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    番外 江戸城内堀編 ~時空周遊~
               平成二十四年八月四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.08.14

    原稿は縦書きになっております。
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     「やあやあやあ、どうも、どうも。」「もう大丈夫なの。」「久し振りだね。」リハビリに専念していたロダンが半年ぶりに帰って来た。以前とちっとも変らない笑顔だ。もう少し涼しくなるのを待つかと思っていたが、目出度いことである。今日は祝杯を上げなければならない。
     旧暦六月十七日。あと三日で立秋となるというのに、まだまだ夏真っ盛りだ。明け方からミンミンゼミが喧しく鳴いている。東京駅丸の内南口に集合したのは、あんみつ姫、ダンディ、講釈師、ヨッシー、ドクトル、ロダン、ハイジ、カズちゃん、蜻蛉の九人である。このところ偶数月は全てあんみつ姫が企画してくれるので有難い。「まだまだ行きたい所が一杯あるんだもの。」
     まず原敬暗殺現場のプレートを見る。「前は、この辺の床に貼ってあったんだよ。動かしたんだな。」講釈師の言う「この辺」は工事中の壁で覆われているから仕方がない。切符売り場の脇の壁に「原首相遭難現場」のプレートが貼り付けられているのだ。
     「改札に向かってたときにさ、柱の陰から飛び出してきたんだよ。」相変わらず見てきたような講釈が始まる。「現場にいたのね。」「そうだよ。大勢の肩越しに見てた。」
     大正十年(一九二一)十一月四日午後七時二十分頃、京都へ行くために改札口へ向かっていた原の右胸を中岡艮一が刺した。駅長室で手当てを受けたが既に絶命していた。六十五歳。十八歳の中岡は足尾銅山の技師の子として生まれ、当時大塚駅の転轍手をしていた。思想的な背景は裁判でも明らかにできなかった。しかし持っていた斬奸状が他人の筆であった(名前が艮一でなく良一になっていた等の理由)ので、背後に誰かがいたことは間違いない。
     原敬については「平民宰相」「日本で初めての本格的政党内閣」という程度しか教科書では習わなかったのではないだろうか。南部盛岡藩の上級武士の次男として生まれ、分家して戸籍を立てた際に平民に編入された。「平民」の言葉に釣られて大正デモクラシーと関連付けてしまいがちだが、原は普通選挙の導入には反対している。制限選挙の枠のなかで、政友会を有利にする条件改変(直接税三円以上、小選挙区制)にしか興味がなかった。
     政治の特徴と考えられるのは、米国重視への転換、少し前の対華二十一カ条要求に象徴される中国政策の変更(関係改善)、ワシントン軍縮会議参加決定などか。これらが弱腰外交と見られた。また経済政策では財閥優遇策を取り、閣内で疑獄事件が多発したことも右翼の攻撃の的になっていた。もともと陸奥宗光に引き立てられたことから古河財閥とは縁が深く(陸奥の次男が古河家の養子になっていた)、明治三十八年には古河鉱業会社の副社長に就任している。田中正造関係の本では、谷中村を最終的に滅ぼした張本人と見做された。
     「もう一人いたよね、誰だったかな。」いきなりドクトルが言うので一瞬言葉が詰まったが、「浜口雄幸ですよ」と答えられた。こちらの方は、城山三郎『男子の本懐』を読んでいるから馴染みがある。浜口は昭和五年十一月十四日、現在の東北新幹線改札付近で佐郷屋留雄に銃撃された。一命は取り留めたものの容体は好転せず、翌年四月に首相を辞任し八月二十六日に死んだ。病床の浜口にしつこく議場登壇を要求したのが鳩山一郎だったことは記憶しておいても良いだろう。

     駅を出て振り返ると、ずっと駅舎を覆っていた養生シートは取り払われて、赤レンガの建物がほぼ全貌をみせてきた。「十月ですか、完成は。」「以前と同じものに改修したんですか。」辰野金吾設計になる大正三年の完成当時の写真をもとに、できるだけ復元したのである。これまでは空襲で焼失した後暫定的に修復していた建物だから、私たちにとっては初めて見る東京駅になる。
     「中央郵便局は懐かしいわ」とハイジが声をあげた。「丸の内のOLだったのかい。」「八重洲のね。」

    五月三一日、JR東京駅丸の内南口の旧東京中央郵便局の跡地に、「JPタワー」が完成しました。
    この建設事業は日本郵政グループとJR東日本、三菱地所による共同開発事業で、「東京駅前再開発事業最後の大型案件」とも呼ばれます。約九〇〇億円かけて出来上がったのは、地上三十八階、地下四階建てで高さ約二〇〇メートルの高層ビル。七月には新・東京中央郵便局やゆうちょ銀行本店の開業を控えています。
    http://www.h-yagi.jp/00/post_230692.html

     この辺りは家康入府後、日比谷入江を埋め立てて新たに外堀が造られて、御曲輪内となった場所だ。親藩、譜代大名の藩邸が犇めいていたことから大名小路と呼ばれた。豪華な門構えが続いており、江戸っ子は、「外の津にないは大名小路なり」と自慢した。江戸は京都に対して他に自慢できるものがなかったのである。
     維新後に大名屋敷はすべて取り払われて、陸軍兵舎や練兵場になっていた。やがて陸軍兵舎が移転した後の空き地が、明治二十三年(一八九〇)に三菱の二代目岩崎弥之助に百五十万円で払い下げられた。坪十円と言われているが、当時銀座が坪三十円から五十円だったのと比べて破格である。野草の生い茂る広大な三菱ケ原であった。
     丸の内最初のオフィスビルとして建てられたのが三菱一号館だ。稲垣長門守(近江山上藩)屋敷跡になる。美術館中庭口の矢印に従って中に入ると、周りの赤レンガに緑の樹木がよく調和している。東京駅のまん前に、こんな静かで落ち着いた広場があるなんて知らなかった。美術館ではバーン・ジョーンズ展が開かれているが、私たちが見学する訳ではない。
     回遊路の中の芝生には彫刻がいくつか据えられている。トルソ、腰掛ける女。「これ見ると空襲で焼けただれたかと思っちゃうよ。」ベンチに二人が腰掛けているオブジェで、タイトルは「ローマの公園」となっているのだが、講釈師の言う通り、何となく鉄が焼け崩れたような塩梅に見えるのだ。ジャコメッティにも似ているような気がする。

    「三菱一号館」は、一八九四(明治二七)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された、三菱が東京・丸の内に建設した初めての洋風事務所建築です。全館に十九世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられています。当時は館内に三菱合資会社の銀行部が入っていたほか、階段でつながった三階建ての棟割の物件が事務所として貸し出されていました。この建物は老朽化のために一九六八(昭和四三)年に解体されましたが、四十年あまりの時を経て、コンドルの原設計に則って同じ地によみがえりました。
    今回の復元に際しては、明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献、写真、保存部材などに関する詳細な調査が実施されました。また、階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用したほか、意匠や部材だけではなく、その製造方法や建築技術まで忠実に再現するなど、さまざまな実験的取り組みが行われています。
    十九世紀末に日本の近代化を象徴した三菱一号館は、二〇一〇(平成二二)年春、東京・丸の内のアイコン、三菱一号館美術館として生まれ変わりました。
    http://mitsubishi-ichigokan.jp/

     「これもコンドルですか」とロダンが感心したような声を出す。この頃の一流建築家と言えばコンドルと、その弟子の辰野金吾位しかいないんじゃないか。コンドルは明治十年(一八七七)に工部大学校教師として招聘されて辰野金吾を育てた。その辰野が教授になったために十七年に解雇されたが、十九年には帝国大学工科大学講師に就任する。後に帝国大学を辞任してからは建築事務所を開設し、日本人女性と結婚して日本に住み続け、大正九年(一九二〇)に死んだ。墓は護国寺にある。明治二十四年頃から三菱の顧問に就任して、三菱系の建物をいくつも設計した。
     主な作品としては、上野博物館、鹿鳴館、ニコライ堂、横浜山手教会、三井家倶楽部、島津忠重邸、古河虎之助邸(現古河庭園)、岩崎家深川別邸(現清澄庭園)、岩崎家霊廟などがある。
     ところで、この建物の解体と再生にあたっては、かなりの悶着があったようだ。文化財保護委員会は、建物の保存を望んでいたのである。ウィキペディアから要点を抜き出してみる。

     昭和四二年(一九六七)九月、文部省文化財保護委員会は三菱地所に対し文化財指定の申し入れを行い、三菱地所は無断で取り壊すことはしない旨を示したため、文化財指定は見送られた。・・・・
     しかし三菱地所は一九六八年(昭和四三年)三月二十一日に解体工事を開始する旨、一方的に文化財保護委員会宛てに通告した後、突如その翌日の同年三月二十二日夜間に足場を架設し、丸の内地区の人通りが少なくなる土曜日の同年三月二十三日を選んで解体工事を強行した。
     三菱地所が解体工事を強行した後も、日本建築学会は工事中止の上、保存について協議するよう三菱地所に申し入れ、文化財保護委員会には保護措置をとるよう要請。・・・・
     現在の「三菱一号館」は、一八九四年に建てられた「第一号館」に似せてレプリカ再建された煉瓦造の建築物である。・・・・
     しかし一方で同資料によれば工期の問題や材料の入手性、資料の欠損などにより再現しなかった点も多数あるとしており、・・・・さらに千代田区の地区計画によりセットバックさせた位置への建設となったため、「第一号館」とはおよそ一・六メートル異なる位置に建つ。

