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    第八十四回 「江戸東京の明治維新」をある側面から考える
    品川・八広・浅草   令和元年九月十二日(木)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2019.09.20

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     今回のタイトルはスナフキンがつけたのだが、カギカッコ内は横山百合子の岩波新書(私は読んでいない)の題名から採ったものらしい。しかしこれだけでは何を言っているのかさっぱり分からない。目的は、食肉や皮革産業の「歴史と現状」から差別を考えようというのである。電車での移動が二回あって、実際に歩くのは五キロ程度だと言うのが彼の見込みだ。
     相変わらず事前案内は詳しすぎる程だ。本文三枚のほか、参考文献リストが一枚、主な引用文が二枚、弾左衛門に関わる地図(塩見鮮一郎『弾左衛門とその時代』から)が七枚もある。参考文献に挙げられた三十八冊のうち、私が読んだのは八冊しかないのが、悔しい。
     八月は猛暑のために街道歩きも近郊散歩も休みだったから久しぶりだ。それにしてもこの夏は暑かった。九日から十七日まで長い夏休みを取ったのに、墓参りをしただけで他の日は家を出る気力がなかった。この間に読んだのは保阪正康『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』、喜田貞吉『賤民とは何か』、斉藤貴男『カルト資本主義』、半藤一利『戦う石橋湛山』。それに兵頭裕己『〈声〉の国民国家』、赤松啓介『差別の民俗学』等手持ちの差別関連の本を読み直した。
     喜田のものは現在では古いが先駆的な研究を振り返るためで、兵頭のものは明治の乞胸(ゴウムネ=大道芸)を再確認するためである。
     今年も九州には台風が大規模な水害を齎した。そして「経験のない勢力」の台風十五号は、九月九日未明に千葉県に上陸し、九日朝の交通網は大幅に乱れた。その中で東武東上線は六時半頃には運行を再開したので、私自身の通勤にはほとんど影響がなかったが、図書館スタッフの大半が昼過ぎの出勤になった。そして千葉県は被害が甚大で、今日現在でも停電と断水が続いている。この暑さの中で水も飲めずエアコンも使えないのだ。九州の水害もそうだが、毎年、災害の規模は確実に大きくなっている。
     台風一過の月曜と火曜は三十五度を超える暑さがぶり返したが、今日はそれほどにはならないらしい。

     旧暦八月十四日。白露の次候「鶺鴒鳴」。品川駅中央改札の時計塔にはもうかなりの人数が集まっている。見知らぬ人がスナフキンと親しげに話しているので訊いてみると、ファーブルの元の同僚(先輩)のモトさんだった。北海道在住だがたまたま上京中で参加してくれた。専門は肉の蛋白質で、食肉加工もするらしい。マリオと同年だと分かった。
     「今日は有給休暇ですか?」とロダンに訊かれる。「日曜の振り替え。先週は日曜から土曜まで七連勤だった。」「日曜も仕事?」「オープンキャンパスやら父母懇談会やらね。」
     「お茶の水博士も来るはずなんだ。」しかし定刻まで五分になってもまだ姿を見せない。スナフキンが電話をしたとたん、改札から現れた。この会には十年ほど前に数回参加したことがあるから、古い人は覚えている。スナフキンは「先輩」と紹介したが、私にとっては十歳上の元上司だ。学生時代には解放運動やセツルメントに関わっていたと言う。
     十時になって出発しようかというとき、桃太郎から電話が入った。「誰もいないんです。」「今どこにいる?」「北口改札。」港南口に向かうように言って出発する。十メートルも行かないうちに、その北口があった。ちょっと眺めれば中央改札はすぐに分かっただろうに。
     これで揃った。リーダーのスナフキン、女性はハイジとマリー。男性は年齢順にヨッシー、ダンディ、お茶の水博士、モトさん、マリオ、蜻蛉、ファーブル、ロダン、桃太郎。十二人だ。あんみつ姫は体調が思わしくないそうだ。夏バテかな。
     「昔は地下通路だったんだよ。」マリオはこの辺には詳しいだろう。スナフキンも「以前は暗くて長いトンネルを抜けた先が港南口で」と言う。駅舎が橋上化したのは平成十年(一九九八)のことである。私は乗り換えのほかに降りたことが殆どないので全く詳しくない。
     品川駅のこんなに近くに、東京都中央卸売市場食肉市場があるのだ。港区港南二丁目七番一九号。品川インターシティの東から旧海岸通りまで相当な広さだ。目的はセンタービルの六階にある「お肉の情報館」である。

     東京都に十一か所ある中央卸売市場の中で、唯一、お肉を取り扱う市場です。取扱高は、食肉市場として全国一の規模です。
     主に牛と豚の枝肉や内臓等を生産する「と場」と、これらの製品を取引する「市場」の二つの部門から成り立っています。
     東京の南の玄関口である品川駅の港南口に近接し、東京都民をはじめとする多くの消費者に、安全で安心な食肉を安定的に供給しています。
     東京のと場の歴史は、慶応三年(一八六七年)に中川屋嘉兵衛が現在の白金に、当時高輪にあった英国公使館に肉を納めるため、と場を造ったのが始まりとされています。その後、明治二年に築地に公営のと場が開かれ、都内各地に私営のと場も開設されました。
     これらのと場は、衛生的にも不備な点が多く、流通過程が不明朗で価格も不安定であったことから、昭和十一年十二月、東京市は現在地に、市営のと場と家畜市場を開設しました。これに合わせ、民営のと場は廃止されることになりました。
     戦後、食生活の洋風化が進むにつれ、肉類の消費が増大しました。しかし、枝肉の取引では、いわゆる「そでの下取引」が行われ、公正さに問題があるとの指摘が各方面からなされました。
     昭和四十一年一二月、中央卸売市場法に基づく「食肉市場」を開設し、せりによる公正・明朗な取引が行われるようになり、現在に至っています。
     http://www.shijou.metro.tokyo.jp/info/02/

