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    第八十五回 杉並区縦断
       令和元年十一月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2019.11.21

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     九月の台風十五号は千葉県に想像もつかなかった被害を出した。風の威力がこんなにも酷いとは思わなかった。十月十二日の十九号(「成田街道」シリーズがお休みになった)では、東海から関東甲信、東北まで見たことがないほどの強烈な豪雨が襲い、全国三十七河川五十二ヶ所で堤防が決壊して広範囲に洪水に見舞われた。我が家でもレベル四のエリアメール速報が煩い位なんども鳴った。避難勧告の出た小畔川流域の名細地区に隣接しているからだ。団地は小畔川に下る緩やかな坂道の中腹にあり、更に小畔川との間に調整池があるから全く心配はない。ただ川越市の浸水の様子がニュースで流れたために、秋田から心配する電話がかかってきた。
     東京都市大学世田谷キャンパスの図書館は地下書庫が完全に水没し、十万冊の製本雑誌がやられた。元荒川に面した越谷の文教大学は地下二階の書庫がありながら、その下に巨大な貯水プールを設置し、図書館棟の周りに地下に浸透するエリアを設けていたため何の被害もなかった。設計家の思想の違いである。勿論、荒川流域と多摩川流域での環境の違いということもある。
     更に台風二十一号の影響による二十五日の豪雨は三度関東から東北を襲い、復旧途上の被災地に大打撃を与えた。特に千葉県の被害が酷い。
     それにしても雨の多い十月だった。トランプがいくら否定しても、地球温暖化のためであることは明らかだろう。台風は九州や西日本を襲うものだという、何の根拠もない楽観は簡単に崩れ去った。これからも東日本を襲う台風は頻発するに違いない。
     そして相変わらず安倍政権はどうしようもない。閣僚二人が相次いで辞任した後の十一月一日、萩生田文部科学大臣は、来年度の大学入学共通テストでの英語民間試験の導入見送りを表明した。遅すぎる決断である。教育における格差は拡大する一方であり、民間試験の導入はそれに輪をかけることであるのは、分かり切ったことだった。或いは更なる格差拡大を狙った政策だったか。
     またグローバル化への対応と言えば英語能力、とりわけ会話だとばかり考える連中のせいで、英語は小学校の正規授業にもなるのだが、基本に据えられなければならないのは日本語の力である。それをこの連中に理解させることはできないのだろうか。しかしその国語教育でさえ、大変なことになっているのは紅野謙介『国語教育の危機』(ちくま新書)に詳しい。これらは国立大学の人文社会学系の縮小を狙った下村博文に始まる、つまり安倍政権の路線によるもので、その罪は大きい。戦後日本の教育改革で成功したのは一つもない筈だ。
     東京オリンピックのマラソンと競歩は、IOCによって札幌開催と決まった。勿論八月の東京でマラソンをやろうというのは狂気の沙汰であるが、そもそもオリンピックの八月開催は、アメリカのメディアと、そこから上がる莫大な放映権料を当てにするIOCの都合である。今更、選手のためなどとお為ごかしを言われても誰も信じない。
     ところで香港はどうなるのだろう。五十年前の日本を見るようだが、あの頃の日本の警察は、少なくとも学生を銃撃するようなことはしなかった。習近平の中国がどんな国であるのか、改めて世界は知ったことであろう。
     それでも明るい話題もないわけではない。ワールドカップにおける日本代表の活躍は、俄かラグビーファンを一挙に増やした。私も漸く基本的なルールを覚えた。高校時代の冬の体育は雪の積もったグランドでラグビーかサッカーをするのが定番で、その時には前へパスしてはいけないということだけを教わった。

     旧暦十月十三日。立冬の初候「山茶(さざんか)始開」。つい最近までキンモクセイが香っていたのに、あっという間に終わってしまった。今日は秋晴れのさわやかな日だが、朝晩は寒い。
     集合は京王線代田橋駅だ。毎度のことだが京王線の新宿駅ホームは分り難い。トイレの場所が分らずウロウロした挙句、仕方がないので代田橋まで我慢することにした。案内表示に従って各駅停車の三番ホームに降りたのに、実は一番ホームでなければならず、出発ぎりぎりに電車に乗った。代田橋は新宿から二駅、各駅停車しか止まらない駅だ。
     代田橋駅で降りるとヨッシーと出会った。「早いですね。」取り敢えず新宿で行けなかったトイレに入る。定刻三十分前なのに、改札の外には既に四人が来ている。「遅いじゃないか。」そちらが早過ぎるのである。そして五分前には全員が揃った。あんみつ姫、ノリリン、マリー、ヨッシー、マリオ、スナフキン、ファーブル、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十一人である。「これで全員だろうね。」「念のため十時まで待とうよ。」
     「埼京線がすごく混んでたわよね。」ノリリンとマリーは埼京線で来たのである。「明日のパレードの前夜祭があるからかしら?」前夜祭(後で調べると国民祭典というもの)があるなんて全く知らなかったが、東上線や山手線はそんなに混んではいなかった。
     即位礼正殿の儀以来、メディアは奉祝ムード一色に染まった。象徴天皇制は、平成上皇夫妻の誠実な言動が共感を得たことで定着した。私だって夫妻に対して人間的な共感と敬意を表するに吝かではない。しかしそれだけで良いのか。民主主義との折り合いをどうつけるのか。何度も言っていることだが、基本的人権を極端に制限された家族をもってアイドルを眺めるように喜んでいるばかりで良いのか。
     定刻になって、もう誰も来ないことを確認して南口を出る。実は下見の時は明大前をスタートにしたのだが、それでは昼食時間が中途半端になるため、時間調整のために急遽ここからに変更した。一回目の下見の後、給水所だけ見て残りは地図を見ただけだから、ちゃんと次の目的地までたどり着けるか、実はちょっと不安だ。
     歩き始めるとすぐに左前方に見えるのが東京都水道局の敷地で、敷地に沿って井の頭通りが回り込んでいる。和田堀給水所だ。世田谷区大原二丁目三十番四十三号。「電車から見えるよね」とヤマチャンが言う。「以前から、何の建物か気になってたんですよ。正体が分って嬉しい」と姫が喜ぶ。「私は給水所マニアですから。」
     「給水所の敷地に沿って井の頭通りが不自然に曲がっているんですよ。」境浄水場から和田堀給水所までの間は水道道路と呼ばれていたが、近衛文麿首相によって井の頭街道と命名された。後に東京都によって井の頭通りに改められた。
     かつては構内の見学もできたようだが、老朽化した設備の解体と井の頭通りの直線化工事(令和四年完成予定)のため中には入れない。先月は正門から見られたのだが、工事中のフェンスが覆っている。「ちょっと行けば見えると思う。」少し行けば隙間からコロセウム風の古い建物が見えた。

    東京市の最初期の水道事業で、この地に玉川上水から淀橋浄水場への送水路が通されていた(淀橋浄水場の通水は一八九八年(明治三一年)十二月一日。)
    一九一二年(大正元年)九月に、東京市の水道拡張事業(後に一次水道拡張事業と呼ばれる)が認可され、翌大正二年から事業が着工。一九二四年(大正十三年)三月三十日に、羽村村山線導水路、村山上貯水池、村山下貯水池堰堤の下半分(ともに現・村山貯水池、多摩湖)、境浄水場、境和田堀線送水管および導水路の一部とともに、和田堀浄水池として完成した。このとき境浄水場とつなぐ直線の導水路を、後に補強し車両の通行ができるようにしたものが現在の井ノ頭通りである。(ウィキペディアより)

