文字サイズ

    番外 深大寺編  平成二十二年十月二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.10.13

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     あんみつ姫が深大寺に行ったことがないというので、その希望に応えて講釈師が企画した。私も一度表面をかすめるように通り過ぎただけだから、この企画は有難い。
     「こんなに来ちゃったのか、多すぎるよ。」自ら声をかけ、さらに「メールでも広めておいてよ」と私に命じた癖に、講釈師は口だけは不満そうに言うが実は嬉しそうだ。私にもちょっと意外だったが、しかしこれだけの人数が集まったのも夫子の人徳であろう。調布駅には講釈師、ダンディ、長老、住職、ミナガワ氏、碁聖、スナフキン、Q太郎、貴婦人、カズちゃん、あんみつ姫、マルちゃん、シノッチ、イッチャン、チロリン、クルリン、ハイジが集まった。
     改札口付近では、野球のユニフォーム姿の子どもたちが、赤い羽根共同募金の箱を抱えて大声を張り上げている。「ずいぶん前から怒鳴ってますから、あと一時間もすれば声が出なくなりますよ」と碁聖が笑っているが、気の小さな私はこの声に耐えられずに、百円玉を投入して羽根をつけてもらった。「この頃の相場はいくらなんだろう」とQ太郎さんに聞かれても分からないが、何も言われなかったから百円で良いのではないか。
     「何人になりましたか。」「十七人です。」「おかしい、十八人いますよ。」チェック漏れがあったろうか。確認してみれば自分を勘定に入れていなかった。良くやる勘違いだが、「ホントに蜻蛉は人数を数えるのが下手ですね、いつも間違える」とダンディに笑われてしまった。
     「今日は途中で失礼しますよ」とダンディが断っている。孫が来るらしいのだ。ダンディはイギリス土産を孫に渡さなければいけない。孫というものはそんなに可愛いものだろうか。「俺の親もさ、俺の子供になんだかんだって煩かったよ。親は俺だっていうのにさ。」住職の感想はなんだか少し違うような気がする。
     「じゃ、行こうか。」出発の前にリーダー訓示があるべきではないか。「いいよ、テレちゃうじゃないか。」悪態を吐くときとはうってかわって、こういうとき講釈師はやたらに照れてしまう。
     いつもは「東京を歩くときはリュックなんか背負って来ちゃ駄目だ」と頻りに悪態を吐いている癖に、今日はちゃんとリュックを背負っていて、それに鬼太郎とねずみ男がぶら下がっている。参加者に配布するための資料をたくさん持ってきたからだ。「私も、東京を歩くんだからって言われて。」貴婦人は小さなショルダーバッグを肩に掛けて、上着を手に持っている。いまどきは朝晩と昼との温度差があるから、上着を出し入れする必要があり、それを考えればリュックのほうが遥かに楽なのだ。
     北口を出ると、ちょうど鬼太郎バスが走っているのに出くわして、女性陣から歓声が上がる。旧甲州街道を渡って、天神通りという狭い商店街に入ると、すぐに鬼太郎の大きな人形が現れた。「ミズキがよく買い物に来る商店街なんだ。」ここは布田天神の門前町のようで、正面の向こうに布田天神の鳥居が小さく見える。鬼太郎と目玉の親父の横で講釈している姿はねずみ男のようでもある。一反木綿に乗って飛ぶ猫娘。片肘をついて寝そべっているねずみ男。ヌリカベは「壁」というより蒟蒻に目をつけたようだ。私たちは既に水木しげるワールドに入り込んだのである。

      賑やかに妖怪の町行く秋の空  蜻蛉
     ちょっと行けば甲州街道に出る。「この先の飛田給が東京オリンピックのマラソンの折り返し地点だったんだ。」何でも知っている。あのマラソンならば、アベベの悠々たる姿と対照的に苦痛に喘ぐ円谷幸吉の表情が何度も映像で再現された。そして、それを思い出してしまえば、稚拙と言って良い、しかし哀切な遺書までも甦る。

     父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
     巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
     幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
     幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
     父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

     昭和四十三年一月九日、円谷幸吉は満で二十七歳であった。可哀そうな円谷。
     甲州街道を渡ると、角に真新しい竜宮門をもつ三栄山大正寺(新義真言)がある。山門は一階部分の漆喰は真っ白だし、回廊を巡らした二階部分の木も新しい。私はこうした漆喰のトンネルを持つ建物が竜宮門だと思っていたのだが、二階部分は和風の、お神輿のような形になっているから別のものだろうか。
     中に開け放たれた扉の足元から三十センチ程の高さで、竹の竿を一本渡して塞いでいる。扉の内側には持国天と多聞天が立っている。「四天門なのかな」とチロリンが言うが、あるいは扉の陰に残りの二人がいるのかも知れない。覗きこめば庭掃除の女性が一人働いているだけだ。「木の香りがするわ。」境内の樹木の香りだろうか。それとも新しい扉から香るのか。静かな落ち着いた雰囲気だ。後で知ったが、実は通用口から中に入れたらしい。境内の庭園には多くの石仏諸神が配置されていると言うから、残念なことをした。
     「三つの寺を合併したの。それが大正四年だったから、この名前になった。」布田の栄法寺、小島の不動院、下布田の宝性寺を合併したのである。多摩八十八ヶ所霊場第五番、多摩川三十三観音第八番札所、調布七福神の一つ恵比寿神を祀る。
     通りを突き当たった所に石造りの明神鳥居が見えてきた。布田天神社だ。布田五宿の総鎮守である。布田五宿というのは、甲州街道の国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿と上石原宿のことだ。五宿ひっくるめて長さは三キロ余り、街道に沿って町並みが続き、酒、豆腐、菓子、蕎麦や茶屋などの商いをする店があった。しかし、本陣や脇本陣はなく、旅籠も九軒だけの小さな宿場町である。
     境内に入るとすぐに目につくのは雷にあったような木で、七八メートルほどの高さの太い幹はほとんど死にそうになっているのに、その先の枝には青々とした葉がついている。「生命力が強いですね。」
     狛犬は寛政八年(一七九六)、「惣氏子中」「惣商人中」によって建立されたもので、当時ここに市が立てられていた証拠になっている。狛犬の頭には短くて分かりにくいが角のようなものが生えている。今も境内で毎月一回、骨董市が開かれる。
     神社由緒では最初の祭神を少彦名命としているが、『江戸名所図会』には、もともとの祭神は不明だと書いてある。文明年間、多摩川の洪水によって現在地に移転してきた時に菅原道真を合祀し、天神と名乗るようになったらしい。普通にはフダ・テンジンシャと思われるが、本来は布田天・神社であろうというのが、下記の説である。

