「東京・歩く・見る・食べる会」
第九回 赤塚編   平成十九年一月十三日

投稿:   佐藤 眞人 氏     2007.01.22

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 東武東上線の下赤塚駅は池袋から約十五分、板橋区の最西部に近い。各駅停車しか止まらない小さな駅だが、駅前から伸びる壱番街という商店街は朝から賑やかだ。前回一番遅くなって講釈師や松下さんに叱られたから今日は随分早めに来た積もりなのに、改札口を出るともうリーダーが到着していて合図してくる。坂戸の住人中島さん(住職と呼ばれる)もこの会には初めての参加で、「出口がどっちか分からなかったよ」と文句を言いながらやって来た。「そうか、俺、北口って言わなかったかも知れない」と三澤さんが謝る。
 江口快歩宗匠、平野さん(その森羅万象にわたる知識に敬意を表して、松下さんはこの頃「入間の熊楠」と呼び名をつけた)、久しぶりの新井画伯、それにあっちゃんが声をかけたので杉戸の住人、橋口さん、三木さんの二人の女性も参加した。橋口さんの顔には見覚えがあって挨拶していると、あっちゃんが商店街の方から現れた。「だって四十五分も前に着いてしまって、お土産を買ってましたよ。」
 松下さんがなかなか姿を見せない。「南口に行ってるんじゃないでしょうね」と彼女が心配していると、十時ぎりぎりになってダンディ松下が現れた。今日も初めて見る帽子を被っているが、海外旅行をする度に帽子が増えるようだ。これで総勢十人が集まった。講釈師、宗匠、住職、熊楠、画伯、ダンディ。こうして集まると、みなそれぞれ二つ名を持つ人ばかりだ。今度、鈴木さんにも何か名をつけなければいけない。
 「今日は佐藤さんがリーダーじゃないから、晴れましたね」と松下さんに冗談を言われるまでもなく、それは私が気付いていたことだ。リーダーが得意気な顔をしている。神頼みや運勢、験かつぎには全く縁がないが、やはりちょっと悔しい。
 「鈴木さんはどうかな」「年末に手術したばかりだから今日は無理でしょう」「歩くのは駄目でも、夕方になったら連絡してくるんじゃないですか」そのやりとりに皆の笑いが起きる。

 今回のコースは三澤講釈師が企画した。原稿を貰って案内文を作った私の見積では、これでは早く終わってしまう。反省会(つまり飲む店です)の場所を探すのが大変だろうと勝手に後半部分を少し付け加えてみたが、その案は会う早々リーダーに却下されてしまった。私は蓮根(平野さんお薦めの植村直己の冒険館がある)、あるいは志村の方面(熊野神社・志村城跡・総泉寺・一里塚・小豆沢公園など)に抜けるコースを考えたが、リーダーは当初の予定に入れていない赤塚の氷川神社に回って、成増に帰るコースに執着している。「乳房榎に所縁の木があるんだよ。」
 リーダーを自覚して、三澤さんは地図を用意していた。最近、獨協大学の先生と一緒に学生サークルを引率して歩いたと言う。平野さんも二三日前にほぼ同じコースを歩いていたから別の地図を用意してくれた。平野さんは昔この辺に住んでいたことがあり、とても詳しそうだ。新井さんも徳丸(東武練馬の辺)に住んでいたことがあり、四十年後の変貌を確かめたいと期待している。地図を貰って「会費はおいくらですか」と尋ねる杉戸の女性に、「会費は要らないの」とあっちゃんが説明してくれるが、「でも戴けるものなら千円でも一万円でも戴きます」と私は貪欲なことを口走る。

 板橋区の東部には中山道最初の宿場である板橋宿があって賑わいをみせていた筈だが、この辺りは、川越街道を挟んで南には練馬があって、北側の赤塚たんぼ、徳丸たんぼを含めて、江戸府内へ米野菜を供給する農村地帯が広がっていた。将軍の鷹狩りをする地域や砲術調練の場所もあり、水田、畑の周りにはおそらく一面に葦や薄の生い茂る荒涼とした土地が広がっていたのだろう。
 武蔵野台地の西北部にあって、高台と低地や谷津が複雑に入り込み、ハケからは関東ローム層の粘土層の下に染み込まない水が湧き出る場所が多い。古代の多摩川の扇状地だから、丘と谷との境が交錯していて、上り坂かと思えば下りになる。地学や地理に全く疎いので、この機会にちょっと勉強しようかと、貝塚爽平『東京の自然史』を開きかけたが、私の頭脳構造では簡単には理解できない。高台を利用して戦国時代には赤塚城が築かれ千葉氏が拠ったが、やがて後北条の勢力が関東一円を覆う。秀吉の小田原攻めで後北条が没落するまでは千葉氏の支配下にあった。今日のコースはその千葉氏に所縁の場所を巡ることになる。

 「ふわっとどら焼きがお薦めだよ。そこのお店だから、みんなお土産に買っていけば。」出発する前に、講釈師が頻りに薦めるが誰も買おうとしない。むっとしながら、リーダーは赤塚中央通からすぐ右に曲がって、出世稲荷に向かっていく。これもコースの案には入っていなかったところだ。「えーっ、私さっき行ってきましたよ。だって予定に書いてないんだもの」とあっちゃんが嘆く。「赤塚で信仰を集めた神社だから、行かなくちゃいけない」と講釈師は構わずに歩いていく。
 農家の片隅にあった稲荷だというから小さなもので、境内と言うほどのものもなく、ただ空き地にぽつんと社殿が建っているだけだ。注連縄にラップが巻いてある。「これを巻いて置かないと一年で真っ黒になってしまうんだ。」
 もう誰も出世には縁はない筈だが、最長老の住職が「お礼参りだよ」と上手いことを言う。私はお礼を言うほど出世していないから拝礼はしない。大木の上の方にはカラスが巣をつくっているのが二つ見える。「二羽が同時に営巣する筈はないから、新旧の巣でしょう」というのは、バードウォッチングが趣味で鳥の絵を描き続けている画伯だ。住職と画伯に向かって「長老」と言えば、画伯は「私は小長老」と謙遜するようなことを言う。若いと言っているのだろう。
 細い桜が一本だけ淋しく咲いている。「ヒガンザクラでしょ」あっちゃんが言うと、「ヒカンサクラ?カンヒザクラとも言いますよね」と松下さんが確認する。植物に詳しくないといつも謙遜しているダンディだが、思いがけないところで知識を披露するから油断がならない。私は全く知らないから、図鑑で調べて報告するだけにする。
 緋寒桜(別名寒緋桜)はまだ寒い早春に、新しい葉より先に、緋色または濃桃色の小花を、枝一杯に咲かせるというから、伊豆の河津桜のようなものだろうか。それならばもっと毒々しいような色を見たことがある。河津桜は寒緋桜と大島桜との自然交配種だ。今見ている桜は色が白っぽいから違うだろう。もうひとつの彼岸桜というのは春の彼岸の頃に咲く、淡紅色の花が可憐な桜だ。彼岸にはまだ間があるが、暖冬だから慌てて早めに咲き始めたのかも知れない。
 もう一度赤塚通りに戻って北上しておよそ五分。狭い路地との交差点に鎌倉道の小さな標石があり、その上には甲冑姿の武士が乗っている。鎌倉古道が流行っているのだろう、あちこちで標識を見かけるが、この標石は新しい。「このあいだ来た時は、真っ黒に塗られていた。暴走族がスプレーをかけたんだ。ボランティアが一所懸命拭っていた」と講釈師が憤慨する。左方向「かまくら」、右方向には「はやせ」と記されていて、地理に弱い私は、鎌倉への道のりと比較して、東は相当遠い場所だろうと思っただけだが、松下さんが戸田市の早瀬のことだと突き止めてくれた。この辺りは川の流域の変化に加えて高島平の造成の影響もあるから、本来の鎌倉道は完全には辿れない。(鎌倉道が完全に辿れないのはここだけではないけれど)
 民家の塀から枝を伸ばしている蝋梅を指差して「ソシンロウバイ」だと平野さんが教えてくれる。「花の内側が赤くないのがソシン、赤いのは単なる蝋梅。」あっちゃんも平野さんもソシンの字を度忘れしてしまったと言うので、調べてみれば素心蝋梅と書く。芯に色がついていないから素心か。この会は江戸東京歩きが主題なのに、植物にも気を配らなければならず、私はメモをとるのに忙しい。ところが殴り書きをするものだから、自分で自分の書いた文字があとで読めないことが多い。情けない。
 通りと直角に交差する「緑道」で立ち止まって、もともとは前谷津川が流れていたところだと、武蔵野台地の特徴について平野さんが説明してくれる。平野さんが地図に青線で書いてくれた元の河流は、このあたりから真っ直ぐ東に流れ、徳丸六丁目の不動通り辺からほぼ直角に北上して新河岸川に至っている。