     大正十三年に竣工した二号配水池は長方形で、貯水量三万立方メートル。昭和九年竣工の一号配水池(竣工の順番と違う)は円形で貯水量三万立方メートル。これが今見えるコロセウムのような形だ。「産業遺跡とか近代遺跡とかに指定されていないんですか?」調べていなかったが特にそんな指定は受けていないようだ。
     端まで歩いて暫く眺めてから井の頭通りをそのまま進み、京王線を越えて首都高速新宿線の下を潜って甲州街道の北側を通る。甲州街道の上を首都高速が走っている区間だ。すぐに見えるのは明治大学和泉校舎だ。法学部・商学部・政治経済学部・文学部・経営学部・情報コミュニケーション学部の一、二年生が通う。「そこが図書館だよ」だとスナフキンが指さす。平成二十四年(二〇一二)に開館した図書館で、当時はかなり評判になった。「その時は招待されて見学したよ。」
     「明大ってこんなに綺麗なところでしたか?」「あの時は裏から入ったから。」桃太郎企画の平成二十四年七月の第四十一回「神田川遡上編(二)」の時、神田川から来れば当然裏口から入ることになる。ここの学食はやたらに量が多く、カレーの大盛なんか洗面器のようであった。しかし今日はこの時間だから学食に入るわけにはいかない。
     フェンスの外側の土手に「塩硝蔵跡」の解説板が立っている。下見の時はここを通っていないので気付かなかった。塩硝蔵とは要するに火薬庫である。

     現在、明治大学泉校舎および本願寺派築地別院和田廟所となっているこの附近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。
     当初は、多摩郡上石原宿(現調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(一七五〇年代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ一万八千八百九十六坪(約六万二千平方メートル)あり、御蔵地(貯蔵庫)は、五棟・二町二反九畝五歩(約二万三千平方メートル)の規模であったといわれます。
     当時、塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心三人が年番で交代居住し、警備や雑用には付近の十六ヶ村に対して、昼夜交代で三人づつの課役が徴せられました。
     明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれます。
     その後当地は、兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されておりましたが、大正の末期に廃止されました。
     明治の末頃までの火薬庫周辺は、雑木林や欅が生い茂り、鬱蒼とした森となっていて、多くの狐や狸が棲息し、余談に人を化かした話等も伝えられています。

     「戊辰戦争に使われたんだ。」幕府の目的とは全く逆の使われ方をしたことになる。その隣の築地本願寺和田堀廟所が、私にとっては本日最大の目的地だ。杉並区永福一丁目八番一号。「築地本願寺がなんでここにあるの?」築地本願寺はこの会でも何度か行っているが、廟所がここにあるのは余り知られていない。

    大正十二年九月一日の関東大震災によって、築地本願寺は、寺中五十七の子院と共に焼失しました。その再建については、他に移転の議もありましたが、結局現地復興となり昭和十年インド様式の大本堂の完成を見ました。墓地については、他に移転することにしていたところ、陸軍省火薬庫跡であった当地が払下げられることになり、昭和四年出願が許可され翌五年当地を所有し、地名にちなんで和田掘廟所と名付けました。(杉並区教育委員会掲示より)

     建物はコンクリート造りだ。「築地本願寺は伊藤忠太で有名だけど、ここは余りそんな感じはないですね。」「イヤ、何となくその趣はあるよ。」「ちょっとトイレに行ってくる。」ファーブルとヤマチャンを待つ。「中に入れるの?」「大丈夫。」本堂では法事をやっているようで、喪服の男性の姿が見える。
     目的は樋口一葉の墓だが、最初に目につくのが花井卓蔵家の大きな墓域で、それを外すわけにはいかない。花井は明治期の著名な弁護士なのだが、知っている人は少ないだろう。足尾鉱毒事件では弾圧された農民、大逆事件、星亨暗殺事件の伊庭想太郎、日比谷焼き打ち事件、米騒動などの重大事件の弁護を担当した。

     そもそも英吉利法律学校として創設された中央大学には、創設者が十八名もいる。初代校長として本学の基礎を形作った増島六一郎、後に日本初の法学博士となり枢密院議長にも就任する穂積陳重、私立大学がまだ一般的でなかった当時において、日本の学問を発展させたいという情熱にかられ、本学創設に奔走した十八名の法律家たちは、もちろんその全てが本学を象徴する偉大な人物であることは間違いない。だが、彼らは総じて学問という一側面に縛られているという感じが否めない。早稲田の大隈にしろ、慶應の福沢にしろ、「顔」と呼ばれる人物たるには、多分野において大学を代表する存在でなければならない。では誰が中央大学の象徴、「顔」たる人物としてふさわしいのであろうか。
     中央大学やその歴史について少しでも学んだことのある人間ならば、恐らくその全員が花井卓蔵の名を挙げるであろう。
    (「中央大學新聞」http://cu-press.com/2018/11/花井卓蔵生誕150周年/))

     これだけでは花井の業績は分らないだろう。弁護士としては一万件以上の刑事事件を担当し、その後は衆議院議員選挙に七回当選して副議長も務めた。議員としては死刑制度廃止、普選法実現の論陣を張った。

     明治四十三年の星亨暗殺事件の弁護に関しては、当時の新聞をして「花井の弁論は奇警にして論理明快」と賞賛させた。足尾鉱毒事件では、弾圧された農民を保護し、ついには無罪とした。さらに明治三十四年、いわゆる大逆事件の被告・幸徳秋水の弁護にも加わり、その細やかな気配りに、幸徳は涙を流したといわれる。しかし、卓蔵はこうした大事件ばかりを選んで引き受けたわけではない。担当した一万件以上の事件のうち、名も無き庶民の窮状を救ったほうが、数として圧倒的に多かった。(中央大学辞達学会「創立者 花井卓蔵」https://ameblo.jp/zitatsu-gakkai/entry-10499878784.html

     「田中正造のところでも聞いたことがあります。」古賀か渡良瀬でそんな話をしたことがあるかも知れない。「佐藤栄作だ。」「ここにあったんですか?」墓があるのは知っていたが、私は何の関心もなく素通りする積りだった。しかし皆は熱心に観察している。
     池田隼人の病気退陣によって昭和三十九年(一九六四)十一月に総理大臣になり、昭和四十七年(一九七二)田中角栄に譲るまで七年八ヶ月に及ぶ長期政権を維持した。私の中学時代から大学まで首相はいつも佐藤栄作で、六十年代後半のあの頃、打倒すべき第一目標だったのではないか。四十九年(一九七四)ノーベル平和賞を受賞したことで、私はノーベル平和賞というものに決定的な不信を抱いた。
     樋口一葉の墓は小さな木標が目印だ。「これしかないのか?」そこを入ってすぐ曲がれば六番目にある。谷中や雑司ヶ谷では有名人の墓の場所を示す地図をくれるのだが、ここにはそんなものはない。「小平だって地図があるぞ。」ここは公共の霊園ではないからかも知れない。
     今の時代に樋口一葉を読む人はいるだろうか。一葉が好きだなんて、化石のように思われるかも知れない。中でも『わかれ道』なんて短編は誰も知らないのは間違いない。しかし私はその末尾に涙を流すのだ。姉のように慕っていたお京が妾奉公に出ると知った吉の反応である。

    一昨日半次の奴と大喧嘩をやつて、お京さんばかりは人の妾に出るやうな腸の腐つたのでは無いと威張つたに、五日とたゝずに兜をぬがなければ成らないのであらう、そんな嘘つ吐きの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉さん同樣に思つて居たが口惜しい、最うお京さんお前には逢はないよ、何うしてもお前には逢はないよ、長々御世話さま此處からお禮を申ます、人をつけ、最う誰れの事も當てにする物か、左樣なら、と言つて立あがり沓ぬきの草履下駄足に引かくるを、あれ吉ちやん夫れはお前勘違ひだ、何も私が此處を離れるとてお前を見捨てる事はしない、私は本當に兄弟とばかり思ふのだもの其樣な愛想づかしは酷からう、と後から羽がひじめに抱き止めて、氣の早い子だねとお京の諭せば、そんならお妾に行くを廢めにしなさるかと振かへられて、誰れも願ふて行く處では無いけれど、私は何うしても斯うと決心して居るのだから夫れは折角だけれど聞かれないよと言ふに、吉は涕の目に見つめて、お京さん後生だから此肩の手を放してお呉んなさい。