     創建の時期は不明だが、「延喜式」の神名帳に載る古社(武蔵國多磨郡八座の一)である。社号の読みは文献によってさまざまで、「フタマ」「フタテ」「フダテ」などである。現在は「フダテンジンジャ」と呼ばれているようである。主祭神は少彦名命であるが、祭神不詳とする古文献もある。
     はじめ多摩川に近い場所(元天神あるいは古天神と称す)で祭られていたが、文明九年(一四七七)に洪水を避けて現在地に遷った。その際に菅原道真公(すなわち天神社)を配祀したという。
     こうした経緯によれば「布多天神社」は元来「天神社」ではなく「布多天・神社」のはず。http://www.niigata-u.com/files/kengai/tokyo07/070408c1.html

     神社の由緒を尋ねると必ずこの「延喜式神名帳」というものが登場するから、いつものようにウィキペディアのお世話になって、基礎知識を押さえておきたい。
     「延喜式」は醍醐天皇(延喜の帝とも呼ばれる)の命によって、延喜五年(九〇五)に編纂が始められ、延長五年(九二七)に一応完成した。その後改訂が加えられ、康保四年(九六七)から施行された。「式」は律令の施行細則である。本来の律令は形骸化し、現実の役に立たなくなったのが「式」制定の理由である。(ちゃんと勉強していないから、アテヅッポウだ)
     神祇官関係が十巻、太政官八省関係が三十巻、その他官が九巻、雑一巻、合計五十巻の構成で、第九、十巻が神名帳になる。当時の朝廷が把握していた全国の神社の一覧であり、武蔵国では四十四座、うち布田天神社は多摩郡八座に書き上げられている。今では格式や創建年代の古さを自慢するために参照されるだけだろう。
     本殿は宝永三年(一七〇六)建造という。私たちのほかには人もいない、静かな神社だ。朱を使わない建物は落ち着いた気分になる。
     境内を出ると、「布田郷学校跡」の立札が立っている。明治初期、公教育が普及する前、郷学校というのがあったのである。布田の場合には栄法寺の中に作られた。

    府県と旧来の多くの藩は、それぞれに新しい学校を開設したり、近世以来の教育機関の改造に着手していた。京都においては、明治元年から教育計画の樹立に努め、翌年には学区制の企画によって、六四の小学校を開設し、区内住民の財政協力によってこれを経営する方法を始めていた。また多くの藩は、政府が発表した教育改革の方策を参照して、初等教育の学校とともに中等学校の設置計画をつくって、旧学校の改造を始めていた。まだ統一した学校制度が全国に実施されていなかったので、これらの学校は性格も多様であり、名称も一定していなかった。藩立の学校を改造した場合には、学校、藩学校、郷学校などの名称を用い、一般子弟のための初級の学校は小学、小学校、小校、啓蒙所、義校などと称していた。このように新しい時代を迎えて、旧来の教育を改革する計画をつくり、これを実施するという気運は全国にみなぎっていた。こうした改革の動向が現われていた情況のもとにおいて、明治五年の学制は頒布されたのである。(文部科学省「学制百年史・総説一」)
    http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_004.html

     布田郷学校は明治三年に作られ、国学・漢学・洋学・作文・習字・算術に加え、『泰西農学』という西洋の農学書を使って実用的な農学が講じられたという。養豚場を経営して、その利益を学校経営に充て授業料は一切取らなかったが、経営不振に陥って明治七年に閉鎖された。経営不振もあっただろうが、明治五年の学制発布によって次第に公立学校が整備され、教科内容にも制限が加えられたことも原因だろう。
     「寄ってみるかい。」立て札のすぐ横は大正寺の墓地になっていて、入り口の前には石燈籠がいくつも並んでいる。「新しいね。」それぞれに寄進者の名前が彫られている。中台の周りに十二支を彫り込んだもの、灯袋の面に龍や唐獅子を大きく浮かせたものなどは、私には珍しいものだった。鹿が彫られているのは何故なのか。「春日大社に関係あるんでしょうか」と姫は言う。鹿ならば私は寿老人との繋がりしか思いつかない。
     「あっ、ナツメの実が生ってます。」ずいぶん高い所に赤い実が生っている。
     「庭にひともと棗の木、弾丸跡もイチジルク」と講釈師が歌い出す。「何ですか、それは。」ハイジは知らないか。「乃木大将の歌ですよ。」正しくは『水師営の会見』である。「知らなかったわ、無学な者ですから、ホホホ。」「講釈師はなんと言っても日露戦争の目撃者ですからね」とダンディも笑う。特に二〇三高地の戦いは、夫子得意の演目である。
     ハイジのために歌詞を掲げておこう。佐々木信綱作詞、岡野貞一作曲、文部省唱歌である。

    一、旅順開城約成りて、敵の将軍ステッセル
       乃木大将と会見の 所はいづこ、水師営
    二、庭に一本棗の木、弾丸あともいちじるく
       くずれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍
    三、乃木大将は、おごそかに、御めぐみ深き大君の
       大みことのり伝うれば、彼かしこみて謝しまつる
    四、昨日の敵は今日の友、語ることばも打ちとけて、
       我はたたえつかの防備、かれは稱えつ、我が武勇
    五、かたち正して言い出でぬ、「此の方面の戦闘に
       二子を失い給いつる 閣下の心如何にぞ」と
    六、「二人の我子それぞれに 死所を得たるを喜べり
       これぞ武門の面目」と、大将答え力あり
    七、両将昼食共にして、なおも尽きせぬ物語
       「我に愛する良馬あり 今日の記念に献すべし」
    八、「厚意謝するに余りあり 軍のおきてにしたがいて
       他日我が手に受領せば、ながくいたわり養わん」
    九、「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左
       砲音絶えし砲台に ひらめき立てり、日の御旗

     二〇三高地攻略戦において、日本軍の戦死五千五十二名、負傷一万一千八百八十四名、露軍の戦死五千三百八名、負傷者は一万二千名に上る。第三軍司令官乃木の拙劣な指揮の結果であるが、この戦いで乃木自身も二人の息子を戦死させた。
     昭和の戦争では「鬼畜米英」と呼びヒステリックに敵愾心を煽ることになるが、日露戦争時にはまだ、「昨日の敵は今日の友」とか「我は讃えつかの防備」などと公平な態度を保とうとしている。捕虜取扱いが丁重であったことなど、近代的な先進国として認められたいという国家意思の反映でもあるが、それとともに、まだこの国の民衆には幾分かの良識があったことも示しているだろうか。但し、こういうことはちょっとしたアジテーションですぐに別の方向に流されてしまうことも、講和条約反対の日比谷公園の騒動をみれば分かってしまうから、手放しで礼賛する訳にはいかない。
     「誰も知らないって書かれたけど、私、『灯台守』は知ってましたよ。凍れる月影空に冴えて、っていうの。」ハイジが言う。「だって、小学校五年生で習ったわ。」それなら私もそうなのだろう。これは谷中を歩いて高橋泥舟の墓のそばにあった歌碑を見つけたときの話である。いろいろな所で様々なものに出くわし、それが記憶に積み重なってくるのは、悪いことではない。

