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    番外  川越街道 一人歩き

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.5.11

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     連休中をどう過ごすべきか。どこを歩こうかとネットを検索していると、ちょうど上手い記事を見つけた。板橋から川越までの川越街道踏破の記録である。
     「川越街道」(http://ikoi.web.infoseek.co.jp/nihonhen/saitama/kawagoekaidou.htm)という記事で、これを書いた人は六年前に車で移動したようだが、どこで旧道に入るか、その目印が実に詳細で参考になりそうだ。それに車で移動したとは思えないほど、道端の石仏や家の様子なども詳しく記録してくれている。
     実に有難い資料で、これを手にして歩いてみることにした。一日で完歩する積りはなく、二日を使う。今日は「番外」だが、いずれは「本編」に昇格するだろうか。


    平成二十三年五月三日(火) 板橋から成増まで

     スタートはJR板橋駅にする積りだ。東上線の下板橋で下りて途中で曲がるべき所を、なんとなく呆っとして真っすぐ行って首都高速に沿って歩いてしまったのは、ちょっと行き過ぎだった。適当な所で右に曲がるときつね塚通り商店街、住所表示は滝野川六丁目になっている。もう北区なのか。突き当たったところが見覚えのある中山道で、やっとスタート地点に立ったのは十時十分だった。
     踏切を渡ると、街燈には平尾宿のペナントが取り付けられていた。この辺りは第十四回「板橋宿・中山道編」の出発地点だから馴染みがあるが、あの頃は、こんな旗なんかひらめいていなかったんじゃないだろうか。小さなビルやマンションが立ち並び、街道の面影は余り感じない。
     首都高速の向こう側に斜めに入る旧中山道の入り口を見ながら、ここで中山道から離れて首都高速中央環状線の下を行く。この分岐点が平尾追分である。「九里四里旨い十三里」と謳われたのは川越の芋のことだが、日本橋から川越までの距離も俗に十三里と言われた。実際にはおよそ十一里、伊能忠敬の実測では十里三十四町三十三間(約四十三キロ)である。平尾の一里塚が日本橋から数えて本郷追分の次の二里に当たるから、ここから川越までは九里、三十五キロと思えば良いだろう。

    街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の六ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。川越からはさらに児玉街道となり上野国藤岡に通じて中山道に合流しており、この二つの道を合わせて川越児玉往還とも言う。中山道より行程距離がかなり短かったため多くの通行者があり五街道に準じる街道であった。中山道は河川の氾濫で通行止めになることが多く、川越街道は常に賑わっていた。通行量が増え過ぎて悲鳴を上げる沿道の村々の記録が各地に残っている。物資の輸送を行う新河岸川舟運と合わせ川越の重要交易路であった。川越藩主の参勤交代の道でもあったが、距離が短く大名の宿泊は稀で宿駅では休憩と人馬継ぎ立てのみが行われた。川越藩以外にも参勤交代で中山道に代わって川越街道を選択する藩は少なくなく、時代と共に増えていった。(ウィキペディア「川越街道」)

     街灯に取り付けられたペナントは「ロード四ツ又」。青地に黄色のアルファベットのAを描く。Aの右の斜線に「中山道」、左の斜線に「山手通」と小さく、下の横棒に「ロード四ツ又」と大きく書いてある。歩道には色タイルが敷き詰められている。ワイングラスをリサイクルしたもので、私が参考にしている文章では、かつては四ツ又ワインロードと称していたらしい。
     道路脇のごみ箱を格子が覆い、その上部には「板橋縁宿・四ツ又商店街」と書かれた提灯が掲げられているのに、特に商店街の面影はない。掲示されている地図を見れば、商店は道路の向こう側(北側)に集中しているようで、高速道路建設のために、こちら側はほとんど取り払われてしまったのだろう。
     大山東町交差点で山手通り(環状六号線)と交差し、信号の向こうには狭い商店街が続いているのが見える。気がつかなかったのだが、あとで地図を見ると山手通りに出る手前に馬頭観音があったらしい。
     遊座大山商店街は、小さな店が連なる懐かしいような商店街だ。入り口のゲートを見れば、YOUZA OYAMAと表記される。昭和二十五年の商店街発足時は大山ピース通りと言った。いかにも戦後すぐの匂いのする名称で、五十六年に大山サンロードと改称し、現在の名称になったのは平成四年のことである。名称の変遷だけも時代の変化が分かる。
     頭上の横断幕には「遊座小判プレミアム販売」と大きく書かれている。毎月第一木曜日の昼の二時間だけ、「一枚五百円のお買い物が出来る小判をなんと四百五十円で販売」すると言う。この商店街だけで通用する地域通貨で、慶長小判、天保小判を模したものらしい。

    東武東上線「大山」駅から山手通りまで、東西五百五十メートルの一直線に百七十店舗。独自の通貨「遊座小判」も使える「いやしの商店街」として、都や国からも表彰され、絶えずお客様を喜ばせるイベントを発信し続けている。(遊座大山商店街振興組合より)

     山手通りの角にはラーメン屋、すぐ先にはお握り屋。定食屋も懐かしい。川越街道だからというわけではなかろうが川越屋という呉服屋もあり、洋品店、美容院もあるが、全体的には食べ物関係の店がやたらに目につく。居酒屋も多い。真ん中辺りに板橋区文化会館と都税事務所があるのがちょっと不思議だ。ほとんど車は通らないから歩いていて気持ちが良い。
     東上線の踏切までこの商店街は続く。踏切の左はすぐに大山駅で、ここで上下三本の電車を待った。待ち時間が長ければそれだけ待っている人も増え、遮断機が上がると自転車も含めて踏切の中は人で一杯になる。いずれ将来は東上線の立体化によって、この開かずの踏切もなくなるだろう。
     駅前にターミナルを設けてバスやタクシーを乗り入れるようにする案もあるらしい。ただ余所者の勝手な感想を言えば、これだけ歩行者を優先した商店街は珍しく、バスやタクシーが通っても、その点だけはなくして欲しくない。
     踏切を渡れば、ハッピーロード大山と言うアーケード商店街に入る。遊座よりは道幅もやや広く、ある程度大きな店舗も見えてきた。遊座は昭和三十年代を思い出すようだったが、こちらのほうは五十年代だろうか。ところどころに、自転車は降りて通行するようにという注意書きが示されているが、守っている人は少ない。

    昭和五十二年、駅よりの「大山銀座商店街」と川越街道よりの「大山銀座美観街」が合併し、ひとつの商店街に。規模的には板橋区で最大の商店街として生まれ変わりました。 昭和五十三年、旧アーケードが完成。雨や雪の日でも傘を持たずにショッピングが楽しめる商店街が誕生。
    (ハッピーロード大山商店街http://www.haro.or.jp/about_history.php より)

     遊座、ハッピーロードを含めたこの街は、都内でも有数の商店街である。もともとは戦後の闇市マーケットとして始まったものらしい。巨大なマーケットは池袋に誕生したが、東上線沿線にも比較的小規模な闇市が形成された。空襲で壊滅的に破壊された池袋と違って、ほとんど被害に遭わなかった沿線の農民層に購買能力があったこと、朝霞の米軍駐屯地から闇物資が放出されたことなどによるだろう。成増や川越の芋を買い出しに行く都会の人間も集まったと思われる。
     かなり長いアーケードが終わると国道二五四に合流する。そのすぐ手前、右に大山福地蔵尊入口の標柱が立っている。曲がってみると、小さいながら玉垣を巡らした、なかなか立派な地蔵堂だ。板橋区大山町五十四。通りからの正面には「大山福地蔵尊」の大きな石碑が立ち、その前の花壇には花が咲いている。私よりは高齢に見える女性が、右の地蔵堂に向き合うように立つ「お身洗い地蔵」を一所懸命洗っている。
     縁起によれば、文化文政の頃(一八〇四~一八三〇)どこからとも知れずお福なる女行者が来て、鎌倉街道筋の人々の難病苦行を癒した。やがて大山宿に住み寿命を全うしたことから、後に地元住民の手によってお福地蔵として祀られたと言う。
     正式には大山宿と言うのは存在しない筈だが、鎌倉道、大山道(富士道でもある)と川越街道が交差する辺りは人の往来が頻繁だったのだろう。もともと大山の地名は、川越街道から富士山大山道へ分岐するところから来たと推測されている。
     地蔵堂の壁がピンク色に塗られているのは、お福が女性だからだろうか。通りからは格子窓越しに地蔵の横顔が見える。たまたま毎月三日、十三日、二十三日の御開帳日に当たったため、戸は開けられ優しげな地蔵を正面から拝むことができた。三宝にはバナナが供えられている。なんでも八月十三日がお福の命日で、その日には寺の住職が来てお経をあげると言う。

