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    第八十八回 「五日市憲法草案」ゆかりの地
       旧五日市市を巡る
     令和二年九月十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2020.09.16

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     昨年十一月の第八十五回「杉並区縦断」以来の江戸歩き参加である。十二月と一月に腰椎圧迫骨折を発症し二月、三月は殆ど寝たきりで過ごしたので、八十六回、八十七回は欠席せざるを得なかった。その間に腹部には大量の脂肪がついてしまった。更にコロナ禍による行動自粛となって、この会も休みが続いた。ホントに随分久し振りなのである。
     香港に対する習近平の圧力、香港には三権分立はなかったし必要ないと断言した林鄭月娥行政長官。ベラルーシに対するプーチンのロシア。モンゴル自治区への中国語教育強制。米国での警官による黒人への理不尽な銃撃や首絞め、それに対するトランプの態度。日本では安倍晋三の退任に伴う後継総裁は不透明な形で菅義偉に決まり、圧倒的多数の自民党国会議員は勝ち馬に乗るべく素早く菅支持を表明した。まるで翼賛政治を見るようではないか。その菅の姿勢は、数々の隠蔽、改竄、公文書破棄によって民主主義の根幹を破壊してきた安倍政権の継承である。元財務相職員赤木俊夫氏夫人の訴えに耳も貸そうとしないのは安倍晋三を支えた菅自身であった。明らかに、目に見える形で世界中の民主主義が危機に瀕している。
     そんな時に、五日市憲法誕生の地を歩くのは充分に意義があるだろう。私がこの憲法草案を知ったのは色川大吉『明治の文化』(「日本歴史叢書」岩波書店)によってである。手元の本の奥付を見ると一九七〇年四月十三日発行、一九七二年十二月三十日の第三刷である。池袋の芳林堂で見つけてすぐに買った覚えがあるから、大学三年の時に読んだことになる。
     更に平成三十年八月(あんみつ姫企画の番外編)に町田の自由民権資料館を訪ねて、憲法草案の全文を入手した時から、いつか深澤家を訪ねなければならないと思っていたので、今回スナフキンが企画しくれたのは実に有難いことであった。ただここ一ヶ月、毎日一時間弱、四キロ程度の散歩しかしていないから、十キロの行程にはやや不安が残っている。

     旧暦七月二十五日。白露の次候「鶺鴒鳴」。今年は長い梅雨で八月頭に梅雨が明けてからは猛暑が続き、残暑も厳しい。ただ夜になると秋の虫の声が聞こえるようになってきた。
     今日は秋雨前線の影響で終日雨の予報が出ている。家を出る時には降っていなかったので、折りたたみ傘にした。日差しがない分、昨日までの暑さとは違うが、それでも駅まで歩けば汗が流れてくる。湿度が異常に高いのだ。コンビニで取り敢えずおにぎりを二つ買った。
     集合は武蔵五日市駅である。二月以降、電車に乗るのはこれで三回目だ。東武東上線で鶴ヶ島から川越市まで六分、本川越から西武新宿線で小平まで三十分。車窓から雨が降り始めたのが分る。そこから西武拝島線で拝島へは二十分。JR五日市線に乗り換えて十八分で武蔵五日市に到着する。約一時間半、七九七円の行程で、終点の武蔵五日市駅に到着したのは九時四十一分だ。先頭車両から降りるとスナフキンとファーブルも別の車両から降りて来た。
     五日市線には初めて乗ったので、ウィキペディアで確認しておきたい。

    五日市線は浅野財閥の私鉄五日市鉄道が建設したものである。一九三〇年に立川駅~拝島駅~武蔵五日市駅~武蔵岩井駅間が全通し、立川駅~拝島駅間では青梅電気鉄道(現在の青梅線)と完全に並行していた。一九四〇年に同じく浅野財閥の私鉄南武鉄道に合併され、同社の五日市線となったが、一九四四年に南武鉄道が戦時買収により国有化され、本路線も鉄道省の五日市線となった。その際、青梅線と並行し遠回りとなっていた立川駅~拝島駅間は不要不急線として休止され、戦後復活することはなかった。
    ただし、立川駅~武蔵上ノ原駅と、旧・南武鉄道の武蔵上ノ原駅~西立川駅間は現在も南武線・中央本線下り線(立川駅南側)との連絡線(青梅短絡線)として利用されている。

