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    番外 大山街道を歩く編 其の一   平成二十三年四月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.4.16

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     大分以前から、いつかは歩こうよと話題に上ってはいたのだが、あんみつ姫が企画してくれて「大山街道を歩く」コースがやっと実現した。赤坂見附から大山阿夫利神社まで十八里、およそ七十キロメートルを江戸の頃には三日ほどで歩いたようだ。私たちは一年半掛けて踏破する予定になっている。江戸東京歩きの本編は奇数月だから、番外として「大山街道」の開催日は偶数月の第二土曜日に決まった。第一回は赤坂御門から三軒茶屋まで歩くことになっている。忙しい姫が詳細な解説を作ってくれたのでずいぶん参考になる。

     時により過ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ

     『金槐和歌集』の最後尾に載せられている源実朝の歌は、大山の神に捧げたものだと言う。「建暦元年(一二一一)七月洪水漫天土民愁歎きせむ事を思ひて一人奉向本尊聊致念と云」の言葉が付されている。
     大山詣、相州大山への信仰登山は宝暦年間(一七五一~一七六四)に始まった。大山に対する信仰自体はもっと古いが、その頃から講を組んで集団で参詣する習慣が始まったということだろう。
     大山は標高一二五十二メートル、丹沢山系南東部に位置する。山頂には石尊大権現を祀り中腹に大山寺不動堂があったが、明治の神仏分離後は阿夫利神社と称するようになった。

    大山は雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、雨乞いに霊験のある山として昔から農民の間に関心が寄せられていた。そこにある大山阿夫利神社は、農民から五穀豊穣や雨乞いの神としての信仰を受け、日照りが続いて飢饉が多くなると、多くの農民達が参詣に訪れた。江戸時代に関東地方各地で「大山講」が組織され多くの参詣者を集めることとなり、大山講の中でも江戸日本橋小伝馬町の「お花講」の人たちが夏山祭りの初日に大山頂上への中門を開くのが元禄以前からのしきたりとなっている。
    道中の参詣者は、白の行衣、雨具、菅笠、白地の手甲、脚絆、着茣蓙という出で立ちで腰に鈴をつけ、「六根清浄」の掛念仏を唱えながら、五六人、多い時には二十~三十人が一団となって、七~九月を中心に大山へと向かった。また、盆・暮れの借金の回収時期に「大山参り」をしていれば、借金は半年待ってくれるという恩典もあった。最盛期の宝暦年間には、年間約二十万人の参詣者を数えている。(ウィキペディア「大山道」)

     勿論関東各地から参詣しただろうが、江戸市中を起点とする道筋は、江戸城赤坂御門から、ほぼ国道二四六号に沿って青山、渋谷道玄坂、大橋、三軒茶屋、用賀を経由して二子の渡しで多摩川を渡る。大山から先は松田、矢倉沢、足柄峠、御殿場を経て東海道吉原宿に通じたことから、東海道の裏道として矢倉沢往還とも呼ばれた。そして大山詣は「石尊参り」とも呼ばれていた。  普段は中腹の不動堂までは誰でも行けたが、頂上まで登ることは出来ず、六月二十七日から十七日の二十日間だけは許された。但しその期間でも女人の山頂登拝は禁じられた。

    石尊参垢離取(せきそんまいりこりとり)、相州大山石尊。六月二十八日より七月七日に至る、七月十四日より十七日の朝に至るを盆山と云、此の石尊へ参る輩、両国橋の東にて河水にひたり居、垢離を取と云て、おめく声、蚊の鳴くが如し、ゐかにや市人の中にても、中人以下の者のみ也、其人品放逸無慚の者のみ多き事、いと不審なる事也。(『江戸惣鹿子名所大全』)

     三田村鳶魚編『江戸年中行事』から孫引きしたが、同じ文が『嬉遊笑覧』にも引用されている。江戸時代から有名な一節だったようだ。「中人以下」「人品放逸無慚」なんて言い方もおかしいが、落語の『大山詣り』でも分かるように、宗教的な行事というより、講中で数年に一度巡ってくる楽しみだった。
     勝負の神とも思われたようで博徒の参詣も多く、参詣からの帰途、江ノ島や金沢八景を巡り、神奈川宿では飲んで騒ぎ、果ては博奕に興じたというから、「放逸無残」と言われても仕方がないか。
     さて私たちの「人品」はどうだろうか。地下鉄永田町駅平河口方面改札には、姫、画伯、宗匠、ロダン、碁聖、スナフキン、ダンディ、講釈師、若旦那夫妻、チロリン、クルリン、シノッチ、マリー、マルチャン、トミー、蜻蛉の十七人が集まった。初参加のトミーはこの三月末で会社を辞め、悠々自適の生活に入ったひとである。
     「最後はケーブルカーに乗るんでしょう?」トミーの質問に「違いますよ。ちゃんと歩きます」とダンディが答えているが、さて、我らが姫の計画はどうだろうか。チロリン、クルリンたちは山登りができるであろうか。
     小雨模様だが、天気予報では途中から晴れてくる筈だ。姫とダンディだけが長い傘を持ち、他は折り畳み傘にしている。「今日は風が強いんですから、ちゃんとした傘を持ってこなくちゃいけない」とダンディは主張する。「雨降山を目指すんですからね、雨は相応しいんですよ。」「晴れ女」のリーダーは、無理やりこじつけて自分を慰める。雨はたいしたことはないが、風が強いという予報もあって、ちょっと心配だ。
     節電の影響でエスカレーターが止まっていて階段を利用して地上に出る。大山詣では赤坂御門(見附)から出発しなければならない。

    赤坂御門 麹町の方より青山へ行く道、赤坂の出口なり。この御門は北斗形とて、江戸御城の御構へ多きが中にも、ことさら勝れたる縄張りなりといふ(ある人の説に、赤坂は茜山の辺りの坂なればかくいふと。按ずるに、赤坂の地名は、永禄二年(一五五九)小田原北条家の『所領役帳』にも、「江戸赤坂六ケ村、千葉殿所領す」とあり。『武蔵国風土記』に、「荏原郡赤坂庄」とあり。いまは豊島郡に属す)。(『江戸名所図会』)

     石垣の下で、「三十六見附と言いますが、三十六あったのではなく、たくさんあったということです」と姫が説明する。大山道の起点がここになっているのはどうしてなのだろう。「奇麗じゃない。」「ちょうど良いね。」弁慶堀の向うに並ぶ桜がちょうど見頃になっている。

     見上ぐれば雨もまたよし桜花  午角

     「ボートがある筈だよね。」「橋の西側にはちゃんと貸しボート屋があるが、天気のせいか、今日は浮かんでいない。以前来た時には、堀からドブのような臭いが漂って気になったが、今日はそれほど気にならない。