     二五四号に出て、日大病院入口の交差点から右に斜めに入る。国道と直角に交差する道の方は鎌倉古道のようで、お福が活躍していたのはこの辺らしい。鎌倉道を三百メートル程行けば轡神社がある。私は寄らなかったが、狩りに来た徳川家康が轡を置いて行ったという伝説がある。
     ここから上板橋宿に入っていくのだが、入り口にあたる商店街ゲートの街灯の飾りには「下頭(ゲトウ)橋通り共栄会」と記されて、にマンガのような地蔵が取り付けられているのが珍しい。大山の「遊座」やハッピーロードとは違って、静かな商店街だ。人通りもそれほど多くないのは連休で出払っているためだろうか。休業中の店も多い。あちこちに朝市の立札がたっている。
     広場とも言えない、家一軒分ほどの小さな空き地が「防災辻広場」で、青く塗られた井戸の手漕ぎポンプが据えられている。避難所としては余りに狭いが、ポンプの脇には白いコデマリが咲いていた。
     和菓子工房「辰屋かぎや」。「区民が選んだ板橋のいっぴん(逸品)元祖 鍵屋万頭」が売りであるが、「冷やしうす塩大福」というのも、甘味好きには好評らしい。あんみつ姫がいれば必ず寄ったに違いないが、この連休中は休みだ。二百年ほど前、初代が京都の菓子屋で修行して板橋で鍵屋を開いたのが始まりである。明治二十七年の板橋大火でいったんは廃業したが、四代目の栗原登喜雄氏が辰年生まれだったために、辰屋の名をくっつけて再興したのだそうだ。
     それを過ぎれば豊敬(とようけ)稲荷神社だ。トヨウケは普通「豊受」と書き、「豊敬」と書くのは珍しい。境内には「上板橋宿概要図」と記された絵図が掲げられている。それによれば文政六年の記録で、町並六町四十間(七百四十メートル)、道幅三間(五・五メートル)、家数九十戸。伝馬役を負担していた。大山から来ると商店街入り口から下宿、中宿、上宿と三つに区分され、石神井川まで続く。東上線に上板橋駅があるが、あの辺はむしろ下練馬宿に近いから、命名が実はおかしい。
     絵図の中には「かぎやの屋号・栗原宅」も見える。さっきの「辰屋かぎや」のことだろう。栗原と言うのはこの宿場では大きな家だったのだ。「大正時代説教強盗が侵入し捕われる」と注記されているのは三春屋、お代官と呼ばれた醍醐宅、上板橋宿世話役栗原佐左衛門宅なども記されている。
     神社を出て少し行けば格子戸を持つ、明治大正の商家の趣の黒塗り二階家が建っている。絵図にあった三春屋(元米屋)なのだ。この店に残した指紋が証拠となって、説教強盗妻木松吉は巣鴨の自宅で逮捕された。

     「もしもし、目をさましてください。お金をいただきに参りました。騒いではいけませんよ。怪我をしますから」と言ってナイフをちらつかせた。低い声で丁寧な言葉使い。かえってそのことが被害者に恐怖を与えた。そこで家人は金を妻木に渡すのだが、もう十円、もう二十円と彼はひつこく要求し、金を受け取るたびに「説教」を始めるのだ。
     「お宅は戸締りはいいほうですが、庭が暗くていけません。庭がこうだと泥棒に入られやすい。私が言うんだから間違いありません」とか「是非、犬を飼いなさい」。あるいは「台所のカギは、こうやってはずしました。カギはもっとこうしなさい・・・」など明け方まで説教が続いた。(http://gonta13.at.infoseek.sk/newpage464.htm)

     これが昭和二年三月十九日のことで、以後同じような手口の事件が続発し、東京朝日新聞が「説教強盗」と名付けた。金持ちの間では番犬を飼う家が増えたため、犬の値段が急騰したとも言う。模倣犯も出現する始末で、昭和四年二月二十三日に逮捕されるまで、妻木の犯行は強盗六十五件、窃盗二十九件に及ぶ。朝日新聞社が掛けていた賞金千円は逮捕した警官たちに贈呈されたと言う。
     妻木松吉は刑務所では模範囚人として過ごし、昭和二十二年、憲法公布による恩赦で出獄した後、全国の警察署・宗教団体・社会事業団体などから防犯講演を依頼されたというのもおかしい。
     三春屋の庭には確かに犬が飼われていて、「猛犬注意」の紙が張られていた。あの事件以後のことなのだろうか。
     その斜向かいの家の玄関前には「板橋宿」の木柱が立ち、窓の横には「距 日本橋二里二十五町三十三間」の柱も立っている。玄関の磨りガラス越しに鳶の法被が掛っているのが見え、飯島鳶工業の看板もある。宿場を古くから取り仕切る鳶の頭であろうか。さっきの絵図から推測すれば、この辺りに高札場があったようだ。
     そして上板橋の飯島と言えばこういうこともある。川越街道(二五四)上板橋の「五本けやき」は、昭和十三年初期の川越街道拡幅工事の際に上板橋村村長であった飯島弥十郎が、屋敷内のケヤキを残すことを条件に土地を提供した名残である。この飯島と所縁のある家だろうか。

     中板橋駅入り口の交差点もそのまま真っ直ぐに進む。商店街が尽きたところが下頭橋で、ここで上板橋宿が終わる。石神井川が宿場の境になっているのだ。
     川沿いの細い道の手前の右側に小さな祠があった。入り口には下頭橋六蔵菩薩の提灯が六七個飾られ、狭い境内の正面に祠が立っている。右に立つ「他力善根供養」の碑は寛政十年の銘があり、「下頭六蔵菩薩」の碑は昭和四年のものである。

     弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政十年(一七九八)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある『他力善根供養』の石碑はその時に建てられたもの。
     橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽をふいて大木に成長したという逆榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を讃えて建てられた。同橋と六蔵祠は昭和六十一年度の板橋区登録記念物(史跡)に認定された。
          平成六年八月   板橋区教育委員会

     宿場外れの橋の袂と言う場所から考えて、もともとはサエノカミを祀っていた場所ではないだろうか。橋の上からコンクリートで護岸された石神井川を見下ろせば水量は少ししかない。この川が氾濫して水難事故が多発したとは、現在では想像もつかない。
     橋を渡ると道が二股に別れていて、間違えて右に行ってしまって左の道に戻る。小さな工場が数軒建っていて、道なりに行けば国道二五四号に出た。その上を環七が横切って走っている。
     二五四の向かい側に見えるのが長命寺(真言宗豊山派)だ。板橋区東山町四十八。

    「新編武蔵風土記稿」に「開山、長栄、寛文十年(一六七〇)十一月二十四日寂す」とあり、伝存する過去帳も承応元年(一六五二)から書き始められていることから、当寺は江戸時代の前期にはすでに創建されていたと考えられます。江戸時代には、板橋天祖神社(南常盤台二丁目)や東新町氷川神社(東新町二丁目)をはじめ付近の神社の別当でもありました。
    明治時代には、豊島八十八ヶ所霊場の二十一番札所にもなり、また、板橋七福神の一つ福禄寿も祀られています。
    当寺周辺は、室町時代「お東山」にあったといわれる板橋城跡の伝承地の一つでもあります。
           平成十一年三月   板橋区教育委員会