     丸の内の一等地で、古い建物を保存しておくだけでは金は生み出せない。三菱側にも言い分はあるが、忠実に再現された建物ではないというのは事実のようだ。
     嘉永二年の切絵図をみると、丸の内仲通りに「大名小路」と記されている。その先が明治生命館だ。三菱二号館の跡地であり、定火消役屋敷であった。休日で閉ざされているが、正面入口(?)ドアの彫刻が素晴らしい。半円形の窓に取り付けられた鉄枠にも彫刻が施されている。馬場先門の交差点で日比谷通りに曲がりこんで、中に入ったのは十時二十分頃だ。「見学は十一時からですから、それまでここでゆっくりしましょう。」かなり時間があるので、一階の広いラウンジでゆっくりする。
     定刻になって警備員が二階へのドアを開けてくれた。二階に上がると一階から吹き抜けになっていて、一階のお客様相談センター全体が見渡せる。歴史的建造物でありながら、今も現役で使われているのである。

    一九三四年(昭和九年)三月、三年七ヵ月の歳月をかけて竣工しました。設計は当時の建築学会の重鎮であった東京美術学校(現、東京芸術大学)教授岡田信一郎氏です。古典主義様式の最高傑作として高く評価され、わが国近代洋風建築の発展に寄与した代表的な建造物と言われています。
    一九四五年(昭和二〇年)九月十二日から一九五六年(昭和三一年)七月十八日までの間、アメリカ極東空軍司令部として接収され、この間、一九五二年(昭和 二七年)まで二階の会議室が連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会の会場として使用されました。マッカーサー総司令官もこの会場で開催された会議に何回も出席しています。
    一九九七年(平成九年)五月二十九日、文化財保護審議会の答申によって、昭和の建造物として初めて国の重要文化財に指定されました。
    http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/etc/open/

     吹き抜けの周りに部屋が並んでいる。カビ臭いのか塗装のせいなのか、空気に異様な臭気がある。カズちゃんが突然咳込んでマスクをした。
     資料展示室を抜けて、対日理事会の会場だったという会議室から覗いてみる。広いし家具が立派だ。ここにメンバーのリアルな人形なんかを置いてくれると、もうちょっとイメージが沸くのだが。対日理事会は連合国軍最高司令官、つまりマッカーサーの諮問機関として設置されたもので、米英ソ中に、オーストラリア、ニュージーランド、インドをメンバーとした。しかし実質的には殆ど機能しなかったようだ。

    対日理事会も、SCAP(連合国軍最高司令官)の権限を監視ないしチェックすることを意図してFEC(極東委員会)の出先機関として東京に設置されたが、実質的にはSCAPの諮問・助言・協議機関としての機能を果せず、単なる宣伝の場に終わった。これはマッカーサー元帥が連合国の介入を嫌い、可能な限りACJ(対日理事会)を無視しようとしたからである。(竹前栄治『戦後占領史』)

     連合国軍とは言いながら圧倒的な数を占めるアメリカ、とりわけマッカーサーの意思がほとんど全てを決めたのである。この当時のマッカーサー程、自信に満ちて強大な権力を行使した人間はいない。
     会議室を出て隣を覗くと、壁際に作られたカウンターの上に小さな木製のドアが三つほど並んでいる。「懐かしいな、書類のエレベーターですよ。」しかし、ここは食堂の控室なのだから、書類ではなく普通の食器用のリフトと考えても良いのではないか。天井や梁の彫刻は葡萄と蔦の模様だ。応接室も広い。「いいわね、暖炉があるなんて。」
     一周して一階に下りると、大理石の床にアンモナイトがあることを講釈師がいち早く見つけた。「三越の壁にもありますよね。」それは知っていたが、どうして大理石にアンモナイトの化石が残るのか。

    大理石は白色の結晶質石灰岩のことで、・・・・日本ではビルの内装等の装飾に使われている岩石を、結晶質石灰岩も石灰岩もひっくるめて「大理石」と呼んでいる。ビルの内装にアンモナイト等の化石が見られることがあるが、細部まで明瞭な化石が残存する場合は材質的には石灰岩であることが多い。また、変成を受けた石灰岩の中にも大きな生物の化石痕跡が残る場合もある。(ウィキペディア「石灰岩」より)

     大理石が石灰岩だったなんてまるで知らなかった。ドクトルやロダンに笑われてしまう。そして石灰岩には生物起原と化学的沈澱の二種類あるが、今ここで重要なのは生物起原の方だ。有孔虫、ウミユリ、サンゴ、貝類、円石藻、石灰藻などの生物の殻(主成分は炭酸カルシウム)が堆積してできるのだが、沈澱堆積の過程で化石を閉じ込めてしまうことが多くあったのである。ここでは関係ないが、水から炭酸カルシウム自体が分離して沈澱したのが化学的沈澱である。
     要所には警備員が待機している。人件費もバカにならないが、マッカーサーの執務室を保存している第一生命ビルが非公開なのとは違って、歴史的な場所を公開してくれているのは嬉しい。用便を済ませて外に出る。

     「信号を渡った方がいいんじゃないか。」姫は講釈師の言葉に従って馬場先門の信号を渡っていくが、途中で声をあげた。「すっかり忘れてましたけど、明治生命館の隣の岸本ビルディングの辺りが、林さんちでした。」計画ではそちらを回ってから、和田倉門の信号を渡る予定だったらしい。
     「林さんち」というのは林大学頭である。林羅山を始祖として、三代鳳岡が大学頭に任じられて以来、林家がその職を世襲した。八代述斎のとき千五百石から三千石に加増された。天保の改革で悪名を轟かした例の鳥居耀三は述斎の三男(四男とも)である。
     切絵図を見ると馬場先濠はかつての八代洲河岸だから、ヤン・ヨーステンの屋敷があったのだろう。今の八重洲口が全く別の場所にあるから勘違いしてしまう。これに沿って、日比谷通りの東側に定火消役屋敷、松平因幡守(鳥取・池田氏)屋敷、大学頭屋敷が並んでいる。
     「あっ、白鳥じゃないか。」相変わらず講釈師は目が早い。馬場先濠に白鳥が二羽浮かんでいる。向かいの高層ビルの表側に張り付いている赤煉瓦の建物は、東京銀行協会ビルだ。外観だけを残したものかも知れない。
     馬場先濠の向かいには、松平下総守(忍藩・奥平氏)、松平肥後守(会津)の屋敷が並んでいた。ドクトルは忍藩がこんな所に屋敷を構えていたことに驚いている。奥平氏は有力な親藩であった。「あのパレスホテルが、憲兵隊司令部のあった場所です。」姫は和田倉濠の向うを指差す。現代の地図と切絵図を並べて比べるのは面倒だが、切絵図の小さな文字を判読すると遠藤但馬守(近江三上藩)屋敷跡になるようだ。
     姫の案内にも書かれている通り、甘粕事件の起こった場所である。関東大震災直後の大正十二年(一九二三)九月一六日、東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕憲兵大尉は、大杉栄、伊藤野枝(二十八歳)、大杉の甥立花宗一(六歳)を連行し、虐殺して古井戸に投げ込んだ。但し実行犯が本当に甘粕だったかどうかは疑問が残されている。
     大杉は男女関係や金銭的なだらしなさもあって毀誉褒貶さまざまあるが、ロマンチックな文学者であったことは間違いない。アナキズムを自由と同意語として信奉していたから、マルクス主義には一貫して反対していた。

     生ということ、生の拡充ということは、言うまでもなく近代思想の基調である。近代思想のアルファでありオメガである。しからば生とは何か、生の拡充とは何か、僕はまずここから出立しなければならぬ。・・・・
     そして生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、階調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある。
     今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである。(大杉栄『生の拡充』)

     「美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある」なんて、粗雑だけれどアジテーションが上手い。しかし近くにいて振り回される人間、特に女性は堪らないだろう。神近市子が日陰茶屋で大杉を刺してしまうのも、なんとなく分かる。
     大杉が斃れたこともあってか、当時の左翼内で闘われたアナボル論争では、アナ派の勢力は衰え、ボルシェビキ派(レーニンのマルクシズム)優位に偏っていく。ボルシェビキが最終的に無残な歴史を残したことは今の私たちは分かっている。それならば大杉が信じたアナルコ・サンディカリスムに未来はあったか。そう言えば大杉の盟友でもあった荒畑寒村の社会主義には、アナルコ(アナーキー)を取り外したサンディカリズムの匂いがする。
     そして一方の当事者である甘粕正彦も正体不明の不思議な人物だ。いくつかの伝記や小説があるが、どこまで信じられるかが私には判別できていない。十年の刑を受けながら、三年後には出獄し軍の金でフランスに留学した。その後満州でさまざまな工作活動に従事した後、満州映画協会第二代理事長となった。この満映時代の評価が高いのである。その頃の甘粕を知る森繁久彌や山口淑子(李香蘭)は決して悪い印象を持っていない。