     一葉については、これまで東大赤門向かいの法真寺(桜木の宿)、本郷菊坂の井戸のある家、伊勢屋質店、台東区竜泉の記念館、本郷丸山福山町(文京区西片一丁目)の終焉の地を巡ってきて、漸く墓に辿り着いたのだ。下見の時には一人では発見できず、職員に頼んで連れて来て貰った。小さな墓石に樋口家墓と刻まれている。父則義のために建てられたものだ。「和田っていただろう?」和田芳恵の墓を見たのは古河を歩いた時だった。一葉研究者で、その集大成が『一葉の日記』だ。
     安政四年、甲州山梨郡大藤村の大吉とあやめが駆け落ちして江戸に出てきた。大吉の家は名主程度の百姓だったが、長男大吉の出奔により次男の喜作が継いだ。二人はそれぞれ別の旗本の家の奉公人をして小金を貯めた。やがて同心株を買って武士身分となったのは既に幕府の命運も尽きようとしていた時であったが、武士らしく二人は則義と滝(多喜)と改名する。則義は維新後には東京府の役人となり、漱石の父の夏目直克と同僚だったこともある。明治九年十二月にはおそらく新政府のリストラにあって職を辞めた。

     江戸城明渡の折に、幕府方の大立者であった大久保一翁が、まだ東京府の知事であった。そして、一葉の父則義の地位は、新政府が充実する期間、その空白を埋める役割であり、職場は不安定であった。だから、一葉の父たちの立場にあったものは、生活の安定を蓄財に賭けた。(和田芳恵『一葉の日記』)

     一葉の一家も最初から貧乏だったわけではない。則義が役人を辞めてからは不動産業で比較的羽振りの良いときもあった。また後には警視庁にも務めた。一発当てたいと思う種類の人間のようで、明治二十二年に警視庁を辞めて荷車請負業組合設立事業を企てた。財産をはたいて作った出資金を騙し取られて多額の負債を残して七月に死んだ。
     一葉は明治五年三月二十五日(一八七二年五月二日)、内幸町の東京府庁内の官舎で生まれた。

     一葉にとっては、明治九年四月から、明治十三年までの、本郷六丁目に住んだ頃が最盛期であった。五歳から九歳まで。
     それに続く下谷御徒町、黒門町時代の十五歳で、中島歌子の萩の舎へ入門した頃までは、戦前の中産階級程度の暮らしを続けていた。(和田芳恵・同書)

     明治二十二年(一八八九)父が借財を残して死んだのは一葉十七歳で、戸主としての一葉に一家の生活を支える責任が生じた。長兄泉太郎は明治二十年に結核で死に、次兄虎之助は勘当同様に家を出て分家を立てていたから、女の身で戸主になったのである。
     明治二十一年(一八八八)萩の舎の先輩田辺花圃(後三宅雪嶺夫人)が『藪の鶯』を書いて作家デビューし三十三円を得たのを聞いて、小説を書いて金を得ようと決めた。しかし坪内逍遥の後援を得た花圃と、半井桃水を頼った一葉とではスタートが違い過ぎた。
     下谷龍泉寺の小商いを断念して本郷区丸山福山町に移転したのは明治二十八年(一八九五)五月一日。漸く小説が日の目を見るようになり、この頃から馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村などの文学界同人や齋藤緑雨が頻繁に訪れてくる。死んだのは翌二十九年十一月二十三日、二十四歳六か月であった。文壇での活躍は「奇跡の十四ヶ月」と言われる短い期間に過ぎない。
     「四十歳くらいかと思ってた。初めて知ったよ。」「それはないだろう?」「結核ですか?」勿論結核である。「結核は今でも滅びた病気じゃないんだよね。」「だけど薬があるからな、昔ほどのものじゃない。」感染しやすい家族とそうでない家族があるようで、一葉の母も妹の邦子も感染しなかった。それと比べるわけではないが、啄木の家族は結核で全滅した。
     結核が進行して四月頃からは自覚症状が現れ、七月に入ってからは高熱が続いた。七月二十日、幸田露伴、三木竹二(鴎外の弟)が訪れ、「めさまし草」への参加を勧誘した。二十二日、齋藤緑雨が訪れ「めさまし草」への参加を翻意させようと様々に語った。一葉は「此男が心中、いささか解されぬ我れにもあらず、今更の世評沙汰」とここまで日記に書いて、その後は途切れた。その後四か月、一葉の言葉はない。
     前年から彦根中学の教師となっていた馬場孤蝶はたまたま一葉の死の二十日前に帰京し見舞った。冬休みには帰京するので、その時にお目にかかると言ったのに、一葉は「その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか」と応えた。通夜の席には齋藤緑雨、川上眉山、戸川秋骨、平田禿木が集まった。寒い夜で、霰が降ったようだ。

     ・・・・霰の降つている寒い晩に、私は田舎に行って、居りませなんだが、齋藤緑雨、川上眉山、それから戸川秋骨、秋骨は文学界の友達であったから、病気の前後から色々と大変世話をしたのである。さう云ふ人達が通夜をして居つた。其の時に齋藤が斯う云ふ句を作つたと云ふことであります、「霰降る田町に太鼓聞く夜かな」此の太鼓を聞くと云ふのは実景を説明しないと分らない。あの田町の角の所にある瘋癲病院で火事があつて、狂者が死んだと云ふ話である。其処で夜を警める太鼓を叩く、その太鼓の音が聞こえる。尤も川上眉山君などの未だ若いセンチメンタルな連中が一葉の屍を護つて色々な話をして居る時に、瘋癲病院の太鼓の音がトウトウと聞こえる。何だか寂しい心持がしたに違ひない。(馬場孤蝶『明治文壇の人々』)

     二十五日の葬儀には森鴎外から、陸軍軍医の正装、騎馬で棺側に従いたいとの申し出があったが邦子が断った。当たり前だ。その日は寒い風が吹いた。中島塾の友人では伊東夏子と田中みの子が参列したが三宅花圃は産後で参列できなかった。孤蝶も勿論間に合わない。孤蝶のことを取りたてて言うのは、一葉との間に疑似恋愛めいた手紙のやり取りをしているからだ。
     「言文一致の人かな?」理科系の人には樋口一葉は常識の範囲にないのだろう。二葉亭四迷はツルゲーネフの翻訳で「口語文体」を発明してその後の日本文学史に大きな影響を与えたが、一葉はそんなことに関係なく、明治女性の意識を鮮明に表現した。文語、口語の別は内容の良し悪しに関わらないことは一葉が証明したのである。
     九条武子の墓は下見の時には見ていないので場所が分らない。だから墓には行かないが、説明だけしておきたい。武子は二十一世大谷光尊(明如上人)の次女として、明治二十年(一八八七)京都西本願寺に生まれた。大谷光瑞の異母妹で、柳原白蓮、江木欣々(この名前は知らなかった)とともに大正三美人と称される。「極端な瓜実顔だったよ。」「江戸時代のお姫様みたいですよね。」二十三歳で男爵九条良致に嫁いだ。