     板橋氏の拠った城跡だと推定されている。宮城氏、志村氏などとともに豊島氏から別れた家であるが、板橋氏については良く分からない。後北条氏滅亡とともに城は消滅した。城跡に推定されているからには、この寺も相当な規模だったに違いない。川越街道の拡幅、環状線の拡張などによって狭められたのだろうが、石垣の石段を上がると狭い境内に藤棚の藤が美しい。
     国道を進むと、本郷まで九キロ、日本橋まで十二・二キロの標識を見る。
     上板橋一丁目交差点から右斜めに「上板南口銀座」に入る。入口ゲートにはBELL‘S TOWNとあって、その意味は謎である。街灯に取りつけられているペナントには地蔵の絵が描かれている。商店街のマスコットで子育て地蔵をイメージして「まもりん坊」と呼ぶようだ。板橋の人は地蔵に特別な愛着を感じている。私はこの小さな商店街に書店が三つもあるのに驚いてしまった。コモディイイダでトイレを借りて時計を確認すると現在時刻は十一時だ。まだ一時間しか歩いていないのに、見るべきものは多い。
     商店街はいったん途切れ、やがて北一商店街に入って来た。練馬区北一丁目の謂でこの辺から下練馬宿に入ったことになる。名前は違っても、宿場はほとんど連続して商店街を形成している。街灯の柱には「北一みのりの市」の赤い旗が掛っている。
     マンションの角から脇に入る路地には、練馬区の保護樹木の札が掛けられたケヤキが四五本並んでいる。内田屋呉服店という看板を出している癖に、店頭にあふれているのは帽子やバッグなのがおかしい。脇には木の開き戸があり、その奥の敷地からはケヤキの大木が何本も見えるから、中はかなり広い庭になっているのだろう。この宿場には酒屋、米屋など内田姓が多い。下練馬宿名主に内田久衛門と言う人がいるから、この一族かもしれない。
     花屋と二階家の間の狭い路地の入口に「弁天宮」の赤い幟を見つけた。私が参考にしている記事にはないが、なんとなく怪しげな雰囲気がする。北町一丁目三十九番十七号。路地は花屋が作業中の台車で塞がれていて、断って行ってみる。弁天様らしいものは見えず、「扶桑教辨天宮」の石柱が立っているだけだ。扶桑教というのに私は初めてお目にかかる。無学は仕方がないが、扶桑と言うからには富士山信仰と関わりがあるに違いない。と書いてしまったが、実は知っていなければならなかった。下記の本を一度は読んでいたのだから。扶桑教は教派神道十三派のひとつである。

     戦国時代の長谷川角行を開山とする富士講は、元禄期に、食行身禄と村上光清が出て二派に分裂し、身禄派では、富士信仰の神道化と独自の教義的展開がつづいた。この流れから、幕末、武蔵鳩ヶ谷に小谷三志が出て、実践道徳中心の不二道を開いた。この系統は、明治維新後、柴田花守によって実行教を形成した。その他の富士諸講は、明治初年、宗教官僚出身の国学者宍野半によって、富士一山教会に結集され、さらに、関東・東海の農村で有力であった伊藤六兵衛が率いる丸山講と合体して、扶桑教を形成した。(村上重良『新宗教』)

     そして黒住教・神道修成派・出雲大社教・実行教・大成教・神習教・御嶽教・神道大教・神理教・禊教・金光教・天理教とともに、教派神道十三派と呼ばれる。神社神道との違いは、教典・教会を備えていること、教祖または創始者が存在することだ。
     つまり富士講の集合体だとまでは分かったが、この扶桑教と弁天との関係はどう調べても謎である。なお、この弁天宮では練馬の古い伝統行事を再現しているようだ。

     練馬、板橋一帯に古くから伝わる七夕行事として、「ちがや」で馬を作って飾る風習があった。ちがやは荒川沿いの河原等に広く群生していたこともあり、入手はたやすかったと考えられる。また、ちがやには魔除けの力があるとされており、現在でも夏越しの祓えに「茅の輪くぐり」を行うところもあるが、当所では七夕行事としてちがや馬を作って、農作物の豊作や無病息災を星に祈願する風習があった。
     弁天宮の七夕星祭り(八月七日)では、当時のちがや馬を再現し、神前に飾っています。ちがや馬の大きな特徴は、雌雄一対の馬を作って飾ったところであり、こうした例は他には少ないものである。尚、「ちがや馬飾り」は練馬区の無形民俗文化財(第七十号)として登録されている。http://www.asahi-net.or.jp/~dx7y-ari/chigaya.html

     環状八号線が北町若木トンネルに入るところで商店街が分断され、その左に大山道標が立っていた。小さな祠に鎮座するのは三軒茶屋駅前にあるものと似て、上に不動明王の座像を載せたものだ。柱の中央には「従是大山道」、右には「天下泰平」、左に「国土安全」。願主は内田久右衛門と並木庄左衛門。高さは一・五メートル。左側面には宝暦三年の銘、右側面には「武州豊島郡下練馬宿講中」と見える。その左に立つ角柱は「左東高野山道」である。東高野山は、第二十四回「石神井編」で訪ねた練馬高野台の長命寺のことだ。

     この大山への道は、大山道と呼ばれ、石神井、保谷、田無、府中を経て神奈川県の伊勢原へ通じていました。現在の富士街道(環八通りを含む)がこれにあたります。
     この道標は、高さ約一・五メートルの石造物で、環八通りの工事が始まる前は旧川越街道と大山道の分岐点にありました。宝暦三年(一七五三)八月に下練馬村講中によって建てられたもので、正面に「従是大山道」と願主名が刻まれています。また右側面には講名、左側面には年記とともに、「ふじ山道 田なしへ三里 府中江五里」の文字が彫られています。
     上部の不動明王像はのちに制作されたものと考えられます。(略)
     元は、江戸方面から来る人のため、東南東の向きに置かれていましたが、現在は見学しやすいよう向きを変えています。
     http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b012.html

     車は滅多に通らないから道の真ん中をゆっくり走る自転車が多い。北町二丁目に入ったようで、商店街の名前が北町商店街になった辺りに、富士浅間神社があった。通りに面した一の鳥居の額には「富士嶽神社」とある。練馬区北町二丁目四十一番一号。祭神は木花咲耶姫命、境内社として天祖神社と神明社を祀る。駐車場のようなちょっとした空き地の奥の、五六十センチ高くなった敷地に神明造りの二の鳥居が立ち、その奥の拝殿横が富士塚になっている。下練馬の富士塚である。

    下練馬上宿、中宿の丸吉講によって、江戸時代に築かれたものという。
    高さ五メートル、径十五メートルで、現在も町会の有志により、七月一日に山開きが行われている。明治五年と昭和二年に修復された。富士山の合目に因んで、ジグザグの登山道の折れ曲がる地点に合目石が配置されている。一・三・四・六・七・八の六つの合目石が確認できる。 三合目には一対の石猿が、また山頂には石宮が祀られている。山道には要所に溶岩塊を配し、狭いながらも手の込んだ人造富士に作り上げている。その他守護神の大天狗・烏天狗、富士講の開祖覚行法師像がある。
    http://www.geocities.jp/pccwm336/sub21.html

     腰を下して合掌している猿、御幣を担いで立っている猿もある。山頂の石祠の前には松竹梅のワンカップが供えられていた。行者姿の像には「教祖」とあったので、「開祖」の長谷川角(覚)行ではなく宍野半ではないかと思ったが、この記事によれば私の勘違いである。

     汗拭ふ商店街の富士の山  蜻蛉

     練馬区教育委員会の案内板を読んでみる。

    下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
    上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。