     墓地の門の脇には、古い六地蔵を隠すように、前列に新しい六地蔵が並んでいる。「古い方が懐かしいような感じですね。」摩耗したり、欠けた首を補修したりしているが、表情が素朴だ。アルカイック・スマイルと言ってみても良いほどで、新しい方はスマートになってはいるが面白くもなんともない。
     「また、やりましたね」というダンディの言葉で振り向くと、チロリンがナツメの実を持っている。「よじ登ったんですか。」「うん、高い所だったからね。」
     「隣に電通大があるのに、誰も話題にしないな。ちゃんとした大学なのに可哀そうだ」とスナフキンが変な感想を漏らす。今日の仲間に理工系の大学に関心を持つ人はいないのだ。
     表通りに出ると、信号の向こうに昔懐かしいような建物が広がっていて、ダンディが「何を撮っているんですか」と声をかけてくる。二階建て長屋のようなコンクリートの建物に、古い看板がいくつもかかっているのである。これは調布市卸売センター、つまり市場だ。「懐かしいわ、昭和の雰囲気よね」とハイジも言う。昭和は回顧の対象であり、そして昭和生まれの私も既に古老のような気分になってくる。歩道を渡ってその建物を覗きこめば、狭い路地のような道がいくつも通り、小さな店がいくつも並んでいるのが分かる。子供の頃の記憶だが、秋田の市場もこんな感じだった。
     「これ持ってってよ。」乾物屋の店先で、おばさんがひとりひとりに、おつまみ昆布を一袋づつ渡してくれる。商品を眺めてみると「珍味しじみ」が置いてあるので昆布のお礼の積りで買った。酒を飲む者にとって蜆は百薬の長である。
     「どこから来たの。」「埼玉のあっちこっちから。」「所沢のほうかい。」「所沢も、大宮も草加もいるよ。」「ヘーッ、そんな遠い所から調布に来てくれたのかい。有難うございます。」亭主も「気をつけて行ってらっしゃい」と愛想を言ってくれる。袋をつかんで先頭に追いつくと、マルちゃんが試食に貰ったらしい「珍味しじみ」を食べているではないか。

     中央自動車道を潜るとまた狭い住宅地の道路に入り込む。右の方を見ながら「あそこが深大寺温泉だよ。お湯の色がチョコレートみたいなんだ」とリーダーが指差す。「千円もだせば一日遊んでいられるしさ。カラオケもあるし。」春日部にも越谷にもあるらしい。「ハローワークの隣にあるから知ってる」とQ太郎も言う。「群馬とか栃木の温泉は行くけどね。こういうところは来たことはないわ。」まず、姫がこういう温泉に来る姿を想像できない。
     講釈師によれば、最近のこうした都市型の温泉は、駅からの送迎バスも持ち宿泊費が安いから、遅くなったサラリーマンが平日に結構利用しているということだ。「ワイシャツ出しておけば、朝にはクリーニングが出来上がってるんだ。」サラリーマンでもない講釈師は実にいろんなことを知っている。「カラオケの部屋には、三度笠とか縞の合羽とかマドロス服が置いてあるんだ。それを着て歌うんだぜ。」講釈師は温泉巡りの達人であった。
     案内をみれば、ナトリウム塩化物温泉(等張性・弱アルカリ性温泉)。神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進、きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病に効がある。

     「ちょっと寄ってみるかい。」最初から計画に入っていたのか、たまたま思いついたのか、今日の講釈師はどこへ連れて行ってくれるのか分からない。温泉の手前にある天台宗・池上院の境内は狭いが、かなり古そうな石幢六面地蔵があった。「珍しいわね」と姫もハイジも言うが、注意していると時々見ることができる。調べて見ると嘉永四年のもので、嘉永三年の馬頭観音も並んでいる。嘉永二年には英国軍艦が下田に来航し、これは退去を命じて収まったが、そろそろ帝国主義列強が日本を目指して来た時期である。その時期に六面地蔵を作ると言うのは理屈にあった話だが、しかしお地蔵さんも嘉永六年(一八五三)のペリー来航を止めることは出来なかった。
     塀の脇には鬼灯の赤い実がなり、ヒガンバナも咲いている。「いまどきにホオヅキですか。」やはり季節が少しずれているようだ。

     六面で鬼灯眺む地蔵尊  蜻蛉

     坂道の左に長く続く塀を見て、「ここが女子修道院なんだよ」と説明が始まる。塀を回れば正門は工事中のシートで覆ってあるが、「この正面からの眺めが良かったんだよ」と言う。「どうして、そんなに詳しいの。住んでもいないのに。」「時間になると鐘が鳴るんだ。日本の鐘はゴーンって鳴るだろう。こっちは違うんだ」草加の人がこんなに詳しいのは実に不思議なことである。
     「ドミニク・ニクニクだよ。」私はカトリックの歴史には全く疎いが、その歌はドミニコ修道会になってしまうのではないか。ここは東京カルメル会女子修道院である。

    カルメル会は、十二世紀にB修士という修道者がパレスティナのカルメル山中に修道院を築いて暮らしたことが起源とされる。B修士はもともとカラブリアの出身であったが、巡礼者あるいは十字軍戦士としてパレスティナに赴き、発願して修道者となったといわれている。カルメル山は旧約聖書の『列王記上』で預言者エリヤがバアルの預言者たちと対決し、勝利したことで知られる山である。
    B修士の修道院に修道士が集まって生活を始めると、会則が出来、一二二六年に教皇ホノリウス三世に認可されたことで正式な修道会として成立した。十三世紀に東方と西方の乖離が進んだため、カルメル会士たちは発祥地のカルメル山を離れてシチリアとキュプロスに修道院をつくった。やがて会員の増加と共に、イギリスなどヨーロッパ中にカルメル会の修道院を立てていった。
    特に大きな役割を果たしたのは十六世紀の女子修道会におけるアビラのテレサであり、男子修道会における十字架のヨハネである。彼らの思想に共鳴し、後に続いたカルメル会士たちは改革を意味する跣足のグループと称するようになる。このグループは、一五九三年に元のカルメル会から分離独立する。
    その後、フランス革命と近代啓蒙思想の発達によって反カトリック教会・反修道会的風潮がヨーロッパに強まったことで、カルメル会も大きな打撃を受けたが、この危機を乗り越え、現代でも世界中に多くの修道院が存続している。(ウィキペディア「カルメル会」より)