     ある夜、料亭で例会が開かれてみんなで歌をうたって楽しんでいると、予告なしに甘粕理事長が訪れた。恥ずかしそうにお酒を飲んでいたが、別れぎわに「わたしもあなたのファンクラブに加えてもらったので、よろしく」と照れくさそうに笑った。(中略)
     甘粕さんといえば、すぐにあの照れ笑いを思い出すほど照れ屋だった。だが、さまざまな側面を合わせ持つ人だった。
     大酒豪だった。一日一本はウィスキーをあけた。ウィスキーは南方のある機関からスコッチが何本も送られてきて絶えることがなかったという。一日の仕事が終わると必ずウィスキーをあおり、その日のことを忘れ、ついでに、様々な過去も忘れようとしているかのようだった。理事長は、酩酊のおかげで余生のバランスを保っていたように私には思われてならない。
     〝大陸のローレンス〟の異名で恐れられた風雲のテロリストは、いつのまにか、〝満映の父〟になっていた。(山口淑子・深田作弥『李香蘭 わたしの半生』)

     甘粕は満映内の民族差別を撤廃して中国人社員の賃金引き上げを実行した。日本敗戦にあたっては、満映の全預金を引き出し、日本人職員のみならず中国人社員にまで全員に退職金を支払い、列車を確保して日本人を朝鮮経由で脱出させるように指示した。 その後八月二十日、青酸カリで服毒自殺を遂げた。やがて満映の残党が戦後の東映を作ることになる。
     和田倉橋を渡って、和田倉噴水公園に入った。「ここに喫煙所がありますからね。」姫は私のためにこの公園に寄ってくれたのである。千代田区にはほとんど喫煙できる場所がない。十一時半。真っ青な空に噴水が高く上がっている。もうひとつの噴水は水を霧状に噴出させていて、こちらも涼しげだ。「浴びたいくらいよね」とハイジが笑う。

      青空に噴水高し煙草吸ふ  蜻蛉

     公園の出口に「御製」の碑が立っていた。「誰の御製だい。昭和、大正かい。」調べる積りはなかったがドクトルに訊かれれば仕方がない。裏に回ってみると説明があった。「今上です。」「今上って、平成かい。」平成二年の即位記念に歌われたものらしい。歌の善悪は分からないが記録しておこう。

     いにしへの人も守り来し日の本の 森の栄を共に願はむ

     内堀通りに入ってパレスホテルの正面を通り、大手門の信号を渡り大手濠に沿って行く。右手は気象庁だ。もう六年も前になるが、あの中の気象科学館を見学したことがあった。「あそこの食堂も安くて美味いんだ。」大抵の官庁なら食堂に入れるというのが講釈師の説明だ。「農林水産省はやっぱりコメが美味いよ。五百円で食える。」「ご飯を食べるためだけで役所を回ってるんじゃないの。」それなら毎日が忙しいことだろう。
     「和気清麻呂は見なくても良いですよね。」姫は私が関心をもっていないと誤解しているようだ。しかしちょっと見ておきたい。私はこの辺りをほとんど知らないのだ。和気清麻呂と言えば道鏡との政争しか思い浮かばないから、何故こんなところにいるのか私には分かっていない。大手町一丁目四番。

    ここに立たせるは護王大明神の神號を給はりし贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまをうつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に孝明天皇の室命に身の危きを顧ず雄々しく烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた明治天皇の策命に日月と共に照り徹れつ偉き勲をめでさせたまへりこれの像は明治の出御代に祝行添うせしを今茲紀元二千六百年の記念として宮城の御濠に沼へる地に建設せるなり
    公の英霊は千載生けるが如く嚴然として宮闕の下を離れず我が國體を擁護しまつり天地と倶にごとしへに存せむ
      昭和十五年十二月 大日本護王會

     道鏡の即位を阻止するために宇佐八幡の神託を持ち帰ったことで、怒った称徳(考謙)は清麻呂の名を穢麻呂(きたなまろ)と改名させ、さらに脚の腱を切って大隅国に流した。老女のヒステリーですね。こういう女が最高権力を握っているのは怖い。但し道鏡が本当に皇位を狙っていたかは疑問とする説もあって、称徳の意向が強かったようだ。称徳が崩御して道鏡が失脚すると清麻呂は復権する。遥か後の幕末、嘉永四年(一八五一)になって、道鏡を退け平安遷都に力を尽くした忠臣として、孝明天皇は清麻呂に正一位、護王大明神の神号を贈った。
     つまり、道鏡の即位を妨げたことは「万世一系」の「国体」を守ったことであり、日本国の守護神と考えられたのであろう。紀元二千六百年(昭和十五年)にこの像がここに建てられた意味が分かった。
     平川門。「不浄門とも言います。」「浅野内匠頭はここから出されたんだよ。」「御局門とも呼ばれました。御局が不浄なんてイヤですよね。」そう言えば姫は昔講釈師に「御局」と呼ばれたこともあったっけ。大奥に一番近かったから奥女中の出入り口になっていたということらしい。「ここからまっすぐ向こうに松の廊下があったんだ。」
     平川橋の袂付近に太田道灌公追慕之碑がある。石垣の大きな石を三つ組み合わせたものだ。「道灌はあちこちにいますね。」この辺りで平川が日比谷入江に注ぎこんでいた。道灌の江戸城は日比谷入江に臨んで建てられたものだ。中世の江戸氏以来、江戸湊とも呼ばれ諸国往還の船による物資集積の港であった。

    此ノ石材ハ江戸城虎之門桝形ノ遺材ニシテ道灌公當時ノモノニハアラザルモ因縁深キモノトシテ特ニ本碑材ニ選定スルコトトセリ

     「これだけの石は船で運んだんでしょうね。」当然そうである。ここまで入江が来ていたのだからね。家康の江戸城が一応完成した後で埋め立てたのである。
     竹橋。そろそろ腹が減ってきた。「空腹でもう一度反乱が起きるかもしれませんね」と姫が笑う。「西南戦争の論功行賞に不満があったんだよ。」講釈師はなんでも知っているね。明治十(一八七七)年に西南戦争が戦われ、十一年五月十四日に大久保利通が暗殺された。まだきな臭い余燼は残っている。そして八月二十三日、近衛砲兵大隊竹橋部隊が反乱を起こしたのである。大隈重信邸を砲撃し民家に放火して、天皇に強訴するため赤坂の仮御所に向かって進軍しようとした。

    事件は東京竹橋にあった近衛砲兵大隊の兵士を主力に東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二連隊の同調者をまじえて、将校、下士官の連座者をふくみ、日本陸軍史上唯一つの兵士の叛乱であった。三〇〇余人が、待遇改善、その他の要求をかかげて直接行動に訴えたのである。兵士たちはすべて徴兵によって陸軍にとられ、その多くは前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士たちを駆りたてていった。生れ在所の百姓一揆の伝統、後の自由民権運動につながる志向、兵士たちをささえる火であったと思われる。(澤地久枝)

     西南戦争の論功行賞の遅れに加えて給与削減にも不満が募っていた。給与削減は大隈が主導したと思われていたため、大隈邸が砲撃された。「この事件を書いたものはあんまりないんですよね。」澤地の『火は胸中にあり』というのが、その少ない一冊になる。士官学校生徒だった柴五郎も急を聞いて現場に急行した。

    銃声しきりにおこりて走りゆく足音繁く、戦争おこれりと立ち騒ぐ声しきりなり。余は古市とともに飛びおき、士官学校の服に着替えて飛び出せり。古市しきりに流弾危険なれば中坂より行かんとさけびおるも聞かず、九段坂を一直線に馳せ登りたり。飛弾しきりに飛びきたり、石垣にあたりて火花を散らし、危険このうえなし。(『ある明治人の記録』)

     このとき五郎は脚気に罹っており、「歩行困難となり、呼吸逼迫す。脚気のためとは気づかず」という状態だった。人力車を雇ってなんとか士官学校につき、警護についた。事件が沈静化して「『解散!』の号令を聞き、余の張り詰めたる心崩れて昏倒、意識を失い、後刻目覚めて病室にあるを知れり。」
     反乱軍は近衛歩兵隊、鎮台兵によって鎮圧され、五十三名が銃殺刑に処せられた。首謀者は岡本柳之助砲兵少佐と見做されたが、何故か官職剥奪の上追放で済んだ。銃殺に処せられた者と余りに差がありすぎる。岡本は明治二十八(一八九五)には閔妃殺害に関与する。しかし岡本の自伝『風雲回顧録』には、竹橋事件のことも閔妃殺害事件のことも触れられていない。
     この事件の後、陸軍卿山県有朋の名で軍人訓誡が発布された。後の軍人勅諭の元になったもので、天皇の絶対神聖、軍隊の中立化(政治活動参加の禁止)を説いたものと言われる。

     「この右の方に警視庁第一機動隊があるよ。」この辺りからやや上り加減になる道が紀の国坂だ。東京国立近代美術館、国立公文書館を右に見て過ぎる。「ここから見るのが素敵です。」少し曲がりこむような道の、信号から道路を隔てて見えるのが乾門だ。明治になって作られ、皇居の北西にあたるから乾と呼ばれる。「素敵ね」とハイジもカズちゃんもウットリ見つめている。屋根が美しい。
     北の丸公園内に入って赤レンガの建物に着いた。旧近衛師団司令部庁舎であり、今は国立近代美術館工芸館である。千代田区北の丸公園一丁目一番。土台の通風口には星のマークを象った枠がはめられている。「陸軍の印だよ。」

    工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。この建物は、明治四三(一九一〇)年三月、陸軍技師田村鎮(やすし)の設計により、近衛師団司令部庁舎として建築されました。二階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財です。
    http://www.momat.go.jp/CG/architecture.html