 交差点を左に曲がると古いお堂に出る。松月院境外堂で、普通にはただ大堂と呼ばれる。年代不詳の古い古墳の上に、平安初期に阿弥陀堂が建てられた。七堂伽藍をもつ大寺院だったというのだが、永禄四年(一五六一)上杉謙信が小田原攻めをしたときに大部分が焼失し(つまりその頃、この辺は後北条氏の支配下にあったことが分る)、この阿弥陀堂と梵鐘だけが残った。大寺院だったという往時の面影はなく、寂びれたと言っても良いだろう。鐘楼に吊るされた銅鐘は暦応三年(一三四〇)鋳造というから由緒古いが、実はこれはレプリカで、本物は区立郷土資料館に展示されている。鐘楼の前に、ヒビがはいる恐れがあるから鐘を撞いてはいけないと、わざわざ注意書きが記されてあるから、これが本物かと勘違いしてしまう。「だって、そう思いますよね」とあっちゃんが言うのは尤もな話だ。
 榧の木を前にして平野さんが葉に触ってみろと言う。小さな葉っぱのくせに棘があって生意気に痛い。榧に似ていても痛くなければ犬榧なのだ。「カヤは痛い」と復唱しながらメモをとる。「あっ、佐藤さんが勉強している」と松下さんが冷やかす。植物関係に全く白痴同然なのが私と二人だと、松下さんは常々言っているが、私とは違って結構詳しいのはさっきの桜で分る。狭い脇道から階段を下りて赤塚中央通りに戻る。

 松月院について、山門右隣の交番の脇に寄ってみると、榎の傍らに「怪談乳房榎」の石碑がある。円朝がモデルにした松月院の榎の四代目という。この話については第七回目の南蔵院のところで書いた。「どんな話でしたか」と画伯が尋ね、講釈師が説明しているのだが、ちょっとおかしい点もあるような気がする。この寺はもともと真言宗だったが、延徳四年(一四九二)、千葉自胤が赤塚城に入った時、曹洞宗に改宗させた。万吉山宝持寺と号す。本尊は釈迦如来。
 山門を入ってすぐ右には樹齢百年のヒイラギが生えている。「松月院のヒイラギ」という説明板によって葉をよく見ると、同じ木についている葉なのに、下のほうは葉が鋭くギザギザになっている(鋸歯という)のに、上の方の葉は丸い。若い枝についているのは角があるが、古い枝では丸くなり、人生に似ているという説明を読んで「年齢を重ねて精神円満になるんですよ、皆さんのように」と、あっちゃんが無理してお世辞を言うが、それとも磨り減ってしまうのか。私はまだ丸くはなっていないようで、会社では年下の役員に「大人になってくださいよ」といつも言われている。
 宗匠と一緒に昔懐かしい井戸のポンプを上げ下げしていると、画伯が四十雀を発見する。松下さんが「よく見つけますね」と驚くが、「好きだから発見するんですよ」と答えておく。私や松下さんは鳥に全く関心がないから発見しないのだ。講釈師は「ネクタイがあるだろう」と言うが、何のことかまるで分らない。だいたい、小さな鳥は全て雀だろうと思っているから、私は注意して見たこともない。
 高島秋帆が徳丸ケ原で洋式砲術の調練を行なった際、この寺をその本陣として利用したことに因んで、大砲を模した顕彰碑「火技中興洋兵開祖碑」が建っている。「子孫繁栄祈願にもなっている」と講釈師が橋口さん、三木さんに説明している。私はとても口にできないが、宙に向かって聳える砲身が何かの形に似ているからだ。しかし、橋口さん、三木さんはさすがに大人の女性だ。顔色も変えずに肯いている。
 秋帆は長崎町年寄の家に生まれ、オランダ語と砲術を学び、高島流砲術を完成させた。アヘン戦争(一八三九)に衝撃を受け、西洋流砲術採用の意見書を提出して認められ幕臣となった。老中水野忠邦の命によって徳丸ケ原で調練を行なったのは天保一二年(一八四一)五月九日のことだ。門弟百余人、大砲四門、小銃五十挺を使用した。もともと寛政二年(一七九〇)から、徳丸ケ原は幕府の砲術訓練の地と定められ、毎年六、七月には大砲訓練が行なわれていたのだ。伊豆韮山の代官で、お台場を築いたことで有名な江川太郎左衛門も秋帆を師と仰いだ。
 その後、秋帆は蘭学嫌いの鳥居耀蔵の讒訴で十三年十月獄についたが(前にも書いたが、渡辺崋山、高野長英も耀蔵のために死んだ)、十年の後(嘉永六年八月)許されて、安政二年(一八五五)設立された幕府講武所砲術師範となる。慶應二年正月、六十九歳で没。
 遥か後、日本住宅公団が徳丸ケ原を買収して大規模団地を造成した時、秋帆にちなんで高島平と名を改めた。

   リーダーが先頭にたって墓地に入り、赤塚城主千葉自胤の墓に出る。最初にも記した通りこの辺り一帯は千葉氏に所縁があるのだが、千葉氏については後でまとめて書くことにする。五輪塔が数基並んでいる。「五輪塔」という用語も私は最近ようやく知ったばかりだ。高さ七、八十センチ程だろうか、年末に川越を散策した時に見た河越太郎の墓とよく似ている。私が下手な説明をするよりは、これを見てもらおう。

 ――細部を切り捨てて展望した場合、わが国における墓の歴史にはすくなくとも三つの大きな画期があったと思う。第一が前方後円墳が築かれた直後、第二が五輪塔墓がつくられた画期、第三が石柱墓が盛行しはじめた画期である。
 ――第二の画期を告げる五輪塔形式の墳墓は、平安時代中期からつくられはじめ、各時代をつらぬいて現代にまで生きつづけている。当初は高僧や貴族、武士の墓としてつくられたが、素材や形式の簡略化とともに次第に一般に浸透し、いわば墓の古典として後世に大きな影響を及ぼすことになった。
 ここで特に注意すべきは、この五輪塔墓が日本においてはまったく独自に生み出された墓であるということである。周知のようにこの墓は、下方から四角・円・三角・半円・団(如意宝珠形)の五輪を積み上げた形になっている。そしてこの四角・円・三角・半円・団は順に地・水・火・風・空の五大要素をあらわすとされた。これはインドで発達した密教の考え方によるものであり、五大要素を五輪というのもそこからきている。密教によれば、地・水・火・風・空はすなわち宇宙をあらわしたものであるから、五輪塔墓も宇宙を象徴的にかたどったものということになろう。(山折哲雄『仏教民俗学』)