     『ドミニクの歌』が話題になれば、姫の関心は映画の主人公になったシスタースマイルドに及びそうだが、長くなるからやめておく。(そもそも私はその映画を見ていない。)歌の内容は、異端審問に力を発揮し特にカタリ派と戦った(おそらく弾圧した)聖ドミニコを称えるものだ。
     たぶん中世ヨーロパ精神史を知るためには、修道会の歴史を勉強しなければならないだろうが、私にはまだそこまで手を広げる余裕と能力がない。ただ昔読んだ林達夫を思いだせば、修道士を構成したのは主に騎士階級、つまり封建領主の子息たちであった。騎士物語の発生を吟遊詩人に求める通説に対して、林は、読書階級とも言うべき騎士の子弟の役割を大きく取り上げていたはずだ。そして騎士だから当然十字軍にも大きく関係してくる。
     「イギリスでローマ法王に遭遇しましたよ。」先月旅行してきたばかりのダンディが言う。「ヘンリー八世以来じゃないですか。」私はこういうニュースに全く関心がなかったので知らなかった。九月十七日、ベネディクト十六世がイギリスを公式訪問したのである。
     ただし、「十六世紀以来」という言い方はちょっと注意が必要だ。そもそも十六世紀以前、ローマ法王がイギリスを訪れるなんてことはあり得ないのであって、もしそれが初めてならば、「有史以来」「史上初めて」と言わなければならない。実は一九八二年、前法王ヨハネ・パウロ二世がイギリスに来ている。それが「公式」のものであったかどうかで、解釈が揺れるのだ。
     なお、「法王」という表記は正確ではないというのを私は初めて知った。ウィキペディアによれば、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨しているという。それにしても、深大寺を目指して歩いてカトリックの話題になるとは夢にも思わない。

     やがて深大寺の山門の前の通りにやって来たが、「最初はお城から行くよ」と講釈師はどんどん先に歩いて行く。通りの右側には緑の苔に覆われた大きな石垣が続いている。
     「ここが逆川」と講釈師が説明するのは、綺麗な水が流れる細流だ。水生植物園の入り口で、「アレッ、無料になったんだ」とスナフキンが驚く。以前は神代植物公園と共通の入場券を買わなければいけなかったらしい。「しょっちゅう来るよ。だけど駐車場が高いんだ。」蕎麦屋の店頭には、駐車場無料の案内が出ているが、蕎麦を食わなければ千円程度の駐車料金がかかるのである。
     今日の講釈師は昆虫図鑑を手にしていて、「ノンベンダラリと歩いていちゃ駄目だ。よく観察しなければいけない」とのたまう。虫なんか嫌いな筈だったんじゃないか。
     シュウカイドウ(秋海棠)の淡い紅色の花が咲いている。シュウカイドウ科シュウカイドウ属(ベゴニア属)。私はその名を知ってはいたが、実際の花の姿と一致しなかった。この花は可憐な趣がある。「断腸亭の断腸が別名になってます」と姫が意外なこと言う。「荷風の断腸亭の庭に秋海棠が咲いていたそうですよ。」無学な私は知らなかった。

    (荷風は)大久保余丁町の邸内の一隅を(腸に持病のある故をもって)『断腸亭』と名付け、自らを断腸亭主人と称した。庭先に秋海棠を植えた。それの別名も『断腸花』である。(ウィキペディア「断腸亭日乗」より)

     秋海棠が断腸花と呼ばれるのは何故なのだろう。典拠が知りたいと探してみると、こんな記事に出会った。

    中国の「採蘭雑誌」に描かれている「断腸花」の由来
    昔、さるところに、美しい婦人がいた。この女性には誰にもまた何物にも換え難い思慕する男性があった。そして毎日の逢瀬を楽しみに待っていたのであったが、故あってその彼氏はどうしても訪れることができなくなった。それを知らずに、婦人は今日は見えるか、明日は姿が、と北面の墻に待ちあぐんでいた。そして日ごとにそそぐ断腸の涙がいつか凝って名も知らぬ草が生え、その草の花の紅色が、その緑の葉に映ってまことに美しく、やさしく、ちょうどこの美しい女性にも似ているので、誰いうとなく断腸花と呼ぶようになった。
    http://plumkiw948.at.webry.info/201008/article_59.html

     佳人の流す紅涙が固まった花であった。「断腸の思い」という言葉が先にあって、花に当て嵌めた。しかしこの可憐な花と傲岸狷介な荷風とは何となく釣り合わないような気がする。
     ついでに断腸の語源は、子を奪われた母猿の腹を割いてみた所、腸がズタズタに切れていたと言う『世説新語』にある。しかし録音された猿の鳴き声を聞いた石川忠久によれば、もともと三峡(長江流域)の猿は、長く引いて鳴くその声に特徴があると言う。

    じっと目をつぶって聞き入ると、身はさながら三峡の地に在るごとく、「断腸の思い」にかられるのであった。(石川忠久『漢詩の魅力』)