     「と場」とは屠場、屠畜場である。ひらがなで書かれると意味が分からないが、この「屠」の文字はIMEで変換されないから差別語と見做されているらしい。「白金にあったなんて、今じゃ考えられないわね。」
     案内されたのは三十人程が入れる研修室で、机の上には二十枚ほどの資料が置かれている。説明してくれるのは七十代後半と思わる男性で、後輩が酪農学園大学の先生になったという。「お名前は?」名前を聞くとファーブルもモトさんも知っていた。まずここでビデオを見る。「三十分程です。」
     と場の業務・役割の紹介、肉の生産・流通の紹介、食肉市場・と場に対する偏見や差別の解消を目的とした子供向けの動画だが、解体の流れは生々しい。関東一円からここに集められた牛豚は、一日に牛六百頭、豚九百頭が屠殺される。牛は電気ショックで、豚は二酸化炭素で気絶させてから解体する。頭を切り落として血を流す。脳の一部を取り出してBSE(牛海綿状脳症)の検査に回す。足首を切断する。腹を切り開き、肛門を切って内臓を引き出す。皮を剥ぐ。電動のこぎりで背骨を中心真二つにする(これが枝肉というものらしい)。かなりの体力が必要だ。枝肉を鑑定して等級を付けると翌日のセリに出される。
     流された血や脂は濾過してきれいな水だけを排水する。牛馬を運んできたトラックも徹底的に洗浄する。衛生管理も行き届いていることがわかる仕掛けだ。
     ただし差別の解消を目的とするなら、歴史的な背景をもっと説明する必要があるだろう。今は衛生的です、臭いもしませんと言うだけでは、それなら昔は差別があっても仕方なかったと思う人間が出て来るかも知れない。
     動画が終わって、桃太郎が「鶏はどこでやるんですか」と質問するが、うまい答えが返ってこない。「法律が違うので」では答にならない。長く人事畑にいたそうだから実務は殆ど知らないのだろう。「鶏は養鶏場とか民間でもできるんだ」とファーブルが教えてくれる。
     牛や豚の屠殺は屠畜場法で定められている。鶏の場合は「食鳥処理の事業の規制及び食鳥検査に関する法」があって、一定規模以上の処理場には食鳥処理衛生管理者がいなければならない。そしてその資格は三日間の取得講習会で取得することができるが、獣医師、獣医学又は畜産学を収めた者、養成施設で課程を修了した者等の条件がある。
     展示室の床には牛の毛皮が敷かれ、その上には大きな枝肉の模型が吊るされている。レバーやタン、ハツなども、実物と同じ大きさ、重さの模型がおかれている。牛の肝臓はこんなに大きいのか。「昔は牛の解体も自分でやりましたよ。」酪農学園の先生はそんなことまでやったのか。「大きな鍋がいつも湧いていて、その中にモツをぶち込んで。」
     「沖縄だと豚の皮は剥がない。」モトさんに言われてみれば、確かにそうだった気がする。豚足もラフティーも皮が付いている。皮にはコラーゲン、ゼラチン他栄養が詰まっているのだから、沖縄の長寿の秘密はこれかも知れない。「だけど本州は剥ぐ。」不思議なことだ。
     それにしても、ここで働く職員に対する誹謗、差別の手紙を実際に見せられると改めてがっかりしてしまう。曰く「残酷なブタ殺し」「非人連中」「人間のやる仕事じゃない」「お前らに人権なんて高貴なものはない」等々。こうした連中は何が望みなのだろう。
     差別感情の根は深い。いわゆる「被差別部落」への差別が完全になくなったわけではないが、また一方で、ネット上に差別感情剥き出しの言動が拡散している。新たな差別が生み出されているのである。
     『和名類聚抄』は「屠児」はエトリ(餌取)だと言い、「牛馬を屠り肉を取り鷹雞の餌とするの義なり」と説明する。これに対する差別はケガレの思想によると言うが、しかし神武天皇の祖父に当たる山幸彦(ヒコホホデミ)は山野で猟をするものであった。当然獣を屠殺し肉食することは日常茶飯である。これに対して記紀ではケガレなどとは一切言っていない。
     しかしやがて仏教思想の流入に伴って、殺生禁断思想と死穢観が結びついていく。但し江戸時代でも武士や庶民が肉食をしていたのは常識である。彦根藩は牛の味噌漬けを献上していたし、徳川慶喜は「豚一」と呼ばれるほどの豚肉好きだった。江戸の庶民もまた「ももんじ屋」で獣肉を買った。そもそも農村では猪や鹿などの害獣を駆除しなければならず、肉食は稀なことではなかった。