 次にリーダーが目指したのは下村湖人の墓だ。湖人は佐賀の人。台北高等学校長を最後に公教育の場を離れ、青年団運動や社会教育の道に入っていく。あっちゃんのお祖父さんが教育者だったというのは以前に聞いていたのだが、台湾で湖人と同僚で、一緒に撮った写真があるというのには驚いてしまう。
 小学校の五年生だったか、母親が新潮文庫の五冊本を私に買い与えてくれたのだが、この本は子どもの私にとっては精神衛生上はなはだ悪い影響を及ぼしたのではないか。映画などになったのは次郎の幼少年期の部分だけだから、普通の人はその後の次郎のことなど、ほとんど知らないだろう。「鉄橋にぶら下がるんだよね」と平野さんが勘違いするが、それは『路傍の石』の方です。貧しい少年を描いた、似たような映画があったから間違えやすい。次郎はいわば「人生上の煩悶」に突き当たり、様々な思想的(宗教的?)遍歴を重ねる。禅に接しても次郎の煩悶は解決しない。子どもの私にとっては難しすぎた。その後、戦中を生きた次郎のことは全く覚えていないから、途中でやめてしまったのかも知れない。子供の頃の私の精神がなかなか外へ向かわずに、内攻していったのは、この影響によったのではないか。
 記憶を確かめるため第五部を開いてみると、ちょっと記憶とは違っていた。五一五事件を批判して中学校を追われた恩師朝倉先生を慕って、中学を中退した次郎は上京し、朝倉先生が「友愛塾」という私塾を開くとその助手になる。塾の理念は友愛と自由な精神による自治ということになるが、次第に時代の圧迫が強まって、塾は閉鎖せざるを得ない。しかし次郎の悩みは、実は密かに愛していた従妹が兄に恋をしていることにあったので、こんなややこしい事情が小学生の読者に理解出来るはずがなかった。ところで、朝倉先生が私塾を開いたのがこの赤塚の地だった。

 場所は東京の郊外で、東上線の下赤塚駅から徒歩十分内外の、赤松と櫟の森に囲まれた閑静なところである。敷地は約五千坪、そのうち半分は、すぐにでも菜園につかえる。(『次郎物語』)

 下村湖人が第五部を書き始めた昭和二十五年頃(あるいは小説の舞台である昭和十年代)の赤塚は、こういう土地だったのだ。松月院を散策しながら小説の構想を練っていたという。「所縁があるなら、その風景を残してくれれば良いのに」と生態系の支部長は言う。墓の説明に「自伝的小説」と記されている。湖人自身も生れてすぐに里子に出されたことがあり、その生い立ちに自分を反映させているのだろうし、また恩師朝倉先生の友愛塾には、青年団指導者養成所の所長を務めた自身の経験と理想が投影されている。

 講釈師が入ってみようと言った宝物館には秋帆の遺品などが展示されている筈だが、頼まないと開けてくれないし、有料だから私たちは入らない。松月院を出て東京大仏通りを北に向かう。ちらほらと蝋梅が見える。花の中心が薄赤くなっているのも確かにあって、それは素心蝋梅よりは黄色が淡いようだ。

 蝋梅や 大仏目指す 日向道   快歩

 赤冢山乗蓮寺。セキチョウサンと読むのだと思うが、ガイドブックやネットでは「アカツカサン」と読んでいるのもある。もと板橋宿にあり、応永年間(一三九四〜一四二八)の創建と伝えられる。

 板橋より三町余り此の方、道より左側にあり。浄土宗にして縁山に属す。本尊阿弥陀如来の像は仏工春日の作。開山は英蓮社信誉上人了賢無的和尚と号す。当寺は応永年間の草創にしてこの地の郷主板橋信濃守忠康という人の菩提寺なり。(江戸名所図会)

 昭和四十八年、国道七号線の拡張や首都高速道路の建設で追われ、この赤塚の地に移転してきた。ただ、信仰心のない私だから古い寺院に感じ入るという訳ではないのだが、それでも余り新しすぎる寺院というのはなんだか有り難味に欠ける気がする。新井さんは三十年も経てばそれなりに風格がでて来たと言うが。
 山門の前の閻魔堂には、背後の大きな閻魔大王と奪衣婆の前に、左から小さな十王が並んでいる。左から初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、泰広王、平等王、都市王、五道転輪王。何も知らないから、見るもの全て調べることになる。人間は三界(欲界・色界・無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を輪廻転生するが、死者は冥界で十人の王に順番に審判を受けて、転生する世界が決定される。この十王はもともと道教の影響で唐末に成立して平安末期に日本に伝来、鎌倉時代に大流行したという。奪衣婆は閻魔大王の妹だって知っていましたか。江口さんが「ほんとう?」と怪しそうに聞くから典拠を示しておかなければならない。

 閻魔王は地獄の王で、その妹を奪衣婆という。三途の川のほとりで人の衣をはぎ、樹上の懸衣翁にわたすという鬼女である。(井上光貞編『図説歴史散歩事典』)

 懸衣翁は、脱がした衣の重さによって罪を判定する。審判を受ければ地獄も含めて必ずどこかの世界に転生するのだから、ふらふらと彷徨い歩いている霊魂などは、本来の仏教では考えられない筈だ。古事記では死者は黄泉の国に永住するから、これも霊魂とは縁がないだろう。イザナミが死んでから霊になったなんていう話は聞いたことがないし、ヤマトタケルは白鳥になって飛び去った。とすれば、霊魂なるものの出所は儒教か道教か。だんだん収拾がつかなくなってしまうが、ついでだから加地伸行『儒教とは何か』を開いてみると、著者は葬式と墓の起源を説明して次ぎのように言う。
 ――仏教では、死者の肉体は、もはや単なる物体すぎないからである。死者は成仏したのである。あるいは、成仏しない場合、その霊魂は生の時間から(「中陰」という)別の時間にはいったのである。すると、残る肉体には、もはや、仏教的意味はない。  しかし、儒教は違う。儒教では、その肉体は、死とともに抜け出た霊魂が再びもどってきて、憑りつく可能性を持つものとされる。だから、死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。

 つまり霊魂は儒教に由来する。この本を読んでいると、日本の葬式や墓、位牌などは全て儒教に基づくものだということが教えられる。現在の私たちにはまるで関係ないものだと思っていた儒教が、実は日本人の宗教意識にそれほど大きな意味をもっていた。私たちは普通に神仏習合というが、実は神仏儒習合というのが正しいようだ。それに道教の影響も考えなければいけない。
 ところが山折哲雄によれば、仏教渡来以前から、日本には祖霊(霊魂)の観念があったというから少し話は違ってくる。

 ――民俗学者・柳田国男の『先祖の話』によると、日本人は古い昔から、人は死ぬと魂が浮遊して山にのぼっていくということを、ごく自然に信じていたという。死と同時に、魂が肉体から遊離すると考えたのである。
 ――それでは、山にのぼっていく死者の霊魂は、その後いったいどのような運命をたどるのであろうか。一般にそれは、はじめは危険な亡霊の状態にあると考えられた。すなわち荒魂の状態である。やがて供養と祭祀をへて浄められた祖霊、すなわち和魂になる。そしてそのときからさらに一定の歳月がたって、この祖霊は自然に神の地位へと上昇していくと信じられていたのである。(後略)(『仏教民俗学』)