     東武練馬駅入り口交差点の辺りの歩道の車道寄りには、数メートルおきに五十センチほどの鉄柱を並べ、その上に馬の首が載せられているのが珍しい。「馬次」(馬継)を象徴しているのだろう。コミュニティホールの駐車場の塀には商店街の大きなイラストマップが掲げられ、これにも馬の絵が描いてある。気がつけば街灯の飾りにも馬の顔が描かれていた。下板橋宿の人は地蔵が好きだったが、こちらでは馬が人気だ。
     北町観音堂(石観音堂)はすぐそばにある。北町二丁目三十八番二号。狭いながらも良く整備され、屋根つきの仁王門を潜れば正面に観音堂が建つ。入り口の石柱を見れば明治百年記念事業として整備されたもののようだ。女性がひとり、堂の扉を開けて掃除している最中だったが、声をかけて写真を撮らせてもらう。観音は左手に蓮華を持ち片膝立てた座像で、天和二年(一六八二)のものらしい。練馬区教育委員会掲示によれば、高さ二百七十センチは練馬区内最大の石仏である。背には「武州河越多賀町隔夜浅草光岳智月参所 奉新造正観音為四恩報謝也。時天和二年八月」とあるらしい。まるで関係ないが、天和二年は八百屋お七の事件があった年である。
     隣の堂には馬頭観音。脇には稲荷も祀られている。さっきの仁王像は「天和三年、奉立之施主光岳宗智」の銘があると言う。
     道路側の塀際には青面金剛の庚申塔が二基、そのひとつには寛延三年(一七五〇)の銘が見えた。もう一つは正徳四年(一七一四)とのことだ。それに珠を抱えた観音がいると思ったが、これは薬師如来であった。これらのものは、おそらく別の場所から集められたものだろう。
     通りを歩いていると、普通の(しかし豪邸だが)民家の間に神輿庫らしいものが立っているのが珍しい。どら焼きの神馬屋の看板には明治八年創業と記されている。テレビ番組やラジオでも紹介される有名店のようだ。練馬区北町三丁目二十番二号。

     神馬屋と書いて「じんめや」と読み絵馬を指します。 当店は創業明治八年(一八七五)ですが、それ以前先祖が塾(寺子屋)の かたわら絵馬を描いていました。二月の初午(お稲荷様)へ供え、十月晦日には馬柄、十一月の晦日には鳥柄の絵馬を荒神様(かまどの神様)に 捧げます。http://www.dora-yaki.com/

     右手の路地の向うには東上線が走っているのが見える。新大宮バイパスを越えるとやがて国道に合流する。リュックを背負い、何か資料を手にして歩く三人の男の姿が前に見えた。私と同じようなことをしているのだろうか。ここから暫くは二五四を歩かなければならない。
     国道の向こう側、地下鉄赤塚駅出口の傍の歩道と国道の間に、一里塚みたいに大きな木が数本立つ一画があった。信号を渡って見に行くと、草むらに文字庚申の石が置かれて、表面の左右の文字は、「右川古江(川越)」、「左堂古ろ沢(所沢)」(古や堂は変体仮名)と読める。道標だった。但し池袋方向を向いているため、これは置き方がおかしい。石の前には白い花菖蒲が二本咲いていた。
     もう一度信号を渡って戻る。地下鉄駅の西側入り口の脇には、小さなブロンズの騎馬武者を載せた道標が立っている。これは新しいものだが、台座に埋め込まれた銅版には鎌倉古道と記され、右は「至はやせ」、左は「至かまくら」だ。赤塚を歩いていた時(第九回)、松月院に向かう道にも同じようなものが立っていた。「はやせ」は早瀬の渡し。地図を見ればこの辺からほぼ真北に進んで高島平を突っ切ると、新河岸川を渡る早瀬橋がある。
     更にやや上り加減の道を行き、下りに入って下り切ると、赤塚交番と狭い道を挟んで小さな祠が建っている。
     「小治兵衛(オジベエ)窪庚申尊」だ。左に立つ背の高い庚申塔は上部に青面金剛の座像が刻まれている。表面はかなり摩耗していて細部が良く見えないが、座像は珍しいかも知れない。金剛の下には「奉建立」の文字。
     成増南町会氷川神社管理運営委員会による立札(昭和六十三年)によれば、左面には天明三癸卯年二月吉日、右面には武州豊嶋郡狭田領赤塚村とあるそうだ。天明三年(一七八三)浅間山噴火と飢饉の犠牲者を供養するために建立された。江戸まで灰が降ったのであり、凄まじい噴火だった。鬼押出しが形成されたのもその時のことだ。

    信州浅間山火坑大焼、江戸にては、七月六日夕七ツ半より西北の方鳴動し、翌七日猶甚し。天闇く、夜の如く、六日の夜より関東筋、毛灰を降らす事夥し。竹木の枝、積雪の如し、(『武江年表』)

     庚申塔の右側には、これも大きな「第百拾週年記念碑・庚申講一同」の青石板碑が立つ。
     ところで小治兵衛窪あるいは小治兵衛久保というのは、この辺りの地名であった。それにはこんな伝説がある。

     昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が架けられていた。とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没し、通行人から恐れられていた。
     ある朝立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに「たくさんの悪いことをしたので、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。その後は便利になったばかりか強盗も出なくなったというものである。
     http://blog.goo.ne.jp/kay4000/e/a320c23ab266a1260484ced249e62846

     百々向川は暗渠になっているらしい。国道に目をやれば、すぐ目の前が成増小学校入口の交差点だ。三月十一日の地震の時、帰宅難民となった私はその小学校にお世話になったのであった。懐かしい。
     十二時半。成増駅前のフクラ家に入って、日替わり定食(チキンカツ)を食べる。ご飯は白米、玄米、五穀米から選びお代わりも自由だ。珍しく五穀米にしてみたが、一杯でかなり満腹した。六百五十円也。
     その後、交番とトイレの間にある子供の像を見る。裸でしゃがみこんだ幼児が二羽の兎を相手に何か話している姿だ。これは『叱られて』をモチーフにしているのだろうか。「うたの時計塔」の説明板で作詞者清水かつらを顕彰している。午前八時『みどりのそよ風』、午前十時『靴が鳴る』、正午『雀の学校』、午後二時『あした』、午後四時『叱られて』、午後六時『浜千鳥』がこの時計塔から流れるのである。このうち『みどりのそよ風』が草川信である他は、全て広田龍太郎の作曲になる。
     『あした』と言うのは知らなかった。調べてみるとこんな歌詞だ。

      お母さま
      泣かずに ねんねいたしましよ
      赤いお船で 父さまの
      かへる あしたを たのしみに

     なんだか不思議な歌だ。泣いているのは母であり、それを子供が諭しているのである。単に旅行や漁からの帰宅を待っているのなら、泣きはしないだろう。尋常ではない事情がありそうにみえる。
     一瞬、引揚船を待つのかと錯覚しそうになるが時代がまるで違う。この歌は大正九年『少女号』六月号に発表されたものだ。私にはどうしても外地からの帰還を願うという観念から抜け出せず、年表を見れば大正七年のシベリア出兵がある。九年五月にはニコライエフスの日本守備隊と居留民が全員殺される尼港事件が起きている。そして六月号に『あした』が発表されたのならば、この歌で待たれている父はシベリア出兵中の(そして尼港事件で殺害された)日本兵だったのではあるまいか。だから母は泣くのである。
     そう言えば『叱られて』だってちょっと不思議なところがある。

      叱られて
      叱られて
      あの子は町まで お使いに
      この子は坊やを ねんねしな
      夕べさみしい 村はずれ
      コンときつねが なきゃせぬか

      叱られて
      叱られて
      口には出さねど 眼になみだ
      二人のお里は あの山を
      越えてあなたの 花のむら
      ほんに花見は いつのこと

