのチェーン店だ。鎌ヶ谷市道野辺本町一丁目二番十六号。本部は勿論博多にあるのだが、博多うどんと言うのは食べたことがない。

     商人の街博多では時間にシビアな商人たちが素早く食べられるようにとゆで置きの柔らかい麺のうどんが主流になったといわれている。また、軽食として食べられていたため、消化の良い柔らかい麺が好まれたという説もある。(中略)
     博多うどんの大きな特徴はその麺である。博多うどんではふわふわしたコシの弱い麺を用いる。その理由は前述のものに加え、九州のうどん粉に原因があるともいわれる。九州のうどん粉は醤油に使うものと同様の小麦を使用しているため、他のものと比べてタンパク質が少なく、コシが出づらいのだという(ウィキペディア「博多うどん」)

     あまり旨そうには思えない。うどんなら私は稲庭うどんが好きだ。しかし蕎麦に限って三玉まで同じ料金だと目立つように貼り紙に書いてある。それなら、うどんを食うバカはいないのではなかろうか。メニューを見ても圧倒的に蕎麦の種類が多い。
     ファーブルは「しっかり食おう」と蕎麦三玉(五百七十円)にした。私はちょっと多いかと思いながら玉子丼のセット(七百六十円)の誘惑に負けた。「三玉ですか?」「一玉で。それにビールね。」生ビールは三百八十円だ。注文取りは新人で、口やかましいオバサンが一々伝票の書き方を指示している。
     向かいに座った夫婦に三玉の蕎麦がやって来たのを見ると、洗面器のような丼に盛られている。これを二人で食べるのかと思ったら、もう一つ同じサイズの丼が出された。「あれだぜ、大丈夫かい?」「たぶん上げ底だから大丈夫だよ。」
     ファーブルの大丼に続いて、私の一玉の蕎麦も大丼で出された。二人掛けのテーブルが一気に狭くなる。一玉分の蕎麦は普通の八割程度だろうか。それでも三玉で五百七十円は安い。玉子丼はミニで、ちょっと雑な作りのように見える。
     蕎麦は腰がある。私は蕎麦の味を云々する資格はないが、「旨いよ」とファーブルも言う。「蕎麦だけで飽きないか?」「大丈夫。」蕎麦湯はレジの手前に置かれた大きなバケツから玉杓子で注ぐ方式だ。ビュッフェでスープや味噌汁を入れる、あれである。しかし私はよく見ていない。ファーブルは急須のようなものを発見してそれに入れて来た。「イカ天くらい取っても良かったな。」
     ほぼ満席状態だからゆっくりはできない。少し早めに出て外で煙草を吸ってもまだ時間がある。イタリアンの店の前に行くと小さな赤いベンチが置いてあるのでそこに座って待つことにした。生パスタ・手作りピザCoCaである。鎌ヶ谷市道野辺本町一丁目二番三十号。鎌ヶ谷では有名な店らしい。
     十二時二十分頃、イタリアン組も出て来た。「カラシメンタイのスパゲティが辛くて、半分も食べられませんでした。おなかが空いてます。」姫はこんな巡り合わせになってしまうことが多い。「美味しかったですよ」と言うヨッシーは別のものにしたのだろう。

     鎌ヶ谷駅東通りを少し行くと、コープ鎌ヶ谷の前の歩道に東経一四〇度線のモニュメントが建っているが、「お子様向けみたいで」と姫が言うように、モニュメントと言うのは少し恥ずかしい。鎌ケ谷市道野辺本町一丁目五番。五十センチ程の円盤に、オーストラリアからシベリアまで真っ直ぐ線を引いた地図と、子どもたちを描いたイラストが描かれ、下に小さく「かまがや盛り上げ隊」とある。「これじゃ盛り上がらないよな。」道路には緑の線が斜めに引かれている。
     「八郎潟を通るんだ?」宇都宮、会津若松、大潟村を通るのである。「八郎潟は統計一四〇度、北緯四〇度なんだ。」それは知らなかった。ファーブルには故郷への愛があり、私にはないのだろう。ネットで探してみると、八郎潟つまり大潟村には塔のような、かなり大きなモニュメントが建っている。