     「私は工芸というのは苦手だな。」工芸とは工業デザインのことだろうか。私も特に見なくても良い。「誰か見学したいひとはいますか。」「それより腹減ったよ。」
     北白川宮能久親王の騎馬像がある。「輪王寺宮ですよね。」こういうことはロダンも詳しい。寛永寺の門跡だったために上野戦争で彰義隊に擁立されて仙台に逃走し、奥羽列藩同盟の盟主に担がれた。このとき、東武天皇として即位したという説がある。
     私はそこまでしか知らなかったが、戊辰戦争後に還俗して北白川宮を継ぐと明治三年にプロイセンに留学した。そして明治九年にはドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約するという、当時の皇族として実に破天荒なことをしでかした。しかも政府の許可を求め、新聞に公表したものだから政府は怒る。岩倉具視の説得で婚約を破棄し、戊辰戦争に続いて二度目の謹慎処分を受けた。波乱万丈、なかなか面白い人物ではないか。
     明治二十八年(一八九五)、台湾征討近衛師団長(中将)として出征したが、マラリアに罹って台南で死んだ。死を匿して大将に昇進させてから公表され国葬に付された。近衛師団長だったからこの地に銅像が建てられたのである。

     それにしても腹が減った。もう十二時をだいぶ過ぎた。「それじゃ行きましょう。」昼食は科学技術館のレストランと決まっている。千代田区北の丸公園二丁目一番。「なかなか面白いものが展示されています」とダンディは断言する。今日から、夏休み特別展「はかるのヒ・ミ・ツ展 あなたのモノサシは正確ですか?」が開催されていて、子供連れの客が多い。入り口でなにかのパンフレットを配っているが、それは特別展に入場する人たち向けのものらしい。
     「地下に行くんだよ。」リーダーが何も言わないうちに講釈師はどんどん先に立っていく。選ぶのが面倒だから、私も講釈師と同じハンバーグ定食のようなものに決めた。九百五十円は結構高い。カレーを選んだ人が多いが、私は今朝カレーを食って来たからね。レストラン内もかなり混んでいて、全員が一つのテーブルに着くわけにはいかなかった。
     「なんだよ、そんなものを飲むやつは除名だな。」ダンディが缶ビールを飲んでいるではないか。夜は飲めないから今飲んでいるのか。ロダンはさっきのパンフレットを貰って来て開いている。「それは良いですよ、子供向けだから我々文科系にちょうど良い。」ダンディにそう言われても、私は特に見なくても良い。しかしカズちゃんはこれが気に入った。「後で貰ってこよう。」
     早めに終わって外でたばこを吸っていると、雲が黒くなってきた。用便を済ましてもう一本吸おうとしているとき、講釈師がやってきた。「早く行こうぜ、雨になってしまう。」姫が決めた集合時間はあと三分ほどだから、そんなに慌てなくても良い。「どっちから行くんだい。武道館の方からか。」私に言われても分かるはずがない。すべては姫の計画である。
     カズちゃんはさっきのパンフレットを探して係員に訊いている。係員に連れられて奥の部屋に行ってしまうと、「もう行っちゃおうぜ」と講釈師が急かせる。仕方がないので私が迎えに行き、姫が入り口前の案内嬢に、最後に一枚だけ残っていたものを貰ってくれた。

     武道館の方には向かわず清水門から内堀通りに出た。雨が降れば涼しくなるかと思えばそうでもない。却ってジメッとして鬱陶しい。九段会館の隣に昭和館がある。狭い通路を通って、昭和館の玄関ホールの前から九段会館を眺める。帝冠様式という建物だ。「軍人会館だよ。二二六事件の戒厳司令部がおかれたんだ。」こういうことになると講釈師の口が止まらない。「垂れ幕がかかったんだよ。知ってるだろう、」「兵に告ぐ。」「そうだよ。」私はラジオ放送とビラしか知らなかった。垂れ幕もあったのか。
     去年の大震災の時はちょうど東京観光専門学校の卒業式の最中で、天井が崩落して二人が死んだ。「気の毒よね。」このため、現在も休業中だ。
     「それじゃ入りましょう。」昭和館というものがあるのは知らなかった。千代田区九段南一丁目六番一。厚生労働省所管の博物館である。「懐かしいから私は何度も来たことがある」とダンディが言う。昭和十年から三十年頃までの千代田区庶民の暮らしを展示しているものだ。
     入場料は三百円。「団体割引は。」「二十名様からになっています。」「シルバーはないのかな。」「一割引きになります。」エレベータで七階に上って常設展示室に入る。「音声ガイドを借りるといいですよ。」姫は下見の時に利用したらしい。七階は昭和十年ごろから敗戦までをカバーする。ブースは、「家族の別れ」(召集)、「家族への思い」「昭和十年頃の家庭」「統制下の暮らし」「戦中の学童・学徒」「銃後の備えと空襲」「和男君の防空探検」「空襲の備え」「昭和二十年八月十五日」となっている。
     椅子に座って映像を見ていた老人と講釈師が話をしている。「私は九十一歳になりますよ。戦争にもいきました。」この人に比べれば、講釈師もダンディも子供みたいなものだった。「俺は疎開世代です。」「そうですか、空襲にはあわなかったんですね。」「疎開したのは東京大空襲のあとだから。」講釈師が珍しく素直に応答している。
     「地獄を見たことのない若者たちは幸せなのかどうか。」ダンディは、戦争を知らない私たちの発想や趣味が、時に甘ったれたもののように感じるようなのだ。しかし、戦争に出会わなかったのは、紛れもなく幸せなことであった。但し無関心ではいられない。私たちは学んで想像するしかなく、そのためにも、こうした博物館の存在は重要なのだ。
     蓄音器が展示されているところで音声ガイドのボタンを押すと、ディック・ミネの「人生の並木道」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)が流れてきた。「人生の並木道だよ。」ロダンもボタンを押してニヤリと笑う。昭和十二年公開の『検事とその妹」の主題歌である。「いつまでも終わらないんですよ。」ブースを変えたら別のボタンを押さなければいけない。
     六階に下りると戦後の世界が広がってくる。国民服のデザインが二種類あるのは知らなかった。胸ポケットが斜めに切ってあるのは初めて見る。「サイドベンツなんだよ。」講釈師の言葉で確認すると、本当にそうだ。なかなか洒落ているではないか。椅子に腰掛けていた案内人が立ち上がって説明してくれる。「生地はなんですか。」「当時はスフですね。」
     「これは見たことないわ。」カズちゃんもハイジも知らないのは、丸いドラム缶の上に絞り機をつけたような洗濯機で、私も勿論実際には見たことがない。だんだん見覚えのあるものが登場してくる。初期のテレビジョン、冷蔵庫。我が家にこれらが入ってきたのは昭和三十五年のことだった。
     「俺はここに行ったんだよ、学校の代表でさ。」上野動物園に象のインディラが来たときのことだ。「代表ってスゴイじゃない。」「学校で三人だ。」「残しておくと煩いからじゃないの。」これが昭和二十四年のことだから、講釈師は五年生である。
     給食のコッペパンとアルミの椀がアルミのトレイに載せてある。「おれたちは脱脂粉乳だけだった。」コッペパンはこんなに大きかっただろうか。酷く硬かったことは覚えている。私たちの頃には小さな四角のマーガリンもついていたし、お菜もあった。学校給食は戦前にもあったのだが、太平洋戦争中は物資欠乏のために中断されていた。

    ・・・・終戦後、二十一年十二月、「学校給食実施の普及奨励について」の通牒が、文部、厚生、農林の三省次官名で発せられ、極度の食糧不足に対処し発育の助長と健康保持を目ざして全校児童を対象とする学校給食が、翌二十二年一月から、アジア救済連盟(LARA)の寄贈食糧、元陸海軍用かんづめの放出を得て、全国の都市小学校児童三〇〇万人に対し、週二回実施された。その内容は、一人一回の熱量一八〇カロリー、たん白質一五グラム程度の補食給食であった。また、この年の秋には、米国援助の脱脂粉乳が配給され、それが大いに普及された。
     二十三年には前記の脱脂粉乳と文部省のあっせん物資とによって都市・町村を通じて週五回の給食が実施され、ようやく給食を教育的に取り扱う風潮が盛んになってきた。さらに国際連合児童緊急基金(UNICEF)寄贈の脱脂粉乳による給食が各都道府県単位に実施校を指定して二十四年十月から開始され、二十五年末まで続けられた。
     パン・ミルク・おかずの三種による完全給食は、米国政府寄贈の小麦をもって、二十五年七月から六大都市に広島、福岡を加えた八大都市の児童一三五万人に対して開始され、二十六年二月には、全国の市制地域一都二四六市の児童四〇〇万人に発展した。
     ところが、二十六年講和条約の調印に伴い、完全給食実施の基本となっていた占領地域救済資金(GARIOA)による小麦の贈与が、同年六月末で打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となった。そこで、政府は、学校給食を継続すべしという熱烈な世論にこたえて、学校給食継続の閣議決定を行なうとともに、その必要財源を国庫負担することとなった。しかし、二十七年度予算においては、従来行なわれてきた脱脂粉乳に対する国庫補助が中止され、小麦粉に対する国庫補助はいわゆる一〇〇グラム、一円補助となったので、学校給食費の父兄負担額が上がり、そのため、当時の給食実施校一万一、六〇〇校中約三、二〇〇校、給食実施児童数約八〇〇万人中約二〇〇万人が給食中止のやむなきに至り、給食継続校においても給食費未納者が増加したので、学校給食を法制化し、制度の安定を図る気運が急速に高まってきた。
     また、文部省は、二十七年三月「昭和二十七年度の学校給食実施方針」を示し、都市と町村を問わず、真に教育的な完全給食の励行に努めるよう要望した。さらに、同年十月「学校給食を中心とする学習指導」の手引を発行し、学校給食に関する指導の内容と方法を示唆した。(文部科学省「学生百年史」四、学校給食の普及・奨励)
     http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317788.htm