     一連だけ聞いているとまるで意味が分からないが、二連で漸く、子供はホントの家にいるのではないと言うことが分かる仕掛けだ。親に捨てられ遠いところに貰われて行ったか、あるいは幼くして奉公に出されたか。『赤い鳥』運動は、どちらかと言えば都会の中産階級に受け入れられたと思えるのだが、どうもそんなイメージではない。当時の子供が実際に歌ったものだろうか。
     『みどりのそよ風』、『くつが鳴る』のような明るく弾んだ歌とは裏腹に、『浜千鳥』も含めて、清水かつらの歌には悲哀が多いのかもしれない。幼い頃両親の離婚で産みの母と生き別れになったことが原因だろうか。関東大震災後、白子(和光市)に住みつき、最寄駅としては成増を利用したため、成増、和光に彼を顕彰するものが多い。
     どうやら空模様も怪しくなってきた。やや疲れて来たので今日はここまでで終わることにする。本日川越街道の歩行距離は十キロと推定した。


    平成二十三年五月五日(木) 成増から三芳

     一日置いて今日は成増駅を九時にスタートする。二五四号を少し行くと国道から右にそれる道がある。国道はここから切通しの坂を下って行くが、それを左に見ながら旧道は暫く水平のまま歩いて、家並みが途切れ左が林になった辺りから下りに入る。
     ちょっと分かり難くて一度は通り過ぎてしまったが、文章を確認して戻ってみた。坂を下り切る少し手前の藪の中に、「新田(しんでん)坂の石造物群」の一画がある。私が入りこんだので、それにつられるように老夫婦も入って来て一緒に覗きこむ。案内板によれば、この辺りは白子川の谷へ下りるために急坂となって、新田坂と呼ばれていた。付近にあった石像物を集めたのがこの一画である。
     柱に「石尊大権現・大天狗・小天狗」と彫られた常夜燈は文政十三年(一八三〇)の銘がはっきり見えた。石尊大権現は大山の神である。大山信仰の形跡がかなり多く残っている。石宮には二匹の子犬が控えていると私は思ったが、案内板では稲荷の石祠と言うのでこれは狐だろうか。道祖神の不規則な形の石は文久三年(一八六三)のものと言う。それに年代不詳の地蔵が並ぶ。
     坂を下り切るとすぐ左には国道が走り、そこに横から合流する道の角には小さな八坂神社が建っている。もう少し南にあったものが、国道工事のためにここに移されてきたと言う。
     国道に出ずにそのまま旧道を真っ直ぐに行く。右手に白壁に黒い格子窓の由緒ありそうな二階家が建っているのは加山さんの家だった。白子宿の旧家に冨澤、柴崎、浪間、新坂、加山があると言う。ここはまだ白子宿には入っていないが、その一族ではないだろうか。
     すぐに白子川に出る。白子橋の親柱には、清水かつら作詞『くつが鳴る』の歌詞が浮き彫りにされた銅版がはめ込まれていて、こちら側の柱の左右には一連二連が、橋を渡った柱にもやはり同じ一連二連が記されていた。清水かつらはこの辺りに住んでいたようだ。白子川は細い川だ。

    東京都練馬区東大泉の区立大泉井頭(いがしら)公園から始まり、練馬区西大泉、大泉学園町、大泉町、土支田、埼玉県和光市南、白子、下新倉、板橋区成増と流れ笹目橋付近の板橋区三園で新河岸川に合流する。(ウィキペディア「白子川」)

     この辺りは、ほぼ白子川によって東京都と埼玉県とが区切られている。ここからが白子宿になるので、交差点には「白子村道路元標」と彫られた石柱が立っている。道路元標と言えばロダンが喜ぶ筈だが、一人で歩いているとそんな話も出来ずに詰まらない。白子は志木と同じく新羅の転訛であると言う。また新座も同じ意味だと言うのは私にとっては新しい知識だ。念のためにウィキペディアで確認しておくと、こうである。

    太平宝字二年(七五八)、奈良朝廷は、新羅の僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国に移し、新羅郡を置いた。後、これが新座郡と改称された

     右に大きくカーブする辺りに郵便局がある。古い村や町で郵便局を見れば旧家かも知れないと思ってみて良いかもしれない。明治の郵便制度発足に当たって、予算の問題もあって、地方の名家や大地主に土地建物を提供させて委託したのが三等郵便局であり、後の特定郵便局につながっているからだ。全国の郵便局の四分の三がこの流れを汲んでいる。
     この郵便局は冨澤家であり、隣の薬局、そしてカーブを回り込んだその隣の外科医院も冨澤である。薬局の裏には白壁の土蔵も建っている。
     その薬局の裏に熊野神社がある。文化十一年の銘のある鳥居を潜れば植え込みの躑躅が綺麗に咲いている。境内にはショルダーバッグを下げたオジサンが一人、その他には誰もいない。案内を見ると、創建年代は不明だが社伝によれば千年以上遡ると言われている。もとから熊野神社であったかどうかは別にして、白子が新羅の転訛なら渡来人が集落を作り、その信仰の中心とした場所になるのだろう。

      新羅から遥かに渡る初夏の風  蜻蛉

     左の方の石段を登ってみると清龍(きよたき)寺不動院が建つ。慈覚大師円仁が堂を建てたことに始まると言われている。現在でも滝行修行が体験できる寺である。金色の観音は余り感動しない。それを回りこむと、溶岩のような岩肌が続き、窪みに白鬚の行者風の老人の像が立っている。
     洞窟の脇には「電気は消してから帰ってください」という注意書きがあり、電気をつけて中に入ってみた。狭い怪しげな洞窟を頭を下げて歩いて行くと奥の二ヶ所に稲荷が祀ってあり、それを通り抜けて山の反対側の出口から出た。しかし電気はどこで消すのだろうか。岩肌に沿って辿ってみればさっきの入り口に着き、ここでスイッチを押す。胎内潜りになっていたのである。

     躑躅咲く白子の宿の穴潜り  蜻蛉

     帰宅してから知ったのだが、この神社には富士塚がある。それならば、私が胎内潜りをしたのがそうだろうか。富士塚らしき石碑なんかは見えなかったが、溶岩を集めた形は富士塚みたいだ。ところが実は違っていたのである。神社の拝殿に向かう正面石段の手前から右に入る参道があり、そこに富士塚があったのである。それには全く気付かなかった私は仁和寺の法師のようであった。
     もうひとつ付け加えなければいけないのは、この辺りかつて湧水が豊富に流れ、日本初の養魚場が作られた場所でもあったことだ。その清冽な水で滝行修行もできるのであり、乃木大将もこの滝に打たれたという話も残っている。

     下に降りると神社の脇はコミュニティセンターになっていて、掲示板を見ると、ここでは清水かつらと大石真の所縁の品を常設展示している。大石真は児童文学者で、私は『チョコレート戦争』を読んだ記憶がある。それにしても普段は滅多に聞かない清水かつらは、この近辺では有名人なのだった。
     玄関前の喫煙所で係員のおじさんが煙草を吸っているので、私もタバコを取り出した。オジサンは「今日は寒いですね」とお愛想を言ってくれるが、歩いていれば寒さは感じない。川越街道を歩いているのだと言ってみたのに思ったほどの反応がない。「こっちが旧街道です」と県道を右に曲がる方を指し示す。どうも怪しい。私が参考にしている文章によれば、県道を横切って坂を登るのが本筋なのだ。歴史には余り関心のない人であった。
     横断する前に県道の右手を見ると、二三軒離れたところに「魚くめ」という古そうな魚屋があった。シャッターを下しているのは祝日のためだろうか。その背後の高台は樹木が鬱蒼と繁っている。
     県道を横切ると大坂通りと言う上り坂になる。さっき見た鬱蒼とした林は、右手の冨澤家の屋敷林だったようだ。この家も冨澤だから、白子宿はほとんど冨澤家が牛耳っていたものだろう。塀の向こうに土蔵も見える。坂は大きく回り込むように続き、途中の左側は「大坂ふれあいの森」になっている。あんみつ姫がいればちょっと立ち寄ってみたくなるような場所だろう。仲間がいないと寄り道する気にもならない。坂の上に出れば新しい住宅街が広がっている。