     東経一四〇度線表示のセレモニーを平成二十四年二月十四日(火曜日)に新鎌ケ谷駅前北口広場で行いました。
     小雨の降る中、たくさんの方にお越しいただき、市のマスコットキャラクター“かまたん”も大変喜んでおりました☆お越しになれなかった方は、現地を通られた際、是非ご覧ください!(鎌ヶ谷市「『東経一四〇度線』を知ってますか?」)

     たぶん地元の人間でない限り、こんなことは知らないだろう。経度と言うのは子午線である。子午線の長さを知りたいと言うのが伊能忠敬の志であったが、今日はロダンがいないから、その話題も口にできない。
     そもそも日本全体はどの辺の緯度に当たるのかが私には分っていない。調べてみて驚いた。最西端は与那国島の一二二度五五分五七秒、最東端は北海道ではなく東京都の南鳥島で一五三度五九分一二秒だ。それなら一四〇度だけでなく、一三〇度、一五〇度の地点も宣伝して良いだろうに、あまり聞かない。そして日本の経緯度原点は東京都港区麻布台二丁目にある。以前ロダンの案内で行ったことがあるかも知れないがすっかり忘れている。
     「囃子水公園も行くつもりだったんですが、下見の時は通行止めになってたのでやめます。」中沢川の最上流に位置し、一年中、湧水が絶えないということなのだが、今は荒れ果てていると言う情報もある。
     コープの裏に「野馬土手在りき」の古い標柱が立っていた。管理者はコープなのだが、土手があったような雰囲気は全く残されていない。今日は後で捕込(トッコメ)跡を見ることになっているから、野馬土手についてもその時に書くことにする。
     「あそこはゴミ屋敷かな?」「子どもが遊んでるよ。」創価学会の前を過ぎ、新京成の踏切手前を左に曲がる。「さっき、統計一八〇度を見たので、衝撃は少ないと思います。」姫が立ち止まったのは新京成線の脇の生涯学習推進センター「まなびぃプラザ」だ。鎌ケ谷市富岡二丁目六番一号。
     その玄関前に四五十センチほどの石を組み合わせたモニュメントが置かれている。これが「雨の三差路 分水嶺(界)」の象徴なのである。解説板も子供向けのもので、降った雨が北の手賀沼、東の印旛沼、南の東京湾の三方向に流れる地点として、全国で珍しいと言うことが分るだけだ。ただ地図を見ても、水がどうして三方向に流れるのか分らない。もう少し詳しく説明して欲しい。
     「この花よ。白いけどビヨウヤナギに似てるでしょう?」先日からハイジが気にしていた花だ。確かに長い雄蕊が無数に揺れているが、葉の形が違う。何だろう。「そこのサボテンがスゴイね。」二階建ての屋根を越えるほど高いサボテンだ。庭木の根元が太くなって、ブロック塀の下の部分を切り取った家がある。
     狭い道を右に抜けると五七号線(鎌ヶ谷松戸線)に出た。「製麺所だ。」手折り麺・茂野製麺、鎌ヶ谷ふるさと産品にあった店だ。新京成の高架を潜れば初富駅前だった。「流行ってるね。」鎌ヶ谷市民会館は駅前のイト-ヨーカドーの中に入っているようだ。シマムラ、ダイソーも入っている。