     別のサイト(http://www.juk2.sakura.ne.jp/rekisi.html)で、学校給食のメニューの変遷を見つけた。地方によって多少の違いはあるか知れないが、こんな具合だ。ミルクとあるのは脱脂粉乳のことである。
     昭和二十二年はミルクとトマトシチュー。パンはない。昭和二十五年(コッペパン、コロッケ、ミルク、せんキャベツ、ポタージュスープ)、二十七年(コッペパン、鯨肉の竜田揚、せんキャベツ、ミルク、ジャム)、三十二年(コッペパン、ぶどう豆、ミルク、せんキャベツ、月見フライ、マーガリン)、三十八年(コッペパン、マカロニサラダ、牛乳、マーガリン、スティックフライ)。ここで初めて脱脂粉乳に代わって牛乳(混合乳)が登場してくる。二十七年以降に登場しているのが、私の記憶にあるのと似ている。
     脱脂粉乳は給食室からバケツに貰って来た。それをアルミの椀に取り分けるのである。バケツは重くて、給食係になるとうんざりした。脱脂粉乳の記憶が余り良くないのは、変な臭いや味の他に、アルミの椀も含めた記憶に影響されているのではないだろうか。「金の茶碗に竹の箸 仏様でもあるまいに 一膳飯とは情けなや」と軍隊小唄は歌ったが、それと同じような印象がある。
     昭和三十三年、文部省管理局長「学校給食用牛乳取扱要領」によって、脱脂粉乳から牛乳への転換が図られたようだが、全国に普及するには数年かかったことになる。
     ウィキペディアによれば、悪名高い脱脂粉乳の臭いについては、無蓋貨物船でパナマ運河を経由したせいで、高温多湿で傷んだためだという説がある。ところで脱脂粉乳とはスキムミルクであると知っていましたか。私は知らなかった。牛乳から乳脂肪を取り除き、水分を除いて乾燥させたものである。だから本来、おかしな匂いがするものではない筈だ。
     アメリカで脱脂粉乳製造過剰で、日本に巨大な消費地ができたのは好都合だったのだという説があるが、理由はどうあれ、こういうもので私たちは育ってきた。
     三階の特別企画は「帰還への想い~銃後の願いと千人針」である。「ここに五銭玉が縫い付けてあるだろう。四銭(死線)を越えるっていう意味だよ。」講釈師がヨッシーに一所懸命説明し、ヨッシーも真面目に頷いているのが不思議だ。同じ年齢なのだから、ヨッシーだって知らない筈がないではないか。同じく十銭玉を縫い付けて九銭(苦戦)を超えるという語呂合わせもある。
     しかし銃後の国民の願いも祈りも空しく、当たり前だが、こんなものは何の役にも立たなかった。南方ではこの縫い目にシラミがたかって苦労した。私はこの手の迷信の類は一向に信じないが、寺田寅彦はむしろ同情的に見ていた。

     去年の暮から春へかけて、欠食児童のための女学生募金や、メガフォン入りの男学生の出征兵士や軍馬のための募金が流行したが、これらはいつの間にか下火になった。そうしてこの頃では到る処の街頭で千人針の寄進が行われている。これは男子には関係のないだけに、街頭は街頭でも、何となくしめやかにしとやかに行われている。それだけに救世軍の鍋などとはよほどちがった感じを傍観者に与えるものである。如何にも兵隊さんの細君らしい人などが赤ん坊を負ぶっているのに針を通してやっている人がやはり同じ階級らしいおばさんや娘さんらしい人であったりすると実に物事が自然で着実でどうにも悪い心持のしようがない。そうした事柄が如何にも純粋に日本的だという気がするのである。迷信だと云ってけなす人もあるが、たとえ迷信だとしてもこれらはよほどたちのいい迷信である。どの途迷信は人間にはつきものであって、これのない人はどこにもない。科学者には科学上の迷信があり、思想家には思想上の迷信がある。迷信でたちの悪いのは国を亡し民族を危うくするのもあり、あるいは親子兄弟を泣かせ終には我身を滅ぼすのがいくらでもある。しかし千人針にはそんな害毒を流す恐れは毛頭なさそうである。戦地の寒空の塹壕の中で生きる死ぬるの瀬戸際に立つ人にとっては、たった一片の布片とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁みない日本人はまず少ないであろう。どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度にいくらかのちがいがありはしないかと思われる。戦争でなくても、これだけの心尽くしの布片を着込んで出で立って行けば、勝負事なら勝味が付くだろうし、例えば入学試験でもきっと成績が一割方よくなるであろう。務め人なら務めの仕事の能率が上がるであろう。(寺田寅彦『千人針』昭和七年四月)

     いい加減で終わりにしないと、これではなかなか外に出ることが出来ない。暫く場を外していた姫も三階までやってきて、そろそろ出発しましょうと号令をかける。「もうやんだよ。」外に出ると道路脇に蕃書調所跡の案内板が立っていた。千代田区九段南一丁目六番。

    幕府によって設立された洋学研究機関です。嘉永六年(一八五三)のペリー来航以後、洋式軍事技術導入や外交上の要請から時の老中阿部正弘のもとで開設が計画されました。安政三年(一八五六)九段下の竹本主水正屋敷にて業務を開始、その後小川町、一橋門外へ移り、明治維新後は大学南校となり、東京大学へと発展しました。

     「東京大学の前身ですよ。しかし蕃の字はひどいね。」安政二年、天文台蛮書和解御用掛を拡充して開設したときには「洋学所」だったが、林述斎が異を唱えて、「蕃書」と改称したと言われている。しかし安政の条約締結以来、これでは対外的に問題が出る可能性があったのではないだろうか。文久二年には洋書取調所と改称した。少し雨が落ちてきた。
     「左を見てくださいね。」樹木の陰に高く見えるのは常燈明台だ。千代田区九段南二丁目二番。石垣を高く積んだ上に灯台のような形が載っている。東京招魂社(靖国神社)正面の常夜燈として明治四年に建てられた。当時は高層ビルもなく、九段坂上からは筑波山や房総の山も見え、品川沖を通る船に対しては灯台の役目も果たしたらしい。

     坂を上ったところに一名工の手になった鼓形石垣の、昔は新式で今は古典なる燈明台があり、維新前は二十六夜の月待に、男女老幼ここへ集まって、品川の海に竜燈のつくのを眺めつつ、書写山の鬼若丸もどきのロマンスもあった。何しろ東京一の高台で、標高五百六十尺、品川からここまでの高さを、四回登れば、筑波山を超えてしまうそうだ。(矢田挿雲『江戸から東京へ』)

     「あの銅像は誰かな。」田安門を過ぎた辺りで、ロダンが声をあげた。軍服で馬に乗っているのは大山巌であった。千代田区九段二丁目二番一八号。九段坂公園内。右手をズボンのポケットに突っ込んでいるのが軍人らしくなく、大山の性格を表しているのかも知れない。戦後、GHQの指令で軍人の銅像が大方は取り壊されたのに、大山の像だけは残されたのは、マッカーサーが大山のファンだったからだと言われている。日露戦争の指揮官としての大山を尊敬していたらしい。
     西郷隆盛の像を作るとき、西郷の写真が残されていないため、キオヨソーネは大山巌(西郷の従弟)と西郷従道(西郷の弟)の顔を合成したと伝えられている。珍しく政治に関わりを持とうとしなかった軍人で、茫洋とした性格に人気があった。
     それよりも私は、鹿鳴館の貴婦人・山川捨松に熱烈な恋をした人物として関心がある。会津若松城の落城には、大山が設計した弥助砲が威力を発揮した。その砲弾が城に撃ち込まれているとき、捨松は城内にいた。会津にとっては仇敵である。

    ・・・・大山が捨松に初めて会ったのは、永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴でのことだった。そこで大山は一目で恋に落ちる。自他共に認める西洋かぶれだった大山は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまったのである。
     しかし吉井を通じて大山からの縁談の申し入れを受けた山川家では、これを即座に断ってしまう。家長の浩は当然猛反対だった。縁談の相手は誰あろう、あの会津戦争で砲弾を会津若松城に雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長その人だというのだ。亡き妻の仇敵でもあり、心情として許せなかった。しかし大山も粘った。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度は農商務卿の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたらせた。「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という浩の逃げ口上は、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」という従道の前では通じなかった。この従道が連日のように、しかも時には夜通しで説得にあたるうちに、大山の誠意が山川家にも伝わり、何がなんでも反対という態度は軟化した。最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ったのである。
     これをうけた捨松の答えがまたいかにも西洋的だった。「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案したのである。大山はもちろんこれに応じた。捨松ははじめ濃い薩摩弁を使う大山が何を言っているのかさっぱり分らなかったが、英語で話し始めるととたんに会話がはずんだ。大山は欧州仕込みのジェントルマンだった。二人には親子ほどの歳の開きがあったが、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。この頃アリスに書いた手紙には捨松は、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記している。交際を初めてわずか三ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意したのだった。(ウィキペディア「大山捨松」)