     笹目通りを歩道橋で横断して真っ直ぐ進むと、茅葺屋根を黒いトタンで覆ったような形の屋根が見えた。板扉の付いた真新しい門は三間一戸八脚門と言うだろうか。もとは代官屋敷、豪農柳下家である。その家の庭を囲むようにオレンジ色の壁を持つマンションが立ち、その隣には大きな洋館が建っている。黒い古い門と白い土蔵の家がある。リフォームしてあるようだが、黒い格子の見事な二階家がある。この辺りは豪邸が並ぶ。
     少し行くと右手の少し高くなったところに馬頭観音の祠があった。三面六臂の座像で、台座には「上岡村冩・天下泰平国土安穏・在々諸村馬持中・当村馬持中」とある。「上岡村冩」と言うのは、東松山市上岡の妙安寺にある馬頭観音を模したと言うことらしい。川越街道の宿場は人馬継立てが主な役割で、馬頭観音を祀ったということは、馬が倒れることが頻繁にあったと想像される。説明板によれば文化十五年(一八一八)のものだ。
     この先の道には、県道の向うに七時半から八時半まで車輌通行禁止の横断幕がかかっている。そっちには進まずに県道を左に曲がると第三小学校前歩道橋だ。ちょうど外環道の和光インターチェンジのあるところで、四方を囲むような歩道橋が分かりにくい。回り込む階段を上ってしまうと方向感覚をなくしてしまった。さてどっちに降りれば良いのだろう。今来たのがどの方向だったのかも分からなくなってしまった。
     初めて地図を開き行きつ戻りつ五分ほど悩んでいるうち、第三小学校の向かいの中央公民館のフェンスに掲げられた絵地図に気がついた。しかしこの絵は左右が逆で、つまり小学校の方に掲げられていれば自然なのに、逆に見なければいけないから分かり難い。それでもやっと理解した。小学校を正面に見て左に進むのである。

      迷ひつつ街道を行く卯月かな  蜻蛉

     八百メートル程行って、本町小学校角の信号を越えた辺りにマクドナルドの看板があって、そこから右に細い道が分岐する。住宅地の中の道幅は三メートル程で、街道らしき面影はまるでない。住所表示は朝霞市栄町になる。
     すぐに県道に合流して、一キロ程歩いて朝霞警察署前のバス停を過ぎた辺りの分岐点に、朝霞整形外科の看板が立っている。それを右に入って行く。ここも狭い道で歩いている内に何やら獣臭い匂いがしてきた。住宅地の一角で不思議なことだが、右手に増田牧場の看板を見つけた。こんなところに牧場があるか。
     そして急な下り坂になる。距離は短いが「かせぎ坂」と呼ばれる。急坂を登る車を押して稼ぐその日暮らしの人足がいたらしい。今日は人足はいないが、幼児の自転車を少し年上らしい男の子が押してゆっくり上って来る。
     坂下の県道に合流する直前の左には膝折不動尊の祠があった。光背にわざわざ赤く線を描き加えているのは炎を表現するためだろう。ここから膝折宿に入るのだ。地蔵、庚申塔、道祖神、何でもよいのだが、こういうのを見れば、村や宿場の境界だったと思えばよいだろう。

    膝折の里 新座郡(にいくらごおり)に属す。江戸より河越へ至るの街道にして、白子より行程一里、駅站あり。所沢より艮に当たりて、その間三里あまりあり。(『江戸名所図会』)

     膝折の地名は古く、ウィキペディアによれば文明十年(一四七八)、太田道灌が膝折宿に着陣したと「太田道灌書状写」に記されている。そして地名由来は、武士の馬がこの辺りで骨折したからだと、身も蓋もない説明がされている。
     もう四十年も前になるが、漢字で書かれているからと言ってそのまま鵜呑みにしてはいけないと習った。通用している漢字表記は当て字が多い。民俗調査の基本として、聞いた言葉は必ずカナで記録して、様々な可能性を考えなければならない。こういう説を聞くと今更ながら納得できる。「膝折」だから膝が折れたと簡単に思ってはいけないのである。探してみるともっと本当らしい説明を見つけた。

     「ひざ」は「ひじ」にも通じ、人体の足と腕のあの部分をそう呼んでいる。手足を曲げる大切な結節点となっていて、曲げると骨が突出する所だ。「ひざ・ひじ・ひし」は、曲がり角や切り立った斜面を意味する。温泉で有名な山形県大蔵村の肘折(ひじおり)は、銅山川の狭い谷底平野にあり、背後には急崖が連なっており、典型的な地形名だ。鹿児島県伊佐市菱刈(ひしかり)なども同類地名だ。一方、折は「降りる・下る」という意味で、坂道を示している。岐阜県恵那市竹折(たけおり)は、高いところから降りる場所を意味する「たかおり」が転化したものだ。現地は、槙ヶ根(まきがね)峠を下りた場所の集落だ。埼玉県鶴ヶ島市脚折(すねおり)や羽折(はねおり)等も降りる意味だ。すなわち膝折は、「切り立った斜面を降りたところ」という意味だ。朝霞市の現地は黒目川へ下るかなり急な斜面があり、まさに地形にふさわしい地名だ。愛知県には数キロメートルに隣接して膝折地名が三角形をなしてある。この地方の言葉の癖であったのだろう。http://baba72885.exblog.jp/12521501/

     鶴ヶ島市脚折は私の家の近所で、この地名も不思議に思っていたのだが、確かに坂のある場所だから説得力がある。東上線朝霞駅もかつては膝折駅だったが昭和七年に改称したようだ。
     膝折村は昭和七年の町制施行によって朝霞町と改称された。改称の理由は朝香宮鳩彦王が名誉会長を務める東京ゴルフ倶楽部が移転してきことに因る。しかも皇族の名をそのまま使うのは恐れ多いと、「香」を「霞」に変更した。実に下らない理由であるが、東上線の朝霞駅も、それまでは膝折駅だったのである。しかし折角作ったゴルフ場は昭和十五年に陸軍予科士官学校敷地(今の自衛隊朝霞駐屯地)として買収されたため、狭山市柏原に移転した。つまり朝霞市の地名の根拠になったものは、現在の朝霞には全く存在しないのだ。
     県道に合流するとすぐ右側に一乗院がある。街道から五十メートルほどの参道を行くと仁王門が立つ。真言宗智山派。並流山平等寺。仁王は立派だ。
     境内に入れば、風雨に晒され余り掃除もされていない案内板にはこう書かれている。

    開闢は寺伝によると、「古来人ニ依ツテ成ル」とされ、「七一六年(霊亀二年)、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ七国の高麗人、一、七九九人ガ武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣五人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ五人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家号トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後生ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル十一面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス」というのが起源とされ当時は観音寺と呼ばれていた。