     性格も趣昧も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の法主夫妻のあとを追って新婚旅行に、欧洲へ渡航する。しかも新郎は、英国に留学する約束だった。黙々読書する良致氏に、仕度の相談にゆくと、
     「よろしいように」
     と静かに答えるだけだったという。
     印度では光瑞法主一行の、随行員も多く賑わしくなった。少女時代をとりかえしたように武子さんが振舞うと、明るい笑声のうちに、いつも姿を見せないのが良致氏であったという。籌子夫人が気にすると、船室にかくれて読書しているという。一方が明るくなると、一方はだんだん寡黙になる。
     船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、
     「では失礼します。」
     「どうぞ。」  水の如き夫妻だ。  武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっちかが軽蔑しているのだ。どっちかがすくんでいるのだ、でなければもっと、重大な、何か、ふたりは、表向きだけの夫婦ごっこ、互に傀儡になったことを知りすぎているのだ。性格的相違だけには片づけられないものがある。そして、短かい外遊期間中なのに、良致男は別居してしまった。だが、武子さんは社会事業の視察、見学をおこたらなかった。
     シベリア線で、籌子夫人そして武子さんが帰朝ときまったとき、訣別の宴につらなった良致氏は、黙々として静かにホークを取っただけで、食後の話もなく、翌日、出立のおりもプラットホームに石の如く立って、
     「ごきげんよう」
     と、別れの言葉は、この一言だけだとある。(長谷川時雨「九条武子」)

     つまり不幸な結婚であった。「亡くなったのは四十歳くらいでしたか?」亡くなったのは昭和三年(一九二八)だから、数えで四十二歳だった。「有名人かい?」「有名ですよ。歌碑がいくつもありますよね。」姫は何度か歌碑を見ている。九条武子は佐々木幸綱の門下で、築地本願寺の境内にはこの歌碑がある。

     おほいなるもののちからにひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや

     「おほいなるもの」は阿弥陀仏であろうか。兄の大谷光瑞は西域探検で有名な、日本近代史に残る巨人であったが、それに触れていると先に進めない。

     甲州街道から斜めに逸れて路地に入れば真教寺・善照寺・栖岸院などの真宗寺院が並んでいる。「寺町だね。」「今度、烏山の寺町を中心にコースを考えてるんですよ」とヤマチャンが言う。「それは俺も考えたことがある。」
     この辺の真宗寺院は本願寺の子院で、やはり関東大震災後に移転してきたのだ。六軒ほどの寺を過ぎ、最後の寺の前で立ち止まる。「ここは曹洞宗だ。」永昌寺である。車止めを入った門前には、かなり摩滅した庚申塔四基、地蔵二体がきれいに並べてある。
     右に曲がると永福通りだ。すぐに神田川に出る。「自分がやった時はここを通ったんですよね。」桃太郎は自分で歩いたコースを忘れているのではないか。水はかなり汚れている。「こんな川だって氾濫するんだよ。」左に相当広い塀に囲まれた一角があるが、これが何なのかは分らない。
     永福寺の門柱のある角を右に曲がり、正門には行かずに西門に行く。万歳山永福寺(曹洞宗)。杉並区永福五丁目二十五番二号。大永二年(一五二二)開創だから古い。永福の地名になった由来の寺である。
     目的は西門脇の屋根をかけた祠で、正保三年(一六四七)銘五輪塔庚申供養塔を見ることだ。「五輪塔形式の庚申塔はスゴク珍しいものです。」「そうですね、私も見たことはありません。」メンバーの中でこんなものに関心を持つのは姫しかいない。「ちょっと古い形です。」下から地水火風空と五輪を重ねてあるのは当たり前だが、空輪(宝珠)が三角帽子をかぶったように角を出しているのが古い形式だ。江戸時代になると形はもっと洗練されるから、正保三年というのが不思議だ。「五輪の順番は同じなんですか?」「そうです。」
     五輪塔を挟んで左はショケラをぶら下げた剣人六手の青面金剛だ。天和元年(一六八一)銘。笠の上に玉を二つ重ねてあるのも珍しいか。右は元禄四年(一六九一)の舟形浮彫の地蔵だ。
     道の向かいが永福稲荷だ。杉並区永福一丁目二十四番六号。享禄三年(一五三〇)、永福寺の鎮守として創建された。「何度も説明してるけど、神社とお寺はセットで、お寺が神社を管理してました。別当寺と言います。」「格はお寺が上ってこと?」「本地垂迹説では、仏教を守護するために日本に現れたのが神様なんだ。」「それは知らなかった。親父も教えてくれなかったよな。」マリオの御尊父は神職だった。
     『明治の廃仏毀釈で、それまで寺に押さえつけられていた神官が仏像や仏具を破壊したっていうこともあるんだ。』「そればっかりじゃないですよね。」姫も安丸良夫『神々の明治維新』を読んでいるからこういうことは詳しい。

     当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡永福寺村の条に稲荷社(永福寺境内)とあって「上屋二間に一間半、内に小祠を置、拝殿三間に二間、社前に鳥居を立、村内の鎮守なり」とあるように旧永福寺の鎮守で祭神は宇迦之御魂命です。
     社伝によれば享禄三年(一五三〇)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神を勧請創建し、寛永十六年(一六三九)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれます。
     明治維新後、永福寺から分離して一社を成し今日にいたっています。(杉並区教育委員会掲示)

     「次は昼飯だよね。」後ろの方でヤマチャンの声が聞こえる。井の頭線永福町駅の踏切を渡るとすぐに井の頭通りに出る。「随分並んでるな。」正面右の角にある大勝軒に開店を待つらしい列が並んでいる。杉並区和泉三丁目五番三号。「何の店だい?」持ち帰りがどうとか書いてあるが、有名なラーメン店のようだ。ただ大勝軒にもいろいろ系統があるようで、ここは永福町系大勝店の本店で、直系十一店舗を擁していると言う。ホームページを見ると、普通の中華麺が千百三十円もするのだから私の入る店ではない。「大体、並んでまで何かを食おうなんて気にならないよ。」「だけど旨い店はあるからな。」ロダンとスナフキンはラーメン店に詳しい。
     信号を待っている間に十一時半になり、行列が店に入り始めた。勿論私の目的はこの店ではない。井の頭通りを左に進むと小さな店はいくらでもある。「この辺はいくらでもあるよ。」ただ、この後の行程に店がないのだ。目的はロイヤルホストだ。杉並区永福四丁目十七番五号。安くはない店なので余り入りたくはないのだが仕方がない。「ランチがあるんじゃないの?」「土日はランチはないよ。」
     店に入るとムッとする程暑い。暖房が強すぎるのか、日の当たるエントランスが温室のようになっているのか。店内はまだ空いていて男八人が一並び、女性三人は窓際の席に着いた。ジャンバーを脱いでリュックに入れる。このために少し大きめのリュックにしてある。
     隣にはご婦人ばかり十人程の団体が並んでいる。「土曜の昼間、旦那をおいて何をしてるんだろう?」マリオの奥さんは旦那が家にいる時は必ず食事を作ってくれるのだろう。メニューを見ると、ステーキばかりで安くても三千円もする。これは私たちのメニューではない。「別のメニューを貸してよ。」グランドメニューを開いてもやはり高い。
     「私はこれにしよう。ライス抜きで。」マリオが選んだのはハンバーグの二百五十グラムである。ご飯がつかなくても千四百八十円もする。そんなハンバーグを私は食べたことがない。悩んだ挙句、私とヤマチャン、ヨッシーはロースカツ膳(ご飯と味噌汁がついて千二百八十円)を選ぶ。ファーブルはチキンカレー(千八十円)とグリーンサラダ(百円)にした。
     「なかなか来ないね。腹が減って来た。」「女性の方はもう食べてるよ。」斜め後方を眺めると三人はパンを食べている。姫はビールを飲んでいる。やがてファーブルの野菜サラダが出て来た。「これだけか?」クラブハウスサンドイッチ(八百八十円?)はスナフキンだった。これは珍しい。店員の持つトレーがやや傾いて、マリオのためのハンバーグにかかった溶けたチーズがこぼれそうになる。「アッ、こぼれる。」一滴こぼれた。「すみません、すぐ持ってきます。」
     ロースカツ膳やその他全員の料理が出てきた後、やっとファーブルのカレーが出て来た。カレーなんか一番早いかと思っていた。「これでお揃いですか?」全員の注文を知っているわけではないから分らないが、多分揃ったのだろう。カレーのご飯にかけられた黄色の糸くずのようなものは何か。ファーブルが一つまみ私のご飯に載せてくれる「玉ねぎかな?」。「ニンニクじゃないかな。」「アレッ、ビール飲まないんですか」と姫から声がかかる。この値段でビールを飲むと二千円近くになってしまう(とスナフキン、桃太郎も思ったかどうかは不明だ)。
     伝票は八人分まとめて付けられている。税込み価格で表示されているのは良いが、まとめるのが面倒だ。「ひとりづつレジで支払えるんじゃないの?「ダメ。前に別のロイヤルホストで揉めたことがある。」ロースカツ膳は千四百八円だった。円単位の端数が出ているがそれはお釣りにすればよい。最終的には桃太郎がまとめて支払うことになった。「八十円くらい余るけど。」「マリオに七十円渡してくれればいいよ。」
     桃太郎は六人までが一割引きになるチケットを女性陣に進呈する。私は一番先に出て外で煙草を吸わなければならない。十二時十分。