     念のために十時三分発の電車まで待つことにし、おにぎりを買うスナフキンに付き合ってセブンイレブンに入る。おにぎり二つだけでは何となく物足りない気がしてユデタマゴを一つ買った。七十五円だ。「この位の雨だと帽子でいいね。」スナフキンとファーブルは帽子をかぶるが、私は今日持ってこなかった。「どうして?」「探したけど見つからなかったんだ。」普段家の周りを散歩する時には百円の麦藁帽子をかぶっているのだが、今日の天気に麦藁は似合わない。仕方がないから傘を出す。
     駅に戻り、観光案内コーナーで秋川渓谷のパンフレットを仕入れる。マップが付いているので便利だ。壁に貼ってある地図を見て、スナフキンが「これおかしいぞ」と言い出した。最初に行く予定の「深沢小さな美術館」が地図には表示されていないのだ。
     定刻になってもやはり誰も降りてこない。今日は三人に決まった。西東京バス車庫の横から駅の裏手に回ると、目の前には山林が広がっている。五日市町は秋川の流域に沿って開けた山間の町である。平成七年(一九九五)秋川市と合併してあきる野市となった。

     五日市は、関東平野の西端に位置し、西に広がる関東山地から流れる秋川によって開析された渓口集落であり、中世の終わりごろから市が開かれ、山の産物と平野の産物や日用品との交易が盛んに行われていました。
     江戸時代になると江戸の街で消費される炭の需要の高まりによって、炭が主要な取引商品となり、市の規模も大きくなりました。また、山間部の杉・檜は切出され、筏に組んで秋川・多摩川を下ろしていました。また筏の上荷として杉皮なども運ばれていました。
     青梅材と呼ばれるこの地方の材木は、消費地江戸に近いことから、大火の後は飛ぶように売れました。このように江戸の街とのつながりは強く、江戸の情報にも通じていました。
     また、関東山地の山際は、農作物が育ちにくいため桑を栽培し、養蚕が盛んな地域でした。開国に伴って生糸は暴騰し、黒八丈の生産者は大打撃を受けましたが、賢明な農民は増産に励み、養蚕が地域の有力な産業に成長していきました。そのため、海外への積出港であった横浜を通じて、海外の情報にも敏感で、深沢家に残っていた黒船来航時の絵が物語るように、欧米諸国の動向にも目が向けられていました。
     さらに、「市」のまちとして古くから栄えてきたため、村の中には有力な在方商人として財を蓄え、地域の有力者として指導力を発揮するとともに、農民教育も盛んで、地域の外からもたらされる新しい文化を受容する素地も作られていました。(あきる野市デジタルアーカイブ「五日市憲法草案が生まれる素地」)
      http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/kenpou_soji.html

     五日市は要するに山林の集落である。「最初は登り路なんだ。」「その急勾配かい?」かなり急な坂が手前に見えるが、これではなかった。なだらかな登り路だ。
     「これ読める?」道路右端に結界石(戒壇石)が立っているのだが、文字が不鮮明で「不許酒・・・・入」だけしか読めない。最も有名なのは「不許葷酒入山門」だろうが、それとは違う。それに禅宗寺院がある訳でもなく場所がおかしい。「園芸店らしいから、どこかから持ってきたんじゃないかな。」
     帰宅して写真を拡大すると「不許酒肉五辛入山門」であった。酒肉五辛、山門に入るを許さず。但し「山門」は地中に埋もれている。五辛とは、大蒜(ニンニク)、茖葱(ラッキョウ)、慈葱(ネギ)、蘭葱(ノビル)、興渠(ニラ)を言い、要するに匂いのきついものである。「葷」も同じ意味だ。
     「誰も歩いていないな。」車も通らない。途中で、小さな美術館まで二千二百メートル、深沢家跡まで三千メートルの標識が現れた。右手の擁壁の下にはキャンプ場が見える。「もうここまで来たんだね。」深沢渓谷だ。スナフキンとファーブルは猛暑の日に下見をしていたのである。「あの時より早いよ。」雨はシトシト降り続け、頭から汗が流れてくる。時々滝も出現する。晴れた日にはもっと良いだろう。
     所々に架かる石橋は緑に苔生している。丸木を鉛筆のように尖らせてトンガリ帽子の人形にした道標が何本も立っている。これは深沢小さな美術館の道標で「森の妖精ZiZi」というものらしい。「何がいた?」私がカメラを構えているとファーブルが訊いてくる。「シュウカイドウだよ。」「俺はてっきり虫だと思って。」「あの花は?」「キバナコスモス。ロダンが好きな花。」
     「そこで休憩しようか?」有難い。腰が重くなってきたところだった。穴澤天神社。森の中に社が一つあるだけの小さな神社だが、深沢地区の鎮守である。主祭神はスクナヒコナとされるが、おそらく土地神(穴澤)を祀ったものだろう。何度か腰と背を伸ばし、石の上に座る。ついでにたばこも一服する。よし。
     疎らに建つ民家の軒下には薪が積まれている。ここからは三内川に沿って道が上に伸びる。自治会館の前庭には重機が置かれ、土が盛られている。地面を掘っているようだ。この向かいから左の林を十分程登れば「山抱きの大樫」があるらしい。推定樹齢三百年のウラジロガシだと言うが、雨に濡れた草むらに入って行くのはかなり勇気がいるし、私は腰に不安がある。
     少し先を左に曲がれば目的地だ。「何時?」「十時四十五分。」「まだ十一時なってないのか。意外に早かったな。」池のある庭の奥に建物がある、「深沢小さな美術館」である。あきる野市深沢四九二。石で固めた小さな塔に木製のドアが取り付けられている。
     「こんにちは。入って良いですか?」「どうぞどうぞ。」美術館を守る奥さんとスナフキン、ファーブルが挨拶を交わす。「十人位で来るって言ったんだけど、三人だけになってしまって。」入場料は五百円だが、九百円払うとコーヒーが付くと言う。「先にコーヒー貰おうよ。」奥のカフェスペースに座り込んだ。窓からは庭が見え、晴れた日には外のベランダでお茶を飲むことができる。他に客はいない。
     水が旨い。そしてコーヒーとスイートポテトが出される。下見の時、ファーブルはこのポテトに感激したのである。「この人は甘いもの食べないんだ。」「あら残念ですね。でもそんなに甘くないですよ。」「それじゃ食べます。」私も少しは大人になったかも知れない。コーヒーが旨いのは水が良いからだろう。ポテトもそれ程甘くはなく、私でも食べられた。「ちょっと塩を付けるともっといいかな。」「塩を付けると甘さが際立つんだよ。」
     トイレに行って戻るとコーヒーのお代わりが入れられていた。二人は下見の時に見学しているから、私だけ館内を見学する。ちょうど若い男性客が一人入ってきたところだ。「古民家を買って、梁とか骨組みだけ残してあとは自分で改装したんですよ。」そうだったのか。「カフェの部分は増設です。これも一人で。」
     数多く展示している独特なヌード彫刻群は、エロティックな中にも清楚な味わいがある。「本人は、成熟していない少女の美を引き出したいって言ってます。」作者は友永詔三(あきみつ)である。私は知らなかった。