 やがて、供養と祭祀を経ない霊魂、あるいは政治的な敗者は怨霊となって、人に祟る。最も代表的な怨霊は菅原道真と平将門だが、下々に普及すれば一般人でも幽霊にもなり、最近メディアでもてはやされる「霊」に繋がっていくのだろう。それならば別に儒教を持ち出さなくても一向に構わない。霊魂の問題は死者の肉体をどう扱うか、また葬送儀礼と深く関係しているようで、俄かにはその由って来た原因を判断するのは難しい、但し、私は霊魂なるものは一切信じていない。

 二王門には左に「阿」、右に「吽」の金剛力士が配され、「左右が普通と違うんじゃないの」と宗匠が指摘する。中に入ると内側には左「多聞天」、右「広目天」だ。この寺はちゃんと名前を書いていてくれるから有難い。ただ四天王のうち、多聞天と広目天だけというのがよく分らない。これは普通のことなのだろうか。四天王は須弥山の四方を守る神で、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天が位置する。多聞天は四天王中最強の神であり、別に毘沙門天とも言う。山門の脇に、ここは赤塚城二の丸跡地だという看板を掲げているのが、平野さんには不審の種になる。本丸(後で行きます)から谷を隔てて二の丸が築かれるものだろうか。平野さんの調べでは、実際の二の丸はこの場所よりもう少し北、本丸とほぼ同じ平面に位置していたことになっているそうで、わざわざ手書きの地図を作ってきて、それを見せながら説明する。
 境内にひときわ目立つ東京大仏は高さ十三メートル(座高八・二メートル、頭部三メートル)、重さ二十二トン。青銅製で真っ黒な姿の坐像だ。昭和五十二年に建立された。ここは浄土宗だから、大仏は当然阿弥陀如来になる。乗蓮寺の説明でも、板橋区教育委員会の説明でも、奈良、鎌倉に次いで日本第三位と言うのだが、「日本三大仏なんて怪しからんですね」と松下さんが憤慨する。「昔から三大仏は飛鳥、奈良、鎌倉と決まっています。」そうなのか。関西パトリオティズムが言わせるのではあるまいか。(ナショナリズムと言わず、郷土愛の意味で使っています。)飛鳥寺は蘇我馬子の発願によって建立された。丈六の大仏は鞍作鳥・鞍作止利の製作で推古天皇十三年(六〇五)に完成し、年代の分る仏像では日本最古のものだ。飛鳥大仏は釈迦如来、東大寺のものは毘盧舎那仏、鎌倉のものは阿弥陀如来だ。
 ここでちょっと整理しておく。釈迦族のゴータマ・シッタルダが悟りを開いて仏陀(覚者)になる。釈迦牟尼、仏というのはこの現実に生きていた人のことだ。後、大乗仏教が広まるに従って、宇宙の根源神を創造しようとする動きが現れ、毘盧舎那仏や大日如来が発明され、これも仏と言われる。そのついでに、ゴータマ・シッタルダ自身も、根源神が仮に人間の形をとってこの世に現れた釈迦如来であるという信仰が生れる。また本来の釈迦の思想には救済の概念はなく、あくまでも個人の悟りが中心だったのだが、人間は救いを求める。そのため絶対の救済者として阿弥陀如来信仰も生れる。阿弥陀信仰はキリスト教の影響によるとの説もある。キリスト教の異端ネストリウス派がローマから追われて中国に来て、景教と名乗って布教していたのは事実だからだ。
 因みに与謝野晶子が「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」と鎌倉の大仏を詠んだが、これは釈迦牟尼ではなく阿弥陀如来だから晶子の勘違いだ。
 私は乗蓮寺や板橋区教育委員会の説明を疑いもせず鵜呑みにして、今日のコース案に書いたのだったが、松下さんに言われて調べてみた。三大仏について、フリー百科事典『ウィキペディア』にはこう記されている。(カッコの中は私が注記した)

 戦前までは奈良の大仏、鎌倉大仏、兵庫大仏が「日本三大仏」と呼ばれていたが、兵庫大仏が戦時供出で取り壊されたため(現在の兵庫大仏は再建像。高さ十一メートル)、現在は前二者についてはほぼ一致しているものの三つ目をいずれにするかについては異説がある。現在日本三大仏を自ら謳っているのは「高岡大仏」(富山県高岡市極楽寺の阿弥陀如来。高さ十五・八五メートル)、「兵庫大仏」(天台宗宝積山能福寺の薬師如来)、「岐阜大仏」(黄檗宗金凰山正法寺の釈迦如来。十三・七メートル)、「日本寺大仏」(千葉県鋸山・薬師瑠璃光如来。三十一・〇五メートル)である。 なお、「奈良の大仏」と「鎌倉の大仏」には「日本三大仏」と言う表記はない。

 ダンディに異を立てるわけではないが、ここには飛鳥寺のものは含まれていない。東京大仏も触れられていない。この他にも「三大」を自称する大仏はありそうだが、いずれにしても、これでも板橋区はこの東京大仏は奈良、鎌倉に次ぐと主張できるかどうか。古さ、大きさ、材質などによってそれぞれの寺が主張する基準が違うのだが、とにかく観光の目玉として看板を掲げてしまった方が勝ちなのだ。全て商売なのだから。
 誰の句か分らないが石碑の前で、松下さん、橋口さん、江口さんと一緒にその変体仮名を読んでみようと頑張ると、四人もいればなんとか分ってくるから不思議だ。解読した結果は、「葉さくらや きのふの都 けふの鄙」。良い句なのかどうかは分らない。橋口さんは書道をやっているのだろうか。「のは乃ね」ときちんと判別する。
 藤堂家旧蔵の札をつけた、役小角、鉄拐仙人、文殊菩薩、我慢の鬼などの身長一メートルにも満たないほどの石像は、明治維新後に藤堂家から寄進された。藤堂高虎が朝鮮から持ち帰った(略奪してきた)もので、と書いていながら(ネットで検索して出てきた記事だった)、はて、役小角は朝鮮にいたのかしらと疑問がわいてきた。日本古来の山岳信仰に密教が習合したのが修験で、役小角はその開祖とされる。伊豆石廊崎に遺跡があると松下さんが教えてくれる。小角は葛城山に住んでいたが、天武天皇三年(六九九)、韓国連広足の讒言にあって、伊豆へ配流されたことになっているから、石廊崎に遺跡があってもおかしくない。中世には民間で小角信仰が盛んになるが、しかし朝鮮半島までその信仰が影響したとは思えない。これだからネットで検索した記事を鵜呑みにしてはいけない。しかしこの寺には思想的な統一というものがないね。まさに日本人の信仰生活そのままだ。

 講釈師が「早く行こう」と急かせるのでさっと通り過ぎてしまったが、天保飢饉供養塔がある。十八世紀後半から十九世紀始めにかけて、火山噴火(富士山、浅間山)の影響もあって全国的に冷雨、長雨、低温が続き、不安定な異常気象が凶作をもたらした。寛永・享保・天明と大規模な飢饉が起り、中でも天保四年(一八三三)に始まり十年まで続いたこの飢饉は天明と並ぶ最大規模のもので、七年にピークに達した。
 この年の夏の気温は平年より二・八度低かったと推定されている。(近藤純正ホームページhttp://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/index.html)。当時の日記に記録された天候や暑さ寒さ、収穫の多寡などから推計すると、こんなことが分るらしいのだ。全国平均では三分から四分作と言われるが、奥羽に限ってみればほとんど壊滅状態だったと言ってよい。仙台藩の損耗は天保六年に七十三万石、七年九十一万石、八年六十三万石。盛岡藩では七年二十三万石、八年十二万石に及ぶ。更に疫病が流行し、奥羽地方の死者は数十万を超え、人肉食の噂も流れた。全国各地で一揆、打ち毀しが相次いで、大塩平八郎決起の原因にもなった。
 飢饉と言えば遠い昔のことのように思ってしまいがちだが、昭和初期まで、東北地方は毎年のように凶作飢饉に見舞われ、娘の身売りが後を絶たず、小作争議が頻発していたのだ。それからまだ百年も経っていない。現在のこの国の飽食状態と比較してどう思うか。
 坂を降りると七福神が並んで立っている。福寿観音堂。出口のそばには中島住職にそっくりな布袋尊の石像が笑っている。この寺には植村直己の墓がある筈だが、そこを探す余裕もなく、外に出る。