     井の頭通りをそのまま西に向かい、西永福の交差点手前のサミット向かいの路地を入る。「下見の時はそこのラーメン屋で食ったんだ。野菜サラダとユデタマゴが食べ放題。」但し狭い店だから十一人は入れない。
     突き当りが方南通りだ。通りを横断した時に電話が鳴った。私の携帯電話は日中の屋外では液晶画面が真っ暗になって誰からの電話か全く分からない。まさか仕事の関係ではないだろうね。「ハイ。」「今どこですか?はぐれちゃって。」桃太郎だった。「サミットの向かいの道を来てよ。」
     「最初随分丁寧に答えてるからお客さんからの電話かと思ったよ。」最後に会計をしていた彼を置き去りにしてしまったのだ。全ては私の責任である。任命責任は認めても何の責任も取らないのは安倍晋三と同じになってしまうだろうか。「あっ、見えた。」
     「大宮八幡宮は後にします。」南参道入口を通り過ぎて暫く歩き、「こんなに来たかな」と呟きながらなんとか目印を見つけて左に曲がる。ところが三差路の右(荒玉水道路)を行く予定が、勘違いして左の道に入ってしまった。「洒落た家が多いね。」「実は間違えたけど行ける筈だよ。」「ここから六百五十メートルだって。」チャンと表示が出ているのだ。
     善福寺川に沿って歩くと鴨がたくさん泳いでいる。「鵜もいるね。」橋の袂に百六十メートルの表示があった。橋を渡れば郷土博物館の裏手に出た。回り込んで長屋門で後続の女性陣を待つ。杉並区立郷土博物館。杉並区大宮一丁目二十番八号。門は旧井口家住宅長屋門を移設したものだ。

     もとは宮前五丁目、井口桂策家の表門で、昭和四十九年に杉並区へ寄贈されました。建築年代は江戸時代の文化・文政年間(一八〇四~一八二九)頃と推定されています。
     中央を通路、右手を土間の納屋とし、左手の板床の蔵屋には年貢米を収納しました。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々、名主を務めた井口家の格式の高さがうかがえます。

     入館料は百円で、後続がやっと追いついたのでスナフキンは先に博物館に入って行った。私は後続の女性たちに長屋門を説明する。旧嵯峨家の庭に置かれていたという巨大な石を前にして、嵯峨浩の話をする。ここは旧嵯峨侯爵家跡である。嵯峨家は大臣家の正親町三条家であったが、明治になって嵯峨と改めた。五文字の苗字が長すぎるという理由からか。菩提寺が京都の嵯峨野にあることから改名したようだ。問題の浩(ひろ)は、三十代嵯峨実勝と妻・尚子(九代目浜口吉右衛門の長女)の第一子だ。

     私の運命を左右することになる思いがけないお話が舞い込んだのは、昭和十一年十一月のことでした。
     女子学習院高等科を卒業後、油絵に熱中して気ままな生活を送っていた私は、二十三歳。そろそろお嫁入を真剣に考えなければいけない年齢になっていましたが、私は見合い写真を見せられるたびに、まだ早い早いと逃げておりました。(愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』)

     話を持ってきたのは関東軍司令官の本庄繁大将だった。

     関東軍内部ではお妃候補をめぐって対立がありました。いずれも未来の満州国の主導権争いにつながっていました。
     こうした関東軍の身勝手な動きは、溥儀氏にとって愉快であるはずはありません。関東軍が内部対立でお妃候補を決めあぐねているあいだに、旧清朝の一族から弟の妃を選ぼうと動きはじめました。
     関東軍はあわてました。本庄大将は急遽、内部の抗争とは無関係の公卿家族のなかからお妃候補を選ぶことに決め、中山輔親侯の母堂みち代刀自に選任を依頼しました。(愛新覚羅浩・同書)

     こうして嵯峨浩は、満州国皇帝溥儀の弟の愛新覚羅溥傑に嫁ぐことになるのである。幸い溥傑との仲は睦まじいものだったが時代が悪かった。戦争中は関東軍の横暴に苦しめられ、敗戦後、溥傑はハバロフスクのラーゲリに抑留され、浩と娘の慧生は日本に戻った。慧生は聡明な娘で、周恩来に中国語の手紙を書き、父に会わせてくれと頼んだこともある。
     しかし学習院大学に進んだ慧生は昭和三十二年(一九五七)、同級生の大久保武道と天城山で心中した。満州国皇帝の姪の心中は世間を騒がせた。溥儀と溥傑が釈放され、家族で北京に帰国することになっていた矢先だった。遺体が発見されたのは十二月十日のことである。

     二人の遺体は、天城トンネルから八丁ケ池に至る、尾根伝いのハイキングコースをおよそ一キロ半ほど登ったところから、さらに国有林内を右手に登った寒天林道の入口近く、百日紅の樹の下で発見されました。
     二人ともピストルでこめかみを撃ち抜き、ピストルは大久保さんの手に握られていたそうです。慧生は右頬にも弾丸が掠めたのでしょうか、深くえぐられた傷がありました。使われた旧陸軍十四年式のピストルは、戦前、満州で憲兵をしていたという大久保さんのお父さま持ち物とわかりました。

     「『天国に結ぶ恋』ですよね。」さすがに姫である。「そうだよ。」「二人の恋は清かった、神様だけがご存知よ」の歌詞だったと私も思っていたが、実は違った。歌は「坂田山心中」を歌ったものであった。
     坂田山心中事件とは、昭和七年(一九三二)五月に神奈川県中郡大磯町の坂田山で起きた事件であり、家族が引き取りに来るまで仮埋葬された女性の死体が盗まれるという猟奇事件でもあった。男は二十四歳の慶應大学生調所五郎、女は二十二歳の静岡の素封家の娘湯山八重子だった。盗まれた遺体は百メートル程離れた砂浜の中から全裸で発見された。盗んだのは葬儀場の職員だったが、発見された「死体はなんら傷つけられていなかった」と警察が発表したことから、東京日日新聞が「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」と報道した。
     この年、五所平之助監督の『天国に結ぶ恋』が公開され、徳山璉・四家文子が主題歌を歌った。そして事件に影響された青年子女による後追い心中が続発した。神経過敏な若者は同世代の自殺に影響されやすい。
     それはともあれ、浩が中国に渡り溥傑と再開を果たすのは昭和三十六年五月のことである。漸く落ち着いた生活を今度は文化大革命が襲ってくる。
     愚劣で無残だった文化大革命については、以前市川で郭沫若の寓居を訪ねた際に触れた。浩は周恩来の保護を受けたため無事だったが、愛新覚羅一族では顕琦が文革、牢獄生活、強制労働を経験しなければならなかった。