     幼くしてアメリカに渡り、日本女性として初めて大学を卒業した捨松には、会津も薩摩もなかったのかも知れない。「大山巌の次男の考古学研究所を見ましたよね。」「考古学ですか。」ロダンはあの時いなかったか。去年の九月、やはり姫が企画した「東都青山周辺 大名屋敷の変遷を探る」編で出会ったのである。正しくは大山柏の「史前学研究所」であり、大山邸跡である。渋谷区神宮前五丁目五番。
     雨が少し強くなってきた。「早く靖国神社に入っちゃおう。木陰で雨宿りができるんじゃないか。」ここが靖国神社か。私はここにも初めて来た。まず大村益次郎の像が聳えているのに対面する。台座が異常に高くて、カメラを向けても表情が良く撮れない。キヨソーネの絵を見ると、異常に額の大きな顔をしている。明治二十六年(一九八三)二月五日、日本最初の西洋式銅像として建てられた。製作は大熊氏廣である。三條実美の碑文がある。

    嗚呼此れ故兵部大輔贈従三位大村君の像なり。
    方■圓頤、眉軒り、目張り、凛乎として生けるが如く、人をして其の風采を想はしむ。
    君諱永敏、益次郎と稱す。長門の藩士たり。
    性沈毅にして大志あり。
    夙に泰西の兵法を講じ、擢きんでられて兵學教授となり、尋で、藩政に参じ、兵制を釐革す。慶応二年の役藩の北境を守る。連戦皆捷。戊辰中興、徴されて軍防事務局判事となる。
    時に幕府の残党東叡山に據りて命に方らふ。君、策を献じて、討ちて之を殲す。尋で、奥羽を征し、函館を平らぐ。君皆其の帷幄に参ず。
    功を以て禄千五百石を賜わり、兵部大輔に陞任し、大いに陸海軍制の基礎を定む。
    明治二年京師に在り、兇の■する所と為なりて薨ず。年四十七。
    天皇震悼、位を贈り、賻を賜う。後又爵を授け、子孫を榮す。(後略)
    (原文は漢文・http://www.geocities.jp/bane2161/oomuramasujirou.htmlより)

     「上野の西郷さんの方を向いてるんだ。」ホントかね。西郷さんと言うよりも、上野戦争の司令官として、彰義隊の籠る上野を睨んでいる姿を模したというのがホントのようだ。上野戦争では薩軍を最も過酷な地区に配置し、薩摩を全滅させる気かと西郷に問い詰められて、そうだと答えたという逸話を持つ。この時海江田信義が酷く怒ったため、暗殺の背後に海江田が関与しているのではないかとも疑われた。
     招魂社は戊辰戦争の政府軍戦死者を祀るため、大村益次郎の建議によって明治二年(一八六九)六月に建てられたのである。「本名は村田蔵六ですね。」幕末史に関するダンディの知識の源は司馬遼太郎にある。私は司馬の良い読者ではないので、兵制改革、国民皆兵を主張した近代主義者としてだけ知っていた。
     明治二年九月四日、京都木屋町の旅館で、元長州藩士の団伸二郎、神代直人等八人に襲撃され、重傷を負った。斬奸状には兵制改革への不満が書かれていた。国民皆兵の徴兵制度の創設は、武士の失業を意味していたからだ。

     病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。だが手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなっていた。果して十月二十七日手術を受けるも、翌十一月一日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、五日の夜に死去した。享年四十六。(ウィキペディア「大村益次郎」より)

     参道の両側に大きな石灯籠が立ち、台の部分にレリーフが施されている。「日露戦争なんだよ。これが広瀬中佐。」なるほどそのように見える。「杉野はいずこって叫んでるんだ。」日本海海戦の東郷平八郎の姿や「奉天入場」もある。但し日露戦争だけではなかった。「明治天皇、広島大本営に入る」、「明治二十七年 黄海海戦」、「天津城攻撃」は日清戦争だ。
     「向こうには爆弾三勇士もいます」という姫の言葉で私だけが左に回ってみると、爆弾三勇士は通りと反対側にあった。こちらの灯篭の絵はもう少し新しく、シベリア出兵や第一次大戦のものもある。
     この石灯籠は伊藤忠太が設計して昭和十年に建てられたもので、高さ一二・四メートルは日本一の高さである。基礎部径は七・二メートル、先端部の笠石は高さ三・一メートル、幅は三・五メートル、重さは二十六トンと言う。「ここ、ずれた跡じゃないかしら。」東日本大震災で笠石がずれたのである。清水建設によって免震補強を施して設置された。

     九段の招魂社は、私にとって忘れられない印象の多いところである。上野公園もかなりに印象が深いがそれよりも一層九段の方が深い。
     其処は私の六歳位の時から始まる。富士見町に叔母がいたので、田舎から母親と一緒に出て来た私は、いつも伴れて行って、噴水やら池の緋鯉やらを見せられた。・・・・
     その頃は境内はまだ淋しかった。桜の木も栽えたばかりで小さく、大村の銅像がぽっつり立っているばかりで、大きい鉄の華表(とりい)もいやに図抜けて不調和に見えた。・・・・
     「今に豪くなるぞ、豪くならずには置かないぞ。」こういう声が常に私の内部から起った。私はその石階を伝って歩きながら、いつも英雄や豪傑のことを思った。国のために身を捨てた父親の魂は、其処を通ると近く私に迫って来るような気がした。(田山花袋『東京の三十年』)

     花袋の父は西南戦争に従軍して戦死していた。「皆さん、お参りしないんですか。」「長老がさ、戦友がいるからお参りしたいって言ってたけど。」長老は最後の予科練のひとである。戦死した友人がいるのだろう。「だけど、今日は町内の何かの行事があるらしいんだ。」長老の話を持ち出した講釈師も特にお参りする積りはなく、誰もその気はなさそうだ。私も勿論ない。「それじゃ行きます。」
     左手の南門の方に向かうと練兵館跡の碑があった。斎藤弥九郎(神道無念流)の道場跡である。神田俎橋にあったものが火災で焼失したためここに移った。桂小五郎、高杉晋作、品川弥次郎、井上聞多、伊藤俊輔等、長州藩士が多く学んだ。弥九郎の三男で突きを得意として「鬼歓」と恐れられた斎藤歓之助が、道場破りに来た長州藩士を全て倒したことから、長州藩が練兵館強しと認めて藩士を送り込んだとされている。
     「これで三つ制覇しました。」姫が言うのは、既に千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館の跡地は訪れているからだ。もうひとつ、千葉定吉の桶町の道場跡も行った。姫は意外にこういうものが好きらしい。

     南門から出る。雨は降っているようでもあり止んでいるようでもある。傘を持ってきていない私は、ちょっとした雨なら気持良い程だ。今は靖国通りだが、西は市ヶ谷目付から東の九段坂までが三番丁通と呼ばれた。北は牛込見附の線、南は甲州街道沿いの麹町に挟まれた地域が番町で、つまり靖国神社の境内も番町の中である。文禄元年(一五九二)、徳川家の番方(先頭部隊)が配置されたことから番町の地名が生まれた。大小の旗本屋敷が密集する地域である。
     ほぼまっすぐ南に走る大妻通りに入る。ちょうどこの道の下を半蔵門線が通る。「この辺になるんですけど。」一旦通り過ぎた姫が少し戻って来た。五叉路のようになった交差点で、セブンイレブンの先の少し斜めになった角地が和学講談所跡である。嘉永三年の「東都番町大絵図」では塙次郎の名前が記されている。千代田区三番町二十四。しかしそれらしい案内が全くないのが悔しい。最初はもう少し西の九段小学校の辺りにあって、文化二年(一八〇五)にここに移転した。
     「私の持ってる本には、ちゃんと説明の碑が載ってるんですよ」と姫が写真を見せてくれる。地主が変わってそれが撤去されたらしいが、こういうことは、東京都がきちんと管理してくれなくてはいけない。東京都指定旧跡なのだから、敷地内ではなくても舗道に設置すれば良いではないか。塙保己一の業績は大変なものなのだ。かつてあった説明の碑は、このようなものだったようだ。

    和学講談所は、塙保己一の建議により寛政五年(一七九三)現在の九段小学校付近に設置され、文化二年(一八〇五)この地に移転し、慶応四年(一八六八)に廃止されるまで国典の教授、出版事業が行われました。塙保己一は江戸時代後期の国学者で、七歳のときに病により失明、十五歳で江戸へ出て音曲や鍼灸を習う一方、賀茂真淵らに師事して国史・古典を学びました。天明三年(一七八三)には瞽官人の最高位である検校に進み、文政二年(一八一九)国史・国文などの典籍を収めた『群書類従』六七〇冊刊行の大事業を成し遂げました。
    「番町で目明き盲に道を聞き」とい川柳は、塙保己一をうたったものとして有名で、「道を聞き」はもちろん、交通のことではなく、学問の道にかけたものです。
    http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/373/Default.aspx