     高麗に渡来人が集められたのは以前知ったことだが、そこが落城して落人がここに来たというのは初めて聞く話だ。戦乱がいつの時代かはっきりしない。高麗神社の宮司は今でも高麗王若光の子孫で、現在第六十代目を名乗る高麗さんだ。もしかしたら一族内部の抗争があって追われたのだろうか。真偽はどうあれ、この寺の辺りが昔からの集落の中心地だったことは間違いない。
     その証拠に、百メートル程離れた所で出土した百四十基の板石塔婆が保存されている筈なのだ。説明板によれば、元和三年(一三五〇)から文明十二年(一四八〇)のものだそうだ。探しても見つからず、ちょうど掃除をしていたサングラスで頭にタオルを巻いたオジサン(まさか住職ではないと思う)に聞いてみると、ゴミの袋を下に置いて案内してくれた。「これだよ。」
     幅一メートル半、奥行き六十センチほどのコンクリートの箱で地面から塞ぎ、前面にガラスを張ってあるのがそれだと言うのである。「今頃は黙って持ってっちゃうひとがいるからさ。」ガラスは土で汚れ、しかも曇っていて内部は全く見えない。「見えませんよ。」「どれどれ、そうだね。」
     この保存の仕方は如何なものか。中世の板碑が百四十もまとまって出土したのである。貴重な史料であり、こんな風にしている位なら、博物館か資料館に寄贈して欲しいものだ。立派な仁王門に、境内の植木は綺麗に手入れがなされているのに、こういうものにも、もう少し手をかけようとは思わないのだろうか。
     その脇には「膝折学校発祥之地」碑が立つ。明治七年の学制発布によってこの寺の敷地に設置されたもので、朝霞市立第一小学校の前身にあたる。
     寺を出て真っすぐ行くと、脇本陣「村田家」があった。茅葺屋根にトタンを被せた形の屋根で、黒い格子が美しい。表札を見ると、この家は高麗さんである。一乗院開闢の歴史に登場する高麗人の子孫であろう。
     少し行った左側、郵便局の隣の牛山さんが本陣だったらしい。右側の家からは塀越しに白壁の土蔵が見える。
     膝折町一丁目交差点を左に曲がる。左に古びた家が見えたが、これが商人宿「増田屋」だろうか。
     黒目川大橋を渡る。川の両岸は草が生い茂っている。小平霊園内の「さいかち窪」に源を発し、東久留米市、埼玉県新座市、朝霞市を流れ朝霞市大字根岸で新河岸川へ合流する全長約十七キロの川である。ウィキペディアによれば古くは、久留米川・来目川・久留目川・来梅川という表記もあったが、これらは当て字であろう。名前の由来にはいくつか説がある。湧水が多くで水が「汲める」、湧水が多くて土が「黒め」の二説が有力で、湧き上がってきた水で川が「クルクル」渦巻いていたからという説もある。

     すぐそばに「魚政」という小さな平屋が建っている。シャッターは下され、赤錆びたトタン屋根の端が破れているようで、人が住んでいるのかどうか分からない。古びた看板には「うなぎ蒲焼」「結納品一式」などと書かれているから、界隈では大きな魚屋だったのだ。黒目川で獲れた川魚を商っていたものだろうか。その隣には、土壁の土蔵を繋げた大きな二階家が建っていて、対照がおかしい。但し土蔵の壁はかなり剥落していて、修理が必要だ。
     少しカーブしたところが三差路になって、分岐点の三角地に峯岸自動車工業があり、その前に庚申塔が立っている。かなり風化が激しくて青面金剛の顔の部分はまるで判別できない。ミカンが二つと十円玉が二枚供えられていた。
     ほとんどの車は右側(合道の坂)の道を行くが、旧道は左(たびやの坂)である。朝霞市と新座市の境界をなしているようだ。
     坂を登りきると道幅は狭くなり、やがて県道に合流する。野火止下交差点の手前にあるのが「横町の六地蔵」だ。小さな六地蔵(享保十七年)の左端に庚申塔(宝暦六年)、右端には等身大の地蔵が一体立つ。その地蔵の前には「奉納大乗妙典六十六部日本回国」と記された石碑が置かれている。奉納の文字の右側は「為■世父母六親春■菩提」、右には正徳四年の紀を記している。右下には「野火止宿」の文字も確認できた。
     野火止は公認された宿駅ではないが、一般には野火止宿(野火留宿)と呼ばれていいたようだ。

    野火留 河越街道の立場にして、膝折の駅より一里あまり西の方にあり。大和田の駅へも一里ばかりありて、間(あい)の宿なり。(『江戸名所図会』)

     野火止の地名由来には伊勢物語を持ち出すことが多い。

     昔、男ありけり。ひとのむすめを盗みて、むさし野へゐていくほどに、盗人なりければ、国の守にからめられけり。をんなをば草むらの中にかくしおきて、にげにけり。道ゆく人、この道は盗人あなりとて、火をつけんとすれば、をんなわびて、
      武蔵野はけふはなやきそ若草の妻もこもれりわれもこもれり
    とよめるを聞きて、をんなをばとりて、ともにゐていにけり。

     盗人と思って火をつけようとしたと言うのである。しかし、特に業平朝臣に結びつけなくても、縄文時代以来、焼畑、野焼きは一般的なことである。特にこの辺は古代の牧野であったと思われ、新鮮な草の芽を出すためには必ず野焼きを行う。
     野を焼けば必ずどこかでその火は止めなければならない。堤や塚を築くのがそれで、それを野火止と呼んだのではないかと、『江戸名所図会』は考察している。また平林寺の項に「武州新倉郡野火留荘金鳳山平林禅寺」という表記もあって、新座がもとは新倉(にいくら)と呼ばれていたことも分かる。
     野火止大門の交差点には「金鳳山平林禅寺」の石柱が立っている。ここから左に曲がると平林寺の参道が続くのだ。折角だからと寄り道をしてみることにしたのは失敗だった。
     国道二五四を渡り、新座市役所前交差点で野火止用水の説明板を見る。延々と続く平林寺の境内林を右に見て歩いていると、うんざりしてきた。それに腹も減って来た。時計を見ると十二時になっている。それにしても広い林だ。
     左側に広がる「睡足軒の森」は、平林寺境内林の一部で、上州高崎藩の飛び地で陣屋を設けた場所である。
     実は私はここに来たことがなかった。拝観料は五百円。予想していなかったのは私が悪い。これだけの巨刹を維持するのは容易ではないのはすぐに分かる。ただ、鎌倉の建長寺でも思ったことだが、私はこういう大きな寺院はどうも苦手だ。拝観料など取らない小さなお寺が好きだと今更ながら思ってしまう。吝嗇だからだろうか。
     惣門で拝観料を払い、仁王門を潜って境内を歩く。仏殿の格子から釈迦仏も見た。受付で貰った案内図を見れば、全域を知るためには相当時間がかかるらしい。空腹の状態で来てはいけない寺だった。適当な所で切り上げて戻る。
     二五四に出て吉野家の牛丼(五百円)を食べ、旧道に戻る。武蔵野線のガードを潜って更に行けば、神明神社だ。狭い境内に鳥居が四つもあるのが珍しい。最初の二つの石鳥居は古そうだが柱が摩耗していて年紀が分からない。三番目の石造鳥居で漸く享和元年の銘が読めた。四番目だけが木の鳥居で、これは平成十八年と新しい。
     神社を出て少し行くと右手に鬼鹿毛の馬頭尊が見えた。この辺りから大和田宿に入ったことになる。道路から一メートル程高くなった場所で、そこに上がるための石段も最初は四十センチほどだから、ちょっと上り難い。三面六臂の立像は元禄九年(一六九六)のものと言う。表面はかなりボロボロになっていて、馬頭観音の恐ろしい表情ではなく、なんだか優しいオバサンのような顔立ちに見える。

     昔、秩父の小栗という人、江戸に急用があって、愛馬鬼鹿毛に乗り道を急ぎました。大和田宿に入ると、さすがの鬼鹿毛も疲れが見え、この場所にあった松の大木の根につまずき倒れました。 しかし、さすがは名馬、ただちに起きあがり主人を江戸まで届けたといいます。所用を終えた主人が先ほど馬をとめたところまで戻ると、いるはずの鬼鹿毛の姿が見えません。不思議に思いましたが仕方なく家路を急ぎました。
     やがて、大和田の地にさしかかると、往路愛馬が倒れた場所に鬼鹿毛の亡きがらを見つけました。鬼鹿毛は主人の急を知り亡霊となって走り続けたのでした。
     村人は、のちに鬼鹿毛の霊を弔って馬頭観音を建てたといいます。これが「鬼鹿毛の伝説」です。