 十一時半、ちょっと早いが三澤さんお薦めの万吉禎に入り込む。「ここに来たらこの蕎麦を食わなくちゃいけない」「隣はカレー屋だよ。こんなところでカレーなんか食べちゃだめだ」十人が座敷の奥に通されると、ここにも、さっき乗蓮寺で見た石造のレプリカがあちこちに置かれている。
 「かき揚げはさ、二つついてるから食べきれないよ。大丈夫かい」と講釈師が住職にしつこく念を押しているが、それなら挑戦してみなければならない。松下さんと住職も注文した。「かき揚げせいろ」は二枚のかき揚げに、せいろが二枚で千五百円也。たしかにこの天麩羅は大きい。二つも食べると油が腹にもたれてくる。昨日、一昨日と遅くまで飲んでいたせいもあって、ちょっとお腹の調子が悪い。中島さんは「やっぱり食べきれないよ」と少し残し、「だから言ったじゃないか」と講釈師に悪態を吐かれている。三澤さんだけが暖かい鴨南蛮を頼み、他のひとは胡麻だれのせいろを注文した。
 「この店のメニューはほとんど食べ尽くしたな」と講釈師が自慢する。一体、どのくらい来たのだろうか。この人は、東京中足を踏み入れない場所はないのではないか。平野さんはしょっちゅうこの近辺を歩いているが、この店に来たのは初めてだった。「ケチだから」と講釈師に笑われる。売切れ次第、店仕舞いするのだと講釈師が説明するから早めに入ったのに、それほど混んではいない。食べ終わる頃、みんなの予想より遥かに早く、鈴木さんから連絡が入った。午前中病院へ行って、今下赤塚駅についたという。それでは植物園で合流しようと決める。

 大仏通りを渡って、もう一度乗蓮寺の前を過ぎて少し行けば板橋区立赤塚植物園だ。こじんまりしているが、名札が付けられているから便利だ。事務所の前には色々な種が展示されていて、「これがムクロジだよ」と講釈師が渡してくれる。羽根突きの羽の玉に使う硬い黒い実だ。無患子と書く。「子に患い無し」とこじつけて験を担いだものか。石鹸の代用にも使われたと言う。
 さっきのかき揚げに寒さも加わり、私は我慢ができずにトイレに入る。その間に皆はまっすぐ奥の方の万葉植物園に向かっていた。それぞれの木や花には名前と万葉集の歌が記されていて、それを眺めながら歩いていると、鈴木さんが到着した。「山登りは止められてるんですが、平地を歩く分には大丈夫ですよ。お酒だって自己責任で飲んでますからね」この季節に咲く花は少ない。ほとんどが枯れ枝ばかりだが僅かに水仙だけが咲いている。

 万葉の 歌札巡り 黄水仙   快歩

 「モミって外来のものだと思っていたのに、万葉の頃からあるんですね」とあっちゃんが感心する。あっちゃんでさえそうならば、私がまるで知らないのは当たり前だ。クリスマスツリーだからヨーロッパのものかと考えるが、日本自生で古名は「オミノキ」という。「ミツマタは私も知っている」と宗匠が自慢する。「私はニレの姿が好きですよ」と松下さんが言えば平野さんも同じ感想を洩らす。葉もついていない裸の木だが、私は「赤い夕陽が校舎を染めてニレの木陰に弾む声」(『高校三年生』)しか思いつかない。松下さんは北杜夫『楡家の人々』を思い出す。
 「サイカチも覚えておいてよ」と平野さんが指を指す。たしか大きな豆を作るのだった。江口さんが駒込目赤不動のそばの天栄寺で見たと思い出した。やぶこうじには「やまたちばな」と床しい名がついていて、女性陣が喜ぶ。

 この雪の消残る時に いざ行かむ 山たちばなの 実の照るも見む   大伴家持

 万葉園を出てハンカチの木、ユリノキなどを見ていると、いつのまにか講釈師の姿が見えない。気が短いのだ。出口に近づけばやはり既に待っていて、「この辺はニリンソウの群生地になっている」と女性二人に説明する。
 平野さんが「本を買う」と事務所兼図書室に入って行くので一緒に入る。あっちゃんが『万葉の草木・薬用の草木』を買うのを見て、見本を見た私は七百円かと言ったが、「半額よ」と教えてくれる。それならば私も買おう。ただの図鑑ではなく、それぞれの植物に万葉の歌が記されている。「佐藤さんが買うのなら」と松下さんも言い出し、快歩氏も「遅れをとるわけにはいかない」と鈴木さんにも声をかけ、結局七人ほどが同じ本を買った。何故半額になっているのか。「きっと改版するんですよ」と鈴木さんが推測する。植物園は時ならぬ特需に恵まれた。

 大仏通りを美術館前から東に向かい、新大宮バイパスを越える。赤信号でも渡ってしまう平野さんに講釈師が悪態を吐くが、すぐに自分も渡るのだから首尾一貫していない。ちょうど子供が母親と近づいてくるところで、鈴木さんが子どもの教育のために信号無視はいけないと主張し、みんなは自粛した。
 竹の子公園を過ぎれば諏訪神社だ。通りから「ケヤキかしら」とあっちゃんが見上げたのは大きな夫婦イチョウだった。参道入口には瘤ケヤキがあり、あとで調べてみるとこれも「乳房榎」のモデルの一つにされている。瘤が乳房を連想させたものだろうか。でもケヤキとエノキでは違うのではないか。
 文明年間、千葉自胤が赤塚城の鬼門鎮護のため、信州諏訪大社を勧請した。毎年二月十三日の夜に田遊びという神事が行なわれる。旧正月に五穀豊穣と子孫繁栄を祈願して神に奉納する行事だ。社前に二間四方の四隅に青竹を立て、注連縄を張り巡らし「もがり」と呼ばれる聖域を作る。ここを舞台に田遊びの行事が進行する。板橋区役所のホームページによれば、行事は以下のように進行する。

 「神輿渡御」御魂の移った神輿を担いで入場し、田遊びが始まります。
 「槍突き」色紙が詰められた花籠を取付けた槍の前で、太鼓に合せて獅子が舞います。
 「天狗御鉾の舞」狩袴を着た天狗が右手に大きな幣、左手に錫杖を持って、これから地鎮の舞を踊ります。
 「お篝り」境内では旧年中の災厄や不幸を焼き払い、新年の家内安全と子孫繁栄を祈って、どんど焼きが行われます。

 二月十一日には、徳丸北野神社でも田遊びが行なわれ、こっちのほうは少し形が違って、五穀豊穣の願いがもっと直接的に表現されているようだ。

 「種まき」太鼓の音やはやしうたの調子に合せて、四方に向かって種をまきます。
 「胴上げ」子供が扮する早乙女を一人づつ順番に太鼓に乗せ、一同で胴上げをします。苗の成熟と子供の成長、子孫繁栄を祈願します。
 「稲むら積み」太鼓の上に田遊びの用具一切を積上げて、みんなで手を添えて、稲むらを褒めます。