     ・・・・十二世紀初頭に大江匡房の談話を筆録した『江談抄』は、鹿肉をたべたものはその日は内裏に参ってはならないという慣例について、次のような記述がある。(中略)
     ・・・・正月三カ日のあいだ歯固めの餅にいまは雉肉をそえるけれども、昔は鹿や猪の肉を用いた。正月三カ日は臣下も獣肉を食べても良いのだろうか。また、天皇は召し上がってもさしつかえないのだろうか。昔は鹿を食べてもべつに忌むことはなかった。天皇も日常の食膳に鹿肉を食べ、多くの人も宴会に用いたとあり、このあとで年中行事の障子にある制禁は、いつ頃のものだだろうかと言っている。こうした変動は、平安時代を通じて進行した農耕社会の充実と拡大によっている。その結果、当初は平安京という都市に住む貴族にかぎられていたが、野獣の肉を避けて魚貝や野鳥を主要な動物性蛋白源とする食生活への移行が始まった。(高取正男『神道の成立』)

     また桓武天皇が庭で鷹狩り用の鷹に自ら餌をやっていたことも高取は記している。餌は犬や鳥の生肉である。つまり獣肉食への禁忌はそれ程古代に遡る訳ではない。高取は、平安時代を通じて獣肉食への禁忌は流動的だったとする。赤坂憲雄は高取の論考を受けて次のように言う。

     触穢思想の政治イデオロギー的な特質として第一にいえることは、〝朝廷のまつりごとの中枢に死穢が及ばないための配慮〟(高取)が何よりも優先されたという事実である。天皇とその政治こそが、最も厳しく穢れを避け清浄をたもつことをもとめられたのである。(中略)
     平安京から閉めだされた死穢は、京城の外縁にあって東西を迂回する鴨川と桂川の河原に集中させられる。(中略)
     やがて十世紀の初めにいたれば、この河原の地に、中世的被差別民の原型ともいうべき「濫僧」「屠者」が姿をあらわしてくる。〝国家のキヨメの構造〟は、一般民衆を侵しつつ、いよいよ現実的基盤をはなれて錯綜した穢れの観念体系へとふくらんでゆく。(中略)
     国家的管理の対象となった穢れとキヨメ、それを統括したのは検非違使である。検非違使のもとで、実際に掃除や汚穢物の除去にしたがったのが、獄囚、放免、乞食、清目、河原法師らである。かれらがやがて、非人=キヨメとしての身分的配置を鮮明にしてゆくわけだ。(赤坂憲雄『異人論序説』)

     差別は中世に始まると考えて良いだろう。喜田貞吉は差別された人たちの起源を〇非人と乞食、〇河原者、坂の者、散所の者、〇祇園の犬神人、〇長吏法師と宿の者、〇いわゆるエタ(餌取、穢多)、〇御坊と土師部、〇放免、〇鉢屋と茶筅、〇声聞師と下司法師などに分類している。

     ・・・・エタという名称はもとその含む範囲が甚だ広く、殊に鎌倉時代には、殺生肉食の常習者として漁師の徒までもその仲間に看做し、漁家の出たる日蓮聖人が、自ら旃陀羅の子である、畜生の身であると言われた程であった。(中略)
     ・・・・もとはエタと百姓とが通婚するとか、エタが百姓や武家に奉公するとかいうことは、甚だしく問題にもならなかったようであるが、それは厳重に禁ぜられることとなった。取り締まりは年とともに次第に厳重になった。ことに安永七年に至って、非常に厳重なる取締法が発布せられて、エタ、非人と百姓、町人との間に、判然たる区別を立てた。エタ、非人は、一見して百姓、町人との差別が出来るようにと、その風俗に制限を加えた。(喜田貞吉『賤民論』)

     また様々な議論はあるが網野善彦は一貫して、非人の源流を「職人」として捉えている。稲作と定住を主としたこの国で、村落だけでは生活が成り立たず、諸国を流離って芸(職能)を売る。諸国往反の自由を得るためには皇族、権門、寺社に結びつく必要があり、同時に租税負担の免除も得た。

     ・・・・非人もまたこの時期には聖なる存在として畏れられた一面が確実にあったのである。それは基本的には天皇、神仏に直属する供御人、神人、寄人と同質の存在であった。この点に着目して非人も「職人」身分と、以前規定したのであるが、さらにそれに付言すれば、中世前期の「職人」身分は、このように天皇、神仏など「聖」なるものに直属することによって、自らも平民と異なる「聖」なる存在としてその職能―「芸能」を営んだ点に、その重要な特質があるといえよう。
     しかし南北朝の動乱を境に、天皇、神、仏の権威が低落し、権威の構造、その在り方自体が大きく転換した結果、中世後期以降の供御人、神人、寄人のあり方も大きな変動を蒙った。そしてその中の一部-実利の世界に転生することが難しく、「聖」なるものに依存する度合いの強かった人々が賤視の対象となっていくのである。(網野善彦『中世の非人と遊女』)

     エタ、非人はそれ程明確に区分できるものではなかったが、幕藩体制では屠畜、皮革業に携わる者を特に血で繋がった者としてエタと呼び、非人の上位に置いた。非人は常時、一般庶民から落ちてきて補充されるが、エタは固定されている。