     自慢にもならないけど、あたしは獄中十五年、強制労働七年をへて娑婆に戻って来た身です。落ちるとこまで落ちて、ようやく普通のレベルまで這いあがってきた人間に恐いものなどあるものですか。まかりまちがったって、もういちどあの生活まで落ちればいいだけの話でしょ。アハ・・・・・・」

     これは、愛新覚羅顕琦『清朝の王女に生まれて』に付された上坂冬子「顕琦(金黙玉)のこと」にあるインタビューの回答である。顕琦は清朝滅亡後、旅順亡命中の粛親王の三十六番目の娘として生まれた。戦前は女子学習院で学び、戦後中国に渡った。同母の姉が川島芳子だから、共産党中国では神経が休まらなかった。

     私は一九七九年にやっと晴天白日の身となって北京に戻り、八一年に家をもらったのです。一切初めからやり直しの私は、二十三年目に再びせっせと自分の巣作りを始めたわけです。もう狭いとかお粗末など言う気はありません。一生懸命なんとかしげ住みやすく、二間で二十五平方メートルの家を相手に苦心惨憺しました。(中略)
     一九八二年、小坂旦子ちゃんや福岡百合子さん、武久恭子さんのおはからいで学習院の同窓会に招かれることになり、十月一日、あたかも中華人民共和国の国慶節の日、私はふるえるほどのよろこびで成田飛行場に降り立ち、四十何年ぶりに、一日として忘れることのなかった幼友達と抱き合えたのです。
     このよろこび、この感激は幼い頃の友情に、更に成人してからの友情を重ね、いよいよ固く深まりました。(愛新覚羅顕琦・同書)

     館内にそれほど見るべきものがある訳ではないので、十五分で外に出ようなんて言ってしまった。しかし庭に民家が移設されているのをうっかりしていた。「古民家もいれて十五分なんて嘘でしょう?」確かに間違いである。「皆で古民家を見ましょう。」
     寛政年間(一七八九~一八〇〇)の建築とされる旧篠崎家の母屋で、下井草五丁目から移設されたものだ。ボランティアの男性と女性がいて、男性がロダンに向って木材の継ぎ目について一所懸命説明している。「釘を一切使わない工法です。」女性はお茶を振舞ってくれた。
     「ツワブキがきれいですね。」庭にはツワブキの黄色い花が咲いている。一時十分に出る。「全員揃ってる?」「桃太郎がいるから大丈夫。」
     同じ道を通るのも芸がないので、今度は荒玉水道道路を通る。こちらの方が遥かに近かった。大宮八幡の表参道に曲がる角に何かの石碑が建っていた。「バトウカンノンだ。だけど字が違う。」桃太郎の指摘でよく見ると、確かに馬塔観音とあるのだ。「ホントだ。頭じゃないのね。」解説が書かれているが大した理由ではないので割愛する。交通安全祈願だと思えばよい。
     朱塗りの大鳥居は直径九十センチ、高さ八メートルある。それを潜って境内に入る。杉並区大宮二丁目三番一号。二の鳥居から参道は駐車場を兼ねていて車が何台も停まっている。竹林がある。「なかないいね。」
     着物に着飾った小さな女の子の姿が目立つ。「そうか、七五三か。」「埼玉県の大宮とは何か関係ありますか?」「あそこは氷川だから。」関係はない。ただこの地域では大きな神社だったので、地名も大宮としたもので、それは埼玉県の場合と同じである。

    相伝ふ、当社はその先、多田満仲(源満仲、九一二~九七)の勧請なりといへり。のち源頼義朝臣(九八八~一〇七五)奥州征伐出陣のとき、種々の霊瑞ありて神像を感得し、康平六年(一〇六三)凱陣のときに至りて宮居を営建し、源家守護の神とす。ゆゑに右大将頼朝卿、また相州鶴が岡に等しく神殿僧坊を重修ありて、信心もつとも厚し(昔は大社にして壮麗なる宮居なりしかば、地名をも大宮と呼び来るとなり)。しかるに足利将軍の世、越後の上杉、相模の北条と戦ふ頃、上杉の勢兵この地に屯し放火す。(『江戸名所図会』)

     源家累代の守護神として復興したのは家康である。元々家康の出た北三河の松平氏は加茂氏である。当時、源平交代史観が一般の了解になっていて、源家三代の後を平氏の北条氏、その後を源氏の足利氏と続いたことで、信長は平氏を称した。流石に秀吉はどう転んでも源氏にはなれない。家康は新田流源氏を称するために足利氏の重臣吉良氏から系図をもらった。

     源氏将軍家の「総領の筋」が、系図の移譲とともに、足利から徳川(新田)へ移行したのである。とすれば、近世の吉良家が,高家筆頭職(幕府儀典係の筆頭)に任じられたことも、服属した前王朝のゆかりが、現王朝の儀礼・祭祀にあずかるというパターンをおもわせる。のちに赤穂の浪人大石内蔵助によって断絶に追い込まれた吉良家とは、家康の将軍職継承に関わり、幕藩体制という制度の起源に関与した家柄であった。(兵頭裕己『太平記〈よみ〉の可能性』)

     話題が脱線してしまった。境内は約一万五千坪。これは都内で三番目の広さだという。但し江戸時代には六万坪もあったと言われる。一帯は大宮遺跡で、都内で初めて方形周溝墓が発掘された。
     境内では菊花展をやっている。「そんな時期でしたか?」大抵は十月中旬から十一月上旬に開かれるので、今は最後の方になるだろう。規模はそんなに大きくない。境内社には天満宮もある。かつては八幡太郎手植えの松があったというが、枯れてしまって現在はその二代目が立っている。
     北門は赤門だ。寛政七年の記録があると言い、元は正面の神門として建てられていたものだ。全員集まったようで人数を確認すると十人しかいない。「桃太郎がいない。」「御朱印を貰いに行ってますよ。」その桃太郎もやって来た。「御朱印帳は何冊あるんですか?」「これで四冊目。」
     「それじゃ行きましょうか。」何となくこっちでも行けそうなので赤門を潜って外に出る。こういう所が私の欠点である。階段を降り、下見の時とは違う、護岸工事中のフェンスに囲まれた善福寺川を渡れば、それでも目的の和田堀公園の池に出た。「下見の時に渡った橋が通れなくなっている。」

     和田堀橋~済美橋間において、平成十七年九月の記録的な集中豪雨による浸水被害を受けて実施した「河川激甚災害対策特別緊急事業」の完了に引き続き、平成二十四年度から済美橋より上流の護岸整備を進めています。
     また、和田堀第六調節池の堰改良を行い、同調節池の調節能力が向上したことにより、宮下橋上流の護岸整備に着手しています。
     現在、二枚橋下流から大松橋下流、宮下橋上流から御供米橋上流までの護岸整備を実施しています。(東京都建設局「河川の整備・善福寺川整備工事(済美橋より上流区間)」
     http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jimusho/sanken/kasen_seibi.html