     私ども、東京の下町に育った者にとって、山手の風景は子供ごころにも、
     「まるで、異国のような・・・・・・」
     香りをたたえていた。
     赤坂の溜池から山王、赤坂見附から紀尾井町一帯。喰違の見附から赤坂離宮へかけての、美しい木立に埋もれた景観は、新しい権力者たちによって維持されてきた。
     ところが・・・・・・。
     戦後の、ことに十数年前からの高度成長とやらは、東京の中で最も美しく、下町とは違う江戸の名残をとどめていた山手の景観を、車輌と高速道路とビルディングによって踏み潰してしまった。(池波正太郎『江戸古地図散歩』)

     弁慶橋は渡らず、弁慶堀の途絶えるところから橋を渡って紀尾井坂に入る。左の上智大学は尾張徳川家、赤坂プリンスホテルは紀伊徳川家(戦前は李王邸)、ニューオオタニは近江彦根藩井伊家下屋敷跡(戦前は伏見宮邸)である。植え込みのツツジが真っ赤な花を咲かせている。芝生に置かれている四五十センチほどの石を見て、「佐渡の赤石だよ」と講釈師は主張するが、ロダンは首を捻っている。少なくとも石に関してなら講釈師よりロダンの方を信じたい。赤石であることは間違いなさそうだが、出自は「佐渡」なのかどうか。
     喰違見附跡には千代田区の案内板が立っている。

    通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となります。この地域は二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永十三年(一六三六)築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたものと考えられます。

     江戸城の見附の中で唯一、石垣ではなく土橋状の土塁を前後ずらして延ばしていた場所だ。そして右大臣岩倉具視が襲撃された場所でもある。「堀に転がり込んで助かったんですよ。」リーダーの解説文には喰違そのものの説明ではなく、そのことだけが書かれている。
     明治七年(一八七四)一月十四日夜、赤坂の仮皇居から退出して帰宅途中の岩倉の馬車が襲撃された。前年の火災で、赤坂離宮を仮皇居としていたのだ。襲撃者は、もと外務省に出仕していた高知県士族の武市熊吉、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の九人。征韓論者で、西郷、板垣、江藤等に追随して野に下った元官僚や軍人だ。
     岩倉は馬車から転げ落ちて濠へ飛び込んだお蔭で、眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの一命を取り留めた。
     「見つけられなかったんですかね。」トミーは不思議そうだが、横浜に初めてガス灯が灯ったのが明治五年、東京京橋・金杉間に設置されるのがこの明治七年のことで、日が落ちれば真の闇だ。崖下に転がった人間を探すのは不可能だっただろう。現在見る坂道と同じようだったら、下はかなり深い。「岩倉は小太りの丸い体だから転がって行って大した怪我をしなかった。」「誰かだったら、もっと安全に転がれそうだね」とダンディが笑っている。命を取り留めた岩倉は明治十六年七月二十日まで生き延びた。享年五十九。七月二十九日には日本初の国葬が執り行われた。贈太政大臣・正一位大勲位。
     警視庁大警視川路利良の指揮の下、事件後三日で犯人は逮捕され、七月九日に全員斬首された。更に四年後の明治十一年(一八七八)五月十四日には、ここから目と鼻の先にある清水谷で、大久保参議内務卿もまた島田一良、長連豪、杉本乙菊ら六人によって暗殺される。大久保利通、享年四十九であった。贈右大臣・従一位勲一等。岩倉襲撃犯(殺害未遂)も大久保暗殺犯も、どちらも山田浅右衛門によって斬首された。
     紀伊国坂から右に迎賓館の塀を見ながら歩いていると、街路樹に濃いピンクの花が随分目につく。「これって何の花?」宗匠に訊けば「アカバナマンサクだよ」と答えが返って来る。言われてみれば、確かに何本もの紐が捩れたような形でマンサクに似ている。「黄色いのは良く見るのにね。」「そう、マンサクは黄色のほうが多いよ」と画伯も頷く。「赤い椿も綺麗ですね。」
     「ここだよ。芸能人御用達の病院だ。」前田医院である。芸能ニュースなら講釈師に任せなければならない。「アナウンサーの逸見さんも入院してたんだ。」この話は、もう二三度聞いたことがある。「貧乏人が下手に行ったら大変だよ。」歩道に広がって歩いていると、ランニングシャツのランナーが何人も通りすぎて行く。

      マンサクや走り来るひと雨に濡れ  蜻蛉

     一ツ木通りの表示を見ると、講釈師は「ちょっぴりさみしい乃木坂 いつもの一ツ木ドオーリ」(『別れても好きな人』佐々木勉作詞・曲)と歌いだす。「ほら、ちゃんと歌謡曲に出てくる場所だよ。」まだ講釈師が本当に歌ったのを誰も聞いたことはないが、本人によればカラオケの帝王であるらしい。私はこの歌よりは西田佐知子の『赤坂の夜は更けて』(夜霧が流れる一ツ木あたり 空しく霞んだ街の灯よ。鈴木道明作詞・曲)の方が好きだ。
     今ではまるで違ってしまったのだろうが、かつては東京の盛り場の格を表すのに、銀座赤坂六本木の一流グループと、渋谷新宿池袋の二流グループがあった。森進一『盛り場ブルース』(藤三郎作詞・村上千秋作曲)は、第一連で「銀座赤坂六本木」と歌い始めて全国をさすらい、最後に「渋谷新宿池袋」に落ち着くのである。私はどうも赤坂とか六本木の高級そうなイメージに気圧されて、なかなか足を踏み入れることができなかった。
     小林信彦『私説東京放浪記』によれば、本来「オヤジ」の街だった赤坂は、六十年代に入る頃、TBSと芸能人のお蔭で「オシャレ」な街に変貌したのである。しかし九十年代になれば「赤坂は、飲み屋と食べ物屋の多さでは、いまでも東京では有数だろうが、オシャレというイメージは見事に消えた。」
     ところで、一ツ木というのは古い地名である。

    一木原(ひとつぎがはら) いま赤坂伝馬町の裏通り、わづかに一木町の名を残せり。昔はこの辺りなべて一木原といひ、矢盛荘七郷の中にて古き名なりといふ。(『江戸名所図会』)