     十一時五分頃に情報館を出る。駅に戻って京急のホームに入る。二本やり過ごして印旛日本医大行きに乗り込んだ。押上からは京成線に入り三十分程で京成曳舟駅に着く。スナフキンとファーブルが見込んでいた蕎麦屋「やぶ成」は満席で入れない。「前に来た時は空いてたんだけどね。」御母堂がこの近くの病院に入院していたので、ファーブルはこの店に来たことがあるのだ。
     「あそこにサイゼリアがあったね。」少し戻って店に入り、六人と六人が離れた席に着いた。「十二時半には出たいんで、簡単なものを注文してください。」既に十二時を回っているので、それは無理というものではなかろうか。
     私たちのテーブルでは、ランチメニュー(五百円)からヨッシーと私がハンバーグ、ほかの四人はスパゲティにした。「一番搾りだよ。」ファーブルに訊いてみたが「いらない」というので私だけが注文する。向こうのテーブルでは桃太郎だけがビールを飲んだようだ。
     しかしビールがなかなか出てこない。十分程経って、ランチスープがあることに気が付いた。スープを取りに行った途端にビールがきた。
     やっとスパゲティがきたがハンバーグはまだ来ない。向こうの席からスナフキンがやってきて、「まだなんだよ」と不安そうに言う。この後、一時に「産業・教育資料室きねがわ」で解説を予約しているのだ。ようやくハンバーグも来た。「ランチにはサラダが付くよね。」メニューには確かにそう書いてある。しかし催促してはまた時間が遅くなる恐れがある。サラダは結局出されないまま、全員が食べ終わったのはもう十二時五十分だ。「急いで食べたわよ。」スナフキンが「産業・教育資料室きねがわ」に電話をかけたが、繋がらない。「留守電になってる。」

     「ここから二十分程です。」本当は京成押上線の八広駅で降りた方が近いのだが、その辺には飯を食える店がないのだそうだ。「京橋交差点を左に曲がるんだ。」地図を見ながらスナフキンが言うが、こんなところに京橋があるのか。なんだか地理感覚がおかしくなってくる。
     明治通りを東南に行けば、次の交差点は京橋ではなく京島だった。八広中央通り。都立日本橋高校がある。墨田区八広一丁目二十八番二十一号。「こんなところで日本橋?」「移転したのかな?」「前からあるよ。」しかし調べてみれば、やはり元は日本橋箱崎町にあったのである。平成二十一年(二〇〇九)に移転してきた。
     後で地図を確認すると日本橋高校の隣は寺島中学で、その北側は東向島、つまり玉ノ井のあった場所である。滝田ゆう『寺島町奇譚』の世界だ。「風が出てくると少し涼しいね。」
     三輪里稲荷、こんにゃく稲荷。「どこかでこんにゃく閻魔を見たよ。」「小石川の源覚寺だよ。」そこから何度か路地を回り込む。地図がないからどこを歩いているかさっぱり見当がつかない。「そこだ。」
     特別養護老人ホーム木下川(きねがわ)吾亦紅。平成二十九年に、廃校になった木下川小学校の跡にオープンしている。路地を挟んで向かいが東墨田会館だ。墨田区東墨田二丁目十二番九号。二階が「産業・教育資料室きねがわ」になっている。
     スライドを見ながら説明してくれるのは岩田明夫室長だ。昨年末から今年初めにかけて、国分寺市の公民館で開かれた「お肉と革のできるまで」講座(連続五回)の講師を務め、そこでスナフキンが感銘を受けたのだ。「午前中は新潟から修学旅行の中学生が来てました。」
     「関西では早くから人権教育をやってましたが、東京ではここが初めてです。まず知ってもらわなくちゃいけない。」「そう、いろいろ言う奴は知らないんだよ。」平成十六年(二〇〇四)十一月に元木下川小学校内に開設したが、老人ホームへの売却に伴って、平成二十六年八月、ここに移転してきた。「本当は二時間くらいやるんですが、この後の予定もあると言うことで短めにします。」
     木下川は荒川、中川、中居堀(現在は暗渠)に囲まれた三角地である。元、皮革業は浅草亀岡町(現今戸=弾左衛門支配地)に発祥したが、明治政府によって鞣し業者をここに強制的に移転させたのである。皮革業者だけでなく、油脂業、膠製造業など関連業者も集積した。木下川の豚皮(ピッグ・スキン)製品は品質が高く、ヨーロッパの有名ブランドにも使われる。「一年間に豚一万六千頭、そのうち一万三千頭が原皮で輸出されます。」つまり国内生産される豚鞣し革は三千頭分。そのうちの八割がこの地区で生産されると言う。元小学校教師だったというだけに、話が上手い。輸出先の多くが東南アジアなのは人件費の問題である。
     食肉市場センターから塩漬けされた原皮(毛の付いたもの)が木下川に運ばれ、油や血を抜き、製品に仕立てる。油やゼラチンは石鹸、化粧品、食品になる。「花王もライオンもここから生まれたんですよ。」毛はブラシになるし、殆ど捨てる所がない。
     鞣し終わったものは、ここで「革」になる。皮と革の違いを初めて学んだ。室長が左右に規則的に穴が開いた革を持ち出してくる。この穴は豚の乳首の部分だった。「首と尻尾で厚さがちがいます。厚くて固いのはどっちだと思いますか?」ダンディは尻だと言い、私は首ではないかと言った。自分の尻を触っても柔らかいからだが、正解は尻である。「国分寺の講座じゃ全員正解だったのにね。」
     「インターナショナルで見れば、皮を剥ぐのは日本特有ですね。」午前中にモトさんが言っていたことだ。素人考えだが、元々日本では皮を加工するのが本来の目的で、肉を食うのは副産物だったのかも知れない。「鎧だってそうですよね」と岩田先生も言う。
     昭和初期には人口も増え、昭和十二年(一九三七)、東京市向島木下川尋常小学校が開校した。その当時の写真を見ると生徒数もかなり多い。しかし廃校時には二十人程度まで縮小した。そして皮革にかかわる人は露骨な差別を受けた。