     ジュズダマ。「これがもっと黒くなるんです。」イネ科ジュズダマ属。稲穂に当たるところに、数珠のような形の実がなっているのだ。
     真っ白いフジバカマが群生しているところでは、ツマグロヒョウモンが蜜を吸うためにとまっている。勿論私がツマグロヒョウモンなんていう名前を知っていたのではなく、姫や講釈師が教えてくれたのである。
     その辺りから上りの山道に入る。杖を突いている住職は大丈夫だろうか。後ろを振り返ってみると「住職なら先に行ってますよ」と碁聖が教えてくれたので安心する。登り切って「第一城郭跡」の看板があるところで講釈が始まった。
     「古河公方と扇谷(おうぎがやつ)上杉とが戦っていたんだよ。」戦国前期の関東の勢力争いはややこしくてなかなかスッキリと頭に入ってくれない。「川越夜戦知ってるだろう。北条が河越城を攻め落として、上杉朝定は松山城に退きます。上杉方は前進基地としてこの深大寺城を守っていたけど、北条はこんな小さな城には眼もくれない。三太夫、捨て置けって言ったのさ。」拍手が沸く。講釈師の面目躍如であった。「三太夫って言うのは嘘だけどさ。」少し整理してみる。
     戦国時代前期、関東は古河公方と、山内・扇谷上杉との三つ巴の勢力争いが続いていた。そこで活躍するのが傭兵隊長の太田道灌だったが、既に道灌は謀殺されてしまった。そして上杉の力も次第に衰えてくる。そこに関東への進出を企てる北條の勢力がやってくる。
     古河公方足利晴氏は北条氏綱の女婿となった。旧勢力である上杉氏は北条との戦いに古河公方の協力を求めたが承諾は得られない。江戸城は既に北条に落とされた。
     天文六年(一五三七)年四月、扇谷上杉朝興が河越城で死に、朝定十三歳がその後を継ぐと、北条氏綱は一気に河越に攻勢をかけるのである。上杉方はこの深大寺城を防衛ラインとして位置づけていたのだが、北條は巧妙に迂回して直接河越に攻め込んだ。上杉は河越を捨て松山に逃れ、何度も河越回復を図るが、もはや運命は定まった。「河越夜戦」というのはそのときの戦いである。
     やがて松山城も落とされ、天文十五年(一五四六)上杉は実質的に滅亡し、関東管領の称号、上杉氏の名称は長尾景虎に譲られる。
     空堀の跡もちゃんと残っている。「こんな浅い堀なの。」本当は土手の部分がもっと高かったのではないだろうか。「天守閣もあったのかしら。」当時の城にそんなものはない。館である。いわゆる天守閣は信長時代(安土城)にならなければ出現しない。この深大寺城については、『江戸名所図会』にも簡単に記載されている。

    深大寺大門松列樹の東の方の岡をいふ。土人は城山と呼べり。いまは麦畑となるといへども、ここかしこに湟池の形残れり。この地は往古清和帝の御宇、蔵宗卿武蔵の国司たりしとき、ここに住せられたりし旧館の跡にして、天文の頃、上杉朝定の家臣難波田弾正忠広宗、松山の城の出城としてここに城郭を構へたりしなり。(『江戸名所図会』)

     空堀を過ぎれば平地が広がっていて、その一角の蕎麦畑には白い小さな花が咲いている。

     城跡や登れば白し蕎麦の花  蜻蛉

     「パンが落ちてる。」木の根元に丸くて黄色いパンのようなものが落ちているのだが、実はキノコだと気がつく。「オモシローイ。」「クリームパンみたいね。」「クリームパンダケって名付けましょう。」
     クヌギの実が木になっているのは初めて見た。丸い実の、枝に着いている部分に鬚のようなものがたくさん生えているのが面白い。「前にドングリの本を差し上げましたよね」と姫に言われて思い出した。折角本を貰ってもちゃんと読んでいないことがすぐに分かってしまう。
     ヒガンバナがあちこちに群生している。「ヒガンバナはどうもね。」姫は死人花とも言われるこの花が苦手らしい。スナフキンも同じ気持ちをもっているようだ。しかし白いヒガンバナはなかなか良いと私は思う。
     山から降りれば水生植物園に続く道だ。林越しに池を見ると、小さな睡蓮が咲いているのが見える。「スイレンですよね、蓮じゃないでしょう」とイッチャンが確認を求めてくる。断言するほどの知識はないが、まずスイレンで間違いないはずだ。
     木道を歩くと、池に咲く黄色いコウホネ(河骨)が見えた。スイレンもコウホネも、やはり少し時期がずれているのではないか。もっと暑い夏の花だと私は思っていた。「無料だと管理が行き届かないんじゃないか。以前より少し荒れているような気がする」というのがスナフキンの感想だ。
     「あれ、なーに。」低い木の上にじっとして動かない生き物がいて、三脚を置いて撮影している人がいた。長い嘴を隠していたので、最初はリスかと思ったがそうではない。「ゴイサギじゃないの。」「そうだよ、ゴイサギだよ。」「幼鳥でしょう。」こんな近くで見るのは初めてだ。通りかかる人が歩をとめて騒ぎながら見ているのに、ほとんど身動きもしない。ヤブランは薄紫の穂をつけている。
     水生植物園を出て道を横切ると、多門院坂の脇には「深大寺小学校発祥の地」碑が立っている。坂の反対側では、三メートルほどの高さに小さな不道明王が立ち、二つの龍の口から細い水が流れ落ちている。昔はかなりの水を湛えた池だったろう。それぞれの龍の首の上には例の通り制多迦童子、矜羯羅童子が立っている。脇の石段を登れば不動堂だ。「開福不動明王」の幟が立つ小さな堂だ。

     やっとお目当ての深大寺蕎麦が食べられる。「ここだよ、早く入って。」十二時にはまだ十分程間があって、講釈師が入って行ったのは「雀のお宿」だ。深大寺の蕎麦屋の中では高級な部類に入るようで、店主は深大寺蕎麦組合(二十六店が加盟している)の会長である。
     門を潜れば茶室風な離れが並んでいて、私たちは一番広い座敷に上がった。六人が座れるテーブルが六つ並べてあり、その奥の三つを占領した。連続テレビドラマ『ゲゲゲの女房』のお蔭で、今日はとても混んでいて昼食は難しいのではないかと思っていたが、さすがに講釈師の選んだ店である。他の部屋は結構混んでいるのに、結局食べ終わるまでその部屋は私たちの他には誰も入って来なかった。背中の曲がったオバアサンが一人で注文を取り、お茶を運んでくれる。

    深大寺蕎麦(当地の名産とす。これを産する地、裏門の前、少しく高き畑にして。わづかに八反一畝ほどのよし。都下に称して佳品とす。しかれども、真とするものはなはだ少なし。いま近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといへども佳ならず)。(『江戸名所図会』)