     『図会』によれば、四谷鮫が橋の辺りを上一木、赤坂一帯を下一木と呼んでいたようだ。また麹町も一木に含まれていたと言う。
     大山街道は、豊川稲荷の手前から牛鳴坂に逸れて行くのだが、「盗難除けですから」というなんだか不思議な理由で、姫は我々を豊川稲荷に連れて行く。
     豊川稲荷は一ツ木の大岡越前屋敷内に祀っていたもので、屋敷跡地に赤坂小学校(赤坂四丁目の旧校舎)が建設されることになって、この地に移したものだ。もとは常火消役屋敷跡だ。「私は豊川稲荷の隣で生まれた。」トミーが言うのは、三河国の豊川稲荷本山(円福山豊川閣妙厳寺、曹洞宗)のことだ。大岡忠相は三河国西大平(岡崎)一万石を領したことから、豊川稲荷を信仰したものらしい。
     山門の下の右脇に九郎九坂の標柱が立っている。ここに来るのも三四度目になるから既に知っている人も多いが、知らないひとのために少し説明しておく。明治の神仏分離で全国に最も多い伏見稲荷系は神社として存続することを決めたが、豊川稲荷だけが仏教寺院であることを選択した。「だから鳥居がありません」と姫も説明する。本尊は荼枳尼天(ダキニテン、荼吉尼天とも書く)、狐(本来はジャッカルだとも言う)に跨り、死者の心臓を食らう夜叉であった。狐を眷属とすることから稲荷信仰と習合したものだ。
     用便を済ませて土産物屋の前に立つと、店の女将が新聞記事のコピーを手にして盛んに呼び掛けてくる。「ほら、こうして新聞に載ったから、皆さん買っていきます。」新聞に載ったからと言って必ず買うのはバカである。「いくらなの?」「三百五十円。瓦煎餅の中に砂糖が詰まっているの。」私は甘いものは食わないが、安いから話のタネに買っておこう。私もバカだった。稲荷巻き煎餅というもので、砂糖を棒状の塊にして、それを瓦煎餅で巻いているものらしい。「固いですよ。三河の方で良く食べましたから。」トミーの言葉に、「私は好きですよ。スゴク固いんですけどね」と姫も口を揃える。どうせ私が食べるのではない。つられてスナフキンも同じものを買った。翌日、妻、息子、嫁が食べたが、言われるほどは固くなかったらしい。

     青山通りを少し戻って、歩道橋を渡って牛鳴坂に入る。路面が悪く車を引く牛が苦しんだため名付けられたそうだ。
     ちょうど高校生の下校時にぶつかったようで、女子高生がぞろぞろと歩いてくる。「女子高生だぜ。」講釈師は女子高生、女子大生が大好きだ。これは山脇学園である。「名門だよ。」その辺の事情にも私は疎い。私はこの年代の娘が団体になっているのをみると、ただキャンキャンと煩いと思うだけだ。
     「弾正坂ってどこだっけ」宗匠に訊かれて私も一瞬度忘れしてしまった。私たちは豊川稲荷の表側、青山通り側の石段を下りてきてしまったが、トイレの横から出た坂道が弾正坂だ。つまり、九郎九坂と弾正坂が豊川稲荷を囲むように三角に交差している。その坂が青山通りを横断して、山脇学園を過ぎた辺りで道が大きくカーブする所に繋がっていたのだ。

     女生徒等眩し弾正坂忘れ   閑舟
     春雨や女子高生に目も眩み  蜻蛉

     もう一度青山通りに合流する交差点から左手に下る坂が薬研坂だ。擂鉢のように、いったん下ってまた上る、つまりV字形になっているというのが薬研堀の名の由来だ。これを通ってTBSの方に抜けたことがある。青山通りの右手には赤坂御用地が広がる。
     ところで青山通りは、そして山の手は今のようではなかったと小林信彦は証言する。これは一九九二年に書かれたもので、バブル崩壊後の東京を語って怒っているのである。

     さて、「青山通り」である。
     赤坂が最先端の町だった三十年まえには、こんな名前はなかった。
     青山は山の手の二番目ぐらいの高級住宅地であり、電車通り(いまの「青山通り」)には、ほんの少しの商店しかなかった。電気屋とかセンベイ屋のたぐいで、どんな町にもあるものだ。(中略)
     これでよいのである。「山の手の生活」というものは、「静か」ということを根底にしている。青山は静かで、しかも、戦前から地下鉄が走っており、都電も通っている。便利である。(中略)
     「山の手の生活」を破壊したのは、あの東京オリンピック(一九六四)であった。敗戦後十九年、ようやく恰好がついた山の手を、こともあろうに、日本人がみずから、こわし始めたのである。
     その理由は――「こんなに道が狭くては外国からのお客に恥ずかしい」であって、とにかく、道を広げようとした。(小林信彦『私説東京放浪記』)

     小林は、最初に引用した池波正太郎と同じことを言っているのだ。東京の町が醜くなったのは、東京オリンピックを理由にした役人たちの都市改造政策のせいだったということである。
     次は高橋是清翁記念公園だ。青山通りに面している割に、枯山水のある公園内は静かな落ち着いた雰囲気が漂ってくる。高橋是清は偉人である。「アメリカで奴隷に売られたんですよ。」ダンディは知識を披露する。横浜の貿易商に旅費学費を着服され、ホームステイ先では騙されて奴隷として売られた。かつて宮澤喜一が「平成の是清」と呼ばれたことがあったが、人間の格の大きさが違うだろう。首相を務めた後も何度も蔵相として招聘されたことを見れば、私は財政について云々する知識を持っていないが、財政家として類稀な人物であったと思われる。
     昭和二年の金融恐慌に際して三度目の蔵相として、モラトリアムを実施し、片面だけ印刷した二百円札を大量に発行して預金者を安心させて、金融恐慌を鎮静化させた。昭和六年には四度目の蔵相として世界恐慌に対し、金輸出再禁止、日銀引き受けによる政府支出の増額によって、デフレからの脱出を実現させた。これは世界最速のデフレ脱出と言われている。
     昭和九年、六度目の蔵相として軍事予算縮小を図ったことが軍部の恨みを買ったのである。二二六事件の青年将校に対する同情論は未だに燻っているが、私は無知で無謀な青年将校に対して一切同情しない。
     この公園は是清の屋敷跡であり、空襲で焼け残った建物は小金井の江戸東京建物園に移設された。第二十六回「玉川上水編」で立ち寄った人も多い。庭園に韓国風(?)の石像が多いのはどうしてなのか分からない。

     青山通りに戻ると隣はカナダ大使館だ。「ここに入れば、そこはカナダになります。日本じゃありませんからね。」ビルの間の交差点に来ると風が強くなって、傘が裏返しになってしまう。まるで嵐のようでもある。「史上二度目の酷い天気じゃないの。」宗匠がニヤニヤしているが、それは何のことだろう。別の仲間とやはり江戸歩きのような会をやっているトミーは、「私たちだったら、こんな日は休みますよ」と苦笑いをしている。
     雨はそれほどでないが、風が強いから傘を持つ手に力が入って結構疲れる。周りの光景を見る余裕も余りない。人通りも少ないようだ。