     この地は中世には「木毛河(きげがわ)」と呼ばれ、江戸時代に入ると「木下川(きねがわ)」と呼ばれるようになった。江戸時代には「葛飾野」とも呼ばれ、将軍の狩場であった。(略)
     一八〇〇年に賤民頭の浅草弾左衛門について記した「弾左衛門書上」によると、江戸時代には斃死した牛馬の解体や刑吏、勧進等の芸能などの職に携わる者が暮らしていた。徳川後期の記録には「木下川の非人頭久兵衛、手下七人」とある。(ウィキペディア「東墨田」より)

     「半藤一利の御両親がここで石灰屋をやっていました。」鞣しの工程には石灰が必要なのである。「木下川からの移転を迫られたとき、そのご両親が中心になって反対運動をして、移転が取りやめになったんです。」ここで半藤の名前が出るとは思わなかった。

     一八九二年、「魚獣化製場取締規則」による強制移転で、木下川と三河島に皮革業者が集められた。一九二五年、関東大震災後の都市再整備のため木下川と三河島の皮革業者を砂町・葛西村・小松川町に移転する計画が立てられたが、木下川の皮革業者は「東京製革業組合」を結成し、陳情により移転計画は撤回された。東京製革業組合は一九三六年、「江東皮革工業組合」に改められた。一九四二年、企業整備令に基づき、木下川に九十一軒あった皮革工場の約半数が転廃業し、残った組合員は共同出資で「江東製革株式会社」を設立した。江東製革は陸軍・海軍向けの革靴や空軍向け防寒具などを製造したが、一九四五年三月の東京大空襲で焼失した。戦後の高度経済成長期には、合成皮革と競争しつつ、紳士・婦人靴や衣料品、レジャー用品などに向けた豚革の生産を行っている。(ウィキペディア「東墨田」より)

     浅草の地図も見せてくれる。これはスナフキンが案内に添付してくれたものと同じだが、予習をしてこなかったので新鮮だった。浅草寺の裏手は製靴業者が集中している。弾左衛門が撒いた種が残っているのだろう。江戸時代の地図には「穢多村」、「非人」、「溜」(伝馬町牢屋敷で重病になった者、十五歳未満の重罪犯罪者等の留置場)、「仕置場」(小塚っ原)等の文字が見える。「穢多村の周辺はお寺が密集してますね。」その地域は山谷堀の北、吉野通りの東に当たるようだ。弾左衛門の居宅は現在の浅草高校のグランド付近と想定されている。
     江戸の非人頭である車善七の名も見える。フーテンの寅の苗字が車であるのは偶然ではないだろう。山田洋次は当然、車善七を連想していた筈だ。  日本の製靴業は、明治三年に佐倉藩士の西村勝三が築地に開いた伊勢勝造靴場(桜組)と、明治四年に弾直樹(十三代弾左衛門)が滝野川(後浅草)に開いた皮革・靴伝習所(東京製靴)を始まりとする。西村勝三の名前には記憶があるが、何者だったか覚えていない。

     「これから浅草に行くんでしょう?」我々の予定も全て把握している。二時半、岩田室長にお礼を言って資料室を出る。老人ホームの隅に二宮金次郎の像が立っていた。「小学校だったからね。」路地を歩くと今でもかなりの数の工場がある。「町工場の町だね。」「あそこの二階に何か干してある。」「革じゃないか。」所々に廃業した跡もあって何だか荒涼としているが、やはり皮革や油脂関連の工場が目立つ。フォークリフトが何台も動き回っている。
     「この辺の労働者が遊郭に通ったのね?」「吉原?」「もっと格の低い。」「玉ノ井か。」「そうそう。」ハイジとおかしなやり取りをしてしまった。変な連想だが、ちあきなおみの名曲『あんた』の主人公は、北千住か玉ノ井の女郎だろう。
     「前に見えるのは荒川土手?」「そうだよ。」土手沿いの道に入ると、「悼」と大きく刻んだ自然石の慰霊碑が建っていた。「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」である。墨田区八広六番三十一号八番。花が供えられていて全員が手を合わせる。
     この時に虐殺された朝鮮人の総数は今でも分っていない。「吉村昭で読みましたよ。」ロダンが言うのは吉村昭『関東大震災』である。吉村昭によれば、政府は殺害された朝鮮人を二百三十一名と発表したが、吉野作造は在日朝鮮同胞慰問会の調査による二千六百十三名と結論付けた。しかし吉野の論文は内務省によって発表を禁ぜられた。隠したいのである。そして在日朝鮮同胞慰問会は更に調査を続け、犠牲者は六千人以上とした。
     最初横浜方面で発生した朝鮮人が暴動するという流言がやがて東京に押し寄せた。根も葉もない噂が急速に広まり、新聞も流言に基づく朝鮮人憎悪を拡散した。各地で自警団が結成され、多くはこれによって殺害された。朝鮮人と間違われて殺された日本人もいる。官憲だけでなく、民間人が虐殺に加担したのである。
     前年には三・一運動が起きており、日本人の朝鮮人に対する隠された罪悪感が恐怖心に転じ、それが憎悪に拡大したと言えるのではないか。流言飛語に惑わされないためには、正しい知識を蓄え論理を鍛えなければならない。それを教養と言い、知性と言うだろう。無知は恥である以上に罪である。