     少女から〝おんな〟にうつろう過程の、ある一瞬の極みとしての美しさを秘めた少女……。多感に揺れ惑う不安定さ、脆さ、時に靭さ、健気さ。それ故に清澄なエロスをたたえつつ、いっそう美しさに輝く少女。友永作品はそうした少女に寄せる憧憬、恋慕を聖少女像として刻み上げたものです。いわば友永の永遠のマドンナたちです。(「友永詔三の造形 木彫・聖少女たち」)
     http://www.art-avenue.jp/avenue4.html

     ロリコンに堕すことなく、清潔な品性を保っていると言える。「この人はどういう?」「主人ですよ。」そうだったのか、ここは友永詔三の個人美術館である。全く無知だから、取り敢えずウィキペディアから引いてみる。

     高知県立須崎工業高等学校、専門学校東京デザイナー学院インテリアデザイン科を経て一九六七年に東宝舞台美術部に入社する。同年、オーストラリアの人形劇団『Peter Scriven's Tintookies』(参考 ピーター・スクリベン(英語版))のオーディションに合格。人形デザインの勉強に専念するため東宝舞台を退社し、翌一九六八年にはオーストラリアに渡る。一九七〇年までオーストラリアでピーター・スクリベン、イゴール・ヒチカ(Igor Hyczka、ロシア、マリオネット美術家)に師事する。
     帰国後、東京デザイナー学院の講師を務めながら、芸術マリオネット劇の上演、美術、演出、人形制作に携わる。
     一九七八年にNHKより人形劇演出のオーディションの誘いがあり、これを受けて採用が決定。『プリンプリン物語』で採用された人形には、関節部分が球体となった球体関節人形があり、操演の難度は高いものの動作の自由度が高く、幅広い表現が可能であった。その後番組終了まで約五〇〇体以上の人形を製作した。
     その後も、人形美術、舞台美術、木版画、木彫、ブロンズ像などの作品を数多く手がけ活躍を続けている。国内の美術館などでは定期的に個展が開催されている。
     現在はあきる野市にある深沢ちいさな美術館を経営しながら了徳寺大学芸術学部非常勤講師を勤めている。