     吹きすさぶ嵐の中の花あはれ  午角

     花ニ嵐ノタトエモアルゾ。「こんな雨の日によく歩くよな、全く物好きな連中だ。」そう言う講釈師自身もその物好きに数えなければならない。外苑のイチョウ並木通りを右に見ていると、関係のないオバサンがリーダーと仲よさそうに話をしている。その少し先が梅窓院だった。是清公園からそんなに離れていないのに、なんだか随分遠く感じられた。長青山寶樹寺梅窓院、浄土宗。南青山二丁目二十六番三十八号。
     「外見は素敵なんですけどね」とリーダーが言う。通りから山門まで、参道には竹が綺麗に植えられている。その竹が青くなく黄色なのは、枯れているせいではなくそういう種類なのだろう。こういう竹もなかなか素敵だ。奥の山門を覆うようにやや斜めに立っている景色が素敵だ。しかし山門を潜ればコンクリートの建物があるだけで、姫の言う通り、外側の雰囲気と境内の雰囲気が違いすぎる。

    浄土宗梅窓院は、寛永二十年(一六四三)徳川家康公以来の家臣、老中青山大蔵少輔幸成公が逝去の時、 青山公の下屋敷内に一万三千二百四十七坪の地を画して側室を 大檀越として建立されました。(現在の梅窓院は三千余坪)
    (梅窓院「寺歴」http://www.baisouin.or.jp/jireki/jireki.htmより)

     山門前には不老門と書かれた大きな石が立っている。「青山氏のお墓があるんですけど、墓地には行きません。」青山幸成は青山忠成の四男で、遠州掛川二万六千石の藩主、のちに摂州尼崎五万石に転じた。初代の忠成が赤坂の一部から渋谷に至る広大な屋敷地を拝領したことから、この一帯が青山と呼ばれるようになったと言うのが一般的に言われている説だ。青山墓地は美濃郡上藩青山家の下屋敷跡地である。但し青山氏が拝領する以前から青山の地名はあったという説もあるらしい。草木生い茂る草原地帯だったので、赤坂に対して青山と呼んだというものだ。これは岩垣顕『歩いて楽しむ江戸東京旧街道めぐり』に記されているが、典拠は分からない。
     とにかく風が強いので、早々に山門から離れて歩きだす。「俺、今日は昼飯食わないよ。被災者の苦しさを我が身に感じなくちゃいけない。」講釈師はこんなことを言うが、勿論口先だけである。そろそろ昼に近く、私も少し腹が減って来た。この辺り、外苑前交差点から表参道交差点までを青山百人町と言う。
     善光寺は信州善光寺の東京別院である。南命山善光寺。北青山三丁目五番十七号。青山通りと表参道から少し中に入っただけで静かな雰囲気になってくる。

    南命山善光寺 同所(青山)百人町右側にあり。信州善光寺本願上人の宿院にして、浄土宗尼寺なり。(中略)当寺は永禄元年戌午(一五五八)の創建にして、始めは谷中にありしを、中興光蓮社心誉知善上人明観大和尚のとき、宝永二年(一七〇五)台命によつて、この地へ遷されけるとなり(いま谷中に善光寺坂と号くるは、その旧地なるがゆゑにして、その旧跡はいまの玉林寺の地なりといふ)。(『江戸名所図会』)

     山門には工事中のシートが被せてあって、脇から境内に入ると、本堂にも工事の足場が組んである。ダンディは前もってこんな句を作って来た。早すぎるんじゃないだろうか。

      青山は姫に引かれて善光寺  泥美堂

     「この辺りは馬の通行が多くて、馬に引かれて、っていう言葉もあったようですよ」とダンディが言う。私は調べてみたがそれらしい言葉を発見できなかった。
     仁王門の内側には風神、雷神像があり、それを見た宗匠は「可愛らしいじゃないの」と笑う。私はそれよりも高野長英顕彰碑を見ることができたので良かった。大きな石の上部には長英のレリーフがメダルのように取りつけられ、その下に和文と英文(?)が彫られているのだが、文字面に雨が沁み込んでいて良く読めない。仕方がないので、ネットを検索して記事を見つけた。

    高野長英先生
    先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者である 
    その間に多くの門人を教え又訳書や著書八十余を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり四十七才で不幸な最後をとげた 最後の処は今の青山南町六丁目四三の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治参壱年先生に正四位が贈られたので同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処昭和戦災で大部分こわれた
    よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する
    昭和三十九年十月

     もとは海舟の撰文による碑が立っていたのだが、戦災で破損したため、その一部を使って造りかえられたものだ。
     「板橋でも見たじゃないか。」「医者でしたよね。」第十四回「板橋編」で中山道を歩いた時、石神医院(水村玄洞旧居跡)を見た。あれは、小伝馬町の火事(長英が放火したと言う説もある)で解放された後、長英が匿われた場所だった。
     硝酸で焼いて顔を変え、沢三伯の名で青山百人町に町医者を開業していたが、嘉永三年(一八五〇)十月三十日、出先から戻った時に捕り方に囲まれ捕縛された。その際に自決したとも、捕り方に殴殺されたとも言われ真相は不明だ。
     性格的にはかなり狷介で「傲岸不遜」であった。と言えば、横浜を歩いて佐久間象山記念碑を見た時の感想と同じようになってしまう。しかし、シーボルトの鳴滝塾頭として、語学に関しては当時並ぶものもない実力と先見性をもっていたことは間違いない。
     「鎖国が問題だったんですよ。だから徳川幕府はダメなんです。」ダンディはいつものように徳川幕府を断罪する。高野長英にとって(そして渡辺崋山たち蛮社の獄に連なったひとにとって)水野忠邦の反動政策と鳥居耀三の狂信的思想による悲劇は大きいが、それ以上に、西洋近代にどう対峙するかというのは、歴史的にアジアが抱えなければならなかった大問題であった。
     「陸軍経理学校がある。」講釈師の言葉で見に行くと、経理学校生徒隊慰霊碑だった。鐘楼の手前に立つ桜が満開だ。法事に来ているひとも桜を見上げて、携帯電話のカメラを向けている。

      満開の桜より出で鐘撞堂   閑舟
      先覚を偲べば花の嵐かな   蜻蛉

     寺を出て歩き始めると、向うに教会の尖った屋根が見える。
     「腹減っちゃったよ、飯はまだかい。」「あれ、今日は被災者を偲んでひもじさに耐えるんじゃなかったの。」「ひもじさには勝てないよ。」講釈師は『昭和枯れすすき』の節で、「ひもーじさにー負けたー」と歌いだす。