 どちらも国指定重要無形民俗文化財になっている。この他にも静岡県志太郡大井川町の「藤守の田遊び」、静岡県藤枝市の「滝沢の田遊び」など各地に伝承しているが、その起源はほぼ十世紀頃と見られ、やがて田楽から能の発生へと繋がっていく、神事から芸能への転換の祖形となっていると思われる。
 本殿の屋根にはシャチホコのかわりに逆立ちした唐獅子が乗っている。長押に彫られている獅子の眼は埋め込んだもので、なかなか迫力がある。「左甚五郎とかじゃないの」画伯は名のある匠の作品ではないかと鑑定する。

 もういちど大仏通りまで戻って北に向かうと、すぐ右側の崖のところは小さな公園になっていて、「不動の滝」と記されている。江戸中期から大山詣で、富士詣でなどの講が流行したが、その出発に当って滝で潔斎した跡だという。先に書いたように扇状地だから丘には崖があって、それはハケと言うのだが、そのハケからの湧き水が細々と流れている。
 関東ローム層の粘土質に水は沁み込まない、その上の層から水が湧き出るのだと、平野さんが鈴木さんに説明している。上を見ると不動明王が鎮座している。禊ができるような規模の滝ではないが、講釈師の口を漱ぐ程度なら充分に間に合いそうだ。「昔はもっと湧水がでたんだよ。宅地化が進んで少なくなっちゃった。」講釈師の言う昔はいつの時代か分らないが、何でも見ているひとだ。

 板橋区立美術館の二階の企画展示室は有料だが、一階部分は無料で入れる。ロビーの棚には展示会の図録見本に値段がついて並べられている。何故か、地獄図を描いた図録だけに「完売」のシールが貼られている。ここで少し休憩する。橋口さんがお煎餅を出してくれ、のんびりしそうになると、講釈師が急きたてる。そんなに急ぐことはないのだが。
 隣にある郷土資料館の前には大砲が並んでいる。松月院でこの当時の大砲は元込めか先込めかと悩んでいた住職だったが、是を見て先込めだと決定できた。板橋宿にあった新藤楼の玄関を移築したものもある。「単なる岡場所かと思っていましたが、遊郭もあったんですね」と松下さんが感心する。
 今の時期は江戸の大砲展をやっている筈だと思い込んでいたが、それは二七日からだった。中に入ると、枝に餅をつけた木が飾られている。繭玉と言う。展示室には大堂の鐘の本物や発掘された土器など。ビデオでは「田遊び」を映している。紋付袴の人たちが、種蒔きの手振りをし、子どもを抱き上げているから、これはどうやら徳丸北野神社のもののようだ。中庭には幕末に建てられた農家が移設されている。庭に置かれた大きな樽は練馬大根を漬けた樽で、大きな鉄釜は酒の醸造に使ったものだ。資料館の建物側の壁際にはおそらく道路の拡張で取り払われたものだろう、庚申塔や板碑も集められている。
 あっちゃんが農家の座敷に上がり込んで神棚の写真を撮り、鈴木さんと二人で懐かしい匂いがすると話し合っている。木の匂いだろうか。そこに講釈師が早く行こうと急き立てる。まだ充分過ぎるほど時間はあるが、リーダーは気が短い。

 溜池の前から斜面の急な階段を登ると頂上は平らになっていて、赤塚城本丸の跡碑が立っている。その説明板では、千葉自胤に「これたね」とルビを振る。松月院の自胤の墓には「よりたね」とあり、「普通は読めないですよね」とあっちゃんが不審がる。「武蔵千葉氏」(http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/musasi3.htm)には「千葉自胤」の項目を立て、

 武蔵千葉氏二代。千葉中務大輔胤賢の次男。母は上杉修理太夫顕房の娘か。通称は二郎、諱の「自胤」は「これたね」と読む。
 と書かれている。典拠は分らないが、わざわざこう言うからには何か理由があるのあろう。
 乗蓮寺、郷土資料館、美術館などがあるあたりを含めて一面はかつて千葉氏が拠った赤塚城の跡だ。地形から見て溜池に繋がる堀もあったに違いない。千葉氏はその名の通り、もと下総に根拠を置く桓武平氏の一族であり、板東平氏の宗家になる。手っ取り早く『江戸の回顧』から引用してみる。

 平氏は桓武天皇より出ず、天皇の曾孫高望王の五子を良文と曰う、武蔵大掾に任ぜられ、大里郡村岡に居る、よりて村岡小五郎と称す、天慶二年、陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍に補せられ、三年五月、その甥将門の旧領を賜わりて、下総、上総、常陸介に任ぜられ、下総千葉郡千葉郷に移る、これを板東平氏の始祖とす。
 良文の子忠頼、次郎と称し、千葉郷に居る、その系分かれて千葉、土肥、畠山、葛西、豊島、渋谷、河崎、江戸、河越、稲毛、榛谷、小山田、長野、小沢の諸氏となり、両総、武蔵および相模に居る。
 忠頼の弟忠通、村岡小五郎と称し、後相州鎌倉郷に居る、その系分かれて三浦、鎌倉、大庭、俣野、梶原、長尾の諸氏となり、おおむね皆相州の各地に居る。
 忠頼の長子忠常、下総介に任ぜられ、続いて千葉郷に居る、これを千葉の宗家とす。
 忠頼の二子将常、武州秩父郡中村郷に居り、中村太郎と称す、これを武蔵平氏の始祖とす。(『江戸の回顧』)

 高望の長子国香は伊勢平氏の源流となって、後に清盛が出る。次子の子で国香の甥が将門で、その一族は絶えた。板東平氏は同じ桓武平氏だが伊勢平氏とは一線を画し、むしろ保元の乱の頃から義朝流の源氏と結びついた。源氏が平家を滅ぼすためには関東の平氏の協力が不可欠だった。但し坂東八平氏を自称する者も、そのほとんどが古代以来関東土着の豪族が平氏を仮冒したとの説もある。

 まともに勉強したことがないから、どうも関東の歴史がよく分っていない。平安末期から鎌倉幕府滅亡までの北総・常陸の歴史については網野善彦『里の国の中世』があってかなり理解できたが、武蔵国の場合は太田道潅の事績が断片的に思い出されるだけだ。松下さんは将門をもっと研究してみたいと言う。かつて将門に対する感情は、東国の人間と関西・西国の人間とではまるで違っていたのではないかと思うが、現在では東も西も関係ない。
 鎌倉時代には関東各地は北条氏の支配下にあったが、鎌倉幕府滅亡後、それまで逼塞していた地元の豪族が力をつけ、実にややこしい勢力図を繰り広げるのだ。室町時代はその全期を通して戦乱の時代といって良いのだが、関東には公方と管領というものがあって、これが話を複雑にする。というよりも、将門以来、都に対して東国の独立を図る、民族的な運動力というものが存在したのではないだろうか。そもそも東国は毛人の国であり、天孫族の降臨以来、次第に追い詰められてきた歴史を持つのだから。
 まず、東国の押さえとして二代将軍義詮の弟基氏が鎌倉府に任ぜられて、鎌倉公方という職ができた。公方と言うのは正式な職名ではない。将軍とほぼ拮抗する力をつけた段階でそのように呼ばれ始めたのだろう。鎌倉を留守にしている将軍の代理という趣旨だが、やがて京都の将軍と対立を深めて行く。鎌倉公方の補佐として任命された筈の関東管領なる職は、途中から上杉家が世襲し、やがて公方に対抗するほどの力を蓄えてくる。その上杉内部もまた山内上杉(鎌倉山内に住した上杉宗家)と扇谷上杉(鎌倉扇谷に住んだ)との間で管領職を巡って対立し、それに群小の地元豪族が巻き込まれて紛争が続けられた。
 ただ、恐らく水田はまだそれ程普及していない筈で、この時代の関東地方の生産力、つまり経済力が何に依拠したものかが分らない。
 四代公方足利持氏は管領上杉憲実と対立し、永享十年(一四三八)憲実が領国の上野に帰ったとき、持氏は憲実追討のため武蔵府中に出陣した。これが「永享の乱」で、公方持氏は鎌倉永安寺に戦死した。結城氏朝が持氏の遺子を擁して結城城に籠ったのが「結城合戦」。因みに三年の篭城の果て、結城方について敗北し安房に逃れたのが里見氏で、『南総里見八犬伝』はここから始まる。なんてことを知ってしまうと、どうしても曲亭馬琴を引用したくなる。ただ、その漢字の使用が独特で難しいので、一部を仮名に改め、文字も少しを変えたりしてみる。