     渋谷の国学院のそばにある温故学会で、『群書類従』の膨大な量の版木を見たのは貴重な経験だった。「九月の里山は保己一の生誕地に行くんだろう。」そうだった。本庄小町が頑張って案内してくれるはずだ。
     保己一の死後、和学講談所は実子の塙次郎に引き継がれたが、文久二年(一八六二)十二月二十一日、次郎は伊藤俊輔と山尾庸三によって暗殺された。外国人接待の先例を調べていたのが、孝明天皇廃位のための先例調査と誤伝されていたのである。
     御厩谷坂(おんまやだにざか)の標柱が立っている。

    この坂を御厩谷坂といいます。「新撰東京名所図会」には「一番町と上六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川家の厩舎ありしに因り此名あり」と記されています。また、「新編江戸志に今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」ともかかれています。

     大妻女子大学の校舎が並び、向かい側の校舎は工事中だ。もしかしたら狭山キャンパスからの移転を計画しているのだろうか。
     「柳沢の息子がいるだろう。」講釈師の言うのは柳沢吉保のことだろうね。息子は吉里だったか、はて誰だったろう。調べてみると吉里で間違っていない。私は柳里恭(柳沢里恭・棋園)と一瞬混乱したのである。柳里恭は吉保の家臣曽根保格の子である。保格は吉保の信頼が厚く、五千石の知行と柳沢の名乗りを許された。里恭自身も吉里の「里」を拝領し、五千石を兄弟で分割したから二千五百石の大身である。日本文人画初期の画人であり、博学多芸多才、万能の天才とさえ謳われた。
     「あれがさ、暗殺されたのがその場所だよ。」はて、柳沢吉里が暗殺されたなんてまるで記憶にはないけれど。何か話が噛み合わない。それを聞いて、先頭を歩いていた姫が声を掛けてくれた。「すぐそこですよ、田沼さん暗殺に関係するのは。」そうか、講釈師は田沼意次の息子の意知のことを言いたかったのか。「そうだよ、田沼だよ。」
     すぐに説明板が登場した。「佐野善左衛門宅跡」。千代田区三番町十二。禄高五百石の佐野政言の居宅跡が、今では大妻女子大学になっている。天明四年(一七八四)三月二十四日、江戸城内で佐野が若年寄田沼意知を襲撃し、その八日後に意知は死んだ。政言は刃傷の翌日切腹を命じられ、御家断絶となった。

    犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかった事、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し、田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが、一向に昇進出来なかった事等だったが、乱心とされた。(ウィキペディア「佐野政言」)

     「池波正太郎は読んでますか。『剣客商売』。」「大好きですよ。」姫とダンディは田沼意次からこんなことを連想する。私は数冊しか読んでいないが、確か秋山大二郎の妻三冬は田沼意次の妾腹の娘であったね。
     昔習った教科書では、田沼政治イコール腐敗、汚職ということになっていた。しかし現在では、田沼の悪評は松平定信一派が捏造して流したものと考えられている。
     田沼意次の意図した政策はその先進性が評価されている。平賀源内も、田沼意次によって見出された人物であった。そして順調に進んでいれば、開国も封建制度打破ももっと早く実現していた可能性がある。しかし松平定信を筆頭とする門閥大名には許せることではなかった。意知の暗殺も、佐野個人の恨みの陰に定信の意向を見てよいかも知れない。動機として言われている家系図の話が余りに嘘臭い。系図粉飾なんか田沼にはまるで意味がないのである。ちょっと古いが大石慎三郎の本を開いてみよう。

     以上のように江戸時代の汚吏の代表者のようにいわれてきた柳沢吉保・田沼意次らの収賄汚職談は、学問的には根拠のないものである。とくに田沼意次の場合は彼の失脚後その政敵によって捏造され、さらに明治以降歴史学の名において不幸な増幅をされたいわれのないものであった。(大石慎三郎『江戸時代』)

     大石によれば、柳沢・田沼に代表される側用人政治は、身分の固定した門閥制度を打破して、身分が低くても才があれば登用する柔軟な構造であり、これが松平定信に代表される門閥側、守旧派の恨みを買ったのである。

     攻撃はたいていの場合、家格身分制に安住しようとする譜代門閥層の側から行われた。綱吉時代の柳沢吉保、家宣・家継時代の間部詮房と新井白石というように三代にわたってつづいた側近政治に反発した譜代門閥層は、ついに「絵島生島事件」を突破口に新井白石を追放することに成功した。・・・・
     田沼意次はこの松平武元の死後約七年間、幕府の実権を一手に握るのだが、やがて将軍吉宗の孫にあたる松平定信を盟主とする譜代門閥層によってほとんどクーデター同様の形で追い落とされるのである。
     このとき以降幕政は柔構造に属する下層有能者が登場する余地はなく、硬構造に属する譜代門閥層にのみ握られ、現実対応力をうしないつつ、ひたすら反動化のコースをたどり、やがて滅んでゆくのである。(大石同書)

     田沼意次はもともと六百石の旗本の子であった。九代将軍家重によって昇進を重ねて、宝暦八年(一七五八)に遠州相良藩一万石の藩主となる。明和六年(一七六九)老中格二万五千石、九年に老中三万石、天明五年(一七八五)には五万七千石まで上り詰めた。
     それでは田沼政治とは実際問題としてどういうものだったのだろうか。

     十八世紀の市場経済の展開は、二人のリアリスト、あるいは「近代日本の先覚者」(アメリカ人歴史学者ジョン・ホール氏の表現)を生んだ。一人は田沼意次、もう一人は豊後国東半島の哲学者、三浦梅園である。(鬼頭宏『文明としての江戸システム』)

     鬼頭の本によれば、「ひとことでいえば、市場経済を指向した経済・金融政策、非農業生産を重視した産業政策、貿易推進政策と土地開発計画」である。
     貿易面では、「銅(棹銅)と、煎海鼠・干鮑・鱶鰭など海産物(俵物)を中心に輸出を奨励しえ、銀の還流を期待した。」蝦夷地開発については、「勘定奉行松本秀持の計画に基づいて、アイヌに農具を与え農耕化を促し、さらに内地からの移民による開発計画を立てたのである。」貨幣政策については、「『南鐐二朱銀』が発行されたことは、江戸時代の貨幣制度における革命であったといってよい。」それまで西日本では銀、東日本では金が主要通貨であり、その間に複雑な交換レートを必要としていたものが、金本位制に移行して通貨統一がなったと考えられるのだ。
     ただ貨幣経済の振興、初期資本主義の育成政策は豪商優遇にもつながった。また天明の飢饉に喘いでいた窮乏した下層民衆も政治に恨みを抱いていたから、「佐野世直し大明神」と囃したてた。いつの時代でも目先の変わったことがあれば喝采するのが民衆である。喝采はしたものの、松平定信の寛政の改革では息が詰まる。「白河の水の清きに堪へかねてもとの濁りの田沼恋しき。」
     「ところで、塙保己一はどうしたんですか。」ダンディが姫に不思議な質問をしている。「さっきあったじゃないですか。」ダンディはさっさと通り過ぎてしまって気付かなかったようだ。
     袖摺坂上にあるのは滝廉太郎旧居跡碑である。千代田区一番町六番地。レリーフの表情はまだ子供っぽい様子が感じられる。脇に立つ黒御影の石には五線譜が刻まれているのだが、見えにくい。「確かにありますね。」『荒城の月』の譜面だった。

    滝廉太郎は、この交差点から西に百メートル程の所(一番町六番地ライオンズマンション一番町第二)に、明治二七(一八九四)年ごろから三四(一九〇一)年四月まで居住していました。
    今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。
    滝廉太郎は明治十二(一八七九)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、同二七年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。
    優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。
    明治三四年、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。
    しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、同三六(一九〇三)年六月二九日死去しました。
    日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。
    滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年九月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。
     平成十七年八月
     千代田区教育委員会

     坂道を下って、一番町交差点から麹町に上る坂は永井坂だ。標識の解説によれば、永井勘九郎、永井奥之助という旗本が道をはさんで向かい合って住んでいたことに因む。この辺りは麹町谷町になり、番町の境界である。
     坂を上りきった辺りが半蔵門駅だ。後で調べて分かったが、岡本綺堂がこの辺りに住んでいた。千代田区麹町二丁目十二番地(旧地番は元園町一丁目十九番地)。岡本綺堂は明治五年の生まれだから、下記の回想は明治十年前後の様子だろうか。麹町元園町というのが当時の町名だ。

     私は麹町元園町一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
     江戸時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
     わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇が出る、狐が出る、兎が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊を持って花を摘みに行ったことを微かに記憶している。その草叢の中には、ところどころに小さい池や溝川のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
     蟹や蜻蛉もたくさんにいた。蝙蝠の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋を提げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹竿を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩き落すと、五分か十分のあいだに忽ち数十匹の獲物があった。今日の子供は多寡が二疋三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
     きょうは例の赤とんぼ日和であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。(『綺堂昔がたり』)