      ひもじさに耐えきれられず春の昼  蜻蛉

     「食堂に行きます。」リーダーが連れて行ってくれたのは「寅福」だ。北青山三丁目十二番九号。リーダーは「食堂」と言うが、ネット上の「ぐるなび」では「和食ダイニング」と称している。かなり広い店で、新宿、二子玉川ほか何店舗もあるようだ。「本当は十六人の席ですが、ちょっと詰めてください」と座敷に通された。
     ここでダンディが落語『大山詣り』の梗概を全員に配布してくれた。今日の仲間で一番落語が好きなのはロダンで、次がスナフキンだろうか。私は志ん朝のもので読んだ。(聞いたのではない。)
     お薦めランチや焼き魚定食もあるが、私は生姜焼き定食を頼んだ。最初に大勢が頼んだお薦めランチの盆が出された。それを見て、なんだか随分あっさりとしている、これで千円はひどいじゃないかと思ってしまったが、実はその他に、ヒジキの煮つけ、キンピラ、漬け物などが大丼で提供されて、これをみんなで取り分けるのである。その他に鰹節とジャコのふりかけが、杉皮を張った茶筒に入っている。秋田の人間にとって杉皮張りの茶筒は懐かしい。
     「この皿に三種類入れなくちゃいけないの?」とチロリンが悩んでいる。別に無理して全部食べなくても良い。「好きなものを取れば良いんですよ」と姫も笑う。「だって折角だから全部食べてみなくちゃ。」小食の癖にチロリンは欲深い。「フリカケも貰おう。」
     ご飯は白米と玄米から選び、お代わりもできる。ダンディはご飯をお代わりし、昼飯は食わない筈だった講釈師まで、ちゃんとお代わりしている。「お代わり一杯だと多すぎるね」という画伯と私は追加の一杯を分け合った。それでも少し食べすぎかもしれない。
     これで千円ならそれほど高くないだろう。お勧めランチは九百五十円だが、みんなから集金するとお釣りがでない。「義捐金にしちゃえば良いよ。」講釈師が半ば強制的に決めてしまって、結局全員が均等に千円支払うことになってしまった。(但し二つのテーブルで会計が別々だったから、ダンディたちのテーブルではどうだったか分からない。)
     店を出ると、雨は小降りになっている。風も止んだようだ。

     秋葉神社。北青山三丁目五番二十六号。小さいがなかなか感じの好い神社だ。紀伊国屋文左衛門が深川に隠棲した時に勧請し、それを遷したのだとも言われている。狛犬には寛政二年(一七九〇)の銘がある。
     秋葉神社は火伏せの神である。遠州浜松の秋葉権現を本社として全国各地に勧請された。江戸に多いのは、火災の多かった江戸の特性による。因みに秋葉原の地名は勿論この秋葉神社による。秋葉(アキバ)神社のあった原っぱだから、秋葉原(アキバハラ)あるいは秋葉ケ原(アキバガハラ)であり、旧国鉄がアキハバラとしたのは無学な連中の仕業であった。若い連中が「アキバ」と呼ぶのは、偶然にも正しい結果になっている。
     実は私は詳しいことを知らずにこう書いたのだが、秋葉原に秋葉神社があったのではなかった。ウィキペディアによれば、明治二年の大火で、今のJR秋葉原駅構内にあたる火除け地に、勅命で「鎮火社」が勧請された。鎮火と言えば秋葉権現と江戸以来決まっていたので、庶民が秋葉さんと呼んだ。そのためか、すぐに鎮火社は秋葉社になったというから、神様は何でもよいのである。そもそも鎮火社なんていう神様はいないだろう。
     「この辺に週刊新潮の絵が飾ってあったんだよ。」講釈師の言うのは、表参道の交差点に建つ山陽堂書店の壁画のことだが、その外壁は工事中のようで、閉じられたシャッターには「春の間、育店休暇をいただきます」の張り紙がだされている。「育店ってなんでしょうか。」ダンディが首を捻っているが、私もこんな言葉は初めて見る。内装工事をしているらしい。
     私は知らなかったが、この山陽堂書店は明治二十四年創業で、古いこともそうだが、実は歴史に記録されるべき書店なのだった。北青山三丁目五番二十二号。岡山から上京した萬納孫次郎が明治二十一年に書店を始めた。

     明治24年(1891年)現在のみずほ銀行の辺りで書店を始めます。もちろん明治神宮も表参道もみずほ銀行(旧安田銀行)もない頃です。昭和6年(1931年)それまであった所に天皇が通る道、御幸通りを造るため現在の場所に移ることになりました。
     親戚筋にあたる深川の建築屋が地上3階地下1階店舗件住宅鉄筋鉄骨コンクリートのビルを建てました。一階の店舗にはステンドグラス、屋上には青緑色の瀬戸焼の屋根瓦がのった和洋折衷の建物、そしてお手洗いは当時珍しかった水洗でした。
     (http://sanyodo-shoten.co.jp/history/index.html)

     そして昭和二十年五月二十五日、山の手を大空襲が襲った。東京空襲の総仕上げとも言われ、赤坂、青山、中野等が集中的に狙われた。投下された焼夷弾は三月十日の倍に近い合計六千九百トン、死者は三千六百五十一人に上った。三月十日の大空襲では死者十万人以上を数えたが、その経験から疎開が著しく進んだこと、また下町との地形的な違いなどが死者数の大きな違いだろう。しかし死は死であり数の多寡ではない。非戦闘員に対する無差別大量殺戮であった。

    染物屋だった隣家に飛び込むとすうっとした空気が体を包んだ。ホッと安堵したのもわずかな間だった。木造の店舗はすぐに炎に包まれ、バキバキと音を立てて崩れ落ちた。「ああ、死ぬんだ」。どこか冷静に受け止めながら、「死ぬなら自分の家で」という強い気持ちがわいた。熱風にあおられ、一メートル進むのにも、気が遠くなるほど時間がかかった。細長く狭い店内には百人以上がすし詰めになっていた。「水、水.」とうめく声が聞こえた。壁際に積んだ雑誌を踏んで二階に上がると、父と弟が、窓のすき間から入り込もうとする炎を防ごうと躍起になっていた。やはり青山墓地への避難をあきらめ、店に引き返し、逃げ遅れた人たちを受け入れたのだった」(「記憶 戦後60年・山の手空襲 上」『東京新聞』二〇〇五年五月二十二日付より)
    http://www.mishimaga.com/hon-watashi/017.html