 時に鎌倉の持氏卿、自立の志頻にして、執権憲実の諌めを用ひず、たちまち嫡庶の義をわすれて、室町将軍義教公と確執に及びしかば、京軍にはかに寄せ来りて、憲実に力をあはし、且戦ひ且進で、持氏父子を、鎌倉なる、報国寺に押籠つつ、詰腹を切らせけり。是はこれ、後花園天皇の永享十一年二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男義成は、父とともに自害して、屍を鎌倉に留むといへども、二男春王、三男安王とまうせし公達は、辛く敵軍の囲みを脱れて、下総へ落ち給ふを、結城氏朝迎とりて、主君と仰ぎ奉り、京都の武命に従はず、管領(清方・持友)の大軍をもののかずともせず。されば義に依って死をだも辞せざる、里見季基を首として、およそ持氏恩顧の武士、招かざれどもはせ集りて、結城の城を守りしかば、大軍に囲れながら、ひとたびも不覚を取らず。永享十一年の春の比より、嘉吉元年の四月まで、篭城三年に及ぶものから、外に援の兵なければ、糧も矢種も尽き果てつ。「今はや脱るる途なし。只もろともに死ねや」とて、結城の一族、里見の主従、城戸おしひらきて血戦し、込み入る敵をうち靡けて、衆皆討死する程に、その城つひに陥りて、両公達は生け捕られ、美濃の垂井にて害せらる。世にいふ結城合戦とはこれなり。(『南総里見八犬伝』第一回)

 宝徳四年(一四四九)、持氏の遺児成氏が赦されて鎌倉府が再興されるが、成氏は管領憲忠と対立、ついに憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発した。いったんは武蔵国分倍河原で上杉方を破った成氏も、上杉支援を決定した幕府の介入によって鎌倉を追われ、下総国古河に逃れ、古河公方と称するようになった。
 この頃、扇谷上杉の執事は太田道真・道灌父子で、武蔵国に江戸・川越・岩付(岩槻)の三城を築城し古河公方の攻勢に備えた。在地の豪族である豊島氏、板橋氏、練馬氏などは皆、道灌に滅ぼされた。道灌の活躍で、扇谷上杉氏は山内上杉氏をも凌ぐ勢力に成長した。
 これを恐れたのが山内上杉顕定で、文明十八年(一四八六)道灌を相模国糟屋の館に招き、家臣の曽我兵庫に命じて入浴中を襲わせ殺害した。これをきっかけとして、扇谷上杉定正と山内上杉顕定の対立が激化し、この争いに古河公方が加わってくる。
 下総から常陸にかけて古河公方が抑え、武蔵から上野は扇谷が、鎌倉を中心に相模国は山内が抑える。いわば三国時代と言っても良いだろう。  一方、北条早雲が、伊豆掘越公方の内紛に乗じて駿河から伊豆に進出し、さらに、明応四年(一四九五)には、小田原に進出した。早雲の跡を継いだ氏綱は本格的に武蔵国への進出を狙うようになる。大永四年(一五二四)、氏綱は江戸城内の太田資高・資貞兄弟(道潅の孫にあたる)の内応を得て伊豆・相模二万の兵を率いて来襲。両軍は高輪原で激突し、なかなか勝敗は決しなかったが、結局、江戸城は後北条氏の手に落ち、扇谷上杉朝興は河越城へ入った。しかしやがて河越城も北条の手に落ちる。
 天文十四年(一五四五)、上杉朝定は関東管領上杉憲政、古河公方足利晴氏らと連合して八万騎といわれる大軍をもって北条綱成の拠る河越城を囲んだ。翌年、河越城救援のため北条氏康は八千の軍勢を率いて出陣してきた。八万対八千の勢力の大差に驕って油断した連合軍に対し、氏康は夜襲を敢行する。世に「河越夜戦」と言われる。連合軍は後北条方に翻弄され、潰滅的な敗北を喫した。この戦いで朝定は討死し、扇谷上杉氏の嫡流は絶えた。上杉憲政は上野国平井城に晴氏は古河城に逃れた。以後、後北条氏の勢力はいよいよ拡大していく。関東管領憲政は天文二十一年、越後の長尾景虎にその職と上杉の姓を譲って関東から落ちていく。長尾家はもともと山内上杉の執事だったが、主家を凌ぐ力を蓄えていたのだ。

 さて一方、肝腎の千葉氏だが、下総にあって里見氏・結城氏とも抗争を続けていた。享徳の乱で鎌倉公方成氏が管領上杉憲忠を殺した時、千葉氏一族も内部対立を深めていく。
 本丸跡の説明に「骨肉相食む」という文字をあっちゃんが見つけた。ちょっとしつこいけれど、ここも馬琴から抜書きしてみる。文中、馬加(まくはり)という悪役が登場するが、これは幕張だろう。馬加に囚われた犬田小文吾に、馬加家の老僕品七が語る一節。

 いぬる享徳四年の秋のころ、下総の千葉家二流に別れて、合戦やむときなかりけり。縁故をたずぬるに、当君故千葉介胤直主は、尚若干なりけるに、千葉の一族、原越後介胤房は、古河(原文では滸我と書いている)の御所成氏朝臣に、従ひ給ひかしと薦めまうし、円城寺下野守尚任は、鎌倉の管領(山内顕定・扇谷定正)に、従ひ給へと諌めしかば、胤直遂に円城寺が議論を是として鎌倉なる、管領方になり給へば、胤房ふかく憤りて、成氏朝臣に加勢を乞受け、千葉の馬加陸奥入道光輝と相共に、軍兵数千を引率して。同国多胡、志摩の、二ケ城を攻潰し、やがて大将胤直主に、詰腹を切らせしかば、胤直のおん父、前千葉介入道常瑞、舎弟中務入道了心も、ひとしくおん腹をぞめされける。これにより成氏朝臣の沙汰として、陸奥入道光輝の嫡男孝胤を、千葉介に任じて、千葉の城に据え置かれ、又管領家の沙汰として、康正元年の冬のころ、入道了心の長男実胤と二郎自胤を取り立て、武蔵の石浜・赤塚の、両城に据え置かれしより、千葉家はいよいよ二流に分かれて、互にながく怨讐の、鏃をなん磨ぎ給ひける。(『八犬伝』第五十四回)

 古河公方と通じた重臣原胤房に千葉城を襲われ、一族は自刃、自胤は兄の実胤とともに市川城を脱出。実胤は石浜(台東区橋場)に、自胤は赤塚に落延びた。太田道潅の支援を受けて対立する豊島氏を滅ぼし、実胤隠遁の後、石浜城に入り武蔵千葉氏を名乗った。文明十一年(一四七九)には下総・上総の大半を回復したが、道潅死後は下総への支配権も失い後北条氏に随い、北条氏滅亡とともに滅びる。赤塚城は家康の江戸入府によって廃城となった。