     野田線に突き当たって船取線を右に行き、市立図書館入口を過ぎれば焼き肉屋「焼肉キング」の隣が鎌ヶ谷市郷土資料館で、焼き肉の匂いが漂っている。鎌ヶ谷市中央一丁目八番三十一号。
     「どちらからですか?」「埼玉です。アッ、東京も二人います。」女性が解説をしてくれると言う。「それじゃお願いします。特に牧とか捕込のことが知りたいのです。」
     下総は古くから軍馬の産地であり、将門もこの地方産出の野馬を使った。相馬野馬追は、相馬氏の祖とされる将門が、野馬を捕らえたことを象徴する行事である。宇治川の先陣争いをした生月、磨墨が小金の馬だったとする伝承もあるが、これは各地にあるから信用しなくても良い。馬込に磨墨塚があった筈だ。
     慶長年間、幕府が馬の放牧地として下総北西部に小金牧、北東部に佐倉牧、安房に嶺岡牧を設置した。小金牧のことは、以前松戸を歩いた時に少し勉強したはずだがお浚いしておこう。
     小金牧は柏・松戸・鎌ヶ谷・白井・船橋にかけて広がっていた。北から荘内牧、上野牧、高田台牧、中野牧、下野牧の五牧で構成され、鎌ヶ谷地区はその中野牧と下野牧に当たっている。牧は高台にあり、周辺は低湿地だった。牧を管理するのは牧士(もくし)と言い、有力名主から選任された。
     捕込の模型が置かれていて、姫の目的は現地を見る前にこれで概要を把握することだった。土手で囲った三つの部分に分れている。野馬を追い込んで捕らえる部分が「捕込」である。次に軍馬、農耕馬として適当なものを選別する「溜込」、二歳以下の馬をもう一度野に戻すための「払込」である。

     「捕込」は元文年間(一七三六~一七四一)に三区画になったと伝えられており、約七千平米の規模であったと推定されています。(中略)現在はそのうちの一区画(払込)が往時の形態を保持しています。

     年に一度の「野馬捕り」は一大イベントで、近郊から多くの見物が集まり、茶店も出たらしい。捕獲された馬は幕府に献上された他、民間にも売り渡された。「アラブの馬も輸入したそうです。」江戸時代にアラブ馬がいたのか。確かにウィキペディアにも記してある。

     『徳川実紀』に、吉宗が「蘭舶に託しペルシャの馬をめしよせられ」、農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』(以下、取調書)に吉宗が享保年間、洋種馬二十八頭を購入、房総の緒牧と産馬の地に配布した記述がある。

     さっきコープの裏で見た「野馬土手」は、放牧中の馬が外に出ないように囲った土手である。しかし牧は明治維新とともに廃止された。明治二年(一八六九)政府は救貧事業の一環として、三井組による開墾会社を設立して小金牧、佐倉牧を開墾させた。戊辰戦争の戦費を負担した三井等の豪商への見返り、旧幕臣や佐幕派の子弟を東京から引き離すのが目的だったとの説もある。
     この地域に残る初富・二和(ふたわ)・三咲(みさき)・豊四季(とよしき)・五香(ごこう)・六実(むつみ)・七栄(ななえ)・八街(やちまた)・九美上(くみあげ)・十倉(とくら)・十余一(とよいち)・十余二(とよふた)・十余三(とよみ)は、開墾の順番に名付けられた地名だ。命名者は開墾局知事の北島秀朝である。このうち、七から十と十三が佐倉牧であった。しかし元々農耕に不適な土地である。武士の二三男を中心とする約六千人の入植者による開墾はなかなか進展しなかった。

     広大な牧の開拓は困難を極めました。一度もクワが入ったことの無い台地は固く、作業に慣れない開拓者たちは炎天下の労働に苦しみました。一面に草原が広がり、さえぎるものが無い台地では、強風が吹き付けると土ぼこりが舞い上がります。開拓が始まって間もない明治三年には、七月と九月に台風が襲い、植えたばかりのそばや麦が全滅しました。宿舎が火災に見舞われた地区もありました。
     厳しい状況に、開拓者の疲弊は進みます。離散・逃亡が相次ぎました。さらに、思うように開拓が進まず、莫大な負債を抱えた開墾会社は、開拓が始まって三年で解散に追い込まれます。開墾地は残った開拓者と解散した会社員で分けられましたが、開拓者への配分はわずかなものでした。開拓者の離散・逃亡は止まらず、何とか留まった人々も、自分の開墾地だけでは生活ができず、小作人として他の土地を耕して生計を立てる他なかったといわれています。(関東農政局「開拓が始まる北総台地」)
     http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/hokuso/rekishi/04.html