     これが天保の頃の様子である。寺に植えたものだけが「真」であり、その他は「真とするものはなはだ少なし」であった。
     みんなはゴマダレ、天ざる(葛餅つき)、モリと冷たい蕎麦を註文するのに、私だけが暖かい天麩羅蕎麦千三百円を頼んだ。どうせ今日も姫の注文した天ざるが最後になるに決まっている。姫と同じものを注文したひとは後悔するだろう。
     「手伝いましょうか」とハイジが立ちあがったが、「分からなくなっちゃうから」とオバアサンは断って一人で働く。「腰は曲がってるけど、お元気ね」と貴婦人がびっくりしている。
     思いがけず、住職がサッカー二〇〇二年ワールドカップの記念五百円硬貨をみんなにくれた。良いのだろうか。「お世話になってるからさ。」私はお世話なんかしたことないので申し訳ないが、折角だから頂戴する。十六人にくれたということは、これで八千円になるではないか。住職は大富豪なのである。
     「カルタは上州だけじゃないですよ、埼玉だってあるんだから」とダンディがリュックから新しいカルタを取り出した。先日の里山ワンダリング羽生での上毛カルタの一件で、浦和のひとは上州に対抗心を燃やして見つけてきた。「彩の国21世紀郷土かるた」(埼玉県教育委員会・埼玉県子ども会育成連絡協議会)。上毛かるたはイロハ順だったが、こちらは五十音順にまとめられている。絵は浦和第一女子高等学校漫画同好会。
     取り敢えず私の住む川越を見てみれば「川越の音なりひびく時の鐘」、まずこんなところだろう。浦和に行けば「ホイッスルひびけ心のスタジアム」。「版木にて歴史をきざみ名を残す」は塙保己一、本庄である。越谷は「にらめっこ武州だるまに目を入れて」だ。越谷の達磨なんかあるのか。「有名ですよ。」春日部は「嫁に行く娘に親から桐タンス」。いまどき、嫁に行く娘に桐箪笥を贈る親なんかいる筈がない。こういう産業は滅びるしかないのではないか、というのは貧しい親のヒガミであろうか。
     「私の方はありますか」とカズちゃんが不安そうに聞く。「これが近いじゃない、トトロの森よ」とハイジが見つけた。所沢そのものはないが、「森の中トトロをさがす大冒険」「巾着田真っ赤に染める彼岸花」がカズちゃんのご近所になる。
     保己一以外の人物では、熊谷直実、渋沢栄一、荻野吟子、本田静六、下総皖一、若田光一が登場していて、これが埼玉県を代表する人物ということになる。選に漏れて文句を言う人がいるかどうかは知らない。下総皖一と言う人を私は知らなかったが、文部省唱歌『ゆうやけこやけ』や野口雨情『兎のダンス』などの作曲者であった。このカルタもなかなか教育的なシロモノである。
     漸く蕎麦が出来上がって最初に出てきたのはゴマダレで、私と逆の一番左端の六人がそれだった。「テーブル順にくるのかしら。」それから天ざるが来る。おかしい。姫が注文したのは最後になる筈ではないか。次がモリ蕎麦だ。女性陣は普通のモリだが、スナフキンは大モリである。しかしモリより天ざるが早いのが不思議だ。これで私以外の全てが揃った。
     「蜻蛉さんのはなかなか来ませんね。」今日の姫は余裕がある。「暖かいのは、出汁を最初から作り始めているんですよ。」だんだん腹が減ってきた。
     チロリンは自分の天麩羅をふたつもダンディのセイロに放り込んでいる。それを眺めていると漸く天麩羅蕎麦が出来上がった。待つこと久し。「これ食べて貰って良いですか、イカの天麩羅は噛めないんだもの」と姫が私にくれたのは、実はキノコである。「エーッ、そうなんですか。だって、みんながイカだって言うから。」キノコなら姫だって食べられた。
     「もう行こうぜ。」相変わらず講釈師は早すぎる。まだ姫も食べ終わっていないし、私の天麩羅蕎麦は今来たばかりだ。それでも急いで掻き込めば、私は姫よりも先に食べ終わっていた。

     いよいよ深大寺だ。天台宗別格本山浮岳山昌楽院深大寺。「浮岳山」の額を掲げた茅葺の山門は元禄八年(一六九五)に建てられたものだ。山門に登る石段は元は九段だったものを、平成二十年の改修で十三段変えたと言う。
     「これだよ、これ」と講釈師が指差してくれるのは、常香楼の片面の獅子鼻が焼けただれた跡だ。慶応元年の大火で焼失を免れたが、傷跡は残る。天保四年(一八三三)の建立になる。

    当寺は福満童子の宿願によりて、天平五年(七三三)に草創するところの仏域なり(『日本年代配抄』に曰く、「天平勝宝二年庚寅(七五〇)、深大寺建立」云々)。四十七代廃帝(淳仁天皇、七三三~六五)の御宇に勅願所と定められしより、平城(七七四~八二四)・清和(八五〇~八〇)両朝もまた勅願所となしたまひしといふ。(『江戸名所図会』)

     本堂の横にはフォックスフェイス(狐茄子)の鉢植えが置かれている。茄子というよりピーマンに近いだろう。この不思議なプラスティックで作ったような黄色の実を、私は(そしてカズちゃんも)高麗を歩いていたときに初めて見たが、生け花をやるひとはちゃんと知っている。「色を塗ったんでしょ」とチロリンが疑わしそうに言うが、「違うわよ、自然の色よ」とシノッチが答えている。横には大きなムクロジの木に実がなっているのが見える。
     なんじゃもんじゃの木(ヒトツバタゴ)の横には中村草田男「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」の句碑が立つ。「早くこっちに来いよ」の声に急かされて行けば、蕎麦守観音である。「日本にひとつしかないんだ。」それはそうだろう。蕎麦を守る観音が大勢いても仕方がない。そもそも衆生を救い、福を授けるために様々な姿に変身して走り回っている観音である。蕎麦を守っているほど暇ではないはずだ。
     虚子「遠山に日のあたりたる枯野かな」。この境内には句碑や歌碑が多いのだが、実際に深大寺とどう関係するかが分からない。芭蕉「象潟や雨に西施がねぶの花」なんていうものまである。出羽国象潟の蚶満寺と深大寺とどういう関係があるか。
     元三大師堂に続く石段を登り始めると、上から姫が降りてきた。「迷子になっちゃった。」どうやら、なんじゃもんじゃの木に見惚れている間に、私たちを見失ってしまったらしい。「蕎麦守観音があるそうですね。」それなら今見て来たばかりだ。「見たかったのに。」
     「龍の絵を見よう。」大師堂に靴を脱いで上がると、天井に書かれた河鍋暁斎の龍の絵がかすかに分かるようだ。「河鍋暁斎は谷中でお墓を見ましたね。」「そう、妖怪の絵なんか描くひとだよね。」講釈師は遅れた人を「早く来いよ」と急かせている。
     実は私は元三大師と言うのを知らなかった。世の中には知らないことが多すぎていけない。

    慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんさんだいし)の名で知られる。比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。
    良源は、第十八代天台座主であり、実在の人物であるが、中世以来、独特の信仰を集め、二十一世紀に至るまで「厄除け大師」などとして、民間の信仰を集めている。
    良源は、最澄(伝教大師)の直系の弟子ではなく、身分も高くはなかったが、南都(奈良)の旧仏教寺院の高僧と法論を行って論破したり、村上天皇の皇后の安産祈願を行うなどして徐々に頭角を現わし、康保三年(九六六)には天台座主に上り詰めた。
    また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎をつくった。天禄元年(九七〇)には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った。良源は、比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、さまざまな功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。弟子も多く、中でも『往生要集』の著者・源信(恵信僧都)は著名である。
    朝廷から贈られた正式の諡号は慈恵大師であるが、命日が正月の三日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。比叡山横川(よかわ)にあった良源の住房・定心房跡には四季講堂(春夏秋冬に法華経の講義を行ったことからこの名がある)が建ち、良源像を祀ることから「元三大師堂」とも呼ばれている。
    慈恵大師・良源には「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」など、さまざまな別称があり、広い信仰を集めている。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている。(ウィキペディア「元三大師」より)

     「あれはなんだい」羅漢の頭を撫でている親子を見て、スナフキンが不思議がる。賓頭盧尊者である。「それは何。」十六羅漢の筆頭である。知識第一と謳われたが、高慢で妄りに神通力を発揮するため、釈迦に叱責された。

    閻浮提に住することを許可せず、往って西瞿耶尼州(西ゴーヤニーヤ州)を行化しせめられた。のち、閻浮提の四衆の請により、仏が賓頭盧の帰るのを許すも涅槃に入ることは許さなかったことから、永く南インドの摩利(マリ)山に住し、仏滅後の衆生を済度せしめ、末世の供養に応じて大福田となるといわれる。(ウィキペディア「ビンドラ・バラダージャ」より)

     川越にある蓮馨寺の「おびんづる」は私たちにとってはお馴染みだ。
     釈迦堂の前には人が並んでいる。ガラス越しに見る「銅像釈迦如来椅像」は右手が施無印、左手が与願印。白鳳時代の仏である。ごてごてした装飾のないすっきりした姿が良い。椅子(と言うか、台)に座っている。

     この像は明治四十二年(一九〇九)、柴田常恵氏により当寺元三大師堂の壇下から見出されて注目を浴びるようになったものです。これより少し前、明治三十一年(一八九八)の『深大寺明細帳』に二尺八寸の釈迦如来銅像を挙げて「坐像に非ず、立像に非ず」と注記してあるのがこの像を指すと思われ、いにしえ古法相宗であった時の本尊と伝えています。天保十二年(一八四一)の当寺『分限帳』にもこれとおぼしい本堂安置の銅仏の記載があります。慶応元年(一八六五)の火災後、本堂の再建を見ないまま、慶応三年(一八六七)建立の大師堂に置かれていたようです。(中略)
     古代の他の金銅仏と同様、蝋型によるもので、土の中型(なかご)に密蝋を着せて像の外形を作り、これを土の外型で包み、密蝋の部分に溶銅を流し込んだものです。像内は像底から頭部内まで空洞で、銅厚はほぼ一センチです。
     (http://jindaijigama.com/jindaiji/jindaiji202.htmlより)

     また蕎麦屋の並ぶ通りに出てきた。「今度は水車を見よう。」茅葺の小さな水車小屋で、逆川の小さな流れのなかで、けなげに車を回している。

     調布市深大寺水車館は、文化・歴史・ぬくもりを持つ街の景観整備事業の一環として、平成四年七月一日にオープンしました。
     現在、水車館の敷地となっているところには、明治末期に地元の人びとが水車組合を作り、お金を出し合って建てた水車小屋がありました。周辺には雑木林が茂り、豊富な湧き水を水源とする逆川(さかさがわ)が流れ、水車の回る音が響いていました。市内で最後まで残っていた水車を復活させたいという地元の方々の運動により、武蔵野台地のくらしと生業を紹介する展示回廊と水車小屋の建設が実現しました。水車小屋には、つき臼三基とひき臼一基が設けられ、事前にお申込みいただくと、実際に玄米を精米したり、そばの実を粉にひくことができます。(調布市「深大寺水車館」)

     「恵比寿じゃ水車を見られなかったから、一所懸命見ちゃった」と姫が言う。臼と水車の心棒の歯車が噛みあわされずに離してあるから、当然、臼は廻っていない。実は私も水車内部の仕組みを初めて見た。私たちの社会科見学もなかなか有意義ではないか。
     新しい恵比寿と大黒を祀る堂は立派だが、中の二人はなんだか余りご利益の有りそうな様子ではない。その脇に立つ龍虎を一体にした白い彫像のほうが迫力がある。
     少し奥まったところにある深沙大王堂には、来る人は余りいないのだろうか。もともと深大寺の名称はこの深沙大王に因り、深大寺の総鎮守であった。明治の廃仏毀釈で破壊され、昭和四十三年にようやく再建されたものだ。小さな地味な堂である。本来の主人公が、現在では広い境内の隅っこに追いやられてしまっている。深沙大王は深沙大将、深沙神とも呼ばれる。
     『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となったものの、右近夫妻は許さず、娘を湖水中の島に隠した。福満娘恋しさに、玄奘三蔵の故事を思い浮べて深沙大王に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たという。この結果、娘の両親も許して、生まれた子供が満功上人であり、深沙大王を祀って堂宇を建てた。これが深大寺の始まりである。
     玄奘三蔵の故事というのは、流沙河で渇に苦しんでいた三蔵法師の夢に深沙大王が現れ命を救ったと言われることに由る。
     深沙大王は流沙河の主であり、沙悟浄のモデルだとも考えられている。流沙河は砂漠の流砂だが、日本では文字面から水の流れる「川」だと考えられ、龍神、水の神とされるようになった。一面二臂で髑髏の瓔珞をつけ、象革の袴を履く。蛇や戟を持つものがあるという。中島敦の悟浄(中島敦『悟浄出世』)は哲学的煩悶に囚われるが、深沙大王は悩まないだろう。「縁起」によって、縁結びの神にもなってしまった。
     この先に行くと逆川水源と考えられる池がある。武蔵野台地特有の湧水だ。不動明王の座像がある。「座っているのは珍しいだろう」と講釈師は言うが、ときどき見る。記憶が一番はっきりしているのは三軒茶屋駅前の大山道標の上に鎮座する不動明王で、あれも座像であった。
     もう一度メインストリートに戻って鬼太郎茶屋の前で休憩だ。二階の白壁には傘をさした鬼太郎とねずみ男、それに目玉の親父が描かれている。いまどき深大寺に来る人の大半はこの店を目当てに来るのだろう。人がいっぱいだ。「わたし、目玉の親父がダメなんです。だって誕生の瞬間の絵を見てますから。」姫が気持は分からなくもない。最初期の『墓場鬼太郎』は実におどろおどろしいものであった。
     ここでダンディと住職が別れていく。