     ここ(四ツ木橋付近)で事件-自警団・軍隊による韓国・朝鮮人虐殺-は起きたのです。この地域が韓国・朝鮮人の多住地域のひとつであったことも関係していました(荒川放水路工事にも多くの韓国・朝鮮人が従事していました)。
     体験者・目撃者証言では、自警団による虐殺、そして軍隊の槻関銃による虐殺が生々しく語られています。でも仮名にせざるをえない証言者が多い状況が今日なおあることも事実です。墨田区の編纂した『関東大震災体験記録集』にもいくつかの証言が掲載されています。その一部も紹介します。
     関連新聞資料で「亀戸事件(軍による警察署での日本人労働運動家・自警団員虐殺)」の遺骨引き取りにともない、荒川放水路旧四ツ木橋下手の百名以上の朝鮮人遺骨の存在が確認できました。今日、この地域で虐殺の記録をたどることができるひとつの重要な資料群です。逆にいえば、亀戸事件がなかったならば、虐殺された韓国・朝鮮人の遺骨の存在が新聞紙上に載ることはなかったでしょう。(社団法人ほうせんか)
     https://housenka.jimdo.com/

     本所横網町公園にも「朝鮮人事件の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」が建ち、毎年九月一日に追悼式が開かれる。小池百合子は今年も追悼文の送付を拒否した。ネット上でも櫻井よしこに先導されて、朝鮮人大虐殺はなかったとする記事が氾濫している。あったことをなかったことにする歴史修正主義は一九九〇年代から目につくようになり、とりわけ安倍政権の時代に急速に広まって来た。

     保守論壇には、伊藤隆、秦郁彦、東中野修道などの歴史学者もまれに登場するが、歴史問題の主要な論客は非専門家の櫻井(よしこ)、八木(秀次)、渡部(昇一)、西尾(幹二)である。なぜ保守論壇は、いわゆる歴史学者を呼ばないのか。おそらく、イデオロギーを前景化させるためだろう。すなわち、近年の「知の秩序」の傾向について、「玄人」から「素人」へ、「ポピュラリティ」へと移行しているという指摘があるように、政治でも、政治家・官僚などによる密室政治から、メディアなどに開かれた形式に移行しつつあった。例えば一九八五年放送開始の『ニュースステーション』(テレビ朝日系)が単なるニュース番組と一線を画し、高視聴率を獲得する報道番組としての地位を確立していく時期、大衆を説得できる「知識人」が旧来の「知性」に対する「カウンター」として要請され始めた時期、そして保守論壇が隆盛する時期とが重なり合っていることが興味深い。(倉橋耕平「歴史修正主義とサブカルチャー」)

     「あら大勢で。」隣の民家からおばさんが出て来た。「お入りなさい。」「時間がないので、スミマセン。」「社団法人ほうせんか」の人である。「以前、説明してもらいましたから」とスナフキンが丁重に断る。
     そして京成押上線の八広駅に着いた。「以前は荒川駅でしたね。」ヨッシーは良く知っている。大正十二年(一九二三)に荒川駅として開業し、平成六年(一九九四)八広駅に改名している。「荒川っていうのがイメージが悪かったんですかね。」そういうものか。八広の地名は新しい。

     一帯は元々「吾嬬町」(あずままち/あずまちょう)といい、一九六五年十二月一日の住居表示実施に伴い、寺島町六・八丁目、隅田町四丁目・吾嬬町西五 - 九丁目の八地区が合併して成立したため、「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名された。(ウィキペディア「八広」より)

     十分程で浅草駅に着いた。「向こうの方なんだよな。」ここは国際通りだから吾妻橋まで歩き、駒形堂、神谷バーを眺めながら松屋から江戸通りを北に向かう。この辺は花川戸だ。やはり靴屋が多い。言問橋西からは吉野通りに入る。
     「そこの宮本卯之助商店は神輿や太鼓の店だよ」とお茶の水博士が教えてくれる。太鼓も革を張るものだ。看板に文久元年創業とある。「文久は十七世紀、十八世紀?」「十九世紀。」実は年号に弱いのだが、確認してみると文久元年はもう幕末に近い一八六一年だ。嘘は言っていなかった。
     待乳山聖天には寄らないが、池波正太郎生誕の地碑だけ見る。「ここで蜻蛉が迷子になったんだよね。」桃太郎に言われて思い出した。トイレに入っている隙に置いて行かれたのである。「あの頃は人数も多かったしね。」結局、今戸神社で追いついたから良かったけれど。
     山谷堀は全て埋め立てられていて、チョキ船を模したものが置かれている。そこにアベックが座っていた。「あれで吉原に通ったんだよ。」猪牙舟と書き、先端がイノシシの牙のように尖っているからだと言う説があるが、『守貞謾稿』には次のように書かれている。

     明暦中、浅草見附の船宿玉屋勘五兵衛と笹屋利兵衛と云ふ二人、始めてこれを造る。山谷通ひの遊客を乗すると云ふ。あるいは長吉と云ふ者、鮮魚を諸浦より江戸に漕す押送り船を模して薬研形の小舟を作り、長吉舟と号く。音近きをもつて猪牙の字を附すとも云ふ。もつとも形猪の牙に相似たり。ただ早走を要とす(文化中、七百余艘あり)。猪牙船の賃、柳橋より山谷掘に至る、大略三十町なり。一艘片路百四十八文。