     「公園の方で休憩しましょう。」広場ではバーベキューを囲んで二組のグループが酒を飲んでいる。「紛れ込みましょうか?」「この人数だとすぐにばれてしまうよ。」「ベンチがないね。」「あそこにある。」公園の隅の方のベンチに行けば、周りは水で濡れている。「雨が降った訳でもないのに。」フェンスの向こうも広場になっていて、車が何台か停まっている。「さっき消防車がいたよね。」「放水の訓練をしてたんじゃないか。」「消防の日か?」「そうか、今日は十一月九日、一一九番だ。」
     ベンチは濡れていないのでここで休憩にする。煎餅が二種類、それにチョコレートがいくつ出されただろうか。勿論チョコレートは私の前を素通りする。時間は充分にあるので、少しのんびりする。
     座り込んでいると寒くなって来て、ジャンバーを取り出して着込んだ。ファーブル、続いてスナフキンがトイレに行くとロダンも「置き去りにされるといけないからみんなで行こう」と連れションに向かった。女性陣はこの後の成田図書館を当てにする。
     「それじゃ行きますよ。揃っているかな?「桃太郎がいるから大丈夫。」フェンスで隠された川沿いに歩くと道に出た。何だか変だな。「さっきの道だよ」とファーブルが指摘する。「北と南と逆じゃないですか」と桃太郎も首を捻る。確かに逆だが、向こうは行き止まりになっていた。下見の時には行けた道が工事のために閉ざされていたのだ。
     「神社に戻った方がいいよ。」それが正しいか。もう一度表参道から八幡宮の境内を抜け、南門から出る。「それじゃ真面目に地図を確認するよ。」八幡宮と高千穂大学の間を抜ければ川に出るようだ。
     「左は大学?」「幼稚園だよ。」高千穂幼稚園である。そこから大学の校舎が続く。「昔は高千穂商科大学だったろ?」「加藤寛が学長をしてたよ」と珍しくヤマチャンが言う。「加藤寛はいろんな大学の学長をやっているよ。」「千葉商科の学長もやったね。」「間違えた、高千穂商科じゃなく千葉商科だった。」
     明治三十六年(一九〇三)川田鐵彌が高千穂小学校を創設したのが学園の始まりである。大正三年(一九一四)には私学として初めての高等商業を創った。これが現在の高千穂大学の前身になるのだから、意外に由緒はちゃんとしている。「田辺茂一が高千穂小学校を出たんだ。」スナフキンはよく知っているね。「その縁で、大学に紀伊國屋のブックセンターができたんだよ。」
     ここから道のようなそうでもないような、枯葉に覆われた幅一メートル程の道を行く。「よくこんな道を知ってますね。」知らないがたぶん大丈夫だろう。しかし実は不安だ。左のグランドは佼成学園高校のものだ。「立正佼成会だろ?」「昔、甲子園に出たよ。」調べてみると、一九六六年と一九六八年の春、一九七四年の夏の三度出ている。「ユニフォームに〈駒〉の文字が見えた。」「練習試合じゃないかな。」
     そして川べりに出た。ここを曲がれば大成橋だ。草むらにホトトギス(杜鵑草)が咲いている。「同じ時期に始めたのに、差がついてしまった。良く知ってますね」とロダンが笑う。ロダンだって、この花は随分見た筈だ。
     橋を渡れば後は北に向って一本道だ。小さな白山神社があるので予定通り寄ってみる。成宗白山神社。杉並区成田東二丁目二番二号。「ハクサンかシロヤマか?」とスナフキンが笑う。この字でシロヤマと読む神社があることは、彼に教えて貰うまで知らなかった。コンクリート造りの本殿の隣には白幡と書かれた赤い幟が何本も立っている。
     「さっきの大宮八幡宮と同じで、この辺りは源氏に所縁があるんですよ。」旧成宗村字白幡の地名はそれに由来するのだ。「前九年後三年に由来する神社はあちこちにありますよね。」姫が言う通り、旧鎌倉街道(旧奥州道)に点在している。「大した神社じゃないけどね。」「そんなこと言っていいの?」「蜻蛉、こっちに来てみな。」ファーブルは私に「神知必罰」の貼り紙を見せてくれる。どうせ私はバチアタリだ。
     住宅地の道を暫く行けばやっと成田図書館に着いた。「全員でぞろぞろ入っちゃ不味いよな。」トイレを使いたい人だけが中に入り、その他は玄関先の縁石に腰を下ろして待つ。ここは杉並区立図書館の分館である。中央図書館は荻窪にあり蔵書は八十一万冊ある。分館十二館と合わせれば総蔵書数は二百二十万冊にも上ると言う。「揃ったかな?」「桃太郎がちゃんといます。」
     「お寺がありますよ。」海雲寺(曹洞宗)だが、ここには寄る積りがない。「天桂寺に行くんですよね。ここから右に行った方が良いんじゃないですか?」たぶん、このまま真っ直ぐ行っても行ける筈だとは思うけれど、桃太郎の言葉に従う。
     月光山天桂寺、曹洞宗。杉並区成田東四丁目十七番十四号。「ここも曹洞宗だ。」「この寺に寄ったのは、これを見てもらいたかったのです。」

     開創は慶長年間(一五九六〜一六一四)と伝えられ、小田原北条氏の家臣岡部忠吉が氏祖岡部六弥太忠澄を勧請開基として一庵を建てたのが始まりといわれています。その後、寛永十年(一六三三)頃、忠吉の子で旧田端村の領主となった幕府旗本岡部吉正が、中野成願寺六世鉄叟雄鷟和尚を請し、開山として再開基となり、伽藍を整え、当寺の基を開きました。また、延宝三年(一六七五)吉正の孫岡部忠豊が葬られて以来、岡部家の葬地となりました。
     杉並の地名は、この岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来するといわれ、墓地には岡部家歴代の墓があります。また浮世絵師嶺斎泉里が描いた「岡部六弥太澄武者絵」は当寺の寺宝となっています。
     境内にある寛文四年(一六六四)銘の聖観音石像は俗に「庚申観音」と呼ばれる珍しい石仏です。(教育委員会掲示より)

     杉並の地名由来がこれにあるのだ。「深谷に岡部の地名があります。この岡部氏はそこの出身です。」先祖の岡部六弥太は平忠度を討ち取った武者である(『平家物語』「忠度最後」を見てください)。その墓は深谷市の普済寺で見た。
     「その話は聞いたことがありますが、このお寺も青梅街道を歩いた時に来てますよ。」姫に指摘されるまで、そんなことは全く忘れていた。迂闊なことである。
     青梅街道に出て、信号を渡ってすずらん通り商店街に入る。嘗ての鎌倉街道になる筈だ。「なかなかいい商店街だね。」ファーブルの住んでいる町にはこんな商店街はない。すぐにパールセンターに繋がる。ここには約二百四十の店舗が入っている。

     昭和七年に、杉並町・和田堀町・井荻町・高井戸町の四町が東京市へ編入し、東京市杉並区が発足。現在の阿佐ヶ谷駅周辺は新興住宅地として発展し、パールセンターの原型となる商店街には約百二十の店舗を構える都内有数の商店街となった。しかし太平洋戦争の影響を受け、店舗の閉店が相次ぎ、強制疎開により更地となった。
     戦後は商店の営業が再開し、地元有志により更地を開拓し道路を整備。この道路が現在の「中杉通り」である。一九五四年に中杉通りに百十九本のケヤキを植樹し、現在の「けやき並木の中杉通り」が誕生した(現在は約二百七十本のケヤキが植樹されている)。 同時期に現在のパールセンターの前身に当たる「阿佐ヶ谷南本通商店会」が発足し、昭和二十九年には集客数の増加を狙い、第一回阿佐谷七夕まつりを開催。以降、陽暦八月七日を中日に、五日間開催されている。昭和三十五年に「阿佐ヶ谷南本通商店会」の愛称を公募し「各店舗が真珠(パール)のように輝き、首飾りのように商店同士が協力し、結び合い、繁栄する」願いを込め『阿佐ヶ谷パールセンター商店街』と命名された。(ウィキペディアより)