     とにかく、この建物のお蔭で百人以上のひとが助かったのだ。外壁は焼け崩れたが、内部の鉄筋は無事だったので、そのまま再建した。但し東京オリンピックを前にした道路拡張で三分の二を削られ、現在に至っている。青山で最も古い建物であり、山の手空襲のモニュメントでもあった。ここでも先に引用した小林信彦の怒りを思い出すだろう。こうした歴史的記念物ともいうべき建物も、オリンピックの道路拡張で削られてしまったのだ。
     更に青山通りを、左に青山学院、右には国連大学、こどもの城を見ながら歩いていく。

     大山講花のお江戸を後にして  午角

     宮益坂に来れば、もう江戸府内から離れたことになる。「渋谷は村ですからね」とダンディも笑う。「この坂は別名、富士見坂とも呼ばれました」と姫が補足する。

    富士見坂 渋谷宮益町より西へ向かひて下る坂をいふ。斜めに芙蓉の峯に対ふゆゑに、名とす。相模街道の立場にして、茶店酒亭あり。麓の小川に架せる橋をも、富士見橋と名づけたり(相州街道のうち、坂の数四十八ありとなり。こ富士見坂は、その首なりといへり)。(『江戸名所図会』)

     御嶽神社はビルの脇の石段を登った二階にあった。渋谷区渋谷一丁目十二番十六号。祭神は日本武尊、秋葉の神(火之迦具土神)、大国主命、菅原道真。室町初期の創建である。狛犬は勿論狼だ。右が阿形で、口を開け舌を出している。
     本尊の不動明王は延宝九年(一六八一)に造られた。不動堂の中を除くと、中央に不動明王、向かって右に月天子、左には青面金剛の板碑が祀ってある。青面金剛の下にはちゃんと邪鬼が踏みつけられている。初めて参加したトミーにもこのことは教えておかなければならない。「ホラッ、講釈師がいますよ。」「そうだよ、俺だよ。」
     ウィキペディアによれば、御岳権現の御利益を享受するという意味で、宮益坂の地名がつけられたとも言う。
     句碑があったのだが私にはまるで読めない。そのために宗匠がちゃんと調べてくれた。

     眼にかゝる時や殊更さ月不二  芭蕉

     芭蕉が上方へ赴いた際、箱根を越えた時に詠んだ句とされている。余計なことだが、「さ月」は「五月」だろう。もうひとつあった。

     名月や御嶽能苑に讃え佇つ   宇田川麗哉

     宇田川麗哉というのはどういう人か知らない。この辺りでロダンの様子がおかしいことに講釈師が気付いた。頻りに寒いと言う。気温はそんなに低くない筈だが、額を触るとちょっと熱っぽいようだ。朝からずっとマスクをしていて口数も少なかった。無神経な私は、「今日は静かじゃないの」と冗談を言っていたのだが、本当に具合が悪そうだ。今から思えば、さっきの「佐渡の赤石」で、普段ならばもっと力を込めて話をしていた筈だ。もう帰った方が良い。「それじゃ帰ります。」渋谷駅でロダンは帰って行った。
     宗匠もロダンの真似をするようにマスクをしているのは何故だろう。「花粉かい?」「放射能対策だよ。」私たちの年代でもう無用のことではないか。碁聖は帽子も被っていないじゃないか。「今更毛がなくなったって関係ないもんね。」それは私の言うことでもある。
     道玄坂に差しかかった頃に日が照って来た。「私が皆さんのために太陽を呼びました。」姫はやっと「晴れ女」の本領を発揮したと言いたいのだが、私はここで真相に思い当った。ロダンが帰ってから途端に晴れたのである。自ずから原因は明らかではないか。これまで、雨が降れば必ず私のせいにされていたが、実は本当の原因はロダンにあったのである。(ロダン、ゴメンネ)

    道玄坂 富士見坂の下、耕地を隔てて向かふの方、西へ登る坂をいう(この坂を登りて三丁目ほど行けば岐れ路あり。直路は大山道にして、三軒茶屋より登戸の渡し、また二子の渡しへ通ず。右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り、北沢淡島への道なり)。(『江戸名所図会』)

     「こうなると長い傘が邪魔になる。」ダンディは嘆いているが、人通りの多い道を先導していく姫が、傘を上にたてているので目印として丁度良い。
     「あの辺に恋文横丁があった」と講釈師とダンディが頷き合っている。今はセンター街という辺りだろう。大学生ダンディはよくそこに通ったらしい。戦後進駐軍を相手にする女性のラブレターを代筆する代書屋があったのだ。闇市の一角になるだろう。「映画もあったな。」映画のことなら(ほかのこともそうだけれど)ダンディは詳しい。調べてみると、丹羽文雄に『恋文』という小説があり、田中絹代の監督第一作にもなっているようだ。
     「あそこはストリップ劇場だった」と講釈師が指差すのは道頓堀劇場だ。昔ストリップの合間に、芸人がボソボソと面白くもない漫談を喋っていたのを見た記憶がある。「良く知っているじゃない。」肥前佐賀のひとは東京の事情に疎い。しかしそれも四十年も昔のことだ。往時茫々。しばらく行けば道玄坂の碑が立っている。

    渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(一五二五年)、その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍らに道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷付近もひらけだした。(後略)樋口清之

     樋口清之によれば、大和田太郎道玄が住んだ庵が道玄庵だということになるのだが、『江戸名所図会』によればもう一つの説がある。

    ある人いふ、道玄は沙門にして、この地に昔一宇ありて道玄寺と称したり。ゆゑに坂の名を呼び来れるともいひて、一ならず。

     その脇には与謝野晶子の歌を彫った記念碑が立っている。

     母遠うて瞳したしき西の山 相模か知らず雨雲かかる

     石に彫られた文字は晶子の書簡から集字したものと、姫が調べてくれている。相模の山に雨雲がかかるのを見ているのなら、ここから大山が見えたのだろう。やはり姫の企画で歩いた時、千駄ヶ谷で新詩社跡地を見たことがあるが(第三十一回)、鉄幹、晶子夫妻が千駄ヶ谷に転居する前に住んでいたのが道玄坂である。但しこの付近で三か所移転していて、この碑のある場所に住んでいた訳ではない。
     『明星』は三十三年四月に創刊号が発行され、そのときの住所は麹町区上六番町四十五番地、発行名義人は林瀧野(鉄幹夫人)であった。六号から四六倍版の大型雑誌となり、発行人の名義は与謝野寛に代わった。巌谷大四『東京文壇事始』から孫引きする。

     そのときの住所はまだ上六番町四十五番地、それが、「東京府豊多摩郡渋谷村中渋谷二百七十二番地」に変わったのは、第十二号の明治三十四年五月号からである。この発行人及び発行所(住所)の変化はそのまま鉄幹の瀧野、ひいては鉄幹と林家との不和、そして夫妻の別離を物語るものといえそうである。鉄幹が瀧野と協議離別し、大阪府堺にあって鉄幹に師事していた鳳晶子を二度目の夫人として迎えたのは第十二号の出た明治三十四年五月頃と推定されている。(野田宇太郎『文学散歩』)