     山谷堀を渡れば浅草新町(かつての穢多村に相当するか)で、スナフキンは本龍寺に入っていく。台東区今戸一丁目六番十八号。元和二年(一六一六)創建。臨川山、真宗大谷派。「大谷派はお東さんかな?」その通り、東本願寺である。「弾左衛門の墓があるんだ。」被差別民と一向宗は関りが深い。

     鎌倉時代の奥山庄・荒川保で、非人と呼ばれたものは、実は「金掘り」を中心とする山の民であり、過重な労働や猪・熊・蛇その他の動物を蛋白供給源とする食習慣などから、卑賤視されていたものである。こうした山間の賤民は日本列島に広汎に分布していたと考えられるが、同時に水路によって、金屋・鍛冶に、そして里人から海辺の海人に結びついていた。しかしかれらは、卑賤視さているために、仏菩薩の救いに恵まれることなく、太子信仰が心の支えであり、南都北嶺の高僧たちの眼中に置かれることもなかった。
     親鸞が布教を開始し、また本願寺が浄土宗や真宗諸派に対抗して、本山としての性格を示しはじめたとき、まずその傘下に結集されたものは、これら太子の徒であった。彼らは本願寺によって、太子信仰より阿弥陀信仰に引き上げられ、その流動性と交易の機会と剽悍さによって、彼等自身が帰農したり、また田部(辺)などの里の賤民の開放への欲求とも関連して、真宗を里人の間に弘めることができた。(井上鋭夫『山の民・川の民』

     井上鋭夫は一向一揆、本願寺の研究で名高い。我が師の藤木久志が師事し、そのもとでフィールドワークを徹底的に訓練された人である。
     墓地の奥に行けば小さな「矢野氏墓」が二基、ひっそりと建っていて解説も何もない。墓碑には十五代目の子孫まで全員が矢野姓で記されているらしいが読めない。矢野氏は弾左衛門の苗字である。「あれだけの権勢を誇った弾左衛門が、これだけなんだ。」「弾左衛門って誰?」「ちゃんと資料も送ってるんだし、読んできて欲しいよ。」木下川の資料室でも説明に出て来たからね。
     「エタ、非人、乞胸、河原者の総元締めだよ」と私は言ってみる。「それじゃヤクザか?」マリオの感覚はどうなっているのだろう。「ヤクザとは違う。」「テキヤは?」「それも違う。」ヤクザは商品流通の発達によって町人層に余裕が生まれた頃、その金を掠め取ることを生業とした。要するに博打うちである。国定忠次、大前田英五郎など幕末の有名なヤクザが上州に多いのは、絹糸の流通による金があったからだ。テキヤ(香具師)は寺社の縁日が盛んになってから、流れの露天商人の組合として発生したと思われる。フーテンの寅はこれに所属する。
     「乞胸(ごうむね)って知りませんでした。」私だって昔から知っていた訳ではない。桃中軒雲右衛門を追った兵頭裕己の本で知ったのである。

     乞胸は、無為徒食を禁じられた浪人が、浄瑠璃をかたり、また本読み講釈をしながら家々の門口で米銭を乞うたことにはじまる。『乞胸頭家伝』は、乞胸の語源を「先方の胸中の志を乞い候と申す意」とするが、同書によれば、乞胸頭の初代は、慶安年間(一六四八~五二)の長嶋磯右衛門という浪人だったという。(兵頭裕己『〈声〉の国民国家』)

     更に様々な大道芸人や無芸の乞食もこの支配下に入った。但しこれは非人との区別が曖昧で、双方の職分が侵されるケースが多発した。慶安四年(一六五一)、浅草の「長吏」弾左衛門が調停し、乞胸頭は非人頭車善七の支配を受けるようになる。「長吏」とはいわゆるエタである。因みに明治の浪花節はこの乞胸から発生してくる。

     浅草「長吏」弾左衛門が、享保一〇年(一七二五)に町奉行に提出した書上は、弾左衛門の配下として、「長吏」、「非人」、乞胸、猿飼、茶筅の五つの職種を上げ、・・・・(兵頭・同書)

     非人頭は車善七を筆頭に、品川の松右衛門、深川の善三郎、代々木の久兵衛と四人いた。善三郎は車善七の、久兵衛は松右衛門の支配下にある。
     芸人のなかでも歌舞伎役者はかなり早い時期にエタ頭の支配を脱した。正徳三年(一七一三)初演の『助六』は二代目團十郎が、弾左衛門支配から脱した喜びによって作ったと言う。それによれば、髭の意休は弾左衛門がモデルだ。
     元々弾左衛門が幕府からエタ・非人の支配を許されたのは、源頼朝の印可状という偽文書「弾左衛門由緒」を持っていたためである。既に中世から非人は集団化され、統制された組織を持っていた。弾左衛門は実質的なその支配権を幕府から認められたのである。ウィキペディア「弾左衛門」を引いておこう。

     弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領。穢多頭(えたがしら)。江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した。また、浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。

     皮革は重要な軍需物資だから、その製造集団が一つに統括されれば幕府にとっても都合が良い。そして販売を独占することによって、巨大な利権が生じた。明治維新時、三井と並ぶ財産を誇った弾左衛門家は、弾直樹が製靴業をはじめたことによって、その財産を費消して没落するのである。