     明治五年には政府は事業を中止し、明治六年の地租改正で開墾会社(つまり三井)に地券を与えた。入植者はその小作に組み込まれたのである。

     このため開墾民との間に長い開墾地の帰属をめぐる裁判闘争が起こります。特に野付村からの出作人たちは、享保の検地帳の請地を主張しますが、各級裁判は次々に農民側の敗訴に終わります。戊辰戦争の戦費を請け負った政商たちへの払い下げという政治目的があったためと考えられます。今下総台地に残る開墾碑の多くはこの裁判の過程で、農民たちが残した無言の叫びのように思われます。
     たとえば柏市十余二の高田原開拓碑には、「当地は元小金原高田台牧也。明治二年より入植開拓せり。初期入植者は自作農たるべき筈の処、大隈及び鍋島などの所有となりて八〇余年、昭和二二年来の農地改革により、初期貫徹すべて入植者の有に帰す。」(厳島神社境内)とあります。戦後の農地改革で、ようやく自分たちの手に開拓地が帰ってきたことを喜んだ碑です。(中村勝『歴史ガイドかしわ』柏市教育委員会 二〇〇七年)
     http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/280400/p007312.html

     東武野田線の下を潜って四六四号線(千葉鎌ヶ谷松戸線)を北西に向かう。「この辺でしたか?」さっき、野馬土手が残っていると言われた場所だが、右に曲がって住宅地の中に入っても良く分らない。もう一度国道に戻る。
     「バテた。」珍しくファーブルが音を上げた。郷土資料館にいた時も一瞬クラっとしたらしい。軽い熱中症かも知れない。「大丈夫かい?」「ウン、大丈夫。」ところで「バテる」とは何であるか。共通語なのだろうか。疲れ果てるの「はてる」の転訛説、競走馬の足がもつれてバタバタになったことから来ると言う説がある。
     左に曲がる角に貝柄山公園の表示があった。ガソリンスタンド「太陽石油」脇の駐車場が目的地である。雑木林の入り口に「千葉県指定史跡 小金中野牧の込跡」の石碑が建っている。鎌ケ谷市東中沢二丁目一番。石碑の隣の解説板には「下総小金中野牧跡(捕込)」とある。

     江戸幕府が軍馬需要をまかなうため、直轄して設置した小金牧の一つの中野牧の遺構である。捕込は、野馬を追い込み、捕らえて選別する施設である。捕えられた野馬のうち、三歳馬は乗用に養成されたり、周辺の住民の労働力を荷うものとして払い下げられた。それ以外の馬は再び野に放されたが、この年に生まれた当歳馬については他の牧の馬と区別するための焼印が尻に押された。焼印は牧ごとに印が決まっており、中野牧は千鳥の印であった。なお、野馬の売払い金は少ないながらも幕府の安定した収入となった。年に一回行われた野馬捕りでここに野馬を追い込むのは、周囲の村々から集められた勢子の仕事であった。野馬捕りの様子は勇壮だったようで、江戸からも多くの見物客が訪れる重要な年中行事であった。中野牧の捕込は小金牧の中で、唯一現存しているもので、元は三つあった区画のうちの一区画がそのまま残っている。
     江戸幕府の軍事力を支えた軍馬生産を知る上で重要であることから、平成十九年二月六日に国史跡に指定された。

     外から見ると雑木林のようだったが、歩ける道が通っており、そこを行けば周囲を土手に囲まれた空間だったことが分る。一旦集めた馬を戻すための払込だ。最後の階段を上った反対側の出口は閉ざされていて、こちらの土手は竹林になっている。「すぐアパートと接してる。」二階の洗濯物が見えるので、余り注視していては拙いだろう。