     晶子は八月に『みだれ髪』を刊行し、九月には二人は中渋谷村中渋谷三八二番地(道玄坂二丁目十五番)に移転、三十五年一月に入籍した。
     三十五年、石川啄木は盛岡中学を中退して初めて上京し、十一月九日神楽坂「城北倶楽部」での新詩社の会合に参加した。後にはやや批判的になる啄木もまだ十六歳、この翌年に同人となる。
     新詩社が最も輝いていた時期である。この頃に鉄幹宅を訪ねた馬場孤蝶の回想がある。

     土地の変わり方は滄桑の変と謂つても然るべきくらいであらう。宮益坂、道玄坂も、昔は道幅のグツと狭い、もつとズツと急な坂であつたことはいふまでもないであらふが、渋谷の駅ももう少し南に寄つていて、昇降口は西の方のあつたやうな気がする。これは駅が大きくなつたために、今のやうになつたのではあるまいか。
     上田敏君と一緒に、宮益坂を下りて、与謝野を訪ふたことを記憶するが、坂は両側が生垣になつていて、僅かに五、六間幅ぐらいな路であつたやうな気がする。坂の下の踏切を越ゑると、両側は水田であつたやうに思ふ。全く広重などの絵にありさうな地景であつた。道玄坂へとあがつて行くと、坂がいはばおでこの額のやうに高くなつているあたりの左の方に狭い横町があつて、それへと曲つて、与謝野君の家に達するのであつた。(馬場孤蝶『明治の東京』)

     まだ水田の残る江戸の郊外と言うよりも、現代の感覚で言えば田舎であった。明治三十七年五月、鉄幹、晶子は渋谷村字中渋谷三四一番地(道玄坂二丁目十六番)に移転。九月、晶子は「君死にたまふことなかれ」を発表して世間の糾弾を浴びた。家に石が投げ込まれるなど被害が大きく、十一月に千駄ヶ谷村字大通五四九番地に引っ越すことになる。
     「どうして?だって当り前のことを言ってるだけじゃないの。不思議だわ」若女将の疑問は今では当たり前の感覚だが、当時の日本では通らなかった。
     「すめらみことは、戦ひに おほみづからは出でまさね」とか、「かたみに人の血を流し、
     獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは」というフレーズが「不敬」と見做されたのである。特に大町桂月の非難は凄まじい。「晶子の詩を検すれば、乱心なり、賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるもの也」とまで罵った。

     円山町に曲がり込んでいくと、寂びれた盛り場の雰囲気が漂ってくる。ウィキペディア「円山町(渋谷区)」によれば、江戸時代には大山街道の宿場町、明治以降は三業地として栄えた。明治二十年頃、義太夫流しをしていた人が、弘法湯の前で宝屋という芸者屋を開業したのが花街としての始まりだ。その後、年とともに芸者屋、料理屋が増していき、それに伴い代々木練兵場の将校達が円山町に遊びに来るようになった。
     大正二年に三業地として指定され、大正十年には、芸妓置屋百三十七戸、芸妓四百二人、待合九十六軒を数えた。「アッ、三味線屋さんがあります」と姫が指をさす。花街の名残だ。
     そこを抜け、「青葉台四丁目街かど公園」という小さな公園で一休みする。お菓子や飴が配られる。
     「要らないの?」チロリンが甘い菓子を配ってくれるが私は要らない。「甘いのはダメなのよ」とクルリンはチロリンに囁く声が聞こえてくる。
     歩き出せば上目黒大坂の標柱を見る。厚木街道(厚木まで続く道だからそう呼んだ)の中で最も急で大きな坂だった。「もう目黒ですか。」碁聖が驚いているが私もなんだか地理感覚がおかしくなってくる。「目黒は先端が尖って入り組むようになっているから」とダンディに説明されて、そういえば駒場も目黒区だったと思い当たる。「今日は千代田区を出発して、港区、渋谷区、目黒区、世田谷区と歩くんですよ。」東京の地理に詳しくない人が聞けば、どんなに広い範囲を歩いているかと思うだろう。
     しかし東京はもともと十五区で、このあたりは東京ではなかったのだとダンディが主張する。「数えてみたけどどうしても十二にしか思い出せない。」ダンディに代わって調べてみると、十五区の内訳は、麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。明治十一年に制定され、昭和七年の大合併で東京市が拡大するまでの間、東京と言えるのはその範囲内だけだったようだ。この範囲はほぼ朱引きの線に収まる筈で、山手線の西の外側は要するに「在郷」である。

     二四六号(この辺りでは玉川通りになる)と山手通りが交差する辺りに上目黒氷川神社がある。目黒区大橋二丁目十六番二十一号。大橋氷川神社とも呼ばれる。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(一五七三~一五九二)、旧家加藤氏が甲州上野原の産土神をこの地に迎えたものと言われる。「男坂と女坂があります。ちょっと回り込んで、男坂から上って女坂から降りてきます。」なるほど、男坂はかなり急な石段だから、これを下りてくるのはか弱い(?)姫にとっては怖いかも知れない。明治末期の大山道(玉川通り)拡張で神社の敷地が削られ、そのために急な坂になったのだ。
     石段の下には大山街道の道標が立つ。右に「至せたがや道」、左に「玉川道」。道標の手前には「武州荏原郡菅刈荘目黒郷の惣氏子若者」による「坂再建供養塔」も立っている。
     境内には目黒富士浅間神社の小さな祠があり、これを守る狛犬が珍しい。胴体と脚はなんだかロボットみたいで、顔は犬とかオオカミではなく、鬼の面に似ている。
     文化九年(一八一二)に築かれた富士は高さ十二メートルあったが、文政二年(一八一九)中目黒に新しく富士塚が築かれたため、「元」富士と呼んだ。広重が「名所江戸百景」に目黒元富士を描き、江戸名所だったのだが、明治十一年に取り壊され、今では上目黒一丁目のマンションの敷地になってしまった。その際、石祠や講の碑がこの氷川神社に移されたのだ。