     明治三年に弾直樹と改めた。この年陸海軍造兵司所属の皮革製造伝習授業御用製造所を設立して洋式皮革・軍靴の製造を始めた。しかし翌四年賤民の斃牛馬処理権が廃止され、穢多非人などの称廃止令も出されたため、賤民支配権のうえに成り立つ弾の事業は大打撃を受けた。五年に政商水町久兵衛と弾・水町組を設立し、兵部省から軍靴を十年間納入の註文を受けたが、技術と経営の未熟のため解約された。その後は三井組の手代北岡文兵衛と弾・北岡組をつくって製靴部門を担当した。弾の事業は成功しなかったが、失意の晩年に皮革製造所と製靴職人の増加は「我志の果して貫徹せるものなり」と喜んでいたという。<参考文献>高橋梵仙『部落解放と弾直樹の功業』(『朝日日本歴史人物事典』)

     今戸神社も鳥居のところで立ち止まるだけだ。招き猫発祥の地と説明されているので、豪徳寺も発祥の地をと称していることを注意する。
     東京都人権プラザの前には鉄網を張って入れないようにしてある。台東区橋場一丁目一番六号。「舛添がやめたんだ。」スナフキンはそう言うがホントだろうか。中の看板には、平成二十九年に港区芝に移転したと記されている。
     皮革産業資料館(産業研修センター内)に着いたのは四時だ。台東区橋場一丁目三十六番二号。スナフキンが受付で声をかけると、係員がカギを持って出てくる。「二階です。」エレベーターは全員が乗れるほど広くないので、半数は階段を使う。

     台東区には、「かわ」を扱うところや「かわ」製品をつくる会社や、販売する会社が日本で一番多く集まっています。
     そこで、皮革産業にかかわる企業が主体となって、資料館を作りました。この館では、江戸時代から今までの貴重な革製品を集めて展示し、皮革文化の向上に役立てることを目的とした、日本でただ一つの「かわ」に関する資料館です。
     https://www.taito-sangyo.jp/05-kensyu/center_museum.html

     ここに、佐倉の西村勝三の像の写真があった。「品川で見た様な。もしかしたら佐倉で見たかも知れない。」しかし記録をひっくり返すとやはり品川、東海寺の大山墓地で墓を見ていた。西村は佐倉藩士で、品川白煉瓦の創業者でもあったのだ。
     「この靴、でかいね。」小錦八十吉のものだ。三十六センチ。濃淡をつけたコルクの栓で弾左衛門を描いた肖像もある。「このボールは?」ソフトボールより大きいから実際に使うものではない。サイン用か。王貞治のファーストミットとスパイクシューズも展示されている。

     熱田神社。台東区今戸二丁目十三番六号。祭神はヤマトタケルとオトタチバナ。スナフキンによれば、この近くに白山(しらやま)神社があったが、熱田神社に合祀されてしまったと言う。被差別部落には必ずと言って良いほど、白山神社が祀られている。そして「はくさん」ではなく「しらやま」と呼んだ。ただこの実態は良く分らない。
     この神社は大太刀「陰陽丸」長さ三百六十八・五センチを所蔵していると言う。「長すぎませんか?普通の刀は?」「二尺三寸くらいかな。」「佐々木小次郎も背負えない。」竹刀が三尺八寸、競技用の薙刀が七尺と決まっている。三百六十八センチとは十二尺、つまり二間である。実用ではなく、魔除けとして奉納するために造られたものだ。
     都立浅草高校のグランド前には大きな石碑が建っていた。「都立台東商業学校・東京市立山谷堀尋常小学校・国民学校跡」。ここが弾左衛門屋敷であった。台東区今戸一丁目八番十三号。

     屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、三百から四百人の役人家族が暮らす住宅もあった。弾左衛門は支配地内の配下は勿論のこと、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。関東大震災と東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。部落の神社も近くの神社に合祀され、その痕跡もない。(ウィキペディア「弾左衛門」より)

     吉野通りで、浅草新町と新鳥越町(吉野町)との境を確認する。この辺でダンディはバスに乗って帰って行った。今日は余り歩かない筈なのに、随分歩かされるとブツブツ言っていたのである。疲れたのだろう。結局歩いた距離は七八キロ程になった。ヨッシーは最近足を痛めて、今日はリハビリの積りで参加したと言う。「意外に大丈夫でしたよ。」
     四時頃解散の予定が五時になり、急に空気が秋めいて来た。「今日は勉強したね。」「点と点がつながったわ」とハイジも言う。
     無理をしてはいけないヨッシー、明日ゴルフの予定があるマリオ、飲めないハイジは地下鉄で帰って行く。残った八人は仲見世商店街と馬道通りの間にあるニュー浅草本店に入る。「安いんだよ。」「だけど五時だよ、入れるかな。」二階に案内されると充分な広さだった。
     ビールはサッポロだからファーブルも飲める。「わがままなんだよ」とモトさんに言われるが、恐縮しない。「漬物頼みましょうか?」「今日は漬物必須のひとはいないよ。」それでも桃太郎は漬物を三皿注文する。モツ煮込み。「痛風に悪いんですよ。」サラダ、冷奴。
     「今日は勉強になりました。」実に有益なコースであった。「水戸じゃ、差別の話なんか聞いたことがなかったな。東日本でもあったんですか?」「東京と埼玉ですね」とお茶の水博士が答える。東松山のヤキトン、熊谷のホルモン焼きなどは、屠畜業者が集中していたことを証明するだろう。
     焼酎はファーブルお薦めの三岳(屋久島)を二本。一人二千円は安い。

    蜻蛉