     「捕込」、「溜込」、「払込」の各区画のうち、溜込の東側約半分と払込全体が残存している。この他、野馬捕りの際に、臨時の茶店が置かれた茶番所と考えられる場所や、水場として利用されたと推測される場所も史跡指定地内に含まれている。
     「込」を区画する土手の規模は、基底部幅八~九・五メートル、高さは二・五メートル~四メートルである。溜込と払込の間に約三メートルの比高差があるため、払込側から見ると、より土手の高さを実感する状況で ある。溜込の土手は西側約三分の一が削平されて消滅しており、形態も一部変わっている。
     捕込と溜込を仕切る土手の「口」(開口部)を挟む東西の土手上は、他の土手上より広い平坦部となっている「御照覧場」と呼ばれる地点であり、幕府の役人等が捕馬を検分するための視察席の小屋が設けられていた場所と推定され、牧士を務めた三橋家の古文書に残されていた見取り図の「御小屋場」、「 元御小屋場」に相当することが確認された。(鎌ヶ谷市教育委員会「国史跡下総小金中野牧跡保存整備基本設計(案)」)

     戻って、国道から少し回り込んで反対側からも見ることができる。マンションの敷地に入りこむと、さっきの出口に着いた。周囲が住宅地になっても、これだけでも保存しているのだから鎌ヶ谷市はエライ。
     ちょっと歩くと、いきなり新京成線の北初富駅に着いた。まだ二時十二分だ。マリーの万歩計を採用して一万七千歩。十キロ弱という所か。なんだか疲れたのは暑さのせいだろう。Tシャツが汗でびっしょり濡れている。「どこにしましょうか?新八柱で武蔵野線に乗り換えますか?」しかしヨッシーは松戸が便利だ。「それなら松戸にしましょう。」
     新京成でこの辺を乗るのは初めてだ。新京成線の元は旧日本陸軍鉄道連隊が演習用に敷設した軌道敷(鉄道連隊演習線松戸線)である。鉄道連隊は千葉市にあった。新京成沿線に限っても、習志野に騎兵第一旅団、第二旅団司令部があり、柏、藤ヶ谷に陸軍飛行場があった。市川には野砲兵の各連隊も配置されるなど、千葉県は重要な軍事拠点であった。
     くぬぎ山、元山、五香、常盤平、新八柱。ハイジはここで降りて行った。みのり台、松戸新田、上本郷、松戸。十四時四十二分。
     東口に出ると松戸駅前は大都会だった。最初に見つけた庄屋は、ビールがファーブルに合わない。「あそこは?」旬鮮酒場「天狗」もやっている。「ここのビールは?」「天狗オリジナルのビアブラウンがありますよ。」そう言えば姫はこのビールが好きだった。

     天狗では『さらに旨いビールが飲みたい!なら作るしかない!』ということで、自分達のこだわりのオリジナル生ビール【ビアブラウン】を造り出しました。
     オリジナルレシピを作るのに何度も何度も検証を重ね、やっと出来上がったものをサッポロビール様に製造を委託した、天狗だけのプライベートブランドビールです。

     学生の頃に良く行った池袋西口店(まだ旬鮮酒場なんて名は使っていなかった)はカウンター席しかなく、いつも満席状態だったが、新政を飲ませた。ビアブラウンはちょっとハーフ・アンド・ハーフに似た味だ。ファーブルは旨いとお代わりをしている。生ハムを載せたサラダが旨い。茄子の煮びたしも旨い。たださっき昼飯を食べたばかりだから余り食欲がない。「私はおなかが空いてます。」姫は仕方がない。
     ビールのあと、私は八海山の二合徳利にした。「珍しいですね」とヨッシーに言われたが、今日は焼酎ボトルを空けられそうにない。ファーブルはビール二杯で終わり、私も八海山二合で終わった。千五百円。
     まだ五時前だがこれで解散する。珍しいことである。皆疲れているのだ。ヨッシーは常磐線で日暮里方面に向かい、残りは武蔵野線のために新八柱まで戻る。
     家に着いたのは七時過ぎで、早過ぎると妻に叱られた。今日は晩飯は要らないと言って出たのである。風呂に入るとやや復活し、チーズと、昨夜の残りの厚揚げをつまみにブラックニッカをストレートで三杯飲んだ。


    蜻蛉