     『プリンプリン物語』の人形群は、ヌードの趣とはまるで違うもので、同じ作者だとは思えない。これはNHKの人形劇であるが、私もスナフキン、ファーブルも見ていない。昭和五十四年(一九七九)四月から昭和五十七年(一九八二)三月までNHK総合テレビで放送された人形劇で、姫やハイジは知っているに違いない。『ラーマーヤナ』に想を得たと言う。
     『卑弥呼――日出る国の女王』の卑弥呼は殆ど等身大の人形だ。大きなキノコをモチーフにした照明もある。こういうものに何かを云々する教養はないが、デフォルメされ、球体関節を使って極端に体を曲げるヌード像には心惹かれた。
     カフェに戻れば、スナフキンが奥さんと深沢家の土蔵の話をしている。「二年前に見学をしたんですよ。」「開いてたんですか?」国分寺市光公民館の記念講座で、新井勝紘氏を講師にして「開かずの土蔵」が開けられたのである。「ちょうど憲法発見から五十周年だったので。」奥さんも新井氏を知っているようだ。スナフキンは新井氏の著書『五日市憲法』(岩波新書)を開いて、サインを見せる。この本は何度も薦められているのだが、買う機会を逸してしまった。
     「新井先生は我々と同世代かな?」「もっと上だろう。」東京経済大学の色川大吉ゼミが憲法草案を発見したのが昭和四十三年である。私が高校二年だから、新井氏が大学四年生とすれば六歳は違う。著書を確認していたスナフキンが「一九四四年生まれだ」と発見すると、「主人と同じです。昭和十九年ですよ」と奥さんが言い出した。
     よくよく話好きな奥さんで、話はなかなか尽きない。この辺はアジサイの名所で、時期になると駐車場が一杯になるそうだ。「この美術館が駅のマップにここが出てなかった。」「駅にはあんまりいかないから気が付かなったわ。観光協会かしらね。」「言っといた方が良いよ。」「そうね。今度確認してみますよ。」
     もう十二時だ。「お弁当はお寺ですか?」スナフキンの予定では近くの真光院(臨済宗建長寺派)の四阿で食べることになっている。「この間は声を掛けても誰も出てこなかったんですよ。」「真光院さんも耳が遠くなってね。だけど今日は雨だから、ここで食べても良いですよ。」「それなら甘えちゃおうか。」
     買って来たのは鮭と明太子だ。ユデタマゴは微かに塩味がする。必要もないのに慌てて食ったものだから、ちょっと咽が詰まる。ユデタマゴが余計だったか。そこに奥さんが水を追加してくれる、有難い。水だけでさっきから五杯も飲んでしまった。ファーブルはおにぎり三つ買って来たが二つで腹が一杯になってしまった。彼が札幌土産のお菓子を奥さんに渡した。「有難うございます。」
     十二時十五分。随分ゆっくりしてしまった。「また紅葉の時期にでも来てください。」今日欠席した人たちも含めてもう一度来ても良い。但し十二月から三月は路面凍結のために休館する。池には段差が設けられ、そこにガラス版が嵌め込まれているから、魚が横から見える。白い魚が二匹。「フカじゃないか?」

     真光院の駐車場のトイレにファーブルが駆け込んでいる間に寺に行ってみるが、特に見るべきものはない。あきる野市深沢二三番地。本堂に上がる石段脇に自然石に「寒念仏」と彫った碑があり、小さな池にスイレンが二輪咲いている。本堂には人影がないが、耳の遠い年寄りが住んでいるだけなのだ。
     その先を右に入る細い道の角、大内橋の袂に深澤家屋敷跡の立て札が建っている。少し高台になった所に黒塀と門があり、通用口から腰をかがめて中に入る。あきる野市深沢七番地。石垣を回り込むと敷地は雑草に覆われているだけで、ここに屋敷があったのだろう。「下見の時は、イノシシに掘り返された跡ばっかりだったよ。」「そこもそうじゃないの?」
     その片隅にあるのが土蔵だ。但し憲法草案が発見されたときには茅葺の屋根は破れ、壁も半壊した廃屋だった。

     ・・・・・「明治百年祭」がおこなわれた一九六八年の夏、私はこの官製の祭の意図を日本民衆史の底辺から狙撃すべく、新史料を草の根わけてさがしていた。
     そんなある日、私と学生たちは武蔵五日市駅から渓流にそって山道を四キロほどのぼった文字通り深い沢の村にはいりこんだ。戸数二、三十戸ほどの深沢部落。だが、そこには「あかずの蔵」があり、万巻の書が眠っているかも知れないと言うことを、私はある人の証言を読んで知っていた、かつては名主邸を誇っていたその深沢家も、今ではまるで廃墟で、門と、たったひとつの半壊の土蔵が残っているにすぎなかった。
     同行してくださった深沢一彦氏とともにトビラをあけてみると、階下の文書は腐朽がひどく、手のつけようもない。だが、階上の一部が助かり、その文書群の中から、毛筆で浄書した憲法の草案と、数百冊の書籍やメモ類が発見された。もう一年遅かったら、あるいはそれも、はがれた土蔵の屋根からの湿気の侵入で、判読不能におちいっていたであろう。(色川大吉『新編明治精神史』)