     しかし小栗と鬼鹿毛と言えば、秩父の人ではないが小栗判官ではないか。説教節『小栗判官』に登場する鬼鹿毛は、人間を食らう、実に鬼に等しい馬である。説教節では、常陸国に流された小栗判官は下野国で照手姫に会い、藤沢で鬼鹿毛に出会うことになっている。その馬に小栗判官は乗るのである。

     「やあいかに、鬼鹿毛よ。なんぢも、生ある、ものならば、耳を振り立て、よきに聞け。余なる馬と申するは、常の厩に、繋がれて、人の食(は)まする餌を食(は)うで、さて人に従へば、尊い思案してらよ、さて門外に繋がれて、経念仏を、聴聞し、後生大事とたしなむに、さてもなんぞや、鬼鹿毛は、人秣を食むと、聞くからは、それは畜生の中での、鬼ぞかし。人も、生あるものなれば、なんぢも、生あるものぞかし、生あるものが、生あるものを、服しては、さて後の世を、なにと思ふぞ、鬼鹿毛よ。それはともあれ、かくもあれ、よしこのたびは、一面目に、一馬場乗せてくれよかし。

     その直後に謀られて毒酒を飲まされいったんは死んでしまい、その蘇生譚と照手姫の苦難が話のポイントになっている。下野から相州藤沢まで、仮に川越街道を通ったとしてもその時点ではまだ鬼鹿毛には出会っていないのである。
     しかし中世に発生したこの伝承は、江戸時代には相当広範囲に流布していたと思われ、強く逞しい馬を見ればひとはすぐに鬼鹿毛を連想したのかもしれない。なお、鬼鹿毛馬頭観音と呼ばれるものは、静岡県駿東郡小山町の円通寺、富士市の妙善寺、相州藤沢市の長生院など、小栗判官所縁の地にいくつかあるようだ。
     この馬頭観音の右には芭蕉句碑もあるが、木に邪魔されて見えなかった。

    花は賤乃眼にもみえけり鬼薊  芭蕉

     やがて右手の古ぼけた家の前の空き地に、どういうわけか地蔵が立っているのにお目にかかった。これは意味が分からない。
     柳瀬川を渡り、トンネルを潜って浦和所沢線も過ぎれば大和田宿は過ぎ、住所表示は新座市中野である。左に随分大きな農家がある。川越まで十一キロの標識があった。そろそろ疲れて来た。上り坂は切通しになっていて、特に左の崖が高い。斜面の下に「中野の獅子舞」の説明板が立つ。
     跡見女子大学のすぐ手前の崖に、狭くて急な石段がついている。上には普通の民家があるようだが、斜面の草むらには「御中渡修行」と彫られた石碑も立っている。三角の石の上部には、山形の下に「吉」を丸で囲んだ紋があるので、これは丸吉講の記念碑だろう。とすれば富士塚だ。石段を登ってみると、正面は確かに平屋の民家だが、その脇に更に七段ほどの石段を繋げ、その奥に石碑と常夜燈がある。墓石のような石碑には「三国第一山」とある。塚を築いたのではなく、切通しの崖をそのまま富士に見立てているらしい。こんな場所にこんなものがあるとは思いもよらなかった。
     この辺りから入間郡三芳町に入り、中央分離帯の真ん中に川越街道の碑が立っている。これから先は、国道から逸れる所はほとんどない筈だ。それにもう疲れてしまった。資料館入口から右に曲がって、川越街道とはお別れすることにした。板橋から通算して二十四五キロ、川越街道のほぼ三分の二を歩いたことになる。
     成増までは断続的ながらも商店街が続き、人も多い街道だった。それに比べて今日のコースには商店街は見当たらず、もう少し古い宿場町の静かな気配が強く漂っている。どちらも捨てがたく、二回に分けて歩いたのが却って違いを際立たせて良かった。
     但し本編に昇格させるためには休憩場所やトイレが足りない。街道周辺に範囲を広げてもう少し膨らませなければならないだろう。

     分かり難い道を地図で確認しながらやっと三芳町歴史民俗資料館に辿りついたのに、生憎休館である。祝日に休館するのは勿体ないではないか。怒りたくなるのは、便意を催してきたからだったのだが仕方がない。柳瀬川駅まで我慢するか。
     しかし神はいるのである。竹間(ちくま)神社に辿りつくとトイレがあり、ここで息を吐いた。ついでに煙草も吸って神様に御礼申し上げた。それにしても竹間沢地区の神社だから竹間神社とは、あんまり安直ではないだろうか。

    創立年は不詳。地区名主の池上家の祖である喜平が元禄二年に草分けとして入植したさいに、鎮守を祀るために池上本門寺日照を招いて「三十番神」勧進したとされる。ゆえに「三十番神社」とも。日本中の大社三十社を祀った神であり日蓮宗における法華経守護の神。明治以降に改めて「竹間神社」として八意思兼命を祀る。
    http://skyimpulse.s26.xrea.com/miyosi.html

     三十番神と言うのは知らなかった。日本全国の神が一ケ月毎日交代で国家国土を守護してくれるのである。但しその三十の内容については十種類の違いがあるらしい。
     一に天地擁護の三十番神。二に内侍所の三十番神。三に王城守護の三十番神。四に吾が国守護の三十番神。五に禁闕守護の三十番神。六に法華守護の三十番神。七に如法守護の三十番神。八に法華経守護の三十番神。九に仁王経守護の三十番神。十に妙法経守護の三十番神。とある(http://www.genbu.net/engi/30.htmより)。ここにあるのは、八番「法華経守護の三十番神」だったのだろう。
     「三十番神像」(http://www.butsuzou.com/jiten/30banjin.html)から、「日蓮上人流」(つまり法華経守護であろう)を抜き出してみる。
     一日 伊勢大明神(日本国、皇室守護)、二日 石清水八幡大明神、三日 賀茂大明神、四日 松尾大明神、五日 大原野大明神、六日 春日大明神、七日 平野大明神、八日 大比叡権現、九日 小比叡権現(薬師如来)、十日 聖眞子権現、十一日 客人大明神、十二日 八王子権現、十三日 稲荷大明神(京都伏見稲荷)、十四日 住吉大明神、十五日 祇園大明神、十六日 赤山大明神(地蔵)、十七日 健部大明神(阿弥陀如来)、十八日 三上大明神 滋賀御上神社、十九日 兵主大明神(大日如来、不動明王)、二十日 苗鹿大明神(阿弥陀如来)、二十一日 吉備大明神、二十二日 熱田大明神、二十三日 諏訪大明神(普賢菩薩)、二十四日 広田大明神(勢至菩薩)、二十五日 気比大明神(大日如来)、二十六日 気多大明神(阿弥陀如来)、二十七日 鹿嶋大明神(十一面観音)、二十八日 北野天神(十一面観音)、二十九日 江文大明神(弁才天)、三十日 貴船大明神。
     明らかに神仏習合の信仰だから、明治の神仏分離で改名せざるを得なかったのは残念なことだ。それにしても思いがけない所で新しい知識を得ると嬉しい。
     その向かいは泉蔵院。真言宗智山派・青龍山。三芳町としては「観光名所」としているようで、確かに本堂は立派なのだが、調べても、享保年間から寺小屋が営まれたとか、明治期の学制下で藤久保小学校の支校であったとか、明治十五年に独立して竹間沢小学校になったとか、そんな程度しか分からない。
     さびしい農道の右手の崖下からは水の流れるような音が聞こえる。これが竹間沢の沢になるのだろうか。これを辿って国道(これも二五四というのは驚いてしまう)に合流して、柳瀬川を渡れば志木ニュータウンに出る。その脇を柳瀬川に沿って歩いて柳瀬川駅に辿りついた。資料館入口の信号からおよそ二キロ。本日の歩行距離は推定十八キロになる。

    眞人