     すぐに目黒川に出た。大橋の上流は暗渠になっているが、川沿いの桜が真っ盛りで、橋の上から見ると両岸の桜が川を覆い尽くしているように見える。「好いわね、来年も来てみようよ」とマルちゃんやシノッチたちが感激している。
     「確かこっちだと思うんだけど」と狭い道に姫が一人で入り込んでいく。これが旧道だろうか。すぐに戻ってきて、「大丈夫、こっちです」と私たちを誘う。そこには小さな庚申堂が建っていた。池尻庚申堂。池尻二丁目二十三番地。道路からお堂を守るように、敷地の入り口には、赤いちゃんちゃんこに頭巾を被り、御幣を持った猿の像が立っている。「可愛いでしょ。」
     この姿を見れば、もしかしたら還暦の猿だろうか。私は明日ちょうど六十歳の誕生日になるが、ちゃんちゃんこなんか要らない。そもそも還暦に赤いちゃんちゃんこというのを、私は身近で見たことがない。本当にそんな風習が残っているのだろうか。
     祠の中を覗き込むと、青面金剛の舟形板碑が鎮座していた。ただ、この石の色は何だろう。薄暗いお堂の中を金網越しで見たのではっきりしないが、良くある緑泥片岩の青石板碑ではなく、もっと白っぽい茶色の石だ。この中にも赤いちゃんちゃんこの猿が鎮座している。
     「フランスじゃ食べるのかな。」ダンディの声で振り向くと、古い、雷でも落ちた後のような(講釈師は空襲にあったのではないかと言う)木の脇にはナメクジが三匹ほどいるのだ。「イヤネエ、食べないわよ」とシノッチはホントに嫌そうな顔をする。電柱や民家の塀には「大山街道」の案内が貼られている。

     池尻稲荷(世田谷区池尻二丁目三十四番十五号)の参道入り口には、顔を両手で覆ってしゃがんでいる男の子、赤ん坊をおぶっている子守娘の像が置かれている。等身大の子供は芥子坊主、娘は島田に着古した単衣で素足に草履を履いている。「懐かしい光景だな」とダンディは言うが、こんな江戸時代の光景を実際に見たことのあるひとはいない。しかしこの神社とどう言う関係があるのか。
     その隅に「涸れずの井戸」の説明が設置されていて、それを見れば分かる。近くの商家に奉公する子守娘が、奉公先の子供と一緒にここに水を汲みに来た際、「かごめかごめ」の遊びをしたのだろうと想像して造られたと言う。しかし良く考えてみると少しおかしくはないだろうか。「かごめかごめ」は、目隠しでしゃがんだ者の周りを大勢が回っている内、「後ろの正面だーれ」となるんじゃないか。赤ん坊を背負った娘と子どものふたりだけで成り立つ遊びではない筈だ。
     ところがウィキペディアによれば、「後ろの正面だーれ」のフレーズは明治後期になるまで文献上に発見出来ないと言うのである。江戸時代には「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に」まではほぼ共通で、その後に続くフレーズは採集者によって若干の違いがある。
     「夜明けの晩に、つるつるつっはいた」「夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた」は同じ歌だろう。「籠の中のとりは、いついつねやる、よあけのまえに、つるつるつッペッた。なべの、なべの、そこぬけ、そこぬけたらどんかちこ、そこいれてたもれ」と言うのもある。とすれば、特に後ろにいる人間を当てさせる遊びではなかったのだろうか。
     この歌について、ネット上には閉じ込められた遊女説、天海僧正明智光秀同一人物説など真偽不明の様々な由来が載せられているが、にわかに信じ難いので一々書いていられない。ただ江戸の遊びには「とおりゃんせ」「子をとろ子とろ」のように、なにか民間信仰につながる要素があって、「かごめかごめ」もそれらと共通する何かがありそうだ。
     石の鳥居を潜って境内に入れば、「村社」とは言いながら、神楽殿を持つ、なかなか立派なお稲荷さんだった。境内に掲げられた大きな説明板によれば、明暦年間、旧池尻村と池沢村両村の産土神として創建になった。
     社務所の受付窓のところに、高さ二十センチほどの細い神棚が置かれていて、無料進呈すると案内されているのがおかしい。「大邸宅にどうでしょうか」とマルチャンに勧めてみたが、「神棚はあるからね」という返事であった。

    大山へ十六足や花の春  閑舟

     三宿交差点の少し手前で再び玉川通りに出た。昭和女子大学の辺りでは女子大生が道に溢れて、歩き難くて仕方がない。入学式かオリエンテーションがあったのだろう。間を縫うようにしてやっと三軒茶屋駅前に着いた。大山街道道標の脇に以前は自転車が止まっていて写真を取りにくかったが、今日は綺麗に整頓されている。
     ただ、脇で話し込んでいる若い男女が、私たちがすぐそばで写真を撮っているのに、まるで気付かない振りで動こうともしない。邪魔だから少しどいてくれと言いたい位だった。恋を語っている風でもなかったし、この二人は感覚が鈍いのではあるまいか。
     解散前にちょっとお茶を飲まなければ講釈師が承知しない。二軒あるドトールを姫とスナフキンが偵察に行き、どちらも満員だったと報告する。「あそこにデニーズがあるじゃないか。」講釈師の指示で先遣隊が偵察に行って、全員が入れることが分かった。席は三つに分散したが、一足遅ければ高校生や女子大生で席が埋まってしまうところだった。運が良かった。席にありつけない高校生や女子大生は、入口付近でずっと待っている。他に店がないわけではあるまいが、コーヒー一杯二百円程度で長時間粘るにはもってこいの店なのだろう。
     宗匠の万歩計を確認すると一万八千歩である。直線距離なら七キロ程度のコースなのだが、上り下りもあり、少し道草を食ったりしたから体感的には八キロ程になるだろうか。
     店を出て、次回(六月)はこの三軒茶屋からスタートするとリーダーが宣言して解散となった。反省会組は、狭い路地裏の飲み屋街に入りこんでしまったが、さっき「養老の滝」に灯りが灯っていると見えたのは勘違いで、まだ四時過ぎではこの辺りで飲むことはできない。丁度渋谷行きのバスが来たので大急ぎで飛び乗った。
     渋谷の街は若者が一杯で、普段の混雑とあまり変わらないようだが、駅舎は照明を少し落としているようで薄暗い。

     爛漫の春人混みに駅暗く  蜻蛉

     渋谷に「さくら水産」はない(と思う)。「あっちに行けば何かあるだろう」と言うスナフキンに従って適当に歩いていくと、「甚八」という居酒屋を見つけた。ここでよいだろう。大相撲「八百長」の話、地震の話などで二時間程飲み、八人で一人三千円也。被災した人たちには申し訳ないが、ある程度金を使わなければ日本経済全体が委縮してしまう。私たちの使う金額は非常に僅かだが、それでも使わないよりは良いだろう。
     このあと画伯と碁聖は最初からカラオケに行く心積りだ。渋谷の街は良く分からないが、なんとか探してビッグエコーを見つけた。嫌がるスナフキンを無理やり拉致して五人で二時間歌い続ける。無暗に暖房の効いた店で、かなり汗をかいたがすっかり発散した。

    眞人