     古びた行李を開けると風呂敷包みの中に、「日本帝国憲法 陸陽仙台千葉卓三郎草」と毛筆で書かれた二十四枚の和紙が入っていた。それを最初に手に取ったのが、色川ゼミの学生だった新井勝紘である。最初見たときは大日本帝国憲法の写しかと思った程、私擬憲法草案のことは頭になかった。それが千葉卓三郎起案の憲法草案であり、この後、五日市憲法草案を名付けられることになった。
     これが発見された昭和四十三年(一九六八)は世界史的にも記憶される年で、小熊英二も「1968」を書いた。チェコではドプチェクが第一書記に就任し、プラハの春が始まった。中国の文化革命も同じ時期である。東大闘争が始まりフランスでは五月革命が起こった。カルチェラタン。国際反戦デーで新宿駅が学生に占拠された。三億円事件が起きた年でもある。フォーククルセダーズの『帰って来たヨッパライ』が流行った。私はまだ高校生であるが、世界に何の希望も見出せないでいた。
     当時の日本史の教科書には勿論この憲法草案の記述はない。まだ土佐立志社の植木枝盛の私擬憲法位しか知られていなかった筈で、全国各地から膨大な憲法草案が発見されるきっかけにもなった事件である。

     私たちは、あらためてこの家の主人、深沢名生(なおまる)、権八父子のはげしい知識欲に圧倒された。さらに深沢名生が筆写したペリー歓待のスケッチや安政の和親条約の全文の文書群、佐倉宗五郎、大塩平八郎吉田松陰、高野長英、雲井龍雄、田母野秀顕、赤井景韶ら権力に抗して刑死した一連の〝叛徒″たちに寄せたかれらの共感のメモと詩を発見するにおよんで、驚き、かつ感動した。(色川・同書)

     一段高い裏山が深澤家の墓所となっている。大木が倒れて入ることは禁止されているが、今回だけ見逃して貰うことにする。ぬかるんだ地面に足を取られないよう慎重に行く。
     杉の大木の根元に深澤家之墓、その隣が左衛門尉清水茂平(と読めるようだ)墓、そして権八深澤氏之墓が並んでいる。その他十数基の墓石が立つ。深澤家之墓の後ろには、先祖代々を供養する板塔婆が立てかけられている。それ程古くない。
     清水姓の墓が何故あるかと言えば、深澤家は江戸時代には清水氏を名乗る筏師の元締めであった。清水茂平は名生の父、権八の祖父である。八王子千人同心の株を買ったのはこの人物かも知れない。午前中に休憩した穴澤神社の神官も務めていた。明治なって名生が地名を採って深澤に改名した。
     「権八深澤氏って書くか?」もしかしたら英語風の書き方を真似たものかも知れない。千葉卓三郎がタクロン・チーバー氏と名乗った例もある。
     深澤権八は名生の長男として文久元年(一八六一)に生まれた。明治六年(一八七三)学制による小学校として勧能学舎が創設され、十二歳の権八はそこに入学する。初代校長は元仙台藩士、戊辰戦争の際には農兵隊を率いて戦った永沼織之丞である。反薩長藩閥の意識はこの永沼からも受けついでいただろうと、色川は推測している。

     もとより権八の教養は、多くその父名生から受けた伝統的なものであったろう。かれにとってその観能学舎時代はわずか一、二年二しかすぎず、彼はすぐに卒業して、今度は学務委員として外から村の子弟の教育や教員の面倒を見ることになる。そして、明治十二年、五日市学術討論会をひらいて都市知識人と交流し、ここに言論による政府攻撃の運動、自由民権運動の火蓋を切ったのである。(色川・同書)

     千葉卓三郎は仙台藩郷士の子として嘉永五年(一八五二)栗原郡志波町に生まれた。十六歳で戊辰戦争に際会し、白河口の戦いで新政府軍に敗れて逃走した。明治になって各地を放浪した挙句、五日市に定着し権八と出会う。そして勧能学舎の補助教員から進んで二代校長になる。「自由県下不羈郡浩然の気村住人。ジャパン国法学大博士タクロン・チーバー氏」と自称した。しかし結核がその体を蝕んでいた。

     なぜ千葉が五日市に定住する決心を固めたか?(中略)なによりも五日市がかれにとって魅力のある「場」になっていたからにちがいない。そしてそれは、深沢、土屋、内山らを中心とした五日市学芸講談会や勧能学校や村の自治体が、他所では見られない創造的なコミュニティをつくり出していたためだろう(明治十二年から五日市では月三回ずつ学術講演会が開催され、互いに知弁を闘わしていた)。五日市の自治体は自由民権家馬場堪左衛門(町長)らが握っており、五日市地方の教育や経済や社会組織はことごとく同志の内山や土屋や深沢らの手中にあったのである。そのため警察官までがかれらに同調したり、職をなげうって民権運動に参加したりするという雰囲気がつくられていた。(色川・同書)