     「阿波踊りもやりますよね。」ロダンは高円寺も阿佐ヶ谷も殆ど一緒に考えている。「それは高円寺だよ。」ロダンはしきりに「懐かしい」を連発する。学生時代に高円寺に住んでいて、ここにもよく来ていたのだそうだ。「ピーコック、懐かしいな。写真を撮りますよ。」ロダンの「男おいどん」時代だ。「あそこのカマボコ屋さんは自家製でしょうね。美味しいんですよ。」姫も喜ぶ。「古いお店と新しいお店が共存してるのね。」
     「戸越銀座も有名ですよね。」あそこは全長一・三キロというのが自慢だったのではなかったろうか。「東京都内の人気&有名商店街ランキング」というサイトによれば、戸越銀座は六位、阿佐ヶ谷パールセンターは五位に入っている。その上位を見ると、四位は浅草仲見世、三位は吉祥寺サンロード、二位は中野ブロードウェイ、第一位は上野アメ横となっている。何だかジャンルの違うものを無理やりランキングしたようである。興味のある人は次のサイトにアクセスしてみると良い。
    https://kurashi-no.jp/I0021395
     漸く阿佐ヶ谷駅が見えて来た。「どこで飲む?」「ちょっと待って。その前に一番街を歩きたいんだ。」中央線のすぐ南を平行に通る狭い飲食店街である。昭和四十九年(一九七四)会社に入ると同時に私は一番街の外れのアパートに住み、一年を過ごした。元々そのアパートは同級生のキンチャンが住んでいたところで、敷金をそのままに、静岡に帰るキンチャンの後釜として入居したのである。
     今ではなくなったが、入口付近には立ち食い蕎麦屋があった。〈クール〉のお姉さんが「美味しい天婦羅蕎麦がある」と連れて来てくれたのはその立ち食い蕎麦屋だった。日本酒が飲みたいときは〈銀ちゃん〉に入った。煮干しダシのきついラーメン屋(ここでは肉野菜炒めが餃子ライスを食っていた)があり、「聖教新聞」を置く老夫婦のやっている定食屋もあった。餃子は皮から作るのが珍しかった。
     「ここを曲がった所の二三軒目のアパートの二階に住んでたんだ。」昔はなかった道ができ、一番街も更に東に随分長く伸びているから自信はないが、たぶんここだっただろうと思う。
     そして一番街に戻って二三軒目に、スナック〈クール〉があった。学生時代には代々木上原に住み純喫茶〈シャドー〉で夕方五時から十時までのアルバイト(月に五万円貰っていた)をしていたから毎日は来られない。週に一回の休みの日に池袋の雀荘かキンチャンの部屋でマージャンをし、その後には必ず〈クール〉で飲んだ。キンチャンの高校の同級生TとI、私の高校の同級生のYがいつも一緒だった。阿佐ヶ谷に住んでからは帰り道だから必ず寄った。Yは最初沼袋に住んでいて、やがて阿佐ヶ谷に転居してきた。
     六人程が座れるカウンターに、ボックス席が一つ。カラオケなんかまだなかったからジュークボックスが鎮座している小さなスナックだった。あんな店で商売になっていたのだろうか。暇な時にお姉さんは松尾和子の『再会』をよく聴いていた。いつも白いブラウスに黒のロングスカートで、初めて会った頃は清楚な感じで言葉も丁寧だったが、慣れてくると伝法な江戸弁になっていった。年齢はついに不詳のままで、たぶん当時三十一、二歳。今では八十歳前後になるだろう。二、三年前に電話で声を聞いたが、あの頃と変わらない声だった。電話をすれば会えるのだが、なんとなく決心がつかない。
     飲むのはボトルキープで千五百円のサントリーホワイトと決まっていた。角瓶なんか置いていなかったんじゃないか。私が最もアホな時代で、「アンタ、ホントに馬鹿だね」と何度も叱られたが、秋田に帰省する時には、夜行列車の中で食べろと、おにぎりを作ってくれた。「海苔は別に切って袋に入れてあるからね。その方が美味しいんだよ。」そんな風なおにぎりは初めてだった。十条の〈篠原演芸場〉に連れて行ってもらい、売り出し前の梅沢富美男を見たこともある。化粧を落とした梅沢の顔を見て、「あいつ、Tにそっくりだね」と笑った。
     新宿東口のおでん屋〈五十鈴〉にも連れて行ってもらった。鰻の寝床のように奥まで細長い店で、満席の客の背中に触れないように慎重に席につかなければならない。カウンターの中にいるのはオバサンばかりで、チロリで燗を付けた酒をコップに注いでくれる。常連は中年から老年の教授や編集者と思われる連中のようで、若造はかなり緊張した。後に一年先輩の女子社員が酒好きだと言うので連れて行き、「私これから毎日通うわ」と感激された。新宿の飲み屋の歴史を語る上では欠かせない店で、山口瞳『江分利満氏の華麗な生活』の「続・大日本酒乱之会」にも登場する。勿論今はない。

     右へ行って「むらさき」「稲福」「五十鈴」「ジャスミン」。「五十鈴」は凄かったね。これはまさに集会場だった。ここのおけいというマダムは当時の生き残り、いやこれは言葉が悪い、現在も活躍しているマダ十人を集めた〝麗人会〟の会長である。

     山口が「当時」というのは戦後すぐの時代のことで、「現在」は昭和三十八年(一九六三)のことである。この本には、私とYが後に通った区役所裏の「吉田」も出てくる。
     お姉さんは後に〈クール〉を閉め、パールセンターに〈網代木〉という小料理屋を開き、その時から粋な着物姿に変わった。開店祝に何が良いか私もYもさっぱり見当つかず、「時計が良いだろうか?」と恐る恐る訊いてみたが一言の下に却下された。「客商売はお客に時間を気にさせたらダメなのさ。」結局開店祝いは何もせず、タダ酒を飲んだようだ。
     後に妻になる女性をY夫婦に引き合わせたのもこの店だ。お姉さんは「アンタたち、どうなることかと思ってたよ」と喜んでくれ、板前のミッチャンがサービスの刺身を出してくれた。恥大き時代ではあったが、その分思い出が詰まっている。
     駅前に戻り、ここで解散を宣言する。ロダンが万歩計を確認すると二万歩になった。マリーとノリリンの万歩計も同じようなものだから十二キロか。「ちょっと無駄に歩かせてしまいました。申し訳ない。」たぶん二キロは無駄に歩いたことになる。
     「さてどうする?」まだ三時半前だ。この時間では阿佐ヶ谷では飲めそうもない。「吉祥寺ならどこか開いてるよ。」飲み屋のことはスナフキンに任せれば良い。「前に入った地下の店で良いだろう?」「いいよ」と答えたが全く忘れている。
     阿佐ヶ谷駅に土日は中央線が留まらない。「総武線ですね。」結局十一人全員が吉祥寺に降りた。ヨッシーが付き合ってくれるのは嬉しい。「ここなら近いからね。」三時四十五分。「こんな時間に酒を飲むなんて不良だな」とロダンは心にもないことを言う。スナフキンが言う「地下の店」は清瀧だった。ここなら記憶がある。「このお店は高田馬場で行きましたね」と姫とマリーも思い出す。
     ノリリンはカシスソーダ、他はビールである。ノリリンがメニューを考える。「お刺身は何が良いですか?」「任せるよ。」「選ばなくちゃいけないんです。マグロとイカと、それから。」姫は「サーモン」という。結局それぞれ違う三種盛りが注文された。「漬物も頼まなくちゃ。」「それにイカの丸焼きも。」それから厚焼き玉子と何か。いつもより豪勢な感じだ。
     「イヤー、酒は楽しく飲むべかりけり、ですね。ハッハッハ。」ロダンは絶好調である。焼酎は黒霧島のお湯割りにして三本。二千五百円は安い。
     ファーブルとスナフキンから立川に行こうと誘われたが、新宿行きに飛び乗ってしまった。

    蜻蛉