 登ってきた道とは反対側の、藪になっている方に出て降りるのだが、道が分らない。この藪のあたりが二の丸、三の丸だったのではないだろうか。たまたま散歩している人に講釈師が尋ねているのを聞くと、なにやらそれを曲がってあれを曲がってと、全く覚えられない。複雑な地形になっているらしい。坂道を下り、また上る。絶対に氷川神社に行くんだと固執していた割には事前調査が足りないのではないだろうか。リーダーはしきりに地図を見ながら先頭を歩き、ちょうど商店の前にいた人に聞いてやっと分った。ちょっと戻らなければならないのだが、リーダーは道を間違えたとは決して言わない。「こっちの方が近道なんだってさ。」別の人間が間違えたのなら、どれだけの悪口が続いていたか分らない。
 少し前を行くリーダーが石の上に腰を下ろしている。氷川神社参道の途中に出たのだ。「大宮の氷川神社にそっくりだろう」と講釈師が何度も念を押す。自胤が武蔵一ノ宮の大宮氷川神社の分霊を勧請したものだから当然のことだろう。「武蔵野国は氷川神社だらけですね」と松下さんが呟いている。同じ武蔵国でもどちらかと言えば北部に集中している。出雲国造の一族が武蔵国守になって出雲肥河(斐伊川)の川上に鎮座する杵築大社(出雲大社)の神を勧請し、文字を変えて氷川神社として祭ったのが始まりということになっている。武蔵国一ノ宮になり(だから大宮の地名が生れた)、延喜式では式内社、旧官幣大社だから社格は高い。
 境内にある朱色の二の鳥居は、説明によれば厳島神社形で珍しいものという。宗匠は、第五回「芝・東京編」で芝神明宮に立ち寄ったとき、あっちゃんが用意してくれた鳥居の資料をいつも持参していて、ちゃんと見比べている。どうやら鳥居に格別の関心を抱いているようだ。笠木には反り増しがあり、貫は柱を貫いている。柱の前後にはそれぞれ、二メートル程の控柱(稚児柱という)が二本ついていて、足のある柱と言えばよいか。この形は両部鳥居と言い、四本の稚児柱から四脚鳥居とも呼ぶようだ。厳島神社、気比神社がその典型だ。
 富士塚にも登ってみる。頂上は五人で一杯になってしまう狭さだ。板橋地区は富士講が盛んで、現在でも講中が続いているというから驚いてしまう。『特別展・旅と信仰――富士・大山・榛名への参詣』(板橋区立郷土資料館)によれば、この富士塚は、赤塚の丸吉講の稲垣勝という人が、明治九年、三十三度の富士登山と御中道八湖めぐりの修業を達成したのを記念して築かれた。
 百メートル程もある長い参道の入口まで出れば、一の鳥居は石造りで、寛政七年の文字が刻み込まれている。その向かいの道端にはケヤキの古木の脇に「榎大神碑」が建てられている。松月院の榎、諏訪神社のケヤキとともに、これもまた「乳房榎」のモデルに名乗りを上げているのだが、碑に樹齢千七百五十年と記されているのが怪しい。弥生時代の木がこの東京で今も健在だとは到底思えない。端数の五十年まで付け加えているのはいかがなものか。あっちゃんの感想ではどう考えても数百年でしかない。

 リーダーの号令で成増に向かう。ここからの道も少しややこしい。先頭に立つ平野さんとリーダーとの間で、少し意見が違う場面もあったが、なんとか成増駅前についたのは三時半だ。まだ早いではないか。十一人が入れる喫茶店を探してウロウロしながら、三軒目の店でやっと座ることができた。暖かい。今日はそれほどの距離は歩いてはいないはずで、快歩氏の万歩計の計算では十キロ弱だった。それでも上り下りが結構多かったせいもあってか、少し疲れた。
 私はお腹の調子が今ひとつ落ち着かないので、紅茶にした。三木さんも紅茶。あっちゃんはケーキと紅茶のセットを頼んでいる。細い体で大食なのはいつものことだが、「お昼は中途半端な時間だったからお蕎麦を少し残したの」と言い訳を言う。他の人はコーヒーだ。江口さんがトマトジュースを注文しないのは珍しい。講釈師と住職は二人だけの席について向かい合わせでクリームソーダにストローを指している。講釈師は口を開けば住職に「年寄りはもう来ちゃ駄目だ」とか頻りに悪口雑言を口にするが、こうしてみると結構仲が良い。早速宗匠の句に詠まれた。

 冬うらら クリームソーダ 飲む二人   快歩

 「うらら」と言うには今日は少し寒過ぎるのではないだろうか。蕎麦屋でもそうだったが、画伯はこの店でも女性に囲まれていて、平野さんが悔しそうな顔をしている。画伯が女性に囲まれるのは、「だって新井さんは紳士だし、平野さんだとちょっと危ない」と誰かが言う。「でも平野さんだって、ちゃんと女性の隣に座っているじゃないですか」あっちゃんが一所懸命取り成してくれる。「鈴木さん、独身同士で今度飲もうよ」平野さんが頻りに鈴木さんに誘いをかける。「だって家に帰っても仕方ないでしょ。」今日は橋本さんも来ないし、何度も植物園に誘った阿部さんも来てくれなかったから、平野さんは淋しいのだ。
 蜘蛛や蛇が好きだと言うあっちゃんや松下さん、蛇は大丈夫と言う橋口さんの話を聞きながら、宗匠は気味の悪そうな顔をする。繊細な私はついていけない。橋口さんはご主人を一緒に連れて来たいのだが、「シャイ」だから来てくれないと言う。それに対して「ご主人は真面目だから」とあっちゃんが口にしたのは如何なものか。私たちだって真面目だぞ。
 橋口さん、三木さんはとても楽しかったと、三月の千住コースにも来てくれると約束した。講釈師は「また来るの。もう参加しないほうが良いよ。このワルの連中と付き合ってると自分も悪くなっちゃうから」といつものように悪態を吐く。「俺は別の会を作るんだ。酒を飲むのは駄目、昆虫や植物が好きなのも駄目だ。みんな除名だな。」鳥だけは良いらしいが、それでは入会するものは誰もいない。

四時半になって酒を飲まない人とは別れ、私たちは店を探す。酒が入らないと反省できないのではない。今日は新年会だ。それに松下さん、平野さんの古稀を祝わなければならない。還暦だけは満年齢で祝うが(当然ですね)、そのほかは全て数え年で計算すると松下さんが言っている。だから三澤さんも仲間に入らなければいけないのだけれど。頼みの桜水産が見当たらず、商店街を少し歩いてやっと「笑笑」を見つけ出した。「四時に店を開く笑笑は偉い」と快歩氏が褒める。平野さん、松下さん、江口さん、鈴木さん、あっちゃんといつものメンバーだ。
「鈴木さん、大丈夫かい」とみんなは心配するような振りをするが、「大丈夫です。二日酔いになるほど飲んでますから」と鈴木さんが答える。「だけど無理しちゃ駄目だよ」と言うくせに誰も酒を止めないから、確かに自己責任で飲んでもらうしかない。
「三月は絶対に千住のコースをやりますから。だって三回も下見したんですよ」と鈴木さんが強調する。昼間調子の悪かった私のお腹も治ってきた。若干セクハラかと疑われても仕方のない話題も出ながら、夜は楽しく更けていく。
あっちゃんは大宮で山折哲雄の講演を聞きに行く筈だったのに、それを無理やり引きとめて付き合って貰った。今回の文中に山折哲雄氏の引用があるのは罪滅ぼしのためでもある。