     筏師は秋川から多摩川を三日から一週間かけて下り、六郷で荷を売買する。帰途は府中を経由する「いかだ道」を歩いた筈だ。名生と権八は上京の度に書籍を買い集め、それが深澤家の私設図書館の様相を示すようになり、同志たちの学習の参考書になったのだ。
     各地で検討が進められた私擬憲法(現在約六十程見つかっている)は、国会期成同盟の第三回大会に持ち寄って討議される予定だった。しかし明治十四年(一八一一)十月十二日、政府は「国会開設の詔」を発し、国会を開設することと欽定憲法を作ることを発表した。「欽定」ということは、つまり民間の憲法草案は議論のマナイタに載せることさえ出来なくしたのである。

     卓三郎は、明治一六(一八八三)年一一月一二日、わずか三一歳と五か月の短い生涯を閉じた。その死に大きな衝撃を受けた深沢権八は、悲しみから立ち直るべく、親友の志を憐れんで次の一詩を草した。
        悼 千葉卓三郎
      憶へば君の域は風濤を捲き
      郷友の会中もつとも俊豪
      雄弁は人推す米のヘンリー
      卓論は自から許す仏のルッソー
      一編嘗て草す済時の表
      百戦長く留まる報国の力
      悼殺英魂呼べど起たず
      香烟空しく鎖す白楊の皋 (色川大吉『明治の文化』)

     そして深沢権八もまた明治二十三年(一八九〇)十二月に二十九歳で死んだ。五日市憲法草案の全文は「あきる野市デジタルアーカイブ」でPDFを手に入れることもできるので、是非一読して欲しいと思う。こうして、根本史料を無料で公開してくれるのはとても有り難い。

    現在発見されている自由民権運動期の私擬憲法の中でも、国民の権利の項目に多くの条文が割かれており、現在の「日本国憲法」と比較しても引けを取らない民主的な内容を含んだ憲法草案であること、五日市地域の有力者や若者たちを中心に学習結社「五日市学芸講談会」を組織し、憲法に関する討論会や学習会を実施しており、自由民権運動から憲法草案起草に至る経過がわかることが高く評価され、東京都の有形文化財にも指定されています。http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hyouka.html

     この山の奥には「千年の契杉」がある。樹齢三百年以上、幹周り約七・八メートル、樹高約四十五メートルの巨木で、分かれた幹が上部で繋がっているのだそうだ。
     ここから再び山を下る。「この花はなんだろう?」ファーブルの言葉でスマホを開いてみた。妻が植物図鑑のアプリを登録してくれたのである。「アレッ?」やり方が分らない。教えて貰った時にはできたのだけれど。その時ファーブルが「ムクゲじゃないか」と言い出した。確かにムクゲである。なまじスマホに頼ろうとして観察がおろそかになっていた。これではスマホ馬鹿になってしまう。反省しなければならない。
     ところで私は十五年程も会社支給のガラケーを使っていたのだが、この四月末で会社を辞めると同時に返納した。ガラホと言う選択肢もないわけではなかったが、家族割引があると言うので、妻、息子と同じスマホを買ったのである。
     途中、二又になった所で車に呼び止められ、ファーブルが応接した。「なんだって?」「美術館の場所を訊かれたから、真っ直ぐだって教えた。」「五人位乗ってたんじゃないか。」「習志野ナンバーだった。」知る人は知るのである。
     朝登って来た道とは違って平坦かやや上り坂の道を行く。「あんなに登ってきたんだね。」腰が重くなってきた。腰が少し曲がり、前のめりになるから足が上がらず、地面を擦ってしまう。「おっと。」「どうした?」胃液が逆流してきたようで、一瞬息ができなくなったのである。「少し休もうか?」「大丈夫。」腹に大量についた脂肪が胃袋を圧迫しているのかも知れない。二三分立ち止まって息を整えて歩き出す。
     やや登って来た道がまた下りになった。「これを過ぎたところじゃないんだよね。」「もう一つ登って下ったところだよ。」ガードレール沿いに大きなパンパスが生えている。「パンパスっておむつ?」「違う。パンパスって言うんだと思う。」あんみつ姫かハイジに教わった記憶がある。「そう言われれば、昔習ったことがあるような。俺は草地学科だったからね。」イネ科シロガネヨシ属の多年生植物で、南米の草原(パンパス)を原産地とするからパンパスグラスと言う。
     やがて町に近づいてきた。五日市中学校の敷地の角に「五日市憲法草案の碑」が建っている。あきる野市五日市四〇九番二。深澤と千葉を記念して、ここと千葉の生誕地宮城県志波姫町、墓所のある仙台市資福寺の三ヶ所に建てられたものだ。
     草案の中から、四五、四六、七六、七七、八六,一九四条が抜粋記載されている。ただ何故か、町田市の資料館作成のものと一条ずつずれているのが不思議だ(町田市のものは、四六,四七のようになっている)。

    四五 日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ
    四六 凡ソ日本国民ハ族籍位階ノ別ヲ問ハス法律上ノ前ニ対シテハ平等ノ権利タル可シ
    七六 子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス然レトモ小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス
    七七 府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県の自治ハ各地の風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権威ハ国会ト雖トモ之ヲ侵ス可ラサル者トス
    八六 民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝の起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス
    一九四 国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ

     歴史にifはないが、もし一九四条が生かされていれば幸徳秋水も北一輝も死刑にならずに済んだ。そして五日市憲法発見者の色川大吉は、実はhistorical ifを追求した歴史家だと言っても良い。色川の「未発の契機」と言う方法論こそは、実現されなかった歴史の可能性を明らめるものだからである。
     次はあきる野市役所五日市出張所だ。あきる野市五日市四一一。萩原タケの胸像が建っているのだ。「萩原タケ女史 人道のために国家のために」。私はこの女性のことを知らなかった。
     タケは明治六年(一八七三)二月七日、神奈川県西多摩郡五日市村 藁屋を営む喜左衛門・ちよの長女として生まれた。家は貧しく、弟五人の子守をしながら勧能学校に入学し、優等の成績を修めたものの、三年程で退学した。その後、『女学雑誌』の通信教育を受け、上京して両国矢ノ蔵の桜井産婆学校に入るも学費が続かずに一年で辞めざるを得なかった。
     それでも向学心は抑えられず、明治二十六年(一八九三)二十歳で日本赤十字社看護婦養成所に七期生として入学する。明治二十九年の三陸大津波に派遣、日清日露戦争に従軍。伏見宮家、山内公爵夫人に同行してパリに行き、約二年間ヨーロッパで活躍した。明治四十三年(一九一〇)日本赤十字病院の看護婦監督に就任。日本看護婦協会初代会長として、大正九年(一九二〇)第一回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞した。世界各国の受賞者五十二名中、日本からは萩原タケ、山本ヤヲ、湯浅うめの三名が選ばれ日本人初の受賞者となった。
     どの世界にも偉い人はいるのである。あきる野市はもっと宣伝して良いのではないか。「中に展示があるんだ。」出張所の中に入ると男二人がこちらを見つめる。「上、やってますか?」よく聞き取れなかった者か、スナフキンがもう一度「資料館開いてますか」と訊くとやっと反応した。「どうぞどうぞ、今日初めて三人様。ただ、冷房はいれてませんが。」
     エレベーターで三階まで上る。萩原タケの説明は勿論、あきる野市ゆかりの人物のコーナーがある。深澤権八、千葉卓三郎は今回の散策で最も重要な人物である。他に三ヶ島葭子、丸山惣兵衛、疋田浩四郎、坂本龍之輔、田中丘偶、岸忠左衛門、鈴木寛太郎(貫太郎ではない)等。
     三ヶ島葭子はアララギ派の歌人で、異母弟に左卜全がいる。入間郡三ヶ島村(所沢)の生まれで、西多摩郡小宮尋常小学校(現・あきる野市立小宮小学校)の代用教員をしながら与謝野晶子の門下になった。上京して島木赤彦門に入る。生涯に詠んだ歌は六千首以上と言う。折角だから  あきる野市デジタルアーカイブからいくつか拾っておこう。

    名も知らぬ小鳥きたりて歌ふとき我もまだ見ぬ人の恋しき
    薪折るくりやの音を夕ぐれの奥の間に聞く心もとなさ
    あめつちのあらゆるものにことよせて歌ひつくさばゆるされむかも
    寂しさを歌ふ人なくなりし時ろをまの国は亡びしときく
    昨日までけふの昼まで君と見し山くれはてて雁鳴きわたる
    秋雨に濡れつつ君が越えゆきし山に灯一つともる夕ぐれ

     田中丘偶は川崎宿を歩いた時に聞いた記憶がある。武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都あきる野市平沢)の名主の家に生まれ、川崎宿本陣の田中兵庫の養子となって家督を継いだ。大岡越前守に見いだされ、治水に功があった。
     それよりも広くスペースを取っているのが、隣の部屋に展示されている映画『五日市物語』関連だ。あきる野市制十五年を記念してつくられた。

     渋谷の情報収集会社に勤める主人公友里は、「五日市は今・・・平成の大合併のさきがけの街から」というテレビ番組の情報収集のため、あきる野市にやって来た。取材を進めていくにしたがって、五日市の歴史、自然、そこに住む人のパワーに惹かれていく友里であったが、番組が延期になり取材は中止となってしまう。
     しかし、五日市に強い魅力を感じていた友里は、退職してまで夢だったルポライターとして五日市の素晴らしさを多くの人に伝えようと、泊り込みで取材活動を始めた。その中でさまざまな人との出会い、興味深い歴史などに引き込まれていき、やがて友里は、五日市が自分にとっての“ふるさと”ではと思うようになっていく・・・。
     http://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000002555.html