     「ここはさ、あんまり来る人がいないんだよ。」深大寺には何度も来ているスナフキンも「初めてですよ」と言っているから、珍しいのだろう。開山堂は境内の最も奥、というより、最も裏に位置しているから、素通りしてしまうのだろうか。堂内を覗けば薬師三尊が並ぶ右端に開山の満功上人、左端には天台宗一祖恵亮和尚が座っている。
     その堂の脇に石田波郷・星野麦丘人子弟の句碑が立っている。麦丘人と言うのは知らない。波郷の墓は深大寺の墓地にあるそうだから、句碑が立っていておかしくない。

     吹起る秋風鶴を歩ましむ  波郷
     草や木や住地月の深大寺  麦丘人

     「波郷さんは、結核でずいぶん苦しんだんですよね」とハイジは良く知っている。そう言えばハイジ自身も俳句をやるひとだった。

     わが友渡辺白泉は遠く山陽に移り住んでゐたが、「砂町の波郷死なすな冬紅葉」の一句を某紙に発表した。私は涙にくるゝ思ひで
       砂町は冬樹だになし死に得んや
     と酬いた。(石田波郷『波郷句自解 無用のことながら』)

     昭和二十二年、江東区砂町に住む波郷が結核に倒れた時のことである。悲しくなるような友情である。翌年五月、清瀬の結核療養所に入所した。エッセイ集に『清瀬村』がある。私が読んだのは、『江東歳時記』(講談社文芸文庫)に併収されているものである。
     そばには中西悟堂の胸像も立っている。埼玉県生態系保護協会の人には親しいだろう。もともと、埼玉県野鳥の会から始まったのだから。
     これから神代植物公園に入って行く。入園料は一般五百円、六十五歳以上は二百五十円である。「私は二百五十円で良いのね。」「私も誤魔化しちゃおうかしら。」どう見ても六十五歳には見えない人がそんなことを言う。
     バラ園は、まだバラがまばらに咲いているばかりだが、来週からバラ園ガイドツァーなるものが開催されるので、私たちは一週間ほど早かったようだ。みんなはベンチで休憩しているが、私は取り敢えずバラを見ることにした。

     三つ四つ咲き急ぎけり秋の薔薇  蜻蛉

     講釈師は二人だけが座れる網で囲まれた椅子にハイジを誘って、仲良く(しかしハイジは少し緊張気味で)腰かけた。花は少ないからすぐ見終わってベンチに戻ると煎餅や飴が回されてくる。なんだか根が生えたみたいになってしまうが、少し休んで動き始める。
     温室に入ると不思議な植物が見られる。カカオの実は幹から直接ぶら下がっている。
     タビビトノキなんて、どういう理由で名付けられたのだろう。細長い穂のような花が咲いている。「葉の元に溜まった水で旅人の渇きを癒したって書いてます。」もともと日本にあったものではない。

    タビビトノキ(旅人の木、学名Ravenala madagascariensis)は旅人ヤシとしても知られるマダガスカル原産のバナナに似た植物である。オウギバショウ(扇芭蕉)、あるいは旅人木(りょじんぼく)ともいう。ヤシではなくゴクラクチョウカ科に属する。茎に雨水を溜めるため非常用飲料として利用され、この名前が付いた。巨大な櫂状の葉が長い茎柄の先に扇状に平面に並ぶ。ストレリチア(ゴクラクチョウカ)の仲間だが、花は小さく目立たない。その特性や葉の特徴から世界の熱帯及び亜熱帯地域で広く栽培されている。(ウィキペディア「タビビトノキ」)

     これが極楽鳥花の仲間と思えば、すぐそこに、そのゴクラクチョウカの色鮮やかな花が咲いている。
     睡蓮の池。サボテンの展示室では、Q太郎さんが「買おうかな、どうしようかな」と悩んでいる。「そんな趣味があったんですか。」「ないんだけど。」しかし、小さな鉢が結構高いのである。二千円とか三千円とか値がついているから、結局彼は買わなかったようだ。ベゴニア園の中を一回りすれば、ランの部屋は工事中で入れないので、元に戻らなければならない。
     外に出ればダリアを展示している一画がある。「見るかい。」「行きましょう。」
     「テンジクボタンですって。あの天竺なの。」ダリアの説明を読んでハイジが笑う。日本には天保時代にもたらされ、そのときに付けられた名が天竺牡丹であった。私は、牡丹、芍薬、ダリアの区別がまるでつかない。それぞれの花につけられた名前が不思議だ。「ルージュ」はその名の通り赤いから良いが、「純愛」「友情」「ジャズダンス」「ゆかた姿」なんて、どこから持ち出してきたのだろう。「マヤの神秘」なんていうものもある。ひととおり見回した後、ハイジは浦和に向かって別れ、残ったものは園内の軽食喫茶で少し休憩をとる。コーヒーは三百円。
     出口の少し手前では、小学生が夏休みの工作で作った鳥の巣箱が展示され、投票用紙を配っている。何も考えずに適当に番号を書いて投票箱に放り込んだが、マルちゃんやシノッチたちは真剣に考えている。「私は用紙を断ってしまいました。」という姫と、「俺はさっき投票しちゃった」とスナフキンがそれを待っている。
     今日は万歩計を持つ人がいないので、どのくらい歩いたのか測定できないが、「なんだか疲れちゃった」と姫が呟く。私もさっきの喫茶店では眠くなってしまった。しかし、一日のコースとしては見どころ満載で良かった。そして講釈師が折角持ってきた昆虫図鑑は、結局なにひとつ役に立たなかった。
     調布に向かう人たちと別れて私たちは三鷹行きのバスに乗る。「こっちの方が早いんだよ。」調布に向かったひとたちも、本来ならば三鷹から西国分寺に出て武蔵野線に乗った方が早いだろう。
     三鷹駅でそのまま帰る講釈師と、昔ご子息が住んでいた場所を見てみたいと言うカズちゃんと別れ、姫、碁聖、Q太郎さん、スナフキンと私は居酒屋を探さなければならない。「前は北口に行ったよな。」名前は忘れたが、あの店は確か五時開店ではなかったか。南口で探した方が無難であろう。
     少し歩いた所で「花の舞」を見つけた。土曜日は三時から開店しているから偉い。今は四時を少し過ぎた所だ。そしてメニューを見ると、刺身の五点盛が二百八十円である。これなら「さくら水産」に負けない。「こうやって、どんどんデフレになっていくんだ。」
     ビールの後は五百ミリリットルの焼酎ボトルを二本飲んで一人二千円は安いだろう。そして昨日は午前様だったQ太郎さんは、今日も遅くなったら奥方に叱られると急いで帰り、残った四人はビッグエコーに入って行くのであった。

    眞人