     綺堂老人の回顧談は懐かしくて優しい。幸いなことに綺堂の作品の多くが青空文庫に収録されて無料で読むことができるので、池波正太郎が好きな姫にお薦めしたい。
     脇道に入って平河天満宮に着く。千代田区平川町一丁目七番五。「そこに喫煙所がありますよ。」姫は優しい。江戸城拡張の際に城内から平川門外に置かれ、これが平河天満宮の名の由来になった。慶長十一年(一六〇六)に当地に遷座すると、序でにこの地の地名も平河町になる。
     江戸名所図会を見ると、当時もそれほど広い境内だった訳ではない。石段の前には茶店があった。天保十五年に奉納された銅製の鳥居が珍しい。
     狛犬は両方とも阿形をしている。説明によれば、本来は獅子と犬である。本殿に向かって左側の頭に直径十センチ、深さ五センチ程の窪みがあるそうだ。角が欠け落ちた跡だと推定されている。
     「どうして城西大学があるんですか。」学校法人城西大学が奉納した布袋の立像があったのだ。紀尾井町の法人本部が近いからだろう。「大学がどうして、こういう宗教的なものを。」ダンディは首を捻るが、こういうものを「宗教的」と言うのかどうか。御近所の付き合いというものではないだろうか。
     狭いながらも趣のある神社だ。近くの自動販売機でお茶を追加していると、近所に住んでいるらしい男が煙草を吸いに神社にやってきた。平河天満宮は千代田区内で大っぴらに喫煙できる聖地であった。
     この近くには松本順(良順)の旧居(平河町一丁目九番地)、や半井桃水旧居(平河町一丁目三番地)、高野長英の大観堂学塾などがあった。
     神社を出ると町名は隼町になった。家康の江戸入府の頃に鷹匠屋敷があったことに由来する。また少し雨が落ちてきた。国立劇場の敷地を通り抜ける。「そこの壁に沿っていけば雨が防げるよ。」大した雨ではないが、カズちゃんの傘を持った講釈師の声に従わなければならない。長唄の会が開かれているようで、和服の婦人の姿が多い。

     「俺、ここには入ったことないよ。」最高裁判所である。敢えて言わなくても、普通のひとはこういうところに入る経験はまずない。三宅坂交差点の角、最高裁判所に隣接した小さな公園は三宅坂小公園である。千代田区隼町四丁目三番。田原藩三宅氏一万二千石の上屋敷跡だ。この辺りが三宅坂と呼ばれるのは、これに因んでいた。(これを初めて知った。)
     女性三人の裸像が立っている塔は何だろう。「崋山に関係するのかい。」まさかそんな筈はない。回り込んでみると、電通が作った「平和の群像(広告記念像)」であった。

    広告がわが国の平和産業と産業文化の発展に貢献した事跡は極めて大きい。わが社は昭和二五年七月一日その創立五十年を自祝し過去半世紀を回顧してこれを記念するに当たり、平和を象徴する広告記念像を建設して東京都民に贈り、広告先覚者の芳名を記録してその功績を永久に偲ぶこととした。
    西暦一九五〇年
    株式会社 日本電報通信社

     広告が平和産業の発展に貢献したとは初めて聞く話だ。広告は、戦時中だって時代に合わせて活躍していた。特に国民精神総動員法の下において、広告は必然的に国策広告とならざるを得ない。
     掲げられた人名を見て行くと膨大な人数になるが、冒頭の「一九五〇年広告功労者選考委員会選」のものを挙げておこうか。
     大橋佐平(博文館主)、岸田銀次郎(初代吟香)、小林富次郎(初代・ライオン歯麿本舗・小林富次郎商店店主)、長瀬富郎(初代・合資会社長瀬商会代表社員)、江藤直純(弘報堂主)、岩谷松平(岩谷商会主・天狗タバコ)、村井吉兵衛(村井兄弟商会社長・タバコ)、日比翁助(三越取締役会長)、鈴木三郎助(二代・味の素本舗)、森永太一郎(森永製菓)、野間清治(大日本雄辯会講談社社長)、瀬木博尚(内外通信社博報堂社長)、三輪善次郎(二代・丸見屋商店店主)高木貞衛(萬年社社長)、平尾賛平(二代・平尾賛平商店社長)、森下博(森下仁丹)、光永星郎(日本電報通信社社長)。
     ごく少数の、実際に文化に貢献したと考えられる人物(大橋佐平、岸田吟香、日比翁助など)を除けば、広告屋が大広告主を持ち上げ、ついでに自分たちの業績も自慢するお手盛りのものであった。

     この塔の裏に隠れるように、崋山誕生地の小さな案内板が立っていた。ここに来ても気づかない人が多いのではないだろうか。渡辺崋山が生まれ、蛮社の獄で三河田原に蟄居を命ぜられるまで、その生涯の大半を暮した地である。「大山街道では崋山ゆかりの地をいろいろ見ましたね。」その辺のことは大山街道編の五回、六回に書いておいた。調べれば調べるほど、崋山という人は人柄が良くて、一緒に酒を飲みたくなる人物である。
     「蛮社の獄ってどういうものだったんだい。」天保十年(一八三九)五月に起きた洋学派弾圧事件である。「鳥居耀蔵にでっちあげられたんです。」さっきも触れたように、耀蔵は林述斎の子で、コチコチの反洋学派であった。

     鳥居は江戸湾測量をめぐる江川担庵との確執で、江川や川路聖謨の背後にいる崋山ら蘭学者仲間(蛮社)を逆恨みしたものである。すなわち無人島渡航計画の噂を機に、崋山、長英らを天保十年(一八三九)五月に逮捕し、それが無実となるや、崋山の自宅から押収した未発表の草稿『西洋事情』や『慎機論』が幕政批判になるという罪を着せた。(金子務『江戸人物科学史』)

     最終的には渡辺崋山『慎機論』が幕政批判の証拠とされた。しかし『慎機論』は未定稿のまま公表もせずに、反故を自宅に置いていたものである。それを家宅捜査の際に見つけ、鳥居は鬼の首を取ったように喜んだだろう。崋山の恩師松崎慊堂が老齢をおして提出した請願書によって、漸く死一等を免れたものの、田原へ幽閉されるのである。その幽閉生活は苦しかった。

     「かかる御預け人は、一日も早く死ぬるを主人其外役人のよろこぶことにて、其手當甚だおろかなり。崋山は母妻男女の子、おのれとともに五人をるに、五人扶持のあてがひと聞へし。さる故に崋山は自ら農作なし、母妻は絲くり麻うみて漸く衣食に給するに、自ら城下に至る事を許さざれば、皆ひとづてにて交易するに、利分薄くして貧しきこといはん方なし。江戸の畫弟子これをしりて金を送るひとあれども、多くはとゞかでうせぬることありけり。崋山の自畫の弟子におくれる文通を見るに、配所のさまを絵がけり。崋山は偉然たる大男にてありしが絵がけるさまは憔悴して、実にあはれにぞありける。母は燈し火に向ひて麻うみながら、孫に物よむことををしへ、妻は娘ととともいととヽる。其庭とおぼしき山に、崋山月を帯びて畑を造る。貧家のさまなりけり。畫弟子何某女が家富みければこれが主となりて、ふるき弟子どもいひ合せて月に二分づつおくりけり。其謝礼として、屏風一双ぶりの絵を畫きて江戸におくりき。これにて少し飢寒を免れり。」
     この一条は前にも使ったことがあるが、重ねて出した。崋山の幽居に於ける生活のいかに悲惨であったかは、この記載が最もよく語っている。家が富んでいた画弟子某女といふのは、斎藤香玉であらう。そこへ充てた崋山の絵入りの書簡を桃野も見たのであらう。(森銑三『渡邊崋山』)

     括弧で引用されているのは、鈴木桃野「反故の裏書」の中の「崋山」と題する文章である。しかしこのことが、崋山は絵を売って暮らしている、幽閉の身として不謹慎であるという誹謗に繋がった。渥美半島田原の役人は卑劣であった。しかも幕閣に知られれば藩主にまで罪が及ぶと言う悪意ある噂が流された。崋山はその噂が本当かどうか、江戸に問い合わせを出したが返事が来るのを待たずに自死した。
     今日のコースはここまでだ。文字通り江戸の中心部をこうしてきちんと歩けたのは有難かった。「およそ十キロでしたね」とロダンが言う。そんなに歩いただろうか。「ヨッシーのも確認しましたから間違いないですね。」
     姫の計画では国会図書館内の喫茶店で休憩する筈だったが、「あそこは面倒臭いよ、荷物を預けなくちゃいけないし」と講釈師は青山通りを永田町駅に向かう。「あれっ、コーヒー飲まないんですか。」「駅の方にあるらしいよ。」結局、永田町駅平河町出口の傍の喫茶店で休憩することになった。この辺には一昨年は毎月のように来ていたのだが、ここに喫茶店があるのは気付かなかった。
     ハイジとカズちゃんは用事があると帰って行き、代わりにチイさんが忽然と姿を現した。彼は九月のコースの下見をしていて、姫と資料の受け渡しをするために待ち合わせていたのである。「出口がなかなか分からなくて。」永田町駅は有楽町線、南北線、半蔵門線が交錯していて、路線が違うと出口も分かり難い。「平河町口」と言ってすぐに合流できたのは運が良い。
     土曜日のせいだろう、店内は空いている。私は皆と離れて広々とした喫煙コーナーにアイスコーヒーを持ち込んだ。ヨッシーがわざわざ水を持って来てくれたのには恐縮してしまう。二本吸ってから合流する。
     チイさんの企画案を見ながら、ああでもない、こうでもないと言っている内に程良い時間になった。ダンディ、ヨッシー、姫は反省会には参加しないというのでここで別れ、ドクトル、チイさん、ロダン、蜻蛉の四人だけが池袋西口のさくら水産に向かった。

    蜻蛉