     椅子に座って少し休憩する。やはり時々は座って腰を充分休ませなければならない。「煎餅あるけど食べる?」ファーブルに訊かれても、まだ胃の具合が万全でない。エレベーターを降りて出ようとすると、さっきの男性に声を掛けられた。「これを是非。」あきる野市のパンフレットである。「それは朝、駅で貰って来たよ。」「この辺は城跡が多いんですよ。」戸倉城から西に一直線に城跡がある、それは自分で考えて発見したと言う。この辺りは北条の支配下にあり、山城(砦)が一直線にあるのは理解できる。
     「郷土館はどうしようか?」憲法草案関係の資料も展示されているようだが、腰が限度に近くなってきたのでパスしたい。
     檜原街道に出ると、街路樹はサルスベリの並木になって、濃い赤、ピンク、白っぽいピンクが混じって並んでいる。「サルスベリの並木は珍しいんじゃないか?」地元ではサルスベリ街道と呼んで、八月一日から九月十四日まで夜間はライトアップすると言う。
     信号を渡って街道の南側に出る。五日市出張所前の交差点を南に下れば阿伎留神社がある。「これがあきる野市の由来だろう?」そうだと思う。天気が良くて体調が万全だったら寄りたいところだ。折角だからウィキペデイアで確認しておきたい。

     創建は不詳であるが、『延喜式』神名帳に武蔵国多摩郡八座の筆頭に記載されている、同国著名の古社である。
     社名は「阿伎留」「阿伎瑠」「秋留」「畔切」などとも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。また現在の宮司家は創立以来七十余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。
     天慶三年(九四〇年)鎮守府将軍の藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(京春日)を勧請したことから、中世以降「春日大明神」と称された。また鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれた。

     「そこの寿美屋が有名だよ。」蕎麦うどんの製造元で通販もしている。食事をするには隣の寿庵忠左衛門の方になる。ファーブルは西武信用金庫の向かいの駐車場を突っ切ろうとするが、「そこは行けないんじゃないか」とスナフキンから呼び止められる。案の定行き止まりだ。「もう少し先なんだよ。」
     メロン薬局の角を右入れば空き地に小さな観音堂が建っている。ここが勧能学校跡である。あきる野市五日市一六四。今は観音堂だが、かつては太子堂とも呼ばれていた。

     東町太子堂は、宝永年間(一七〇四~一七一一)に馬場某が開基となり、観音堂として創建、その後再造に際して本尊を観音像から聖徳太子像へ変え、太子堂と呼称するようになったといいます。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿には、当時本尊聖徳太子立像の他、馬頭観音立像、抹香煉觀音立像、阿弥陀如来坐像を有していと記しています。阿弥陀如来像は江戸初期の作とされ、あきる野市有形文化財に指定されています。明治維新後には、五日市小学校の前身となる勧能学校が明治五年に太子堂で開校しています。(猫の足あと「東町太子堂」)
    https://tesshow.jp/tama/akiruno/temple_izkaichi_east.html

     「これで今日のコースはおしまい。」あとは駅に戻るだけだ。五分程歩いて駅に着いたのが二時四十分。次の電車は三時三分だ。「行っちゃったばっかりか。」日中は三十分に一本しか走らないのだ。取り敢えず座りたいのでホームに登ってベンチに腰掛ける。その間にスナフキンはシャツを着替えて来た。ファーブルの万歩計で一万七千歩。予定通り約十キロというところだ。
     三時三分発拝島行きに乗り、十七八分で拝島に着く。JRに乗り換えて立川駅下車。まだ四時前だと言うのに居酒屋は若い連中でほぼ満席状態だ。女子二人と言う組み合わせも結構ある。日本はこれで良いのか。
     まだランチメニューの時間帯で、つまみ三品飲み放題で一人二千円だ。つまみは店のお任せで、ポテトサラダ、もつ煮込み、玉子焼きが出た。最初は勿論ビール。その後ファーブルはビールを飲み続け、スナフキンと私は日本酒に切り替える。
     隣のテーブルの七八人のグループが喧しい「同じ会社みたいだな。」とにかく声が大きいので私たちの話し声さえ聞きずらい。ランチタイムが終わった辺りで少し空いたようで、ファーブルが頼んで別の席に移動した。私は何度も箸を落してしまい、その都度、店員に笑われながら代わりを受け取る。
     「初めて秋田出身の総理大臣ができるじゃないか。」ケッ。「集団就職で上京したなんて、あの当時はもう集団就職なんかなかった。」「伝説を作りたいんだろう。」
     久し振りに外で飲む酒は旨い。と言っても二週間前にこの三人で飲んだばかりだけれど。雨も酷くはならず、時折は傘をすぼめて歩くこともできた。何より猛暑で無かったのが有難い。コースも以前から期待していたところなので、私は充分満足した。かなり草臥れたが腰も何とかもってくれたので少しは自信が付いた。この辺なら秋川渓谷も歩いてみたい。いつかスナフキンが企画してくれるだろう。

    蜻蛉